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【一領具足】戦国時代の兵農分離【郷士】
0001人間七七四年
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2010/02/28(日) 15:03:30ID:ceoZUbIS
信長は「兵農分離」を進めて常備軍を作ったとか本に書かれてるけど、本当だろうか?
0107人間七七四年
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2012/11/14(水) 10:22:07.47ID:ZJ/hGG9W
それが>>81が書いてる「中世的兵農分離」の現象じゃないの?
0108人間七七四年
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2012/11/14(水) 18:44:39.09ID:prRj8D6/
>>107
>近世的兵農分離では戦闘階級と非戦闘階級が分けられてしまうため、
>戦闘員の減少が起きてしまう (>>81
…ことが織田家では起きてたんじゃないか、と自分は思うわけで

つまり急激な領地の拡大と相対的な軍役軽減によって起こる必要戦闘員の減少が
かつ転封による”兵士の在地性の喪失”も相まって、兵士家族の城下居住”現象”が起きた
つまり当時の織田家では実質的な「兵農分離」が確認できるんじゃないか、と

そして豊臣期以降は外征という負担増が江戸初期におけるような逆行(農兵)を生じさせたんじゃないかとも
0109人間七七四年
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2012/11/20(火) 08:09:32.87ID:q+FrpgVO
久しぶりに書き込み
>>102からはじまってる論争について

>>102から織田家兵農分離完結論者さんの主張は正直、
資料的に見れば根拠が非常に薄いとおもわれる
理由は下記の通り

1.朝倉滅亡年(1573年)の織田家の畿内における覇権確立は
軍役の軽減を可能としたか?→NO
まず、>>102さんが織田家を少数精鋭化した、と述べているが
むしろ1573年以降、織田家の軍勢出陣回数も、軍勢規模も増加している。
とても少数精鋭、という感じではない。

百姓土民が新規に主を持つのを禁止した柴田の書状をもって兵農分離、と
するのはいささか見当が違うように思われる
当時は百姓土民が勝手に土地から離れたり、別の領主のところに住み着いたりする、というのはよくあった。
これは領主にとっては労働力の減少となるため、NG
武田信玄などもそういった武田領国内で流浪して、武田領国内の別の土地に住み着いた民を、
もとの武田配下の領主のもとへ返すように指示を出したりしてる。
さらに信長が安土に馬廻りの家族を集めた事例も、他の大名と比べて特異とするものではない。
武田なども甲府に家臣団の屋敷があり、家族などが集住してる。
さらにくどいようではあるが、武田は信玄の書状で直接農民をはじめとする諸階層が戦場に来ることを否定しているので、
>>102氏が述べる理屈では武田はとっくに兵農分離をしていたことになる。

兄が武士となり、弟が農民となり続けていた事例
これは若い頃の秀吉が小者として織田に仕えた後、
しばらくして出世したあとで配下を増やす必要に迫られ、弟たちを自分の配下としてる事例、
武田家臣の春日が最初は武田家の近習として仕え、
後にその出世に伴って一族で武士となっている者達が出てくる事例などから見るに、
地位がそれ程高くなく、多くの配下や一族を必要としないなら、兄が武士、弟が農民、
という形でなし崩し的に分かれるのはそれ程不自然ではないように思われる。
結局のところ多数の一族を武士とするにも、必要性や地位が作用する。
0110人間七七四年
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2012/11/20(火) 08:15:48.16ID:q+FrpgVO
>>109の続き
「在地の侍を召抱えないこと」は「兵士と農業の分断」にあたるのか否か→NO
武田信玄は軍鑑において、「新たに征服した土地において、自家の家臣ばかりを移し、
土地を与え、在地の者を召抱えないのは悪徳の大将のする事だ。」というように述べており、
在地のものを召抱える、召抱えない、は大名側の政策方針によるもので、別に身分分断、という感じではない。
後年のことになるが、山之内家なども土佐移住において新規の侍を召抱えない方針をとっており、現地の郷士たちと激しい対立をしている。
そして、他の大名は大抵現地から侍を採用しており、兵農分離云々が関係ないことがわかる。

