手取川合戦の真実 [転載禁止]©2ch.net
歴史上唯一織田軍(総大将は柴田勝頼)と上杉軍が直接対決した合戦。
手取川の戦い(てとりがわのたたかい)は、天正5年9月23日(1577年11月3日)に加賀国の手取川において上杉謙信軍約2万が織田信長軍約1万8千(後詰含め5万とも)を撃破したとされる合戦です。 手取川の戦いは上杉軍の圧勝だったと云われてるけど、上杉軍が強かったんですか?織田軍が弱かったんですか? >>4
そのスレはなぜか全く関係のない二つの合戦について書かれてあるので削除依頼を出してください で、>>1の戦いを証明する一次史料ってどんだけあるの? 後の天下人秀吉が、敵前逃亡したという史料は探せば相当出てくるはず
よっぽど謙信が怖かったんだろな 11.信長公記 巻十
柴田北国相働くの事
八月八日、柴田修理亮、大将として、北国へ御人数出だされ侯。
滝川左近、羽柴筑前守、惟住五郎左衛門、斎藤新五、氏家左京亮、伊賀伊賀守、稲葉伊予、
不破河内守、前田叉左衛門、佐々内蔵介、原彦二郎、金森五郎八、若狭衆、賀州へ乱入、
添川・手取川打ち越え、小松村、本折村、阿多賀、富樫の所々焼き払ひ、在陣なり。
羽柴筑前、御届をも申し上げず、帰陣仕り侯段、曲事の由、御逆鱗なされ、迷惑申され侯。 >>9-10
これは「手取川の合戦」そのものの証明じゃないよね。
手取川は越えた、そこで秀吉が勝手に帰陣した、までだね。 信長公記だから都合の悪いとこはカットした
と言うのは容易いし、その否定も別にしないけど、
でも>>1の証明をするのに真っ先に信長公記のその部分持ってくるようでは心もとないな・・ 戦いの有無なんて知らんよ
秀吉を先頭に織田軍逃亡したことは長家家譜にも書いてあるという事実を示しただけ
ところで1の織田信長軍約1万8千(後詰含め5万とも)
って何の史料に書いてあるのだろう? この節宗先は先登敵兵を討ち取り勝利を得、異儀なく七尾へ帰陣。
綱連と一緒に籠城。
ときに畠山春王丸卒去につき、城内の将卒勢気を失いしかば、綱連は信長へ援兵を乞うため、この使いを宗先へ命じた。
これにより同月二十四日七尾を船で発ち、海路を経て安土へ参向し、委曲を菅屋九右衛門長頼をもって信長へ言上した。
信長は許容これありといえども、東南の敵方手づかえの儀につき事は遅延に及ばる。
既にして諸将に命ぜられ援勢のこと定める。
その援将には柴田勝家・丹羽五郎左衛門尉長秀・長谷川藤五郎秀一・稲葉伊予守通胤・滝川左近将監一益・羽柴秀吉・
前田利家・徳山五兵衛則秀・柴田伊賀守勝豊・佐々内蔵助成政・不破彦三・金森五郎八・堀久太郎秀政その勢四万余、
宗先とともに九月下旬安土を発し、十月上旬先陣が既に加州水島まで着陣のところ、十三人の物見が走り来たり、
「七尾落城と相見え長家一族の首の由倉部浜に首を梟し、さて謙信は松任に着陣の由」これを告げる。
それにより諸将評議これあり、梟首の実否を宗先へ見届け候て参るべく旨につき、宗先はすぐに行きこれを見て帰り、
諸将に向かい「梟首の実否見届け候が全く父兄の首にあらず、諸将を欺くための計略なり」と言った。
その夜、宗先はひそかに秀吉の陣場を訪ねて、「先刻は偽り言を申し候。まことに我が父兄をはじめ一族の首にて候。
前にまことを述べば諸将の気たわまんことを恐れ偽りて申し候。七尾の陥城疑いこれなしといえども、謙信当国へ出張
の由相聞こえ候、これより兵を進められ謙信を撃ち、すなわち父兄の仇を報ぜん」と嘆願したが、秀吉は許容これなし。
「その志切なりといえども、七尾陥城のうえは信長公の御下知なくては私に決し難し」と一戦の旨各評議これあり。
水島より帰陣につき、是非能わず愁憤を押さえ、掛け置き候首を取り収め、ともに安土へ帰陣なり。
さて安土において秀吉へ属し、義兵を起こし、父兄の仇を報じ、大義を建てるこの度の段信長へ愁訴これありのところ、 七尾城救援に行ったらその前に陥落した。名分はなくなったから引いた。
別におかしいことじゃない。
1574年の遠江高天神城でも陥落したらすごすごと引き下がってるし。
そんなのは知ってるの。
俺が知りたいのは手取り川の合戦だから。無駄なコピペはやめなさい。知らないなら引っ込め。 手取川の戦いの後、上杉謙信は
「信長と雌雄を決する覚悟で戦ったが、信長は案外弱い。これなら、京へ攻めのぼるのも難しくはないだろう」
と語っている。 信長は案外弱い。これなら、京へ攻めのぼるのも難しくはないだろう
↓
よし、関東の北条を攻めよう! 手取川後の謙信急死が無ければ京に向かう可能性はあったのかな? 手元の本によると、上杉年譜という資料があり、それには来春信長と接戦の約あり、
とのことで、蘆名佐竹里見結城宇都宮はもちろん、武田勝頼、北条氏政らも参陣し、
武装上洛作戦がおこなわれるはずだったらしい もちろん備後・鞆の将軍足利義昭は毛利軍を率い、
大坂石山本願寺軍もくわえて上洛、信長の完全滅亡は100パー確定していたらしい なんで関東の連中がわざわざ手を結んで信長と戦うんだよw
そんなことができるならそもそも戦国時代になってないわw
嘘つくならもっとそれっぽい面子にしろよw >>22
関東の戦国大名ってめちゃめちゃ仲良かったんですね 謙信は手取川の戦いの後なぜすぐに上京して信長を討たなかったのですか? しかし、手取川のあとの出陣は北条ってどこからの出展なの? http://ninkyou.blogspot.jp/?m=1
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それよ、それ。いつも疑問だ。
動員掛けたのは事実だが、関東ってなるかな? 手取川で大勝したんだから次は上洛しようとするとしか思えないが・・・ >>32
織田は何度負けても戦力の補充が可能な国力がある
上杉は一度でも負ければ崩壊する
いかな謙信が戦の天才でも百戦百勝というわけにはいかないから
早晩、織田に滅ぼされる >>34
何回も大規模の負け戦続けたら織田だってやばいだろ。
戦力だって無限にあるわけではない。財力も結構カツカツだった。
負け続けるなら配下の武将や豪族も離れる。
適当な事書かないように。 戦闘に勝ったか負けたかより何を得たか何を失ったかが大事よ 織田は例え勝っていたとしても足元すくわれる脆いやつらだからね >>37
それは戦闘の結果に起因するものでしょ。だから勝たなくてはいけない。本来戦闘行為なんてあまりやらないわけだから、勝たないと意味がない。負けていいなんてあまりないよ。 謙信死んでその後がなかったから評価のしようがない小競り合い 松永が2回裏切ったことからして信長包囲網は相当やばいもんだったんだろうな
ただ、ほんの少し信長に運があった っで、手取川で死んだ織田側の武士階級1人でもあげれるの? 上杉謙信の年譜が「引き分け」扱いしてるような合戦が、
織田信長の場合、「負け」扱いされてるってだけじゃねえの 上杉や武田は貧乏だから織田にとって優先順位が低かっただけだな 弱い相手からというのは間違いない。相手が強いと下手に出て、ごますりで、国力ついて勝てそうになったら同盟破って襲いかかる。ま、織田も武田もそんな感じ。 弱い相手から各個撃破って当たり前やろ
甲斐一国の信玄に駿河に突っ込めっていうのか? >>45
みんな書いてるけど弱い相手から潰すって当然のことじゃね?
そんなの織田だけじゃなくて武田もどの大名も同じだ。 手取川が大勝利なら織田側に将官クラスの討ち死にが当然あるはず?
ないの?ないの? 信長が5000の兵かき集めてた時、信玄は2万動員してたもんな >>47
そう、当たり前。
しかし、度が過ぎるコマスリするのが織田だわな。みっともない 結局織田を倒せなかったのにンな事言っても虚しいだけだぞ。魔犬慟哭波ってやつだな。 戦いの規模はともかくとして
戦略的には上杉圧勝だよね
この戦い 信長の敵
@尾張半国 vs 三河・遠江・駿河
↓
A尾張 vs 美濃
↓
B尾張 vs 北伊勢
信長は強い順というか必要なところから戦ってる この戦いの後、信長は謙信に書状を送り、足利将軍のため、(追放した後だけど)
自分は西でがんばるんで謙信公は東をお願いします、とか言ってたらしい
謙信の最後の遠征先(直前で死んで立ち消え)が関東なら、
手取川の戦いの結果、越前が織田、加賀が一向一揆で能登・越中が上杉、
っていう、国境線が決まったんだろうな
謙信公が急死しなけりゃ、関東でもうひと波乱あったんだが
信長も運がいいが、北条も負けてないほど運がいい 関東管領就任から15年間、関東で何もできなかった男が、
今更どうにかできるとはちょっと思えない 北条・武田に負けて関東から追い出された事実は認めないとな 謙信が本当はどこまで強かったのかが知りたい。
この戦い相手が勝家なんかじゃなくて信長だったら良かったのになあ。