【無名】東京の武将たち【知りたい】 [無断転載禁止]©2ch.net
古くはレジェンド東京”武蔵武芝”、
時は過ぎて、その後の”戦国時代”、
武蔵国の内の多摩郡、荏原郡、豊嶋郡、足立郡、葛飾郡
に関連が深い東京武将たちを語りたい。
1千葉利胤
2三田綱秀
3吉良頼康
4太田康資
5大石定久
6宇田川定氏
7宮城政業
8牛込勝行
9板橋親棟
控え
豊島康保、豊島胤定、板橋忠康、小田朝家、小山田弥三郎
平山氏重、渋川義基、舎人経忠、舎人孫四郎、梶原助五郎
the北条
北条綱高、北条康種、高橋氏高、高橋高盛、南条重長、
遠山綱景、富永直勝
the徳川
板倉勝重、豊島信満、etc.
よろしくどうぞ。 小田原衆所領役帳なら
東京都港区飯倉で御馬廻衆の大草左近大夫康盛と
江戸衆の飯倉弾正忠、島津孫三郎 間宮綱信、梶原日向守、立川照重、斉藤政賢、細谷資道、
関兵部丞為清、山中内匠助頼次、伊丹右衛門大夫康信、
長井駿河守忠実、近藤出羽助実、小幡勘解由左衛門政勝、
桑原右京亮、上原出羽守、山下治部少輔、蒲田助五郎、
横地監物吉信、狩野一庵、金子三郎右衛門家重、貴志兵部正成、
青木内記庄右衛門、来住野善二郎、藍原孝遠、佐伯道永、有山源右衛門、
永島八兵衛、中島源右衛門、石川土佐守、島崎二郎、
柴田勝重、岡部小二郎 太田真清、中条景信、河村弥次郎、小菅信久、興津甚次郎、
越智影好、森康秀、小野兵庫、田中助八郎、窪寺大蔵、平川左衛門、
蔭山大膳、山下治部、鴇田新三郎、牟久新次郎、小日向弥三郎、
綾部惣四郎、吉原新兵衛、石井兼実、萩野九郎三郎、良知弥次郎、
林光政 そういや安得虎子はなにか新情報でた?
個人的には六郷殿呼ばれたのは
上杉憲幸か蒲田致重なのかわからねぇかな でもそれはそれで六郷「殿」や「殿」町の家格に見合う人物が
謎なんだよなぁ 所領役帳に殿と書かれてる人物に特別な格ないような気がする 所領役帳で殿と書かれてる人物
北条一門
六郷殿(小田原衆)
武田殿(江戸衆)椎津武田氏
大森殿(江戸衆)
千葉殿(江戸衆)武蔵千葉氏
宅間殿(御家門方)宅間上杉氏 江戸、川越、入東郡、入西郡、高麗郡、葛西、六郷、稲毛、久良岐、小机、三浦、東郡、中郡、西郡、豆州
所領役帳は郷村が国・郡・領で識別されてるけど
六郷という地域に後世には伝わっていない戦略的な価値があったんだろうか もしかしたら品川湊とは別に重要な湊があったとかかな
今は京浜港だし、あとは吉良氏、江戸氏の抑えとか?
