【バカ殿】織田信雄 Part2【茶筅丸】 [転載禁止]©2ch.net
織田信雄は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。
大和宇陀松山藩の初代藩主。
永禄元年(1558年)、尾張国丹羽郡小折(現在の愛知県江南市)の生駒屋敷で織田信長の次男として生まれる。
生母は生駒家宗の娘・吉乃。
時代劇では馬鹿殿扱いされることが多い。
安土城を焼いた。
過去スレ
織田信雄を語る
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1149993954/ 大坂方の総大将はあくまで豊臣秀頼でしょ。
指揮権が大野治長じゃなくて織田信雄になりそうだったってことなんじゃないの? 信雄が、豊臣家のために尽くすとはとても思んよな。
現実に戦になる前に徳川方に寝返ってるし。 あの変わり身の早さは見事と言うほか無い
文武の才はともかく世渡りの上手さは天下一だろう >>102
ここはバカ殿の誉れ高き信雄公を慕う
バカの集うスレだよ 雑賀に勝ち、明智を敗走させ、安土城に火を放ちヒャッホー、秀吉に勝ち
家康を手玉にとりコケにした名将のぶお。
大坂の陣でぜひ浪人どもを指揮させたかったな。
そうすれば堀を埋める条件で家光を人質に取ることに成功させるなどできたかも。
で、自身は再び配流されたりしてな。 明智光秀、柴田勝家、滝川一益、羽柴秀吉に勝利し、
徳川家康に天下を譲った男。それが信雄。 大坂冬の陣の時信雄は自分が担がれるを嫌って大坂城から逃げちゃったよ >>108
さすが信長の子供だけあって、人に利用されるのをよしとしない意地を
みせたんだな 信雄公を無理なく持ち上げるのは、難しいな。。。
そこまでバカにしなくていいのに、不自然な擁護が多い。 織田信雄は関ヶ原の戦いの時西軍と東軍どちらに付いたのですか? >>118
西軍についたっていう説もあるし 東軍に密通していたっていう説もあるけど改易されたのは確か 西軍で全く重きを置かれず、
故に東軍に密通しても役立たずで改易される信雄の姿が
目に見えるようだ バリッバリの西軍というような働き
なんかしたっけ? 信雄が西軍か東軍に付くか態度を曖昧にしていたのは最後まで時勢を見極めようとしていたんだよ 信雄は北畠具房から塚原流奥義・一の太刀を伝授されており、
あえて領地を持たず諸国を流浪して家康を狙ったという。 柏原藩があった兵庫県丹波市の近くの者です。
信雄は藩主の祖先なので尊敬されているのですが、映画「清州会議」で信雄の
バカっぷりを見て恥ずかしい限りです。
それを逆手に取って町興しのネタに利用しようという動きがありましたが、
あまりにも恥ずかしいので止められました。 >>132
天才は凡人には理解され難し。
信雄の輝かしい戦績が一般人に認知されるのは5年先だろう。 安土城は燃やされなければ、秀吉や勝家の居城にされて貶められてた。 親父の大事な城だから自分が保持しよう、と思うのが普通なのに、
重臣の誰かに負ける前提かよw 信雄は伊賀攻めのときに軽挙を戒められていたからな。
うかつに城にいて攻められるのを防ぎたかったのだろう 攻められて負ける前提で自家の本拠地を焼くのが、軽挙妄動でなくて何なの。
まあ、信雄は自分の居城だった田丸城も失火で焼いてるからな。
重臣殺しと同じように、味方の城を焼くのも趣味なんだろう。 だからそこは常人ではなく三七殿がなされることだから 織田家最強武将である信雄は知っていたのだよ。
天守閣なぞ飾りに過ぎない事を。 安土城のような織田家の象徴で貴重な建物は絶対燃やしちゃ駄目でしょ 飾りのために巨額を投じて作った天守閣を、飾りに過ぎないとは、さすが信雄様。
堂上家の北畠家をあっさり捨てて、出自も定かでない織田家に戻った方は
おっしゃる事が違います。 戦場だったわけでもないのに謎だな確かに。父親嫌いだったんかな 安土放火とか3家老処断とか
どうにも短絡的なイメージが拭い切れない 圧倒的な個人武勇を誇る信雄にとっては、
重臣なぞ飾りに過ぎないのだよ 滝川一益・九鬼嘉隆との戦いでは、家忠日記によると
信雄様は(敵の)大船に(単身で)乗り込んで敵船を奪い、
数人を討ち取り、数人を捕らえたらしい。
もはや、戦神と言っていいだろう。 信雄は騙しうちして乗っ取りをしたり、部下を惨殺するわりに人望もあるようだね。
ジャギ様みたいな人なのかな ていうか、伊賀侵攻の失敗以外は無敗なんじゃねえか? 織田信雄ってどうして小牧・長久手の戦いの時優勢だったのに秀吉と講和しちゃったんですか? 信雄は長篠にも参戦してるよね。
武田、豊臣に勝利しているわけだ 織田家は鬼神の血が混入しているのだろうか?
織田有楽斎
織田信長の弟。
本能寺の変では、織田信長・信忠親子が相次ぎ戦死し大混乱に陥る中、狂騒の京からいち早く離脱に成功する。
庶民は人離れしたこの活躍を絶賛し、「織田の源五は人ではないよ」と褒め称えたという。
関ヶ原の戦いでは西軍の武将蒲生郷舎を討ち取るなど大活躍を見せ、、大和3万石を授かった。
茶道にも精通し、利休七哲の一人にも数えられるほどだった。
大阪冬の陣では豊臣側の中心人物となり奮戦し、将としての器を示す。
有楽斎は豊臣の未来のために、和平策を提案したが
受け入れようとしない豊臣側に呆れ、有楽斎は大坂城を退去する。
有楽斎の提案を受け入れなかった豊臣は予言どおり滅亡してしまう。
大坂城退去後は茶道に専念し、趣味に生きた。
文武両道兼ね備えた希有な武将であり、文化人でもあった有楽斎は有楽町という地名で現代に残り、
人々の心に生き続けている。 優勢なところで講和するなんてのは実は至難の業だよな 織田の源五は人ではないよ
お腹召せ召せ 召させておいて
われは安土へ逃げるは源五
むつき二日に大水出て
おた(織田)の原なる名を流す 褒めたたえられたわけではないな。
というかここ三すけスレ うーん、秀吉と講和したのは絶妙のタイミングだったと思うんだ 1つの局面で勝利しても、持久戦となれば不利な場合は講和するのも一種の手では
北畠率いる伊勢も、兵力差が倍以上ある織田相手に1度は勝利したけど
兵力差を考慮して講和して、神戸や北畠や長野家に
信長の息子を養子として受け入れることになったんだから >>182
織田の侵攻軍を一度撃退したのが神戸。最侵攻で戦わずに降伏。
北畠から養子に入った当主を追放して、戦わず降伏したのが長野。
孤立無援になっても善戦したけど、ジリ貧で降伏勧告に応じたのが北畠。
織田信雄の小牧長久手と、どれもかぶらない。
信雄の話してるからって、お前の認識力まで信雄レベルになる必要はないと思う。 例えがおかしいのは、そこまで突っ込まなくても良いんじゃないか?
問題は、家康のおかげで長久手で勝てたのに、
自分が負けそうだからと言って家康に相談なしに和睦した事だろう。自分の都合だけで動いて信義の欠片もない。 >>187
北畠家を抑えていた。
北畠家は武田信玄、勝頼の侵攻に必ず呼応し蜂起するのは当然だった。
それを未然に抑えていたのが弱冠16歳〜19歳の信雄であることは少し考えれば判る事だろう。
当時は北畠具豊(ともとよ)と名乗り、すなわち南海の次期源氏長者と恐れられる存在だったと云う。 信雄はうつけの振りをしていただけ。
明日から本気出すと思っていたはず。 うつけ〜三瀬の覚醒〜弟討伐〜天下平定
織田信雄の生涯は信長に重なるな。
唯一違うのは津田一安、柘植保重、津川義冬、岡田重孝、浅井長時の謀反を
未然に防いだ高い危機管理能力か。 それがアダになった。反逆を抑えて結束を高めた父との違い。
つまり、賢すぎた 織田信雄は強く賢すぎた。
天は信雄を恐れ、世界を信雄に与えなかった。 信雄を讃えるポエムか。
もう少し詩的な表現が欲しいね。 伊賀攻めに失敗してなかったら、本能寺の変で兄貴と同様に明智光秀に
狙われたであろう 週刊朝日で今、織田信雄の直系の子孫が連載書いてる。
でも連載の名称は「我が先祖信長」。 >>198
まあ信雄の子孫なら間違っちゃいないけどなw