伊達政宗はどうすれば天下を獲れたのか?
一説には天下を狙っていたといわれる独眼竜伊達政宗。
そんな彼がいつ、どのように、どうすれば天下を獲れたのかをみんなで考えるスレです。 一般的には1万石で300人養えると言われてるから
3万人だね 早めに秀吉に投降→大老就任→関ヶ原で徳川を背後から攻撃→関東・東北支配→秀頼もしくは次の世代で豊臣を滅ぼして天下統一 15才で本能寺の変だろ。二十万秀吉軍には勝てない。
しかし若くして奥羽を統一したのだが、秀吉に奥羽を献上
したようなもの と いう考え方もある。 >>510
ないない
陸奥と出羽あわせての石高は、太閤検地だと約200万石、慶長郷帳だと約250万石しかないからせいぜい120万前後ってとこだろう 宮城全部、相馬以外の福島、岩手と山形の南部、新潟の蒲原郡と栃木の那須郡の一部
江戸期の石高で200〜250万石あるわな
降参した岩城、大崎、葛西領も含めるとだが 自領化したのが約120万石、降参した大名含めて200万+でないか 政宗が家督継いだあと最上と佐竹と北条がすぐ死んでたら南下しやすかったかもしれない
たぶん 少なくとも最上と佐竹は親戚なんだから対立せずに味方に取り込むべきだった 政宗一代じゃなくて、先祖からの大きな蓄積があれば、天下統一できたんじゃないかな。
福島県の伊達の地方のあたり一帯が、北畠なんとかというのが広大な領地を
もっていたという設定でいい。討ち死にしなければ陸奥守護ぐらいになってたかも。 家督相続時は50万石だったし条件はそれ程悪くない
だけど上杉と同盟したり、秀吉と通じなかったり
佐竹の奥羽介入を招いたりと外交の失点が多かった
その辺をもっと上手にやってれば景勝の代わりに五大老入りも
出来たかもしれない http://www.jomon.ne.jp/~kmt/01-Oldmap.jpg
政宗が「陸奥」一国の守護なら、全国制覇できる。
北畠顕家は、陸奥と出羽の両方を統治したらしい。京都へ騎馬軍とともに上洛するが戦死。 >>527
歴史の結果を知ってる我々現代人なら、やれ秀吉につけとか家康につけとか、そういえるかもしれないけど、その時代を生きていた人に、しかもいまとは全然違う通信手段や連絡方法を以て、ベストな選択をしろと言うのは酷だと思うよ。 陸前陸中陸奥の三陸になったのって江戸時代からなんだよね。
それまでは広っ!w
ぱっと見大国だけど、京中心の当時は国割りしなくてもいいような扱いだったのかね 仮に100万石以上の勢力になって五大老に就任しても
家康に適当な言い掛かりをつけられて欧州を舞台にした慶長出羽合戦の再来になるかと >>527 家督相続頃に50万石あった……。そんなに無い。精々30万石を少し上回った程度。 >1
一番手っ取り早いのは、あと10年早く生まれてくればよかった
おなかのなかで大暴れして早く生まれることです >>535
江戸時代初期の米沢藩がだいたい30万石で、輝宗〜政宗の頃の伊達家はもっと大きかったから、50〜60はあったと見て良いと思うよ。 まだ永禄や元亀の頃と慶長や元和の頃の石高が同じな訳ないだろ…前提がおかしすぎるわw まあそうなんだが、であれば50ではなくて30とか具体的な数字が出てくるのがそもそもおかしい。 いくさで100万石を切り取るよりも、
北上川の河川整備をしてチマチマと開墾していって
100万石を達成しているけどな。平和的。 太閤検地を参考にしても政宗が家督を相続した時の
伊達の所領は50万石は超えてるだろ
東北地方では蘆名氏も凌ぐ勢力だった むしろ江戸時代の仙台藩の存在感のなさはどうにかならなかったかなと思う。 寺の修理とかさせまくって力を削いだらしいね。幕府としては。 伊達の家紋が面白い。
元祖ゆるキャラというか、鋭い眼光の雀がユーモアいっぱいに描かれてる 忠輝舅のポジションで家康が死んでれば大チャンスだった 仙台を獲ることを天下を獲ると称する
天下=仙台藩と無理やり納得すれば宜しい 山形発 伊達政宗生誕450年 舘山城に熱視線
初代仙台藩主、伊達政宗(1567〜1636年)の生誕450年の節目に
あたる今年、ゆかりの山形県米沢市で、市西部にある舘山城跡を保存する
市民らの活動が盛り上がりを見せている。城跡入口近くに大型の案内板を設置
したほか、伊達家の歴史などをまとめたガイドブックも作成した。国史跡指定
からおよそ1年。関係者は「米沢といえば上杉氏だけではない。伊達氏ゆかり
の地でもあるとPRしていきたい」と話す。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170409-00000001-san-l06 >>555
あの時代の武将は大概そういうものです。 むしろ衆道を好まなかった豊臣秀吉なんかは珍妙がられたとか 天下を狙うなら、秀吉の死後家康に協力するフリをして、関ヶ原の前に江戸を攻めるしかないと思うけど!とにかく家康が困る事しないと。可能性は別として少なくとも三成より政宗が怖い筈だから。 上杉と手を組むにしても南下策は厳しいんじゃないかな
相馬恐らく頑強に抵抗するだろうし、上杉もおいそれと領内通過を許すかどうか
日和見の佐竹が相馬攻略に動いてくれれば江戸進撃も目はあるか 現実的に天下狙える可能性は、1590年時より2000年時がはるかに高いと思います。小十郎以下家臣に「失敗したら滅亡してもいいので協力してれ」宣言して勝負するしかないでしょ!度胸としては三成を見習うべき。展開としては面白いけど政宗にその気はなかったでしょう。 関ヶ原の時点で100万石以上の石高と五大老のポストを得てないと
どう足掻いても天下は無理かと >>1伊達政宗はどうすれば天下を獲れたのか?
伊達政宗公が、織田信長公の年齢で、尾縄の領主になって、家系が男系になっていたら、
天下人になっていたと推測します。
そして、伊達領主に織田信長公になっていている場合と設定です。 今の青森まで征服してイタコに北畠顕家の霊を降ろしてもらって京まで駆け抜けるしかないな そもそも、自演キャラとの同一人物の疑いが晴れてないのに
謝罪を強制するのは、どういうことであろう
まこととは、そういう男である 伊達は過大評価される家として有名だよね。
地理的に、東北にしては恵まれていただけの話で、
対秀吉戦略ではことごとく完敗している。
維新でも全く存在を誇示できずに終了。
例えば、伊達と、北辺の津軽が対決した場合、伊達は勝てないと思う。
対南部でも完敗している。 よく政宗がもう少し年配だったら天下に号令をかけていたかも
なんていう妄想が語られることがあるが、謙信や信玄すらできなかったことを
あの男ができるわけもない。もし、伊達の上洛を妄想するのなら、むしろ、
父親輝宗が長生きしていたらと想像した方がまだましだろう。
伊達政宗君は、渡辺謙に感謝しないといけない。 真面目な話、政宗は渡辺謙より胆力がなかった可能性だってあり得る。 >>573
もう少し年配だったら、会津の蘆名はあの蘆名盛氏が当主なんだけど。政宗で盛氏に勝てるのかな?
しかも盛氏を何とかできたら、今度は上杉謙信。 有名にした一番の出来事が大河ドラマ主役だからなw
滅ばなかった、ある程度の地位で江戸時代まで残ったって点で十分評価できるけど
天下を狙ってたとか言うから口だけの小物に見えてしまうw >>572
親父が築いてくれたレールの上を走ってたら天下取りのチャンスはあったな
芦名には姉が嫁いでその息子が当主って既成事実もあるわけで。他にも戦上手な相馬や最上とも
婚姻関係を結んでるし、仙台を支配していた
葛西氏は伊達の配下だった。
越後介入とか関東入りを大義にそれらを纏めてたら200万石という
大勢力にもなり得た >>578
輝宗を買いかぶりすぎ
あれは結局なれ合いのうちからでてなかった
だからこそ政宗が苦労したわけで 輝宗は越後ばかり見ていたから政策継続でやれたとしても
小次郎の蘆名相続ぐらいで磐城岩代を纏めるのは無理だろう
二階堂岩城にはさほど気を払っていないし宿敵の相馬以外はどうでもいいそぶり
遠藤ほど切れる者がいないし戦上手はないないしで政宗に史実以上の勢力拡大は無理 >>580
岩城は輝宗の兄貴が当主で、二階堂は盛隆が死んで未亡人が政務とっている状況だから無視しても問題ないんだけど。
むしろ輝宗が死んで政宗が強硬策に出たから、一気に周辺との関係が悪化し、岩城や石川ら親族まで敵に回すことになった。 >>581
政宗の強攻策は輝宗存命中でしょ
家督は譲ってたわけだが。 >>582
実際どう思ってるかはわからないけど親子仲は悪くないていなんだから
存命中にどういう方向性が決められなかったのかね
ていうかその方向性を継承してから家督譲れよな 政宗は、いまの宮城県知事程度の奴に過ぎなかったと思うよ。 確かに政宗は野心をいつまでも持ってた感じがあるだけで特別なにかなした訳でもないしな >>581
田村優遇で岩城二階堂石川と拗れてきたのは政宗からではない
他国に行った兄弟と歩調を合わせ気がなさすぎるのが輝宗
というか勢力内にいる一門でも信用おけるのが留守亘理ぐらいで小梁川すら信用できないから 津軽為信が、伊達の頭を飛び越して、秀吉への謁見に必死だったのも、伊達の存在はまったく
無意味なものになることを察知していたため。
どれだけ大仕事をしたかという比較では、小藩ではあるものの、無から生じて幾多の飢饉を乗り切り、
幕末にいたり、安泰のまま明治をむかえた津軽家のほうが評価は高い。 津軽は単純に日本海の貿易ルートに乗っていて
さらに中央の人間である沼田がいたからだよ
なんでそこに伊達が出てくるレベル >>58
たとえ奥羽の強国のどれかがあの地域を統一できたとしても秀吉のいきおいを否定できるとは思ってなかっただろうね
伊達政宗にしてもそれができると思っていなかったと思う
秀吉から上洛要請をぎりぎりまで待ったのも単に往生際が悪かっただけだし >>589
大事なことは、情勢をよく読んで、分相応の生き方を全うすること。
そして迅速に行動を起こすこと。
そういう点では、津軽は北の辺境の小国であることをよく理解し、
ではどう生き抜くか?という認識を持つことができていた。
一方で、伊達は、とにかく初動が遅い。
すべて後手後手。相手の一手をみてから行動を起こすという愚を繰り返す。 秀吉時代、伊達は中央工作というものを知らないばっかりに、
大老格のポジションも確保できなかった。 まことは、注意をされて、それを直すと敗けと思っている
これも、無教養の証である というか
単なる戦国歴史ブームビジネスの有名無実な産物。 それが証拠に、まことは人と話をして、上手く行かないと
癇癪を起こす 伊達ブームなんて
地元観光産業が仕掛けたバブル商売でしょう。
史学上は伊達家は遠隔地大名家としては、近隣の南部、最上、秋田、津軽家と
事実上は同等程度の勢力評価しかない。
北条などと比較したら、恥ずかしいほど弱小。 奥羽越列藩同盟を政宗はあの世からどんな思いで見ていただろうか >>597
いや政宗でなく輝宗が当主だった頃の伊達家は東北最大だった葦名家の後見を
勤めていたし最上、相馬とも婚姻を結び今の仙台市一帯を支配してた葛西家でさえ支配下に置いていた。
政宗が道を間違わなければ後に五体老入りしててもおかしくはない石高 津軽藩4万7000石→実高32万石→幕末
伊達藩58万石→61万石→実高100万石→幕末→白石28万石に減封 >>602
後見とか婚姻同盟とか従属とか言っても
どれも伊達家の領土でも家臣でもないじゃないか 家康だってただ石高が多くて大軍出せるというだけではなく
家康自体が合戦上手だったから味方するものは多かったし
家康にビビって関ヶ原で西軍の毛利や長宗我部や島津も静観を決めた
政宗は戦上手ではないからせいぜい北条の様な地方の覇者止まりだろうね >>597
南部、最上はともかく、秋田、津軽程度と比較するなよ。少なくとも秋田、
津軽よりは2ランク上だぞ。
流石に、南部、最上と同格で、抜きん出ていなかったことは同意するが。 >>609
伊達より南部のほうが、家臣団の質や兵の強さが上じゃないか。
実際伊達は南部領に白石宗直と和賀忠親で攻め込んだが、ボコボコにされ完敗。
おかげで伊達は百万石がパアになったのは有名な話。
南部の強さは葦名や佐竹の比じゃないよ。
南部が南に勢力を伸ばせなかったのは、南部一族の九戸政実や大浦為信らの反乱など
お家騒動が多すぎて、統率がとれていなかったから。
九戸政実や大浦為信が従順な家臣で、南部に攻め込まれたら伊達は勝てないと思う。 >>606
葦名は内実はボロボロ。大崎氏は実質的に伊達の従属大名。
手強い最上や相馬は石高では伊達に及ばない、輝宗が築いた地盤を
有効に使えていればワンチャンスくらいはあった