【信康・忠輝】歴代松平一族を語る【長親・清康】
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
血筋的な意味での松平本宗家って未だに残ってるんだよな 名君に挟まれる凡庸君主は忠がついてんな
信忠、広忠、秀忠・・・そう言えば長親の親父も親忠
忠の字は地雷なのか?忠輝は凡庸では無いけど違う意味で地雷だったしw 途中で書き込んじまった
要は単に松平家の通字が忠だったことによる偶然じゃね? 通字は「忠」や「親」、家康以降は「家」が追加された感じですかね? >>7
康は確か清康が初だし、家康も清康を尊敬して康を名前に入れたから通字じゃないと思う
他の松平一族(康忠とか)のは家康からの偏諱だろうし 信康、秀康、忠康とか見てると康が通字の仲間入りしかけたように思う >>6
家康が松平元信だったりしたこともあるし、
過去の当主にも散見されるから「信」の字も通字に含まれるかも? 忠輝や忠吉って、親じゃなくて兄から一文字もらってるのな。 松平家の早婚さは異常。祖父と孫の年齢差が31歳しかないとか。 >>15
忠輝は長澤松平家の政忠、康忠などの「忠」でしょう。忠輝の相続は慶長7年で既に秀忠が後継者とみなされていますから、秀忠の「忠」を貰っている可能性もありますが、まだ、後継者の段階ですので貰うのならば、家康自身からになるでしょう。
忠吉は東条松平家の家忠でしょう。天正9年東条松平家の家督を継ぐとともに忠康と名乗っています。この段階では秀忠はまだ徳川家の跡取りとは認められていないでしょう。
それよりも、「吉」のほうが信吉とともに秀吉の「吉」の可能性があるのではないかと・・・・。
「義」とか「頼」とかは、家康の源氏かぶれ
からきてるのか? 「義」と「頼」を相続権のある分家の分家にだけ使うセンスがカギなんだろうな。 >>14
早雲・氏親と戦ってるもんな
そういえば有名な500対10000で今川を食い止めたという逸話は何処まで本当なのかな 松平清康って結局どの程度の人物だったんだ?あれは松平旧臣達の
死んだ子の歳の数を数える真理と家康の祖父という事で評価されたのか
実際生きてれば織田信秀今川義元を滅ぼせていた可能性もあるのか? 若くして亡くなってしまった以上、わからないというしかないな
希望的観測を多分に交えて語る事も、逆に無理に貶める必要もないわけで 実際信秀との直接対決も無かったしな
まあ、死んだ原因が信秀の謀略だったら信秀>清康になるが ところで誰か家康本スレ立ててくれないかな?
タイトルは「【徳川家 総合】 徳川家康公スレ その十三」で、テンプレはこんな感じで
家康の天下取りは我々現代人に多くのことを教えてくれる。
幼少期の人質時代の屈辱。信長との同盟を守りきった律儀さ。
武田信玄との対戦。小牧・長久手での熟練した軍略。
豊臣政権下での着実な勢力伸張。そして文句なしの関が原での勝利。
天領400万石の圧倒的な徳川幕府。天下泰平250年。江戸は世界最大
の都市の一つとなった。
東京が首都となったのも、家康が始原。
死ぬまで階段をかけ上がった人生の達人。
前スレ
【徳川家総合】 徳川家康 公スレ その12
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1297989990/
関連スレ
□【信康・忠輝】歴代松平一族を語る【長親・清康】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1303368850/ ただ松平清康の場合もし長生きしていたて信秀を滅ぼしていたら
後の信長の出番はないわけでそういう意味で森山崩れってのは
大きな歴史の分岐点だったと言えるような気がするなあ。
実際清康は正直未知数な所もあるけど信秀は隣国三河と美濃の
混乱に乗じて一時的に飛躍はしたけど隣国が安定してからは
東は斎藤道三に負け、西に至っては義元に一方的に嬲られてた感じがするし
尾張内部でも信友如きに滅ぼしきれずに何度も足元すくわれそうになってたし 経済力を背景にしてただけで戦はあんまり強く無い。悪く言えば信長の
下位互換、進化前って感じしない? 13歳で家督を継いで、6年で三河統一している
まぁ只者ではないな そういえば長親の影響力はどれくらいあったんだろうね? >>31 そこなんだよね。悩ましいのは。いくら昔の人間が今より早熟だった
と言ってもちょっと若過ぎるような気がするんだよ。まして清康の場合
親父も爺さんも普通に生きてたわけだしどこまで実権があったか微妙
なんだよな。親父は暗愚だったと言われてるけど爺さんの長親は普通に
有能の部類に入るだろうし実際家中のパワーバランスはどうなってたの? 守山に長親って従軍してたっけ?
してないなら1万余の軍勢を清康が一人で統率してたわけだから
それなりに有能だとは思うが >>34 いや有能は有能でしょう。無能だったら親父みたいになってるだろう
から。ただいくら何でも13歳で家督相続したら最初の数年間はまともに
実権があったとは思えん。まして上にも書いたけど直系の先祖が普通に
生きてるんだから。 ただ守山崩れの後松平氏が内も外も相当ぐちゃぐちゃになったのは事実で
長親なり信忠なりがある程度力を持ってたならあそこまで混乱するのか?
という感じもするから正直色々な意味で清康って未知数だなあと思ったんだけど。 守山崩れは信定もいたからね。
将としては有能でも、家政を誤った人なんだろうよ。 まあ誤ったといえば誤っただけどやりたかったのは安城松平家の完全主君化だったんだろうね
それで一族厳しく取り締めたらあぼーんという
いや、守山崩れが信定の差し金かどうかわからないけど 完全主君化すなわち信忠本流路線で桜井に信定を入れて戦国大名化を図るという思惑から始まったとして
信忠不肖、清康頓死となれば、長親は広忠よりも信定に肩入れしたくなるだろうよ。 >>39 いやーでも信定ってさバカだよね。長親が消極的に味方してくれてんのに
最後四方八方みんな敵になって自滅してる。根回しの能力とか全く無いような >>41
いや、それは彦左とか江戸の過剰な改竄もあると思うよ。
桜井は碧海郡だから周囲の状況をさっ引いてやらないと。 だからさあ上に書いてある通り全てが眉唾臭いんだよな。まず第一に
長親の隠居が早過る上その理由が不明。信忠にしろ大きな失点がないのに
隠居させられる。しかも後継者が13歳の子供。こんな例はそうないぞ。
普通はもうちょっと大きくなってからだと思う。そして最初の数年間誰が
実権握ってたのか不明。長親にしてはイマイチ説明つかず。
そして守山崩れ。普通下剋上って人生下り坂の時家臣に狙われると
思うんだが何故か勢力拡大中に暗殺される。これも真相不明。
さらに信定に至っては広忠は暗愚で且幼君な為本来最高権力者で
おかしく無い筈の長親が味方してるのに何故か四面楚歌状態になってる。
一体だれが反信定の司令塔になったんだ?
そして何故かその広忠も暗殺され、家康は三河に帰って来たそうそう大規模
一揆。どう考えても色々胡散臭い。江戸期になって誰が意図的に歴史を
書き変えたんではなかろうか?俺が思うのは長親末期辺りから松平本家を
隠れ蓑にした影の実力者当たりがいたような気がするんだよなあ。
畠山における遊佐みたいなのが。その人物が邪魔な松平家の人間を次々
暗殺したり失脚させたりしていったなら説明がつく。でないと色々不明な
点が多過ぎる。そして江戸期に入って意図的にその一族ないし人物の
存在を抹消したのでは? >>44
三河物語そのものが、陰の実力者一族の弁明の書と考えられなくもない。
大久保一族の没落の凄まじさは、古参譜代の中でもあり得ないレベルだろう。
長安みたいな怪しげな技術者を身内にしたり、一応太閤ご指名となっているが
徳川のサラリーキャップの上限を超える4万5千石に要衝の小田原拝領といい、
家康にとっての最高功労者、鳥井元忠の4万石を超える高待遇。
井伊、榊原、本多の三傑に次ぐ、功績を挙げてるとは思えないというか、真田に
敗北して、徳川の武名を鳥居元忠ともども下げてるのに、明らかに優遇されてる
のも怪しい。案外、大久保一族が黒幕じゃないのか? しかしそんな大層な黒幕をなんで家忠が愚痴に書かなかったんだろうという
そういえば家忠もこのスレで語っていいのか……特にネタないけど 松平清康 石川清兼 水野清忠 榊原清長 酒井清秀
どうだろう。 >>49 そりゃ1555年生まれの家忠が元服するころには普通に
その人物は死んでたか力無かったんではなかろうか?
もしその時代になってもそんな人物がいたのなら信長公記だの
なんだのに記載されてるだろうから徳川だけの遺志では抹消できんだろう。 >>51
んー、そこまで権力握れるやつがいたら家忠の時代まで一族ぐらいは残ってるはずだし、
一族皆殺しとかになってたらそれこそ抹消できないレベルっていう
あと、大久保党じゃなかったら流石に彦左が書いてるはず
大久保党が黒幕だったら家忠が「大久保もすっかりしょぼくれたなー」とか書いてそうじゃない? >>52 三河在住の譜代の人物ならそうだろうけど北条早雲とか
斎藤道三みたいな他国から流れついてきた人物が1代で権力を
握ったパターンならその人物亡き後一族が残って無くても
不思議じゃ無くね? >>53
そんな人間がいたら確実に口伝として残ると思う
あと、そんなのがいたらここぞとばかりに彦左が
「我が大久保家はあのような者にいじめぬかれても変わらぬ忠節を御家に尽くし……」とか書くんじゃないかな >>55 じゃあもし俺の説が正しいとするとやっぱり該当する人物は
大久保党の誰かだったのかな?それとも俺の妄想?でも長親から
広忠に渡って最後が不自然過ぎる上に、反信定の旗頭になれる人物が
存在しなくなるんだけどなあ。 >>56
残念だけど妄想だと思うな
そこまで出来る人物が何十年も後継ぎを作らずに死んで、しかもあらゆる記録に残ってないとなると奇跡のレベルだし でも広忠の時代に長親に対抗できる人物が家中にいた事は事実だよね?
でなければ信定の簒奪計画があそこまで失敗する事は無い筈。
誰だったと思う? それこそ家臣団じゃないかなあ
いくら長親が宗家長老といったって信忠飛び越えて孫の代。
三河物語とかの話に基づけば清康は家臣によく懐かれてたみたいだし、
すでに分家筋になった桜井ごときに従うくらいなら広忠様を盛りたててやるわ!みたいな感じだったんじゃない?
よくも悪くも三河武士は勝手だし >>60
岩津な
確かに何故か消えた謎の惣領家は怪しいかもしれんなあ
岩津家については京に上って伊勢氏に直接仕えたという話も聞いたがどの史料に残ってんだろ しかし三河物語の清康が長生きしていればという意見だが例え守山崩れが
無くても尾張を領国化するか最低でも信秀を滅ぼしとかないと
史実の義元のポジションが清康になるだけな気がするなあ。一向一揆も
手つかずだし果たして尾張を領国化できる目はあったんか?
案外史実の家康と氏真のポジションが入れ替わって今川幕府なんて
もんが出来てたりして。 調べたら信秀との直接対決はないにしろ織田に対して無敗だな
1529年7月 品野郷・岩崎郷・小島城をそれぞれ制圧
1533年3月 広瀬城・寺部城の将が岩津城を攻めたのでこれを迎撃して打ち負かす
1534年6月 広瀬・寺部両城を制圧 花倉の乱が翌年起こってるから確実に東進するだろう。と言っても
西から松平が攻めてきた場合今川自体滅んでた可能性がある。
そうすると駿河は武田と北条が分割して遠江を掻っ攫ったとして
50万石ちょっとか。信秀がどこまで耐えられるかだな。
信秀も凡将ではないけど、良将止まりで名将とは言い難いから
清康の尾張支配部分が10万石くらいで耐えられるかだなあ。
それ以上だと流石の信長でも逆転不可能だろうし、あとが一揆次第か。 まあ、信秀もまだ全盛期じゃないだろうからな
32年が名古屋城乗っ取りだし
一揆もどのタイミングで起こるか、だからなあ
関係ないが信秀って三河守に任じられてたのか
家康があれほど家系偽造して任じられた官職をよくもまああっさり…… まあその辺朝廷の基準てようわからんような。
しかしそうすると松平家の人質に出される信長とか松平家臣団の信長とかいう
可能性もあったわけか。何だろう。松永久秀より家臣にしたくないなあ。
思いっきり死亡フラグな気がしてきた。 >>67
信秀の強みは、商業地からの収入だから、一概に石数では測れないが、まあ
どこまで耐えられるかだよなぁ。 >>68
松平でも多分、三河守はもらえたと思う
勅許による改姓が問題だったはず >>71
ああ、そうなのか
対今川や十八松平用に改姓して、尚且つ三河守にならなきゃならなかったから苦労したわけね
……というか何故徳川だったんだろうな?
世良田なら先祖に三河守いるし、だから清康は世良田名乗ったらしいし それなりに世良田は名が知られているからこそ、敬遠したとも言える
得川なら無名と評しても良いし 叙任の仲立ち(つーか斡旋かな)をした近衛らによるコーディネイトの
産物じゃないかな 今谷の受け売りなんだけど、織田信秀は伊勢外宮仮殿に
7千貫寄進していて、それで三河守に任官されたらしい。
このころの朝廷は、金で官位を売って生活していたようだ。 >>73-74
なるほど、そういや清康は世良田を名乗ったはいいが
吉良家に速攻で否定されたとか言うから無名の家の方がやっぱり良かったんだな
そういや清康は京まで行った話もあるのに任官はしてないんだな…… 家康が勅許にこだわったのも、その点があるでしょうね
三河は足利氏の影響で源氏にはうるさい場所でしたし 一つ聞きたいんだけど清康の三河統一ってどの程度の統一?
信秀の尾張統一くらいの名義だけで国内に守護・守護代だの
色々残ってますよ的取り敢えず最大勢力です的統一なのか。
1569年の信長的な概ねまあ統一って感じなのか?
桶狭間後の対外勢力の介入も許さないほぼ統一状態なのか
信清滅亡後の誰も反抗する気さえ起きない完全統一なのか
どれ? 西三河から日進市とか、ちょっと不思議な勢力圏の動きだとは思う。 清康自体がぱっと出て、ぱっと消えてしまったから、線引きは難しい気がする。
でも、松平一族は取りあえず押さえていたのではないかと思う。
松平党って、それこそ清康が出てくるまで、党としては絆が強いみただけど、主従
関係は結構曖昧じゃないか? >>79
吉良家が家康時代まで生存しとる
一向一揆にも加担して打倒家康をしようとしてたしね
ただ、実力・勢い的に周囲が反乱できない所までは持ってったみたい
吉良家にも清康の妹が嫁いでるし ……って吉良家は守護じゃないのか
そもそも三河は1511年以降守護・守護代は混乱により不在のようだ 松平忠吉は家康が西上するまでは、東海道の豊臣恩顧大名の城に配した
諸将の総大将という立場だった 忠吉が長生きすれば御三家は違う形になっていただろうしなあ。 尾張・甲斐・越後の御三家。
全国にほとんど睨みが利かないが江戸への防波堤にはなる。 徳川連枝と久松系を除いたら、江戸時代をのりきった
大名松平家ってほとんどないんじゃないか 意味不明基本松平家は徳川家の一門
譜代の松平氏はほとんどの大名家が改易されておらず江戸時代乗り切っている
越前松平家ですら改易何回もされてるけど将軍の兄の家ということで津山10万石で幕末まで乗り切っている
外様の大大名も江戸時代は松平氏だからたしか江戸時代の3割の大名は松平氏だから余裕で幕末まで続いている 徳川連枝ってのは家康の子孫てことじゃないのかね。
十八松平の血を保った大名家は少ないという意味なら納得できる。 守家って信光の長男なのに大して重要視されてないような >>80
天白川沿いに進んできたのでは?
というか天白川下流域の水野氏に対する牽制のような気がする 水野氏は松平のライバルで現代も水野姓は愛知県で10番目に多い名前。
>>93
岩津親長は家康の大叔父になる人らしいけど、どんな人だったんだい? 藤井松平、松井松平、大給松平、久松松平、形原松平、奥平松平、大河内松平は幕政に参与した者も出た >>99
親長は長親の兄、または親忠の兄とされる人だから家康の大伯父ではないんじゃないか
それはともかく親長はあまり記録に残ってない人物で、
上洛して伊勢氏の被官として活動したとか北条早雲と戦って討ち死にしたとか確証のない話しか知らないな
あと、岩津を居城としたことから宗家を継いだ人物とされることもしばしば 清康の死って不自然だよな。
斬った阿部弥七郎の父・定吉は処刑も切腹なされてないし。 不自然だと思い込みたい気持ちがあればどんな事象でも不自然に見えるものだ >103
阿部正○系と、阿部大蔵系の血縁関係は不明。
清康殺害という事件が、有力譜代としては汚点すぎて記録に残せないのか、
分家した世代が古くて、親戚付き合いも無いほど疎遠なのか、全く解らない。
ただ意外な事に、大蔵系の子は譜代の井上姓で続いてる。
てっきり家系は絶えたと思ってたんだけどね。 ageついでに、信康の「松平」表記ってどの史料が元なんでしょうか いい意味でも悪い意味でも水野の血はすごいな。
派手な松平清康や徳川家康の母は水野家出身で
地味な家康の親父である広忠の母は水野家じゃない
この差は凄いわ 清康の次男、源次郎信康は後継ぎ無しで死んだんだろうか
この人の一族が生きてたら徳川姓貰えてたかな? そいつは無理だと思いますよ。
徳川姓は、数ある松平諸家のうちの抜きん出た首席を意味する希少価値のある苗字。子にも名乗らせなかった。ましてや又従兄弟や大叔父では…
それは中臣傍流の鎌足が藤原氏を貰い、藤原四氏から抜き出した仲麻呂が恵美押勝を名乗った動機と同じだと解する >>110
けど、松平を名乗った息子たちって忠吉にしろ忠輝にしろ大分前に別れた分家を継いだからだし、
信康は実際松平名乗ったかどうかわからないし……ああ、信吉がいたか
ついでに調べたら信忠以降に出来た分家は全滅してるんだな 清康の弟達の系統は断絶、広忠の弟の源次郎信康は早死にで分家する余裕が無かった。 源次郎信康の討ち死には家康にとってよかったのやら悪かったのやら 源次郎信康が長生きしてたら広忠が死んだ後、今川家にいる家康に代わって
松平家の実質的な当主ってことになるだろうし
家康が桶狭間後に戻ってきた時に桜井信定の二の舞になるだろうな。 清康は自分自身を「安城四代世良田次郎三郎清康」と名乗ってるから
この頃にはまだ「松平宗家」=「安城松平家」という認識はなかったのかな そもそも●●党と名乗る勢力には、絶対的な上下関係がなくて
その時々に一番羽振りのいい人間が主導権をとる関係。
だから、宗家=指導者という認識も薄かっただろうし、
自分が宗家であると主張する必要も薄かったと思う。
とりあえず安城系が最有力と言う時点で、十分だったんじゃないの。
たまに信康を「岡崎信康」と表記するのを見かけるが、これって岡崎三郎信康を岡崎・三郎・信康と区切ると思った結果だろうか >>119
でも他の表記は「結城秀康」「徳川秀忠」「松平忠吉」・・・だぜ? >>121
スマンがそれがどういう理由になっているのかさっぱりわからん 徳川はもちろん、松平さえも名乗れない信康カワイソス そもそも「松平信康」とする根拠ってなんなんだろうね。実記あたりでそうなってるのだろうか
個人的には、名実ともに嫡男だった信康が徳川名乗れないってのもおかしな話がするんだけどなー
岡崎城と一緒に松平宗家の家督を家康の代わりに継いだとかなら説明はつくかもしれないけど でもまあ徳川家が広忠以前の松平氏の祭祀をしてるから徳川宗家=松平宗家か。と連レス 今川家や織田家の一門の「岡崎信康」なら、徳川一門の人物の苗字として通じなくもないよ。庶兄扱いで。 >>124
>徳川名乗れないってのもおかしな話がするんだけどなー
将軍じゃなければ、徳川と名乗るのはNGなんだっけ?
御三家とか例外はあるけど。 >>128
少なくとも俺は、徳川家の継承権を持った家が徳川姓名乗れるってことだと解してる
秀康は結城、忠吉は東条、信吉は武田、忠輝は長沢を継いだから継承権喪失=松平姓じゃないかな
で、信康が松平って書かれるのは、たぶん廃嫡されたから後世に徳川姓を剥奪されたんじゃねーかなと勝手に思ってる
なにかしら信康の発給文書が残ってれば存命時の名字がわかったんだろうけどね 徳川という姓は勅許として与えられたという経緯gあるから、
ある程度の時間を経るか、家康が相当の官位を得るまでは、
自儘に与えることは出来なかったのかもしれない
もしかしたら、当初は一代限りという条件だったかもしれないし >>130
松平次郎三郎元信を次郎元信とは略さんだろうって事だろ
岡崎(城)殿と呼ばれてたなら岡崎信康でもおかしくないけど wikipediaにある信康の息子の情報、何処が出典かと思ったら系図纂要だった
でもこれだと童表記なんだが……松平家長って何処からの情報なんだろう
母方の日向時昌にしてもググっても信康のページしか出ないし >>132
それはつまり小田原氏康とか小田原氏政も間違いじゃないということ? >>131
そもそも信康の姓は確定してないから当時の徳川姓の扱いすらわからないという
……というか調べてる内に松平信康表記はもしかしたら明治以降なんじゃないかという疑念が出て来た >>132
岡崎殿と呼ばれていたと勝手に思ってたわ。サンクス。 >>137
いや、藩翰譜なんかじゃ岡崎殿表記だったよ
ここで否定されてるのは信康が「岡崎」という名字ではなかったという話 >>132
数日考えてみたけどやっぱりおかしいんじゃないか?
信康を在城名から「岡崎殿」と表記するのはあくまで実名敬避俗によるものだろう
似たようなところでは秀忠が嫡男時代に「江戸中納言」と呼ばれていたが「江戸秀忠」じゃ江戸氏の一族みたいな表記になってしまう
信康に関しても通称+名前の「岡崎三郎信康」は正しくとも岡崎が名字化してしまう「岡崎信康」は誤りだと思うな
……まあ徳川実紀だと「岡崎次郎三郎信康」って表記が一部にあったりするが、これが名字扱いか通称の一部扱いかはわからん 上条政繁は間違い。ちゃんと上杉政繁しろとかそんなノリ? >>142
知らなかったからとりあえずウィキ読んでみたけど、上条家としてちゃんと成立してるなら上条政繁でもいいんでないの? 上条上杉政繁は史料上で上条殿と呼ばれてたから
一般的に上条政繁と表記されるけどあくまでも名字は上杉
また古志上杉景信は史料上では越ノ十郎殿などと呼ばれてたけど
一般的な表記は古志景信でも越ノ景信でもなく上杉景信
この辺は慣例によるものだから岡崎信康と表記されても別に間違いじゃない
ただ信康は慣例として松平信康と表記するのが一般的なので
共通認識にない岡崎信康を説明もなく唐突に使うのは控えるべきと
言うならそれはそれでもっともな意見 >>144
やっぱり慣例で通常から外れた読み方される人っているんだな。「とよとみひでよし」なんかもそうだが。
とするとやっぱり岡崎信康も間違いと断定するのは早計なのかなー……
個人的には、分家されたわけでもないんだから岡崎姓で表記するのには抵抗を感じるんだけど いつのまにかWikipediaで岩津松平に関する記事が充実してた 「岡崎信康」の
指摘はなかなか興味深い。
岡崎といえば
三河松平家歴代の中でも
英傑と称えられる
家康の祖父清康の本拠地。
家康自身は岡崎生まれながら
あまり愛着がなかった。
それがいつのまにか
信康が名実ともに支配者に。 >>44
なかなか鋭い指摘ですな。
だが、黒幕に特定の誰かがいたのではなく
司馬遼太郎氏が指摘
していたように
三河の後進性による寄合所帯的な
軍団の性格によるものだと
思われます。 >>63
残念ながら消えたのではなく
滅亡しました。 >>149
新行紀一先生なんかは「信康は支配能力が欠けてたから切腹させられた」って言ってるけどな >>149
本能寺の変や守山崩れも判らない事だらけですが、
徳川家の松平信康の自害も結構判らない事だらけですね。
徳川家内部の浜松派と岡崎派の対立と言う事になっていますが、
武田家も武田義信自害してますから、似たような物なんでしょうか?
武田義信の自害は、対今川問題がこじれた結果なんでしょうけどね。
そうなるとやはり岡崎派と武田家の近い関係は、
全くのウソでもない可能性が出てくるのか、どうか?
松平信康の自害は、記録は少なく良く判りません。
以前は、信康の聡明さを懸念した信長の介入で自害させられたとの説が
主流でしたが、今では、信長はあんまり介入していないとの説になっています。
しかし信康側近は、徳川家から追放されたり、切腹させられたりしているみたいですけどね。
>>152
信康が無能と言う記録や証言は有りません。
家康自身も期待していた様子ですし、能力不足は無いでしょう。
それに能力不足なら、切腹までさせません。
出家させて、寺にでも放り込んでおけば良いと思います。 >>153
天正四年の岡崎家臣の大反乱を許してる時点で信康の統率力には疑問符がつくぞ?
しかも信康の傅役の一人すら反乱に加わるという始末
まあ信康を松平信康と呼ぶ時点で>>153の勉強不足が伝わってくるわけだが >>154
そんな事を言ったら家康だって一向一揆とかで本多とかに
裏切られてますし、信長なんて、何回裏切られているか判らないでしょう。
松平信康が、生きていれば、秀吉の命令で日明戦争(朝鮮征伐)にも加わったでしょう。
ヌルハチ(ドルゴン)vs松平信康の戦いを見てみたかったです。
(家康は、関東の社会基盤整備や新田開発に追われているかも知れませんが)
それに信康なら、秀忠と異なり、関が原の戦いにも間に合ったでしょう。
小早川の裏切りとは関係なく、信康の活躍で、東軍が勝ったかも知れません。 >>155
家康や信長は裏切られても自分で収拾できているが、信康は出来ていない
それどころかその家臣の反乱の責任を取るために切腹させられたという説まであるくらいだ
そもそも信康有能論なんて後世の史書にしか出てこない。いいから新編岡崎市史一回読んでこい >>157
>信長は裏切られても自分で収拾できているが
本能寺の変は、自分で収拾出来たんですかね?wwwwwwwwwwwwww 家康が天下を取ったおかげで清康も評価されてるけど
清康の実際の力量はどの程度のものだったんだろうね?
清康は13歳で家督相続してるから最初の数年は権限があったとは思えないし
何より祖父の長親が健在だった。
かといって凡庸な人物だとしたら守山崩れで松平家が急速に衰退したというのが不自然になる。 有能な祖父が後見についてる父も死んだ訳じゃない清康君13歳はともかく
幼君が立てば一時的にも衰退するのは普通じゃねの 新編安城市史に「実際の戦の指揮は松平信定がやっていたのではないか」という説が載っていたな >>156
真田の上田城なんて放って置いて、
サッサと関が原に急行すれば良い。
本多正信もそう言っていたし。 家康からの使者が遅れたからどうやっても間に合わないらしいよ >>162
秀忠の元来の任務は「真田征伐」
これを関ヶ原急行に変更する使者が大雨で遅れたため、秀忠は遅参した 影武者家康説のメインって関ヶ原とか大坂の陣だと思うけど
それ以前バージョンあるじゃん、信憑性はともかく。
@守山崩れで死んだ清康が実は家康に当たる人物で、その後に影武者世良田次郎三郎
を立てた。
家康(清康)の子である信康が元服するまでの繋ぎだったが
信康と岡崎派を世良田次郎三郎が制してそのまま政権を奪取した。
A守山崩れで死んだ清康の実子が実は信康で、元服するまでの繋ぎで影武者世良田次郎三郎が
繋ぎ兼信康を守るための隠れ蓑として当主の座に就いたが信康と岡崎派を制してそのまま政権を奪取した。
どちらにしてもこの事実を隠すために色々隠蔽は行われただろうけど、
隠し切れなかった一部で年代やら発給文書に齟齬矛盾が生じたとしたら
清康後の空白期やら、謎の権力者の存在とか説明ついたりするよな。
とんでも理論だとは思うけど、面白い。
俺はIF楽しむぐらいだけど、史料漁る人たちからしたらこの説はどうなの?
話のタネにでもなればいいし、個人的に興味あるから聞きたいんだけど。 「切腹の日本史」って本の信康の項がWikipediaを参考にしてるっぽくて草不可避だわ 松平信忠、松平信定、松平信孝って織田家の当主の諱と被る 松平信長「俺もいるぞ!」
武田、織田、松平と信の通字率が高いのは偶然なんだろうかね 広忠が家臣に殺されたと思ってる人間の多いこと多いこと そういえば話変わるけど、イスラム国で人質のとられた二人はどうなった?
そういえば昔、竹千代少年も織田方に人質にとられて、今川を恐れた親父に見捨てられた
んだよな?その時殺されなかった竹千代少年が、後に徳川による日本支配を完成させるん
だから、やっぱ歴史はドラマではあるな。 そういう議論なら、ぜひ 松平宗家もまぜていただきたい。 違うとは思うが、松平氏が源氏を称するようになった事自体は松平信光の頃まで遡れる >>176
ウイキペディアだと賀茂氏の出ともあるね、でも新田源氏系統とも書いてあるんだがどちらなんだろ?
松平信光の伯父が得川を名乗ってるみたいだし、家康は松平でも良かったんでわとおもふ >>177
信光三男の松平親則や泰親の息子益親が賀茂朝臣を名乗っていたことが妙心寺本尊仏像記からわかる
一方信光が妙心寺に収めた自筆の願文には「永世ここで子孫を守り、源氏の武運が永久に尽きることのないように願います」
という文面が出てくる。信光に賀茂朝臣説と源氏説があるのはこれのせい >>178
なるほど、教えていただきありがとうございます 松平が賀茂で
娘たぶらかして転がり込んだ放蕩坊主が新田
という設定じゃなかったっけ? http://ninkyou.blogspot.jp/?m=1
ヤクザグッズなら当店にお任せ下さいませ。
指定暴力団体代紋バッチ各組織出品中!!
画像を御覧くださいませ!! ホンマに松平清康とかっていたの?広忠はいそうな気がするが。君主殺しても
御咎めなし?まじかよw。 清康を殺害した阿部正豊は植村氏明にその場で斬られた
広忠を殺害した岩松八弥は植村氏明の追跡で討ち取られた(異説あり)
植村氏明は松平家当主の親衛隊長みたいな役割を担っていたようだ
剣術に長けていたが、今一歩で主君を護りきれず、後々まで悔いていたそうな
氏明の後を継いだ嫡男・植村家存は、家康の親衛隊長を務めた豪傑で、
石川家成らと共に家康初期の重臣に任じられるが、若死にした
家存の嫡男・植村家次は、信康に付けられた
信康切腹事件に納得いかずに下野し、放浪
後にこっそり榊原康政に雇われ、康政のとりなしで徳川家に帰参
ただし榊原康政家の陪臣としてであり、微禄
家次の嫡男・家政は微禄の旗本としてスタートしたが、
幕政下で実績を重ねて大出世
最終的に2万5000石の大名になる
植村家は、先祖が松平宗家の重臣だったという家格に相応する地位に返り咲いた 岩津松平家の通称「和泉守」は信光→親長と相続された後、何故か大給松平家が名乗るようになり、
安城松平家の通称「蔵人」は親忠→長忠→信忠と相続された後、清康広忠ではなく信忠次男信孝が名乗るという闇 天下の将軍家の祖先なんだから、もっと逸話とか適当に盛っても良さそうなものだけどなぁ 徳阿弥って何者だったのかなぁ
新田源氏の末裔ってのは後世の捏造だろうけど流浪の旅人が松平家に婿入りしたっていうのは多分事実としてあったんだよね
後に天下を支配する一族の祖が素性不明の旅人ってロマンあるわ 織田や浅井と同じで名家に接続するために創造された人物でしょ 信康の男子って、女子と違って殺されちゃったのかな? そもそもいない
万千代とかいうのは系図纂要にしかないし しかし家康は子供時代苦労したとか言われるけど広忠の苦労はその比では無いな
叔父に城を乗っ取られ、流浪生活を余儀なくされ、今川の後ろ盾で漸く戻れたと思ったら
一族をはじめとした反乱続き、嫁は離縁、子供は人質に取られ、最期は佐久間の刺客により暗殺だからな >>192
親父も子供の頃暗殺されてるし、三河武士の忠節なんて話、どこから沸いて出たんだ 松平家の戦国大名としての成り立ち見ると
所謂譜代大名の先祖達も多くは松平と同じ土豪や国人だったりしたのが
徐々に服属させられて家臣化していったみたいだし >>193
たぶん、そう思っていなかった家康が吹いたんじゃね?
吹けば踊る三河武士・・ なんちゃってサ。
うちの会社の創業者が静岡出身だから、俺は身にしみて分かる。 篠山城のWikipedia記事が、
松井松平家が十八松平家に属すと誤解した記述だったから修正しといた
藤井松平家と形原松平家も分けておいた
藤井松平家の子孫が形原松平家というわけじゃないもんな 松平分家ありすぎて混乱する。
長親ってどうなんだろうな、あんまいいイメージない。長親親父は切れ者のイメージあるが 長親の子にも色々疑問があるよな
信忠の早期隠居の背景とか
信定は次男なのか三男なのかとか
親盛が実は息子の中では最年長なんじゃないのかとか
まあ息子の兄弟順に関しては、嫡母と庶母の息子じゃ扱いが違うから
長男の親盛が次男に回されたり、嫡母が産んだ二人目という事で
信定が次男扱いされてる可能性もあるけど 信定よりだったりね。お家が混乱した時も傍観気味だし。 親忠って井田野の指揮はしてるけどそこまで切れ者イメージ持たれるような逸話あったっけ 後半行くと松平姓いろんな人に与えてるよね。他家だと分家の苗字与えるのは良く見るが。
まあ徳川に変えたから分かるが旧苗字に執着あんまなかったのかね家康さん。
苗字なんで得川にしなかったんだろう 当時は得川がまだ存続していて使えなかったって話を読んだ事あるな 泰親って親氏の息子なの、弟なの、どちらの説が今有力なんだろう 弟が有力
現在支持されている関係図はこんな感じ
―親氏――信広
| |
| ―信光
|
―泰親 >>202
源氏得川では三河守就任の前例がなかったので前例のある藤氏徳川にしたとか何とかかんとか
1566年だから将軍が京に居なかったので近衛さんに頼まざるをえなかったっていうのも理由になるのかも 勉強不足で悪いが、家康の家ってのはどこから取ってきたんだっけ?
子供には信長から信を取ってるが、自分も元康から改名する時、家臣ではないが信長から信をもらうっていう考えはなかったのかな?そこはプライドあったのかな当時は。同等の同盟の相手だみたいに 婚姻の絡まない一字拝領は基本的に主従関係を意味するから
対等同盟だった当時の織徳同盟で元康が信の字を貰うのはありえない
足利義昭から貰って昭康と名乗るならありえるけど、当時無位無官の元康には昭の字は与えんだろうな >>209
ええ!!まだ大した大名でもない頃に八幡太郎から取ったの?
恐れ多い奴だな家康w 松平一族の中でも家次や家忠みたいに家の字を与えられた者と
康元や康忠みたいに康の字を与えられた者の差はなんだろう? 大まかに言えば血縁が近い松平は通字の康。遠目なら家じゃね >>213
>通字の康
安祥松平の通字は親忠、長忠(長親)、信忠、広忠を見るに忠なんじゃないか
>>211
家康にとって尊敬する祖父の康の字と八幡太郎義家の家の字とではどちらが重かったのか 清康だよねきっと。
八幡太郎とは縁もゆかりもないし。 清康のやすはどっからもってきたんだろう?
いたっけ康の付く大名周りに? 下の字だし偏諱とかじゃないだろう
前名である清孝の孝と通じる字を選んだんじゃないか? 兄弟で清康(清孝)、信孝、康孝って名前してるけど、清は吉良持清からだと思うが、孝と康は気になるな。 まあソースはこれしかないけど
ttps://twitter.com/kou_mikabushi/status/25427190492 松平氏は伊勢氏の被官だったこともあるから
孝の字は伊勢貞孝からの偏諱じゃないかって
説をなにかで読んだことがある気がする 拝領した字を下に置くかなー?
吉良持清から偏諱された説のある清孝はともかく信孝康孝も下においてるし 松平周防守康福
松平周防守康爵
松平周防守康任
松平周防守康直 親長・親則・親忠兄弟も伊勢貞親から偏諱されたという説が出てるけど、
当時の松平一族に公親という人物がいることからホントに偏諱されたのか疑問 なるほど、確かに伊勢の被官だしね。でも名前の下に置くのはおかしいよね。
でも長親の家系は正嫡じゃないから怪しいところいっぱいですね 多分松平氏自体が三河山奥の土豪出身だろうけど、初期の頃は謎が多くて面白い 松平の祖と言われる親氏も怪しい人物だけど
その親氏を娘婿に迎えた松平信重やその父親の信盛は
もっと経歴の怪しい人物だからなぁ 架空架空と言われていた松平泰親の実在がほぼ確定したから信重や信盛もまあいるんじゃないかと >>229
不勉強で恐縮なんだけど、泰親の実在をほぼ確定した史料って何? >>231
ありがとう、泰親の道号だか法号だかの用金が書かれている札だっけ? >>232
そうそう
1436年の日付で松平太郎左衛門入道用金の名前が書かれていて、
三河物語の泰親の法号と一致する 伊勢の被官だったんだっけ?
信光の親父らしいよね。
信光はやり手 >>234
少し上のレスにもあるけど、泰親は父じゃなくて叔父が有力のはず
律儀に兄の子に家督を譲った背景は分からないけど
ところで松平氏由緒書ってどれだけ信頼できる史料なのか
三河物語よりはあてになるのかな >>235
松平氏由緒書の信頼度に関する論考は「戦国大名論集徳川氏の研究」に載ってたぞ
泰親が信広に家督を譲ったのは恐らく松平信重の血を引いているのが信広・信光兄弟しかいなかったからじゃないかな
信光に岩津城を譲った理由の方は不詳だけど >>236
その論考どこで読めるのですか?
地方民なので国会図書館とかは
勘弁して欲しいのですが >>237
何処に住んでるかわからないから確実なことは言えないが、
とりあえず地元の図書館のサイトで「戦国大名論集」か「徳川氏の研究」で検索してみて
多分地方でもそこそこの規模の図書館ならおいてあるはず
場合によっては図書館の相互貸借制度を利用すれば遠出せずに読めると思う >>229
泰親は伊勢氏と繋がりを作ったり、岩津城を奪ったりとそれなりの勢力を持っていたみたいだから、
その勢力の土台を作った人間がいないとならないよな 安祥松平家の通称は次郎三郎みたいだけど
他の松平家の通称はどうなっているんだろう >>216
康がつく有名どころの武将だと足利氏の祖である源義康とかいるけど
新田氏の流れの世良田氏を名乗った清康が足利氏関連の諱の一字を持ってくるのは
違和感があるし、新田氏や世良田氏の中に康の字を持つ人でもいればよかったんだけど
見つからなかったしなぁ あれかね、簡単に言うと秀吉は出生をごまかしきれず関白の養子になって関白になったが、家康はなんとか誤魔化して源氏を名乗り征夷大将軍になれた。
豊臣家は征夷大将軍になれなくて家康が就任できた時点で豊臣家の運命が決まった感があるような気がする 秀吉の時点では征夷大将軍になるよりも関白になる方が意味があると思えた
家康の時点では関白になるよりも征夷大将軍になる方が意味があると思えた
ただそれだけの話 >>244
全 然 関 係 な い
氏を源にしなくても征夷大将軍にはなれるし、
関白は征夷大将軍より格上だし
秀吉が、自分が関白に推挙した秀次を殺したことで豊臣家の運命が決まった
豊臣家のトップが妄想性パーソナリティ障害の欠格者だから自滅しただけ 関白は無理だが幼少で夷を討つ大将軍にはなれる、という理屈がすごいな
幼少ではそもそも戦場にもでれまいに
たしか幕末では外人を夷と見立てて、攘夷をしない征夷大将軍とはなんぞや?
という論があったそうな 幼少の関白の前例はないけど、幼少の征夷大将軍の前例はあったからな 大坂の武家関白家がまだ健在だったころいかに徳川家が将軍になろうと
秀頼が関白になってしまえば、再び関白殿下と仰がなければならない状態に
なるのでどうしても潰しておく必要があった事情は理解する 秀忠は知らんが、家康は秀頼との融和路線をギリギリまで探ってたぞ
そもそもスレ違いだ秀吉信者 >>253
豊臣家は大坂の周囲で破壊行為の限りを尽くすテロリストの親玉だから、
社会の安定のために潰す必要が生じた
関白という肩書がどうのこうの言うのは、論点のすり替えに他ならない >>255
同父兄弟はいないけど同腹兄弟なら久松系が二、三人いただろ 平山優が大賀弥四郎こと大岡弥四郎事件と信康切腹事件の
関連性を論じているけど実際はどうだろうか >>258
関連付けられない事は無いけど情報が少なすぎて何とも 三河物語だと低い身分みたいに書かれているけど、実際は弥四郎は
結構高い身分だったみたいだし、彦佐は何でそんな脚色をしたのかね 世間的には、信成を家康の弟して認知していなかったから、意味はないな
単に徳川家臣内藤家の武将でしかない >>261
三河物語では信康の評価高いけど、そこら辺も関係しているのかな 内藤信成は駿府藩主だったが、家康の駿府隠遁に伴い、江州膳所に加増転封された。 Wikipedia上で、内藤家長の室が「松平忠長の娘」とあり、
その松平忠長のリンク先が駿河大納言という、
有り得ない構成になっている
同名の別人だろう
詳しく判る人、修正たのむ 家光と将軍の座を争って命を落とした、駿河大納言忠長卿の忘れ形見である。 >>268
からかわんでくれ
駿河大納言が生まれたのは、内藤家長の戦死よりも後だ
自分が死んだ後に生まれた人物の、更に一世代後に生まれる娘と
結婚なんてあるわけないだろう 松平忠長というのは松平弥右衛門忠長のことみたいだが、どの松平家の出身なのかわからん
寛政譜の索引持ってる人がいたら調べてほしい 弥右衛門という通称が提示されたのは、大きな進歩
ttp://www.geocities.jp/shiro20051212/Tokugawakashindan.html
個人作成のサイトから
内藤家長の項で、家長の母を松平弥右衛門としている
諱は不明
同名の別人か、あるいは母と室を取り違えたか
http://yoshiok26.p1.bindsite.jp/bunken/cn14/pg200.html
常山紀談から
二股城攻内藤桜井功名の事の項で、
松平弥右衛門忠長の名が登場する
弥右衛門の息子が彦九郎
関連部分を要約すると、
「彦九郎は内藤家長の縁者なので、家長は彦九郎の危機を弓箭で救った」
という、それらしい文面がある
どちらにしろ、史料と呼べる代物ではないし、
どの松平家の者かを調べる手がかりにはならないけど 葵三代の家光役の尾上辰之介観てたら腹立つ 喋り口調が歌舞伎のまんま 違ったか
常山紀談の文を読み直したら、
射伏せりとあるから、彦九郎は敵将朝比奈に射殺されたんだな
家長は、義兄弟の仇討ちで朝比奈兄弟に射返し、負傷させたという話 「弥」右衛門という通称といい「忠」長という諱といい五井松平家臭がすごくするのだが、
寛政譜には松平忠長という人物は見当たらなかった 寛政譜によれば、彦九郎の討死で弥右衛門の系統が絶え、
家長に松平弥右衛門家の相続を勧める命が下ったが、家長が固辞したため弥右衛門家は絶えたようである となると、十八松平には含まれない、
マイナーな枝分かれ松平家だった可能性が高いわ 前述したように五井から分かれた一族かと思うんだけどなー
あと、三方ヶ原で討死した松平弥右衛門がこの人でいいのだろうか 情報少なすぎで一概には言えないよー
息子の諱は不明で、通称は彦九郎で特に「弥」を引き継いでおらず…
「忠」を含む諱は全体に多く、
深溝家でも藤井家でも桜井家でもそれっぽく感じてしまう 「内藤家伝」には家長の妻(馨宗院伝荘誉月庵理慶大姉)を
「御油(五井)松平系 弥右衛門忠長」とし、
「系図纂要」では忠長は五井松平氏四代忠次の弟としている。 内藤家伝、譜牒余録中巻か。翻刻でてないのはきっついな Wikipediaに簡単な伝を立てるくらいの情報は集まりそうですか?
とりあえず、内藤家長縁者としてのリンク先が駿河大納言という
四世代ほどもズレた全くの別人になっている現況は打開すべきかと 夫人の戒名は馨宗院?
姉妹がいた場合に備えて、個人を特定できる情報があるなら入れておく方が良いかも
後々、夫人について誰かが項目を立てるかもしれないし
「妻:馨宗院(松平弥右衛門忠長の娘)」といった記述でどうでしょ 本来なら松平家の本家である岩津修理亮親長って親忠の影に隠れて
存在感薄いけどどうだったんだろう
断絶したというのもあるだろうけど、安祥松平家にとって都合が悪いから
記録が失われた可能性ってあるかな 親長は生涯の大半を京都で過ごしてるから記録の残りようがなかったというのもあると思う 松平一族は数が多いから結構よく分からない人物が多いよね 親長末裔を称する松平親以の家系も本来は五井家っぽいとか 応仁の乱終結後三河守護が置かれなくなったんだよね
幕府の直轄国ってことかしら
それ以前から松平氏が伊勢氏の被官だったのもよくわかんない >>286
松平七人の衆と言うのがあって惣領である岩津太郎を除く、
形原又七郎、安祥二郎三郎、大給源八郎、岡崎大膳亮、
竹谷与二郎、五井弥九郎、長沢源七郎の七人だっけ >>292
二はともかく、通称に七の字が入るのが二人いるのはなんだろう >>293
誤伝。長沢の親則の発給文書では源七郎ではなく弥次郎と名乗っている
大給の源次郎が源八郎になっているのも誤りだな 信光の嫡庶子合わせて分かっているだけで兄弟順どうなっているのかな
太郎って言うくらいだから本来岩津が嫡長子だろうけど >>295
自分が今まで読んだ本だと信光の男子の兄弟順に関しては
親長、乗元、親則、親忠、正則というのと
親長、乗元、親忠、親則、光重というのと
守家、親忠、昌龍、与副、光重、光英、忠景、光親、家勝、親正、親則というのがあったな 江戸時代の系譜ではそういう事になってるけど、
親長は1462年以前から京都での活動を行っていることが確認されるので1438年生まれの親忠の子供とするには無理がある
乗元も1443年生まれだと伝わっているので、親忠の子供とは見れない >>296
通称が受け継がれていたにしろ、
秀忠にしろ家光にしろ元服前に
官位貰っていて使う機会が無かったんだろうね
それにまさか将軍を通称で呼ぶわけにもいかんだろうし >>298
親長の通称が太郎で乗元が源次郎、親則が弥次郎で親忠が次郎三郎なのを見ると
一番上が正しいような気がするな。三男の親則が早世した所為で四男の親忠が
三男扱いされるようになった説もあるらしいし
ただそうなると乗元と親則の通称のどちらにも次郎が入っているのが気になるが 乗元は正室の子じゃなかったのかもしれない
正室の子供だけだと太郎親長、弥次郎親則、次郎三郎親忠に 形原は彦太郎と又七郎の二つの通称があるのは何だろう
あと岩津庶子の通称に六、七、八も持つ家はあるけど
四と五がいないのは何でかなぁ >>305
岩津弥四郎信守という人物が実在するからこの人の系統が家康以前に絶えたせいで
四郎がいないように見えるのかもしれない
五郎系は何故か五井家に二人いる(源五光則・八郎五郎親勝) >>307
岩津なのに太郎じゃなくて弥四郎って事は
岩津家の庶流の人なのかな? >>307
五井系も岩津を名乗っているので、岩津を名乗っている=親長の子孫というわけではない
というか信光が岩津家だから太郎左衛門家以外全員岩津家の庶流だし >>258
ほぼ間違いないでしょ。それ以外にあり得ない。
家康は大岡弥四郎事件をうやむやに終わらそうとした。
この事件をつつくと、徳川家が分裂する恐れが高いからだ。
しかし、信長が許さなかった。大岡弥四郎の後ろにいた築山を、
断じて見逃さなかった。信長の言い分は、長篠で多くの兵を出し、
戦死者も大勢出しているのに、うやむやに済まされてはたまらん、
というもので、信長側も筋はそれなりに通っている。
なお、長篠後に武田と通じることはない。武田家は長篠で事実上
滅亡し、ゾンビと化していたからだ。家康も信長の意図を組んで、
わざと戦線を動かさないようにしていた。本当ならあっという間に
滅ぶ相手にも関わらずにね。 応仁の乱は東軍
↓
明応の政変による将軍廃立は新将軍足利義澄(この派は義晴・義輝・義昭)派
↓
永正三河の乱で義材(この派は義維・義栄)派の今川に負ける
↓
同派の斯波義達が織田達勝に追放され達勝は義維派に鞍替え
↓
織田今川に挟まれるも清康打開のために今川氏輝が若年で家中を掌握できてない隙に
美濃三人衆や武田信虎と連携しながら尾張出兵
↓
守山崩れ
↓
桜井松平による広忠追放
↓
今川家において栴岳承芳は家督の正当性を得るために義晴から偏諱を受け義元に
甲斐武田家とも和睦するなど安祥松平と同じ義晴派に鞍替え。反対する福島氏が玄広恵探を担ぐ(花倉の乱)
↓
東条吉良家を通じて今川の支援を受けながら岡崎復帰を目指す
↓
広忠死去後松平の他一族を今川が直接統治する
↓
義元が桶狭間で死後独立を目指す 和牛受精卵、中国へ4回流出 徳島の牧場経営者逮捕
産経ニュース-2019/03/20
「新たに受精卵などの流出元の牧場経営、松平哲幸容疑者(70)=徳島県吉野川市鴨島(かもじま)町=を逮捕した。」
↑
徳島の松平ってどの系統の松平?
同じ徳島には「松平養蜂場」というのもある 今日は楽しかった(笑)
豊臣患者へ(笑)
愛を込めて徳川ファンより(笑)
アッハッハ! 安祥松平、松平郷松平、竹谷松平、形原松平、大草松平
五井松平、深溝松平、能見松平、長沢松平、大給松平
宮石松平、奥殿松平、滝脇松平、福釜松平、桜井松平
藤井松平、三木松平、矢田松平、岩津松平、東条松平
鵜殿松平、本目松平家、鴛鴨松平、丸根松平、牧内松平
下屋敷松平、松平主殿家、松平主馬家、岩村松平、府内松平
伊賀守松平、山城守松平
こっから江戸時代さらに分かれていくし外様もいる訳か 深溝松平家当主の
松平忠承さんが今何やってるかわからん
検索したら大蔵省とか出てきた(笑)
1965年生まれらしいんで
2025年ぐらいに活動なさるのか?
あと松平浩一さんがんばって下さい >>317
忠をつけるのはさすがにと思ったのかな
名が浩一なのは 嫡流じゃないんだろ
うちの家だって
「景」とか「虎」だしね通字っぽいの 現代松平家になるが、ツイッターで見つけた@hideyasu0915これはどの系統の方なのだろうか 子沢山なのは水戸徳川が有名だけど他も加賀の松平大弍家とか子沢山の家がそこそこあるんだよな
隔世遺伝なんだろうか ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています