【義景】越前朝倉家総合スレ2【宗滴】
信長包囲網の一環を担った戦国大名・朝倉氏を語りましょう!
義景以外の朝倉家、また浅井家、その他関わりのある事象・戦・人物なんでもおk!
特に姉川の戦いを語りたい人大歓迎!
■前スレ
【戦国の金】 朝倉義景総合スレ 【官職】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1152866449/ .ノ′ } 〕 ,ノ .゙'┬′ .,ノ
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{ ¨^^¨′¨'ー-v-r《 〔 甲斐武田みたいに親族が裏切るとあっさり滅亡するのな。
越前ってかなりの大国なのに。 朝倉ってどの時点で滅亡?
義景死亡で滅亡と考えるなら景鏡は当主襲って敵に降伏という最も滅亡に近い形の裏切りだったから仕方ない 大河ドラマの信長見てるけど
義景って本当にやる気ないなw
今川氏真より少しマシな程度w そういえば前スレの【戦国の金】【官職】ってどういう意味だったん? 戦国大戦ってゲームで初めて朝倉家を知った
自分は浅井・朝倉勢力を使ってる お尋ねします
宗滴話記.をまとめた萩原宗俊の息子(長男?)の
萩原久得って方がいるようなのですが
ぐぐっても出てきません
どなたかご存知無いですか? 北条早雲は話題に上がるのに、朝倉孝景はなぜ知名度が低いんだろう
やってることは早雲と変わらないような気がするけど 室町幕府ナンバー2の斯波義廉を影で操って、応仁の乱にも大きく関わる英林孝景と
ただの地方群雄の北条早雲は同列ではない 孝景は守護代から守護というランクアップが地味なんだよな
早雲は素浪人からの成り上がりという虚構が人口に膾炙してるし >>15
だが守護代ってもにわか守護代でしょ?
甲斐氏がずっと守護代やってきたわけだし…
なんてこと言ってる時点で一般人の範疇からずれてますね、すいませんでしたm(__)m 義景の子孫について何かご存知の方いませんか?
義景には「べん」という末娘がいるみたいで、どこかのお殿様?に「木下」という
名字をもらっているらしいんです。どなたかお詳しい方いませんか?? >>18
実は私の母方の先祖が義景だそうで、義景の末娘の子供が祖母の父の祖母?で、
祖母の実家にある家系図はそうなっていると。
確かに祖母の出身は福井だけど、私はまだ家系図を見たわけではないし(写し書きは見ました)、
どこを調べても「べん」という末娘の情報はありませんでした。
何か怪しいというか、本当なのかまだ疑っています。
なんでもいいので何か知っている方がいたら教えてもらえないかと思いまして。 朝倉家は代々働き者なのに義景だけは怠け者なんだよね、チャンスは有ったのに。 >>20
もう少し調べてから書いた方がいいと思うの。
それこそあんたが「怠け者」って言われちゃうの。
えーと、釣りでした? 戦国大戦の義景はインパクトあるよな
あれなんでああいうキャラデザになったのかな?
史実もあんな変わった人間だっけ? >>26
怠け者でも無能でもなかったら何なの?ねえ何なの? 義景は福井の人たちには愛されてるから、あんまり酷く言ってやるな
浅井長政が泣くぜ? 信長に連戦連勝して無敗だったからすげー有能だろ。
義昭が降伏して奉公衆のいる志賀郡や高島郡と将軍任国若狭国が離反し始めたために、
琵琶湖北岸から若狭への回廊ルートが動揺した為に、
越前帰国が出来なくなる前に無理やり帰国しようとして、
撤退中の背後を噛まれて朝倉軍が崩壊した唯一の失策があっただけだしな。
義昭のバカが全て悪い。 これを菅沼遼太史観と言う
なお史料には存在しないw 真木景なお−−−−−マイク真木−真木蔵人
真木景なおって朝倉氏のどの系統なのよ? 歴代の朝倉家当主なら信長が岐阜攻めしている最中に必ずチャチ入れて、好きなようにはさせなかったはず、ぼっちゃんじゃ無理か、家臣はそこそこ優秀なのに。 >>39
当時の義景に何が出来ただろうか?
若狭の国衆、加賀の一揆衆と東西を警戒してなきゃいけなかった朝倉に >>39
信長の岐阜攻めよりかなり前だが、郡上郡に侵攻していたようだ。
彼の地の一向一揆の蠢動を抑えるための出兵だったが、現地勢力に阻まれて不成功に終わっている。
まあ美濃平野とはかなり隔たってはいるがね。 姉川の戦いに義景は参戦するつもりだったのかな?
矛盾したことを書いているようだが、つまり、
景健率いる一万数千の部隊は先陣で、本隊は義景自ら率いて小谷城へ押し寄せる手筈だったのでは?ということ。
ちょうど天正三年に景鏡を先陣に押し寄せたのと同様に守旧が朝倉の基本路線だったのかな、と思って。 歴ゲーの義景の能力値が納得いかん。
濃尾百万石の大勢力と化した信長を最も苦しめた戦国武将は信玄でも謙信でもない、
ほかならぬ義景だ。
最低、浅井長政と同レベルの能力値であるべきだ。 漫画センゴクの一乗谷編は一番好きだったなぁ。実際、最後は義景は何を思ったかねー。 >>44
確か織田か浅井だったかの史料に、催促していたにも関わらず義景自らの後詰が無い事がわかって長政が落胆したという記述を読んだ事がある
その翌日に長政は即断して篭城策から野戦の布陣に行動を移し、姉川の決戦へと続いたみたいな感じ
朝倉当主の出陣は朝倉家では家訓で禁じられた異例の事態だったし、景健の先陣部隊だけでも充分な援軍だったように思えるけどな 越前・美濃の国境地帯の郡上郡は洒落にならないぐらいの豪雪地帯
本当は越前(福井嶺北地方国境)は60年ほど前(1950年代)はもっと美濃側にやや突き出していて
冬季の集落孤立等の問題でその地域を奥美濃地域へ編入させたぐらい地域の交通が遮断されていた
実際、その地域を治めていた神官系国人の石徹白氏も越前国内の国人でありながら
美濃郡上郡の東氏と婚姻、影響下に置かれていても朝倉氏からお咎めなしの放置状態の地域でもあった
石徹白氏が白山参拝の入山料の件で地元集落と揉めたとき、石徹白氏から乞われる形でもって
やっと郡上郡へ朝倉氏が兵を出したぐらいのもので、基本的には往来し難い点が災い(幸い?)して
お互いに積極的に干渉しない(出来ない)という感じもあったんではないかな
後、考えられるのは義景の母が若狭武田氏の出自である為、若狭地域の情勢のほうが義景には重要であったのかも
父の孝景は母が美濃守護代斎藤氏の出自なので、美濃地方へ干渉したがったのかもしれない 朝倉氏最盛期にも越前国内に朝倉派ではない国人も存在したのか >>53
処刑された池田氏は義景か親父の代になってようやく朝倉に膝を屈したそうな。
それまでは斯波氏に仕えて主君が朝倉氏と姻戚関係になっても裏で何やかやと
策動していたそうな。明確な反朝倉と言うわけではないが。 1540年代に孝景と池田氏が共同で寺社を再建したりした記録があるから
おそらくその時期が越前国内の完全統治が完了した時期なんだろうな
金ヶ崎の撤退戦で活躍した信長傘下の摂津池田氏が越前征伐に参加したのは
越前池田氏の遠戚だったので調略担当として参加させたって考える人もいるらしい 朝倉の家臣説もある浅井は除くとして
越前と若狭以外の土地には朝倉に臣従してた
在地勢力みたいな存在っていなかったのかな? >>56
正確な時期はわからないしおそらく短期間だとは思うけど
美濃・揖斐郡の辺りの国人領主の徳山氏が主君である斎藤(土岐?)氏に
過去の敵対を理由に河川の水運を全て止められてしまった事があって
孝景が越前府中の塩販売所の近くに所領を与えて配下に加えた事がある
おそらく織田氏と共同で稲葉山城を攻めた時期の出来事だと思う
現在の国道157号線のルートを徳山氏に道中案内させた記述が残る 近江では十乗坊城の多胡氏、田中城の田中氏が朝倉方について織田信長と戦っている
特に多胡氏の場合は、人質を義景に出してるみたいだから関係はかなり深いようだ そういえば琵琶湖湖西地区で働いてた時
多胡さんって名字の人がいたなあ
珍しい名字だなって当時は思ってたけど その多胡氏があれこれ近隣の不穏な情勢を朝倉氏に言いまくるもんだから
朝倉氏もあちこち動き回ざるをえなかったという…
重臣・山崎吉家が小谷救援の判断を下さなければいけない大事なときに不在だったのは
多胡氏の要請に従ってあちこち転戦してたからなのか 浅井と一向宗側が制していた志賀郡攻防戦に絡んでるから仕方ないでしょ
彼らへの軍事的バックアップを朝倉がやることで、
織田軍が湖西方面から高島郡を経由する迂回北上で敦賀方面から
浅井らの背後を襲ったり、朝倉の撤退路が脅かされるリスクを考えなくてよかったんだから。
しかし将軍降伏で彼ら将軍奉公衆組が瓦解してしまい、
朝倉軍は退路を脅かされることになり、
浅井を見捨てての無茶な撤退を余儀なくされた。 朝倉氏関係者が駿河大納言忠長卿の家老をしていた。その後の足取りは、不明
家光と将軍の座を争って命を落とした、駿河大納言忠長卿の忘れ形見である。 >>62
その後の足取りははっきりしとるがなあ。
あの朝倉って吹聴してるだけで越前朝倉とは別系統じゃないかね?
あのあたりの地侍クラスで朝倉氏っておったような…
あるいは本家に反抗して没落した朝倉時景系統か…
いずれにしても景鏡の親父とは縁が無いと思う。 菅沼と一向宗側が制していた志賀郡攻防戦に絡んでるから仕方ないでしょ
彼らへの軍事的バックアップを遼太がやることで、
織田軍が湖西方面から高島郡を経由する迂回北上で敦賀方面から
菅沼らの背後を襲ったり、遼太の撤退路が脅かされるリスクを考えなくてよかったんだから。
しかしだが降伏で彼らだが奉公衆組が瓦解してしまい、
遼太軍は退路を脅かされることになり、
菅沼を見捨てての無茶な撤退を余儀なくされた。 >>63
謙信が越中一向宗に攻勢をかけていたので、
加賀一揆衆は顕如から近江へ出兵依頼がでていたけど
越中一揆を見捨てられなくて近江への出兵ができず
信長はすんでのところで謙信に助けられていた。
細川への信長文書でもネガティブな話ばかりが書かれている中で
最後に謙信が北陸一向宗に勝った話をだして締めくくっているほど。 >>67
朝倉氏が南加賀をどのように統治したかを聞いてるんじゃねえの
朝倉氏のことよく知らないなら無理に書き込みに来なくていいんだよ
朝倉氏にも詳しい菅沼さんの爪の垢でも煎じて飲めよドクズ 朝倉が長期占領した最北の地の小松城には同名衆の勝蓮華(青蓮華)氏を城代として入れて統治にあたらせているね 越中で上杉謙信と戦っていた杉浦玄任が加賀の北二郡しか動員できない現状に不満を持って、朝倉に動員されてる南二郡の
兵をわけてくれないかと訴えてるな。義景の頃は加賀半国は朝倉領だったとみてよさそう 一乗谷に行ってきた
とくに台風の被害はなかったもよう 朝倉氏遺跡の近くに北陸ではめずらしい朝鮮学校なんかあるのな
あれって昔からあったのかな? 宗滴が率いていた一団に日本語を話せない集団がいたらしいけど
あれって漂着した中国人か朝鮮人だったのかな 三国と小浜には比較的大きな唐人屋敷があったみたいだし
小規模なものなら敦賀にもあった
なんで国に帰らずに留まっていたんだろうか
宗滴死後は忽然と消えたようだが >>75その時の朝鮮人たちが作った寺子屋が後に>>74の北陸朝鮮学校へとなったと思われる
朝倉氏公認の歴史ある由緒正しい朝鮮学校なんですよ 戎光祥出版から佐藤圭氏『朝倉孝景−戦国大名朝倉氏の礎を築いた猛将−』が来ましたよ!
http://www.amazon.co.jp/dp/4864031266 届いた。
しばらく家を空けてて昨日帰ったらポストに投函されていた。
早速読んでみたが少し期待していた内容と違った。
よく考えたら自分は越前2代目の氏景以降の歴史に興味があるんだった。
著者を責めることはできない。
この調子で続編も書いてくれぬものか。 越前国が戦場にならないように緩衝地帯にしたかったというか…
加賀での権益の多くを地元国人に譲り渡すことによって手なずけて
加賀国からあがる収益は2の次みたいな感じだったんじゃないの
加賀統治の最前線の城代も信頼は置けるがたいした大物ではない家臣を指名してたりするし >>88
加賀国に対して積極的ではなかったんですね。
潰しても潰しても抵抗してくる一向衆と戦いたくなかったんですかね。朝倉は善くも悪くも無理はしないですね。
加賀、能登を領国化し、越中は上杉に。上杉と同盟を結び背後の憂いを無くし南(近江) に専念する
などと私は考えてるんですが 上手くは行きませんね。 朝倉が滅ぼされなければ、一乗谷は今でも栄えていただろうか? 毛利(吉田郡山から広島平野)みたいに福井平野に移るんじゃないかな。 元々は坂井平野辺りに領地貰ってたけど防衛都市としての機能を重視して
周囲が囲まれた地形の一乗谷に移ったんじゃなかったっけ?
三国港からの河川の物流を便利に使えて攻め込まれにくい地形ってのが望みだったんじゃないかな
旧8号線沿いに斯波氏シンパの残党が多かったからそちらの地域に移るよりも
朝倉街道なるものをわざわざ作ってまで一乗谷に籠ったぐらいだし >>89
越前を持ってて加賀なんかどうでも良いだろ(暴論)
統治するのだって無料じゃすまないんだし
越前にシバ、越中に畠山、越後に上杉を置いたのはそれだけ旨味が大きいってこと。
特にシバなんて、足利親族(母親の力関係で嫡流から追い落とされた)なんだから、良い場所を抑えてる。(足利幕府成立に尽力した土岐から尾張も取り上げて与えてるし)
それを乗っ取ったんだから、加賀なんか、積極的に欲しいもんじゃ無いだろ
浅井に肩入れしたついでに京極を滅ぼせてたら良かったんだろうが
そこが、どさくさに美濃、伊勢(超大物北畠、土着豪族関、神戸)、江南(宇田源氏嫡流、超大物土豪六角)と大領を抑えていけた織田との違いなんだろうな。 >>95
返信ありがとうございます
要するに、越前は大国だから加賀などに関わらず近江に目を向けろって事でしょうか?
ですが、京極云々って事は1534年辺りの事と思いますが、当時加賀や越中では一向衆が力を持ち、とても無視できる情勢ではなかったんですが、その事についてどう思われますか? 単純にその頃って朝倉家自体に他国を積極的に取り込もうって概念自体がなかったんでないの?
例えば京都からの文化・経済ルートをスムーズにするために京までの国々を取り込む必要があった家とか
海運や海洋利権を欲した内陸地に領した家ならば他国が欲しいという発想にもなるとは思うが
京に近く大きな港があり石高も大きい豊かな越前国守護家に成り上がった朝倉家が
他国を奪って周辺国の情勢を乱す事はマイナス面のほうが多そう気もするが ポプラ社から少年漫画で義景がでたよ。
無気力とか優柔不断ぶりが美しく描かれてる >>98
私も朝倉に積極的な野心が無かったと思います。
>>89に書きましたが、もしも侵攻するとしたら北(北陸で地盤を固める)または南(近江や畿内、濃尾平野)皆さんはどうしますか? 朝倉氏は足利将軍家の御一門である斯波氏の家来。
今川氏は足利氏の分家の吉良氏のさらに分家。
吉良は斯波より格上なので、今川と比べたら朝倉なんてハナクソ。 >>103
なるほど、よくわかりました教えていただきありがとうございますm(__)m 昔、福井に住んでたときに柴田勝家メインの時代行列みたいなイベントを見たことあるんだけど
あれの朝倉氏バージョンの祭りやイベントってないの?
もしあるなら行ってみたい >>103
所で尾張にも斯波氏っていたけど、あれは足利の分家の方なんすか?織田は斯波の家臣だったんすよね? >>106
同じです。斯波氏は足利の一門であり、重んじられていたので越前・尾張・遠江の3国の守護だった。
しかし守護代の朝倉氏に越前を奪われ、遠江は今川に盗られて、尾張を残すのみとなった。
その尾張も守護代の織田氏の一族が割拠して斯波氏は追い出されてしまう。
斯波氏は今の岩手県の斯波郡を領有したことから斯波氏と呼ばれるが、実際にはずっと足利を名乗っていた。
管領になったあたりから斯波氏を名乗るみたい。管領になるときは、「そんな仕事は家来がする事で足利の
一門である自分のする事ではない」と怒ったけど諸事情で引き受けたら家格が下がった。
それで吉良より下らしい。 >>107
なるほど、良くわかりました教えていただきありがとうございますm(__)m
つか、なんで管領になると家の格が下がるんすか?管領になると官位もさがるのですか?
あと織田は平氏ですよね?朝倉は源氏なんすか? >>105
8月に越前朝倉氏 万灯夜というイベントがあるらしいですよ >>108
>つか、なんで管領になると家の格が下がるんすか?管領になると官位もさがるのですか?
家来の仕事をしたから家来扱いになった。とは言ってもまったくの家来じゃなくて足利の御一門として
扱われてはいるけど。御一門の中での格が下がった訳です。 >>110
なるほど、分かりました。斯波氏の分家で最上や大崎もいたなんて、驚きですね、大崎氏が奥州探題だった事もあるなんてね、奥州探題=伊達氏としか思ってなかったから驚きです >>111
補足すると管領になった事で家格が下がったというよりか、細川・畠山といった家来筋の家と交代で
就任して三管領と呼ばれて、家来と肩を並べたと皆から見られるようになったと言うべきでしょうか。
その畠山も嫡流は奥州管領として奥州に下り、観応の擾乱で敗れて二本松に落ち延びたのだった。 >>112
なるほど、二本松に落ち延びて二本松氏になったんすね >>109
ありがとうございます
二日間イベントでやるんですね
二日目のほうが好みの企画なのでそちらへ行こうかな >>114
なんか、越前朝倉氏遺跡ってとこでやるみたいなんで良いかと。あと戦国武将祭りってのもやるみたいですね。 >>112
すんません、教えていただきたいのですが管領家を務めた畠山氏と能登の畠山氏は同族なんすか? さすがに先の斯波氏の件も含めてあまりにも基本的過ぎるから自分で調べたほうが良いと思うよ >>107
吉良、今川は分家
斯波は庶家
斯波の家格は細川と同等。
斯波が優遇されたのは、本来、嫡流になる筈だった家なのに北条のごり押しで外されたことへのバーター(鎌倉末期の話)
管領にしたのは今川への牽制もあったんじゃね?
了俊が九州でやり過ぎた。 >>119
えっ?北条のゴリ押しって、北条の家格は斯波や今川や吉良なんかより上だったんすか? 鎌倉時代の足利氏は有力御家人の一つに過ぎない。幕府の実権を握る北条得宗家とは比べるべくもない。
足利泰氏の正室は北条一門の名越氏の出で、息子の家氏は本来は嫡子だった。しかし得宗家の娘が
新たな正室として送り込まれ名越氏は側室に落とされた。それに伴い家氏は庶子とされた。しかし家氏自身は
足利本家とは別に幕府に重用されて有力御家人となっていく。 >>121
なるほど、教えていただきありがとうございますm(__)m >>121
すいません、教えていただきたいのですが、よく北条得宗家ってできますけど、源氏で言う源氏長者みたいなもんすかね? 自分で調べたか?
調べてもわからなかったなら教えてやるが
調べてもわからないならどのへんがわからないのか教えろ >>124
得宗の事分かりました、義時の戒名であるとされてて、義時系統の嫡流が得宗と言う事になったって事ですね。 佐々布氏って近江から落ち伸びてきた一族なんだよね
京極あたりの臣下でもしてたんかな >>129
初めてじゃないよ。
一乗谷行けば漫画本売ってるよ。
もう十年くらい前に買ってきた。 マンガの表紙で「いつもの兎耳っぽい兜か」と思ったけど、よく見たら燕尾っぽい兜なのな 無知ですまんけど 朝倉は元は源氏なんすか?名家って言うわれてるけど官位とかどうだったの? 朝倉氏は但馬国日下部氏がご先祖様で、源氏でも平氏でもない土豪国人クラスだったんじゃないかな。
重臣の魚住氏なんかも但馬時代からの家臣という話もあった。
名家になったのは朝倉孝景が応仁の乱に乗じて越前一国を手中に収め、東軍から事実上の守護職を得てからだね。
当時の朝倉家は相当強く、名家というよりむしろ下克上によってのし上がった家だよ。
当時はまだ家柄などを重視されていたから、官位を得るのはそこから先の話だね。 守護である斯波氏に代わって国を治める守護代の立場から力を蓄えて
主人である斯波氏から国を奪ったという意味では織田氏と同じ。
ただし信長は織田氏の中でも分家筋だけど。 朝倉は戦国時代初の下克上大名なのに
なぜか名門イメージが強いな まあ言葉は悪いけどエセ名門みたいな陰口も初代孝景の時代からしばらくは言われてたんじゃないか
だからこそ領土拡張できる力を持っていたにも関わらず近隣諸国を奪おうとしなかったんじゃないの、名家として見られたいが為に
>>136
魚住氏は元・明石近辺の国人でその当時のつてで朝倉氏ー浦上氏とのパイプ役受け持ってたね
浦上氏とは応仁の乱からの腐れ縁だね >>137
無知ですまんけど、そもそも織田家はどこの家の出るんですかね?
なんか先祖は神社の神官かなんかを見た気がするんやが >>136
孝景さんは、宗滴さんの息子なんすか?あのじーさんメッチャ強いんすけど 親父か、あるいは又甥と間違ってないかい?
宗滴には養子と実子かもしれない坊主がおるだけだよ? >>140
織田氏は越前の出身で越前守護の斯波氏の被官となり、そこで出世して
尾張の守護代を任された。先祖は劔神社の神官であるとも違うとも言われる。 >>143
あれ?さっき調べたら朝倉も斯波氏の家臣だったよね? >>144
そう。だから>>137のように書いた。斯波氏は尾張・越前・遠江の守護だったが
遠江を隣りの今川に奪われ越前を守護代の朝倉に盗られ最後に残った尾張も
織田に盗られて追放された。 >>145
なるほど、教えて頂きありがとございます(^o^) >>139
>だからこそ領土拡張できる力を持っていたにも関わらず近隣諸国を奪おうとしなかったんじゃないの、名家として見られたいが為に
加賀が仇敵の一向宗の国だからに尽きる。
若狭の武田氏へは干渉してるし、領土的野心は当然あったはず。 >>148
領土拡張の野心が芽生えたのって義景時代の中後期あたりからじゃないか
野心というか、他国が守護なんて名目全く無視して好き放題してるってことに今更ながらやっと気付いたみたいな
越前国内の旧勢力やっと追い出して国内情勢が安定を見せ始めたあたりから
孝景→母親の出生国の美濃に干渉(守護職・土岐氏、守護代・斎藤氏へのバックアップ)
義景→母親の出生国の若狭に干渉(守護職・若狭武田氏へのバックアップ)
どちらのパターンも旧勢力の維持のための出征の色合いが濃い
これが領土拡張的な性格の行動へと変わっていったのは
信長が旧勢力を駆逐して領国拡大が当たり前の時代になった
戦国の混乱期真っ只中の義景統治の中後期以降でしょ 相手から越前に先に攻め込まれた報復としての他国侵攻と
幕命による他国への戦争介入が多くを占めているので
領地拡大に貧欲だったとは思えんなあ
縁戚関係を結んで他国に対する影響力を強めようとしていたとは思うが 名古屋の熱田神宮に真柄の太刀見に行って来たんだけど、凄いね
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画像を御覧くださいませ!! >>130
初版が2015年3月になってるけど10年前に買ったのか 今年の福井は雪どうなんや
もう昔みたいな大雪は降らんのか >>7
それが現実だからな。大河ドラマが正しい。
朝倉義景は本当に屑だったから、どうにもならない。朝倉の屑さに足を引っ張られ、
浅井長政、三好義継、武田信玄、松永弾正、本願寺顕如、各地の一向一揆は
すべて地獄に叩き落されたから、なおさら評判が悪い。
実際に、福井県で戦国大名としての象徴的存在は柴田勝家であり、朝倉義景?
どこの恥さらし?って扱いだからね。 ちなみに、福井県の象徴として朝倉義景を出すことは、大阪府で荒木村重を
出すのと同じぐらい、致命的な喧嘩を売る行為だから、気を付けてね。 >そいえば自分もベッキーパターンで不倫した時あるけど
>既婚者ってわかった時は男に激怒したわ
>「私の綺麗な経歴を汚しやがって(怒)」
>てな感情しか出てこなかった
綺麗な経歴w 敦賀郡司家だった景紀の隠居領地は鯖江のほうにあったのか
景紀の娘って織田の武将に嫁いでたんだね知らなかったわ
一緒に退避した景紀の孫の系列って詳細は不明なんだったっけ? 織田剣神社だっけ?
行ってみたいわー織田発祥の地。 最近のノブヤボシリーズで、えっらい能力高く設定されてるが、ギャグのつもり? >>171
能力云々よりも
足羽郡司の景隆が勝山城配置
敦賀郡司の宗適が朝倉山城配置
大野郡司の景鏡が一乗谷城配置
元服年のゲーム仕様上仕方がない面もあるんだけど
この辺のいい加減な武将配置がちょっといただけない
家臣に関しては凡将揃いだけど最新作は初登場組が多くて新鮮 >>174
真柄ってすっごい刀持ってたんだよね。
なんかすごいカッコよさそう ああ、真柄の名刀は秀吉とか辺りに渡り歩いたんやなかったっけ? >>178
名前忘れたが馬斬刀みたいなやつだよね。 >>179
そうですよ。
是非とも生で観てください、私は腰抜かしました! >>180
一乗谷良いところですよ。
朝倉家の史料館もありますし、城山登ったり一乗滝観たりで一日ゆっくり出来ますよ。 金ヶ崎の退き口で信長を屠ってたなら時代もまた変わってたろうに 浅井長政が信長を裏切っときながら、退路を遮断しなかったのがイカン
やる事がハンパすぎる 金ヶ崎で不思議なのがもう当時は若狭武田家当主を拉致して朝倉氏の統治下にあったのに
なぜ織田軍が敦賀手前まで何の妨害もなく進軍してこれたのか
普通なら高浜の武藤友益に兵を差し向けた段階で一応朝倉氏の領土なのだから何かアクション起こしてもよかったはず
高浜から敦賀に向けて織田軍が東進するまでに朝倉氏が敦賀に兵を差し向けてなければおかしいのに
敦賀が戦闘状態に入ってからやっと一乗谷出立とか遅すぎる >>185
>若狭武田家当主を拉致して朝倉氏の統治下にあった
武田家では粟屋とか逸見が既に反逆していて分裂状態。単独では遠敷郡支配も危うかったの。
当主拉致しても「義景の味方になるなんて思いも寄らず」とか言ってる。だから、
>織田軍が敦賀手前まで何の妨害もなく進軍してこれた
のは当然。織田も事前に若狭の現況は調査済みだろうし、旧武田家臣の側から交渉したかもね。
少数の親朝倉の武将を除けば、若狭の主だった武将が若狭入りした織田信長に挨拶に出向いてる。
>敦賀が戦闘状態に入ってからやっと一乗谷出立とか遅すぎる
最初から敦賀郡は犠牲にして木ノ芽峠を防御陣とし、浅井と挟撃する構想だったとも、単に
義景・景恒・景鏡・景健の間で序列争いがあり、景恒一人が貧乏くじ引いたとか言われているけど、
どっちにしても、織田に較べて老大国朝倉はのんびりしていたんでしょうね。 朝倉家も越前での歴史はそんな古くないけど、信長に対しては、伊勢守家から守護代を奪った家の陪臣出のこわっぱめって思いあったよね。
元斯波武衛家の家臣同士だけど 木ノ芽峠から福井平野まで直線で15キロある、この間道は狭く挟み撃ちにされたら退路は無い信長はどの辺りで退却したのかな? まず第一前提として敦賀の中心部より北へは織田軍を侵入させることはないと思うけど
引き込んで織田軍を壊滅させる代償として敦賀の中心部から港にかけて織田軍に蹂躙される事を朝倉氏が許すとは考えにくいし
まあ織田軍も敦賀を重要商業港として認識はしていたので乱暴狼藉はしない旨を約束して朝倉氏の拠点防衛に協力しないように町民を懐柔してはいるが >>190
朝倉氏の情報分析のレベルの低さと行動の遅れで結果として落とされてるけど
敦賀侵入が意図的に織田軍を越前の奥地にまで引き込む為の餌ではなかったのではないと思うよってことね
もし事前にある程度織田軍の行動が読めていたとしたら疋田〜敦賀中心部あたりで挟撃したかったんじゃないかな地理的に見た感じでは 私は織田軍の進行は浅井を通して伝わっていたと思う。若狭のみならず越前に侵攻をする事を。 開戦前に近江との国境に砦を作って防御力強化はしていたらしい。 朝倉はどうしても後手というか能動的に見えてしまう。やっぱそこは当主の性格が影響してるのかな。昔はめっちゃ強かったのにねー 信憑性も何もおそらく誰も本気で信じてない気がするが >>194
戦奉行にどれだけ権限があったかで速さが変わってくるよ
わざわざ義景(当主)に伺ってから動いていたらロスが出る >>195
あれwikiにも書いてあるけど
朝倉家臣に六角系家臣の苗字が多いとか
誰のこと指してんだろう
なんの共通点も見いだせないんだけど ぱっと思いつくのは朝倉の山崎吉家と六角の山崎賢家ぐらいか
調べてもっと見つけだそうなんて気さえも全く起こらん 滅びる家は全部養子だってことにしたかったんじゃね?
六角義賢も養子なんだろ?
正当な後継者じゃないから有力者が逆らって滅びるというテンプレートにしたいんだろ?
六角義賢、朝倉義景、新田義貞でちょうど御三家だ 近江から越前に流れていった武将って初代・佐々布光琳坊ぐらいじゃないの
あと一時期だけ出奔して朝倉に身を寄せた吉田重政とか
本当に義景が六角の出なら観音寺騒動の後にもっと流れていてもおかしくないわな 六角周りはなぁ、現代でもリアルタイムで系図偽造が進行してるからなぁ
で、それを真に受けた人間が出典も調べずにネットなんかで書いてさらにそれを読んだ人間がという感じでウイルスのように汚染が広がってる
他の地域の研究者が自分の専門分野に関して書いた物に同時代の他の地域の状況を書く時に「六角家の本家の義秀」とかやっちゃってる残念な出版物もある
さらに六角だけでなくこの朝倉家のように周辺までぐちゃぐちゃになってきてる
仁木義政あたりも結構侵食されてるんじゃないかと怪しんでる
本当は伊賀に関係ない別系統の将軍近侍の仁木氏だったとしても驚きはない 真木蔵人また逮捕されてるじゃん
朝倉氏のエセ子孫を名乗る胡散臭い人物の一人だが 【秘密保護法】 ナチスの手口でサヨクを捕まるんだろ? 早くやってみろよ m9(^Д^) 【緊急事態法】
今朝、辺野古で新基地建設に反対するママの会メンバーに対して、機動隊員が「お前たちには汚い血が流れている」などと暴言を吐いたそうです。
自分のやっていることを「だってお金欲しいもん〜」「俺の写真を待ち受けにしろ」とも (顔写真)
https://twitter.com/MothersNoWar/status/690357793702940672
サンマ以降のバラエティ芸人の大半が、暴走族出身で極右思想。原発反対派を「放射脳」と嘲笑する連中。お笑い芸能界の極右安倍信者組、松本や上田らを追放せよ!
芸能界極右は石原慎太郎一家を筆頭に、上田晋也 草野仁 津川雅彦 向井理 松本人志 宇多田ヒカル マツコ 春日俊彰 田村淳 北村晴雄
https://twitter.com/tokaia mada/status/630627400552845312
復活した電力会社の原発広告に文化人や芸能人がまたぞろ登場して原発をPR! 500万円の高額ギャラも 勝間和代 三橋貴明 佐藤優
三菱商事の核ミサイル担当重役は安倍晋三の実兄、安倍寛信。これがフクイチで核弾頭ミサイルを製造していた疑惑がある。書けばツイッターで速攻削除されている。
https://twitter.com/toka iamada/status/664017453324726272
宇宙人側からの申し入れは、とにかく核の利用と戦争をやめなさい、もう一つは宇宙人の存在を公表しなさい。
ロシアという大国の首相がね、あれは冗談だよでは済まないですね、しかも2回も言ってるんだからね。
https://www.youtube.com/watch?v=FIRXKetUkq8
竹下雅敏
「どうも日本人のレベルの低さというのは、ドイツはUFOテクノロジーを完成させていたのに、日本は戦艦大和で喜んでいたという感じなのです。」
世界演説は英国BBCが放送
マイト★レーヤが世界に向かって話をする準備は良好に進行しています。この時、初めての本当の身分を明らかにされます。
25分か35分くらいかもしれませんが、歴史上で初めて、世界的規模のテレパシーによる接触が起こるのです。
14歳以上のすべての人々はマイト★レーヤの言葉を彼らのマインドの中で、自国語で聞くでしょう。
https://www.youtube.com/watch?v=6cOvo6n7NOk 発見された朝倉景紀の墓って一般公開されてるの?
地図見たら集落内の観光客相手しない地元密着らしい
お寺の敷地内にあるらしいから余所者が入れないんじゃないかと。
鯖江の人知ってたら教えてくれませんか? 駿府藩の家老になったが、家光と将軍の座を争って命を落とした、駿河大納言忠長卿が廃絶になったため、朝倉家老も罰を受けてしまった 越前から逃亡して今川氏に仕えた朝倉在重は景鏡の弟だなんていわれることもあるけど
1545年生まれって事は父である景高が越前追放された数年後ってことになっておかしいよね
単純にずっと以前に枝分かれした分家の一族が駿河に流れ着いて今川氏に仕えた別系統の一族ってのが正しいんだろうか 鞍谷氏は結局奥州斯波氏の一族説が有力なの?
でも朝倉義景の妻の小宰相の父鞍谷嗣知は名前的に足利系だよね
鞍谷氏は二流あったとか?
斯波義廉の子孫て説は否定されたらしいね 何か義景が朽木元綱に宛てた手紙が新たに発見されたんだって? >>218
>「朝倉始末記」に記される1573年3月11日の敦賀出陣
っていうのが、確定したね。
なんで義景は上洛しないで引き返したんだろう? >>221
いや引き返してはいない。
たしか5月ぐらいまで敦賀にいて若狭の国吉城を攻めていたと思ったが。
(義景自身が直接攻めたわけじゃなくて山崎吉家・魚住景固を派遣) >>222
朝倉家お得意の「様子を見る」の発動ですね。 義景の武具や宗滴爺の武具が残っていたら良かったのに
一乗谷と共に灰になったか略奪されて四散したのかな
勿体無いなぁ 年齢的に無理だけど。
永禄、元亀に朝倉宗滴が元気に生きていたら、織田信長に勝てただろうか? >>225
ヒャッハー冨田が魚住景固を斬殺したときに義景秘蔵の太刀を見せると言って誘き寄せたんだよね。
当然、その太刀は失われたんだろうな…
大分前に義景が使っていた薙刀が見つかったという話を聞いたことがありますよ。 >>227
義景秘蔵の太刀どうなったんだろうね?薙刀は知りませんでした。
鎧兜は持ち主の個性が出るから義景の人物像に迫れるのに勿体無いね
朝倉氏遺跡資料館に義景の遺品等が無くて寂しく思っています
せめて真柄の太刀があれば… >>226
むしろ爺が生きてたら信長とは戦わずに和睦しろって諫めたと思われ
それでも戦った場合、金ヶ崎で織田徳川を殲滅してたかもな
そうなったら、足利幕府がグダグダ続く戦国時代がまだまだ続いたんじゃない? あれって薙刀だったの?義景の弓が見つかったって思ってた
でも大名の所有の物なので実用向きというよりは装飾品的な趣の品だったとか
そういうの集めちゃダメよって宗滴も書き残してるのにね 爺「 九十九髪茄子は武具じゃないからいいの」ナデナデ 爺「500貫で買った九十九髪茄子を1000貫で売った。財テクというものじゃ」 wikiに宗滴が嫡男として遇されてたとあるんだけど、何故兄貴達を差し置いて八男の宗滴が嫡男扱いになってたの?
母親もそれほど身分が高い様に感じないんだけど https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170717-00000005-hokuriku-l18
朝倉氏家臣団に焦点、一乗谷資料館で特別展
期間中の8月20日には関連イベントで、「戦国期越前朝倉氏の外交と家臣団編成」と題した講座を予定。学芸員の石川美咲さんが、外交の任務に当たる家臣が変遷した理由などを解説する。
近くに住んでたら絶対、行ってたのに…福井ちょっと遠い… 福井って豪雪地帯だから夏は晴れて涼しいかと思いきや、高温多湿多雨なんだよな
意外に盆地だから熱がこもる
夏も冬も過ごしにくい 福井→石川→富山と日本一高温多湿な北陸地方で長く仕事した後で
別な地方に引っ越したら鞄や背広など持ち物に一気にカビが生えて全部捨てた
携帯電話も充電器ごとカビて捨てるハメになった
20年近く北陸にいたけど北陸時代はカビなんて全く見ることもなかったのに >>234
こんなのやってたのか知ってたら行きたかった
誰か行った人いない? >>222
もし信玄が死なずに美濃辺りに進軍していたら京に上洛したのかな?
坂本で因縁の光秀攻め? >>239
別動隊は坂本進軍。
本隊は相変わらず若狭に出陣w。
浅井・本願寺「朝倉殿は近江に出陣せず若狭ばっかり攻め込んでいる…」 >>240
信玄が生きていて美濃に攻め込んだらのはなしだから・・義景さんもきっと空気を読んでくれるはずや(震え声) 72年の浅井長政に騙されての近江出兵とかいきなり前波とか富田とかに織田の陣地に走られて草も生えない
武田が来るのはわかっていたろうにそれでも織田に走られるとかねぇ 近江の織田は少数だと浅井に聞かされていたのに実は織田本隊の大軍が陣地に布陣してたからな
そりゃ朝倉の将の士気はガタ落ちで寝返り出るわ 義景のウィキさんにはこれまで中経貿易に頼っていた大陸との貿易を直接貿易路を開くことによって収益を上げたってあるけど明と直接貿易していたってことなのかな?
このときは既に勘合符とか不要になっていたの? 室町幕府の権威が失墜してからは各自勝手に貿易はじめてる
朝倉館からは多くの輸入品(タイ製茶器など)が出土している
六角さんとこの三雲氏とかですら海外貿易で稼いだ記録が残ってる 主要な輸出品は何だったのかな?
刀剣や細工品かな? 越前って日本海航路とか考えると普通に尾張一国より経済力ありそうなだけに色々惜しい
美濃にも郡上辺りや信秀と組んで大垣辺りにちょっかい出してるし先に美濃を獲れる可能性があったのは信玄より朝倉だよね >>245
室町幕府が衰えた後も細川と大内で貿易の主導権争いはしてるしどちらかというと大内が滅びて細川が弱体化したからじゃない?
あと日本はそうでも明の方はちょっと前でも厳しく取り締まっていたけどこの時期は緩んだのかな? この時代、日本海側の大きな港に外国人がいることは珍しい事ではないけれど
三国の港には大きめの唐人館があって中国人との商いが行われていた
朝倉氏と一向衆が和睦した理由の一つとして一向宗側の襲撃目標に
この唐人館周辺が含まれていたのでその経済的損失を朝倉側が嫌ったのも一因かも この時代の生糸は中国産が頼りだったんだけど
ついに越前で高品質のものが生産可能になったので
中国産から切り替えていこう的な文献が興福寺から見つかってる >>248
当時の日本は世界有数の銀産出国。
全世界の銀の10分の1とかを日本が採掘してたとか 戦国期なら勝山北袋銀山や南条槇谷銀山から銀が多く産出された
それ以上に産出量があったといわれる大野郡の銀山があったけど
これは場所と産出期がいまいちハッキリ残ってない
戦国時代のずっと前からあったとも江戸期になって開発されたとも不明な点が多い >>255
ありがとう
越前は石高、地理、銀山、港と大国だったのにもったいないね
もし信長が越前で生まれていたら違っていたのかな? 商業的な利益なら京・近江から北日本への日本海航路を結ぶ越前の方が尾張より大きそうだけど北の一向衆がねぇ >>258
そういえば貿易する場合に敦賀港から東日本の港に航行する場合加賀近海通らないといけないよね
加賀一向衆と戦中はどうしていたのかな?
民間に丸投げしていたのかね
左回りで航行していたのかな? 流石に越前から海路で商取引するのは日本海沿岸と蝦夷、琉球あたりまでじゃなかろうか
陸路を使って運搬するのが困難な巨石や巨木はどうか知らんが
当時の人の地理感覚なんだろうけど越前府中が相模との交易の最短スタート地点だって言われてたらしい 昔の海路が記された史料なんか見ると
意外と三国港や安宅辺りはすっ飛ばされて
敦賀と直接、輪島まで繋がってたり
高岡から出て能登半島の港には一切立ち寄らず
いきなり小松周辺まで運航してたりと
昔の水夫達もかなりの無茶な運航もしてたみたい >>261
朝倉と加賀一向衆が戦中は一種の海上封鎖するよね
昔の水夫達もかなりの無茶な運航もしてたって事は沖に出て遠回りしたり夜中に航行していたのかな? 義景さんは島津家に当てて貿易関係の手紙出してますね。 越前と薩摩で貿易とかやっぱり日本海から博多経由で西九州を廻るんやろか? http://proto.harisen.jp/
戦国期の貿易、港町に関するサイトだとここが面白い
未だにちょこちょこ更新続けてくれてるし >>249
現実的じゃないね。油坂峠超えたことないだろ。
今でも地獄のルートだが、これ以外に越前と美濃を直接結ぶルートはない。
むろん、浅井家経由と言う手もあるが、浅井と斎藤は不仲だから、
これまた一筋縄にはいかない。 朝倉氏が油坂峠を越えて美濃へと侵入、戦を行った事はある
神官系国人の石徹白氏に請われる形でもって
入山料を違法に徴収していた山間部の勢力に対峙した結果
美濃の東氏の勢力と戦に発展し撃退された記録が残る
更に朝倉氏と織田氏が連携して同時に美濃に攻め込んだ際には
朝倉氏は美濃の国人徳山氏を配下に引き入れて案内役とし
麻那姫湖経由で現在の国道157号線沿いのルートを使って
稲葉山城下に攻め込んでいる 以前勘違いして大野郡に有数の銀山があったと>>255書いてしまったが
これは面谷銅山、野尻銅山の「大野銅」の事だった >>265
ありがとう、いいサイトを教えてもらいました。 浅井が六角の従属下にあった時期の朝倉と浅井の関係ってどうだったんですか? >>270
縁組の話も出ていたんじゃないかね?>六角と朝倉
その隷下にあったんだから良好だったんじゃないかな?>浅井と朝倉
たあし、対等という関係ではなく、朝倉本家とやり取りはあまりなくて、
専ら宗滴爺さんの敦賀郡司家と音信を交わしていたのでは?
北近江は「京極」という認識が一般的な認識だったんじゃね? 朝倉と浅井と六角の関係は摩訶不思議
自分の賢の字を棄てて反逆した長政と織田の縁組みを六角丞禎が仲立ちしたとか本当かしら?
