【御館の乱】上杉景虎 その2【北条三郎】
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上杉は景勝君に譲るから僕に相模伊豆と北条氏家督頂戴 上杉憲政って討ち取られたの?
かつての上杉家当主なのにねぇ・・・・。戦国時代は厳しいのう。。 景虎は関東一の美青年と言われ、戦は父譲りで旨かったが
政治はヘタクソだったんだな。
Λ Λ
( \д`) かたよった景虎ろは違い、景勝公の政治は直江殿が
( つ\と} 支えたから家臣も影響があったんだな。
╱ ╱ ̄╲\╲
( } { ) 景虎が戦上手なんて逸話ですら聞いたことないぞ
実際の戦績見てもお察し 御館の乱最中の文書を見ても戦闘経験値があんまあるとは思えないな
>>8
仇敵北条の一族に与して殺されるとかよくわからんな 謙信も同盟破綻でいらないbut憐れ&北武蔵領有権で帰せないなら古志長尾(上杉)へ養子やれ
カゲトラアッ────── !!!
カゲカアッ────── !!!ツ 立て直しのためにもう少し北条の支援を受けやすい地に拠点を移して
まずは割拠を目指すとか、そういっった軌道修正はできなかったのか? 景虎はどの辺で妥協を図るべきだったか、またそれはいつ頃がリミットだっただろうか 北条がちゃんと援軍送ってやれや 1000でも2000でも役に立ったろうに だから氏邦が越後に入っていると何度行ったら
煽るなら千や二千でも、ではなく一万でも二万でも、だな 鮫ヶ尾は信濃逃走準備だったんじゃないの
一応仲介者だし実妹はいるし
現実には景勝と盟約済みだったわけだから
状況把握の甘さはここにも出てるな
とはいえ他に選択肢はなかったかもしれん
中越との連絡は早くに絶たれて栃尾との糾合は無理っぽいし
そもそも春日山を攻撃した時点でバッドエンド確定してたぽ
結果論だけど 景勝の手の打ち方が早すぎて北条軍と合流できなかった時点でもう詰んでる
でも弟の命で上野を無傷でゲットした北条にとっちゃ
三郎は無理して救う必要もなかったんだろうな
そこがなんか不憫だ おいしいかったと思いきや武田に全部取られちゃったけどな おいしかったのは西上野だけで
元から持ってたとこまで取られちゃったな
尤もその武田も身内だけが肥え太る上野攻略にかまけてたせいで
信濃国人衆にあっさり愛想尽かされたが 謙信公から景勝に代替わりしたときの凄まじい国力の低下に驚愕 >42
そりゃ景勝が景虎と和睦せずに殺しちゃったからな
景虎に味方していたところがすべて敵のままになったらそうなるわ
景虎生かしておいたらどう考えても雪解けと同時にまた北条軍の侵攻とバトルするはめになる件
神余も北条毛利も景虎死んだら和睦申し出てきてるし生かしておく理由が無さ過ぎるw
自分と家族の命引き替えに越後に北条を呼び込み
上杉弱体させたんだから最後の最期に景虎はいい仕事したな 上杉景信も割と早い時期に討ち取られちゃったんだよな
結果論にもほどがあるけどやはり相模・伊豆の北条の子が越後の人間を
押しのけて越後国の跡継ぎになるのは反発が多かろう
景虎はあっさり景勝にすべてを譲り、相模に帰れなかっただろうか・・・ 景勝を山内上杉当主と認め忠誠を誓うことで後北条家本家を奪い取るのだ
実際は謙信すら無理なことを養子どもができるわけないし、根本的な元凶である上田古志の対立が残ってるからな 幻庵が死ねば小机領の継承権を主張できたな
まあ死ななかったわけだが 勝頼が素直に景勝方攻撃して、景勝に勝っても上田衆はそれこそ全滅するまで戦いそうだし、
阿賀北衆も他方に接近したり独立しようとしたりするだろうなあ
独力で何とかする力は(少なくとも乱直後の)景虎にはないだろうし、そのへんの鎮圧をまた武田さんヨロシクだといい加減ブチ切れそうだ
景虎上杉・武田・北条の東国同盟というのは夢はあるけど実現性はやっぱり低そうだ 武田の落ち度みたいな言われ方を散見するけどさ、北条も北条で武田に対して
内情とか安全保障とか北条にとっての武田の価値とかそういったものに鈍感
だった観は否めないと思うんだよね >>223
景虎に若い頃の謙信みたいな能力があるか、
まともな指揮官がいればよかったんだが、
訓練された景勝に死角がなさすぎるよね。 謙信みたいにガンガン自身で出馬して指揮を取って
鮮やかな手並みで序盤の戦闘をいくつか制して景勝より能力高いとこ見せたら
少年時代の謙信のように兵を集められたかもしれん
相手側の景勝が晴景と違って用兵普通に優秀だしちゃんと戦闘にも出てくるから
謙信晴景の対立より難しいだろうが そもそも伊勢北条の者って時点で長尾上杉の家臣には敬遠の対象じゃないかね?
だから景虎は外に助けを求めた訳で ああ〜〜 謙信公がもうちょっと長生きしてたらなあ〜〜
景虎をどうするつもりだったかはいろんな説があるけど、
けっこう景勝よりは景虎を高く評価してた気がしない? >けっこう景勝よりは景虎を高く評価してた気がしない?
申し訳ない、個人的にはそんなに。
何らかの手駒として使おうとしていた節は見受けられるが。 >>58
うぐっ?! 弟と油断させておいて兄を暗殺する、鉄砲玉にするつもりだったのか?!
えげつねえ えげつなさすぎるぜ謙信公 >>59
景虎を養子にするのと上野の統治権はセットだったので、
同盟破綻したあとも上杉は景虎を北条に送り返すことは出来ずに一門にしておくしか無く、
北条も上野の領有権をおおっぴらに主張できない双方にとって歯がゆい状況になったとか 景勝:姉の実子
景虎:人質を名義上息子としているだけ
仮に景勝が愚鈍だったとして、万に一つも景虎に長尾上杉を任せる可能性はない
家臣にしても景虎押しは自殺行為と言っても良い あくまでも景勝が健在ならありえんだけで、
仮に景勝が病死とかなら普通に後継者一番手だろ、他に適当なのいないし。 上条にお鉢が回ってくるんじゃね?
上条上杉なら越後守護輩出する家柄だし一門衆でも景勝に次ぐ位置だろ >>46-47
景信って高齢で亡くなってるけど実子がひとりもいなかったの?
この人自身も自己主張が少なくて淡白な人って印象があるけど >>64
御館の乱で戦ったのは景信じゃなくて信虎。 >>60
ならそれこそ村上のように上杉分家のどっかに出してしまえば判りやすかったが
景勝が通字の位置を引き下げられてるのが更にわけのわからなさに拍車をかけてる
陣代説はおもしろいけどイマイチ根拠は弱いな
定勝の定は八条系からかね >>63
あれも中身畠山だから仮に謙信も信長も死ななかったら畠山に戻させて
旧臣二分して争ってたんじゃないかね 景虎の長尾上杉継承は無理筋だったが、景虎の処遇自体が火種になって
妥協点を見いだせないまま引き返せないところまで行き着いてしまった
そして残されたのは上杉・武田と北条が相食むという織田にとって笑いが
止まらない状況 >>66
直江景綱の偏諱を考えると謙信は景を最も重視してたっぽいんだけど
なんで景勝には頭に景を与えたんかね…
上田長尾の景じゃなくて謙信が与えた景の字なんだぜアピール?
顕景の名は明らかに上田長尾家の名前の法則だから外したかったにしろ
景虎と同列な印象を与える名になってるんだよな
信虎は虎の字を貰ったのか 府内長尾も*景だから
守護代として偏諱受ける立場
謙信の下で元服したわけだからその時点では守護代家後継という意識があったはずなと思うんだけど
上田には義景ってのもいたそうだし 今までは偏諱受ける立場だったから*景だけど
今は景のほうがえらいんだよ!つって景虎、景勝なんじゃね 謙信も景勝も景*をそこそこバラ撒いたからそれはないと思う てか長尾上杉に偏諱を与える立場の人間がすでにいないわけだから(将軍家や上杉家)
通字が頭にくるのが当然だわな 為景は偏諱くれる人ヌッ頃しちまったんで
自分はついに貰わず仕舞い
嫡男のためにはわざわざ将軍からもらってきたと
頼めば正親町天皇も方の字くれたんじゃないかな
カネさえ払えばw 三郎景虎は兵数では勝ってたはずなのに戦うたびに負けて
追い詰められていってるのがとっても残念だな
有能…だったのか? 所領と旗本が無いという限界あったからじゃないかね
支持してくれる国人に兵を動かしてもらうか、もしくは他国大名に敵方を切り取ってもらうしか力が無い
他国の切り取り次第てのは長期的には利敵行為だから尚更調整力を必要とするし
そして一番問題として大きかったのが兵糧が無い>< 所領がなければ分けてもらうしかないからな
戦況がやばくなった冬には兵糧支援も打ち切られ気味という悲しさ 一番やる気があったろう景信があっけなく討たれたからな 討たれた十郎は信虎で
政景の婿の弥五郎は義春な
あと政景嫡男と言われた義景は政景の実子じゃない気がする
右京亮は上田嫡男の名乗りじゃなくて傍系っぽいから そいから謙信と戦闘員じゃねえや仙洞院が異母姉弟てのはもう定説となったんだっけ?
年齢差もさることながら政景夫妻は晴景系として動いてたことだし >>85
一次史料に名前が確認できないけど、
『上杉家御年譜』や古系図では、
十郎信虎となっている。
対して御館で活躍した十郎を景信とする史料は乏しく、
なんで花ヶ前が景信に比定したの不明。 >>87
御家中諸士略系譜には載ってなかったけど、景勝公御年譜にあるの? >討たれた十郎は信虎で
前にもこんなレスあったけど、で結局この時に景信はどうなってんのよ
生きてるのか死んでるのか そんなことは知らないが、
御館の乱で戦った十郎は
景信でないだろう。 景信の信に帰ってきた虎で信虎
既に上杉の名籍なわけだしさほど違和感無いな
そもそも景信家は古志でも傍系じゃね
正嫡は豊前守名乗るから 古志長尾は長親が貰っちゃったから信虎は上杉十郎信虎だろ >>94
>景信の信に帰ってきた虎で信虎
>既に上杉の名籍
「虎」は輝虎の諱であるのに、景信の(下の)諱である「信」の下に付けるのは当時の偏諱ルールとしてありえないでしょ。
越後上杉の名跡なら「房」「顕」「定」「朝」を使うでしょ。 青岩院→虎千代=平三景虎→三郎景虎→十郎信虎
これなら舎弟扱いとして同格偏諱は有りうると思う
どっちにせよ信虎は前名がありそうだ
とりあえず政重→重光の逆偏諱よりは理解しやすい >>96
虎房丸は御館の乱では佐野清左衛門尉として登場
ちなみに景勝方だそうです (by 栗原修) 信虎って名前なら可能性的には信濃から越後に来て
上杉景信の養子に入ったとかでもありそうかね
信虎は寅年生まれなら普通にありえる名前じゃない?
謙信は虎の字だけ偏諱として誰にも与えてないでしょ。
制限のある字じゃないんだと思います。
>100
虎房丸は佐野清左衛門だったのですね。
ありがとう。 >>102
「実名敬避俗」という概念を調べることをお勧めします。
主の諱が「輝虎」である以上、家臣は「虎」の文字を諱に使うことは避けます。
主から偏諱として授与されたときは上に置きます(鎌倉時代はその限りではないけど)。
織田信長存命中の羽柴秀長は「長秀」と名乗っていました。
前田利長も織田信長存命中は「利勝」と名乗っていました。
小笠原貞虎(貞慶)は偏諱の授与者である上杉輝虎(長尾景虎)・三好長慶と
同格以上の立場にあるので、授与者の下の諱を下に置いています(北条為昌も同様)。
親子兄弟の場合はそのような縛りはありません(通字)。
たとえ「虎」が「普通」の文字であったとしても、
上杉輝虎の養子ではない上杉十郎が「虎」を下に置くことはありえません。
上杉輝虎が「虎」を偏諱としていないのは、
長尾氏・上杉氏の当主として「景」又は「顕」を偏諱としていたからです。 ありえませんと言われても、
『覚上公御年譜』や「本荘系図」には
信虎の実名が書かれてあります。
古志長尾の庶子が上杉を称しているのだから、
そこにありえませんとは断定できない関係が
隠されている可能性も全くないのでしょうか? 『覚上公御年譜』や「本荘系図」を否定するような書き方をしたことはお詫びします。
しかし「本荘系図」は上杉三郎景虎を「北条氏秀」としているような史料なので信憑性に疑問を持っています。
永禄六年生まれの本荘顕長の母が上杉十郎信虎の妹ということより、信虎は景信の子かと思われますが、
そうすると、上杉家軍役帳や上杉家家中名字尽の時代、成人していた信虎がいるのにも関わらず、
父の景信が「十郎」という輩行で記載されることはないので(同時期に「十郎」が二人となってしまう)、
景信は既に現役ではなかった、ということになると思いますが、そうすると一次史料との兼ね合いはどうでしょうか? 景信が現役な頃は信虎は十郎ではなかったで解決じゃね もう誰が誰だかわからんくなってきた ややこしいぜ・・・ ttp://www3.nhk.or.jp/news/html/20120115/t10015280581000.html
景虎も投げられたんだろうか
んで数年後今度は景勝と一緒になって義春ブン投げるの 上田長尾家には政景考案の婿の胴上げがあるだろう
あっちはちゃんと受けとめてくれるが
婿養子は投げるもの |
\ __ /
_ (m) _ピコーン
|ミ|
/ `´ \
('A`) そうだ!景虎にどっかの長尾家を継がせておくといいんじゃね?
ノヽノヽ
くく
それよりは関東管領-越後守護で役割を分けちゃったほうがいいと思うが
北条だって古河公方をお飾りにして生かさず殺さずしてるし 十郎景信と言われているが、上の話では十郎信虎が継いだということでは? むしろ景虎の存在がない方が上杉と北条、それに武田を加えた三家で
妥協点が見いだせる可能性もあったような気がしないでもない
武田が滅亡して、上杉が滅亡の縁にあって、恭順した北条だってじり貧に
持ち込まれようとしてたわけで、三家共倒れにすらなりかけてた 無茶な動員でジリ貧勝頼は結局大国上野に触手を伸ばすしか選択肢なかったろう 氏政はどうして見捨てたんだ?
兄弟なのに冷たすぎるわ
もし応援に駆け付けてたなら越後も北条のものとなり
秀吉に十分対抗できたと考えられる >>121
同盟者である武田勝頼を動かして、
氏邦が上野の景虎派を率いて越後に侵入してるんだけどね
これだけで三万以上の援軍だぜ
まあ関東に比べて優先順位が低くなってるのは反論の余地はないけど 氏邦の援軍も秋にやっと来たと思ったら11月には「雪が降ってきたから無理ぽ」と帰っちゃうじゃないですかー
雪が降り出したら手出しできなくなるの分かってる話なんですから早く動いてくださいよー
おかげで景勝に各個対処されてるじゃないですかー 間が悪いんだよ
よりによって佐竹勢と対陣してる真っ最中に援軍要請なんか来てもすぐに対処できねーっての
あと冬期にゃ雪で三国峠が通行不可になるんだから、
補給線を確保するためにも孤立を避けるためにも撤退せざるをえない
武田を取り込んで各個撃破した景勝の手腕を褒めるべきだろうな 勝頼も上野進攻にかまけてて高天神見捨てて滅亡シナリオ突入したわけで
因果は巡る風車 小山評定後にアッサリ帰った真田
万石も無ければ、将軍にも媚びない喜連川氏
1万500石でも苗木城持ち遠山氏(金さんの親類)
家光側室の町人だった増山氏 米が取れない松前氏など
【陪臣・喜連川ほか】 「小大名」スレ 2 建てました
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1329412330/l10 弟といっても腹違いじゃたいして情も湧かないだろ。
現代人の弟に対する感覚とは大きく異なる。
場合によっては家督争いの原因になりうる邪魔な存在だからな。
まあ最近の世も遺産相続のトラブルで弟は邪魔な存在になりつつあるがな。 とは言っても、他家に養子として出してるからな
他家の当主になるってことは、本家の相続権はほとんど無くなるってこと
余程のことがない限りはね
そういう意味で、景虎(ついでに言えば氏照・氏邦も)は家督争いの対抗馬たりえない
史実のように氏政・氏直に万が一のことがあれば北条家に残っていた氏規流が保険として繰り上がるから
他家で言えば徳川家のように、秀忠が秀康を差し置いて徳川の家督を継いだのも、
秀康が結城家を継いでいたのも一因だしな >>125
間が悪い?佐竹と対人してるから対処に遅れた?それは言い訳だわ
身内を見捨てるだけでもオカシイのに、援軍として武田を動かせばOKってのが痛過ぎるw
もし景虎が勝てば越後を統一し相模・越後が実質北条方のものになるのにな
氏康だったら隙を見逃さずにすぐに援軍を出しただろうに・・・
氏政には先を見る力が無さすぎる 言い訳じゃないだろ
実際鬼怒川での対陣は北条にとって重要な局面で佐竹結城壬生那須宇都宮大田原など結集して
北条の前進を阻んでいるしこれを放置したらまた関宿方面攻撃されて酒井あたりが離反して厄介になるだけ
援軍もちゃんと送ってんのに 氏政からの援軍はちゃんと越後に入っている。
しかし景勝の出生地である上田の抵抗が激しく、
おまけに雪まで降ってきて撤退せざるを得なくなった。
日本海圏育ちの謙信ですら越えられなかった雪の壁を誰が超えられるの?
撤退前には土地勘のある越後出身の北条景広を御館に送り込んでおり、
最後まで景虎支援を続けている。
北条軍は最善を尽くしたが、それでも景虎を救いきれなかった。
間が悪いとはそういうことだろ。 >>131
北関東諸将連合とのまさに対陣中って短期的な間の悪さはもちろん、
謙信が越山して以降劣勢だった北関東情勢が二十年近くかけて
ようやく北条優位に傾いてきた重要な時期という長期的な間の悪さも測ったかのようなんだぜ
そんないっぱいいっぱいの中、同盟相手の勝頼を動かして、
上野の上杉諸将を景虎陣営に一纏めにして指揮権を確立して、
氏邦に越後入りさせてるのは、随分頑張ってると思うけどね
やっぱり勝頼がな・・・
撤退は已む無しとしてもせめてあんな阿呆な仲介さえしなければ・・・ >>136
しかし新潟県史によると、勝頼が仲介して和議が成立した時期はすでに景勝側が巻き返して景虎側が劣勢になりつつあったとあるぞ
景虎にとっても和議は望むところだったとか
北条方は和議なんか関係なく越後への進軍を進めてたし、勝頼撤退後、北条の進軍を見て景虎優位と見て寝返った景勝方の武将もいる 戦力的に和議の斡旋しかできることのなかった勝頼を責めてもしょうがないね。
雪の降る前に越後に入れなかった北条の力不足が全て。 つうか金貰って兵撤退させて北条には何の申し入れなしって北条への関係を緊張させたいといってるようなもんだろ
北条は上野諸侯を調略して越後に派遣し伊達や葦名も味方につけ援軍要請し氏邦も送るなどかなり本格的に支援してるのに
流れを変えたのが勝頼が買収された事
つうか坂戸攻めてるから普通に越後行ってるんでないの?
北条アンチは基本的に反北条勢の状況を理解していない基地外
その時期南奥州連合や反北条連合の形成により関東情勢は大きくかわりつつあったんだから
放置したら逆戻りになる可能性だってある それには買収されたのが事実かどうか証明しないとね
出兵も長期に渡り駿河は徳川に攻められてるのを放置しての軍事行動だから
今のところ撤兵時期としては妥当かよく粘ったとしか言えないね >出兵も長期に渡り駿河は徳川に攻められてるのを放置しての軍事行動だから
上野攻略の話かと思ったw
そういや高天神城は駿河じゃなく遠江でしたね まあだから、勝頼の撤退自体はしょうがない
問題なのはその和議がすぐさま破綻するようなものだったってこと
加えて和議を斡旋した勝頼の顔に泥を塗る行為であるにもかかわらず勝頼は何もしていない
そら変に勘ぐられても仕方ないだろ
景勝はしたたかだった
氏政はあの状況下で出来ることをした
それだけの話 武田氏の最新の研究論考とか読んでんのかお前ら
未だに買収なんて言ってんのかよ
盲目的な景虎ファンは勝頼のせいにしたがるけどよ
最新の研究論考って設楽が原は鉄砲が勝敗を決したわけじゃなく
単なる統率ミスから陣形崩したことによる自滅だったとかいう話か? 御館の乱の話からなんで設楽が原の話にとぶんだろうかね????
そりゃ勝頼転落ストーリーの始まりからクライマックスだからだろ
尤も始まりは織田の同盟申し入れを愚かしく真に受けて戦端伸ばしきった時に始まってたのかもしらんが 景虎が勝つというシナリオがどうも現実味に乏しく感じる
地力で遅れを取っているし、継戦能力も日を追うごとに外圧頼みが顕著に見える 序盤に上條城を落としたという話がどうも疑わしい
春日山攻略に戦力集中させていた景虎方にそんな余力があったとは考え難い
上条だから義春の持ち城だという先入観がありすぎるように思える 実際、景勝側が大金を武田に譲渡した話は一次史料にはないとか。 だから大炊介と釣閑斎が着服したって言われちゃうんだよ >>156
景勝の取次だった新発田らが、武田へ和睦の締結ににいくらかの金品を送ってるけど、当時の慣習として当然のものとされてるね
その後、武田側が上杉に金を要求してる書状があるけど、これは菊姫の結納金とするのが有力な説になってる
確か若手の気鋭の武田氏研究者の指摘だったよね
現在ではこれが定説になってるんじゃない 鮫ヶ尾城主・堀江宗親の謀反に遭って、自害を余儀なくされた。享年26とされる。 >>158
大金に目が眩んだとかいうアレは北条の流言だと思う
本当糞だよ北条は 自分らの不手際から愛想つかされた責任を相手に転嫁するんだから 悪いことは全部北条のせいにするのは気楽でいいですね そうやって現実逃避するのは北条らしくて無責任ですね 大金に目が眩んだのは北条の流言
↓
それのソースは軍鑑
↓
都合のいい事は(
無責任なのはどっちだよ 本当北条は無責任だよな
自分たちのいいわけを他人に代弁させようとするんだから
何もかも人任せ 御館で見捨てられたのも納得だわw 北条の言い分垂れ流しちゃうくらい
諏訪勝頼は武田家中みんなに忌み嫌われてた
まで読んだ 御館の乱で北条が大軍を送れば上杉は詰んでいたんじゃないのか いや送ってるし
氏邦+上野諸将
いっつもこういう話題になると送ってないと妄想するアホが沸くが >>177
戦力になってない件について
確かに雪が積もるとジリ貧だから北条勢が撤退したのは間違った判断ではないけど 北条軍は坂戸方面を激しく攻撃してたじゃん
厩橋北条や他上野諸侯を先に派遣し氏邦本軍も越後方面へ進撃
これだけでも相当な数じゃないの? 上杉は二分
勝頼は信濃で静観
この状態で北条軍が加わって勝てなかったのが不思議 送ってはいたが時期が遅すぎ。雪が降るの知らない訳ではあるまいし。 強引に三国峠を越え(雪で帰れない)、越後で「乱捕り」を許すことで越後国内で戦う手もあったと思う >>183
一応上野の景虎派諸将、例えば北条(きたじょう)なんかは越後で越冬してるよ
冬期で坂戸とかあの辺りで万余の兵糧は確保は乱捕りしたって難しいかと
>>182
だから何度も何度も繰り返し書いているけど、
絹川で佐竹ら北関東諸将と対陣の真っ最中だったんだよ
それに蹴りをつけつつ、上野の上杉諸将を懐柔して、その間隙を埋めるのに武田に出征をお願いをしてるるんだから、
やることはやってる 北条の失策というよりは景勝に上手く立ち回られたとしか言い様がない 歴史のif
北条氏康の七男・上杉景虎が北条の援助で御館の乱で勝利していたら、
北条家に頭が上がらない上杉家になっていたのだろうか??? 北条はもともと戦下手
駿河攻めでは相手よりも多くの兵を投入するもさんざん翻弄され本拠地まで攻撃食らう
御館では武田を頼みに上杉に挑むもまるで歯が立たずあまりの不甲斐なさに見捨てられる
天正壬午の乱 少数の徳川にボコボコにやられ美味しい所全部とられる
本当糞弱い よく小田原征伐まで生きてられたねってレベル
それまで武田上杉が防壁となってくれてた恩を忘れた罰 無道ものの末路だ 坂戸山を落とせない北条軍が越後に入っても邪魔なだけ。
御館で北条と景虎で主導権争いが起きて内部分裂だろ。 伊達も芦名も普通に撃退されてるし北条が弱いというより上杉が強いだけだろ >>188
百戦して百勝する必要はない
ここぞという所では勝つし、勝てないまでも完敗したことは無いしね
ええ、負け惜しみです 完敗する前に撤兵するてのが北条の軍法だからな(嘘
新たに旗下に加わった者のためのサポートの軍事示威行動はきっちりやる
御家騒動にはきっちり付け込む
これで漸う領土増やしてきたわけで
身内の都合は後回しになって氏邦がぶーぶー言うのは致し方無い 関東から出るとチワワになるのは北条の特徴だな
武田の西征に援軍に行って大勝している武田軍を尻目に二俣城で壊滅している
北条派遣軍とかは涙無しには語れない。
早期に全力出動していればまったく違う展開になっただろうに、関東優先主義にも程がある 武田上杉が北条の防壁って…
毎年のように侵攻されて同時に関東諸大名とも攻防しなくちゃならんのに
防壁も糞もない
ただの害でしかない 徳川も一人で秀吉と戦ってたというのに北条ときたら何をしていたのやら
関東で芋掘りでもしてたんですか >>197
小牧長久手の時の秀吉の勢力が、北条攻めの時と同じとは知らなかったなあ
あと信雄や、後方を撹乱してた佐々成政や長宗我部元親、紀州の地侍なんかも数に入れてあげてください
彼らが秀吉軍団を一部を引き受けていた功績は間違いないんだから
あと北条はその時、小田原の役で北条を後背から脅かした北関東諸将と沼尻で対陣中です
彼らの動きは秀吉との連動が指摘されてます、実際この時期は既に外交ラインはあったしね
また北条もさっさと片付けて家康に援兵を送ろうとしています
で、何の話でしたっけ? 包囲網敷いてもって長宗我部は四国平定に手間取ってて
毛利も四国上陸してたから秀吉の後ろ付くどころじゃなかったし
佐々も前田と丹羽が抑えてたし蜂起するのは夏になってからだし
雑賀なんて大した軍勢もってないし毛利も上杉も木曽も宇喜多も大友も佐竹も味方
北条も家康の後ろを付くという風聞が垂れ流されてたし
おまけに石川もこの頃から秀吉と気脈を通じてたし
85年になると真田も小笠原も石川も水野も秀吉に寝返って譜代の離反によって軍事的機密が露見し圧倒的優位 秀吉に同行していた渡辺清忠や桂横重が小牧山に陣替したときの人数を10万といっており
当代記、三河物語もこれと同じ数字
その他に伊勢方面を攻めている諸勢2万4000と美濃に残されている秀勝勢数千が存在するため
総勢で13万を超えると思われる
また尊禄以来年代記では秀吉は3月に大阪をたった時125000、八月には16万で尾張へ出兵した
また長久手合戦参加者の家記や家譜、合戦記などでも同じ数字が用いられている
そして陣立書や書状から>>7>>16>>24のように秀吉側は主要メンバーほとんど引きつれて短期決戦構想で
合戦に及んでいる事がわかる
単に圧倒的兵力差があったから勝てただけ。島津も先鋒勢蹴散らせたし
北条も支城に配した兵が少なかったからあっさり陥落したが本城は余力ありまくりの状態での降伏だった。
逆に秀吉側が兵站維持できるギリギリの所まで追い込まれてたくらいだった。
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。
以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)
小田原合戦時の陣立書で全国から215000も動因してる上にこれに佐竹結城里見宇都宮など反北条軍2万
が加わるから235000。
それに対し北条は毛利家文書の北条家人数覚書でわずか34500。
秀吉書状で2、3万。
兵力比7.5〜11倍もあるんだから勝って当たり前
そんな戦闘で一柳や堀尾嫡男・前田重臣が戦死し、韮山500や忍城1000に大苦戦し
小田原1200程度に手も足も出なかったのが秀吉。
はっきりいって勝てたのは家康や上杉・真田・依田、佐竹・宇都宮などが味方だったおかげ。 ・播磨で別所や播磨国衆の裏切りで窮地に陥り信長の助けを求める→定説
・三木城攻略に2年も費やし、当時竹中重治と双璧といわれた谷を戦死させる→兵庫県史通史編
・ 熊見川で宇喜多、大友、南条、河野等にボロクソに負ける雑魚毛利にボロクソに負ける→毛利家日記、荻藩閥閲禄、相曾寺書状
・ 美作で宇喜多軍と協力しての軍事行動で穂井田元清に駆逐される→毛利から書状がなかったっけ
・防己尾城攻防で吉岡定勝に馬印を奪われる→これは知らん
・毛利を一人で攻め切れず援軍を信長に必死で懇願する→定説
・倍以上の兵力を持ってして丹波平定に苦戦しまくる光秀と戦い、 光秀軍よりも多い損害を被る
(しかも光秀は山崎を守るための不利な布陣を強いられていた。ランチェスターの
法則でいえば倍の兵力なら相手の25%か50%の損害でなければおかしい )→日本戦史山崎役・小早川家記
・撤退中の柴田勝政や佐久間盛政を大軍で後ろから襲って反撃され、逆に撃退される
・大きな兵力差がありながら前田が兵をひくまで少数の柴田軍と野戦で均衡状態
前田が兵を引いてなんとか助けられる→定説
・伊勢方面で寡兵の滝川一益に大苦戦。兵糧攻めも通用せず散々苦しめられる→3/3柴田→填島げんばあて書状
・わずか16000〜17000ほどの信雄・家康に領国中の兵100000程かき集めて柵もめぐらされていない
無防備な陣の小牧山も全く攻められず短期決戦挑んでボロ負けし家康軍の5倍の被害を出し
池田親子・森長可・木下兄弟を討ち取られる→常識
・20000の大軍で本多忠勝500に行軍を妨害される→小牧陣始末記
・ごくわずかな兵しかいない木造具政・具康父子の戸木城を大軍で攻撃して撃退される→一次資料
・ごくわずかな兵しかいない松の木城や松ヶ島城に2〜3万で攻めて散々手こずる→一次資料
・圧倒的兵力差がありながらわずかな兵しかいない竹ヶ鼻城、紀伊太田城、忍城を
正攻法で瞬殺できず水攻めという時間や金を異常に無駄に使いしかも
雨が降らなかったら失敗していたであろう不確実な愚策を使ってやっと落とす
・せっかく滝川一益が佐久間正勝の留守をつき前田与十郎を寝返らせて蟹江その他数城を奪い、
家康と信雄の領土を分断するという大チャンスをつくったのにもかかわらず、
なぜか木曽川筋でダラダラ陣を張り織田徳川方に滝川を駆逐されてしまう
・紀州口でも大苦戦。散々な死者を出す
・圧倒的兵力差がありながら九州征伐で仙石・長曾我部勢を先行させるという愚策を講じ見事大敗する
・圧倒的国力差がありながら家康を臣従させるため母と妹を人質に出すという失態をおかす
・全国から24万動員してわずか3万4千の北条を瞬殺できず
緒戦の伊豆駿河国境の戦いでボロ負けする
・全国から24万動員してわずか3万4千の北条に対し まともに倒せず
手薄な支城を攻めるのが手一杯で兵站を維持できるぎりぎりの所まで
追い込まれる(降伏時も北条はかなり余力残した状態)
・わずか500しか兵がいない伊豆韮山城を3万で攻めて3か月近く手間取り、重臣一柳直末を戦死させる
・わずか300程度の伊豆山中城攻防戦で重臣始め大多数の被害を出し大苦戦する
・わずか1000ほどしか兵がいない忍城を3万で攻めて落とせない
・わずか1000程度の小田原城に手も足も出ない
・秀次、その侍女一族や千利休を殺し人望を失う
・占領できもしないのに二度にわたる朝鮮出兵という愚行をなし案の定ボロ負けし、
国内を大いに疲弊させる
徳川方は春から特政・信雄領国は伊勢のみならず尾張でも会戦当初から寝返り続出と不利な条件だった
夏の対陣のときでも徳川方は兵の半分を返していて(家忠日記)
総勢小牧山総力一万足らずだったとある(当代記) 晋叟寺文書
天正6年8/21
今度播州上月之城従芸州被催候処、
自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為
虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、
秀綱(花押)
晋叟寺 衣鉢閣下
手元にコピーがないが毛利家日記や荻藩閥閲禄にもちゃんとある
秀吉厨涙目の驚愕の事実w >>205
美作戦線でも宇喜多単体で戦ってた時期は国力差4倍の毛利と互角かそれ以上の戦いをしてたのに
秀吉が加わりだす時期から負けが込んでくるね
祝山攻防など。いかに秀吉がゴミクズレベルの雑魚だったかわかる 武田上杉徳川「北条は糞弱くて本当につかえねーな!」
北条「・・・」 秀吉が天下(形だけ)取れたのは光秀や信長が馬鹿だったおかげ。
信長が愚行を繰り返し謀反だらけで寡兵の光秀に瞬殺され、光秀もまんまと反逆者の汚名被ったから味方多く集まっただけ。
邪魔したってか景勝及び越後勢は
雪が降り出したら北条や武田は
帰らざるを得ないこと織り込み済みで戦ってるんだから
雪を計算に入れてないんだとしたら馬鹿だぞ… 『関八州古戦録』によれば、景虎は甲相同盟の一環として武田家に人質とされていたと
いう。一方で、『関八州古戦録』以外の確実な文書・記録資料においては景虎が人質と
して武田家にいたことが確認されず、近年では否定的見解が強い。また正確な生年も不明である。 正確な生年は今福匡『上杉景虎』にも一次史料で出ていたが? さすが牙一族こと北条族長
子供なんて人質要員でしかなく代わりはいくらでもいる 春日山城にて謙信の姪との祝言が行われ、正式に謙信の養子となり、彼の初名でもあった「景虎」の名を与えられる。 でも、結局武田がカゲトラを助けて、上杉武田北条の同盟作るしか、織田に対抗する術はなかったんだよな。
北条が1番お得なのは間違いないが。 景虎を助けても、それだけでは織田に対抗できない
景虎は越後に地盤をもたない傀儡にすぎず、景虎派の諸将は反上田衆という点で一致してるだけの烏合の衆
上田衆を排除すれば、その後は主導権争いで新発田の乱以上の大乱になり、織田が付けいる隙を増やすだけだろう
それを避けるためには、越後に大軍を長期間貼り付けて景虎の統治をサポートする必要があるが
関東で手一杯の北条にそんな気概も実力もないのは史実を見れば明らか おう新書本で景虎が盟主になれば伊達も蘆名も北条も武田とも同盟して織田に対抗できるとか
盛り上がっちゃった伊東潤先生をいじめるのはやめてさしあげろ 分が悪くなると速攻越後諸将に見捨てられた三郎によくそんな夢が見られるもんだな… 一時史料とかは詳しくないけど、景虎が後継者だとしたら、
戦国時代の只中に殆ど戦闘経験を積ませないままにさせることなんてあるのかな
両後継者説ともに色々答えの出ない話ではあるがまずここが納得できない 歴史は結果が全てであり、景勝が秀でていたから景虎は負けた
その結果を読めず動いた景虎は、それまでの男だったということ
意地を通し散るは美しい面もあるが、歴史的に褒めれる事ではない
恥を忍び生き残り野心を失しても、万人の為なる行いをすれば褒めれる也 武田勝頼は、御館の評価が分かれるからな〜。
景虎のために戦って、勝たせても景虎には越後を治める力はないから、
越後への出兵の連続で武田は疲弊する。どのみち、以後の出兵要請を断った時点で、
北条とは縁切りになる。確かに景勝から金は受け取ったが、
景勝側が提案したのは、あくまで、中立だ。武田が、それを飲んだのは、
北条勢が、越後への到着が遅れた理由もあるがそれ以前に、北条の兵力がたった2千だったこと。
ということは、越後では武田に戦わせようという意図がミエミエだったからだ。
最近は、勝頼の選択は正しいと考える意見も増えている。
お互いに余裕がないのはわかってたから、
乱後も、この甲越同盟は中立条約みたいなものだけどな。 ところで、越乃景虎は、上杉謙信の幼名?それとも、景虎のこと? だがチョン自演失敗ざまぁwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww 御館の乱の景虎敗因は、どう見ても北条軍が景虎見捨てて撤退したせいなのに
勝頼ガーばかりで最初から北条がこうしてたらと言う奴いない不思議 だから何度も何度も繰り返し書いているけど、
絹川で佐竹ら北関東諸将と対陣の真っ最中だったんだよ
それに蹴りをつけつつ、上野の上杉諸将を懐柔して、その間隙を埋めるのに武田に出征をお願いをしてるるんだから、
やることはやってる
一応上野の景虎派諸将、例えば北条(きたじょう)なんかは越後で越冬してるよ
冬期で坂戸とかあの辺りで万余の兵糧は確保は乱捕りしたって難しいかと 北条軍は坂戸方面を激しく攻撃してたじゃん
厩橋北条や他上野諸侯を先に派遣し氏邦本軍も越後方面へ進撃
これだけでも相当な数じゃないの?
沼田城や樺沢城は景虎方諸侯にあっさり落とされてて
氏邦勢も坂戸方面を激しく攻撃してる >>237-238
鬼怒川云々は北条の都合で勝頼には関係ないし
第三者の勝頼が徳川の進攻を放置して越後に出兵してるのに
当事者の北条がそのザマじゃ言い訳にならない
元々越後国人である喜多条高広を置き去りにして、北条本隊は撤退
おかげで高広の息子は寡兵での戦いを余儀なくされ戦死
高広も越後の所領を奪われ上野に敗走
不甲斐ない後北条を見限った高広は乱後に離反、武田に奔った事が武田北条の確執へ
どう見ても北条のヘボなのに勝頼が悪いみたいに語る北条厨は嫌らしい 景虎を勝たせるのは勝頼じゃなくて北条の責任だもんな 御館の乱で景虎に勝たせたい
そういう妄想話を繰り広げたいのは北条厨だけ
そして北条厨は北条の非を絶対に認めないから勝頼が悪いて話になる >>239
勝頼にとって隣国の情勢は死活問題で
北条との同盟継続や上杉との関係がどうなるかといった直接的問題なので
第三者でしかないというのは誤り。
北条は当時越後から遠く離れた鬼怒川で結城や宇都宮や佐竹や那須などの大軍と対陣中なのでそうそう簡単に援軍出せるわけがない。
しかし氏政はそんな状況でも氏邦や北条が調略した上野衆を越後に派遣し
沼田城や樺沢城をあっさり陥落させ
氏邦勢も坂戸方面を激しく攻撃してる
さらに氏政は伊達や蘆名にも景虎支援を要請し
伊達や蘆名もこれに答えて景虎方で参戦するなど、北条は景虎支援はきっちりやってる。 >>239
北条本体は越後から目とハナの先にある沼田に撤退しただけだし
それも越後での越冬の危険性を考えただけ。
上野の景虎派諸将、例えば北条(きたじょう)や河田なんかは越後で越冬してるよ
冬期で坂戸とかあの辺りで万余の兵糧は確保は乱捕りしたって難しいかと
北条は小田原からの遠征となると相当の遠路だから兵站の問題もある。
雪に閉ざされた地域に、自国の領内の兵総動員して長期間送り続けるのは非常に難しい。
ただでさえ関宿陥落・小山入城・房総平定で危機感を抱いて結束しだした佐竹結城宇都宮那須連合が絹川で立ちふさがってるから。
それでも北条は、上野国衆を調略し、派遣した上で坂戸方面を激しく攻撃してる
厩橋北条や他上野諸侯を先に派遣し氏邦本軍も越後方面へ進撃
これだけでも相当な数でしょ。
その上武田・伊達・葦名にも景虎支援の要請を行い、武田・伊達・葦名とも応えている。 >>242
佐竹や那須などの大軍というソースは?
軍記ではどちらも数千単位しか出陣してなかったはずだが 雪の中で長期間小田原から遠路越えた先で大軍貼り付けるとか相当困難だろ。
それに北条国力約150万石に対し
反北条連合国力約100万石だから
北条が史実送った上野国衆+氏邦以上の兵を送ったら
反北条が勢いに乗って上野方面に攻めてきて、退路を断たれる危険すら生じる。
沼尻の戦いに奥州から援軍が来たように、この時期でも南奥州の洞から動員かければ
佐竹の軍勢はさらに増えるだろうし
史実にやった支援で手一杯なのが北条。 >>244
佐竹の勢力はこの時点で常陸ほぼ前後+奥州白川+下野の一部
これに反北条連合の那須結城宇都宮らが加わり
この時点だと下野は北条が進出した小山・榎本以外ほぼ全土反北条方。
だから下野ほぼ全土下総の一部常陸のほぼ全土と奥州の一部で
100万石オーバーする。 >>245
反北条連合国力約100万石のソースは? 936 :人間七七四年:2014/06/16(月) 08:50:20.80 ID:QFK4LwTE
反北条勢力の石高の根拠をあげてくれ。
そもそも佐竹義重は南陸奥戦線で不利に立たされ、
天正7年についに白河義親に義広と娘を
人質に出して和睦するほど困難に面してたわけだがw
白河を佐竹が乗っ取るための養子に豹変変貌するのは、
白河の後ろ盾だった蘆名が弱体化するのは、盛氏が死去したもっとあとになってからだ。 >>247
そんなもん黒田や市村の本でも読んでたら
この時点の反北条連合の勢力圏くらいキッチリ書いてる。
常陸のほぼ全土、下総の一部(結城)下野ほぼ全土
奥州の一部(白川領など)で
軽く100万石突破する。
後に沼尻の合戦では会津鉄砲隊が援軍として来た様に
このときも奥州から援軍がきた可能性も往々にして考えられるし
そうなれば実質北条は150万石かそれ以上の敵を相手にする事になる。 佐竹・結城・宇都宮・那須連合は
下総の一部・常陸のほぼ全土・下野のほぼ全土・奥州の一部と計100万石前後はあるし
沼尻合戦の時だと南奥州の連合からも援軍が来たようだし
相当な規模の軍勢だろ。
天正6年〜7年頃の北条の国力はおよそ150万石前後だから御館の乱とニ方面戦争するとなると
御館方面に出せる兵力は、史実のように氏邦+調略した上野国衆がいい所ってとこだろ。
小田原から越後に長期間送るのは兵站や雪などの問題もあるし 944 :人間七七四年:2014/06/21(土) 13:25:42.07 ID:jFA7kggo
白河結城は、義重から4才の義広を人質に取り、さらに義重の娘とも養女とも言われている人質と結婚してるが、
白河結城は人質を佐竹に1人も送ってない。
周辺勢力の浅川や田村や結城を味方につけて佐竹に外交的勝利をもぎ取ってる。
さらに佐竹の源氏ブランドをも吸収して白河結城も源氏を名乗って
書状を出し始め独自外交もやっている。さらに佐竹から赤館の返還させてるな。
ちなみに石川氏も源氏。
武田滅亡後は名実共に最高の源氏名門となった佐竹による
源氏勢力の拡大が葦名にも及んだために秀吉の警戒を引き政宗有利な惣無事令が発動してる。
政宗が輝宗を暗殺したから佐竹の北上があり、
政宗が苦戦していた二本松城の開城も惣無事を聞いた田村が伊達に伝えて、
危機感を持った伊達から相馬が要請を受けて、奥州平和維持の自律的行動交渉で二本松畠山を開城させて平和を作った。
浅川大和守の佐竹へのたびたびの挙兵や田村清顕の白河城とその周辺の城々の奪取を受けて
佐竹は泥沼化したために白河が外交的に働きかけてきた結城晴朝らの調停交渉に乗らざるおえなくなり
白河側が一方的に有利な調停に屈伏してる >>253
反北条連合の勢力圏は黒田の戦国北条一族や
市村の東国の戦国合戦にしっかり書いてるし
旧国の石高に換算して計算すると大体>>246の通り。 常陸53万石中
佐竹はほぼ全土掌握
佐竹に従属していないのは南部の一部のみで全体の20分の1程度
よって大体49万石全土佐竹支配
下野37万石中北条方支配拠点は榎本・小山・壬生などほんの一部のみ
他は宇都宮那須初めほぼ全土反北条方
よって30万石前後は反北条方
下総では結城水谷らが反北条であり下総39万石中5万石前後は反北条。
これに奥州の白川領や南奥州連合の岩城や蘆名などが加わるので
100万石前後は行くだろ。 確かに蘆名も入れれば100万石前後は行くな
ただまあこの時期の蘆名は北条派だけども
常陸の佐竹もそこまで広いか疑問
鹿島郡行方郡新治郡信太郡河内郡辺りは範囲外じゃ
土岐小田辺りはこの時期は佐竹には従っていないはず というか御館の乱(天正6年〜7年)の話なのに
その後の反北条が優勢になった時期の勢力圏を語って誤魔化してるね
沼尻合戦とか天正12年だし
>>249、>>252によると、御館の乱の頃の奥州勢は到底反北条には含められない
そもそも乱に伊達蘆名は北条側で参戦してるし
>>257を加味すると
反北条は精々60〜70万石、しかも伊達蘆名にも備えねばならないから全力で北条に対せない
そもそも反北条が100万石でも北条には50万石の余裕がある事になる
越後40万石を二分して争う景勝に対し
北条50万石+景虎派諸将+伊達蘆名+8月後半までは武田軍もいる
常識的に考えて北条の楽勝でしょ
全く弁解になっていない そもそも発端は
>>236の御館の乱の景虎敗因は勝頼と北条のどちらにあるかて話なのに
両者の比較もせず全力で北条擁護のコピペ爆撃
やはり菅沼遼太は北条厨 >>258
北条の要請を受けた勝頼は5月末には信越国境に到着し、8月末まで律義に時間稼ぎしてんだよな
徳川の進攻放置で
一方、北条軍の越入は晩秋(旧暦9月で現在の10〜11月相当)
勝頼は6月末の真田昌幸宛て書状で、北条が援軍出さない事の不満を書いてる
つまり武田軍の常識なら北条軍も6月中には越入を果たして当然ということだ
実際、上野の景虎派諸将単独でも7月には沼田を降して越入ルートを確保してる
これに50万石分の北条軍が加われば6月中の越入も可能だろう
越入した北条軍が矢面に立つなら勝頼も同盟国の支援を躊躇うまい
そうすれば景勝は袋の鼠に等しい
景虎の敗因は北条軍がグズなせいだな >>257
市村高男氏
永禄12年11月小田氏治は佐竹方の攻撃によって三度目の小田城落城を余儀なくされ
傘下の菅谷政貞を頼って土浦城に退避すると
佐竹氏は参加の太田道誉に小田城を与え常陸南部における佐竹方の拠点として位置付け直した。
永禄13年2月には氏治に離反を疑われた木田余城の信太伊勢守が土浦城に誘い出されて殺害されるに至った。
小田氏の混迷と衰勢は止まるところをしらなかった。
天正元年8月佐竹義重は氏治の木田余城を攻撃し合わせて戸崎城宍倉城も攻撃して
両菅谷氏を屈服させている(佐竹文書大槻文書水府志料)
もはや小田分国は崩壊同然となり氏治は小田氏の退潮に伴って地域権力化を遂げつつあった土浦城の菅谷氏に支えられようやく小田氏当主としての体面を保つことができる存在に変貌を遂げていた。 そもそも北条は150万石もないからな。例えば下総の千葉氏とか
北条と同盟してるだけの国人で
天正6年頃から家中で内紛も起こり出してる始末。
さらに上総の北条方国人は
北条が三船山合戦に破れて信玄との攻防から関東で劣勢になった時期など
あっさり北条から里見に帰属を変えてる程度で
同盟者程度の支配関係しかない。
北武蔵の深谷上杉氏や上田、成田なども同様で
北条と御館の乱の当時あったような上杉方上野国人の間にあったような緩い協調関係くらいの関係しかない。
北条勢力圏はせいぜい100万石前後でしょ。 >>257
佐竹方反北条連合の勢力圏は下総の一部、下野のほぼ全土、常陸のほぼ全土
奥州白川領などだから、100万石突破する。
蘆名岩城二階堂猪苗代石川などの南奥州連合も含めると200万石程度の大勢力になる。
これなら北条が出だしもできないのは無理もない。 下総や上総の諸侯なんて北条が自由に兵を動員できる存在なのか非常に疑問だからな。
勝頼との対決時とか神流川の合戦や天正壬午の乱なんかでも房総の北条方国人が手柄を立てた形跡などはないし
参戦したかどうかも非常に疑わしいし。 笑えるw
昨夜のID:oTzBIBV9が質問安価付けたIDは一人も答えてない
ソッコーで別IDが答えるという
菅沼くんの馬鹿丸出しジエンゴ炸裂www 北条が大軍だったとか書かれてるの軍記だけだからな。
実際には総力戦で挑んだ天正壬午の若御子の対陣でも20000前後だったと家康が記してるし。
つまり北条の版図は70万石程度の動員兵力だったって事でしょ。 >>261
>実際、上野の景虎派諸将単独でも7月には沼田を降して越入ルートを確保してる
そうなんだよね、北条側も上野に〜とか言ってるけど、
景虎派諸将が行動しているだけで、北条自身はほとんど何もしていないというのが実情。
>>262
>>257はちゃんとそれを踏まえていないか?
でなきゃ範囲外に筑波郡も入れていると思う。 >>265
天正壬午じゃ房総の北条方国人どころか里見さえ援軍だしていたような。
>>267
その時は関東は放置出来ていたとでも?
だったら御館でも同様に2万ぐらい越後に向けることは可能。 >>269
天正壬午では里見は勿論、房総の北条方国人も出兵してる気配はないね。
天正壬午では北条は対佐竹に兵力を残してなかったからか、
徳川と睨み合いになるとあっさりそれまでの信濃の占領地や甲斐の巨摩群まで捨てて和睦してるからな。 北条軍は坂戸方面を激しく攻撃してたじゃん
厩橋北条や他上野諸侯を先に派遣し氏邦本軍も越後方面へ進撃
これだけでも相当な数じゃないの?
沼田城や樺沢城は景虎方諸侯にあっさり落とされてて
氏邦勢も坂戸方面を激しく攻撃してる ↑菅沼くんはこのコピペを何度貼れば気がすむのだろうなw 房総の諸侯を動員しても兵力20000しか行かなかったのなら
房総以外の地域の北条の動員兵力が相当少なかったということだな。
それなら御館の乱で景虎を支援でいなかったのも仕方ない。 常識的に考えて
天正壬午で房総以外の地域の北条の動員兵力が相当少なかったなら
それは佐竹ら反北条に備えての事だろw それなら徳川とさっさと和睦する必要もないね。
二方面+上杉を敵に回すと
優勢を保つことができないからこそ
信濃や甲斐の占領地まで捨てて北条は同盟路線に至ったわけだし >>270
里見は天正壬午で御坂峠の北条軍に援軍を派遣してるぞ
(千葉県史料、中世篇諸家文書、159号)
ついでにいうと書状にある北条勢20000は若御子で対陣した氏直遠征軍の数で
10000といわれる御坂峠の別働隊はスルーされてるだろ
徳川との和睦は、この御坂峠の別働隊が黒駒合戦で大敗した結果、信濃諸将が離反、
退路を絶たれ若神子で孤立した氏直遠征軍を救う為に
信濃や甲斐の占領地まで捨てた窮余の策 北条方は信濃の佐久や諏訪は離反してなくて
佐久の小諸には大道寺らがずっといたし
諏訪頼忠も依然として北条方に帰属。
甲斐の巨摩群も徳川方の手には落ちていないね。
小県にも徳川派と北条派が両方いたし つまり里見含めた房総の諸氏を動員しても28000前後だったって事だろ。
それなら逆算しても里見なしなら20000前後だから
70万石〜75万石前後しか北条には動員力なかったって事じゃん。 北条の動員力とかどうでもいいけど
>>270のように嘘をつきながら言い逃れを続けても全く説得力ないぞ
菅沼だか北条厨だかしらんが最低に見える 里見がどのくらいの兵を送ってるかわからんし
里見って正木の乱の内戦中だっただろ。 嘘を平然と吐いてるのは菅沼リョータ君しかいないから >里見なしなら20000前後
>70万石〜75万石前後しか北条には動員力なかった
武田はそんな相手と戦って疲弊するとは
余程長篠の損害が大きかったのだろうな >>262
それぐらい理解している
だからこそ257で小田城含む筑波郡一帯は佐竹領としているのだから
書籍を参考にするのはいいのだがちゃんと書籍の内容を理解しなきゃ意味がない
>>276
それらとは別に秩父方面に氏邦
佐久の抑えとして大道寺だからなー
>>277
黒駒合戦の結果離反が相次ぎ
最終的に大道寺らが敗退した結果の和睦だ
あと諏訪は北条がたに帰属とは言い切れない
反徳川であることは確かだが
巨摩郡南部は完全に徳川側、でなきゃ駿河との連絡線が維持できていないだろ
巨摩郡北部にしたって穴山の影響の強い地域だし まあ武田にも非はあったろうがそれ以上に北条が悪いな 桓武平氏鎌倉氏流越後長尾氏歴代当主とその正室
長尾平内左衛門尉景茂 葛西新左衛門尉時清の娘
長尾四郎景忠 長尾三郎兵衛尉光景の娘?
長尾四郎景能 長尾四郎太夫景煕の娘
長尾弾正左衛門尉景為 佐原七郎左衛門明連の娘
長尾弾正左衛門尉景忠 長尾左衛門尉基景の娘
長尾新五郎定時 山吉伊予守長久の娘?
長尾弾正左衛門尉景恒 長尾新五郎景直の娘?
長尾豊前守景晴 山吉伊予守長久の娘
長尾筑前守高景 長尾平三左衛門景行の娘?
長尾弾正左衛門尉景房 上杉中務大輔朝顕の娘
長尾信濃守頼景 山吉伊予守行盛の娘?
長尾信濃守重景 長尾越前守景良の娘?
長尾信濃守能景 高梨摂津守政高の娘、上条播磨
長尾信濃守為景 高梨摂津守政盛の娘
長尾弾正左衛門尉晴景 上杉兵庫頭定実の娘
長尾弾正少弼景虎 なし 桓武平氏鎌倉氏流越後長尾氏歴代当主とその正室
長尾平内左衛門尉景茂 葛西新左衛門尉時清の娘
長尾四郎景忠 長尾三郎兵衛尉光景の娘?
長尾四郎景能 長尾四郎太夫景煕の娘
長尾弾正左衛門尉景為 佐原七郎左衛門明連の娘
長尾弾正左衛門尉景忠 長尾左衛門尉基景の娘
長尾新五郎定時 山吉伊予守長久の娘?
長尾弾正左衛門尉景恒 長尾新五郎景直の娘?
長尾豊前守景晴 山吉伊予守長久の娘
長尾筑前守高景 長尾平三左衛門景行の娘?
長尾弾正左衛門尉景房 上杉中務大輔朝顕の娘
長尾信濃守頼景 山吉伊予守行盛の娘?
長尾信濃守重景 長尾越前守景良の娘?
長尾信濃守能景 高梨摂津守政高の娘、上条播磨
長尾信濃守為景 高梨摂津守政盛の娘
長尾弾正左衛門尉晴景 上杉兵庫頭定実の娘
長尾弾正少弼景虎 なし 景虎が勝ったらヤバイことになったと思う
景虎は北条家の一門だから、小早川、吉川みたいに家を乗っ取られてたでしょう
北条家からしてみれば甲相同盟は復活済、越後は親戚ってほど嬉しいことはない >>291
御館の乱における兼続の活躍は、後世の完全な創作ですが? 御館の乱の動きを見れば見るほど景勝すげえって思う
「武田とは何してでも和睦しろ」って命令しておいて
兵を片っ端からいずれ来る北条軍対策に回してるのが
確かにそうするしかないんだけどなかなか決めきらんわ潔いなって思う
和睦失敗リスクを考えてグズってたら防ぎきれなくて死んでるよなあ 歴史小説ではそれも兼続の手柄にされちゃってるんだよな 道満丸生存説がマジだったとしたら景勝は幼い甥を生かしておいては乱の原因になるけど
殺してしまうのも忍びなくて殺したことにして越後から隠して育てさせることにしたのかな
姉ちゃんの清円院は息子を弟に殺されたと信じて自決したのなら可哀想だが 米沢に移った常慶院が長尾政景夫妻像を所蔵してたことから連想された創作じゃないの?
生きてる人間の供養のために献納されたことになっちゃう 生きてることが隠されてたならあるんじゃね
また市川氏かって気もするが >>290
景虎が勝って越後を掌握して、北条経由で織田に講和を申し入れたら、信長は呑んだかな?
越中の完全放棄と武田包囲網への参加くらいの条件で。
勿論、武田を潰して西日本を平定した後は、難癖つけて北条・上杉も攻めるだろうけど。 越後国衆にしたら「関東管領の跡継ぎが『他国の凶徒』にヘーコラしてんじゃねーよ!」になるかな? 景虎が北条氏の援軍呼んでる時点で他国者に服属嫌がるような越後衆は全員景勝についてるだろ 北条氏康の子だもんな 本来越後の跡継ぎ候補になるのもおかしい
とくに北条に恨み骨髄の上杉憲政が景虎方だったんだよな
おかしな話だぜ・・・ 憲政にしたら最近は北陸ばかり見てる長尾から上杉取り返せるくらい思ったのかもな。
北条に行ったらなお悪いようにしか思えんけど 憲政は単に自分で戦争いきたくなかっただけじゃね
謙信が北条討伐に憲政にも軍付けて連れ出そうとして「どーか許して」って言ってるし
景勝がそのまま謙信のやろうとしたこと受け継いだら謙信より若く果断な景勝は
憲政を引きずってでも戦場に連れていっただろう 謙信との血の濃さや越後出身であることを考えると、景勝に分がある
じじつ集まった兵数は景勝が有利になった 景虎の息子の道満丸を後継者にする考えはなかったのかな? 道満の母親は景勝の妹で景勝にとっては甥だし、そのあたりで両派の妥協とか打てなかったのかな? 謙信がどう考えてたかはわからないけど戦端開いちゃった以上は無理だろ、よく道満丸(と憲政)殺した景勝極悪非道とか言われるけど
変に赦免したところで再度担ぎ上げる御旗残したままとか景勝にとって危険すぎるし、当然の行為とは言えないけど指示で殺させててもおかしくはないと思う >>306
景虎が押しかけてきて、「巻き込まれた」側面はあるかもな。 憲政の墓所はナゼか米沢市にあります(照陽寺)
直江兼続夫婦の墓がある林泉寺が山大工学部を挟んだ向かい側にあります。 憲政はなんで小田原の養子の助命嘆願に動いたんですかね。不用意だし、そもそもはさんざん小田原に痛い目に合わされているのに 両者の争いを調停して存在感のアピール
あるいは
憲政「謙信亡き後の上杉家を仕切れるのは予しかおるまい」
とかイタいこと考えてたのかも _,,:-ー''" ̄ ̄ ̄ `ヽ、
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. Z::::ヽ '、 ゙'t;ヽ ` ´ ノ;;リ ,r' 勝頼の動向がこの乱を大きく左右したのは間違いないけど
即座に領土割譲してでも和議同盟に動いた景勝と違って景虎が受身というか、特にアクションを起していないのが疑問
実家の同盟相手だからほっといてもいいだろうとタカをくくったのか、景虎含め謙信政権中枢から離れた者達の集まりだから時勢を読むセンスというかそのへんが鈍かったのか
それとも権力が無いから同盟の見返りになるものを出せなかったのか
もちろん景虎も武田も滅びてるから書状等が残ってないというだけかもしれないけど 上杉憲政や古田織部を見ていると、殺る気マンマンの当事者を仲裁に立つと命に関わることが良くわかった >>319
確かに一時的とはいえ和平の仲立ちを勝頼がしたのだから、景虎も勝頼と同盟してはいるのだろうけど
あくまで不戦協定的な物に見えるというか、景勝のようにより積極的に自陣営側に引き入れようという動きに欠けるように見えてね
やっぱり資料が散逸したからで景虎は景虎なりに何か動いてたのかなあ 武田が出張ってきたのは北条との同盟関係が理由なんだから景虎との同盟関係はそもそもの前提なんじゃないのかな >>321
景虎も勝頼が援軍に来たぞーこっちが断然有利だぞーと喧伝とかしとる。当然それなりにやってるだろ
たしかに景虎側の史料は少ないが推測できる程度の史料はあるのに散逸し直接の史料がないから分からんじゃただの思考停止だぞ それ単に甲相同盟のおかげじゃ
景虎はそう喧伝するしか手はないししかも北条は勝頼が景勝と同盟結んだの知って勝頼の動き警戒してるし
景勝は勝頼に一切手を出さない前提で信濃口方面の将兵どんどん上田方面に動かしてるから北条も気付くの当然
...というかそれ込みの情報戦か
勝頼は中立のつもりだったとしても景勝が一切勝頼に警戒してない用兵すりゃ北条は勝頼警戒するよなあ 結局上杉憲政や仙桃院ってどういう立場の人だったのかね
中立だったり景虎側だったりよくわからん
もし景虎側だったのなら上杉憲政が道満丸を連れて交渉に来たってのもよく分からない 憲政にしてみりゃ道満丸を差し出して一種の命乞いみたいなもんかも
自分の息子が同じようなことされたのにな
ようやく越後過去名簿を素直に解読して、為景と上条上杉家の姻戚関係を指摘する人が出てきてるが
やっぱり謙信と仙洞院は異母兄弟になるのかね 仙洞院が上条上杉家の血を引いてるから謙信は仙洞院の子らを特別目にかけていた、というのもなんとなく納得はできる
虎御前と景勝も祖母と孫にしてはあんまり関わってないような気もする
景勝に古志氏の血が入ってるとも古志長尾の動きを見る限り思えない
でも上条上杉家の娘が為景に嫁いでいたなら彼女が為景の正室になるのでは?
晴景と仙洞院もなかなか年離れてるが、為景室上条氏は男子を産まず仙洞院しか産まなかったのかな
謙信母の古志氏は本当に継室だったんだろうか
謙信神格化の過程で謙信と仙洞院が同母姉弟になり(景勝が本流の上杉氏の血を引いてることより「謙信に近い」方が大事だった)
本当は側室出の末弟だった謙信が継室出に書き変わったとかそういうことありそうだ あと、景勝が上条上杉家の血を引いてるなら息子の千徳に憲ではなく定を使ったのも納得かな
定はどっちかというと山内より上条によく見られる字だし 晴景は仙洞院と同母だと思うよ
政景夫妻像には晴景の戒名が為景夫人天甫喜清と一緒に書いてあるし
仙洞院が生まれた頃に晴景は将軍から「晴」の字をもらってるが
当時、道一と名乗っていた元服前の幼児〜少年と資料から推定されるから、仙洞院とそんなに年は離れてない
謙信も天甫喜清の子の可能性はあると思うんだけど、虎御前の伝承が邪魔してんだよな
母が古志というのが大嘘か古志の側室腹(天甫喜清は為景死去の2年後死去)だったということかな 謙信が上杉家本流の血を引いてたら古志長尾出自の母の伝承が出来るとは思えないなあ
加地氏に嫁いだ謙信妹はまず側室腹な気がするけどスルーされっぷりからすると謙信とも晴景とも異母妹かな 謙信が古志長尾氏を継承し、古志をバックに晴景を圧倒した史実から
謙信の母は古志出身だという伝承が生まれた可能性もあるな
春日局が家光の実母であるとんでも説がうまれたみたいに
ただ幼児期に寺に預けられ、天甫が死んだ後に元服してる状況が
保科正之がお江の死んだ後、秀忠の子としてお目見得がかなった状況に似てるっちゃあ似てる
謙信が景虎を気に入ったのも、側室の子として寺に入れられていた状況が自分と同じだったからとか
今年の景虎の法要の講演会で、御館の乱は晴景と謙信の争いと似たようなものだったって言われてたらしい
ただ御館は越後の国外勢力が介入したことが大きな違いかな 一旦古志長尾に入れられたにしても、古志長尾氏は後継いるのに謙信入れられ、
謙信が古志継ぐのやめて府中長尾継いだら今度はまた後継いるのに長親入れられるとかいう訳の分からなさ
(しかも長親の嫁は古志長尾、というわけでもない) 自分は三条手切から御館の乱が始まったという説を知った時に関ヶ原の経緯に似てるなと思ったよ
神余親綱も景勝も政権に逆らうつもりはなかったのに手続きの不足から謀反を起こしたとみなされて、そこに他の勢力が乗っかってきて誰も想像しなかった国を二分する内戦が起きたってところが 神余→主君に無断で人質集め
景勝→秀吉にも家康にも秀忠にも許可とっての領内整備
だいぶちがくね 行動の正当性については自分も神余と景勝では違うんじゃないかと思ってる
ところで秀忠からの許可ってのは普請もっとも上方いよいよ静謐、ってやつだよね
他にも許可があったらどういうのがあるか教えて欲しい 大河で今名胡桃城事件やってるけどやっぱり景勝がやった
主君の許可とらずに統治権行使したら即処罰は時代的に正しかったんだろうと思った >>333
景信は言われてるように古志の直系、房景の子ではないんじゃないか
歴代が名乗る官途名名乗ってないしな
越後過去名簿で上杉十郎の乳母が生前供養を頼んだ記録があり、資料紹介した山本氏は十郎を景信と比定されていたが
景信が上杉を名乗ったのは謙信が上杉氏を称した後だから、年代的に別人の上杉十郎じゃないのかな
為景時代の十郎も景信のことではないかもしれない
花押がないから元服前とされてたけど、例えば最勝院家を継ぐ予定だった、早世した長福院が十郎を名乗っていたとしても不思議じゃないし
新潟大から出た上条氏に関しての論文は、概要はネットで見ることが出来たけど、全文掲載されたものとか見れないのかなあ 調べたら長福院は大永2年に亡くなってるから、越後衆軍陣連判壁書の十郎はありえないな
むしろ上杉十郎定明が存命だから、老齢で花押が押せないというのもありか
しかしこの上杉十郎は房能や顕定、定憲が為景と死闘を繰り広げてる間、全く史料に登場しない
何してたんだろ >>329
ずっと気になってるんだけど、勝の字はどこから来たんだ?
謙信が与えてるけど、近親に勝の字使ってる例ないよな 最勝院殿御家にゆかりの勝って言ってる人もネットで見たけど
わかんないね 信玄死んだか、あいつ糞だったけどすご奴だったなぁ、
そうだ虎千代は景虎にやっちゃったから喜平次には勝千代からとって景勝でどうだ?
こりゃいい織田も北条もぶっ飛ばせるすごい兄弟になりそうだ!でも将来争ったりしちゃうかもwはっはっはー
ということで信玄の勝千代からとった説をここに高らかに提唱する。無論根拠はない。
が、本当だったら謙信のキチガイ伝説が増えちゃうなぁ そしたら景勝の「勝」と勝頼の「勝」が同じ由来になるなw 武田四郎信頼は上杉景勝に降伏し、景勝から偏諱を賜り、武田勝頼と名乗った 景勝の直系の子孫は定勝、綱勝って続いてるのもなんか意味ある?
養子が相続した後は◯勝はいなくなる 謙信由来の一字を通字にすると虎となり景虎が正当であったと言う印象を与えかねない
なので景勝の勝を通字にしたんだろう >>345
謙信は別格だけど初代藩主の勝が通字になるのは当たり前
養子の綱憲も綱〜にしなければならなかったから仕方ないけど、一族の男子は勝〜を名乗るのが通例となってるように勝の字は大切にされてる
不思議なのはなんで綱勝は弾正少弼じゃなくて、播磨守を名乗ったんだろう 新暦意識したこと無かったわ
んもぅみんな気が付いてるならもっと早くおしえてくれてもよかったのに
https://twitter.com/saki_Historic/status/722422274494636032?lang=ja
上杉謙信(1578年4月19日没)
上杉景虎(1579年4月19日没)
上杉景勝(1623年4月19日没)
これは衝撃の事実!!! 江戸時代中期を過ぎると勝の字はなりをひそめ、分家が多用し、本家は定、憲が増えてくる。
吉憲 宗憲 治憲
重定 治定 斉憲 茂憲 養子が入ると通字が変わる「家の交代」ってやつね。伊達とか他の大名家でもある 新しい史料とかないかな
景虎に関しては少ないからでてきてほしい http://333a.jp/tochio/blog2/modules/nmblog/response.php?aid=63
本庄慶俊って誰?え、徳川秀忠の妾の父親?
て清七郎の子?景乃じゃなくて?
つーか慶秀っててっきり講談名だと思ってたから通字が繋がる人物がいるとは思わんかった
ここも系図の混乱があるのかもしれんね >>338
そうそう、なんで古志景信がその時代から上杉十郎になるのか
意味不明な説だよな。 今までは、景勝ばかり戦に駆り出されるから「いつ死んでもいいと扱き使われる存在で
戦経験のない景虎は大事にされていた」と言う論調が罷り通ってたけど
戦能力がものを言う戦国時代には、実戦経験豊富に育てられる方が大事にされてると思うんだが
景虎派の皆さんはどう思われているんだろうか
昔は景勝が兵をあげて乱を起こしたと言われていたけど
最近は、景虎が挙兵し景勝が政務を取り仕切る春日山城を取り囲んだという
説も出て来てるし(そう考えると数か月間の空白が解消されて時系列的にスムーズなことの運びとなる)
景虎こそが飼い殺し状態で、景勝こそが正統な後継者と考えられていたんだと思うんだが
一昔前は小説の影響で、景虎好きな腐女子が多くて感情論でやみくもに反論されたけど
最近は熱も冷めて腐女子が消えたおかげで盲目な景虎後継者論に疑問も出て来てるね 今度、高志書院からでる上杉謙信にすげー期待してる
今福匡氏がその辺のこと講演会で話してたみたいで研究進むのかも知れん >>356
感情的に肩入れしないでくださいな
幽閉とか、それこそ根拠ない、
腐女子と同レベルの発想やで。 景虎の息子の道満立てて、景勝の母親を後見人にして何とか丸く収まらなかったものかねえ。アホみたいな内乱やって織田につけこまれたし。 >景勝ばかり戦に駆り出されるから
そりゃ分家筆頭が戦争出るの嫌がるとか無いわ
>戦経験のない景虎は大事にされていた
戦経験無い証拠も無いんよなあ
とりあえず留守番で国境哨戒はやってる
そもそも相模では一門筆頭久野家を継いでたから出陣経験無いとは思えないのよね
なにせ当主が討ち死にしたばかり 今福は長尾景満=上田長尾右京亮家=景信弟=長尾右京亮義景説だろ
無茶しやがって 北条研究の中では景虎は誰になってんだ?
氏秀じゃないんなら 景勝自身は、山内上杉を継ぐ自覚はなかったんだと思う
逆に、母の仙桃院の生母が上条氏であって、その時代に越後守護家の
血を引く男子は自分しかいないという自負はあったんだと思う。
だから憲政を見殺しにしても、自分は越後上杉を継ぐのだから関係ない
という考え方だったのでは?子孫の諱も定勝、実勝という越後系だし。 養子が入るとそこから通字が変わるのはよくある事だし大きな意味はないんでないかい >>365
北条研究から氏秀じゃないと出てきたんだろ >>368
うん。だから誰の可能性高いんだ今だと。 >>369
諱って事だと不明
景虎の北条時代の名前だと思われていた「氏秀」という名前が別人の名前だったことがわかりましたって話 >>369
もう少し補足すると別に景虎の中身自体が大きく変わったわけではない、ただ名前が違ってたというだけ
氏秀だと思われていた景虎の北条三郎時代の事跡はそのままと考えれば良い
ただし武田家への養子入り等軍記物にしか見えない話は信憑性低かったりと個々の検証は別だけど
むしろ「氏秀」の中身が変わったと言ったほうがわかり良いかな 景虎に北条時代の名前なんてあるの?
あっても幼名とかじゃないの?
なんとか丸とかの。 >>371
サンクス
まだ曖昧なんだな
ということは、景虎は越後来る前に奥さんいて子供いたってのは確定か 本当の北条氏秀さんは(玉縄)北条孫二郎→北条治部少輔さんだから一次資料による事績の混同ナシ
軍記その他では北条氏秀さんはいない人になってるのでこれまた混同ナシ
逆にこれまで景虎宛て氏康書状と思われていたものが幻庵長男北条三郎時長説が濃厚に
景虎とは活動年代が異なるので本来は混同起こるべくもないのだが、
先の書状は私信のためか年代が書かれていないため解釈が割れたようだ ところで謙信願文で、氏康の遺命に背き景虎遠山親子を見殺しにした氏政は人でなし絶許
、と書かれた遠山親子なんだが、遠山左衛門尉(父康光)宛て由良成繁書状により
遠山新四郎(子康英)が小田原にいることが判明してしまった
じゃあ願文に書かれた遠山親子の子って誰よ?
まあ願文奉納直後に柿崎左衛門尉とで人質交換の形にしたのかもしれんけどね >>373
奥さん(北条幻庵娘)は確定
子どもはなんもわからん
新婚生活4ヶ月で引き裂かれて
史料に子どもの言及が見つかってないので
まあいないんじゃないかと >>375
遠山親子の子って景虎の側室になった人とか?違うか
遠山の娘側室にして子供いたっていうが
>>376
子供はわかってないのか…それは知らなかった >>372
まず生まれた時に付くのが幼名
**丸とか**千代とか**松とかそういうの
その後元服した時に仮名というのが付く
仮名の中でも一般的にはまず輩行名というのがつく
太郎、次郎、三郎
もしくは源太郎とか平二郎とか吉三郎とかその家の先祖に由来する漢字が1字付く場合もある
というか付かないのは代表的な名家の本家だけで付く場合のほうが圧倒的に多い
それと(だいたい)同時に諱というのが付く
武将と言われれば我々が一番思い浮かべる名前のことね
信長、秀吉、家康
元々は元服の時の烏帽子親(≒後見人役)の名前を1字貰うことが慣習だったが
時代が進むにつれてその家が代々受け継ぐ漢字が決まったり(徳川「家」康「家」光「家」綱)
代々の上司から1字貰うことがルール化する家ができたりした(伊達稙宗晴宗輝宗) その後、朝廷から役職を貰ったら輩行名を使うのを止めてそれを名前として使う
これを官途名という
ただしこの官途名は自称であることが多いすごく多い非常に多い
本来なら御先祖様が貰った役職名をその御先祖様の子孫ですよとのアピールで自称したんだが
そのうちその御先祖様自体が創作だったりごじつけだったりしてだんだんカオスになっていく
自称だったのを朝廷に働きかけて(≒献金)本物の役職として任命してもらうこともあった
どーせ仕事の無い朝廷の仕事の無い役職だしね さらにその後子どもが生まれ嫡男として元服したら
官途名を嫡男に譲って別の名前を名乗ることがあった
その場合に安芸守や上野介など地方の国司の役職を名乗るのが慣習とした家もあった
こういう地方国司の役職を名前としたものを受領名という
こういう代替わりで名前が変わる場合非常に紛らわしい反面
年代不詳だった書状の発給年が特定できたり親子関係(養子含む)を確定できたりすることもある >>378
結構でかくなってから養子にだされたんだってね 16歳で「結構でかくなっ」た扱いなら
あとはショタっ子になってしまう。。。 >>362
謙信の前の代が戦に出ない病弱ってんで謙信が当主に引っ張り出された経緯を知ってると
当主候補を戦に出さないっていうのは越後的には考えづらい気もする
謙信までの長尾と上杉の関係も含め、越後出身者は現場で戦ってる方が統率に影響力強くなるの身に染みて知ってておかしくない >>360
別の本と俺が混同しているかも知れんが、洋泉社新書信書の『関東戦国史と御館の乱』が確か、
道満丸=謙信後継者と決まっていたのに、色々あって内戦になった−−説じゃなかったかな? 乃至政彦氏のだね
そこから議論が出てないから乃至さんしか言ってないけどね >>386
話し相手がいないなら、話してあげてもいいよ
ただし、得意のハッキングと1日中の自演をやめたらね(笑) 桃井清七郎っていう人は結局誰なのだ?
景虎の仲間で一門だったよね? >>366
高志書院の謙信本、もう某書店では売られてた
謙信は母が上杉氏じゃないコンプレックスがあったんじゃないかとされてたな
自分に上杉姓を与えてくれた憲政に対して謙信が持っていた遠慮みたいな気持ちは、もしかしたら景勝はあまり持ってなかったかも
そもそも憲政の祖父は修行が辛くて蓄電した破戒僧で、父憲房も一族として管領顕定の元で活躍していただけで、顕定の養子ではなかったというのが研究者の見解
顕定の正式な後継者だった顕実を追放して山内家当主になったけど、上条定憲とかは憲房親子より自分の方が上杉家の嫡流だと書き残している文書が残っている
定憲は顕定の実子説もあるけど、越後国主や顕定の実家である上条上杉一族からしてみれば憲房親子は庶流と思う気持ちがあった可能性もある いままで全く考えが至らなかったんだが
三郎景虎側室妙徳院(生母説もあるが)と遠山室が姉妹とあるが
生家も判らないこの姉妹ってひょっとして越後人、もっと言えば現地妻なんじゃないか?
遠山家ゆかりの者であれば小田原側で身元なり戒名なりが記録されるだろう
(氏綱偏諱世代の)遠山綱景の弟と(1555年生まれの)景虎が妻同士が姉妹という不自然さも
妾、というか身辺世話係兼監視役と思えば不自然でもなんでも無くなる
ところで妙徳院墓のある関山宝蔵院って軒猿の根拠地て伝説があるってホントですかい?
景虎方の軍事行動がやけに読まれてると思ってたら。。。
本庄顕長は流してると思うんだが顕長が御館入ったのはずっと後やん 今福本上越市史一四八四
「備方については」の備方というのは今までずっと軍事的防備の事だと思い込んでたが
よくよくみれば軍事を司らない女にわざわざ賛否の子細を耳に入れるの入れないのを
起請するのには非常に違和感がある
いくら非常時で財産権を預かったにしても軍事は男の専権だろう
この備方ってのはひょっとして当主の備え=次期当主候補→道満丸廃嫡
・畠山景広への付け替えの話を指すんじゃないか?
それだと家中の批判を仙洞院が耳にする可能性が出るのも尤もだ
それと「おんミつの事」と「備方」というのは同じことを指すんだろうか?
並列関係にある別の項目を指してるような気もするんだけども
「おんミつの事(中略)申ましく候、尤備方ひはん申ましく候」ってなんかくどい
そもそも起請文ってそういうもんなのかもしれんけども、でもくどい
で、結局「おんミつの事」てなんなんだー!? 見るの忘れた
再放送次の火曜日夕方
ちぃ覚えた
12月12日火曜
NHKBSプレミアム 午後5時30分〜 午後6時30分
偉人たちの健康診断「越後の竜・上杉謙信 死の謎に挑む!」
http://www4.nhk.or.jp/ijin-kenko/x/2017-12-12/10/21210/1800008/ こう言う「現代医学で〜」とか「心理学、脳科学で〜」とかに登場して解説するのは医学のスペシャリストであって本職の歴史研究家じゃないからなぁ。
例えば歴史研究家は「謙信は大酒飲みと伝わるが史料で裏付けがとれるのだろうか」と言ったところから始まるけどそう言った人たちは俗説や通説を前提に考えるし。
本郷和人だって本職はAKB48研究者であって上杉謙信を対象に研究してる人じゃないしね >>397
本郷和人は歴史学者で、流石にAKB48はついでだよ。
専門は日本中世史。ただ、発言を見る限り源平〜南北朝に詳しく、
上杉謙信に関しては微妙だけど。 最近は雪花の虎で時代考証やってて上越市が講演会とかで呼んでるから謙信のに呼ばれたりするんだろ
TV慣れしてるし 東大教授って肩書きを利用してたいして詳しくもないジャンルにまで手を出すからたちが悪い。一般層は東大教授が言ってるなら本当なんだろう、と思ってしまう しかし一般層にはあのレベルじゃないと史学方面の歴史はウケないという >>398
ネタにマ(ry
本郷といえば清盛で王家論争炎上した人やね
諸王子の中から最有力者を選んでいた古墳期から
迭立が当然のように行われてた時期くらいまでの
天皇制度を表す造語としては悪くないと思ったけどね
その都度字幕出すわけにもいかんわけで耳馴染みがいい 件の番組では生前描かれたとされる坊主頭の謙信の肖像画が紹介され
「この肖像画の謙信が痩せているのは病気が原因」と言っていたがあの肖像画は謙信がまだ若く、宗心を名乗っていた頃のものかもしれないと言う考察もあるんだよなぁ。
番組では直江兼続が「謙信様は最近だんだん痩せ細ってきた」と言う記録を史料に残している、とも紹介していたが直江兼続は謙信にあったことあるんだろうか。確認をとってないが果たしてそれは信頼できる史料なのだろうか 昔、学校の美術の授業でデッサンモデルをやったが皆が真剣に自分を観察してるのが何か面白くてついニヤニヤしちゃったな。
謙信もそれだったりして 変顔かよっっ!!
まあどっかの蔵相みたいに五体満足でも24時間口曲がりって人もいないわけではないが
しかし大酒呑みでホントに死の徴候感じて無かったとしたら
そりゃよっぽど侍医がヤブだったかオカルト頼っちゃったかのどっちかだよな 謙信が通説のように「日常的に」たくさんお酒を飲んでた記録はないそうだがなぁ。大酒飲みって言う人物像は江戸時代以降に出来たとか聞く。
近衛前久と大酒を飲んだ、なんてのは云わば取引先のお偉いさんの接待なわけだし謙信も気を使ってたくさん飲んだ…なんてな 三郎景虎への贈答品はその後なんぼか謙信まで廻ることまで想定していると見るべきだし
海鼠腸は酒を飲むためのものとみるべきだ(偏見) >>405
そういえば手の持ち方もなんか違和感あるけどこういう様式なんだろうか >>402
王家はあくまで院が実権を握り、天皇は院になる候補者にすぎない院政期の政治形態の天皇家を表す学術用語
中世史の文献には普通に使われてたがなあ
研究者が使う学術用語を大河みたいな中世史の理解もない視聴者が見るドラマで使ったのが問題で本郷の造語じゃない >>393
謙信の生母と景勝の母方の祖母は別人で、
景勝は謙信が持っていなかった上条上杉の
血統と正当性を持っていたことになるね。
景勝は別に山内上杉家の正当性に頼らずとも、
上杉(越後)を名乗れると考えていたのかもしれない。 長尾為景の妻は上杉氏(上条上杉弾正少弼の娘)。
よって、 上杉弾正少弼−為景正室−仙洞院−上杉景勝 となる。
さらに長尾房長の母も上条上杉氏である。
よって、 上条上杉某−長尾顕吉室(長尾憲長未亡人)−房長−政景−上杉景勝 となる。
越後守護を度々輩出していた上条上杉家の血を継いだ景勝には血統的な正当性がある。 肖像画に関しては軽い脳梗塞をやって後遺症が出ていたからそうなったと言えなくもない >>414
色んなとこに書き込んでるね
景勝の血統が証明されれば正当性は低いってのもまた変わるな 山内上杉としては上田は一家来だけどね
偏諱を与える程の関係の
だからしばらく憲政の骸を捨て置いたんだな >>416
景勝には母系で上条上杉の血が流れているが、三郎景虎にはそれがない。
越相同盟破綻後は正当性が担保できなかったのではないか。 そのための道満丸だからな
つーことで最初っから頃合い見て殺っちまうつもりだったな
実際殺っちまったわけで 私称だったんかい?
まだ決裂前だったから任官受けてたのと思ってた
https://twitter.com/HIRAYAMAYUUKAIN/status/987517119402201088
>もちろん正式の任官はしていない。父信玄の官位を僭称している。
>これは武田家中での継承であり、上杉景勝なども同じ。
>だから、織田信長は二人の官位を認めず「武田四郎」「長尾喜平次」 例の落書でいうと春日山ではなく春日表記なのは
居城名ではなく都市名て表記した一応の敬称ということになると思うんだが
https://twitter.com/HIRAYAMAYUUKAIN/status/987682727100014593
国名ではなく、居城名なのは、国衆レベルという扱いが垣間見える。
一国を支配する大名格ならば国名(信長を「尾州」などと呼ぶ)、
都市名(「小田原」「甲府」など) 何の話か読めんのだが
三郎殿春日を引き退きうんぬんの落書? 景虎がヒキのいた後もちゃんと「春日」表記だからな
あれで春日屋敷は春日山城ではない呼ばわりは無理がある
今福氏の史料重視の意欲は買うがああいう無茶な牽強付会はさすがにゲンナリする 春日山城を春日と呼んでる謙信時代の史料があれば明確に否定できるんじゃね >>414
為景妻上条氏は「越後過去名簿」、「林泉寺文書」から裏付けされるから、ほぼ確実だと思うけど
今福さんが紹介した上田長尾房長の母が上条というのはちょっとなあ
その「上田長尾次第」という系図は近年発見された「越後過去名簿」と違い、昔から研究者は知っていたけど、要検討の文書とされていたものでしょ
謙信、仙洞院、晴景を同母兄弟にして、母を顕吉娘としてその母親を上条氏として無理やりこじつけた感がする
だいたい、顕吉時代の上田長尾は関東管領家との関係が強く、上条家との繋がりは希薄
房長は上条定憲と共闘して為景に反旗を翻してるから、房長の妻が上条というのなら可能性はあるかもしれないけど 上条系図なら某ブログによくまとまってたが
もう何年も更新されてなくて寂しい かなり知的なホワイトカラー
新聞記者
と、まことは自称していたが、そんな者が暇そうに
5ちゃんねるに書き込むはずがない >>423
お前の方こそ大嘘つくなよ
あの落書から景虎の屋敷が春日山ではなく春日の町にあった可能性を初めて指摘したのは池亨、矢田俊文が編集した「上杉家年表」だよ
該当の越後戦国地図の執筆者は高志書院編集部だか、池や矢田、あるいは写真を提供した福原圭一の監修は受けているだろう
念のため今福の「上杉景虎」を確認したがこういう意見もあると紹介しただけで、今福は春日屋敷説を声高に主張しているわけではないようだ >同十三日、三郎殿「春日」を引のき、御城内之内へ御入候、三ほう寺殿始十余人御味方候間、
>「春日」と日々の御調儀候、
この前段の「春日」と後段の「春日」
前段が春日屋敷で後段が春日山城であると読むことが可能なのか?
わしには読めんが まあそもそもヨソ者の下っ端のラクガキだしな
家中での厳密な表記をしていると考えるほうが無理あるんだろう
それよりも気になるのは「黒川ミのキ衆」「くろ川」のほうなんだが
盛氏って隠居後は向羽黒に移ったんじゃないかしらん
それとも盛隆政権では黒川復帰した? ☆ 日本人の婚姻数と出生数を増やしましょう。そのためには、公的年金と生活保護
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>天正7年(1679年)3月下旬、北条氏を打倒するため、伊勢天照大神宮御宝殿へ北条氏政追罰の願文を奉じました。
早っ、すげー早いっ!!
これヘタしたら起草時には景虎生きてるんじゃないかしら
勝頼ヤる気マンマンですな
そんなに上野欲しかったのか >>425
房長の妻(政景の母)は全く不明なんだよね・・・・ >>438
遠山丹波の時に足利義材に仕えてその縁で申次衆の伊勢盛時と親密になって、盛時が駿河に下向する時について行ったらしいよ 謙信は景虎を世継にしたかったんでしょ?
御館の乱は景勝と兼続のお家乗っ取りだろ 御館の乱が起きず景勝が家督を継承したとしても
史実通り景勝は上田衆を信任するだろうし
畠山義春や山浦景国みたいになるだけかね 手取川の戦いの後、謙信が春日山城に大軍を招集、急死してしまうが
急死しないと仮定して、関東に出兵して
上野国主家を再興して景虎を当主とする
景勝には越後国主家を相続させることにする
そして兄弟で助け合えということにするんじゃないの?
北条も喜ぶし、謙信の面目もたつし、将軍の三和要請にもかなうし
後顧の憂いなく信長と戦えるんじゃないの
謙信は筋目を大事にする復古主義者だと思う。 >>443
それ80年ほど前に顕定がやって失敗してるでしょ >>443
将軍義昭は甲相越一和を二度要請しとる
で謙信は甲斐との一和は賛成だが相模には反対している
氏政は要請後に謙信存命中に上杉を攻めようとしていない
で甲斐と相模は甲相同盟中
関東に攻めれば甲相同盟の関係から勝頼も出兵せざるえないし義昭の面目を潰す
筋目を大事にするなら関東出兵ではなく越中方面への出兵しかないだろう 将軍もまあ困るんだが
織田の脅威を最前線で受けている門徒が一番困るよね
せっかく組んでるのに上杉の盾にしっぱなしというのは 謙信って自分から同盟破棄してるっけ
結局どちらも立てようとしてあんまり上手くいかない気もする >>188
氏政以降がダメだったな
3代目氏康で完全に終わった感じだったな
徳川も3代目までは優秀な将軍だったが5代目のお犬様の頃は財政が逼迫してたし ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています