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【無名】東京の武将たち【知りたい】 [無断転載禁止]©2ch.net
0001人間七七四年
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2016/08/02(火) 15:33:35.60ID:DfuO35GJ
古くはレジェンド東京”武蔵武芝”、
時は過ぎて、その後の”戦国時代”、
武蔵国の内の多摩郡、荏原郡、豊嶋郡、足立郡、葛飾郡
に関連が深い東京武将たちを語りたい。
1千葉利胤
2三田綱秀
3吉良頼康
4太田康資
5大石定久
6宇田川定氏
7宮城政業
8牛込勝行
9板橋親棟
控え
豊島康保、豊島胤定、板橋忠康、小田朝家、小山田弥三郎
平山氏重、渋川義基、舎人経忠、舎人孫四郎、梶原助五郎
the北条
北条綱高、北条康種、高橋氏高、高橋高盛、南条重長、
遠山綱景、富永直勝
the徳川
板倉勝重、豊島信満、etc.

よろしくどうぞ。
0611人間七七四年
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2021/10/09(土) 16:14:33.34ID:n2VxJd7D
https://i.imgur.com/gLcok1p.png
武蔵国造の乱
戦国には一切関係ないですが、土地と言う概念で考えるという事で
あとたまにはこういう无邪志国史観ということで、、、
緑色はおそらくの湿地帯でこう見ると秩々夫国と合わさる前の无邪志国を
少しイメージできますね、白い部分は重要な土地と見ることができるのではないでしょうか。
常陸国内部はすごい良さそうですね、でも无邪志国も悪くないですね。
ただ小杵は笠原使主に負けてしまいましたが。
0612人間七七四年
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2021/10/12(火) 02:37:48.44ID:+VzMRicH
小弓城への雑な考察
まず注目されるのは原胤房の小弓館での討死に。これを自分は小弓館を原胤房の領地とせず
馬加氏の領地と見たい。東常縁の奮闘により一時古河公方に与した馬加氏原氏は途絶える。
つまりここで恐らく千葉地域に領主空白ができる、そこに浜春利(酒井氏?)、本庄海上氏、
入ったのではないだろうか。そして浜野港から少し南の上総村上に東氏浜氏同様縛の命によって
村上氏が入ったと見るのはどうであろうか。(また同時に同族か別か臼井の西に下総村上氏が)
1483年に関東の都鄙合体で和睦(1478年に原胤房の跡を継いだ養子胤隆は香取庄に文書を出している
ことからまだ小弓にいないとみえる)、86年に道灌最後の下総進軍が窺える死去の3か月前、
1か月前には詩歌会で戻っているので2か月間か。四面楚歌の下総千葉氏はまだまだ落ち着いていなかっただろう。
87年から両上杉氏の争いがはじまる。88年一時休戦90年以降に勝胤の市川での動向が見える。
90年に臼井氏が代替わりしているのでここで両千葉氏間でなんらかの和睦が成立したか。
93年自胤死去と94年の早雲の足立郡攻め、これを期に原胤隆は小弓に入ったのではないだろうか。
またその小弓館も先の義父の館とは別で南に館まず立てたのではないだろうか。小弓周りは依然として
下総に与してるわけではないので混乱に乗じて浜野港の近くに建てたのではと考える。
なぜ北ではなく南生実かと言えば玄鼻城に武蔵千葉氏方が居ると考えるからである。
1502年から04年までは古河公方と下総千葉氏は対立し、原胤隆は扇ヶ谷に寝返ったという伝承もある。
同じ04年は山内が武蔵千葉氏を攻めている(白子の陣)その後大戦で足利方大敗の越後上杉加勢で和睦。
おそらくこの和睦のおかげで昌胤が千葉妙見宮での元服を行えたと思っている。この和睦時に
南小弓館は南生実城に成長できたのではないだろうか。そして09年勝胤は隠居、連歌師宗長が真里谷氏に向かう
途中に胤隆に歓迎されたにつながるとみたい。
0613人間七七四年
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2021/10/12(火) 02:49:26.77ID:+VzMRicH
追記
以前にも高城氏や原氏との争いが匂う所もあるが、
1506年、1517年には大きく玄鼻城(武蔵千葉氏側)に下総千葉氏側からの攻撃があったのではないだろうかと
考える。1506年には自秀、良胤、東胤重が死去。どちらも三上氏が救援に来ていたとみている。
そして17、18年以降は義明が胤隆を追い出し小弓公方としてその地を治める。
0614人間七七四年
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2021/10/14(木) 20:36:07.68ID:j/EGO5u+
酒井ってなんで原の家臣みたくいわれてるんだろ
0615人間七七四年
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2021/10/14(木) 23:44:53.84ID:bNJKnwER
>>614
千葉傳考記(おそらく享保の頃の作)からのものかなぁと。
「千葉は百騎、原は千騎」といへり。或は、「千葉に原、原に高城・兩酒井」などいひし……
おそらく本来は利胤の頃の下総千葉氏は主家として存在するが、実態は原高城両酒井の勢力の
の方が大きくなってしまっている。ということかと。
ここで陪臣とでてくるのだけれども、どうなんだろうか。原と共存する勢力にも感じる。そうでもないような
「俗にいう」は外せない気もしますね。
0616人間七七四年
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2021/10/15(金) 08:50:22.96ID:mTmf7tGh
原氏への雑な考察
まず原氏は宗家から系図では争いに近い時代に分かれた千葉分家筋と
宗家にかなり近い家臣円城氏が八幡荘、千田荘の所領をめぐって争いが生じる。
研究では原氏は古河公方との独自のパイプがあったらしい。なんだけれども自分は
この原氏を一括りにしてしまうのには疑念を持っている。
中心に置かれる原胤房と他の原氏はまた違う見方をしたい。まずどの原氏が原氏主家
だったかはいったん保留にし、弥冨、小西、胤房筋の三流があるとし、胤房筋に近い所に
4つ目の光胤筋が見える。小西は胤隆に与し古河公方に敗した後武田で小西系原虎胤が見えるので
小西筋は胤房筋と歩んでいたとみる。が、弥冨、光胤筋はどうであろうか。
大野城との関連される光胤が死去したのが1466年吉川市にて、一度時を戻して
その息子とされる大蔵と右馬助、この大蔵の方は1459年に八幡(市川)で戦死した。
が、59年は56年の東常縁の奮闘がすでに決着がついた後のことである。武蔵千葉氏も
この時期窮困状態である。ただし道灌は57年に江戸に移ってきて常縁は古河公方に味方するものが多いと
嘆き、ちょうど五十子の戦いの初めの時期であり、堀越公方が下向し成氏が古河に映った時期なので大蔵を
古河公方方と見るのが有力ではあるが……この八幡(市川)の弘法寺に岩橋輔胤が安堵状を出している。
これは新しい勢力として岩橋が担がれたのではなく、自ら参入したのではないか。西では上記したように
堀越公方の事で混乱を生んでいる。つまり、岩橋と原光胤や大蔵の間で争いが起き、
大蔵が戦死したのではないだろうか。では光胤の66年はどうであろうか。66年は山内房顕が死去した。
63年に景仲も亡くなり、この頃から武蔵千葉氏と扇谷方道灌の結びつきは確固たるものになっていく。
光胤の吉川での討死にをどう捉えるか。なんとも言えない場所である……
幕府が65年に古河討伐を今川武田に命じている、川と川との間に合った市川を見ると
市川から古河方に幕府方として北上したのではないだろうか。または吉川市には深井氏の伝承があり
景春の子景忠、その子景孝だとされるのでその救援にでたか、古河公方方なら西に進んだのではないだろうか。
この一族は法名に蓮の付く者とそうでない者と系図で混乱が見える。この蓮の付くの者は後述で重要になる。
最後に最も重要な弥冨である。法名に朗の字がつく一族。某弥冨(胤良?道義?)を祖とし
この時妻が狩野氏(上杉方)であること。ただしおそらく戦さ初期は胤房与しただろう。
1455年の戦いで亡くなった二人の子朗珍朗嶺だが「東方」で亡くなっている。
これは通常場所を指してるとのことだがどちら側で見ることもできるのではないだろうか、
つまり「トウ方」にて。ただし状況は父信濃守(胤良?)と円城寺は戦ってることは目さなければならないが。
そしてもう一人の息子朗意に注目したい。この人物は66年に幕府により松戸城の守りを命じられている。
これが自分の説ではとても重要と考えている。つまり先の記述の光胤も明確に幕府方と見れるのではないだろうか。
そしてその説を補完するように尾張国行方氏系図にてこの朗意の後に妹尾下総守蓮意とある。
この妹尾氏はその後北条氏家臣で見え、一族から行方直清そしてその弟日芸を輩出する。
また妹尾氏の法名の蓮の字から光胤との関連もあると考える。話が少し飛んで真里谷氏の女についてだが、気になる女性を2人。
1人が信嗣の娘とされる三浦義意の妻(扇谷と真里谷を結ぶ線)、と信応の娘とされる六郷殿の妻。
六郷殿は大田区の六郷殿だとすると、上杉氏か行方氏と言われる。もし行方氏であるならばまたどうして繋がりがあるのか考察
してみたいと感じる。
0617人間七七四年
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2021/10/16(土) 06:36:00.38ID:Rj/+N+F2
太田氏武蔵吉良氏武蔵千葉氏に共通する家臣の宇田川氏
元は太田道灌の家臣宇田川長清、太田道灌が品川から江戸に移った際に逆に品川に移住を
申し上げられ品川の守りを任せられる、商人とも
同じ商人として有名なのが鈴木道胤、こちらも品川の商人で道灌とは連歌仲間
道灌死後の品川の経済力はどこに所属したかは気になる所だと思う(武蔵吉良氏かな)
0618人間七七四年
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2021/10/16(土) 07:55:28.15ID:WFzb4ZQR
六郷殿の妻が真里谷信応女はどこ情報ですか?
0619人間七七四年
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2021/10/17(日) 00:36:05.44ID:P2LwP+1R
>>618
黒田基樹教授の著書に載っている上総武田氏系図です。
なにを参考にされたかは不明です、申し訳ないです。
分かる方いればお願いします。
ちなみに信応の養子に女(原胤栄室)、女(六郷殿室)、信政とあります。
ただ三浦義意の妻の件に関しましても疑念の声もありますので、まぁという
感じですね。ただ参考になっている何かはあるとは思いますが。
あと申し訳ない所でありますが、どこかで違う六郷殿を見たような気がしていまして
例えそうであっても、某六郷殿と同一かも希望的観測な所ではあります。
0621人間七七四年
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2021/10/18(月) 08:37:32.61ID:42v9kVtC
一つの考えとして
暗殺される前の太田道灌は一つの道灌を中心とした扇谷上杉氏を脅かす
連盟勢力として見ることができるのではないだろうかと考える。
武蔵吉良氏ー三浦氏ー太田道灌ー武蔵千葉氏ー(真里谷氏)
また武蔵千葉氏一族は道灌吉良氏の所領の中に北の渋江氏、、南の行方氏などが
在地の者の中に入り込む形で命によって配置されたのではないだろうか。
他に市川の戦いで幕府側で亡くなった足立顕秀宍倉氏兄弟の宍倉氏が小宮山氏の家臣になっている。
またそれは先の時代の上杉氏もそうで八条氏や深井氏(上杉氏と土豪)と
新方氏(千葉氏系の土豪)や川口の中田氏や衰退した江戸氏なども新しく住んだ者と
既在の者と混在している。そうした中で渋江氏だが古河公方に属していた渋江氏は確かに存在し、
家紋的にも寛政重修諸家譜に書かれる千葉氏関連と言うのは難しいとされている。
ただ、この渋江氏が武蔵千葉氏家臣だと筋が通ることもある。道灌死後扇谷に組みなおされた
岩槻太田氏の動きと合わせて岩槻太田氏と古河小公方と成田氏、また後北条氏が関係している
岩槻城においての攻防や譲渡においての関係性が見えてくる。
古河公方の周りにいた渋江氏とは別の渋江氏が岩槻城主として武蔵千葉氏方でいあっという可能性も
大いにあると思う。話を戻して先の岩槻太田氏の動きもそうだが道灌の死は連盟を砕いたと感じる。
道灌はやはり非常にロマンを感じる人物で、景仲と道真から受け継いだ才というか、いとこで景仲孫の
景春の手紙や道灌の景春赦免への動きが二人の関係性を、また道灌の他における顔の広さも含め、
道灌連盟勢力は通説のものより実際は影響と言う意味でとても大きかったのではないだろうか。
(だから暗殺、定正の書状における山内の黙認があったのだろうけれども……)
道灌の死はやはり大きく、一番影響を受けていた東京湾周りの連盟勢力と利根川で公方と分かれていた最前の
勢力たちに大変な影響をだしてしまったように思える。
0622人間七七四年
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2021/10/20(水) 02:43:07.39ID:szzROUx+
>>621
太田道灌は享徳ノ乱から長尾景春鎮圧まで、扇谷勢は勿論のこと実質的に山内勢の軍事指揮権まで掌握しちゃって一種の私党を形成しかかってたからなあ。
江戸領では完全に領主として直轄統治に等しい行政をやってたようだし、事実上は独立の戦国大名と云って良いんじゃないか。
あの内容の「太田道灌状」を扇谷定正の承認も取らずにいきなり山内家重臣に直接叩き付けた辺り、本人もそのつもりだったように見える。
0623人間七七四年
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2021/10/25(月) 23:54:32.14ID:sP28SGMQ
稲城市と川崎市に跨がる小沢城
実際には見張り台(砦)くらいのもんだろうけどロケーションいいね
城山に川が巻き付いて堀になっていて山上からの眺望も抜群
歩いていける距離に府中街道と多摩川の矢野口の渡し
0624人間七七四年
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2021/10/26(火) 20:06:10.22ID:QKusGoE6
よみうりランド遊園地の近くね
あの辺りは確かに眺めが良いわ
0625人間七七四年
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2021/10/27(水) 18:45:39.83ID:V5BO+mN3
道灌死後の考察
少し長くなってしまうけど荒らしではないのでご了承願いたい。根拠は乏しいが仮定論や物語に近いなにかを
垂れ流したい。少しでもおもしろいと思っていただければ幸いです。

まず注目するのは長徳寺の移転。(1488年道灌死後1年後に吉良成高(頼高?政忠?)により)
これは吉良成高が防衛上の観点からということで南に危機感を抱いたことからと見ることができる。
ひとつその前に私見としてなぜ吉良氏は経済的ゆとりがあるのかという点だ。それは世田谷と言う土地ではないだろうか。
多摩川を利用した流通、品川湊、そして神奈川港(鶴見湊か?)の3つを利用できたからではないか。一つ無理やりかも
しれないが、もしかしたら江戸氏が先の時代で大福長者と呼ばれた理由も一族の六郷氏からの恩恵を受けたからかもしれない。
また六郷殿(行方氏であれば)もそういう背景を持って他の者より位が高いのかもしれない。さて、南への危惧だが
この神奈川港を上田政忠(子に政盛?)が15世紀後半に支配下に置いた。道灌死後において扇谷への不信感があるなか、
新しく来た扇谷家臣を危惧したのではないだろうか。つまりこの時点で武蔵吉良氏が扇谷との繋がりを薄くあると見る。

次が三浦高救の一連騒動だが、これは反定正派によって擁立されたみることができるのではないだろうか。
三浦義同、東常和、成高、そして道灌に近かった自胤が推したと見たい。結果義同は一度追放されながらも
94年には家督を取り戻し、高救は安房正木氏になったと言われる。(三浦一族の誰かだとは言われている)同じ94年だが、
扇谷足利北条(今川)連合が山内を攻めたが。この時北条によって足立郡と馬込を攻められている。つまり足立郡とは
武蔵守胤本拠地淵江、そして道灌死後に岩槻城を引き継いだ武蔵千葉氏(渋江氏)、それから同じく反定正派だったのであろう
梶原氏(吉良氏に与していたか)そして近くの吉良成高を攻めたと見ることができる思う。古河公方方の書状で簗田氏に
岩槻城への合力を指示していることから、岩槻城が他勢力から加勢をしてもらったことが分かる。他勢力とするのは
加勢よりは手助けに近い意味の合力が使われていることからである。また太田道灌の子資康も山内に与して戦っている。
ただし資康以外は山内軍ではなくあくまで道灌死後の反定正派として扱いたい。それから93年に堀越茶々丸を追放した
北条氏(伊勢氏)もまだこの時点では独自の動きではなく今川氏の思惑で動いてると思いたい。それによってまた同じ94年に
家督を継いだ大森藤頼が反定正氏のひとりとして、この時期扇谷を離れ山内に与し、またその裏で今川氏に
近づいたのではないだろうか。雲玉和歌抄にでてくる梶原、大森と浜野本行寺の酒井定隆逸話にでてくる日泰上人が
道灌の連歌仲間であろうというのも注目したい。
0626人間七七四年
垢版 |
2021/10/27(水) 18:45:57.89ID:V5BO+mN3
少し道灌の話に戻る。道灌は死去直前まで下総への遠征をしている。隅田川に長橋を三本もかけ、そこそこの大軍を下総に渡らしている。
これは自分が思うに渡ること自体には問題がなかった、つまりもっと奥地に向かうことを意識しているのではないかと思う。
つまりそこまでは安定していたと感じる。先の79年の戦いで落ちたとも言われる臼井城。(この時資康とも交流があった梅花無尽蔵の
万里集九は自胤に扇を献上している。)その79年では千田胤仲を城代に置いたとしたい、すぐに臼井俊胤が取り戻し胤仲は千葉まで後退したが、
83年の都鄙合体によって千葉盛胤が臼井氏を引き継いだ。つまり奥地とは佐倉やさらにその東総を想像している。道灌が安定して
侵攻したということにおいて、まず道灌は強い信念として下総を攻めきることにしているわけではない、それでも都鄙合体後に侵攻するのは
当然にできることだからではないだろうか。おそらく真里谷氏、海上氏、また上総東氏、それと扇谷上杉に与してるものが動くと
認識しているからではないだろうか。実際松戸本土寺過去帳から道灌が攻めているのにもかかわらず原氏などの討死が79年から1500年代まで
見えなくなる。これは下総の中部までは安定していたと見れるではないか。また円城寺道頓が30余年に過ぎて(1489〜93年頃)
下総に戻っていること、義明支配期の船橋市に銘が残っていることが継続して下総千葉氏に領土が渡っていないことを裏付けてるように見える。
また道灌死後の武蔵千葉氏方の句が雲玉和歌集に載っていることも頭に残したい。

次に真里谷氏の94年頃の動向だが当主は真里谷信嗣に変わり、庁南武田氏は氏信(宗信?)に変わった。真里谷氏は分家筋と言われるが、
93年に梁田高助が生まれているので簗田氏との婚姻はそれ以前である。母が位の高いものなのかもしれない。少ない中動向をみると
庁南武田氏とは分かれ始めていた頃にように思える。庁南武田氏は白井氏に養子を出している。白井氏は白井荘(八街市)が出自で他の一族と少し
異なり戦国時代で名を上げなおした一族、なぜ庁南武田氏は白井氏と繋がったのか。思うにそれは白井荘に戦の手が伸びて白井氏や下総千葉氏が
庁南武田氏に助けを求めたからではないだろうか。真里谷氏が簗田氏と里見と婚姻を結んだり、東大和守が真里谷氏と里見氏に挟まれながらも
生き延びているのは、三崎城の三浦氏との繋がりも東氏を通して多少なりともあったのかもしれない。真里谷氏が浦賀水道を通じて房総の外とも
外交して国力を付けたことに対抗してか、庁南武田氏は下総千葉氏との結びつきで力をつけようしたからではないか。そして逆説的に真里谷氏は
古河公方の忠臣というよりも多角的な外交や既地の者から押領によって力をつけていったんだと思われる。この時期真里谷氏は扇谷や
反定正派武蔵千葉氏と相互利益な関係だったとみたい所である。

ここで今川氏について少し垂れ流したい。天下一苗字の一族で、先の関東の戦いでの幕府から恩賞として与えられた。また、中央の争いにも
介入することもあり、少し離れながらも幕府の意向などに強いと思われる。成氏を鎌倉から追い出したのも今川氏である。私の東海地方への認識
だが狗奴国の静岡説(例え別の名称だとしても)があるくらい独自の勢力圏と土器などで見る武蔵国への影響は古代から持ち、
北条氏を生み鎌倉幕府を迎え前期中世もこの後時代でも今川義元を生み強い権力を持ちうるような地域であったと思う。ただこの時代は遠江守護は
斯波氏であり、今川氏は遠江に強い野心を持っていて度々進軍をしているため、中央での派閥とは違う形で争いを起こしている。この今川家の
性質上当主とは別に家臣または扇谷上杉道灌や他の武家たちの思惑を強く受けるが、代々一族を束ねる強い豪傑な当主を生むようだ。また中央との
強いつながりが早雲を関東に下向させる一因となる。重用された御一家や朝比奈氏と新参である伊勢氏の関係性は大変気になるところである。
0627人間七七四年
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2021/10/27(水) 18:46:24.02ID:V5BO+mN3
さて94年の戦いの途中で定正が死去し一度両軍が和睦した中、反定正派も扇谷に帰参したみられる。(資康は江戸城に戻るとはいかず
おそらく武蔵千葉氏の元に身を寄せたと思われる。)またこの時先の大森氏は扇谷に戻らずに今川氏に付いたのではないだろうか、
そして95年以降今川の命によって早雲(今川)の与力になったのではないか。(小田原城に招く城主は大森氏)そして吉良成高だが史料にはないが
相模上田氏から神奈川港を取り戻したのではないだろうか。理由としては政盛がその後北条方として挙兵すること、1505年に山内が奪ったとあるが
詳細が不明な所で、相模真田城に移り早雲の与力になったことと見ることもできるだろう。そして扇谷の中ではこの頃より主家に領土の近い武蔵上田氏が
台頭し始めたのではと思う。また扇谷も今川によっていたのではと思う。構図としては幕府VS公方の形から今川扇谷VS山内古河公方に変わったのだと感じる。
公方は一応の所幕府から許された身であり、先に記述したように今川は上杉本家の力を抑えようと試みてるのであろう。そして96年に資康や大森氏の離反や
反定正派帰参を見た山内が相模真田城を攻める。(景春も反山内として参戦)だが景春の子景英と顕定勝利し、敗戦した今川勢と救援に来た扇谷勢は
小田原城に集まる。(伊勢弥二郎、大森藤頼、上田政忠/扇谷朝昌、三浦義同、太田六郎など)さらに今川扇谷勢は敗戦し、大森氏からは山内に
移った顕定と、おそらく真田城に逃げてその後早雲に組み込まれた定頼に分かれたようだ。小田原城はすぐ復帰したように思われる。

94〜97年頃の千葉勝胤及び下総中部はおそらく幕府直結たる東常和に支援された守胤や常和を庇護した時期を持つ義同や、先の戦いでつながりを持つ
真里谷氏によって荒らされた時期と見ている。また古河公方も関係上救援するわけにもいかなかったとみたい。そんな伝承も史料もないが佐倉城も
落ちたこともあったのではないだろうか。公津城に退いたり取り戻したりしてたのではないだろうか。そんな中時折常和を中心に戦場で敵味方相まって
和歌を親しんだのではないか。その中には衲叟もおり雲玉和歌集を作り始めたのではないか。常和、守胤、勝胤とこの時期の史料がないことが
逆にそれを表しているのではと考える。そして真里谷氏の時に書いたのだが、窮地の勝胤は南東に意識が伸び庁南武田氏に目を付けたのではないか。
ただし武蔵千葉氏は足利政氏と山内が手を取り合った為岩槻城を意識し始めた時期でもあるとする。それ故か原胤隆が浜野港に近い小弓に在してしまう。

97年は隠居していた成氏が死去し、今川は早雲を派遣させ伊豆を平定させた。武蔵千葉氏はいよいよ懇意にしていた葛西城の山内方の大石氏を殺害し
葛西城を奪う。もしかしたら勝胤と葛西大石氏が山内方として反撃にでたということもあったのかもしれない。
また吉良氏だがおそらく年代的に代替わりをしただろう。頼康の前に一人挟んでいる可能性もある。(上田政忠と同名がいることは意味があるだろうか)
武蔵吉良氏は名家でありながら生没年も定かではないのはこの地から離れていたからかもしれない。永正の乱までは少しあるが、
この時期から火種が存在したとする。扇谷朝良は元より憲房を擁し、また武蔵千葉氏、及び武蔵吉良氏はその為遠征していたのではと。
武蔵千葉氏はそこから憲房の憲の字を偏諱で憲胤につけ、吉良氏も可能性の一つとして旧所領としされる秋間(群馬)を持ち続けていて、
そこを守ろうとしたのではないか、と想像した。秋間にはこの年代で安中氏が入る。同時期八条上杉氏(埼玉八条の)が越後に渡っている。
(越後の内乱は1506年から)そしてこの97年98年に明応地震が起き、すべての事柄が一時頓挫し、1501年まで空白となってしまったのだろう。

まだまだ続きがかなりあって、国府台合戦まで続くが、お付き合いお願いしたい。申し訳ない。
0628人間七七四年
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2021/10/27(水) 18:47:16.30ID:V5BO+mN3
あー長さをやらかした……申し訳ない
0629人間七七四年
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2021/10/27(水) 19:54:04.74ID:V5BO+mN3
各地回復が成された1501年の今川早雲は三河の方を注視している。1502年足利政氏は下総の争いに関与する為か
下総千葉氏を手中に置くためか佐倉市小篠塚に陣を張りここから3年間下総千葉氏と対立する。
この時期原胤隆と小見木内氏が扇谷に下っており、両家の和義後に原胤隆は下総千葉氏に帰参し木内胤治は上総で討たれた。
先の永正の乱の前にまず1504年立河原の戦いが起きる。山内顕定ははじめ川越城を攻める(勝胤も参戦)
その後、白子(和光)に陣を張り武蔵千葉氏を攻める。今川早雲軍が吉良氏と合流し川崎市に着陣、それに合わせて
山内政氏軍が立河原に構える(このことから現西東京都は山内側としていることが分かる)
この時顕定は甲斐武田に対して家臣大森顕定に書状をだしている。山内顕定政氏勝胤軍が大敗、各々領地へ引き上げるが
越後上杉勢が加勢をし、顕定は川越城を攻め、越後勢は八王子最南部で長井氏が守る椚田城、今川勢の上田政忠の真田城も落城、
武蔵国と相模国を分断した。その際杉並に中田加賀守が入ったと思われる。おそらくそれが由縁で中野で太田氏の家督を継いでいた
太田六郎が殺害される。戦いにおいては家宰の曾我佑重によって和睦の申し入れと共に成立した。
この六郎が亡くなったことで資康資高親子が江戸城に復帰しただろう(三浦氏武蔵千葉氏武蔵吉良氏の後押しもあってのことと思う)
だが、それがおそらく道真(道灌父)の死後も埼玉越生にいたであろう六郎とは別の太田氏は大変な反感を抱いた、
このことが後の岩槻城攻防につながると見る。また扇谷氏が敗戦したことによって和睦条件に千葉神社での
勝胤の子千葉昌胤の元服が含まれてたのではないだろうか。足利政氏から与した下総千葉氏への恩賞であったのであろう。
よって次の年の1505年昌胤は盛大な元服式を千葉神社で行った。次は永正の乱である。

またその前になるが、扇谷敗北によって武蔵吉良氏は今川氏についたと見る。1506年早雲は相模の検地をおこなう。
この点で2点書きたい。一点目は笹目郷と鶴岡八幡宮寺に関して書いたものを読むと、道灌が武蔵国を支配した時に鶴岡八幡宮寺の
笹目郷からの収入を奪ったことが分かる。他にも関戸の収入も奪おうとしたが、そちらは強い意志で断られている。その間に
入ったのが祖父長尾景仲であった。景仲は支配者としてそういった勢力に対しても政治的に付き合ってたのこと。また道灌も自らに
近いものを代官したりとこれもまた政治的に奪ったようだが。それともう一点鎌倉の独自の政治システムがあり、近い厚木までが
鎌倉勢力の所領であったが後北条氏が支配し街道の整備を行うことで新たな宿場などが生まれている。つまり、道灌の時に
おろそかになった鎌倉勢力に対して柔軟に対応し懐柔したのではないかと思われる。この時に早雲の鎌倉における影響が
確立したのだろう。扇谷氏の敗北和睦は真里谷氏にも影響を与えただろう。下総上総で猛威を振るっていたが風向きが変わった。
足利氏の支援の元下総千葉氏の原氏、庁南武田氏が息を吹き返し反撃に出てきただろう。真里谷恕鑑の兄弟が簗田政氏であるから
足利政氏との連携を強めようとしたか、あるいはこの時期にまだ三浦義意は幼いが、三浦氏としても早雲の相模進出に関して危機感を
持ち婚姻関係を結んだか。また下総千葉氏も1506年に猪鼻城を攻めた、三上氏や海上東氏が駆けつけたがそこで良胤、自秀、東胤重は
討ち死にしてしまう。そして永正の乱であるがいろいろあって収まるところに収まって越後山内扇谷上杉公方が代替わりした。
その中茶々丸が討伐され、連歌師宗長が真里谷との交渉の旅に出て、雲玉和歌集成立し、出家して鶴岡八幡宮若宮別当で勤めていた
足利義明が下野国に移る。
0630人間七七四年
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2021/10/27(水) 19:54:51.08ID:V5BO+mN3
1509年に早雲が江戸城を攻める。ここが起点で今川氏から早雲が離れたとすることが多いが、関係性が途切れていないことから
まだ今川氏に与してると存ずる、ではなぜ急に早雲は江戸城を攻めたのか。一つ提示したい仮定論は今川氏は永正の錯乱の後
義稙派に変わった、関東の支配に介入するため扇谷上杉の当主を朝良から建長寺の僧で庶兄東永、そして吉良頼貞(頼康)を
古河公方に挿げ替えようとしたんだと思っている。まず東永においてが1、早雲が相模において寺社勢力に対して懐柔行動を
とったのではないかとする点で建長寺の東永との接点を生んだ(そういう意味では義明とも面識があったのでは)
2、道灌家臣の宇田川長清の子宇田川清勝は資康に従ったか扇谷から離れ山内で戦死した。だが、その子勝元は氏綱の
江戸城修築に従事している。そしてその宇田川氏に仏僧の東永が養子いりしている。裏切った家臣筋に養子に入り、
その義兄弟が江戸城に関わると言うのはなにかしらあったと見れるんではないか。もし裏切った宇田川氏が江戸城に
戻っていたとすれば、それは今川氏の思惑で江戸への引き入れ役にされ、史実に残らなかったのは失敗し代わりに恩恵を多少受けて
歴史から消えたのではないか。3、結局同じ相模いた七沢朝昌の子朝寧の子朝興が詳細不明で当主に据えられている。
これは一連の流れから生じたものとできるのではないか。次に吉良頼貞に関してはだが1、早雲は今川氏とも婚姻関係が
あるのに関わらず動向が見えにくい武蔵吉良氏とも婚姻を結んでいること。後北条氏は公方に関与をするというのは堀越の時に
はすでに始まっているが、それこそ今川氏の庶子でいいはずだと思う。結果今川氏から吉良氏に入り込ませているわけなので。
今川氏が中央、吉良氏が関東という構図を今川氏が描いたのではないか。2、上記しているように吉良氏の動向が不明、不明過ぎる。
吉良氏の所領は蒔田、世田谷なわけだが、この後の上田氏の挙兵も他の近隣の争いも動向が見えないのはおかしいのではないか。
鶴岡八幡宮に対してや他の寺に対しての寄与などでは名が見えるので経済力や影響力を持つ。なにか積極的に関与していたのではと
思う所だ。朝良、東永の父であり吉良成高の義兄、憲房の義父であった七沢上杉朝昌も晩年藤沢市で過ごした。
大きな関係の糸が見えるのではないか。そして相模中央にいた三浦氏はこれを期にか早雲と争いが起き激化しその後滅んでしまっている。
この早雲の急な江戸城への派兵には裏にこういった背景があると見る。それで結果だが朝良は上野国から引き返し撃退に成功するが、
この動きから扇谷と今川早雲の関係に大きな亀裂が入ってしまう。おそらく関東の勢力はまだ今川氏の関東介入に関して
甘く見ていたのだと思う。関東に新しい者が入れるわけ余地はないと。

1510年上田政忠の子が権現山城から挙兵する。これは今川氏に与していた上田氏が真田城から権現山城に移った、武蔵吉良氏の与力に
なったからではないか。この時点の離反という話ではなかったと私は存ずる。おそらくこの時で鎌倉の意志(民衆や寺院)は制圧し
東相模の扇谷武将たちを残すだけになったのだと思われる。明確な三浦氏扇谷氏への戦意を表したのであろう。(永正の乱の初期頃)
これに対して上杉朝良、上杉憲房が包囲をし早雲軍に勝利する。非常に難しく感じるのはこの仮定論では反定正派としても
活躍した三浦氏は繋がりが多く、真里谷氏、里見氏、安房正木氏、江戸太田氏、東常和、武蔵千葉氏。義同自体が扇谷上杉氏の
出自でもある。武蔵吉良氏はどうしたか。また永正の乱で混乱してる時期で甲斐武田信虎が武田家を統一を果たした時期で、
中央将軍の偏諱で名を変えた基氏(高基、義基)と政氏の争い、そういったことからなのか終結するまでに何年も掛かっている。
権現山城の戦いで救援に来た憲房だがこの時は顕定急死で上野国から撤退していた時期か?
当主は成氏、簗田氏の子の顕実が継いだ時期のようだ。
0631人間七七四年
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2021/10/27(水) 20:14:51.17ID:rkTKoAjK
>>630
今日の一連の貴レス群、
範疇といい時代といい俺の興味の対象ズバリなんでしっかり熟読してから何か書きたいと思う。
が、週末までは暇が無いんで今は些細などうでもいいことを一つだけ。
「早雲」はそろそろ止めた方が良いのではないか。
その名は既に虚構の彼岸へ葬送された。
せっかく実証的にきっちり書いている様子なのにそこだけが勿体ない。
0632人間七七四年
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2021/10/27(水) 20:23:41.48ID:V5BO+mN3
>>631
そこは申し訳ない、宗瑞と書くか迷って、今はまだ早雲のイメージの付加価値を意識してしまっている。
この後の文章も出来上がっていてそちらも早雲になってはいるが、ものすごい拘りかと言われればそうでもないことは
ご理解お願いしたい。
0633人間七七四年
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2021/10/27(水) 20:31:03.76ID:V5BO+mN3
足利氏の跡目争いとして4流挙げたい。まず政氏旧体制派、顕実(憲房に敗れ、死去)、顕実を介して関東安定を望ん総社長尾氏、
岩槻太田氏と支援する成田氏、高基から派兵要請に従ったか不明の勝胤、庁南武田氏、徐々に下総千葉氏に組み込まれた酒井氏、
高基新体制派、北東関東勢、吉良頼貞維新派、今川氏、早雲、行方氏、江戸氏など相模勢、そして4流目が旧体制派新体制派の両方との
関係を持ちながらまた両方から勢いを削ぎたい義明派、憲房、足利長尾氏、横瀬氏、三浦氏、千葉憲胤、渋江氏など西関東勢と
真里谷氏里見氏上総安房勢。いくつか理由を述べる。憲房は表立っては高基と連携を取っているが、次の当主の高基の子
憲寛(高基の子)時代には義明と手を結ぶ。これはおそらく家内に元々その傾向がないと成り立たないと見える。
憲寛は反旗を上げた叔父に味方し父とも戦わねばならないからだ。憲房からすれば実際は妻の兄弟の子たちの方に強いパイプが
あったのだろう。もしかしたら千葉憲胤の母は旧定正派時に憲房から守胤に嫁いだのかもしれない。そして扇谷おいても
朝興が同盟の声を上げれるのはその地盤があったからと見る。中でも真里谷氏は海を渡り相模や武蔵に往来していたという話がある。
そんな中で鶴岡八幡宮別当だった義明とつながりを持ったのかもしれない。ただ擁立という形ではなく政氏の後を継ぐように
そそのかしたのだろう、つまり古河に戻させたとみる。

1512年早雲が三浦氏を攻める、山内憲房は顕実と戦っていた時期かもしれない、が、朝良の対応はどうだったんだろうか。
資康が救援に向かったとあるがこの仮定では死亡説を採用する。ただ江戸太田氏東氏武蔵千葉氏は救援に向かったのではないか、
真里谷氏、里見氏、正木氏も動かなかったと思えない。この顔合わせた家々はこの時より強い結びつきになったのではないか。
そして武蔵千葉氏や江戸太田氏は朝良に不感を覚えたのではないか。だが、周りは今川氏与したものが多くなり、敵わないと見て
三浦氏は三崎城に退いた。追撃に早雲はでたが真里谷氏の存在を感知して引き上げたのではと思う。ただ真里谷氏は伊豆、相模を
収める早雲に脅威と感嘆と覚えたのではないだろうか。古河では高基が政氏を追い出し公方に就任した。ここでのポイントは義明は
南之上様と呼ばれ出すところだと思う。政氏も義明も家臣の元で過ごすが、義明の可能性とそれに対処しない高基の間には
義明が還俗した時すでに争いの火種は生まれているように見える。1513年に里見氏からおそらく臼井盛胤に書状が届く。
この仮定論では臼井氏までが武蔵千葉氏で、極東総や原氏は下総千葉氏に従属しながらも独自の動きを見せている。高城氏はおそらく
下総相馬氏にはまだおよばず原氏の代官的役割と見ている。また近くには府川豊島氏や武蔵千葉氏家臣の円城寺氏や
高田塁には匝瑳氏がいる。下総高柳も武蔵千葉氏の権力圏だったと見る。そしてこの臼井氏と里見氏の書状は
安房上総武蔵千葉氏扇谷山内氏の連動した動きを表しているのではないだろうか。1514年政氏が高基を攻撃するが迎撃に成功。
北関東の政氏派も高基派に回る。1515年には政氏の弟山内顕実が憲房に負けて古河に移っていたが死去した。
0634人間七七四年
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2021/10/27(水) 20:47:35.96ID:V5BO+mN3
私は13年〜16年の間が伊勢氏(後北条氏)の独立期だと見たい。三浦氏は滅んでおらず、今川氏の目論見の関東平定にも
半端な時期ではあるが、吉良頼貞を掲げても関東への影響的入部が果たせないという事で新たな基軸を持つため独立を
意識したのではないか。または今川氏より格がある吉良氏との血縁関係を持てたことでか、主家の今川氏も三河吉良氏を
抑えるところまできて、新たに甲斐武田氏との争いも起りそうな混乱の中でタイミング、独立への風向きが良くそれを
果たすことができたのかもしれない。1536年には氏親の子が冷泉為和ともに早雲の子氏綱のもとへ赴いている。
その間はどういう関係か見えないが同盟関係だったと見る。ただし今川氏の方が赴くということで同盟再開の意図が
あったのかもしれない。
1516年数年間の抗争の末、三浦氏を滅ぼす。この際扇谷が救援に向かうが早雲軍は城攻めと迎撃に分かれ戦った。
三浦義同は辞世の句を詠み切腹したと伝わる。先の戦いには救援に向かったであろう真里谷氏はこの戦は参戦しなかったと
思われる。翌年までの間で早雲と共闘したとされるからだ。その理由としてこの時期真里谷氏は信勝から代替わりしている事に
関係してると思う。信清または信保と言われるが、信清を信勝弟だとすると一時信清が当主に成り、その後信保が直系として
継ぎ直す形になったのではないか。可能性として早雲が跡継ぎに関しての介入があったのかもしれない。同じ点でこの時期から
少し後に里見氏が義豊と実堯で正木氏を巻き込みながら争う、これも真里谷氏との連動、早雲の介入を時期と言う観点から見て
それを匂わせている気がする。それから政氏がこの年に岩槻城に移る。この時の城主は渋江氏で、これは扇谷ー渋江氏ー政氏、
また武蔵千葉氏ー渋江氏ー義明とも解釈ができるのではないだろうか。また早雲も上記した今川氏からの独立という時期で、
かつ吉良氏の名を持っても関東の主導権を握るとはいかず、だからこそ同盟先を模索していたのではないか、
そう考えると合点のいくところもあると思う。支援された新生真里谷氏は誰は原氏三上氏あるいは庁南武田氏と争ったのだろう。
ただ主には下総千葉氏だっただろう。武蔵千葉氏に東常和がいて1520年の書状で憲胤の父守胤を千葉介としてる
(この仮定論では当主は憲胤に変わっている)、つまり1400年代後半からまだこの時点でも幕府は道灌の成果か武蔵千葉氏を
宗家と見ており、扇谷と通じている政氏派から高基派に移ったとはいえ下総千葉氏も依然攻められる側だった、そして中々他の
勢力を味方にできていない状況であったのであろうと思う。

1517年下総高柳から義明が小弓城の原胤隆の嫡男と高城氏、救援に来た小西原氏を攻め滅ぼした。また記述したように高柳は
武蔵千葉氏の所領から原氏に攻めるのは1504年で扇谷が山内に敗北し和睦をした件から13年後に義明と真里谷氏を抱き込み
目の上のたんこぶだった浜野港の近くの小弓を排除したかったのではないか。それと義明を最前線に迎えている理由は元々原氏の
小弓以外は武蔵千葉氏の所領でそこまでの脅威はなく小弓が落ちて最前線でもなかったのではないだろうか。
1521年に上総市東(市原市)の者、臼井布佐葛西小弓の者が小金を攻めて打ち死にしている。この小弓以外が武蔵千葉氏だったと考える。
小金城はまだ築城されていないと考えるのでこの時は小金合戦が行われたと存ずる。また公方と言う立場は上記の者たちは特殊で
家臣と言うより味方した者たちとみたい。この時の高基の動きも注目したい。1525年に下総相馬氏の徳誕蔵主の死去に対して
その息子に安西氏を派遣し徳誕蔵主を無二の忠信という書状を送っている。このことから守谷までの高基派を確認できるが、
この1517年の小弓城攻めを下総高柳から移動することまで黙認してしまっている。このことがこの地域の状況を示してるように見える。
そして義明が入城するまで少しの時間を要すため、その間に早雲と関東勢との調整が行われたか、次の年には氏綱に家督を譲り
早雲時代の快進撃にひと段落つけ隠居しその次の年に死去している。早雲の死と同じ年扇谷朝良も亡くなられた、
当主だが朝良の嫡男の藤王丸は若く甥の朝興が継いだ。先に書いたもの(真里谷氏、里見氏)に既視感を感じるところである。
実際快元僧都記の記述に天文元年に江戸城で殺害されている。江戸城は当時北条氏の所領でやはり跡継ぎにおいてこちらも
介入があったのだろうか。
0635人間七七四年
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2021/10/27(水) 21:02:21.50ID:V5BO+mN3
1519年氏綱は早雲の政策を継承し真里谷氏に手を貸し房総に渡る。これはおそらく高基が原胤隆の弟とされる朝胤に胤隆の病状を
聞いている書状があるので、戦局を伺ったものと見える。当主はおそらく原胤清で牛尾と関連のある庶子で名古谷庄にいた思われる。
通説で多いのは高城氏や仁戸名氏であるが高城氏もまだ台頭しておらず(滅亡とも記された)、仁戸名氏も別の一族でのちの時代に
胤清の一族に移ることから、この時点で西総であった可能性は低いと存ずる。この年高基が真里谷氏の椎津城を攻撃しているので、
ここでは下総相馬氏と原胤清朝胤が攻めてきたのに対して救援にでたとする。では義明と氏綱と扇谷関係はどうするか、すでに争いの
火種がありなぜこのような関係が成り立つか。すでに記したように跡継ぎに関して扇谷真里谷里見氏共々に北条氏からの介入がされ
はじめてると推測でき、朝興は代替わりとしての距離感、義明関しては真里谷氏、里見氏の親北条派によって成立してるのではないかと考える。
そしてこれから一定の期間北条氏は軍事行動に落ち着きを見せる。山内上杉氏にはいつの時期かは不明だが(1525年以前)に高基の子の憲寛が
養子に入る、それから岩槻城で過ごしていた政氏が再び公方方の久喜に戻る。このことから次に氏綱が動くまで関東は一時休戦だったと思われる。
さて義明と高基との争いの中で高基から下総千葉氏千葉介当てに書状がある。(いくたの争いの中で古河公方も敗戦を経験している。
東常和は1525年まで武蔵千葉氏の元生存していてその後は尚胤がいた。元よりは武蔵千葉氏を千葉介としていたが高基は派閥として形式上
下総千葉氏を千葉介としてるとみる。そして歴史上この後の時代下総千葉氏が過程を経て正当に認められたことだろう。)書状では臼井氏を不忠と
激怒している。これは高基が以前大名たち向けて従うよう送ったり、忠臣と送ったりしていることから臼井氏が下総千葉氏の家臣としてなぜだと
怒ったと言うよりは臼井氏を従わせろという意味で送っていると見れる。この書状で原氏共に名前が上がる海上氏だがこの時期は非常に興味深い。
まず海上氏は上総武田氏ともに武蔵千葉氏に下ったとされた氏だ。そしてこの仮定論ではよく名前が見えた東胤重に関連する。というのはまず
先の海上氏は子が殺され弟が後を継いだ、その弟は和歌をたしなみ横瀬氏や宗長とも交流を持っていた。(道灌もこの二人との交流を持つ)
弟に憲通律師、助秀(当主を継ぐ)がいる。助秀と子と孫は米野井城の戦いで戦死した、これは下総木内氏との戦いだろう。そして助秀の後を継いだ
別の孫の持秀がおそらくこの時代だろう。上の書かれた持秀の大叔父の東胤重から系図を預かっておりそれを胤重の子勝繁に渡し復興させている。
またこの下総東氏に東常和に関連する東家代々首を残したとされる。つまり扇谷や武蔵千葉氏とこの海上氏や下総東氏が下総千葉氏を挟みながら
時代を過ごしていたことだ。話を戻してこの時、海上氏は地理的に高基に下ったか、または別の海上氏が存在していた可能性も捨てきれないが
忠臣として原氏と共に名が挙げられている。
0636人間七七四年
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2021/10/27(水) 21:02:53.97ID:V5BO+mN3
少しの間、関東の地は安息だったか少しの時間が空き1523年に氏綱は伊勢氏から北条氏に姓を変えた、後に幕府から左京大夫を授かる、
名実ともに後北条氏を確立させた。幕府とのつながりがあった氏族もたちも大いに驚愕したのではないだろうか。
1521年にまた幕府において将軍(義稙)が出奔しまた大きな争いを繰り広げているので、そこにもまたたくさんの思惑があったのかもしれない。
1524年早々1月に江戸太田氏の資高が氏綱に呼応してしまう。領土的な話で武蔵吉良氏まではこの仮定論では北条氏に属しているのは
既に記しているが、江戸から世田谷までの間はどうであっただろうか。品川は吉良氏に属していたのでないか、またこの時扇谷勢力が
すぐさまの飛び出て高輪原(港区)の戦いが起こる。この港区が吉良氏と太田氏の境だったのであったのであろうと思う。その高輪原の戦いで
扇谷を破るとそのまま江戸城を攻め落とした。またこの時板橋にて板橋氏が討ち取られたことから武蔵千葉氏の奮戦が窺える。
蕨城とその城主の渋川氏は氏綱に落ちてしまう、そこから近隣である赤塚城には言及はない、赤塚城はここでは落ちなかったとしたい。
朝興は川越城まで逃げ延びることになった。そして2月に今度は資家系太田氏の資頼が氏綱に通じてしまう。そして岩槻城を
攻め落とし城主の渋江右衛門大夫を討ち取る。ここで通説では解決できていない矛盾をこの仮定論では筋を通せる。
まず渋江氏は武蔵千葉氏家臣なので、資頼は同扇谷の者として道灌ゆかりの岩槻城を目の前にしながら指を咥え続けたわけで、
苦汁をなめた続けた思いだっただろう。つまりここで氏綱に内応し渋江氏を攻めることは筋が通ると思うのです。そして今度は同年7月に
朝興は甲斐武田信虎に救援を求め岩槻城を取り戻す。そして資頼は扇谷に帰参する。ただこうなると今度は岩槻城を奪われた渋江氏は
不満を持つであろう。資高の離反の理由はなんだろうか。弟など含めて一家丸ごと移ってるように見える、これは後の時代の康資とは違う。
資高の母は早雲に滅ぼされた三浦氏でもある、それでも離反するとすれば朝興との間になにかあったのかもしれない。
そして武蔵千葉氏だが近隣の蕨城は落ち、家臣の渋江氏の岩槻城は同じ扇谷の資頼に奪われてしまった。
ここから1538年の国府台合戦までをまた仮定していきたい。まずこの1524年抗争のすぐあと武蔵千葉氏は義明の元に下ったとみたい。
勢力同士の友好はこの時非常に難しく、真里谷氏と里見氏を一心同体に見る傾向が強いがともに親北条派と反北条派を抱えてると見たい。
また義明は敵を高基に絞っており、他の者を小弓公方としての配下と見る傾向が強いとする。山内憲房と憲寛の義親子は朝興と歩みを
合わせて氏綱を警戒している。高基も北東勢力を背景に義明を強く敵視しており、北条への危機感は他より薄いと見る。
1525年義明配下の武蔵千葉氏は義明を通しての北条救援を味方にして、渋江を使い岩槻城を奪還する。岩槻城から西総のラインは
高基と義明の線引きにもなってると存じる。そしてこの時江戸城が北条氏の最前線と考える、蕨城(渋川氏)は北条氏のものだが
赤塚城、淵江城、葛西城、岩槻城、玄鼻城、高田城、臼井城の地域が武蔵千葉氏とともに義明に渡ったと見る。また北条氏は
今川氏の血、横井氏の血、吉良氏、渋川氏をも手中に収め、俯瞰的に見れば足利氏と前北条の位を持ち関東を収める器には
達してるように見える。
この年長きにわたって武蔵千葉氏共に歩んだ東常和が没する。その後は尚胤が後を継ぐが後の後北条氏制圧時代に東氏の名はなく、
いつの時代にか滅んだか群上に帰したかは不明だが武蔵千葉氏の元を離れてしまうようだ。
また大きな流れの裏では関東享禄の内乱が起こっている。複雑に勢力の思惑があり高基と子の晴氏には亀裂が入り
山内は憲寛が最後には追放されてしまう。それと憲房もこの年(1525年)に亡くなった。憲房を尊敬していた千葉憲胤も
扇谷や山内に従う理由がそがれ、義明に移ったのかもしれない。憲寛も義明を頼り市原市に在して晴直と名を改めている。
0637人間七七四年
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2021/10/27(水) 21:12:49.96ID:V5BO+mN3
先の戦いから山内扇谷連合は1526年の間でいくつかの武蔵国の城を取り戻す。この時先にも書いたが真里谷氏里見氏には
反北条派もおり、この時は連合に味方し蕨城や関戸城などを落とし、その勢いで鎌倉まで攻めて鶴岡八幡宮などを焼き討ちにするが、
北条の反撃の勝利で終わる。1527年には義明と親北条派が命を下したか真里谷氏里見氏と氏綱は停戦に入る。つまり義明の元、
武蔵千葉氏、真里谷氏、里見氏は情勢と政治によって北条との距離感を決定していることだと存ずる。
また原胤清に義明は忠誠を誓うように書状をだしていて胤清は従うと返事をしているが、高基とのつながりもあるため寝返りの動きも見せ、
それを密告され、対処しろという書状も残っている。これがこの時代の公方と武家たちの関係を如実に表しており、
1に公方は氏族たちに主家を挟まずやりとりをし全員が家臣という態度で接する、2に高基と義明の間で表向きは両人にいい顔するが
利と捉える方に時代時代で傾いていることが分かる。それが武蔵千葉氏が義明に下ったという根拠でもある。
1528年の上杉文書では高基と義明の対立の話がなされる、これもこの時代北条の躍進と公方の争いが主軸なのが表されている。
その中で1520年後半や30年代は高基の対立の義明派の真里谷氏里見氏の中で北条氏をどのように扱うかが主軸の年になっていて
また山内扇谷連合は両公方より現実的に北条に対処する動きという形になっていると存ずる。
まず1534年に里見当主義豊が叔父である親北条派だった実堯と正木氏を義明了承の元殺害してしまう。
その後実堯の子義堯が北条の支援の元、義豊を追放し当主になってしまう。追放された義豊は真里谷氏の元へ逃げ延びる、
また真里谷氏もこの抗争で元々真里谷氏にも存在した親北条派と反北条派に波及し、真里谷信応が当主に収まっている。
ただし親か反であって北条に与しているわけではなく、1537年頃には真里谷氏の分子も里見義堯も義明の元へ戻っている。
さて1530年に小沢原の戦いが起こる。これは小沢城や相模と武蔵の境の城を取り戻そうとした朝興を
氏綱の子氏康が迎え撃って破った戦いだろう。1532年には岩槻城が再び太田資頼が攻めて渋江三郎が討った。
通説では扇谷が北条氏を攻めた構図だが、この仮定論では扇谷が義明派の武蔵千葉氏を攻めたと見る。そして岩槻城は扇谷と資頼に移り、
武蔵千葉氏はおそらく川口あたりまで後退したのであろう。それから1537年朝興は死去し、朝定が引き継いだ期を狙って
氏綱は河越城を落とした。義明もこの頃真里谷氏里見氏が落ち着きかつ高基が晴氏によって降ろされたのを見ていよいよ古河公方攻めを
計画したと見る。書状は残っていないがおそらく各義明派に送ったのではないだろうか。そして準備に入る中、
武蔵千葉氏の葛西城が氏綱によって落とされてしまう。それでも義明は調整して古河攻めを決行しようとしたのだと存ずる。
大軍を集めて市川はまで来たのであろう。その間にこの仮定論では武蔵千葉氏がついに晴氏と協調姿勢の北条に下ってしまう。
その激震は西総全体に広がり、義明派と北条派に分かれたのではないだろうか。そういった中1538年義明は北条との決戦からは
逃れなくなり、晴氏攻めを一度中断し氏綱との戦いを決意する。そうして第一次国府台合戦が行われた。
義明は武蔵千葉氏の離反の混乱もあり死去、義明の一族も幾人か死者をだす大敗。武蔵千葉氏は西総を混乱の中
高城氏、原氏や里見氏に取られ、臼井氏は独立して原氏の支配下に、先に書いたように岩槻城は扇谷にとられているので、後に完成する
小田原所領帳の領土になったのではないか。匝瑳氏や木内氏や円城寺氏や板橋氏などの所領帳での持ち分を見るとあながち間違えとは
見えないのではないだろうか。江戸太田氏や江戸吉良氏には遅れての参画にはなるが「千葉殿」の裏にはこういった物語が
あるのではないだろうか。と、東京の武将を目線に戦国時代初期を見たのだがどうであろうか。以上長々申し訳ない、当分(長い時間)
長文は控えるのでご了承お願いしたい。ありがとうございました。
0638人間七七四年
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2021/10/27(水) 22:32:43.88ID:CNHOg5yZ
一次史料にもある「伊勢早雲」が虚構だったなんて
0639人間七七四年
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2021/10/27(水) 22:52:42.06ID:CNHOg5yZ
「箱根神社棟札」早雲寺殿
「北条家朱印状」早雲寺殿
「大道寺盛昌書状」早雲寺殿様
「為広駿州下向記」早雲
「大井宗菊書状」伊勢早雲庵
「福島範為書状」早雲庵
「王代記」伊勢早雲
「朝倉宗滴話記」伊勢早雲 (紫屋軒宗長からの聞き書き)
「小田原衆所領役帳」早雲寺殿
「相州日牌帳」早雲寺殿
0640人間七七四年
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2021/10/27(水) 23:26:29.71ID:CNHOg5yZ
自署 宗瑞
「上杉可諄書状」伊勢宗瑞
「上杉憲房書状」伊勢新九郎入道宗瑞
「大蔵院宗好」宗瑞
「上杉憲政願文」平宗瑞

他称は北条・今川圈=早雲(庵、寺殿)、上杉=宗瑞
0641人間七七四年
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2021/10/28(木) 00:47:26.60ID:tCbzQAl9
>>638
自署、特に公式発信文書が全てだろう。
他称など綽名の如きもので採るには値しない。

と同時に、
武田徳栄(徳栄軒信玄)
上杉不識(不識庵謙信)
などという表記があり得るかどうかを考えれば答えは自明。

何よりも、「北条早雲」なる表記は後世捏造された数々の虚構に塗れ過ぎた。
実事求是のスタンスに立つならば速やかに葬り去るべきものだ。
0642人間七七四年
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2021/10/28(木) 00:57:05.14ID:tCbzQAl9
玄人、素人を問わず史学関係周辺の人々は表面的/些末的史料盲従主義(文系脳的思考停止)に陥りがちだと常々思っている。
技術屋の目から見ると「論理的正当性」以外に拠るべきものは何も無い。

出家者については法号が正当な呼称であって、庵号を持ち出すのはナンセンスとしか云いようが無い。
0643人間七七四年
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2021/10/28(木) 07:39:21.73ID:3Zo35AgA
早雲と顔つき合わせてた者(冷泉為広、宗長、今川家臣)が「伊勢早雲/早雲」と呼んでるのに
自称理系脳がわけわからんこと言ってるな
0644人間七七四年
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2021/10/29(金) 16:27:57.28ID:0cEF+2AZ
院号庵号法号または斎号かか、色々なケース想像するなぁじゃあ盛時かな
0645人間七七四年
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2021/10/30(土) 17:29:50.68ID:ZTe5p2/j
関東の吉良氏や渋川氏なんてこの時代別に大そうな意味なんかはなかったのでは
0646人間七七四年
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2021/10/30(土) 18:12:19.58ID:BM4eVsQy
>>630 >>634
伊勢宗瑞は相模國全域制圧直後に武蔵國へ再侵攻するかと思いきや、真里谷武田氏からの要請を容れて上総國に侵攻した。
伊豆衆・三崎衆と対岸の真里谷配下の海賊衆との連携による武総之海の水運掌握、以て扇谷上杉氏のインフラ侵蝕を図ったものと云う。

それ自体は真実だと思われる。
しかし相手方である武総之海の西岸から奥、即ち品川や江戸等の海民たちの動向が今一つ見えて来ない。
地域的には当然扇谷方に付いていたのだろうが、
彼等が担っていたであろうそれ以前の湾内水運の実態、武相(扇谷対伊勢)の相剋に当たって彼等が果たした役割、等々はどんなものだったのだろうか。

私見だが、宗瑞が性急な江戸再侵攻よりも「勝てる状況」の構築優先という一見迂遠な道を選んだについては一回目の侵攻失敗の経験知があったのではないか。
その経緯の中に湾奥部の海民たちの(当然、扇谷方としての)軍事・流通活動もあって宗瑞をしてその重要性を痛感せしめたものと見ているが、未だ具体的な根拠を見出せず妄想の域に止まる。
何か知見があれば御教示願う。
0647人間七七四年
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2021/10/31(日) 17:52:50.82ID:Y80QSy3u
>>637
国府台合戦に際しての扇谷上杉及び配下の武蔵國衆の動きが腑に落ちない。
何故北條を背後から襲わなかったのか。

古河vs小弓の覇権争奪というこの合戦の基本構造の中で扇谷(一応山内と和睦中)は名目上古河方だったのかもしれないが、
江戸も葛西も奪って河越や岩附さえ脅かす不倶戴天の敵たる北條が氏綱ばかりか氏康まで出陣して江戸も小田原もガラ空きにしているというのに、
そして扇谷は必ずしも小弓と敵対してはいなかったのに指を咥えて北條を座視していたのがどうしても解らない。
北條の侵攻で逐われて憤懣やる方無い國衆も武蔵國内に少なからず残存していただろうに…。

そもそも古河が小弓を討つに当たって関東管領山内上杉を差し措いて新参者の(そして忠誠度に疑いのある)北條を使ったこと自体相当解らないものがある。
既に当時、國衆の潜在的動向も含めて両上杉は武蔵國内の政治基盤を喪失していたということなのだろうか。
0648人間七七四年
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2021/10/31(日) 21:17:14.45ID:aza9RjQ7
>>646
湾奥部や海民ということですが、船橋の研究家先生のお話でも海運と陸運のお話を見ましたが
やはり細かい事への指標みたいのものもまだ定まってはないとのことです。事態解明はまだ難しいようです。
六浦、神奈川、品川、江戸、浅草、船橋、千葉、浜野の港の重要性はおしゃってました。
その中でただ個人的に思うのは、浅草と船橋は寺とのつながりが強いことが一つおっしゃる海民につながる気もします。
つまり海民は僧、商人、漁猟民の混合勢力で、ある種の独自のシステムがあるのかもしれません。
僧はネットワークの顔、商人は流通のシステム、漁猟民は運搬をイメージできるような気がします。
独自の勢力という事である程度は寺と同様に争いに関与しながらも損得で動ける自由さがあったのではないでしょうか。

それからこの仮定論では一応扇谷勢力と旧道灌勢力で線を引き、分けております。品川、神奈川湊は
武蔵吉良氏が今川勢力に与した段階(早い段階)で大きな益は伊勢氏側に武蔵吉良氏を通して移ったと考えております。
(鶴岡八幡宮造営の支援力)
また妙見島、これは自然島ですがその名の通り由来の妙見神社が千葉氏との関係を思わせる島です。
基本的には前の時代の千葉氏ということですが、やはり武蔵千葉氏は無視できない場所であり、北条氏の支配時代には
太田康資の所領となります。武蔵千葉氏関連これは筋が通ってると考えます。この湾内に出っ張るように存在する島を武蔵千葉氏が
収めてたとするならば、浅草、船橋が寺領だとしても、仮定論では長島湊、千葉湊は手中にあるということです。
先の記述で旧道灌勢力を分けている理由ですが、扇谷の純粋なる家臣勢力が収めているのは江戸湊のみとなり、
伊勢氏にとって湾を見たとき、江戸湊もまた先の独自性があるとすれば、まず接するのはある種扇谷当主と力を並べる
武蔵吉良氏(既に伊勢氏側)と武蔵千葉氏(国府台合戦時義明方)と江戸太田氏ですから、その勢力が重要になり、逆に言えば扇谷純勢力は
江戸湊も含めて湾勢力に影響はない、つまり伊勢氏の扇谷に対しての戦略が見えるのではないでしょうか。
「勝てる状況」の一文に同意し、おそらくその間に江戸太田氏(資高)との離反へのやりとりが存在していたのではと
考えており、同時に武蔵千葉氏さえあと落ちれば湾の影響のほぼを手にできると伊勢氏(北条氏)は考えているのではないかと存じます。
そして真里谷氏までなら完璧にと。
0649人間七七四年
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2021/10/31(日) 21:17:21.61ID:aza9RjQ7
>>647
この仮定論では扇谷は義明派としています。また葛西城は義明に降りている
武蔵千葉氏の城と見ています。なので古河公方がなぜ北条にかは筋が通ります。
山内でない理由でありますが触れはしたのですが、憲房ー憲寛を義明派と見ています。
古河に絶対としてついたのは北東関東勢力としています。
そして疑問とされる義明派とした扇谷上杉がなぜ北条を攻めなかったのかでありますが、
葛西城は義明に鞍替えした武蔵千葉氏(岩槻城は扇谷に切り取られる)の城ですからまずは
様子を見たところ、大きな衝突になってしまったのではないでしょうか。
扇谷は北条包囲網形成を望んでいるところでしたが、武蔵千葉い方の葛西城が落ち、
そのまま国府台合戦に発展するとは予見できなかったのではないでしょうか。
では救援行動はという次の思いですが、それに関しては義明派でありながら家臣ではなく
古河公方との足並みを考えてでなかったのではと考えます。
0650人間七七四年
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2021/11/01(月) 22:09:22.59ID:pdAz/CLW
お前ら和歌山県出身の下村拓郎様(35歳、元自衛隊)をご存知か、この方は将来素晴しい人物になるから覚えておいて損はないぞ
0651人間七七四年
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2021/11/01(月) 22:14:05.30ID:A2hGpBHW
早雲を早雲と呼んではいけないという虚構

自署 宗瑞
「伊勢氏綱社殿造営棟札」早雲寺殿天岳
「北条家朱印状」早雲寺殿
「大道寺盛昌書状」早雲寺殿様
「相模国先達衆言上状」早雲寺殿
「小田原衆所領役帳」早雲寺殿
「相州日牌帳」早雲寺殿
「為広駿州下向記」早雲
「伊奈盛泰書状」早雲
「大井宗菊書状」伊勢早雲庵
「福島範為書状」早雲庵
「上杉建芳〈朝良〉書状」早雲庵
「三不軒某書状」早雲
「王代記」伊勢早雲
「朝倉宗滴話記」伊勢早雲 (紫屋軒宗長からの聞き書き)
「学校答書」伊勢早雲庵主 (1634年足利学校11世の記。北条氏は足利学校の庇護者)
「上杉可諄〈顕定〉書状」伊勢宗瑞/宗瑞
「上杉憲房書状」伊勢新九郎入道宗瑞
「大蔵院宗好書状」宗瑞
「上杉憲政願文」平宗瑞
0652人間七七四年
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2021/11/01(月) 22:17:39.70ID:A2hGpBHW
「北条氏康書状」武田信玄
「北条氏照書状」武田信玄/信玄
「小田氏治書状」信玄
「相馬治胤書状」信玄
「上杉輝虎書状」武田信玄/信玄
土屋昌続宛「宇都宮広綱書状」信玄
「織田信長書状」信玄
「板垣信安起請文」奉対信玄様/奉守信玄様 (両角昌守、小幡信実、越後国衆、信濃国衆の起請文も同)
「馬場篤親起請文案」奉対信玄 (馬場篤親は常陸佐竹家臣)

北条高広・景広宛「佐竹義重書状」謙信 (上杉景勝宛も同)
正木憲時宛「佐竹賢哲〈義斯〉書状」謙信
直江景綱宛「里見義弘書状」謙信 (柿崎景家宛も同)
1578年3月24日付・4月3日付「上杉景勝書状」謙信
1578年5月29日付「上杉景虎書状」謙信
1578年4月20日付「本庄繁長書状」謙信様
1583年2月19日付「北条高広書状案」謙信様
「松平忠昌寄進状」前越守謙信墓所

信玄 家中=信玄様、他国=信玄
謙信 家中=謙信様、他国=謙信
早雲 家中=早雲寺殿、同盟国=早雲(庵)、敵国=宗瑞
0653人間七七四年
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2021/11/01(月) 22:36:58.20ID:wuxiYIF+
長々とコピペ御苦労。
しかしお前の大好きな三流講談師を引用し忘れてるぞ。

問うに落ちず語るに落ちる。
頭隠して尻隠さず。
いい加減な所で止めときゃ無事だったものを、ムキになって退き時を見失うから身バレすることになる。
0654人間七七四年
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2021/11/02(火) 07:28:09.31ID:2O4FuQAY
???
カルト宗教か何か?
0655人間七七四年
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2021/11/02(火) 07:30:18.00ID:2O4FuQAY
実証主義が通じない
0656人間七七四年
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2021/11/04(木) 20:46:22.00ID:6hJiAqT8
1番上の棟札
改行等も正確に書くと

相州故太守早雲寺殿天岳
欲建立而不果矣依之令
太守伊勢平氏綱新造畢

意識的に宗瑞は書かずにいるんではないか
0657人間七七四年
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2021/11/04(木) 22:59:33.19ID:OrRCJGC5
もし件の伊勢氏が盛を偏諱として使用したとするならば、臼井盛胤はもしかしたら
伊勢盛時とのつながりがあったのかもしれない。さすがにそれは遠いか。

舎人氏
道灌死後の話を書かせてもらったが、この道灌死後の時期においてと考える舎人氏の
動向、その一つとして平手政秀の生母と沢彦宗恩の存在がある。まず舎人氏は近隣の
小見山氏同様いつの時代からは難しい。戦国時代中期に関しては舎人経忠や舎人孫四郎を
確認できる。では政秀母と沢彦だが、政秀母は舎人三河守輝季の娘で政秀が1490年代
生まれだとすると舎人氏と平手氏に関係ができるのは70~80年代、そして輝季は
享徳の乱の時期の生まれと推測でき、後年に舎人氏が存在することから一部が尾張に
移動したか、なんらかの政治の動きがあったかは不明。また沢彦の俗名が
舎人八〇〇であり、その妻が政秀の養女であると。輝季が道灌死後の所領の土地として
武蔵千葉氏との関係性も重要と見ることができる。孫四郎は太田資正の家臣であることから
岩槻太田氏が南へ侵攻する以前は武蔵千葉氏家臣と見ることができる。舎人氏自体が
争乱の中、一時衰退したか、尾張の動向と合わせ、想像したい所である。
0658人間七七四年
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2021/11/05(金) 12:10:02.01ID:Rub2bYF2
浅草と島津氏(後藤島津)

まず浅草だが1521年に氏綱の命によって古河公方の所へ富永三郎左衛門は赴いた帰り
に浅草に立ち寄った。氏綱はお金にまつわる話を富永から聞いて小田原に弁財天を
勧請した。(24年の太田資高の内応への誘いはこういった動きの中で
行われたのかもしれない。)24年に近い時に遠山新五郎屋敷への狼藉を禁止する
御触れを浅草郷へ出している。このことは24年の品川の妙国寺、本光寺への
禁制とは真逆(寺への狼藉)で、浅草近辺はまだ後北条氏との繋がりが薄いことが
窺える。仮定論では後年の太田資正の浅草寺や石浜宗泉寺や品川妙国寺、本光寺への
制札があったからといって収めたとはみないのと同様この時はまだ近隣の
義明を後ろ盾にする武蔵千葉氏とせめぎ合ってたと見ている。
また後北条氏の浅草寺支配は1539年の浅草寺再建近く(1535年の火事)と見たい。
島津長徳軒、大道寺盛昌、松田盛秀らが参加した。まず再建が4年後であること、
次に24年に千葉氏が北条氏に下っていたのなら名前がない不自然さ、この頃に
遠山直景の子か忠豪が浅草寺別当に就いているが、直景は33年に死去しているが
39年に城代に就いたりと不明な点があり、国府台合戦後に武蔵千葉氏が落ちてから
整備されていることが垣間見える。また島津長徳軒(忠貞)は同じく35年頃に今川氏
から後北条氏に移っており、国府台合戦を期に江戸衆として江戸太田氏とは別に
東京各地に所領を得たのではないかと考える、これは一部は武蔵千葉氏が下った際に
切り取られた痕跡の様にみえる。長徳軒の妻は三浦氏(おそらく駿河三浦氏)で
氏綱の妹が三浦氏に嫁いでいるので、強い信頼の元北条家で台頭したのかもしれない。
0659人間七七四年
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2021/11/06(土) 10:36:47.58ID:ktQzpqu+
増島重明……1613年練馬高野台に弘法大師像を祀る庵をつくる。
その甥重俊が観音堂などを建て、1640年に小池坊秀算により十一面観音像が作られ
長命寺となる。十一面観音は妙見菩薩と並ぶ千葉氏の信仰である。
〇〇ー重胤ー重興ー重明とするらしいが、
なんとこの○○は北条早雲であり、つまり
そのひ孫だと言う。どちらかと言えば千葉氏な気がするが、刺激的なお話。
0660人間七七四年
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2021/11/06(土) 21:18:20.52ID:lUYj+1G/
寛永系図か寛政譜の島崎氏も早雲落胤といってたな
0661人間七七四年
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2021/11/06(土) 21:44:48.50ID:brpZJ4+s
自称落胤やら自称末裔やらがあっちにもこっちにもいたってことは、
伊勢宗瑞も将門公並みの「箔」になるのか。
0663人間七七四年
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2021/11/12(金) 14:28:40.26ID:8g4M4Hao
河村氏
元々は河村城を収めていた通字が秀の氏族か。
河村城地域は戦国時代初頭は大森氏の支配になっている。小田原城になにか関連したか。
その後は遠山綱景の弟秀重が入り、おそらく新倉所領の川村氏も同一族。
新倉は元々武蔵千葉氏の所領の可能性があり、改編後に入植したか。

他にも麻布、府中を収めた狩野氏や同じく府中の井田氏が先の時代や別地域の者と姓が同じものが
多くいるが安易に結んではいけないと感じつつ、徳川氏の幕府設立時の再雇用と同様に
伊勢氏後北条氏によって再台頭した氏族や蕨城の渋川氏系図から義鏡の代ではなく、
その孫の代で枝分かれした三河板倉氏(つまり蕨から移動した氏族)のように人の移動の波が
解明されればまた戦国史が違ったイメージになるような気がする。織田信長徳川家康でさえも
今川氏と関連し、中央から関東へ波が訪れ、また関東から波が返り、また最後は関東へ流れた、
関東と中央の関係はそのように大きな波が行っては来たりと、そんな感じがする。
0664人間七七四年
垢版 |
2021/11/13(土) 21:41:43.68ID:wXHv2/1K
渋江氏や岩槻が武蔵千葉氏の所領の可能性の補完
岩槻には原氏が居た残り香が存在する、原氏館や妙見信仰があったとされる。
伝承では小西原氏系の原虎胤ではあるが、行方氏と同様に異なった原氏が
移動してしていた可能性を感じる。史料が比べれば残っている下総千葉氏にその影が
ないことから地理的にも単純に武蔵千葉氏と考える方が筋が通る気がするところである。
0665人間七七四年
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2021/11/14(日) 17:14:55.54ID:6rJozIXT
山内・扇谷(旧太田道灌勢力を除く)の最前線、大石・三田・平山(山内)
難波田(扇谷)を想像したいのだが……通説では前の三氏は1546年河越城の戦い後に
後北条氏に従い、難波田氏は同戦いで没落している。また1537年の河越城奪取の際の
少し前に両家共々の最前線に深大寺城(調布)を扇谷上杉氏の命によって難波田氏が
増築している。堅固な守りだったか戦略的にか後北条氏は北上より東征の道を歩んだ。
ただし、難波田氏は扇谷上杉氏の防衛に勤しんだと考えられるが、前三氏が南下し
なかった理由はなぜであろうか……
0666人間七七四年
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2021/11/14(日) 17:32:24.06ID:6rJozIXT
いや武田信虎と合わせて後北条を攻撃しているわけだから南下はあったということか……
0667人間七七四年
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2021/11/14(日) 18:01:33.51ID:E0RMPSCW
そこが他地域とは全く違う、関東平野・武蔵野台地の怖い(?)ところ。
此処ぞ必争の巷也と見定めて守りを固めたり攻め寄せたりしても
「いつになっても敵が来ねえええええ」ということがよくある。
他地域の如く狭隘な地形に規定された不可避の会戦というのはよっぽど敵味方双方の気が合わなければ(笑)起き難い。
広闊茫洋の地形故に行動経路・順序の自由度が高いから相互が勝手に「独自の戦い」を遂行できてしまう。
敵の拠点を焼いてやったぜ、と凱旋したら己の拠点が焼かれてました、とか。
氏綱期の北條と上杉の闘争には特にこの愉快なパターンが目立つように思う。
0668人間七七四年
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2021/11/15(月) 20:29:41.88ID:LtnQx0vZ
勝沼氏と勝沼城(青梅市)には関連があるだろうか。勝沼氏は勝沼信友(武田信虎弟)で
勝沼城は三田氏の居城である。勝沼氏は小山田氏と近く、小山田氏はその東で
武蔵国との境界に位置するところである。また同じく境界には加藤氏が居て、
同じ景を通字とする加藤氏が里見氏の家臣に存在する。15世紀中期から16世紀前期に
人が大移動しているので意味を深く求めすぎるとはまってしまいそうではあるが
興味深いことでもある。小山田氏は郡内地方との結びつきが強いが、現町田市も
後北条氏から所領もそれ以前から持っていた可能性も考えたい。安房加藤氏は
上総武田氏に一部が従ったか。勝沼はたまたま同じとも考えられるが、いやそれが通常だが
武田氏の大移動、武田氏と三田氏の関係など含めてなにかあるのかもしれない。
0669人間七七四年
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2021/11/19(金) 09:27:57.89ID:rvoOE5rL
中条氏
仮定としていくつかのルートの中条氏を示したい。まず熊谷市の中条氏は藤原氏・横山党
ではないという話を採用したい、熊谷中条氏は上野、越後と移動しているようだ、
なので熊谷ルートはここでは除く。そのほかに3ルートを書きたい。
はじめに吉良氏家臣系中条氏、1300年代には吉良氏は世田谷を所領の一つとして持ってたと
され、さらに地侍中条出羽守が世田谷と大牧(浦和市)を預かってたようだ。
後述の中条氏も出羽守であると考えられるが、調布の一族はこの一族ではなかろうか。
と、すれば吉良氏の動向と合わせ想像したいところだ。
次に三河国高橋荘などの中条家長の末裔の一族で結城合戦で下向した中条満秀の子
(当主は弟の満平が継ぐ)で持の付く中条氏でおそらく持胤に続く、もしも胤が
武蔵千葉氏と関係するならば下向した時に同一族(上記)から大牧(浦和市)を貰い、
武蔵千葉氏と深い関係になったか。渋川氏の蕨のようなことだったのではないだろうか。
藤原氏系統を名乗る中条氏が胤を用いることに注目したい。
そして最後に信長に滅ぼされた上記の満平の子孫の一族である。のちに景の文字を
持つ一族で氏康に景信が仕えたとある。氏康にというところに重きを置いて年代から
挙母城を追われた後関東へ流れてきたか。
また伊豆国韮山から南条、北条、上条、中条氏が生まれたとされ、その意味を深く
考えたいところである。

多摩井田氏
風土記稿井田村では源義家の頃、井田摂津守が居たという。家伝では三河国発祥で
畠山氏の一族で古くに三河に移り伊勢新九郎に従い関東に赴いたとある。高橋氏が
名乗った井田氏も存在する。家紋の一つに九曜紋があり、下総井田氏との関連も
捨てきれない。また相模平塚の布施氏館の布施氏だが1300年代では
鎌倉幕府問注所執事三善氏の一族の布施氏がいるが、1502年頃所領の山城国から移り
後北条氏家臣になったとある。ただ布施蔵人佐は小机麻生に所領があり、
武蔵吉良氏関連や下総相馬氏の徳誕蔵主の子胤保が布施を名乗っており、上記と
同じ頃と見れるのでそちらとの関連性、こちらも捨てきれない。

また太田資正家臣妹尾氏(原氏)、同じく家臣足立郡の宇田川氏、吉良氏家臣の
宇田川杢頭、白井但馬守、行方氏(原氏)相原氏(粟飯原氏?)武蔵千葉氏家臣末裔
宇田川茂右衛門など後北条氏とはまた別軸で入り混じっている様子が見える。
その随一として円城寺頼長である。1550年に世田谷から川崎に泉澤寺を移し再興した際に
開発の一人に上がる名前であるが、他の者はまだ難しい所であるが円城寺氏は他で見えず
武蔵千葉氏と渡った一族であることは可能性が高いだろう。また地名としても吉良氏の
所領の船橋谷、板橋、梶山(現八幡山)も興味深い。板橋氏ははじめ後北条氏と戦い
死者を出すが、後年では氏康家臣、玉縄衆の板橋民部丞が晴氏(家臣野田氏)との取次役
になっている。元々板橋氏には古河公方とのパイプがあったのであろうか。
0670人間七七四年
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2021/11/20(土) 02:18:33.41ID:xRczVrpe
仮定論で小田原城を親今川派大森氏が譲渡し山内に下った者と今川氏に付いた者と
大森氏は分かれたと見た。また山内に付いた大森氏は小田原城に居城していなかったと
見た。根拠としては後北条氏で存在する大森殿。特別な格の待遇を受け江戸衆として
存在する。小田原城に関しては氏康を入城させ、後北条氏初期の根幹を担った。
少しあとの時代で上田朝直の元に居た難波田憲次(大森氏)が憲重の死後、憲重の娘で
ある母のつながりよってつまり孫が難波田氏を継いでいる。この憲次の父が顕定(実頼)
、藤頼の兄または憲次自体が実頼藤頼の弟、山内に付いた者であろう。この大森氏は
上田氏の元に赴くまでは扇谷上杉朝昌から山内が奪った七沢要害に入ってたのでは
ないだろうか。仮定論では小田原城も真田城から攻めやすく山内が一時のみ在城したと
見ている
0672人間七七四年
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2021/11/20(土) 21:33:33.83ID:xRczVrpe
>>671
拝読しました、興味深かったです。
黒田先生のあとがきの受け売り何ですが、本当にこの時代は全貌さえも難しく、
今ようやくで、これからの研究の動きなどドンドン進むだろうと。本当に思うのは
関東甲信越に東海(そこまで行くと中央もですが)連動した動きがあり、またその
個々の内部における動きを時間軸、地理軸の二方向にさらに文化軸、経済軸、軍事軸、環境軸
を加えて同時に脳内で動かそうとするとどうしてもメモリ不足か脳がクラッシュする。
言い訳になってしまう部分があるんですが、なので自分はある程度史観に重きを置いて
見ています。ですから自分が他の方の学びに関してなにかというのは、恐れ多いというか
単純に成程と、脳に入れて出し入れさせて頂くという感じです。だから地震の観点から見る
なんて素晴らしいなと思いました。話を少し戻して軸にしている史観の点などですが、
例えば道灌や宗瑞の介入があった時今川氏の一番近い重臣たちはどのように動いたか、
足利公方の政氏ー高基ー晴氏で北東関東勢は?と見たとき各々の家中(親子)で意見が
異なり争いが波及する。甲斐武田氏が甲斐を統一化しているとき、今川氏は比べて安定
しているが当主と家臣どちらに重きがあったか、こういったことを他から少しスライド
させながら脳でなるべく理解しようと努めています。それで史観ですが東京武将スレと
いう事でそこに重きを置き、また道灌旧勢力にも置いています。そこから例えば
「大森教訓状」があれば大森氏は上杉からの離脱の流れを感じ、譲渡と言う仮定に至る
という事ですね。また、城の概念でありますが、例えば臼井城は2度の守城が知られて
いますが、その要因を城の作りや立地、城主や家臣または相手方の能力というのは
難しい、ですが後年の臼井城の評価を見るにイメージに引きずられ過ぎるもまた危うい、
堅城というのも時代の軸でも異なってしまう。つまり小田原城がいつの時から思う小田原城
なのか、ここは上記の史観に基づいて後北条氏が有力視してから数年後からが思う小田原城
に近くなっていくと。当然元々の立地における重要性はあったが、というところで
ありますが、その延長線上に山内は維持ができなかったと見るにつながります。
と、書いていますが史観としてであり、強い観念を持ってるという事ではないです。
と、まぁこのように長文になってしまいましたがレスとさせていただきます。
0673人間七七四年
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2021/11/22(月) 21:55:53.11ID:zFGH4SRV
>>668
加藤氏は元々通字が景
遠山氏の通字が景なのも加藤氏流だから
0674人間七七四年
垢版 |
2021/11/23(火) 06:32:05.54ID:FhNF2b3x
確かに加藤氏おもしろいな、wikiをパッと読んだけど
上野原加藤氏の項か武田信長から景春、小山田から独立しながら武田氏に従ってる
で、確かに里見の加藤が信長に従って上総に流れてって説があるみたいだな

あと勝沼信友の子が加藤氏に養子ってのも確かになんかあるのかもな
小山田と一緒に北条を助けるために八王子に出陣したり、攻めるために出陣したりまぁ忙しいなw
0675人間七七四年
垢版 |
2021/11/26(金) 22:44:29.44ID:ZDk3JL7i
追加
「勝山記」(生前)伊勢入道/早雲入道 (没後)早雲
「鎌倉大日記」伊勢早雲
「宗長手記」早雲
「今川本「太平記」奥書」伊勢新九郎…号早雲庵宗瑞/早雲庵/早雲庵主

早雲 北条・今川・扇谷上杉家中、連歌師、公卿、相模・甲斐・下野の修験・僧・儒者
宗瑞 山内上杉家中
早雲を早雲と呼んではいけないという虚構は誰が言い出したのか
史料にみる伊勢新九郎入道の呼び名は各階層で(伊勢)早雲が優勢
宗瑞と呼んでいたのは敵対していた山内上杉家中

新九郎入道を早雲庵と呼んでいた扇谷建芳が
新九郎入道を宗瑞と呼んでいた山内上杉に隠居させられ
朝興が扇谷上杉を家督(名代とも)する
年代と場所に疑問があるが建芳の遺児藤王丸は害されて
朝興・朝定父子は滅亡するまで北条に徹底抗戦

早雲・宗瑞どちらで呼ぶかで北条に対するスタンスが鮮明にできるということは
シンプルにこういう見方もできる
0676人間七七四年
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2021/11/26(金) 22:55:20.02ID:I6dOpeJx
>>675
先般の分も含めてズラズラとよく並べてくれて御苦労なこったが、
「早雲」の例に一つも 公 文 書 が無い。
私文書や私記録に通称を使った事例が何百何千あろうと、学術的な取扱に於けるルールには何の影響もない。
伊勢権力体が発行した公の行政文書に何と書いてあるか。
それが全て。
0677人間七七四年
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2021/11/27(土) 22:02:45.21ID:qRhwqeYc
>早雲を早雲と呼んではいけないという虚構
そんなの聞いたことないけど?
信長を上総介と呼んではいけないと同じくらい意味不明
要は、当時は法名は忌み名にあたるから庵号とか院号などのような尊称で呼んでたってだけの話じゃん
0678人間七七四年
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2021/11/28(日) 02:53:18.09ID:XWFm1rkv
>>672
だいぶ遅れましたが、丁寧なコメントを有り難うございます。

小生は貴殿とは逆に、
自然環境条件やこれに規定されたモノや技術から戦国史を眺めることを好みます。
伊勢宗瑞の件はその稚拙な一例です。

さて、
この視座から我が「東京」を観ると、
・ともに広大な低湿地と台地の唐突な接合
・秩父多摩或いは上毛に発してこれらを貫流する幾つかの大河川
・この河川群を集約しつつ外海と連結する武総之内海
等々が注目されます。

そしてこれらを正に「一所」に集めた上、別スレで触れた大震災に当たっても損害が相対的に少なくなり得る立地まで備えた「江戸」は
やはり極めて稀有な資質の地域であることを痛感します。
近年の研究では江戸は平安後期には既に殷賑の市邑を成していたとされていますがそれも諾なり、と。
詳しく書くと長くなるので割愛しますが、
太田道灌が江戸を生んだのではない、
江戸が太田道灌を生んだのだ。
と、そんな風にも考えています。

その一方で、
東京(南武蔵)の拠点市邑として古代から無二の存在であった府中や国分寺が戦国時代或いは中世に於いて存在感が薄いのは何故なのかと、
そんなことも考えます。

斯様な勝手な想いとは別に、
貴殿の詳細を極める人事考察にもまた多くを教えて頂いています。
今後とも当スレに於ける貴論考を楽しみにしています。

長文乱筆、失礼致しました。
0679人間七七四年
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2021/12/01(水) 21:43:42.56ID:tfBSQVpM
>>676
反論になってない0点
公 文 書 だの行政文書だのと言ってて恥ずかしくないのか
実証を覆したかったら山内上杉以外に宗瑞と呼ばれてる史料探してきて
私 文 書 でもいいよ

伊勢権力体ってなんなの
あなた造語症?
伊勢権力体が発行した行政文書にはなんて書いてあるの?

>>677
真上にいるじゃん見えない?
(虚構に沈んだ)早雲と呼ぶなマン
研究者にこんなおかしなこと言ってる人いないと思うが
彼は誰に影響されてるのか
0680人間七七四年
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2021/12/01(水) 22:04:25.45ID:bFE6R4oD
>>679
日本語も通じないし学術のルールも知らないようでは議論にもならないな。
もはや何を云っても無駄なようだ。
お前さんはこれからも自分独自の世界で幸せに生きて行け。

因みに。
「実証」という単語を、文系脳の連中は玄人も素人も軽薄に使い過ぎる。
実証とは、ブツとデータで証明する行為を云う。
歴史関連で云うなら考古学成果や数値シミュレーション、その他理工系学術の知見によって御墨付きが与えられなければ実証の名には値しない。
紙に書かれた文字ごときで実証などとは片腹痛い。
0682人間七七四年
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2021/12/17(金) 15:50:24.47ID:k+urchb2
渋江氏と大須賀氏

渋江氏について同じことを何度も書いてしまっているが、今回は大須賀氏を絡めて重きを
置いて書きたい。まず渋江氏は本名が須賀氏と伝わる。大須賀氏と須賀氏は関連は
どうなのかという所だが、葛飾区の小菅(こすげ)に注目したい。元々小菅は千葉村
(前世代の千葉氏由縁か武蔵千葉氏か別か)に所属し由来を万葉集にでる名の可能性も
あるが、そちらは埼玉県の小菅の可能性が高いとされる。ではこちらのほかの説はどうか
一つとして下総大須賀氏の移住が言われる。ただし、千葉村からの連想の可能性も
否めない。もしそうだとすると埼玉小菅が須賀氏を生んだ説が有力視されるなら
また同時に葛飾区小菅と須賀氏、そして小菅と大須賀氏に関連がある可能性も否定できない。
では大須賀氏の動向を見てみたい。享徳の乱において見えるのは東常縁に従った事、
馬加氏攻めに加わってる事。そして後年は下総千葉氏に与している事である。
その時代の人物は大須賀憲康とされる。系図において2世代前に憲の字が使われる者が
いるが、合わせて上杉氏に近かった人物なのかもしれない、また子は常康だが常は
常縁の常か。そしてこれから後年まで系図以外の史料から伺えなくなる。他の大須賀氏
の存在も意識したい。榊原康政の舅である大須賀康高の一族である。生まれは
1527年とされ、その父も三河のものであるが、その祖は下総大須賀氏とあり、かなり
以前の時代に移住とあるが、そこは不明とされている。15世紀中期、後半に移った
可能性も存在している。つまり、東方に属したあと、なんらかの要因でいくつかの
流れに分かれたとも見れるだろう。ここではまず東方のあと武蔵千葉氏に属したもの、
下総千葉氏に属したもの、三河に移住したものとしたいところだ。では武蔵千葉氏に
属したというところの根拠になり得る所だが、1点目が近隣に属する小菅の場所。
2点目が常康(法名大應徹公/宗朝)における伝承、武蔵下総国境において後北条氏を
迎え撃ち松田氏を討取ったとのことだが、時代や背景に矛盾も抱えている。このことを
考えるとき、まずは下総大須賀氏の所領は成田市近辺や香取海近辺と思われる、
下総大須賀氏は下総東氏に近い独立した松子大須賀氏と千葉氏主家の元に属す
助崎大須賀氏に分かれている。その中助崎大須賀氏が主家千葉氏の命令で国境まで
出向いた事も考えられるが、常康は系図で松子大須賀氏となる。ならばこの伝承は
武蔵千葉氏に従ったまた別の大須賀氏のものではないだろうか(仮定の中でこの時期
下総東氏などは武蔵千葉氏と繋がっているとみるのでこれは補完材料となる)
松子大須賀氏と同族の大須賀氏が武蔵千葉氏に従い小菅に居た可能性を示していると
存ずる。と、もしももしもになってしまうが、それが成り立つならば渋江氏の須賀氏は
大須賀氏が元と見ることができると感じる。また渋江氏の胤の字は大須賀氏も
使用しておらず、この事がより従った際に胤の字を用いたと想像できるのでは
ないだろうか。後年渋江氏は後北条氏から川口市の浦寺郷を授かる(小菅も川口も
武蔵千葉氏所領近辺)
まだ薄い話だが今後大須賀康高が調べられることで発覚することがあるかもしれない。
0683人間七七四年
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2021/12/21(火) 14:23:44.97ID:MDfnWIif
厳密には東京ではないが朝霞市の岡城は城山公園、朝霞駐屯地(東京都練馬区、埼玉県朝霞市、
和光市、新座市にまたがる)には城があった可能性はないんだろうか。
この辺りにあった片山村、風土記稿片山村条で根拠は老人の伝承のみと書かれてるけど、
七沢七郎が居たとある。朝昌ー朝寧ー憲勝のいずれかが居たならお城があった可能性もある
気がするんだけどなぁ。
0684人間七七四年
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2021/12/24(金) 19:46:03.43ID:+obsL7N8
京都からの下向者と言われる上杉朝昌
朝昌の子東永も臨済宗の建長寺で一緒だった僧玉隠英璵、道灌とも親交があった。
玉隠れの著書で名前が上がる南禅寺住持の朝昌兄弟の叔彭梵寿。
玉隠和尚の出自は滋野氏と言われる(根津氏、望月氏、海野氏や真田氏)
また同じ建長寺の画人で有名な僧、元英祥啓は政治的な意味合いを含む上洛している。

長野県定津院の伝承に武蔵国太守藤原頼久次男の拈笑宗英禅師の話がある。
まず定津院は根津氏所領で伝承では上総介信貞(小幡氏か?)が開山。
この拈笑宗英禅師が甲斐武田氏から請われる形で甲斐や信濃における臨済宗から曹洞宗
への改宗の流れを作る。総持寺、最乗寺、永沢寺などを経て1482年頃に亡くなる。
また藤原頼久は時代からおそらく上杉朝宗だろう。この朝宗は鎌倉黄梅院文書では
関東管領扇谷上杉朝宗となっており、扇谷上杉氏の可能性を示している。
上杉朝昌ー武田信昌ー真田頼昌や越後上杉定昌にはなにか関係があるのだろうか。
0685人間七七四年
垢版 |
2021/12/25(土) 16:25:04.33ID:ZNaNt8vg
1560年の上杉勢の小田原攻め時の関東幕注文に載らずに後北条方で
守勢に努めた諸軍の最前線を知りたい
0686人間七七四年
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2022/01/04(火) 16:41:27.28ID:C4xCAML5
東京、或いは武蔵國に「物部」を本姓と称する武将はいなかったのかな。

平将門公に先立つこと四十年、ヤマトに敢然と弓引いた物部氏永という「東國賊首」がいた。
将門公や平忠常など、ヤマトに立ち向かった人々を崇敬してその末裔を標榜するのが武士のステータスになるという風潮が関東(坂東)にはあった。
また姓の格としても天皇家より高いか(ニギハヤヒとイハレヒコの関係)とさえ謂われつつ叛逆者とされた物部。
真偽を問わず氏永の子孫を自称する武将がいても不思議は無いかと。
0687人間七七四年
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2022/01/11(火) 13:31:20.12ID:20MALlqO
武蔵千葉氏と千田千葉氏と篠田氏

市川と武蔵千葉氏を結ぶ線(第二次国府台合戦後)
今回は市川の中の西に存在する妙好寺の伝承である。
千葉氏の家臣で千葉氏一族で千田氏(千葉氏)の孫とされる篠田雅楽助清久が
1565年に創建されたという。(武蔵千葉氏は雅胤(胤宗)の時代。)
さらに伝承では第二次国府台合戦の功績でこの地を北条家臣だった上記の篠田氏が
領したとされる。注目するのは篠田氏が千田千葉氏の庶流であること、この頃北条氏の
傘下で会った下総千葉氏、高城氏の地で別系統の北条家臣の篠田氏(千田千葉氏)が
その地で知行を得ている事。

では篠田氏と武蔵千葉氏は繋がるか。これは志村城の伝承によって繋がる。志村城は
武蔵千葉氏が武蔵国に移動した際に城主を千葉信胤にしている。信胤がどんな人物かは
不明であるが、別の城主で上がる名が篠田氏である(志村城は別名篠田城)。信胤は
実胤自胤の弟かとも言われているが、もし篠田氏と武蔵千葉氏に関係が証明されれば
信胤は千田千葉氏である可能性もあり、千田千葉氏が武蔵千葉氏に従い一時志村城を
収めていたことになる。(この仮定論では武蔵千葉氏の自秀が千田千葉氏の養子に
入っていたのではと見ている)

また篠田雅楽助という名は平柳蔵人と並んで第二次国府台合戦の戦死者で見える。
清久とは親子であろうか。平柳蔵人は現川口の豪族で太田資正の家臣と見られている。
以前に書いたが仮定論としては武蔵千葉氏は北は岩槻城、東は葛西城から臼井城までも
収めていて、岩槻城は太田資頼によって切り取られ、下総は第一次国府台合戦で喪失
しているのではないかと見ている。そして資正時代には上杉謙信による関東攻め、
関東幕注文においても多くの武蔵千葉氏配下が離反してることが窺える。資正はかなり
武蔵千葉氏所領に食い込んでおり、当時資正と雅胤、また康資と雅胤がどのような
関係だったかは非常に興味深い所である。また謙信・資正に従ったものたちも足利義氏
や武蔵吉良氏ほどではないものの武蔵千葉氏の名の威光は無視できないものであったと
見たい。資正康資追放後、またこの地は再編され、ある種で円滑に戻っていることから
それは想像できるのではないだろうか。(義氏家臣としても武蔵千葉氏家臣としても)
そして平柳氏は第二次国府台合戦時には北条方(篠田氏は離反していないと見る)として
戦死してるのではないだろうか。それぐらいあちらこちらに従っていたのではないかと
考える。またこの時、高城氏の所領中に篠田氏の件から千田千葉氏武蔵千葉氏が再度
入り込んだのだと見たい所である。

それから雅胤の娘婿で武蔵千葉氏を継いだ北条氏繁の子直胤(胤村)の時代も史料は
ほとんど残っていないが武州農民弥五郎所蔵文書において千葉領として大田窪や淵江郷
が見える。異本小田原記で石浜を没収されたとあるが、所領帳から後年(1581年)でも
足立や埼玉南部などを所領していることが分かる。激動の流れの中でも所領は失われず
大道寺氏や当然江戸衆の遠山氏とも並び武蔵吉良氏の様に別格な存在として秀吉の
小田原攻めを迎えたことを物語っているのではないだろうか。
0688人間七七四年
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2022/01/16(日) 00:51:26.06ID:LlOgtbND
板橋親棟と武蔵千葉氏

板橋親棟が壬生氏客将として移るのが壬生氏独立期だとすると16世紀初め頃の
生まれか、守胤や憲胤の時代に生まれたか。仙台藩士になった板橋氏の系図に
板橋高胤、行綱兄弟がいる。綱の文字から氏綱時代と考えると同時代の人物だろうか。
胤の字から武蔵千葉氏との関連も感じられる。もうひとつが弟行綱(別家設立)の
行の字に注目する。まず板橋親棟の父は親盛とされ、子に行常と親恒。通字が親と
推測できる。が、親棟と一緒に壬生氏に渡った嫡男が行常であり、その子は
行高である。また親恒の恒が常の可能性もあれば親の他に行と常を用いていることが
感じられる。と、なれば板橋高胤は武蔵千葉氏の血縁者、弟行綱は親棟の近親者と
見れないこともない。高胤のその後の子たちは胤を用いる。ただし伝承では佐倉千葉氏
家臣であるとされる。
0689人間七七四年
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2022/01/20(木) 02:08:25.28ID:L9Fmhnq6
1513年から1544年の武蔵国の情勢を知りえる僧「称念上人」
0690人間七七四年
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2022/01/26(水) 09:27:58.70ID:+OyGlwwf
北区の堀之内(現:王子、梶原、滝野川、飛鳥山?)と梶原氏をどう見るか

まず梶原氏だが、景時の後、武州南の一揆の時期に名が見え、大石氏との婚姻が
あったとされ、八王子の寺社に名が見えることからその地方に所領を持ってたと
される説がある。また小田原所領帳で馬込の地を治めている。伝承では氏直の
家臣とされるが、時代から見て氏直以前から従っていると見れる。同時期に
あたるのか義氏の家臣として太田資正の子が梶原未亡人の養子になり梶原の名を
頂いている。その前から梶原氏は古河公方家臣として存在してる。
同系統か別系統かは不明。すべて同系統であれば八王子から馬込に移った理由、
同時代に梶原氏がいるのに未亡人の養子に入り急に太田氏が継ぐという事例など
どういったことあったであろうか。すでに資正に離反の疑いがあり懐柔の意味が
あったか。

そして堀之内にあったとされる資正の子政景が居た梶原館はどのような存在だろうか。
1、元来からその地の豪族だった。ただしこの地域は豊島氏の支配する地だったので、
道灌の豊島氏討伐中または後に道灌と梶原氏の間には関係が所領をあり持ったか。
2、義氏家臣化にともないの政景時代からの所領、近くの平塚は義氏が所領しており
元はその地も収めていてその一部から授与されたか。
3、資正の謀反の折に、攻め取ったか。所領帳では康資の所領になっており、奪い一時
前線を確保したか。葛西城の奪い合い同様太田氏同士での争いがあったか。
4、伝承の誤り。近くの寿徳寺には鎌倉時代の梶原氏、家臣早船氏小宮氏の伝承があり、
混同したか。ただし風土記稿豊島郡条にはそのように書かれている。
少し余談になってしまうが、川口市(浮間、赤山康資所領)の古峯神社の19世紀中期の
碑に元亀天正期において16世早船氏が土着と書かれている。そのまま受け取れば上記の
早船氏か。永禄の間違いであれば梶原家臣として移住したか。または資正康資追放での
再編での移住か。また伝承が早船氏と小見山氏と混同した可能性もあるのかもしれない。
小見山氏は太田資清(道真)時代から川口市(安行領根岸)を同じくを治め、資正政景
親子に従って柿岡に移った者も輩出した。

ここから少し小見山氏についての仮定論。黒田先生の著書でも書かれるが、小見山氏が
古くから岩槻太田氏の家臣だった話に仮定論を書きたいと思う。まず前提の根拠となる
のが足利政氏から太田美濃に送られた書状となるが、そこには小見山氏の淵江での違乱
について書かれる。送られた時期は政氏が久喜で隠居していた時期、また義明が独立
した時期と見られる。仮定論ではこの時期武蔵千葉氏は足利義明に付いたと見ている。
上記の通説の書状による太田氏と小見山氏の主従関係だが、義明と下総井田氏との
関係を重ねてみたい。義明は原胤清への嫌疑への対処を井田氏へ書状を出している。
一点目が下総千葉氏へではない、二点目が原氏と井田氏に主従関係がない。つまり
公方方からの独自の命令系統で、隠居後の政氏にしても自分につくだろう者に命令を
下しただけの可能性があるのではないだろうか。またこの時下総千葉氏は義明方の
ように見えて、そうではない形がまた武蔵千葉氏が義明方でありながら政氏との関係も
あり、政氏も武蔵千葉氏ではなく、その元に居る小見山氏の名をあげているのでは
ないだろうか。二つのケースは非常に似たものではないかと考える。この時期
太田氏は渋江氏、小見山氏と争ってると見て、岩槻までが武蔵千葉氏方だったと
見ることができるのではないだろうか。書状は太田氏が岩槻を手にする前の時代の
可能性もあり政氏は義明派の武蔵千葉氏の岩槻や川口の勢力を敵視し、共通の敵
として扇谷上杉家臣の岩槻太田氏に書状を送ったのではないだろうか。
その次に江戸まで迫っている後北条氏が絡むことで複雑化しているのではないだろうか。

それから小見山氏は代々川口の日蓮宗妙蔵寺に所属している。だが、明応7年
(1498年)の小宮山三郎の死去は松戸の本土寺に記載されている。これは道灌死後、
義明台頭の時代において松戸が武蔵千葉氏方だったと考えられるのではないだろうか。
0691人間七七四年
垢版 |
2022/01/28(金) 10:34:59.08ID:oZ6KMqKp
>>690
黒田先生とこんなとこの落書きなら普通に黒田先生を信じるわ
ってか誤字とかひどくてイラっとする、少しは読み直せよ、あとまず長い
0693人間七七四年
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2022/02/26(土) 16:07:39.02ID:NFiG+Ly+
三鷹市の麻生屋敷ってどうなの?
0695人間七七四年
垢版 |
2022/03/15(火) 14:57:51.32ID:ZJ2f8ZXa
>>690
長いなあ・・・
梶原未亡人かあ
0696人間七七四年
垢版 |
2022/03/20(日) 19:31:11.32ID:xMW3eUGs
大田区・川崎市に行方弾正
町田市に島崎次郎館(島崎屋敷)
三鷹市に麻生屋敷
公方方について常陸から入部したか?
0697人間七七四年
垢版 |
2022/03/24(木) 22:52:24.71ID:bn28w5Yz
三鷹市中原の中嶋神社に慶長3年の棟札があり柴田三右衛門・麻生弾正の名が見え
三右衛門の子孫は柴田勝家の孫、弾正の子孫は甲斐から来たと伝える

麻生弾正でググると千葉氏のページがヒットして山室氏などと共に名がある
他に上総国埴生郡にも麻生郷があると

ちなみに山室譜伝記の作者が行方光広で
井田文書を所蔵する神保家は行方系譜(楓軒文書纂)も所持している
井田氏と行方氏の関係もよくわからないな
0698人間七七四年
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2022/05/08(日) 21:48:19.19ID:th4bIgqp
このスレ戦国板のなかでは群を抜いてレベル高いんだけど、出典を示さないのがよくない
先行研究は論文名、史料は出典と史料番号くらいは書く、史料は可能なら引用するくらいはしよう
0700人間七七四年
垢版 |
2022/05/16(月) 18:32:39.32ID:qq7lqg2l
都立園芸高校にあったという深沢城主の南条氏に詳しい方居ませんか?
0701人間七七四年
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2022/05/23(月) 22:03:33.87ID:9r7X2BuC
麻生郷があったのは下総国埴生郡で今の安食らしい
0702人間七七四年
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2022/05/23(月) 22:26:16.87ID:KHwhiWRu
東京都の中世史研究は遅れてる
0703人間七七四年
垢版 |
2022/05/23(月) 23:18:50.27ID:tQgqBk4c
>>702
一口に「中世」と云っても長期に亘る。
何を以て「歴史」とするかも容易に定め難い。

今、板の主旨に沿って「戦国時代」、スレッドの題目に拠って「武将」の動向と限定すれば、
東京都域に係る研究が他県のそれに比して遜色あるものとは思われない。
具体的に何が「遅れている」と感ぜられたのだろうか。
0704人間七七四年
垢版 |
2022/05/24(火) 00:34:32.07ID:6q9zNls0
うるせえよハゲ
0705人間七七四年
垢版 |
2022/05/24(火) 00:38:41.09ID:tNB51zAE
やっぱりお前か。
ここにもお前の居場所は無い。
巣に帰れ。
0706人間七七四年
垢版 |
2022/05/24(火) 00:45:15.77ID:qh97nZqc
東京という区画で中世史研究をすることは基本的にないから少ないように見えるのは当然では、探し方が悪いんだと思う
それは差し置いてもほとんどの市区町村で自治体史作ってるし博物館・史料館も大量にあるから十分多いよ
さらに言えば東京の中世文書や碑文など含めても未公刊のものはもう全くないのでは?
0707人間七七四年
垢版 |
2022/05/25(水) 00:46:23.42ID:9v5a1cd6
北条遺臣の家文書は探せばもっと発掘出来そうだがな
旗本・御三家重臣として続いてるのに文書の1通も持ってない奴らって偽子孫なんだろうか
0708人間七七四年
垢版 |
2022/05/25(水) 01:01:35.24ID:+Qp3cHIo
>>707
それだけで偽とは断定できないだろう。
地震、水害、火事、内戦、空襲、財閥解体、再開発、相続税、
…と、この列島には災害が実に多い。
古文書などいつ失われても不思議は無い。
特に明治以後については、災害群を耐え抜いてでも保持するだけの価値が北條関連文書に認められていたかどうか。
0709人間七七四年
垢版 |
2022/05/25(水) 01:04:17.17ID:9v5a1cd6
所領役帳の書誌学もなされてない
諸本の奥書にある書写元のほうが手付かず
翻刻されてるのも校訂に利用されてるのも1800年代の写本で1700年代の写本がほったらかし
現在出回ってるのは加賀美遠清が1782年に写したものの曾孫・玄孫みたいな写本
1711年に谷口博古斎が鈴木氏本を写したというが両方不明
田沢義章の略考が1737年成立だがこれの種本も不明
1860年に焼失する金輪寺本を直接写したという三枝本もどこにあるのやら
0710人間七七四年
垢版 |
2022/05/25(水) 22:40:10.23ID:344Ivl7G
幕府や諸藩は家臣の系図・伝来文書を差し出させて独自に纏めてる
文書の1通も持ってない奴らが仕官できて子孫ヅラして、今ではその胡散臭い家の系図が参照されてる
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