【義景】越前朝倉家総合スレ2【宗滴】
信長包囲網の一環を担った戦国大名・朝倉氏を語りましょう!
義景以外の朝倉家、また浅井家、その他関わりのある事象・戦・人物なんでもおk!
特に姉川の戦いを語りたい人大歓迎!
■前スレ
【戦国の金】 朝倉義景総合スレ 【官職】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1152866449/ >>364
なるほど、納得です
志賀の陣の目的はなんだったのかな?
義景自身は決戦を仕掛けるつもりだったけど、家臣が消極的だったのかな? ようやく朝倉義景で信長の野望大志にて天下統一記念書き込み。
真柄直隆の墓のある寺と佐々成政のいた小丸城が遊び場だった俺がそっと通りすぎる >>367
地元では真柄は知られているの?
真柄の屋敷跡があるよね 末裔もいるはずなんだよねウィキペによると
丹羽に所領安堵された「真柄」がいるので 真柄氏は落ち延びた一族の中に
越後に逃れて油田(草水)採掘で財を成した一族がいる
日本有数の油田として近代まで採掘されてたぐらい有名
他の一族も筑後で越前和紙の製造法を伝えて現代でも地元の伝統技能として
大切に保存、伝承されてたりする
真柄さんの一族は何気に商才に長けている
だが何故か地元の真柄庄は一面、田んぼばかり… >>369
>>370
勉強になりましたありがとうごさいます
質問ですが三段崎勘右衛門の領地は何処でしょうか? >>368
今は分からないんだけど小学生の遠足でお墓の前ですごくでかくて大きな刀を持った人がいたと説明はありましたね。
自分は直隆の墓の近くに母方の先祖の墓があるので小さい時から住職にお話は聞いてました。
織田軍が進行してきた時に住民の家屋だけでなくいくつかの寺の焼き討ちがあって今でも特定の場所を掘ると砕けた墓石が出てきたりするので、お年寄りの中には信長に恨みを持っている人はいたりします。
昔付き合ってた彼女が織田町の子で、なんでよりによって織田側(笑)と歴史好きな叔父に言われたことある(笑)
あ 直隆の屋敷跡は分からないです。特定されてるのな? >>372
ありがとうございます。地元では語られているんですね
信長の侵攻で焼き討ちがあったのですか!大変に興味深いです、恨みを買って後の一揆に影響したかも知れませんね
下真柄と徳間に館があったみたいですが遺構は何も残っていなくて田畑になっていました。 また、まことは、ハッキングの証拠を
警察に持って行かれることを恐れている 鶴瓶の家族に乾杯、福井県越前市の回で真柄さん出てきたね >>361
良港があるからだね。
正妻と長男が死んで(毒殺が濃厚)引き籠ってやる気をなくす前の、義景は、中国との貿易を始めて、畿内で売って莫大な利益を上がていたから。
それ以外にも東北は出羽や南は琉球、大きな所だと九州の島津氏とも交易をしていたから港は重視するよ。
ガラス細工の生産も始めて、刀に付ける飾りを作って売っていたみたいだしね。 朝倉義景のこと調べれば調べるほど世間で言われるような
戦嫌いの文弱の徒、ではなくて、むしろ正反対の好戦的な
当主だったんじゃないかと思えてきた。
まあ、好戦的なのと戦上手とはイコールどはないんだが、
大事なところで踏ん張れず兵を返したりするのは、朝倉軍が
義景の意図どおりに動けない構造だったからなんじゃないかな?
いかん、休日に酒飲みながら文を書くと何がなんだかわからんものになるわ。
要はですね、今夜のブラタモリ楽しみですね、ということです。酔いがまわるので寝ます。 義景がどんなやつでも信長と正面から何年も対峙すれば疲弊し崩壊するよ
長政だって最後は少数の秀吉にはね返されて小谷から動けなかった 今回のテニス中継そこそこ視聴率あっただろうし
翌週に放送延期するブラタモリにとってはある意味良い宣伝になったかも 今年は雪が全くないのー 去年の2月は酷かったが
去年の雪が、戦国時代のデフォルトだとすれば、雪国の大名が冬に領国にこもるのは、当然だろうなと思う 戦国時代って小氷河期みたいなもんだったらしいからなあ。
義景も太平洋側に生まれてたら、性格も変わったかもしれん。 ブラタモリ、金隠しの印象強すぎて他の内容が思い出せん。 景鏡の父ちゃんの戒名とかは判明してるのに
死没年とか死没地がどこなのか分からんのは何でなん(´・ω・`) wikiに景鏡の母親が「烏丸冬光娘」って書いてあるが、本当なのか?
朝倉景高の妾だったかもしれんが、はっきり景鏡の母親と書いてある史料あるのか?
朝倉氏関係の書籍にも景鏡が復権できたのも母親が烏丸冬光の娘「だったからかもしれない」
と推測の形でしか記述されていないと思うんだが。
あと、息子の一人を人質の意味を込めて秀吉の養子にしたらしい。 一揆衆が平泉寺の周辺まで攻め込んできた際に
占星術を用いて籠城策を主張したら平泉寺の坊主どもに馬鹿にされて
逸った坊主どもが一揆衆の砦を奇襲した結果
一揆衆に逆襲されて哀れ討死の土橋信鏡さん…
領地の大野郡の土地の一部を京の公家に寄進して
その土地から徴収した金兵糧を京に送った際に
越前大野の秋の味覚も一緒にどうぞと柿や栗を添える心遣いに
風流のある人物だと公家から褒められた土橋信鏡さん… おお偉大なハルトマン おお偉大なハルトマン 永遠に果て無く栄えよ おお我らがハルトマン おお我らがハルトマン 銀河に名立たる王者よ 星々を手折り束ねて全て捧げてしまえば皆を約束の地へと導く銀河の父よ
おお輝けハルトマン おお輝けハルトマン 過去に未来に現在に おお讃えよハルトマン おお讃えよハルトマン 讃え願えば叶う 宇宙を舞う青き翼も夢歌う桃色の花も 心その身さえ捧げよ我らが父へ
おお崇めよハルトマン おお崇めよハルトマン 主への絶対の忠誠 おお願えよハルトマン おお願えよハルトマン 黄金の化身を信じて 手に入れし野望儚く彼方へと消えゆくは記憶 時を巡る歯車疑視めて願うは父よ >>398
そう。
京都に逃れて何やら企んでいたら兄貴の要請に応じた幕府によって追放の憂き目に。
今度は若狭武田氏のもとで朝倉の敵対勢力である斯波氏や本願寺と図って越前侵攻を
企てるも実現せず、これ以上の敵対を望まない武田氏により若狭からも追い出される形と
なり、堺へ移りそこから西国へ出奔しその後の足取りは不明。
駿河の朝倉氏との関係?ガセじゃないかねえ? 朝倉といえば九頭竜川の戦いと真柄直隆と山崎吉家かなぁ >>383
景鏡派が権力を握って義景は晩年はまともに政治出来ていないからなぁ。
他の名将の戦国大名と同じく、軍用道路を作って迅速な兵の派遣を実現した人だったし、
明や東南アジアと交易を始めて利益を上げたり、家臣の争いに自分が出陣して収めるとか即決即断の人だったのが、
晩年の政策がころころかわるのは、指示を出す人が義景と景鏡の2人いたからじゃないって話もある。
正妻が毒殺されてから、一気に景鏡が優位に立っているから、義景は六角氏からの養子説もあるし。 じゃあその景鏡支持派の朝倉家中の一人でも名前上げてみなよ
大野氏とか勝山氏、嶋田氏とかが支持してた話はどこにある?
景鏡お膝元を治めていた大野氏なんて義景の義弟だぞ
景鏡直属の重臣層で大野郡司内で名前が上がる武将なんて辛うじて竹若氏、桜井氏ぐらいか?
軍用道路の朝倉街道の整備拡張だって一番盛んに行われた時期は斯波氏シンパが国道旧8号線沿いの
北陸街道沿いにうじゃうじゃいた義景統治時代のずっと前から行われていた朝倉氏の重要施策の一つだぞ
義景称賛の根拠がフワフワした説得力のない話ばかりじゃん その義弟云々という話もヨタ話みたいじゃあないか。
よくわからん家系図に書かれてる話でしょ。
景鏡派っちゅうのは自分も信用できんがね。 朝倉宗滴が、もし壮健な状態で生きていて、信長と戦ったらどちらが勝つかは見てみたいな。宗滴だと兵力差だけで勝てるとは限らないし。 そもそも兵質なんてものがあるのかどうか定かではないけど
尾張は弱兵で三河は精強な兵質なんて言われたりする
九頭竜川の戦いから織田家の金ケ崎攻略までの約60年間、国内に攻め込まれる大きな戦いがなかった
越前兵は弱いというよりかは防衛戦に対する気構えや経験値が無さ過ぎた
織田が敦賀の街を囲んだ時も民は城には入らず織田から禁制を得て織田方に協力したり
一乗谷侵入ではせっかくの一乗谷城に兵が籠らず逃散してまともな抵抗は出来なかった 大坂冬の陣や第二次世界大戦時に
鯖江の兵が活躍したなんて言われてるけど
基本、穏やかでのんびりした人が多い福井の人間が
争い事で他の地域を圧倒するイメージがないw >>408
三河物語だけしか記録がないから疑わしい。 (あの信長を土下座させたと喜ぶ家臣に対して)
義景「土下座はタダや!」 >>407
応仁の乱で、他を圧倒しているじゃない。応仁の乱で部隊として最強だったのが朝倉孝景の部隊だし。
>>402
景鏡は、宗滴の後を継いだ景紀の子の景垙を総大将争いで自刃させているから、権力は掌握していたんじゃない。
景紀もその事件で隠居しているし。 武田が織田を攻めるとわかっていたのに前波とか富田とかの大身が裏切ってるけど武田が来ても勝ち目ないとか思ってたんかな?
信玄死ななかったら良い勝負になりそうだけど 信玄が動いた頃は浅井朝倉は疲弊しきってて手遅れ
仮に信玄が長生きしても信長は三河に一万入れてるから信玄はこれを突破しないと尾張に行けない
手こずれば織田は各地から手の空いてる増援が続々到着する、さらに浜松の家康もいる
伊勢長島は押し込まれて嫌がらせにもならない
信玄が本気で信長を倒すなら志賀の陣までだよ 昨年出た酔象の流儀って小説
このスレでもっと話題になってるかと思った もう発売以来3年以上「1534年・信長誕生」シナリオで
戦国立志伝・山崎吉家プレイに没頭してる俺でさえ
あまり読みたいとは思わないなあ>>414
あらすじからしてフィクション臭が凄い感じだし >>406
尾張弱兵?
