真田幸隆・昌幸・信繁・信幸を語るスレ 6
幸隆が滋野嫡系の海野棟綱の子であるという話があるが、これはない
なぜなら海野の名跡は武田信玄の次男、盲目の竜芳が継いでいる
幸隆の実績からすれば海野を継げるはずだがそうはなっていない
海野を継げる血筋ではなかったと考えるのが妥当 幸隆が信繁の孫ってこと知らないって言うか信繁の名前すら知らない自称歴女が居るんだけど手打ちにしてもいいの? 小学校3年生の息子が、学校の宿題で自分の名前の由来を、
「両親から聞いてきなさい」って言われたらしい。
最近はキラキラした名前が多いからだと思うが、
うちの息子の名前は「信幸」。
「真田幸村のお兄ちゃんの名前を貰ったんだよ」って教えた。
ちなみに我が町、鹿児島市谷山には秀頼の墓があるんだぜぇ 長篠の戦いで兄2人が死んだおかげで昌幸が家督を継ぐことになったんだよな。
結果的には良かったのだろうか。 昌幸は武田滅亡後の大勢力を泳ぎ回る割に
沼田問題など理不尽な事には相手が徳川でも
屈しない所が好きだ。でも関ヶ原後は徳川に許しを乞う姿がな…
まあそこで終らず信繁がやってくれたから、話のいいスパイスに
なってるけどな 幸隆は、内から崩すと言うより、
ピンポイント爆撃で無力化って気がする。
まぁ、イメージだけど。 結城秀康の家臣に真田一族がいるのは以外に知られてない
津軽の家臣は有名かな アンチ家康な真田家を召し抱えたわけではないぞ
真田幸隆の次男で真田昌輝の子 信正が
長篠で武田家が滅んだ後に関ケ原以前に家康に仕えて その後松平 忠輝に仕え
その子松平忠昌に付き添う形で福井に移っている 実際真田家は、数で云ったら徳川寄りの家が多い
むしろ昌幸や信繁が徳川に反旗を翻した少数派 その子松平忠昌 入力変換間違いw
その後、松平忠昌 が正解 真田宝物館は館内で写真撮影していいのかな?
博物館や美術館は基本的に撮影禁止だと思って諦めてたけど
ブログに写真をアップしている人って多いよね
今度行ったら確認してみよう 不勉強にして昌輝に子がいたなんて知らなかった
ちょっと嬉しいな 意外に知られていない
真田信幸の最初の奥さんは真田信綱の娘
信幸の長男 信吉は彼女の息子
小松姫が嫁いでくる時に 側室に格下げされた 真田太平記の渡瀬恒彦は良かった。
苦労人でお疲れさまって演技でした。 片倉重綱が信繁の三女(梅)を連れ帰って
侍女にしてたけど、正室が死んだ後妻にした。側室違う。正室。
何で重綱が連れ帰ったんだ?拉致った? 九度山周辺に居たんだろうから、「乱取り」で拉致だなw
と云うか、信繁の三女と云われる別人だろ おれは草刈正雄だな。人をひきつける魅力的な幸村演じてた。
あとお江がいい味出してた。苑文雀だっけか? 国道145号線沿い 岩櫃山付近
145号を走っていると看板アリ
山城でミニ登山用に整備されている程度で結構やぶだらけ
ふもとまでは車で行ける
山城なので季節に因ってはかなり登頂が難しい
夏は虫ブンブン秋はクマ注意冬は雪多い 沼田城〜名胡桃城〜岩櫃城はほぼ一直線に並ぶのでたらい回しツアーに最適w 松代に行って来た。
真田宝物館には幸隆・昌幸・信之・信繁関連の宝物はほとんどなくて、あってもほとんどが複製。
宝物のほとんどが江戸時代の安定期の代物ばかりで少々ガッカリすた。 戦えば連戦連敗の大坂方は多少条件が変わっても負けるだろ >>31
勝ち目はないっしょ。日本ほとんど全部の大名が相手だったんだぜ。 高野山蓮華定院過去帳には「真田弾正忠幸綱…天文九已亥四月二十六日」
とあり、上野の白山神社の奥宮社殿の銘文に「大檀那幸綱信綱」とあるので幸綱で間違いないかと。 真田好きだけど、信繁をあんま神格化するのはどうも。
兄ちゃんの忍従加減がむしろ神格化してあげたいぐらいだw ところで真田宝物館は館内で写真撮影していいのかな?
博物館や美術館は基本的に撮影禁止だと思って諦めてたけど
ブログに写真をアップしている人って多いよね
今度行ったら確認してみよう 小さい頃よく遊んだ真田山公園…大阪城の出丸として真田幸村が陣を張った場所と知ったのは大人になってからだった 後藤わすちゃいかんがな! 家康ゎ大阪城入城の報受けたら… 親の方か?子の方か?って(((゚Д゚;)))ガクガクブルブルしてたらしい…家康がびびったんゎ幸村ぢゃなくて昌幸なんだよね☆ でもやっぱ戦国最強ゎ島津義弘ですな☆
真田日ノ本一って島津が言ったらしぃけど…
関ケ原の退却んときなんかヤバすぎやろ? >75かもしれんが最初から真面目に戦ってほしかった 島津は静観してたが、東軍側も義弘の朝鮮武勇を知ってるだけに
なかなか攻撃を仕掛けられなかったみたい 長篠の合戦で兄貴どもが揃って討ち死にしたから、真田の家督を継げたんだんだよね昌幸は。
もし武田の勝利だったら、歴史はどう変わっていたのか 家康自身は出てないけど2度真田にやられてるからね、昌幸は信玄の戦のやり方を見てきているから強いんだけれども、その信玄と対等に遣り合った謙信テどれだけ強いんだ。島津家は強いけど戦国最強はどうだろう。 >>45
信綱、昌輝ですね、戦死したのは
戦死しなけりゃ、昌幸は武藤家で活躍するのかな 武藤家のままだったら一生旗本のままで終わりだろうね 信綱に息子いたらしいけどどこ行っちゃったんだろう・・・ 長篠で戦死しているんじゃないのか?
生き残っていたら昌幸が真田家を継ぐ事は無かった気がする
娘はいつの時期に信幸と結婚したんだろ >>48
それはそれで幸せだったかもしれないけど
真田の名前がこれほど広まることはなかっただろうから 家康本陣の旗印を倒し踏み躙ったのは、武田信玄と真田信繁(幸村)だけである。 信綱って地味に武田軍の一角を担う猛将でかっこいいな。
信繁を神格化して語られる昨今真田好きの癖に信綱や昌輝や幸隆の弟矢沢頼綱とか知らんやつが多くて困る >>53
全員わかるぜ。信尹とかまで知ってるぜ。
青江の太刀は一度見に行きたい。
信綱は実際、信濃衆の旗頭を務めてたんだよな、確か。一角どころか、信濃衆の中心だったはず。 信綱が正式に家督を継いだのは幸隆が死んでからだが
それ以前から権力を持って仕事はしている模様
信玄が死んだり勝頼が継いだりで、真田家の家督相続どころではなかった様子 >>56
正式にいつ継いだのかはわからんが、信玄が死んだ翌年に幸隆が死んだ。
それから長篠合戦までは間違いなく家督は継いでる。 ああ、幸隆が亡くなったのは、勝頼が高天神城を攻めている最中だったね
幸隆の容態がいくらか上向いたという連絡が陣中に届き、勝頼が安心したと返事を書いた
実はその書簡のやり取りの間に幸隆は没していた。死の直前にちょっと元気になる現象と、
当時の通信速度の限界から生じる行き違いなんだろうな 矢沢の爺がいなければ昌幸は沼田を取れなかっただろうし、
取れていたとしても第一次上田合戦で北条に取り返えされていたと思う。
一族の年長者として、当主である甥の昌幸を良く補佐し、
その子の信幸、信繁兄弟の後見として歴史に名を残す武将に育て上げた手腕は見事だと思う。
自らの子である頼康も、昌幸、信之の右腕として活躍したし。
矢沢の爺あってこその真田三代だと俺は思う。 勝頼を岩櫃へ誘っておきながら、陰では北条なんかとコソコソやってたんだよな。昌幸。
でも、勝頼を裏切るってんではなく、あらゆる可能性を想定して色々な策を打ってたんだろうけど。
勝頼を北条や織田へ差出すようなマネはしなかったと思うけどな。
主君を裏切るような不忠を働けば、自分もいずれ嵌められる事くらい、昌幸ならわかってただろうよ。 それは勝頼が北条から嫁さん貰っていたり織田から嫁さん貰う予定立ってたからだろ 勝頼を岩櫃へ誘っておきながら、陰では北条なんかとコソコソやってたんだよな。昌幸。
でも、勝頼を裏切るってんではなく、あらゆる可能性を想定して色々な策を打ってたんだろうけど。
勝頼を北条や織田へ差出すようなマネはしなかったと思うけどな。
主君を裏切るような不忠を働けば、自分もいずれ嵌められる事くらい、昌幸ならわかってただろうよ。 というか、あの時点でどうやっても上杉か北条に頼らなきゃ、何の見通しも立てられないだろ。
援軍の見込みがない籠城戦は、勝てないっていうように。
勝頼が来る来ない、どちらにしても北条に使いをやることは必要。 昌幸は口ではいいこと言っているが、内心は勝頼を拒絶したかったのだろ。そんなことが見抜けない勝頼ではなかった。 幸村は、大阪夏の陣の前、仲の良かった姉に手紙を送っている。
その内容は、
秀頼を「殿様」と呼んでいた。
秀頼に感謝し、自分は幸せと書いている。
大坂冬の陣で死ぬつもりだった。
大坂夏の陣は、間違いなく死ぬだろうけど、名誉ある死なら、あれは自分の弟だと伝えてほしいと言った。
そして最後に、真田信繁と書いてあった。
それまで、真田幸村と思われていたらしく、その手紙で、本当の名は、真田信繁じゃないか?
という説が出たらしい。
まあ、司馬遼太郎はこういうのが多いよな。
でも、ときどき、資料を訳さず書いてあって、めんどくさいこともあるけど。 一番いい男はおにいちゃんだろうな。でなきゃ極悪親父の助命なんてできない。 ×勝頼を北条に差出すようなマネ
○勝頼を北条に保護してもらう事前工作 極悪親父「ここで大事なのはだな。織田に勝頼が北条に落ち延びたと伝えることなのじゃ。さすれば織田は北条に引渡しを求めるとわしは踏んでいる。織田と争いになってくれればもっと勢力を広げられるというものじゃ」ぐらい考えてそうだな 漫画か小説を鵜呑みにしてるみたいだけど昌幸ってけっこう義理堅いよ。 北条側の謀略でかすめとられたというのは物語
実際には沼田の北条軍が名胡桃城を急襲して奪い取ったという事だけが事実
直後に秀吉が北条側の攻撃を非難した書状を昌幸に送った事は事実 でも、碁盤上に打ち込まれた碁石というか謀略の一手というか、
沼田を北条に与えて、名胡桃を真田に与えたのは秀吉の戦略だろう
秀吉「名胡桃は真田の先祖の墓が在る土地なので真田の土地である」と云っている
これに対して昌幸は「名胡桃には真田の墓など無い。これは秀吉の謀である」と云っている 名胡桃を真田領にしておくことが上州騒乱を誘発する火種として仕組まれたことは事実だろう
それが昌幸の謀略なのか秀吉の謀略なのか、あるいは両者の共謀なのか、
いろいろ説がある
俺的には、どれもそれなりに説得力があると思える 主犯秀吉、手先昌幸くらいじゃないの
>>75
ほうほう、なんの書物で言ってるの? 「名胡桃には真田の墓など無い。これは秀吉の謀である」
長国寺殿御事蹟稿 名胡桃には真田氏の墓が無かったことは事実だが、
当時の誰がその事実を認識し、
誰が誰の策謀だと考えていたのかが大事
で、>>78の記述内容は誰による発言? 長国寺殿御事蹟稿は 昌幸が云った事、行なった事を纏めた本 ということは、昌幸自身は秀吉の策謀と考えていたのか
北条が暴発して滅ぼす口実が産まれるよう、真田を利用したか だから名胡桃が盗られたとき手を出さずに秀吉の裁定を待ったんだろうね 名胡桃は沼田から近過ぎるし、川を挟んで真正面には北条方の砦が在るし 国境最前線の守りの城としては危な過ぎる
形状的にも出るのも入るのも一方向だけに限定されてしまう城で戦略的に使い道が難しい城だと思う
だからあっさり盗られてしまったわけだし、城代は置いていても元々増援を出してまでは守る気もなかったんじゃないかな 信玄好きとしては、幸村より幸隆、昌幸のが好きだなぁ
信繁(幸村)も信玄の弟を尊敬してて名をつけたんだよね昌幸が
信玄・謙信に天才と言われた幸隆格好よすぎ
信玄に、我が眼と言われた昌幸も格好よすぎ
真田の旗の六紋銭はあの世の駄賃という意味と
生涯、信玄公の恩顧を忘れぬ為と言う意味もある
真田一族の仇敵であった武田家だが、若き日の信玄の才能を見抜き
真田家の復興をたくし、忠誠を誓い仕えた幸隆(幸綱)は真田家の名を残した中興の祖 鈴木主水は責任を取って割腹したんだっけな
でも、結果としてそれが秀吉公の北条征伐の口実になった
北条戦での割田下総守の活躍もなかなかおもしろい
真田の極めつけは上田城で徳川を撃退した戦い
上田城はワザと敵を浸入させてから叩く特異な構造の城だったらしい
山本勘介と馬場美濃の作だっけ?
勢いに乗ってウカツに追撃した徳川軍が手痛くやられるのも仕方ないか 沼田領問題を秀吉に持ち込む際、昌幸の肚には
秀吉の裁定結果とは異なる別案でもあったのだろうか しかし秀吉の威を借りた、というより利用した北条潰しで、
ちゃっかり領土拡張のおこぼれにあずかる昌幸 勝永隊も本陣突入しなかったか?つか、勝永が先に突入・蹂躙ってな説もあったり。 どうだろな。
そもそも本陣まで辿り付けてないし(旗本に被害が無い)
大坂の陣関係の一次史料だと細川書状や多門院日記とか
後藤や信繁や明石が無類の活躍したとか書いてあるが勝永は無い >>90
『真田太平記(ドラマ)』だと毛利勝永隊は活躍してるのにな 昌幸・幸村は兵を統率するタイプだが、将を統率するタイプじゃないだろ。
直接命令を下せる人数なら実力を発揮するが、それ以上の数になると、
中間の将を動かさないといけないからな。 10万石だと複数備だから将を統率するタイプじゃないなんて言ってられないだろ?
実際に配下に大将が複数いてそれで戦ってたんだし
信繁の大坂の陣配下6000兵ってのも同規模 犬伏の陣の場所行ったけどあっさりしすぎて悲しかった 真田幸村博っていうのがあるんだ(´・ω・`)
今年から来年は幸村年になりそうだね >>92
タイプじゃないというか、やった事がないだけじゃん。
適正があるかどうかは別の問題だ。 真田昌幸の架空名シーン
@1582年 勝頼を岩櫃に迎え織田の大軍と戦う
A1600年 石田三成らとともに関が原で戦う
A1614年 大阪城に息子とともに入城し、家康を大いに苦しめる 江戸時代、松代藩の藩政は厳しく、圧政から一揆が頻発
一揆首謀者は打ち首
また、重税軽減を松代藩に願い出れば、その首謀者も磔
また幕府に訴え出れば、松代藩が叱りを受けるため、その首謀者のみならず
その村ごと焼き討ち、親類縁者皆殺しと相成った
松代城焼失は、そんな村人の恨みを買っての事と思われる