まぁ六郷殿が江戸氏なら抑えも何もないけど >>116
変わらないと思う。大田区の南のあたりで東京と神奈川の県境。
多摩川(六郷川)の河口の近くだと思う。 大田区の区名の元になった大森・蒲田を含んだほぼ大田区全域 港と言えば小田原征伐で江戸朝忠が下田城に援軍としてだされたのは
吉良氏の海賊衆みたいなものだったからみたいだね グーグルって便利だな
永正年間の山内上杉氏の家臣に六郷左衛門大夫という人物がいるようだ
この六郷左衛門大夫は書札礼の種本(足利政氏や佐竹殿庶子に対する書札礼)を所持していて
近藤山城入道(近山)がこれを書写して里見家の書札礼(里見家永正元亀中書札留抜書)を補ったらしい
所領役帳の六郷殿は六郷左衛門大夫の子世代だろうか
上杉氏や里見氏のスレで詳しい人に聞くといいかも >>121
六郷氏自体は蒲田氏と同じく武蔵江戸氏の分家にいます。
ただ六郷殿がそのまま六郷氏かはわかりません。 中田加賀守
小机衆。「所領役帳」では小机川島11貫550文・同矢上3貫870文の計15貫420文を知行。
1572年11月、雲松院の寺領鳥山の検地奉行(中田加賀守)
中田加賀守(〜1590)
足利義氏の奉行、のち小机衆。修理亮か。
1564年5月、公方奉行として野田氏への所領引き渡しに立ち会う(中田修理亮)
1581年カ4月、北条氏光の指示で星川氏に米一人扶持を支給(中田修理亮)
1585年9月、小机領恩田郷の検地奉行(中田加賀守代柴崎但馬)
1590年3月、上丸子郷と沼部郷の境界相論に小机衆の検使として立ち会う(中田加賀)
1590年6月、没(随流院墓碑「昌久道繁居士・天正十八庚辰六月十五日、俗名中田加賀守」)
中田藤左衛門(〜1635)
加賀守の次男という。北条氏の滅亡後帰農し子孫は代々小机領川島村の名主。
1635年6月、没(正観寺墓碑)
中田藤次郎
江戸衆。「所領役帳」では稲毛子母口15貫180文を知行。
中田彦七郎
江戸衆。太田康資の寄子。「所領役帳」では康資知行から稲毛鹿島田借宿2貫500文・同小田中1貫200文の計3貫700文が中田某に給されている。
1561年8月、北条氏尭によって稲毛庄木月郷の彦七郎らの所領が市野氏に与えられた(中田彦七郎幷賀藤分) 興津加賀守
江戸衆。「所領役帳」では江戸落合20貫570文・同桜田30貫700文・同小日向12貫946文の計64貫216文を知行。
興津甚兵衛尉
足利義氏の奉行。「所領役帳」で東郡葛原10貫文の知行に加え御蔵出14貫文を給されている興津殿か。
1564年5月、公方奉行として野田氏への所領引き渡しに立ち会う(興津甚兵衛尉)
興津右近
1562年4月、葛西城攻略で武功を挙げ北条氏政より感状を賜わる(興津右近)
興津加賀守
江戸衆。
1590年3月、上丸子郷と沼部郷の境界相論に江戸衆の検使として立ち会う(興津加賀) 中田藤次郎(1559年頃)→中田修理亮(1564年〜81年頃)→中田加賀守(1585年頃〜)もあるか >>126
六郷四郎冬重は江戸重長の子(この重長は重継の子の江戸氏二代目の重長
とは別人、たぶん三代目忠重のこと、Wikiでは七代目)
兄弟に江戸太郎重盛、木田見次郎武重、丸子三郎家重、柴崎五郎重宗、
飯倉六郎秀重、渋谷七郎元重がいる
六郷氏の祖
蒲田氏
江戸正長の子、蒲田忠武が祖
御北条時代は蒲田致重や孫の重武
応永の頃に紀州熊野神社の御師が書き留めた「武蔵国江戸氏書立」では
六郷殿から始まり、蒲田、飯倉……と続く
この頃は江戸氏の宗家は力を失い、支流が台頭している
さらに後北条時代は蒲田氏が強く活躍している
上杉憲幸、氏幸親子
上杉憲幸は山内上杉氏のもとで武蔵北蒲田にあった城の城代を
務めていたという、妙典寺過去帳の当寺大旦那上杉六郎殿とある
氏幸は御牢人と記されるため、名ではなく敬称の六郷殿と
記されたとされる、ただし二人とも上杉系図にはいない でも六郷ってほとんど行方氏が知行してね
まぁこの行方氏も羽田に鎌倉時代からいるだの、山内上杉が常陸から
連れてきただの、扇谷上杉家臣だったの、玉縄にいただの…
ただ行方淡野守幸松が享徳の乱で上杉から感状がでてるみたいだから
北条からって感じではなさそうだけど、客分だし案外六郷殿&
上杉憲幸関連かもね
>>114
六郷神社なんかは平安時代からみたいだし、府中や八王子関連で羽田浦
(蒲田浦)はそれなり栄えてたようだ
あと行方氏は羽田水軍で玉縄衆 八丈島
朝比奈六郎知明
朝比奈孫太郎泰知
朝比奈泰寄
↓
板部岡江雪斎 太田康資の寄子入れたら収まった
興津加賀守
江戸衆。「所領役帳」では江戸落合20貫570文・同桜田内平尾方30貫700文・同小日向方12貫946文の計64貫216文を知行。
興津加賀守
江戸衆、太田康資の寄子。右近丞。「所領役帳」では康資知行から江戸下渋谷6貫500文が奥津方に給されている。
1562年4月、葛西城奪取の功で北条氏政より感状を賜わる(興津右近)
1562年カ8月、北条氏政に家屋敷等を安堵される(奥津右衛丞)
1590年3月、上丸子郷と沼部郷の境界相論に江戸衆の検使として立ち会う(興津加賀)
興津甚兵衛尉
足利義氏の奉行。「所領役帳」で東郡葛原10貫文の知行に加え御蔵出14貫文を給されている興津殿か。
1564年5月、公方奉行として野田氏への所領引き渡しに立ち会う(興津甚兵衛尉) 興津良信
どれかの加賀守の子、1542年生まれ、小田原籠城
子の良次は伊奈忠次に仕えた
太原雪斎の母が興津正信の娘で…
興津氏って今川から流れてきてるのね ヤン・ヨーステン・ファン・ローデンスタイン
日本名は耶楊子
耶楊子→八代洲→八重洲
東京八重洲の語源だと
1600年に豊後に漂着
三浦按針じゃない方w タイトル見て長尾景春の乱あたりの話ばっかかと思ったら
違って草 興津良信(甚左衛門)
興津良次(角左衛門)
検索したらぽんぽん出てきて「おぉ!」て思ったけど
>興津彦十郎(今川義元に仕へ桶狭間合戦に討死)―加賀守(今川氏に仕へ駿州興津に居る、其後北条氏に従ひ江戸城を預かる)―良信(小田原籠城す)
系図がこれだと信憑性低いかなあ
1610年に現役で幕府代官を勤めている甚左衛門良信が1542年生まれの68歳っていうのもどうかと
仮名の甚左衛門は加賀守より甚兵衛尉の縁者っぽいかな 寛永諸家系図伝の編纂過程であるとか所領役帳が世に出る前に作られた系図だと
桶狭間以前から北条氏に仕えていた興津加賀守は知られてなかったのかも 幕臣興津氏(1610年より前に幕府に仕えた)
系図「興津彦十郎(今川義元に仕へ桶狭間合戦に討死)―加賀守(今川氏に仕へ駿州興津に 居る、其後北条氏に従ひ江戸城を預かる)―良信(小田原籠城す)」
尾張藩士行方氏(尾張藩の前身の忍城主松平忠吉に仕えた)
系図「原信濃入道朗意(文明二年八月武州水判土にて逝去)……妹尾下総守蓮意(秀吉之軍と戦ひ武州岩築城二之丸戦死)―妹尾三河守(越前秀康君奉仕、法名信行院殿蓮頂日受)、弟行方修理大夫(武州荏原郡六郷之城主、北条氏政に属す)」
相馬藩士蒲田氏(1614年より前に土井利勝に仕えたのち相馬藩士となる)
系図「江戸四郎重継後裔江戸新五郎致重武州六郷蒲田に住す 、故に氏を蒲田と称す」「致重(下総守)ー定重(下総介)ー重武(左京亮)ー重吉」
妙典寺墓碑「蒲田下総守致重入道重蓮墓碑・慶長十三年三月二日卒・年九十余。五世孫兵庫重行謹建・元禄十二年五月二日」
上杉憲幸