上洛軍の快進撃、信長帰ったあとに
三好の大軍やってくるも信長抜きで撃退。
関ヶ原前哨戦では織田秀信速攻で撃破し速攻で岐阜城落として
関ヶ原では3倍の宇喜多隊相手に何の作戦もなしに
朝から最後まで戦ってた尾張兵が弱いは無いわ。
尾張弱いは徳川による織田下げのせい。
姉川で織田が半分の浅井に押されて
徳川は倍の朝倉相手に健闘したってやつのせいだが、
あんなもん負ければ後がなく背水の陣だった浅井軍と
ただの援軍で負ければ引き揚げればいいや程度で
総大将さえ出てない朝倉軍では浅井軍の方が強くて当然。
しかも浅井は1万で六角軍2万5000相手に奇襲ではなく真っ向から戦って勝ってて野戦に強い。
徳川こそ弱兵。
真田になんどもこてんぱんにやられ
たった島津300追撃したら逆に井伊直政、松平忠吉鉄砲くらって重傷、
本多忠勝の馬にも命中し落馬し負傷。
大坂でも苦戦しまくり外様のおかげでなんとか勝利するも、
毛利勝永隊に縦横無尽に暴れられて大名二人戦死、一人重傷戦後死亡出す弱兵ぶり。 >>416
>本多忠勝の馬にも命中し落馬し負傷。
生涯無傷じゃなかったのかよ。 >>417
鉄砲食らって暴れられた馬から落ちて無傷はあり得ない。 >>413
姉川で武田が徳川領(家康不在)や美濃に進攻したら面白かったのにね >>419
その頃の武田は北条と交戦中。
同盟組むのは氏康死後。
上杉とも交戦中で全軍揚げて徳川とは戦えない。 >>405
これは見たかったね
宗滴総大将出陣なら越前勢の士気高いだろうね 一乗谷城本丸跡まで登ってきたよ
1週間前に登山道にて熊目撃情報アリの注意書きがあって、めちゃ怖かった
道もあんまり整備されてなかったけど、でも山城は登城した時の達成感がやっぱすごい
名古屋の人間からすると日本海側の地理感覚があんまわかんないけど、思ったより京に近いんだね
近江越したらすぐって感じ
北ノ庄や一乗谷城は金沢ぐらいの感覚でいました >>422
館跡から登る登山道はまだ通行止めだった? >>423
通行止めでした
あの道が通れればぐるっと一周できるルートが取れるんですけど、仕方ないですね
館跡や史跡群がなかなか立派で平日でも結構観光客がいましたよ
復原街並では登山靴、トレッキングポール持ちの自分は完全に浮いてました >>424
まだ通行止めでしたかありがとうございます。
義景も登ったであろう登山道をいつか歩きたいですね。
一乗谷は良いですよね、私は何度も訪れています。 子供の頃に福井に引っ越したんだけど歴史の授業中に
福井の朝倉氏は教科書にも載ってるじゃん、凄いってはしゃいでたら
先生もクラスメイトもハイ、ハイそこにはあまり触れない…みたいな感じで
何か福井の恥部みたいな感じで総スルーされた思い出がある
その後、福井からも出て行ってもう何十年も経ったけど
昔の福井って朝倉氏に関してはむしろ隠したい歴史みたいな扱いじゃなかった??
柴田勝家だって少なくとも80年代頃は福井県民からしてもピンときてなかったように見えたけど
朝倉氏、勝家公を称える雰囲気って昔っから嶺北にあったと思う? >>426
よそ者の意見ですが、一乗谷の遺構がまるっと出てきたことが観光面で大きいかと思います。
勝家が一乗谷を放棄して別の場所に街を作ったことで一乗谷がそのまま土に埋もれて破壊されなかったわけです。 >>426
歴史や日本史の教科書に載ってたね
上空から一乗谷撮られてて、館、城下町、山城って説明されてたよ
子供ながらにドキドキして眺めてたよ 88年に初めて県が主催の義景を冠した祭りが始まったんだっけか
昔は柴田神社もソープ横のこじんまりとした立ちションスポットみたいな扱いだった 戦国時代の知名度としては織田豊臣徳川武田上杉毛利伊達辺りが誰でも知ってるレベルで、
他は興味がないと知りもしない的な感じじゃないかな
朝倉に触れたくないとかよりはそこまで深い興味が無かっただけでは もし宗滴の爺さんが元気に信長の時代に健在だったら、信長はこの爺さんと戦う道を選んだだろうか。
朝倉軍2万で総大将がこの爺さんだとかなり強そう。 朝倉勢て一向一揆と織田の他に有名な戦てなにがあるの?
美濃あたりに進出してたのは聞いたことあるけど 有名か分からんけど
若狭国吉城攻めや近江小谷城攻めかな >>433
若狭など弱い者虐めは得意だったようだ。
まあ、朝倉義景など、今の福井県でも嘲笑されている馬鹿者だけどね。 弱った相手からこそ攻めかかるのが戦国大名じゃ?最盛期の同格や格上相手に攻めかかる大名ほどバカいないと思うけど
っていうかそれこそいつの間にか格上戦を長期やる事になった義景にそれを言うのか 家中の同族が言う事聞かない割りに権力が大きいせいで当主権力が低いわ
隣に一揆衆控えてるわ、浅井は役に立たない癖に最悪の状況で裏切って織田とのデスマッチ強制参加させられるわ
この状態で3年どつき合いしたわけでしょ?
再評価されるに値する将だとは思うけど、もちろん文句なしの名将ではないけどもいまの評価は低いやろって意味でd
というか裏切りクソ野郎の浅井よりは一応最後まで面倒見切った朝倉のがよほど義理堅いやろ >>437
>浅井は役に立たない癖に最悪の状況で裏切って織田とのデスマッチ強制参加させられるわ
ぶざけるな!てめぇのために浅井が裏切ったんだぞ。
むしろ、浅井長政が嘆いたように、朝倉義景のような糞に巻き込まれて
滅亡するのが悔しい、ってのが真相だぞ。 まあ、福井県を代表する戦国大名はあくまで柴田勝家であり、
朝倉義景は完全に空気だからな。 いや、浅井なんて朝倉家の不倶戴天の仇やんけ
ましてや浅井、織田の要望かなえられず織田も京極家に注力しだす程織田から軽んじられつつあったし
浅井にどんなロマン持ってるかわからんが、あいつザ・畿内の国衆って行動しかしてないぞ
浅井なんて信用できない相手に妹嫁がせたりした織田の外交下手が発端 朝倉のために浅井が裏切ったってのはかなり時代遅れの見解で
今はむしろ浅井が織田を裏切るために後ろ盾に朝倉を引っ張り出したって感じだな 属国って程の低い扱いではなかったんだろうけど
朝倉にとっての下位同盟者って感じだったのかな
織田と徳川が織徳同盟結んだときは勢力差が極端にあった訳ではないけど
徳川は完全な格下状態として同盟したみたいな状態に朝倉浅井も近いものだったのだろうか 古いというか珍説レベルじゃないかねそれ
六角と京極、朝倉の間を表裏比興に立ち回ってるけど、あくまで国衆として独立してるのは裁許なんかでわかるし 属国説みたいな見方がされてるのは一乗谷と小谷の間に堅固な城がないから
敵対するような存在ではなかったのだろうという見方からほぼ家臣扱いしても問題ないんじゃないかとか
朝倉街道筋に浅井は屋敷を与えられてたからだとかその辺が根拠みたいにして語られてるんだったっけか
朝倉氏の通字の「景」を貰ってる武将が浅井にはほぼいないから家臣とは言えないだろうなあ
浅井家臣に多く見られる通字は亮政の兄の稙政からの「稙」だったはずだし >>416
姉川の戦いは最近の定説だと、布陣した場所に1万以上の兵を置くスペースがなくて合戦が出来る状況じゃないことと、姉川じゃない場所で主力部隊が朝倉本隊と対峙していた資料があることと、
姉川が血に染まったって書いた徳川の歴史家がお江の方に忖度して徳川と浅井軍を活躍させた創作説が有力で、
実際だと、無人の天幕と篝火で徳川軍と織田の前線部隊を引き付けた朝倉景健が、浅井軍と合流して、姉川の信長本陣を強襲。
信長が防衛陣を敷いてしのいで、だまされた前線部隊が戻って来ると、真柄隊が殿に残って全軍撤退。徳川軍は追撃でしか戦っていないって感じだね。
活躍度でいえば、浅井・朝倉の猛攻をしのぎ切った信長、戦死はしたけど、本隊に追撃をさせずに織田、徳川の足止めを成功させた真柄じゃないかな。さげ >>449
事実なら朝倉景健の評価上がるわ
決死の殿真柄天晴れだね 斜陽の朝倉家中にあって、刀禰坂とか朝倉景健は頑張ってたイメージ。 刀禰坂における信長の追撃をよく振り切ったので戦才有りそうにも思うんだけど
一揆軍にも信長にも簡単に頭下げて許しは請うわ腹切らされるわ評価しづらい武将だよね
早くに病没した景健の兄達って名前さえも分からないのかなあ >>445
織田徳川に外交上の明確な上下関係が生まれるのは長篠以降で、それまでは対等
いつまでも京極氏の家臣扱いの浅井とは全然違う >>432
宗滴が亡くなってから、宗滴一派が景鏡の策略で一掃されて軍事権を景鏡に握ら得るまでは、
(足利義昭.明智光秀と朝倉家が名目上擁立していた鞍谷公方の争いと、そのさなかに起きた、鞍谷公方の娘と、その間に出来た跡取りを毒殺で亡くしたのと、
金ヶ崎の責任を取らされて景恒が失脚、景鏡と争った景紀の嫡男の景垙が切腹、宗滴の後を継いだ景紀も隠居)
義景が軍事の権限を押さえていて、その期間は、義景は加賀に何度も自ら出兵しているけど、その時の朝倉軍は義景の相手の先手を取る迅速な兵の展開と、新しい兵法を取り入れたり、優秀な若手を抜擢したりして、宗滴が健在の時と変わらないぐらい強かったから、
宗滴じゃなくても、義景が権力を完全に握っていた時ならいい勝負になったんじゃないかな。 景鏡って、
金ヶ崎では、諸説はあるけど、織田軍が迫っているのに内部抗争をして、総大将の地位を得るけど、金ヶ崎城が落城するまで様子見して、
追撃戦では、織田軍より、敦賀郡司を廃したり、政敵の景紀派を一掃したり、義景の力を削いで権力を握る事を優先してあの有様、姉川でも出兵拒否、義景が取り立てていた剣豪を追放したりと、
この足の引っ張り具合は、もう金ヶ崎に侵攻した時点で織田と通じていたんじゃないかって思う。 金ケ崎の戦いにおける景鏡の動きは通説としてそういった話が語られるけど
景鏡は金ヶ崎の救援に向かった軍勢には入っておらず
越美国境の麻那姫湖近辺で防御の任にあたっていた
という記事を読んで驚いた記憶がある
郷土史家個人のサイトとかの怪しいものではなく
朝倉氏の研究をキチンとされてる方のサイト内にあった
しっかりとした史料の中の一文だった
戦後、美濃の垂井・赤坂を放火してまわったというのが事実なら
敦賀には行っていたような感じもするけど 朝倉氏滅亡時に織田信長が上杉謙信宛に越前府中から手紙を出してるけど
その中の一文に景鏡の首も取るって書いてたような気がする
ただ信長に直接通じていなくても信長配下の武将を通じて
景鏡が降る意向を伝えていた可能性はあるね
稲葉一鉄がその意向を伝えられていたとも
景鏡助命を秀吉自らが信長に懇願したとかいくつかの説はある 朝倉始末記だと、景鏡は、義昭が越前に来ている時は、堀江景忠を粛正しようとして、反乱を起こされて大規模な内乱に発展させるは、
金ヶ崎の時は、救援の軍を府中で止めてわざと落城させるは、軍奉行という軍事のトップにたったのに主要な戦いでは日和ったり、不穏な動きをして軍事行動を瓦解させたりと完全に悪役なんですよね。
生き残った朝倉家の家臣が書いた本だから、景鏡は恨みを買ってそうだから余計に酷い書かれようなのかもだけど。 可児才蔵の母親を側室にしてた朝倉氏って誰なんだろう? 「室町幕府からの名家で、一乗谷を中心に小京都ともいうべき美しく豊かな国・越前を思うがままに営んでいる。」
朝倉は守護代から下克上で戦国大名にのし上がった立場だろうに名家って。 朝倉氏は斯波氏に招かれて但馬からやってきて越前国内に領地を与えられるんだけど
黒丸の朝倉氏領の真横に大和国外では最大規模と言われた興福寺所有の荘園があった
戦乱によって遠く越前の荘園管理はままならなくなり易々と朝倉氏に横領されてしまった
英林孝景が一乗谷に本拠を移す前の事だったか後の事だったか… 但馬の朝倉氏まで含めてしまえば「朝倉氏は室町幕府からの名家」と言えるのかもしれない