【バカ殿】織田信雄 Part2【茶筅丸】 [転載禁止]©2ch.net
織田信雄は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。
大和宇陀松山藩の初代藩主。
永禄元年(1558年)、尾張国丹羽郡小折(現在の愛知県江南市)の生駒屋敷で織田信長の次男として生まれる。
生母は生駒家宗の娘・吉乃。
時代劇では馬鹿殿扱いされることが多い。
安土城を焼いた。
過去スレ
織田信雄を語る
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1149993954/ 大坂の陣で家康討つために単騎城を出て徳川方へ向かったのって通説なん? 見事な舞を披露する信雄の横に
背の低いデブデブ太って不格好な家康がしゃしゃり出て
下手くそな舞をして笑いを誘ったエピソードもある
家康はアホのふりをして太閤殿下の警戒を解こうとしたのだろうと周囲からは評されている 大坂陣で信雄総大将と宇喜多秀家泳いで参るとだと、信雄がリーダーになった方が大坂方の勝率あがる 大坂の陣で泥舟に乗らなかった事は評価してもいいような気がする。 そういや大名に復帰した晩年の迷エピソードって何かあったっけ?
(小大名にしかなれなかったってのはナシでw) >>489
大嫌いな父親に死なれて、漸くら自分が
恵まれた環境にいたことがわかったか?
ん?
56歳ニート >>489
信雄は秀吉のバカ話の相手(御伽衆)してお金もらってた訳だが >>485
片桐暗殺をやろうとしたのは信雄という説もあるけどなw 大友宗麟のバカ息子(信雄と同い年)「もう少し長生きできてればなあ・・」 >>493
その息子「大坂の陣で豊臣側についたのでしょうな」 『忍びの国』見たけど
バカ殿っていうか単なる弱々しいお坊っちゃんじゃん
殿様が部下に張り倒されてメソメソ泣くって
とても知名度&イメージアップにはなりようがない
しかも荒武者がそのけなげな様子に心打たれて忠誠誓うって、アッーにしか見えんかった 安土城を燃やしたのって秀吉側の人間じゃないのかな
あの時点で織田の象徴みたいなものだったけど
あれがなくなって秀信が安土城に入って織田家をまとめることもできなかったし
城のせいだけではないが
豊臣秀頼も大阪城が燃えて別の小規模な城に移ってたら豊臣の権威は落ちてたかも
信長が死んで一年以内に安土城を超える大阪城を造った秀吉にとっては
安土城なんて邪魔で燃やして信雄のせいにしたとか 天守閣は焼け落ちたが清須会議の結果織田家の嫡孫の秀信が安土城二の丸に入居した
秀吉が3年後に安土城を廃城にしたのは将来天守閣が再建されるのを憂いたからだろう 信雄研究というと
U 織田信雄―豊臣期の織田氏
藤田 達生「豊臣期の織田氏―信雄像の再検討―」
(安土城考古博物館特別展『残照―本能寺の変からの織田一族』1994年)
加藤 益幹「織田信雄の尾張・伊勢支配」
(有光友学編『戦国期権力と地域社会』、1986年)
岡田 正人「織田信雄の改易について」
(『歴史手帖』3-12、1975年)
本多 隆成「小田原攻め後の家康と信雄」
(『愛知県史のしおり』資料編12織豊2、2007年)
渡辺江美子「甘棠院殿桂林少夫人―豊臣秀吉養女小姫君―」
(米原正義先生古稀記念論文集『戦国織豊期の政治と文化』、1993年)
http://www.iwata-shoin.co.jp/bookdata/ISBN978-4-86602-966-5.htm
「織田信雄家臣団について」 『郷土文化』 山口茂
こんなところなんだろうか
あとは最前線シリーズとか天正壬午の本であったかなあ
>>472
http://www.yomiuri.co.jp/chubu/feature/CO022951/20160926-OYTAT50037.html 秀信(三法師)が早死にせず大坂の陣の頃に生きてたら,
豊臣側についてたのか、はたまた大名・旗本として迎えられ
徳川側についてたのか なんやかんやで戦国の重要な政局の裏で暗躍してる危険人物 エオロッパにまで鳴り響いた壮大な安土城を焼き払ったのが信雄だったら、これに勝る悪事はありますまい。 本能寺で散っていたのが信忠ではなく信雄だったらなあ 4月2日放送の忍びの国見てね
パパに討つなよ!討つなよ!絶対に討つなよ!って言われてたのに
勝手に戦しちゃった伊賀の乱だよ
忍者側が主役だけど信雄の成長物語でもあるよ 織田信雄を無能だと言う奴とは関わらないようにしてる
そういう論調の記事や番組も相手にしない様にしてる ミネルヴァ書房では「織田長益」予定されてる
長益出すんなら、信雄も出してほしい 江戸時代の尾張の繁栄ぶりの基礎を作ったのは、意外にも織田信雄だった
清須会議によって尾張を相続した信雄は、さっそく清州城下とその周辺の経営に着手した
大した戦歴もなく、伊賀攻めや韮山城攻めに苦戦した事で、合戦能力ではボンクラ呼ばわりされる信雄だが、
領地経営では非凡な才能を発揮している
信長が岐阜や安土に拠点を移動してからは、清州城は城代が置かれるだけの実質空城となり、
さらに清州周辺は河川が多く、水害も多かった事から、城下も廃れ始めていたが、
そこへ商業の発展と水害対策を行い、その土地を再び繁栄させたのが信雄である
秀吉の移封命令に反発したのも、自分が再興させた清州を奪われる事に憤慨したからにほかならない
信雄の改易後、尾張は福島正則が治めるが、彼も尾張出身で馴染みが深い土地だったとはいえ、
信雄とは真逆の性格である猛将が、特に問題もなく領地経営が出来たのは、
前任者の完璧な経営を引き継いだからである
関ケ原の合戦の前哨戦となる岐阜攻めの拠点となった際も、反転西上の強行軍をしてきた東軍が
繁栄し続ける清州城下とその周辺で十分な休息を取り、軍備を整えて士気を高める事が出来た
関ケ原の論功行賞で、尾張は家康四男の忠吉が領主となり、その忠吉が死ぬと、家康九男の義直が領主となり、
これ以上の発展余地が見込めない清州から拠点を那古野へと変えて、名古屋城が建築される
清州城下の住民の多くも名古屋城下へと移住し、現代の名古屋市の原型となった
江戸時代には、暴れん坊将軍こと8代将軍徳川吉宗の政敵となった尾張7代目藩主徳川宗春の
失政による経済バブル崩壊などの話題があるが、それはまた別の物語である… 家康や秀吉相手に破滅ギリギリのとこまで傾き通したんだから大したもん
弟の信貞は腰抜け >>498
和田裕弘 天正伊賀の乱 中公新書
も追加で >>498
>>515
高橋成計 織田信長の伊賀侵攻と伊賀衆の城館 アメージング出版刊 小牧長久手のあと、どんな気持ちで秀吉の臣下になったのだろうか。戦国時代、下克上は数あれど、ここまでの主従逆転ってあんまりないよね 織田家の人間でない時期も長かったので
織田家重臣は自分に仕えるべき
という感覚だったかどうか
仮にそういう性格だった場合
厳に戒められる立場ではなかろうか 自分の器を見切ったところがすごい。
小牧長湫あたりまでは大将だと思ってたが、
大坂の陣で大将になってほしいと懇願されたときには
もう自分はその器でないと早々に辞退。 REVELATION
資金源/コング
フロント/天下り/右翼思想
フィクサー/集団ストーカー/ハッキング/盗聴/盗撮/家宅侵入
汚職/集団ストーカー/ハッキング/盗聴/盗撮/家宅侵入/揉み消し
揉み消し加担 戦国群雄伝(シナリオ2)
織田信雄(伊勢志摩城主)
政78戦67魅90野76
当時の光栄の担当者は何考えてこんな高い能力評価したんだ? 歴史探偵 本当はスゴい!織田信雄
18 (水) 22:00 〜 22:45 なんか最近は生き延びたとか世渡り上手とか勝手に評価してるけど結局信長の子という権威に頼りまくってただけの無能でしかねえな 大坂冬の陣の時、ぜひ大坂方の大将にと懇願されたけど
「僕はもうそういうんはいいねん」
と言ってあっさり断ったってエピソードが好き。
あそこで引き受けて真田の提案取り入れて勝利したら、
彼は将軍になってたかもしれんが。 >>527
むしろ負けて織田家取り潰しになってるでしょ