妙典寺過去帳「大旦那六郷殿・清天院朗忠日杉・天文十二年壬子十月十四日」
高野山高室院にあった所領役帳が書写して持ち出されたのが1692年(元禄5)だから
これより前に子孫を称した者たちが所領役帳にしか見られない興津氏や六郷殿を知らないのも無理はないんだな
上杉憲幸・氏幸の過去帳が1692年以前に書かれたものなら六郷殿の信憑性高いんじゃない >>2
東京武士の流れ
笠原直小杵(国造一族)が南武蔵(亀甲山古墳や芝丸山古墳など)
に拠点。その後、武蔵国造の乱で敗北。
→多氷屯倉(武蔵国多摩郡)が朝廷直轄領に。
→无邪志(むさし)と知々夫(ちちぶ)の領地が合体。
武蔵国多摩郡(府中市)に国府設置。
→武蔵武芝(足立郡司)
支配 武蔵武芝→平将門→平将恒→(※)
→☆豊島氏・★江戸氏・△他→扇谷上杉・太田道灌
→後北条→徳川
※鎌倉幕府&鎌倉公方&関東管領
平将恒→平直方・源頼信・頼義(平忠常の乱、頼信平氏に婿入り)
☆豊島氏は源頼義・義家に従う
★秩父重継が後三年の役の後、武蔵江戸郷を領す
→源為義(義家次男の子)
為義は嫌疑の義忠叔父の義綱を捕縛、京へ(義家の三男義忠暗殺事件)
→源義朝(父為義とは逆に東国に下向)・藤原頼信(武蔵守、
嫡男信親と平清盛の娘が婚姻、義朝・義平とも近づく)
→源義平(義朝長男、義朝は上洛)vs源義賢(義為三男)
☆保元の乱で源義朝の配下に豊島四郎
★義平が義賢とその舅の秩父重隆(秩父重継の兄)を討ち取る
△平山季重が義朝軍
→源頼朝(義朝三男、清盛によって義朝、義平、藤原頼信が討たれる)
☆豊島氏は頼朝に仕えた
★江戸氏は初め対立するが最後は畠山氏、河越氏と共に帰伏する
その後、江戸重長が武蔵の在庁官人や諸郡司を統率して国の諸雑事を
沙汰する権限を与えられた。 →北条・畠山
☆承久の乱に幕府軍に豊島九郎小太郎、豊島十郎
★畠山重忠の乱で幕府方として参加
→足利尊氏・義詮・基氏・高師直・畠山国清
☆豊島重径、家信が北条仲時とともに自刃
☆★豊島氏、江戸氏など足利義詮の合流に伴って鎌倉攻めに参加
→足利直義・足利基氏・氏満・上杉憲顕・能憲・上杉朝房
☆★武蔵平一揆に参加
→足利氏満・足利満兼・上杉朝宗・上杉憲定
→足利持氏・上杉憲基vs犬懸上杉禅秀
☆★上杉禅秀の乱で豊島氏、江戸氏は足利持氏に味方
★水戸地方に江戸氏の所領が給付
△平山三河守正恭が公方方として活躍
→足利持氏vs上杉憲実(幕府)
☆結城合戦で小幡豊前守の首を豊島大炊介が取る(上杉方)
★結城合戦で江戸八郎の首を長井六郎が取る(結城方)
→上杉憲忠/扇谷上杉持朝・長尾景仲vs足利成氏
☆豊島弥三郎、豊島左近将監が戦功を挙げている
★江戸の地は江戸氏が去った後に太田道灌が進出(江戸氏没落)
→上杉房顕・顕定・扇谷定正・堀越足利政知・渋川義鏡・犬懸教朝
(上杉定正vs渋川義鏡・犬懸教朝)vs足利成氏・長尾景春
☆豊島氏当主泰経が景春に味方し太田道灌に敗れる(武蔵を去る)
→上杉顕定・堀越政知vs足利成氏・扇谷定正・伊勢宗瑞
→上杉顕定(vs上杉定実・長尾為景)・足利政氏vs扇谷朝良・伊勢宗瑞
→扇谷朝良・朝興・上杉憲寛・小弓足利義明・武田信虎vs北条氏綱
(上杉憲寛vs上杉憲政、小弓足利義明vs足利高基vs足利晴氏・北条氏綱)
→上杉憲政・扇谷朝定・今川義元・武田信虎vs北条氏康・足利晴氏
△平山政重が上杉に属す
→上杉憲政・扇谷朝定・足利晴氏vs北条氏康・今川義元・武田晴信
△平山氏は後北条に下り、戦死した政重の遺児氏重が檜原城主となる うちの近辺は徳川が来る前は新藤下総守が治めてたみたい >>141
興津氏って北条でどのくらいの地位なんだ? 江戸衆で言えば
遠山>富永>太田>島津>伊丹=小幡=朝倉=梶原>興津氏>etc.
って感じじゃね 江戸衆の検地奉行というから中級の実務系なんじゃない 右:千葉胤利
中:三田綱秀
三:吉良頼康
一:太田康資
捕:大石定久
DH:宇田川定氏
遊:牛込勝行
左:平山氏重
二:板橋親棟
投:江戸朝忠
控え(18人)
北条氏照、太田資正、遠山綱景、富永直勝、
高橋氏高、行方直清、師岡将景、長崎重光、
中条出羽守、渋川義基、上杉憲幸、本田正勝、
宮城政業、豊島経忠、島津永久、板倉勝重、
伊奈忠治、大岡忠真 武蔵千葉と下総千葉って別れてから仲違いしてたのかな。
胤宗が戦死したとき、江戸衆、小金衆、それから「臼井衆」が河から
攻めてる。
もしかしたら親胤が武蔵下総をつなごうとして暗殺されたとか
妄想してみる。 >>149
申し訳ない
削除)★水戸地方に江戸氏の所領が給付 板橋郷土資料館が武蔵千葉氏だしてるな
買って見ようかな >>153
黒田先生が公演にいらしたんだよ
俺見に行った >>154
ぶっはっ
うらやましいぃ
どんな話した? >>141
行方氏の本家なのに所領役帳に載ってない妹尾氏が六郷殿かも 舎人氏(足立)
有名なのは大道寺政繁の養子になった大道寺直英の実父で
舎人城主の舎人経忠
それから舎人土佐守重貞?の子?の太田資正の家臣で
資正の命を救った逸話で有名な舎人孫四郎(重長?)
この二人は甥(経忠)と伯父(孫四郎)の可能性あり
資正が氏康から離れたとき二つに分かれたか?
結局舎人の地はどちらが領したか…
舎人の地は両勢力の境のあたりなので…
それから平手政秀の生母が武蔵舎人城主の舎人三河守輝季(輝秀?)
の娘らしい
そして平手政秀の養女が産んだのが舎人八左衛門
この舎人八左衛門は沢庵和尚らしい
まぁよくわからんが…
補足で大道寺氏(直英)は福島正則の養子の正之の子直秀が婿養子になって
さらに津軽信枚の七男大道寺為久が直秀の婿養子になって幕末まで続いた 妹尾氏って千葉氏の家宰・原氏の末裔で行方氏の本家で北条早雲の親戚なんだね
凄いな
これは六郷殿だわ 太田家にも妹尾兼延や下総守がいたようだね。
行方氏関連では三河守か。
でもなんで早雲の親戚がなぜ太田に仕えるのだろう。
その後は結城氏に仕えるすごい家のようだけど六郷殿は薄いんじゃないか? >>154
2015年か知らなかった
なにか新しい話とかあった? 血縁と地縁の兼ね合いだな地元民の意向を無視しては家が成り立たないだろうし 東京は原島って苗字が多いらしい
原島善六郎
原島友安
原島孫二郎
原島新右衛門
原島新三郎
ここら子孫みたい 高坂甚内
甲州流忍者
徳川に雇われ風魔小太郎を捕縛
他に高坂昌信の子、宮本武蔵の弟子とも そもそも風魔小太郎が架空
徳川に雇われたなんて記述も存在しない
よくコアな知識者があつまるスレでそんなクソみてえな知識を披露できるな 赤塚城に小田原の役で守備についた、松戸将監という武将は、名前以外謎だな。付近に子孫らしき人はいるけど。
あと、大塚某とかいうのがかなり所領持ってたみたいね あぁ胤宗の与力ね
あと板橋肥後守だよね
板橋忠康系だと思うけど親棟とは関係ないのかね? 曾我祐重…扇谷上杉時代の江戸城代
この頃江戸太田は山内から帰参した頃で江戸にはもどれず
現在の赤羽あたりにいた
曾我神四郎…後北条と上杉の戦いの先鋒 東京の戦国時代の本って無いですかね
各区史くらいしか見つからない >>171
葛西城に関するものをジュンク堂で見かけた気がする。
あとはこんなんとかどう?
ttp://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/15148/KJ00005098490.pdf >>172
ありがとうございます!
葛西の本は確かに見たことがあります
やっぱり千葉氏秩父氏関連で洗っていくと見つかりやすいのだろうか
論文ってインターネットで結構見つかるんですね調べてみます >>172
赤塚郷が勲耕の賞で足利直義→正室渋川頼子→姪幸子→鹿王院に寄進
→武蔵千葉氏が簒奪→鹿王院が抗議って結構おもしろいね
松月院の自胤の妻の墓は別人らしいね、松月院自体は宝持寺として
自胤前からあるそうだ、だから妻とされる墓は尼さんの墓らしい
自胤の墓自体も後世のらしいよ
あと赤羽郷でこんなんあった、武将関係ないけど
http://repo.lib.hosei.ac.jp/bitstream/10114/10778/1/shigaku_60_wakasone.pdf 鑑定団に間宮主水助宛の氏政感状2通が出てたけど
豊前守康俊系(康信、直元 玉縄衆)
若狭守綱信(氏照の重臣 滝山衆)
武兵衛・造酒丞(甲斐武田氏に寝返る)
主水助系(子孫は丸亀藩家老系と武蔵在郷の杉田氏系、真里谷武田氏が外戚の間宮主水を継いだとも)
無理して一つの家系にしちゃったのか間宮氏も複雑だよね >>174
そういえばこれ欲しいと思ってたんでした!ありがとうございます
>>175
加藤哲さんは初めて知りました調べてみます
>>176
奉寄進 宝持寺
赤塚郷年貢之内弐拾貫文同谷田之年貢弐貫文并平沼作田伍反同郷内戸田袋野之事永代可有御成敗状如件
延徳四年十一月五日 玄参
宝持寺
という寄進状が区史の資料に載ってました(玄参は千葉介自秀、自秀は新編武蔵風土記稿によると自胤のことらしい)
もと真言宗の宝持寺に玄参が開基になって寄進して曹洞宗の寺院の宝持寺松月院にしたと >>177
康俊と綱信は信元の子で兄弟?
信元は扇谷上杉から北条に鞍替え?
間宮武兵衛は康次で間宮造酒丞は信高で康俊の子?
合ってる?
主水は信安と長安かぁ、年代的には信元以前で分かれてるよなぁ。
長安の母は行方系のようだ。 湯浅治久曰く
石浜あたり(千束郷)の地は鎌倉時代、千葉氏が関わってた可能性があるらしい
この地は江戸重長が大福長者と呼ばれるいい地でその前の時代は
関東御領で管理が千葉氏だったとのこと
武蔵国浅草大工字郷司しかり今戸焼しかり浅草付近はかなり昔から栄えたっぽい
その地を戦国時代に武蔵千葉氏が大石氏から支配を移したのはなんか灌漑深いね
ちなみ兄は実胤は山内、弟自胤は扇谷って感じらしい
一度成氏が孝胤を取り除き、実胤を下総戻そうとしたけどだめだったらしい
道灌は武蔵から逃げた実胤より残った自胤を評価したけどね >>180
自胤が入った赤塚城って随分不思議な形なんだよね。
土塁の内側に堀があったり、溜池が水堀がわりになったり。で、北の防御だけやたら厚い。 >>179
おおよそそいうことになってるようだけど
康俊・康次・康信が親子で氏康から偏諱貰って弟が綱信だったり
間宮主水の家は甲斐武田の旧臣かつ真里谷武田とも姻戚で康俊の4子信高を養子に迎えたのが造酒丞だとか
どうなんでしょうね >>182
なるほど。
複雑ですね。綱信は氏綱から…綱信が弟じゃない可能性もありそうですね。
信元の弟とか…
もっと書状とか発見されるといいですね。 板橋親棟
(いままでなかったようなので)
武蔵国板橋出身、まず扇谷に付いていたが他の武蔵国の者にもれず
北条につく。その後、北条から壬生に客将として仕える。
宇都宮方の板橋城を奪う(板橋郷ならび板橋城は親棟由来らしい)
綱房の没後、その子綱雄が徳雪斎に暗殺されるとさらにその子の義雄
につき徳雪斎や鹿沼右衛門を討ち取った。(徳雪斎は諸説)
壬生氏も親棟も小田原征伐で北条方でやぶれ、衰退、滅亡する。
ちなみに板橋氏といえば子孫が旗本、板橋宿の盟主の忠康が有名なのだが
親棟が武蔵に置いてきた子の流れという説もある。一緒についていった子
行常の子孫は松平康長に仕えたという。
壬生氏独立の立役者であり、北条方としても宇都宮方面で活躍し
義雄の時代も老将でありながら信頼の厚い武将としてその人生に幕をとじた。
まぁ伝によればだけど。墓は両板橋にある。
個人的には小田原征伐前の多気山城合戦(北条vs宇都宮・佐竹・結城)では
かなり活躍したんじゃないかと思ってる。佐竹が何度も攻めた鹿沼には板橋
親棟がいたんではないかとそしてなかなか落ちなかったんだと思う。 >>184
この客将になった経緯がずっと気になってる。
人質とも違うし >>185
板橋将監の供養塔には
「板橋氏は武蔵国(東京都)板橋領主の出で、
小田原北条氏の被官(ひかん)であったが、
北条氏と鹿沼城主壬生氏との同盟関係によって、
壬生氏を援助するためにこの地方へ来た。」
と、あるね。
一応…板橋城は永正の頃に遊城坊綱清が築城したようだ。
遊城坊は代々宇都宮氏一族が出家して住職となり、板橋郷等を社領とした。
それから天文年間の頃、鹿沼城主で日光山御神領惣政所の壬生綱房は、
遊城坊綱清が宇都宮氏と結ぶことによって自らの地位を向上させようと、
兵を集めていたことに不安を感じ、北条氏の力を借りることにした。
そこで派遣されたのが板橋親棟で、遊城坊綱清を潰しそのまま
板橋の地を治めた。らしいよ。(ちなみに板橋氏が由来なら
郷も城も元々なんだったんだろう……)
このことから見てもとても戦上手だったんだろうなと思う。 「国宝松本城を世界遺産に」推進実行委員会事務局のクイズの
7-1のガイドにて
武蔵国に残った親棟の次男坊は「親恒(ちかつね)」だとさ〜
ここで忠康とつながるみたいよ なら吉良成高の妻は上杉持朝の娘だぞ
…なら!って意味は全然ないけど >>172-173
ちょい前のNHK高校講座日本史(司会が桐島里菜の時)で戦国期葛西城の特集やってた 観てないけど
ttps://www.youtube.com/watch?v=LwjL0RfVUwo
この人のかな? 最近は吉良頼康の肖像とされたものは武田信玄のらしいね
武田信玄とされたものはじゃあ逆に吉良!? 吉良頼康像の花菱は子房が4つ描きこまれてるから
武田花菱ではないんじゃない?
信玄像と特定するには弱いと思う
なにより威厳に欠けブサイクだ >>194
ちょい待て
その肖像が吉良でも武田でも最後の文章は
ひどいな
徳川なんて…… 吉良と言えば14世紀に新倉を安堵された吉良亀松がいたなぁ 蔭山家広が吉良の小指南になってるけど
黒田氏の説を採用すれば「指南・小指南」は
指南が格上側、小指南が各下側なんだと。
だとするとこの頃はまだ吉良が格上だったか、または家広は
元々は吉良家臣だったんだな、義氏元服前後で前者か後者かわかるな。
蔭山氏自体、足利の庶流だから後者だと思うが。
その後北条家臣になってるの見るとだいぶ吉良氏から北条氏に家臣が
流れたんだな。 北条は義氏の前に吉良左兵衛佐頼康を関東公方にする気だったみたい
左兵衛佐が公方に繋がるみたいよ(鎌倉公方が左兵衛督) 山梨の一番東京に近い所から
小山田信有
加藤景忠
たぶん小山田もちろん加藤も東京の最西部には影響を持ってたと
思われ 右:千葉胤利
中:三田綱秀
三:吉良頼康
一:太田康資
捕:大石定久
DH:宇田川定氏
遊:牛込勝行
左:平山氏重
二:板橋親棟
投:江戸朝忠
控え(18人)
北条氏照、太田資正、遠山綱景、富永直勝、
高橋氏高、行方直清、師岡将景、長崎重光、
中条出羽守、渋川義基、上杉憲幸、本田正勝、
小山田信有、豊島経忠、島津永久、板倉勝重、
伊奈忠治、大岡忠真