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北条家が即効で豊臣の軍門に下ったなら P35
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0001人間七七四年
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2010/11/27(土) 23:35:44ID:RVJuSpcr
家康も増長しなかったろうし、5大老になって秀吉死後権力を振るいまくり。
北条幕府を開けたかもしれないのですがどうでしょう。
IFにつきあってください
お願いします!
0203人間七七四年
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2014/03/04(火) 21:59:41.33ID:KjEoWGPH
実力があれば、嘘も本当になる。
0204人間七七四年
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2014/03/04(火) 22:51:48.42ID:0DgLa6oD
秀吉が馬鹿だったしルールを破るような残虐な人間だったからね
養子として景勝や信孝や信雄や信包や氏照や氏邦や氏忠や元春や隆景や元清や結城秀康や葦名義広らはちゃんと家を継いだぞ。
北条から養子に入った上杉景虎も北条との同盟決裂後殺されるどころか、むしろ家督相続候補にまで入ってるのに
養子として入った人間の生殺与奪権を秀吉が持ってるとか相当馬鹿だな。
そんな事があったら翌年家康が上洛せず諸城普請や北条との同盟強化とか家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員など、抗戦姿勢示せるわけないし、その瞬間秀康は殺されてただろ。
秀康は単に一時的な停戦の条件として秀吉の元に養子として入っただけだし、池上氏の指摘するように家康の屈服を意味するものではないのは明らか。
養子として入った人間だからこそ、信雄も秀吉は秀康を人質としては扱っていないと言ってるし
家康は天正13年も抗戦姿勢を崩さなかったんだし
0205人間七七四年
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2014/03/04(火) 22:52:43.76ID:MZA2HzAy
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に13倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
0206人間七七四年
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2014/03/05(水) 20:02:50.19ID:Crm1l3KX
実際に大勢の大名の前で土下座したのは家康だけどね。
侍大将まで引き抜かれてにっちもさっちもいかなくなったとこを
助け舟(これならお前の面目立つだろう)出されてそれに飛びついただけ
0207人間七七四年
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2014/03/05(水) 20:56:41.40ID:xGEGDNoV
秀吉がルールを破るような残虐な人間だったとお???
どこがじゃあ!!!
0208人間七七四年
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2014/03/05(水) 20:58:54.58ID:bTmVZz8W
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
0209人間七七四年
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2014/03/05(水) 21:00:17.26ID:n0uQiDzp
秀吉は完全に土下座状態だったからね
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
しかも関東八州250万石まで家康にプレゼントするヘタレっぷり。
0210人間七七四年
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2014/03/05(水) 21:02:19.04ID:/chkxD/7
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや
前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる領内軍事機密露見に付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、
いざその時期が来た!と思ったら ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
上杉も木曽も真田も一柳も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
0211人間七七四年
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2014/03/05(水) 21:06:13.00ID:rot48Ei0
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
0212人間七七四年
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2014/03/05(水) 21:06:51.26ID:oqYKykZS
ぶっちゃけ家康なんて従属してないよな
秀康なんて停戦条件の和議の条件で養子として迎えただけだし(秀吉は秀康を人質としては扱ってないと信雄が天正13年7月書状で書いてる)
従属なら自分の母と妹を自国の15分の1の国力の相手に送り出すとかありえないし
0213人間七七四年
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2014/03/05(水) 21:07:49.92ID:6h0hrRDC
秀吉は雑魚の信雄に敵の8倍の兵力で挑みかかって大敗し
11/4に顕如に土下座して信雄との停戦の取り成しやってもらって
家康を孤立させた癖に家康相手にも自力では全く何もできず
寝返りの連鎖・天正11年からの災害の連発に備えた徳政令連発・石川らの離反による軍事機密露見で
領国が崩壊した自国の10分の1以下程度の国力の家康に必死に土下座して、従ってくれ〜と母や妹に加えて関東240万石まで差し出すヘタレっぷり。
結局自力では全く歯がたたないから滅ぼされたってだけの事だろ。
家康が温情深い性格だから、自分に土下座してきた相手だから仕方ねぇって家康は何もしなかっただけ。
0214人間七七四年
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2014/03/05(水) 21:10:44.86ID:2O79amCl
結局ガチンコ勝負だったら敵軍の8倍〜11倍で攻め込もうが全く勝ち目がないから母や妹まで家康に差し出して
土下座しただけ。
実際に攻め込んだら直接対決で雑魚の信雄相手に135000の大軍で挑みかかってガチンコで1万人ぶち殺される大敗喫した上に
その後の攻防も蟹江・浜田・前田・下市場・長久保は奪回され
戸木城・松ノ木城・東駒野城・河波城・二重掘合戦攻防でも破れて結局会戦当初から
伊勢でも尾張でも美濃でも寝返り続出で崩壊状態だった信雄領国を自力では尾張半国すら切り取れなかったからな。
滅ぼせるわけがない
0215人間七七四年
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2014/03/05(水) 21:11:25.10ID:rot48Ei0
結局実際に戦いになるとどれだけ兵力差があろうがあっさり敵にひっくり返される雑魚な指揮能力しか
秀吉は持ってないから、家康や信雄に秀吉はどれだけ国力差があろうが土下座するハメになって
家族や関八州260万石まで献上するハメになっただけ。
X結局それが原因で家康は大版図と秀吉縁戚の地位を得る事となり
豊臣家を楽に継承したんだろ。自力で歯が立たなかったから普通に豊臣家は滅ぼされただけ。
秀吉は必死に家康に土下座して、母や妹を差し出したり関八州260万石やったり高い官位と秀吉縁戚の地位やったりして
気を使いまくってたから、慈悲深く、温情あふれる家康は、秀吉生前中は、お情けで秀吉を生かしてやっただけ
0216人間七七四年
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2014/03/05(水) 21:11:52.15ID:6h0hrRDC
対毛利の防衛戦で行われた熊見川の戦いや
対信雄の防衛戦で行われた二重掘合戦あたりが
秀吉の戦闘センスのなさや指揮采配能力の欠如を端的に物語ってる。
どちらも信雄や輝元など、糞みたいな凡将相手に防衛戦にもかかわらず3000人殺されたり
寡兵で襲撃されて楽田からたたき出されてヘタレ敗走してるし
0217人間七七四年
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2014/03/05(水) 22:00:59.35ID:VMLM0BMf
秀吉は防御戦でも醜態さらしてるからね
二重堀合戦では1000そこそこの信雄勢に奇襲食らって楽田陣から見事に敗走させられてるし
熊見川の戦いは上月城の防衛を目的に行われた防御戦だったが見事に失敗して3000人も殺されてるし上月城・神吉城も奪回されて尼子勢をはじめ大量に戦死者出してる
つか山崎合戦とかも光秀方から仕掛けた戦だし陣地も光秀は朝廷を守るため天王山の陣取りを捨てて不利な形で布陣したわけだし防衛戦じゃない。
しずヶ岳だって勝家が攻撃してた中川の拠点守るため出兵しただけだし普通に防御戦だろ。勝家の方から攻めかかってきただけだし秀吉は撤退途中の勝政・盛政を背後から圧倒的大軍で強襲したら
逆襲くらって不破・前田・金森らが兵をひくまで結局均衡くずせない始末だし
0218人間七七四年
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2014/03/05(水) 23:30:53.36ID:7SiB40/Z
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
0219人間七七四年
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2014/03/06(木) 20:43:21.70ID:rIOl4H3f
秀吉が戦いを避けた真意は???
家康の軍事機密露見で、家康のしょぼさも露見し、戦うまでもないことが分かったから。
0220人間七七四年
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2014/03/06(木) 22:49:49.32ID:z3Y7aszU
秀吉は実際に戦うとどれだけ兵力差があろうがあっさり敵にひっくり返される雑魚な指揮能力しか
秀吉は持ってないから、家康や信雄に秀吉はどれだけ国力差があろうが土下座するハメになって
家族や関八州260万石まで献上するハメになっただけ。
0221人間七七四年
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2014/03/06(木) 22:54:23.50ID:nbb5/Z43
秀吉は完全に土下座状態だったからね
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
しかも関東八州250万石まで家康にプレゼントするヘタレっぷり。
0222人間七七四年
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2014/03/06(木) 22:57:46.64ID:z3Y7aszU
秀吉は雑魚の信雄に敵の8倍の兵力で挑みかかって大敗し
11/4に顕如に土下座して信雄との停戦の取り成しやってもらって
家康を孤立させた癖に家康相手にも自力では全く何もできず
寝返りの連鎖・天正11年からの災害の連発に備えた徳政令連発・石川らの離反による軍事機密露見で
領国が崩壊した自国の10分の1以下程度の国力の家康に必死に土下座して、従ってくれ〜と母や妹に加えて関東240万石まで差し出すヘタレっぷり。
結局自力では全く歯がたたないから滅ぼされたってだけの事だろ。
家康が温情深い性格だから、自分に土下座してきた相手だから仕方ねぇって家康は何もしなかっただけ。
0223人間七七四年
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2014/03/06(木) 23:00:17.86ID:npKj6NBT
結局ガチンコ勝負だったら敵軍の8倍〜11倍で攻め込もうが全く勝ち目がないから母や妹まで家康に差し出して
土下座しただけ。
実際に攻め込んだら直接対決で雑魚の信雄相手に135000の大軍で挑みかかってガチンコで1万人ぶち殺される大敗喫した上に
その後の攻防も蟹江・浜田・前田・下市場・長久保は奪回され
戸木城・松ノ木城・東駒野城・河波城・二重掘合戦攻防でも破れて結局会戦当初から
伊勢でも尾張でも美濃でも寝返り続出で崩壊状態だった信雄領国を自力では尾張半国すら切り取れなかったからな。
滅ぼせるわけがない
0224人間七七四年
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2014/03/06(木) 23:03:39.43ID:nbb5/Z43
結局それが原因で家康は大版図と秀吉縁戚の地位を得る事となり
豊臣家を楽に継承したんだろ。自力で歯が立たなかったから普通に豊臣家は滅ぼされただけ。
秀吉は必死に家康に土下座して、母や妹を差し出したり関八州260万石やったり高い官位と秀吉縁戚の地位やったりして
気を使いまくってたから、慈悲深く、温情あふれる家康は、秀吉生前中は、お情けで秀吉を生かしてやっただけ
0225人間七七四年
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2014/03/06(木) 23:26:57.02ID:A79Dox44
秀頼滅ぼすまでは武家の官位任官の独占できなかった家康は
秀吉ほどの権力はなかったよ。そこが家康の限界。
0226人間七七四年
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2014/03/06(木) 23:54:07.54ID:z3Y7aszU
秀吉と違って家康は全く官位に頼る必要がなかったからね。
0227人間七七四年
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2014/03/06(木) 23:58:37.88ID:ERniKrL8
秀吉は武力平定路線を小牧長久手合戦で打ち砕かれてから
必死に本願寺顕如に取り成しの土下座依頼したりや朝廷に献上品しまくったり
饗応の節句に参加したり、御所の修理をお金出して手伝ったり、朝廷への土下座を始めるからね。
家康の場合はその必要が全くなく武力で天下統一が楽勝だったから、何もしなくても征夷大将軍になったし。
0228人間七七四年
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2014/03/07(金) 00:07:11.69ID:RNp3BpF9
秀吉は家康や信雄に100〜250万石の領土や肉親に加えて
官位まで土下座献上してるんだよな
次々に出世させてある公家日記によると天正15年時点で征夷大将軍に家康がなったとか書かれる程だし。
0229人間七七四年
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2014/03/07(金) 00:11:51.41ID:LsqNM+ww
結局実際に戦いになるとどれだけ兵力差があろうがあっさり敵にひっくり返される雑魚な指揮能力しか
秀吉は持ってないから、家康や信雄に秀吉はどれだけ国力差があろうが土下座して
家族や関八州260万石やチート官位まで献上するハメになっただけ。
結局それが原因で家康は大版図と秀吉縁戚の地位を得る事となり
豊臣家を楽に継承したんだろ。自力で歯が立たなかったから普通に豊臣家は滅ぼされただけ。
秀吉は必死に家康に土下座して、母や妹を差し出したり関八州260万石やったり高い官位と秀吉縁戚の地位やったりして
気を使いまくってたから、慈悲深く、温情あふれる家康は、秀吉生前中は、お情けで秀吉を生かしてやっただけ
0230人間七七四年
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2014/03/07(金) 00:14:35.77ID:PpkHAnrH
対毛利の防衛戦で行われた熊見川の戦いや
対信雄の防衛戦で行われた二重掘合戦あたりが
秀吉の戦闘センスのなさや指揮采配能力の欠如を端的に物語ってる。
どちらも信雄や輝元など、糞みたいな凡将相手に防衛戦にもかかわらず3000人殺されたり
寡兵で襲撃されて楽田からたたき出されてヘタレ敗走してるし
0231人間七七四年
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2014/03/07(金) 07:48:37.02ID:zH/iMvYW
むしろ家康の方が官位というか朝廷の権威頼りまくりですよん。
上杉征伐一つとっても綸旨貰えるまでグダグダしてたし。
0232人間七七四年
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2014/03/07(金) 09:18:52.03ID:Gn4uoB5L
家康は賊軍として豊臣正規軍である西軍に自力で戦いを臨んだし
ほとんど朝廷工作も献品もやってないにもかかわらず
次々に官位の出世を果たした。そこが秀吉との大きな差。
家康は次々に秀吉生前の約定を破って、豊臣政権下禁止された私婚や、島津への豊臣直轄領の割り当てなど
好き勝手やりまくり、豊臣家のいいつけを守りまくってた西軍諸侯にどうどうと喧嘩ふっかけて
逸れに対する奉行衆らの襲撃も軍事力で排除したしな。
はっきり言って官位や朝廷の力にほとんど頼る必要すらなかったのが家康。
官位や朝廷の力に依存しまくって必死に本願寺顕如に取り成しの土下座依頼したりや朝廷に献上品しまくったり
饗応の節句に参加したり、御所の修理をお金出して手伝ったり、朝廷への土下座をやりまくってたのが秀吉。
0233人間七七四年
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2014/03/07(金) 09:24:04.97ID:LsqNM+ww
秀吉は完全に土下座状態だったからね
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
しかも関東八州250万石まで家康にプレゼントするヘタレっぷり。
0235人間七七四年
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2014/03/07(金) 11:01:17.70ID:1HBtt4Nu
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや
前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる領内軍事機密露見に付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、
いざその時期が来た!と思ったら ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
上杉も木曽も真田も一柳も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
0236人間七七四年
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2014/03/07(金) 18:16:18.52ID:zH/iMvYW
西軍が豊臣正規軍なんて嘘八百もいいとこだな。
豊臣第一の家臣である家康に対して窓際に追いやられた三成が起死回生狙って
毛利抱き込んで結成したのが西軍だから西軍の方が賊軍。
だから関ヶ原の勝敗だけであっさり瓦解しちゃったの。
0237人間七七四年
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2014/03/07(金) 19:21:16.08ID:LsqNM+ww
東軍には三成憎しの武功派と家康が外交や婚姻で懐柔した伊達・蜂須賀などが付いたのに対して
西軍には上杉・毛利・宇喜多や5奉行のほかの連中・さらに畿内・西国の諸将が多く付いている
三成襲撃事件後三成が失脚し、家康は「天下殿」という世評を受け、
その後に暗殺計画の企て摘発により前田利長・浅野・細川を屈服させ相当な権力を確立したと思われた後ですら
これだけ多くの味方が三成には付いたという事は諸侯は内心では家康のやり方は無茶苦茶で豊臣政権をあからさまに犯すやり方をしてると考えた証拠だろう
0238人間七七四年
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2014/03/07(金) 19:24:54.89ID:2eEqkp2e
家康は豊臣政権下禁じられた私婚を連発し、諸大名との婚姻関係で自派閥を拡張したり
島津家の領土問題に介入して、豊臣政権の倉いり地を削ってまで、島津の領土勝手に増やして恩を売ったり
それらに対する弾劾を武力で排除したり
前田や浅野にいちゃもんつけて攻め込むそぶりみせて降伏させたり
勝手やりまくってるじゃん
それに対して秀吉生前の豊臣家中での約束事の反故を突きつけて
豊臣公儀軍を起こして、謀反人家康を討つという名の下に蜂起したのが西軍。
東軍についた連中なんてほとんど三成にくしで豊臣家への恩義も全て忘れて
家康に利用されただけのアホな武功派くらいしかいないしな。
0239人間七七四年
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2014/03/07(金) 19:36:22.33ID:LsqNM+ww
三成ばかりが罵倒されるが、三成は単に政権運営に必死になってただけだろう。
やってる事も外様の禄高削減や、蔵入り地の増大や家康の専横への弾劾状など
豊臣政権が正常に運営するために必要な事ばかりしかやってない。
豊臣崩壊の真の元凶は家康に篭絡されたアホ武功派と
総大将に奉り上げられながら何もできず戦力を分散しまくり大敗した馬鹿輝元と
家康の示威行動にビビッて即効土下座したヘタレ浅野・前田だよな。
0240人間七七四年
垢版 |
2014/03/07(金) 22:11:21.18ID:wv/4HuYb
土下座して天下取れたんなら、秀吉なかなかやり手だね。えっ、家康?家康さんが土下座したって、天下は取れるどころか、謝って養子を差し出す羽目になるね。
養子って、秀康さんのことだよ〜。
0241人間七七四年
垢版 |
2014/03/07(金) 23:43:37.56ID:2eEqkp2e
家康が秀吉に養子を出したのって
北条が藤田や大石家に養子を出したり
毛利が吉川や小早川に養子を出したりした
織田が神戸・長野・北畠 などに養子出したのと同じ事でしょ。
屈服させた相手に、関係を強固にしたり、自家との一体化や支配を強固にするために
従属下の大名に養子出しただけ。
0242人間七七四年
垢版 |
2014/03/07(金) 23:54:42.26ID:Z5kHQOva
佐竹も葦名家に養子を出してるね。
養子は当主が死ねば当然その家の後継者候補になるし
その家を継ぐ大義名分にもなるし家中で大きな権力・威信・名分・軍事力を持つきっかけにもなる
北条から養子に入った上杉景虎も北条との同盟決裂後殺されるどころか、むしろ家督相続候補にまで入ってるのに
養子として入った人間の生殺与奪権を秀吉が持ってるとか相当馬鹿だな。
そんな事があったら翌年家康が上洛せず諸城普請や北条との同盟強化とか家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員など、抗戦姿勢示せるわけないし、その瞬間秀康は殺されてただろ。
秀康は単に一時的な停戦の条件として秀吉の元に養子として入っただけだし、池上氏の指摘するように家康の屈服を意味するものではないのは明らか。
養子として入った人間だからこそ、信雄も秀吉は秀康を人質としては扱っていないと言ってるし
家康は天正13年も抗戦姿勢を崩さなかったんだし
0243人間七七四年
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2014/03/08(土) 10:45:26.86ID:FTQN9Rf0
武断派はむしろ賢いよ。三成がKYだっただけ。
天下は一番実力のあるものが治めるのがあの時代における共通認識。
関ヶ原なんて徳川にいい顔されるのが気に喰わない毛利や上杉焚き付けて
自分の権勢とりもどそうとした三成の私怨によるクーデターにすぎない。
自分が政権の中枢にいられるなら後はどうでもよかったんだよ。奴は。
0244人間七七四年
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2014/03/08(土) 11:23:52.82ID:OmOts6lu
天下で最も実力があったのは三成でしょ。所領は十数万石程度しかないのに
西軍は関ヶ原の畿内方面だけで18万もいるチートっぷり。
しかも家康が天下殿の世評を得るようになった後ですらこの破格ぶり。
三成は西軍首謀者として挙兵する気はさらさらなかったが、西軍の一武将としての参戦だけでこれだけの規格外の人数があるほど
人望と政略に秀でてたんでしょ。
まぁ家康の場合豊臣政権下での決まり事を無視しまくった専横をやりまくってて
大義名分がまるきり0だったから、東軍には三成にくしで凝り固まってたアホな武功派くらいしか付かなかったのもあるが。
0245人間七七四年
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2014/03/08(土) 13:54:22.53ID:DxQS2k8C
>織田が神戸・長野・北畠 などに養子出したのと同じ事でしょ

まったく違う。織田は上の立場の者が下の立場の者に養子を出したの。家康は真逆。

もう一度いう。養子の意味合いが全然ちがう!
0246人間七七四年
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2014/03/08(土) 14:54:32.09ID:OmOts6lu
秀吉は信雄や顕如に土下座して無理矢理講和を締結した、
そして秀吉は家康にも土下座して、母や妹を差し出し、関八州250万石と
チート官位まで献上。家康は秀吉に養子を出した。
どうみても織田が神戸・長野・北畠 などに養子出したのと同じ事でしょ
0247人間七七四年
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2014/03/08(土) 14:55:23.61ID:FTQN9Rf0
>天下で最も実力があったのは三成でしょ
アホすぎ。その当時、政治の中枢から放り出されて悶々としていただけだよ。
毛利の威があったから決起できただけ。関ヶ原の真の首謀者は毛利。
一度は手に入れた美濃を速攻で奪還されて旗色悪くなったから責任三成に押し付けて
梯子を外しただけ。
家康も毛利や上杉とガチでやりあうほどの余力が当時はなかったから
30万石ばかり残すってことで手打ちにしたの。
0248人間七七四年
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2014/03/08(土) 14:57:03.68ID:CMtcajbL
秀吉は完全に土下座状態だったからね
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
しかも関東八州250万石まで家康にプレゼントするヘタレっぷり。
0249人間七七四年
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2014/03/08(土) 14:58:36.34ID:dlcbcBIO
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや
前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる領内軍事機密露見に付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、
いざその時期が来た!と思ったら ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
上杉も木曽も真田も一柳も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
0250人間七七四年
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2014/03/08(土) 14:58:39.27ID:FTQN9Rf0
大勢の大名の前で秀吉に土下座したのは家康。
母親と妹を送りつけられてむしろ追いつめられたのは家康の方。
ここまでされて従属しなかったら後がどうなるか内心ガクブル状態。
だから秀吉が死ぬまでは大人しくしてたのよ。
豊臣政権は秀吉が秀次を殺したことで終わった。
権力の所在が武家関白ではなく秀吉個人だけにあることを自分で証明しちゃったからな。
0251人間七七四年
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2014/03/08(土) 15:00:29.61ID:7edmqzNL
家康は全く土下座なんてしてない。
下記のように秀吉がビビリまくってて家康は暢気に過ごしてただけ。
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
0252人間七七四年
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2014/03/08(土) 15:01:42.55ID:OmOts6lu
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
0253人間七七四年
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2014/03/08(土) 15:03:11.98ID:7edmqzNL
対真田の敗戦や、天正大地震や、天正初頭からの領内の天災の連続(家忠日記に毎年のように洪水や堤防の決壊などが起こってるのがわかり
家康の徳政免除の文書はこれに対応するためと久保田氏が書いてる)や木曽小笠原石川水野真田と立て続けに離反し続け
徳川領国は軍事機密も露見し丸はだかになった後ですら、種種の領国崩壊要素があり、秀吉からしてみれば半月で瞬殺できそうな状況で、
天正13年秋から天正14年初頭まで上杉木曽真田など諸大名や家臣に当てて
天正14年初頭の三河出兵計画を散々書いて、重臣一柳にもその実行のための行動を命じておきながら
いざとなるとビビリまくって信雄に仲介を必死に頼んで、戦闘を回避した上に
母や妹を差し出して家康に土下座してるんだがw
家康は暢気に岡崎や浜松で北条との同盟強化や諸城普請や人質招集など
領内の防衛体制を構築してただけで、秀吉に従属する構えは全く見せてなかったなんだがw
0254人間七七四年
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2014/03/08(土) 15:04:53.77ID:dlcbcBIO
結局ガチンコ勝負だったら敵軍の8倍〜11倍で攻め込もうが全く勝ち目がないから母や妹まで家康に差し出して
土下座しただけ。
実際に攻め込んだら直接対決で雑魚の信雄相手に135000の大軍で挑みかかってガチンコで1万人ぶち殺される大敗喫した上に
その後の攻防も蟹江・浜田・前田・下市場・長久保は奪回され
戸木城・松ノ木城・東駒野城・河波城・二重掘合戦攻防でも破れて結局会戦当初から
伊勢でも尾張でも美濃でも寝返り続出で崩壊状態だった信雄領国を自力では尾張半国すら切り取れなかったからな。
滅ぼせるわけがない
0255人間七七四年
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2014/03/08(土) 16:07:48.54ID:OmOts6lu
対毛利の防衛戦で行われた熊見川の戦いや
対信雄の防衛戦で行われた二重掘合戦あたりが
秀吉の戦闘センスのなさや指揮采配能力の欠如を端的に物語ってる。
どちらも信雄や輝元など、糞みたいな凡将相手に防衛戦にもかかわらず3000人殺されたり
寡兵で襲撃されて楽田からたたき出されてヘタレ敗走してるし
0256人間七七四年
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2014/03/08(土) 16:20:42.86ID:3Z8a5RPz
熊見川の戦いも二重掘合戦も捏造だしw
0257人間七七四年
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2014/03/08(土) 17:22:34.14ID:xp24YtBq
秀吉は防御戦でも醜態さらしてるからね
二重堀合戦では1000そこそこの信雄勢に奇襲食らって楽田陣から見事に敗走させられてるし
熊見川の戦いは上月城の防衛を目的に行われた防御戦だったが見事に失敗して3000人も殺されてるし上月城・神吉城も奪回されて尼子勢をはじめ大量に戦死者出してる
つか山崎合戦とかも光秀方から仕掛けた戦だし陣地も光秀は朝廷を守るため天王山の陣取りを捨てて不利な形で布陣したわけだし防衛戦じゃない。
しずヶ岳だって勝家が攻撃してた中川の拠点守るため出兵しただけだし普通に防御戦だろ。勝家の方から攻めかかってきただけだし秀吉は撤退途中の勝政・盛政を背後から圧倒的大軍で強襲したら
逆襲くらって不破・前田・金森らが兵をひくまで結局均衡くずせない始末だし
0258人間七七四年
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2014/03/08(土) 17:29:57.73ID:3Z8a5RPz
細川家記とは現在では綿考輯録と呼ばれていて
明智軍記からの引用もあって見事に怪しさ倍増になっている。
(本能寺の変から120年後に書かれた明智軍記から40年後に細川家記が書かれている)
0259人間七七四年
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2014/03/08(土) 17:35:23.36ID:OmOts6lu
顕如条文案 紀州惣門徒中宛文案
去5日上月城落居之由候、近比目出候、去月21日上月城下にて敵三千計討死手負不知敷由候
天正6年7月7日   紀州惣門徒中へ 顕如
厳島野坂文書 仁保元棟洗米返事 御状令拝見候、乃去十七夜之…(中略)
則拝領候、此表上勢及合戦、以其響令敗軍候、上月之儀茂可一着候、此方大利之段…
天正6年7月1日棚守左近将監  花押 同左近大夫殿 御返報

天正6年6/26毛利輝元→二宮大宮司書状 去21日上月後巻の敵敗軍候(忌宮神社文書)
7/18毛利輝元→桂広繫  宴上月之儀一着候大慶此事候、(服部家文書)
6/28毛利輝元→林就長  敵破軍大慶候、上月もはや可為一着候 (福永家文書)
8/10輝元→児玉元兼  今度播州佐用郡内上月城執詰之時…(児玉家文書)
天正7年輝元→元兼 天正6年輝元→冷泉 依上月表之儀…(冷泉家文書)
また顕如条文案5/2や7/7でも先日上月表へ差下候使今日●寺候…
0260人間七七四年
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2014/03/08(土) 20:05:23.10ID:DxQS2k8C
結局家康が人質を送った件はどうなったんだ?
0261人間七七四年
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2014/03/08(土) 20:18:10.71ID:OmOts6lu
家康が秀吉に養子を出したのって
北条が藤田や大石家に養子を出したり
毛利が吉川や小早川に養子を出したりした
織田が神戸・長野・北畠 などに養子出したのと同じ事でしょ。
屈服させた相手に、関係を強固にしたり、自家との一体化や支配を強固にするために
従属下の大名に養子出しただけ。
0262人間七七四年
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2014/03/08(土) 20:21:32.83ID:dlcbcBIO
停戦しただけなのを家康が土下座したとか曲解したり
養子を人質とかデッチ上げたり秀吉厨の脳内は相当腐ってるな。
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
0263人間七七四年
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2014/03/08(土) 20:48:07.13ID:OmOts6lu
そもそも豊臣政権自体が単に敵対者の対立を利用して得た漁夫の利の棚ボタ勢力だから
敵対勢力を根こそぎ潰すなんてできるわけがない(実際信雄・家康を散々押し潰すだの攻め滅ぼすだの書状で書きまくっておいて戦うと
長久手で1万人戦死、戸木・松ノ木・浜田・蟹江・二重堀・神戸・東駒野など各城郭で負けまくったんだからそんな芸当無理)
対明知戦…摂津衆、神戸信孝・丹羽・中川など離反。対柴田戦…勝豊・稲葉ら美濃衆・前田・不破・金森・信雄
そこで上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
毛利の敵対者宇喜多、南条、尼子残党、赤松、小寺、山名、別所、浦上、草刈
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友や龍造寺残党・相良・阿蘇、北条の敵対者佐竹・結城・宇都宮・那須・壬生・皆川、
信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田や水野、石川
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけで取った中身のない天下だから
一々敵対勢力潰すなんてしてたらこいつらまで敵に回して滅ぼさなくちゃいけないからそんな実力到底秀吉にはない(対毛利戦や信雄戦で証明してる)
0264人間七七四年
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2014/03/08(土) 20:59:24.07ID:AKLYcdas
京の公家日記とか秀吉の捏造歪曲フィルターをかかった情報とかがそのまま伝わって公家日記に間違った情報がかかれてたりするけど
小牧長久手の敗報は秀吉のハッタリ誇大喧伝をもってしても打ち消せないほど衝撃的だったらしく京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる
さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれておりその他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦
の痛手はひどかったんだろうね 何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだから
イエズス会年報とかフロイスの日本史とかも秀吉の下記のようなデタラメハッタリ誇大喧伝を間にうけて事実かのように書いてるけど
そんな秀吉マンセー軍記ですら小牧長久手の秀吉方戦死者は1万人とかいてるからね
秀吉は敗戦後諸大名にあてて負けはしたもののほんのさわりにもならないとか堅固に意思を固め、家康を討伐してやるとか書いてるけど
そんなハッタリを以ってしても覆い隠せないほど小牧長久手の敗戦のダメージは大きかったんだろ。普通に135000対16000なら半月くらいで決着がついてもいい兵力差だからな
0265人間七七四年
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2014/03/08(土) 21:02:34.73ID:dlcbcBIO
豊臣家が滅亡したのは、秀吉が広大な版図持ちながら自力ではどこにも勝てず上杉佐竹毛利長宗我部木曽小笠原真田石川水野十河河野大友龍造寺前田
柴田勝豊金森不破信雄宇喜多など諸大名に土下座しまくって力を借りて漁夫の利を得ただけの見せ掛け政権だったおかげ。
所詮自力で取った天下じゃないのであっさり徳川に敗戦し潰されたのが史実
秀吉が広範な版図支配下においたといっても所詮一時期だけだしなぁ
所詮徳川に木っ端微塵にされて滅亡した雑魚でしかない。
秀吉が統率87なら他の有力大名なんか200か300くらいないとおかしい
何せ雑魚に蹴散らされる事で有名な信雄・氏政・輝元の日本三大凡将に大敗したレベルだし
秀吉が城攻めうまいってどこから出た話なんだろうな
大嘘もいいとこなんだが。
松ノ木・戸木・三木とかめちゃめちゃ苦戦してるし
小田原1200程度に手も足も出なかったレベルなのに
結果でいえば豊臣家は滅ぼされたから秀吉は能力0だろ(死んだ後とかどうとか関係ない。結果は結果)
光秀に殺されて死んだ信長はいうまでもなく能力0だがな
0266人間七七四年
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2014/03/08(土) 21:03:20.81ID:OmOts6lu
基本的に朝廷は京を制圧している大名と積極的に関係を築こうとするからね
近世成立記の大規模戦争86ページ 信雄は、この時期にも天皇・公家衆と積極的な関係を構築していない
これは信雄自らが京都を制圧しておらず、安堵などを通じて公家衆に対する主従的な関係を構築していないからである
公家衆や門蹟衆としても京都の支配者は秀吉であり、公家社会の擁護者である秀吉との関係が重視された。
83ページ 公家社会の政治的構造は、基本的に京都を制圧する政権やその有力武将との良好な関係の構築を試みるが、対立する武家勢力にも様々な人脈に基づき
関係を構築しうる二重性を備えていた
0267人間七七四年
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2014/03/08(土) 21:06:33.46ID:OmOts6lu
>>だからこの時期の織田軍は毛利と播磨西部で戦ってねーんだよカス

天正6年5月晦日 吉川元長→以徹尊老  此元山陣(播磨国上月城)以後不申通候、…此方山陣者、去月十八日、敵陣取者、
去四日ニて候、…(上月)城内ニハ勝久、羽柴筑前守 千木下藤吉郎・荒木以下にて候、然処、此間、従有方聞へ申候、従勢州滝河と申者佐間両人
所、羽築・荒木所へ…
天正6年5月吉川元長書状 上月一途之分候間、
天正6年7/12吉川元春→一色藤長 如仰此表敵陣之儀、去24日敗軍候、上月要害之儀茂山中鹿介種種致懇望、
尼子勝久・同助四郎方ニ腹を切せ申候、
7/18足利義昭御内書→吉川元春 上月城落居之由
7/27足利義昭御内書→吉川元春 至黒沢山陣替之由、重畳辛労無比類候、然者、織田城介三木表只今在のよし候条
7/27真木嶋昭光副状→吉川元春 至其表御陣替之段、誠御粉骨無比類被、依織田城介三木辺只今居陣之由候条
10/16足利義御昭御内書→吉川元春 今度播州永永遂在陣、殊打続、只今其表居陣由、重畳無比類忠功候、
12/7朝倉宮増丸→武田刑部太輔 太守御出馬播州表、始上月落居、被得御大利之旨、珍重存候、
0268人間七七四年
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2014/03/08(土) 21:08:38.82ID:EyG9NIt4
以上児玉家文書
天正6年6月21日(15780060210) 3条【綱文】 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
晋叟寺文書 天正6年8/21 今度播州上月之城従芸州被催候処、自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為
虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、成田五郎左衛門尉秀綱(花押) 晋叟寺 衣鉢閣下
荻藩閥閲禄巻91林平八 敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、 輝元 御判
巻115の2湯原文左衛門 桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、
其表之事堅固之儀可肝要候  天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿  輝元 御判
顕如条文案 紀州惣門徒中宛文案 去5日上月城落居之由候、近比目出候、去月21日上月城下にて敵三千計討死手負不知敷由候
天正6年7月7日   紀州惣門徒中へ 顕如
厳島野坂文書 仁保元棟洗米返事 御状令拝見候、乃去十七夜之…(中略)
則拝領候、此表上勢及合戦、以其響令敗軍候、上月之儀茂可一着候、此方大利之段…
天正6年7月1日棚守左近将監  花押 同左近大夫殿 御返報
0269人間七七四年
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2014/03/08(土) 21:11:46.13ID:dlcbcBIO
秀康は元々一時的な停戦条件の養子として秀吉に送られただけなのを秀吉が無理矢理人質として歪曲誇大喧伝しただけでしょ。
家康と秀吉は天正13年も以前として睨み合って、両者とも出兵準備進めまくってたし
上下関係など全く生じていないのだから、人質などというのは明らかにおかしい(人質なら、即上下関係、臣従関係が生じているはず)
実際秀康を人質だの書いてるのは、秀吉有利なハッタリ誇大喧伝やそれを真にうけてる宣教師のハッタリ史料だけだし
京以西の秀吉の基地外誇大喧伝と偽情報によって歪曲されまくった情報ばかり載ってる顕如日記や公家日記でも、秀康は養子と書かれてるだけで、
東国表は和睦したとか無事になったとか書かれてるだけ(顕如日記では唯一秀吉のハッタリを真に受けて
信雄より種種懇望があったとか秀吉のデタラメをそのまま事実として書いてるが)
年代記や記録類をみても
享禄以来年代記→秀吉出張勢州、而後連和止戦
永禄以来大寺記→十月信雄与家康和親
本国寺年譜→秀吉、信雄和親、解兵而別
高野春秋→信雄・秀吉両公和睦
当代記→信雄秀吉令一和
などと書いてて、両者が和睦しただけなのは明らかだし
0270人間七七四年
垢版 |
2014/03/08(土) 21:13:50.19ID:dlcbcBIO
秀吉のハッタリ誇大喧伝を真に受けて偽情報ばかり垂れ流してる顕如日記でも
秀康はやがて罷下べしと也と書いてて、一時的に講和の条件として秀吉の養子として大坂に預けられてて
いずれ三河に返される予定だったのを、秀吉が無理矢理奪って、人質に摩り替えて卑怯な誇大喧伝をしてただけ。
だから秀吉が余りに卑怯なのに恐れをなした家康が、このままでは到底自分が臣従しても騙まし討ちを食らうのではないかと恐れて
秀吉が出兵計画進めまくったりそれを佐竹や真田や上杉に宛てて書きまくっても、家康は臣従せず
秀吉は秀吉で家康よりも遥かに劣る織田家で最も無能な信雄に8倍の兵力で短期決戦挑んで散々に蹴散らされまくった程苦い思い出があったから
長々かけて考えてた出兵計画を取りやめて、母や妹を差し出したり、信雄に仲介和睦を必死に懇望して、家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに
土下座してきたから、家康はまぁそこまでするなら卑怯な秀吉でも、上洛して大丈夫だろうと考えて、上洛しただけ。

石川→天正12年時点で秀吉に篭絡されかかってて完全な秀吉親派。
三河物語で小牧合戦に勝利後秀吉を襲うぞ!と息巻いてる本多らに対して石川は秀吉に篭絡されてたから
反対してやめさせたという逸話が書いてるが、嘘くさいようだが、下記のように本当に秀吉と連絡をとりあっていたようだ
0271人間七七四年
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2014/03/08(土) 23:03:49.40ID:q2mSoFBJ
秀吉が直前まで出兵計画を立ててたがいざ其の時期になると
信雄に土下座して和睦の仲介やってもらった上に母や妹を差し出して土下座してきたから
家康がしょうがねぇなやれやれと思って仕方なく応じてやっただけ。
家康は秀吉の討伐計画と人質要求を無視しまくって
浜松会談開いたり北条との同盟強化に臨んだり秀吉に反発しただけ。
家康討伐計画は天正13年秋頃から上杉真田木曽などに当てて書きまくっており、来春(天正14年春)出兵予定だったが、
いざその頃になると秀吉は信雄に取り成し依頼して家康と停戦できるよう必至に取り繕ったり、母と妹を差し出したりして[家康に土下座したら
家康があまりにもかわいそうになって、仕方なく上洛してやっただけ。
(天正14年4/28言経卿記や多聞院日記で朝日姫と家康の祝言が決定されてるのがわかる
下記のように秀吉がビビリまくってて家康は暢気に過ごしてただけ。
0272人間七七四年
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2014/03/08(土) 23:06:00.02ID:dlcbcBIO
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。

天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
0273人間七七四年
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2014/03/08(土) 23:08:46.26ID:dlcbcBIO
>>そこには二重堀なんて出てこないぞ。
二重堀と書いてなくても敗北の体にて撤退といってるから二重堀の敗戦が史実だと容易に想像がつく
>>それで秀吉側を見れば5/9の書状によれば秀吉は小牧の家康がぜんぜん出てこないから
小牧山から出て池田勢を思いっきり撃破しただろうが。小牧山は普請も施されていない無防備な陣(三河物語他)
周辺をガチガチに秀吉方砦で固めて野戦するのにこの上ない環境 。それで野戦を挑んで1万人戦死して大敗したから
攻められなくなったのに家康が取り合わないって馬鹿妄想もいいところだな
>>付け城を三箇所申し付けた
あれ?あなた4/8丹羽宛で小牧周辺をガチガチに砦普請で囲ったっていってましたね
なぜ今更そんな事を????ハッタリばかりですね。
>>信張の言ってることがまるでデタラメ
普通に家康討伐しにきて1万人も戦死者出す大敗して退却なんだから全然デタラメじゃないだろ
0274人間七七四年
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2014/03/08(土) 23:10:50.82ID:dlcbcBIO
>>お前さ、二重堀合戦の日付はいつだと主張してんの?
>>細川家記が言う5月朔日に家康の反対を押し切り
細川家記の日付が間違ってるだけだろ。家忠日記に楽田筋へ働きどうこうって4/26にある
>>信雄が攻め寄せ木村や長谷川らと混戦になり神子田が戦わずして敗走したことが原因で、
>>羽柴方が追い崩され秀吉の不興に思っていたところ細川が奮闘して信雄勢を追い返したと細川家マンセー話を捏造してるが、
神子田がいなくなったんだから史実だろ。三鬼氏もそう書いてるし
0275人間七七四年
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2014/03/08(土) 23:16:41.18ID:X+PTOK2A
佐竹も葦名家に養子を出してるね。
養子は当主が死ねば当然その家の後継者候補になるし
その家を継ぐ大義名分にもなるし家中で大きな権力・威信・名分・軍事力を持つきっかけにもなる
北条から養子に入った上杉景虎も北条との同盟決裂後殺されるどころか、むしろ家督相続候補にまで入ってるのに
養子として入った人間の生殺与奪権を秀吉が持ってるとか相当馬鹿だな。
そんな事があったら翌年家康が上洛せず諸城普請や北条との同盟強化とか家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員など、抗戦姿勢示せるわけないし、その瞬間秀康は殺されてただろ。
秀康は単に一時的な停戦の条件として秀吉の元に養子として入っただけだし、池上氏の指摘するように家康の屈服を意味するものではないのは明らか。
養子として入った人間だからこそ、信雄も秀吉は秀康を人質としては扱っていないと言ってるし
家康は天正13年も抗戦姿勢を崩さなかったんだし
0276人間七七四年
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2014/03/09(日) 02:00:38.69ID:wytGjuo6
ソースとしてあげられた文書は山口県史資料編と島根県史資料編からの抜粋

山口県史資料編中世三巻凡例
2ページ目
正門でないものについては、中世に書写されたと思われるものには「案」とし
近世以降に書写されたと思われるものには「写」とした
現段階では真偽の容易ではない文書、また偽文書と考えられるものでもその存在に
何らかの意味があると判断される場合は、検討を要する旨の注記をつけて収録した。

ソースとしてあがってる書状をみてもそんな注記も「写」もついておらず
偽文書などという馬鹿妄想いうのは馬鹿のお前だけ
0277人間七七四年
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2014/03/09(日) 02:02:11.17ID:jVsfSDRE
以下が正しい日付年表ね
4/29信長、瀧川一益、惟任光秀、筒井順慶等をして、播磨上月城を赴援せしむ
5/1信長、親を播磨に出征せんとす、佐久間信盛等、之を諌止す、尋で、又出陣せんとし、大雨に依り、之を停む
5/4信長の將羽柴秀吉、荒木村重と共に陣を播磨高倉山に移し、上月城攻囲の毛利氏の軍と対峙す、
5/6信長、信忠、北畠信雄等を播磨に遣す、是日、信忠等、賀古川に陣す、
5/16羽柴秀吉、但馬山名豊国の好を通ずるを容れ、其所領等を安堵せしむ、
5/21羽柴秀吉、毛利氏の將清水宗治を誘ふ、応ぜざるに依り、鈴木孫右衛門等をして、宗治の居城備中高松を奪はしむ、
仍りて、小早川隆景、宗治をして、播磨上月より帰国せしむ、是日、隆景、之を祢屋七郎兵衞に報ず、尋で、宗治、同城を復す、
5/24羽柴秀吉、竹中重治を遣し、備前八幡山城某の帰属を信長に報ず、
6/26羽柴秀吉、陣を播磨高倉山より書写山に移す
6/29信長、津田信澄等に命じ、摂津兵庫及び播磨高砂間の道路に、戌兵を置かしむ、
7/5播磨上月城の尼子勝久、毛利氏の功囲を拒ぐ能はずして、自殺し、是日、城陥る
7/7本願寺光佐(顕如、)播磨の情勢を紀伊の門徒に報じ、播磨高砂に兵を遣して、之を守らしめ、
又神吉城の落城に備へて、海上の通路を確保せしむ、
0278人間七七四年
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2014/03/09(日) 02:04:15.89ID:jVsfSDRE
>> そもそも当時は上月城なんて呼称で呼ばれていない完全に江戸期になって毛利側が作った造語。
デタラメ書くなよ。信長公記にも上月城とはっきり書かれてるし天正4年に宇喜多直家が攻略した際の書状にも上月城とハッキリ書かれてるわ
また天正6年の5月に秀吉が上月城攻囲の毛利方と対峙した際の書状にもハッキリ上月城と書かれてる(阿波国古文書)
>>じゃあなんて呼ばれていたかといえば、七条城って呼んでた。だから当時の書状で上月城と書いてるのは偽書状。
いやむしろ七条城と読んでるのが偽文書。同年の多聞院日記4/29条にも上月城を助けるため滝川明智などを送ってるのがわかるし
熊見川の戦いをはじめ、上月城攻防関連の毛利の史料は山口県氏史資料編により、原本によって花押の確認が取れた書状ばかりなので全て本物。むしろ
七条城などとデタラメ呼称で読んでるのは全て秀吉や織田方が後年になって偽作した偽書状
>>12/5付秀吉→下村玄蕃助宛書状で(下村文書)
宇喜多はこの時期出陣などしておらず、国内での政務におわれてるのが一次資料で確認できるため、明らかに偽書状
0279人間七七四年
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2014/03/09(日) 02:06:24.10ID:GlAZGsSa
>萩藩閥閲録なんて山縣平八家蔵文書9で先祖の山縣三郎兵衛が第四次川中島合戦決戦2日前に信玄から書状をもらったことをでっち上げ
>その中で山本勘助は登場するは山縣別働隊が1万引きつれ啄木鳥の別働隊を率いる内容が書
根拠なし。辛川合戦や加茂崩れみたいな醜態もちゃんと書かれているのが荻藩閥越禄
>また1801年に源兵衛が先祖の由緒を偽造するべく萩藩に提出した山本勝次郎方御判物写でもやっぱり山本勘助を実在させちまうなど、
>武田や毛利系講談軍記を参考に先祖の捏造軍功祭りだし、児玉文書も1800年代に突然登場するでっち上げ。
そんな事かいてる学者の論文やら出してみろよクズw都合悪い文書だけ捏造扱いしてんじゃねぇよチンカス野郎
>もう滅茶苦茶だなお前wそれ信長の命令で秀吉が撤退したのちも、
そもそもそれが軍記の講談ネタで兵庫県史とか洗ってみても信長の命令で秀吉が撤退したなんてどこにもかかれていない。
普通に毛利軍と熊見川の正面対決で大敗して戦線離脱せざるをえなくなっただけ
>>山中ら尼子復興軍の全滅の話であって熊見川の戦いとはまったく関係ねーよ捏造野郎くんよw
顕如条文案 紀州惣門徒中宛文案
去5日上月城落居之由候、近比目出候、去月21日上月城下にて敵三千計討死手負不知敷由候
天正6年7月7日   紀州惣門徒中へ 顕如
0280人間七七四年
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2014/03/09(日) 02:08:28.34ID:GlAZGsSa
天正6年5月晦日 吉川元長→以徹尊老  此元山陣(播磨国上月城)以後不申通候、…此方山陣者、去月十八日、敵陣取者、
去四日ニて候、…(上月)城内ニハ勝久、羽柴筑前守 千木下藤吉郎・荒木以下にて候、然処、此間、従有方聞へ申候、従勢州滝河と申者佐間両人
所、羽築・荒木所へ…
天正6年5月吉川元長書状 上月一途之分候間、
天正6年7/12吉川元春→一色藤長 如仰此表敵陣之儀、去24日敗軍候、上月要害之儀茂山中鹿介種種致懇望、
尼子勝久・同助四郎方ニ腹を切せ申候、
7/18足利義昭御内書→吉川元春 上月城落居之由
7/27足利義昭御内書→吉川元春 至黒沢山陣替之由、重畳辛労無比類候、然者、織田城介三木表只今在のよし候条
7/27真木嶋昭光副状→吉川元春 至其表御陣替之段、誠御粉骨無比類被、依織田城介三木辺只今居陣之由候条
10/16足利義御昭御内書→吉川元春 今度播州永永遂在陣、殊打続、只今其表居陣由、重畳無比類忠功候、
12/7朝倉宮増丸→武田刑部太輔 太守御出馬播州表、始上月落居、被得御大利之旨、珍重存候、
0281人間七七四年
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2014/03/09(日) 02:10:36.52ID:wytGjuo6
天正7年7/27吉川元春等連署書状→小早川・口羽・福原 但州内郡之事、八木但馬守・太田垣土佐守・同軍監此方馳走候、
彼両人之所不被相抱候へは、但州之儀不可有正儀候、先年可為羽柴打入之時之躰候、誠聞崩ニ仕候様ニ不可有正儀候、さやう成行候者、
因州之儀者不及申、雲・伯にも何たる不慮有間敷にても無御さ候、但州之儀、内郡之先詰にハ竹田…
天正6年5/7真木嶋昭光奉書写→乃美宗勝 其表永永御陣、尤御忠義存候、御感悦候、上月城火急可為落去与、弥此度別而可被抽戦功、肝要由、上意候、
御粉骨之段、神妙被思召通、
天正6年7/16秀吉→新弾 神吉・志方両城事、中将殿御取巻候、

天正6年6/26毛利輝元→二宮大宮司書状 去21日上月後巻の敵敗軍候(忌宮神社文書)
7/18毛利輝元→桂広?  宴上月之儀一着候大慶此事候、(服部家文書)
6/28毛利輝元→林就長  敵破軍大慶候、上月もはや可為一着候 (福永家文書)
8/10輝元→児玉元兼  今度播州佐用郡内上月城執詰之時…(児玉家文書)
天正7年輝元→元兼 天正6年輝元→冷泉 依上月表之儀…(冷泉家文書)
また顕如条文案5/2や7/7でも先日上月表へ差下候使今日●寺候…
然去5日上月落居之由候…といっており明らかに七条城と書いてる秀吉書状は捏造デッチ上げの嘘文書でしかない
0282人間七七四年
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2014/03/09(日) 10:36:02.62ID:TprqxpWk
天正7年4/20輝元→児玉 去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、
天正6年7/2吉川・小早川連署状 一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類
被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、
天正6年6/26輝元→児玉 態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、
6/26輝元 去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、 …中略
昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は
一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、
以上児玉家文書
天正6年6月21日(15780060210) 3条【綱文】 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
晋叟寺文書 天正6年8/21 今度播州上月之城従芸州被催候処、自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為
虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、成田五郎左衛門尉秀綱(花押) 晋叟寺 衣鉢閣下
荻藩閥閲禄巻91林平八 敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、 輝元 御判
0283人間七七四年
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2014/03/09(日) 11:30:46.28ID:zDMG3D1Z
秀吉と家康の対決は小牧長久手の戦いを1回。小牧長久手戦後に秀吉は家康を臣従させることができたんだから、小牧長久手戦は秀吉の勝ち。
0284人間七七四年
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2014/03/09(日) 12:27:13.37ID:wytGjuo6
小牧長久手合戦でわずか16000そこそこの雑魚信雄勢に1万人もぶち殺された秀吉は
その後ビビリまくって、あれだけ周りに陣城だの砦だの堅固に普請させまくって準備したにもかかわらず
自分から敵領国に侵攻させる作戦はすっかり諦め、
秀吉は小牧山周辺の砦に留守居部隊2万以上を配置した上で、
徳川方が8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯を延々とこれ見よがしに攻めて
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で必死に罠を張ってたが、
結局作戦が浅はかすぎて失敗に終わるんだよな。

結局この後は瀧川が折角作った長島と清洲を分断できる大チャンスを無駄にして、蟹江や前田や下市場を全て織田方に奪回され
眼前で8分の1の兵力で城攻めやってる織田徳川を殲滅する事すらできず、大阪にヘタレ敗走するアホっぷり。
こんな雑魚が総大将じゃ100年かかっても自力で信雄や家康を倒すなんて到底無理だわ
結局あれだけの兵力差・信雄方は会戦早々重臣含め悉く伊勢尾張美濃の味方が篭絡されてる状況でもって自力では全くといっていいほど秀吉は切り取れず
小牧山周辺の砦や、その他の地域の拠点(東駒野・戸木・松ノ木・長島・桑名・浜田・河波・長久保・前田・蟹江・二重掘など)は全て健在だし
0285人間七七四年
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2014/03/09(日) 12:30:08.85ID:wytGjuo6
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
0286人間七七四年
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2014/03/09(日) 12:31:30.10ID:V0MsmWAz
秀吉は雑魚の信雄に敵の8倍の兵力で挑みかかって大敗し
11/4に顕如に土下座して信雄との停戦の取り成しやってもらって
家康を孤立させた癖に家康相手にも自力では全く何もできず
寝返りの連鎖・天正11年からの災害の連発に備えた徳政令連発・石川らの離反による軍事機密露見で
覧フ国が崩壊した試ゥ国の10分の1以下程度の国力の家康に必死に土下座して、従ってくれ〜と母や妹に加えて関東240万石まで差し出すヘタレっぷり。
結局自力では全く歯がたたないから滅ぼされたってだけの事だろ。
家康が温情深い性格だから、自分に土下座してきた相手だから仕方ねぇって家康は何もしなかっただけ。
0287人間七七四年
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2014/03/09(日) 12:32:30.86ID:GlAZGsSa
秀吉は完全に土下座状態だったからね
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
しかも関東八州250万石まで家康にプレゼントするヘタレっぷり。
0288人間七七四年
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2014/03/09(日) 12:36:15.25ID:bgQhLUaX
さしたる理由もなく信雄にいちゃもんつけて攻め込んだら
あらかじめ信雄の重臣の津川や富田らの人質を取っていたために
信雄重臣は悉く秀吉方に寝返り当初信雄につくと思ってた池田や森や尾張石田毛利氏や毛利秀頼や松ノ木近辺の諸将まで
味方につき、池田と森の南下の動きに対応した徳川方が伊勢戦線を諦め、尾張に進軍したため
火事場ドロ的に伊勢を奪えたにもかかわらず、8倍の兵力で臨んだ小牧長久手合戦では一万人戦死の大醜態。
その後は松ノ木城や東駒野城や戸木城など1000貫そこそこの雑魚領主が篭もったところに
1年一杯苦戦してろくに落すこともできず
瀧川が折角作った大チャンスも失い、蟹江前田下市場を奪回され
7月には浜田城、11月には長久保城まで奪回されるアホっぷり。
結局勝ち目なしと悟った秀吉が顕如に泣きついて取り成しを必死に要請したら
やれやれと思った信雄が仕方なく応じてやるんだよな。
0289人間七七四年
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2014/03/09(日) 12:38:24.89ID:GlAZGsSa
翌年も家康は全く秀吉に屈服どころか、お互いにらみ合って秀吉は会戦準備まで進めてたし
家康は家康で北条との関係強化やら、諸城普請など戦争の準備やってるのに、上下関係、臣従関係は全く生じてないんだから
人質なわけねーだろクズ、
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
0290人間七七四年
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2014/03/09(日) 12:55:19.79ID:oMsYJCmt
同日伊勢安野津の織田信包も秀吉方になり、南伊勢は信雄から秀吉へ寝返った神戸・関・田丸ら国人連中らも含めて秀吉方の独壇場となる
あと秀吉が「信雄への寝返りを気にして三河方面への別働隊に組み込んだ」なんて妄想はしらん
秀次や長谷川・堀・木下兄弟など信頼に足るべき連中らとともにきわめて重要な敵地への行動させてる時点で秀吉が池田・森らを信じていないとする根拠なんぞない
特に秀次は秀吉の数少ない一門衆で後継者候補。木下兄弟も秀吉に非常に近く堀や長谷川も本能寺後一貫して行動をともにし、もはや譜代といっていい連中
大して信雄家臣の吉村高木毛利滝川雄利なんてなじみのないもいい所の外様家臣
吉村なんて信雄に付き従ったのがつい去年だしな
そんな信雄の領国状況無視して秀吉が味方の寝返り気にしてどうこうとか完全に妄言もいい所
信雄が家康の離反気にして小牧山から思うように行動できなかったとか
家康が石川の離反気にして思うように命令できなかったとかいってるのと同じ(石川はこの頃から秀吉に通じだしてると三河物語にあるし水野も翌年秀吉に寝返っている)

天正12年3/12秀吉→関一政で信雄方の林与五郎が亀山城へ攻撃してきたが防戦した事を了承
さらに3/13秀吉→丹羽で小島・関は味方になったと書いてる
0291人間七七四年
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2014/03/09(日) 12:57:24.45ID:oMsYJCmt
3/15にも秀吉→関や3/17秀吉→田丸で峰城攻防での奮戦を賞賛されたり松ヶ島攻防での指示を事細かにしてる
そもそも信雄三重臣ですら秀吉に篭絡されてたしそいつらを信雄が粛清した事でボロボロ連鎖的に秀吉方に寝返りが続いてる
岡本良勝も秀吉方だし小島にはその後秀吉は直接木造攻めの指示を事細かに出してる

秀吉与党の津川氏の松ヶ島城を3月初旬に信雄方に奪回され関・田丸・岡本・津川・津田・信包・富田・榊原・
八重羽・小島など地元諸侯がなだれをうって秀吉方に付いた上に池田・森の北尾張急襲を受けた徳川軍の尾張転進の
隙をついて居留守泥棒的に奪っただけ。
松ヶ島も3月時点では落ちてないし戸木城浜田城桑名城としっかり残っており、秀吉方は地元諸侯がこぞって
味方についた南伊勢を火事場ドロしただけ
秀吉は3月に伊賀にいたなんて史料はないし3/11秀吉→黒田・蜂須賀で本日坂本に到着したのがわかる他、その後3/21に
美濃の池尻に到着(3/20秀吉→池田書状)その後24日に岐阜到着(3/24秀吉→生駒)27日に鵜沼(3/26秀吉→黒田長政)29日に
木曽川を超え尾張国楽田に着陣(3/29秀吉→木曽) と非常に遅い速度で進軍。ちなみに犬山城を落したのは池田・森(3/26秀吉→佐竹)
しかも城主の中川が伊勢方面に出兵してた留守を狙って泥棒しただけ(3/26秀吉→佐竹)
0292人間七七四年
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2014/03/09(日) 12:58:16.00ID:GlAZGsSa
下記のように秀吉がビビリまくってて家康は暢気に過ごしてただけ。
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
0293人間七七四年
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2014/03/09(日) 16:01:25.81ID:L8MjJN5h
>>283
小牧長久手の戦いの結果秀吉は信雄や顕如に土下座して無理矢理講和を締結した、
そして秀吉は家康にも土下座して、母や妹を差し出し、関八州250万石と
チート官位まで献上。家康は秀吉に養子を出した。どうみても織田が神戸・長野・北畠 などに養子出したのと同じ事でしょ
その結果家康は豊臣家をあっさり滅ぼしたんだし、
0294人間七七四年
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2014/03/09(日) 16:03:14.78ID:wytGjuo6
秀吉存命中は秀吉は家康はおろか、家康より遥かに劣る信雄にボロクズのように蹴散らされまくったんだが。
秀吉なんて家康はおろか雑魚信雄相手に7.5倍の兵力差でガチンコで挑みかかって1万人ぶち殺され
戸木浜田二重堀松ノ木東駒野河波蟹江長久保神戸など各地で蹴散らされまくり
135000の兵力で会戦当初から寝返りでガタガタ・徳政連発で崩壊状態の信雄領国を尾張半国すら切り取れず右往左往してただけじゃん
家康は屈服つってもただ和議を結んだだけだし天正13年は秀吉は家康討伐の用意と侵攻の意思を諸大名に表明しまくってるのに
結局いざとなるとびびって自分の母と妹を、自国の10分の1以下の国力の家康に送り出す醜態っぷり。
しかも家康は天正13年までに木曽小笠原石川水野真田と離反されまくって自国の軍事機密まで露見した状況だし
そんな所も瞬殺できず本願寺顕如や織田信雄に必死に取り成しやってもらってなんとか無理矢理大阪まで召還しただけだし
0295人間七七四年
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2014/03/09(日) 16:05:24.51ID:GlAZGsSa
秀吉は家康はおろか雑魚の信雄に135000の大軍で挑みかかって信雄領国は会戦早々尾張・美濃・伊勢・伊賀ともに寝返りの連鎖で崩壊状態だったほど
雑魚統制しかなかったのに秀吉方はいざ戦うと雑魚の信雄に1万人殺されたり
戸木浜田二重堀松ノ木東駒野河波蟹江長久保神戸など各城の攻防で奪回されたり蹴散らされたりするアホっぷりだったじゃん。
結局全く雑魚の信雄に歯が立たずあれだけ規格外の兵力差と、徳川の領国の崩壊状態(寝返りの連鎖や軍事機密露見や、
天正11年からの飢饉への対策として出した徳政連発)にも関わらず秀吉は家康や信雄に「ワシに従ってくれ〜」と必死に土下座して
母や妹を献上したり、関八州240万石の大領を与えなくてはいけないほど、家康に土下座状態だったから
豊臣家はあっさりと滅ぼされたんだろ。
結局事の始まりは秀吉が家康どころか雑魚の信雄に蹴散らされまくったせいで豊臣家を滅ぼされたんだから
秀吉が雑魚の信雄に大敗して、家を滅ぼされたって事だろ。
0296人間七七四年
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2014/03/09(日) 16:07:59.14ID:wytGjuo6
秀吉家臣団は長浜時代でいうと一門衆が秀長秀勝三好義房浅野長政杉原家定・家次、木下家定
尾張衆は加藤清正福島山内蜂須賀(河波衆リーダー)青木・平野・加藤嘉昭・堀尾・宮田光次
美濃衆が竹中・坪内利定・稲葉貞祐・加藤光康・小野木生駒石川光政日根野弘就谷衛好仙石秀久
一柳直末伊藤秀盛・尾藤知宣。
これに近江衆と他国衆が加わる感じかな。
0297人間七七四年
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2014/03/09(日) 17:39:02.83ID:vaXcrAfX
小牧長久手の結果秀吉が家康に土下座して顕如に取り成し依頼してもらったり
母や妹を差し出して家康に土下座して講和してもらったり
250万石やチート官位差し出す等土下座しまくってるし
結局それが原因で豊臣家を滅ぼされる事になったんだから家康の圧勝でしょ。
秀吉なんて指揮采配能力じゃ家康どころか信雄相手に蹴散らされまくった雑魚じゃん。
0298人間七七四年
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2014/03/09(日) 17:41:38.28ID:GlAZGsSa
小牧長久手合戦後の講和はあくまで一時的な物で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌天正13年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
0299人間七七四年
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2014/03/09(日) 20:01:17.57ID:zDMG3D1Z
小牧長久手戦は秀吉の勝ちでいいんでないの?
0300人間七七四年
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2014/03/09(日) 21:17:17.60ID:wytGjuo6
秀吉は家康はおろか雑魚の信雄に135000の大軍で挑みかかって信雄領国は会戦早々尾張・美濃・伊勢・伊賀ともに寝返りの連鎖で崩壊状態だったほど
雑魚統制しかなかったのに秀吉方はいざ戦うと雑魚の信雄に1万人殺されたり
戸木浜田二重堀松ノ木東駒野河波蟹江長久保神戸など各城の攻防で奪回されたり蹴散らされたりするアホっぷりだったじゃん。
結局全く雑魚の信雄に歯が立たずあれだけ規格外の兵力差と、徳川の領国の崩壊状態(寝返りの連鎖や軍事機密露見や、
天正11年からの飢饉への対策として出した徳政連発)にも関わらず秀吉は家康や信雄に「ワシに従ってくれ〜」と必死に土下座して
母や妹を献上したり、関八州240万石の大領を与えなくてはいけないほど、家康に土下座状態だったから
豊臣家はあっさりと滅ぼされたんだろ。
結局事の始まりは秀吉が家康どころか雑魚の信雄に蹴散らされまくったせいで豊臣家を滅ぼされたんだから
秀吉が雑魚の信雄に大敗して、家を滅ぼされたって事だろ。
0301人間七七四年
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2014/03/09(日) 21:18:14.21ID:aTy4pX2S
小牧長久手合戦でわずか16000そこそこの雑魚信雄勢に1万人もぶち殺された秀吉は
その後ビビリまくって、あれだけ周りに陣城だの砦だの堅固に普請させまくって準備したにもかかわらず
自分から敵領国に侵攻させる作戦はすっかり諦め、
秀吉は小牧山周辺の砦に留守居部隊2万以上を配置した上で、
徳川方が8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯を延々とこれ見よがしに攻めて
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で必死に罠を張ってたが、
結局作戦が浅はかすぎて失敗に終わるんだよな。

結局この後は瀧川が折角作った長島と清洲を分断できる大チャンスを無駄にして、蟹江や前田や下市場を全て織田方に奪回され
眼前で8分の1の兵力で城攻めやってる織田徳川を殲滅する事すらできず、大阪にヘタレ敗走するアホっぷり。
こんな雑魚が総大将じゃ100年かかっても自力で信雄や家康を倒すなんて到底無理だわ
結局あれだけの兵力差・信雄方は会戦早々重臣含め悉く伊勢尾張美濃の味方が篭絡されてる状況でもって自力では全くといっていいほど秀吉は切り取れず
小牧山周辺の砦や、その他の地域の拠点(東駒野・戸木・松ノ木・長島・桑名・浜田・河波・長久保・前田・蟹江・二重掘など)は全て健在だし
0302人間七七四年
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2014/03/09(日) 21:22:08.33ID:GlAZGsSa
結局ガチンコ勝負だったら敵軍の8倍〜11倍で攻め込もうが全く勝ち目がないから母や妹まで家康に差し出して
土下座しただけ。
実際に攻め込んだら直接対決で雑魚の信雄相手に135000の大軍で挑みかかってガチンコで1万人ぶち殺される大敗喫した上に
その後の攻防も蟹江・浜田・前田・下市場・長久保は奪回され
戸木城・松ノ木城・東駒野城・河波城・二重掘合戦攻防でも破れて結局会戦当初から
伊勢でも尾張でも美濃でも寝返り続出で崩壊状態だった信雄領国を自力では尾張半国すら切り取れなかったからな。
滅ぼせるわけがない
0303人間七七四年
垢版 |
2014/03/09(日) 21:23:04.04ID:vT7b523d
結局それが原因で家康は大版図と秀吉縁戚の地位を得る事となり
豊臣家を楽に継承したんだろ。自力で歯が立たなかったから普通に豊臣家は滅ぼされただけ。
秀吉は必死に家康に土下座して、母や妹を差し出したり関八州260万石やったり高い官位と秀吉縁戚の地位やったりして
気を使いまくってたから、慈悲深く、温情あふれる家康は、秀吉生前中は、お情けで秀吉を生かしてやっただけ
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