織田の上洛絡みで義昭に頼まれたのかな? 徳山谷抜けて今の岐阜に攻め込むってどういうルート辿って徳山谷まで来たんだ? >>273
冠峠らしいよ
昔は冠山のすぐ東を通っていたらしい
今の冠山峠は冠山の西を通ってるらしいけど 斎藤家に塩止めされて朝倉家に泣きついて臣下に加わった徳山さん
塩止め解除されたらまたシレッと斎藤家に帰って行った >>274
冠峠かあ…
あそこの林道は年に車で2,3回通るけど戦国期にあんなところよく通ったねえ。
着るにしても持つにしても甲冑重たかったろうに… 元亀元年の越三同盟のおりに越相同盟と併せて上杉・北条・徳川・織田・朝倉で信玄包囲網を構想したことはあまり知られていない 謙信が構想したのだけど朝倉にも話しは行っていたのだろうか? 武田包囲網に朝倉?
当時、越前と飛騨を結ぶ軍勢が通れるような道があったの? 信長の越前攻略で別動隊が使ったとうい油坂峠という険しい道はあるが
そもそも当時付き合いがあった朝倉にも声をかけてみた程度の話じゃないの
織田北条上杉で武田を突っつこうという時に別口の仲間の朝倉が織田の背中攻めても困るだけだし 朝倉景鏡って小山田信茂以上にひどい裏切りなのになぜ信長に許されたんだろうか? >>282
結構前から内通していたんじゃないの?
滅亡する前年くらいから朝倉の諸将の裏切り率異常に上がってるし景鏡にも当然話しは行っていたんじゃないかな 越前府中まで進軍制圧した辺りで信長が謙信だか宛に
後は景鏡をぶっ殺すのみみたいな手紙書いてなかったかな
殺す気満々だったけど朝倉氏が絶えることを憂いて秀吉が助命嘆願した説とか
美濃からの侵攻を担っていた稲葉一鉄を通して早い段階から内通してた説とか
でも景鏡に関しては実父、兄弟が朝倉氏追放の憂き目にあってるのに
何故景鏡は家内でも高い序列を保ったまま残れたのかのほうが不思議 単純に旧領主の一門を残しておけば統治が楽だからでしょ
根絶やしにしたらしたで御家再興とかやられるだろうし
武田の穴山とか、北畠の具房とか、大名と呼べる支配域を持つ勢力を滅ぼす時は
根絶やしにしないで、大概有力家臣や一門を誰か残してる 越前で許したら後でとんでもないことになったから許さない路線にしたんじゃねの だとしたら武田の一門や重臣を残し過ぎでしょ。あまりそのへんは変わってない 朝倉氏の越前を代表する街といえば一乗谷・府中・北之庄・敦賀・三国湊でいいのかな?
この中で一番経済的に大きいのはどこの街でしょうか? >>288
朝倉義景の時代だったらやっぱり一乗谷じゃなかんべか? >>289
けど一乗谷って北陸道から外れてない?
俺は府中に一票
けど、敦賀と三国湊はどちらが規模の大きい港町だったのかね? 北陸道から外れとっても一国の主がいるんだから富は集積されんかのう? >>292
それは確かに・・
けど地形的に一乗谷って微妙に狭いような気が・・
けど甲斐氏の本拠の府中を避けるために整備した朝倉街道の賑わいは凄かったらしいですしそうかもしれませんね 何かずれてる。
朝倉時代の定義が一方は甲斐氏健在の頃の草創期なのに対して
一方は絶頂期の義景時代前期を想定してるじゃん。話噛み合わないよ。 >>294
宗滴が茶器を買った商人は越前府中の商人らしいですし義景期でも府中は繁盛してそうですけどね
信長も府中三奉行置くくらいだし
朝倉100年で大きくなった街、衰えた街とかわかれば面白そうです 義景時代も府中奉行と一乗谷奉行で分かれてるしものすごく頭の悪いたとえで言えばニューヨークとワシントンみたいなもんかな 府中〇人奉行とか一乗谷〇人奉行なんて似たような表現されるので
一見、同格に近いような役職に思えなくもないけど
この2つには明確に”格”の差が存在して比べられるべきものではないけどね
河合吉統は優秀過ぎて府中奉行すっ飛ばして一乗谷奉行任命されたほど優れた文官 義景が若狭にこだわったのは小浜港が欲しかったからと妄想 >>298
にしては、元明拉致後の処理が大雑把過ぎる。謎だ。 その時代にその国に揉め事があったからってのもあるんだろうけど
義景からすれば母方の実家が揉めてたら介入したくもなるんじゃない?
先代の孝景は母方の美濃の揉め事に介入しがちだったし
この辺の思考は現代の人とも共通してるんじゃないかな >>299
若狭武田家の逸見氏と並ぶ最有力家臣で小浜奉行も勤めた粟屋家が一貫して反朝倉ですからね
粟屋勝久なんて越前から若狭の入り口の美浜に国吉城を築いてひたすら反朝倉に勤しんでますし 元亀四年三月に信玄と顕如にえらそうに要請され将軍様にも援軍要請されながら敦賀で何故か国吉城を攻めていた義景公萌え
周りに偉そうに講釈たれられると期待に背きたくなりますよね 粟屋氏自体は反朝倉という訳ではなく
かっての粟屋宗家が反若狭武田に回ったため
親若狭武田の朝倉氏は依頼されて懲罰的に示威行為を粟屋氏に行っただけ
粟屋氏と朝倉氏が直接揉める要因があったわけでもないし
朝倉の攻撃をはねのけ続けた粟屋勝久なんて言われ方もするけど
朝倉軍本気の攻めで国吉城攻めたわけではない
当主拉致の際は眼前の朝倉軍に手出しも出来ず傍観するしかなかったぐらい そういえば朝倉氏は大きな港を2つも持っていますが水軍は持っていなかったのかな?
あんまり聞いたことないけど 丹生郡越前町織田のあたりを領していた朝倉氏の一族、朝倉景綱が敦賀の港町を襲う丹後海賊を
敦賀湾に蓋をするような形で出られないようにする為に水軍を保持していたという史料はあるみたい
おそらく港が襲撃されたら敦賀にある半島から狼煙で合図でも出して対応してたのかもね
でも丹後海賊は敦賀よりも小浜近辺を襲う事のほうが多かっただろうけど
信長軍の越前一向一揆制圧時に光秀や秀吉が率いる水軍に易々と上陸を許しているので
朝倉軍も一揆軍も大した操船技術はなさそう 元々、水軍を組織したのは景綱の父親の景延辺りの時代かもしれないけどね >>306
ありがとうございます。
景綱ってWikipediaさんにもほとんど記述がないので調べてみます。
基本国力的に若狭や丹後から攻め込まれる可能性は低かったので水軍の必要性は薄かったのかもしれないですね。
敦賀から府中・一乗谷に物資を運ぶにあたって北陸道と並び敦賀〜今泉・河野の水運が重要だったらしいので頻繁に襲われるようなら水軍も必要だったのでしょうが。 海賊とかも近隣海域にいたのやもしれんし、交易利権を守る意味でも水軍は必要なのかもしれないね。
海上警備部隊みたいなのでもあれば違いますよね >>309
敦賀には川舟座や河野屋座という船頭座がありましたから彼らが自衛組織を持っていたのかもしれませんね >>299
小浜を押さえれば東日本海航路と西日本海航路両方の京都への入り口を押さえることになるので朝倉家の商業的利益も京都への影響力も凄く上がりそうなんで勿体無かったですが、反発が凄かったんですかね? 質問なんですけど皆さんの周りには
「自分は朝倉氏の末裔」だとか「先祖は朝倉氏に仕えていた」みたいな事を言う人いますか?
芸能人では島倉千代子が義景の弟(そんな人物は存在しないが…)の末裔だとか
マイク真木・真木蔵人親子が朝倉氏内衆の真木氏の末裔だなんて話したりしているとか
魚住氏や真柄氏の子孫は新潟、溝江氏の子孫は滋賀など県外ではそのような存在の方もおられるようですが
そのような話を聞いたことがある方は是非教えてください
越前松平家や結城家と関係があるみたいな話でも結構ですので 中学のときの国語の先生がそうだって言ってたような
朝倉氏の子孫だったかその家臣の子孫だったかは忘れたけど 四国住みやけどおったよ
朝倉家って聞かされても「ふ〜ん」って感想しかなかったけど 地元の寺には、義景滅亡の時、妊娠中の義景の妾が落ち延びてきて出産したという言い伝えがあるよ。 朝倉家臣で家が続いたのって加賀前田の家臣になった山崎家と富田家ぐらいかな? 駿河朝倉は?
一応初代は景鏡の弟ということになってるんじゃなかったっけ >>316
岐阜県御嵩町です。ウィキペディアにも載ってます(「小少将 (朝倉義景側室)」で検索してね)。 >>319
ありがとうございます
願興寺ですね、笹の才蔵も縁がある寺なんですね
その後、母子はどうなったのか気になりますね。 朝倉始末記と加越闘諍記と越州軍記ってどういう関係なんですか? >>297
一乗谷奉行を世襲で継ぐ河合が府中奉行を任官することあるの?
貞景の代辺りから基本青木と印牧の世襲じゃないの? >>323
じゃあ、何で、信秀のときは、尾張にあったんだ?! 流れ着いてやろ
なんでも、先祖は、神主とか
それ以上は、俺でも知らない 俺でもって、おまえがどんだけ信長を知っているんだよ?! 俺が、文献という文献を読み尽くしたことを知らんの ? >>323
守護とか守護代が何故いるのかって義務教育でやりなおしてきてね(はぁと >>337 よく一人で頑張ったのう
つらいのう
つらいのう 今月出る信長の野望の最新作で
朝倉家の新規登場武将としては
久しぶり登場の朝倉景高
待望の初登場です朝倉景連
太閤立志伝以来の登場だ大月景秀
以上3名の存在が確認できました >>339
印牧美満も出るぞ。朝倉氏は新規武将4名追加の大盤振る舞い(能力値は平凡だけど)
信長からの助命を固辞して切腹した印牧能信って印牧の一族ではあるけれど
印牧広次ー美次ー美満とは別系統の印牧氏なのかな? >>342
系統は知らないけど美満(よしみつ)と能信(よしのぶ)だから名前的には親族っぽい。 みんな信長の野望やってるんだね
統率と武力のある武将を追加して欲しかった
若狭攻めてから厳しいわ >>339
景高いるか?一番古いシナリオにもいないような
仮想シナリオのほうにでもいるのか 再来年の大河ドラマは明智光秀らしいが義景はいつものようにバカ殿さまにされるんだろうなぁ… いまふと思ったんだけど
武田や北条のような大大名ですら
他国の援軍に数千〜万に近い軍勢を向ける事なんて
そうそうなかったのに
そう考えると何度も遠隔地に数千単位で援軍向けてる
朝倉と徳川ってすごいよね >>351
ああ先を越されたw
脚本が「太平記」の人だから少しは期待…あかんか >>352
姉川の援軍に対して長政は義景自らの出陣と追加の援軍を要請したが拒否されたって話だから
これってやっぱり浅井氏は朝倉家の後ろ盾がなければ単なる一地方を領する国人領主レベルだなって感じ
近江北西部の動員力なんて江南に比べたら本当に少ない貧弱な土地だと思うわ 姉川で北陸の一揆勢を動員できたら良い勝負できたのにね 朝倉氏には一向宗と敵対する宗教勢力が合力してるからその辺はちょっと難しいかも そこは政治でなんとか石山本願寺を動かせれば門徒は従う
姉川に義景出陣しなかった事も悔やまれる
指揮をとらなくてもそこに居るだけで士気が騰がるのに >そこは政治でなんとか石山本願寺を動かせれば門徒は従う
でも百年近く殺し合ってきた加賀一向一揆と同陣して越前兵の士気があがるのかね?
>姉川に義景出陣しなかった事も悔やまれる
どうも義景は近江より若狭の方を重視したみたいだね。
近江には出陣しないで若狭にばかり出陣している、と味方から非難されている。 朝倉氏は曹洞宗系の寺を庇護する代わりに
僧兵を出してもらったりしてるし
同じ戦場には宗派の違う戦力は並べにくいでしょう
姉川の戦場に呉越同舟で両宗派参陣させるのは厳しいけど
織田・徳川領内で一向宗蜂起くらいなら依頼できたかも つうか、姉川の時点でまだ本願寺は信長と表立って敵対してないじゃん? >どうも義景は近江より若狭の方を重視したみたいだね。
なぜ若狭を重視したのかな?
義景は織田の勢いを勿論知っていたはずだし、織田と対峙したくないから小国の若狭に侵攻して気を誤魔化していたのかな? >>360
姉川から3ヶ月後に石山本願寺が反織田になるんだよね
義景からも働きかけがあったのかな? 孝景も自分の母親の出身国である美濃に対して介入を繰り返してたし
義景もやはり自分の母親の出身国である若狭の政局に介入せずにはいられなかったとか…
まあそれに近江出兵はあくまでも浅井氏救援の為なので実入りもあまり期待できないし
近江が織田の手に落ちたら次は越前が戦場になるという危機感に乏しかったのだろうか >>361
後ろは一向一揆、南は同盟国の浅井なんだから
戦費を担保するには若狭の貿易港とか利権をそっちに求めるしかないからでしょ
浅井領でいくら勝ち星重ねたって利益にならんし得るものもない
仮に織田を退けて先の領地を奪っても飛び地になるし守りにくい 越前・北近江でゴタゴタ一進一退繰り返してジリ貧になるよりも
若狭の利権を奪えば実質的に資金力も戦力も増すし
結果的に浅井の救援もできると考えたんだろう >>364
なるほど、納得です
志賀の陣の目的はなんだったのかな?
義景自身は決戦を仕掛けるつもりだったけど、家臣が消極的だったのかな? ようやく朝倉義景で信長の野望大志にて天下統一記念書き込み。
真柄直隆の墓のある寺と佐々成政のいた小丸城が遊び場だった俺がそっと通りすぎる >>367
地元では真柄は知られているの?
真柄の屋敷跡があるよね 末裔もいるはずなんだよねウィキペによると
丹羽に所領安堵された「真柄」がいるので 真柄氏は落ち延びた一族の中に
越後に逃れて油田(草水)採掘で財を成した一族がいる
日本有数の油田として近代まで採掘されてたぐらい有名
他の一族も筑後で越前和紙の製造法を伝えて現代でも地元の伝統技能として
大切に保存、伝承されてたりする
真柄さんの一族は何気に商才に長けている
だが何故か地元の真柄庄は一面、田んぼばかり… >>369
>>370
勉強になりましたありがとうごさいます
質問ですが三段崎勘右衛門の領地は何処でしょうか? >>368
今は分からないんだけど小学生の遠足でお墓の前ですごくでかくて大きな刀を持った人がいたと説明はありましたね。
自分は直隆の墓の近くに母方の先祖の墓があるので小さい時から住職にお話は聞いてました。
織田軍が進行してきた時に住民の家屋だけでなくいくつかの寺の焼き討ちがあって今でも特定の場所を掘ると砕けた墓石が出てきたりするので、お年寄りの中には信長に恨みを持っている人はいたりします。
昔付き合ってた彼女が織田町の子で、なんでよりによって織田側(笑)と歴史好きな叔父に言われたことある(笑)
あ 直隆の屋敷跡は分からないです。特定されてるのな? >>372
ありがとうございます。地元では語られているんですね
信長の侵攻で焼き討ちがあったのですか!大変に興味深いです、恨みを買って後の一揆に影響したかも知れませんね
下真柄と徳間に館があったみたいですが遺構は何も残っていなくて田畑になっていました。 また、まことは、ハッキングの証拠を
警察に持って行かれることを恐れている 鶴瓶の家族に乾杯、福井県越前市の回で真柄さん出てきたね >>361
良港があるからだね。
正妻と長男が死んで(毒殺が濃厚)引き籠ってやる気をなくす前の、義景は、中国との貿易を始めて、畿内で売って莫大な利益を上がていたから。
それ以外にも東北は出羽や南は琉球、大きな所だと九州の島津氏とも交易をしていたから港は重視するよ。
ガラス細工の生産も始めて、刀に付ける飾りを作って売っていたみたいだしね。 朝倉義景のこと調べれば調べるほど世間で言われるような
戦嫌いの文弱の徒、ではなくて、むしろ正反対の好戦的な
当主だったんじゃないかと思えてきた。
まあ、好戦的なのと戦上手とはイコールどはないんだが、
大事なところで踏ん張れず兵を返したりするのは、朝倉軍が
義景の意図どおりに動けない構造だったからなんじゃないかな?
いかん、休日に酒飲みながら文を書くと何がなんだかわからんものになるわ。
要はですね、今夜のブラタモリ楽しみですね、ということです。酔いがまわるので寝ます。 義景がどんなやつでも信長と正面から何年も対峙すれば疲弊し崩壊するよ
長政だって最後は少数の秀吉にはね返されて小谷から動けなかった 今回のテニス中継そこそこ視聴率あっただろうし
翌週に放送延期するブラタモリにとってはある意味良い宣伝になったかも 今年は雪が全くないのー 去年の2月は酷かったが
去年の雪が、戦国時代のデフォルトだとすれば、雪国の大名が冬に領国にこもるのは、当然だろうなと思う 戦国時代って小氷河期みたいなもんだったらしいからなあ。
義景も太平洋側に生まれてたら、性格も変わったかもしれん。 ブラタモリ、金隠しの印象強すぎて他の内容が思い出せん。 景鏡の父ちゃんの戒名とかは判明してるのに
死没年とか死没地がどこなのか分からんのは何でなん(´・ω・`) wikiに景鏡の母親が「烏丸冬光娘」って書いてあるが、本当なのか?
朝倉景高の妾だったかもしれんが、はっきり景鏡の母親と書いてある史料あるのか?
朝倉氏関係の書籍にも景鏡が復権できたのも母親が烏丸冬光の娘「だったからかもしれない」
と推測の形でしか記述されていないと思うんだが。
あと、息子の一人を人質の意味を込めて秀吉の養子にしたらしい。 一揆衆が平泉寺の周辺まで攻め込んできた際に
占星術を用いて籠城策を主張したら平泉寺の坊主どもに馬鹿にされて
逸った坊主どもが一揆衆の砦を奇襲した結果
一揆衆に逆襲されて哀れ討死の土橋信鏡さん…
領地の大野郡の土地の一部を京の公家に寄進して
その土地から徴収した金兵糧を京に送った際に
越前大野の秋の味覚も一緒にどうぞと柿や栗を添える心遣いに
風流のある人物だと公家から褒められた土橋信鏡さん… おお偉大なハルトマン おお偉大なハルトマン 永遠に果て無く栄えよ おお我らがハルトマン おお我らがハルトマン 銀河に名立たる王者よ 星々を手折り束ねて全て捧げてしまえば皆を約束の地へと導く銀河の父よ
おお輝けハルトマン おお輝けハルトマン 過去に未来に現在に おお讃えよハルトマン おお讃えよハルトマン 讃え願えば叶う 宇宙を舞う青き翼も夢歌う桃色の花も 心その身さえ捧げよ我らが父へ
おお崇めよハルトマン おお崇めよハルトマン 主への絶対の忠誠 おお願えよハルトマン おお願えよハルトマン 黄金の化身を信じて 手に入れし野望儚く彼方へと消えゆくは記憶 時を巡る歯車疑視めて願うは父よ >>398
そう。
京都に逃れて何やら企んでいたら兄貴の要請に応じた幕府によって追放の憂き目に。
今度は若狭武田氏のもとで朝倉の敵対勢力である斯波氏や本願寺と図って越前侵攻を
企てるも実現せず、これ以上の敵対を望まない武田氏により若狭からも追い出される形と
なり、堺へ移りそこから西国へ出奔しその後の足取りは不明。
駿河の朝倉氏との関係?ガセじゃないかねえ? 朝倉といえば九頭竜川の戦いと真柄直隆と山崎吉家かなぁ >>383
景鏡派が権力を握って義景は晩年はまともに政治出来ていないからなぁ。
他の名将の戦国大名と同じく、軍用道路を作って迅速な兵の派遣を実現した人だったし、
明や東南アジアと交易を始めて利益を上げたり、家臣の争いに自分が出陣して収めるとか即決即断の人だったのが、
晩年の政策がころころかわるのは、指示を出す人が義景と景鏡の2人いたからじゃないって話もある。
正妻が毒殺されてから、一気に景鏡が優位に立っているから、義景は六角氏からの養子説もあるし。 じゃあその景鏡支持派の朝倉家中の一人でも名前上げてみなよ
大野氏とか勝山氏、嶋田氏とかが支持してた話はどこにある?
景鏡お膝元を治めていた大野氏なんて義景の義弟だぞ
景鏡直属の重臣層で大野郡司内で名前が上がる武将なんて辛うじて竹若氏、桜井氏ぐらいか?
軍用道路の朝倉街道の整備拡張だって一番盛んに行われた時期は斯波氏シンパが国道旧8号線沿いの
北陸街道沿いにうじゃうじゃいた義景統治時代のずっと前から行われていた朝倉氏の重要施策の一つだぞ
義景称賛の根拠がフワフワした説得力のない話ばかりじゃん その義弟云々という話もヨタ話みたいじゃあないか。
よくわからん家系図に書かれてる話でしょ。
景鏡派っちゅうのは自分も信用できんがね。 朝倉宗滴が、もし壮健な状態で生きていて、信長と戦ったらどちらが勝つかは見てみたいな。宗滴だと兵力差だけで勝てるとは限らないし。 そもそも兵質なんてものがあるのかどうか定かではないけど
尾張は弱兵で三河は精強な兵質なんて言われたりする
九頭竜川の戦いから織田家の金ケ崎攻略までの約60年間、国内に攻め込まれる大きな戦いがなかった
越前兵は弱いというよりかは防衛戦に対する気構えや経験値が無さ過ぎた
織田が敦賀の街を囲んだ時も民は城には入らず織田から禁制を得て織田方に協力したり
一乗谷侵入ではせっかくの一乗谷城に兵が籠らず逃散してまともな抵抗は出来なかった 大坂冬の陣や第二次世界大戦時に
鯖江の兵が活躍したなんて言われてるけど
基本、穏やかでのんびりした人が多い福井の人間が
争い事で他の地域を圧倒するイメージがないw >>408
三河物語だけしか記録がないから疑わしい。 (あの信長を土下座させたと喜ぶ家臣に対して)
義景「土下座はタダや!」 >>407
応仁の乱で、他を圧倒しているじゃない。応仁の乱で部隊として最強だったのが朝倉孝景の部隊だし。
>>402
景鏡は、宗滴の後を継いだ景紀の子の景垙を総大将争いで自刃させているから、権力は掌握していたんじゃない。
景紀もその事件で隠居しているし。 武田が織田を攻めるとわかっていたのに前波とか富田とかの大身が裏切ってるけど武田が来ても勝ち目ないとか思ってたんかな?
信玄死ななかったら良い勝負になりそうだけど 信玄が動いた頃は浅井朝倉は疲弊しきってて手遅れ
仮に信玄が長生きしても信長は三河に一万入れてるから信玄はこれを突破しないと尾張に行けない
手こずれば織田は各地から手の空いてる増援が続々到着する、さらに浜松の家康もいる
伊勢長島は押し込まれて嫌がらせにもならない
信玄が本気で信長を倒すなら志賀の陣までだよ 昨年出た酔象の流儀って小説
このスレでもっと話題になってるかと思った もう発売以来3年以上「1534年・信長誕生」シナリオで
戦国立志伝・山崎吉家プレイに没頭してる俺でさえ
あまり読みたいとは思わないなあ>>414
あらすじからしてフィクション臭が凄い感じだし >>406
尾張弱兵?
上洛軍の快進撃、信長帰ったあとに
三好の大軍やってくるも信長抜きで撃退。
関ヶ原前哨戦では織田秀信速攻で撃破し速攻で岐阜城落として
関ヶ原では3倍の宇喜多隊相手に何の作戦もなしに
朝から最後まで戦ってた尾張兵が弱いは無いわ。
尾張弱いは徳川による織田下げのせい。
姉川で織田が半分の浅井に押されて
徳川は倍の朝倉相手に健闘したってやつのせいだが、
あんなもん負ければ後がなく背水の陣だった浅井軍と
ただの援軍で負ければ引き揚げればいいや程度で
総大将さえ出てない朝倉軍では浅井軍の方が強くて当然。
しかも浅井は1万で六角軍2万5000相手に奇襲ではなく真っ向から戦って勝ってて野戦に強い。
徳川こそ弱兵。
真田になんどもこてんぱんにやられ
たった島津300追撃したら逆に井伊直政、松平忠吉鉄砲くらって重傷、
本多忠勝の馬にも命中し落馬し負傷。
大坂でも苦戦しまくり外様のおかげでなんとか勝利するも、
毛利勝永隊に縦横無尽に暴れられて大名二人戦死、一人重傷戦後死亡出す弱兵ぶり。 >>416
>本多忠勝の馬にも命中し落馬し負傷。
生涯無傷じゃなかったのかよ。 >>417
鉄砲食らって暴れられた馬から落ちて無傷はあり得ない。 >>413
姉川で武田が徳川領(家康不在)や美濃に進攻したら面白かったのにね >>419
その頃の武田は北条と交戦中。
同盟組むのは氏康死後。
上杉とも交戦中で全軍揚げて徳川とは戦えない。 >>405
これは見たかったね
宗滴総大将出陣なら越前勢の士気高いだろうね 一乗谷城本丸跡まで登ってきたよ
1週間前に登山道にて熊目撃情報アリの注意書きがあって、めちゃ怖かった
道もあんまり整備されてなかったけど、でも山城は登城した時の達成感がやっぱすごい
名古屋の人間からすると日本海側の地理感覚があんまわかんないけど、思ったより京に近いんだね
近江越したらすぐって感じ
北ノ庄や一乗谷城は金沢ぐらいの感覚でいました >>422
館跡から登る登山道はまだ通行止めだった? >>423
通行止めでした
あの道が通れればぐるっと一周できるルートが取れるんですけど、仕方ないですね
館跡や史跡群がなかなか立派で平日でも結構観光客がいましたよ
復原街並では登山靴、トレッキングポール持ちの自分は完全に浮いてました >>424
まだ通行止めでしたかありがとうございます。
義景も登ったであろう登山道をいつか歩きたいですね。
一乗谷は良いですよね、私は何度も訪れています。 子供の頃に福井に引っ越したんだけど歴史の授業中に
福井の朝倉氏は教科書にも載ってるじゃん、凄いってはしゃいでたら
先生もクラスメイトもハイ、ハイそこにはあまり触れない…みたいな感じで
何か福井の恥部みたいな感じで総スルーされた思い出がある
その後、福井からも出て行ってもう何十年も経ったけど
昔の福井って朝倉氏に関してはむしろ隠したい歴史みたいな扱いじゃなかった??
柴田勝家だって少なくとも80年代頃は福井県民からしてもピンときてなかったように見えたけど
朝倉氏、勝家公を称える雰囲気って昔っから嶺北にあったと思う? >>426
よそ者の意見ですが、一乗谷の遺構がまるっと出てきたことが観光面で大きいかと思います。
勝家が一乗谷を放棄して別の場所に街を作ったことで一乗谷がそのまま土に埋もれて破壊されなかったわけです。 >>426
歴史や日本史の教科書に載ってたね
上空から一乗谷撮られてて、館、城下町、山城って説明されてたよ
子供ながらにドキドキして眺めてたよ 88年に初めて県が主催の義景を冠した祭りが始まったんだっけか
昔は柴田神社もソープ横のこじんまりとした立ちションスポットみたいな扱いだった 戦国時代の知名度としては織田豊臣徳川武田上杉毛利伊達辺りが誰でも知ってるレベルで、
他は興味がないと知りもしない的な感じじゃないかな
朝倉に触れたくないとかよりはそこまで深い興味が無かっただけでは もし宗滴の爺さんが元気に信長の時代に健在だったら、信長はこの爺さんと戦う道を選んだだろうか。
朝倉軍2万で総大将がこの爺さんだとかなり強そう。 朝倉勢て一向一揆と織田の他に有名な戦てなにがあるの?
美濃あたりに進出してたのは聞いたことあるけど 有名か分からんけど
若狭国吉城攻めや近江小谷城攻めかな >>433
若狭など弱い者虐めは得意だったようだ。
まあ、朝倉義景など、今の福井県でも嘲笑されている馬鹿者だけどね。 弱った相手からこそ攻めかかるのが戦国大名じゃ?最盛期の同格や格上相手に攻めかかる大名ほどバカいないと思うけど
っていうかそれこそいつの間にか格上戦を長期やる事になった義景にそれを言うのか 家中の同族が言う事聞かない割りに権力が大きいせいで当主権力が低いわ
隣に一揆衆控えてるわ、浅井は役に立たない癖に最悪の状況で裏切って織田とのデスマッチ強制参加させられるわ
この状態で3年どつき合いしたわけでしょ?
再評価されるに値する将だとは思うけど、もちろん文句なしの名将ではないけどもいまの評価は低いやろって意味でd
というか裏切りクソ野郎の浅井よりは一応最後まで面倒見切った朝倉のがよほど義理堅いやろ >>437
>浅井は役に立たない癖に最悪の状況で裏切って織田とのデスマッチ強制参加させられるわ
ぶざけるな!てめぇのために浅井が裏切ったんだぞ。
むしろ、浅井長政が嘆いたように、朝倉義景のような糞に巻き込まれて
滅亡するのが悔しい、ってのが真相だぞ。 まあ、福井県を代表する戦国大名はあくまで柴田勝家であり、
朝倉義景は完全に空気だからな。 いや、浅井なんて朝倉家の不倶戴天の仇やんけ
ましてや浅井、織田の要望かなえられず織田も京極家に注力しだす程織田から軽んじられつつあったし
浅井にどんなロマン持ってるかわからんが、あいつザ・畿内の国衆って行動しかしてないぞ
浅井なんて信用できない相手に妹嫁がせたりした織田の外交下手が発端 朝倉のために浅井が裏切ったってのはかなり時代遅れの見解で
今はむしろ浅井が織田を裏切るために後ろ盾に朝倉を引っ張り出したって感じだな 属国って程の低い扱いではなかったんだろうけど
朝倉にとっての下位同盟者って感じだったのかな
織田と徳川が織徳同盟結んだときは勢力差が極端にあった訳ではないけど
徳川は完全な格下状態として同盟したみたいな状態に朝倉浅井も近いものだったのだろうか 古いというか珍説レベルじゃないかねそれ
六角と京極、朝倉の間を表裏比興に立ち回ってるけど、あくまで国衆として独立してるのは裁許なんかでわかるし 属国説みたいな見方がされてるのは一乗谷と小谷の間に堅固な城がないから
敵対するような存在ではなかったのだろうという見方からほぼ家臣扱いしても問題ないんじゃないかとか
朝倉街道筋に浅井は屋敷を与えられてたからだとかその辺が根拠みたいにして語られてるんだったっけか
朝倉氏の通字の「景」を貰ってる武将が浅井にはほぼいないから家臣とは言えないだろうなあ
浅井家臣に多く見られる通字は亮政の兄の稙政からの「稙」だったはずだし >>416
姉川の戦いは最近の定説だと、布陣した場所に1万以上の兵を置くスペースがなくて合戦が出来る状況じゃないことと、姉川じゃない場所で主力部隊が朝倉本隊と対峙していた資料があることと、
姉川が血に染まったって書いた徳川の歴史家がお江の方に忖度して徳川と浅井軍を活躍させた創作説が有力で、
実際だと、無人の天幕と篝火で徳川軍と織田の前線部隊を引き付けた朝倉景健が、浅井軍と合流して、姉川の信長本陣を強襲。
信長が防衛陣を敷いてしのいで、だまされた前線部隊が戻って来ると、真柄隊が殿に残って全軍撤退。徳川軍は追撃でしか戦っていないって感じだね。
活躍度でいえば、浅井・朝倉の猛攻をしのぎ切った信長、戦死はしたけど、本隊に追撃をさせずに織田、徳川の足止めを成功させた真柄じゃないかな。さげ >>449
事実なら朝倉景健の評価上がるわ
決死の殿真柄天晴れだね 斜陽の朝倉家中にあって、刀禰坂とか朝倉景健は頑張ってたイメージ。 刀禰坂における信長の追撃をよく振り切ったので戦才有りそうにも思うんだけど
一揆軍にも信長にも簡単に頭下げて許しは請うわ腹切らされるわ評価しづらい武将だよね
早くに病没した景健の兄達って名前さえも分からないのかなあ >>445
織田徳川に外交上の明確な上下関係が生まれるのは長篠以降で、それまでは対等
いつまでも京極氏の家臣扱いの浅井とは全然違う >>432
宗滴が亡くなってから、宗滴一派が景鏡の策略で一掃されて軍事権を景鏡に握ら得るまでは、
(足利義昭.明智光秀と朝倉家が名目上擁立していた鞍谷公方の争いと、そのさなかに起きた、鞍谷公方の娘と、その間に出来た跡取りを毒殺で亡くしたのと、
金ヶ崎の責任を取らされて景恒が失脚、景鏡と争った景紀の嫡男の景垙が切腹、宗滴の後を継いだ景紀も隠居)
義景が軍事の権限を押さえていて、その期間は、義景は加賀に何度も自ら出兵しているけど、その時の朝倉軍は義景の相手の先手を取る迅速な兵の展開と、新しい兵法を取り入れたり、優秀な若手を抜擢したりして、宗滴が健在の時と変わらないぐらい強かったから、
宗滴じゃなくても、義景が権力を完全に握っていた時ならいい勝負になったんじゃないかな。 景鏡って、
金ヶ崎では、諸説はあるけど、織田軍が迫っているのに内部抗争をして、総大将の地位を得るけど、金ヶ崎城が落城するまで様子見して、
追撃戦では、織田軍より、敦賀郡司を廃したり、政敵の景紀派を一掃したり、義景の力を削いで権力を握る事を優先してあの有様、姉川でも出兵拒否、義景が取り立てていた剣豪を追放したりと、
この足の引っ張り具合は、もう金ヶ崎に侵攻した時点で織田と通じていたんじゃないかって思う。 金ケ崎の戦いにおける景鏡の動きは通説としてそういった話が語られるけど
景鏡は金ヶ崎の救援に向かった軍勢には入っておらず
越美国境の麻那姫湖近辺で防御の任にあたっていた
という記事を読んで驚いた記憶がある
郷土史家個人のサイトとかの怪しいものではなく
朝倉氏の研究をキチンとされてる方のサイト内にあった
しっかりとした史料の中の一文だった
戦後、美濃の垂井・赤坂を放火してまわったというのが事実なら
敦賀には行っていたような感じもするけど 朝倉氏滅亡時に織田信長が上杉謙信宛に越前府中から手紙を出してるけど
その中の一文に景鏡の首も取るって書いてたような気がする
ただ信長に直接通じていなくても信長配下の武将を通じて
景鏡が降る意向を伝えていた可能性はあるね
稲葉一鉄がその意向を伝えられていたとも
景鏡助命を秀吉自らが信長に懇願したとかいくつかの説はある 朝倉始末記だと、景鏡は、義昭が越前に来ている時は、堀江景忠を粛正しようとして、反乱を起こされて大規模な内乱に発展させるは、
金ヶ崎の時は、救援の軍を府中で止めてわざと落城させるは、軍奉行という軍事のトップにたったのに主要な戦いでは日和ったり、不穏な動きをして軍事行動を瓦解させたりと完全に悪役なんですよね。
生き残った朝倉家の家臣が書いた本だから、景鏡は恨みを買ってそうだから余計に酷い書かれようなのかもだけど。 可児才蔵の母親を側室にしてた朝倉氏って誰なんだろう? 「室町幕府からの名家で、一乗谷を中心に小京都ともいうべき美しく豊かな国・越前を思うがままに営んでいる。」
朝倉は守護代から下克上で戦国大名にのし上がった立場だろうに名家って。 朝倉氏は斯波氏に招かれて但馬からやってきて越前国内に領地を与えられるんだけど
黒丸の朝倉氏領の真横に大和国外では最大規模と言われた興福寺所有の荘園があった
戦乱によって遠く越前の荘園管理はままならなくなり易々と朝倉氏に横領されてしまった
英林孝景が一乗谷に本拠を移す前の事だったか後の事だったか… 但馬の朝倉氏まで含めてしまえば「朝倉氏は室町幕府からの名家」と言えるのかもしれない 無能なのに気位だけは高そうみたいな役柄はユースケに合ってそうにも思える
男やのに短大行ってたほうではないよ やっぱ無能として描かれてしまうのかなぁ、それだとちと悲しいけども
ただいろいろ新説入れてるドラマでもあるので期待もあるのよね にわかですまそ
信長の野望朝倉家プレイの為、感情移入できるよういろいろググったりしています。
>>449
子供の頃の教科書に毛が生えたレベルのイメージでアップデートしてなかったのでこの定説初めて知りました。
正直にいえば志賀の陣も最近知りました。
姉川の二、三ヶ月後の志賀の陣が大敗後すぐてのが自分の中でピンときてなかったのですが>>449見ると余力あることがわかって納得できるというか
勉強になりましたありがとう >『歴史家がお江の方に忖度して』徳川と浅井軍を活躍させた創作説が有力で
この手のエスパー系はとりあえず信じないことにしている >>449だと
・布陣した場所に1万以上の兵を置くスペースがなくて合戦が出来る状況じゃないこと
・姉川じゃない場所で主力部隊が朝倉本隊と対峙していた資料があること
これは事実
だから通説の姉川の戦いはなかったってとこまでは 手紙とか書物とか発掘とかで新資料が出てきたとかならまだしも姉川行ってみたら〜とか400年以上時間あったのに案外昔の人ていい加減なもんなんだな 琵琶湖
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
浅井・朝倉軍
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
姉川
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
徳川・織田軍
田んぼ
┌────┐
│平和堂│
└────┘
=====[ 駅 ]==== >>475
で、「徳川の歴史家がお江の方に忖度し」た証拠はあんの? 証拠ひとつ自分でググって見つけられねえ低能がこのスレにいるな >>477
まあそういけどさ、本当に現地みれば少なくても榊原隊が迂回して奇襲がどうたらーなんてのは不可能だと子供でもわかるような見晴らしのよい平地だよ。 もっくんが義景公やったほうがいいよね コロナ関係で休止が入るけど 年越してもちゃんと放送するみたいだから 今から差し替えよう 質問なのですが、金カ崎ののきぐちの時に浅井が出した援軍の数をご存知の方おられますか?朝倉・浅井勢総勢二万とwiki等に書かれていますがそれぞれの兵力がわからなくて 第一陣(先陣)として計12300余騎
第二陣(本陣)として計6750余騎
第三陣(後備)として計3200余騎
一乗谷(留守居)に計20000余騎
これらの金ヶ崎城救援以外にも加賀や美濃国境の警備部隊等も多く派遣されています
浅井軍と合流して柳ケ瀬から疋田口へ進軍した部隊としては
朝倉景盛1000余騎と三段崎氏500余騎との記述があります
朝倉・浅井勢総勢二万とのwikiの記載とはかなりの差がありますね
どの数値が正しいのかは正確には分かりませんが一応、参考程度に
21 浅井の裏切りって朝倉は事前に知れていたんですかね?
朝倉方は織田を迎撃できるよう木ノ芽峠にばっちり防衛線敷いてるし、突然の事で対処出来てないように見える 返信ありがとうございます。浅井だけでそんなに援軍出せたのですか?浅井の総動員兵力8000〜1万5千とあった記憶が…。
でも、それだけ出すなら完全に信長を潰しに行ってますね(汗) 浅井の兵数が知りたいのです。
どれだけ本気で信長を抹殺しようとしたのか?それだけの兵数を揃えるだけの準備をしていたのか? 領地に近く回りに敵がいなかったから全軍投入したと思うよ
信長打ち損じたら浅井が最前線になるからね
兵数5000位じゃないかな 朝倉・浅井氏を専門に研究してる人ではないんだけど
ある氏族を専門に研究しているその人が言うには
織田は薄々、浅井氏の離反に対して気が付いていて
浅井の動きを見張る先遣隊を湖西地区に出していたので
信長が撤退を早期に決断出来たのではと書いていました
金ヶ崎の退き口にも大いに関係のある氏族研究専門の方ですが
実際に若狭や湖西の市役所や図書館を尋ねて当時の地形図や文献などを精査する活動的な郷土史家の方です
21 信長は、浅井の裏切りを予期して朽木氏にも事前に話を通してたとする説もありますね。 つい最近、朝倉・浅井氏に全面的に協力します的な事を誓った朽木元網の書状が見つかったけど
この時代の各勢力の動きはどうしても憶測や願望が入りがちになって真相は分かりづらいね そっちに着くって言っておいてなんかいつの間にか敵陣営についてるって国衆も多いもんなぁ、畿内
浅井も講談みたいな話抜けば織田と同盟だけど扱いにムカついてワンチャン行けそうな時に背中から殴りかかったやつだし
真田が表裏比興って言われてるけど、畿内じゃそれが日常茶飯事すぎて複雑怪奇
ていうか格下な浅井なんて見捨てても良かったのに志賀の陣の後まで面倒見るとか義理堅いな朝倉 この時代弱い勢力は八方美人になるしかないよ
今だから結果がわかるけど明日もわからない当時は是非も無いね
朽木が朝倉、浅井に味方すると書状にしたためた事が興味深いね
当時、織田>>>>>>朝倉、浅井だったら後の事を考えて朝倉、浅井に味方しないだろうし
朽木の見立てでは織田≧朝倉、浅井と見ていたのかな?
まあ、味方しますよと言って裏切るつもりの場合も有るし結局の所紙のみぞ知るだね 浅井氏の湖西地区の統治方法・範囲に関しては
朽木氏領(幕府直轄領含む)以外の湖西地区を統治
朽木氏&高島七頭を武力でもって従属させていた
朽木氏&高島七頭と半同盟的な形でもって従属下に置いていた
この3つの説どれもあるのでこの辺の真相を読み解くのは難しいね
舞鶴近くの国人勢力にも浅井麾下の一団がいたみたいな記事も見た事あるし >>499
>当時、織田>>>>>>朝倉、浅井だったら後の事を考えて朝倉、浅井に味方しないだろうし
そうとは限らない
高国政権時代に京を追われた義澄、三好全盛期の時に江口の戦いに敗れた義晴、義輝、細川晴元を庇護したりしてるし来るものは拒まずって感じじゃねーの 朽木氏なんだかんだ幕末まで続いてるんだよな
関ヶ原では西軍に付いたり波乱万丈だね 義景は六角からの養子かもと流れてるけど
確率高そうなの? ちょっと上の所さかのぼった所でも言われてるけど
与太の部類 いろんな説はあってもいいけど
義景養子説はアレひどいな
よく発表しようと思ったもんだ 流れをぶった切ってすいません。長浜を観光中なのですが、浅井長政ってどこに住んでいたかわかりますか?小谷城は結構な山城だしここに住んでたのかな?って疑問に思ったのですが。 普通に小谷城中じゃないの
城下の居館ではなかったはず 山の上で寒くないんかね?
同じエリアでも、平地だとたいして雪は積もらないのに
山の上だと車も動かせない大雪になるって結構あるよ 毛利元就も大大名になってもずっと山城の吉田郡山城に住んでいた。 >>509
小谷城の麓に館跡があるよ
平時は麓で戦時は山城に登ったんだよ
朝倉氏の一乗谷も平時は館で戦時は館の裏山にある山城に登ったんだよ 大河麒麟で義景が信長包囲網の黒幕で信長対義景の構図になったりして 信玄は後乗りみたいだしな
義昭も当初は浅井朝倉には敵対してるし
本願寺も後乗りだろうし
朝倉、浅井、六角、三好だと
朝倉か三好なのかなって気はする YouTubeでやってるような歴史動画でどのチャンネルだったかは忘れたけど
最新の研究では主導してたのは義景と本願寺だみたいな説語ってたな
まあこういった最新の説そのものが手柄が欲しい新進気鋭の研究者の早とちりみたいなのも多いし
もうしばらくすればその辺りの研究も進むのでは >>515
本願寺が参戦するのはかなり後だし、三好じゃない? この辺りの研究が進んで事実が解明されたとしても
義景主導はないと思うなあ 放送予定 - 英雄たちの選択 - NHK
https://www.nhk.jp/p/heroes/ts/2QVXZQV7NM/schedule/
英雄たちの選択「朝倉義景 信長を最も追い詰めた男」
[NHKBSプレミアム] 2020年09月09日 午後8:00 ~ 午後9:00 (60分)
戦国時代の越前・一乗谷に都さながらの都市を築いた大名・朝倉義景。
その力を頼ってきたのが将軍候補・足利義昭。義景に軍を率いて上洛し幕府再興を助けるよう求めてくる。 義景さん、信長を最も追い詰めたとか言われるようになったんか、出世したなぁ
この義景さんを別に恨みはない、助けてやれって言った信長はやっぱ優しいなぁ 金ヶ崎単体の話なら最も追い詰めてた瞬間かもしれない たしかに
金ヶ崎・志賀の陣・ちょっと無理して信玄と連携した小谷在陣、と追い詰めてはいるね。
ことごとく失敗してるけど。 元々、評価低めの武将だからかその反動でたいした根拠もなしに
義景実は有能説みたいなの力説しだす奴がいるけど
何の捻りもなしに見たままの凡将ですから
ただ思うのは義景がひと世代早く父孝景の替わりに生まれていれば
義景が風流太守と褒め称えられ孝景が暗愚と侮られていたのではないかと思う
二人の能力差は特にあるわけではなく置かれた時代の違いのせいで評価が真逆になった気もする 義景はあと、家庭でゴタゴタあったのがちょっとね気の毒よね >>520
「(三英傑)を最も○○した男」
↑
知名度が低い・事績がショボい武将を持ち上げる際の定型句 >>518
でも、1次は人が居ない
1次
武田:不参加
義昭:信長と親密
本願寺:後乗り
六角:本拠地奪われ逃亡
三好本家:信長派
三好三人衆:戦って、信長に付いたり、行方不明になったり
松永:信長派
残ってるの、筒井と浅井と朝倉、機内の国人
まぁ、朝倉にそんなの出来るのって気持ちも分かるけど 待望の後継者の死亡、一門衆の対立、隣が一向宗で長年対立、若狭武田氏への出兵、畿内の国衆らしい性格してる浅井
これだけ宿痾抱えたまま長い事織田とどつきあいしてたのは凄いとは思う
志賀の陣で落としどころ見つけられたら良かったのにね >>526
信長包囲網なんて大層なネーミングを付けるもんだから首謀者は誰だ!?みたいな話になりがちなんではないだろうか
京を抑える勢力に対抗するために畿内周辺の勢力を自陣営に引き込んで
複数の方面からの同時侵攻という戦略は両細川の乱の時代から当たり前のように採られてる戦略だし
阿波細川家の家宰であった三好一族の残党が古来よりの習いでその戦略を採る事は不思議ではないと思う
信長の統治に不満を持つ畿内国衆や本願寺にも当然、声は掛けていただろうし
合力の働きかけを行いながら三好三人衆を中心とした畿内の反信長勢力と朝倉浅井勢が口火を切って
織田・義昭政権を敵に回す事に対して躊躇していた本願寺がようやく腹を決めたってところでは 最初は信長包囲網なんて大それた動きがあったわけではなく畿内に於ける古来よりの戦い方を踏襲しただけのものが
「三好家中の反信長勢力&畿内国人」「本願寺」「朝倉・浅井連合」この3つの強力なピースが揃ってしまったので
信長との対立の芽が生まれ出していた御神輿として格好の人物であった足利義昭を奉じる事で
ここに初めて「信長包囲網」と呼べるものが自然発生的に生まれて形作られていったのではないだろうか
その後、姻戚関係等を頼りに武田氏など周辺の勢力にも包囲網への参加の声掛けが
誰が首謀者という話では無しに広がっていったのではないか思う
そうなると象徴的な目立つ人物として義昭だったり戦力的な大きさから信玄であったりという名が
首謀者としてクローズアップされだしてそこから真の首謀者は誰だ!?って話に進展してしまうのではないかと
21 信長がここまで人気出てなきゃいつもの畿内情勢 で終わる話ってことか 二系統に分かれた将軍の対立や管領家の対立と同じ構図でそもそも信長というよりも反義昭のための三好のいつもの戦い方なんだよな >>519
これ斬新な切り口の内容って何かあったりした? 志賀の陣であと少し粘っていれば信長に勝てたのになぁ どうだろうね。
既に三好や六角が各々単独で和睦結んでいるからなあ。
比叡山上で孤立化は避けたいのが普通だと思うが。
豹変して三好・六角が京に迫るなんて事態となれば
山を下って挟み撃ち→勝利!かもしれないがね。
強力な指揮権がなく、それぞれ他人任せなのが弱点だね。 志賀の陣の講和の理由の一つとして
雪に閉ざされて越前への帰還が困難になる事を嫌ったって話がよく出るけどさ
雪で陣の士気が落ちるのは織田方も朝倉方も同じだし
一乗谷には戻れなくても敦賀や小谷へ帰る位ならそこまで困難か?とも思う
福井市内も敦賀も長浜も高島も全部住んだことあるし
それらの地域で大雪は何度も経験したけど北陸の人間ならある程度は慣れっこというか
雪は降るもんだという意識も前提として持ってるしそこまで雪に関して心配になるかなあと 長く領国空ける事自体が朝倉氏の抱えてる問題的に他家よりやばい 雪で一乗谷への帰還が困難だとはいっても
湖西、湖北、若狭地方が雪でヤバイなら奥越のほうはもっとヤバイという事
織田軍だって美濃方面からの越前侵入は無理な事になる
一乗谷へ全軍帰城させる必要は無い訳でもう少し状況見て欲しかった
志賀の陣の時には朝倉ー本願寺の講和は成っているので
加賀からの一向宗侵入の危機も可能性は低い訳だし 朝倉氏の家中統制の問題なんて
他の大名家と比較したらほぼ無いといって良い代物
孝景時代は内乱的な戦闘は無しで弟・景高の一族を追放
義景時代の内乱的な武力衝突は堀江氏の居館立て籠もりがあっただけ
池田氏への静粛も武力衝突など無しに行われた
朝倉家滅亡の一年前ぐらいから内部崩壊の兆しが目立つようになるけど
それはどこの大名家であれ普通に起こる当たり前の事(武田家、斎藤家、浅井家…etc)
配下の一門衆や家老の間で対立などが存在する事もどの大名家にだってある
朝倉家健在の状態で離反的な行動をとっていた配下の家はない
(溝江家だけが織田方と連絡は取っていたが離反前提の連絡ではなかった) 朝倉氏の一門の問題が非常に大きくね?
それがなくても何かあったらすぐに帰れますよとどうしても帰れませんの場合どっちが領内荒れやすいかって考えたら
やっぱり雪で物理的に帰還不能ってのは戦国大名にとってかなり痛手じゃない? 義景が目を光らせていたから対立が分かりやすい形で出てこなかったって言えちゃうし、武力対立があったかどうかだけでほぼ問題がなかったとは言い難くない?
大野郡司と敦賀郡司の対立で一人加賀侵攻中に自害するような羽目になってるし それよりは書状各種で対立の有無を確認すべきと思うなぁ
武力衝突のみが対立の在り方では決してないし
まぁ、やらないです、武力衝突の有無が絶対ですって言いきるなら、多分これ以上言ってもわかってもらえないと思うし話切るけども 義昭御成の場での敦賀郡司欠席、朝倉景垙の自刃これらは武力衝突を伴わない家臣間対立の最たる例じゃねーか 朝倉家に謀叛や家中対立の火種は一切なかったって言ってるわけではないよ
>>539にもそう書いてある。他家と比べてそれほどの大事ではないと言ってる
加賀攻めの大将争いで敦賀郡司家と大野郡司家が揉め景ミツが自害
義昭の義景亭御成で下座の敦賀郡司家が揃って退室
堀江氏と本願寺家との内通疑惑
父・孝景時代から一貫した池田氏の面従腹背
廻国にかこつけて織田家と誼を通じる素振りを見せる溝江氏
朝倉家滅亡直前に綻びが出始め離反や内通が頻発しだした志賀の陣以前だと
主だった朝倉家中の対立や離反の動きにはこういったものがある
これらの中で武力衝突にまでエスカレートしたのは堀江氏の一件のみで
それらも最終的には話し合いの末、越前退去に落ち着いてるわけで 越前隣国の謀叛や家中対立だとわかりやすい例で言えば斎藤道三と息子・義龍との武力衝突からの道三の敗死
武田元信ー元光ー信豊ー義統は四代にわたって父子間で武力衝突とそれに伴う六角氏の介入や国端の逸見・粟屋の離反
能登畠山の義続の家督相続時における一向宗と結びついた一門衆の能登乱入とその解決に当たった重臣層達の増長
etc…
この時代はどの家にも多かれ少なかれ当主と一門、一門と一門、当初と配下、配下と配下…対立の火種はあるもの
そしてそれらが武力衝突に発展し勢力としての勢いを削がれた結果、他国からの武力又は政治的な介入を受ける羽目になる
こういった事例が数多くみられる戦国時代において朝倉家の各郡司家の対立や足の引っ張り合いなんて他家から見ればたわいもないレベル
これを無理に敦賀郡司家と大野郡司家の対立を殊更大げさな事にとらえるのは他の大名家の事例からすればオーバーだと言える
他の大名家だったら跡継ぎが自害に追い込まれて下座に据えられる扱いをされたならばとっくに離反して敵対してる
信長の若狭侵入時にも金ヶ崎城に籠城なんかせずにとっくに織田方に寝返ってもおかしくない状況でも籠城戦で抵抗して
その後の姉川の戦いでも先陣を務めたりしてる位、朝倉配下は従順で家中統制に苦労している家とはとてもじゃないが言えない
朝倉家中には家中対立がなかったなんて話ではなく武力衝突にまで発展する他家と比べても大げさにとらえすぎだと言ってる メインは雪で通行が物理的に不能になった場合の話じゃろ?
逆に雪で自分の領国へ物理的に帰還不能になっても出陣続けられる戦国大名ってどの程度いるの?
何かあればすぐ帰れるのとほんとに帰れなくなるの差でかくね?
当主と主戦力がほんとに帰れませんって時にお行儀よく待っててくれる連中ばっかりだって胡坐かいてられるほどこの時代の治安も信用もよろしくないっしょ?政務も滞るし 雪で帰還不能になっても沼田城に滞在して(食料事情の為ワザと?)越冬するの大好き上杉謙信
謙信の越後も独立意識の強い揚北衆とか越後国内の不穏分子ウジャウジャいます
そんな事も意に介さず毎年、越冬してますな
雪中行軍なんて無茶な事はしないだろうという相手の虚をつく津軽為信のかんじき部隊ってのもいる
探せば東北や北陸なら他にもいるかもしれんね
志賀の陣が長引いた場合の領内の統治不安の問題なのではって言うのならば誰が朝倉家に反旗を翻す事になる?
朝倉景鏡も志賀の陣には参陣してるし敦賀郡司家は金ヶ崎での失態のせいもあってか景恒は入仏、景紀は隠居状態
越前北部の堀江氏は参陣してないはずだが一向宗を領内に呼び込もうとも朝倉ー本願寺間では既に和議が結ばれてるし
どの武将とどの勢力が結びついて蜂起するのか具体名上げて推測してみて欲しい 家臣であってもその気になれば謀反起こす上杉の例を挙げて
どうして和議結んだから長年敵対してた相手でも大丈夫です、背中がら空きにしてても絶対殴られませんって自信生まれると思うの? 津軽為信のやつなんてまさしく、本来は越冬なんてきついって自分で言ってるしさ
関東管領職の関東制覇や津軽の特殊例挙げていけますってちょいと強引すぎね? 例えば武田からの調略を受けた本庄繁長が縁のある大宝寺氏からの助力を受けて蜂起した件でどう?
「どうして和議結んだから長年敵対してた相手でも大丈夫です、背中がら空きにしてても絶対殴られませんって自信生まれると思うの?」
上記の書き込みから察するに本願寺家が朝倉家との和議を反故にして朝倉家中の誰かと結びつくという考えをお持ちなら
足利将軍の執り成しでもって結ばれてお互いの子息、子女の婚姻関係までまとめた和議が反故になる確率ってこの時代でも高い方なの?
和議を反故にしてからの本願寺家とそれを支援する武将の具体的な越前侵攻プランってどんなものになるのか妄想でもよいので意見を聞きたいな
例を聞きたいと言われたのでパッと思いついた上杉と津軽の2例を書いたよ
「探せば東北や北陸なら他にもいるかもしれんね」
探せば特殊な例ではない雪国ならではの戦い方の作法や慣例はあるんじゃないかとも思ったので知りたければ探すしかないねって事も書いたのよ 志賀の陣で降雪の心配で領地に当主不在による統治不安があるとしても
本願寺家が織田方に野田福島の戦いで敵対の意を表明したのが志賀の陣とほぼ同時期なので
ますます本願寺家が朝倉家との和議を反故にする可能性アリという発想に行きつくのがちょっと分からない あれ?確か本願寺って朝倉より先に織田と講話してなかったっけ?
記憶違いなら前言も含めて完全に認識不足ですわ申し訳ない >>553
本願寺が一番先に信長と和したのが10月、
続いて六角が11月に和し
朝倉浅井は12月だ 領国の不安があるとはいえ留まって欲しかったな
しかし三好も11月に信長と和議結んでるから朝倉浅井だけで継戦するのはかなりキツい状況ではある ある意味これって他が和睦しちゃってこれ以上粘ると負け筋すらあり得るからかなりいいタイミングで和議結べたんじゃ?
ババを引いたのは延暦寺って感じだけどさ、そういう意味では雪じゃないかもね 帰った理由
自分も勝手な思い込みがあったけども、本来この後もまさか織田とどつき合いが続くって認識もなかったろうし
なんなら志賀の陣の講和の仲介者こそ義昭だし 志賀の陣で和睦した事で手打ちになってるのに何がどうこじれてもっかいバトってるんだ朝倉・浅井・六角・三好・本願寺と織田は
義昭は旧来の研究と違って信玄の西上がうまくいきそうって時まで織田に肩入れし続けてて発端じゃないよね? >>533
台詞だけだったけど「家老の山崎様が〜」って光秀が言ってたね
今回の大河は一色藤長とか日根野弘就とかマイナーどころもちゃんと出てきて嬉しいw 先月末に一乗谷に行ったのだけど、
あんな狭くて閉ざされた空間に、あんな豪華な本拠地を造ったら、発想が内向きになって、他国に関心がなくなるだろうなと思った。
先週の麒麟で義景公が同じことを言ってて笑った。 横山光輝さんの漫画で、信玄が勝手に退却した義景に激怒してる場面が印象に残っているな わしは黒澤明監督の「影武者」の同じ場面が印象に残ってるな。 今回の大河は一気に義景評が覆るような描き方ではないにしても
多少はクセのある義景像的な持って行き方にしているようには感じる
主役は明智だし敢えて義景自刃みたいなシーンはいらないな
今回はナレーションで義景自害にサラッと触れて朝倉氏滅亡のパターンでいい NHKがお気に入りの朝倉氏遺跡の学芸員の若い女の子いるじゃん
あの子がちょっと目新しい解釈で新史料でも解読しようもんなら即、飛びつきそう
あの子は群馬県出身で関東公方や関東管領なんかの事の方が詳しいんじゃなかったかな 室町幕府の権力構造みたいな事を勉強してたんじゃなかったっけ? 義昭周辺により毒殺、という筋書きにあるのか?>大河の阿君丸 光秀のことを讒言して義景から遠ざけるように仕向けた鞍谷嗣知は
阿君丸の外祖父だしこの辺の事情はストーリーに組み込んできそう 大河じゃ堀江の叛乱は無視されちゃったね。
あれじゃ義景がますます馬鹿に見えちゃうわ。 前回いきなり景鏡が義景にいちゃもんつけてきてふいたわ
お前誰だよって 親父が宗家に弓引いたのに家中筆頭を争えるまでになった理由がわからん→景鏡
本人が有能だったのか、
母方の力関係なのか(本当に公家の女が母親なのか?)、
義景の家中統制(敦賀の力を抑制)方針が要因なのか、
大野郡司家の旧臣らの要望を無視できなかったのか、
他に理由らしいものあるのかね。 景鏡が大野郡司として独自の検断権や裁判権を有していたのは事実なんだけど
宗家の軍事動員命令に対して背けるようなそこまで独立したものではないのよ
あくまでも織田家との長期にわたる連戦の中で敗色の色合いが濃くなってきた結果、拒否しただけの事
大野郡司としての役職が戻されたのは1556年の景鏡31歳になってやっと
(おそらく1555年の敦賀郡司・宗滴の死が関係している?)
父・景高が追放されてから16年間は大野郡も朝倉宗家の直轄地だった
景鏡がJR越前大野駅前の近辺の土地を京都の公家に寄進して独自の繋がりを維持しようとしていた記録はある
その際に大野の秋の味覚を大量に土産として持って行って風流のある人物とも評されていたとか ふむ景鏡は舌戦の巧みな弁舌家タイプだったのかもしれないな 景鏡が占星術で占った結果、攻め込む事は凶と出たので
籠城策を取ってはどうかと平泉寺の坊主衆に進言したら
そんなものに頼るのはけしからんってキレられて
一揆が立て籠もる砦を攻めたら逆襲された挙句、討死
景鏡よりもっと謎なのが弟とされる今川家に仕えた朝倉在重
父とされる景高の消息が不明になった後に生まれてたりする
景高は堺湊から西国(九州らしいが)を目指したと言われているが
どういった経緯で今川氏に仕えてるのよ >>578
多分景高とは関係ない
足利政知の伊豆下向時に斯波氏も支援してたんだけど、当時の斯波氏は遠江守護も兼ねてたから、越前遠江両国に基盤のあった甲斐氏のように越前朝倉氏から早くに分かれた一族がその中にいてもおかしくはない
そしてそのまま伊豆に土着して北条氏に仕え、そこから一部が今川氏に仕えたという感じじゃないかな
ちなみに北条氏に仕えた一族には北条綱成生母や朝倉政景、政元父子などがいるよ 景高以前にも宗家と対立して没落、関東あたりに落ちていった朝倉一族がいたような…。
朝倉時景だったか?いいかげんなこと口走っているような…。
それにしても一族内の争いが絶えないね。 鎌倉以来の名族ですみたいな顔して数か国保持してる大勢力でも
主家の内乱の隙をついて台頭してきたような新興勢力でも
どんな勢力であっても父子間、兄弟間、主家と配下で争いまくってる
そういった面では英林孝景、氏景時代にそういった家中騒乱の膿をある程度出し切った朝倉氏はまだマシな方かな…
兄弟仲良く結束しろと説いてた様な毛利家にだってそんな相剋・内訌の時代があったし
そういった話をあまり聞いた気がしないのって後北条氏ぐらい?太田氏の一部の系統が離反してたかな? むしろ貞景以降に大規模反乱起こっているじゃあーりませんか?
景豊の乱は景豊本人はすぐに滅んだけど、与同者が一揆と結託して長く影響は及んだし。 もう少し朝倉家の記録があったらな
元家臣が纏めてくれてたら良かったのにね
朝倉の記録が少な過ぎて結局憶測でしか議論出来ないな ある程度の規模の勢力ならば国内外の動向を家の記録と共に書き溜めていて
祐筆とは別に"公式"記録係のような人物が存在しそれは朝倉氏にもいた
義景期では栂野吉仍(景仍)という人物がそれに相当する
三里浜で行われた犬追物興行の記録や曲水の宴での記録等、朝倉氏の当時の威勢を書き記している
一乗谷から7Kmほど北西に位置する栂野の地を治めていた古参の領主であり
義景期からは年寄衆にも抜擢され国政にも関与した人物なので
朝倉氏の内部に関する詳細な記述は栂野吉仍の書き記したものではないかと言われている
朝倉氏滅亡後、子孫も含め同行は不明となるが加賀・前田家に子孫と思しき人物がおり
加賀国内の細かな描写と相まって「朝倉始末記」は栂野氏の子孫が安土桃山〜江戸時代に纏めたものの可能性が高い 「朝倉始末記」は所謂”軍記物”であり一級史料として扱われるような代物ではないし
前半部の「賀越闘諍記」は脚色、創作部分が多く見受けられ参考とすることは難しいが
後半部の「越州軍記」に関しては栂野吉仍が義景の側近として重用された時期とも重なっており
比較的、良質な史料とされ一次史料の補完として用いられる事もある 昨日、一乗谷行ってきた。
安養寺から下城戸までぐるりとまわったけど、雨足が強くなったので山城に登るのは諦めた。
次回訪問の時までとっておくわ。 今回の大河、ひょっとしたら義景自刃まで描くんじゃないかと思えてきた。
そのあとは超駆け足で終わり、か? 光秀が越前時代に世話になった村に対して禁制出して村人守るみたいな
エピソード入れてそれで終わりでしょ
別に光秀の軍勢自体が義景を追い詰めたわけでもないし >>589
記録では残っていない。
とは言え、幼少期は不明なので、いた可能性はあるが、他は全部
夭折した可能性はある。 播磨守景弘って系図に義景の弟として載ってるが創作なのか? そんな名前聞いた事ないな
島倉千代子は長野県出身の人だったと思うけど
義景の弟が朝倉氏滅亡時に信濃に落ち延びてきて
自分はその子孫だって言ってたらしいわ
こういう話のほとんどはホラ話だろうね それなりの名家のはずなのに跡継ぎの記録が少ないって不思議な話だよな
孝景に子供が多かったら結果は変わってたんだろうか “城マスター”千田嘉博先生が徹底解説! 絶対行きたくなる!ニッポン不滅の名城「一乗谷」 |NHK_PR|NHKオンライン
https://www6.nhk.or.jp/nhkpr/post/original.html?i=26505&cid=nol 曹洞宗、道元のいた永平寺まで行ってきた。
守りは強いねーここは。
朝倉家はやはり守りだな。攻めようにもここからどこ行こうってなる。
さらに北は本願寺だし寒いし、南は浅井だから手が出せないし、南東はやる気でないし・・・。 日本中で争いが頻繁に起こってたあの時代に
一向宗との九頭竜川合戦から信長の敦賀郡侵入まで
約60年間も国内で大きな戦が持ち込まれなかったおかげで
戦国期の防衛戦のノウハウが越前では全く育たなかった
織田軍からの禁制を求める事を優先し町民が金ヶ崎城防衛に全く協力しなかったり
一乗谷城が一度も防衛に使用されないまま無抵抗で落城したりだとか
現在の鯖江ドームのすぐそばの数千の軍勢が渡れる舟橋辺りに防衛ポイントを置いてたらしいんだけどね
とにかく大河を挟んで対陣、山頂に陣取って対陣、朝倉氏は戦い方にあまりにも進化が無さ過ぎた 元々織田家は越前織田荘出身で、
三管領斯波氏の次席家臣であり、
世襲の尾張守護代という高い地位にあった。
一方朝倉家は三次の家臣で、
越前守護代となり、
応仁の乱に乗じて越前守護となり、
主家斯波氏と越前守護の地位を争っていた。
そのような中で織田弾正忠家の信長が、
尾張を統一し、織田家の尾張守護代争いに介入していた美濃斎藤家を制圧して、
朝倉家を制圧するというのは、
斯波家の内部抗争にケリをつける為に必然の流れであったのである。 信長がまだ美濃すら攻めてない段階で武衛家なんてとっくに滅亡してるのに
内部争いもクソもあるかよ あります。
やはり積年の恨みというのが
根本にある。 朝倉家と織田家が血縁関係あったの知らなさそう
土岐家の内紛で協力関係にあったのも知らなさそう 守護代甲斐氏追討でも朝倉と織田は共闘
斯波が朝倉を討とうとした時も織田は諫めてる
割と仲良し 鞍谷御所、鞍谷刑部が朝倉家の統治にどこまでクチを出せていたのかが問題である >>587 >>598
2020年大河『麒麟がくる』では12/20(日)37話「信長公と蘭奢待」にて
信長勢に一乗谷に攻め込まれ景鏡に寝返られた朝倉義景自刃でした。
義景「朝倉はタカウジ公から越前を宛がわれて11代、一乗谷に移り5代・・・・」 これだけ雪降るなら冬になる前に越前に戻りたくなる気持ちも分かるな 20世紀がおかしかっただけで本来ならずっとミニ氷河期だし当時はトンネルもないしな 昔の暦で12月ってことは前月11月に冬至があって
今の暦ならちょうどこのくらいの時期ってことだもんな 「プレジール福島」1002号室の井本寛(いもとかん 近畿日本コンサルタンツ勤務 昭和62年うまれ)は怖い住民。井本寛(いもとかん)の壁ドンが横行、住んだら絶対ダメ!そんなマンションが「プレジール福島」(福島区福島1−3−27)、トランクルームとしても役立たない下水臭いマンションが「プレジール福島」(福島区福島1−3−27)、安かろう悪かろうがモットーの商都が運営する賃貸マンション「プレジール福島」(福島区福島1−3−27),
夜中笑い出す怖い入居者が多数入居中、鉄筋つくりなので響く騒音、そして嫌がらせの横行。
性器ヘルペスの異常性癖者が1002号室の井本寛(近畿日本コンサルタンツ勤務)の賃貸マンション「プレジール福島」(福島区福島1−3−27)、、
賃料を下げても空室率が上昇中、貧乏人とトラブルメーカーの井本寛をはじめとするクズのたまり場の「プレジール福島」(福島区福島1−3−27)、下水臭い室内は商都のメンテナンス不足の証拠,
入居時に前の入居者の陰毛が散乱した状態で引き渡す清掃料金ぼったくりの商都が運営する「プレジール福島」(福島区福島1−3−27)、住んだら絶対ダメ!「プレジール福島」(福島区福島1−3−27) ,空室率上昇中!「プレジール福島」(福島区福島1−3−27)
「プレジール福島」 1002号室の井本寛(いもとかん 近畿日本コンサルタンツ勤務)と不愉快な仲間たち 井本廉 井本もも 井本梅香(杉並区成田東1-11-6-102) ←こいつら井本寛から性器ヘルペス感染か??
「プレジール福島」 1002号室の井本寛の持病 性器ヘルペス ソープで感染 井本寛(いもとかん)のペニスに毎日大江橋クリニックで処方された軟膏を塗る生活
「プレジール福島」 1002号室の井本寛(いもとかん 近畿日本コンサルタンツ勤務)と不愉快な仲間たち 柳 恒太郎(豊中市北緑2−1−18−1115) ←こいつら井本寛から性器ヘルペス感染か??
「プレジール福島」 1002号室の井本寛(いもとかん 近畿日本コンサルタンツ勤務)と不愉快な仲間たち 船越 明生(門真市上島町6−12) ←こいつら井本寛から性器ヘルペス感染か??
「プレジール福島」 1002号室の井本寛(いもとかん 近畿日本コンサルタンツ勤務)と不愉快な仲間たち 東 利則(茨木市小川町9−211) ←こいつら井本寛から性器ヘルペス感染か??
「プレジール福島」 1002号室の井本寛(いもとかん 近畿日本コンサルタンツ勤務)と不愉快な仲間たち 田岡 亜弥(横浜市都筑区牛久保東1−26−43) ←こいつら井本寛から性器ヘルペス感染か??
「プレジール福島」 1002号室の井本寛(いもとかん 近畿日本コンサルタンツ勤務)と不愉快な仲間たち 西口 昌宏(岸和田市八幡町10−15) ←こいつら井本寛から性器ヘルペス感染か??
「プレジール福島」 1002号室の井本寛(いもとかん 近畿日本コンサルタンツ勤務)と不愉快な仲間たち 飯尾 義弘(神戸市灘区八幡町4-9-27) ←こいつら井本寛から性器ヘルペス感染か??
「プレジール福島」 1002号室の井本寛(いもとかん 近畿日本コンサルタンツ勤務)と不愉快な仲間たち 葉山 大樹 葉山 真里 葉山 結里奈(東成区深江北3−15−14) ←こいつら井本寛から性器ヘルペス感染か??
「プレジール福島」 1002号室の井本寛(いもとかん 近畿日本コンサルタンツ勤務)と不愉快な仲間たち 立花 直輝 立花 智美 立花 和美 (住吉区山之内1−17−13) ←こいつら井本寛から性器ヘルペス感染か?? 95 朝倉残党は地元で帰農してんのか、一向一揆に完全に潰された訳では無いのな
日本海側はこのパターン多いね 越前に残った家はまだそこまで家臣団が大きくなかった前田家などに臣従して
下級武士として加賀や越中なんかで細々と続いてる
帰農した家は越前から放逐された家が多いね
越後で大油田掘り当てた真柄の一族とか 朝倉氏滅亡後浅野長政に仕え
浅野が請うかたちで南部信直に仕えることになった
元朝倉一門松尾景長 松尾に限らず朝倉一族ではやく別姓名乗ったのはいくつか生き残ってたな 朝倉氏100年の繁栄を伝える 福井、一乗谷博物館開館
共同通信社
福井県立の「一乗谷朝倉氏遺跡博物館」が1日、福井市にオープンした。戦国時代に約100年間、越前を支配した朝倉氏の
城下町を表現した巨大ジオラマや原寸大の朝倉氏居館など当時の繁栄を伝える展示をそろえた。入館には事前予約が必要。
https://video.yahoo.co.jp/c/29494/0b871b4b6c35fe43dc533c92c33aa80d94bc12c6 REVELATION
資金源/コング
フロント/天下り/右翼思想
フィクサー/集団ストーカー/ハッキング/盗聴/盗撮/家宅侵入
汚職/集団ストーカー/ハッキング/盗聴/盗撮/家宅侵入/揉み消し
揉み消し加担