信長公記の捏造マンセーを一つずつ暴いていくスレ P35
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信長公記は関八州古戦録等と同等の捏造マンセーで塗り固められている
名前通り信長公をマンセーするために曲解して作られた妄想軍記である
松永の降伏時期を一年前倒しして信玄西上中に降伏したけとに捏造歪曲
手取川は長家家譜、北徴遺文、謙信書状などにあるにもかかわらず隠蔽
熊見川も同様
森長可が82年に越後侵攻した→景勝が越後の諸勢に戦いの労いや発布を出してる様子はなく
それどころか一次資料では森の長沼を奪い、芋川らは5月下旬になっても信濃内で戦ってる事から明らかにデタラメ 信長公記の5/13に長篠への後詰めに行く途中に熱田社の八剣宮が荒廃してる様を
信長が目にして大工に社殿造営を命じてから岡崎へ向かう記述
↓
多聞院日記5/12の記述には武田軍の先陣が熱田まで進撃していたことを記入してる。
これは見事に符号する記述で、武田軍が長駆進出して信長を挑発して決戦に引き出して
本願寺への圧力を減少させようとしてるのがわかる。
公記が今堅田と共に石山砦で山岡景友を降伏させたと書いてるが、
一次史料には一切書かれてないデタラメ オナニーのくせに4つで終わらせんなカス
無能当主武田信玄に比べてずいぶん良心的な数だなw 第二次木津川口の戦いで勝利とデタラメ
毛利側一次史料に勝利し兵糧を本願寺に運び入れたと書かれている事実 高野山は最後まで信長を撃退しつづけて
本能寺の変のあとに戦友の上杉景勝に
山内に織田を一切入れなかったと自慢してるように
高野山の記事でもやはり信長公記はデタラメ吐いてる。
なんと公記は土橋の城館を攻め落として平定したというどうでもよいくだらない話で誤魔化すw 公記の天正8年3月、
ついに北条氏政が関八州を織田分国にして下さいと降伏を申し出るw
早雲が小田原城奪取から85年にして北条はついに隷属化。 高野山攻めみたいな手取川河野島以上のねつ造文言を真に受けるだがの頭の悪さには賞賛すら送りたいw
高野山側の記録では織田方の主な武将は織田信孝と堀秀政で、本能寺で信長がくたばったから撤退したなどとホラを吹いているが
言うまでもなく天正十年の段階で織田信孝は四国征伐への準備最中、堀秀政は羽柴秀吉への目付として中国地方におり
いずれも高野山への攻撃などできるはずがないwww
そもそも当時の織田信孝は伊勢二郡しか領有しておらず、四国征伐ももっぱら他国の浪人衆頼みという急造軍団。
そんな行き当たりばったりの遠征しかできなかった人間が十万以上の大軍なんか率いられないくらいわからないのか糞だがw
もっとまともな指摘つけろカスw クソスレが1週してだがの面白いギャグが見れるかもと思ったんだがな〜。 一次史料だけを読むと
信長って金ヶ崎で浅井に背後を攻められ挟撃の危機になったなんて
公記の記述が大ウソなのがわかる。実際は浅井と六角の兵が近江に起すを聞き、
越前より軍を班して京都に還ると書いてあるだけ。事前に情報を得ていてまったく危機的な状況ではなかった。
軍記特有の脚色がなされて信長絶体絶命のピンチみたいに描かれている 高野山攻めは天正9年から開始されてるから
とりあえずこの時期からの信孝と堀秀政が
別の戦線にいたことを
一次史料で証明することから始めてもらおうか。 信長公記は野田福島の戦いを信長の敗戦と書いてないどころか
志賀の陣を義昭の懇請でやむなく朝倉と和睦したなどと書き
志賀の陣のことを一戦御名誉と賞賛している。
つまり負け戦であっても信長公記は隠蔽してないどころか
ことごとく織田は負けてないことに歪曲されてるだけ >>14
おまえマジで知識ないの?w
堀久太郎は天正九年に三介信雄の伊賀征伐に参加していることが公記にきっちり明記されている。
そもそも大前提として、当時の織田信孝は軍を率いての武功がほぼまるでなく、所領が信雄に比べても
格段に少ない北伊勢二郡しかないのに、どうやって十万近くの軍を率いられたのか、そこから証明して貰わんとなw
大体おまえ>>9で高野山が信長を撃退したと書いてあるのはどういうことだ?w
千歩譲って高野攻めが事実としても信長はこの時高野攻めの陣中になんざいないぞ?w ・野田福島の戦い
作戦目的:野田城・福島城を落とすことだとするなら敗戦
(この考え方だと他の武将もえらい敗戦が増えてしまうが)
・志賀の陣
浅井朝倉の京乱入・織田領地奪取を防ぐこと
よって織田軍の勝利 信長公が援軍用意してたが前線ですでに敗北してたみたいだから援軍取りやめた
このフレーズは信長公記に頻繁に出てくる負けた時の常套句
なんと第一次木津川口の敗戦でも同じ常套句を使って誤魔化してるくらい >>15
犠牲もほとんどなくただ兵を引いただけのものを敗北とは言わない。
そもそも摂津では親織田の足利家臣であった和田惟政が三好勢の攻撃を抑えている。
おまけに志賀の陣なんて火事場泥棒しようとした浅井朝倉が威勢こいて出てきたはいいが
総大将すらいない宇佐山すら落とせず、信長ご帰還にビビって比叡山に引きこもる有様w
わざわざご丁寧に信長から決戦まじえようとしていたいも関わらず浅井朝倉は拒否るくらいのビビりw
これで信長から和議結んで浅井朝倉がすんなり許したとかどこの架空戦記なんだ?w そもそも公記の記述は何も間違っていない。
信長は元亀元年の志賀では京を守るように軍を展開している。
それは摂津での三好三人衆の軍事行動が活発化してきたことによる野田福島の戦いと、
浅井朝倉が攻めてきたときに京にほど近い志賀坂本付近に陣を敷いたことからも明らか。
信長がいかに京の足利義昭を守護しようと苦心していたかがわかる。
実際、志賀での和議においても足利義昭は一貫して織田信長を支持。わざわざ御内書まで出して和議に奔走している。
領土を一寸たりとも失っていない織田信長が追い込んでる敵を相手に和議をする理由は皆無、ゼロ。
結局危機感を抱いた義昭が御内書まで使って信長に和議を結ばせようとしたというのは合致する事実である。
アホなだがは史料の解釈やその背景すら読めんらしいw
>・野田福島の戦い
>作戦目的:野田城・福島城を落とすことだとするなら敗戦
>(この考え方だと他の武将もえらい敗戦が増えてしまうが)
>・志賀の陣
>浅井朝倉の京乱入・織田領地奪取を防ぐこと
>よって織田軍の勝利
プギャwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
流石に壺なんだがwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww 俺の得意料理は鮭のバター炒めだ!
さぁ俺を特定してみろだがさんよぉ! だがの真実とやらを真実とすると
そっから逆転し滅ぼした信長はヤバすぎるな >>16
一次史料は?
高野山攻めは10月中旬以降に開始されてる。
公記ですら信雄を総大将に9月中に伊賀が平定され、
10月に伊賀を見聞にやってきた信長が信雄に会ったりして伊賀から安土に帰ったのは13日。
信孝は一切記録されてない大空白が続くし、
信孝の支配領地は記録が無くて実はよく分かってないのが現実。
ちなみに信雄も実際には直轄地をほとんど持ってない可能性が高く、
越前の一向宗攻めで他国衆に命令していて
伊勢衆は滝川らが命令発給しており、
信孝も他国衆や丹波衆に命令発給していたりする。 織田厨がまた負けてるのか
あいかわらず負けると誹謗中傷しかできないでだが連呼で心をおちつかせるw ※論破され敗北すると悔し紛れに織田厨は〜と言い出すのがだがの特徴です >>29
相変わらずの痛さだなw
精神科医として一言言わせてもらうけれどマジで精神科受診してくれw
絶対に入院勧められるぞww もし高野山が織田に制圧されてたなら虐殺の記録があるだろうしな
大体どこでも虐殺ばっかなんだから 一次史料は?と聞くと織田厨がどうのと喚くorコピペを張り顔真っ赤になり逃げ回るのがだが
自分以外スレタイに沿ったレスしてないのによくまあ一人カタカタパソコン打てるもんだw まあ途中で飽きて放置するだろうね
他にもそういうスレいっぱいあるし 北条降伏ワロタw
公記は三次史料以下だわw
腹かかえてワロタw 否定できるソースがあるならそれでいいんじゃね
んでもう終わり?早いな >>32
そこ見たがマジキチだな
耳だけでなく頭の方もどんどんおかしくなって行くらしい
このスレのキチなど可愛いもんさ 織田厨の必死の抵抗むなしく捏造が今日も暴かれていく・・・ >>40
なんでもいいけど、他のスレの住人にまで迷惑かけるのはやめろよ? >>26
朝っぱらからレスぶちこんどいてソースなしかよw
おまえの言が真実なら、織田軍による高野山攻めは信長の自害とともに中断したという未完で終わり、
そしてその高野山攻めは天正九年から開始されている、とある。
ところがそれにも関わらず総大将である織田信孝は天正十年に高野山攻めを 放 棄 す る 形で四国征伐の軍を編成、
堀秀政も高野山攻めを無視して勝手に帰還、中国征伐に赴く秀吉について行動しているような状況で、
高野山を一向に落とせず苦戦しているのに、それを全く無視するかのような両者の挙動はどう説明するの?
まずはそこだよね? 高野山攻めに関して高野山の言ってること信じたら、
織田軍13万7000 対 高野山方3万6000
という、とんでもない戦いがあったことになる訳だがw
本能寺の変から100年以上後にできた高野春秋とかよく信じられるよなww 二見文書とか読むと天正10年2月には織田軍は高野山から撃退されてる為か
大和国で苦戦して紀伊国から叩き出されてるっぽいけどな。
一次史料を見る限り堀も伊賀攻めに参加してるようには思えないし、
公記では信長が伊賀平定後に、伊賀に視察に行って信雄に会ったと書いてるが、
一次史料では行ってない。
かわりに伊勢に1〜2日くらいやってきて誰とも会談せずあらき宮に来てすぐ帰ってる。 一次史料で高野山を攻めたとはっきり書かれてるのは松山新介くらいだろ。
堀が伊賀攻めにいたかどうかというのはまた別の問題だが、
少なくとも天正十年で中国方面に派遣されている時点で彼による高野山攻めはなかったと言っていい。
あと高野山自体に紀伊全体を治める地盤はない。あくまで大和方面から高野山を攻めた連中が苦戦した程度のもの。
それに公記が荒木残党を匿った高野山が悪いと書いているが、
一次史料を見る限り、佐久間信盛が死んで遺品を高野山が預かっていたが、
信長がそれを強制没収しようとしてトラブって、
高野山攻めの陣ぶれが天正9年8/23付けでだされるとしていて、
実際にその日付に細川幽斎が南方への出陣に触れた信長書状があるし、
細川は伊賀攻めには参加してないから高野山攻めだろうね。
通達しただけで藤孝が行ったとは書かれてないはずだが・・・
そもそも時期的に細川は鳥取城の秀吉支援している頃だろ 武田攻めの為に兵力抽出してしまったのが原因なのか、
武田攻め初日にあたる2/14には高野山包囲網の東の城と呼ばれる大和国多和城に、
高野山側が大反撃を加えて織田側の三好らを討ち取って大損害を与えてる。
これで織田軍の高野山攻めは完全に停滞してしまったと思われるね。
堀が秀吉の元へ行ったとする一次史料は誰から誰に宛てた何日日付のものなの? 武田攻めに兵力抽出されたと
解釈するのは信長公記2/9の
(和泉と河内と大和南部の兵力は高野山に備えて残れ)話に流され過ぎかな。
大和衆が5日出陣の信長に従う為、
上洛に向けて出発したのは、
3/3早朝だから、
まだ大和にいて兵力抽出されてない。
しかも突然信長出陣日が決まったから
同陣することになった近衛も
出陣準備に以っての他に取り乱してる。 >>51
公記で普通に御使として使わされてるし山崎にもいるんだが・・・
逆に堀が高野山攻めにいったとする書状は何?
また信孝の名前がないからここにいたんだとする理由も不自然。
たまたま軍役を使わされなかっただけということだって全然ありうるし、
そもそも高野山すら攻め落とせない人間に四国征伐なぞつとまるわけがない。
信長公記が2次資料だとすると義元の馬回り衆云々…とかいうのも嘘になるの?
まさか義元はある日余りにデブ過ぎて陣中で発狂して死んだのが真実とか?
そりゃかつての主君信長を多少マンセーするのは当たり前だろ。
てか徳川はもっとひどいだろ Orz 公記には天文21年(1552年)に桶狭間の戦いがあったと書いている事実w
このため桶狭間の戦い虚構捏造説の根拠にされるw(信秀死去は天文20年もしくは天文21年とされる)
天正9年11/24に信長の子の御坊殿が武田から返却されてきたので犬山城主にしたと
公記には書いてある。そこには信玄が養子にしたいと言うから甲斐へ送っていたと書かれている。
しかし実際は岩村城の養子に信長がねじ込んだ末に、武田軍に大敗して拉致られただけ。
完全に歪曲捏造しまくりなのが公記。 ここまで何一つ一次史料無しの妄想長文
暇そうで羨ましい 「それだけやったのにみんな負けたの?w」と、逆効果になっているだけのようなwww 困ったら自演とコピペ長文はやめろよなw
しかも正しいんならまだしも大嘘ときている
将来での織田での出世を約束された幹部候補が、なぜか丹羽池田の下についてたり、
「将来の織田での出世を期待された池田衆のお馬回役朝日孫八郎・波多野弥三郎〜」
挙句もともと武田に帰属していた遠山が織田に浮気しただけで、なぜか信濃にほど近いところまで信長が直々に軍を出さざるを得ないとか言い出すw
その他の記述も恣意的妄想の塊でまだ民主党のマニフェストの方が信用性あるくらいのもの だが敗れる
↓
だが別スレに行って自演
↓
そこでも論破される
↓
自ら新スレを立てて籠城 ←今ここ 高野山はまだしも野田福島の陣や滋賀の陣が信長の負けじゃないとかアホすぎる
本願寺も石山を退去しただけで最後まで負けなかったと言ってるのと何も変わらん >>65
志賀の陣で信長がどっかから退去したんですか??? 志賀の陣で信長の敗北とみる人間はホラ吹き大久保の術中に見事ハマってる
そもそもあの戦いは遠征中に火事場泥棒しようとした浅井朝倉によるもので、
信長からすれば京、南近江、宇佐山などが防衛できてればそれで勝ち 滋賀の陣が織田勝利だとよ
またとんでもない説が出たもんだ
そのうち本能寺の変も織田勝利になっちまいそうだな 志賀の陣における信長公記は
なんと朝廷から和睦の勅使で
関白が比叡山と朝倉を説得するために下向したことを完全に隠蔽。
朝廷がまとめた人質交換して撤退の話のみ書く始末… ◎信長公記
・堂々とか公記の記述の撤退の時に砦取り返されて本当は2回あったのに書いてない
・大した戦果のない姉川が大勝になってる。
・長篠の戦果が十倍以上過大になってる。
・道三との会見では、織田家臣である太田が、信長が織田家臣を連れて帰った後の道三の
「いずれ息子たちは信長の家臣となるだろう」という呟きをなぜか知って書いてる
・河野島の流れとか書いてない
・大良河原では追撃軍に信長が仁王立ちになって鉄砲撃ったら敵が追撃やめた
・稲生では信長が大声あげたら敵が敗走したり、信長が京に上った時に刺客のいる宿に乗り込んで
「殺せるものなら殺してみろ!」と啖呵切って刺客が恐れ入ったりかなり信長万歳な記事が多い
記録ではなく名前通り軍記 軍記なんてどこの家でもそんなものじゃないの
だからって全部間違ってるわけないし否定できるソースがあるなら否定できるがないなら否定できんわな 「改ざん」したり「創作を挟んだ」のではなく、「書いてない」ことを捏造というのなら、すべての史料は捏造だなw 書いてない事を理由にその出来事がなかったという見方をする人がいるから
指摘されているだけだろう 「書いてない」から「無かった」というのは論じる人の問題であって、史料の捏造とは別問題。
捏造派はこれも含めてるからおかしな話になるんだよなぁ。 >>1みたいに六角義秀を実在としている人が信長公記を捏造呼ばわりとは・・・ >>76
そういうとこだけは都合よく持ち出すからなw
奴の思考回路はわけわからん >>68
戦略目標が達せられている方が一般的に勝ちなんだからどう見ても織田の勝ちだろ。
浅井朝倉は軍を持ち出して比叡山に籠っただけで結果的に何も達成できていない。
当時10歳の大久保が捏造した「天下は朝倉殿が」に騙されているだけ。
そもそも天下の棟梁として足利義昭をかつぎだしている織田信長が勝手に
「今日から天下は朝倉のもん」なんて言い出したら周りがブチギレてついていかなくなるのがオチ。
そんな簡単なことすらわからずにあることないこと書き連ねたのが大久保
誤魔化すようにその後徳川身内の武功話でお茶を濁す有様w 志賀の陣は軍事的にはまあ引き分け、外交的には織田の勝ち。 まあだがは上田原を武田の勝利とか言っている奴だからなあ
例えばノモンハンではソ連軍の方が日本軍より損害多かったけど
だからといって日本軍の勝利とは言わないだろ?
ソ連軍が目的を達成できたが日本軍は出来なかったんだから
まあだがにしてみればノモンハンは日本軍が勝ったとか言いそうではあるが >>80
そんな生ぬるいレベルじゃないw
395 :人間七七四年[sage]:2011/12/15(木) 17:37:07.28 ID:dRX6uR2j
桶狭間の戦い直後から翌年にかけて
今川が家臣にかなり感状を出してる。
あきらかに桶狭間の戦いは今川の勝利。
織田はまったく感状を出していない。
義元が病かなにかで死去して撤退しただけ。 ここまで来ると凄いなw
太平洋戦争も天皇制を維持しただけ日本は単にアメリカと和平交渉を
しただけだ,とも言いそうw うわあ…
じゃあ武田と徳川は滅亡しなかった徳川の勝ちか? 元亀3年10/5の朝倉景亮書状
先日以◯◯◯◯ 入候之処、御懇之御報、
殊御一書披見本望候、其已後重而可申入之処ニ、
延引非本意ニ候、仍其表如何ニ御座候哉、承度候、乍御六借敷、南方辺之儀、示預候者、
畏可存候、委細林権介可申候之条、不能詳候、恐々謹言
蒲生下野入道殿御陣所 天正2年正月の公記
朝倉義景や浅井長政らのキンピカ骸骨を酒の肴に宴会した。
史実の信長は?
義昭→六角義賢書状
信長が帰ってきて下さいとか頼んできたけど拒否ってやったわw
そして越前が一向宗に奪われ、
勝頼に岩村城を奪われ
織田の攻勢期は半年持たず…
さらに公記4月に石山本願寺再挙兵につづいて、
石部城を雨に紛れて夜に六角義賢が逃れたと書いてるが、
義賢書状では、
信楽表で大勝利し感状まで出してる。 ただの太田の年数の読み間違えだろ。
で浅井朝倉はまさか江戸幕府まで生き残ったのか? ああん? >>85
だがよ、それでは朝倉の勧誘工作が熱心だったというだけで
蒲生が寝返ったというソースにはならんぞ・・・
しかも第一線で活躍していた賢秀ではなく隠居寸前の定秀に送ってる時点で、
もうかなり苦しい対応だろ。 蒲生賢秀の娘2人の旦那の
関盛信と神戸具盛は
信長によって幽閉されていたから怒ってたんだろうな。 不憫に思って助けたのが賢秀だろ。
大体蒲生は六角侵攻の時に素早く織田に鞍替えるような人間で、
しかも息子の氏郷は信長に重用されているような状態だぞ。
ましてや元亀三年なんて浅井朝倉がジリ貧で織田優勢だったころ、
こんな状況で織田を寝返りしかもジリ貧の朝倉につくというのは、
仮に事実なら時流が読めてないにもほどがあるだろ 蒲生が元亀年間には
織田に仕えていたとするソースは? >>96
え、おまえマジで自分が言ったこと理解できてないの?w
おまえが蒲生内応のソースに出したのが元亀三年の奥平貞能宛て山県昌景書状で、ここの
蒲生が織田家から朝倉家に寝返ったという文を根拠に蒲生寝返りを提唱したんだろ?w
それをおまえは自分で>>110で「元亀年間に蒲生が織田に仕えていない」と言いたいかのようなレスをつけて反論。
おまえは自ら挙げた根拠である「蒲生が織田家の朝倉家に対する大敗を受けて朝倉に寝返り」とする根拠(山県書状)を、
>>110のレスで自ら否定したことになるんだけど、その辺わかってるのかな?w
まさか「織田と朝倉の戦争を受けて朝倉に寝返り」なのに「織田と関係のない第三勢力に仕えていた」なんてアホな説を主張したりしないよな?w あ、基礎事項だけど元亀って四年までしかないからw
ついでにいうと根拠となる山県書状は元亀三年のものだからw 元亀4年=天正元年なのも知らんとかワロタw
つか織田に仕えていた一次史料無いなら
蒲生は中立だったんじゃねーの?
それが朝倉に帰属したいって申し出たから>>85の朝倉側返書なんだろ?
観音寺騒動で負けた六角義治を保護して重臣との間を取り持ち六角の忠臣と言われた蒲生だし、
義昭の上洛にも、甲賀などと並んで尽力してるのが蒲生。
将軍義昭と織田が分解した以上は、
誰が誰に仕えるなんてのはカオスな話だろ。
きっちり一次史料をあげてもらわないとな。 なんせ信長の上洛で味方したのが荒木と細川しかいなかったくらい
信長は世間から見限られていたしな >>99
おいおい本当に大丈夫か?w頭パーになったのか?w
おまえが「蒲生寝返り」の根拠として出した山県昌景書状で
「濃尾勢(織田)が越前勢(朝倉)に敗北した 近江勢は朝倉に同意した」
とあり、織田が朝倉に大敗して近江勢が寝返ったと書かれている。
で、この書状の最後に日野蒲生が朝倉に寝返ったとあり、手紙の内容と合わせて
織田の敗北、武田の躍進を山県が強調している。
つまりわざわざ俺らが探さなくても、蒲生が織田に仕えていたというのは
おまえ自身が出したソースに全部書いてあるんだよwだからマヌケだって言ってんのw だがさん自分の持ち出した書状の内容くらいちゃんと知っとこうや… そもそも>>85?のって蒲生の寝返りを示唆するものなの?
仲良くしてくれるとのお報せを一筆まで書いてもらって嬉しいって内容だろ?
その朝倉家臣の寝返りって解釈できんじゃね
こっちから織田に寝返りを打診したら、蒲生がねんごろにしてくれると一筆でまで保障してくれて嬉しい、と
たしかそのあたりで朝倉から織田への離反者がいたよな?
書状を出した人間のその後を知らないからなんともいえないんだが >>102
山県昌景書状の信憑性が無いことをわかっているから、補強できるソースを誰かが探してくれるのを待っているのでは? >>105
可能性はあるがかなり苦しい。
そもそも「蒲生が織田から離反した」と明確に書かれているのが山県昌景書状のみ、で
織田から寝返ったことを根拠にソースにしているのにも関わらず、>>115の「蒲生は織田に仕えていない」という根拠を求めようとしたことが誤り。
仮に山県昌景書状が事実であり、蒲生が織田から離反したのが事実であれば>>115での「蒲生が織田に仕えていない」という根拠は崩れ、
仮に>>115の提唱する「蒲生が織田ではなく第三勢力に仕えていた」というのが事実なら、織田から朝倉に寝返ったことを伝えている山県昌景書状は全くのデタラメで、
当然蒲生が織田から朝倉に寝返ったというのも事実無根ということになる。
まああれだ、絶対に両立しない2つの説をだがさんは主張したというわけだ。
日付的にも>>85と山県書状は相互に補完し合ってるな。
織田厨が主張する氏郷がすでに信長の娘と婚姻してると主張しながら、
一次史料提出からも逃亡を続けている現状じゃ話にならないな。 だいたい織田に仕えてるか、
将軍義昭に仕えてるか
曖昧なままだっただけだし、
六角家臣団も六角氏と義昭上洛派で分裂していたわけで、
明確に織田に仕えていた一次史料が無いなら
中立的様子見だっただけだろ。 近江は六角義治と六角義堯で立ち位置が全く違うからな。
3連投して言い返せないのがそんな悔しいのか…w哀れな奴だな あと
>虎御前山砦以北に押し込められ信長はおろか秀吉すら突破するのが難しい状況。
この時は浅井だけでなく浅井・朝倉両軍が兵を出しています。 六角義賢から近江の御本所様と敬われた
六角義堯が織田から離反した時期と
蒲生が離反したので朝倉側が返書を出した時期と、
山県書状の時期がほぼ同一期間なんだな。
これは説得力あるな。
そもそも蒲生が義堯に仕えていたとするのが自然な解釈だな。
自己擁護【ジコヨウゴ】
自分に対する批判に対し第三者を装って擁護すること。 蒲生が六角義堯に仕えていたとすると、六角義堯が織田から寝返り、
その反織田派となった六角義堯からさらに反織田派の朝倉に蒲生が寝返ったことになるのだが、
こんな瑣末な話を山県がわざわざ奥平に伝えるの?「信長の話してるんじゃないの?」って思われるのがオチだろ
>濃尾平野と伊勢湾経済圏を持つ信長が
>義龍にボロ負け
濃尾平野の語源もわかってないよコイツw 濃尾平野の大半は織田領なんだが。
海抜測ってみればいい。 >>1
負けまくりなのによく尾張に攻め込まれなかったなw 信長があと10年早く生れていたら全盛期の斉藤に瞬殺されていたのは間違いない
何せ史実で30回くらい敗戦して斉藤が浅井と戦い、また国人が全く統制されておらず
子供が当主で竹中10人ほどに居城奪われる雑魚だから助かっただけだし
そんな家臣に城を奪われるような18歳のガキに大敗した信長が、なんで
稲葉や氏家みたいな西美濃三人衆や斎藤利治みたいな一門格に頼られたんでしょうねw
斎藤家中は揃いも揃って酔狂な連中の集まりだったんでしょうか?w
あと相変わらず流れが悪くなるとコピペでごまかす癖つけてますね
長ったらしいコピペしている暇あったら蒲生家が六角義堯に仕えていたってソースはよ持ってこいや
>>114でおまえが言い出して信長公記は大嘘だとか言っておいてこのザマかよ。
さすが反信長連合のやるやる詐欺の薫陶をよく受け継いでいるなだがはw 信長があと10年早く生れていたら全盛期の斉藤に瞬殺されていたのは間違いない
何せ史実で30回くらい敗戦して斉藤が浅井と戦い、また国人が全く統制されておらず
子供が当主で竹中10人ほどに居城奪われる雑魚だから助かっただけだし
信長があと10年早く生れていたら全盛期の斉藤に瞬殺されていたのは間違いない
何せ史実で30回くらい敗戦して斉藤が浅井と戦い、また国人が全く統制されておらず
子供が当主で竹中10人ほどに居城奪われる雑魚だから助かっただけだし
>>1
つ>>42
>信長って金ヶ崎で浅井に背後を攻められ挟撃の危機になったなんて公記の記述が大ウソなのがわかる。
不利になること書かれてるねー >>1
興味深いですな。
詳しく解説した本とかありますか? >>128
あまり本とかは読まないけど藤本氏の本は昔一度読んでわりと興味持てたな。
もう10年近く前のやつだから今の歴史認識の異なるところもあると思うけど。
あとだがよ、いつになったらおまえは一次史料と二次史料と三次史料の区別がつくんだ?
長ったらしいコピペで無知を晒していて楽しいか? 天正10年の武田攻めでは侵攻日に起きた浅間山大噴火を隠蔽。
武田滅亡の天意と言われた。
援軍に来た勝頼も諏訪から甲斐へ撤退せざるを得なくなる。
浅間山噴火が京で視認できたのは有史以来この時でわずか二度目。
東に横たわるアルプス山脈を無視して考えた場合、
広島での原爆が京都から視認出来たくらいの距離に相当する。 信長公記によると、
范可とは唐時代の人で止むを得ない事情により父親を殺さざるを得なかった経歴を持つとの事を書いているが ...もちろんそんな人物は中国に存在しません。
義龍が范可の署名を弘治元年12月から署名しており、 公記の記述は辻褄が合わない。
捏造信長公記は父殺しイメージを架空人物まで創造して捏造してまで強調してるが、
実際は重臣達に追放された武田信虎や六角義治らと同じような状態になった際に道三は死ぬ覚悟に決戦を選択したに過ぎ無い。 そもそも浅間山はしょっちゅう噴火しているわけだがw
例を挙げると戦国だけでも1527、1528、1532、1534、1590、1591、1595年などで
特に1595年から1600年まではほぼ毎年のように噴火している。
もちろんこの間に噴火のせいで他の大名や勢力が滅亡したという記録はない。
武田が噴火ごときで滅亡する脆弱大名というのが露呈しただけw >>100
京の公家日記に観測記録が記述される程の大規模噴火は、
1108年の大噴火に続いて武田滅亡のこの時で、
わずかに二回目でしか無い。 2回しかなかったんなら数ある噴火記録が残ってるとは思えんが・・・
まあそもそも噴火した2月14日以前に既に織田軍が武田領に入っているという重要な事実があるが。
>>55
定光寺年代記には、
天文19年に尾州錯乱したので、
8月に義元5万騎にて知多へ出陣し12月帰陣と言う誤伝があり、
これが信長公記の桶狭間の戦いの元ネタだったりする。
この風聞を天文21年に移動させ、
天文21年信秀死去(公記は信秀の死去年の明示は都合悪いので隠蔽して誤魔化してる)直後に移動させて創り出された架空話が桶狭間の戦い。
そしてそれが捏造だと判明したのが、
天文12年禁裏修理費献金をしてくれた信秀に、
また献金して貰いたい後奈良天皇が、
天文19年冬に織田と今川の和平を斡旋してる。
義元書状でも12/5に山口左馬助が馳走したので、
信秀の和睦条件の刈谷城返還要求に沿って水野に刈谷城を返還と書いてある。
>>135
噴火日に始めて侵攻してる。
まだそんな盲信吐いてんのかw >>1
志賀の陣は織田の勝ちだろ
だがは何度言ったらわかるんだ? 滋賀の陣が織田の勝ちなんていってるのお前だけだよ
武力で討ち負けて屈服してるんだからな >>139
また繰り返すが戦争の勝敗は「戦争目的を達成したか否か」だ
織田は領地を一つも失っておらず防衛に成功し逆に浅井朝倉は火事場泥棒に失敗した
どう見ても織田の勝利 >>141
六角に領地返還したのにwww
六角から離反した国人に、
旧主が帰ってきても
こちらで領地やるから心配しないでと信長土下座外交状態なのにw 志賀の陣を織田の負けだって言ってる人って
大体戦線の異なる野田福島を志賀の陣に入れてるよね。 >>142
おまえもしかしてそれ元亀元年十二月十五日付織田信長朱印状の
「国主還附候とも、右の領知に於ては別条あるべからず候」のことを言ってるんじゃないよな?w
一応言っておくけど、これは織田信長に味方した山岡対馬守景佐に出した書状で、
例え国主である江州六角殿(反信長方)が、信長に味方した山岡へ新たに与えられた領地を旧領主に返させたとしても、
領知高(領地から取れる収入)は全てこっちで保証するという意味で、自分に味方してくれた山岡景佐を厚遇するという意味なのにw
禁裏被迎出により和平して大坂を退出した顕如を無視して籠城をした教如。
4/16然共 新御門跡様 御寺内御堅固ニ御拘被成候間 各可御心安候
5/2御門主(顕如)にハ雑賀へ御退出之事候
然者予(蓮如)当寺に残り
可相持思立如此候
天正8年9/11勧修寺晴豊らが教如の説得に成功し、
9/23に教如も
然処内輪逆意之賊
しかれども内輪に逆意はこれ賊徒となってしまうとして
大坂を明け渡す決意をしてるのを公記は隠蔽。 んなことまで太田にいちいち言うかよ
太田をなんだと思ってるんだ むしろそれが信長公記が一時期持てはやされた最たる要因だもの。
余計なこと書いてないから嘘や妄想の余地が入りづらい。
・織田信長は本能寺にて明智光秀に襲われて自害した
・織田信長は本能寺にて明智光秀に襲われて自害した この時森蘭丸という小姓がそばにいて
「信長様お逃げくだされ」と懇願するも信長は「是非に及ばず」と一蹴した。
まあ信長は異人も小姓に雇っていてこの時奮戦殊の外うんたらかんたら
どっちが信憑性高いか言うまでもない。 >>144
はいはい無知乙
景隆か景佐のどちらかわからんわけだがw
六角が戻ることで、
領地が旧持ち主に返還されても、
あなたの領地高は織田で保証するからとなだめてる情けない書状じゃん。
蒲生が寝返ったと宣伝して味方をなだめてる情けない書状
織田水軍に勝ったと宣伝して味方をなだめてる情けない書状 >>148
おいおい>>175では「信長が六角に領地を返還した」と書いてあるくせにもうひっくり返すのか?w
そうだよな所詮史料を都合よく解釈して組み立てた妄想理論だもんな。
そもそも山岡氏は景隆にしろ景佐にしろ旧六角家臣なわけで、
彼が旧主を捨ててまで信長に味方したことを信長が高く評価しているわけ。
で、せっかくそんなリスキーな行動してまで信長に味方してくれたのに、和睦によって
六角が好き放題して山岡氏を不遇に追い込んだ時に放置すれば見限られるのは当然なわけで、
おまえの褒賞はどうなっても保証するという朱印状だろw全然意味が違ったなw
よし、>>185-186を現代語訳すると
「私は負けました」 >>152
そんなに負けた負けた連呼しなくてもいいのにw >>1の駄文ほど読む価値がまるでない長文は無いなw
織田厨はもうレスしないでくれないかな。
新規に学べる情報も一切出さない荒らしなんだし。 546 名前: 人間七七四年 [sage] 投稿日: 2012/02/19(日) 20:34:33.31 ID:jXjzNsMC
噴火被害の上に織田軍の略奪焼き討ち虐殺で
ボロボロだったろうな。
142 名前: 人間七七四年 [sage] 投稿日: 2012/02/19(日) 20:36:00.06 ID:jXjzNsMC
また織田厨得意のあるある詐欺かよ…
640 名前: 人間七七四年 [sage] 投稿日: 2012/02/19(日) 20:37:35.36 ID:jXjzNsMC
糞レスしかしない
織田厨のレスは読む価値すら無い。
随分と目の敵にされてるようですねw
何か嫌な思い出でも御座いますか?w そらまあ自分が敬愛する信玄が一生かかっても勝てなかったのが信長だからな 信玄の何がそこまでいいのか分からん
創作のならともかく そりゃ蓼食う虫もってやつだろ
信玄が蓼かどうかはおいといて 敵にしても味方についてもロクな結果を招かない時点で
信玄は蓼扱いされても仕方ないな。
ご自慢の研究成果(笑)のコピペを他所にも持ち出してるようだが規制の元だから
もう少し頭使わないと2chにも居られなくなるよ。
まぁ消えてくれてもいいけどな。 朝っぱらからコピペにご執心のようだが、
長篠合戦が起きない状況なら信長が軍を総出で家康を救援するなんていうことは起こりえないから
家康には三方が原のように適当に援軍をだし、信長の主力軍が総出で西へ向くだけのこと。毛利は勝頼に感謝すべきだな。
勝頼が織田主軍をひきつけなければ、毛利は即刻織田との決戦に持ち込まれて敗北しただろう。
最も、その当時毛利が織田に対して誤魔化し、織田を毛利を脅威に捉えていなかったからこその長篠合戦と相成ったわけである。
そもそも長篠なんていうのは武田徳川の戦いであって信長はほぼ無関係である。
その気になれば家康を見捨てて、あるいは気休めの軍だけ送ってあとはがんばれと放棄することだって造作もなかった。
それをせずに長篠で徳川に全面協力を惜しんだのは、織田信長に余裕ができていたゆえである。 ついに日本語すら読めなくなったのか?w
丹波の赤井に手間がかかったのが当時信長は例によって数々の敵を抱えていて
赤井には明智光秀らの軍勢にしか割けなかったためであって、>>1の長篠がなければーなんて推測など無駄以外の何物でもない。
結局のところ信長が東の防衛を優先した隙間を狙っての毛利の勢力拡大なんだから
東無視できるんなら西に突っ込むのは至極当然。もっとも、そんな主君信長の手を借りずとも
光秀は丹波平定をわずか4年で終わらせるという結果に終わりましたが。
誰かさんは山賊ばかりの信濃に10年以上かかってましたけどねw そもそも光秀の丹波平定が一度失敗に終わったのは、赤井直正が有能だった、というのもなくはないが、
最大の要因は波多野秀治の逆心によるもので、別に光秀が無能だった、赤井すら倒せなかったというわけではない。
実際2度目の丹波平定では波多野を包囲して調略で捕え、赤井悪右衛門直義を降伏させるに至るんだから、
正直赤井直正が生きていようが死んでいようが裏切りで勝っている以上正攻法で勝てるわけもなく大勢に影響なんざない。 >>163
は誤字・文意におかしな所が二カ所あるぞ
オマエの方が日本語知らない
厨か? >>1より余程日本語だけどな
文意はほぼ理解できる
>>199は・・・w
>>199に違和感を感じないあたり、>>205もその程度の文章力ってこと
若しくは同一人物であるということ
過去にID変えて自演ばれた人いたなあ・・・だれだっけ?w >>165
そんで、wiki見て書いてんだろーが
実際には織田の丹波侵攻は三度目の正直で平定だからw でもオチは「これだけやってて信長に負けるんだぁ(苦笑)」だからなぁ。 信長がやられて三好が京を占領すれば追放されるのは義昭だからね。
追放で済めばの話だけど。 えっ?相変わらず織田チョンは無知ですね。
三好は義昭に帰順してますが。 >>1
大和とか河内とか
織田軍が帰った後に
一国亡国とかよく書かれるよな。
まさに疫病神かイナゴの大群だよな織田軍って。 >>173
正月早々義昭仮本所の本圀寺襲っておいて何言ってるんだ?
義昭が迎合したのは反信長に属してからだろ。
>>208
一度目のは兼見卿記、三度目のは信長公記からほぼ丸丸取っている。
つか二度目のはこれカウントするのか?1ヶ月またずして摂津平野という別戦線に投入されてる時点で丹波での軍事行動などほぼなかったろ。
まあ二度だろうが三度だろうが最終的に変わり映えないからどうでもいいけど。
やけにwikiに固執しているみたいだが、正直おまえはwiki見た方がいいと思うぞ。
他国の歴史語ってるんじゃないかと思えることが山ほどある。 伊勢方面は滝川一益が、摂津方面では和田惟政が戦線を維持している。
上記の内容を証明する一次史料を出すように。 和田は柴田とともに摂津におかれていることが信長公記にちゃんとある。
つか和田が討たれれば京に三好軍が入ってくるので志賀陣どころではない。
滝川はもっと簡単で、そもそも突破された記述がない。
つかおまえ織田信興がいた古木江城の場所わかって言ってる?
そんな戦線を維持するような重要人物じゃないんだが
>>1からの流れでずっと信長公記の信憑性が疑われているのに
信長公記をまるまるソースにしてレスする織田厨っていったい…>< >>178
疑っている人が疑っている人だもの。
長島一向一揆の拠点である願証寺と古木江城の位置関係すらわかっていない。
とりあえず地理ができないだがさんに教えておこう。
長島一向一揆の拠点となった伊勢長島は木曽川、揖斐川、長良川の中州に位置し、
古木江城はこれを監視する目的で木曽川の対岸に築かれた城。
つまり長島一向衆の連中は対岸の織田方拠点を落としただけにすぎず、
すぐ近くの織田主要拠点であった津島や桑名にすら手を出せずにこまねいていた時点でお察し。 どうでもいいけど俺のレスやID:PUPSZzadのレス読んで本気でだがだと思うか?
文体も思考回路も主張内容も違いすぎだろ。
それから信長公記の捏造の指摘に織田派は部分的にしか答えてないよ
それも答えになってるか分からんけど >>180
凄く簡単な理屈だけど捏造が多すぎて面倒で答えたくないというのが1つ。
わかりやすい例を挙げると
>>家康に六角と四十九院の照光房が率いた一揆ら箕作城・観音寺城がいるから 瀬田から草津の間を守ってくれって懇望要請。
石川家成が派遣された理由は三河物語にはない。なお箕作観音寺の一揆衆を突破したのは秀吉と丹羽
>>12/13に六角にも知行渡すし
和議によって信長に味方した山岡対馬の領知高安堵書状を勝手に誤認しているだけ。
とまあ正直多すぎていちいち突っ込むのもめんどい。
一部分だけでも挙げていれば、アテにならんコピペだということはわかるだろ 他の人も多く主張しているが、そもそもだがのコピペ通りに事が運べば
信玄が上洛せずとも信長は滅亡の憂き目にあうかのような阿鼻叫喚の惨状で、
歴史が変わってしまうというのもあるが。 >>180
だれか偉い学者先生が信長公記は全てアテにならないと言い出したらまたおいで 信長公記って本当に同時代の人間が書いた物なんだろうか?
それにしては嘘隠蔽誇張の集約みたいに感じるが… 信長公記でそう感じるんなら三河物語とか甲陽軍鑑とか読んでられん。
10倍の兵を破るスパルタ軍並みの軍功をさらっと出していたり、
今まで苦戦していた人間があっさり死んだりするとあいつは愚鈍と掌返し
軍艦も三河も信公も似たようなもんだろ
これといって差異をつける根拠を感じない
文体が違うだけ 感じるとか感じないとか、そんな感情的な事はどうでもいいから。 >>181
そもそも
一揆衆を突破したのは秀吉と丹羽
これ自体が信長公記のデタラメだろ。
当代記にも秀吉や丹羽はこの時期、佐和山や小谷を抑えてると書いてるし。
本多広孝関連史料だと家康の援軍が来たから信長が秀吉を墨俣の抑えに回したと書いてるものもある。
松井忠次史料だと信長の下知によると佐々木が国中の往還を遮ってるから勢田草津で佐々木と戦いまくったと書いてるし
牧野康成らの諸記録にも六角承偵と戦い続けたとでてきてるぞ。
別にこんなところでウソつく理由もない。 一次資料とか言ってたのに当代記w
信長公記より、よほど慎重に扱わないと駄目な史料だろうが。 文章抜けてた。
当代記は秀吉や丹羽らが、
佐和山や小谷への押さえに付いてると書いた後に、
参、旗本(参=三で徳川旗本)が一揆や照光房らを討ち信長が喜んだと書いてる。
当代記は普通に論文に引用される史料だぞ。
別に特定人物だけを極端にマンセーして中心人物化してはいないし。
信長生前から江戸時代初期までの時代を横断した一大編纂物で
公記より信用できるもんだが。 じゃあ聞くが>>191は徳川の援軍はどこで何してたのか史料を示して教えてくれないか? ケチはつけるが論拠ある対論がまったく持ち合わせてないのが織田厨。
織田厨のソースは自分の願望に過ぎない。 >>193
まず志賀の陣に徳川が援軍にきていたという史料を出してくれないか そもそも>>190が提示している史料だと全部バラバラの動きだろ。
秀吉が小谷に行ったり墨俣に行ったり、そもそも近江戦線で戦っているのになぜ美濃墨俣なんだっていう
三河物語で家康の援軍に来ているのは石川家成で牧野や松井の名前はない。
この石河日向が遣わさると書いて以来消息不明になっているから議論になっているんだろ。
ついでにいうと信長公記で丹羽と羽柴が一揆衆を観音寺山で破って信長本陣へ向かったのが10月20日。
三河物語だともうこの時期の志賀の陣は触れられていない。 >三河物語だともうこの時期の志賀の陣に触れてないも何も、
>そもそも姉川の戦いのあとは、一気に飛んで12月から書き始めてるし、
>それ以前に家康の援軍が来ていたように解釈できる文章なだけで、
>お前の文章があきらかに日本人じゃない変な日本語。
なぁにこの文章 それに8/17には三好三人衆が義継の河内古橋城を攻め落とし、
9/8には義継の摂津海老江が三人衆に落とされ
9月から10月にかけて
朝倉らに呼応した西岡一揆1000が下京を襲ったりで、
信長は徳政令連発して京で土下座モードだし、
10月末には畠山の河内高屋城が三好長逸に攻められているのに、
相変わらず信長は援軍すら送れない惨憺たる状況だけどな。
事態は信長にとってどんどん悪化してた。
そんな中で家康は謙信と同盟して信玄と手切れ宣言してるな。 >>1
美濃だろうが尾張だろうがどちらにせよおかしいだろ。
両方とも志賀の陣の戦線から遠く離れているのにそんなところに
秀吉を送る余裕なんて当時の織田にはないはずだし謎行動。
あとすごく勘違いしているようだが後の松平勘四郎の武功は志賀の陣の頃ではなく信長上洛戦の頃のもの。
それが証拠に勘四郎の箕作城攻略の記述の後「松平勘四郎度の手ガラ覚エ、云不及然間、都入ラセ給得バ」
という記述があり、松平信一のおかげで京に入ることができたということを強調している。
結局大久保が「信長上洛戦に続いてまたも三河衆が信長の危機を救ったんだぜ」ってアピールしたいがための挿入で
やはり派遣された石河日向のアテや足取りは全く書かれていないんだが。 訂正
元亀元年か二年しかあり得無い。
永禄11年の上洛の話を志賀の陣のあとに持ち出してきたんだよ!とかバカな解釈して捏造すんな。 他人を差し置いて
上記の言葉をなんで勝手に付けくわえてんだよ?
始めての上洛戦の時なんて解釈にはならんわ。 他人を差し置いて→是ハ先指置(サシオキ)から
都へ上洛しようとして→都得切而ノボラントテから。
そもそも志賀陣の時に松平信一だけで京へ登ってどうするん?
主戦場は近江坂本だし京にはほとんど誰もおらん。別に三好が迫ってきていたわけでもない。
そんな状況で松平信一が京へ入る意味もないし実際入ってない。 東北国手合請如形到来 の文言のどこに型式に則ってなんてあるんだよ
なんていう武田厨だからなw
無理も無いw >>206
頭悪っw
信長が箕作城攻撃で停滞してる状況に陥っていて
こんな小城で日を費やしても意味がないから
ここは指し置いて都を攻め登らんと言って箕作城攻めから撤兵した後に松平が箕作城を攻めて落としている。
信長は先に京へ向かったのであって、松平が先に1人で京へ出撃したわけじゃない。
そもそも箕作城を放置して都へ行こうとする時点で、
義昭のいる京が危機的になってる焦りが見える。 >>199
三好は義昭方なので和田や義継が攻められても義昭方の内輪もめでしか
ないんでしょ。 >>208
アホかw
浅井・浅倉が京に乱入しそうだったから野田・福島から近江まで戻ってきたというのにw >>1
なるほど、時系列についての誤りは認めるんだな。
よろしい。 >>208
訳文の誤りがあったことは認めよう。
だがそもそも信長は志賀陣の頃は近江坂本にいてちんたら箕作城を攻める状況でも
京へ登って何かをしようという状況でもないのだが。
最も、箕作城が京へ上洛する通り道にあることを考えたら、信長が放置して京へ登ろうなんて考えるわけもなく
例によってまたもや大久保のホラ吹き全開な感は否めないが。実際すぐ近くの観音寺城は落ちてるし。 >>211>>260
はっ?何いってんだ?あんた頭がおかしいのか?
>>213
また「相手が全て同一人物に見える病」ですか?w >>215
そのリンク先に一切一次史料による論拠が提示されていませんが?
君が「思った」願望を書き連ねてるだけにしか見えませんが? >>216
三河物語が提示されてるじゃん。
お前にとってどう見えてるかはどうでもいいが、俺はお前と違って自演したりせんよ。 三河物語が一次史料なら
織田厨房も信長が朝倉に土下座したのも認めるってことかw
織田厨以外は三河物語は一次史料じゃないが、
その志賀の陣における記述内容に対して、
一次史料による論証ができていると言っているだけだがな。 >>212
誤りじゃなく織田厨房得意技の捏造歪曲だろw
日本語は正確にな。 >>218
一次史料だろうが何次史料だろうが、史料批判は必要。
どんな史料だろうと鵜呑みにはできない。
当たり前の事。
一次史料の意味が分かってないのはお前だけだから。 定期的にID変えてつぶやいていかなくてもいいよだが ついに織田厨が
信長が朝倉に土下座した事実を公式に認めたか。 流石は名門あちゃくら
1580年くらいには中四国完全制圧するんだろうなあ(^-^) >>223
三河物語では土下座したんだろ。三河物語では。
織田厨自らが三河物語を一次史料と主張した以上は信長土下座は合意事項となったな それでいいんじゃない?
ネット以外でそういう事いうと馬鹿にされるから控えた方がいいぞ そもそも和睦なんだから土下座くらいするだろ・・・
ID:sAFn6TZHは信長をなんだと思ってんだよ。ふんぞりかえって居丈高でいるわけじゃないぞ。 しかも信長には御内書つき、朝倉も信長へ土下座しただろう。儀礼として当たり前のことだ。
主題が何もわかっていないID:sAFn6TZH
そもそも三河物語の志賀の陣が誤りと言われる所以は「天下は朝倉殿が取りたまへ」なんていう捏造起請文を大久保が作り上げたせい。
言うまでもなく信長はこの頃足利義昭を奉戴しており、便宜上は足利義昭の家臣と言っても差支えなかった。
だからこそ義昭も信長の和睦に尽力して御内書まで使って和睦を結んだ。にもかかわらず勝手に天下は朝倉殿のものなんて言うのは背信行為、謀叛ともいえる所業。
当然こんな非礼かつ愚かな行動を信長がやるわけもなく、当時大久保が10歳のガキだったことが拍車をかけている。
和睦した時に土下座したかどうかなど些細な問題である。
むしろ和議を結ぶお膳立てをした足利義昭、一応は和睦することになった足利義景に礼を尽くさないというのは
不作法無教養の人間がやること ま、土下座ってのはだがの妄想で、信長は義景に直接会ってすらいないけどな。 >>1
まさにボロボロだな信長。
大久保の言う通りだわ。 >>230
天下の儀、何様にも信長に任置かるるの上は、誰々によらず、上意を得るに及ばず、分別次第に成敗をなすべきの事(天下の政治は何事につけてもこの信長に任せ、誰にも限らず、将軍の上意も得ずに信長の分別により成敗を加えることができること)。
>>234
なぜ殿中御掟をいきなり書き出したのかは知らんが、それは逆に三河物語の大嘘を証明するようなもんだぞ。
殿中御掟に見られるように信長は将軍の義昭を奉戴しながら、一方で内輪では将軍権力を削いで行っていた。
つまり将軍をお上に据えておきながら、裏で手足のように操るという従来の支配体制を行おうとしていたわけだ。
そんな信長が傀儡先である義昭の権力や権威を削いで、あまつさえ「天下は朝倉殿のものである」と公言するわけがない。
今まで必死こいて義昭の権力を削いで操り人形にしようとしていたのに、自ら操り糸を切って権益や支配力を切り捨てる愚行 みんななかよくしようよ!
自分の家を良く見せようとするだけだよ! >>235
屁理屈にすらなってないw
天下の儀は信長が執り行うと一方的に宣言してるし、
浅草殿がこれからは天下の儀を執り行うように信長が言って土下座するのは矛盾しない。 >>237
あのなぁ、将軍の後ろ盾もないのに一方的に信長が命令して誰がついてくんの?
信長による「天下の儀を行う」というのは、足利義昭ありきのもので、
実際殿中御掟には足利義昭の御内書(公式文書)を信長が検閲すること、信長が書状を添えさせることすら認めさせている。
ここまで信長が将軍に固執していたのに朝倉にそんなうまみをよこすわけもなく、
当然志賀陣の後に朝倉が義昭を奉じて天下の儀を取り持ったという記録も史料もない。 >>237
織田信長が行ったという天下の儀の内容、さらにそれを行った事を示し、その上で朝倉が同じ内容を行ったことを示さないと意味が無い
がんばれw 反論できないなら黙ってたら?
悔しいのはわかったからさ えっ?天下の儀を朝倉が行うように信長が言った後、
信長は京からも撤退して明け渡してんじゃんw
元亀2年に朝倉が六角に入京した時に放火とかしないようにって命令してるし。
信長が再度、入京するのはその後に比叡山焼き討ちした後だろうがw
しかも信長は京洛内外で強制没収した兵糧を高利で貸す
トイチ金融まで京で始めてるし… >>242
信長は美濃が本拠地なんだから用が済んだら帰るのが当たり前。
で、朝倉と六角がいつ京に入って天下の儀を行ったの?
>しかも信長は京洛内外で強制没収した兵糧を高利で貸すトイチ金融まで京で始めてるし…
捏造しようとしてるのかガチで史料が読めてないのか判断に苦しむw 笑えるのは
信長の失政で金融不安になったからクズ永楽銭が使い物にならず拒否られていた現実から
信長本人も朝廷の献金にクズ永楽銭をあげても
自分が集めるのは米なんだよなw
つうか元亀元年末には米の確保に苦戦して一万以下しか兵が動員できず
朝倉3万に泣き入れた信長w 日付と誰宛かじゃなくて出展元明記すること、論文では常識)
織田キチガイがこれを実行したことは過去に一切なく、
顕如書状を実例にお手本まで書いて貰ったがガン無視してた現実… いくら一次史料でも史実に即してないもの、他の史料であっさり反証されるものはダメだから。
考察の余地がない時点で二次史料より分が悪い。
顕如書状はある意味その典型だわな。 >>245
お前のいう織田キチガイが証明できていないことと、武田厨が証明できていないことはまた無関係
相手関係なく自説を補強すればいいんじゃねえの? 残念だけどだがの説はほとんど否定されてる。
それを認めようとしないだけで そうだだがさんだがさん
例えば天正十二年付の書状を天正十八年に偽書として作製したばあい、これも一次史料だから内容は真実なの?w 信長のことはほとんどわからないから
やむなく糞公記を引用するしかない・・・
公記の矛盾には目を瞑ってきたというのが史学会の現実。 信長は実は死んでなかった。
家康と結婚して三代将軍になっていた説もあります。 >>第三次長島では陸海から包囲している
この時は今までと違い、
信玄が死に、足利将軍も京から追放され大義名分が消えていて
さらに伊勢の背後の大和国を従わせ為に天皇権威にすがって
蘭奢待を切り取りを天皇に願って織田化させて大和守護に原田を配置したので、
北畠もさすがに保身に走って、伊勢水軍を長島包囲に参加させたからだよ。 >>257
第二次で今の海津市一帯を一揆勢が制圧して伊勢湾の制海権は相変わらず
武田のものですが。
北畠は信長以上の兵力を動員できて織田家の二男まで人質にとっているのに
保身に走るわけが無いので意味不明。
伊勢水軍が武田水軍を伊勢湾からたたき出したソースと
長島より兵力が少ない織田が海津市一帯で一揆勢を撃破したソースをどうぞ。 一揆勢が蹴散らしたら武田のものなのか?w
一揆勢は別に武田のために織田と戦ってるわけじゃないぞ >>258
何度でも言うが、第3次では武田水軍が織田に協力して長島一向一揆を殲滅したってことでいいんだな? 一つのレスの中に矛盾した内容を書くくらいなら、コピペの継ぎ接ぎなんかしなければいいのに 永禄9年の斉藤との戦いと永禄10年の稲葉山城落城の話を
同じ年の出来事のように偽装して記して
河野島の戦いが無かったことに捏造してる 義昭を報じて上洛しようとした織田家は初戦で三好軍と戦い岐阜へ敗走した後
多聞院日記永禄11年9月19日京極、朽木、浅井らの使者が観音寺城に
出仕してきて屋形六角義賢に申し上げるには、すでに裏切った箕作の軍勢は一万二千になり、
その上和田山の建部源八兵衛、吉田出雲守等も寝返り義弼(義賢の弟)に味方した、
さらに勢州国司北畠氏が鈴鹿越えで近日当国に入ると伝え聞いており、
これ以上戦を引き延ばせば却って逆襲を招くので降伏してくださいと伝えた。
六角攻略で実は織田家は一切触れられてない衝撃の事実w
公記は例のごとく隠蔽・捏造
武田征伐で諏訪の陣において
織田が占領した筑摩郡深志城の城米を出さしめて
在陣の諸将士に頒ち与えた史実を歪曲して
信長公記は
3/19に信長が諏訪法花寺に着陣。
3/24各在陣致す諸将は給地からの補給に迷惑して困っているので
諸兵の数に従って御扶持米を深志で渡したと書いてあってワロタw
しかも雨や風で凍死者続出で暖もロクに取れてない惨憺たる補給実態の惨状で
さっさと逃げるように3/29には木曽口や伊那口へ
織田各軍が崩壊した補給状態から急いで美濃へ自壊敗走してる。 信長公記に書いてある
一番最初の信長の上洛における帰り道って
近江守山から八風街道経由で北伊勢通過して尾張だろ。
明らかに六角氏と同盟でもしてないと通過不能。
公記は六角氏と友好関係だったのを隠蔽している。
信長は友好関係だった六角氏にいきなり攻め込むキチガイ 三河物語で信長記はウソばかりと書かれてるのを知るや
織田厨があれは小瀬甫庵の書いた方を指してるんだ(涙)と
願望を書きまくって発狂しまくってたのは笑えたなw
大久保がわざわざ「あれ」じゃなく「あっちね」などと書いてないのは
世に出回る信長記は全部デタラメばっかと主張してるからに他ならないのにw
>>270
>明らかに六角氏と同盟でもしてないと通過不能
という、あなたの前提が間違っているだけでは? >>272
だがに正論といても無駄。
スルーしとくのが吉。 スルーすると今度はID複数使って自演始めるんだけどな >>274
それはそれで放っておくしかないな。
すぐに間抜けなミスをやらかして総突っ込み受けるってオチだし。 美濃乗っ取り道三親子二代説が主張された時に
信長公記にそんな記述はないからデタラメとか
反論されてフルボッコにされたが
のちに六角承禎条書写が発見されて
親子二代説が正しかったことに認定されて
公記盲信者学者が大恥さらしてたのは笑えたなぁw 信長公記に道三一代説なんて書いていないから、
二代説を否定しているわけではないだろうが 信長公記の斎藤道三なんて会見して長良川で死んで終わりでしょ確か >>270
六角と友好関係だったという事がどの史料に載ってるの? >336
確かな史料が無かったのなら反論される。当たり前すぎる話で、恥とか何を言ってるのやら。 公記狂信者学者は
公記を持ち出せば
なんでもその時点で論破完了と
脳内帰結するキチガイだからな。
いまだにそういう一次史料を見てない
不勉強学者もいるからタチが悪い。 利家の陰謀は無理ありすぎ
単純に秀吉が秀頼に跡目継がすために秀次をぶっ殺した。
秀次が生きていれば秀頼なんて目の上のたんこぶだから殺すだけ。
秀次の跡は秀次の子供達が継げばいいからな >>単純に秀吉が秀頼に跡目継がすために秀次をぶっ殺した
そんな軍記まるパクりの単純な話じゃねーだろw
秀次権力が他の大名と結びついて
秀吉も脅威になり始めたから
禍根を除こうとしたんだろ。
その際に織田家随一の武辺者として慕われていたために
織田旧臣への影響力が抜群の利家の動向ってのが
非常に神経を使うところなのは事実。 >>秀次権力が他の大名と結びついて
>>秀吉も脅威になり始めたから
>>禍根を除こうとしたんだろ。
いや言ってること俺と同じ
当時では秀頼の豊臣家相続の可能性が限りなく薄かった。
それくらい関白秀次の勢力は脅威だった。
だから自分の目の黒いうちに秀次を殺した。で秀頼に後継がせた 義昭を報じて上洛しようとした織田家は初戦で三好軍と戦い岐阜へ敗走した後
多聞院日記
永禄11年9月19日
京極、朽木、浅井らの使者が観音寺城に
出仕してきて屋形六角義賢に申し上げるには、
すでに裏切った箕作の軍勢は一万二千になり、
その上和田山の建部源八兵衛、吉田出雲守等も寝返り義弼(義賢の弟)に味方した、
さらに勢州国司北畠氏が鈴鹿越えで近日当国に入ると伝え聞いており、
これ以上戦を引き延ばせば却って逆襲を招くので降伏してくださいと伝えた。
六角攻略で実は織田家は一切触れられてない衝撃の事実w
訂正
そもそも信長公記と呼ばれたのは
明治14年に町田久成著の我自刊我書に収録された時の題名で
尊経閣文庫信長記の十五巻奥書に信長記と書いてあるのが本来のタイトル。
森の長沼奪回と関山・三本木侵攻は信長公記のデタラメで一次史料にはまったく存在しないウソ。
森も天正10年4/2に景勝に破れて長沼城を奪われてるわけだがw
(武田への援軍で上杉が派兵した松本房繁が長沼にいたが、
武田滅亡のため越後に撤退した後に森が接収してた)森が奪回した記録はない。
4月には仁科方面や長沼の守りを磐石にとか命令してるし(長沼には島津忠直が滞在)
5月になっても富山は取り返されて残念だが信濃方面の守りは磐石で心配はないとか言ってるし
信濃の守り捨てて越中まで天神山まで出兵するくらい
当時の芋川は武田配下で上杉配下ではない
しかも一豪族が8000も動員できるわけがない。
そもそも上記の話は一次史料で全く証明できないわけだが。
ちなみに軍記ソースありなら滝川も三国峠で上杉に撃退されている 元亀3年11/27の山縣書状に
朝倉軍が織田軍を大破したし尾張・美濃衆が数多討死って書いてある
嘘長公記はこれを隠蔽。
この大敗で信長は岐阜へ引きこもり震えていた。
12/22に武田軍が三方が原で大勝。
これらの結果、織田は一万しか動員できないほどに離反されて衰退した。
これを受け1/17信玄からの依頼を受け石山本願寺も四カ国門徒(尾張・美濃・三河・遠江)を一斉蜂起させた。
家康は野田城の武田軍に吉田城で震えて、
岐阜で震えているヘタレ信長の後詰が近日来ると盲信した謙信に泣き書状を書いている。
一方、浅井軍は近江の高島郡を経て滋賀郡を平定。
完全に終わってた信長。
デタラメ公記は北条記以下の糞軍記。 自分のスレを1人でせこせこ妄想しながらあげるだがw
哀れみすら覚える 一次史料を見ると朝倉って織田に連戦連勝してるんだよな。
いつも織田が退却したのを見届けて越前へ帰陣してる。
浅井を見捨てるに忍びないって志賀の陣の和睦で言っていて
浅井が滅亡しないようにやってきてるだけで
織田に他意はないって言ってるだけだし。
捏造公記だと朝倉軍を弱く書いてるのが笑えるけどwww 連戦連勝しているのに一門の朝倉景鏡が織田に寝返り
そのまた一門の朝倉景健が織田に鞍替えするという矛盾wwww >>293
それは信玄死去して
さらに反織田の旗頭だった義昭も降伏して
完全に時勢が変わったからだろwww 信玄が死んでwwww時勢が変わったwwww
信長に何もできずにポックリ逝った信玄1人のためにwwww
100歩譲ってそうだとしても朝倉家が武田家の戦略性を逐一把握してんすかwww
実のない虚しい主張っすねwww 勝った勝ったと捏造戦果の誇張しまくり吹聴
三大嘘吐き戦下手大名って言えば
織田・北条・伊達だよな。 だがスレpart3
ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1337174330/l50 信長の過大戦果吹聴虚言癖は神レベルw
1万討ち取ったとか平気で一桁盛るからなwww
北条も関東縦断して小田原城まで攻め込まれたくせに
その途上で何度も武田に勝った勝った連呼してるアホぶりw
政宗はもうね、関が原で南部に負けていながら
南部が西軍になりそうだから恫喝してやったとか
最上弱すぎとかデタラメ報告が笑える。 信玄西上で完全に追い詰められた信長と言う状況の中で
松永久秀が信長に降伏したとか
とんでもないデタラメの大嘘を書いてる時点で
いかに信長が絶望的だったかを窺い知ることができる。 10万以上の精鋭で1万の乞食兵を囲んでいるのにもかかわらず
わずか半年でほとんど蹴散らされた信玄率いる包囲網側が
いかに絶望的だったかを窺い知ることができる。 >>1
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http://info.2ch.net/guide/adv.html#saku_guide そもそも歴史は勝者によって作られるのだよ
勝者のみが歴史を語る資格があるって事だ
戦国最強織田軍団に徒党を組んで刃向い惨めに滅ぼされた
浅井・朝倉・武田の三馬鹿トリオに歴史を語る資格無し! 信長公記が天正元年11月に若江城で謀反が起きて三好義継が自刃と書いてるのはデタラメ
実際の義継は三好孫六郎存康と言う名で義昭を上意と呼びつつ
勝頼の高天神城攻略を喜ぶ書状を天正2年8/10付けで穴山に出してる。
元亀元年7月の三好重存(義継)が発給した禁制には孫六郎と書いていて
その時の花押と今回の花押がそっくりである。
松永久秀降伏を一年前倒ししてるだけでなく三好義継の死亡まで捏造。
三好孫六郎存康が十河存保と気付かないのは凄いな
元亀元年に重存と名乗っているはずないけど? 史料を自説に都合の言い様に読み取っていく
だが史観 >>312
三好孫六郎が義継しかいないとでも思ったんだろうなw プププ織田厨って相変わらず無知だなw
その時点での十河存保がなんで「高天神城の落城」を喜んでんだよw
立ち位置すら理解できてねーのかよwwwwwwwww あなたは蒲生定秀のときも同じような勘違いをしていたけど、
誘降工作の文書があったからと言って、
それが実現したとは限らないことを理解した方が良いよ。 こういうやつが出所の怪しいソースを元に先物投資してコケるんだろうな 話を逸らされてしまったな・・・
念のため確認するけど、
だがさんはあくまでも
三好孫六郎存康≠十河存保
と言い張る気? 三好重存(義継)の禁制の該当書状は
大日本古文書の東福寺文書1巻134ページ
元亀元年7月に孫六郎の花押があり、
また勝頼の高天神城攻略を喜ぶ書状を
天正2年8/10付けで穴山に出してる書状は於曽家文書で
三好孫六郎存康の花押は上記と完全に一致とのこと。 >>319
>三好重存(義継)の禁制の該当書状
の署名は「孫六郎」としか書いていない。
見ればわかるが、「三好重存(義継)」とは編者の比定に過ぎない。
どちらの書状の孫六郎も十河存保と考えれば矛盾は無くなる。 そもそも十河存保は三好家の人間だから少なくとも信長に好意的なわけはないんだがな。
武田信玄が死んだ後に1573年4月19日に柴田勝家を通じて織田信長と接触、
その後反信長方の篠原右京をぶっ殺してはいるが、
結局信長の要請した本家三好の居城である若江城の攻撃は無視する形で中立を保っている。
四国三好が本格的に親信長として活動するのは恩を仇で返した
細川持隆の息子である細川真之が長宗我部元親と協力して三好長治を討死させたあたりからだろ。
仮に十河存保がそれ以前から信長に昵懇にしていたとするなら長宗我部元親と同盟関係であった織田信長が三好侵攻を許すわけない。
立場的に考えても三好孫六郎存康が=十河存保と考えても全然不思議じゃないな。
時系列として、孫六郎重存→義重→左京大夫義継、と名乗った人が再び孫六郎(重存とか存康)を名乗ることが有り得ると思っているのかな?
さらに、十河存保が既にいるのに、三好義継がわざわざ「存康」という同じ読み方をする諱を使うと考えられるのかな? そもそも三好孫六郎存康ときて十河存保を真っ先に切り捨てるのがどうかしてるw
織田弾正忠の記録を見て「これは織田信長ではない」と言うようなもの。
ましてや一度死んだと言う記録がついてる三好義継を候補に持ってくるとか
井沢元彦もびっくりだなw プププ織田厨って相変わらず無知だなw
その時点での十河存保がなんで「高天神城の落城」を喜んでんだよw
立ち位置すら理解できてねーのかよwwwwwwwww
存保って織田方だったはずじゃん。
議論で不利になったから、
前提をぶっ壊して信長が見事に騙されていたとか
織田厨は自分の都合で根拠なく歪曲を開始して主張し始めてるわけ?
織田方だったはず、という思い込みが間違っていると思わないのか? そもそも長篠期の十河が織田方と言う方がびっくりだな。
志賀の陣の篠原に代表されるように四国三好はむしろ当初反織田方だった。
天正元年の篠原討伐はあくまで積極的な反織田であった篠原を
ぶっ殺したというだけで親織田に転じたわけではない。
これはその後の三好義継攻めで四国三好が信長の要請を揉み潰して河内若江城に
参陣してこなかったことからも明らか。本当に親織田方なら十河と信長が
接触した1573年4月19日の段階で信長に与しているはずだがこれ以降四国三好が
信長と積極的に通じていたと言う記録はほとんどなく、あくまで消極路線を歩んでいただけに過ぎない。
十河含めて四国三好が信長を頼るのは当主の三好長治が長宗我部にぶっ殺された後だろ?
長篠時点では織田武田を天秤にかけて様子見していたとかいくらでも言える。
と・・・・都合が悪くなるとまた罵倒するだけのだがであった 一度死んだ人間を蘇ったかのように吹聴しただがにふさわしい末路だなw で、東京大学が
三好重存(義継)による禁制とその花押と
断定したことに対する
一次史料による十河存保との間違いとする織田厨の反論はまだなの?
織田厨に都合がいい願望妄想だけでは話になりませんよ。 賢い大学を出せば自分の妄想が現実になると思ったら大間違いだぞ?w
まあ三好孫六郎と聞いて三好義継しか出てこなかった自分の知識を恥じればいいよw 結局、根拠ゼロの織田チョンの自慰レスなのが見事に露呈w 死んだはずの三好義継をわざわざ妄想を成立させるために生き返らせるだがさんほどじゃないよw
「本能寺で信長は死ななかった」と同レベルw 最初から読んだが、
信長公記が軍鑑以下の糞っぷりで噴いたw 信長公記も甲陽軍鑑もだがの妄想に比べれば現代メディア並みの信憑性だよw 信長公記が一次史料扱いされてるのは祐筆の同時代の日記だからってのがあるんだけどね
これで理解できなきゃ歴史そのものを理解できないわけだから、語るのをやめた方がいい >>339
さすがにそれは違うだろ。
太田牛一は信長の祐筆ではないし、信長記も当時のメモを元に後に編集したものであって日記ではない。 >>339
>>一次史料扱いされてるのは
されてない。角川が出版するに当たり販促を兼ねて
「第一級の」って煽り文句を入れたことが素人の誤解の始まり。
大久保忠教も公記はデタラメばっかりって指摘してるし。 信長公記が一次史料じゃない、そういう論文だしてきたら?
バカの妄言相手にできるかよw そもそも第一級史料と一次史料の区別もつかないアンポンタンがだがw
少なくとも戦国時代では第一級史料なんてつく史料は存在しない。
認定されるほとんどの史料は明治以降w 太田は売文家で金を貰って、ありもしない軍功を付けたしているのは信長公記池田本などから判明してるし、
大久保が信長公記はウソばっかで、
功績ない者が功績をあげているように書かれていると指摘してるように、
全く信用できないシロモノ。
だが理論によると史記や三国志もデタラメばかりで
読む価値の無いクソ資料だからな。 信長公記=三国志(捏造と言い張る)
三河物語=三国志演義(史実と言い張る)
解りやすいだろ? 三国志は捏造だろ
その証拠に戦場跡がどこも発掘されていない >>349
逆だよ。
信長公気が三国志演義
三河物語が正史三国志 彦左が三河物語の中で信長記の記述の嘘として、長篠の戦いのところで
・度々の合戦で引けをとったものを鬼神のように書く
・名を上げて国中に知れ渡ってる人を書いてない
・力のないものを大力と書く
とか挙げてるけど、そもそも牛一の信長記の長篠の所には該当する記述が存在しないしな。
一方、甫庵の信長記には徳川と武田の個人的な武勇に関する記述が含まれてる。
普通に読めば、彦左が言ってるのは、甫庵の信長記だって判断せざるを得ないと思うけどな。 >>354
曲解乙w
大久保は長篠の戦い限定でそう述べてたわけじゃねーよカス 大久保みたいな大名未満の奴が大名ご用達の信長公記なんて貰えるわけねーだろw
甫庵信長記も当時は信長記って言われていたしなwww
>>354
甫庵云々もそうだが、これはただの大久保の気構えだからね。
「自分の書いたのには偽りはない」って言っているが、その前の志賀の陣は
和議文含めて明らかに創作の類が入っているのがわかりうる。
大久保の評を指して「大久保は絶対正しい」なんて言うのはそれこそ大久保の言う史料を盲信しているとか、
功なき者を功ありとする史料を信じ込むのとまるで同じ。それが嫌だからこそ大久保は最後に
「人様に見せるものではない」として門外不出にしているんだからな。
>>357
大久保は高級旗本だし、当時的にもインテリだから、十二分に信長公記に触れる機会があったと考えていいだろ。
むしろ甫庵信長記以上に。 >>358
当時の大久保なんて閑職同然だぞ
大久保家で権勢を振るっていた甥の大久保忠隣が廃されてから
大久保は転落一方。1613年には兄貴の大久保忠佐系が断絶して以降大久保家は大久保忠教の死ぬ直前に大久保忠職が大名復帰するまで受難の時代を迎える。
あと、大久保忠教はインテリでもなんでもない。
楽隠居していたから後々色々イメージを膨らまされた、水戸黄門光圀と同程度の信憑性 甫庵信長記云々についても、当時は発刊されてから20年近く経っていて
しかも主要なニーズは庶民層だからな。
庶民層が持っている甫庵信長記と、一部の大名や高級貴族にしか渡されなかった信長公記
当時の大久保がどっちを入手しやすかったかなんてのは一目瞭然。 >>359
当時的な意味ではどう考えてもインテリなんだが
あと、例えば川角太閤記にも「信長記」の事が出てくるが、これもどうやら信長公記のこと。
だいたい同時期成立の川角太閤記の作者が信長公記を把握してて、大久保が信長公記を把握してないとか
ちょっと考えられない。 川角太閤記も史料価値自体は低いからなぁ
まあそれが信長公記を指したものだとすれば、=大久保の信長記も
信長公記のものという理屈ができないわけではないが・・・
こればかりは大久保の心中によるところが大きい感も否めない
>>354のような例もあるだけに。ただ大久保ってそんなインテリか?
粗野ではないことは確かだが日記つけてるくらいでそんな文芸古典に通じたなんて
記録はなかったはずだが・・・ ”どう考えた”かが明らかにされてない以上、論ずるに足らない見解だ
同じように”どう考え”てもインテリだという主張で>>361が納得できないようにな >>355
長篠に限定しない一連の戦さについて、
・手柄立ててないのに相打ちして手柄を立てた
・大将になったことのない人を大将となった
と嘘を書いてると批判した後に
長篠だけでも嘘が多いとして>>435を挙げてるから
文脈からして長篠に限定して書いてると判断できると思う 原文でも「長シノナドノ陣(イクサ)ニモ、セザル高名ヲ相打ニシタルト云慮モ有」
ってちゃんとあるぞ?どんな三河物語を読んでるんだ?w
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/992777/143 原文→当時の読書に読みやすく脳内補正翻訳活字化し印刷→明治人が読めるように再解釈
この流れが理解できないアホがいるとはw >>369
当時の原本とか言い出したら残ってないのがほとんどだろw
少なくとも一般庶民がおいそれと拝見できる場所には残っていない。
あれだろ、読み間違えただけだろ?w違うって言うんならちゃんとソース持ってきてくれw そもそも仮に長シノの部分が「長間などの陣にも、せざる高名を相打にしたると言う所もあり」
というのが本当だとしたら、猶更おまえの言っていることがおかしいな。
おまえの理屈でいうなら、大久保忠教が「三ヶ一個ハ〜」の否定している部分は
甫庵信長記ではなく信長公記の方で、その根拠として
「長篠で本来いないはずの池田がいると書き加えられた池田信長公記がある」とし、
それを大久保が指摘しているというのが、>>1にもあるおまえの理屈。
仮に「長間などの陣にも、せざる高名を相打にしたると言う所もあり」 というのなら
どこに信長公記がつながるのかわからんな。まさか「長間の陣の意味は分からないけど、
とりあえず信長公記ってことにしよう」なんて妄想こいてるわけじゃないよな?w 無恥過ぎw
武田征伐の動員メンバーも一次史料で証明できないやつらが追加されてるだろアホ乙w 相変わらずご都合主義だなw
武田征伐の織田軍が実際どうだったかなんて徳川の大久保が知ってるわけねーだろw
後世から全部眺められる俺らと一緒にすんなよw
結局ただの妄想で終わったなw
いや絶対知ってると思うがw
むしろ身内すら従軍してない戦いを描く太田の方が怪しいわ。 武田征伐の時の織田軍の実態を徳川の人間が知らねーわけねーだろw
どれだけ頭湧いてるんだID:yCJDpT5Qはw
頭に血が上ってるんだろうけど、もうちょっと冷静になって考えろ 織田厨は何回論破されても機械のように同じ妄想垂れ流すだけだな
一次資料だしてみろよバーカ
なんで別行動してる軍の状況を把握してると思えるんだか
それで実態を把握してるなら、秀吉は小西らに謀られる事なかったわな
そういえば信玄は遠江の侵攻も、家臣が勝手にしたことって言い訳してたっけ
つまり別行動の軍隊の状況なんか把握してないって言い訳が通用するってことじゃん 一次史料なんてもうとっくに出てるわなw
あ、第一級史料と一次史料の区別がつかないアスペでしたかw 信長公記って明らかに
だいぶ後になってから書かれてるよね。
なんせ塙直政の一族に信長が酷いことしたことから
わざと塙直政の活躍をほとんど公記は書かないようにしてる。
義昭との調停では塙は眼病を押してまで交渉したりして苦労してんのに。
別系統か親族かって話はまだ決着ついてないだろ
つか塙直政の親族はほとんどが直政と一緒に死んだからな 親族であることを匂わすような史料すらないのに、なに屁理屈言ってんだ。 そらまあいちいち親族かなんて書かないことも多々あるからな
まあ「塙直政の一族に酷いことをした」なんて眉唾言ってる時点で聞く耳持たんだろうがw 一族どころか部下家人まで指名手配してるし、
書類類まですべて回収してる。
佐久間信盛が死んだ時に高野山に信盛遺品全部要求してるのとおんなじで、
信長は一度嫌うと徹底的に家捜しして全没収する。
彼流類を匿うだけで罰すると通達を出していて
丹羽ニ介とか塙安弘とか塙孫四郎とか捜索され捕縛されてんじゃん。
塙一類の衆の預り物は紙一枚とて残さず没収と命令してるし
実際に興福寺が塙小七郎の米を没収され困ってるし。
信長の粘着質で執念深いのは異常レベル。
一度疑われたら潔白でも終わりと荒木が言われていたがその通りで、
松永も自分の領域が一揆で大変なので近江への軍役に出発できず
信長から謀反だと激怒されてから微妙な関係になってる。 塙安弘は直政と一緒に死んでるだろ。
丹羽や孫四郎に関しては捜索され捕縛されたと言うのはその通りだが
粘着質だの執念深いだのではなく、大和後任であった筒井順慶の権益確保のため。
もちろん直政が戦死したことを受けての事だが、生前の直政が
持っていた権益がデカすぎて、前任者と後任の二重統治で領内混乱するのを防ぐため。
そんな「1人死んだだけで領地が混乱するくらい権力持たせすぎた」って言うんなら
まあその通りなんだがな。 下記は君の妄想だろw
デタラメ書いてまで擁護すんなやw
必死すぎキモイ
持っていた権益がデカすぎて、前任者と後任の二重統治で領内混乱するのを防ぐため。
そんな「1人死んだだけで領地が混乱するくらい権力持たせすぎた」 妄想でもなんでもないが
塙一族の寄宿厳禁だのは全て大和統治の後任である筒井順慶から
発せられていることが多聞院日記にあるし、このころから筒井順慶の大和支配が本格化する。
そもそも原田直政本人が立身出世の体現者で、もともと元亀年間では京の一部しか支配してなかったのを
いきなり大和一国の守護を任されるという秀吉、光秀を越えるくらいの
権益を任されている(この時に筒井、井戸、松永久通あたりが原田の支配下にはいる)。
死ぬ1年前の1575年には河内国の行政まで差配すると言う大和、山城一部、河内という
広大かつ重要地域の差配を全て任されていたんだから、
そんな重要人物が死んだら領内が混乱しない方がおかしいだろw
>>390
悪辣じゃない、綺麗な所業だと言う気は全くないが、この時代ではこれが普通。
信長公記、多聞院日記などによると、原田直政以外にも一族の塙喜三郎、
塙小七郎、ほか丹羽小四郎(丹羽二介の一族か)が死んでいて、
当主はおろか家臣もほとんど死んでるような状況。
跡を継ぐ安友は幼少で、家臣もほとんどいない家に大和山城河内のような
超重要地域の統治を任せるのは正気の沙汰じゃない。
ただ負けて死んだのに重いのではないか、という意見もあるが
この戦いのせいで明智光秀や筒井順慶が一揆勢の包囲を受けてあわや殺されるところだったからな。
とばっちりで追放された佐久間はともかく、原田の場合はやむなしな面が多すぎ
原田直政なんてたった1年しか大和守護やってないのだから
土着国人との関係なんてほとんど成立してない。
あくまで織田政権と言う看板を背負っているからで、
もっと言うと、原田が大和守護をする一年前に
信長が蘭奢待を切り取って威勢を見せ付けて以降、
急速に大和国人が織田に帰順していたったのは角明浩氏が指摘してる。
原田が死んだら領内が混乱すると言うアホな妄想w
原田の看板だけで何ができんだよwww
むしろ原田一族を捕縛したり財産没収したりを大和諸衆に命じる方が混乱するわ。
>>394
それ俺が書いたレスなんだけどwww
しかも俺は火種が残ると書いているだけなんだが
まさかそれが原田討死すぐの混乱の証拠とか言い出すの?そうなの?
よく読め
よく読んでわからんのなら、おまえ自身が自身の文章を理解してないって事 織田チョン涙目でワロスw
だいたい死者に口無しで、
敗戦の全ての責任を原田に押し付けただけだろ。
信長「俺の戦略にミスはない。全部原田が悪いニダ」 ×原田直政を大和守護を間に挟む形で大和守護にした。
○原田直政を間に挟む形で大和守護にした。 >>397
はいはいわからなかったんだな?
かわいそうに 原田なんて織田の看板でやってただけだから
原田がいなくても何も困ってないじゃんw >>400
原田がいなくなったことで信長は大和支配を従来の筒井順慶に支持を出す
形に戻さざるを得なくなった。当然大和支配は筒井を中心に行われるようになり、
筒井と仇敵の間柄だった松永が謀叛を起こす理由の一つになってるわけだが。
別に原田が対立関係を緩和していたわけではない。
信玄死後に松永が降伏した時点で、
松永がそれ以前の地位に戻るのは不可能で、
そこに原田は全く関係ない。
その後、信長が蘭奢待を切り取り威勢を見せ付けた。
そして一年後に織田の看板の威勢を背景に原田がきただけ。
原田がいたら松永の謀反が防げたなんてトンデモ理論ワロタw 主要因だとは思っていないがあくまで要因の一つにはなりうる。
そもそも松永久秀ばかり気にかけているようだが元を正せば筒井順慶だって
反信長の姿勢を取っていた。実際本能寺で信長が死ぬと明智に与しようとしたり
筒井と織田の関係なんてそれこそ薄氷の信頼関係でしかない。
ここに信長はテコ入れの形で原田を入れようとしたが結果論で言えば原田が死んだことで
ついに大和支配は不安定なまま本能寺まで行ってしまった。
織田の看板を原田を背負っていたのは事実だが、その織田の看板で大和衆を
統御して失敗したからこそ、大和統治は不安定なままになってしまったんだがな。 まただがが論破されたのか
よくまあこんな長文打つ時間あるな
ニートってやつが羨ましいぜ >>1
結局、織田の看板があれば
原田なんていなくても別段変わらないって話だろ。。 原田を無理やり持ち上げようとするも、
それを証明できる一次史料もなく、
完全に脳内妄想で執拗に粘着する基地外織田厨w >>408
そもそも筒井は本能寺見てもわかるように「織田が強いから味方してただけ」の他国衆だからな。
松永と対立していたからなんてほざく輩もいるが結果的に筒井はそれだけ織田にとって浅い人物であり
だからこそ織田はわざわざ大和を明智にもある程度委任して統治しようとしている
>>494
多聞院日記も知らない情弱w 織田と婚姻してる筒井レベルで織田と浅い関係なら
ほとんど浅い関係ばっかじゃんよwwwアホすぎwww
所詮よそ者の連中と婚姻しているだけなんだから浅いに決まってるだろw
丹羽や原田や秀吉のような昔からの付き合いでもなく
ただ便宜上仲良くするための婚姻に何の意味があると言うんだwww
浅井長政や斎藤龍興の事例を知らんらしいなwww ここまで原田がすごいことを証明する一次史料全く無し。
完全に妄想を語ってます。
ほんとうにありがとうございました。 は?w
都合の悪いことになると話題を無理やり変えて話をはぐらかすんか?w
中年のくせにアスペルガー発症して馬鹿にされ続けるアホさを恥じるのが先だろ?w
多聞院日記がでてますがwww
アスペ発症ですか?w バカですかwww
多聞院日記に原田が優秀だなんて
全く書いてねーよwww ×書いてない ○見当たらない ◎古文が読めない
参考資料
年々三分?(二)相納申候、其残者致未進候、...
(たった三分しか税をとらなかったのか、 三分収めたら残りは納めることはない。 )
...彼屋敷御棟別ニ到退屈、逐電申候、同者棟別銭半分も御赦免候ハヽ、家をも造申、所も可到繁盛候、...
(棟別銭を半分にしてやったから 新築して繁盛しまくりって書いてあるから ) >>417
優秀かどうかはその記述を元に他の人が判断すべきこと。
アホなレスは控えな。
赤母衣衆に選抜され、信長上洛後は山城の行政に携わる。(ただし、この時点では島田や秀吉、丹羽よりは下位)
義昭追放後は南山城の行政を委ねられ、ほどなく大和の行政も委ねられる。
松永、筒井、寺院勢力で錯綜する大和を、信長の力を背景にしてるとはいえ支配を強化してる。
そして天正三年には光秀や秀吉、長秀らと同時に賜姓任官も受けてる。
加賀を任され失敗した簗田よりは楽な状況だったかもしれないが、本願寺攻めで戦死するまで特に失点がないわけで、その経歴を見る限り行政的には十二分に優秀だったとみてよい。 原田が抜擢されてのは
ただ単に妹が信長の側室になったからだろ。
そもそも原田が赤母衣衆ってソースなんだ?
だいたい大和守護をたった1年しかやってないのに
国衆の心を掴んでいたわけないと思うが。
むしろ地元の興福寺の武官だった筒井の方が
国衆の事情もよく知っていてうまく織田の意向を反映できただろ。
原田が優秀なら、妹が側室の信長だって
あんなひどい仕打ちはしないだろ。
ついこないだまで敵だった筒井に大和全部任せるとかリスク高すぎw
原田が死んだあとも明智にある程度委ねている時点で筒井なんて全然信用していない
まあ荒木や別所の件もあるからなw >>420
> そもそも原田が赤母衣衆ってソースなんだ?
信憑性について論じれるほど詳しくはないが、高木家文書というやつ。
> だいたい大和守護をたった1年しかやってないのに
> 国衆の心を掴んでいたわけないと思うが。
なんだか意味不明な定義を持ってくるなあ。
松永と筒井が争ってる大和に上位者として入ってきて、信長の力を背景にしてるとはいえその混乱を収めつつあった。
とりあえずはそれで十分だろ。
>>506
信用の有無ではなく、筒井か松永のどちらかに肩入れするよりは、両者を指揮下に置ける存在の方が都合よかったんじゃね? >>422
高木家文書?旗本のやつならあれほとんど江戸時代以降のもんで、
そんなの書いてないし、
高木修吉氏所蔵文書にも該当するような内容のもん無いだろ。
俺が知らない高木文書あるのか。
興味深いので原文転記お願いしますわ。
それとなんか大きな間違いをしてるようだけど、
筒井と協力して対処するように丹波の光秀が任されているし、
山城の細川も補佐やらされてて、
筒井に大和統治を丸投げしてるわけじゃない。
また原田が松永と筒井の対立を解消なんてしてないし、
原田はかなり織田家では古株だから
そろそろそれなりの地位につくのは当たり前で
信長との婚姻関係もあり能力を評価しての大抜擢でも何でもない。 >>423
高木家文書と高木文書じゃ違うのかな?
原文転載は面倒なんで他者のHPに丸投げ。
ttp://www1.clovernet.ne.jp/kurohoro/his/oda/horos/index.htm
> 筒井と協力して対処するように丹波の光秀が任されているし、
> 山城の細川も補佐やらされてて、
> 筒井に大和統治を丸投げしてるわけじゃない。
なんで筒井に丸投げの話になるんだ?
原田(塙)の間違い? そもそもすごく勘違いしているようだが
別に原田が松永筒井の対立を解消したとは一言も言っていない。
ただ原田が死んだことで筒井の権力が大幅に認められて
それが松永謀叛の要因の1つになったというだけであって。
今までは織田の力で原田が大和を統べる地位にあったが
原田が消えたことで筒井に大和統治をある程度委任し
随時明智らが協力するという体制を作らざるを得なかった。
この体制で最も困るのは、筒井と激しく対立していた松永だということ。 その高木文書は信憑性に問題があるから
ほとんど取り上げられない。
知らないのも無理はない。
渥美をはじめとして全く名前すら知らんやつらや、
明らかに母衣衆になってないやつらがかなり紛れこんでるなど、
信憑性無視してるからねそれ。
しかも利家の弟が母衣衆になっていたとか、
加賀大納言と利家を敬称にしていたり、
怪しげな内容だから付き合わない方がいい。 渥美刑部ってやつが
加賀藩時代になってから
公記の記述にある尺限廻番衆を読んで
そいつら実は母衣衆だったんだと捏造して
ついでに自分も母衣衆だったんだぜ!とか
捏造しまくりの文書だろ。 「御狂」
信長公記に3回登場
日葡辞書による「狂う」の語意=「ふざけたわむれる、遊ぶ」
有岡城攻めと三木城攻めを嫡男信忠に任せた信長。
鷹狩にも飽きたのか、次には「御狂」してしまう。
要は近習・馬廻たちとの戦争ごっこ。これに近衛前久や細川信良も加わる。
前関白や京兆家惣領まで模擬合戦に興じる面白さ。 公記はその当時に生きていた人間が書いたので一級史料です 信長は地球が丸いことを理解したと書いている。当時の人からしてみれば、地球が丸いなら海が落ちると考えるはずである。重力無重力を理解していないと、丸いという結論には至らないのだから、信長は宇宙があることまで理解していたのだろう。 官軍武田軍6万と朝敵織田軍1万か・・・
戦すら成立せんな。 それで武田軍に衝突するまでもなく天下掌握するんだからすげえよな信長 信長公記の斉藤道三の記述はデタラメ
六角氏の記述した道三親子2人説の方が正しい。 >>434
だが理論ではそれで信長が最終的に勝つ
武田軍は信玄がいないと何もできない烏合の衆で
いつの間にか逃亡流浪で数を10分の1以下に減らして負ける雑魚 薬師寺の荘園を奪い取って、天皇が返却するように命じても
シカトしていたどころか、臆面も、恐れ多い気持ちすらなく
薬師寺の荘園を潰して、安土城城下町を作ってる時点で
信長のキチガイさは極限に達していたな。
そりゃ神仏の罰を受けるのも当然だわ。
とうぜん安土城は速攻で廃墟と化して、誰も見向きもしなかった。 そのわりに織田家は平然と大名として存続を許されたな、どこぞの家と違ってw 大名じゃなくて陣屋主です。捏造はやめてください。
しかも秀忠の妻の江のおかげであって
武功じゃなくて、女性による
お情け復興じゃねーかw 覚えたての言葉使うの好きだねだがさん
でも残念だけど織田は「国主格」→「城主格」だから
「陣屋」扱いだったことは、ただの一度もないんだよw
挙句崇源院のおかげとか、どこのムック本でも読んできたのかっていう珍説まで書いてるしw
織田の血筋がアテにされるのは、秀吉政権からの伝統だし、徳川もそれに習って、
将軍家の息子に織田の娘を輿入れさせているわなw
大名国主陣屋どころか、貧乏旗本になるのも苦労した、直系を遠島流刑にさせられるどこぞの家とは大違いw 血筋がアテにされてるなら
信雄が小姓一人しか付き添いを許されず
強制出家させられて秋田へ改易流罪になんてされねーだろ。
家康にも信雄は改易させられてるし。
武功で復興したわけでもねーし
完全に市の娘達のおかげじゃねぇか。 家康に改易された当初大名やってたのは
羽柴姓まで貰っていた息子であって、信雄はその時捨扶持クラスしか貰ってないじゃん
挙句秀雄は羽柴姓まで貰っていたのに、徳川秀忠の好意で江戸で隠居していたしな。
つうか、本当に市の娘達が織田一族を助けたというのなら
なぜ織田秀信は助けて貰えなかったんだ?w
おまえの説が事実なら、織田家嫡流の人間が、それも2人も見捨てられて
浪人で終生終えるなんてこと、まずないはずだがw
家康は秀吉存命期から信雄のこと助けまくってるし
明らかに家康と秀忠が信雄系を重く見ていた証拠じゃんよw
どこに崇源院が介在する余地あるんだよバーカw
実父を殺した人間の息子で、義理の父親とも敵対していたのが信雄じゃんよ 市の娘たちは浅井滅亡後は伊勢に住んでたから
北畠信雄と面識あったろうが、秀信と面識なんてねーし
そもそも秀信が成人したところで秀信自身が市の娘なんて知らんだろ。
織田の血統重視なら秀信を改易なんてしねーだろアホw >>440
大名の格の一番下が陣屋大名なんですが。
但し信雄は国主待遇じゃなかったっけ。 信長公記が軍記物とか、おまえの都合のいい妄想はいいからw
義演准后日記によると1598年にはとっくに信長公記の存在が世に認知されており、
学者の藤本正行は家康の呼称や信長の扱い等から底本は日記形式であるとちゃんと学説で発表している
要するにおまえの妄想だの全く意味がないし、多少齟齬があるから史料として未熟というのなら
武田の史料なんて大半嘘つきで史料未満のものばっかりじゃんw
初陣の信玄が誰も落とせない城を落とすという捏造ばかりだしw >>1
従4位下でも5万石以下は国主格扱いにはなんねーよアホ
5万石以下なんて旗本レベルじゃんw だがさんまさか国主と国主格が同列だと思っていやせんよね?
5万石以下の国主格なんて親藩大名には山ほどいるんだが・・・ >>451
そこまで断言するなら、せめて一次史料のソースを出せよ。 そもそも「何々を持って国主とする」などの国主の定義している一次史料ってあるの? それに関してはだがさんが致命的な勘違いをしているだけ。
「国主格」というのは、簡単に言うと「領土は国主相当じゃないけど、特例で国主並の扱いをするよ」というもので、
大名であれば石高はほとんど関係がない。現に親藩では1万石にも拘らず国主格だと認定されている大名もいる。
国主格という国主と同列に扱われる基準は官位の高さによるもので
国主格大名はほぼ全てが従四位以上の官位を叙任されている。
つまり官位を見ればほとんど一目瞭然。
まあ「5万石以下は旗本レベル」なんて妄想かましているだがさんは
ハナから織田家が江戸幕府から大事にされていた事実から目を背けたいんだろう
自分の大好きな武田家当主は伊豆に流されるわ、高家職にすらなかなかなれんわで >>454
で、それを証明する一次史料はまだなの? 公記最大の超捏造歪曲は大和国多聞山城にいた松永久秀が
信玄上洛戦の最中に信長に降伏したと偽った超デタラメだろうな。
よほど隠蔽したかったようだ。 信長公記が正しいなら今川義元は1551年に死んでなきゃならないことになるからな 信長公記は山岡景隆が山岡家の惣領で
瀬田を支配していたように捏造してるけど、
実際は元亀3年7/18の山岡景祐(景友・暹慶)→飯川・曽我ら幕府側近宛てで
将軍が甲州へ送る使者の真下入道殿が此渡乗船之儀の仰せ付けのこと、
畏まって其の意を得候、
只今に限らず諸公・御衆・其外、下々に至るまで〜と書いていて
明らかに瀬田の支配は山岡景祐なんだよね。
公記では景隆が瀬田を維持してたなどと捏造してるのが笑える。
そんなら天正元年には何で滋賀郡周辺で大苦戦してる光秀への援軍に柴田は陸路が使えず船で行かざるを得なくなってんだw
あきらかに瀬田大橋が織田軍の通行を許さなかったからだろw 該当書状が細川家文書に収録してあるのすらしらないあまりにも無知過ぎるザコ織田厨… >>462もまともに読めないアホ織田厨ワロタwww 何が問題なのかわからない。
その日付の翌日には美作は知らんが玉林の方は信長の浅井攻めに従軍してる。
何らかの事情でその年に義昭の意を受けて還俗していた景友がたまたま瀬田を預っていただけなんじゃないの?
義昭と信長の決裂が決定的になったのは翌年のことだし。
その書状の日付以前から景友が瀬田を支配していたソースはあんの? だがさんくらい史料解釈が達者な方なら
元亀3年の段階で未来を見越して足利義昭が反信長方として行動していたことを予見したり
大して記述されていない人物が重要な立ち位置にいることを予見することくらい
造作もないことだよ そもそも山岡美作景隆と対馬景佐は義昭と信長の上洛戦で抵抗し柳生へ逃亡してる。
その後、義昭は寺社にいた山岡家の景祐を抜擢し厚遇しており
兄らがいつ織田に仕えたか不明。
美作と対馬の弟とされる
備前景猶玉林斎・景之玉林房(暹慶)は同一人物もしくは片方が架空人物
また対馬も景祐と呼ばれていたこともあり判然としない。
>>その日付の翌日には
それは信長公記の記述だよね・・・しかもどちらの玉林かもわざと書かない。架空人物の方じゃないのか? >>472
物の本によると、
吉田文書に元亀二年十二月信盛宛の信長の朱印状が残っていて、
そこに「一、新与力として進藤青地山岡申し付け候。(以下略)」とあるらしいので、
この時までに山岡が信長に降っているのは確かといっていいんじゃないか? その山岡って誰を指してるかわからんでしょ。
一緒に並んで名が出てくる青地で有名どころは、
蒲生賢秀の弟の青地茂綱だが、この人は元亀元年に森可成共々朝倉に討たれてるから、
この時の青地も誰だかわからん。
無論、進藤も誰だかわからん。
勝手に脳内で進藤賢盛と決めつけるやつもいるが、賢盛は永禄12年の北畠攻めに参加してる。
やはり瀬田の支配は景祐であり、
義昭の反織田挙兵により、
信長は景隆を急遽、抜擢せざるを得なかっただけ。 そもそも降伏時期を一年前倒しして
元亀3年末に松永降伏して、多聞城へ山岡対馬守を入れたと書いている公記を信じることなんてできんし >>474
> その山岡って誰を指してるかわからんでしょ。
じゃあ景隆兄弟以外のどの山岡なんだって話になるよ。
還俗する前の景祐って線だけは無いと思うぞ? >>475
一次史料信じずにお前の研究を信じろって?w
ハハハ、こやつめ! その山岡が誰だかわからない→わからんでもない理屈
やっぱり瀬田の支配者は景祐→意味不明
足利と連絡しただけで勝手に支配者認定される不思議
主君の意を受けて外交任される人間なんて糞ほどいる 公記ってむちゃくちゃデタラメだよな〜。
信長が秀吉にあげた茶湯道具の数を、
12個も褒美にくれたとか吹いてるが、
今井宗久&今井宗薫宛の秀吉書状に書いてある茶器道具名を見ると実際はたった8個だけwwwwwww
ウソまで吹いて信秀さまありがてぇありがてぇマンセーカッコわりいwww まあ公記の天正9年11月に書いてる
秀吉と池田恒興の淡路岩屋出陣なんかも、
尾下成敏氏なんかが天正10年の出来事をズラしてると指摘してるしな…
四国取次ぎが長曾我部派の光秀重臣斎藤から三好派の秀吉に変わる微妙なタイミングだから本能寺の変に関わる操作をしてる意図が窺える。
公記は出来事の年代を弄くりまくって操作してるのは明白だわな。 尾下氏は、黒田家文書の阿波攻め関連の文書が
天正九年に比定されてたのを天正十年のものとしたのであって
公記の淡路攻めの記事はそのまま採用してるけど?
どう読み違えたんだ? 黒田家文書の阿波攻め関連の文書を
公記の天正9年11月に書いてる内容と合致するから
それで比定してたが、尾下氏は公記の日付はおかしいってことで
天正10年に秀吉と池田恒興の淡路岩屋出陣があったと言ってるから
読み違えも糞もないだろ。 実は尾下氏の論文読んで無いんだろ?
あの論文読んでたらそんなレス在り得ない
桐野作人がHPに尾下氏の論文のこと書いてるの見て
適当に理解した気になってるってとこじゃないのか? 天正9年は鳥取城と忍山城の二方面で秀吉は手持ち兵力で毛利と対峙してるから、
さらなる淡路阿波への出兵は不可能だしな。
どう考えても天正10年だわな。
公記の9年は非現実的。 そもそも公記は首巻が終わっての巻一の冒頭からして三好長慶が義輝を殺したと書いていて
もういろいろとダメすぎるだろ。完全に大田本人が書いてねーよ。長慶はとっくの昔に死んでるわ。
大田が書き足したのは安土城完成以後だろ。 ちなみに大和に三好軍が侵攻した際に
危機感をもった伊賀では反三好の伊賀惣国一揆が組織されていたし
若狭国は将軍領なので、当然に若狭武田氏も義昭支持にまわってたし
頼みの綱の石山本願寺まで信長上洛支援だったから
三好三人衆は各地で兵力不足に陥り完全に涙目だった。 >>485
公記は天下執権に対して義輝が御謀反を企てたと書いていて、
明らかに三好側視点で記されていると天野忠幸氏が指摘してるね。
信長は義昭追放後に将軍不在を回避するため義昭嫡男を大樹様と呼ばせて擁立してるが、
三好長慶は義輝追放後に義維を擁立しようとせず、
将軍不在に対して全く気にしなかった。
やはり長慶の方が信長より優れていただろう。
四国畿内13カ国を支配していたのに43歳で長慶が病死したのは痛かった。 2010年くらいまでは信長公記さえちょっと目を通していれさえすれば
戦国板でシッタカできたくらいレベル低かったから
織田厨にとって天国だったろうな。
どんな意見でも公記を証拠に持ち出して論破気取りだったからなw それで俺は近々『信長公記の嘘』という本を出す事にした
本が出たら是非読んでくれ >>489
出版社はどこだよw
信長マンセーして一般大衆に迎合したアホ本じゃないと売り上げが伸びないから
出版してくれるようなところないだろw
いまだに上司にするならどの歴史上の人物がいい?で信長が上位に食い込むほど無知なのが歴史好き素人だからな。
そういや三好長慶の内者は身元不明のあやしい奴らの抜擢組だが、
三好三人衆の石成友通も内者上りなんだってな。
松永久秀も前半生が謎で(母が堺に住んでたらしい?)怪しいが
実質、長慶に次ぐNO.2までのし上がってるし
三好長慶の氏素性にとらわれない人事採用と抜擢が、長慶の成功の秘訣だよな。
その点、信長はダメだね。 >>487
その妄想、何回目だ
逗子市ストーカー殺人事件・小堤英統みたいなキチガイだな 事実を直視出来ず目をそらすばかりか、
脳内願望妄想を固く事実だと盲信するキチガイ楽園脳信長厨。 582=織田原人なのが>>490を読めばはっきりしてるwww
会話のキャッチボールがちゃんと理解できてれば一目瞭然。
どうして織田原人は他人を装ってレスして、恥ずかしくもなく被害者顔ができるのか。
これは従軍慰安婦のでっち上げによる被害者顔と同じ精神構造ですねw 信長公記の嘘
武田信玄とその信者は現在なら隔離処分されるのが妥当な奇形メンヘラ集団の事実を書いていないこと >>490
ん?とうとう自分叩きの自演まではじめたの?w
それだったらちゃんと信玄を貶して信長をほめたたえなきゃ。
というわけで
信長・秀吉・家康>>>>>勝頼>>>(越えられない壁)>>>信玄
っと。
これに反応したら、だがさん確定。 まーた馬鹿織田中のコピペ爆撃が始まった
だがさん徹底的に論破しちゃってくださいよwww 一般人には発狂しているように見えるけど、
「だが」氏の場合はこれが正常な状態(のようだ)。
本当に発狂したらK5荒らしになるでしょう・・・ またアンチ秀吉の織田ちゅうの爆撃コピペか。
句読点を使うバカコピペはアンチ武田の仕業なのはバレてるしwww 句読点じゃなくて不等号だったw
しかし歴史ゲーム板の低脳らしくワケわからん数値をつけたがる馬鹿さ加減は明らかに織田ちゅうだわな。 一方的フルボッコ対象に過ぎなかった織田厨に
武田厨論破テンプレなんてあるわけねぇw >>1からのコピペ爆撃は明らかにだがやSUBのレスの盗用じゃないな。
この質の低い馬鹿レス内容はアンチ秀吉コピペをやってるゲーム板創造スレにも出入りしている織田厨だわ。 ゲーム板とこちらに書き込みしてるバカコピペ公害は織田厨だけだから明白すぐるwww
わざとバカな武田厨のフリしても尻尾が丸見え浅はか過ぐるw 本当にあほすぎて笑えて繰るよなこのコピペ
だがさんはやく論破してやってよw 実際武田は同盟詐欺の騙まし討ちと対北条徳川戦の疲弊で滅びただけで
織田が自力で城を落としまくって滅ぼしたわけじゃないからな
唯一抗戦したの仁科だけだしその仁科にも織田信家殺されてるし そりゃ信長が同盟詐欺で騙してて防衛体制解除してたし対徳川北条戦の疲弊もあるだろうしな
そこを規格外の大軍で襲ったら離反の連鎖になっただけでしょ。 困ったら噴火の珍説出して逃げるんですよね、在日さん そりゃ大分県からも空が真っ赤って観測出来るほどの超噴火だからね。 農作物への被害も一切みられないし、当然なされるべき減免措置も史料が無いけど、大分から見えるほどの大噴火だったんだもんな そりゃ当時の関東地方には日記が現存してないからね。
でも公家の噴火視認が記述されたほどの噴火が、
日記に記された浅間山噴火はこの時と1108年の上野国壊滅と朝廷に上野国司により報告された時のたった二回だけだから、
その規模たるや想像に難くないよね。 そりゃ火事場で泥棒行為を喜んでやる犯罪者集団だからね。
そうそう火事場ドロ仲間と言えば、
北条早雲なんかも駿河湾大地震で崩壊した伊豆に攻め込んで、
足利茶々丸の堀越公方家がほとんど組織的抵抗出来ないうちに滅ぼしているな。 ただ単に、上野守護代家出身の長尾景春や謙信の祖父の長尾能景らが上野国や武蔵国の主戦場で暴れ回って上杉氏とガチ大戦やりまくってた背後で、
ひそかに早雲がコソ泥してただけだろw 早雲は最果ての辺境で悪さしてたレベルだからなー。
長尾能景が平塚近郊までやってきて相模守護代を捕縛したら
早雲のやつビビって伊豆へ逃亡したしなwwwwww だな
減免措置の公文書も史料が喪失されただけだし、家忠日記に記載がないのは攻めた徳川に都合が悪いから書かなかっただけだし、
フロイスが言及してないのも同じ理由、火山灰が確認されてないのも江戸幕府が都合悪いからかき集めたわけだし、
英俊の日記にも上井覚兼日記兼見卿記にも記載が無いのはぜんぶぜーんぶ配慮されて闇に葬られたからだもんな ttp://www.eri.u-tokyo.ac.jp/VOLCANOES/asama/asama_kiroku/
武田家は本当に噴火で滅んだんだ(棒) >>528
その表は完全にデタラメ。
そこに出てる9割以上は一次史料に存在しない噴火ばかり。
後代になってから、昔〜時代に噴火があったらしい的な伝説伝聞による信憑性ゼロの噴火記録。
確実にリアルタイム噴火記録が明治より前で存在するのは、
1108年上野国崩壊超絶噴火
武田滅亡時超絶噴火
江戸時代の天明大噴火(これは京で観測されてない規模) >>527
すべての歴史r的出来事にそんだけの史料に載ってるか載ってないかを確認する気かwwwwwwwアホすぐるwww
一次史料を疑う時は、それを否定する史料を提示するなんだが(この場合は甲斐民衆が豊作や平和を喜んでいたとか)
それどころか、公家の日記の噴火記録を補強する宣教師の記述と言う第二の証拠まであるのだから事実であり否定しようがないのにアホか。 ハイハイ、火山学という科学でデタラメって言ったら何を信じればいいんだろうね
しかも東大を否定とか新しすぎるな 東大の研究を嘘乙と言い張るだがwwwwwwwwwww
オマエ何様なんだよ、今すぐ論文で論破してこいや >>530
何を言ってるんだ
そいつは噴火を信じてるんだぞ?
見方を背後から撃って何がしたいんだお前はw 517 人間七七四年 sage 2013/08/31(土) NY:AN:NY.AN ID:KY/2I9Zf
>>422
浅間山の噴火の「記録」
あくまで後世に伝聞や言伝えや伝説も元に記録された
信憑性ゼロのガセ噴火ネタでも「記録」は「記録」だわなw
つか東大がいつ、その表の噴火が完全に根拠ある噴火記録だとアナウンスしたんだ?
まずそこを証明してくれよ?
しかし見事に単発ID自演の連投だなwww織田厨が自演キチガイ=アンチ秀吉の朝鮮人なのは
もはや明らかだわな。
wikiを追放され、今度はyourpeで曲解編集を開始かよwww複数アカウントで工作荒らし活動やって馬鹿じゃねーかwwww 信長寄りじゃねえなあ
元々後北条研究者だし専門家でもないからその意味でも論外だな
しかもこれを元に言ってるんだったら一級史料どころではないな
後世に自分勝手の理屈小ネタだけの駄本じゃん
史料的価値は0だな しかし公記のデタラメっぷりは酷いな。
下手な軍記や家譜にも劣る酷い信憑性だろ
桶狭間合戦が1553年とかw つか赤松七条家の城だから、
織田側は七条城って書状に書いているにも関わらず、
信長公記には上月城と毛利方呼称で書いてる時点で、
豊臣政権時代以降に毛利方に取材した上で書いてるのモロバレじゃんw
一次史料でもなんでもねー。
後から取材して軍記読み物として書いてるんだよコレ。
太田がリアルタイムに直接、見聞きした体験を記したなんて嘘。 そりゃ信長公記の作成年代を太田が記しているのを見ても
慶長以降しか存在しないんだから一次史料なわけがない。 池上氏は、義昭追放後に、公記が
村井が天下所司代に任じられたことについて、
当時の史料で村井を天下所司代と呼んだものはないとして、
豊臣政権時代の京都所司代を太田が知っていた為にそう書いてしまったと指摘している。 執拗に織田チョンが敵視しストーカーし続けていた4年。
しかし笑える現実がwww
実はストーカー対象の小学生に論破されていた…これからは粘着織田チョンの恨の精神が具現化されますw 同姓同名の他人に罪を被せようとするだが
子供がクレカ作れるわけないだろ 織田厨まーた自作自演と単発ID自演で工作かw
名前を晒して名誉毀損リスクを気にしないのは、
自作自演の狂言話だからだろwww
だから●流出で住所もとっくにわかってたけどwとかデタラメを吐いて回ってるんだろwww 拾った人の温情で他の情報さらされてないというのに、そんなに破滅したいの? 信長公記の捏造マンセーを一つずつ暴いていくスレ
著:菅沼遼太 >>546
昔とある掲示板に谷川亮太(仮名)と言う奴がいてな
本名くらい大丈夫だろとあっさり晒して、ウキウキで卒業証書も晒したんだよ
そしたら2chで特定作業の嵐が始まって、大学高校に始まり、ついには家族構成や実家、当人の彼女まで晒され
それを見た一部の人間が嫌がらせをされまくって今や訴訟沙汰
だがの書き込み見てたら、当時の谷川君の虚勢を思い出しちゃってね >>538>>638>>639>>641
あきらかに太田が武功を捏造する取引で金を要求しながら慶長期に取材して書いた軍記小説だなw 信長公記→安土城築城において蛇石と呼ばれる巨石を信長公が巧みに指揮して上まで上げた。
フロイス日本史→指揮に失敗して蛇石が下に落ちて150人の人夫が下敷きになり死んでしまった。
全く正反対の記述が為される時点で、
信長公記が無敵信長マンセー糞軍記なのがわかる。 勝者が捏造する歴史についての小和田哲男のコメント
「信長公記だけを読むと信長が常に勝ってばかりいて負けたことが無かったと誤解する」 光秀のは差し出し検地で、
秀吉は実地検地でまったく別物じゃなかったっけ?
でもぶっちゃけ、賦課基準って武田・上杉・北条では
通貨の質を守り、貫高制の元ですでにやってたことだよね。最悪、代納として米で収めることもできたし。
知行役や軍役、諸役賦課体制構築に必要なことであり
国の運営の基礎部分が徴税だから。
信長は糞銭でも文句言わずに使え!ってやっちゃったから通貨の信用性崩壊し
商人が米取引を重視してしまい、経済崩壊してしまって貫高制が崩壊してしまったみたいだけど。
その後の信長は徴税や課役に統一基準を作ることをやらずに
制限の無い、好き勝手な負担による酷使を強いて、逆らったら虐殺して回ってたから
惣村一揆と一向一揆が協調し、そこに紀州惣国一揆も参加しての本願寺・高野山連合が信長を滅亡に追いやったけど。 >>539
信長公記にあね川合戦の事って書いてある時点で
公記は一次史料ではなく軍記小説でしかないんだよ。
リアルタイムに記録されていたのなら、織田と浅井は野村合戦と呼称し、
朝倉なら三田村合戦と記述しないとおかしいんだから。
姉川合戦という呼称は家康が天下の実権を握って以降の呼称で
かなり後になってから織田からではなく、徳川関係者からの聞き取りで書いているのがわかる。 桶狭間が無かったって主張するのが史学者として恥ずかしいんじゃないですかね 天正4年辺りからのあらすじはだいたいあってるが、
内容は信長マンセーする為に捏造歪曲しまくってる程度の信憑性しかない軍記小説。 安土城築城の記述を長々とやって、
信長が追込まれている事実を隠蔽する馬鹿公記www 下記のエピソード全部、公記のデッチ上げ作り話で根拠ゼロ
信長と道三の聖徳寺の会見
織田信光が尾張清洲城を奪い、信長に譲り那古屋城主になる
斯波義銀と吉良義昭の会見
赤塚の戦い
萱津の戦い
稲生の戦い
浮野の戦い 一次史料を見る限り、
信長が岩倉織田伊勢守家や
清洲織田大和守家らを相手に、
国内統一戦争をしていたとする証拠が一切ない。
そもそも公記首巻は太田牛一が書いたものですらない。 一次史料を見る限りといいつつその一次史料も出せないからお話にならない 永禄7年7月に三好長慶が死ぬや、
下村信博氏によれば、9月に正親町天皇が勅使立入宗継を信長に派遣してきたので、
信長にとって美濃攻略の大義名分を得た形になり、
横山住雄氏や奥野高広氏によると12月には将軍義輝から信長へ天下統一せよとの御内書が届き、
天皇と将軍から天下のことを任されたと言うことです。
親の信秀の忠勤の遺産が、
天皇や将軍の信長への盲信になったのでしょうが、
信長が全ての者を見下し威圧し、
大虐殺大好きの重度鬱病患者キチガイだとは夢にも思わなかったんでしょうね… 信秀の勤王っぷりは京洛で有名で、
あまりに多額な援助の感謝を表すために、
天皇が勅使をくだすなんて、
前代未聞な感謝の仕方までしたくらいで、
朝廷はをた殿、をた殿って言ってたからね。
当然、信秀の嫡男を贔屓してその成功を後押ししてんのよ。
永禄10年の立入宗継の尾張下向では、
わざわざ誠仁の元服費用を信長に依頼。
これは信長に誠仁の後見人を任せているからで、
これで次期天皇の後見人と言う政治的立場を手に入れ、
信長は超絶チート化してる。
なにせ、信長に従わない者は天皇に従わない賊なのだから。
まさに日本のルールブックそのもの。 天皇がそんな強力なら、なんで元服費用を尾張くんだりまで勅使出してせびりに行ったんだろうか
そもそんな強力なら後鳥羽よろしく幕府滅ぼせよと
謎は深まるばかりである 軽々しく誠仁の後見は頼めないからな。
最も朝廷を敬う織田弾正信秀の家系なら安心と思ったんだろう。
当時も天皇を尊重しないやつはいなかったし、
官位官職は皆が欲しがった。
しかし荘園横領して経済的自立していかないとならない自力救済の荒廃した社会だった。
土地には多層に渡る利権が混在し朝廷には警察力や裁判能力が無かった。
それゆえに現実問題として天皇の意向を守ることは出来なかった。
しかし尾張の治安を安定させた信秀は強力な経済力と軍事力をすでに保持し余裕があったので、
天皇に勤王する余力があった。
しかし今川などは将軍への挨拶が遅れたことを謝罪していたりと余裕がまるでなかった。 すげえな
まるで人の考えがわかっているかのよいな傲慢な憶測
傾聴に値しますな 他力本願でなんら武功もないのに、
義昭を伴い上洛してきた信長を大歓迎して、
天皇は信長を副将軍に任じて、
家格を一気に引き揚げてくれた。
そのため義昭が信長を管領に任じても拒絶した。
天皇の織田家贔屓は信秀の勤王を評価してのこと。
まさか信長が上京を放火し桂川に大量の死人が浮かぶ阿鼻叫喚と、
略奪恐喝をして回る大逆無道な暴君とはまだ知らなかった。 ネット上で活動する在日チョン工作員に気をつけろ!ってインドネシア人が言っている。
って記事見たけど、こういうとこにも蔓延ってるんかな。 ここまで超絶チート機能を付与されながら畿内統一すら出来ずに謀反死ってw >>580
君のいう超絶チート機能って何?
戦争弱くて、外交下手で、内政下手で、部下の掌握が下手なんだろ?信長はw
どこがチートなの? そんな無能なのに天皇に目をつけられた織田信長
一方でいいように踊らされた武田信玄以下無能以下の方々 天皇チートがあれば俺でも天下統一できるレベル。
でも信秀の勤王が評価された結果だから、
俺は天皇チートを手に入れることはできない。 あんなの俺でも出来る
ただあいつは運が良かっただけだ
そしてあんなに環境に恵まれてれば誰にでもできる
完全に出来ない人間の逃避だな 「親の七光りさえあれば俺が総理になるのは簡単さ」とか楽しい妄想してそうだよな 実際、アスペ重度鬱キチガイで、
ガキ小姓を選んでは女装して強制セクハラして、
パワハラ圧迫人事管理で貢物や賄賂もらいまくって汚職判決による私刑乱発。
虐殺恐喝でコレクション
こんなクズでもそこそこやれたじゃん。
これ以下のクソクズなんてなかなか日本史をみても見つからないよ。 太田牛一がデタラメ史観を作り上げて信長マンセーしてるのはガチで痛いよな。
義昭は信長より三歳歳下で、
一次史料の義昭書状には、
信長を御父などと呼ぶ書状は無い。
信長公記に載る信長宛の義昭書状にある御父の文字はなんなんだwww
馬鹿馬鹿しい厨二病っぷりで敬称を追加www >>589
アスペ重度鬱キチガイで(親父を追放し)
(春日虎綱という)ガキ小姓を選んでは女装して強制セクハラして(しかも嫁にバレる)
(国人衆から)パワハラ圧迫人事管理で貢物や賄賂もらいまくって(板垣息子や勝沼など)汚職判決による私刑乱発。
(志賀城など信濃で)虐殺恐喝で(敵将の嫁を)コレクションした
武田信玄とかいう奴もいるしなw そんあチート権力を与えた天皇は官位を売って糊口を凌ぐ有様
なんで天皇やら公家やら、まして棟梁として承認された室町将軍が流浪してるんだろうね
不思議だ不思議だ >>591
アスペに失礼だろいい加減にしろ!
だがは妄想性人格障害だよ >>591
へぇwそれ一次史料で証明してみなw無理だろうけどwww 結局一次資料って事でFAだな
池上裕子氏ですら信長公記の信憑性はかなり信頼してるし 信長公記が一次資料ならかなり多くの資料も一次資料になっちまうよ。
長篠日記なんて超一級史料だな 加茂郡西部を信長公記は高橋郡と書いている。
これは武功夜話並みに怪しい地名名。
アホ長公記の学者は信長が高橋郡と名付けたなどと笑える言い訳をしている始末www _______ __
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◎ウェブ全体 〇日本語のページ 織田を研究してる学者なんていない。
なぜなら内政無視、軍事組織もデタラメで、
金融政策に失敗し貫高制崩壊させた為に、徴税、それに応じた兵站確立と軍役賦課と住民負担上限設定と軍政改革など全く出来なかったアホ組織。
よって織田の組織論なんて全く研究対象としての価値が全くないから。
いるのは根拠なくマンセーして信長英雄視する馬鹿な信長公記研究者だけ。 信長マンセーを観光集客のネタにしてる岐阜の教育委員会が金を出して研究させてるから、
信長マンセーしか書けるわけないわな。
予算を出す出資パトロンの意向には逆らえない。 トンデモと言うか、オモシロ軍記自体は何も悪くないと思う
ただ
『秀吉や謙信や元就に関する話は全て講談など後世の創作だが信長の信じられない活躍はどうやら本当らしい』
と本気で言っちゃう人達がキモい >>601
こりゃ致命的ミス連発じゃんwww
武功夜話どころの騒ぎじゃねぇじゃんwww チャイニーズガールチア
チャイニーズガールチア
チャイニーズガールチア
ディレクター2ndパスポート
街道騒音異臭問題 とりあえず斉藤道三二人説を真っ向から否定している信長公記の記述が
まったく信用できないのは確定しているね。 池田由之の生年で考えると公記にある父元助の年齢も怪しいらしいね。
戦国時代とはいえ子作りするには早すぎるとか。
反証として信玄先妻の例他もあるらしいけど信忠と2歳差する方が
無理はない感じかな。 公記の記述をそのまま転載して
本を書いたら売れるから
バカ相手に楽して儲けられる
最高の搾取ビジネスが信長関連本 >最高の搾取ビジネスが信長関連本
好例が信長協奏曲だね
信長と織田軍さえ活躍すればいい愚の骨頂みたいな作品
なんであんなに推されているのか理解に苦しむわ そもそも公記首巻は誰が書いたのかすら謎で、
江戸時代に忽然と現れたものだから、
完全にデタラメな内容ばかり書いている。
なので全くと言っていいくらい一次史料で証明できない事柄ばかり。
嘘妄想の羅列軍記講談。 信長公記で一つ判らない事があるんだけど
桶狭間の年数間違えてるのって何で?
たんなる太田のミス?
それともその時期に今川との衝突があって
混同したとか? 信秀が今川を撃退したことを、信長がやったことに変更したから。
だから信秀の死の時期まで早めて書いてる。 菅沼君のアホさ加減が一つずつ暴かれていくスレになってるな 桶狭間の合戦が天文21年5月となっていて、
8年もズレてる時点で完全におかしいからなw
信長の初知行宛行文書が天文21年10/21でやっと当主相続してるしwww
だから信秀の死ぬ時期まで前倒し調整www
バレないようにその直後にもっともらしく道三と信長の会見話まででっち上げwww 一次史料を用いたまともな反論が一切できない在日織田ちょんw 真面目な話
誰か研究者の人で信長公記の間違いまとめた本書いてくれる人っていないのかな? 浅間山超噴火が無ければ、
勝頼が佐竹や里見と北条を滅亡させてたよなあ。
天正9年終了時点で沼津に拠点作るまで侵攻していたから、
天正10年には佐竹や里見と呼応して沼津を策源地として兵站を整備し小田原乱入してただろうしな。 だからその浅間山大噴火の被害状況をまとめた報告書ぷりーず
武田のでなくても織田でも徳川でも北条でもいいから 信長公記信じなかったら一体何を信用すればいいんですか?
ナンダカンダ言って信長公記が一番信用できる。 菅沼史観は矛盾が多すぎて信奉するにも難易度高いからな。 天文16年(1547年)に義輝が尾張斯波氏滅亡を考慮し、
京洛の旧斯波邸を自らの邸として接収した。
事実上、斯波氏はこの時をもって公式に廃絶し滅亡している。
ちなみに一次史料上では清洲城で傀儡になっていた尾張守護斯波義統が
天文13年に稲葉山城攻撃中の信秀の援護射撃で禁制を出したのを最後に
消え去り尾張国における斯波氏の活動は消え去りいち早く信秀により滅亡させられたと考えられている。
清洲城主尾張下郡守護代織田大和守信友は架空人物。
岩倉城主尾張上郡守護代織田伊勢守信安や子の信賢も江戸期の軍記の架空人物。 >>639
存在が確認できる一次史料を出してみろよwww >>640
信長公記があるじゃねえか。
お前馬鹿じゃねえのwwww 軍記講談の信長公記は
覚書や口述記録などの二次資料よりも下だから。 >>643
じゃあお前は信長関連史料の何が一次史料だと思ってるの?
その一次史料の名前出してみて。 有名武将だから「1流の資料」ただこれだけ。
あほみたいな、捏造嘘の塊。 転記したところで読めない人には無価値なので必要ありません^_^ んな悪魔の証明の亜種みたいな詭弁使われてもなw
気になるなら自分で調べてこいよw どこが悪魔の証明なんだよwww
ただ単に全文を転記する作業だけじゃねぇかよwww
文意解釈に重要な部分が「…」になってて
意味が良くわからねぇように加工してあるじゃねぇかよ。
それで解釈が間違ってるとか主張しててバカじゃねーのwww
さすが在日織田朝鮮人www 織田厨がアホ無知なのは公然の事実
そもそも信長の優れている点すら根拠つきに書いてきた試しがない。
捏造印象操作でしか信長を褒めれないのが織田厨 766
具体的にどこがどう判読不能か説明してから言えよw しょーじき戦国史研究を志す人は、
信長公記を読んじゃいけないわ。
信長を美化しまくった よくできた洗脳書だからね。 少なくとも都合のいい部分だけを抜き出して前後の文脈がクルクルパーなお前の妄言よりは億倍信用できるよ >>1
三国志で「晋」を「普」と書いちゃうくらいのダサさだな キチガイだけだろ
たかが便所の落書きサイト如きの書き込みに
そんな細かい所まで突っ込み入れる奴は 同音語ならまだしも鷺と鷲はどうやったら間違えるのかってレベルだな >>662
誤字でここまで騒ぐのがアスぺの特徴でもあるわけで
こんなキチガイが常駐してるからこの板が過疎る最大の理由 完全論破されてるから
もはや揚げ足取りして
勝利した気持ちになる矮小な
存在にまで堕ちた織田朝鮮人 >>665
俺、武田厨だけどお前の事嫌いだよ
レッテル貼られる行為をしてるのはお前だろ
コピペ荒らしは最低な行為だぞ
720 :人間七七四年:2014/12/02(火) 20:44:36.56 ID:y2fITIbK
織田在日がなんどとなく懲りずに
同じことを蒸し返しては毎回論破され
ついには完璧な論破テンプレが完成してしまい
涙目でレッテル中傷しかやれない哀れさ。 >便所の落書きサイト如きの書き込み
こんな程度の気概しかないのなら、武田厨騙るのやめろよ
こんな程度の認識しかないのなら、武田スレに書き込むのやめろよ
こんな程度の気もちしかないのなら、戦国板住人に話かけるなよ
で て い け! 悪口中傷ばっかり書き込んで
自分の品性下劣さを皆さんに紹介してばかりの毎日より、
織田厨にははやく信長のすごいところを一次史料の根拠付きで
説明してもらいたいのだが。
なんで何年もその回答から逃げ続けては、
レッテル貼りと悪口中傷で返答してくるの?
ずっとその点が疑問なんだけど。
なぜなの?
やっぱり日本人じゃないから長文はうまく読めないの? >>669
織田厨っていうの?よく知らんのだが
レス見てると世間知らずの糞ガキって感じがする
実際は無職のおっさんかおばさんなんだけどな 高遠での戦果
信長公記 大将格の頸だけで400余
多聞院日記3/2に織田軍が甲州之衆と戦いで100討ち取ったと述べてる高遠城での一点だけwwwwwwww 信長が基地外で織田軍がザルであろうと本能寺までは最大版図を築いた事実に変わりはない。
ちんたら内政やってる暇はないぐらい連戦してるからな。 畿内平定にすら失敗した信長www
しかし秀吉が一瞬で畿内平定に成功する始末www 耳川の戦いの大友義統 20歳
本能寺の戦いの織田信長 49歳
摺上原の戦いの芦名義広 14歳
関が原の戦いの毛利輝元 47歳
こいつら家を傾けた4大無能当主だと思うが
養子として入って間もない義広はまだ14歳だったから
家中をまとめられなかったと非難するのは可哀想だ。 家臣に攻め殺されただけでなく
別な家臣たちに家を乗っ取られた信長が群を抜いてバカだな。
興福寺も信長死んでまだ間もないのにって葬儀すらやらずに
信長遺領の家臣同士の奪い合いかよって呆れてるし。 実子に家を乗っ取られた武田信玄に比べれば数億倍マシな大名ばかりだなwww
敵対した武将の姪を側室に入れるとはさぞ絶倫だったのだろう >敵対した武将の
信忠&信房「わしらは嫁の実家を滅ぼしましたがなにか?」 輝元は頑張った方だと思う。
関ヶ原の時は北九州、四国、大津に大攻勢を仕掛け、
天下を伺う気概は十分だった。
敗れても雄藩として毛利家をなんとか残した。
意外に人望もあったんじゃないだろうか。
その人生のただ一点の失敗は、満を持して関ヶ原に送り出した毛利秀元に対して
付けた家臣の人選だけだろう。 坪井氏が成立時期を慶長年間と特定した松平記によれば
佐久間信盛が改易された理由は、
「天王寺に数月対陣し一度も勝利がなかった」からだそうだ。
別に家康マンセーや自家のマンセーとも関わりのない佐久間ネタで
話を盛ったり、創作する必要性もまったくないので
これは事実であろう。
公記はこれを捏造してあたかも
5年在城=石山本願寺包囲網を統括する城に
5年いて前線指揮していたが
結果が出せずに改易になったと誤読するような書き方をしている。 そりゃそうだろうね。
佐久間は河内や紀伊や大和に転戦していて、石山本願寺に釘付けにされてねーからな。
公記はワザと佐久間の動きを抹消してでっち上げてる。
没落した佐久間が、池田のように太田にワイロを払えなかったから悪く書かれたんだろうね。 >>687
決して明かされることがなかった(推測の域を出ないと言い換えてもいい)真実ではなく、実際になされた事実を記述したことが捏造に当たるのか?
> 結果が出せずに改易になったと誤読するような書き方をしている。
単に結果が出せなかっただけでなく、結果を出すべき努力すらしなかったことが原因(単に信長の口実に過ぎないかもしれないけどな)と書かれてる。
>>803
> 佐久間は河内や紀伊や大和に転戦していて、石山本願寺に釘付けにされてねーからな。
あっちこっち転戦させられてることは公記にもちゃんと記述がある。
>>802,803や捏造の典型例。 >>687
徳川家康が関与した水野信元殺害に関し、松平記は佐久間信盛が不利な書き方をしている。
この3人は何か確執があるんじゃないだろうか?
>『松平記』が記す信元殺害の原因は、秋山信友が攻略した美濃国岩村城を天正3年(1575年)に
>信長が囲城した際、水野領から食料の調達に応じる者があり、これを聞いた佐久間信盛が信長に
>対して、信元の内通を訴えたというものである(巻6)。 ならば佐久間を酷く言うために信長公記の記述と同じように書くはずだろ。
佐久間を擁護する理由はますます無いじゃないか。 焼き討ちの規模については議論が分かれるがウソじゃないし。
織田チョンは恣意的なデタラメばっか書いて信長マンセーしてばかりでアホすぎ。 ちなみに松永久秀には老若の年齢選ばずに連れてくる者たちへ
砦を築くから、その道具もぜんぶ用意して持って来いとも言っている。
無論、褒美はなく、兵糧も自分たちで用意して一週間も期間がないうちに
小谷まで行かないと殺される以上離反するわな。 >>693
日吉兵乱記という日吉大宮の9/12付け書状には数千の尾張兵だけがやってきて
大勢の人たちからすべてのモノを剥ぎ取って全裸にするという徹底的な略奪をしたうえで
八王子社殿に放火し八王子山は1000の死者で溢れかえる。
しかし六角氏の国人の長原越前守が尾張兵の大殺戮の中で多くの人を救い、大宮賓殿の消失を阻止したと書かれている。
残念だが日吉神社ですらこのひどい惨状なのに比叡山延暦寺が無傷ということはありえない。
信長擁護に必死なやつらの擁護は史料を無視して願望を書いてるだけだわ。 昨夜の細川家古文書スペシャルで、すでに信長公記の怪しい部分が。
これって触れちゃいけないのだろうか。
細川家文書まだ大量に未解明だが。凄すぎた。 あの人のは捏造じゃ無くて曲解と極論だと思われ
知識は有りそうなのに先入観と偏見が強すぎるんだな 原文読んでるけど佐久間の追放の理由とかも意外とあっさりとしか書いてないわな。
つうか買いてないし。まあ家康を意識して書いてあるのは理解出来た。 織田軍の総司令官は信長じゃなくて
佐久間信盛って書かれてあって
実権をもっていたのが信盛だから排除しただけだろ。
そしたら家臣に謀反されて親子ともども暗殺され
信長の葬儀すらやらずに織田家は家臣団で領地分けされて
さすがの興福寺も呆れはてる始末www 天正元年8/12の深夜に落雷が朝倉の陣に落ちて大火災による大騒乱になったのを知った信長が
信忠を虎御前山城に残して自ら焼尾丸より大獄を攻撃。
混乱した朝倉軍は戦わず逃亡し呆気なく大獄が落ちてしまい
小谷城本丸背後が織田軍に占拠されてしまい、
突然の自然現象による戦況悪化に絶望した義景が翌日8/13に即時越前退却を決意。
それを見た信長が追撃し刀根山で追いつき殲滅戦になった。
これを信長公記は完全に隠蔽する始末。
それどころか佐久間信盛を悪者扱いするデッチ上げをしたこと。 実力じゃ朝倉軍に連敗しまくってた織田軍だしなー。
相変わらず信長は運だけはよいよな。 そのかわり運から見放された瞬間に大転落したけどな。 毎回毎回、ことごとく一次史料と信長公記の記述が真反対なのが笑えるwww
どんだけ捏造歪曲してんだよ。牛一は朝鮮人思考すぎる。 信長って領国経営はうまかったのやんね?じゃなきゃ畿内であんなに戦線拡大できないよね 内政無視で休む暇なく軍役を重く課し
混乱と破壊を輸出する一国平均亡国政策のもとに虐殺略奪してまわる軍が織田軍の実態。
松永久秀の最初の謀反も周辺に声をかけて一週間以内に浅井攻めに動員して来いと言うむちゃくちゃな命令で
信長への忠誠を試されたから。
独裁者始皇帝死後秦帝国がすぐ滅亡した理由として挙げられる
世界史初の農民反乱である陳勝呉広の乱も指定日までに指定場所に到着しろと言うめちゃくちゃな命令が原因だった。 902 :人間七七四年:2015/05/20(水) 01:27:39.05 ID:jNd3BEWK
残念。書状どころか信長公記にすら「明智城」と書いてる。
恵那市のは明知城。
可児市のは明智荘があった場所だから明智城。
そんな基礎的なことも知らないとは・・・ 899 :人間七七四年:2015/05/19(火) 23:37:53.82 ID:wfNsbsDS
岐阜城からわずか34キロしか離れておらず
現代人ですら徒歩7時間で到着できる明智城への
後詰の援軍すら勝頼を恐れて援軍送れず
落城寸前のタイミングを見計らって出陣する信長wwwww >>722
そこまで攻め込んでたんなら三河とかじゃなくて、岐阜を攻めるよね、普通は。
木曽路から大兵力を美濃まで送り込めたってことやろ? 901 :人間七七四年:2015/05/20(水) 00:33:09.63 ID:ruVNDcK0
>899
は?直線距離でみても60kmはあるだろ。
可児市の明智城と勘違いしてるのか?
徒歩5km/hも頭おかしい。不動産屋に毎回騙されてるのか?
もうさ、武田と織田を語るのは1000年早い。
キングオブ国道を百往復して出直して来い。
902 :人間七七四年:2015/05/20(水) 01:27:39.05 ID:jNd3BEWK
残念。書状どころか信長公記にすら「明智城」と書いてる。
恵那市のは明知城。
可児市のは明智荘があった場所だから明智城。
そんな基礎的なことも知らないとは・・・ 菅沼先輩ちーす <(゚∇゚*)ヘ≡≡≡ピューッ! 甲陽軍鑑では岩村と土岐の仕置きを信玄がしていたと書かれてるし、三河鳳来寺に武田軍が陣を置いているし、
実際に元亀3年もしくは4年発給とされる神蓖城主の遠山右京亮宛の信玄書状をみる限り、
瑞浪市一体が当時は武田化しているのがわかる。
すでに北濃では郡上遠藤氏が築いた対織田用の鉈尾城、
中濃では関市の津保城と加茂郡の加治田城が武田に内応して美濃は崩壊し始めている。
可児市周辺も勝頼の最盛期に武田化していてもぜんぜんおかしくない。 ていよく両方に胡麻を擦っていたのを既に武田方だと換算する反信長連合www
そんなんだから奥平に寝返られるんだよなw >>729
甲陽軍鑑という信憑性のない史料なんか例に出されても説得力がない >>731
織田厨くん、読まずに盲目的に貶さず、
まずは甲陽軍鑑大成を読んでから出直して下さい。
軍鑑は明らかに間違っている部分を注意しつつ取捨選択することで研究者の利用に耐える史料です。 >>732
>明らかに間違っている部分を注意しつつ取捨選択することで研究者の利用に耐える史料です
これが許されるなら武功夜話も信頼出来る資料だ罠 徳川吉宗の命で大岡越前が、徳川家にとって都合の悪い資料を処分させたらしいが、
当然秀吉だってそうしてるはずで、明智光秀に関する資料をすべて焼いてしまったとか
信長公記の内容も想像すべしだな 島津スレで菅沼が滅多討ち。
1次史料以外信用できないといいながら、
上杉系図が、上杉系図が、と言い出して失笑されてる。
菅沼さん、系図は軍記以上に信用できませんよ? 信長研究の最前線 日本史史料研究会
荒木村重は池田一族と連署状を発給したり、池田姓を与えられるなど池田一族としての待遇を受けており、
摂津半国を実力で支配していたことを踏まえると、
信長公記に書かれた村重は雑用をする下男のような身分だったのを信長が取り立ててくれたとするのは明らかに事実ではない。
基本的には太田が主君の信長を顕彰するため、
都合よく改竄している箇所があることも忘れてはならない。
すなわち、信長を見限った者らを不当に貶めるため、
わざと嘘をつき信長を正当化している箇所もある。
元亀4年の政治情勢は信玄らの信長包囲網により、畿内の人々の多くは義昭方の勝利を確信していた(尋憲記)
このような危機的状況を信長が挽回していく画期となったのが荒木細川の服属であった。 信長公記に何度も使われている慣用句「一僕の身」に、
「雑用をする下男のような身分」なんて意味は無いだろう。
捏造翻訳しちゃダメ!!! お前が日本史史料研究会よりも優れている証拠をまずは提示してくれ。 織田在日の無知さがよくわかる。
まったく本を読んでないから長文を読むのも苦手だし最悪。
まぁハングルなら理解できるんだろーけど。 >>740
いやいや、お前の文章読めるのお前だけだからw 次からは人語で頼むよ。 天王寺の戦いの信長が寡兵で活躍したって部分は誇張の可能性が高いらしいね
頼廉と孫一を打ち取ったとして偽首用意してまで信長軍主導で実際に戦果の誇張をやってるし
本願寺側が織田の付け城を落とせず本城に追い込まれたのは事実らしい 天王寺の戦いを証明する史料皆無。
完全なでっち上げ。 結局、信秀が朝廷から気に入られていたから
天皇が信長のキチガイぶりを知らずに信長の上洛支援をしてくれた。
これが全てなんだよなあ。 おーぷんはほとんど人いないからね
たまに物好きな人が菅沼さんにかまってあげてるくらいで >>1
>>武田軍などは略奪没収をしない軍隊なので、
死ぬほど笑ったわwwwwwwwwwwwwwwwww P35.cgi (Perl,SJIS) 2015/11/18 FOX.
>&ft;1 元のスレ
../sengoku/dat/1328637941.dat
P35 信長公記の捏造マンセーを一つずつ暴いていくスレ
438926 -> 193136 (バイト)
P35 テストに夢中。これ以降書いても消えちゃうかも
>>756
「旗を巻いて移動する部隊」なんて戦場で見たら味方と思うより不審者集団だと思うけどな?
そこまで今川軍てぬるいのか? >>753
落ち着け、菅沼遼太の妄想に騙されるのは
人生の汚点だぞ。 ヤフージャパンブログ社員ダイエットニュース マイナス金利狙い通り「仏」ローーン
https://www.youtube.com/watch?v=E0D3iMf6WsM
ダイエットニュース (アリババダイエット40代偽装結婚プロ級世代(ヤフージャパンタイ資金洗浄)
違法改造大好き在日中国人報道「に本社」辞めろリコール発言反日飛行機会社
ヤフーネットダイエットコーヒーニュースタウンワークサービス不足マイナンバー窃盗犯
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適当ビジネスニュース報道プロ級世代新社屋TRUMPTOWER左遷「仏」40代監視カメラ使用コンプライアンス速報駐車場 (入社拒否
トランプジョーカー切り(創価大学消防庁コストカットアイドルマスターパイナップル)
NHKトランプ大統領ニュース(ヤフージャパン上院社員特別生活費支給旅行沖縄汚染水スキンケアテレビ東京ギャンブル依存症顧問職員)
ヤフージャポンマイノリティ社員「日本とロシア・チリは仲良くさせてはいけないーhondasouichirouー」
中国建築歌富裕層息子カジノ通い連日連夜オールTRUMPパーティー(反日飛行機雲農薬散布マスク女問題)駅内マスクオンNACNN向け原文ママニュース 織田が「おだ」ではなく「おた」と読む説が
スマホのニュースに出てたが、かなりの有力説。
浅井があさいじゃなくてあざいとなったように、変わる可能性高い >>756
読んだけど、なんだよそのリンク先。
猛烈な横殴りの雨が追い風で降りだしたからだろ。
勝因は。 >>763
>浅井があさいじゃなくてあざいとなった
最近またアサイになってるじゃん 契約者だけが受信できる制度にしろや
09/16 07時20壺 放送電波暗号化待ったなし 09/17 05時43壺 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています