【信康・忠輝】歴代松平一族を語る【長親・清康】
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そういえば話変わるけど、イスラム国で人質のとられた二人はどうなった?
そういえば昔、竹千代少年も織田方に人質にとられて、今川を恐れた親父に見捨てられた
んだよな?その時殺されなかった竹千代少年が、後に徳川による日本支配を完成させるん
だから、やっぱ歴史はドラマではあるな。 そういう議論なら、ぜひ 松平宗家もまぜていただきたい。 違うとは思うが、松平氏が源氏を称するようになった事自体は松平信光の頃まで遡れる >>176
ウイキペディアだと賀茂氏の出ともあるね、でも新田源氏系統とも書いてあるんだがどちらなんだろ?
松平信光の伯父が得川を名乗ってるみたいだし、家康は松平でも良かったんでわとおもふ >>177
信光三男の松平親則や泰親の息子益親が賀茂朝臣を名乗っていたことが妙心寺本尊仏像記からわかる
一方信光が妙心寺に収めた自筆の願文には「永世ここで子孫を守り、源氏の武運が永久に尽きることのないように願います」
という文面が出てくる。信光に賀茂朝臣説と源氏説があるのはこれのせい >>178
なるほど、教えていただきありがとうございます 松平が賀茂で
娘たぶらかして転がり込んだ放蕩坊主が新田
という設定じゃなかったっけ? http://ninkyou.blogspot.jp/?m=1
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画像を御覧くださいませ!! ホンマに松平清康とかっていたの?広忠はいそうな気がするが。君主殺しても
御咎めなし?まじかよw。 清康を殺害した阿部正豊は植村氏明にその場で斬られた
広忠を殺害した岩松八弥は植村氏明の追跡で討ち取られた(異説あり)
植村氏明は松平家当主の親衛隊長みたいな役割を担っていたようだ
剣術に長けていたが、今一歩で主君を護りきれず、後々まで悔いていたそうな
氏明の後を継いだ嫡男・植村家存は、家康の親衛隊長を務めた豪傑で、
石川家成らと共に家康初期の重臣に任じられるが、若死にした
家存の嫡男・植村家次は、信康に付けられた
信康切腹事件に納得いかずに下野し、放浪
後にこっそり榊原康政に雇われ、康政のとりなしで徳川家に帰参
ただし榊原康政家の陪臣としてであり、微禄
家次の嫡男・家政は微禄の旗本としてスタートしたが、
幕政下で実績を重ねて大出世
最終的に2万5000石の大名になる
植村家は、先祖が松平宗家の重臣だったという家格に相応する地位に返り咲いた 岩津松平家の通称「和泉守」は信光→親長と相続された後、何故か大給松平家が名乗るようになり、
安城松平家の通称「蔵人」は親忠→長忠→信忠と相続された後、清康広忠ではなく信忠次男信孝が名乗るという闇 天下の将軍家の祖先なんだから、もっと逸話とか適当に盛っても良さそうなものだけどなぁ 徳阿弥って何者だったのかなぁ
新田源氏の末裔ってのは後世の捏造だろうけど流浪の旅人が松平家に婿入りしたっていうのは多分事実としてあったんだよね
後に天下を支配する一族の祖が素性不明の旅人ってロマンあるわ 織田や浅井と同じで名家に接続するために創造された人物でしょ 信康の男子って、女子と違って殺されちゃったのかな? そもそもいない
万千代とかいうのは系図纂要にしかないし しかし家康は子供時代苦労したとか言われるけど広忠の苦労はその比では無いな
叔父に城を乗っ取られ、流浪生活を余儀なくされ、今川の後ろ盾で漸く戻れたと思ったら
一族をはじめとした反乱続き、嫁は離縁、子供は人質に取られ、最期は佐久間の刺客により暗殺だからな >>192
親父も子供の頃暗殺されてるし、三河武士の忠節なんて話、どこから沸いて出たんだ 松平家の戦国大名としての成り立ち見ると
所謂譜代大名の先祖達も多くは松平と同じ土豪や国人だったりしたのが
徐々に服属させられて家臣化していったみたいだし >>193
たぶん、そう思っていなかった家康が吹いたんじゃね?
吹けば踊る三河武士・・ なんちゃってサ。
うちの会社の創業者が静岡出身だから、俺は身にしみて分かる。 篠山城のWikipedia記事が、
松井松平家が十八松平家に属すと誤解した記述だったから修正しといた
藤井松平家と形原松平家も分けておいた
藤井松平家の子孫が形原松平家というわけじゃないもんな 松平分家ありすぎて混乱する。
長親ってどうなんだろうな、あんまいいイメージない。長親親父は切れ者のイメージあるが 長親の子にも色々疑問があるよな
信忠の早期隠居の背景とか
信定は次男なのか三男なのかとか
親盛が実は息子の中では最年長なんじゃないのかとか
まあ息子の兄弟順に関しては、嫡母と庶母の息子じゃ扱いが違うから
長男の親盛が次男に回されたり、嫡母が産んだ二人目という事で
信定が次男扱いされてる可能性もあるけど 信定よりだったりね。お家が混乱した時も傍観気味だし。 親忠って井田野の指揮はしてるけどそこまで切れ者イメージ持たれるような逸話あったっけ 後半行くと松平姓いろんな人に与えてるよね。他家だと分家の苗字与えるのは良く見るが。
まあ徳川に変えたから分かるが旧苗字に執着あんまなかったのかね家康さん。
苗字なんで得川にしなかったんだろう 当時は得川がまだ存続していて使えなかったって話を読んだ事あるな 泰親って親氏の息子なの、弟なの、どちらの説が今有力なんだろう 弟が有力
現在支持されている関係図はこんな感じ
―親氏――信広
| |
| ―信光
|
―泰親 >>202
源氏得川では三河守就任の前例がなかったので前例のある藤氏徳川にしたとか何とかかんとか
1566年だから将軍が京に居なかったので近衛さんに頼まざるをえなかったっていうのも理由になるのかも 勉強不足で悪いが、家康の家ってのはどこから取ってきたんだっけ?
子供には信長から信を取ってるが、自分も元康から改名する時、家臣ではないが信長から信をもらうっていう考えはなかったのかな?そこはプライドあったのかな当時は。同等の同盟の相手だみたいに 婚姻の絡まない一字拝領は基本的に主従関係を意味するから
対等同盟だった当時の織徳同盟で元康が信の字を貰うのはありえない
足利義昭から貰って昭康と名乗るならありえるけど、当時無位無官の元康には昭の字は与えんだろうな >>209
ええ!!まだ大した大名でもない頃に八幡太郎から取ったの?
恐れ多い奴だな家康w 松平一族の中でも家次や家忠みたいに家の字を与えられた者と
康元や康忠みたいに康の字を与えられた者の差はなんだろう? 大まかに言えば血縁が近い松平は通字の康。遠目なら家じゃね >>213
>通字の康
安祥松平の通字は親忠、長忠(長親)、信忠、広忠を見るに忠なんじゃないか
>>211
家康にとって尊敬する祖父の康の字と八幡太郎義家の家の字とではどちらが重かったのか 清康だよねきっと。
八幡太郎とは縁もゆかりもないし。 清康のやすはどっからもってきたんだろう?
いたっけ康の付く大名周りに? 下の字だし偏諱とかじゃないだろう
前名である清孝の孝と通じる字を選んだんじゃないか? 兄弟で清康(清孝)、信孝、康孝って名前してるけど、清は吉良持清からだと思うが、孝と康は気になるな。 まあソースはこれしかないけど
ttps://twitter.com/kou_mikabushi/status/25427190492 松平氏は伊勢氏の被官だったこともあるから
孝の字は伊勢貞孝からの偏諱じゃないかって
説をなにかで読んだことがある気がする 拝領した字を下に置くかなー?
吉良持清から偏諱された説のある清孝はともかく信孝康孝も下においてるし 松平周防守康福
松平周防守康爵
松平周防守康任
松平周防守康直 親長・親則・親忠兄弟も伊勢貞親から偏諱されたという説が出てるけど、
当時の松平一族に公親という人物がいることからホントに偏諱されたのか疑問 なるほど、確かに伊勢の被官だしね。でも名前の下に置くのはおかしいよね。
でも長親の家系は正嫡じゃないから怪しいところいっぱいですね 多分松平氏自体が三河山奥の土豪出身だろうけど、初期の頃は謎が多くて面白い 松平の祖と言われる親氏も怪しい人物だけど
その親氏を娘婿に迎えた松平信重やその父親の信盛は
もっと経歴の怪しい人物だからなぁ 架空架空と言われていた松平泰親の実在がほぼ確定したから信重や信盛もまあいるんじゃないかと >>229
不勉強で恐縮なんだけど、泰親の実在をほぼ確定した史料って何? >>231
ありがとう、泰親の道号だか法号だかの用金が書かれている札だっけ? >>232
そうそう
1436年の日付で松平太郎左衛門入道用金の名前が書かれていて、
三河物語の泰親の法号と一致する 伊勢の被官だったんだっけ?
信光の親父らしいよね。
信光はやり手 >>234
少し上のレスにもあるけど、泰親は父じゃなくて叔父が有力のはず
律儀に兄の子に家督を譲った背景は分からないけど
ところで松平氏由緒書ってどれだけ信頼できる史料なのか
三河物語よりはあてになるのかな >>235
松平氏由緒書の信頼度に関する論考は「戦国大名論集徳川氏の研究」に載ってたぞ
泰親が信広に家督を譲ったのは恐らく松平信重の血を引いているのが信広・信光兄弟しかいなかったからじゃないかな
信光に岩津城を譲った理由の方は不詳だけど >>236
その論考どこで読めるのですか?
地方民なので国会図書館とかは
勘弁して欲しいのですが >>237
何処に住んでるかわからないから確実なことは言えないが、
とりあえず地元の図書館のサイトで「戦国大名論集」か「徳川氏の研究」で検索してみて
多分地方でもそこそこの規模の図書館ならおいてあるはず
場合によっては図書館の相互貸借制度を利用すれば遠出せずに読めると思う >>229
泰親は伊勢氏と繋がりを作ったり、岩津城を奪ったりとそれなりの勢力を持っていたみたいだから、
その勢力の土台を作った人間がいないとならないよな 安祥松平家の通称は次郎三郎みたいだけど
他の松平家の通称はどうなっているんだろう >>216
康がつく有名どころの武将だと足利氏の祖である源義康とかいるけど
新田氏の流れの世良田氏を名乗った清康が足利氏関連の諱の一字を持ってくるのは
違和感があるし、新田氏や世良田氏の中に康の字を持つ人でもいればよかったんだけど
見つからなかったしなぁ あれかね、簡単に言うと秀吉は出生をごまかしきれず関白の養子になって関白になったが、家康はなんとか誤魔化して源氏を名乗り征夷大将軍になれた。
豊臣家は征夷大将軍になれなくて家康が就任できた時点で豊臣家の運命が決まった感があるような気がする 秀吉の時点では征夷大将軍になるよりも関白になる方が意味があると思えた
家康の時点では関白になるよりも征夷大将軍になる方が意味があると思えた
ただそれだけの話 >>244
全 然 関 係 な い
氏を源にしなくても征夷大将軍にはなれるし、
関白は征夷大将軍より格上だし
秀吉が、自分が関白に推挙した秀次を殺したことで豊臣家の運命が決まった
豊臣家のトップが妄想性パーソナリティ障害の欠格者だから自滅しただけ 関白は無理だが幼少で夷を討つ大将軍にはなれる、という理屈がすごいな
幼少ではそもそも戦場にもでれまいに
たしか幕末では外人を夷と見立てて、攘夷をしない征夷大将軍とはなんぞや?
という論があったそうな 幼少の関白の前例はないけど、幼少の征夷大将軍の前例はあったからな 大坂の武家関白家がまだ健在だったころいかに徳川家が将軍になろうと
秀頼が関白になってしまえば、再び関白殿下と仰がなければならない状態に
なるのでどうしても潰しておく必要があった事情は理解する 秀忠は知らんが、家康は秀頼との融和路線をギリギリまで探ってたぞ
そもそもスレ違いだ秀吉信者 >>253
豊臣家は大坂の周囲で破壊行為の限りを尽くすテロリストの親玉だから、
社会の安定のために潰す必要が生じた
関白という肩書がどうのこうの言うのは、論点のすり替えに他ならない >>255
同父兄弟はいないけど同腹兄弟なら久松系が二、三人いただろ 平山優が大賀弥四郎こと大岡弥四郎事件と信康切腹事件の
関連性を論じているけど実際はどうだろうか >>258
関連付けられない事は無いけど情報が少なすぎて何とも 三河物語だと低い身分みたいに書かれているけど、実際は弥四郎は
結構高い身分だったみたいだし、彦佐は何でそんな脚色をしたのかね 世間的には、信成を家康の弟して認知していなかったから、意味はないな
単に徳川家臣内藤家の武将でしかない >>261
三河物語では信康の評価高いけど、そこら辺も関係しているのかな 内藤信成は駿府藩主だったが、家康の駿府隠遁に伴い、江州膳所に加増転封された。 Wikipedia上で、内藤家長の室が「松平忠長の娘」とあり、
その松平忠長のリンク先が駿河大納言という、
有り得ない構成になっている
同名の別人だろう
詳しく判る人、修正たのむ 家光と将軍の座を争って命を落とした、駿河大納言忠長卿の忘れ形見である。 >>268
からかわんでくれ
駿河大納言が生まれたのは、内藤家長の戦死よりも後だ
自分が死んだ後に生まれた人物の、更に一世代後に生まれる娘と
結婚なんてあるわけないだろう 松平忠長というのは松平弥右衛門忠長のことみたいだが、どの松平家の出身なのかわからん
寛政譜の索引持ってる人がいたら調べてほしい 弥右衛門という通称が提示されたのは、大きな進歩
ttp://www.geocities.jp/shiro20051212/Tokugawakashindan.html
個人作成のサイトから
内藤家長の項で、家長の母を松平弥右衛門としている
諱は不明
同名の別人か、あるいは母と室を取り違えたか
http://yoshiok26.p1.bindsite.jp/bunken/cn14/pg200.html
常山紀談から
二股城攻内藤桜井功名の事の項で、
松平弥右衛門忠長の名が登場する
弥右衛門の息子が彦九郎
関連部分を要約すると、
「彦九郎は内藤家長の縁者なので、家長は彦九郎の危機を弓箭で救った」
という、それらしい文面がある
どちらにしろ、史料と呼べる代物ではないし、
どの松平家の者かを調べる手がかりにはならないけど ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています