X



【無名】東京の武将たち【知りたい】 [無断転載禁止]©2ch.net
0001人間七七四年
垢版 |
2016/08/02(火) 15:33:35.60ID:DfuO35GJ
古くはレジェンド東京”武蔵武芝”、
時は過ぎて、その後の”戦国時代”、
武蔵国の内の多摩郡、荏原郡、豊嶋郡、足立郡、葛飾郡
に関連が深い東京武将たちを語りたい。
1千葉利胤
2三田綱秀
3吉良頼康
4太田康資
5大石定久
6宇田川定氏
7宮城政業
8牛込勝行
9板橋親棟
控え
豊島康保、豊島胤定、板橋忠康、小田朝家、小山田弥三郎
平山氏重、渋川義基、舎人経忠、舎人孫四郎、梶原助五郎
the北条
北条綱高、北条康種、高橋氏高、高橋高盛、南条重長、
遠山綱景、富永直勝
the徳川
板倉勝重、豊島信満、etc.

よろしくどうぞ。
0002人間七七四年
垢版 |
2016/08/02(火) 21:49:53.88ID:DfuO35GJ
東京武士の流れ

笠原直小杵(国造一族)が南武蔵(亀甲山古墳や芝丸山古墳など)
に拠点。その後、武蔵国造の乱で敗北。
→多氷屯倉(武蔵国多摩郡)が朝廷直轄領に。
→无邪志(むさし)と知々夫(ちちぶ)の領地が合体。
武蔵国多摩郡(府中市)に国府設置。
→武蔵武芝(足立郡司)

支配
武蔵武芝→平将門→平将恒
→豊島氏・江戸氏→扇ガ谷上杉・太田道灌
→北条→徳川
0004人間七七四年
垢版 |
2016/08/16(火) 18:57:38.21ID:1sPu1VuQ
八王子の八王子
0005人間七七四年
垢版 |
2016/08/18(木) 10:49:35.87ID:qt4fcuz1
吉良=世田谷御所
0006人間七七四年
垢版 |
2016/08/20(土) 22:16:38.12ID:OVztGa/5
一応武蔵千葉は北条から優遇されてたみたい
0007人間七七四年
垢版 |
2016/08/22(月) 19:50:00.77ID:qwb8dnlZ
吉良の館は二子玉川にあったらしいな
高島屋の向かい側あたりに案内板があった気がする
0008人間七七四年
垢版 |
2016/08/23(火) 20:32:17.69ID:dgrqypVZ
そうなんだ
知らなかった
高島のどっち側だろ?

で喜多見(江戸)一族もよろしく
0009人間七七四年
垢版 |
2016/08/25(木) 22:53:44.25ID:IttD/4XC
あぁ喜多見藩は大事だ。
喜多見重政が生類憐れみの令に物申して改易されたって今は主流?
0010人間七七四年
垢版 |
2016/08/27(土) 20:42:55.38ID:w6FSTxMq
太田資正
0011人間七七四年
垢版 |
2016/08/29(月) 06:27:15.05ID:nG4iNlvi
豊島氏って戦国時代何やってたのかいな
0012人間七七四年
垢版 |
2016/08/30(火) 07:05:07.28ID:4C7PpGNP
頑張れば今川氏真・品川高久親子も東京かな
0014人間七七四年
垢版 |
2016/09/01(木) 07:43:57.87ID:QO5jTWbK
織田有楽斎
0015人間七七四年
垢版 |
2016/09/01(木) 21:55:14.84ID:MIya3X4m
大石氏が武蔵守護代で実質支配してたんじゃないの?
0016人間七七四年
垢版 |
2016/09/02(金) 05:41:00.04ID:X51X199q
>>15
僕はあんまり知識ないけど、
一時長尾氏が守護代になって、景春のときは景春、豊島、武蔵千葉、大石が
義兄弟、太田道灌いとこになり、太田が台頭し……
でも実質ってことなら争いが争いを呼ぶ中、
淡々と大石氏が支配してたのかなぁ
それとも西東京が大石、東東京が太田って感じなのかな。
でも定久は結局守護代で東の葛西城に別の大石氏がいるし、
やっぱり大石氏かな。
あと別の話だけど、定久の墓の並びに豊島勘解由左衛門尉康保と宗忠の
墓があるんだけど、船橋に夏見豊島勘解由左衛門尉胤定の記録もある。
道灌に追われた豊島氏は北に行ったのか、東(千葉、府川豊島氏もいる)
に行ったのか、はたまた西、大石氏に囲われたのか?
0017人間七七四年
垢版 |
2016/09/02(金) 21:58:57.09ID:yZ6KYEft
太田の台頭は太田道真からじゃないか?
0018人間七七四年
垢版 |
2016/09/02(金) 23:28:39.26ID:X51X199q
>>17
本当に知識ないけど
親父さんは相模守護代で道灌は武蔵守護代みたいだから。
その前は景信が武蔵守護代のようで。そういう意味で
0019人間七七四年
垢版 |
2016/09/03(土) 07:32:57.42ID:3SHL+uD8
武蔵武芝より大伴宮足じゃねぇか?
0020人間七七四年
垢版 |
2016/09/04(日) 17:36:00.86ID:CsTTvAmC
太田康資の兄の景資って康資離反後に江戸太田の当主になってんだな
んでひ孫の茂連が鍋島直茂の養女もらって佐賀藩の家老になってんのな
知らんかった
0021人間七七四年
垢版 |
2016/09/05(月) 12:02:30.37ID:eaDiCGDZ
宇田川定氏……天文2年(1533年) - 元和6年(1620年)
は後北条氏の家臣である。品川生まれ。通称は喜兵衛(きへえ)。
扇谷上杉家・上杉朝昌の子、扇谷上杉家当主上杉朝良の兄、
宇田川郷右衛門親定(東永)を祖とする一族。
宇田川喜兵衛定氏は江戸川区の葛西地区(宇喜田・北葛西・東葛西)や
ニ之江、港区の一部(旧称:芝宇田川町)を開発した。 by wiki
0022人間七七四年
垢版 |
2016/09/09(金) 14:13:28.84ID:Fi8bUHB9
名前も聞いたことないのしかいないな
0023人間七七四年
垢版 |
2016/09/12(月) 19:35:49.32ID:ybxGf8TO
重正もお梶の方も太田康資の子じゃないんでしょ?
まぁそれでも大名として江戸太田氏が残ったのはすごいね
0024人間七七四年
垢版 |
2016/09/22(木) 02:05:05.61ID:EBmMjeaf
大石定久の弟だか息子だかの憲重が太田資正の家臣の
大石石見守だって話あるけど、どなたか知ってる?
あと三田綱秀の三男の三田五郎太郎とまた太田資正の家臣の三田五郎左衛門
が同一人物って話も。
そうだとしたら浪漫があるね。
0025人間七七四年
垢版 |
2016/09/22(木) 23:03:37.97ID:/t0+T44+
武蔵守護は山内上杉氏だから、大石氏は扇谷じゃなくて山内系の重臣なのかな?
0026人間七七四年
垢版 |
2016/09/23(金) 08:01:07.29ID:MJK4y/fR
葛西氏の一族も東京にいたな。葛西の橋のあたり。
0027人間七七四年
垢版 |
2016/09/23(金) 13:46:14.02ID:k9Ql4VSH
北条二十将の行方弾正こと「行方直清」が入ってない
あと武蔵千葉は「利胤」じゃなくて「胤利」だろ
利胤だったら普通に下総千葉氏じゃん
0028人間七七四年
垢版 |
2016/09/25(日) 01:58:19.18ID:6bNQgqkv
☆室町時代後期
太田道灌→俺が扇谷をここまでにした→暗殺
☆戦国時代
太田康資→江戸城主じゃねーのかよ→離反
    →里見氏の家督争い巻き込まれ→死亡
☆江戸中期
太田資胤→水戸家老、地味に財政立て直しと民政の改革→致仕すると頓挫
☆幕末
太田資始→水野忠邦なんかクソ→徳川斉昭利用するぜ
    →お断り&水野にだだもれ→老中から罷免
    →老中再任したぜ、井伊よ、尊王倒幕志士弾圧はあんまり…
    →再び老中を罷免→再々々老中だぜ→在職1ヶ月で辞職
    →再々々々老じゅ…→話がまとまらないうちに死亡
太田資春→水戸家老、諸生派……

なんか惜しいぜ、太田氏
0029人間七七四年
垢版 |
2016/09/27(火) 06:54:38.91ID:84AfnlQb
1590年、私達内田氏の先祖は、板倉勝重とともに江戸へ入った
0030人間七七四年
垢版 |
2016/09/29(木) 16:31:31.67ID:9pZB2dqH
板倉勝重のじいさんが蕨城(東京ではないが埼玉最南部)の城主で
おじさん系統が継いで北条傘下に、武蔵千葉や江戸太田の所領近辺。
ひいじいさんは渋川義鏡
庶流が板倉

本人は愛知三河出身だし、蕨は東京じゃないけど
武蔵国新座郡、豊島郡に1000石をもらって、関東代官、江戸町奉行
だしギリ戦国東京関連武将かな
0031人間七七四年
垢版 |
2016/10/05(水) 20:33:48.39ID:5ZMvKMJp
牛込勝行→子の勝重が幕府旗本、子孫は長崎奉行の牛込重忝
0032人間七七四年
垢版 |
2016/10/13(木) 08:56:11.30ID:vq34zxoh
季龍周興
0033人間七七四年
垢版 |
2016/10/14(金) 00:22:59.26ID:T/J/X29e
太田資正はあえて抜いてるの?
0034人間七七四年
垢版 |
2016/11/08(火) 23:05:05.22ID:s7g+3YHI
島津忠貞…島津貴久の義伯父
流れて北条に。島津孫四郎が東京
0036人間七七四年
垢版 |
2016/12/13(火) 15:02:04.73ID:rZzXIi2a
上杉憲幸、長崎重光、師岡将景、布施出羽守、
仙波次種、由木左衛門尉、田村安清、山口高忠
山口氏は埼玉だったかな

って東京の無名武将に興味ある奴なんていないだろ
0039人間七七四年
垢版 |
2016/12/17(土) 00:18:47.49ID:uSyasDcA
里見八犬伝
犬塚信乃⇒武蔵大塚生まれ
犬川荘助→伊豆生まれ⇒武蔵大塚
犬山道節⇒武蔵国豊島郡生まれ
犬飼現八→安房洲崎生まれ→実父の糠助⇒武蔵大塚
犬田小文吾→武蔵国で船虫、犬坂毛野と出会う…w
犬江親兵衛⇒葛飾郡市川生まれ
犬坂毛野⇒武蔵千葉氏の重臣・粟飯原胤度の妾の子
犬村大角はなし。

ついでに曲亭馬琴は江東区出身
0041人間七七四年
垢版 |
2016/12/18(日) 02:25:04.01ID:lQLV3E1E
>>37
三楽斎も豊島郡の石浜宗泉寺、
荏原郡の品川本光寺、同妙国寺に制札発行してるよん。

あんまり話題にならない&関係ないけど太田資正の三男で家督を継承した
太田安房守資武は結城秀康に仕え、松平忠直のもと大坂夏の陣の
越前勢の軍奉行をしたよん
案外幸村のライバルかもよん
あぁあと松平忠直の弟の松平忠昌は徳川頼房と振姫と共に
英勝院の猶子となってるよん、重正の子である太田資宗は養子だよん
やるね太田氏
0043人間七七四年
垢版 |
2016/12/20(火) 11:46:39.81ID:nbLU2yoV
たしか旗本でその周辺の領地も持ってた人たち
中山照守横田尹松大岡清勝藤枝重家大久保長重
0044人間七七四年
垢版 |
2016/12/20(火) 23:16:21.16ID:ALWYXyzi
講談・軍記でしか確認出来ない非実在武将ばっか
0045人間七七四年
垢版 |
2016/12/21(水) 06:53:08.71ID:sBTGhJMQ
吉良成高
0046人間七七四年
垢版 |
2016/12/23(金) 10:51:57.28ID:DJsL5sWS
東京周り
八条兵衛尉景光(惟茂)…埼玉県八潮市八條、渋江氏の末裔
           葛飾郡の新方次郎太夫頼希と争う
伊達房実…太田氏、後北条氏の家臣。
     徳川氏に召し抱えられ江戸三番町角屋敷と
     武蔵国足立郡(埼玉県さいたま市見沼区)250石を与えられた。
伊奈忠治…武蔵小室藩主伊奈忠次の次男。
     関東代官職
     武蔵国赤山(埼玉県川口市赤山)
高城胤吉…千葉県松戸市
     葛飾郡東部一帯を支配
0047人間七七四年
垢版 |
2016/12/23(金) 10:52:33.64ID:DJsL5sWS
話はそれて、なんとなく東京って府中市の国府の影響圏と
国府台の国府の影響圏の間(当たり前に今は地理的に
府中市を中心とした東京なんだけど)だと勝手に思うんだけど、
だから国府台とかものすごく魅力的で、明戸古墳とかいいよね
スレチかな
00481
垢版 |
2016/12/24(土) 06:59:09.23ID:PmZ5Nwec
古くはレジェンド東京”武蔵武芝”や ”大伴宮足”、
時は過ぎて、その後の”戦国時代”、
武蔵国などの内の多摩郡、荏原郡、豊嶋郡、足立郡、葛飾郡
に関連が深い東京武将たちを語り合いたい。
1千葉胤利
2三田綱秀
3吉良頼康
4太田康資
5大石定久
6宇田川定氏
7宮城政業
8牛込勝行
9板橋親棟
控え
太田資正、豊島康保、豊島胤定、板橋忠康、小田朝家、小山田弥三郎、
平山氏重、渋川義基、舎人経忠、舎人孫四郎、梶原助五郎、
上杉憲幸、長崎重光、島津孫四郎、伊達房実etc.
the北条
北条綱高、北条康種、高橋氏高、高橋高盛、南条重長、
遠山綱景、富永直勝、高城胤吉、行方直清etc.
the徳川
板倉勝重、豊島信満、伊奈忠治etc.

少し修正しました。
よろしくどうぞ。
0049人間七七四年
垢版 |
2016/12/25(日) 21:32:36.60ID:kZPo/Fsj
武将じゃないけど
江戸の三甚内
・高坂甚内…風魔小太郎のライバル
・庄司甚内…吉原の仕切
・鳶沢甚内…江戸の古着商
0050人間七七四年
垢版 |
2016/12/26(月) 11:07:13.10ID:7NZ3t+al
>>26
葛西氏っておいやられたとき残った庶流とかいなかったのかな?
0051人間七七四年
垢版 |
2016/12/27(火) 13:22:10.19ID:0f9BXryZ
後北条がもっと評価されれば注目があがる人もいるかもね
0053人間七七四年
垢版 |
2016/12/27(火) 13:34:45.60ID:vg6mAgeR
>>50
奥州の葛西氏なら大きくわけて2通り
・伊達に割といい身分で仕官できた連中。
・葛西大崎一揆で戦死もしくは謀殺。
割といい身分で伊達家臣となったか、一揆で死んでるので流浪派は少数
0054人間七七四年
垢版 |
2016/12/27(火) 21:24:32.12ID:0f9BXryZ
>>53
横からだがたぶん豊島氏から別れたての奥州行く前の葛西氏だと
思うぞ。葛飾に残らなかったのかという
0056人間七七四年
垢版 |
2016/12/29(木) 23:57:58.08ID:G4wI8JCA
徳川家康
0057人間七七四年
垢版 |
2016/12/30(金) 02:46:24.31ID:EO8QJMuB
安得虎子の新たな原本の話が他スレでも話題になってるけどさ、
安得虎子は後北条氏の書出写とかなんてのもあって
このスレも恩恵を受けれるかもね
0058人間七七四年
垢版 |
2016/12/30(金) 02:50:10.09ID:ZBs/ns1R
まあ今の東京なんて地方出身者の集まりなんだから気にするな
0060人間七七四年
垢版 |
2017/01/03(火) 10:44:44.28ID:f2jRCnD7
【無名】吉田兼見の武将たち【知りたい】
0061人間七七四年
垢版 |
2017/01/03(火) 10:45:34.61ID:f2jRCnD7
誤爆
0063人間七七四年
垢版 |
2017/01/04(水) 07:58:28.67ID:kSglKqaf
北条氏照
0064人間七七四年
垢版 |
2017/01/05(木) 01:00:12.45ID:ayylq4V2
本田正勝… 太田康資家臣。葛西城を少数の忍と共に奪う。
(またはその子正家)
葛西城とは(大石→道灌・扇谷→北条→太田資正→北条→徳川)
下総に対して重要な城。

小田原衆所領役帳
赤沢千尋… 太田康資家臣。江戸衆。
恒岡弾正忠… 江戸衆。
竜崎文四郎
平塚藤右衛門
中村平次左衛門
中田藤次郎

あと牛込氏って大胡氏と江戸氏がいるのね
0065人間七七四年
垢版 |
2017/01/06(金) 03:30:15.76ID:575IFeYh
亀戸の小曽川小五郎
0066人間七七四年
垢版 |
2017/01/07(土) 00:43:33.29ID:VP2hZU+5
吉良成高
享徳の乱の時代、扇谷上杉持朝の女を妻とし、太田道灌と共に活躍。
「吉良閣下」、「吉良殿様」と呼ばれた。

吉良頼康
北条氏綱の娘を妻に迎える。
鶴岡八幡宮の造営に吉良頼康も協力した。このときの支援規模から
吉良氏の財力が相当なものであったことが分かる。
頼康もまた「吉良殿様」などと呼ばれる。
頼康は1560年に家督をゆずるまで北条に取り込まれながらも独立し、
かつほとんど戦をしない珍しい戦国大名である。

喜多見勝忠
吉良氏家臣、武蔵江戸氏。
小田原征伐後、徳川の家康の家臣となり改姓。
その後功績を重ね、孫の喜多見重政が喜多見藩主に。
(幕府の足元である江戸郊外、現在の東京23区に該当する地域内に
本拠地となる藩庁が設置されていた数少ない藩。)
0067人間七七四年
垢版 |
2017/01/07(土) 02:25:27.65ID:/WKBP1cO
牛込勝行の父大胡重行っていうか大胡氏って
わちゃわちゃしてるよねw
上泉信綱の上泉氏に、同じ一族の益田氏、
長野業正を輩出した上野長野氏やキタ条氏も絡んでくるし、名乗るし
その名の大胡城も城主が入ったり出たりで忙しいw
0068人間七七四年
垢版 |
2017/01/07(土) 02:56:47.69ID:0pPOf8V6
やっぱりキーパソンは太田資正だろ。
大石は義父、宮城は家臣、三田、康資は資正のもとへ逃げ込み。
武蔵千葉は石浜関連で絡んでるだろうし。
ここからはムリクリ……
宇田川は主君扇谷……吉良は道灌関係………牛込は…太田資清の連歌会で
………大胡氏が…やっぱ無理だな。
板橋親棟は……存在自体知らん。
でもキーパソンは太田資正だな。
0069人間七七四年
垢版 |
2017/01/07(土) 07:13:14.68ID:NR6fYET2
>>68
キーパソンってなんだよ
さておき確か大胡重行は扇谷上杉家臣だったはず
0070人間七七四年
垢版 |
2017/01/08(日) 02:53:37.87ID:5ELcz8G2
江戸の浅草鍛冶 近藤万栄
0071人間七七四年
垢版 |
2017/01/09(月) 10:31:10.61ID:jTTmZB0o
水を差すようで悪いが、「武蔵」は当時としては小説上のみに存在する国名。関東甲信越は甲斐と信濃しかなかったと思う。
現東京都は江戸時代の初めはほとんど人がいなかったと思う。あと、高橋とか明治時代のフリー苗字。北条は存在しない。「○田」は「○畳」の変え名字で「○畳」で意味が通じなかったら完全に偽物。
それと、武畳(今の武田)の熱心な配下。ちなみに京都に存在する名字「東条」は「武畳」が小説上で「むじょう」と呼ばれる頃の創作苗字。
他、出鱈目だらけ。解説略。
0072人間七七四年
垢版 |
2017/01/09(月) 16:42:44.31ID:Ia0FFLi9
>>71
その小説売れるといいな。映画化されたらまた情報くれ。
0073人間七七四年
垢版 |
2017/01/09(月) 22:19:16.64ID:yccpbZTN
北条綱高
父に高橋高種、弟に高橋氏高とされる。子に康種。
北条五色備の赤備え。
牟礼(三鷹市)に砦を構える。
江戸城城主も務めた。

北条康種
母は南条重長の妹。子に北条氏資(高橋種資)。

高橋種資
母は太田資重の娘。父ともに牟礼に移住し、その地を開墾。
諸々あり福島正則に従って関ヶ原の戦いに参戦。
最後はまた牟礼に帰郷した。

高橋氏高
烏山(世田谷)に砦を築く。
氏直に従い高野山に入山、氏直の死後に
帰郷し、武州烏山の砦に住む。

綱高、氏高の父の高橋高種は高橋長種の兄で、長種は高橋鑑種を養子にし、
その後高橋鑑種が家督を剥奪されると高橋紹運が名跡を引き継いだ。

南条重長
北条氏康から兎々呂城と深沢郷(世田谷区)に所領を与えられ、
その地に深沢城を築城。
元々この地は吉良氏の重臣、大平清九郎が領主であったが
永禄初期に氏康の直臣になり南条氏が入部した。
0074人間七七四年
垢版 |
2017/01/10(火) 07:20:10.62ID:UqmJgDsb
>>16
>>船橋に夏見豊島勘解由左衛門尉胤定の記録もある。

たしかそこら辺に千田千葉氏がいたはずだから、通字の「胤」も使われてるし
…と思って地図見たら同じ船橋でも遠かったわ。でも千葉氏関係だと思われ
0075人間七七四年
垢版 |
2017/01/10(火) 20:06:07.61ID:Z/gkknS1
北条綱高(爆笑)五色備(大爆笑)
007675
垢版 |
2017/01/13(金) 22:00:24.43ID:A517aVsJ
我ながら酷いレスしたもんだ

南条氏って一次史料では北条氏規の家臣じゃないっけ
0077人間七七四年
垢版 |
2017/01/14(土) 00:08:26.89ID:Yy4kK1IG
重長は北条分限帳だと伊豆衆みたいだよ
南条昌治披露状の南条昌治は北条氏規の家臣みたい
三崎衆とは別なんじゃないかな?
0078人間七七四年
垢版 |
2017/01/15(日) 21:39:22.22ID:oyCmQErX
堀江重次
0079人間七七四年
垢版 |
2017/01/15(日) 21:56:56.67ID:u37d23sJ
古河公方足利氏の本城は古河城、扇谷上杉氏の本城は河越城
山内上杉氏の本城は平井城、宇都宮氏の本城は宇都宮城
小山氏の本城は祇園城、那須氏の本城は烏山城
佐竹氏の本城は太田城、小田氏の本城は小田城
結城氏の本城は結城城、千葉氏の本城は本佐倉城
三浦氏の本城は岡崎城

つまり戦国時代までは

茨城>群馬>埼玉>栃木>千葉>神奈川>>>>>東京
0080人間七七四年
垢版 |
2017/01/16(月) 00:51:37.50ID:cqTzK/3v
>>77

あと南条氏って小田原衆にもいたんじゃなかったか?
0082人間七七四年
垢版 |
2017/01/18(水) 19:22:40.21ID:s0jpaYpO
会田幸久が小笠原長時→太田資正→北条氏康の家臣で江戸衆。
0083人間七七四年
垢版 |
2017/01/19(木) 22:13:33.10ID:Ql3Ou/+R
>>79
古河城と祇園城って北条氏照の管理下じゃん
0084人間七七四年
垢版 |
2017/01/20(金) 00:34:10.37ID:zx68aZaq
埼玉マンセー!
0085人間七七四年
垢版 |
2017/01/20(金) 01:33:06.93ID:bnKLPTNS
群馬>神奈川>茨城=栃木>埼玉>東京>千葉

>>79はつまり戦国時代まではと言ってるが
永享の乱、享徳の乱をあんまり意識してない気がする
あと東京の府中と品川湊、特に品川湊は割と誰もが押さえようする
重要拠点だよ、だから鎌倉府、上杉氏ともども押さえてる
千葉は安房里見氏は戦国からだし
下総千葉氏は一応公認当主は台東石浜で
下総自体は岩橋さんに乗っ取られたり崩壊してる
0087人間七七四年
垢版 |
2017/01/20(金) 23:05:20.14ID:U/8fXR9+
長井広直
0088人間七七四年
垢版 |
2017/01/21(土) 00:51:50.06ID:BN7qbKuM
平山氏重
武蔵七党のうち西党の一族。父政重は山内上杉氏、後に
後北条に属していたと思われる。
先祖が築城した檜原城の城主。
同族の平山光義は関東幕注文で上杉謙信についている。

小田朝家
父は小田氏治の兄、小田朝治。
朝治は小田家を出奔し、北条家を頼り北条氏照に仕えたという。
朝家は北条家滅亡後に松平忠吉に仕えた後、水戸頼房の家臣になったという。
北条に小田野城を任された小田野源太左衛門というものがいて経歴が似ていて
後に名を小田源左衛門と改めている。
朝家は小田源太左衛門なので同一人物の可能性がある。

小山田弥三郎
成瀬城があった地域に北条から他国衆で知行していた。
武田信玄の家臣の小山田信茂の兄で同じく家臣の小山田弥三郎信有がいる。
なぜ武田信玄の家臣が北条から知行していたか、または別人か
不明な点も多い。
0089人間七七四年
垢版 |
2017/01/21(土) 21:08:43.80ID:PGVqSqVv
>>64
本田は康資の家臣ではなく葛西城を手土産に
北条の家臣になったって説もあるね。
0092人間七七四年
垢版 |
2017/01/22(日) 09:00:36.33ID:bSkzXbyE
武蔵千葉氏か、自胤以降に詳しい人いる?
守胤は実胤の子で臼井氏の養子なったとか
胤利=憲胤で「憲」の字を山内上杉氏からの偏諱を受けているとか
0093人間七七四年
垢版 |
2017/01/22(日) 14:46:20.30ID:oQQzR6W0
朝倉兵次郎
0094人間七七四年
垢版 |
2017/01/23(月) 01:00:06.76ID:DQV7urWa
臼井守胤ってあまり聞かないけど…
千葉から養子として来た臼井持胤のことか?
それとも完全に別家か
0095人間七七四年
垢版 |
2017/01/23(月) 08:09:08.05ID:LFgt0FEz
いや持胤にも似てるんだけど
臼井系図で教胤(持胤の義父)の実子の俊胤の子に守胤がいるらしい
なぜか下総千葉親胤と法名と「武蔵国石浜の総見寺には家臣の砂尾修理が
守胤(または親胤)をまつるために千葉塚を建立した」ってエピが
一緒なんだとか
ただ親胤で石浜っておかしいしね
あと千葉胤富の子の千葉良胤も武蔵千葉氏と
混同されてる可能性があるみたいよ
0096人間七七四年
垢版 |
2017/01/23(月) 21:35:42.27ID:UeE88fvF
中条出羽守
北条江戸衆
多摩郡府田郷(調布市)274貫30文所領

中条(ちゅうじょう)出羽守と言えば北条の旧臣に中条出羽守持胤がいる
樋口信孝の母が持胤の娘であり、今上天皇のご先祖さまにあたる
0097人間七七四年
垢版 |
2017/01/24(火) 06:53:20.08ID:3Rz1BAZA
ちゅうじょう出羽守は本姓小野で八田(小田)氏の養子になった中条出羽守の後裔では
0098人間七七四年
垢版 |
2017/01/24(火) 09:09:28.94ID:uqBXj0VH
宇喜多秀家あぼーん名誉八丈島人
0099人間七七四年
垢版 |
2017/01/24(火) 11:13:45.35ID:raO+vuxV
家長だよね、藤原中条。
関東にも残った一族もいたようだよね。
01001
垢版 |
2017/01/24(火) 12:39:49.54ID:IQRowW5t
古くはレジェンド東京”武蔵武芝”や ”大伴宮足”、
時は過ぎて、その後の”戦国時代”、
武蔵国などの内の多摩郡、荏原郡、豊嶋郡、足立郡、葛飾郡
に関連が深い東京武将たちを語り合いたい。
1千葉胤利
2三田綱秀
3吉良頼康
4太田康資
5大石定久
6宇田川定氏
7宮城政業
8牛込勝行
9板橋親棟
控え
太田資正、本田正勝、喜多見勝忠、島津孫四郎、小田朝家、
小山田弥三郎、中条出羽守、豊島康保、豊島胤定、板橋忠康、
平山氏重、渋川義基、舎人経忠、舎人孫四郎、
梶原助五郎、上杉憲幸、長崎重光、伊達房実etc.
the北条
北条綱高、北条康種、高橋氏高、高橋高盛、南条重長、
遠山綱景、富永直勝、高城胤吉、行方直清etc.
the徳川
板倉勝重、豊島信満、豊島忠松、伊奈忠治、大岡忠真etc.

少し修正しました。
よろしくどうぞ。
0101人間七七四年
垢版 |
2017/01/25(水) 09:43:44.01ID:SaEoPi8s
小田原衆所領役帳なら
東京都港区飯倉で御馬廻衆の大草左近大夫康盛と
江戸衆の飯倉弾正忠、島津孫三郎
0102人間七七四年
垢版 |
2017/01/26(木) 09:22:06.00ID:qLrSWmfM
間宮綱信、梶原日向守、立川照重、斉藤政賢、細谷資道、
関兵部丞為清、山中内匠助頼次、伊丹右衛門大夫康信、
長井駿河守忠実、近藤出羽助実、小幡勘解由左衛門政勝、
桑原右京亮、上原出羽守、山下治部少輔、蒲田助五郎、
横地監物吉信、狩野一庵、金子三郎右衛門家重、貴志兵部正成、
青木内記庄右衛門、来住野善二郎、藍原孝遠、佐伯道永、有山源右衛門、
永島八兵衛、中島源右衛門、石川土佐守、島崎二郎、
柴田勝重、岡部小二郎
0104人間七七四年
垢版 |
2017/01/27(金) 11:29:54.10ID:hjqzefXG
太田真清、中条景信、河村弥次郎、小菅信久、興津甚次郎、
越智影好、森康秀、小野兵庫、田中助八郎、窪寺大蔵、平川左衛門、
蔭山大膳、山下治部、鴇田新三郎、牟久新次郎、小日向弥三郎、
綾部惣四郎、吉原新兵衛、石井兼実、萩野九郎三郎、良知弥次郎、
林光政
0106人間七七四年
垢版 |
2017/01/29(日) 13:17:32.73ID:3Mxcdo8S
そういや安得虎子はなにか新情報でた?
個人的には六郷殿呼ばれたのは
上杉憲幸か蒲田致重なのかわからねぇかな
0107人間七七四年
垢版 |
2017/01/29(日) 22:51:03.46ID:NlY4A7np
上杉憲幸って実在しないじゃん
0108人間七七四年
垢版 |
2017/01/30(月) 12:29:24.90ID:EmIL/nWm
でもそれはそれで六郷「殿」や「殿」町の家格に見合う人物が
謎なんだよなぁ
0109人間七七四年
垢版 |
2017/01/30(月) 21:10:18.79ID:7pRdA7vg
所領役帳に殿と書かれてる人物に特別な格ないような気がする
0111人間七七四年
垢版 |
2017/01/31(火) 11:43:31.04ID:VZ/cxN3B
じゃあ気分で敬称をつかったのか?
0112人間七七四年
垢版 |
2017/01/31(火) 20:47:10.92ID:OEKRqhRU
所領役帳で殿と書かれてる人物
北条一門
六郷殿(小田原衆)
武田殿(江戸衆)椎津武田氏
大森殿(江戸衆)
千葉殿(江戸衆)武蔵千葉氏
宅間殿(御家門方)宅間上杉氏
0113人間七七四年
垢版 |
2017/01/31(火) 20:53:05.69ID:OEKRqhRU
ちなみに
葛西様(御家門方)足利義氏
0114人間七七四年
垢版 |
2017/01/31(火) 21:13:36.48ID:OEKRqhRU
江戸、川越、入東郡、入西郡、高麗郡、葛西、六郷、稲毛、久良岐、小机、三浦、東郡、中郡、西郡、豆州
所領役帳は郷村が国・郡・領で識別されてるけど
六郷という地域に後世には伝わっていない戦略的な価値があったんだろうか
0115人間七七四年
垢版 |
2017/01/31(火) 23:04:35.82ID:VZ/cxN3B
もしかしたら品川湊とは別に重要な湊があったとかかな
今は京浜港だし、あとは吉良氏、江戸氏の抑えとか?
まぁ六郷殿が江戸氏なら抑えも何もないけど
0116人間七七四年
垢版 |
2017/01/31(火) 23:31:31.14ID:e2kZyPqM
六郷って今の六郷とは別のところなん?
0117人間七七四年
垢版 |
2017/02/01(水) 00:15:42.01ID:0imBfARA
三郷
0118人間七七四年
垢版 |
2017/02/01(水) 14:39:09.21ID:THsE+mxy
>>116
変わらないと思う。大田区の南のあたりで東京と神奈川の県境。
多摩川(六郷川)の河口の近くだと思う。
0119人間七七四年
垢版 |
2017/02/01(水) 22:03:59.94ID:V5YYYWdl
大田区の区名の元になった大森・蒲田を含んだほぼ大田区全域
0120人間七七四年
垢版 |
2017/02/02(木) 00:42:03.82ID:gALwa/aU
港と言えば小田原征伐で江戸朝忠が下田城に援軍としてだされたのは
吉良氏の海賊衆みたいなものだったからみたいだね
0121人間七七四年
垢版 |
2017/02/03(金) 21:07:14.67ID:HiDEp7M6
グーグルって便利だな
永正年間の山内上杉氏の家臣に六郷左衛門大夫という人物がいるようだ
この六郷左衛門大夫は書札礼の種本(足利政氏や佐竹殿庶子に対する書札礼)を所持していて
近藤山城入道(近山)がこれを書写して里見家の書札礼(里見家永正元亀中書札留抜書)を補ったらしい
所領役帳の六郷殿は六郷左衛門大夫の子世代だろうか
上杉氏や里見氏のスレで詳しい人に聞くといいかも
0123人間七七四年
垢版 |
2017/02/03(金) 21:42:29.19ID:j4pcFBvZ
>>121
六郷氏自体は蒲田氏と同じく武蔵江戸氏の分家にいます。
ただ六郷殿がそのまま六郷氏かはわかりません。
0124人間七七四年
垢版 |
2017/02/03(金) 22:32:29.18ID:HiDEp7M6
この六郷左衛門大夫って蒲田氏じゃないでしょ?
0125人間七七四年
垢版 |
2017/02/04(土) 08:58:50.06ID:O8Mioam5
たぶん六郷冬重の子孫かな
0126人間七七四年
垢版 |
2017/02/04(土) 20:35:33.66ID:jBhdDxyj
誰それ
0127人間七七四年
垢版 |
2017/02/04(土) 20:58:58.64ID:jBhdDxyj
中田加賀守
小机衆。「所領役帳」では小机川島11貫550文・同矢上3貫870文の計15貫420文を知行。
1572年11月、雲松院の寺領鳥山の検地奉行(中田加賀守)

中田加賀守(〜1590)
足利義氏の奉行、のち小机衆。修理亮か。
1564年5月、公方奉行として野田氏への所領引き渡しに立ち会う(中田修理亮)
1581年カ4月、北条氏光の指示で星川氏に米一人扶持を支給(中田修理亮)
1585年9月、小机領恩田郷の検地奉行(中田加賀守代柴崎但馬)
1590年3月、上丸子郷と沼部郷の境界相論に小机衆の検使として立ち会う(中田加賀)
1590年6月、没(随流院墓碑「昌久道繁居士・天正十八庚辰六月十五日、俗名中田加賀守」)

中田藤左衛門(〜1635)
加賀守の次男という。北条氏の滅亡後帰農し子孫は代々小机領川島村の名主。
1635年6月、没(正観寺墓碑)

中田藤次郎
江戸衆。「所領役帳」では稲毛子母口15貫180文を知行。

中田彦七郎
江戸衆。太田康資の寄子。「所領役帳」では康資知行から稲毛鹿島田借宿2貫500文・同小田中1貫200文の計3貫700文が中田某に給されている。
1561年8月、北条氏尭によって稲毛庄木月郷の彦七郎らの所領が市野氏に与えられた(中田彦七郎幷賀藤分)
0128人間七七四年
垢版 |
2017/02/04(土) 21:17:16.30ID:jBhdDxyj
興津加賀守
江戸衆。「所領役帳」では江戸落合20貫570文・同桜田30貫700文・同小日向12貫946文の計64貫216文を知行。

興津甚兵衛尉
足利義氏の奉行。「所領役帳」で東郡葛原10貫文の知行に加え御蔵出14貫文を給されている興津殿か。
1564年5月、公方奉行として野田氏への所領引き渡しに立ち会う(興津甚兵衛尉)

興津右近
1562年4月、葛西城攻略で武功を挙げ北条氏政より感状を賜わる(興津右近)

興津加賀守
江戸衆。
1590年3月、上丸子郷と沼部郷の境界相論に江戸衆の検使として立ち会う(興津加賀)
0129人間七七四年
垢版 |
2017/02/04(土) 21:43:42.01ID:jBhdDxyj
中田藤次郎(1559年頃)→中田修理亮(1564年〜81年頃)→中田加賀守(1585年頃〜)もあるか
0130人間七七四年
垢版 |
2017/02/05(日) 02:08:59.38ID:yiR4w80d
>>126
六郷四郎冬重は江戸重長の子(この重長は重継の子の江戸氏二代目の重長
とは別人、たぶん三代目忠重のこと、Wikiでは七代目)
兄弟に江戸太郎重盛、木田見次郎武重、丸子三郎家重、柴崎五郎重宗、
飯倉六郎秀重、渋谷七郎元重がいる
六郷氏の祖

蒲田氏
江戸正長の子、蒲田忠武が祖
御北条時代は蒲田致重や孫の重武

応永の頃に紀州熊野神社の御師が書き留めた「武蔵国江戸氏書立」では
六郷殿から始まり、蒲田、飯倉……と続く
この頃は江戸氏の宗家は力を失い、支流が台頭している
さらに後北条時代は蒲田氏が強く活躍している

上杉憲幸、氏幸親子
上杉憲幸は山内上杉氏のもとで武蔵北蒲田にあった城の城代を
務めていたという、妙典寺過去帳の当寺大旦那上杉六郎殿とある
氏幸は御牢人と記されるため、名ではなく敬称の六郷殿と
記されたとされる、ただし二人とも上杉系図にはいない
0131人間七七四年
垢版 |
2017/02/06(月) 06:09:13.92ID:CaptM42J
でも六郷ってほとんど行方氏が知行してね
まぁこの行方氏も羽田に鎌倉時代からいるだの、山内上杉が常陸から
連れてきただの、扇谷上杉家臣だったの、玉縄にいただの…
ただ行方淡野守幸松が享徳の乱で上杉から感状がでてるみたいだから
北条からって感じではなさそうだけど、客分だし案外六郷殿&
上杉憲幸関連かもね
>>114
六郷神社なんかは平安時代からみたいだし、府中や八王子関連で羽田浦
(蒲田浦)はそれなり栄えてたようだ
あと行方氏は羽田水軍で玉縄衆
0132人間七七四年
垢版 |
2017/02/08(水) 10:37:39.74ID:LMet2IRC
島津孫四郎は永久になるん?
0134人間七七四年
垢版 |
2017/02/09(木) 12:32:07.89ID:1MjvOYtN
八丈島
朝比奈六郎知明
朝比奈孫太郎泰知
朝比奈泰寄

板部岡江雪斎
0135人間七七四年
垢版 |
2017/02/09(木) 21:43:39.91ID:C3wZqwXd
太田康資の寄子入れたら収まった

興津加賀守
江戸衆。「所領役帳」では江戸落合20貫570文・同桜田内平尾方30貫700文・同小日向方12貫946文の計64貫216文を知行。

興津加賀守
江戸衆、太田康資の寄子。右近丞。「所領役帳」では康資知行から江戸下渋谷6貫500文が奥津方に給されている。
1562年4月、葛西城奪取の功で北条氏政より感状を賜わる(興津右近)
1562年カ8月、北条氏政に家屋敷等を安堵される(奥津右衛丞)
1590年3月、上丸子郷と沼部郷の境界相論に江戸衆の検使として立ち会う(興津加賀)

興津甚兵衛尉
足利義氏の奉行。「所領役帳」で東郡葛原10貫文の知行に加え御蔵出14貫文を給されている興津殿か。
1564年5月、公方奉行として野田氏への所領引き渡しに立ち会う(興津甚兵衛尉)
0136人間七七四年
垢版 |
2017/02/09(木) 23:04:01.06ID:acEMScLM
興津良信
どれかの加賀守の子、1542年生まれ、小田原籠城
子の良次は伊奈忠次に仕えた

太原雪斎の母が興津正信の娘で…
興津氏って今川から流れてきてるのね
0137人間七七四年
垢版 |
2017/02/09(木) 23:16:17.87ID:IJLtsXvW
ヤン・ヨーステン・ファン・ローデンスタイン
日本名は耶楊子
耶楊子→八代洲→八重洲
東京八重洲の語源だと
1600年に豊後に漂着

三浦按針じゃない方w
0138人間七七四年
垢版 |
2017/02/10(金) 00:22:36.55ID:UmVF2iEc
タイトル見て長尾景春の乱あたりの話ばっかかと思ったら
違って草
0139人間七七四年
垢版 |
2017/02/10(金) 22:37:57.12ID:S9NV2W/g
興津良信(甚左衛門)
興津良次(角左衛門)
検索したらぽんぽん出てきて「おぉ!」て思ったけど
>興津彦十郎(今川義元に仕へ桶狭間合戦に討死)―加賀守(今川氏に仕へ駿州興津に居る、其後北条氏に従ひ江戸城を預かる)―良信(小田原籠城す)
系図がこれだと信憑性低いかなあ
1610年に現役で幕府代官を勤めている甚左衛門良信が1542年生まれの68歳っていうのもどうかと
仮名の甚左衛門は加賀守より甚兵衛尉の縁者っぽいかな
0140人間七七四年
垢版 |
2017/02/13(月) 21:34:52.59ID:+xceZft9
寛永諸家系図伝の編纂過程であるとか所領役帳が世に出る前に作られた系図だと
桶狭間以前から北条氏に仕えていた興津加賀守は知られてなかったのかも
0141人間七七四年
垢版 |
2017/02/15(水) 22:07:34.71ID:ghJ70WyL
 幕臣興津氏(1610年より前に幕府に仕えた)
系図「興津彦十郎(今川義元に仕へ桶狭間合戦に討死)―加賀守(今川氏に仕へ駿州興津に 居る、其後北条氏に従ひ江戸城を預かる)―良信(小田原籠城す)」

 尾張藩士行方氏(尾張藩の前身の忍城主松平忠吉に仕えた)
系図「原信濃入道朗意(文明二年八月武州水判土にて逝去)……妹尾下総守蓮意(秀吉之軍と戦ひ武州岩築城二之丸戦死)―妹尾三河守(越前秀康君奉仕、法名信行院殿蓮頂日受)、弟行方修理大夫(武州荏原郡六郷之城主、北条氏政に属す)」

 相馬藩士蒲田氏(1614年より前に土井利勝に仕えたのち相馬藩士となる)
系図「江戸四郎重継後裔江戸新五郎致重武州六郷蒲田に住す 、故に氏を蒲田と称す」「致重(下総守)ー定重(下総介)ー重武(左京亮)ー重吉」
妙典寺墓碑「蒲田下総守致重入道重蓮墓碑・慶長十三年三月二日卒・年九十余。五世孫兵庫重行謹建・元禄十二年五月二日」

 上杉憲幸
妙典寺過去帳「大旦那六郷殿・清天院朗忠日杉・天文十二年壬子十月十四日」

高野山高室院にあった所領役帳が書写して持ち出されたのが1692年(元禄5)だから
これより前に子孫を称した者たちが所領役帳にしか見られない興津氏や六郷殿を知らないのも無理はないんだな
上杉憲幸・氏幸の過去帳が1692年以前に書かれたものなら六郷殿の信憑性高いんじゃない
0142人間七七四年
垢版 |
2017/02/17(金) 14:14:18.02ID:8qa7OSF2
>>2
東京武士の流れ

笠原直小杵(国造一族)が南武蔵(亀甲山古墳や芝丸山古墳など)
に拠点。その後、武蔵国造の乱で敗北。
→多氷屯倉(武蔵国多摩郡)が朝廷直轄領に。
→无邪志(むさし)と知々夫(ちちぶ)の領地が合体。
武蔵国多摩郡(府中市)に国府設置。
→武蔵武芝(足立郡司)

支配 武蔵武芝→平将門→平将恒→(※)
→☆豊島氏・★江戸氏・△他→扇谷上杉・太田道灌
→後北条→徳川

※鎌倉幕府&鎌倉公方&関東管領
平将恒→平直方・源頼信・頼義(平忠常の乱、頼信平氏に婿入り)
☆豊島氏は源頼義・義家に従う
★秩父重継が後三年の役の後、武蔵江戸郷を領す
→源為義(義家次男の子)
為義は嫌疑の義忠叔父の義綱を捕縛、京へ(義家の三男義忠暗殺事件)
→源義朝(父為義とは逆に東国に下向)・藤原頼信(武蔵守、
嫡男信親と平清盛の娘が婚姻、義朝・義平とも近づく)
→源義平(義朝長男、義朝は上洛)vs源義賢(義為三男)
☆保元の乱で源義朝の配下に豊島四郎
★義平が義賢とその舅の秩父重隆(秩父重継の兄)を討ち取る
△平山季重が義朝軍
→源頼朝(義朝三男、清盛によって義朝、義平、藤原頼信が討たれる)
☆豊島氏は頼朝に仕えた
★江戸氏は初め対立するが最後は畠山氏、河越氏と共に帰伏する
 その後、江戸重長が武蔵の在庁官人や諸郡司を統率して国の諸雑事を
 沙汰する権限を与えられた。
0143人間七七四年
垢版 |
2017/02/17(金) 14:14:39.51ID:8qa7OSF2
→北条・畠山
☆承久の乱に幕府軍に豊島九郎小太郎、豊島十郎
★畠山重忠の乱で幕府方として参加
→足利尊氏・義詮・基氏・高師直・畠山国清
☆豊島重径、家信が北条仲時とともに自刃
☆★豊島氏、江戸氏など足利義詮の合流に伴って鎌倉攻めに参加
→足利直義・足利基氏・氏満・上杉憲顕・能憲・上杉朝房
☆★武蔵平一揆に参加
→足利氏満・足利満兼・上杉朝宗・上杉憲定
→足利持氏・上杉憲基vs犬懸上杉禅秀
☆★上杉禅秀の乱で豊島氏、江戸氏は足利持氏に味方
★水戸地方に江戸氏の所領が給付
△平山三河守正恭が公方方として活躍
→足利持氏vs上杉憲実(幕府)
☆結城合戦で小幡豊前守の首を豊島大炊介が取る(上杉方)
★結城合戦で江戸八郎の首を長井六郎が取る(結城方)
→上杉憲忠/扇谷上杉持朝・長尾景仲vs足利成氏
☆豊島弥三郎、豊島左近将監が戦功を挙げている
★江戸の地は江戸氏が去った後に太田道灌が進出(江戸氏没落)
→上杉房顕・顕定・扇谷定正・堀越足利政知・渋川義鏡・犬懸教朝
(上杉定正vs渋川義鏡・犬懸教朝)vs足利成氏・長尾景春
☆豊島氏当主泰経が景春に味方し太田道灌に敗れる(武蔵を去る)
→上杉顕定・堀越政知vs足利成氏・扇谷定正・伊勢宗瑞
→上杉顕定(vs上杉定実・長尾為景)・足利政氏vs扇谷朝良・伊勢宗瑞
→扇谷朝良・朝興・上杉憲寛・小弓足利義明・武田信虎vs北条氏綱
(上杉憲寛vs上杉憲政、小弓足利義明vs足利高基vs足利晴氏・北条氏綱)
→上杉憲政・扇谷朝定・今川義元・武田信虎vs北条氏康・足利晴氏
△平山政重が上杉に属す
→上杉憲政・扇谷朝定・足利晴氏vs北条氏康・今川義元・武田晴信
△平山氏は後北条に下り、戦死した政重の遺児氏重が檜原城主となる
0144人間七七四年
垢版 |
2017/02/17(金) 16:00:07.47ID:3NexAwXO
うちの近辺は徳川が来る前は新藤下総守が治めてたみたい
0145人間七七四年
垢版 |
2017/02/18(土) 01:50:26.05ID:XtnNOzva
>>141
興津氏って北条でどのくらいの地位なんだ?
0146人間七七四年
垢版 |
2017/02/21(火) 22:31:37.07ID:ClXAjMyQ
江戸衆で言えば
遠山>富永>太田>島津>伊丹=小幡=朝倉=梶原>興津氏>etc.
って感じじゃね
0148人間七七四年
垢版 |
2017/02/23(木) 21:06:39.10ID:Zyjhmi21
江戸衆の検地奉行というから中級の実務系なんじゃない
0150人間七七四年
垢版 |
2017/02/25(土) 02:27:23.30ID:TT/wNIaj
右:千葉胤利
中:三田綱秀
三:吉良頼康
一:太田康資
捕:大石定久
DH:宇田川定氏
遊:牛込勝行
左:平山氏重
二:板橋親棟
投:江戸朝忠

控え(18人)
北条氏照、太田資正、遠山綱景、富永直勝、
高橋氏高、行方直清、師岡将景、長崎重光、
中条出羽守、渋川義基、上杉憲幸、本田正勝、
宮城政業、豊島経忠、島津永久、板倉勝重、
伊奈忠治、大岡忠真
0151人間七七四年
垢版 |
2017/03/02(木) 17:11:20.08ID:4jsZjBtW
武蔵千葉と下総千葉って別れてから仲違いしてたのかな。
胤宗が戦死したとき、江戸衆、小金衆、それから「臼井衆」が河から
攻めてる。
もしかしたら親胤が武蔵下総をつなごうとして暗殺されたとか
妄想してみる。
0152人間七七四年
垢版 |
2017/03/03(金) 13:33:04.16ID:YhaqvCnl
>>149
申し訳ない
削除)★水戸地方に江戸氏の所領が給付
0153人間七七四年
垢版 |
2017/03/03(金) 18:21:28.74ID:RG35XdwT
板橋郷土資料館が武蔵千葉氏だしてるな
買って見ようかな
0154人間七七四年
垢版 |
2017/03/04(土) 00:45:02.01ID:9JeJJgRT
>>153
黒田先生が公演にいらしたんだよ
俺見に行った
0156人間七七四年
垢版 |
2017/03/04(土) 17:42:31.70ID:Hll8kKWZ
最近の研究では「よりたね」じゃなく「これたね」
0157人間七七四年
垢版 |
2017/03/04(土) 21:51:32.45ID:IvE5phUI
>>141
行方氏の本家なのに所領役帳に載ってない妹尾氏が六郷殿かも
0158人間七七四年
垢版 |
2017/03/05(日) 02:50:31.32ID:5ffBx0RN
舎人氏(足立)
有名なのは大道寺政繁の養子になった大道寺直英の実父で
舎人城主の舎人経忠
それから舎人土佐守重貞?の子?の太田資正の家臣で
資正の命を救った逸話で有名な舎人孫四郎(重長?)
この二人は甥(経忠)と伯父(孫四郎)の可能性あり
資正が氏康から離れたとき二つに分かれたか?
結局舎人の地はどちらが領したか…
舎人の地は両勢力の境のあたりなので…
それから平手政秀の生母が武蔵舎人城主の舎人三河守輝季(輝秀?)
の娘らしい
そして平手政秀の養女が産んだのが舎人八左衛門
この舎人八左衛門は沢庵和尚らしい
まぁよくわからんが…

補足で大道寺氏(直英)は福島正則の養子の正之の子直秀が婿養子になって
さらに津軽信枚の七男大道寺為久が直秀の婿養子になって幕末まで続いた
0159人間七七四年
垢版 |
2017/03/05(日) 09:20:28.33ID:Cv2h/aVn
妹尾氏って千葉氏の家宰・原氏の末裔で行方氏の本家で北条早雲の親戚なんだね
凄いな
これは六郷殿だわ
0160人間七七四年
垢版 |
2017/03/05(日) 16:35:10.41ID:C2TJnwxb
太田家にも妹尾兼延や下総守がいたようだね。
行方氏関連では三河守か。
でもなんで早雲の親戚がなぜ太田に仕えるのだろう。
その後は結城氏に仕えるすごい家のようだけど六郷殿は薄いんじゃないか?
0161人間七七四年
垢版 |
2017/03/05(日) 17:06:13.74ID:rY7tcJFq
>>154
2015年か知らなかった
なにか新しい話とかあった?
0162人間七七四年
垢版 |
2017/03/05(日) 20:12:07.74ID:Pl7SUMp7
血縁と地縁の兼ね合いだな地元民の意向を無視しては家が成り立たないだろうし
0163人間七七四年
垢版 |
2017/03/10(金) 07:41:27.84ID:eTnQb05X
匝瑳信利
0164人間七七四年
垢版 |
2017/03/11(土) 14:35:52.34ID:iLQSXZug
東京は原島って苗字が多いらしい
原島善六郎
原島友安
原島孫二郎
原島新右衛門
原島新三郎
ここら子孫みたい
0165人間七七四年
垢版 |
2017/03/14(火) 14:05:22.23ID:SIcc3TqT
高坂甚内
甲州流忍者
徳川に雇われ風魔小太郎を捕縛
他に高坂昌信の子、宮本武蔵の弟子とも
0166人間七七四年
垢版 |
2017/03/15(水) 03:18:28.90ID:tnQO3OJw
そもそも風魔小太郎が架空
徳川に雇われたなんて記述も存在しない
よくコアな知識者があつまるスレでそんなクソみてえな知識を披露できるな
0167人間七七四年
垢版 |
2017/03/22(水) 08:21:45.08ID:JHiQQGmI
赤塚城に小田原の役で守備についた、松戸将監という武将は、名前以外謎だな。付近に子孫らしき人はいるけど。
あと、大塚某とかいうのがかなり所領持ってたみたいね
0169人間七七四年
垢版 |
2017/03/25(土) 00:05:07.67ID:TvvHl9He
あぁ胤宗の与力ね
あと板橋肥後守だよね
板橋忠康系だと思うけど親棟とは関係ないのかね?
0170人間七七四年
垢版 |
2017/03/27(月) 01:44:44.45ID:OXlah/e3
曾我祐重…扇谷上杉時代の江戸城代
この頃江戸太田は山内から帰参した頃で江戸にはもどれず
現在の赤羽あたりにいた
曾我神四郎…後北条と上杉の戦いの先鋒
0171人間七七四年
垢版 |
2017/03/27(月) 13:34:05.52ID:trXJYO/X
東京の戦国時代の本って無いですかね
各区史くらいしか見つからない
0172人間七七四年
垢版 |
2017/03/27(月) 21:50:20.94ID:84RKVahq
>>171
葛西城に関するものをジュンク堂で見かけた気がする。
あとはこんなんとかどう?

ttp://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/15148/KJ00005098490.pdf
0173人間七七四年
垢版 |
2017/03/27(月) 23:09:07.89ID:trXJYO/X
>>172
ありがとうございます!
葛西の本は確かに見たことがあります
やっぱり千葉氏秩父氏関連で洗っていくと見つかりやすいのだろうか
論文ってインターネットで結構見つかるんですね調べてみます
0174人間七七四年
垢版 |
2017/03/28(火) 00:57:23.89ID:GEWHB+qs
黒田基樹
・豊島氏とその時代 東京の中世を考える
0175人間七七四年
垢版 |
2017/03/28(火) 06:20:57.19ID:8u18z3i3
黒田基樹氏や、加藤哲氏の著作を追うと良いかも
0176人間七七四年
垢版 |
2017/03/29(水) 14:55:17.35ID:KWHVLSKO
>>172
赤塚郷が勲耕の賞で足利直義→正室渋川頼子→姪幸子→鹿王院に寄進
→武蔵千葉氏が簒奪→鹿王院が抗議って結構おもしろいね
松月院の自胤の妻の墓は別人らしいね、松月院自体は宝持寺として
自胤前からあるそうだ、だから妻とされる墓は尼さんの墓らしい
自胤の墓自体も後世のらしいよ

あと赤羽郷でこんなんあった、武将関係ないけど
http://repo.lib.hosei.ac.jp/bitstream/10114/10778/1/shigaku_60_wakasone.pdf
0177人間七七四年
垢版 |
2017/03/29(水) 22:12:15.77ID:4BdPZtzG
鑑定団に間宮主水助宛の氏政感状2通が出てたけど
豊前守康俊系(康信、直元 玉縄衆)
若狭守綱信(氏照の重臣 滝山衆)
武兵衛・造酒丞(甲斐武田氏に寝返る)
主水助系(子孫は丸亀藩家老系と武蔵在郷の杉田氏系、真里谷武田氏が外戚の間宮主水を継いだとも)
無理して一つの家系にしちゃったのか間宮氏も複雑だよね
0178人間七七四年
垢版 |
2017/03/29(水) 23:27:55.09ID:ZK9iri+F
>>174
そういえばこれ欲しいと思ってたんでした!ありがとうございます
>>175
加藤哲さんは初めて知りました調べてみます
>>176
奉寄進 宝持寺
赤塚郷年貢之内弐拾貫文同谷田之年貢弐貫文并平沼作田伍反同郷内戸田袋野之事永代可有御成敗状如件
延徳四年十一月五日 玄参
宝持寺
という寄進状が区史の資料に載ってました(玄参は千葉介自秀、自秀は新編武蔵風土記稿によると自胤のことらしい)
もと真言宗の宝持寺に玄参が開基になって寄進して曹洞宗の寺院の宝持寺松月院にしたと
0179人間七七四年
垢版 |
2017/03/30(木) 00:36:52.16ID:IN8kuqI+
>>177
康俊と綱信は信元の子で兄弟?
信元は扇谷上杉から北条に鞍替え?
間宮武兵衛は康次で間宮造酒丞は信高で康俊の子?
合ってる?

主水は信安と長安かぁ、年代的には信元以前で分かれてるよなぁ。
長安の母は行方系のようだ。
0180人間七七四年
垢版 |
2017/03/30(木) 01:53:24.63ID:TAc5zn1S
湯浅治久曰く
石浜あたり(千束郷)の地は鎌倉時代、千葉氏が関わってた可能性があるらしい
この地は江戸重長が大福長者と呼ばれるいい地でその前の時代は
関東御領で管理が千葉氏だったとのこと
武蔵国浅草大工字郷司しかり今戸焼しかり浅草付近はかなり昔から栄えたっぽい
その地を戦国時代に武蔵千葉氏が大石氏から支配を移したのはなんか灌漑深いね
ちなみ兄は実胤は山内、弟自胤は扇谷って感じらしい
一度成氏が孝胤を取り除き、実胤を下総戻そうとしたけどだめだったらしい
道灌は武蔵から逃げた実胤より残った自胤を評価したけどね
0181人間七七四年
垢版 |
2017/03/30(木) 08:42:23.77ID:/ehSLSFh
>>180
自胤が入った赤塚城って随分不思議な形なんだよね。
土塁の内側に堀があったり、溜池が水堀がわりになったり。で、北の防御だけやたら厚い。
0182人間七七四年
垢版 |
2017/03/30(木) 22:11:38.19ID:94SrvYH2
>>179
おおよそそいうことになってるようだけど
康俊・康次・康信が親子で氏康から偏諱貰って弟が綱信だったり
間宮主水の家は甲斐武田の旧臣かつ真里谷武田とも姻戚で康俊の4子信高を養子に迎えたのが造酒丞だとか
どうなんでしょうね
0183人間七七四年
垢版 |
2017/03/31(金) 00:29:16.90ID:k9DPDhZU
>>182
なるほど。
複雑ですね。綱信は氏綱から…綱信が弟じゃない可能性もありそうですね。
信元の弟とか…
もっと書状とか発見されるといいですね。
0184人間七七四年
垢版 |
2017/04/01(土) 09:03:49.96ID:Rdq/pcJl
板橋親棟
(いままでなかったようなので)
武蔵国板橋出身、まず扇谷に付いていたが他の武蔵国の者にもれず
北条につく。その後、北条から壬生に客将として仕える。
宇都宮方の板橋城を奪う(板橋郷ならび板橋城は親棟由来らしい)
綱房の没後、その子綱雄が徳雪斎に暗殺されるとさらにその子の義雄
につき徳雪斎や鹿沼右衛門を討ち取った。(徳雪斎は諸説)
壬生氏も親棟も小田原征伐で北条方でやぶれ、衰退、滅亡する。
ちなみに板橋氏といえば子孫が旗本、板橋宿の盟主の忠康が有名なのだが
親棟が武蔵に置いてきた子の流れという説もある。一緒についていった子
行常の子孫は松平康長に仕えたという。

壬生氏独立の立役者であり、北条方としても宇都宮方面で活躍し
義雄の時代も老将でありながら信頼の厚い武将としてその人生に幕をとじた。
まぁ伝によればだけど。墓は両板橋にある。
個人的には小田原征伐前の多気山城合戦(北条vs宇都宮・佐竹・結城)では
かなり活躍したんじゃないかと思ってる。佐竹が何度も攻めた鹿沼には板橋
親棟がいたんではないかとそしてなかなか落ちなかったんだと思う。
0185人間七七四年
垢版 |
2017/04/01(土) 15:06:01.36ID:kb/ML6eC
>>184
この客将になった経緯がずっと気になってる。
人質とも違うし
0186人間七七四年
垢版 |
2017/04/01(土) 23:42:57.36ID:Rdq/pcJl
>>185
板橋将監の供養塔には
「板橋氏は武蔵国(東京都)板橋領主の出で、
小田原北条氏の被官(ひかん)であったが、
北条氏と鹿沼城主壬生氏との同盟関係によって、
壬生氏を援助するためにこの地方へ来た。」
と、あるね。
一応…板橋城は永正の頃に遊城坊綱清が築城したようだ。
遊城坊は代々宇都宮氏一族が出家して住職となり、板橋郷等を社領とした。
それから天文年間の頃、鹿沼城主で日光山御神領惣政所の壬生綱房は、
遊城坊綱清が宇都宮氏と結ぶことによって自らの地位を向上させようと、
兵を集めていたことに不安を感じ、北条氏の力を借りることにした。
そこで派遣されたのが板橋親棟で、遊城坊綱清を潰しそのまま
板橋の地を治めた。らしいよ。(ちなみに板橋氏が由来なら
郷も城も元々なんだったんだろう……)
このことから見てもとても戦上手だったんだろうなと思う。
0187人間七七四年
垢版 |
2017/04/02(日) 01:35:50.49ID:faFl48+6
「国宝松本城を世界遺産に」推進実行委員会事務局のクイズの
7-1のガイドにて
武蔵国に残った親棟の次男坊は「親恒(ちかつね)」だとさ〜
ここで忠康とつながるみたいよ
0188人間七七四年
垢版 |
2017/04/03(月) 12:05:20.08ID:Jk6R7Sw1
牛込勝行の子勝重の妻は遠山綱景の娘
0189人間七七四年
垢版 |
2017/04/04(火) 07:37:43.53ID:uSoJBCVj
なら吉良成高の妻は上杉持朝の娘だぞ
…なら!って意味は全然ないけど
0190人間七七四年
垢版 |
2017/04/05(水) 05:53:03.63ID:ps6oCsyC
>>172-173
ちょい前のNHK高校講座日本史(司会が桐島里菜の時)で戦国期葛西城の特集やってた
0191人間七七四年
垢版 |
2017/04/05(水) 18:51:16.44ID:ud9bjywL
観てないけど
ttps://www.youtube.com/watch?v=LwjL0RfVUwo
この人のかな?
0192人間七七四年
垢版 |
2017/04/12(水) 20:12:20.37ID:QCuJiDAH
最近は吉良頼康の肖像とされたものは武田信玄のらしいね
武田信玄とされたものはじゃあ逆に吉良!?
0193人間七七四年
垢版 |
2017/04/15(土) 13:50:48.54ID:gcgMp5jD
大平清九郎と常磐姫
0194人間七七四年
垢版 |
2017/04/15(土) 20:29:45.74ID:OXv3dQ0G
吉良頼康像の花菱は子房が4つ描きこまれてるから
武田花菱ではないんじゃない?
信玄像と特定するには弱いと思う
なにより威厳に欠けブサイクだ
0195人間七七四年
垢版 |
2017/04/16(日) 22:21:44.98ID:InbOjWGS
>>194
ちょい待て
その肖像が吉良でも武田でも最後の文章は
ひどいな
徳川なんて……
0196人間七七四年
垢版 |
2017/04/17(月) 08:21:05.13ID:leF35+e2
吉良と言えば14世紀に新倉を安堵された吉良亀松がいたなぁ
0197人間七七四年
垢版 |
2017/04/18(火) 07:15:46.90ID:4zNKMbZD
蔭山家広が吉良の小指南になってるけど
黒田氏の説を採用すれば「指南・小指南」は
指南が格上側、小指南が各下側なんだと。
だとするとこの頃はまだ吉良が格上だったか、または家広は
元々は吉良家臣だったんだな、義氏元服前後で前者か後者かわかるな。
蔭山氏自体、足利の庶流だから後者だと思うが。
その後北条家臣になってるの見るとだいぶ吉良氏から北条氏に家臣が
流れたんだな。
0198人間七七四年
垢版 |
2017/04/18(火) 13:09:53.79ID:TPxwy2qi
北条は義氏の前に吉良左兵衛佐頼康を関東公方にする気だったみたい
左兵衛佐が公方に繋がるみたいよ(鎌倉公方が左兵衛督)
0199人間七七四年
垢版 |
2017/04/18(火) 13:43:16.62ID:SV7uaqwZ
山梨の一番東京に近い所から
小山田信有
加藤景忠
たぶん小山田もちろん加藤も東京の最西部には影響を持ってたと
思われ
0200人間七七四年
垢版 |
2017/04/18(火) 17:21:28.33ID:twaIsZS2
右:千葉胤利
中:三田綱秀
三:吉良頼康
一:太田康資
捕:大石定久
DH:宇田川定氏
遊:牛込勝行
左:平山氏重
二:板橋親棟
投:江戸朝忠

控え(18人)
北条氏照、太田資正、遠山綱景、富永直勝、
高橋氏高、行方直清、師岡将景、長崎重光、
中条出羽守、渋川義基、上杉憲幸、本田正勝、
小山田信有、豊島経忠、島津永久、板倉勝重、
伊奈忠治、大岡忠真
0201人間七七四年
垢版 |
2017/04/18(火) 23:20:40.42ID:wAP/fhnC
>>199
小山田氏は秩父党だから当然といえば当然だな
0202人間七七四年
垢版 |
2017/04/19(水) 01:13:12.07ID:uVjfWyPg
>>201
「は」と「、」が抜けてた
訂正 たぶん小山田はもちろん、加藤も東京の最西部には影響を持ってたと
思われ

小山田氏は現町田市あたりの小山田荘からだからね
0203人間七七四年
垢版 |
2017/04/20(木) 09:04:02.01ID:NiDHZctQ
>>192
有名なハゲ(よく見ると髷を結ってる)でヒゲをたくわえた信玄の肖像画は家紋から能登の畠山氏じゃなったかな
もう1枚ある若い頃の肖像画は武田晴信(信玄)だと思うけど
0204人間七七四年
垢版 |
2017/04/20(木) 10:53:58.26ID:ssik42OF
じゃあしょうがないから畠山義続の父畠山義総の京都の興臨院蔵の
坊さん姿の肖像画を吉良頼康の肖像にしよう!!
0205人間七七四年
垢版 |
2017/04/20(木) 12:34:25.93ID:lgr2Fnqy
小笠原貞頼
0206人間七七四年
垢版 |
2017/04/22(土) 09:18:38.77ID:4O+5S+FO
ここで質問すのがあってるかわからないけど
関東幕注文って大体の地域の境目ってあるのですか?
成田氏、太田氏はわかるのですが三田氏あたりでだしたり出さなかったり
で分かれて、それで上杉方につかなかった面々は迎え撃ったのか、
ただ動かなかったか気になります。どなたかご教授おねがいします。
0207人間七七四年
垢版 |
2017/04/22(土) 21:59:06.78ID:uGlD9Aht
目ぼしいところには全部出して、参じた者を記したのが幕注文でないの?
0208sage
垢版 |
2017/05/06(土) 11:53:22.59ID:l1dkBMzq
>>151
俺のまったく根拠なき妄想
まず成氏は山内派だった実胤を千葉家当主にしようとしたが孝胤の抵抗もあり、
実現はなかった。次に臼井持胤はwikiでは孝胤の子とあるがこれを千葉胤将の子
とする。実胤の子守胤は臼井俊胤に養子になったとある。俊胤は自胤と臼井城で
争ったが俊胤は嫡流を重んじた。それで教胤からの家督相続の際固辞し
持胤に譲ろうとした、さらにその後持胤の子幸胤に家督を譲った。
が、幸胤はすぐ亡くなったので、今度は守胤を養子とった、だが守胤は
道灌死後に扇谷上杉が自胤系を廃して守胤を武蔵千葉当主に置いたので
俊胤は守胤の子景胤に継がせた。と見るのはどうか。
そして臼井守胤時代に親武蔵千葉体制が引かれ、下総勝胤は立河原の戦いで大敗した。
ちなみに足立の中曽根城は勝胤が築いたようなので、かなり浸食はしたようだ。
その後臼井氏は小弓方についたので勝胤は高基になじられたそうだ。ただ小弓方と
いうより実は扇谷方、武蔵千葉方だったのではないだろうか。実際小弓&扇谷VS古河
だったはず。それから勝胤の子昌胤は武蔵と下総の境に高城氏を置き、臼井氏を息子に
継がせた。が、まだ名残があり嫡男の利胤と臼井胤寿は争ったのではないか。そして
どんどん妄想は加速するが親胤は実は胤寿の子だったのではないか。結局は反北条だった
親胤は北条に暗殺され胤富が継いだが。ちなみに親胤のバックに胤利に武蔵千葉を継がせた
80越えの守胤がいたとかいないとか…あと胤富の子の良胤は実際は武蔵千葉氏の話と
混ざってしまったのではないだろうか、本当は邦胤と双子ではなく胤宗と双子だった
のではないか。と、まぁダラダラといいかげんなことを書いてしまった。
誰も読まないと思うがとりあえず謝っとく。申し訳ない。
0209人間七七四年
垢版 |
2017/05/09(火) 07:44:03.32ID:KqODKrMA
いきなりだけど太田康資は正木憲時はたぶん義弘存命時から北条との和睦に関して
反対だったんだろうなぁ
太田資正は政景使って義頼、康資両方と連絡とってて義頼が勝つと
親北条の義頼に祝辞を送るってなかなかの皮肉というか
資正の理知的な嫌な面がみえるよなぁ
まぁ結局義頼は反北条同盟に入るけど勝頼の死亡時期考えると
義重担いだ憲時と結んでたほうがよかった気がする、けど過剰介入か……
0212人間七七四年
垢版 |
2017/05/12(金) 18:03:46.53ID:0LtCZ3AL
>>211
おぉそういや八王子の出身だったな。
上泉信綱の弟子で神後流、
足利義輝、豊臣秀次の剣術師範をつとめた。
0213人間七七四年
垢版 |
2017/05/12(金) 20:51:33.08ID:u0U1patV
知ってるやつ居たら教えてほしいんだが

埼玉か東京の(武蔵)の武将で頭を金棒でぶっ叩かれて頭が凹んでそのせいで首がとれなかった武将が居たんだがそいつの名が知りたい
0214人間七七四年
垢版 |
2017/05/12(金) 21:29:52.99ID:U5jqOwxd
太田康資が金棒で舅を殴り殺したって逸話があるから遠山綱景じゃないのかな
0216人間七七四年
垢版 |
2017/05/13(土) 09:11:15.99ID:8OSaqmnU
鉄棒振り回したと言えば太田康資だな
0217人間七七四年
垢版 |
2017/05/13(土) 11:33:14.88ID:02re22ew
武蔵じゃないが金棒と言えばあと三浦道寸や清水康英、
逆に首をねじきった政勝なんてのがいるな

潰された方だともう少しヒントクレナンス
0218人間七七四年
垢版 |
2017/05/13(土) 11:46:57.99ID:UMYW+heA
>>215
たしか潰したほうは太田康資だよなあと当りをつけて舅探しをしたけどテキトーを言っちゃったか
すまん
0219人間七七四年
垢版 |
2017/05/13(土) 13:22:57.71ID:F+D6Q2HE
>>217

すまん・・・昔本で読んだ情報でかなり断片的なんだが・・・たしか潰されたほうが潰したやつを煽ったかなんかでブチ切れて頭を叩き潰されたとか・・・

「金棒で叩かれて首がとれないなんてあるのか」と印象深かったんだ。

2人とも武蔵国の武将だ年代は1550年〜1570年代
0220人間七七四年
垢版 |
2017/05/13(土) 15:13:28.30ID:02re22ew
やっぱり太田康資かな
敵方にいた舅が
「源六ちゃんよ、すげー活躍だけど、馬ごと殺すことないだろう」
って言ったら「あい分かった」って舅を殴って舅がおっちんで
落馬したって話かな
んで北条記で太田康資を語る部分でその力、頭が胴にめり込むって
のがあるから、首を取れないのは胴の中に入り込んだからかなw
まぁ当たり前に誇張だと思うけどね
第二次国府台合戦が1563年〜1564年のあたり
0225人間七七四年
垢版 |
2017/05/15(月) 12:27:06.67ID:Tr8lGtY1
>>223
そうだそうだ
彼だ‼みんなありがとう‼

しかし関東の武者は本当に猛猛しいな、、、まあ坂東の荒武者の面目躍如ってとこか、、
0226人間七七四年
垢版 |
2017/05/16(火) 06:25:07.45ID:knM1idC9
ちなみに太田下野守いくつかの系統がある。
資正の母方の祖父の家系と康資の義父の家系。
資正系は松山城の戦いの下野守や佐竹の客将になるとき付いていった
太田下野守資叶。
康資系は滝の城城代の太田下野守、関宿城番の太田下野守。
と、書いたものの本当は自分はよく理解してない。

前島康彦の「恒岡氏と太田下野守家系」持ってる人や
詳しい人いれば教えてくれ
0227人間七七四年
垢版 |
2017/05/16(火) 19:51:12.94ID:MNuXyMWs
北条氏が徳川だかに出す援軍の陣触れに、千葉殿 1騎という記述があったことが、少し前に発見されたと聞いたけど、1騎だけ援軍出せ言われても…だろうな。
0228人間七七四年
垢版 |
2017/05/16(火) 21:15:34.43ID:cfHg4jrj
>>227
石浜の連中は木内だかに実質取って代わられてなかったっけ?
0229人間七七四年
垢版 |
2017/05/16(火) 23:05:06.54ID:knM1idC9
>>227
もしかしたら太田氏資の殿軍同様、生きれば存続死ねば乗っ取り
みたいのがあったのかもね
ただ1580年以降の家康との同盟での話なら氏繁の子直胤が引き継いでるから
それはないか
0230人間七七四年
垢版 |
2017/05/16(火) 23:24:00.41ID:GZTPqGDw
下総千葉に一騎で出てこいって言ったの?
てっきり石浜の武蔵千葉かと思ってた
0231人間七七四年
垢版 |
2017/05/17(水) 00:03:23.52ID:J8qzycsy
ん?武蔵千葉じゃないのか?
直胤(武蔵)、直重(下総)
0233人間七七四年
垢版 |
2017/05/17(水) 18:14:35.24ID:+J9hmlI0
太田康資は原虎胤を撃退させたこともある。
ただウィキペディアの1554年て1553年には黄梅院が北条家に嫁いでるし、
原虎胤が一時北条についてた時期じゃないかなぁ。

ただ私は太田康資はあの原虎胤を撃退させたと信じる。
0234人間七七四年
垢版 |
2017/05/17(水) 18:48:50.94ID:bUIONMCS
荏原郡の武将は居ないだろうか?吉良氏以外で、、、我が地元には行方氏というのが居るが資料が皆無、南無ー
0235人間七七四年
垢版 |
2017/05/17(水) 20:45:11.36ID:/fX3LdWR
>>234
荏原郡版武将打線
中、行方直清
右、蒲田致重
遊、長崎重光
投、吉良頼康
二、江戸頼忠
一、南条重長
三、太田景資
捕、大平師直
左、上杉憲幸
0236人間七七四年
垢版 |
2017/05/18(木) 06:29:03.13ID:ioWP9M9i
小牧長久手じゃなくて三方ヶ原では?
0239人間七七四年
垢版 |
2017/05/19(金) 00:34:20.84ID:I9x0jEsF
>>180>>208
実胤は憲実から偏諱をもらったとかもらってないとか…
ただ奥さんは扇谷上杉顕房の娘だし、近年は渋川義鏡によって
追放されたらしいし、晩年は扇谷だと思うぞ

あと良胤は実胤の孫説があるみたいだな
0240人間七七四年
垢版 |
2017/05/19(金) 07:43:31.84ID:bZNPcFTR
>>238
なに言ってんだこいつ(笑)
0241人間七七四年
垢版 |
2017/05/19(金) 08:34:40.67ID:B3DHLOEy
>>238
1573年時に駿河すら領土にしてなかったのに出せるわけ無いだろ(笑)北条の隣はその当時は武田だよ(笑)

仮に徳川に援軍だすなら武田が滅び黒駒合戦以後だから


ここは専門スレだからゲームやアニメの知識程度ならレスしないほうがいいよ
0242人間七七四年
垢版 |
2017/05/19(金) 11:55:39.46ID:wDCOE3dI
どこへの援軍を出すときの書状なの?
0243人間七七四年
垢版 |
2017/05/19(金) 22:25:33.96ID:LiCfRvIH
>>240-241
>>227を根底から否定か
0244人間七七四年
垢版 |
2017/05/19(金) 22:57:02.73ID:I9x0jEsF
まぁまぁ>>227の「…だろうな。」の本意が分からんとな
んでこの板はどのスレも共有で本人が次いつ登板するかわからないから、
熱くなってもな…と、なだめてみる
0245人間七七四年
垢版 |
2017/05/19(金) 23:43:17.19ID:wDCOE3dI
1574年に氏繁の子が胤宗の跡を継いでるから徳川はあり得ないってことか
後の時代でも北条一族の直胤に一騎はないだろと
0246人間七七四年
垢版 |
2017/05/20(土) 08:25:49.48ID:bB9rTPen
徳川に援軍をってのは現実的ではない

北条と徳川が相対した初めての場は武田滅亡後だよ、、武田が滅んで初めて徳川、北条の領土が隣近所になったわけだし。

天正壬午の乱で争った後に同盟結んだんだぜ?
0248人間七七四年
垢版 |
2017/05/20(土) 12:31:44.55ID:vyM902+C
>>247
おぉっすごいね!
火葬じゃなかったらDNAとれたのにーw
0249人間七七四年
垢版 |
2017/05/20(土) 21:29:01.28ID:9smySFqU
千葉殿の所領x貫文に軍役として一騎課せられただけで千葉殿本人に一騎で行けって意味じゃないでしょ
0250人間七七四年
垢版 |
2017/05/20(土) 22:13:49.21ID:aiTeOQ9a
右:千葉胤利
中:三田綱秀
三:吉良頼康
一:太田康資
捕:大石定久
DH:宇田川定氏
遊:牛込勝行
左:平山氏重
二:板橋親棟
投:江戸朝忠

控え(18人)
北条氏照、太田資正、足利義氏、遠山綱景、
富永直勝、高橋氏高、行方直清、長崎重光、
中条出羽守、渋川義基、上杉憲幸、本田正勝、
小山田信有、豊島経忠、島津永久、板倉勝重、
伊奈忠治、大岡忠真
0251人間七七四年
垢版 |
2017/05/20(土) 22:32:59.05ID:2b7xL1yu
小田原衆所領役帳だと475貫文
異本小田原記だと石浜領は4000貫文
千葉の家臣たちは別に所領を与えられていたりしたんだろうか?
0252人間七七四年
垢版 |
2017/05/20(土) 23:06:03.92ID:0PvQO+lC
例で宮城泰業が284.4貫文で馬8他28で計36
千葉殿は石浜没収前で475貫文で馬一騎ってなんか意味はある気がする
まぁだいたい統一基準とは別に書状で人数を目令することはよくある
みたいだから、ただ軍役が少ないラッキーかもしれないが…

あと軍役って基本はそのものに対してで
そのものが他率いて参加するものではないの?(違ったらごめん)
0254人間七七四年
垢版 |
2017/05/21(日) 00:41:43.53ID:S4WUgbAB
井田是政
0255人間七七四年
垢版 |
2017/05/21(日) 18:11:51.46ID:VDNPqOiP
武蔵国の武将って甲冑はどんな感じだったんだろと常々思ってる

里見家の軍装も気になる、、、
そういうの調べる資料知らぬかね?
0256人間七七四年
垢版 |
2017/05/22(月) 19:04:22.01ID:EDyBF6E0
原則軍役無しだけど北条から出向させてる分は負担してね
という話なんじゃないの?
古河とか蒔田とか
0257人間七七四年
垢版 |
2017/05/23(火) 12:20:30.54ID:jeFOj54W
>>255
檜原村の郷土資料館に甲冑の部分部分

それと去年舟渡遺跡から14〜15世紀の面頬がでたそうな
0258人間七七四年
垢版 |
2017/05/24(水) 11:09:29.57ID:Y+J84ZLq
原胤従
0259人間七七四年
垢版 |
2017/05/25(木) 01:37:38.22ID:/a/hE7aa
千葉孝胤は自胤に追われ千葉東部まで
引いた。千葉孝胤、長尾景春、豊島氏は両上杉と古河公方の和睦を
認めることはできなく抗った面子…そして所領、もしくは一部を
失うことになる。
では、空いた練馬区や葛飾群下部はどうなったか。
太田道灌は貢献した武士たちの恩賞が少ないともらしたことから、
練馬区はおそらく地理的に難波田が手にしたと思う、だが
葛飾群下部を自胤は手にできなかったのではないか。
勝胤及び原氏、高城氏が入るまでどうだったか。
私が思うに自胤の影響圏ではあったが、実際に入ったのは豊島氏のもの
(嫡流ではないと思う)であったと思う。
2点、1点目は豊島氏は自胤とは長尾氏を挟む義兄弟であるし、
孝胤と豊島氏は同じ景春派、さらに葛西には元々豊島氏の同族の葛西氏が
いた。2点目は1536年に夏見豊島胤定が夏見(船橋市)にいる。豊島の名と
千葉氏の通字を持つ。そしてこれを証明する「長福寺聖観音菩薩像胎内銘」
には円城寺の名がでてくる。
円城寺氏とは武蔵千葉氏に従った一族である。だが1536年の
翌年には高城氏が小金城を居城としてる。
勝胤も山内方につき大敗したり、古河公方と不仲になったり
小弓公方と敵対したりと忙しい身、実は小弓公方との争いの中で
下総側に完全に移行し、さらに高城氏の台頭につながったのではないか
それまでは(高城の完全所領化するので、それからも)
下総千葉氏の完全な所領でもなかったのではないか。
…なんてまた妄想を書いてしまった。
0260人間七七四年
垢版 |
2017/05/26(金) 06:18:22.78ID:heF9+YXl
師岡秀光
0261人間七七四年
垢版 |
2017/05/26(金) 10:54:59.78ID:wOrI13sx
モロ師岡
0262人間七七四年
垢版 |
2017/05/30(火) 15:45:29.56ID:r4lKCMW6
宅間上杉に蒲田、荻窪、足立がいるみたいだから元々は南武蔵は
扇谷が入るまで宅間の領地か?
0263人間七七四年
垢版 |
2017/05/31(水) 19:53:49.46ID:pDi+L42r
武蔵千葉氏って結局北条側についたのはいつなんだろうな。
勝胤が山内についた1504年立川原戦はまだ扇谷。
1524年の江戸城攻略で板橋氏が板橋で討ち死にし、
ここで赤塚城が落ちたとあるが、まだ葛西城は落ちてない、
深大寺城も落ちてない、近辺の蕨城も川越城戦まで取り合い。
石浜もまだここでは北条についてないとみるね。
葛西城攻略の1537年あたりかなっと。
0264人間七七四年
垢版 |
2017/06/02(金) 06:17:09.82ID:P2Ji/4mc
>>263
江戸城攻略〜葛西城攻略までの資料ってどんなのある?
0265人間七七四年
垢版 |
2017/06/02(金) 12:03:35.05ID:YUSQH7uG
金子家長
0266人間七七四年
垢版 |
2017/06/03(土) 07:41:50.28ID:lS1hwrcz
上杉朝定
0267人間七七四年
垢版 |
2017/06/04(日) 00:14:00.19ID:3MFbSQXy
志村光安って豊島氏の庶流なのかな?どなたか志村光安ついて知りません?
志村光行の子孫なのかな?光が通字で。豊島玄蕃みたいに下向したのかなぁ
あれ?豊島玄蕃は豊島氏ではないんだっけ?
0268人間七七四年
垢版 |
2017/06/04(日) 04:14:18.11ID:YnSoHqgd
東京ってのは古来より東夷の住まう未開な地とされていたから、まともな人材はいない
すごいのが現代にいたっても、学問、スポーツ分野では人口の割に世界的に優秀な人材を輩出できてない
武将で評価出来るのは太田道灌ぐらい
まぁ末路は東夷らしく無様だが
0269人間七七四年
垢版 |
2017/06/04(日) 08:48:33.40ID:FxfzssM8
>>267
質問の答えとは関係ないが出羽の六郷氏も14世紀に元は武蔵国六郷出身の
二階堂道晴が六郷氏名乗ったとか、ないとか
まぁ有力説なのは16世紀の二階堂道行の方のようだけど
結構関東から下向したみたいだしあるかもね
0270人間七七四年
垢版 |
2017/06/04(日) 18:47:01.82ID:dzjaLiMf
高橋種資の母方の祖父太田資重について。
高橋家と南条家(種資の祖母)の格から見て
太田のただの庶流ではないと思う。
1、太田源五郎(北条&岩槻太田)
→子はいないけど娘がいた?ないな…
2、太田輝資の子(江戸太田)
→兄があれしちゃったし丁度いいかも。
3、太田豊後守系(元足利晴氏家臣)
→所領張系
4、太田下野守系
→滝の城関係か
5、太田大膳亮系、太田新次郎・四郎兵衛・十郎郎兵衛系
まぁこれだとよくわからないからおもしろくないな。
0271人間七七四年
垢版 |
2017/06/04(日) 19:26:34.09ID:AtyaJ7zo
遅川兵庫
0272人間七七四年
垢版 |
2017/06/05(月) 20:54:12.42ID:+nN29u44
そういや八王子に家康から流れて北条きた設楽清政がいた
氏照の配下に入って八王子で亡くなった
子孫はその後八王子の代官になった
だから設楽姓は愛知東京埼玉にいるらしい
0273人間七七四年
垢版 |
2017/06/05(月) 21:20:55.04ID:Lqtqkhkw
>>272
バナナマンはその子孫か?笑
0274人間七七四年
垢版 |
2017/06/05(月) 22:12:38.89ID:DTA73X2u
設楽氏は関東公方の奉公衆で秩父と東金の2流がありバナナマンは秩父の方
東金の方は本土寺過去帳によく見える
0276人間七七四年
垢版 |
2017/06/22(木) 22:59:30.17ID:n1R5uf2w
>>275
そういうのは触れない方がいいと思うよ。
それに悪言に対して悪言で返すのはよくない。
悪言すなわち悪し様にののしる言葉。
悪し様すなわち相手を実際よりも悪く、
また、いかにも悪いものとして扱うさま。
関東は未開の地というけど今も昔も美しき烏合の衆、
言葉のものさしは己が持つものと感じる。

それはそうと荻窪の中道寺は寛永のときに下総千葉氏の家臣、
宇田川茂右衛門に旧主の菩提のために土地を寄進されたとあるが、
なんか違和感があるなぁ……
0277人間七七四年
垢版 |
2017/06/24(土) 02:57:36.37ID:UF//GPgG
板橋民部丞
北条家臣 足利晴氏の家臣野田政保との取次役を担った
この野田氏は晴氏を拘束した野田弘朝の先代のよう
(よって板橋民部は1554年頃迄あたりにいい歳)
板橋忠康は天正期に活躍してることから1573〜1593あたりにいい歳か
忠康の子忠政は民部のようで上記の板橋民部は忠康の父か
他に武蔵千葉家臣板橋肥後守や
北条氏資家臣板橋康長なんてのもいる
0278人間七七四年
垢版 |
2017/06/24(土) 03:57:48.01ID:UF//GPgG
そういや上杉北条の臼井城の戦いで有名な白井胤治の孫娘が
豊島康保系の忠次に嫁いでる そしてその後その系統の白井久俊が
疋田彦四郎の寡婦と再婚 相手が連れてきた娘が江島生島事件で有名な江島
連投すまない 
0279人間七七四年
垢版 |
2017/07/05(水) 14:49:01.99ID:NW3X6iH1
豊島区の長崎と長崎重光ってなにか関係あるのかな?
所領は太田康資だから関係はないのかな?
0280人間七七四年
垢版 |
2017/07/08(土) 18:25:02.06ID:CBIfW3WL
>>279
長崎重光は今川から北条に流れてきたみたいだから、
その前に太田が所領してる長崎とは関係ないのでは?
領したのは瀬田だしね。
鎌倉北条の家臣の長崎氏と関係あるかはわからないけど
今川家臣の点からみて両方伊豆長崎郷出なのかもしれない。
豊島区長崎は一応鎌倉時代の長崎氏の領地だったらしい。
0281人間七七四年
垢版 |
2017/07/15(土) 07:53:59.64ID:pS08GOIg
太田重正って大分臼杵藩主に別人がいたのな
三浦按針見つけた臼杵藩主太田重正と
三浦按針2代目と奉書船貿易を共にした橋本十左衛門の父江戸太田重正
按針つながり
0282人間七七四年
垢版 |
2017/07/17(月) 23:46:05.69ID:qaXr1Y9b
軍用犬と言えば三楽斎の三楽の入替えなんだけど、
あんまり知られていないので「鹿沼の犬知らせ」というのがある。
…まぁ俺が名付けたんだけど……
壬生家内紛の際、親宇都宮だった壬生周長の家臣鹿沼右衛門は宇都宮氏に
「犬の首に手紙を結んで」助けを呼ぼうとした。
まぁだけど結局板橋親棟勢に見つかり犬は殺されてしまった、
不憫に思った村人は塚を作り犬塚と呼ばれるようになったとさ。
こういう犬話って当時流行ってたのかな。
資正の松山城も本当はすぐ落ちてるしね。
0283人間七七四年
垢版 |
2017/07/24(月) 09:12:57.53ID:p8BvJgQo
>>263
大石定久は川越夜戦あたりだし、その辺ももうちょっとわかるといいんだけどな
0284人間七七四年
垢版 |
2017/07/25(火) 14:25:25.79ID:4OhSQD68
石神井(練馬)は豊島→太田→土支田(源七郎)→幕府天領になったようだ
0285人間七七四年
垢版 |
2017/07/28(金) 16:13:47.52ID:Eqx3IBTI
>>197
蔭山!?もしかしてお万の方の育ての親、義父の蔭山氏広と関係あるのかい?
板部岡の妹かつ田中氏の娘で北条氏尭の養女の母
正木時忠の次男の父頼忠に蔭山氏の義父かぁ…で、家康の側室
ムムム…同じ側室の英勝院は里見義頼と正木頼忠に正木憲時と共に父親殺されてるんじゃ
まぁそうじゃない説もあるけど…そしてお万の子を英勝院に差し出してる
これって結構今の価値観だとえぐいな
0286人間七七四年
垢版 |
2017/07/29(土) 14:51:05.01ID:DkDUb+oZ
とりあえずこのスレの情報をまとめてみた
東京領地(周辺も)
ttp://i.imgur.com/k3rGZtl.png

時代考証も領地の大きさもざっぱだから間違いや疑問があれば指摘よろしく
0287人間七七四年
垢版 |
2017/07/29(土) 16:05:18.53ID:DkDUb+oZ
連投ごめん、追加で少し手を加えた
東京領地2(周辺も)
ttp://i.imgur.com/k3rGZtl.png
0288人間七七四年
垢版 |
2017/07/29(土) 16:06:31.66ID:DkDUb+oZ
間違えた、こっち
東京領地2(周辺も)
ttp://i.imgur.com/BYO0GfM.png
0289人間七七四年
垢版 |
2017/07/29(土) 18:30:42.82ID:odYzpILM
これは面白いね。豊島郡、葛飾郡だけでもかなり貫高はあるから、国人が割拠しやすい環境だよね。河川も各所流れてるし、道もそれなりにある。
0290人間七七四年
垢版 |
2017/07/29(土) 19:42:39.64ID:DkDUb+oZ
葛西城については城主が大石石見守だったけど道灌状によると
実胤、自胤時代に「円城寺」が殺害してる 
実胤は葛西城にお呼ばれもされてる
円城寺は武蔵千葉っぽいけど下総の可能性もある
武蔵千葉だとすると庇護してもらったけど山内を裏切って扇谷に葛西城を土産にしたか
そもそもなぜあの場所が所領だったのか 
扇谷が武蔵に流れてきて複雑になったのか……
北条に渡るまで誰が務めていたのか…そのまま大石氏なのかな

ttp://i.imgur.com/O4IOvT7.png
指摘があれば随時更新してくよ
0291人間七七四年
垢版 |
2017/08/04(金) 03:56:33.14ID:QirHJtwN
武将じゃないけど上の方で書かれてる近藤万栄なんだけど、
船橋拠点や浅草拠点とも言われてるね。
船橋の名の由来は夏見入江からきてるみたい。
近藤万栄はここで商業を営んでいたようだ。
その後なのか北条に買われ家臣として浅草で鉄砲を作り北条領地に補給していた。
近藤万栄は夏見豊島氏の地から浅草の武蔵千葉氏の地に移ってる。
関係があるかわからないけど千葉氏宗家滅亡の時に豊島太郎が死んでることから
元々千葉氏についてる豊島氏はいたんだけどね。
他に船橋の伝説的には豊島刑部秀鏡が里見氏側で名前があがる。
この辺は本当に重要地で所属もいったりきたりだったんだろうな。
個人的には武蔵千葉氏は武蔵にきてから相当頑張って下総の勢力を抑え込んでたと思うよ。
想像するより少し大きな領土を持ってたのかもな。
0292人間七七四年
垢版 |
2017/08/06(日) 22:51:09.24ID:wjwBAd5H
>>268
平安末
尾張系京都伊豆人源頼朝「日本一の猛者といえば武蔵国住人熊谷次郎直実」
藤原摂関家出身の慈円「武蔵国住人畠山重忠最強伝説」
鎌倉
最強鎌倉武士「下野の足利忠綱怪物伝説」
徒然草の吉田兼好「相州鎌倉住人安達泰盛こそ武士中の武士」
南北朝
武蔵武士系河内国住人楠木正成「ガチンコ決戦なら武蔵相模の二国>その他オールジャパン」
戦国
剣豪将軍足利義輝「剣日本一は上州の上泉信綱、西国一は肥後の丸目長恵」
奈良興福寺「やはり甲斐越後が最強」
三河者の武田家軍師山本勘助「関西侍は下の下」
戦国最強甲斐侍「関東武士は馬上戦闘&長刀、関西武士は下馬戦闘」
越後の豪族北条氏「畿内、中国侍は町人似の弱兵」
尾張の太田牛一「馬上巧者の関東衆西上野小幡党」
宣教師フロイス「島津軍は弓が多く長刀を巧みに操る」
戦国末
薩州島津家当主「信州真田兵が日本一」
ミスター三河武士大久保彦左衛門「上方奉行は口だけの腰抜け」
幕末
江戸本所の暴れん坊勝子吉&信濃の最強力士雷電「江戸の平山先生最強伝説」
豊後中津の天才剣士島田虎之助「幕臣男谷先生を筆頭に江戸の剣客は強すぎる」
陸奥の大剣豪千葉周作「江戸の高柳先生や男谷先生には生涯勝てない」
江戸の幕臣勝海舟「白井(江戸人)の剣は神の領域」
近代
東京出身の文豪芥川「千葉の山田次郎吉先生が最強」
水戸の高野茂義&岡崎の三橋鑑一郎「天下第一の名人は栃木鹿沼の下江先生」
別府の堀「水戸の門奈正最強」
京都の大日本武徳会「技の水戸人門奈、気の水戸人内藤」
昭和天皇「天覧武道大会全制覇の法神流(群馬)」


IOC競技ランク

競泳…エース萩野はじめ代表選手の半数以上が関東出身。関西人は個人メダルなし
体操…九州人と関東人が個人メダル。関西人は個人メダルなし
陸上…唯一の個人メダリストは競歩の長野県民。

バスケ…チームの核は吉田、渡嘉敷の関東人。関西人は蚊帳の外。
自転車、テニス、バレー…関西人除外
サッカー…自陣にゴールを決めた大阪藤春(笑)

バドミントン…唯一の個人メダリストは長野県民。
柔道…男女代表選手に関西人は一人も選ばれず(笑)
卓球…唯一の個人メダリストは静岡県民。男女代表選手に関西人は一人も選ばれず(笑)


レスリング…ゲイビに5本出演のベテラン男優は関西唯一の個人メダリスト樋口君(笑)
0293人間七七四年
垢版 |
2017/08/06(日) 23:58:25.08ID:cI6Mle5m
>>292
こんな少数しか見てないスレでそういうやりとりしだすと
すぐそっち系に趣旨を持ってかれてしまうから本当のお願いで勘弁してくれです。

>>65
の亀戸の小曽川氏だけど渋口(現川崎市中原区)の遅川氏と関係があると思う。
遅川は小曽川とも書いたらしいから。あと遅川よりは少ないけどこの辺も太田康資が
所領をもって様なので追加よろしく。
0294人間七七四年
垢版 |
2017/08/07(月) 06:34:03.04ID:AEZ5efND
間違えた。遅川はそのあとで中田藤次郎だった……すまん。
0295人間七七四年
垢版 |
2017/08/07(月) 12:18:07.56ID:rwcfLlKK
ご指摘サンクス
&追加&修正
ttp://i.imgur.com/LsxUclA.png
またなにかあったらどうぞ
0296人間七七四年
垢版 |
2017/08/07(月) 12:29:02.12ID:T7+nI+B6
武蔵自体の石高は60万石以上の土地だが

今の東京あたりはどれくらいの石高なんだろうな?
元荒川沿いの春日部や越谷あたりをGoogleアースで見ると一面が畑で驚いたよ、、、

だから埼玉辺りが穀倉地帯としての役割を果たしてたのかね?
0297人間七七四年
垢版 |
2017/08/07(月) 14:00:02.45ID:rwcfLlKK
本当に雑な計算だけど関八州諸城覚書で遠山氏(東東京)が1000騎
とりあえず3騎で100貫、1貫を2.5石だとすると約8万3千石
それからWikipediaの大久保長安のページの氏照(西東京)9万石を採用すると
足して約17万石じゃないかな
だから埼玉は60万石から引いて43万石ぐらいかなと思うよ
まぁ武蔵でも埼玉の方が普通に石高はあるだろうね
あんまり知識ないけど
0298人間七七四年
垢版 |
2017/08/13(日) 00:51:19.34ID:kNAurS2I
>>295
いつの状況かわからないけど三田氏って入間と高麗があるから埼玉部分にも伸びるのでは?
0299人間七七四年
垢版 |
2017/08/13(日) 07:44:07.93ID:3ydtJ2Eg
>>298
ご指摘サンクス
時代については申し訳ない、約16世紀あたりになってしまう
なんとなくこんな感じかぁと思ってほしい
三田氏の家臣は三田氏に統合されてるのと分けられてるがあっちゃうけど、
そこはスマソ
ttp://i.imgur.com/Co3RSDE.png
ここはこうした方がいいとかればまたお願いします
0301人間七七四年
垢版 |
2017/08/16(水) 01:30:32.48ID:TdHCwFVF
>>290
葛西城大石氏と多摩大石氏なんだけど、
まず葛西城大石氏なんだけど上杉清方時代の憲重。
次が景春に味方し葛西城城主の石見守。(1476〜80年)
この石見守が道灌状(1480年)ででてくる石見守だと思う。
それから1525年の氏綱が葛西城を攻めたときの石見守。
そして関東幕注文で太田勢(岩槻衆)で資正のきょうだい婿の石見守。
資正の後妻は定久の弟信濃守の娘(定久の養女)

多摩大石氏なんだけど最近は定久のあと綱周(養子)はさんで氏照(養子)という
説がある。ここでその綱周かもしくはその弟が憲重となる。ではなぜ多摩大石氏の
人物が憲重と名乗るのか?それは私は道灌状で暗殺された石見守に
嫡子がいなかったからではないかと思う。多摩大石から葛西大石に流れたとみる。
つまり1525年葛西城城主で葛西城を奪われた憲重(綱周かもしくはその弟)は
太田氏に逃れた。そして関東幕注文で名が上がる。
その後太田資正は葛西城を取り戻すが、その時は里見の武将が入ったようだ。
そしてまた北条方の本田氏や興津氏によって
1562年4月24日に奪い返されてしまう。
それから本田氏はそのまま葛西を知行することになり、
大石氏がもどることはなかった。と私は考える。
0302人間七七四年
垢版 |
2017/08/17(木) 00:26:04.72ID:VV40rEGL
>>301
大石綱周について、
私、刀好きなんですけど、戦国期の八王子の刀工に下原康重・照重がいます。
見てわかるとおり北条氏より一字拝領です。
この下原派の初代が下原周重といいます。
大石綱周が氏照の前に大石氏家督であって、一字を与えたと推定できます。

大永年中の史料に憲重の名が、天文弘治年間に綱周の名が見えるそうなので、
定久→憲重→綱周(憲重改名?)→氏照 という流れなのかなと思っています。

憲重と綱周は同一人物と言われるようですが、301氏のおっしゃる兄弟の可能性もあるのかな、
石見守系の「憲重」を名乗っている以上、多摩から葛西へ養子に出した。そのあと綱周が多摩を相続と。

綱周は氏照相続の際どうなったのかわからないのですが、平和的な家督譲渡ができたのだろうか?
石見守も幕注文以降どうなってしまったのか?とても興味があります。

そこで、越後上杉氏に仕えた大石芳綱や大石綱元は、どういう系譜になってるのか調べたのですがよくわかりません。
ただ、大石綱周と綱の字が共通なのが気になります。彼らの親が綱周や憲重、またその兄弟あたりになる可能性は
ないでしょうか。
0303人間七七四年
垢版 |
2017/09/04(月) 21:47:25.69ID:UnkPVN9T
行方氏ってなめかた氏であってる?
0304人間七七四年
垢版 |
2017/09/10(日) 21:54:15.05ID:yC9Rc5LJ
>>65
埼玉県越谷市が小曽川という地名があり、
後北条氏の岩槻城にて、家臣だったという記録があり
0306人間七七四年
垢版 |
2017/09/18(月) 13:07:45.75ID:WIGCP6FE
民進党をやめた木内孝胤は木内氏の子孫らしい
0309人間七七四年
垢版 |
2017/09/23(土) 13:34:57.11ID:zPxdJ8il
>>307
平川門のあたりに鎌倉街道から分岐して浅草に抜ける街道があったらしいんだけど、おそらくその街道を掌握するように江戸城が建てられていたと言われているね
0311人間七七四年
垢版 |
2017/10/04(水) 08:19:18.81ID:4HeYcjAm
>>270
http://blog.doukan.jp/article/40524774.html
ここに資重の名がでてるな
同一人物だとすると岩付太田の豊後守系で資政の子らしい。
(でもなぜ足利氏に被官してたのか)
そういや江戸太田の資元も佐賀の龍造寺の所行ってるな。
0312人間七七四年
垢版 |
2017/10/07(土) 14:53:22.35ID:AHbe5a6J
葛西城に入ったとされる里見(正木)家臣の網代大炊允。
網代氏って千葉県にいたのかな?
熱海からきたのか東京都あきる野市の網代か……
大石氏つながりで葛西大石氏にいた網代氏が主君を変えたとかか……
それからこの正木も内房正木氏か外房正木氏か。

正木と言えば三浦氏にこだわってて最後三浦氏名乗るけど、
太田康資と結合すればよかったのに。
太田資高は字から見ると道寸の血を引いてそうだけど。
憲時の時は三浦時高からかな?
そして英勝院と養珠院、北条が滅んでも絡み合う扇谷上杉家臣。
おもしろい
0313人間七七四年
垢版 |
2017/10/16(月) 18:31:25.97ID:/tjRh8Qj
山木大方っていう氏康の女兄弟が今川の堀越六郎との間に生まれた子供が
武蔵吉良氏継いでるんだな
結局武蔵吉良氏も堀越にって言うより北条に呑み込まれたんだな
0314人間七七四年
垢版 |
2017/10/17(火) 22:01:51.82ID:JSNpHOGU
氏朝の子から蒔田になり、そこから4代後にまさかの
大石内蔵助のおかけで吉良氏に名前戻せたのかW
0316人間七七四年
垢版 |
2017/10/18(水) 03:30:16.18ID:Yb+HQ6pX
蒔田の吉良歴史研究会
ttps://maita-kira.jimdo.com
括弧でいいから世田谷の吉良氏とも書いて欲しいな〜
0317人間七七四年
垢版 |
2017/10/19(木) 11:36:42.87ID:kCh326Sv
北区の堀船に梶原政景の屋敷があったらしいよ
0318人間七七四年
垢版 |
2017/10/21(土) 22:22:52.68ID:dh5oG+Wf
質問なんですが、
第二次国府台の戦いで里見勢が大勝してたら歴史はどのように変わったと思います?
0319人間七七四年
垢版 |
2017/10/22(日) 00:14:04.84ID:3E944pzv
>>318
反北条勢力が息を吹き返す下総をとられたら武蔵は里見の侵攻を受け続けるだろうね防戦一方で北条は領土拡大は長引く
0320人間七七四年
垢版 |
2017/10/22(日) 00:16:16.35ID:us2aAxCt
>>318
仮に江戸城とれたとしても、結局反北条連合内で内ゲバがはじまって、
北条が時代をずらして勢力のばしただろう
そうしたら歴史的には秀吉が攻めやすくなったぐらいじゃね?
0321人間七七四年
垢版 |
2017/10/22(日) 00:58:36.33ID:mW/abBpG
>>319、320
反北条連合は誰かを掲げないとまとまりなさそうですもんね
謙信が中心になるだろうけど、いつもいるわけじゃないし、藤氏は小田原で捕虜。
全員で藤政を掲げるか、里見が晴氏の妻つながりで中心になる感じが一番でしょうか?
0322人間七七四年
垢版 |
2017/10/22(日) 04:45:10.28ID:MFOFRm2K
推戴なら小弓の後継頼淳が里見に匿われていたでしょ
第二次国府台当時は30くらいかな?
彼でいいと思うわ
もともと北条の支援で家督を簒奪できたのに北条を裏切ったのは小弓に接近したからだし、のちに義康は頼淳を担いで小弓を攻めたもの
0323名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!
垢版 |
2017/10/22(日) 08:07:38.20ID:mW/abBpG
>>322
里見の正室は青岳尼だし頼淳ありですよね。
ただもしかしたら北関東の大名方は古河系にこだわってたかもですね。
一時期藤政が推されて信玄も加わったのもありますしね。
(たしか里見も藤政推しだったかと)
そういえば両家とも里見に庇護されたときに和解はなかったんですね。
国朝氏姫までもつれてたってのはやっぱり足利は名家ですね。
お互いまだ正統な後継者は譲れないってのでダメだったんでしょうかね。

>>321
訂正)里見が晴氏の娘の妻つながり
0324人間七七四年
垢版 |
2017/10/24(火) 16:28:47.51ID:1fmeOO7c
>>282
犬牽地蔵尊とはまた別の話なのか。
こちらは親棟が犬を地蔵に括り付けて湖に投げたら、呪いがかかって
坊さんに助けてもらったって話だ。
それにしても親棟は資正と真逆で犬めちゃめちゃ嫌いだったんだな。
0325人間七七四年
垢版 |
2017/10/27(金) 17:16:05.59ID:YBL1nZNP
白河古事考にでてくる板橋将監って親棟ではないか?
残念ながら根拠は乏しく板橋村の古記ということだけなんだが……
ただそうすると、天正5年(1577年)7月の小峰(結城)義親が白河城を攻め落とたのは、
氏政が佐竹氏を攻めたのに乗じて言われているが、可能性として元々、北条が親棟を
送り込んでいたということになる。地理的にも可能で、時代的には壬生のひと騒動の
一年後ぐらいとなる。北条が親棟を使い北関東を調略してたのではないか。
0326人間七七四年
垢版 |
2017/10/27(金) 20:05:21.36ID:k59HIr6q
となると、かなりの重臣あつかいだけど、そこまで名が残ってないのは不思議だな
0327人間七七四年
垢版 |
2017/10/28(土) 15:54:25.64ID:o340UnTj
北条が武勇にすぐれるからよこせとの書状が残る元吉良家臣の
江戸氏、大平氏、中田氏なども、よく分からんし
武蔵国の武将は時代とともに埋もれてんだよなぁ
吉良四天王の関加賀守、大場越後守、宇田川杢頭、白井但馬守とか
格好いい括りなのに全然分からんしなぁ
関兵部丞は関加賀守の近縁かな、宇田川も気になるし、、、
0329人間七七四年
垢版 |
2017/10/29(日) 17:19:37.21ID:lOljjuEe
次に、オレがアクセスする掲示板に、同時間帯に現れる
まことが、ハッキングしていると疑った最初である
0330人間七七四年
垢版 |
2017/10/30(月) 13:26:09.57ID:EG7mVd/f
岩槻太田氏と江戸太田氏ってどっちが嫡流何だろうか?
あれかな、道灌死後資康は追われて、岩槻は扇谷に残ってるようだから、
ここで扇谷の意向で嫡流が変わった可能性もあるのかな?
自分に従った一族を嫡流にするって考えられるよね?
0331人間七七四年
垢版 |
2017/10/31(火) 00:07:57.63ID:AwqE0oYz
上杉憲幸と上杉憲寛が似てる
二人は両方とも武田氏が娘を両息子(上杉氏幸、上杉義勝)に娶わせている
0332人間七七四年
垢版 |
2017/10/31(火) 22:52:36.47ID:W2X0v376
>>330
新井白石は岩槻が嫡流と言ってるな
まぁただゴタゴタもたくさんあったからもはやどちらが嫡流というものでも
ないかもな
0333人間七七四年
垢版 |
2017/11/01(水) 16:29:55.87ID:TyC/FLnB
そろそろ2020年の大河ドラマ決まるらしいけど、
太田道灌を推してる団体の頑張りは実るかな?
僕的には本当は太田康資と資正のダブル主人公で
国府台の戦いまでを描く大河が見たい
太田一族の異なった歩みとはとこ(厳密には違うけど)が別の道を歩みながらも
影響しあい、最後は手を取り合うという物語……どうかな?
0334人間七七四年
垢版 |
2017/11/02(木) 06:48:54.48ID:ErjU5QZX
それ以前に北条早雲すら大河になってないのはおかしい
0336人間七七四年
垢版 |
2017/11/02(木) 18:09:08.90ID:ySUAfOax
>>334
そうですね、北条も団体が頑張ってるらしいですけどね
私も北条5代はやってほしいですね
ただやっぱり他の県の団体の活動が目立ちますね
ちなみに今回道灌団体は11万人の署名と神奈川県の黒岩知事の署名とメッセージを
ゲットしたみたいです
なので今回は北条より道灌をむさしも国、むさがみ国、ちちぶ国が推してるかもです
たぶん東京オリンピック意識なので早雲よりは下の代がライバルですね
0337人間七七四年
垢版 |
2017/11/03(金) 00:34:22.05ID:0WMM31B9
さすがに2020年の大河は戦国だ…よな?……
0338人間七七四年
垢版 |
2017/11/04(土) 05:44:06.55ID:MiRKbg/r
ライバルは立花宗茂と忠臣蔵らしいよ。
立花宗茂は2度目の藩主から400年記念、
忠臣蔵は1964年度東京オリンピックの時に赤穂浪士だったかららしい。
さてどうなるかね。
0339人間七七四年
垢版 |
2017/11/09(木) 00:11:58.17ID:07Cx0b+Q
武田四天王の内藤昌豊と北条家臣の内藤綱秀につながりを感じてる人、俺以外にいない?
昌豊(昌秀)の父工藤氏が早雲の所に亡命した説、綱秀の父が康行又は景豊で自身も
景豊を名乗った説、昌秀の子昌月も綱秀の子直行も最後は氏直のもとにいること、
そして両内藤とも大和守を叙位されてること。
秀に豊…気にならない?
0341人間七七四年
垢版 |
2017/11/09(木) 10:47:46.32ID:Ud+Xlxe7
内藤昌秀(俗説では昌豊とされる。)の父工藤虎豊は信虎に殺されて死亡した、
とされ、その時は1536年であったとされ、
たしかもう、このころには北条早雲は死亡しておりましたし、
1508年に信虎に敗北して早雲の元へ逃れた工藤氏、が虎豊の事であるとされますと
昌秀が生まれるのはそれから14年後、
虎豊は一回北条早雲の元に逃れた後で、また信虎に許されて帰参して、
その後で信虎に殺されて死亡して、また工藤氏は北条を頼ったりしたのでしょうかね?
0342人間七七四年
垢版 |
2017/11/09(木) 13:30:44.22ID:07Cx0b+Q
>>341
内藤綱秀は分家からの養子とされてる。祖父(?)の朝行は朝定から、
養父の康行は氏康から、子の直行は氏直から、
綱秀はなぜか逆転して氏綱から(不明)。
次に内藤景豊は北条幻庵の三女が1535年に内藤景豊の正室になってるようで、
小田原攻めの際の内藤景豊は老兵か2代目。
内藤綱秀と内藤景豊と同一人物かまたは別人か。(互いに大和守、
家紋に共通あり、ただし親族かも)
ここで、出自が曖昧な津久井内藤氏(一応藤原秀郷系)に内藤綱秀や内藤景豊のときに
甲斐内藤氏(源満季系だとか)が入り込んでないか(秀や豊から)
と、意味を含んだ妄想の文が339。
とまぁここまで書いて、ネットを漁ったらまた新情報(北条方内藤氏は三系統あり)
もあり、北条方内藤氏の謎はまた深まってしまった。
ごめん会話がかみ合ってるかわからんけど一応返信しとく。
0343人間七七四年
垢版 |
2017/11/09(木) 23:11:06.66ID:i4iaPgp5
>>342
返信と情報提供をどうもありがとうございますね。
0346人間七七四年
垢版 |
2017/11/28(火) 10:27:51.86ID:vEREretA
丹波篠山藩の初代藩主の松平康信の母親は太田輝資の娘紫雲院
輝資は太田康資の弟で北条方に残り太田/北条氏房に仕えた
徳川が入国したあとは仕官を断り現川口で隠居
ただ女系での血は形原松平家で大名として幕末まで存続
0347人間七七四年
垢版 |
2017/11/30(木) 11:34:47.07ID:9frVxLvp
武蔵千葉氏と下総千葉氏に関して

とりあえず関東を原点からみると
(本当は将門、頼朝、前北条も地続きだと思う)
鎌倉幕府を経て室町幕府初代の足利尊氏直義兄弟後ずっとくすぶっていた
中央と関東の争いからはじまる
もともと鎌倉足利と関東管領上杉は足利兄弟派閥の違いで、ねじれていた
これは尊氏の子足利基氏が尊氏死後に尊氏の思惑と異なり
直義の意向(鎌倉府の独立性)を引き継いだためだという
(直義派の上杉氏を関東管領に復帰させた、だが皮肉なことに上杉は中央寄りになる)

そして鎌倉足利持氏のときに、上杉の権力拡大を疎み上杉禅秀を虐げ、
犬懸と対立関係であった山内を起用した結果、上杉禅秀の乱が起こる
これは中央の支援もあり、犬懸上杉が没落し(子供らは京へ逃げた)
山内がより強くなった
(起用された憲基がすぐ亡くなったため越後上杉憲実が山内を引き継ぐ)
そしてこの争いで活躍したのが関東のフィクサー長尾景仲である
憲実自体も長尾、大石によって擁立されたとみる説もある
ちなみに大石氏も上杉氏の下で大石遠江守信重や
大石能重などを輩出し、上杉禅秀の乱でも
大石遠江守憲儀が活躍し出世していた
0348人間七七四年
垢版 |
2017/11/30(木) 11:35:15.64ID:9frVxLvp
その後持氏は将軍義持猶子だったため(一説)義持の死後に将軍の野望をもってしまう
そして新しい将軍義教を軽んじた、これにより中央よりの憲実とも対立してしまう
これで中央&上杉vs鎌倉はいよいよ後戻りできなくなる

状況の悪化により持氏は上杉憲実に中央との仲裁を依頼し、
憲実も助力するが持氏は将軍義教によって自害においやられる
憲実は弟清方に託して出家、結城合戦の後
(結城氏が中央に逆らい持氏の遺児を擁立をしようとした戦)
自らの子も出家させ完全に関東管領を弟に回した。
景仲は両戦いを上杉家宰長尾忠政の下で功績あげ、
清方から指名され山内上杉家の家宰を手に入れる
彼は上杉憲実、その子憲忠や長尾忠政と違い、鎌倉公方に対して強行的に行動していく
景仲vs持氏遺児の成氏と構図へ向かう
(中央は上杉一強を恐れ成氏の鎌倉入りを許した)
0349人間七七四年
垢版 |
2017/11/30(木) 11:35:30.61ID:9frVxLvp
憲忠(景仲よって擁立)は成氏を補佐しようとしたが景仲は成氏派の結城氏などと対立した
景仲は強硬に出て扇谷上杉家宰で婿の太田資清とともに江ノ島合戦を起こす
(資清は憲忠義父の扇谷上杉家宰で景仲の婿)
だが景仲は敗北し所領家宰職没収、憲忠の鎌倉の追放と復帰へて
一度は丸く収まったものの成氏は憲忠と家宰職長尾実景憲景父子を謀殺してしまう
少しズレるが大石憲儀も反成氏派で処分をうけていることから
景仲、太田資清と近い存在だったことがうかがえる
憲忠暗殺の報せを聞いた景仲は憲忠の弟房顕を関東管領に迎え入れると共に
成氏を討伐する事を決め、家宰職に復帰した
分倍河原の戦いにて惨敗してしまったが、成氏も報告を受けて中央から派遣された
今川範忠によって鎌倉を追われて下総国古河城に移り古河公方を名乗った

ここでいよいよ下総では
永享の乱の終盤に上杉方になった千葉宗家胤直胤賢兄弟と胤直の子で
兄胤将の早世で当主だった幼い胤宣を
庶家で成氏派の馬加康胤と重臣原胤房によって攻撃され滅ぼされてしまった
(胤将は父とは逆に持氏派だった)
胤賢の子実胤と自胤は千葉城から市川城、
そして武蔵国の上杉派を頼り葛西城へ逃げ延びたのであった
こうして武蔵千葉氏がはじまった
0350人間七七四年
垢版 |
2017/11/30(木) 11:35:45.83ID:9frVxLvp
1454年 成氏が関東管領上杉憲忠を謀殺
千葉胤将死去
古河に公方が移る
武田信長と里見義実が上総、安房に現る
可能性としてこの頃土岐為頼の先祖も現れたか!?
(武田信長は下総前は相模西部を所領していた説あり)
1455年 成氏によって扇谷上杉顕房、武蔵国守護代大石憲儀が戦死
後の武蔵千葉氏vs馬加&原胤房
東常縁が千葉氏の内紛を収めるため下総に下向
酒井定隆も東常縁と一緒に下向したとも
(上総酒井氏の祖の可能性あり)
1456年 東常縁が馬加氏を滅ぼす
道灌家督を継ぐ(この頃には品川湊近辺の館に居た)
1457年 江戸城や河越城を太田道灌が築城
(江戸周りは江戸氏の所領を南下していて、豊島氏が主)
上杉持朝が河越城を居城とする
江戸城の築城において太田道灌の命令で、
宇田川長清が江戸日比谷から北品川に移住する
ちなみに武蔵吉良氏の成高は持朝の娘を妻に迎えた
そのため、上杉方として動いた
1458年堀越公方下向
1459年五十子・太田庄の戦いがはじまり旧利根川挟んで上杉方と古河公方方に分かれる
ここから享徳の乱の謎の中期になる
0351人間七七四年
垢版 |
2017/11/30(木) 11:35:57.63ID:9frVxLvp
まず、武蔵千葉氏は下総に戻れなかった、
だけれども東常縁は1469年に息子縁数を残し帰国とあるので
下総で古河公方の勢力が強い中でも残っているのである
ではどこにいたのか、自分は古河勢が巻き返し図った際、匝瑳郡まで逃れたことから
今の東総地区にいたと思われる
さらに上記の武田、里見は成氏に呼ばれたとあるが、
堀越公方政知は成氏方の諸将を懐柔することに努めたことや、
東常縁がそのまま存在していることから、実は武田、里見、酒井、土岐氏は
中央側の東常縁と成氏側とをいききしたりなど、
定説通りには動いてなかったのかもしれない
そして大須賀左馬助・国分五郎などは東常縁の味方をしたようだ
逆に酒井定隆は成氏の客将になったという

1462年 武蔵千葉実胤隠居
(堀越公方と扇谷上杉が揉めたため、三浦氏や大森氏とともに隠居)

このことからこの時には立場から見て扇谷で出世してることが分かる
(後に実胤は上杉顕房の娘、自胤は長尾景信の娘で景仲の孫を嫁にしている)
いつごろから赤塚、石浜わからないがこの時には所領していたのではないか
それから隠居に伴い弟自胤が当主になり、宗家の千葉介も公認されている
そして実胤は出奔したと言われる
0352人間七七四年
垢版 |
2017/11/30(木) 11:37:32.71ID:9frVxLvp
さて時を同じくして下総では馬加氏の庶長子と思われる岩橋輔胤が原氏の所領を
受け継いでいた、だがそれ以外は不明である
ちなみに胤将は父胤直の異母兄弟とする説がある、妄想だが年齢的に子がいてもおかしくない
つまり岩橋輔胤の子とされる孝胤は実は胤将の子ではないか
東常縁もいてまだ下総自体不安定の中で不自然に岩橋氏が千葉氏を乗っ取るというのに
引っかかりがある、そしてこの時期の情報はほぼない
だとすると可能性はかぎりなく低いが考えてしまう
胤将は馬加と同じく成氏派で、父又は兄の胤直の出家に伴い当主になったが、
胤将死後今度はまた上杉派の胤直が口をだしてくると
謀反を起こし、その子息を擁立というのがありうるし、後世の千葉氏の動きとも
大きな矛盾はない、残念なことに胤将に子がいた資料はないが

1463年 長尾景仲死去、ついに関東のフィクサーが死にその息子景信が継ぐ
武蔵千葉氏に赤塚の寺院への返還要求の書状が堀越公方から届いている

実胤ははたしてこの時戻っていたのであろうか

1464年 足利義視が僧侶から還俗
1465年 臼井教胤死去

千葉孝胤の明確な活動時期までまだある、本佐倉城の築城時期も諸説ある
そこから西には臼井城があった、城主は臼井教胤である
死去後実子俊胤が幼いため養子の持胤がついだということだ
そしてこの持胤は孝胤の子だというが、年齢が合わない
この時に14〜20ぐらいだとしてもこのとき孝胤が
6〜21歳ぐらいだということだ
これも妄想だがこれは実胤の子ではないだろうか
ただし実胤も孝胤同様に年齢が合わないが
理由としては伝承に実胤と扇谷上杉の娘の子守胤が臼井俊胤のあとをつぐ
というのがある、世代がずれたと見るのはどうか
持胤=守胤というのもおもしろいと思う
0353人間七七四年
垢版 |
2017/11/30(木) 11:38:50.20ID:9frVxLvp
1466年 上杉房顕死去

フィクサー景仲が越後国守護上杉房定の子に継がせるよう遺言で残していたらしく、
上杉顕定が関東管領に就任

1467年 応仁の乱が起こる
今川義忠が応仁の乱のため上洛し、伊勢早雲の姉妹と婚姻をする
扇谷上杉持朝が死去、息子の上杉政真が継ぐ
宇田川清勝討ち死に
1468年 東常縁の美濃の所領を奪われる
1469年 東常縁は息子を下総に残し、京都へ上洛し所領を返還される
1470年 現千葉県市川市で原左衛門次郎蓮教
高城氏が松戸市の平賀本土寺に制札が伝わっているが疑いもあり

いよいよ謎の享徳の乱の中期を脱し
応仁の乱の余波で関東もより動きだす
下総においても戦いがいくつもあったとおもわれ所領は確定はしてないように思う

1471年 小山、結城、千葉孝胤が堀越公方を攻めるが、
山内上杉が堀越と合流し、退却するも叩かれ壊滅状態に
景信が古河城を攻め、成氏は孝胤の元へ逃げる
成氏が下総の知行に関し権威を行使して解決させた
上杉氏が小弓に攻めこみ原胤房死去

この頃か定かではないが、実胤は大石石見守に招かれ葛西城に赴き、
密かに成氏と連絡をとり、千葉介を認めてもらい、下総に帰還できるよう頼んだとか、
だが、それを知った孝胤が猛抗議し叶わず、上記の出奔につながるとのこと
美濃の東氏を頼ったとか
0354人間七七四年
垢版 |
2017/11/30(木) 11:40:07.84ID:9frVxLvp
1472年 古河城を成氏方が取り戻す
五十子で上杉方と成氏方が激突
1473年 上杉政真、長尾景信が死去、扇谷は嫡子がいなかったため
資清など老臣の評定により、政真おじの定正が継ぐ
長尾は上杉顕定の指示で息子の景春ではなく、景信弟の忠景に継がせる

ここで景春の乱につながる、景春は従兄弟の道灌をたったが、道灌は拒否したものの
色々提言したが聞き入れてはもらえなかった、さらにその行動を父資清に𠮟咤された

1476年 今川義忠討ち死に
伊勢早雲が調停のため幕府から遣わされる
道灌が犬懸上杉の血が入る小鹿範満を擁立すべく出向く
この件は和談が成立し、道灌は撤収
景春が武蔵鉢形城に拠って反旗を翻す
大石遠江守房重が戦死
1477年 臼井持胤が俊胤に家督を譲るが、俊胤が実子に譲るべきと拒否、
だが強引に譲って隠居してしまった
景春が五十子陣急襲、顕定と定正は大敗を喫して上野へ敗走した
上杉顕定の重臣として大石定重は武蔵国守護代につく

これにいくつかの関東の武家、国人、地侍が呼応し、景信の娘をもらっていた義兄弟の
豊島氏も景春についた(これまでは南武蔵で防波堤の役割をしていたと感じる)
武蔵二宮の大石憲仲や葛西の大石石見守も景春についたという説もある
太田資忠や上杉朝昌(朝良や東永の父)、三浦高救や自胤、
もちろん道灌の活躍により諸々の武士及び豊島氏、景春をはねのけた
この時江戸城を守備したのは恐らく吉良成高だった
景春は武蔵国鉢形城に逃れ、足利成氏一同が救援に駆けつけため景春は討てず、
顕定と定正はまたも上野に撤退した
0355人間七七四年
垢版 |
2017/11/30(木) 11:42:26.37ID:9frVxLvp
1478年 成氏が和議を打診
公方と上杉氏との和睦が成立
1479年 臼井城包囲

和議に反対の豊島氏を滅ぼし、鉢形城から景春も追い出し、顕定の居城とした
さらに反対派の孝胤のもとへ太田資忠と自胤とともに攻め込んだ、
境根原合戦経て孝胤を下総から追い出した
この時臼井俊胤が城主の臼井城を攻めた太田資忠が討ち死にした
自胤は城代を置き、武蔵国へ帰国した
ただこのとき海上備中守、武田上総介、武田参河入道が下り、
武蔵石浜へ移った武田入道は、金龍山浅草寺を再建し、ふたたび上総に戻ったらしい
そして定説では孝胤は下総にもどり巻き返し下総を抑えた
一番最後に破壊的な妄想を書く

1480年 景春が日野城及び武蔵国から追い出させられる
1482年 ついに幕府と関東公方が和解
1486年 臼井持胤の子幸胤元服とともに当主になる
定正によって太田道灌暗殺される
足利に人質としてだしていた
道灌の子資康が江戸に戻ったが放逐される
三浦高救(定正の実兄)が定正に代わろうと図って、
養父三浦時高に追放される
太田資康をはじめとした扇谷家臣が離反し山内に下った
太田資康はその後三浦義同の娘をもらう

1487年 顕定と実兄で越後守護の定昌は
扇谷に通じた長尾房清の城を奪い、両上杉の戦いがはじまる
大石憲儀の庶子で大石定久の父とされる大石信濃守定重が
亡父の三十三回忌を供養した
1488年 酒井定隆が勢力を伸ばし上総酒井氏の祖になったという説がある
顕定は実父の上杉房定の支援を受けて、
太田資康や三浦高救とともに鉢形城を攻めた
結果としては顕定は敗走、定正は兄の朝昌居城を奪われた
そして定昌は謎の死を遂げる、その後も攻防が続いた
0356人間七七四年
垢版 |
2017/11/30(木) 12:21:13.57ID:9frVxLvp
最後に千学集抜粋は災害で多くが失われ、
千葉大系図は邦胤の子重胤が校訂したとされてるみたいだから
鎌倉大草紙も途中で作者が変わったとないとか
割となんでもあり…とはいかないか
本当に不思議な情報があって妄想がすごいことになる
やっぱひどいか
0357人間七七四年
垢版 |
2017/11/30(木) 12:24:11.05ID:9frVxLvp
1489年 江戸城代の曾我祐重が苦悩手紙を定正に出す
1490年 臼井幸胤死去、再び義理のおじの俊胤が家督を継ぐ
1491年 支配が伊豆1国のみなってしまった堀越公方の足利政知が病死
1493年 武蔵千葉自胤死去
北条早雲が伊豆に侵攻し堀越公方から所領を奪う
北条早雲は定正と手を組んでたいわれる

1494年 扇谷重臣の三浦時高と大森氏頼が死去、両家とも内紛状態へ
定正が落馬で死去
上杉朝昌の子で伯父上杉定正の養子となった上杉朝良が継ぐ
太田資康が扇谷上杉家へ復帰
山内と対立姿勢の景春と和睦を望むその子景英が対立
景英が白井長尾家の当主に取り立てられる
1495年 扇谷朝良が駿河国守護今川氏親に顕定打倒への支援を依頼する
派遣された北条早雲が大森藤頼から小田原城を奪い取る
ただし、すでに大森藤頼が扇谷を裏切り山内に下っていた可能性あり
朝良の了解のもと奪ったのかもしれない

1497年 足利成氏死去

こうしていよいよ後北条氏が関東に侵攻してくることになる
0358人間七七四年
垢版 |
2017/11/30(木) 12:28:17.11ID:9frVxLvp
そして時代は遡って…
定説では道灌の下総侵攻後、孝胤は下総にもどり巻き返し下総を抑えた
ここからは完全に壊れた妄想だけど、
本当に数か月落ちなかった臼井城が落ちるだろうか
これより後の時代でも上杉謙信が落とせなかった城だから
戻ってきてさぁ落としましたは不自然に感じる
それにせっかく下総に戻ったのに帰るのもなんか違う
和議で討伐流れなわけだし
それはおもうに兄の子にゆずったから

まず、守胤=持胤で、持胤が勝胤に改名で孝胤の養子に入る
そして孝胤は出家で家督を譲る、これで堂々と千葉介を名乗る
0359人間七七四年
垢版 |
2017/11/30(木) 12:32:20.93ID:9frVxLvp
持胤の伝承で孝胤、勝胤、持胤が山内と扇谷の間で争いがはじまると
山内に味方したが、家臣の原胤隆と木内氏に味方しようとしたために
孝胤が持胤を原胤隆へ送り寝返りさせようとしたとある
持胤=守胤としたとき、時期的に道灌暗殺後であるから
両千葉氏が山内に転じても問題ない、守胤=勝胤でない場合は
両千葉氏は真逆の立場をとるだろう、ただそうすると道灌の盟友は
いくつかの武家が扇谷から離れたときに律儀にのこることなる
残念なことに武蔵千葉氏に関して道灌死後全く資料がない
さらにこのころ葛西城の大石石見守が円城寺氏に殺害されたのは
家臣団の中に扇谷派がいたのかもしれない
そしてもめることなく他の大石石見守が葛西城に入ることから
話がちゃんとついたのだろう
そもそも扇谷の中にぽつんとある山内家臣大石氏も不思議だ

そしてさらに守胤は東常縁や常和とつながりがあり和歌が得意、
勝胤も得意だが本人の和歌は残ってない、それは改名したからかも
0360人間七七四年
垢版 |
2017/11/30(木) 12:37:15.22ID:9frVxLvp
そして子供は昌胤と良胤、良胤は自胤死後に武蔵千葉氏を継ぐ
これでだいぶあとに出てくる胤富の子の邦胤と双子の良胤を消化できる
良胤は親北条氏と言われる、つまり早い段階で
武蔵千葉氏は北条氏に下ったとも見える
これによりまた下総と分かれた

これからがもっとひどいが良胤の子の胤利と昌胤の子言われる利胤は同一人物で、
実は武蔵千葉氏が父自胤死後、家中の実権を掌握した良胤は胤利の正室に
北条氏綱の娘をもらっており
武蔵千葉氏が千葉殿になったのではないか
川越城の戦いに参加したのも実は武蔵千葉氏ではないか
利胤が元服で千葉妙見宮で行えなかったのは武蔵千葉氏だからではないか

そして昌胤の方は利胤を飛ばして子の親胤が下総を継ぐ
弟の臼井胤寿ともめていたのは利胤ではなく親胤ではないか
他が親北条なのに親胤が反北条だったからではないか
そして兄の胤富によって暗殺される
ちなみに親胤と臼井守胤つまりここでは勝胤=守胤=持胤の
法名と逸話が一緒で守胤は重臣になり(重臣はおいといて)
最後は孫と一緒に自害し、そして家臣の砂尾修理が
守胤をまつるのに石浜総見寺に千葉塚を建てたとさ
0361人間七七四年
垢版 |
2017/11/30(木) 12:38:26.64ID:9frVxLvp
最後に千学集抜粋は災害で多くが失われ、
千葉大系図は邦胤の子重胤が校訂したとされてるみたいだから
鎌倉大草紙も途中で作者が変わったとないとか
割となんでもあり…とはいかないか
本当に不思議な情報があって妄想がすごいことになる
やっぱひどいか
0363人間七七四年
垢版 |
2017/12/02(土) 18:43:59.57ID:7A4oWJcr
所領帳で六郷殿って河越筋脚折(埼玉鶴ヶ島市)に所領持ってた
鶴ヶ島市って言えば正音寺の伝承によると岸田正春は扇谷上杉朝定に仕えていたが
川越城戦のあと正春は孤児になったしまった朝定の子を養子にして岸田和泉正信と
名乗らせ岸田家を継がせたって話らしい
上杉憲幸とは関係あるのかな?少し遠いけど北は東松山だし憲勝も気になるな
資正家臣の宇田川弾正も扇谷系宇田川氏がいるからこれも気になるなぁ
宇田川弾正は浦和だけど
0364人間七七四年
垢版 |
2017/12/03(日) 14:52:04.90ID:7AXmq5rN
後北条氏に二つ以上の中条氏がいて、
ひとつは国府台もしくは新田金山攻めで討ち死にした出羽守。
この方は北条の重臣で調布に所領を持ってた、
それと真言宗から日蓮宗に改宗してる。
もう一つが1590年頃家臣になった景信の子景正、
景正甥の景定が後を継いで景正子景忠は医者になったって話がある。
樋口信孝の母の中条氏は日蓮宗の中条氏らしい、つまりひとつめの中条氏の一族。
そのまま、その人物が持胤とも考えられる。
中央の中条満秀系か又は熊谷市あたりにいたかと思ってたけど、
永和や永徳の時代にいる中条氏があやしい。
浦和地頭や世田谷代官で名が見えて、もしかしたら武蔵吉良氏の関連の人物かも。
0365人間七七四年
垢版 |
2017/12/03(日) 15:21:26.18ID:D/I4lzLL
長文が多くて読みにくい……
0366人間七七四年
垢版 |
2017/12/04(月) 08:16:11.76ID:6QdP+T8L
東京で城めぐりするとしたらどこがおすすめとかある?
0367人間七七四年
垢版 |
2017/12/04(月) 08:56:10.39ID:YvSVkfB9
多摩に行けば滝山とか状態は良いな
23区なら赤塚が比較的残ってるかな
0368人間七七四年
垢版 |
2017/12/04(月) 10:00:49.02ID:6QdP+T8L
>>267
ありがとう、じゃあちょっくら行ってみようかな
縄張とかそういうのよくわかってないけど、勉強がてら散策してこようこな
0369人間七七四年
垢版 |
2017/12/04(月) 14:34:02.19ID:azsyHkNT
>>364
ふたつめの中条氏ってもしかしたらフェニックスのとこから来たのかな?
たしか小田城攻めの家臣に中條出羽守がいたし、そのあたりから北条に助け求めてるし、
ボロボロになりだした小田氏から北条に移ったかな?
0370人間七七四年
垢版 |
2017/12/04(月) 16:44:46.80ID:IfmbPFPr
所沢から府中にかけて府中街道沿いに新田足利軍と鎌倉幕府軍の戦場がいくつもある
0371人間七七四年
垢版 |
2017/12/08(金) 07:45:45.67ID:UQEy2iel
遠山綱景の娘を嫁がせた先って
・太田康資
・舎人経忠→大道寺政繁(再婚)
・牛込勝重
あとあったっけ?
0372人間七七四年
垢版 |
2017/12/08(金) 19:39:03.58ID:UQEy2iel
連投になっちゃうけど
これ
・太田康資→牛込勝重(再婚)
もあったりするんかな?
で法性院の連れ子が氏政の政と勝重の重で重政
うーん
0373人間七七四年
垢版 |
2017/12/17(日) 02:34:14.97ID:ZB4lamXf
>>360
残念だが横浜市港南区野庭ら辺を開拓した臼井一族の臼居守胤ってのがいるぞ。
千葉守胤が1556年or1537年、臼井景胤、臼井守胤、千葉親胤、臼居守胤が
1554年に没っしたという。臼居守胤は臼井守胤と同一人物と見られてる。
ちなみに臼居守胤は中田加賀守の娘をもらってる。
ただこの話も色々おかしいところがり、かなり混乱されてるのは事実。
0375人間七七四年
垢版 |
2017/12/27(水) 09:40:12.89ID:GxX9xfGy
江戸川区開発
・宇田川喜兵衛
・篠原伊予
・田島図書
0376人間七七四年
垢版 |
2017/12/28(木) 02:47:32.01ID:J9w0YdgV
質問なんですが江戸氏館が江戸城の前身ってどのくらい根拠があるんですか?
0377人間七七四年
垢版 |
2018/01/10(水) 05:06:31.13ID:Cz55wxfG
>>376
ない
0380人間七七四年
垢版 |
2018/01/31(水) 22:49:50.86ID:LfIX9Kg4
質問ですが、上杉憲勝と宇田川親定は兄弟ですか?
0381人間七七四年
垢版 |
2018/03/01(木) 02:59:36.92ID:uIgHzcn/
無理に戦国中期にこだわらずに、太田道灌と千葉自胤、豊島兄弟でいいだろ
0382人間七七四年
垢版 |
2018/03/01(木) 20:44:39.95ID:iC+V7pBR
>>373
こんなところで実家の近くの住所を見るとは
あの近辺って日限山(ひぎりやま)とか馬洗い川とか味のある地名があってなんかいい
0383人間七七四年
垢版 |
2018/03/14(水) 12:43:38.82ID:CtNGOqB+
資宗が資武から系図の資料集めて、資武が亡くなってすぐ改竄したのかな?資武側は怒らなかったのか?
0386人間七七四年
垢版 |
2018/03/21(水) 09:05:43.59ID:JfB7cUBh
まことは、注意をされると必死になる
これも、無教養の証である
0387人間七七四年
垢版 |
2018/04/24(火) 23:35:22.93ID:BILdylu/
ttp://www.nihon-u.ac.jp/lawschool/wp-content/uploads/2018/03/09homu-kenkyu15.pdf
無理くりだけどおもしろい
重正すげー
0388人間七七四年
垢版 |
2018/05/10(木) 21:49:21.52ID:eEH6b7HK
宗甫(間宮宗甫)ってどういう人物なんだろう
0389人間七七四年
垢版 |
2018/05/11(金) 10:50:34.33ID:HrPdRKGt
八王子は山側故に本家の相模や他の地域から塩止めされると夏は特に厳しかった。

其処で裕司公は領民にたいし、常に塩を保存することを命じた。夏のさいは女子供も摂取しやすくするために甘露水にまぜ、水菓子を香料とした甘露水を水瓶に入れるようになった。

其処で某所では水瓶といえばこの甘露水という具合に水瓶は飲料水の代名詞となった。のちに西洋ではこの水瓶を模る星座をアクアリウスと呼ぶのに倣い、裕司公発案の甘露水をあくありう水と呼ばれるように相成った。
0391人間七七四年
垢版 |
2018/05/14(月) 15:35:12.30ID:MeHvTWOq
池袋裕次

1193〜1919年
八王子勢力を武装闘争の発明に導くことで知られていた伊勢佐幕府(1942-1938年)の193回目(一般的には正式摂政、しかし事実上は家の支配者)。

池 袋 裕 次
0392人間七七四年
垢版 |
2018/05/17(木) 18:07:57.99ID:iUPC6dni
やっべぇ、軍畑スレ民先輩じゃん…話したくねえなぁ
0393人間七七四年
垢版 |
2018/06/14(木) 00:37:58.27ID:zMPDKSiF
>>371
牛込氏は知らんが、確か伊丹氏にも出してたはず。
0395人間七七四年
垢版 |
2018/06/20(水) 23:44:23.45ID:WrV2d+CN
駿河出身っぽい伊丹・興津が江戸近辺にいるのは誰が連れてきたんだろう
0396人間七七四年
垢版 |
2018/06/21(木) 02:42:19.99ID:NDbW9jAt
早雲じゃないかな?今川からの流れで。あと長崎氏も駿河からじゃないかな。
ただ上杉が衰えて空いたとこ入れたんじゃないか?
0397人間七七四年
垢版 |
2018/06/21(木) 02:45:54.83ID:NDbW9jAt
あ、あと気になるのが本多氏と本田氏。
本多氏も元々本田氏のようだし、そっちから流れてきたのかも。
0398人間七七四年
垢版 |
2018/06/21(木) 03:34:48.20ID:uDdGnwCt
丸子氏というのもいる
丸子城のあたりと何か関係あるのかな
0399人間七七四年
垢版 |
2018/06/21(木) 04:25:02.49ID:NDbW9jAt
丸子氏はたぶん江戸氏系じゃないか?
世田谷の丸子川は丸子という元にあった地名から来てるとみると、
六郷氏同様、地名を名乗った江戸氏かと。
0400人間七七四年
垢版 |
2018/06/28(木) 06:33:05.03ID:JeidYQ3H
蕨城、岡城、赤塚城、志村城、稲付城など今の東京埼玉の県境に
城が乱立してるのはやっぱりそこにも一時期攻防が多かったと見ていいかな?
0402人間七七四年
垢版 |
2018/06/30(土) 09:44:26.77ID:vSwbS999
>>400
水運と耕地のある河川沿いに拠点を持つのは自然じゃないかな
あと城北地区付近城は豊島氏を中心に見た方がいい
城東地区というか練馬を中心に豊島方面に勢力を伸長していった豊島への対策はしておかないといけない
0403人間七七四年
垢版 |
2018/07/01(日) 04:01:46.92ID:JT2+C+8q
荒川の水運利権を握ってたというのが有力だよね
0404人間七七四年
垢版 |
2018/07/06(金) 00:08:57.63ID:BGO70xEK
いい利権なはずなのになんで物資補給とかで書状が多く残ってないんだろ…
北条時代の城主すらよくわかってないんでしょ?
惜しいよな、、北条って武蔵国の情報が抜け落ちてるのなんでだろう。
一族とほかの家臣ばっか見だってるよな
0405人間七七四年
垢版 |
2018/07/08(日) 01:16:33.97ID:0Hqi4G0J
当時の荒川は流路が違ったんじゃ。忍城や岩槻城がその流域。
川越から続く入間川(現在の荒川)も重要な防衛ラインだったろうけど
0406人間七七四年
垢版 |
2018/07/10(火) 08:45:11.03ID:yyowmCpo
中条持胤って名前的には中条満秀とか持家系かな?
想像だけど持家の孫かなと。
叔父の満平が当主になったこと、結城合戦に参加したこと、
関東に分家がいる可能性があることが渋川義鏡に通ずるとこがある。
義鏡が最後関東で隠居してるのと一緒で持家も関東に残ったんじゃないかな。
0407人間七七四年
垢版 |
2018/07/18(水) 11:41:26.90ID:I0WTqcBM
やっぱ重正って牛込氏と関係ない?
勝重ー俊重ー勝正
抜き取ると重正とお勝、いやむりくりか
でも勝重の妻遠山丹波守の娘気になるんだよな
舎人氏の方は大道寺直英で有名だしな
0408人間七七四年
垢版 |
2018/07/19(木) 05:00:57.93ID:NniTeCpx
松野大学
0409人間七七四年
垢版 |
2018/07/20(金) 15:13:45.43ID:S7/ivX+Y
軍畑裕司
軍畑流北條氏筆頭
武蔵国青梅の豪族。193代執権を務めその後194代桃李から1918代相太の相伴役として歴代執権の補佐に回り、次々と早逝したので止むを得ず
回りの推挙もあり1919代執権になり再び世に躍り出る。

193代の頃は度胸試し1919代の頃は御成敗式目を踏襲した根性試し制定により理非曲直の公正な裁判を行うようになり、民衆から離したくねえなあと愛される一方、公家衆には、あすこにあくありう水あるから取ってこいよ。やる気あんのかなどと檄を飛ばす一面もある。
0410人間七七四年
垢版 |
2018/07/23(月) 12:29:14.46ID:fWnvyc/g
俺は氏綱の娘は武蔵千葉氏に嫁いだと思ってる
0411人間七七四年
垢版 |
2018/07/28(土) 00:02:17.86ID:tBGiKIts
美男子としても知られる軍畑裕司であるが、ある日ゲイビ社長に一本(一万石)で相手にならぬかと誘われたが、「人間、勃って半畳寝て一畳で十分だって聞こえんかったか?」と啖呵を切り社長をうならせた。傾奇者軍畑先輩を世に轟かせた有名なエピソードである。
0412人間七七四年
垢版 |
2018/08/19(日) 02:21:33.20ID:t8oQpUCP
軍畑裕司(いくさばたゆうじ)
従一位太政大臣。 青梅源氏嫡流。 龍神三兄弟といわれた夷狄征伐のため1193年に征夷大将軍に命じられる。
大将の一人を打ち取ると落首(らくび)と呼ばれる、敵の生首を蹴鞠に見たてて遊び、相手の戦意を失わせて降伏させた。

これが後のラグビーとなったとも言われる。 その後奥多摩に幕府をひらき、善政を敷いた。

最近まで、ご神体を拝む肖像画が将軍の顔とされていたがあれは側近の 三 宅(しのまえ たく)であることが有力視され、実際は傍系の桃李と思われていた人物が裕司将軍というのが近年の説である。 入道後は愛染和院(あいぜんわいん)と名乗る。
0414人間七七四年
垢版 |
2018/08/20(月) 21:27:24.94ID:qEKHqjnq
>>413
過疎らせてんじゃねーぞバーカ
0415人間七七四年
垢版 |
2018/08/20(月) 21:28:11.95ID:ouUSQ1bl
【アメリカの、負けだ】 中国が、米国債を、突如、NY市場で売ると、それは、アメリカの終わり、である
https://rosie.5ch.net/test/read.cgi/liveplus/1534644084/

サヨクが勝って世界教師マ1トレーヤが現れる! UFOも!
0416人間七七四年
垢版 |
2018/08/20(月) 22:24:59.95ID:uC3Nldnl
やはり病気だは
世間に迷惑かける前に病院いけよ?な?
0417人間七七四年
垢版 |
2018/08/22(水) 10:04:26.19ID:wzSgsuic
大石定久や三田綱秀で霞む小宮顕宗
0418人間七七四年
垢版 |
2018/08/25(土) 01:16:46.81ID:tCBVIjZO
小柳ルミ子 連載記事

週刊大衆第69回・私は死んじゃったけど昼ドラ見てね!
若いスタッフが「ルミ子のAVで抜いた」という話を聞き、
「AVを非難するつもりはないけど、
アレ(白蛇抄)はAVじゃなくて文芸大作映画だから!」と上から目線。

週刊大衆第72回・夏バテ解消はダンスと焼肉よ!
「オトコの相性はずばり『セックスの相性!』」と断言しながら、
「相手の普段のしぐさからその相性は完璧に見通せる」と自慢話。
0419人間七七四年
垢版 |
2018/08/28(火) 22:43:21.34ID:NhFzYl37
朝廷から武蔵守と陸奥守を下賜された漢 軍畑
0420人間七七四年
垢版 |
2018/09/15(土) 14:06:11.47ID:4QQrn99Z
軍畑裕司

元は松坂氏の地頭であったが、身内から"話したくねぇなあ"と言われなき差別や裏切りがあったのと、
関東にて度胸試しを行う正当性をつけるため逝司家に多額のアを献上し、新田源氏末裔の戦畠氏の家系であると帝に言上し、後裔軍畑氏の氏と青梅一帯を支配するための名目である武蔵野守を下賜され、同族の益子氏、宗田氏を従えた。
0421人間七七四年
垢版 |
2018/09/25(火) 03:34:29.34ID:skkCP55e
いいね
0422人間七七四年
垢版 |
2018/10/06(土) 18:51:43.62ID:3SeY3Q6o
青梅守護 松坂裕司は 小善は大悪に似たり、大善は非情に似たりという言葉を戒めていた。

大意としては、中途半端な情けはトラブルの元となり、非情のような決断がむしろみんなの幸福となり得るということである。

裕司公はとくに目をかけていた岡田兵部と益子弾正にはあえて度胸試しと根性試しを行い、乱世でイキる術を与えた。

裕司公薨去の際彼らは、離したくねぇなあと言って殉死しようとする家臣を諌め、亡骸を奥多摩の1か2里離れた厠に捨てた。この非情な決断がむしろ家臣たちの裕司公への依存を消し去った。
0424人間七七四年
垢版 |
2018/10/19(金) 19:19:34.53ID:9gVGASIM
神仏を厚く敬い、戦場にあっても御神体を離さず握りしめながら戦いに臨んだという裕司公

しかしその戦場では鬼神も恐れる猛勇で敵方は「龍が来るぞ!」と異称であった龍神の名を叫び恐れおののいた

そしてその言葉は次第に変化して「龍来る(たつくる)」となり現在の「タックル」の語源になったとされる
0425人間七七四年
垢版 |
2018/10/19(金) 22:58:28.80ID:Nf5yMXB5
面白くないけどオリジナル?
0428人間七七四年
垢版 |
2018/11/05(月) 15:22:49.37ID:kCGWuXfV
この前、谷保天満宮に行き、近くに城山という地名があったので行ってみたら、
三田氏の館跡らしく、
今でも、三田さんがお住まいだった。
0429人間七七四年
垢版 |
2018/11/17(土) 04:02:40.28ID:iknVfbJo
中々武蔵国平定ならず同じ松坂氏の傍系からの裏切り多く、内憂外患が続く裕司公は長きにわかり昵懇であった五摂家の足細氏へ度胸試しやアクエリアス献上続け、

家系のねつ造を頼み、裕司公は青梅源氏でかつて武蔵守だった、かの戰畠(いくさばた)氏の直系ということにしてもらい帝へ奏上してもらい名実ともに武蔵一帯を統べる実力者となり、名を源軍畑裕司(みなもとのいくさばたひろつかさ)に変えた。

のちに松平元康がこれを参考にして徳川性をなのったのはあまりにも有名な話である。
0430人間七七四年
垢版 |
2018/12/22(土) 21:35:48.49ID:94r3GYsY
山内上杉ー豊島
扇谷上杉ー太田ー宮城

宮城氏の本当の父系って豊島氏じゃなかったりする?
0431人間七七四年
垢版 |
2018/12/27(木) 12:10:11.56ID:70wn8pcY
どちらかと言えば
関東足利−豊島
上杉−太田
で、豊島氏没落後、庶流が
上杉−太田や武蔵千葉や大石や他−宮城
               −板橋
               −滝野川
               −平塚
ちりじりに生き残ったんじゃないかな
(葛西城の大石氏がいる以上山内扇谷はあんまり関係ないかと)
元々公方上杉対畠山や上杉と公方方の争いの中、着いた相手の勝敗によって
領土没収、返還を繰り返してたみたい
享徳の乱では豊島氏は上杉方だね、
結局は領土を広げた太田に反感持って景春に味方して滅んだけど
だから父系は豊島氏だと思うよ
0432人間七七四年
垢版 |
2018/12/30(日) 18:03:00.81ID:bKxFx0Tl
宇多重広や石巻康保を歴代に数えているように
豊島氏の系図って胡散臭すぎて
宮城氏以外にも子孫を称す旗本等
実系で繋がってる気がしないんですよね
0433人間七七四年
垢版 |
2019/01/29(火) 22:59:01.66ID:jXaHx86O
ちょっと雑把な認式だけど1980年に安房側の里見義頼が上総を制圧したとあるけど、
1581年に太田康資が安房の鯛の浦の廃墟を救ってるらしい。
この1578年頃からの里見家督、領土争いの最中だから割とおもしろい。
通説は1581年に正木憲時と一緒に亡くなるだけど、
最近は憲時が反乱を起こしたわけでもなさそうだから、粛清の際、
梅王丸の出家を見守ったあと常陸に追放された(資正のもとを頼った)
ってのも、やっぱりあるんじゃないかな。
梅王丸が殺されなかったことや、甲佐同盟のことを考えると、
上杉や資正にパイプを持ってた康資は殺さないんじゃないかな、と思ったりする。
0435人間七七四年
垢版 |
2019/01/30(水) 01:45:23.98ID:0wOo0Isn
>>433
誤、1980年に安房側の……
正、1580年に安房側の……
ごめんよ
0436人間七七四年
垢版 |
2019/01/31(木) 20:14:23.62ID:vyL2gMcq
何年か前に映画でやった沈黙に登場する井上筑後守の妻は太田重正の娘
0437人間七七四年
垢版 |
2019/02/04(月) 16:51:50.27ID:nWMR1D17
佐倉孝胤@―勝胤A  ―利胤  ―胤富D―邦胤E―重胤
臼井実胤1―守胤3―昌(雅)胤B―親胤C
武蔵自胤2      ―憲胤4     ―良胤5―直胤
0438人間七七四年
垢版 |
2019/02/05(火) 17:34:57.83ID:bRSNwaBR
北条家はやたら千葉氏に嫁を送る
0439人間七七四年
垢版 |
2019/02/14(木) 11:21:54.35ID:j10dAtoK
大石定久が信長の野望大志で扇谷上杉家臣になってる……
0440人間七七四年
垢版 |
2019/02/18(月) 12:25:01.70ID:WhLInrPL
モノノフが嫌われない理由が無いもん

・ライブ時、強制退場にキレてスタッフに暴行
・氣志團万博にてモノノフ同士の殴り合いの喧嘩、口論、押し合い発生
・その後千葉駅のトイレでモノノフが靴を洗い洗面台や床を泥水だらけにし詰まらせ、注意されても無視
・指祭り前に指原の握手に行き「モノノフなめんな!」と喧嘩を売る
・指祭り本番はモノノフだらけ、ももクロ以外には露骨に声援やコールをサボり微妙な空気に
・神戸で開催されたライブでファンがメンバーに対して痴漢
・ガガ前座時にも自己中な迷惑行為多発でガガファン激怒
・大阪の河川敷の堤防に「れに かなこ しおり」と大きく落書き
・Perfumeのライブで後方から数々のももクロコール
・BABYMETALのSSAライブにモノノフが緑推し完全装備+法被で参戦、しかもサイリウム禁止のアリーナで緑サイを振り回す
・BABYMETALのZeppライブで"ももクロしか見えない"と書いたTシャツを着た男性が危険行為を繰り返す
・新宿バルト9でモノノフがでんぱヲタを装い大声ででんぱ組mixや奇声を上げ一般客が大迷惑
・ベルハーのライブで世界のももクロNo.1コールをしてベルハーに「帰れ!」と言われる
・舞台挨拶の出待ちに大挙して押しかけ歩道を塞ぎ一般人が車道を通る羽目に
・メンバーにストーカー行為
・ライブのたびに会場周辺がゴミだらけに
・オフ会でファン大勢が渋谷駅前で大騒ぎし大迷惑
・更にその後無縁仏の供養塔に全裸で股間をこすりつけるという暴挙

参考動画
https://www.youtube.com/watch?v=VlEHkwaRBlg&;t=4420
0441人間七七四年
垢版 |
2019/03/05(火) 14:45:23.42ID:OGxrweM3
長崎元家と長崎重光ってなにかつながりある?
元家っていつから滝川家臣なんだろう
0442人間七七四年
垢版 |
2019/03/20(水) 14:39:16.69ID:pyV0vuPx
平成の天一坊事件

桃李と名乗る美男子が、青梅公方の隠し子であると名乗り出た事件。

軍畑裕司公は当世きっての松坂似のイケメンであったことからいろいろな女優やアイドルと浮名を流し、お手つきが多かった。

それに加えその青年が裕司公そっくりであったことから、裕司公自身も 落胤に違いないって言ってんだよ聞こえんかったか?と重臣達に1か2回ほどいった。

しかし、落胤を神輿にして叛旗を翻す分家を恐れた執権の岡田颯汰氏に、それ(落胤の認知)は出来ない、キツイっすと言われ、闇に葬り去られた。

徳川吉宗の時代にあった天一坊事件に似ていることからこの平成の天一坊事件と言われるように相成った。
0443人間七七四年
垢版 |
2019/04/11(木) 13:13:17.22ID:lxsrWhz3
天正十三年十月二日 北条家御朱印状

遠州へ加勢衆之事

八騎 遠山自身(直景らしい)
一騎 遠山左馬允
一騎 中条
一騎 会田
一騎 本田
二騎 島津
二騎 伊丹
二騎 千葉殿
以上十八騎

十八人 馬の口取
十八本 鑓
二挺 鉄砲
一本 大小旗
以上卅九人

合五十七人

以下、服装や装備についての規定八条

末筆に、羽柴と戦うのに加勢するよ。更に加勢したいなら追加で認めるよ。

みたいなことが書かれてる書状のコピーを手に入れたんだけど、上の方で千葉殿の加勢云々でゴチャゴチャ言ってたやつはこれのことかね
0444人間七七四年
垢版 |
2019/04/12(金) 16:19:16.06ID:BnlyPpmf
>>443
質問ですが、遠山左馬允とこの頃の千葉殿と中条はどなたですか?
0445人間七七四年
垢版 |
2019/04/12(金) 21:54:29.36ID:zqtKzN9n
>>444
いや、正直そこまで詳しいことは分からなくて…

そもそも小牧長久手の戦いなら、前年の筈だし、ただの誤記かなとこの辺は思うけど
多分江戸衆なんじゃないかな
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/nakajo_k.html
によると
蒔田・大串を治めていた中条氏がいるらしい

千葉殿は直胤じゃなかろうか
0446人間七七四年
垢版 |
2019/04/13(土) 09:27:39.44ID:UyQhw/aV
>>445
ありがとうございます
調布の中条とは別なんだろうか、でも江戸衆だとやはり国府台で亡くなった中条の一族かな
あと直胤の石浜没収の逸話は信憑性低くなるかもなぁ、まぁこの後に没収されたかもだけど
0447人間七七四年
垢版 |
2019/04/25(木) 13:45:26.94ID:Hwl/n3Mo
6日まで戦国足立の三国志て特別展やってる
>>445
と同時期に出された北条氏房の書状が展示されてたよ
0449人間七七四年
垢版 |
2019/07/21(日) 19:12:11.99ID:gnIVQIc+
>>430
宮城氏の父系は留守家景の弟・宮城四郎家業
宇多重広は和泉国御家人・宇多左衛門尉重広
これに北条家臣・布施勘解由左衛門尉康保も加えて
一つに纏めたのが豊島氏の家系図か
0450人間七七四年
垢版 |
2019/10/13(日) 00:46:19.64ID:xcAwKXFU
自転車乗りながらの絶叫系淫夢語録は日課
0451人間七七四年
垢版 |
2019/10/13(日) 06:57:14.53ID:bidIUg+K
堤防が自然堤防の時代なら多摩川の河口が鶴見川に付けかわってたかな
0454人間七七四年
垢版 |
2019/11/21(木) 20:48:55.82ID:0ovnaOCC
佐野新蔵胤信、勝胤の子。足立の佐野を開拓。この勝胤は守胤と混同、またはその弟の可能性あり。
あと個人的に「佐倉」の文字があるから薄いけど雲玉和歌集の千葉氏は武蔵千葉氏と思っている。つながりも強く、和歌にも通じてた、守胤や太田道灌の右腕自胤の方でないのは不思議。
0455人間七七四年
垢版 |
2019/11/21(木) 20:54:31.11ID:0ovnaOCC
上杉と成氏の戦いの時代の武蔵国の扇谷と山内の領土の図はないのだろうか。
0456人間七七四年
垢版 |
2019/12/06(金) 16:10:22.66ID:brHVrkeT
>>455
大まかに解っても細かくはなあ。未だにどっちが扇谷方でどっちが山内方かの混乱も有るし。
0457人間七七四年
垢版 |
2019/12/11(水) 03:35:56.46ID:13TOBZVg
大石憲重(大石綱周?石見守)
葛西城主、定久の弟で養子?または石見守の別系統?
いつの時点からか資正のもとへ(義理の弟?)
関東幕注文の人物、氏照の養父?里見資正勢が葛西城を取り戻したときは里見方の人間が入った為もどれず
0458人間七七四年
垢版 |
2020/01/10(金) 03:30:56.13ID:+UPoZXKG
13人に入れた梶原景時、足立遠元。入れなかった豊島清元、葛西清重。
0459人間七七四年
垢版 |
2020/01/13(月) 22:48:42.93ID:5yp83ks1
守護になれた葛西・豊島
豊島の惣領ってもしかしたら守護になった紀伊・土佐とかなんじゃ
0461人間七七四年
垢版 |
2020/02/05(水) 06:20:26.68ID:AjzPtylf
としまえん閉園して再開発するとか
0462人間七七四年
垢版 |
2020/02/05(水) 08:48:32.93ID:JdBizlSl
>>461
もう半世紀くらい前からかな
城址公園や防災区域として整備したくて西武に迫ってたんだってさ
ワーナーに売るのもほんの一部だけなんだったかな?
0463人間七七四年
垢版 |
2020/02/18(火) 05:19:16.30ID:etY11VEC
大雑把な質問だけど無名の戦国大名って滅茶苦茶いるの?
それらからしたら浅井長政でも超大物にあたるの?
0464人間七七四年
垢版 |
2020/02/18(火) 16:31:07.40ID:/dDSPtr2
>>463
なぜここで聞くんだ?
話違うけど蕨の渋川は里見に流れたって新説がでてるんだってさ
正木憲時の乱に参加した渋川氏って太田康資と関係深そうだな絶対顔見知りだろうし
0466人間七七四年
垢版 |
2020/02/18(火) 19:12:42.95ID:/dDSPtr2
大名、無名の定義にもよるだろうしな、まず無茶苦茶はいないな
下総高城とかが当てはまるのかな、浅井長政は超大物なんじゃないか
0467人間七七四年
垢版 |
2020/02/19(水) 21:47:44.96ID:+yfXB98G
風土記稿に滅亡までの歴代と帰農した家臣載ってないっけ
0468人間七七四年
垢版 |
2020/02/20(木) 07:45:30.64ID:bf00eWKO
・1万石以上
・古河公方に官途・受領を貰う
下は3千石くらいでも貰えてる
0469人間七七四年
垢版 |
2020/02/20(木) 09:04:09.26ID:R236j77e
>>466
どうも、そんなにはいないのか
どの辺りから凄い大名になるのかなって
0470人間七七四年
垢版 |
2020/02/20(木) 19:18:07.32ID:AHkbdxwL
高城って大名でいいのだろうか?
原の家臣で後には北条にも属すって感じだと思うんだけど
0471人間七七四年
垢版 |
2020/02/21(金) 07:52:10.37ID:BCvQVG6z
小田原征伐の人数覚書・諸城覚書に記載されてる城主
0472人間七七四年
垢版 |
2020/02/25(火) 21:24:14.24ID:5f3Ln5gg
木下聡「官途状の形式とその地域的・時期的特徴について」より抜粋


戦国期に官途状を発給
古河公方、佐竹氏、簗田氏、結城氏、多賀谷氏、里見氏、宇都宮氏、小山氏、皆川氏、足利長尾氏
小田氏、江戸氏、真壁氏、大掾氏、千葉氏、北条氏

江戸期に旧臣に対して官途状を発給
高城氏、壬生氏


官途状・一字状
古河公方、佐竹氏、小田氏、大掾氏、多賀谷氏、小山氏、結城氏、宇都宮氏、千葉氏、山内上杉氏、足利長尾氏、北条氏

官途状のみ
簗田氏、江戸氏、真壁氏、壬生氏、皆川氏、里見氏、高城氏

一字状のみ
那須氏
0473人間七七四年
垢版 |
2020/02/25(火) 23:52:24.67ID:H5+AyN+x
横からだけど、例えば山川晴重なんかは大名としても見れると思うし、無名だと思う。
でも上記(>>472)の名は無名とは思えないんだよな。
>>463が浅井の話をしたいだけなら関係ないけど、戦国大名の定義は割とあいまいだと思う。
国人の戦国大名がいてしまうから、線引きしにくいってのがあるんじゃないか。
0474人間七七四年
垢版 |
2020/02/26(水) 20:57:16.46ID:+BpPCW+7
デヴィ夫人のデカパイをぶるんぶるん揉んで舐めまくり夫人から「ヤダッあ〜たド助平ね〜」と叱られたい
0475人間七七四年
垢版 |
2020/03/08(日) 14:18:56.90ID:MyUcIoSl
>>472
関東八州古戦録の現代語訳を読んだけど、ここに書いてある大名の話がほとんどだったよ。
古河公方、上杉、北条の勢力戦争のなかで佐竹、里見や宇都宮が意地を張ってるイメージ。
0477人間七七四年
垢版 |
2020/04/27(月) 15:41:50.35ID:YTlT24ex
スゲー、もっと感じたい!!もっと刺激が欲しい!!まともなFUCKじゃ物足りねー!!
エロク仕上がった肉体野朗達があらゆる刺激を求め快楽に堕ちていく・・・・。

掘られながらのろうそく交尾はとけたロウがパツンパツンに張った肉体に滴り落ちるたび頭は真っ白になりケツマンコとの調和で興奮が高まる!!
「もっとたらしてくれーーー」

いつもの交尾が物足りないデカ乳首兄貴は野外での遠慮なしのFUCK!!
入れるもの全てを飲み込むとろとろマンコ。
吸い付くヒダは太い物をどんどん欲する!!
「YES!YES!YES!」とデカマラが突き倒すたびに声を張り上げ感じまくる!!

腹筋兄貴は自慢のところてんをみせつける。
ドクンドクンドロドロと出る射精シーンは超必見!!

普段の交尾に物足りない兄貴達に必見!!
いつもと感じ方が違う快楽優先!!!こんな時代だから完全快楽主義!!
0478人間七七四年
垢版 |
2020/04/30(木) 22:54:17.99ID:0YYa3z10
わっきーも、グルメに興味なんて無いからね
40のおっさんが、なんとかYouTuberで生活してこうとしてるけど、別になんか特技があるわけでもない、過激な動画で炎上する勇気もない
とりあえずできそうな食レポでYouTubeやってるってだけ
同様にタイにも関心ないよ
たまたま知り合ったエンディと一緒に、とりあえずビジネスになりそうだからタイ関連のチャンネル作ってるだけでタイに興味もなんにもない
そんなやつとタイツアー行って面白いわけがないでしょ
0479人間七七四年
垢版 |
2020/06/19(金) 06:02:37.68ID:ex84CB0r
遠山綱景の娘って島津や伊丹にも嫁いでるんだな
東京の武将は遠山を中心に太田、牛込、島津、伊丹か
でもやっぱり北条家では遠山以外は佐野や千葉より格下になるんかな
0481人間七七四年
垢版 |
2020/07/02(木) 06:24:55.63ID:vl1IsmrQ
牛込勝行が御留川で獲れた紫鯉を小田原城主の北条氏綱に献上した記録と氏康の招きを受け大胡城から武蔵国牛込に移った話とどっちが正しいんだろう
0483人間七七四年
垢版 |
2020/10/27(火) 20:44:53.26ID:kCYOQMru
>>443
たったの57人の援軍て来てもムカつくだけだよね
0484人間七七四年
垢版 |
2020/10/28(水) 17:36:37.16ID:vlX/KhWO
>>483
流石に八王子とか別んとこからこの位ずつ取ってるんじゃないかなと、流石に思う

この時期って富山攻めの直後なんだよね
0485人間七七四年
垢版 |
2021/02/27(土) 04:39:57.25ID:7/C59IQO
岩槻太田は道灌の嫡流ではないだろう
道灌と交流がある歌人が資康とも交流してるんだから、おそらく六郎資定は資康だろうな
そのあと残った岩槻太田が定正との関係を強くするため色々改ざんしたんだろう
0486人間七七四年
垢版 |
2021/04/24(土) 21:04:41.47ID:HonoBRxc
黒田氏の図説 享徳の乱買って読んだ
景春無双だった
0487人間七七四年
垢版 |
2021/04/25(日) 08:35:58.14ID:jmcRV+Sj
太田道灌は暗殺されるギリギリまで下総に乗り込んでる、成氏も下総千葉氏討伐に力を入れてる
ここらへんは新しい情報か
0488人間七七四年
垢版 |
2021/04/27(火) 16:28:59.95ID:voPjKoGt
道灌死後自胤は一時期山内に近づく
佐倉歌壇は臼井守胤=千葉介守胤(実胤の子、母上杉顕房、子の憲胤は憲房、憲寛の偏諱)
足利義明時代まで武蔵千葉氏は臼井まで所領を伸ばした
自胤時代での真里谷との縁、資康ー三浦ー真里谷もある
高城はおそらく西から流れてきた(太田経由?)道灌の馬橋城に関連してる
が、北条の台頭で義明が没落、下総千葉氏が巻き返し、
高城氏は下総千葉・原氏に近づきその後独立、守胤は臼井から追放
武蔵千葉氏は縮小したとみる
0489人間七七四年
垢版 |
2021/04/28(水) 08:46:53.57ID:aKluTJ+5
【新説】本能寺の変徳川家康&北条氏規&遠山康光黒幕説
0490人間七七四年
垢版 |
2021/04/28(水) 09:30:20.06ID:aKluTJ+5
>>488
憲寛=憲幸または憲寛の子憲幸が六郷殿に、(義明と山内、武蔵千葉氏を結ぶ)
が、北条が江戸を資高の調略で落とす。この頃大石石見守と三戸義宣は岩槻太田氏に近づく
武蔵千葉氏の動向は不明、太田資頼、三戸義宣は長尾為景を頼る。資頼が武蔵千葉領の淵江に家臣小宮山を送ってることから
武蔵千葉氏も資高とともに北条に下ったか。ここででてくる蕨と和良比、憲時の乱にでてくる渋川氏の動向も気になるところ
牛込氏もこのあたりで武蔵国に逃げてきたと思う。
0491人間七七四年
垢版 |
2021/04/29(木) 15:31:54.24ID:AxgJydDi
臼井持胤は扇谷上杉方の原胤隆・木内氏を寝返らせようとして捕らえられ討たれる。
柴屋軒宗長が幕府の命で三田弾正を通して交渉するために上総を訪れたときは原胤隆は扇谷に近かったのかもしれない。
0492人間七七四年
垢版 |
2021/05/01(土) 11:12:25.94ID:mR55inA7
高橋種資の母太田資重の娘
この太田資重は重正ではないか
0493人間七七四年
垢版 |
2021/05/08(土) 01:35:20.00ID:H75ytXU5
1557年千葉親胤と臼井守胤80歳死亡、子久胤逃亡?弟胤知も野庭町に逃れる?胤知が中田加賀守の娘を娶る
綱成が縁か?綱成の孫が武蔵千葉氏を継ぐ。臼井胤寿が養子に入ったか?
0494人間七七四年
垢版 |
2021/05/12(水) 04:14:37.52ID:84oQgqdD
長享の乱立河原の戦い(1504)にて白子の布陣をどう読み取るか、素直に読み取れば赤塚城へか?
そうするとこのとき武蔵千葉氏は扇谷方に戻ってるのか、自胤も亡くなってるからなぁ
0495人間七七四年
垢版 |
2021/05/13(木) 00:44:47.02ID:wSuQKqz8
良スレだな。
江古田、沼袋、石神井はほとんど地元だから太田道灌に大いに興味があるんだが、
如何にせん素人向けの書籍が少ない。
スレ住人諸賢の議論から多くを得られることを期待する。
0496人間七七四年
垢版 |
2021/05/13(木) 00:59:41.98ID:wSuQKqz8
期待するだけじゃ何なんで、東京の武将についてちょっとだけ情報提供。
奥多摩ツーリングを好む向きには御馴染みだと思うが…。

【へそまんじう由来記】
古来へそは大切なものながら世人之れを茶目でユーモアな存在としているが、体の中央に悠然と構へ、その形も千差万別で、満月型あり、月見型あり、谷見型、藪にらみ型、稀には出臍等愉快なのがあれ共、フックラとした月見型を最も可とすると古書に見えたり。
心のひねくれしを臍曲りと例え、可笑しきときは臍が茶を沸すとか臍の宿替とか申し、又、昔漢の項羽が山をも抜く力も、へそごまをとりて力忽ち衰へたりといふ。ゆめゆめへそごまはとるべからず。
抑々弊舗特選のへそまんじうは、その昔永禄6年、当地より程近き辛垣城に構える三田弾正綱秀を小田原の北条左京太夫氏康と其の子滝山城主北条陸奥守氏照父子が昼夜を分たず攻め立てしが、中々落城せず偶々折柄の大雷雨中を隣峰その名寄しらむ雷電山口より攻め込んだ豪勇無双の十勇士により、さすが難攻不落の辛垣城も陥落したるが、この十勇士が当時この附近の茶店で購った兵糧のまんじうを腹巻に包んでおいた所、不思議や全部このまんじうの型に変り大雷雨に臍も取られず、然も勇猛果敢な働きに澤山の恩賞を授けられしとか。
依ってこのへそまんじうを常に賞味し、臍下丹田に力を入れて世に處するなら必ずその成功疑ふ可からず。
秩父多摩国立神代吊橋畔 登録商標へそまんじう本舗 主人敬白
0497人間七七四年
垢版 |
2021/05/13(木) 08:08:20.67ID:aaanSkeH
たまにハイキングで青梅丘陵通ってたけど
辛垣城にそんな伝承があるとは知らんかった

雷電山方面から落ちたというのは
反対側にはそのまま鉄壁の城門になりそうな
切り通しと急斜面があって頷ける話だ
0499人間七七四年
垢版 |
2021/05/14(金) 02:27:16.06ID:xM7M1mQJ
辛垣城合戦のことを改めて調べてみた。

戦に至る経緯は謎が多い。
北條方國衆として厚遇されていた三田氏が何故一族存亡を懸けて北條に抗う決意を固めたのか諸説紛々。

戦そのものも凄い。
三田綱秀(綱定とも)は北條氏康・氏政・氏照という鼻血モノのオールスターキャストを向こうに回して開戦から落城まで二年に及ぶ激戦。

軍記物語かと見紛う一部始終だが確かな一次史料に記述が残る。
この合戦譚はもっともっと語られていい。
0500人間七七四年
垢版 |
2021/05/14(金) 03:04:35.31ID:qWcS3ybF
500記念

右:千葉憲胤
中:三田綱秀
三:吉良頼康
一:太田康資
捕:大石定久
DH:足利義氏
遊:牛込勝行
左:大石憲重
二:中条持胤
投:板橋親棟

控え(18人)
北条氏照、遠山綱景、富永直勝、江戸朝忠、
太田資正、行方直清、宇田川定氏、平山氏重、
高橋氏高、上杉憲幸、本田正勝、島津永久、
長崎重高、小山田信有、豊島経忠、板倉勝重、
伊奈忠治、大岡忠真
0501人間七七四年
垢版 |
2021/05/15(土) 00:23:24.57ID:QnKauq+A
三田守綱(綱勝の子、綱勝が綱秀の弟か)も家康の武蔵国の旧名家集めで旗本
遠山利景の娘を娶る
0502人間七七四年
垢版 |
2021/05/16(日) 01:33:44.89ID:b8YJiHPL
>>501
遠山氏も大名とまではいかないものの歴代一廉の武将を輩出した家で、東京=江戸とも深い縁のある侍。

遠山利景は美濃明知遠山氏嫡流にして江戸旗本遠山氏の初代、
かの北町奉行、左衛門尉遠山金四郎景元の直接の祖先、か。
北條氏重臣の江戸城代、直景流武蔵遠山氏から見ると本家筋に当たる。
武蔵遠山氏もまた直参旗本となった。

ひとたびは分かれて戦国乱世を必死で生き抜いた両家が泰平の江戸で同じ主の下に再会する。
人の紡いで行く因果とは、実に測り知れぬものがあるな…。
0503人間七七四年
垢版 |
2021/05/16(日) 02:59:17.02ID:JxL+ASPU
>>502
本家筋はどうだろう、直景が本家かもしれないよ
兄景成は病弱で、家督は直景が継いでて幕命で後北条に従ってるうちに
乱国に巻き込まれたのかもしれない
0504人間七七四年
垢版 |
2021/05/16(日) 04:27:46.06ID:JxL+ASPU
太田重正(重政、資綱)が義重、資正からってあるけど
娘の舅井上政重、自分の舅が都築秀綱、嫁の兄弟が為政、自分の子が太田正重、遠山資為
遠山家図での兄に河村秀重、また子の太田資宗は板倉重宗の娘と結婚
これ名前言い出すとなんかな…
0505人間七七四年
垢版 |
2021/05/16(日) 08:26:31.50ID:JxL+ASPU
あの「中村一氏」の従兄弟の中村之貞(之定)が康資の娘を娶ってる
その子太田正勝
0506人間七七四年
垢版 |
2021/05/16(日) 10:27:27.45ID:JxL+ASPU
一氏は中村孫平次一政の子や弥平次一政の子と書かれ、瀧孫平次と名乗った後中村一氏としたとある
北条家臣江戸衆練馬あたりを領したものに中村平次左衛門がいる
どうつながるのか見当もつかないが、ありえない話でもないのかもしれない
0507人間七七四年
垢版 |
2021/05/16(日) 15:15:42.17ID:f/Z/VKjT
>>506
練馬には「中村」という字があって、中村氏は当地の旧家だ。
徳川どころか北條以来の大姓なのか…。
0508人間七七四年
垢版 |
2021/05/17(月) 13:34:58.32ID:3PXTLqYO
中村氏は伊豆か相模か数字も忘れたけど北条○○将のひとつだったよ、たしか
0509人間七七四年
垢版 |
2021/05/17(月) 20:42:16.66ID:Pv/fT0xz
その中村と練馬の中村はまた別の系統
0510人間七七四年
垢版 |
2021/05/17(月) 21:39:33.66ID:p1oXQGqh
>>509
そうでしたか。
ありがとう。
0512人間七七四年
垢版 |
2021/05/19(水) 06:24:12.92ID:aiDQGoJo
中村一氏については源氏平氏橘氏と
諸説ありすぎてよくわからん

相模中村氏は後北条氏どころか源頼朝の
挙兵に従った桓武平氏の名族

練馬区中村は元は中鷺宮村だったという説有力
0513人間七七四年
垢版 |
2021/05/19(水) 08:59:31.52ID:DkrsnmBK
>>512
別ってのは地名の部分の話か
江戸衆中村平次左衛門(練馬豊前所領)と御馬廻衆の中村平四郎の系統
素直にいけば相模中村氏系統な気がするんだよな(平四郎は相模の平沢を領してたし)
あと後年岩槻衆に組み込まれた中村右馬助も同じ一族だと思うのさ
0514人間七七四年
垢版 |
2021/05/19(水) 19:02:58.62ID:6CGiJI7m
練馬と云えば。
太田道灌は石神井城攻撃に当たって石神井川対岸に向城(砦程度のものか)を築いたとのことだが、
俺の通ってた高校の敷地がその比定地の一つであるらしい。
云われてみりゃさもありなん、という立地ではあった。
0515人間七七四年
垢版 |
2021/05/19(水) 19:20:04.49ID:TIP2xpm2
秩父平氏が秩父郡中村郷からおこっているから
こっち系統の中村氏(桓武平氏良文流秩父氏族)の可能性もある気がする
0516人間七七四年
垢版 |
2021/05/22(土) 02:13:18.11ID:RIuNtALQ
東京ならば忘れちゃいけない奥多摩。
日原や丹波を拓いた原嶋氏は、同じく秩父に蟠踞した丹党の流れをくむと云う。
現代でいう「東京都域」ゆかりの武将を語るのに秩父を避けては通れない。
当スレとは別に埼玉武将スレもあるが、本来は武蔵國として一体不可分の範疇なんだよな。

東京府、埼玉縣ばかりじゃなくて熊谷縣とか入間縣とか品川縣とか、
徳川の地盤に恐怖するあまり律令以来の枠組をズタズタに切り裂いた薩長の姑息な小細工に、
いつまでも呪縛される謂れは無いんじゃないかと思う。
0517人間七七四年
垢版 |
2021/05/22(土) 02:55:32.12ID:g8MUlCWB
??
避けて通れないなんて近隣の土地、影響を及ぼしてるものすべてだろ
わざわざ分けてるんだから戦国時代の南武蔵(東京)について主で話そうってことだろ
无邪志国造と知々夫国造と分かれてたんだし、江戸もそうだけど地域的にスレを東京に特化するに値するってこと
だから徳川ガーとか薩長ガー律令ガーを語りたいなら他でいい、向いてないと思うぞ、ここ
0518人間七七四年
垢版 |
2021/05/22(土) 14:40:25.50ID:NtqJH/rP
いつまでも神君江戸入府の呪縛に
囚われる謂れはないんじゃなかろうか

現在の都道府県地区町村の括りは
郷土史地域史は自治体や教育委員会が編纂してて
意外と避けて通れないのよね

郷土資料館の類や図書館の郷土史コーナーとか
いくつか行ってみると案外おもしろいよ
0519人間七七四年
垢版 |
2021/05/29(土) 06:37:11.64ID:WMT1jYmW
三善系太田が三橋系太田ならば(大膳亮、氏資も大膳亮)
太田下野守次郎左衛門重光(太田越前守宗真の子か?)の娘と太田道可の間で資正
重光の子下野守資近(康直)の娘と婚姻の康資
資正のいとこと婚姻したのかな康資(国府台で舅を撲殺したのが資近か?)
新次郎とか次郎系の太田は三善で下野守系か?資近弟に重吉、その子に康茂
ここでも「重」だな
ダメだ三善系は鎌倉、三橋系は成田氏家臣系、新次郎系はおそらく島津延久系
全然まとまらない
0520人間七七四年
垢版 |
2021/06/01(火) 08:30:11.31ID:wPr3Kjzq
千田千葉氏は元々香取郡にいた
武蔵千葉氏祖の賢胤が馬加氏との争いで逃れる
そしてそれに従い市川まで来て土着したらしい
系図ではなぜか武蔵千葉氏一族は千田千葉氏になっている
(自胤の墓で見る自秀が満胤の子でいる)
千田千葉氏と言えば義氏から千葉中務太輔もらった千田胤嗣、親胤の弟で兄の死のあと逃げた
千田右京進がいる、武蔵千葉氏とのつながりはいかがなものか
それからあきらかに武蔵千葉氏の方の家臣宮城氏が立てた長「勝」寺の国府台合戦で亡くなった
「勝」胤は舎人経忠と混同か、舎人氏も武蔵千葉氏の血筋の可能性もあるかもしれない
調べるとかなり重要な土地にいる武蔵千葉氏、岩槻・江戸太田氏も吉良氏も下総千葉氏も
北条氏から娘を娶っている、千葉殿が娶ってないとは思えない、可能性があるとすると山木大方と別人説がある
崎姫はどうだろうか
0521人間七七四年
垢版 |
2021/06/05(土) 03:25:34.17ID:NjS8pmdC
1488年山内VS足利扇ヶ谷休戦(武蔵千葉氏山内方)89年相模にいた東氏が信濃本地が攻められたと話す
この時期早雲と扇谷が手を結んだことと中央方の東氏と三浦氏武蔵千葉氏の動向は難しい、上総に東氏家臣大坪氏がいる
さらにおそらくこの頃上総武田氏はなんらかの理由で真里谷が分かれる(真里谷信興が浅草寺を再建したので真里谷は武蔵千葉氏側とみる)
90年千葉宗胤(武蔵千葉氏に従っていた千田胤仲か)が宗胤寺を建立(千葉県千葉)、千葉胤仲(持胤)の子臼井当主幸胤死去
臼井俊胤再度家督を継ぐ(又は和睦の為武蔵千葉自胤の子守胤が継いだか)、この頃円城寺道頓が下総に戻る
92年市川市の弘法寺を勝胤が安堵93年自胤が亡くなる、守胤家督を継ぐ94年北条足利扇ヶ谷VS山内、足立郡に進撃した早雲
(岩槻城は足利派閥成田氏、家宰職岩槻太田はどこに?馬込(梶原)も攻めるがどちらも落ちず)
定正死去、足利山内和睦(下総武蔵千葉氏対立再び)、武蔵千葉氏に味方した原氏が栗原で死去
95年高城氏が馬橋にて死去、孝胤が粟飯原氏に書状96年武蔵柏原合戦、扇ヶ谷敗戦(早雲弟が扇ヶ谷に味方)
97年葛西城を武蔵千葉氏が攻める、同行不明の東常和はここにいるか(扇ヶ谷方)98年早雲茶々丸殺害(義澄派VS義稙派)
99年武蔵系だった原氏景広(松戸から和尚を呼び弥冨に長福寺を建立)が娘とともに死去
1502年政氏と孝胤が対立(上総木内氏と舅原胤隆が扇ヶ谷寝返り、臼井持胤討たれる)04年政氏原胤隆が上総木内を滅ぼす、政氏孝胤和睦、
山内顕定足利が川越城を攻めるが落ちず顕定が赤塚城近くの白子の陣を張る、その後
早雲今川扇ヶ谷VS山内足利勝胤(立河原の戦い)足利方大敗するが越後上杉氏が支援し巻き返し和睦、中野で岩槻系太田六郎死去、
05年政氏弟顕実が山内に養子に入る、昌胤が千葉妙見宮で元服盛大に行われた06年足利山内越後で内紛がはじまる
08年義澄追放(早雲独立)東常和が相模国(父の弟子三浦道寸庇護)から一度上洛
09年勝胤隠居、連歌氏宗長が真里谷氏を目指す(品川江戸市川と途中原胤隆にもてなされて称賛する)勝胤粟飯原氏に書状
10年道寸と早雲が争う早雲敗北し扇ケ谷と和睦12年道寸が早雲に押され始める、高基が古河公方に
13年里見氏と臼井氏書状のやりとりからみるこの時期の臼井氏独立性をだす、勝胤が船橋近くまで来た早雲を撃退
14年雲玉和歌集成立、原胤隆が中山法華経寺を安堵(市川市手中に、原氏を統一千葉氏と婚姻)、臼井景胤が家督を継ぐ
16年早雲が道寸親子を滅ぼす、真里谷信勝信清(信勝娘は三浦道寸子の義意妻)早雲の援助得て原氏、三上氏と争う
17年真里谷義明を擁立して小弓原氏から小弓城を奪う、早雲も転戦し、臼井氏と葛西のものが原氏を追討、原胤隆小金に移る、
この頃円城寺左馬助(道頓系か)の娘と寺山町の木内胤衡婚姻(その子数馬は神崎氏(市原市)と婚姻)
千葉守胤とその妻が和歌で東氏や中央とやりとりをする
18年氏綱が家督を継ぐ、北条扇ヶ谷が和睦、氏綱扇ヶ谷も上総で小弓を支援19年下総千葉氏が小弓公方かたを攻める、
氏綱と手を結ぼうとしたが拒否される、臼井氏は参戦せず(勝胤が北条と婚を結んだとあるが、この時点であるのは武蔵千葉氏かと)、
守胤と妻と常和の和歌が中央に届く20年中央から常和守胤に和歌の返事が届く、小弓を失った原胤清は浅草滞在(氏綱または武蔵千葉氏をを頼って)
あるいは義父胤隆の元から、義明に従う誓約書を度々だしている23年氏綱が南武蔵国を手中に収める、危機感から扇ヶ谷山内和睦、
淵江から東尚胤が中央に手紙を出す24年氏綱が太田資高を調略し江戸城攻略(討ち死にした板橋はどこに組していたか)太田資頼も調略され武蔵千葉氏一族の
元城主渋江氏が北条の支援の下岩槻城も落とす(太田永厳?死去、江戸岩槻でどちらが嫡流か議論有り)蕨や毛呂も落ちるが資頼帰参、
山内扇ヶ谷足利甲斐武田が同盟して岩槻城を奪還したので北条と扇ヶ谷が和睦、足利義明は下総にかなり食い込み、品川も手に入れた
本流だった長南武田家を凌ぐ勢力になった、本佐倉城は16世紀前半まではまだ改築されていない、高城氏が昌胤の妹婿になる
25年氏綱が和睦を破り岩槻城再度奪取したが、世代交代をした扇ヶ谷朝興山内憲房憲寛が武蔵諸国から一時追い返した
扇ヶ谷山内足利甲斐武田そして真里谷里見の包囲網を作る、ただし27年真里谷里見は北条と停戦、そして
小弓勢の内紛を経て第一国府台合戦へと向かう。この時武蔵吉良氏と武蔵千葉氏は完全北条方になってると思う。
0522人間七七四年
垢版 |
2021/06/05(土) 04:41:29.43ID:NjS8pmdC
相馬胤儀
享徳の乱で幕府側で死去
その子児島、豊島、行野、宍倉、足立
児島の子
山口、匝瑳、戸張(なんとも……系図ではないかも)
戸張、前崎城で太田六郎と同じく亡くなった
相馬胤高1511年死去、相馬胤実1503年死去、徳誕蔵主1525年死去足利高基書状
相馬整胤関東膜注文
0523人間七七四年
垢版 |
2021/06/05(土) 04:44:59.78ID:NjS8pmdC
臼井一族の地は大きく佐倉臼井から四街道市、一族に吉岡、山梨、蕨、師戸(柏市の匝瑳氏)など
八千代市(米本など)には村上氏(上総武田氏と同じ時期に土着か)、習志野市の武石氏、鷺沼氏(元々は馬加氏の地)、鎌ケ谷市の中沢氏、
高城氏以前の船橋市は曾谷氏
武蔵千葉氏&東氏に味方したのは円城寺若狭守、円城寺肥前守、曾谷左衛門尉直繁、曾谷弾正忠直満、曽谷七郎将旨、
蒔田殿、武石駿河守、相馬守谷殿が討ち死に、他に木内宮内少輔胤信、円城寺因幡守宗胤、粟飯原右衛門志勝睦がいる
佐倉市岩富の弥冨原氏原朗珍、原朗峯(大野に土着した原氏か、法名蓮〇の一族か、胤義もか)も東氏に味方して討ち死に、
いつか不明だが高城氏は武石氏中沢氏を攻めているので
中沢氏も上杉(幕府)寄りか、志村城が篠田城ということから武蔵千葉氏に従った篠田氏もいた
世田谷にも円城寺氏、1536年夏見で円城寺道頓(雲玉和歌集)
0524人間七七四年
垢版 |
2021/06/05(土) 05:51:10.43ID:NjS8pmdC
武蔵千葉氏に庇護されていた東尚胤の一族
森山(飯田)や須賀山城を領した
東教頼東常縁の子
東常綱東氏胤の子兄常数、常数の子直胤
ただし当時の森山城は海上氏、原氏、石毛氏
正木時茂が矢作城の国分氏を攻めたが敗戦した、国分方に木内、大須賀氏
正木方に府馬氏と東六郎がいた
東六郎胤重 1506年玄鼻死去、この時千葉荘は千田千葉氏の影響下の可能性あり
原胤隆に攻められたか、この時上総三上氏が小弓城を攻めている、扇ヶ谷の指示か
亥鼻にはこの時に失われたが宝物や文書があったようだ

柏市手賀原氏
原胤親 妻豊島頼継の娘1579年に千葉介邦胤の指示で原胤栄が攻める

府川豊島氏
豊島頼継1519年に府川城を築城、ある種突如現れれた一族、
柏市手賀原氏と婚姻を結ぶ、1546年武蔵国豊島郡紀州神社再興(扇ヶ谷滅亡後)
また原胤親が攻められた際粟飯原左衛門や我孫子の諸豪族
高城胤辰の家臣などが応撃し敗退させた

訂正:17年真里谷義明を擁立して小弓原氏から小弓城を奪う、
早雲も転戦し、臼井氏と葛西のものが原氏を追討
臼井氏と葛西のもの+布佐(匝瑳氏、また豊島氏の可能性あり)
このことから豊島氏もはじめから下総千葉氏に従ってない可能性もある、
ただ原胤隆は府川で長いこと病気と闘ってる、違う解釈として原の状態の為
高城氏以外の豪族も伸びたとみることもできる
0525人間七七四年
垢版 |
2021/06/07(月) 11:46:29.33ID:bMroHvIG
海上氏は森山を領し東氏との繋がりが強い
海上備中守師胤 自胤の元に参上した(東常縁つながりか)
海上胤貞 師胤の弟兄の後を継ぐ、さらに下の兄弟に憲通律師、助秀、小見川粟飯原妻
助秀と子が米野井で打ち死にしてることから木内氏と争ったか、
憲通律師は東氏の系図を東胤重(出奔?)から預かった、胤重と一緒に亡くなった原朗寿がいる
朗〇系(弥冨原氏)は1517年弥冨で打ち死にした朗久や35年小弓で打ち死にの朗典を最後に
第一国府台合戦で活躍した胤行などの原胤清が戻ってきたあとの別の系統に移ったのではないか

海上持秀 父孝秀が家督を継ぐ前にその父助秀と弟共に打ち死にした(1523年より前)
近隣の東氏とはつながりがつよく胤重のあと14年後に憲通律師から東氏の系図を受け取り
1516に復興した東勝繁と特につながりがつよい
海上胤秀 持秀の子/海上胤保 千葉胤富の子、胤秀の養子

辺田海上氏(千葉庄あたり)
海上常元 東常和の子、母は千葉孝胤(関係性から見て千葉自胤の間違いだろう)
成東氏に娘を嫁がせる、森山東氏東教頼は兄弟、東常綱は甥の子
海上胤富(千葉当主胤富) 父は昌胤、母は上総の東野有力一族金田の娘、妻は常元の娘
下総の北東で力をつける森山東氏を封じるためその地域を領すが親胤の死で佐倉に移る
金田氏と庁南武田氏は公方千葉氏方で幾度も反勢力に攻められた
東棟胤 父は胤富、母は常元娘、東直胤養子(守胤の所にいた尚胤との関係はあるか)

押田系図
押田氏は海上氏、千葉守胤、東金氏に娘を嫁がせている、東金氏は東常縁の副将で一緒に
下向した浜春利の一族か(千葉県の春路の地名は春利からきているか)

下総村上氏 八代市米本城主、近くの臼井氏との繋がりは薄い。村上綱清が有名だが、それとは別に
持清(成氏方)ー成清(義明方)、清平(里見方)、義芳(里見方、1521年頃市原市の村上城在城)
八代市の村上氏と通ずる部分がある。また八代地域の板碑は武蔵型で、香取郡は下総方太田道灌による
米本城攻めが関係しているとのこと。臼井景胤が死去し、歳下舅の原胤貞が臼井城に入り、村上綱清が
自殺したとの見方もある。

吉橋城伝説
この地域は戦国後期では高城氏の領域だが、それ以前は吉橋丹後守や吉橋周防守など。
【伝説では北条氏が攻めて、城主(吉橋氏か)は千葉義胤(武蔵千葉氏か千田千葉氏)に
助けを求めたが間に合わず落城、幕張の千葉氏に守ってもらった。また高城氏は山内と
手を組み扇ヶ谷を攻めたが敗退した。里見氏が居城した時期もあった。】
第一国府台合戦直前と見られ、合戦後は高城氏安定して領す。
0526人間七七四年
垢版 |
2021/06/07(月) 12:06:49.64ID:bMroHvIG
ここまで雑に書き込みをしたが、定説では道灌死後武蔵千葉氏は下総に戻れず
国人に落ちたというが、第一次国府台合戦まで下総の西地域(千葉庄や臼井)まで
道灌や扇ヶ谷、東常縁時代のパワーを利用しながら影響を持ってた可能性がある。
それが後北条氏が一定の敬意を払い続けた理由だと思う。
第一次国府台合戦まで影響があったと思われる一族
・千田千葉氏・弥冨敬大野原氏(朗〇系)・府川豊島氏・下総村上氏・臼井氏
・上総東氏・森山東氏・海上氏・真里谷氏
ただし下総千葉氏、原胤隆、原胤清、原胤貞、後期高城氏も下総安定に力を入れてるため
【千葉は百騎、原は千騎】【千葉に原、原に高城両酒井】
を経て後北条に完全に飲まれていくことになる。
0527人間七七四年
垢版 |
2021/06/07(月) 20:01:05.07ID:bMroHvIG
追記
1506年に東胤重の死があるが、千葉中務少輔盛胤の子とされる良胤が1506年に亡くなっている
良胤の子に雅胤、ただし守胤は千葉介であり子の憲胤が1552年に赤塚松月院に書状をだしている
実胤の娘と常和の婚姻の場合、胤富と常和の娘(孫養女)を妻にしているので良胤は従兄弟
系図では胤富の子に良胤と邦胤、良胤(追放で)子は当胤(まさたね)
もしかしたら中務は千田千葉氏で盛胤=胤仲=臼井持胤=臼井守胤で子供が良胤=義胤なのかもしれない

押田系図で中務守胤の舅の押田吉持は1532年武蔵国で氏康と闘い戦死、
国府台合戦前で32年は扇ヶ谷上杉藤王丸が江戸で死去し朝興の子朝定が継ぎ、
足利は晴氏、山内は憲寛が義明の元市原市に逃げて憲政が継ぎ、北条と義明は停戦中
江戸でなんらかの争いがあったか?押田氏は下総の東の領地なのでだいぶ遠征している
0528人間七七四年
垢版 |
2021/06/08(火) 13:04:27.15ID:nH96gBqt
誤字脱字がひどいな
0529人間七七四年
垢版 |
2021/06/09(水) 13:38:56.17ID:Joyo2cWc
まず吉良成高だが、蒔田にも所領を持つため早い段階で北条氏と手を結んだと思われる。
そうすると武蔵千葉氏も早い段階で意識はしていただろう。(世田谷世田谷泉沢寺の円城寺、上丸子の所領
から見て北条時代も武蔵千葉氏と武蔵吉良氏のつながりはあると見える)白子の戦いで、北条が敗北し
蕨城が扇ヶ谷に戻るとき、赤塚城に言及されないのは復帰は蕨城のみで武蔵千葉氏はそのまま北条氏方に
いるのではないか(余談だが上杉謙信の小田原攻めの際には赤塚城で強奪、放火をしている)
個人的には確かに快元僧都記に1538年2月に葛西城落城とあるんだけれども、
元々1525年の江戸城攻略以前で武蔵千葉氏の葛西城が北条に渡ったんじゃないかと
考えてる、なぜまず武蔵千葉氏か、まずは円城寺事件、次に大石石見守綱周(定久弟か子)が
多摩にいること、そして大石が孤立してこの地いるリスクから考えて円城寺事件で
武蔵千葉氏に移ったとしても不思議ではない。25年周りの岩槻城攻防だが、上記で
武蔵千葉氏の渋江氏と書いたのだけれども、渋江氏にはいくつかの一族がいる。
鎌倉時代から公方に属すもの、古河時代に小山氏の渋江から生まれた一族、そして岩槻太田
家臣だが、太田家臣は近くの渋江からなる、この一族本名が須賀であること
(千葉氏には大須賀氏がいる)義氏家臣の渋江景胤、好胤の胤の通字(別の系統の可能性もあるが)
寛政重修諸家譜にて千葉氏庶流とあること。岩槻太田氏がいつごろから岩槻を領したか、
また岩槻城は公方の時代もあるため難しいが、武蔵千葉氏が大宮区の内野郷を
所領していることから、可能性はあると思う。また38年に北条氏が下総側にスムーズに
川を渡っていることは、そこが武蔵千葉氏の影響圏だったからではないかと思う。
遠山氏が葛西城主になるのは1558年頃である。義氏の葛西城での元服は1554年。
北条による資高、渋江の攻略は武蔵千葉氏の功績があるのではないか。
0530人間七七四年
垢版 |
2021/06/11(金) 22:02:24.47ID:ODGpqwJq
曽我氏
相模の一族で扇ヶ谷の家老までになる、埼玉県上尾市に館をかまえる
扇ヶ谷滅亡後に成田氏に曽我氏が見える、山内憲政家臣で越後に行った曽我氏、
小田原に残っていた曽我氏は1559年に謀反を起こし氏康に滅ぼされる、
他に多摩八王子あたりに一族の佐宗氏がいる

広沢氏
広沢元家 重家の子、岩槻太田氏の家臣、1546年の河越城の戦いで討ち死に。
広沢氏は元々朝霞市の広沢郷からなる。が、時期とともに領地は北上している、
その後の広沢郷は浜崎氏が見える、その地域の城の武蔵岡城は不明点が多いが、
太田氏の領地だったと見える。朝霞市にあるいくつかの観音様は浅草観音と
つながりがつよい、(浅草寺内の広沢新田)他にも広沢の付く地がいくちかあるが
つながりは不明。朝霞、蕨、赤塚の間に市があり、戦国期に盛んだった。

島村氏
武蔵国に広がる名字で(北武蔵に多い)、有名なのは
島村家吉 扇ヶ谷上杉朝興家臣。1538年に越生町報恩寺に寄進状を
難波田憲重とともに連署している。

妹尾氏、行方氏(千葉氏系)
六郷で有名な行方直清とその兄の妹尾氏、一説に朗〇系の原氏、一度尾張国に行き
その後北条氏の元六郷にいるという(尾張に記録が残る)、16世紀後期で岩槻城主だった事も
あったようだ。(直清の法名は明連、または明蓮または妙蓮、大野原氏は蓮〇がいる)
原朗意(武蔵千葉氏に味方して亡くなった兄二人から原氏を継ぐ、胤氏)
ー原景広(法名は朗〇の朗真だが、通字の胤ではなく景、おそらく庶流から家を継いだ)
行方氏は元は上杉氏の家来という説、それから妹尾氏だが、長禄期小金の地にいたのは本土過去帳
で分かる。天正期では鎌倉に属している。他に岩槻・松山衆や上杉に従い越後に赴いたものもいる。
やはりここでも武蔵千葉氏の西下総への影響への補完とできるものと感じる。
0531人間七七四年
垢版 |
2021/06/11(金) 23:42:03.30ID:ODGpqwJq
訂正:一説に朗〇系の原氏、一度尾張国に行き、その後北条氏の元六郷にいるという
移動したのは寺の方。
1470年に大宮又は葛飾区水元で亡くなった原信濃入道朗意も行方又は妹尾を名乗った可能性もあり
川越の瀬尾町にも関係性があるかもしれない。

他に名が残る武将は岩槻資正関係が多く、それ以前が難しい。岩槻系はもとは道灌父とともに
越生町にいたのだろうか、富士見市で道灌死後に台頭する難波田氏(元は山内上杉方か)1533年の
江戸、品川への出陣、1537年の深大寺城修復、主家滅亡後の北条での所領、
埼玉県宗岡から見て蕨の渋川氏&宗岡の難波田氏と武蔵千葉氏でにらみ合ってたか。
0532人間七七四年
垢版 |
2021/06/12(土) 02:22:55.46ID:vN8GhE0V
埼玉南部と東京北部の境(難波田、渋川、武蔵千葉)において一つ抜けてしまった…
柏城(志木市)の大石信濃守。定重、政吉、宗虎、定基。
定重が父で子に定久。定基(宗虎、政吉か)この時期の大石氏の定が顕定からの偏諱
ならば北条に下るまで山内に属していたと思う。政吉の政は憲政の政か。
太田資正も難波田氏にともなっていたが、はじめから松山城かまたはこの辺りにいて
大石氏とのつながりを強めていたか。資正の妻の一人は定基妹か綱周(憲重)妹。
1527年に信濃守が亡くなっている(信濃守も何代かいたか、)

その南の東京都杉並区に中田加賀守(山内顕定家臣)
中田加賀守は北条家の小机衆として有名だが、元は荻窪に居たか。
臼井守胤は中田加賀守の娘を娶ったとされる。またこのあたりに
土着した千葉氏家臣の宇田川氏が1636年に中道寺に寺地を寄進している。
0533人間七七四年
垢版 |
2021/06/14(月) 03:44:53.03ID:6s8MGVSt
https://i.imgur.com/XijgCsw.png
想像図になってはしまうけど、このように考えている
まだまだな部分は申し訳ない
0534人間七七四年
垢版 |
2021/06/15(火) 04:54:52.14ID:kv6KJpYV
武蔵吉良氏において成高ー頼貞ー頼康であるとすると
頼貞の妻が平氏女とあるが年代的に北条以外の平氏であると考える
繋がりの強い上杉氏は藤原、太田氏は源、とすると武蔵千葉氏の可能性はある

世田谷泉澤寺を吉良頼康、江戸頼忠ともに支援した円城寺頼長
円城寺氏は上野、石田、鎌田なのだが、鎌田は六郷と思われる
武蔵千葉氏ー円城寺氏ー行方氏ー武蔵吉良氏のつながりを感じさせる
また佐倉市城に城城あり、この城の元の名は円城で円城寺に由来という説あり、
読みももしエンジョウならば近くのオンジョウ寺は関係なくやはり円城寺氏に
関係していることになる。もしかしたら円城寺道頓がいた城か、近くには
由来不明の春路がある、自分の説では浜春利に関係してると思っている
深い意味があるのではないか

千葉県千葉市中央区、若葉区、緑区、花見川区などの城
中野城 上総酒井氏が元々いたとするが大移動は謎
馬加城 天文年間に胤富が在城している期間があるので廃城はその後
亥鼻城 1516年に下総千葉氏方又はその反勢力が攻めて落城、千葉氏の本城ではない説あり
    この亥鼻城周りに支城群を形成しているが、ここに境があったと見れる
生実城 小弓城に対して北小弓城説あり、連歌師宗長が胤隆の誘いで立ち寄ったという
浜野城 宗長が胤隆の誘いのとき泊まったのが浜野であり、自分はただ止まったのではなく
    浜野城にも用があったのではないか、そもそも歩んだルート自体が
    下総千葉氏領ではなかったのではないか(上総酒井氏の祖の浜春利の所領だった説あり)
有吉城 第一次国府台合戦後、里見の抑えとして綱成を派遣して築城したとのこと
    この話の中で氏康の妹婿の千葉氏胤と図って、また千葉利胤が北条娘妻とあるが
    尾崎姫は親胤の妻であることから、やはり武蔵千葉氏に氏胤なるものがいて、北条から
    妻を娶っていたのではないか。この城は里見氏の進出によって廃城になったと思われる
高品城 安藤氏の城だと言われてる

もどって
1496年埼玉県川口に中田安斎入道安行が金剛寺を開基している
この中田氏は杉並の中田加賀守と同じ一族か、またその子は吉岡将監とあるが
下総木出城の吉岡氏との関連があるのかもしれない
また埼玉県三郷市戸ヶ崎の所領匝瑳蔵人佐は江戸衆で武蔵千葉氏家臣ではないだろうか
0535人間七七四年
垢版 |
2021/06/15(火) 17:32:33.22ID:kv6KJpYV
相模や多摩の境などの武将も必要だな
0536人間七七四年
垢版 |
2021/06/15(火) 17:55:56.72ID:kv6KJpYV
笠原信為、北条氏光、神蔵盛清、布施蔵人、山田右京進、寺尾若狭守、座間七騎、
若林大炊助、白井織部是房、曾根采女助、曾根外記、窪田又五郎、増田満栄などか
0538人間七七四年
垢版 |
2021/06/15(火) 23:06:53.69ID:oE2KRLGa
>>537
「道灌死後〜第一国府台合戦 1486年〜1538年」てえと関東の勢力分布も対立軸も激変して異世界に成り変わった時期じゃねえか。
道灌横死直後なら関東には北條の影さえねえ…、否、「後北條」そのものが存在してねえ筈だ。
そこから1516年までだったら大森や三浦は何処へ行った?
北條が江戸を獲ったのは何年だ?
三田や大石が上杉方だったのはいつまでの話だ?
国府台の直前には河越も葛西も北條で、直後なら小弓は消滅してる。

一枚の絵図で表すのは絶対に不可能な期間。
第一「次」が抜けてんのも気になってしょうがねえし、
散々細けえことを書き散らかした割にゃいちいちテキトー過ぎるんだよ。
0539人間七七四年
垢版 |
2021/06/15(火) 23:22:45.67ID:kv6KJpYV
>>538
なるほど、いやたしかに
一つの図ではまず無理か…
いちいちテキトー過ぎるは自分でも思ってたから
申し訳ない。
0540人間七七四年
垢版 |
2021/06/23(水) 07:17:56.32ID:0KXWrbZW
下総中村氏
中村胤秀が1423年こさめ田、まち田を香取社に寄進。
1449年に中村但馬守が千田庄(多古町あたり)の中城に居て、胤直方に味方したが
馬加氏に敗れた、同じ経歴で言えば千田胤幸がいて、市川に同じく逃れたのかもしれない

後にこの辺りに原胤清系かまたはその近くの原氏系の牛尾胤仲がいたが北条に反発したため
山室氏に攻められたあと亡くなられた。

少し土地を離れて西東京あきる野油平は北条氏家臣中村但馬守が1590年に土着し、開拓したとある。
苗字と官職名だけで同族判断はできないが可能性がないとも言えない。また府中井田氏と下総井田氏もどうであろうか。
府中井田氏は小山田氏や畠山氏や三河国とのつながりがあるため、可能性は低いか。
逆に永禄あたりで千葉庄の壷岡城には北条氏家臣の平山季信や平山時常がいたとのこと、こちらは檜山平山氏関連と思われる。
ただしこんな下総千葉氏の所領に北条氏家臣が食い込んでいるのはどういうことなのか。飯高氏の庶流とも。
千葉系ではない八幡信仰の可能性あり。一説には平山氏は三浦入道の一族の飯土井氏とともに
臼井氏からの養子の牛尾胤仲と闘って敗れたとある。前出の牛尾と山室の戦いでは中村氏と平山氏は牛尾氏にしたがっている。
0541人間七七四年
垢版 |
2021/06/23(水) 15:34:36.96ID:0KXWrbZW
衲叟馴窓の雲玉和歌抄に出てくる重要な武家歌人の桃井野州(源宣胤)であるが、
研究では上野国の人として見られているが、一つの可能性として
風土記稿上戸田村条に書かれる桃井播磨守の一族ではないか、このあたりの寺の開祖で、
元々上野国の桃井氏と同族であり、多福院(戸田)は1382年に桃井直常の子で戸田城主
桃井直和(死亡が1370年なので別人か)が建立。ただしその子孫は天正期に戸田の過去帳に
桃井氏が見えるので戦国期の戸田に桃井氏がいたのはそうであろう。
この戸田だか武蔵千葉氏玄参が知行地から戸田袋野を宝持寺に寄進している。
つまり上記の桃井野州が戸田の武士なら武蔵千葉氏のつながりが大きい人物であろう。

また中々の冒険的な仮説だが、まず根古谷城主千葉勝胤が1528年に勝胤寺を創建したとある。
まず一に勝胤がその地をおさめていた時期に佐倉はまだ地名として重要じゃなかったとする、
また本佐倉城自体も築城年、勝胤居城時期が不明確なため、そもそも違う城にいた可能性もある。
すれば、この場合佐倉の地は臼井城の可能性もある、またさらに冒険すれば佐倉の地とは
佐倉は鍛冶集団を意味する場合があり、そういう意味で浅草、
名前の近さでは江戸城の近くである、桜田郷の可能性もあるのではないか。
ただしどうであれ幡谷加賀守胤相/粟飯原民部少輔信尊/海保丹波守幸清については考えなくてはならない。

海保氏
里見氏に従い房総半島へ、市原市の南の海保庄を所領、
まず胤直に仕え、胤直没後、四代泰氏からは下総国佐倉山城に移った。
武蔵国であれば天正期に水判土村(さいたま市西区)元亀期で三室(さいたま市緑区)
で名が見え、岩槻城士とされる。

粟飯原氏
下総千葉氏においてかなり重要な家臣、
武蔵千葉氏としてつなぐのであれば、15世紀末期に見える幕府中央勤務の粟飯原氏か
見聞諸家紋において家紋の紹介にて九曜紋ではなく月星とある、この時期は幕府は下総千葉氏を
認めていない時期で武蔵千葉氏とのつながりの方がある時期であった。(中曽根神社が月星紋)

幡谷氏
大須賀一族で、1505年昌胤が千葉金剛授寺にて元服式挙げる際に高品城から剛授寺に向かう
昌胤の後陣を担った。武蔵千葉氏とのつながりはとぼしい。渋谷区の幡ヶ谷は無理か。
0542人間七七四年
垢版 |
2021/06/23(水) 17:24:52.10ID:0KXWrbZW
松月院はおそらく雲玉和歌抄にも出てくる有名な歌僧の招月こと
正徹から来てるのではないか、別の庵号が松月庵でもある。この雲玉和歌抄ででてくる
歌人の師匠のようなものにあたる、そこから敬意をもってとったのではないだろうか。

円城寺道頓の和歌は道灌が江島にいるときの会合で読まれ、その時衲叟馴窓も読んでおり
道灌は両方が良い歌だと言ったとある。つまり道頓が下総に帰国できていて且つ、
道灌が存命中で且つ江島に行ける時期に行われた会合である。1486年以前にはどんな形か
道頓は江の島と下総を行き来できてるということである。

ただ研究における海隣寺はどうしたものか。ただ〇〇寺を移しとだけ見ればいいのか……
やはりまだまだ佐倉歌壇の説には叶わないな
0543人間七七四年
垢版 |
2021/06/24(木) 15:09:15.33ID:HcumnVpm
中田安行ー吉岡将監、中田加賀守
戦国期の北武蔵国に多い中田氏は長尾氏の家臣岡部氏の一族の可能性が高い
それ故山内上杉の家臣言われる萩窪の中田加賀守も同族か
小机における中田加賀守も太田康資と関連があると言われ、同じく南に領土を
伸ばしたのではないか、康資家臣又は与力と思われるのは中田、中村、恒岡、興津
なぜ中田安行の子がなぜ吉岡に変わったかは不明だが、吉岡は在名と言われるが、
土地名の元が吉岡だったかはわからない
上総の秋元氏に従ってきた吉岡氏や他に香取郡吉岡村の
吉岡氏が千葉国(邦)胤に味方し栗原下総守に敗戦して移ったとある(どちらも榛沢郡)
邦胤が粟飯原氏に負けたとは思えず、他の話が混ざってると思う

石出吉胤
千葉日向守幸胤の嫡男で小田原城に籠城後、浪人を経て弟の吉祥院の覚源を頼り
足立区本木に土着、その後千住に移る(武蔵千葉一族か)

相馬ー戸張胤政―胤房、戸張胤久―胤春、戸張胤政―胤定
戸張氏は古河公方→北条に従う、太田六郎と小金で亡くなったことを見て間に扇谷を
挟んでると思われる、また北条期と思われる時期に梁田氏から書状がある
0546人間七七四年
垢版 |
2021/06/26(土) 02:09:55.32ID:aX0EzuCY
>>545
この時期の後、北條氏綱が江戸城を獲った大永期の城主は太田資高、明確に扇谷方だから永正期もそうであることは間違い無いんだが、
資高の父である資康は更にその父たる道灌の理不尽な横死に憤激して山内方に走ったと云う。
その際には江戸城を出奔して一旦は甲州まで逃れたと伝わるが、いつどんな経緯で嫡子資高は扇谷方に帰参したのか、江戸城主にまで復されたのか、
そこが今一つ判らない。
0547人間七七四年
垢版 |
2021/06/26(土) 06:44:01.01ID:H+f2wasY
>>546
おそらくにはなってしまうけど、道灌死後に扇谷を離れたのは資康だけではないのは間違いなくて、
大きいのは三浦氏。(自分は武蔵千葉氏も一時期離れたのではと考えてる。定正の曽我氏への愚痴からしても)
1489年の須賀谷原では資康は山内方で参戦しているとのこと、三浦高救(扇谷の子)も
山内方(三浦本家は扇谷方)。川越城と江戸城の城代に扇谷家臣曽我氏が入ってる。
城代なのは気になるところで、太田氏は資康とは別の六郎が家督家宰職をついでいるので
そちらが城主なのか、とりあえずは混乱をおさめる意味で曽我氏城代なのか。(川越城は定正)

定正死後1494年の伊勢氏による足立郡攻めだが、時期が扇谷ー公方ー伊勢同盟なので
この足立郡は武蔵千葉氏ではないだろうか(岩槻範囲は公方方成田氏と言われる)
そしてここで山内ー公方同盟になる。もしかしたら時系列が逆で山内古河同盟に反発して
伊勢氏が公方を攻めた可能性もある。実際伊勢氏と成田氏が岩槻で争い、公方方がが勝っている。
その後伊勢氏は馬込でさらに敗れるが、誰に敗れたかは不明。
このあたりでおそらく資康、武蔵千葉氏、三浦氏帰参な気が自分はする。三浦義同は明確にこのあとの
山内方の小田原城攻めに扇谷として参戦している。逆に大森氏は山内方に寝返るけれども。
各々意味やタイミングは違うと思うけど、定正の死と朝良の相続、同盟の変更が大きいのではないか。
ただ小田原に三浦とともに参戦しているのは太田六郎で、一説には資康は帰参後も稲付城で過ごしてたとある。
またこの辺りで曽我氏の名が薄くなる、定正とともに滅んだか。それでは江戸城は六郎か?となる。
岩槻城はこの頃渋江氏であるので。まぁなので資康は稲付城だとすると、扇谷の定めた嫡流と和解したというより
武蔵千葉氏を頼ったのかもしれない。1502年に六郎は中野で死去、ここで資康が江戸城復帰かとなるが、
ただ太田永厳が家督を継いでいることから、ここでも復帰できずにもしかしたらそれが原因で
1524年に資高が江戸城を北条氏とともに攻略したのかもしれない。ただし資康は三浦氏と婚姻を結んでいるので
家柄としては没落はしてないと考える(日蓮宗に変わっているなど謎があるが)
0548人間七七四年
垢版 |
2021/06/26(土) 06:53:07.09ID:H+f2wasY
太田氏嫡流論争は今だ決着がついていなくて江戸時代の新井白石は岩槻系を嫡流と見ている。
ただ自分は道灌死後反発した資康こそが血筋であり嫡流と見たいところではある。
0551人間七七四年
垢版 |
2021/06/30(水) 16:01:35.59ID:i8wKa9TX
1502年から1504年間は佐倉近隣の篠塚に政氏が勝胤と対立して3年ほど陣を張った。
1504年の和睦と共に解消されたが、原胤隆と上総木内氏が扇ヶ谷に下っていたが、婿の木内氏を討って
原胤隆は下総千葉氏に帰参している。
東胤重の祖父は原胤義で東氏に養子になっている。
系図では胤義の子に小西原氏胤継とあるが、東氏に養子に入ってる胤義の子か疑問がある。
小西原氏と東氏は関連がうすいのではないか。
冒険する仮説では和睦において下総千葉氏は盛大に千葉妙見宮で元服することができ、
その後小弓の小西系原胤隆は玄鼻城を攻める、が三上氏と東氏が扇ヶ谷の令で救援したが
東胤重と千葉良胤は亡くなってしまったのではないか。

宗長は胤隆のもてなしの後目的の交渉が見えず帰国している、これは浜野城において真里谷氏の方が
赴いたのではないか。残念ながら交渉自体の詳細は分かっていない。

1513年頃に原胤隆は国境地域の市川市のあたりに安堵状をだしている。
扇ヶ谷や武蔵千葉氏の影響を切ろうとしたのではないか、が小弓公方真里谷の台頭で胤隆の代では
うまくいってないように私には見える。
0552人間七七四年
垢版 |
2021/06/30(水) 16:15:05.45ID:i8wKa9TX
雲玉和歌抄にて
源信兼、大森慶蔵主、梶原はよくつかめなかった。
日泰上人おいては品川から来て浜野の本行寺を1469年に開基したという。
ただ関わりが深い酒井定隆については謎が多い。浜春利や三河のものなど諸説ある。
だが、酒井定隆が浜野に関わっていることが、浜野までが武蔵千葉氏影響圏説の補完に
なるのではないか。
0553人間七七四年
垢版 |
2021/06/30(水) 17:54:49.06ID:i8wKa9TX
浜野はその地から千葉一族浜野氏が出現している。
浜野氏はその後、関東幕注文で岩槻勢で名が見れる。浜野氏は武蔵国においては
古利根川の近くに多いとされる。渋江氏と共に下総から武蔵千葉氏に従って来た
一族ではないだろうか。
0554人間七七四年
垢版 |
2021/06/30(水) 20:45:12.25ID:rRO7z0XK
凄い勢いで「東京の」から離れてるように見えるのは気のせいか。
0555人間七七四年
垢版 |
2021/06/30(水) 21:48:34.95ID:i8wKa9TX
申し訳ない、個人的には武蔵千葉氏の話で東京の武将の話を
書き込んでるつもりだったんだけれども……
三田綱秀の祖父三田氏宗も和歌に通じてる、こういう話も心が躍りますね
0556人間七七四年
垢版 |
2021/06/30(水) 22:54:13.94ID:i8wKa9TX
2023年にハリポタランドが開園されたら豊島氏が少し注目されそうですね
0557人間七七四年
垢版 |
2021/07/01(木) 00:44:03.70ID:uro3c5rT
>>556
豊島園があっても注目されなかったからなあ…。

同じく豊島氏&道灌関連だがやや動いて石神井城址の話。
俺が餓鬼の時分は柵も何も無くて勝手に入り込めた。
三宝寺池でザリガニを釣るついでに落葉のたっぷり積もった堀跡を駆け下り駆け上るなどして散々遊んだものだった。
最近は立派な「史跡」として頑丈な柵が張り巡らされて普段は厳重に立入禁止、
餓鬼は勿論のこと新来の大人にとっても地元のものとして馴染むにはハードルが高かろう。
保存の為に致し方無しとは重々承知ながら、それで良いのかと些か悩む。
痛し痒し。
0558人間七七四年
垢版 |
2021/07/01(木) 18:44:16.13ID:4L0xBi1Y
豊島氏といえばその一族に赤塚、志村、宮城、滝野川、平塚氏がいて宗家は豊島園の地域を
その一族たちが豊島郡の東を治めていた。土地として平塚はその後後北条氏で足利義氏と太田康資の地に
なっており、滝野川は康資、その家臣板橋氏になっている。板橋氏(他の一族も)は
太田氏や武蔵千葉氏の家臣化され、渋谷の広尾まで飛び地で収めている(その後興津氏に渡る)
板橋氏は北条家の中で色々な活躍が見れる。また宮城氏は岩槻太田氏の家臣になり変動もあるようだ。

主家豊島氏で言えば道灌により攻められ足立郡に逃げ滅んだが、船橋夏見において
旦那 夏見豊嶋勘解由左衛門尉平朝臣胤定、彦三郎弟源五郎戒名道頓、子息彦三郎胤重とあり
この地に1536年以前から胤が付き主家と同じ勘解由を名乗る豊島氏と円城寺道頓と息子胤重がいたこと、
1517年頃から府川で豊島氏が出現していることはつながっていると思いたい、つまり主家に近いものが
勘解由を名乗り、婚姻があったか武蔵千葉氏から偏諱があったか家臣化されたものがこの地にいたと
みれるのではないだろうか。時代が少し下ると夏見政芳が地を治めるが政芳は里見義明の家臣で里見氏と
足利義明の混乱が生じている。
0559人間七七四年
垢版 |
2021/07/01(木) 20:27:47.82ID:4L0xBi1Y
また色々タレ流すがご了承を願いたい。
武蔵千葉氏勢力圏説の補完。
かぶったことを書くことがわりとあるのは申し訳ない。

雲玉和歌抄の大森慶蔵主だがおそらく道灌時代の連歌会で会ったのであろう大森寄栖庵氏頼であろう。
その後子孫か一族の子孫が北条氏での江戸衆の大森殿になっている。江戸歌壇におけるものと見える。

松月院の開基の自秀(自胤叔父)が千田千葉氏とあるのは書いたが、この自秀も1506年に亡くなっている。
通説は自胤=良胤=自秀とするが、別人で自秀も先に書いたように玄鼻での救援で亡くなったのかもしれない。
また松月院の梵鐘銘には春日氏の名が多く見え、これも武蔵千葉氏が岩槻辺りまで影響を持ってたと見える。
与力に板橋城の板橋氏と赤塚城の松戸氏がいるのも、補完材料になると思う。また逆に松戸の過去帳に滝野川氏が
見える。

本件とは別
1504年の立河原合戦以前は椚田城に扇谷家臣の長井氏がいたが山内方大石氏に敗れ滅亡した。
また長井氏の居城の椚田城は三田氏宗が入ったとされる。(東京武将)
0560人間七七四年
垢版 |
2021/07/02(金) 16:36:31.85ID:Ik9ZHltc
続補完

所謂伝承、戦記物だが、高城氏が武石氏を攻める際に
中沢壱岐守の守る中沢城(鎌ケ谷)が落ちたという話。

同じ中沢氏かは不明だが1551年に岩槻の高曽根村常香寺を
行蓮社戒誉林公上人と檀那中沢舎人、栗原越中守などが中興開山しているようだ。
が、それにあたる寺は分からなった。
ただこの栗原は栗原郷を想起させるのでおそらく1551年には岩槻城あたりに
武蔵下総国境の中沢氏と栗原氏がいたようだ。
また行蓮社戒誉林公上人だが、
1453年(享徳の乱前)に善徳寺(現北区)を江戸に開山した
十蓮社楽誉聡林上人(千葉胤行の子)との関係はあるだろうか。
胤行も誰かは分からなかった、こちらは100年違うので関係はないか、、、
中沢氏と栗原氏は高城氏に追われて岩槻に来たか。

また同じく高城氏と所領を争う飯野氏だが、
室町後期に存在した足立郡石戸郷に飯野孫七郎が見える。
石戸郷は岩槻系太田氏資家が石戸城を築城している。北条支援で渋江氏が
岩槻城を一度取り返した際には資家の子資頼は石戸に退いている。

おそらく武蔵千葉氏との繋がりが強かった一族たちも時代ともに
他の氏族の家臣になったりと再編していったと思われる。
0561人間七七四年
垢版 |
2021/07/06(火) 01:02:58.27ID:aY8FehP8
調べれば調べるほど訳が解らなくなるわが地元の戦国武将(?)、
保谷出雲守直政。

仲間たちと共に上保谷村の開基となった−−保谷六苗−−と伝えるが、
その活躍年代さえ文献史料によって鎌倉末期から永禄年間までバラバラ。
鎌倉御家人だった、小田原北條の与力だった、いや実は僧侶だった、…。
本人の墓は確かに在るし保谷氏他六苗は今も地元の大姓だから全く虚構の人とも思われないが、
六苗伝説自体に早雲伝説の影が仄見えるような気もする。
実に得体が知れない。

なお実体系の同時代史料は、無い。
0562人間七七四年
垢版 |
2021/07/06(火) 07:35:33.18ID:fxWB8p6P
>>561
保谷出雲守直政かは分からないけど、熊野那智大社米良文書に
天文22年(1553年)旦那願文、武州みたの住侶賀藤たくみ、同ほや源左衛門とあるらしい。
そこからか三田谷で三田氏家臣土豪衆保谷氏とあるが、「みた」だと荏原郡御田郷もあるような
気がするがよく分からなかった。ただ天文年間に武蔵国(おそらく現東京)に寺への
お布施が成せる身分の保谷氏(この頃は穂谷氏カ)がいたようだ。
あとは埼玉県川口市の長徳寺において寛永時に亡くなった保谷氏が代々長徳寺の旦那とされる。
また保谷出雲坊が元亀年間に保谷に土着し、その後保谷直政が前沢村浄牧院の隠居寺を
建立したという説がある。
もし全て同じ一族なら三田氏家臣(三田谷)→北条の令などで前沢村近くに移り→北条氏滅亡後川口に移る
かもしれない。
0563人間七七四年
垢版 |
2021/07/06(火) 08:10:29.07ID:fxWB8p6P
先に出た浄牧院だが1444年に北条安祝が開基とある。普通に考えれば、
この時代に北条氏が在していたと思えないので、大石氏とする説がある。
また氏照の妻がそこで自害したという伝承も残っている。(柏城大石氏の娘とも)
この安祝は八王子城主だとされるが……

八王子城主で謎な人物がもう一人上総国の堀江氏がいる。
中野区の堀江氏は越前から来たと言う、上総堀江氏が同族かは不明だが義明書状にでてくる
堀江氏、茨城県の若林郷の領主だった堀江氏、義明弟基頼が若林で死去(世田谷区にも若林あり)
義明や里見や北条氏に従った堀江氏がいるもよう。

武蔵千葉氏勢力続補完
雲玉和歌抄の作倉において先に江戸に桜田郷と書いたが近くには桜川(港区)が流れる。
もしかしたらこの辺りをさくらと呼んだのではないか。その時代下総佐倉は須々井(酒々井)や
岩橋だったのではないか。佐倉の地名はいつから注目されたのか。……
神奈川県釜利谷町と真里谷氏は関係あるのか、ムササビと武蔵国は関係あるのか、なんて考えてしまう。
また赤塚の中田出世稲荷神社(一瞬なかだ……)と中田氏は荻窪中田氏は関係あるのか気になるところである。
0564人間七七四年
垢版 |
2021/07/06(火) 10:19:05.28ID:aY8FehP8
>>562
ありがとう。
この件は知らなかった。
三田の家中なら地理的にも自然な流れだな。
少し実体が感じられるようになってきた。
但し保谷に関して云うと、
上保谷は鎌倉末期の板碑が存在するし、
下保谷は「所領役帳」に親村の小榑と共に記載があって納税可能な村として既に成立していたことが窺われる。
天文年間の記事が事実なら出来事の時系列は更に錯綜してくるか。

浄牧院の件が大石氏だとすると、
南多摩の南西の果ての勢力が北多摩の北東の果てに寺を建てたことになるが…。
1400年代の大石、三田、豊島などの関係性が気になる。
0565人間七七四年
垢版 |
2021/07/06(火) 19:15:38.83ID:fxWB8p6P
>>564
米良文書の保谷氏とともに若林氏、石戸氏、浅羽氏。
この若林が入間郡発祥の中山氏(信吉)の家臣になってることからおそらく4氏を
三田谷に推定したと思われる、もしかしたら文書に三田氏家臣と書いてあるのかもしれないが
https://i.imgur.com/Bp4remv.png
ただ確かに荏原郡よりは三田谷の方が地理的に可能性がある気もする。
だけど目黒区三田(御田郷推定)と世田谷の若林も近い、関係はないのか……。
保谷政信家文書というものがあるが、おそらく永保と永禄を間違えていると思われる。
出てくる開発者の保谷氏とともに書かれる新倉の板倉氏だが明らかに渋川氏庶流、家臣で
渋川氏が蕨城を立てたのは1300年代〜で永保の頃は上野や足利に在していたと思われる。
保谷という地名だが、開発は古代からあるが地名自体は不明だった思われる。また文書も穂屋神明社領開発
または開発ではなく年貢減免書との見方もあるらしい、だとすると所領役帳の太田大膳亮の所領保屋と合わせて考えて
三田家臣保谷氏が三田谷にいる→永禄元年(1558年)保谷下田岩崎中村野口桜井氏が蕨渋川氏家臣の板倉氏の元、
名前不明村の社領において何かを行う→その功績かなにかで保谷氏の名から保谷村になる→太田大膳亮の所領になる→
徳川の時代に保谷村に戻った保谷直政が東禅寺または違った名の前沢村浄牧院の隠居寺を建てる。になるのかな…

それから北条安祝の大石氏とは駿河守重仲の子の安叔竜磐(憲仲らしい)が推定で、おそらく成氏に足利庄を奪われて
八王子ではなく志木(柏城)にいたんだと思う。(1480年代柏城は大石信濃守定重)
保谷村も以前は新座郡で志木も板倉氏の新倉も新座郡だった。(ちなみに新倉は上記の保谷氏の時代は武蔵千葉氏所領なはず…)
そして志木大石氏と八王子大石氏の混乱で北条安祝こと安叔竜磐(憲仲)は
八王子城主と見られたのではないだろうか。(1444年なので八王子城という名の城はなかった思われる)
0566人間七七四年
垢版 |
2021/07/07(水) 00:42:05.72ID:d26F34i2
>>1400年代の大石、三田、豊島などの関係性が気になる。

どうなんだろうね。大石氏は他の二つの氏より位は上だとは思う、上司の位置づけなんではないか。
豊島氏は持氏に加担してて、成氏時代に上杉方についた言わば上杉新参、ただ古代より血筋として名家で重要な国人。
三田氏は名は見えるけど氏宗以前は不明な感じで……ただ上総武田氏とつながりを持ってたするなら
武田信長時代に富を手に入れ且つ信長との関係も良好な位置で時代を過ごしたのかなと。
三田氏に関しては元々甲斐武田に近い家だったのではないかと想像する。
だから……大石氏が上杉氏を後ろにチラつけさせながら上手く両家を従わせてたんじゃないかな。どうだろうね。
0567人間七七四年
垢版 |
2021/07/07(水) 00:52:31.43ID:MYL1d+B1
>>565
重ね重ね多謝。
上保谷については貴説で或る程度整合がつくように思われる。

謎は下保谷。
「所領役帳」には「小榑保屋」とあるんだがこれは間違いなく下保谷のこと。
下保谷は完全に小榑の分村で、実は明治になるまで上保谷とは隣接しながら殆ど交流が無かった、従って保谷氏とも関係性が無かったと云う。
実際、旧姓も信仰も文化も両者で全く異なる。
上保谷における六苗の活動が永禄初年で「氏→村」の順で村名が定まったとすると、役帳段階で関係の薄い隣村が既に「保谷(屋)」を共有していることの説明が付き難くなってしまう…。

余りにも微細過ぎる話題を振ってしまったのに御付合、御教示有り難うございました。
この件はひとまずここまでにして、残る謎は暇をみて突っついてみたいと思います。
0568人間七七四年
垢版 |
2021/07/07(水) 01:08:33.22ID:MYL1d+B1
>>566
房総の武田は成氏段階では忠実な公方方、三田は上杉方と認識してたんだが、間違ってるかな?
太田道灌が芝居掛かりの間を持たせた挙句に動いた辺りで三田が鞍替えしたとかかな。

名族豊島は長尾景春が謀叛に及ばなかったらどうしていたんだろうか。
扇谷(太田)との利害対立は解きようもないからやっぱり何れは戦争か。
0569人間七七四年
垢版 |
2021/07/07(水) 01:19:12.93ID:d26F34i2
>>567
いえ私見にも満たないものをタレ流しただけで申し訳ない。
またなにか情報があったら教えていただきたい。
こちらこそ感謝です。
0570人間七七四年
垢版 |
2021/07/07(水) 23:52:07.28ID:ivUZDg4j
謎の巨大城郭・篠本城
千葉勝胤が没した直後に所領宛行を行う椎崎勝信
15世紀に入部する武田・里見・土岐・酒井・井田・高城
千葉も謎が多い
0571人間七七四年
垢版 |
2021/07/14(水) 23:02:19.18ID:44uSxSwc
綱重(つなしげ)
綱成(つななり)
康成(やすなり)→氏繁(うじしげ)
北条綱成ってつななりだったんだね
0572人間七七四年
垢版 |
2021/07/14(水) 23:51:30.91ID:DUZ1i0gL
>>571
人名の読みを確定するのは難しい。
古事記や日本書紀みたいに漢字で書いた後に音を註記するなんてことは戦国時代の文献には無いからなあ…。
0573人間七七四年
垢版 |
2021/07/17(土) 23:04:15.01ID:E07v8DaI
当て字も普通な時代だから
一族で読みが被るのは避けるんじゃないかと
綱重はつなしげとしか読めないから
綱成はつななり
0574人間七七四年
垢版 |
2021/07/18(日) 00:12:12.80ID:KdZLDSgX
ずっと「つなしげ」で覚えたのに違うのか?
0575人間七七四年
垢版 |
2021/07/24(土) 23:28:54.49ID:zyVbHMx7
小田原衆所領役帳て偽書の可能性ないの?
0576人間七七四年
垢版 |
2021/07/26(月) 00:47:31.52ID:eK2op4Y8
>>575
その仮説で実証研究論文を書いてみれば宜しい。
家中の誰某が脱税する為に自領の貫高を実際よりも低く書いた偽書を拵えた、とか。
凄く画期的かつアカデミックで地味ぃ〜な論文になりそうだ。
期待している。
0577人間七七四年
垢版 |
2021/07/26(月) 21:17:31.76ID:jheJuNxe
頭悪そうな煽り
0578人間七七四年
垢版 |
2021/07/30(金) 16:05:50.81ID:8kxdlXAO
0579人間七七四年
垢版 |
2021/08/01(日) 14:08:01.11ID:IsPV8voG
武蔵國という括りになってしまうが、狭山辺りの話。
北條が制圧する前は三田か?扇谷か?
北條関連の他スレで狭山の鉄(鍛冶師、鋳物師)が話題になったんでそれ以前の領主との関係も気になった。
0580人間七七四年
垢版 |
2021/08/28(土) 13:27:18.80ID:X8xV+/nw
武蔵千葉氏と臼井氏を結ぶ線の続き
佐津間城、金杉城の金杉氏、不明の金堀城、大谷口の六崎氏、その東の米本城
金堀城は金杉城の関連する城か?江戸時代には金杉氏は足立区花畑、さいたま市桜区田島に
六崎氏は川越藩に居る。金杉は夏見御厨から独立した地、また下総相馬氏や円城氏などとの関連を伺える
金杉氏がいる。六崎氏も高城氏の前の領主という話もある。そして米本城の村上氏、この村上氏と
扇谷、山内、武蔵千葉氏のつながりの史料がでればオセロ的に臼井氏までの影響圏を証明できるが
残念ながら史料はない。佐津間城に関しては伝承では1100年代に関するものだが、そのもとの寺社
開基時期から見て戦国の可能性もある。
0581人間七七四年
垢版 |
2021/08/30(月) 18:51:01.97ID:XU5nvIrW
保谷直政の墓って見学出来ますか?
0582人間七七四年
垢版 |
2021/08/30(月) 20:57:23.77ID:wnXqYu9O
>>581
こんな場末よりも東禅寺さんに訊きなさい。
0583人間七七四年
垢版 |
2021/08/31(火) 18:12:32.20ID:pgIewco9
いや、行った時に聞いたら個人の墓だからダメみたいに言われたんだよ。だから拝観可能なのかなぁと。
0584人間七七四年
垢版 |
2021/08/31(火) 21:20:13.92ID:b2bGZPqS
>>583
お寺が駄目と云うなら駄目なんだろう。

子孫の皆さんが現存してるんだからお前さんや俺の先祖の墓と同じ。
観光施設ではない。
0585人間七七四年
垢版 |
2021/08/31(火) 23:40:46.24ID:PVEjOQ3G
武蔵千葉氏と臼井氏を結ぶ線の続き
東漸寺(松戸市)の団蓮社照誉遊嶽了学大和尚(16世紀前半)
だが高城氏の三男で母大八木氏、千葉家の出身で俗名は胤知、
1538年に武蔵国糀村(千代田区麹町)に生まれ、まず三上氏に入りその後高城氏の養子になったとある。
北条滅亡後家康に招かれた。この人物であるがもし下総千葉氏ならなぜ椛村に生誕したのか?
なぜ三上氏という微妙な立場の家に養子にだされたのか?
やはりそこは武蔵千葉氏からの子であったからではないか、この人物は特に武蔵千葉氏と臼井氏を結ぶ線の
間に存在する高城氏も合わせて非常に重要な人物なのかもしれない。
0586人間七七四年
垢版 |
2021/09/01(水) 15:31:32.83ID:Drp2jN6Z
>>583
あなたはもう聞く側の人間じゃないよ、郷土愛によって一定数どこの土地にも識者はいるけど南武蔵の古代史中世史は史料も少ないし、激動の歴史だから極端に少ない
足使って何か知識を得たならそれはもう識者の領域
0587人間七七四年
垢版 |
2021/09/02(木) 16:59:36.15ID:cK+N3eqT
質問です、豊島氏から扇谷に領主が変わった際、現東京の人口は増えたんですか?
そもそも室町や戦国初期はどのように収めたんですか?領主がいない村がたくさんあったのですか?
それとも鎌倉府が細かく調査してたんですか?ご教授お願いします
0588人間七七四年
垢版 |
2021/09/02(木) 21:13:25.39ID:mm/o2sqA
>>587
そんな学術的価値の高い知見があったらお前さんより先に黒田基樹先生あたりに教えてるよ。
豊島にせよ扇谷にせよ領国統治に関する史料はロクに残っちゃいねえらしい。
扇谷時代に太田道灌が発行した文書がほんの少しあるぐらいじゃねえかな。
0589583
垢版 |
2021/09/04(土) 18:06:11.48ID:m/92sEFa
>>586
ありがとうございます。
東京都下一体や埼玉県川越所沢などの、神社仏閣城跡古戦場跡や石仏石塔墓所庚申塔などの名所旧跡などを毎週末に自転車で巡りつつ、さまざまな発見を楽しみ、調べて見たりしてますが、そうかぁ…、そんな辺りにまで来ていたんですね。
でもこちらの皆さんの博識には驚きと、新たな発見が毎回あります。
今後とも参考にさせていただきます。
0590人間七七四年
垢版 |
2021/09/08(水) 07:26:50.42ID:0pTPLT9V
>>589
細かい情報でも疑問でも多くの人がこのスレにたどり着いて落としてくれれば
なにがきっかけで新しい情報が発掘されるか分からないから、そうなるといいなぁと

どうしても徳川史観、北条史観、鎌倉府関東支配体制史観と来て地元史観になっちゃうから
細かい小さな話なんかは逆にこのスレでは大事なんじゃないかと思っています
0591583
垢版 |
2021/09/09(木) 00:00:17.19ID:ANrKIo48
東京都内あるいは近県で、マイナーだけど、おすすめの城跡ってありますか。
0593人間七七四年
垢版 |
2021/09/09(木) 00:37:23.87ID:FHlWsm3/
>>591
石神井城はマイナーの部類かな。
本当に「跡」だけだが三宝寺池まで含めた立地が実に素晴らしい。

清瀬と所沢の境に在る瀧ノ城も良い。
神社になっているけど空濠と土橋は明瞭に残っている。
不気味な伝説もあるぞ。
0594人間七七四年
垢版 |
2021/09/09(木) 01:22:07.68ID:R1sDRh4p
マイナーじゃなければやはり一番は八王子城、
マイナーかは分からないけど檜原城跡+郷土資料館で当時の甲冑を見る
マイナー……高幡城、高安寺塁、天神山城とかかな
それからかなり大変だけど稲付城から志村城、志村城から赤塚城に歩くのもあり、
体力があれば岡城まで、当時の村の間隔とか歩いていて「おっ平山」みたいなのを
味わえる
0595人間七七四年
垢版 |
2021/09/11(土) 12:51:52.45ID:Af64Y6ga
>>565
この勢力図を日本史板の「北条早雲」スレッドに引用させて頂きたいと考えています。
許可を頂けますでしょうか?
労作を丸借りしてしまうのは恐縮ですが、宜しくお願いします。
0596565
垢版 |
2021/09/12(日) 01:10:23.06ID:xM0UCS1O
>>595
垂れ流しの一部と了承していただければ問題ないですよ。
0597595
垢版 |
2021/09/12(日) 01:18:14.32ID:TsSubV+V
>>596
ありがとうございます。
0598人間七七四年
垢版 |
2021/09/26(日) 05:10:02.90ID:LHSedbC3
また雑な垂れ流しを少々
・水無瀬親具と後北条家臣中条出羽守の娘
どのようにこの二人に関連が生まれたのか……
親具の方の記録が残っているが、そこからは中々関連性が見出せない……
あるとするならば親具が出家をしたことではないだろうか
ただし時期において無理は生じてはしまう……なので一つの可能性として
埼玉県川越市の西雲寺、般舟三昧院西雲法師よって開山された。
それで親具の法号が西雲であることから、この時に出会ったか。
が、その時期であるが出家の時期、京から離れた時期、子供誕生の時期とそれぞれ難しい。
また川越の西雲との同一性も正直薄い気もしている。
0599人間七七四年
垢版 |
2021/09/26(日) 05:24:39.84ID:LHSedbC3
あきるの市の後北条家臣中村但馬守の候補
中村胤連、中村宗晴
胤連は胤の字から下総中村氏、胤秀の一族か?
太田康資に近かった中村氏は一体どの中村であろうか。
元禄の頃に京に中村但馬守広重がいるが関連は無いだろう。
0600人間七七四年
垢版 |
2021/09/26(日) 08:35:33.44ID:LHSedbC3
武蔵千葉氏と臼井氏を結ぶ線
物井右馬助
千葉県四街道市物井に存在した古屋城にいた人物。
孝胤の次男で臼井氏に入った胤仲(持胤)の三男とされている。
臼井幸胤と同一人物とも。また千葉幸胤だとすれば石出吉胤(足立区関連武将)の父。
物井は佐倉からすると南で、東に円城寺氏と関連があると言われる城城がある。
臼井氏本流景胤は幸胤の死によって本家を継いだとされる、そして景胤は下総千葉氏、
古河公方との関係を反故にし足利義明に付く。景胤の子久胤は原氏によって追放される。
別の臼井氏としては臼井守胤の子胤知が横浜で存続した。
この物井右馬助も臼井持胤も妙に武蔵千葉氏との関連を匂わせている。
千葉某の記載には意味があるのではないだろうか。吉橋城(八代市)の伝承では義胤という名も出ている。
佐倉から見て西と南を覆うように武蔵千葉氏よって侵食されていた時代があったのではないだろうか。
0601人間七七四年
垢版 |
2021/09/30(木) 01:31:38.70ID:lIH3dC93
https://i.imgur.com/3FS2gwS.png

垂れ流しの整合性をとって系図にして見た。
自秀、自胤、守胤を千田氏、中務丞になっている系図を参考にして
自秀ー胤仲ー盛胤は中務丞の結びついている。(大系図では胤仲と盛胤が中務丞)
自秀は胤が入ってないことが逆に胤幸の可能性もあるのではないかと考えた。
(千田氏は前の時代で敗れた宗家千葉宗胤の次男胤泰の家系。また千葉胤宣が原胤房に襲われた際
千葉城→千田荘→多古城→市川城と逃れる中、千田荘から実胤達に付き添い市川城まで来た。)
そして千葉某の子供の臼井持胤=千田胤仲とし、盛胤=景胤、盛胤≠守胤、また自胤≠良胤を採用した。
(書いてはいないが吉橋伝説の義胤=良胤としている。)持胤(胤仲)は自胤が臼井城を落とした際に城代に、
が、すぐ俊胤が取り戻す。実胤の子盛胤は父の失踪後自胤の子になり、その後和解の条件として
臼井氏を盛胤に継がせた。盛胤の親胤の重臣説は今回は取り除いた。また幸胤=物井右馬助であるから
千葉城や臼井城まで武蔵千葉氏が取り戻したことになる。この他に味方したと想像する原氏と
牛尾氏や東氏、海上氏(そちらも胤仲がでてきたり、あちたこちらに養子にっているので中々難解である)
も入れたがったが複雑性が増すと思い、一度ここまでにした。
0602人間七七四年
垢版 |
2021/10/01(金) 08:16:44.57ID:rmF/KYfT
https://i.imgur.com/Bp4remv.png
https://i.imgur.com/3FS2gwS.png

小弓公方と武蔵千葉氏の関係はあったと思う。
真里谷氏、上総武田氏は自胤に降りたとある。その後関係が変わっても繋がりはあったと見る。
逆に小弓公方と古河公方(下総千葉氏)との争いになった時、面識のある武蔵千葉氏を意識しないというのは
考えにくいのではないだろうか。もし上の図のようで臼井氏までの勢力であるならばなおさらである。
第一次国府台合戦が起こる一つの要因として北条の北上で武蔵千葉氏の立場が変化した、また真里谷氏の跡目争いで
真里谷氏と武蔵千葉氏との関係が変化した、そして古河ー扇谷ー武蔵千葉氏ー真里谷ー小弓ー北条の均衡が崩れて
第一次国府台合戦へつながり、武蔵千葉氏は弱体、小弓公方は滅亡、下総では高城氏が南下、そして
手賀原氏と佐倉千葉氏が下総を安定化させたのではないだろうか。一つ筋が通るので考え方ではないだろうか。
0603人間七七四年
垢版 |
2021/10/01(金) 09:01:12.80ID:rmF/KYfT
書き忘れ……
1502年に誅殺された原胤宗と1526年に市川から本土寺に来て急死した原豊前は
図の弥冨大野原氏だが、この二人と飯野氏と中沢氏、鷺沼氏、吉岡氏、武石氏は
武蔵千葉氏に与してたのではないだろうか。下総村上氏は堀江氏他と国府台合戦で小弓公方に
与している。
0604人間七七四年
垢版 |
2021/10/03(日) 07:43:39.14ID:/Dxl7ge4
ツイッターでやればいいのに、こんな人もいないとこでやっても超マイナーな話なんて誰も見ないんだからさ
0605人間七七四年
垢版 |
2021/10/03(日) 08:28:47.96ID:/Dxl7ge4
まぁ俺はおもしろいと思うよ
0606595
垢版 |
2021/10/04(月) 03:05:33.04ID:eNF8YjPI
>>604
だったらもっと良い話題をお前さんが提起するんだな。
文句を云うだけの輩よりも、自分で色々調べて考えて書いてくれる人の方が百倍上等だ。
0607人間七七四年
垢版 |
2021/10/06(水) 20:08:50.37ID:wA4xurIv
何でもかんでも同一人物にしてるけど何を根拠にいってるのかさっぱりわからんのよね
0608人間七七四年
垢版 |
2021/10/07(木) 09:38:15.67ID:vxgC77lw
>>607
これは非常に面白い所だと思います。
実は自分ではなくてですね、今現状の通説が史料の少ない中で、
さらに少し後ろの時代に作られた混乱ある複数の系図と伝承を持って
今の専門の方々がある程度筋が通るように同一人物に仮定してるんですよね。
なので逆にいくつかは自分はそれを切り離してみました。
例えば自秀(叔父)ー自胤ー良胤(子)をおそらくなんらかの混乱あって
系図の中で違いが生じてる名前なんかを同一人物だろうという風にしております。
実際自秀なんかは墓もあるのですが、よくわからないという事で自胤の墓だろうという感じで
混乱を回避してるわけですね。また守胤と盛胤も基本は同一とされています。
そして通説では臼井盛胤(守胤)は存在を薄くされていますが、
場所の違う二つ離れた場所から臼井盛胤の伝承があるので守胤とは合わずこの二人も
切り離しました。守胤もややこしく三条西実隆から「東」守胤への書状が残っています
(今回は説としては抜いてしまいましたが……)史料において名前だけの人物が結構いるわけですね。
確か去年あたりに千葉県が周年記念プロジェクトで千葉氏にまつわる史料を精査するといことなんですが
これで信頼性を持つとこだけに絞るということで、逆に浮く名前は結構出るでしょうね。
太田氏なんかも例えば岩槻城の築城主を誰と同一人物にするかで郷土研究家グループから異論がだされたりしてますね。
で、自分が今回自説を出したのは特にで3点、臼井氏に入った千葉胤仲が千葉孝胤の子ではなく千葉胤仲(千田氏)と想定、
また伝承のみの義胤と系図から浮いてしまっている良胤を実在にし読みから同一に、それと石出吉胤の伝承ででてくる父千葉幸胤を
臼井幸胤と同一に(父親の持胤(胤仲)が千葉氏からの養子)ですね。で、上記に書いたのですが筋をある程度通すため
新しく自秀を千田氏の養子としてます。(武蔵千葉氏全員を千田氏にしている大系図)。
正直新しい史料次第で大きく変わる可能性はとても大きいです。それほどよくわからないというのが現状かもしれませんね。
0609人間七七四年
垢版 |
2021/10/07(木) 20:50:29.44ID:vSG9Y0Lo
千葉そんな面白いことやろうとしてるんだ
県内旧家の古文書悉皆調査したらいいのに
0611人間七七四年
垢版 |
2021/10/09(土) 16:14:33.34ID:n2VxJd7D
https://i.imgur.com/gLcok1p.png
武蔵国造の乱
戦国には一切関係ないですが、土地と言う概念で考えるという事で
あとたまにはこういう无邪志国史観ということで、、、
緑色はおそらくの湿地帯でこう見ると秩々夫国と合わさる前の无邪志国を
少しイメージできますね、白い部分は重要な土地と見ることができるのではないでしょうか。
常陸国内部はすごい良さそうですね、でも无邪志国も悪くないですね。
ただ小杵は笠原使主に負けてしまいましたが。
0612人間七七四年
垢版 |
2021/10/12(火) 02:37:48.44ID:+VzMRicH
小弓城への雑な考察
まず注目されるのは原胤房の小弓館での討死に。これを自分は小弓館を原胤房の領地とせず
馬加氏の領地と見たい。東常縁の奮闘により一時古河公方に与した馬加氏原氏は途絶える。
つまりここで恐らく千葉地域に領主空白ができる、そこに浜春利(酒井氏?)、本庄海上氏、
入ったのではないだろうか。そして浜野港から少し南の上総村上に東氏浜氏同様縛の命によって
村上氏が入ったと見るのはどうであろうか。(また同時に同族か別か臼井の西に下総村上氏が)
1483年に関東の都鄙合体で和睦(1478年に原胤房の跡を継いだ養子胤隆は香取庄に文書を出している
ことからまだ小弓にいないとみえる)、86年に道灌最後の下総進軍が窺える死去の3か月前、
1か月前には詩歌会で戻っているので2か月間か。四面楚歌の下総千葉氏はまだまだ落ち着いていなかっただろう。
87年から両上杉氏の争いがはじまる。88年一時休戦90年以降に勝胤の市川での動向が見える。
90年に臼井氏が代替わりしているのでここで両千葉氏間でなんらかの和睦が成立したか。
93年自胤死去と94年の早雲の足立郡攻め、これを期に原胤隆は小弓に入ったのではないだろうか。
またその小弓館も先の義父の館とは別で南に館まず立てたのではないだろうか。小弓周りは依然として
下総に与してるわけではないので混乱に乗じて浜野港の近くに建てたのではと考える。
なぜ北ではなく南生実かと言えば玄鼻城に武蔵千葉氏方が居ると考えるからである。
1502年から04年までは古河公方と下総千葉氏は対立し、原胤隆は扇ヶ谷に寝返ったという伝承もある。
同じ04年は山内が武蔵千葉氏を攻めている(白子の陣)その後大戦で足利方大敗の越後上杉加勢で和睦。
おそらくこの和睦のおかげで昌胤が千葉妙見宮での元服を行えたと思っている。この和睦時に
南小弓館は南生実城に成長できたのではないだろうか。そして09年勝胤は隠居、連歌師宗長が真里谷氏に向かう
途中に胤隆に歓迎されたにつながるとみたい。
0613人間七七四年
垢版 |
2021/10/12(火) 02:49:26.77ID:+VzMRicH
追記
以前にも高城氏や原氏との争いが匂う所もあるが、
1506年、1517年には大きく玄鼻城(武蔵千葉氏側)に下総千葉氏側からの攻撃があったのではないだろうかと
考える。1506年には自秀、良胤、東胤重が死去。どちらも三上氏が救援に来ていたとみている。
そして17、18年以降は義明が胤隆を追い出し小弓公方としてその地を治める。
0614人間七七四年
垢版 |
2021/10/14(木) 20:36:07.68ID:j/EGO5u+
酒井ってなんで原の家臣みたくいわれてるんだろ
0615人間七七四年
垢版 |
2021/10/14(木) 23:44:53.84ID:bNJKnwER
>>614
千葉傳考記(おそらく享保の頃の作)からのものかなぁと。
「千葉は百騎、原は千騎」といへり。或は、「千葉に原、原に高城・兩酒井」などいひし……
おそらく本来は利胤の頃の下総千葉氏は主家として存在するが、実態は原高城両酒井の勢力の
の方が大きくなってしまっている。ということかと。
ここで陪臣とでてくるのだけれども、どうなんだろうか。原と共存する勢力にも感じる。そうでもないような
「俗にいう」は外せない気もしますね。
0616人間七七四年
垢版 |
2021/10/15(金) 08:50:22.96ID:mTmf7tGh
原氏への雑な考察
まず原氏は宗家から系図では争いに近い時代に分かれた千葉分家筋と
宗家にかなり近い家臣円城氏が八幡荘、千田荘の所領をめぐって争いが生じる。
研究では原氏は古河公方との独自のパイプがあったらしい。なんだけれども自分は
この原氏を一括りにしてしまうのには疑念を持っている。
中心に置かれる原胤房と他の原氏はまた違う見方をしたい。まずどの原氏が原氏主家
だったかはいったん保留にし、弥冨、小西、胤房筋の三流があるとし、胤房筋に近い所に
4つ目の光胤筋が見える。小西は胤隆に与し古河公方に敗した後武田で小西系原虎胤が見えるので
小西筋は胤房筋と歩んでいたとみる。が、弥冨、光胤筋はどうであろうか。
大野城との関連される光胤が死去したのが1466年吉川市にて、一度時を戻して
その息子とされる大蔵と右馬助、この大蔵の方は1459年に八幡(市川)で戦死した。
が、59年は56年の東常縁の奮闘がすでに決着がついた後のことである。武蔵千葉氏も
この時期窮困状態である。ただし道灌は57年に江戸に移ってきて常縁は古河公方に味方するものが多いと
嘆き、ちょうど五十子の戦いの初めの時期であり、堀越公方が下向し成氏が古河に映った時期なので大蔵を
古河公方方と見るのが有力ではあるが……この八幡(市川)の弘法寺に岩橋輔胤が安堵状を出している。
これは新しい勢力として岩橋が担がれたのではなく、自ら参入したのではないか。西では上記したように
堀越公方の事で混乱を生んでいる。つまり、岩橋と原光胤や大蔵の間で争いが起き、
大蔵が戦死したのではないだろうか。では光胤の66年はどうであろうか。66年は山内房顕が死去した。
63年に景仲も亡くなり、この頃から武蔵千葉氏と扇谷方道灌の結びつきは確固たるものになっていく。
光胤の吉川での討死にをどう捉えるか。なんとも言えない場所である……
幕府が65年に古河討伐を今川武田に命じている、川と川との間に合った市川を見ると
市川から古河方に幕府方として北上したのではないだろうか。または吉川市には深井氏の伝承があり
景春の子景忠、その子景孝だとされるのでその救援にでたか、古河公方方なら西に進んだのではないだろうか。
この一族は法名に蓮の付く者とそうでない者と系図で混乱が見える。この蓮の付くの者は後述で重要になる。
最後に最も重要な弥冨である。法名に朗の字がつく一族。某弥冨(胤良?道義?)を祖とし
この時妻が狩野氏(上杉方)であること。ただしおそらく戦さ初期は胤房与しただろう。
1455年の戦いで亡くなった二人の子朗珍朗嶺だが「東方」で亡くなっている。
これは通常場所を指してるとのことだがどちら側で見ることもできるのではないだろうか、
つまり「トウ方」にて。ただし状況は父信濃守(胤良?)と円城寺は戦ってることは目さなければならないが。
そしてもう一人の息子朗意に注目したい。この人物は66年に幕府により松戸城の守りを命じられている。
これが自分の説ではとても重要と考えている。つまり先の記述の光胤も明確に幕府方と見れるのではないだろうか。
そしてその説を補完するように尾張国行方氏系図にてこの朗意の後に妹尾下総守蓮意とある。
この妹尾氏はその後北条氏家臣で見え、一族から行方直清そしてその弟日芸を輩出する。
また妹尾氏の法名の蓮の字から光胤との関連もあると考える。話が少し飛んで真里谷氏の女についてだが、気になる女性を2人。
1人が信嗣の娘とされる三浦義意の妻(扇谷と真里谷を結ぶ線)、と信応の娘とされる六郷殿の妻。
六郷殿は大田区の六郷殿だとすると、上杉氏か行方氏と言われる。もし行方氏であるならばまたどうして繋がりがあるのか考察
してみたいと感じる。
0617人間七七四年
垢版 |
2021/10/16(土) 06:36:00.38ID:Rj/+N+F2
太田氏武蔵吉良氏武蔵千葉氏に共通する家臣の宇田川氏
元は太田道灌の家臣宇田川長清、太田道灌が品川から江戸に移った際に逆に品川に移住を
申し上げられ品川の守りを任せられる、商人とも
同じ商人として有名なのが鈴木道胤、こちらも品川の商人で道灌とは連歌仲間
道灌死後の品川の経済力はどこに所属したかは気になる所だと思う(武蔵吉良氏かな)
0618人間七七四年
垢版 |
2021/10/16(土) 07:55:28.15ID:WFzb4ZQR
六郷殿の妻が真里谷信応女はどこ情報ですか?
0619人間七七四年
垢版 |
2021/10/17(日) 00:36:05.44ID:P2LwP+1R
>>618
黒田基樹教授の著書に載っている上総武田氏系図です。
なにを参考にされたかは不明です、申し訳ないです。
分かる方いればお願いします。
ちなみに信応の養子に女(原胤栄室)、女(六郷殿室)、信政とあります。
ただ三浦義意の妻の件に関しましても疑念の声もありますので、まぁという
感じですね。ただ参考になっている何かはあるとは思いますが。
あと申し訳ない所でありますが、どこかで違う六郷殿を見たような気がしていまして
例えそうであっても、某六郷殿と同一かも希望的観測な所ではあります。
0621人間七七四年
垢版 |
2021/10/18(月) 08:37:32.61ID:42v9kVtC
一つの考えとして
暗殺される前の太田道灌は一つの道灌を中心とした扇谷上杉氏を脅かす
連盟勢力として見ることができるのではないだろうかと考える。
武蔵吉良氏ー三浦氏ー太田道灌ー武蔵千葉氏ー(真里谷氏)
また武蔵千葉氏一族は道灌吉良氏の所領の中に北の渋江氏、、南の行方氏などが
在地の者の中に入り込む形で命によって配置されたのではないだろうか。
他に市川の戦いで幕府側で亡くなった足立顕秀宍倉氏兄弟の宍倉氏が小宮山氏の家臣になっている。
またそれは先の時代の上杉氏もそうで八条氏や深井氏(上杉氏と土豪)と
新方氏(千葉氏系の土豪)や川口の中田氏や衰退した江戸氏なども新しく住んだ者と
既在の者と混在している。そうした中で渋江氏だが古河公方に属していた渋江氏は確かに存在し、
家紋的にも寛政重修諸家譜に書かれる千葉氏関連と言うのは難しいとされている。
ただ、この渋江氏が武蔵千葉氏家臣だと筋が通ることもある。道灌死後扇谷に組みなおされた
岩槻太田氏の動きと合わせて岩槻太田氏と古河小公方と成田氏、また後北条氏が関係している
岩槻城においての攻防や譲渡においての関係性が見えてくる。
古河公方の周りにいた渋江氏とは別の渋江氏が岩槻城主として武蔵千葉氏方でいあっという可能性も
大いにあると思う。話を戻して先の岩槻太田氏の動きもそうだが道灌の死は連盟を砕いたと感じる。
道灌はやはり非常にロマンを感じる人物で、景仲と道真から受け継いだ才というか、いとこで景仲孫の
景春の手紙や道灌の景春赦免への動きが二人の関係性を、また道灌の他における顔の広さも含め、
道灌連盟勢力は通説のものより実際は影響と言う意味でとても大きかったのではないだろうか。
(だから暗殺、定正の書状における山内の黙認があったのだろうけれども……)
道灌の死はやはり大きく、一番影響を受けていた東京湾周りの連盟勢力と利根川で公方と分かれていた最前の
勢力たちに大変な影響をだしてしまったように思える。
0622人間七七四年
垢版 |
2021/10/20(水) 02:43:07.39ID:szzROUx+
>>621
太田道灌は享徳ノ乱から長尾景春鎮圧まで、扇谷勢は勿論のこと実質的に山内勢の軍事指揮権まで掌握しちゃって一種の私党を形成しかかってたからなあ。
江戸領では完全に領主として直轄統治に等しい行政をやってたようだし、事実上は独立の戦国大名と云って良いんじゃないか。
あの内容の「太田道灌状」を扇谷定正の承認も取らずにいきなり山内家重臣に直接叩き付けた辺り、本人もそのつもりだったように見える。
0623人間七七四年
垢版 |
2021/10/25(月) 23:54:32.14ID:sP28SGMQ
稲城市と川崎市に跨がる小沢城
実際には見張り台(砦)くらいのもんだろうけどロケーションいいね
城山に川が巻き付いて堀になっていて山上からの眺望も抜群
歩いていける距離に府中街道と多摩川の矢野口の渡し
0624人間七七四年
垢版 |
2021/10/26(火) 20:06:10.22ID:QKusGoE6
よみうりランド遊園地の近くね
あの辺りは確かに眺めが良いわ
0625人間七七四年
垢版 |
2021/10/27(水) 18:45:39.83ID:V5BO+mN3
道灌死後の考察
少し長くなってしまうけど荒らしではないのでご了承願いたい。根拠は乏しいが仮定論や物語に近いなにかを
垂れ流したい。少しでもおもしろいと思っていただければ幸いです。

まず注目するのは長徳寺の移転。(1488年道灌死後1年後に吉良成高(頼高?政忠?)により)
これは吉良成高が防衛上の観点からということで南に危機感を抱いたことからと見ることができる。
ひとつその前に私見としてなぜ吉良氏は経済的ゆとりがあるのかという点だ。それは世田谷と言う土地ではないだろうか。
多摩川を利用した流通、品川湊、そして神奈川港(鶴見湊か?)の3つを利用できたからではないか。一つ無理やりかも
しれないが、もしかしたら江戸氏が先の時代で大福長者と呼ばれた理由も一族の六郷氏からの恩恵を受けたからかもしれない。
また六郷殿(行方氏であれば)もそういう背景を持って他の者より位が高いのかもしれない。さて、南への危惧だが
この神奈川港を上田政忠(子に政盛?)が15世紀後半に支配下に置いた。道灌死後において扇谷への不信感があるなか、
新しく来た扇谷家臣を危惧したのではないだろうか。つまりこの時点で武蔵吉良氏が扇谷との繋がりを薄くあると見る。

次が三浦高救の一連騒動だが、これは反定正派によって擁立されたみることができるのではないだろうか。
三浦義同、東常和、成高、そして道灌に近かった自胤が推したと見たい。結果義同は一度追放されながらも
94年には家督を取り戻し、高救は安房正木氏になったと言われる。(三浦一族の誰かだとは言われている)同じ94年だが、
扇谷足利北条(今川)連合が山内を攻めたが。この時北条によって足立郡と馬込を攻められている。つまり足立郡とは
武蔵守胤本拠地淵江、そして道灌死後に岩槻城を引き継いだ武蔵千葉氏(渋江氏)、それから同じく反定正派だったのであろう
梶原氏(吉良氏に与していたか)そして近くの吉良成高を攻めたと見ることができる思う。古河公方方の書状で簗田氏に
岩槻城への合力を指示していることから、岩槻城が他勢力から加勢をしてもらったことが分かる。他勢力とするのは
加勢よりは手助けに近い意味の合力が使われていることからである。また太田道灌の子資康も山内に与して戦っている。
ただし資康以外は山内軍ではなくあくまで道灌死後の反定正派として扱いたい。それから93年に堀越茶々丸を追放した
北条氏(伊勢氏)もまだこの時点では独自の動きではなく今川氏の思惑で動いてると思いたい。それによってまた同じ94年に
家督を継いだ大森藤頼が反定正氏のひとりとして、この時期扇谷を離れ山内に与し、またその裏で今川氏に
近づいたのではないだろうか。雲玉和歌抄にでてくる梶原、大森と浜野本行寺の酒井定隆逸話にでてくる日泰上人が
道灌の連歌仲間であろうというのも注目したい。
0626人間七七四年
垢版 |
2021/10/27(水) 18:45:57.89ID:V5BO+mN3
少し道灌の話に戻る。道灌は死去直前まで下総への遠征をしている。隅田川に長橋を三本もかけ、そこそこの大軍を下総に渡らしている。
これは自分が思うに渡ること自体には問題がなかった、つまりもっと奥地に向かうことを意識しているのではないかと思う。
つまりそこまでは安定していたと感じる。先の79年の戦いで落ちたとも言われる臼井城。(この時資康とも交流があった梅花無尽蔵の
万里集九は自胤に扇を献上している。)その79年では千田胤仲を城代に置いたとしたい、すぐに臼井俊胤が取り戻し胤仲は千葉まで後退したが、
83年の都鄙合体によって千葉盛胤が臼井氏を引き継いだ。つまり奥地とは佐倉やさらにその東総を想像している。道灌が安定して
侵攻したということにおいて、まず道灌は強い信念として下総を攻めきることにしているわけではない、それでも都鄙合体後に侵攻するのは
当然にできることだからではないだろうか。おそらく真里谷氏、海上氏、また上総東氏、それと扇谷上杉に与してるものが動くと
認識しているからではないだろうか。実際松戸本土寺過去帳から道灌が攻めているのにもかかわらず原氏などの討死が79年から1500年代まで
見えなくなる。これは下総の中部までは安定していたと見れるではないか。また円城寺道頓が30余年に過ぎて(1489〜93年頃)
下総に戻っていること、義明支配期の船橋市に銘が残っていることが継続して下総千葉氏に領土が渡っていないことを裏付けてるように見える。
また道灌死後の武蔵千葉氏方の句が雲玉和歌集に載っていることも頭に残したい。

次に真里谷氏の94年頃の動向だが当主は真里谷信嗣に変わり、庁南武田氏は氏信(宗信?)に変わった。真里谷氏は分家筋と言われるが、
93年に梁田高助が生まれているので簗田氏との婚姻はそれ以前である。母が位の高いものなのかもしれない。少ない中動向をみると
庁南武田氏とは分かれ始めていた頃にように思える。庁南武田氏は白井氏に養子を出している。白井氏は白井荘(八街市)が出自で他の一族と少し
異なり戦国時代で名を上げなおした一族、なぜ庁南武田氏は白井氏と繋がったのか。思うにそれは白井荘に戦の手が伸びて白井氏や下総千葉氏が
庁南武田氏に助けを求めたからではないだろうか。真里谷氏が簗田氏と里見と婚姻を結んだり、東大和守が真里谷氏と里見氏に挟まれながらも
生き延びているのは、三崎城の三浦氏との繋がりも東氏を通して多少なりともあったのかもしれない。真里谷氏が浦賀水道を通じて房総の外とも
外交して国力を付けたことに対抗してか、庁南武田氏は下総千葉氏との結びつきで力をつけようしたからではないか。そして逆説的に真里谷氏は
古河公方の忠臣というよりも多角的な外交や既地の者から押領によって力をつけていったんだと思われる。この時期真里谷氏は扇谷や
反定正派武蔵千葉氏と相互利益な関係だったとみたい所である。

ここで今川氏について少し垂れ流したい。天下一苗字の一族で、先の関東の戦いでの幕府から恩賞として与えられた。また、中央の争いにも
介入することもあり、少し離れながらも幕府の意向などに強いと思われる。成氏を鎌倉から追い出したのも今川氏である。私の東海地方への認識
だが狗奴国の静岡説(例え別の名称だとしても)があるくらい独自の勢力圏と土器などで見る武蔵国への影響は古代から持ち、
北条氏を生み鎌倉幕府を迎え前期中世もこの後時代でも今川義元を生み強い権力を持ちうるような地域であったと思う。ただこの時代は遠江守護は
斯波氏であり、今川氏は遠江に強い野心を持っていて度々進軍をしているため、中央での派閥とは違う形で争いを起こしている。この今川家の
性質上当主とは別に家臣または扇谷上杉道灌や他の武家たちの思惑を強く受けるが、代々一族を束ねる強い豪傑な当主を生むようだ。また中央との
強いつながりが早雲を関東に下向させる一因となる。重用された御一家や朝比奈氏と新参である伊勢氏の関係性は大変気になるところである。
0627人間七七四年
垢版 |
2021/10/27(水) 18:46:24.02ID:V5BO+mN3
さて94年の戦いの途中で定正が死去し一度両軍が和睦した中、反定正派も扇谷に帰参したみられる。(資康は江戸城に戻るとはいかず
おそらく武蔵千葉氏の元に身を寄せたと思われる。)またこの時先の大森氏は扇谷に戻らずに今川氏に付いたのではないだろうか、
そして95年以降今川の命によって早雲(今川)の与力になったのではないか。(小田原城に招く城主は大森氏)そして吉良成高だが史料にはないが
相模上田氏から神奈川港を取り戻したのではないだろうか。理由としては政盛がその後北条方として挙兵すること、1505年に山内が奪ったとあるが
詳細が不明な所で、相模真田城に移り早雲の与力になったことと見ることもできるだろう。そして扇谷の中ではこの頃より主家に領土の近い武蔵上田氏が
台頭し始めたのではと思う。また扇谷も今川によっていたのではと思う。構図としては幕府VS公方の形から今川扇谷VS山内古河公方に変わったのだと感じる。
公方は一応の所幕府から許された身であり、先に記述したように今川は上杉本家の力を抑えようと試みてるのであろう。そして96年に資康や大森氏の離反や
反定正派帰参を見た山内が相模真田城を攻める。(景春も反山内として参戦)だが景春の子景英と顕定勝利し、敗戦した今川勢と救援に来た扇谷勢は
小田原城に集まる。(伊勢弥二郎、大森藤頼、上田政忠/扇谷朝昌、三浦義同、太田六郎など)さらに今川扇谷勢は敗戦し、大森氏からは山内に
移った顕定と、おそらく真田城に逃げてその後早雲に組み込まれた定頼に分かれたようだ。小田原城はすぐ復帰したように思われる。

94〜97年頃の千葉勝胤及び下総中部はおそらく幕府直結たる東常和に支援された守胤や常和を庇護した時期を持つ義同や、先の戦いでつながりを持つ
真里谷氏によって荒らされた時期と見ている。また古河公方も関係上救援するわけにもいかなかったとみたい。そんな伝承も史料もないが佐倉城も
落ちたこともあったのではないだろうか。公津城に退いたり取り戻したりしてたのではないだろうか。そんな中時折常和を中心に戦場で敵味方相まって
和歌を親しんだのではないか。その中には衲叟もおり雲玉和歌集を作り始めたのではないか。常和、守胤、勝胤とこの時期の史料がないことが
逆にそれを表しているのではと考える。そして真里谷氏の時に書いたのだが、窮地の勝胤は南東に意識が伸び庁南武田氏に目を付けたのではないか。
ただし武蔵千葉氏は足利政氏と山内が手を取り合った為岩槻城を意識し始めた時期でもあるとする。それ故か原胤隆が浜野港に近い小弓に在してしまう。

97年は隠居していた成氏が死去し、今川は早雲を派遣させ伊豆を平定させた。武蔵千葉氏はいよいよ懇意にしていた葛西城の山内方の大石氏を殺害し
葛西城を奪う。もしかしたら勝胤と葛西大石氏が山内方として反撃にでたということもあったのかもしれない。
また吉良氏だがおそらく年代的に代替わりをしただろう。頼康の前に一人挟んでいる可能性もある。(上田政忠と同名がいることは意味があるだろうか)
武蔵吉良氏は名家でありながら生没年も定かではないのはこの地から離れていたからかもしれない。永正の乱までは少しあるが、
この時期から火種が存在したとする。扇谷朝良は元より憲房を擁し、また武蔵千葉氏、及び武蔵吉良氏はその為遠征していたのではと。
武蔵千葉氏はそこから憲房の憲の字を偏諱で憲胤につけ、吉良氏も可能性の一つとして旧所領としされる秋間(群馬)を持ち続けていて、
そこを守ろうとしたのではないか、と想像した。秋間にはこの年代で安中氏が入る。同時期八条上杉氏(埼玉八条の)が越後に渡っている。
(越後の内乱は1506年から)そしてこの97年98年に明応地震が起き、すべての事柄が一時頓挫し、1501年まで空白となってしまったのだろう。

まだまだ続きがかなりあって、国府台合戦まで続くが、お付き合いお願いしたい。申し訳ない。
0628人間七七四年
垢版 |
2021/10/27(水) 18:47:16.30ID:V5BO+mN3
あー長さをやらかした……申し訳ない
0629人間七七四年
垢版 |
2021/10/27(水) 19:54:04.74ID:V5BO+mN3
各地回復が成された1501年の今川早雲は三河の方を注視している。1502年足利政氏は下総の争いに関与する為か
下総千葉氏を手中に置くためか佐倉市小篠塚に陣を張りここから3年間下総千葉氏と対立する。
この時期原胤隆と小見木内氏が扇谷に下っており、両家の和義後に原胤隆は下総千葉氏に帰参し木内胤治は上総で討たれた。
先の永正の乱の前にまず1504年立河原の戦いが起きる。山内顕定ははじめ川越城を攻める(勝胤も参戦)
その後、白子(和光)に陣を張り武蔵千葉氏を攻める。今川早雲軍が吉良氏と合流し川崎市に着陣、それに合わせて
山内政氏軍が立河原に構える(このことから現西東京都は山内側としていることが分かる)
この時顕定は甲斐武田に対して家臣大森顕定に書状をだしている。山内顕定政氏勝胤軍が大敗、各々領地へ引き上げるが
越後上杉勢が加勢をし、顕定は川越城を攻め、越後勢は八王子最南部で長井氏が守る椚田城、今川勢の上田政忠の真田城も落城、
武蔵国と相模国を分断した。その際杉並に中田加賀守が入ったと思われる。おそらくそれが由縁で中野で太田氏の家督を継いでいた
太田六郎が殺害される。戦いにおいては家宰の曾我佑重によって和睦の申し入れと共に成立した。
この六郎が亡くなったことで資康資高親子が江戸城に復帰しただろう(三浦氏武蔵千葉氏武蔵吉良氏の後押しもあってのことと思う)
だが、それがおそらく道真(道灌父)の死後も埼玉越生にいたであろう六郎とは別の太田氏は大変な反感を抱いた、
このことが後の岩槻城攻防につながると見る。また扇谷氏が敗戦したことによって和睦条件に千葉神社での
勝胤の子千葉昌胤の元服が含まれてたのではないだろうか。足利政氏から与した下総千葉氏への恩賞であったのであろう。
よって次の年の1505年昌胤は盛大な元服式を千葉神社で行った。次は永正の乱である。

またその前になるが、扇谷敗北によって武蔵吉良氏は今川氏についたと見る。1506年早雲は相模の検地をおこなう。
この点で2点書きたい。一点目は笹目郷と鶴岡八幡宮寺に関して書いたものを読むと、道灌が武蔵国を支配した時に鶴岡八幡宮寺の
笹目郷からの収入を奪ったことが分かる。他にも関戸の収入も奪おうとしたが、そちらは強い意志で断られている。その間に
入ったのが祖父長尾景仲であった。景仲は支配者としてそういった勢力に対しても政治的に付き合ってたのこと。また道灌も自らに
近いものを代官したりとこれもまた政治的に奪ったようだが。それともう一点鎌倉の独自の政治システムがあり、近い厚木までが
鎌倉勢力の所領であったが後北条氏が支配し街道の整備を行うことで新たな宿場などが生まれている。つまり、道灌の時に
おろそかになった鎌倉勢力に対して柔軟に対応し懐柔したのではないかと思われる。この時に早雲の鎌倉における影響が
確立したのだろう。扇谷氏の敗北和睦は真里谷氏にも影響を与えただろう。下総上総で猛威を振るっていたが風向きが変わった。
足利氏の支援の元下総千葉氏の原氏、庁南武田氏が息を吹き返し反撃に出てきただろう。真里谷恕鑑の兄弟が簗田政氏であるから
足利政氏との連携を強めようとしたか、あるいはこの時期にまだ三浦義意は幼いが、三浦氏としても早雲の相模進出に関して危機感を
持ち婚姻関係を結んだか。また下総千葉氏も1506年に猪鼻城を攻めた、三上氏や海上東氏が駆けつけたがそこで良胤、自秀、東胤重は
討ち死にしてしまう。そして永正の乱であるがいろいろあって収まるところに収まって越後山内扇谷上杉公方が代替わりした。
その中茶々丸が討伐され、連歌師宗長が真里谷との交渉の旅に出て、雲玉和歌集成立し、出家して鶴岡八幡宮若宮別当で勤めていた
足利義明が下野国に移る。
0630人間七七四年
垢版 |
2021/10/27(水) 19:54:51.08ID:V5BO+mN3
1509年に早雲が江戸城を攻める。ここが起点で今川氏から早雲が離れたとすることが多いが、関係性が途切れていないことから
まだ今川氏に与してると存ずる、ではなぜ急に早雲は江戸城を攻めたのか。一つ提示したい仮定論は今川氏は永正の錯乱の後
義稙派に変わった、関東の支配に介入するため扇谷上杉の当主を朝良から建長寺の僧で庶兄東永、そして吉良頼貞(頼康)を
古河公方に挿げ替えようとしたんだと思っている。まず東永においてが1、早雲が相模において寺社勢力に対して懐柔行動を
とったのではないかとする点で建長寺の東永との接点を生んだ(そういう意味では義明とも面識があったのでは)
2、道灌家臣の宇田川長清の子宇田川清勝は資康に従ったか扇谷から離れ山内で戦死した。だが、その子勝元は氏綱の
江戸城修築に従事している。そしてその宇田川氏に仏僧の東永が養子いりしている。裏切った家臣筋に養子に入り、
その義兄弟が江戸城に関わると言うのはなにかしらあったと見れるんではないか。もし裏切った宇田川氏が江戸城に
戻っていたとすれば、それは今川氏の思惑で江戸への引き入れ役にされ、史実に残らなかったのは失敗し代わりに恩恵を多少受けて
歴史から消えたのではないか。3、結局同じ相模いた七沢朝昌の子朝寧の子朝興が詳細不明で当主に据えられている。
これは一連の流れから生じたものとできるのではないか。次に吉良頼貞に関してはだが1、早雲は今川氏とも婚姻関係が
あるのに関わらず動向が見えにくい武蔵吉良氏とも婚姻を結んでいること。後北条氏は公方に関与をするというのは堀越の時に
はすでに始まっているが、それこそ今川氏の庶子でいいはずだと思う。結果今川氏から吉良氏に入り込ませているわけなので。
今川氏が中央、吉良氏が関東という構図を今川氏が描いたのではないか。2、上記しているように吉良氏の動向が不明、不明過ぎる。
吉良氏の所領は蒔田、世田谷なわけだが、この後の上田氏の挙兵も他の近隣の争いも動向が見えないのはおかしいのではないか。
鶴岡八幡宮に対してや他の寺に対しての寄与などでは名が見えるので経済力や影響力を持つ。なにか積極的に関与していたのではと
思う所だ。朝良、東永の父であり吉良成高の義兄、憲房の義父であった七沢上杉朝昌も晩年藤沢市で過ごした。
大きな関係の糸が見えるのではないか。そして相模中央にいた三浦氏はこれを期にか早雲と争いが起き激化しその後滅んでしまっている。
この早雲の急な江戸城への派兵には裏にこういった背景があると見る。それで結果だが朝良は上野国から引き返し撃退に成功するが、
この動きから扇谷と今川早雲の関係に大きな亀裂が入ってしまう。おそらく関東の勢力はまだ今川氏の関東介入に関して
甘く見ていたのだと思う。関東に新しい者が入れるわけ余地はないと。

1510年上田政忠の子が権現山城から挙兵する。これは今川氏に与していた上田氏が真田城から権現山城に移った、武蔵吉良氏の与力に
なったからではないか。この時点の離反という話ではなかったと私は存ずる。おそらくこの時で鎌倉の意志(民衆や寺院)は制圧し
東相模の扇谷武将たちを残すだけになったのだと思われる。明確な三浦氏扇谷氏への戦意を表したのであろう。(永正の乱の初期頃)
これに対して上杉朝良、上杉憲房が包囲をし早雲軍に勝利する。非常に難しく感じるのはこの仮定論では反定正派としても
活躍した三浦氏は繋がりが多く、真里谷氏、里見氏、安房正木氏、江戸太田氏、東常和、武蔵千葉氏。義同自体が扇谷上杉氏の
出自でもある。武蔵吉良氏はどうしたか。また永正の乱で混乱してる時期で甲斐武田信虎が武田家を統一を果たした時期で、
中央将軍の偏諱で名を変えた基氏(高基、義基)と政氏の争い、そういったことからなのか終結するまでに何年も掛かっている。
権現山城の戦いで救援に来た憲房だがこの時は顕定急死で上野国から撤退していた時期か?
当主は成氏、簗田氏の子の顕実が継いだ時期のようだ。
0631人間七七四年
垢版 |
2021/10/27(水) 20:14:51.17ID:rkTKoAjK
>>630
今日の一連の貴レス群、
範疇といい時代といい俺の興味の対象ズバリなんでしっかり熟読してから何か書きたいと思う。
が、週末までは暇が無いんで今は些細などうでもいいことを一つだけ。
「早雲」はそろそろ止めた方が良いのではないか。
その名は既に虚構の彼岸へ葬送された。
せっかく実証的にきっちり書いている様子なのにそこだけが勿体ない。
0632人間七七四年
垢版 |
2021/10/27(水) 20:23:41.48ID:V5BO+mN3
>>631
そこは申し訳ない、宗瑞と書くか迷って、今はまだ早雲のイメージの付加価値を意識してしまっている。
この後の文章も出来上がっていてそちらも早雲になってはいるが、ものすごい拘りかと言われればそうでもないことは
ご理解お願いしたい。
0633人間七七四年
垢版 |
2021/10/27(水) 20:31:03.76ID:V5BO+mN3
足利氏の跡目争いとして4流挙げたい。まず政氏旧体制派、顕実(憲房に敗れ、死去)、顕実を介して関東安定を望ん総社長尾氏、
岩槻太田氏と支援する成田氏、高基から派兵要請に従ったか不明の勝胤、庁南武田氏、徐々に下総千葉氏に組み込まれた酒井氏、
高基新体制派、北東関東勢、吉良頼貞維新派、今川氏、早雲、行方氏、江戸氏など相模勢、そして4流目が旧体制派新体制派の両方との
関係を持ちながらまた両方から勢いを削ぎたい義明派、憲房、足利長尾氏、横瀬氏、三浦氏、千葉憲胤、渋江氏など西関東勢と
真里谷氏里見氏上総安房勢。いくつか理由を述べる。憲房は表立っては高基と連携を取っているが、次の当主の高基の子
憲寛(高基の子)時代には義明と手を結ぶ。これはおそらく家内に元々その傾向がないと成り立たないと見える。
憲寛は反旗を上げた叔父に味方し父とも戦わねばならないからだ。憲房からすれば実際は妻の兄弟の子たちの方に強いパイプが
あったのだろう。もしかしたら千葉憲胤の母は旧定正派時に憲房から守胤に嫁いだのかもしれない。そして扇谷おいても
朝興が同盟の声を上げれるのはその地盤があったからと見る。中でも真里谷氏は海を渡り相模や武蔵に往来していたという話がある。
そんな中で鶴岡八幡宮別当だった義明とつながりを持ったのかもしれない。ただ擁立という形ではなく政氏の後を継ぐように
そそのかしたのだろう、つまり古河に戻させたとみる。

1512年早雲が三浦氏を攻める、山内憲房は顕実と戦っていた時期かもしれない、が、朝良の対応はどうだったんだろうか。
資康が救援に向かったとあるがこの仮定では死亡説を採用する。ただ江戸太田氏東氏武蔵千葉氏は救援に向かったのではないか、
真里谷氏、里見氏、正木氏も動かなかったと思えない。この顔合わせた家々はこの時より強い結びつきになったのではないか。
そして武蔵千葉氏や江戸太田氏は朝良に不感を覚えたのではないか。だが、周りは今川氏与したものが多くなり、敵わないと見て
三浦氏は三崎城に退いた。追撃に早雲はでたが真里谷氏の存在を感知して引き上げたのではと思う。ただ真里谷氏は伊豆、相模を
収める早雲に脅威と感嘆と覚えたのではないだろうか。古河では高基が政氏を追い出し公方に就任した。ここでのポイントは義明は
南之上様と呼ばれ出すところだと思う。政氏も義明も家臣の元で過ごすが、義明の可能性とそれに対処しない高基の間には
義明が還俗した時すでに争いの火種は生まれているように見える。1513年に里見氏からおそらく臼井盛胤に書状が届く。
この仮定論では臼井氏までが武蔵千葉氏で、極東総や原氏は下総千葉氏に従属しながらも独自の動きを見せている。高城氏はおそらく
下総相馬氏にはまだおよばず原氏の代官的役割と見ている。また近くには府川豊島氏や武蔵千葉氏家臣の円城寺氏や
高田塁には匝瑳氏がいる。下総高柳も武蔵千葉氏の権力圏だったと見る。そしてこの臼井氏と里見氏の書状は
安房上総武蔵千葉氏扇谷山内氏の連動した動きを表しているのではないだろうか。1514年政氏が高基を攻撃するが迎撃に成功。
北関東の政氏派も高基派に回る。1515年には政氏の弟山内顕実が憲房に負けて古河に移っていたが死去した。
0634人間七七四年
垢版 |
2021/10/27(水) 20:47:35.96ID:V5BO+mN3
私は13年〜16年の間が伊勢氏(後北条氏)の独立期だと見たい。三浦氏は滅んでおらず、今川氏の目論見の関東平定にも
半端な時期ではあるが、吉良頼貞を掲げても関東への影響的入部が果たせないという事で新たな基軸を持つため独立を
意識したのではないか。または今川氏より格がある吉良氏との血縁関係を持てたことでか、主家の今川氏も三河吉良氏を
抑えるところまできて、新たに甲斐武田氏との争いも起りそうな混乱の中でタイミング、独立への風向きが良くそれを
果たすことができたのかもしれない。1536年には氏親の子が冷泉為和ともに早雲の子氏綱のもとへ赴いている。
その間はどういう関係か見えないが同盟関係だったと見る。ただし今川氏の方が赴くということで同盟再開の意図が
あったのかもしれない。
1516年数年間の抗争の末、三浦氏を滅ぼす。この際扇谷が救援に向かうが早雲軍は城攻めと迎撃に分かれ戦った。
三浦義同は辞世の句を詠み切腹したと伝わる。先の戦いには救援に向かったであろう真里谷氏はこの戦は参戦しなかったと
思われる。翌年までの間で早雲と共闘したとされるからだ。その理由としてこの時期真里谷氏は信勝から代替わりしている事に
関係してると思う。信清または信保と言われるが、信清を信勝弟だとすると一時信清が当主に成り、その後信保が直系として
継ぎ直す形になったのではないか。可能性として早雲が跡継ぎに関しての介入があったのかもしれない。同じ点でこの時期から
少し後に里見氏が義豊と実堯で正木氏を巻き込みながら争う、これも真里谷氏との連動、早雲の介入を時期と言う観点から見て
それを匂わせている気がする。それから政氏がこの年に岩槻城に移る。この時の城主は渋江氏で、これは扇谷ー渋江氏ー政氏、
また武蔵千葉氏ー渋江氏ー義明とも解釈ができるのではないだろうか。また早雲も上記した今川氏からの独立という時期で、
かつ吉良氏の名を持っても関東の主導権を握るとはいかず、だからこそ同盟先を模索していたのではないか、
そう考えると合点のいくところもあると思う。支援された新生真里谷氏は誰は原氏三上氏あるいは庁南武田氏と争ったのだろう。
ただ主には下総千葉氏だっただろう。武蔵千葉氏に東常和がいて1520年の書状で憲胤の父守胤を千葉介としてる
(この仮定論では当主は憲胤に変わっている)、つまり1400年代後半からまだこの時点でも幕府は道灌の成果か武蔵千葉氏を
宗家と見ており、扇谷と通じている政氏派から高基派に移ったとはいえ下総千葉氏も依然攻められる側だった、そして中々他の
勢力を味方にできていない状況であったのであろうと思う。

1517年下総高柳から義明が小弓城の原胤隆の嫡男と高城氏、救援に来た小西原氏を攻め滅ぼした。また記述したように高柳は
武蔵千葉氏の所領から原氏に攻めるのは1504年で扇谷が山内に敗北し和睦をした件から13年後に義明と真里谷氏を抱き込み
目の上のたんこぶだった浜野港の近くの小弓を排除したかったのではないか。それと義明を最前線に迎えている理由は元々原氏の
小弓以外は武蔵千葉氏の所領でそこまでの脅威はなく小弓が落ちて最前線でもなかったのではないだろうか。
1521年に上総市東(市原市)の者、臼井布佐葛西小弓の者が小金を攻めて打ち死にしている。この小弓以外が武蔵千葉氏だったと考える。
小金城はまだ築城されていないと考えるのでこの時は小金合戦が行われたと存ずる。また公方と言う立場は上記の者たちは特殊で
家臣と言うより味方した者たちとみたい。この時の高基の動きも注目したい。1525年に下総相馬氏の徳誕蔵主の死去に対して
その息子に安西氏を派遣し徳誕蔵主を無二の忠信という書状を送っている。このことから守谷までの高基派を確認できるが、
この1517年の小弓城攻めを下総高柳から移動することまで黙認してしまっている。このことがこの地域の状況を示してるように見える。
そして義明が入城するまで少しの時間を要すため、その間に早雲と関東勢との調整が行われたか、次の年には氏綱に家督を譲り
早雲時代の快進撃にひと段落つけ隠居しその次の年に死去している。早雲の死と同じ年扇谷朝良も亡くなられた、
当主だが朝良の嫡男の藤王丸は若く甥の朝興が継いだ。先に書いたもの(真里谷氏、里見氏)に既視感を感じるところである。
実際快元僧都記の記述に天文元年に江戸城で殺害されている。江戸城は当時北条氏の所領でやはり跡継ぎにおいてこちらも
介入があったのだろうか。
0635人間七七四年
垢版 |
2021/10/27(水) 21:02:21.50ID:V5BO+mN3
1519年氏綱は早雲の政策を継承し真里谷氏に手を貸し房総に渡る。これはおそらく高基が原胤隆の弟とされる朝胤に胤隆の病状を
聞いている書状があるので、戦局を伺ったものと見える。当主はおそらく原胤清で牛尾と関連のある庶子で名古谷庄にいた思われる。
通説で多いのは高城氏や仁戸名氏であるが高城氏もまだ台頭しておらず(滅亡とも記された)、仁戸名氏も別の一族でのちの時代に
胤清の一族に移ることから、この時点で西総であった可能性は低いと存ずる。この年高基が真里谷氏の椎津城を攻撃しているので、
ここでは下総相馬氏と原胤清朝胤が攻めてきたのに対して救援にでたとする。では義明と氏綱と扇谷関係はどうするか、すでに争いの
火種がありなぜこのような関係が成り立つか。すでに記したように跡継ぎに関して扇谷真里谷里見氏共々に北条氏からの介入がされ
はじめてると推測でき、朝興は代替わりとしての距離感、義明関しては真里谷氏、里見氏の親北条派によって成立してるのではないかと考える。
そしてこれから一定の期間北条氏は軍事行動に落ち着きを見せる。山内上杉氏にはいつの時期かは不明だが(1525年以前)に高基の子の憲寛が
養子に入る、それから岩槻城で過ごしていた政氏が再び公方方の久喜に戻る。このことから次に氏綱が動くまで関東は一時休戦だったと思われる。
さて義明と高基との争いの中で高基から下総千葉氏千葉介当てに書状がある。(いくたの争いの中で古河公方も敗戦を経験している。
東常和は1525年まで武蔵千葉氏の元生存していてその後は尚胤がいた。元よりは武蔵千葉氏を千葉介としていたが高基は派閥として形式上
下総千葉氏を千葉介としてるとみる。そして歴史上この後の時代下総千葉氏が過程を経て正当に認められたことだろう。)書状では臼井氏を不忠と
激怒している。これは高基が以前大名たち向けて従うよう送ったり、忠臣と送ったりしていることから臼井氏が下総千葉氏の家臣としてなぜだと
怒ったと言うよりは臼井氏を従わせろという意味で送っていると見れる。この書状で原氏共に名前が上がる海上氏だがこの時期は非常に興味深い。
まず海上氏は上総武田氏ともに武蔵千葉氏に下ったとされた氏だ。そしてこの仮定論ではよく名前が見えた東胤重に関連する。というのはまず
先の海上氏は子が殺され弟が後を継いだ、その弟は和歌をたしなみ横瀬氏や宗長とも交流を持っていた。(道灌もこの二人との交流を持つ)
弟に憲通律師、助秀(当主を継ぐ)がいる。助秀と子と孫は米野井城の戦いで戦死した、これは下総木内氏との戦いだろう。そして助秀の後を継いだ
別の孫の持秀がおそらくこの時代だろう。上の書かれた持秀の大叔父の東胤重から系図を預かっておりそれを胤重の子勝繁に渡し復興させている。
またこの下総東氏に東常和に関連する東家代々首を残したとされる。つまり扇谷や武蔵千葉氏とこの海上氏や下総東氏が下総千葉氏を挟みながら
時代を過ごしていたことだ。話を戻してこの時、海上氏は地理的に高基に下ったか、または別の海上氏が存在していた可能性も捨てきれないが
忠臣として原氏と共に名が挙げられている。
0636人間七七四年
垢版 |
2021/10/27(水) 21:02:53.97ID:V5BO+mN3
少しの間、関東の地は安息だったか少しの時間が空き1523年に氏綱は伊勢氏から北条氏に姓を変えた、後に幕府から左京大夫を授かる、
名実ともに後北条氏を確立させた。幕府とのつながりがあった氏族もたちも大いに驚愕したのではないだろうか。
1521年にまた幕府において将軍(義稙)が出奔しまた大きな争いを繰り広げているので、そこにもまたたくさんの思惑があったのかもしれない。
1524年早々1月に江戸太田氏の資高が氏綱に呼応してしまう。領土的な話で武蔵吉良氏まではこの仮定論では北条氏に属しているのは
既に記しているが、江戸から世田谷までの間はどうであっただろうか。品川は吉良氏に属していたのでないか、またこの時扇谷勢力が
すぐさまの飛び出て高輪原(港区)の戦いが起こる。この港区が吉良氏と太田氏の境だったのであったのであろうと思う。その高輪原の戦いで
扇谷を破るとそのまま江戸城を攻め落とした。またこの時板橋にて板橋氏が討ち取られたことから武蔵千葉氏の奮戦が窺える。
蕨城とその城主の渋川氏は氏綱に落ちてしまう、そこから近隣である赤塚城には言及はない、赤塚城はここでは落ちなかったとしたい。
朝興は川越城まで逃げ延びることになった。そして2月に今度は資家系太田氏の資頼が氏綱に通じてしまう。そして岩槻城を
攻め落とし城主の渋江右衛門大夫を討ち取る。ここで通説では解決できていない矛盾をこの仮定論では筋を通せる。
まず渋江氏は武蔵千葉氏家臣なので、資頼は同扇谷の者として道灌ゆかりの岩槻城を目の前にしながら指を咥え続けたわけで、
苦汁をなめた続けた思いだっただろう。つまりここで氏綱に内応し渋江氏を攻めることは筋が通ると思うのです。そして今度は同年7月に
朝興は甲斐武田信虎に救援を求め岩槻城を取り戻す。そして資頼は扇谷に帰参する。ただこうなると今度は岩槻城を奪われた渋江氏は
不満を持つであろう。資高の離反の理由はなんだろうか。弟など含めて一家丸ごと移ってるように見える、これは後の時代の康資とは違う。
資高の母は早雲に滅ぼされた三浦氏でもある、それでも離反するとすれば朝興との間になにかあったのかもしれない。
そして武蔵千葉氏だが近隣の蕨城は落ち、家臣の渋江氏の岩槻城は同じ扇谷の資頼に奪われてしまった。
ここから1538年の国府台合戦までをまた仮定していきたい。まずこの1524年抗争のすぐあと武蔵千葉氏は義明の元に下ったとみたい。
勢力同士の友好はこの時非常に難しく、真里谷氏と里見氏を一心同体に見る傾向が強いがともに親北条派と反北条派を抱えてると見たい。
また義明は敵を高基に絞っており、他の者を小弓公方としての配下と見る傾向が強いとする。山内憲房と憲寛の義親子は朝興と歩みを
合わせて氏綱を警戒している。高基も北東勢力を背景に義明を強く敵視しており、北条への危機感は他より薄いと見る。
1525年義明配下の武蔵千葉氏は義明を通しての北条救援を味方にして、渋江を使い岩槻城を奪還する。岩槻城から西総のラインは
高基と義明の線引きにもなってると存じる。そしてこの時江戸城が北条氏の最前線と考える、蕨城(渋川氏)は北条氏のものだが
赤塚城、淵江城、葛西城、岩槻城、玄鼻城、高田城、臼井城の地域が武蔵千葉氏とともに義明に渡ったと見る。また北条氏は
今川氏の血、横井氏の血、吉良氏、渋川氏をも手中に収め、俯瞰的に見れば足利氏と前北条の位を持ち関東を収める器には
達してるように見える。
この年長きにわたって武蔵千葉氏共に歩んだ東常和が没する。その後は尚胤が後を継ぐが後の後北条氏制圧時代に東氏の名はなく、
いつの時代にか滅んだか群上に帰したかは不明だが武蔵千葉氏の元を離れてしまうようだ。
また大きな流れの裏では関東享禄の内乱が起こっている。複雑に勢力の思惑があり高基と子の晴氏には亀裂が入り
山内は憲寛が最後には追放されてしまう。それと憲房もこの年(1525年)に亡くなった。憲房を尊敬していた千葉憲胤も
扇谷や山内に従う理由がそがれ、義明に移ったのかもしれない。憲寛も義明を頼り市原市に在して晴直と名を改めている。
0637人間七七四年
垢版 |
2021/10/27(水) 21:12:49.96ID:V5BO+mN3
先の戦いから山内扇谷連合は1526年の間でいくつかの武蔵国の城を取り戻す。この時先にも書いたが真里谷氏里見氏には
反北条派もおり、この時は連合に味方し蕨城や関戸城などを落とし、その勢いで鎌倉まで攻めて鶴岡八幡宮などを焼き討ちにするが、
北条の反撃の勝利で終わる。1527年には義明と親北条派が命を下したか真里谷氏里見氏と氏綱は停戦に入る。つまり義明の元、
武蔵千葉氏、真里谷氏、里見氏は情勢と政治によって北条との距離感を決定していることだと存ずる。
また原胤清に義明は忠誠を誓うように書状をだしていて胤清は従うと返事をしているが、高基とのつながりもあるため寝返りの動きも見せ、
それを密告され、対処しろという書状も残っている。これがこの時代の公方と武家たちの関係を如実に表しており、
1に公方は氏族たちに主家を挟まずやりとりをし全員が家臣という態度で接する、2に高基と義明の間で表向きは両人にいい顔するが
利と捉える方に時代時代で傾いていることが分かる。それが武蔵千葉氏が義明に下ったという根拠でもある。
1528年の上杉文書では高基と義明の対立の話がなされる、これもこの時代北条の躍進と公方の争いが主軸なのが表されている。
その中で1520年後半や30年代は高基の対立の義明派の真里谷氏里見氏の中で北条氏をどのように扱うかが主軸の年になっていて
また山内扇谷連合は両公方より現実的に北条に対処する動きという形になっていると存ずる。
まず1534年に里見当主義豊が叔父である親北条派だった実堯と正木氏を義明了承の元殺害してしまう。
その後実堯の子義堯が北条の支援の元、義豊を追放し当主になってしまう。追放された義豊は真里谷氏の元へ逃げ延びる、
また真里谷氏もこの抗争で元々真里谷氏にも存在した親北条派と反北条派に波及し、真里谷信応が当主に収まっている。
ただし親か反であって北条に与しているわけではなく、1537年頃には真里谷氏の分子も里見義堯も義明の元へ戻っている。
さて1530年に小沢原の戦いが起こる。これは小沢城や相模と武蔵の境の城を取り戻そうとした朝興を
氏綱の子氏康が迎え撃って破った戦いだろう。1532年には岩槻城が再び太田資頼が攻めて渋江三郎が討った。
通説では扇谷が北条氏を攻めた構図だが、この仮定論では扇谷が義明派の武蔵千葉氏を攻めたと見る。そして岩槻城は扇谷と資頼に移り、
武蔵千葉氏はおそらく川口あたりまで後退したのであろう。それから1537年朝興は死去し、朝定が引き継いだ期を狙って
氏綱は河越城を落とした。義明もこの頃真里谷氏里見氏が落ち着きかつ高基が晴氏によって降ろされたのを見ていよいよ古河公方攻めを
計画したと見る。書状は残っていないがおそらく各義明派に送ったのではないだろうか。そして準備に入る中、
武蔵千葉氏の葛西城が氏綱によって落とされてしまう。それでも義明は調整して古河攻めを決行しようとしたのだと存ずる。
大軍を集めて市川はまで来たのであろう。その間にこの仮定論では武蔵千葉氏がついに晴氏と協調姿勢の北条に下ってしまう。
その激震は西総全体に広がり、義明派と北条派に分かれたのではないだろうか。そういった中1538年義明は北条との決戦からは
逃れなくなり、晴氏攻めを一度中断し氏綱との戦いを決意する。そうして第一次国府台合戦が行われた。
義明は武蔵千葉氏の離反の混乱もあり死去、義明の一族も幾人か死者をだす大敗。武蔵千葉氏は西総を混乱の中
高城氏、原氏や里見氏に取られ、臼井氏は独立して原氏の支配下に、先に書いたように岩槻城は扇谷にとられているので、後に完成する
小田原所領帳の領土になったのではないか。匝瑳氏や木内氏や円城寺氏や板橋氏などの所領帳での持ち分を見るとあながち間違えとは
見えないのではないだろうか。江戸太田氏や江戸吉良氏には遅れての参画にはなるが「千葉殿」の裏にはこういった物語が
あるのではないだろうか。と、東京の武将を目線に戦国時代初期を見たのだがどうであろうか。以上長々申し訳ない、当分(長い時間)
長文は控えるのでご了承お願いしたい。ありがとうございました。
0638人間七七四年
垢版 |
2021/10/27(水) 22:32:43.88ID:CNHOg5yZ
一次史料にもある「伊勢早雲」が虚構だったなんて
0639人間七七四年
垢版 |
2021/10/27(水) 22:52:42.06ID:CNHOg5yZ
「箱根神社棟札」早雲寺殿
「北条家朱印状」早雲寺殿
「大道寺盛昌書状」早雲寺殿様
「為広駿州下向記」早雲
「大井宗菊書状」伊勢早雲庵
「福島範為書状」早雲庵
「王代記」伊勢早雲
「朝倉宗滴話記」伊勢早雲 (紫屋軒宗長からの聞き書き)
「小田原衆所領役帳」早雲寺殿
「相州日牌帳」早雲寺殿
0640人間七七四年
垢版 |
2021/10/27(水) 23:26:29.71ID:CNHOg5yZ
自署 宗瑞
「上杉可諄書状」伊勢宗瑞
「上杉憲房書状」伊勢新九郎入道宗瑞
「大蔵院宗好」宗瑞
「上杉憲政願文」平宗瑞

他称は北条・今川圈=早雲(庵、寺殿)、上杉=宗瑞
0641人間七七四年
垢版 |
2021/10/28(木) 00:47:26.60ID:tCbzQAl9
>>638
自署、特に公式発信文書が全てだろう。
他称など綽名の如きもので採るには値しない。

と同時に、
武田徳栄(徳栄軒信玄)
上杉不識(不識庵謙信)
などという表記があり得るかどうかを考えれば答えは自明。

何よりも、「北条早雲」なる表記は後世捏造された数々の虚構に塗れ過ぎた。
実事求是のスタンスに立つならば速やかに葬り去るべきものだ。
0642人間七七四年
垢版 |
2021/10/28(木) 00:57:05.14ID:tCbzQAl9
玄人、素人を問わず史学関係周辺の人々は表面的/些末的史料盲従主義(文系脳的思考停止)に陥りがちだと常々思っている。
技術屋の目から見ると「論理的正当性」以外に拠るべきものは何も無い。

出家者については法号が正当な呼称であって、庵号を持ち出すのはナンセンスとしか云いようが無い。
0643人間七七四年
垢版 |
2021/10/28(木) 07:39:21.73ID:3Zo35AgA
早雲と顔つき合わせてた者(冷泉為広、宗長、今川家臣)が「伊勢早雲/早雲」と呼んでるのに
自称理系脳がわけわからんこと言ってるな
0644人間七七四年
垢版 |
2021/10/29(金) 16:27:57.28ID:0cEF+2AZ
院号庵号法号または斎号かか、色々なケース想像するなぁじゃあ盛時かな
0645人間七七四年
垢版 |
2021/10/30(土) 17:29:50.68ID:ZTe5p2/j
関東の吉良氏や渋川氏なんてこの時代別に大そうな意味なんかはなかったのでは
0646人間七七四年
垢版 |
2021/10/30(土) 18:12:19.58ID:BM4eVsQy
>>630 >>634
伊勢宗瑞は相模國全域制圧直後に武蔵國へ再侵攻するかと思いきや、真里谷武田氏からの要請を容れて上総國に侵攻した。
伊豆衆・三崎衆と対岸の真里谷配下の海賊衆との連携による武総之海の水運掌握、以て扇谷上杉氏のインフラ侵蝕を図ったものと云う。

それ自体は真実だと思われる。
しかし相手方である武総之海の西岸から奥、即ち品川や江戸等の海民たちの動向が今一つ見えて来ない。
地域的には当然扇谷方に付いていたのだろうが、
彼等が担っていたであろうそれ以前の湾内水運の実態、武相(扇谷対伊勢)の相剋に当たって彼等が果たした役割、等々はどんなものだったのだろうか。

私見だが、宗瑞が性急な江戸再侵攻よりも「勝てる状況」の構築優先という一見迂遠な道を選んだについては一回目の侵攻失敗の経験知があったのではないか。
その経緯の中に湾奥部の海民たちの(当然、扇谷方としての)軍事・流通活動もあって宗瑞をしてその重要性を痛感せしめたものと見ているが、未だ具体的な根拠を見出せず妄想の域に止まる。
何か知見があれば御教示願う。
0647人間七七四年
垢版 |
2021/10/31(日) 17:52:50.82ID:Y80QSy3u
>>637
国府台合戦に際しての扇谷上杉及び配下の武蔵國衆の動きが腑に落ちない。
何故北條を背後から襲わなかったのか。

古河vs小弓の覇権争奪というこの合戦の基本構造の中で扇谷(一応山内と和睦中)は名目上古河方だったのかもしれないが、
江戸も葛西も奪って河越や岩附さえ脅かす不倶戴天の敵たる北條が氏綱ばかりか氏康まで出陣して江戸も小田原もガラ空きにしているというのに、
そして扇谷は必ずしも小弓と敵対してはいなかったのに指を咥えて北條を座視していたのがどうしても解らない。
北條の侵攻で逐われて憤懣やる方無い國衆も武蔵國内に少なからず残存していただろうに…。

そもそも古河が小弓を討つに当たって関東管領山内上杉を差し措いて新参者の(そして忠誠度に疑いのある)北條を使ったこと自体相当解らないものがある。
既に当時、國衆の潜在的動向も含めて両上杉は武蔵國内の政治基盤を喪失していたということなのだろうか。
0648人間七七四年
垢版 |
2021/10/31(日) 21:17:14.45ID:aza9RjQ7
>>646
湾奥部や海民ということですが、船橋の研究家先生のお話でも海運と陸運のお話を見ましたが
やはり細かい事への指標みたいのものもまだ定まってはないとのことです。事態解明はまだ難しいようです。
六浦、神奈川、品川、江戸、浅草、船橋、千葉、浜野の港の重要性はおしゃってました。
その中でただ個人的に思うのは、浅草と船橋は寺とのつながりが強いことが一つおっしゃる海民につながる気もします。
つまり海民は僧、商人、漁猟民の混合勢力で、ある種の独自のシステムがあるのかもしれません。
僧はネットワークの顔、商人は流通のシステム、漁猟民は運搬をイメージできるような気がします。
独自の勢力という事である程度は寺と同様に争いに関与しながらも損得で動ける自由さがあったのではないでしょうか。

それからこの仮定論では一応扇谷勢力と旧道灌勢力で線を引き、分けております。品川、神奈川湊は
武蔵吉良氏が今川勢力に与した段階(早い段階)で大きな益は伊勢氏側に武蔵吉良氏を通して移ったと考えております。
(鶴岡八幡宮造営の支援力)
また妙見島、これは自然島ですがその名の通り由来の妙見神社が千葉氏との関係を思わせる島です。
基本的には前の時代の千葉氏ということですが、やはり武蔵千葉氏は無視できない場所であり、北条氏の支配時代には
太田康資の所領となります。武蔵千葉氏関連これは筋が通ってると考えます。この湾内に出っ張るように存在する島を武蔵千葉氏が
収めてたとするならば、浅草、船橋が寺領だとしても、仮定論では長島湊、千葉湊は手中にあるということです。
先の記述で旧道灌勢力を分けている理由ですが、扇谷の純粋なる家臣勢力が収めているのは江戸湊のみとなり、
伊勢氏にとって湾を見たとき、江戸湊もまた先の独自性があるとすれば、まず接するのはある種扇谷当主と力を並べる
武蔵吉良氏(既に伊勢氏側)と武蔵千葉氏(国府台合戦時義明方)と江戸太田氏ですから、その勢力が重要になり、逆に言えば扇谷純勢力は
江戸湊も含めて湾勢力に影響はない、つまり伊勢氏の扇谷に対しての戦略が見えるのではないでしょうか。
「勝てる状況」の一文に同意し、おそらくその間に江戸太田氏(資高)との離反へのやりとりが存在していたのではと
考えており、同時に武蔵千葉氏さえあと落ちれば湾の影響のほぼを手にできると伊勢氏(北条氏)は考えているのではないかと存じます。
そして真里谷氏までなら完璧にと。
0649人間七七四年
垢版 |
2021/10/31(日) 21:17:21.61ID:aza9RjQ7
>>647
この仮定論では扇谷は義明派としています。また葛西城は義明に降りている
武蔵千葉氏の城と見ています。なので古河公方がなぜ北条にかは筋が通ります。
山内でない理由でありますが触れはしたのですが、憲房ー憲寛を義明派と見ています。
古河に絶対としてついたのは北東関東勢力としています。
そして疑問とされる義明派とした扇谷上杉がなぜ北条を攻めなかったのかでありますが、
葛西城は義明に鞍替えした武蔵千葉氏(岩槻城は扇谷に切り取られる)の城ですからまずは
様子を見たところ、大きな衝突になってしまったのではないでしょうか。
扇谷は北条包囲網形成を望んでいるところでしたが、武蔵千葉い方の葛西城が落ち、
そのまま国府台合戦に発展するとは予見できなかったのではないでしょうか。
では救援行動はという次の思いですが、それに関しては義明派でありながら家臣ではなく
古河公方との足並みを考えてでなかったのではと考えます。
0650人間七七四年
垢版 |
2021/11/01(月) 22:09:22.59ID:pdAz/CLW
お前ら和歌山県出身の下村拓郎様(35歳、元自衛隊)をご存知か、この方は将来素晴しい人物になるから覚えておいて損はないぞ
0651人間七七四年
垢版 |
2021/11/01(月) 22:14:05.30ID:A2hGpBHW
早雲を早雲と呼んではいけないという虚構

自署 宗瑞
「伊勢氏綱社殿造営棟札」早雲寺殿天岳
「北条家朱印状」早雲寺殿
「大道寺盛昌書状」早雲寺殿様
「相模国先達衆言上状」早雲寺殿
「小田原衆所領役帳」早雲寺殿
「相州日牌帳」早雲寺殿
「為広駿州下向記」早雲
「伊奈盛泰書状」早雲
「大井宗菊書状」伊勢早雲庵
「福島範為書状」早雲庵
「上杉建芳〈朝良〉書状」早雲庵
「三不軒某書状」早雲
「王代記」伊勢早雲
「朝倉宗滴話記」伊勢早雲 (紫屋軒宗長からの聞き書き)
「学校答書」伊勢早雲庵主 (1634年足利学校11世の記。北条氏は足利学校の庇護者)
「上杉可諄〈顕定〉書状」伊勢宗瑞/宗瑞
「上杉憲房書状」伊勢新九郎入道宗瑞
「大蔵院宗好書状」宗瑞
「上杉憲政願文」平宗瑞
0652人間七七四年
垢版 |
2021/11/01(月) 22:17:39.70ID:A2hGpBHW
「北条氏康書状」武田信玄
「北条氏照書状」武田信玄/信玄
「小田氏治書状」信玄
「相馬治胤書状」信玄
「上杉輝虎書状」武田信玄/信玄
土屋昌続宛「宇都宮広綱書状」信玄
「織田信長書状」信玄
「板垣信安起請文」奉対信玄様/奉守信玄様 (両角昌守、小幡信実、越後国衆、信濃国衆の起請文も同)
「馬場篤親起請文案」奉対信玄 (馬場篤親は常陸佐竹家臣)

北条高広・景広宛「佐竹義重書状」謙信 (上杉景勝宛も同)
正木憲時宛「佐竹賢哲〈義斯〉書状」謙信
直江景綱宛「里見義弘書状」謙信 (柿崎景家宛も同)
1578年3月24日付・4月3日付「上杉景勝書状」謙信
1578年5月29日付「上杉景虎書状」謙信
1578年4月20日付「本庄繁長書状」謙信様
1583年2月19日付「北条高広書状案」謙信様
「松平忠昌寄進状」前越守謙信墓所

信玄 家中=信玄様、他国=信玄
謙信 家中=謙信様、他国=謙信
早雲 家中=早雲寺殿、同盟国=早雲(庵)、敵国=宗瑞
0653人間七七四年
垢版 |
2021/11/01(月) 22:36:58.20ID:wuxiYIF+
長々とコピペ御苦労。
しかしお前の大好きな三流講談師を引用し忘れてるぞ。

問うに落ちず語るに落ちる。
頭隠して尻隠さず。
いい加減な所で止めときゃ無事だったものを、ムキになって退き時を見失うから身バレすることになる。
0654人間七七四年
垢版 |
2021/11/02(火) 07:28:09.31ID:2O4FuQAY
???
カルト宗教か何か?
0655人間七七四年
垢版 |
2021/11/02(火) 07:30:18.00ID:2O4FuQAY
実証主義が通じない
0656人間七七四年
垢版 |
2021/11/04(木) 20:46:22.00ID:6hJiAqT8
1番上の棟札
改行等も正確に書くと

相州故太守早雲寺殿天岳
欲建立而不果矣依之令
太守伊勢平氏綱新造畢

意識的に宗瑞は書かずにいるんではないか
0657人間七七四年
垢版 |
2021/11/04(木) 22:59:33.19ID:OrRCJGC5
もし件の伊勢氏が盛を偏諱として使用したとするならば、臼井盛胤はもしかしたら
伊勢盛時とのつながりがあったのかもしれない。さすがにそれは遠いか。

舎人氏
道灌死後の話を書かせてもらったが、この道灌死後の時期においてと考える舎人氏の
動向、その一つとして平手政秀の生母と沢彦宗恩の存在がある。まず舎人氏は近隣の
小見山氏同様いつの時代からは難しい。戦国時代中期に関しては舎人経忠や舎人孫四郎を
確認できる。では政秀母と沢彦だが、政秀母は舎人三河守輝季の娘で政秀が1490年代
生まれだとすると舎人氏と平手氏に関係ができるのは70~80年代、そして輝季は
享徳の乱の時期の生まれと推測でき、後年に舎人氏が存在することから一部が尾張に
移動したか、なんらかの政治の動きがあったかは不明。また沢彦の俗名が
舎人八〇〇であり、その妻が政秀の養女であると。輝季が道灌死後の所領の土地として
武蔵千葉氏との関係性も重要と見ることができる。孫四郎は太田資正の家臣であることから
岩槻太田氏が南へ侵攻する以前は武蔵千葉氏家臣と見ることができる。舎人氏自体が
争乱の中、一時衰退したか、尾張の動向と合わせ、想像したい所である。
0658人間七七四年
垢版 |
2021/11/05(金) 12:10:02.01ID:Rub2bYF2
浅草と島津氏(後藤島津)

まず浅草だが1521年に氏綱の命によって古河公方の所へ富永三郎左衛門は赴いた帰り
に浅草に立ち寄った。氏綱はお金にまつわる話を富永から聞いて小田原に弁財天を
勧請した。(24年の太田資高の内応への誘いはこういった動きの中で
行われたのかもしれない。)24年に近い時に遠山新五郎屋敷への狼藉を禁止する
御触れを浅草郷へ出している。このことは24年の品川の妙国寺、本光寺への
禁制とは真逆(寺への狼藉)で、浅草近辺はまだ後北条氏との繋がりが薄いことが
窺える。仮定論では後年の太田資正の浅草寺や石浜宗泉寺や品川妙国寺、本光寺への
制札があったからといって収めたとはみないのと同様この時はまだ近隣の
義明を後ろ盾にする武蔵千葉氏とせめぎ合ってたと見ている。
また後北条氏の浅草寺支配は1539年の浅草寺再建近く(1535年の火事)と見たい。
島津長徳軒、大道寺盛昌、松田盛秀らが参加した。まず再建が4年後であること、
次に24年に千葉氏が北条氏に下っていたのなら名前がない不自然さ、この頃に
遠山直景の子か忠豪が浅草寺別当に就いているが、直景は33年に死去しているが
39年に城代に就いたりと不明な点があり、国府台合戦後に武蔵千葉氏が落ちてから
整備されていることが垣間見える。また島津長徳軒(忠貞)は同じく35年頃に今川氏
から後北条氏に移っており、国府台合戦を期に江戸衆として江戸太田氏とは別に
東京各地に所領を得たのではないかと考える、これは一部は武蔵千葉氏が下った際に
切り取られた痕跡の様にみえる。長徳軒の妻は三浦氏(おそらく駿河三浦氏)で
氏綱の妹が三浦氏に嫁いでいるので、強い信頼の元北条家で台頭したのかもしれない。
0659人間七七四年
垢版 |
2021/11/06(土) 10:36:47.58ID:ktQzpqu+
増島重明……1613年練馬高野台に弘法大師像を祀る庵をつくる。
その甥重俊が観音堂などを建て、1640年に小池坊秀算により十一面観音像が作られ
長命寺となる。十一面観音は妙見菩薩と並ぶ千葉氏の信仰である。
〇〇ー重胤ー重興ー重明とするらしいが、
なんとこの○○は北条早雲であり、つまり
そのひ孫だと言う。どちらかと言えば千葉氏な気がするが、刺激的なお話。
0660人間七七四年
垢版 |
2021/11/06(土) 21:18:20.52ID:lUYj+1G/
寛永系図か寛政譜の島崎氏も早雲落胤といってたな
0661人間七七四年
垢版 |
2021/11/06(土) 21:44:48.50ID:brpZJ4+s
自称落胤やら自称末裔やらがあっちにもこっちにもいたってことは、
伊勢宗瑞も将門公並みの「箔」になるのか。
0663人間七七四年
垢版 |
2021/11/12(金) 14:28:40.26ID:8g4M4Hao
河村氏
元々は河村城を収めていた通字が秀の氏族か。
河村城地域は戦国時代初頭は大森氏の支配になっている。小田原城になにか関連したか。
その後は遠山綱景の弟秀重が入り、おそらく新倉所領の川村氏も同一族。
新倉は元々武蔵千葉氏の所領の可能性があり、改編後に入植したか。

他にも麻布、府中を収めた狩野氏や同じく府中の井田氏が先の時代や別地域の者と姓が同じものが
多くいるが安易に結んではいけないと感じつつ、徳川氏の幕府設立時の再雇用と同様に
伊勢氏後北条氏によって再台頭した氏族や蕨城の渋川氏系図から義鏡の代ではなく、
その孫の代で枝分かれした三河板倉氏(つまり蕨から移動した氏族)のように人の移動の波が
解明されればまた戦国史が違ったイメージになるような気がする。織田信長徳川家康でさえも
今川氏と関連し、中央から関東へ波が訪れ、また関東から波が返り、また最後は関東へ流れた、
関東と中央の関係はそのように大きな波が行っては来たりと、そんな感じがする。
0664人間七七四年
垢版 |
2021/11/13(土) 21:41:43.68ID:wXHv2/1K
渋江氏や岩槻が武蔵千葉氏の所領の可能性の補完
岩槻には原氏が居た残り香が存在する、原氏館や妙見信仰があったとされる。
伝承では小西原氏系の原虎胤ではあるが、行方氏と同様に異なった原氏が
移動してしていた可能性を感じる。史料が比べれば残っている下総千葉氏にその影が
ないことから地理的にも単純に武蔵千葉氏と考える方が筋が通る気がするところである。
0665人間七七四年
垢版 |
2021/11/14(日) 17:14:55.54ID:6rJozIXT
山内・扇谷(旧太田道灌勢力を除く)の最前線、大石・三田・平山(山内)
難波田(扇谷)を想像したいのだが……通説では前の三氏は1546年河越城の戦い後に
後北条氏に従い、難波田氏は同戦いで没落している。また1537年の河越城奪取の際の
少し前に両家共々の最前線に深大寺城(調布)を扇谷上杉氏の命によって難波田氏が
増築している。堅固な守りだったか戦略的にか後北条氏は北上より東征の道を歩んだ。
ただし、難波田氏は扇谷上杉氏の防衛に勤しんだと考えられるが、前三氏が南下し
なかった理由はなぜであろうか……
0666人間七七四年
垢版 |
2021/11/14(日) 17:32:24.06ID:6rJozIXT
いや武田信虎と合わせて後北条を攻撃しているわけだから南下はあったということか……
0667人間七七四年
垢版 |
2021/11/14(日) 18:01:33.51ID:E0RMPSCW
そこが他地域とは全く違う、関東平野・武蔵野台地の怖い(?)ところ。
此処ぞ必争の巷也と見定めて守りを固めたり攻め寄せたりしても
「いつになっても敵が来ねえええええ」ということがよくある。
他地域の如く狭隘な地形に規定された不可避の会戦というのはよっぽど敵味方双方の気が合わなければ(笑)起き難い。
広闊茫洋の地形故に行動経路・順序の自由度が高いから相互が勝手に「独自の戦い」を遂行できてしまう。
敵の拠点を焼いてやったぜ、と凱旋したら己の拠点が焼かれてました、とか。
氏綱期の北條と上杉の闘争には特にこの愉快なパターンが目立つように思う。
0668人間七七四年
垢版 |
2021/11/15(月) 20:29:41.88ID:LtnQx0vZ
勝沼氏と勝沼城(青梅市)には関連があるだろうか。勝沼氏は勝沼信友(武田信虎弟)で
勝沼城は三田氏の居城である。勝沼氏は小山田氏と近く、小山田氏はその東で
武蔵国との境界に位置するところである。また同じく境界には加藤氏が居て、
同じ景を通字とする加藤氏が里見氏の家臣に存在する。15世紀中期から16世紀前期に
人が大移動しているので意味を深く求めすぎるとはまってしまいそうではあるが
興味深いことでもある。小山田氏は郡内地方との結びつきが強いが、現町田市も
後北条氏から所領もそれ以前から持っていた可能性も考えたい。安房加藤氏は
上総武田氏に一部が従ったか。勝沼はたまたま同じとも考えられるが、いやそれが通常だが
武田氏の大移動、武田氏と三田氏の関係など含めてなにかあるのかもしれない。
0669人間七七四年
垢版 |
2021/11/19(金) 09:27:57.89ID:rvoOE5rL
中条氏
仮定としていくつかのルートの中条氏を示したい。まず熊谷市の中条氏は藤原氏・横山党
ではないという話を採用したい、熊谷中条氏は上野、越後と移動しているようだ、
なので熊谷ルートはここでは除く。そのほかに3ルートを書きたい。
はじめに吉良氏家臣系中条氏、1300年代には吉良氏は世田谷を所領の一つとして持ってたと
され、さらに地侍中条出羽守が世田谷と大牧(浦和市)を預かってたようだ。
後述の中条氏も出羽守であると考えられるが、調布の一族はこの一族ではなかろうか。
と、すれば吉良氏の動向と合わせ想像したいところだ。
次に三河国高橋荘などの中条家長の末裔の一族で結城合戦で下向した中条満秀の子
(当主は弟の満平が継ぐ)で持の付く中条氏でおそらく持胤に続く、もしも胤が
武蔵千葉氏と関係するならば下向した時に同一族(上記)から大牧(浦和市)を貰い、
武蔵千葉氏と深い関係になったか。渋川氏の蕨のようなことだったのではないだろうか。
藤原氏系統を名乗る中条氏が胤を用いることに注目したい。
そして最後に信長に滅ぼされた上記の満平の子孫の一族である。のちに景の文字を
持つ一族で氏康に景信が仕えたとある。氏康にというところに重きを置いて年代から
挙母城を追われた後関東へ流れてきたか。
また伊豆国韮山から南条、北条、上条、中条氏が生まれたとされ、その意味を深く
考えたいところである。

多摩井田氏
風土記稿井田村では源義家の頃、井田摂津守が居たという。家伝では三河国発祥で
畠山氏の一族で古くに三河に移り伊勢新九郎に従い関東に赴いたとある。高橋氏が
名乗った井田氏も存在する。家紋の一つに九曜紋があり、下総井田氏との関連も
捨てきれない。また相模平塚の布施氏館の布施氏だが1300年代では
鎌倉幕府問注所執事三善氏の一族の布施氏がいるが、1502年頃所領の山城国から移り
後北条氏家臣になったとある。ただ布施蔵人佐は小机麻生に所領があり、
武蔵吉良氏関連や下総相馬氏の徳誕蔵主の子胤保が布施を名乗っており、上記と
同じ頃と見れるのでそちらとの関連性、こちらも捨てきれない。

また太田資正家臣妹尾氏(原氏)、同じく家臣足立郡の宇田川氏、吉良氏家臣の
宇田川杢頭、白井但馬守、行方氏(原氏)相原氏(粟飯原氏?)武蔵千葉氏家臣末裔
宇田川茂右衛門など後北条氏とはまた別軸で入り混じっている様子が見える。
その随一として円城寺頼長である。1550年に世田谷から川崎に泉澤寺を移し再興した際に
開発の一人に上がる名前であるが、他の者はまだ難しい所であるが円城寺氏は他で見えず
武蔵千葉氏と渡った一族であることは可能性が高いだろう。また地名としても吉良氏の
所領の船橋谷、板橋、梶山(現八幡山)も興味深い。板橋氏ははじめ後北条氏と戦い
死者を出すが、後年では氏康家臣、玉縄衆の板橋民部丞が晴氏(家臣野田氏)との取次役
になっている。元々板橋氏には古河公方とのパイプがあったのであろうか。
0670人間七七四年
垢版 |
2021/11/20(土) 02:18:33.41ID:xRczVrpe
仮定論で小田原城を親今川派大森氏が譲渡し山内に下った者と今川氏に付いた者と
大森氏は分かれたと見た。また山内に付いた大森氏は小田原城に居城していなかったと
見た。根拠としては後北条氏で存在する大森殿。特別な格の待遇を受け江戸衆として
存在する。小田原城に関しては氏康を入城させ、後北条氏初期の根幹を担った。
少しあとの時代で上田朝直の元に居た難波田憲次(大森氏)が憲重の死後、憲重の娘で
ある母のつながりよってつまり孫が難波田氏を継いでいる。この憲次の父が顕定(実頼)
、藤頼の兄または憲次自体が実頼藤頼の弟、山内に付いた者であろう。この大森氏は
上田氏の元に赴くまでは扇谷上杉朝昌から山内が奪った七沢要害に入ってたのでは
ないだろうか。仮定論では小田原城も真田城から攻めやすく山内が一時のみ在城したと
見ている
0672人間七七四年
垢版 |
2021/11/20(土) 21:33:33.83ID:xRczVrpe
>>671
拝読しました、興味深かったです。
黒田先生のあとがきの受け売り何ですが、本当にこの時代は全貌さえも難しく、
今ようやくで、これからの研究の動きなどドンドン進むだろうと。本当に思うのは
関東甲信越に東海(そこまで行くと中央もですが)連動した動きがあり、またその
個々の内部における動きを時間軸、地理軸の二方向にさらに文化軸、経済軸、軍事軸、環境軸
を加えて同時に脳内で動かそうとするとどうしてもメモリ不足か脳がクラッシュする。
言い訳になってしまう部分があるんですが、なので自分はある程度史観に重きを置いて
見ています。ですから自分が他の方の学びに関してなにかというのは、恐れ多いというか
単純に成程と、脳に入れて出し入れさせて頂くという感じです。だから地震の観点から見る
なんて素晴らしいなと思いました。話を少し戻して軸にしている史観の点などですが、
例えば道灌や宗瑞の介入があった時今川氏の一番近い重臣たちはどのように動いたか、
足利公方の政氏ー高基ー晴氏で北東関東勢は?と見たとき各々の家中(親子)で意見が
異なり争いが波及する。甲斐武田氏が甲斐を統一化しているとき、今川氏は比べて安定
しているが当主と家臣どちらに重きがあったか、こういったことを他から少しスライド
させながら脳でなるべく理解しようと努めています。それで史観ですが東京武将スレと
いう事でそこに重きを置き、また道灌旧勢力にも置いています。そこから例えば
「大森教訓状」があれば大森氏は上杉からの離脱の流れを感じ、譲渡と言う仮定に至る
という事ですね。また、城の概念でありますが、例えば臼井城は2度の守城が知られて
いますが、その要因を城の作りや立地、城主や家臣または相手方の能力というのは
難しい、ですが後年の臼井城の評価を見るにイメージに引きずられ過ぎるもまた危うい、
堅城というのも時代の軸でも異なってしまう。つまり小田原城がいつの時から思う小田原城
なのか、ここは上記の史観に基づいて後北条氏が有力視してから数年後からが思う小田原城
に近くなっていくと。当然元々の立地における重要性はあったが、というところで
ありますが、その延長線上に山内は維持ができなかったと見るにつながります。
と、書いていますが史観としてであり、強い観念を持ってるという事ではないです。
と、まぁこのように長文になってしまいましたがレスとさせていただきます。
0673人間七七四年
垢版 |
2021/11/22(月) 21:55:53.11ID:zFGH4SRV
>>668
加藤氏は元々通字が景
遠山氏の通字が景なのも加藤氏流だから
0674人間七七四年
垢版 |
2021/11/23(火) 06:32:05.54ID:FhNF2b3x
確かに加藤氏おもしろいな、wikiをパッと読んだけど
上野原加藤氏の項か武田信長から景春、小山田から独立しながら武田氏に従ってる
で、確かに里見の加藤が信長に従って上総に流れてって説があるみたいだな

あと勝沼信友の子が加藤氏に養子ってのも確かになんかあるのかもな
小山田と一緒に北条を助けるために八王子に出陣したり、攻めるために出陣したりまぁ忙しいなw
0675人間七七四年
垢版 |
2021/11/26(金) 22:44:29.44ID:ZDk3JL7i
追加
「勝山記」(生前)伊勢入道/早雲入道 (没後)早雲
「鎌倉大日記」伊勢早雲
「宗長手記」早雲
「今川本「太平記」奥書」伊勢新九郎…号早雲庵宗瑞/早雲庵/早雲庵主

早雲 北条・今川・扇谷上杉家中、連歌師、公卿、相模・甲斐・下野の修験・僧・儒者
宗瑞 山内上杉家中
早雲を早雲と呼んではいけないという虚構は誰が言い出したのか
史料にみる伊勢新九郎入道の呼び名は各階層で(伊勢)早雲が優勢
宗瑞と呼んでいたのは敵対していた山内上杉家中

新九郎入道を早雲庵と呼んでいた扇谷建芳が
新九郎入道を宗瑞と呼んでいた山内上杉に隠居させられ
朝興が扇谷上杉を家督(名代とも)する
年代と場所に疑問があるが建芳の遺児藤王丸は害されて
朝興・朝定父子は滅亡するまで北条に徹底抗戦

早雲・宗瑞どちらで呼ぶかで北条に対するスタンスが鮮明にできるということは
シンプルにこういう見方もできる
0676人間七七四年
垢版 |
2021/11/26(金) 22:55:20.02ID:I6dOpeJx
>>675
先般の分も含めてズラズラとよく並べてくれて御苦労なこったが、
「早雲」の例に一つも 公 文 書 が無い。
私文書や私記録に通称を使った事例が何百何千あろうと、学術的な取扱に於けるルールには何の影響もない。
伊勢権力体が発行した公の行政文書に何と書いてあるか。
それが全て。
0677人間七七四年
垢版 |
2021/11/27(土) 22:02:45.21ID:qRhwqeYc
>早雲を早雲と呼んではいけないという虚構
そんなの聞いたことないけど?
信長を上総介と呼んではいけないと同じくらい意味不明
要は、当時は法名は忌み名にあたるから庵号とか院号などのような尊称で呼んでたってだけの話じゃん
0678人間七七四年
垢版 |
2021/11/28(日) 02:53:18.09ID:XWFm1rkv
>>672
だいぶ遅れましたが、丁寧なコメントを有り難うございます。

小生は貴殿とは逆に、
自然環境条件やこれに規定されたモノや技術から戦国史を眺めることを好みます。
伊勢宗瑞の件はその稚拙な一例です。

さて、
この視座から我が「東京」を観ると、
・ともに広大な低湿地と台地の唐突な接合
・秩父多摩或いは上毛に発してこれらを貫流する幾つかの大河川
・この河川群を集約しつつ外海と連結する武総之内海
等々が注目されます。

そしてこれらを正に「一所」に集めた上、別スレで触れた大震災に当たっても損害が相対的に少なくなり得る立地まで備えた「江戸」は
やはり極めて稀有な資質の地域であることを痛感します。
近年の研究では江戸は平安後期には既に殷賑の市邑を成していたとされていますがそれも諾なり、と。
詳しく書くと長くなるので割愛しますが、
太田道灌が江戸を生んだのではない、
江戸が太田道灌を生んだのだ。
と、そんな風にも考えています。

その一方で、
東京(南武蔵)の拠点市邑として古代から無二の存在であった府中や国分寺が戦国時代或いは中世に於いて存在感が薄いのは何故なのかと、
そんなことも考えます。

斯様な勝手な想いとは別に、
貴殿の詳細を極める人事考察にもまた多くを教えて頂いています。
今後とも当スレに於ける貴論考を楽しみにしています。

長文乱筆、失礼致しました。
0679人間七七四年
垢版 |
2021/12/01(水) 21:43:42.56ID:tfBSQVpM
>>676
反論になってない0点
公 文 書 だの行政文書だのと言ってて恥ずかしくないのか
実証を覆したかったら山内上杉以外に宗瑞と呼ばれてる史料探してきて
私 文 書 でもいいよ

伊勢権力体ってなんなの
あなた造語症?
伊勢権力体が発行した行政文書にはなんて書いてあるの?

>>677
真上にいるじゃん見えない?
(虚構に沈んだ)早雲と呼ぶなマン
研究者にこんなおかしなこと言ってる人いないと思うが
彼は誰に影響されてるのか
0680人間七七四年
垢版 |
2021/12/01(水) 22:04:25.45ID:bFE6R4oD
>>679
日本語も通じないし学術のルールも知らないようでは議論にもならないな。
もはや何を云っても無駄なようだ。
お前さんはこれからも自分独自の世界で幸せに生きて行け。

因みに。
「実証」という単語を、文系脳の連中は玄人も素人も軽薄に使い過ぎる。
実証とは、ブツとデータで証明する行為を云う。
歴史関連で云うなら考古学成果や数値シミュレーション、その他理工系学術の知見によって御墨付きが与えられなければ実証の名には値しない。
紙に書かれた文字ごときで実証などとは片腹痛い。
0682人間七七四年
垢版 |
2021/12/17(金) 15:50:24.47ID:k+urchb2
渋江氏と大須賀氏

渋江氏について同じことを何度も書いてしまっているが、今回は大須賀氏を絡めて重きを
置いて書きたい。まず渋江氏は本名が須賀氏と伝わる。大須賀氏と須賀氏は関連は
どうなのかという所だが、葛飾区の小菅(こすげ)に注目したい。元々小菅は千葉村
(前世代の千葉氏由縁か武蔵千葉氏か別か)に所属し由来を万葉集にでる名の可能性も
あるが、そちらは埼玉県の小菅の可能性が高いとされる。ではこちらのほかの説はどうか
一つとして下総大須賀氏の移住が言われる。ただし、千葉村からの連想の可能性も
否めない。もしそうだとすると埼玉小菅が須賀氏を生んだ説が有力視されるなら
また同時に葛飾区小菅と須賀氏、そして小菅と大須賀氏に関連がある可能性も否定できない。
では大須賀氏の動向を見てみたい。享徳の乱において見えるのは東常縁に従った事、
馬加氏攻めに加わってる事。そして後年は下総千葉氏に与している事である。
その時代の人物は大須賀憲康とされる。系図において2世代前に憲の字が使われる者が
いるが、合わせて上杉氏に近かった人物なのかもしれない、また子は常康だが常は
常縁の常か。そしてこれから後年まで系図以外の史料から伺えなくなる。他の大須賀氏
の存在も意識したい。榊原康政の舅である大須賀康高の一族である。生まれは
1527年とされ、その父も三河のものであるが、その祖は下総大須賀氏とあり、かなり
以前の時代に移住とあるが、そこは不明とされている。15世紀中期、後半に移った
可能性も存在している。つまり、東方に属したあと、なんらかの要因でいくつかの
流れに分かれたとも見れるだろう。ここではまず東方のあと武蔵千葉氏に属したもの、
下総千葉氏に属したもの、三河に移住したものとしたいところだ。では武蔵千葉氏に
属したというところの根拠になり得る所だが、1点目が近隣に属する小菅の場所。
2点目が常康(法名大應徹公/宗朝)における伝承、武蔵下総国境において後北条氏を
迎え撃ち松田氏を討取ったとのことだが、時代や背景に矛盾も抱えている。このことを
考えるとき、まずは下総大須賀氏の所領は成田市近辺や香取海近辺と思われる、
下総大須賀氏は下総東氏に近い独立した松子大須賀氏と千葉氏主家の元に属す
助崎大須賀氏に分かれている。その中助崎大須賀氏が主家千葉氏の命令で国境まで
出向いた事も考えられるが、常康は系図で松子大須賀氏となる。ならばこの伝承は
武蔵千葉氏に従ったまた別の大須賀氏のものではないだろうか(仮定の中でこの時期
下総東氏などは武蔵千葉氏と繋がっているとみるのでこれは補完材料となる)
松子大須賀氏と同族の大須賀氏が武蔵千葉氏に従い小菅に居た可能性を示していると
存ずる。と、もしももしもになってしまうが、それが成り立つならば渋江氏の須賀氏は
大須賀氏が元と見ることができると感じる。また渋江氏の胤の字は大須賀氏も
使用しておらず、この事がより従った際に胤の字を用いたと想像できるのでは
ないだろうか。後年渋江氏は後北条氏から川口市の浦寺郷を授かる(小菅も川口も
武蔵千葉氏所領近辺)
まだ薄い話だが今後大須賀康高が調べられることで発覚することがあるかもしれない。
0683人間七七四年
垢版 |
2021/12/21(火) 14:23:44.97ID:MDfnWIif
厳密には東京ではないが朝霞市の岡城は城山公園、朝霞駐屯地(東京都練馬区、埼玉県朝霞市、
和光市、新座市にまたがる)には城があった可能性はないんだろうか。
この辺りにあった片山村、風土記稿片山村条で根拠は老人の伝承のみと書かれてるけど、
七沢七郎が居たとある。朝昌ー朝寧ー憲勝のいずれかが居たならお城があった可能性もある
気がするんだけどなぁ。
0684人間七七四年
垢版 |
2021/12/24(金) 19:46:03.43ID:+obsL7N8
京都からの下向者と言われる上杉朝昌
朝昌の子東永も臨済宗の建長寺で一緒だった僧玉隠英璵、道灌とも親交があった。
玉隠れの著書で名前が上がる南禅寺住持の朝昌兄弟の叔彭梵寿。
玉隠和尚の出自は滋野氏と言われる(根津氏、望月氏、海野氏や真田氏)
また同じ建長寺の画人で有名な僧、元英祥啓は政治的な意味合いを含む上洛している。

長野県定津院の伝承に武蔵国太守藤原頼久次男の拈笑宗英禅師の話がある。
まず定津院は根津氏所領で伝承では上総介信貞(小幡氏か?)が開山。
この拈笑宗英禅師が甲斐武田氏から請われる形で甲斐や信濃における臨済宗から曹洞宗
への改宗の流れを作る。総持寺、最乗寺、永沢寺などを経て1482年頃に亡くなる。
また藤原頼久は時代からおそらく上杉朝宗だろう。この朝宗は鎌倉黄梅院文書では
関東管領扇谷上杉朝宗となっており、扇谷上杉氏の可能性を示している。
上杉朝昌ー武田信昌ー真田頼昌や越後上杉定昌にはなにか関係があるのだろうか。
0685人間七七四年
垢版 |
2021/12/25(土) 16:25:04.33ID:ZNaNt8vg
1560年の上杉勢の小田原攻め時の関東幕注文に載らずに後北条方で
守勢に努めた諸軍の最前線を知りたい
0686人間七七四年
垢版 |
2022/01/04(火) 16:41:27.28ID:C4xCAML5
東京、或いは武蔵國に「物部」を本姓と称する武将はいなかったのかな。

平将門公に先立つこと四十年、ヤマトに敢然と弓引いた物部氏永という「東國賊首」がいた。
将門公や平忠常など、ヤマトに立ち向かった人々を崇敬してその末裔を標榜するのが武士のステータスになるという風潮が関東(坂東)にはあった。
また姓の格としても天皇家より高いか(ニギハヤヒとイハレヒコの関係)とさえ謂われつつ叛逆者とされた物部。
真偽を問わず氏永の子孫を自称する武将がいても不思議は無いかと。
0687人間七七四年
垢版 |
2022/01/11(火) 13:31:20.12ID:20MALlqO
武蔵千葉氏と千田千葉氏と篠田氏

市川と武蔵千葉氏を結ぶ線(第二次国府台合戦後)
今回は市川の中の西に存在する妙好寺の伝承である。
千葉氏の家臣で千葉氏一族で千田氏(千葉氏)の孫とされる篠田雅楽助清久が
1565年に創建されたという。(武蔵千葉氏は雅胤(胤宗)の時代。)
さらに伝承では第二次国府台合戦の功績でこの地を北条家臣だった上記の篠田氏が
領したとされる。注目するのは篠田氏が千田千葉氏の庶流であること、この頃北条氏の
傘下で会った下総千葉氏、高城氏の地で別系統の北条家臣の篠田氏(千田千葉氏)が
その地で知行を得ている事。

では篠田氏と武蔵千葉氏は繋がるか。これは志村城の伝承によって繋がる。志村城は
武蔵千葉氏が武蔵国に移動した際に城主を千葉信胤にしている。信胤がどんな人物かは
不明であるが、別の城主で上がる名が篠田氏である(志村城は別名篠田城)。信胤は
実胤自胤の弟かとも言われているが、もし篠田氏と武蔵千葉氏に関係が証明されれば
信胤は千田千葉氏である可能性もあり、千田千葉氏が武蔵千葉氏に従い一時志村城を
収めていたことになる。(この仮定論では武蔵千葉氏の自秀が千田千葉氏の養子に
入っていたのではと見ている)

また篠田雅楽助という名は平柳蔵人と並んで第二次国府台合戦の戦死者で見える。
清久とは親子であろうか。平柳蔵人は現川口の豪族で太田資正の家臣と見られている。
以前に書いたが仮定論としては武蔵千葉氏は北は岩槻城、東は葛西城から臼井城までも
収めていて、岩槻城は太田資頼によって切り取られ、下総は第一次国府台合戦で喪失
しているのではないかと見ている。そして資正時代には上杉謙信による関東攻め、
関東幕注文においても多くの武蔵千葉氏配下が離反してることが窺える。資正はかなり
武蔵千葉氏所領に食い込んでおり、当時資正と雅胤、また康資と雅胤がどのような
関係だったかは非常に興味深い所である。また謙信・資正に従ったものたちも足利義氏
や武蔵吉良氏ほどではないものの武蔵千葉氏の名の威光は無視できないものであったと
見たい。資正康資追放後、またこの地は再編され、ある種で円滑に戻っていることから
それは想像できるのではないだろうか。(義氏家臣としても武蔵千葉氏家臣としても)
そして平柳氏は第二次国府台合戦時には北条方(篠田氏は離反していないと見る)として
戦死してるのではないだろうか。それぐらいあちらこちらに従っていたのではないかと
考える。またこの時、高城氏の所領中に篠田氏の件から千田千葉氏武蔵千葉氏が再度
入り込んだのだと見たい所である。

それから雅胤の娘婿で武蔵千葉氏を継いだ北条氏繁の子直胤(胤村)の時代も史料は
ほとんど残っていないが武州農民弥五郎所蔵文書において千葉領として大田窪や淵江郷
が見える。異本小田原記で石浜を没収されたとあるが、所領帳から後年(1581年)でも
足立や埼玉南部などを所領していることが分かる。激動の流れの中でも所領は失われず
大道寺氏や当然江戸衆の遠山氏とも並び武蔵吉良氏の様に別格な存在として秀吉の
小田原攻めを迎えたことを物語っているのではないだろうか。
0688人間七七四年
垢版 |
2022/01/16(日) 00:51:26.06ID:LlOgtbND
板橋親棟と武蔵千葉氏

板橋親棟が壬生氏客将として移るのが壬生氏独立期だとすると16世紀初め頃の
生まれか、守胤や憲胤の時代に生まれたか。仙台藩士になった板橋氏の系図に
板橋高胤、行綱兄弟がいる。綱の文字から氏綱時代と考えると同時代の人物だろうか。
胤の字から武蔵千葉氏との関連も感じられる。もうひとつが弟行綱(別家設立)の
行の字に注目する。まず板橋親棟の父は親盛とされ、子に行常と親恒。通字が親と
推測できる。が、親棟と一緒に壬生氏に渡った嫡男が行常であり、その子は
行高である。また親恒の恒が常の可能性もあれば親の他に行と常を用いていることが
感じられる。と、なれば板橋高胤は武蔵千葉氏の血縁者、弟行綱は親棟の近親者と
見れないこともない。高胤のその後の子たちは胤を用いる。ただし伝承では佐倉千葉氏
家臣であるとされる。
0689人間七七四年
垢版 |
2022/01/20(木) 02:08:25.28ID:L9Fmhnq6
1513年から1544年の武蔵国の情勢を知りえる僧「称念上人」
0690人間七七四年
垢版 |
2022/01/26(水) 09:27:58.70ID:+OyGlwwf
北区の堀之内(現:王子、梶原、滝野川、飛鳥山?)と梶原氏をどう見るか

まず梶原氏だが、景時の後、武州南の一揆の時期に名が見え、大石氏との婚姻が
あったとされ、八王子の寺社に名が見えることからその地方に所領を持ってたと
される説がある。また小田原所領帳で馬込の地を治めている。伝承では氏直の
家臣とされるが、時代から見て氏直以前から従っていると見れる。同時期に
あたるのか義氏の家臣として太田資正の子が梶原未亡人の養子になり梶原の名を
頂いている。その前から梶原氏は古河公方家臣として存在してる。
同系統か別系統かは不明。すべて同系統であれば八王子から馬込に移った理由、
同時代に梶原氏がいるのに未亡人の養子に入り急に太田氏が継ぐという事例など
どういったことあったであろうか。すでに資正に離反の疑いがあり懐柔の意味が
あったか。

そして堀之内にあったとされる資正の子政景が居た梶原館はどのような存在だろうか。
1、元来からその地の豪族だった。ただしこの地域は豊島氏の支配する地だったので、
道灌の豊島氏討伐中または後に道灌と梶原氏の間には関係が所領をあり持ったか。
2、義氏家臣化にともないの政景時代からの所領、近くの平塚は義氏が所領しており
元はその地も収めていてその一部から授与されたか。
3、資正の謀反の折に、攻め取ったか。所領帳では康資の所領になっており、奪い一時
前線を確保したか。葛西城の奪い合い同様太田氏同士での争いがあったか。
4、伝承の誤り。近くの寿徳寺には鎌倉時代の梶原氏、家臣早船氏小宮氏の伝承があり、
混同したか。ただし風土記稿豊島郡条にはそのように書かれている。
少し余談になってしまうが、川口市(浮間、赤山康資所領)の古峯神社の19世紀中期の
碑に元亀天正期において16世早船氏が土着と書かれている。そのまま受け取れば上記の
早船氏か。永禄の間違いであれば梶原家臣として移住したか。または資正康資追放での
再編での移住か。また伝承が早船氏と小見山氏と混同した可能性もあるのかもしれない。
小見山氏は太田資清(道真)時代から川口市(安行領根岸)を同じくを治め、資正政景
親子に従って柿岡に移った者も輩出した。

ここから少し小見山氏についての仮定論。黒田先生の著書でも書かれるが、小見山氏が
古くから岩槻太田氏の家臣だった話に仮定論を書きたいと思う。まず前提の根拠となる
のが足利政氏から太田美濃に送られた書状となるが、そこには小見山氏の淵江での違乱
について書かれる。送られた時期は政氏が久喜で隠居していた時期、また義明が独立
した時期と見られる。仮定論ではこの時期武蔵千葉氏は足利義明に付いたと見ている。
上記の通説の書状による太田氏と小見山氏の主従関係だが、義明と下総井田氏との
関係を重ねてみたい。義明は原胤清への嫌疑への対処を井田氏へ書状を出している。
一点目が下総千葉氏へではない、二点目が原氏と井田氏に主従関係がない。つまり
公方方からの独自の命令系統で、隠居後の政氏にしても自分につくだろう者に命令を
下しただけの可能性があるのではないだろうか。またこの時下総千葉氏は義明方の
ように見えて、そうではない形がまた武蔵千葉氏が義明方でありながら政氏との関係も
あり、政氏も武蔵千葉氏ではなく、その元に居る小見山氏の名をあげているのでは
ないだろうか。二つのケースは非常に似たものではないかと考える。この時期
太田氏は渋江氏、小見山氏と争ってると見て、岩槻までが武蔵千葉氏方だったと
見ることができるのではないだろうか。書状は太田氏が岩槻を手にする前の時代の
可能性もあり政氏は義明派の武蔵千葉氏の岩槻や川口の勢力を敵視し、共通の敵
として扇谷上杉家臣の岩槻太田氏に書状を送ったのではないだろうか。
その次に江戸まで迫っている後北条氏が絡むことで複雑化しているのではないだろうか。

それから小見山氏は代々川口の日蓮宗妙蔵寺に所属している。だが、明応7年
(1498年)の小宮山三郎の死去は松戸の本土寺に記載されている。これは道灌死後、
義明台頭の時代において松戸が武蔵千葉氏方だったと考えられるのではないだろうか。
0691人間七七四年
垢版 |
2022/01/28(金) 10:34:59.08ID:oZ6KMqKp
>>690
黒田先生とこんなとこの落書きなら普通に黒田先生を信じるわ
ってか誤字とかひどくてイラっとする、少しは読み直せよ、あとまず長い
0693人間七七四年
垢版 |
2022/02/26(土) 16:07:39.02ID:NFiG+Ly+
三鷹市の麻生屋敷ってどうなの?
0695人間七七四年
垢版 |
2022/03/15(火) 14:57:51.32ID:ZJ2f8ZXa
>>690
長いなあ・・・
梶原未亡人かあ
0696人間七七四年
垢版 |
2022/03/20(日) 19:31:11.32ID:xMW3eUGs
大田区・川崎市に行方弾正
町田市に島崎次郎館(島崎屋敷)
三鷹市に麻生屋敷
公方方について常陸から入部したか?
0697人間七七四年
垢版 |
2022/03/24(木) 22:52:24.71ID:bn28w5Yz
三鷹市中原の中嶋神社に慶長3年の棟札があり柴田三右衛門・麻生弾正の名が見え
三右衛門の子孫は柴田勝家の孫、弾正の子孫は甲斐から来たと伝える

麻生弾正でググると千葉氏のページがヒットして山室氏などと共に名がある
他に上総国埴生郡にも麻生郷があると

ちなみに山室譜伝記の作者が行方光広で
井田文書を所蔵する神保家は行方系譜(楓軒文書纂)も所持している
井田氏と行方氏の関係もよくわからないな
0698人間七七四年
垢版 |
2022/05/08(日) 21:48:19.19ID:th4bIgqp
このスレ戦国板のなかでは群を抜いてレベル高いんだけど、出典を示さないのがよくない
先行研究は論文名、史料は出典と史料番号くらいは書く、史料は可能なら引用するくらいはしよう
0700人間七七四年
垢版 |
2022/05/16(月) 18:32:39.32ID:qq7lqg2l
都立園芸高校にあったという深沢城主の南条氏に詳しい方居ませんか?
0701人間七七四年
垢版 |
2022/05/23(月) 22:03:33.87ID:9r7X2BuC
麻生郷があったのは下総国埴生郡で今の安食らしい
0702人間七七四年
垢版 |
2022/05/23(月) 22:26:16.87ID:KHwhiWRu
東京都の中世史研究は遅れてる
0703人間七七四年
垢版 |
2022/05/23(月) 23:18:50.27ID:tQgqBk4c
>>702
一口に「中世」と云っても長期に亘る。
何を以て「歴史」とするかも容易に定め難い。

今、板の主旨に沿って「戦国時代」、スレッドの題目に拠って「武将」の動向と限定すれば、
東京都域に係る研究が他県のそれに比して遜色あるものとは思われない。
具体的に何が「遅れている」と感ぜられたのだろうか。
0704人間七七四年
垢版 |
2022/05/24(火) 00:34:32.07ID:6q9zNls0
うるせえよハゲ
0705人間七七四年
垢版 |
2022/05/24(火) 00:38:41.09ID:tNB51zAE
やっぱりお前か。
ここにもお前の居場所は無い。
巣に帰れ。
0706人間七七四年
垢版 |
2022/05/24(火) 00:45:15.77ID:qh97nZqc
東京という区画で中世史研究をすることは基本的にないから少ないように見えるのは当然では、探し方が悪いんだと思う
それは差し置いてもほとんどの市区町村で自治体史作ってるし博物館・史料館も大量にあるから十分多いよ
さらに言えば東京の中世文書や碑文など含めても未公刊のものはもう全くないのでは?
0707人間七七四年
垢版 |
2022/05/25(水) 00:46:23.42ID:9v5a1cd6
北条遺臣の家文書は探せばもっと発掘出来そうだがな
旗本・御三家重臣として続いてるのに文書の1通も持ってない奴らって偽子孫なんだろうか
0708人間七七四年
垢版 |
2022/05/25(水) 01:01:35.24ID:+Qp3cHIo
>>707
それだけで偽とは断定できないだろう。
地震、水害、火事、内戦、空襲、財閥解体、再開発、相続税、
…と、この列島には災害が実に多い。
古文書などいつ失われても不思議は無い。
特に明治以後については、災害群を耐え抜いてでも保持するだけの価値が北條関連文書に認められていたかどうか。
0709人間七七四年
垢版 |
2022/05/25(水) 01:04:17.17ID:9v5a1cd6
所領役帳の書誌学もなされてない
諸本の奥書にある書写元のほうが手付かず
翻刻されてるのも校訂に利用されてるのも1800年代の写本で1700年代の写本がほったらかし
現在出回ってるのは加賀美遠清が1782年に写したものの曾孫・玄孫みたいな写本
1711年に谷口博古斎が鈴木氏本を写したというが両方不明
田沢義章の略考が1737年成立だがこれの種本も不明
1860年に焼失する金輪寺本を直接写したという三枝本もどこにあるのやら
0710人間七七四年
垢版 |
2022/05/25(水) 22:40:10.23ID:344Ivl7G
幕府や諸藩は家臣の系図・伝来文書を差し出させて独自に纏めてる
文書の1通も持ってない奴らが仕官できて子孫ヅラして、今ではその胡散臭い家の系図が参照されてる
0711人間七七四年
垢版 |
2022/05/25(水) 22:48:34.16ID:9i9lg2GG
>>710
仕官先が認めて禄を与えてたんだからお前さんが文句を云ったって始まらない。
羨ましいのか?
職に就けないヒョー餓鬼の妬みか?
0712人間七七四年
垢版 |
2022/05/25(水) 22:59:38.37ID:epP7c11e
Twitterで村レベルまで詳細に詰めた関東の戦国大名や藩の領域地図を作ってた人いたけど、あれどうやって作るんだろう
東京の中世史でもそういうの作ったらいろいろ捗りそう
0713人間七七四年
垢版 |
2022/05/26(木) 00:31:51.86ID:dBrcocXv
>>712
ここでもかなり詳細に作ってくれた人(例えば>>565)がいたが、あれでも不足かな?
0714人間七七四年
垢版 |
2022/05/28(土) 23:51:15.17ID:6cRJ3mK/
蘭学者の宇田川家って中世の宇田川氏の子孫なのかな?
0715人間七七四年
垢版 |
2022/05/31(火) 23:58:01.29ID:XiTcZNH2
蘭学の宇田川は津山(岡山)出身
0716人間七七四年
垢版 |
2022/06/01(水) 23:05:36.44ID:pmaHrgp0
>>711
偽子孫が江戸時代に作った偽系図を有り難がらないと妬んでることになるのか?
0717人間七七四年
垢版 |
2022/06/01(水) 23:14:14.21ID:pmaHrgp0
名家コレクションを競っていた諸藩に現代人の俺が文句をいっても意味がない
しかし系図・由緒書・過去帳・位牌を研究材料とする際には一線を引くべきだろう
0718人間七七四年
垢版 |
2022/06/02(木) 00:20:06.13ID:dUzHZZi2
>>716 >>717
ナイーヴと云うか、餓鬼と云うか。
お前、事実はそのまま事実だと思ってるだろ?

事実は世間によって事実であると認められることによって事実となる。
これが現世の現実だ。
嘘だろうが偽だろうが雇用主が事実と認めて雇用した、
それを当該の家中も受け入れた、
同時代のメディアもそれを定着させた、
その時点でそれは「事実」として確定したんだよ。
0719人間七七四年
垢版 |
2022/06/02(木) 00:39:22.00ID:Rr/rVrbf
ユキムラチャンネルでも観て落ち着け
0720人間七七四年
垢版 |
2022/06/02(木) 00:50:14.77ID:dUzHZZi2
>>719
所詮は文献の重箱の隅を突っつくことが「研究」だと思い込んでる人文系はそれぐらいで満足しとけって云う皮肉だよ。
「真」とか「偽」とかを口にするんなら、問答無用の物証と数値データ、この場合ならDNA鑑定結果ぐらい持って来いよということ。
それが不可能ならヴィトゲンシュタインの箴言に従って沈黙しろ。
物事が真実である、或いは虚偽であると論じるのはそんなに安易で簡単なことじゃない。
文系脳はあまりにも軽薄に真偽を語り過ぎる。
0721人間七七四年
垢版 |
2022/06/04(土) 23:19:26.96ID:WAkujMsW
>>718
雇用主が認めたから信憑性ゼロの史料も正しいものとするキリッ

バカは絡んでくるなよ
0722人間七七四年
垢版 |
2022/06/04(土) 23:20:42.47ID:WAkujMsW
>>720
頭悪いなあこいつ
0723人間七七四年
垢版 |
2022/06/04(土) 23:22:05.39ID:WAkujMsW
偽物だというならDNAで証明しろドヤ

アホか
0724人間七七四年
垢版 |
2022/06/30(木) 17:56:47.59ID:rO3g9zIF
YouTubeで人気のユキムラチャンネルで
北条家の勃興を伝えてる中で
観音寺砦というのが
東京埼玉のどこにあるのかぜひ知りたいです。
0725人間七七四年
垢版 |
2022/07/01(金) 00:17:27.58ID:ZWD4+DD7
武蔵国の国人

江戸氏、太田氏、深谷氏、宅間氏、大石氏、一色氏、
金子氏、吉良氏、佐々木氏、豊島氏、渋川氏、成田氏、
三田氏、難波田氏
0726人間七七四年
垢版 |
2022/07/01(金) 00:39:11.26ID:4TjsTIja
>>724
たぶん八王子の南清山一乗院観音寺
そこが砦だったか、争いがあったかも知らないけど
0727人間七七四年
垢版 |
2022/07/07(木) 00:23:18.02ID:WWip+MWl
糞 投稿者:うあー (5月5日(金)20時35分43秒)

俺はドライバーやってんだけど、ある田舎の国道沿いにある河川敷みたいなとこで急に糞したくなったんだけど、周りに便所も外灯もない。
しょうがねぇから、林の奥に行って下だけ脱いで(野グソは慣れてねぇから汚さないように)ふんばろうとしたら、いきなりライト当てられた。
警官かと思ったら、どうやら発展場みたいになってるらしく、林の中に車が止まっていてお仲間が盛ってたらしい。
いきなり俺が下半身マッパで糞してるもんだから、面白がってライトつけたまま笑いながら見てやがる。
最初は「おう! 止めろ! 明かり消せや!」って怒鳴って見たけど、全員ニヤけながら俺のケツに注目してやがる。
しかも離れたとこに置いておいたズボンを誰かが持ってて返そうとしない。
俺は糞してぇのが我慢できなくなって、自棄になって野糞を公開することにした。
「勝手に見てろ!アホ!」
怒鳴りながらしゃがんで力むと、「ブリ プスー ブババー」とデカイ音出しながら一気に切れのいい糞をひり出した。
周りの連中に「クセぇ でかいの出たな」とか「尻尾みてぇに糞がぶら下がってる」とか囃し立てられて、すげぇ恥ずかしかった。
0728人間七七四年
垢版 |
2022/07/20(水) 21:32:42.67ID:VYnmCU/5
親愛なる大スレの諸君よ・・・「大のシコり党」を勃ちあげたいんだがどうだろう・・・?
教祖「大」を中心に参謀に俺・・・そして大や俺の信者を中心に「大のシコり党」を発足させ、大のシコりや救済の素晴らしさを世界に広めていきたい・・・
どうだろう・・・?協力してくれないか・・・?
0729人間七七四年
垢版 |
2022/07/30(土) 14:25:00.40ID:iQ64HBgM


ご無沙汰しています。 やっと時間がとれたので
温泉旅行の感想文をお送りいたします。
 自分はホントに久々にノンビリ癒されました、美味しい魚料理とイケメンの褐色ボディがセクシーファッションで長時間のエスコート、ホントに楽しかったです。
拓也さんと長時間色々お話して、拓也さんの人としてのカッコよさに気づき、余計ハマッチャいそうです。
 このあいだ癒されたばかりなんですが、早くもイケメン拓也のナイスボディがチラついてます。
 早くお会いしたいです。
0730人間七七四年
垢版 |
2022/08/05(金) 15:21:12.82ID:2xnBrjQ2
>>726
ありがとうございます。やはり寺院などに該当するんですね。
最近は埼玉の川越、狭山、所沢、入間あたりの城跡を探してましたが、東京もまだありますね。
0733人間七七四年
垢版 |
2022/08/13(土) 14:23:35.95ID:C5hRGOtD
幕府の御家人、太田南畝が支配勘定を勤めたいた頃、玉川巡視の出張の際し国分寺の恋ヶ窪に立ち寄り恋ヶ窪の土豪だったという先祖の痕跡を探したが遺物はおろか土地の者の口伝すらなかったというからな。まあそんなもんだろう。
0734人間七七四年
垢版 |
2022/08/15(月) 17:29:48.19ID:t1sKnvEa
小田原北条旗下の岩附の侍大将の宮城美作って足立区の宮城が本貫地?
0735人間七七四年
垢版 |
2022/08/28(日) 19:36:58.74ID:4e8MdFMP
野球選手って何でデブが多いの?
あんなダルな体つきでスポーツ選手なんて冗談キツい
0736人間七七四年
垢版 |
2022/08/30(火) 00:28:08.75ID:iTDTaSLK
>>726
砂久保の南部、白子(和光)の西部
この辺りになるんじゃ?
0737人間七七四年
垢版 |
2022/08/30(火) 15:54:57.70ID:POZ7ThBK
ユキムラチャンネルの河越夜戦の動画だと、所沢市あたりみたい、、
0738人間七七四年
垢版 |
2022/08/30(火) 16:00:13.17ID:Yp7aYAL3
最近いくつかのスレでYUKIMURAチルドレンが暴れてるのを見るな
0740人間七七四年
垢版 |
2022/08/30(火) 22:39:26.72ID:iTDTaSLK
提供も何もしないで文句言うより、よほど良いと思うが?
0741人間七七四年
垢版 |
2022/08/30(火) 22:44:36.20ID:7w7sTD6F
嘘偽りで金儲けするのが良いと思えるならそれでいいんじゃない
0742人間七七四年
垢版 |
2022/09/19(月) 23:26:05.40ID:FJZnYnJu
中条出羽守の人へ
1628年2月9日付「里見吉政戦功覚書」に
未(1583年)の霜月廿八日、江戸の遠山の同心中条出羽守が敵に討たれたとき
首は取らせまじと遺体を奪い返したとある

覚書の中身がどの程度信用できるかはわからないが
この里見吉政は1551年生まれで長野氏に仕えた箕輪の里見衆
氏照、氏邦、滝川一益、安中氏、北条氏、牢人上洛、浅野長吉、井伊直政と主を変えて
彦根藩で1千石を知行して鑓奉行を勤めた人物ということらしい

竹井英文「館山市立博物館所蔵「里見吉政戦功覚書」の紹介と検討」に全文翻刻
北条を称したことがないといわれる氏邦を「北条安房守」と記す
0743人間七七四年
垢版 |
2022/10/26(水) 08:34:56.06ID:Ag7SLTYt
>>714
初代は小台村から江戸へ出た
0744人間七七四年
垢版 |
2022/12/31(土) 12:37:10.08ID:refSGrRf
北条氏康拉致
https://i.imgur.com/b7TPi9d.jpeg

北条氏康が宣戦布告されて
少勢の上杉朝定に攻撃食らって
城アイコンが点滅すると あと3日で士気は尽き果てる
その時の氏康の苦しむ姿にドキドキするって
関八州凌辱だぜ!
マスクかぶった拓也ゎ前見えねぇし
息ゎ苦しいし
氏康の最期の小田原城ゎ30日以上にわたり
絶対負けるはずのない北条家が倒れる
そんなのあり得ない!
力尽きた氏康が犯される
マヂ苦しい
飢えと屈辱で死にそう
力が入らなくなった氏康の股が大きく開かれて
小田原城に上杉朝定が容赦なく突き刺さる
0745人間七七四年
垢版 |
2023/02/19(日) 01:50:19.67ID:zKLERkZC
オーダニやWビシなどのやきう報道でやたらと世界ガー世界ガーと煽るのがメディアの傾向ですが、バスケサッカーなど本当に『世界』で活躍する選手をまともに報じない理由が分かってきた。
それらをまともに報じてしまうと、やきうの世界的不人気、大会の薄っぺらさが露呈してしまうからなんだなと
0746人間七七四年
垢版 |
2023/06/17(土) 22:59:58.86ID:uHUOXC+I
一般人の性犯罪は糾弾するのにジャニーズややきう選手の性犯罪には言及しない。
ロシアスポーツのドーピングは糾弾するのにドーピング検査をまともにやっているかどうかも分からないやきう界は言及しない。
なのにやきう選手の活躍は大々的に垂れ流す。
そういうダブルスタンダードが嫌いなんですよ
0747人間七七四年
垢版 |
2023/07/06(木) 12:43:48.88ID:eEkuWjUb
エロマッチョ。エロマッチョ。エロマッチョ。エロマッチョ。エロマッチョ。エロマッチョ。エロマッチョ。エロマッチョ。エロマッチョ。エロマッチョ。エロマッチョ。エロマッチョ。エロマッチョ。エロマッチョ。エロマッチョ。エロマッチョ。エロマッチョ。エロマッチョ。エロマッチョ。エロマッチョ。エロマッチョ。エロマッチョ。エロマッチョ。エロマッチョ。エロマッチョ。エロマッチョ。エロマッチョ。
0748人間七七四年
垢版 |
2023/07/27(木) 17:49:57.21ID:lhJlb3Az
北条分限帳に出てくる現23区の郷村で3ケタ貫高は青戸、平井、小岩、篠崎、芝崎(将門塚のあたり)、渕江(足立区本木)
城の近くが多いし、地域的には葛飾・江戸川が多い気がするけど他にもあるかな
0749人間七七四年
垢版 |
2023/07/27(木) 17:55:24.71ID:lhJlb3Az
直近の「歴史人」では北条時代の江戸近辺についてうまくまとまった地図掲載されてたな
0750人間七七四年
垢版 |
2023/08/01(火) 00:22:40.18ID:8PNhtesL
REVELATION
資金源/コング
フロント/天下り/右翼思想
フィクサー/集団ストーカー/ハッキング/盗聴/盗撮/家宅侵入
汚職/集団ストーカー/ハッキング/盗聴/盗撮/家宅侵入/揉み消し
揉み消し加担
0751人間七七四年
垢版 |
2023/08/12(土) 15:44:58.78ID:f0KajxXd
東京というと豊島さんのイメージだわ
0752人間七七四年
垢版 |
2023/12/05(火) 23:37:06.71ID:0CXdv+Pi
>>742
この中条出羽守の討死、普通に小田原記に載ってた
「佐竹対陣并上州退治の事」討ったのは由良の侍大将大沢甚兵衛
全然新事実じゃないけどこの学芸員大丈夫かと

・子孫の家に伝わるのは江戸期の文書で戦国期やそれ以前のものは存在しない(覚書そのものも子孫に伝来していない)
・12条からなる関東時代の戦功・逸話を記すがそれらを裏付ける一次史料が存在しない(軍記と関連する逸話はある)
・関東時代の同輩として彦根藩の同僚・その近親は登場するが直属の上司(第3条の武者大将など)の名は記さず不明
・秀吉の九州攻めで通説と一致しない記述があるが、里見吉政覚書と一致するのがやはり江戸期成立の豊前覚書(城戸清種が父豊前守知正の事績を記す)
同時代史料から表れる世界と、覚書・由緒書・軍記・系図に描かれる世界とが交わらないパターン
0753人間七七四年
垢版 |
2024/01/02(火) 21:17:48.08ID:4pIex76Z
>>748
惜しい…。
我が地元の小榑(大泉・他)は九十八貫文だ。
あと二貫文。
兄弟村の保屋(下保谷)と併せた貫高なんで片足は多摩に踏み出しているが。
 
0755人間七七四年
垢版 |
2024/01/13(土) 01:50:43.69ID:2NO3ttD3
>>751
俺の出た高校は豊島さんの石神井城を落とす為に太田さんが構えた陣所の跡地に在った。
 
0756人間七七四年
垢版 |
2024/01/18(木) 21:57:31.90ID:xVjs4xou
自分のご先祖様も戦国期、多分半農半士だった武蔵国の豪族の一員です
0757人間七七四年
垢版 |
2024/01/18(木) 22:11:08.62ID:LUjlhAl6
>>756
武蔵國は徳川直轄領が多かった。
一朝事有る時の潜在武力として期待されたか、
それとも北條の遺制を丸呑みした故か、
戦国期が過ぎても武装農民の実態は基本的に中世と変わらず幕末まで温存された。
新選組や秩父困民党を生み出した背景と云われる。
 
0759人間七七四年
垢版 |
2024/02/11(日) 02:24:27.94ID:FPeLgo/Z
近隣なんで年に何回となく訪う石神井城址にまた行ってきた。
行政によって封鎖されながら武蔵野の落葉広葉樹林に還りつつある。

瀧ノ城址のように神社等として転生した存在。
世田谷城址のように都市に埋もれて消え行く存在。
そして江戸城址のように政治利用され続ける存在。
東京の城址の現在は様々だが、
「ツハモノ共ガ夢ノ跡」として幸福なのは、或いは自然なのは何れだろうか。
 
0760人間七七四年
垢版 |
2024/03/07(木) 15:45:01.31ID:nu6c4ejU
東京の城で検索したら麻生屋敷というのを見つけ、チャリで行ったけど、やや勾配のある土地だったけど、真上に中央高速があってよく分からなかった。
少し行くと、柴田勝家の子孫の墓がある。
レスを投稿する


ニューススポーツなんでも実況