姫路城に足軽の家族がいたのか否か。これは何の資料にのっているのかわからない。
仮にそうであったとしても、それは在地の足軽であったのか、他の土地からの移住者であったのか判断がつけにくい。
さらに述べると、それをもって「他の大名にはない特異なる織田の常備軍化の証拠!」と高らかに歌い上げる事は可能であるのか否か→NO
戦国時代の武将たちは結構頻繁に戦略的都合などで配置換えをしている。武田家の事例で言えば、西上野には真田や浅利や内藤などが差し向けられ、赴任している。
彼らは自分の直卒家臣団を数十騎〜数百騎率いて在地に赴任していたとされるが、
この「騎」というものには一騎あたり4人もの歩兵がついたとされる。
つまり、彼らは数百から千人以上にも及ぶ歩兵を引き連れていったわけであり、
彼らは当然主君が在地に腰をすえて家族なども呼ぶ以上、自分達も家族を連れて移住していたであろう事は想像に難くない。
0111人間七七四年
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2012/11/20(火) 08:18:31.66ID:q+FrpgVO
>>110の続き
織田家で実質的な兵農分離は確認できるのか?→NO
これまで見てきたように、>>102氏が織田の兵農分離の証拠、
としている事例は大抵の場合、他の大名の事例で確認や説明がついてしまう。
そして織田家が兵農分離をしてないといえる最大の焦点は、
織田家が軍役指示をろくに出していない事、にあると思われる。
信長の軍役指示は「なるべくたくさん」とか
「今度の出陣は遠い国なので、兵糧大変だから人数調整してきて!でもたくさんいるのと同じくらいに頑張って!」とか、
「武功あげられないんだったら、人をたくさん雇うなりなんなりしろよ!」とか、かなりイージーというか、適当な感じである。
これらの文面から見る限り、少なくとも信長本人は兵力を多数欲していたようであるし、少数精鋭、といったものを志向している形跡は伺えない。
>>102氏は最後の文面から見るに、どうやら織田家で近世的兵農分離が行われていた、と主張したいようではあるが、
この近世的兵農分離は軍役指示によって人数や装備、役割が大名側に明確に規定される事を前提としており、
それによって定められた「必要人数」である武士階級と、それ以外の農民階級の明確なる身分的分離、であって、
その第一歩たる明確なる軍役指示が行われていない織田家で近世的兵農分離が行われていた、とするのは難しいように思われる。
さらに近年では信長の書状内容などから見るに、どうやら織田領国では明確な軍役規定がされていた武田・北条・上杉などと違い、
軍役人数をどれだけ集めるかは、家臣の裁量に任されていた事が指摘されている。
つまり、信長本人も「近世的兵農分離」における第一前提である、「自家の規定人数」を把握もしてなかったし、
把握しようともしていなかったのである。
これでもって織田家が兵農分離を果たした、とするのは
いささか以上に厳しいと思われる。
0112人間七七四年
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2012/11/20(火) 17:19:50.29ID:j/sqiMtz
>>109
>他の大名の事例で確認や説明がついてしまう
これは何ら問題ないかと
様々な要因が重なって「織田家だけ」に兵農分離が起こったんじゃないか、という話なので
基本、全国で同じような現象が見られることは当然、と思います

とりあえず自分は「軍役賦課の縮小が兵農分離を引き起こした要因の一つ」という仮説の上
書状等もそれを示すものとして出しています

>むしろ1573年以降、織田家の軍勢出陣回数も、軍勢規模も増加している
あくまで絶対規模ではなく”相対的な軍役負担”を考えています
それ故>>102は「新領(越前)においての新規徴兵はなかった」ことを
軍勢規模も増加していますが、領地も大増したため「相対的な軍役軽減が起こっている」
…という指摘をしたいわけです
織田家の場合、反織田連合(1599)時点で345万石程度(相手は合わせて185万石)所有しており
夫役も近江安治郷では規定6人が在陣の場合は2人(1581)と軽減されていたり
時代を経るに連れ、織田家内での軍役負担は減少していきます

>兄が武士となり、弟が農民となり続けていた事例
当時「兵士の給料から在地性がなくなった」現象が起こっていた、という指摘の一つです
さらに「在地性」という観点から見れば「転封」も重要な要素だと思います
つまり「軍役従事者と農業従事との間に直接的な関係が薄れた」ことが当時は起こっていた、と

>姫路城に足軽の家族がいたのか否か
川角太閤記の「中国大返し」の姫路立ちの際の御触に「足軽弓鉄砲の妻子は、扶持方までのたのみなり」
との記述があり、姫路城下には平時から”雇用形態の兵士”が家族とともに居住していたと推察できます
0113人間七七四年
垢版 |
2012/11/20(火) 17:21:47.34ID:j/sqiMtz
>織田領国では明確な軍役規定がされていた武田・北条・上杉などと違い
>軍役人数をどれだけ集めるかは、家臣の裁量に任されていた事

ソレは単に信長は、総兵士数増加が必須だった他の戦国大名とは違う事情だった”だけ”なのでは?
(それに対し北条も武田も軍役拡大に熱心で、それ故記録も多く残るわけで)
西欧でも傭兵雇用になれば傭兵隊長に全額渡す方式になり(室町期の足軽衆も同じ形態)
王の配下への細かい徴兵への言及はほぼなくなりますし
明確な規定が必要がないだけで(記録がないから)織田家の軍制が遅れていたとは言い難い、と考えます
(ここらは色々見解の相違がありうるところと思いますが、逆に傭兵に大きく依存してた可能性もあるのでは)

つか(西欧を参考にすると)「全兵士数の確実な把握」が必須になるのは直接雇用の場合(賃金)で
傭兵団が主流の場合はそう問題にならない気がしますが……
つか、これと「兵農分離」との関係がいまいちわからないです
というか「”近世的”兵農分離」という言葉をちょっと詳しく定義ご教授していただけると……
0114人間七七四年
垢版 |
2012/11/20(火) 22:46:43.65ID:iLsphbjk
徳川家に人員や装備を細かく指示した軍役書は無いが、
旗本先手組から分かるように時代遅れとは思えない
0115人間七七四年
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2012/11/21(水) 06:12:40.58ID:TUmnNLmP
>>112
いや、問題ありまくりでしょ。
ぶっちゃけて言いますと、貴方の言ってる事例って武田で全て確認や説明がついちゃうんですよ。
貴方の言い分だと、武田も兵農分離してた事になるのに、貴方の中だと武田はしてなくて、織田だけ、って明らかに結論ありきが酷すぎると思いますが。

いや、ですからね、何度も言ってるように、仮説、というか結論ありきという感じがするのですが。ていうかですね、貴方が言ってる朝倉滅亡年1573年から、という事例で
柴田を持ち出すのはどうなんでしょうか。織田の越前支配は初期に前波など朝倉旧家臣たちに任され、それが越前一揆で崩壊し、
2年以上の歳月をすぎて織田が越前を再征服し、柴田が越前を任されるのはそれ以後、となるので柴田の書状を出したのもこれ以降となるはずではありませんか?
それに、そのまま読めば百姓が別の領主に仕えるのを禁じた、と読める書状でそうおっしゃられるのもどうかと思いますが。
正直、「仮説」という言葉で反論封殺というのはどうかと思うわけですよ。

いや、よくわかんないわけですよ。それ。
百姓云々の書状は単なる百姓が他の領主に税を払うのを禁じた、ととれるわけですし、
軍役関連とみるのって難しくありません?
1599年ってとっくに豊臣時代じゃないですか。貴方の言ってる事がマジでわけわかりません。
相手側が185万石っていつの事をいってるんでしょうか。
「夫役は6人で在陣の場合は二人。」これってそのまま読めば、
夫役(通常の領主命令による肉体労働役)は通常6人で、軍役がある場合は二人、という感じで別におかしくない命令に見えるのですが。
軍役で人をそっちの方に出すから、夫役はその場合は二人でいいよ、というだけの命令でしょ、これ。

いや、ですからそれだと武田をはじめとして多くの大名で武将達の転封が起きてるわけで、
貴方の理屈だと他の大名も「在地性消滅云々」が起きてたわけですよ。
というか、必要な地点に武将を次々に派遣して配置換えするなんて、多くの大名が普通にやってるので、織田だけの特異点みたいに言われてしまうとなんとも。

その兵士達が在地から徴収された兵ではないでしょうか。
というか、秀吉の所領から見て姫路城を本拠とした播磨は中国遠征における主要な兵力供給源であるはずですので、在地兵であるなら、家族がいるのは自然では。
もしそれが違ったとしても、武田の事例でみられるように、武将の直属兵であるケースも考慮されるわけですよ。
0116人間七七四年
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2012/11/21(水) 06:15:46.56ID:TUmnNLmP
>>113
いや、信長本人が「なるべくたくさん」とか軍役指示出してるわけですよ。信長の軍役指示は明らかに「できるだけ多く」を志向しており、
貴方の言うような感じではないのですが、貴方は信長本人の指示すら否定して、何を主張されたいのかよくわからないのですが。
傭兵団とかいってますけど、正直それが存在している、それを雇用している、といった関連の書状や裏付けとなる資料が無い限り、
それは貴方の空想に留まるのではないでしょうか。西欧では没落貴族や現役貴族をはじめとした階層が主な傭兵隊長や傭兵組織の供給源となっておりましたし、
スイスやドイツの兵士達が傭兵稼業を専門に行う、といった感じで供給源になってたりしてます。
当時のイタリア諸都市などにも軍事を厭う傾向があった、という下地も見逃せません。正直な話、日本戦国時代とは何から何まで別の価値観のもとで構築された制度なんですよ、
西欧の傭兵制度って。貴方の言う傭兵団、とやらは一体何を資料とされておられるのか、
その兵士の供給源はどこだったのか、その指導者や構成組織はどういった人々だったのか、裏付けとなる資料はなんなのか、といった点がすっぽ抜けているように思えます。

近世的兵農分離に関しては>>81のとおりです。
0117人間七七四年
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2012/11/21(水) 16:06:30.61ID:0dpJ7FXT
>>115
自分が「織田家が特別」だった状況の一つとして「領民への軍役賦課軽減」を考えています
武田や北条で同様の条件があったなら、ソレは問題になるとは思いますが……
前提条件が違えば形が酷似していても同じ評価を下すことは難しいかと

>在地兵であるなら、家族がいるのは自然では
播磨って”でかい”ですよ(武田家北条家では足軽衆の妻子は領地全体に広がっていて城下に住んでませんよね?)
日常から城下にいなければ(大返しは数日の出来事ですから)城に取りに来いという指示に従えるものでしょうか
ちょっと弱いご指摘と思います

>信長の軍役指示は明らかに「できるだけ多く」を志向しており、
当時の織田家の状況が「賦課増大を伴う軍隊規模の拡大」ではなく「領民への軍役賦課軽減」であったこと
は同意していただけますか?

武田家や北条のように制度的に軍役賦課増大を整備していない(軍規模の拡大を意図しない)ならば
当時の信長の「兵隊多く集めろ」って発言の意図は”短期的目的”であって
長期にわたっての漸次変化(兵農分離は状況であるわけで)をまな板に載せている今は
ちょっと意味が無い指摘と考えます
0118人間七七四年
垢版 |
2012/11/21(水) 16:07:45.86ID:0dpJ7FXT
>西欧では没落貴族や現役貴族をはじめとした階層が主な傭兵隊長や傭兵組織の供給源
日本の場合、同様の雇用形態の兵士は足軽や牢人に当たります
(すみません、戦国板なのでそういう前提長くなるので省きました……)

兵農分離の判断指標の一つは、担う兵士が基本雇用であること、だと考えます
当時の織田家でも雇用形態の兵士が主流である→この状況は「兵農分離」ではないか、ってのが自分の意図です
それ故、西欧での兵士の供給源の細部については、あまり関係がない話に思えますが……


>「近世的兵農分離」における第一前提である、「自家の規定人数」を把握(>>81)
…ってなのが必須な理由をお聞きしたいのですが……
0119人間七七四年
垢版 |
2012/11/21(水) 17:46:17.19ID:Os9bDURU
横からだけど
根本的に「領民への軍役賦課軽減」っていうのがよく解らないんだけど…
織田家はドンドン戦線が拡大して、複数の離れた場所で戦が起こってる訳だから
普通に考えると戦場までの距離も長くなるし、必要な物資の量も多くなるしで
戦に動員される人数もドンドン多くなると思うけど
その増えた分の人員も全部「傭兵」で補ってた事なのかな?
0120人間七七四年
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2012/11/21(水) 19:16:53.61ID:0dpJ7FXT
>>119
実際の所、領内夫役は軽くなってます(>>115
また明智家中軍法(1582)では軍役人数100石に対し6人ですが
上杉氏の家臣安田家(1574)では1232石に対し109人(100石あたり8.8人)
基本的に織田家の軍役規定は他の大名と比較しても軽かったりします

つまり、確かに戦線の拡大や遠征で軍隊規模は大きくなっているのですが
経済的規模拡大や内戦の利による周辺国への優位性の確立の影響のほうが大きく
一人あたりの負担が減った、ってことを「領民への軍役賦課軽減」と言いたいわけで
織田家が軍事従事者を城下に集めるようになったのは、その優位性が確立(>>102
(この時期を越前占領と自分は仮定しています)してからなのです

で、実際の兵役従事者をどのように集めたか、は、またこの話とは別の問題になるかと思いますが……
0121人間七七四年
垢版 |
2012/11/22(木) 00:06:01.53ID:QrX27ZgC
>>117
いや、それって貴方しか言ってない、
貴方しかそういう風に資料読まないでしょ、的な
貴方の「仮説」の話じゃないんですか?
なんで事実みたいな話になってるんですか?
最初は「仮説に基づいて話をしている」と言ってたのに、
いつの間にか既定の事実みたいに主張してる。正直ちょっと結論ありきが酷すぎて、議論しようにも困るんですよ。
それはそういう意味の資料じゃない、と言われたら「仮説に基づいている」と言って
ご自身の資料解釈をごり押しして、その理屈だと他の大名でも説明できてしまう、と
いわれたら貴方の「仮説的資料解釈」に基づいて織田以外は違う、と断定する、こんなんじゃまともな議論にならないじゃありませんか。
貴方は何がしたいんですか。

武田北条でも在城衆とか普通にいますよ。
それから、貴方のいうところの中国大返し、
ですが、秀吉は毛利と対戦中でその率いていた軍勢をそのまま伴って姫路城に到達したわけでして。前提条件違うでしょ。

いや、全然同意してないですよ。どこで同意したように見えるんですか。
正直、貴方って論理にまず結論があって、それに無理やり他をおしこめていく感じで
議論してて突拍子もなくて疲れるといいますか、なんというか。
少し前までは「仮説」の話だといってたのが、ここでもまた既定事実みたいに断定してる。
しかもこれで相手に「賛同してもらえますか?」とか言われてもビックリ仰天としかいえないですよ。
0122人間七七四年
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2012/11/22(木) 00:12:20.02ID:QrX27ZgC
>>117宛続き
信長自身が軍役指示で「できるだけ多くつれてきてね。」と言ってるのに、なんでこれで負荷軽減、となるんですか?その解釈の仕方にマジでびっくり仰天です。
貴方は何か誤解してるようですが、軍役付加というのは、その大名による領国統治や整備の精度によるんですよ。
だから太閤検地によってより精密な軍役付加が全国的に可能になったわけでして。
信長は基本的に領国は放任主義ですから、配下に与えた領地の生産力とかを把握しておらず、
その為その土地であがる収入でどれだけの兵をどんな装備で召集できるか、というのがわからず、
その為に軍役指示が「なるべくたくさん」という抽象的なものにならざるを得なかったのは不思議でもなんでもないわけです。
貴方の願望と違って、短期的なものではなく、通常の、いわば恒久的な信長による軍役指示が「なるべくたくさん」なんですよ。
なんで軍役書状に書かれてる事が短期的だという前提になるんですか。
しかも「だったはずです」って何をもとに断言してるんですか。
貴方の仮説を既定事実にしようとするのはやめなさいと何度もいってるでしょう。
マジで何から何までぶっとびまくりでビックリ仰天ですよ。
正直な話ですね、1.Aという大名がいました、2.彼は領国放任主義でした。
3.そんな彼の軍役指示は「なるべくたくさん」という極めて適当なものでした。
という3つの情報があれば、常識的に考えればAは領国整備がまだ未整備で、
軍役付加を精密にできるだけの体制をもってなかったから、こういう風になったんだな、となって終了ですよ。
貴方はこのAの名前が織田信長、であるというただ一点をもって無理やり資料ないのに差別化をはかってるだけにしか見えないわけでして。

そうやって都合悪い事から目を背けるのもやめなさい。
貴方の願望と違って、信長が出してるのは普通に恒久的な軍役の指示で「なるべくたくさん」という適当指示なんです。
0123人間七七四年
垢版 |
2012/11/22(木) 00:28:40.98ID:QrX27ZgC
>>118
いや、当たらないんですよ。足軽衆は足軽衆で村に属したり、武家に仕えたりしてますし、
浪人衆は参戦する時は陣借り、という形で参戦しますが、彼らの究極目標は結局のところ
「手柄を立てて召し抱えてもらう」事でして、大名側もそれを餌にして浪人衆を誘うわけでして、
浪人である事を目的にして部隊構成とか冗談じゃないでしょ。

いや、雇用形態ってなんですか?貴方が言ってるのは浪人衆でしょ?
彼らは陣借りして参戦して、戦が終わって手柄立てて召し抱えられなければそれまで、の非正規雇用形態ですよ。
彼らを主力にして構成してたと仮に仮定して(まずありえませんが)、臨時非正規雇用ばっかの軍隊であって、
まず雇用形態とは言えないわけですよ。
長々と上で西洋の傭兵の雇用形態を説明したのは、そこらへんを察してもらう意図があったわけでして、
西欧では傭兵隊長の雇用というのは何年契約、報酬はどれだけ、条件は、としっかりとした契約書類をもとにして行われるわけです。
もしあなたの言うように織田家が傭兵雇用とやらをやってたなら、それを多数率いる人間との契約書状や部隊規模に応じた待遇関連の書状とかもあるはずでしょう?
ちなみに、西欧の傭兵は兵力から装備に至るまでしっかりと契約書類でまとめられてます。
でも残念ながら、日本において貴方が希望されているような存在は資料上見当たらないわけですよ。
というか、貴方が夢想してる「ずっと織田家から扶持をもらって雇用される存在」ってただの織田に仕えてる武士なんじゃないでしょうか。
どこの大名家にも普通にいる、ただの武士です。それだけじゃ数が足りないから軍役、というものがあるわけでして。
0124人間七七四年
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2012/11/22(木) 00:29:56.62ID:QrX27ZgC
>>118宛続き
この点については説明不足でしたか。
まあ、室町末期から江戸時代に至る流れの中で、軍役の制度はどんどん変化していったわけですよ。
@最初は室町守護の延長で、「なるべくたくさんお願いね!」的な感じで配下を召集し、その軍勢を集合させるわけです。
配下がどれだけの部隊を召集するかは配下にゆだねられており、主君は間接的な関与しかできません。
近年、様々な資料から考察される信長の軍制はまさにこれです。「なるべくたくさんお願いね!」
「遠い国なので兵糧大変!人数調整してきて!でも多数いるのと同じくらいに頑張って!」
「手柄立てられないなら、人をたくさん雇えよ!」
資料から見られる信長の軍役指示はどんぴしゃでこの形態である事を示しています。
A次に武田・北条・上杉・今川、といった東国有力大名達が、自身の領国を整備し、
領国把握の制度をあげ、それによって土地ごとの収入を把握し、その収入に応じて人数・装備まで含めた軍役を直接配下に付加していき、
望みどおりの軍隊を構成していきます。この形態は豊臣政権になって太閤検地や領国指示などが行われ、全国的に広がっていきます。
B最後に、こうして軍役によって規定された「必要人数」が治世になって調整され、
固定化され、武士身分と農民身分が明確に分けられるのが近世的兵農分離です。
そしてこの形態が江戸時代を通して続いていくわけです。江戸時代には上士から足軽に至るまで普通に藩士として藩に所属しています。
そして、これに至る道筋はAを経なければ達成されないため、領土把握と軍役付加による人数の把握が必要、と書いたわけです。
この時代的な一連の流れから見ればですね、貴方のおっしゃるような「資料無いけど、
なぜか特異点的に織田だけ兵農分離」(しかも他の大名もかぶってる所ばっかり)という主張するよりは、
単に織田の軍制が@の段階だったと見た方が納得しやすいと思うのですがいかがですか。
0125人間七七四年
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2012/11/22(木) 00:32:33.68ID:QrX27ZgC
>>120
いや、軽くなってないでしょ。
貴方の出した書状はそのまま読めば「通常の公共肉体労働は6人だけど、軍役ある場合は二人でいいよ」としか読めないのに、
どうして軽くなってる事になるんですか。
マジでわかんないのですが。
それから、明知軍法は後世の創作の疑い強いですし、軍役かけられる人数が少ない、
というのは大抵の場合、領国掌握力の低さを示してるとされますが。
信長が実際に領国に対して放任主義である事、配下の軍役指示が具体的にできない事を考慮すれば、
自明の理と思いますが。

いや、結構重要な問題だと思いますよ。
上でも書きましたけどね、浪人衆が参戦するのは陣借りといいましてね、
彼らは手柄を立てて大名に召し抱えてもらいたいから参戦するわけでしてね。
貴方の言うような雇用形態なわけじゃない、非正規雇用形態、それも一時期だけ陣借りして手柄立てられなければさよなら、
の世知辛い雇用形態なんですよ。そういった浪人衆をどうやって「雇用」するのか。
単に召し抱えるならそれは単なる武士としての仕官でしかないのではないか。
それが軍役人数や傭兵という雇用形態とどう関係するのか、傭兵契約というなら契約書状はあるのか、
こういった問題に関して貴方は何も答えられてないではありませんか。
0126人間七七四年
垢版 |
2012/11/22(木) 01:02:46.11ID:klQXrmhq
横からすまんが明智軍法は六人役だから豊臣と同数。軽くはない。
貫高制の武田北条に比べれば物価の計算次第で多少上下するが若干低い程度
0127人間七七四年
垢版 |
2012/11/22(木) 08:28:58.74ID:k6Ltget9
…「仮説」と前置きしてるのに「途中の文章が断定口調だ」と言われましても……

>>122
>そうやって都合悪い事から目を背けるのもやめなさい
本当に兵力を必要とするならば、制度整備され”軍役賦課対象が拡大”します(実際、当時の武田北条ではそうですよね?
なぜ織田家では他の戦国大名と同じ制度整備をしなかったのか、その理由が「織田家の後進性」にある
…と、いわれているような気がしますが、これは自分は正しく理解してます?

えっと自分が問題にしている時代は、織田家の優位確立(越前占領)後、なので、
それ以前の織田家の軍制については検討するつもりはありません

>>123
>「”ずっと”織田家から扶持をもらって雇用される存在」
そんなことは一言も言及してないですが……
戦闘員が非正規雇用形態(契約社員)でなく正規社員であることが「兵農分離」に重要である
…って、言われても、その理由がよくわかりません

「兵農分離」という観点から見れば、
単純に「農業活動に直接従事しない金で雇える兵士が当時存在する」し、そのような雇用形態は普通にあった
…ってことが言えれば、自分の仮説には何も問題がないわけで
それ以外の相違を上げられても、反論しようがなく……

>>125
>信長が実際に領国に対して放任主義である事
この点を「必要がなかったから放任主義だった」→軍役負担が重くなかった、と自分は見ているわけで
検地自体は織田家時代でも行われていたわけで、そのような検地が終わった領地に
新たな軍役賦課を課す、ことすら信長(とブレーン)はしなかった
…という点は、どう解釈されているのでしょうか?

>>126
「当時の織田家の軍役が敵対する他の大名より(相対的に)軽い」
…という指摘です それが”織田家の特徴”になるわけで
0128人間七七四年
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2012/11/22(木) 10:41:42.25ID:60Ekgcqx
>検地自体は織田家時代でも行われていたわけで、そのような検地が終わった領地に
>新たな軍役賦課を課す、ことすら信長(とブレーン)はしなかった

信長もしとるよ。というかし始めたというのが正確か
大和総検地(差出)に、検地を以って軍役を定という条項があるし、あと明智軍法

織田家の政策は時代によって何段階かに分かれてて
将軍を擁してどちらかといえば旧体制の守護者という時代から
将軍追放と長篠後あたりから東国式の制度に改め初めて
局地的地域的に目に見える形になったのが天正8年ぐらいからで
その後も推し進めていったが本能寺で途中終了
大部分の政策は豊臣政権に受け継がれて拡大発展というのが流れ

あと上の人も言ってるけど提示される史料や例のほとんどが北条か武田にもあるもので
そこからその結論に結びつけるのは理論の飛躍というしかないと思うよ
0129人間七七四年
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2012/11/23(金) 04:29:42.95ID:P+uf9rLC
>>128
「織田家の優位性確立後、領内の軍役負担が軽くなった」ことが言いたいことなので
もちろん具体的な武田北条の事例を示していただけると嬉しいのですが
それも無く「飛躍」と言われても、当方調べようがないところがあります

たとえば信長も総動員令「上ハ六十、下ハ十五男頭ニ令出陣(1576)」出したことがありますが
優位性確立後にそのようなことはありません(軍役が増えたとは思えない)
なのに>>122のように具体事例がなく否定されているわけで「困惑」しています

つか”素人”の仮設に具体事例示さずに反証しないってなのはどうなんでしょうか?
0130人間七七四年
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2012/11/23(金) 04:53:35.43ID:P+uf9rLC
近江安治郷の話にしても「減税してるよ」って意味合いでだしてるわけで
武田北条でも同様の減税が行われていても反論になってない気がします

他にも>>124では覇権が確立し検地も行われた時代でも室町型の古い軍制
(つまり秀吉も明智も同様だった)ような説明があって
でも、城下に兵士が住んでたよ→(もっと先進だった武田北条)でも同じよ
…てのは、じゃ織田も進んでたんじゃ?とか思って困惑はしています、、、
0131人間七七四年
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2012/11/23(金) 05:58:08.66ID:CeYaYgVF
>>129 >>130
横から悪いけどみんな色々事例を出して
「結局織田の軍制は貴方がおもってるようなものじゃないよ」
と説明してると思うのだけど、あなたは何をいってるの?
そもそも自分の言ってる事を「仮説」といって
それにもとづいて資料を見てる、とあなたは飛躍する事からはじめてるのに
今になって飛躍じゃないというのもおかしな話だとおもうし、
逆にいえば何をもって反証になると思うの?
何を示せば反証になると思うの?
そこを示してもらわないと話にならないのでは?
0132人間七七四年
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2012/11/23(金) 13:14:10.95ID:fFM+Tc/1
>>130
近江安治郷は減税云々は関係ないだろ。
城譜代や道路譜代の平時に掛かる夫役を6人出してるものは、
戦時の陣夫の場合は2人出せといってるだけのことで。
平時の夫役と戦時の陣夫の人数が違い、
また負担が大きい遠征についていく陣夫の方が、
人数が少なく規定されてるのは北条でも一緒。
資料の読み違えで根拠の根本から崩れてる。
0133人間七七四年
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2012/11/27(火) 02:59:59.55ID:CkgS8POJ
>>131
たとえば、織田家では武田北条とは違い「軍役対象が縮小されてる」説明とか頂きたいです
(今まで触れられてませんよね?ぜひそこらの厳しいご指摘を)

「常備兵化」がすすむ結果として「兵農分離」という現象が見られるわけですが、
「領民への軍役負担軽減」や「遠征日常化による長期動員」や「新地転封による在地性の喪失」
などなど”織田家特有の条件”が重なって、織田家末期では兵役従事者の給料制や妻子城下在住が見られる
ってことは「兵農分離」と呼べるのじゃないか、って話なので、↑の3つの認識が間違ってるのならそこらを……

自分は、兵農分離は現象、だと考えているので、当時はもう完成してたとか言うつもりはありません
ただ、常備兵化した兵役従事者が主流だったんじゃないか、ってな部分は強調したいです
(「近世的兵の分離」って言葉も違和感があります)
0134人間七七四年
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2012/11/27(火) 03:01:00.75ID:CkgS8POJ
>>132
…天正八年の播磨但馬外征時に出されたからこそ”意味”が出てくる、のですが……
(武田や北条で同じ物が出されているのなら、ぜひ資料ご教授ください)

織田家が外征時でも動員対象を緩和できた、のは「織田家に軍事経済的余力がある」からだ
ってことで、他の大名でも余力があったら軽減している、のなら、何も問題がないような……
天正十年武田征伐の時は信長自身「遠陣だから人は少なめで」(信長公記)と言っているわけで
「当時の織田家での領民への軍役が(他と比較して)軽くなっていた」
と判断するのはおかしい、という話なら、特にそこらのご教授を是非お願いしたく……

(個人的なことですが、織田家の平時と戦時での夫役の違いが分かる資料を不勉強ながら知りませんので
もし良ければ、これもご教授願えませんか?)
0135人間七七四年
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2012/11/27(火) 17:29:46.67ID:RlSYW8AF
>>134
肉体労働で税を払う夫役には
城譜代や道路譜代など平時の土木事業を行う夫役(普請役)と
従軍し輸送部隊や戦時の土木事業を行う夫役(陣夫役)との
2種類あるのは分かるな?
たとえば北条氏の場合は40貫の収入のある土地当たり普請役(大普請役)は2人
陣夫役(夫丸)は1人出すように規定されている(後北条氏の基礎研究)
近江安治郷の場合も普請役は6人、陣夫役は2人出すように命令してるに過ぎない訳で
今までは6人だったけど今後は2人にします。といった内容ではないので
減税の根拠にはなりえない。
0136人間七七四年
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2012/11/27(火) 17:45:51.20ID:RlSYW8AF
>>134
信長公記の武田征伐も「兵糧不足に陥らないよう」に兵を少なくと
ちゃんと理由も明記されてるのに軍縮だと言い張るのは理解できない

>>129
本能寺直前に四国遠征のため
伊勢に15歳から60歳までの総動員令が出されてるのでこれも間違い
(慈円院正以書状)
0137人間七七四年
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2013/09/15(日) 00:39:06.99ID:M27bqH/e
うんこ
0138人間七七四年
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2013/09/17(火) 09:16:18.88ID:PjptxjNy
明智家中軍法は光秀が自分で考えて施行したもので、
織田家が施行したもんじゃねーぞ。
また織田軍は新地加増はあっても、
新地転封はやってない。
新地転封ではなく使い捨て改易をしてる。
だから秀吉は近江長浜、
光秀は近江坂本から、
滝川にしても北伊勢から主力を引き連れて遠征してる。
そこの国人を調略して与力となして支配をひろげるだけ。
0139人間七七四年
垢版 |
2013/09/17(火) 13:45:10.80ID:Jl/VaR3V
信長は勝家に越前を貸し置くと書いてるから、
そもそも用済みになるまで貸していただけでいつでも没収可。
そのために勝家監視役として、利家らが目付として付けられていたわけだし。
利家は息子と信長の娘が婚姻したから生き残れるが、
勝家は改易されて追放される末路しかない。
0140人間七七四年
垢版 |
2013/09/17(火) 20:44:37.22ID:+DHktL9u
だがさんこんな辺境までくんのか
0141人間七七四年
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2013/09/18(水) 09:13:10.66ID:yXIXS/Km
信長は譜代家老は切り捨てるつもりだったからこそ、
利家や蘭丸など同性愛信長側近団を作ってたからね。
それに嫉妬してたのが光秀。
秀吉はすでに信長に疑われて財宝たんまり安土城に送ったり弁明のために安土城と播磨を往復したりしてるし。
0142人間七七四年
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2013/09/18(水) 12:51:19.81ID:Kyl7AFTh
>>140
初期の流れを見る限り、だが本人がこのスレを立てた可能性もあるかと。
0143人間七七四年
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2013/09/22(日) 13:24:48.02ID:AnC5gjXE
来年の大河ドラマは軍師黒田官兵衛。
備中高松城の水攻めを羽柴秀吉に献策したのは黒田官兵衛とのこと。
大河ドラマにちなんで備中高松城の水攻め復元模型を製作した。
http://mirai660.net/castle/
0145人間七七四年
垢版 |
2016/09/04(日) 01:52:48.87ID:HtMKMeMG
保守
0146人間七七四年
垢版 |
2017/09/15(金) 20:54:38.64ID:6j2TuJ3+
保守
0147人間七七四年
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2018/02/18(日) 18:31:09.84ID:8Mh7x2rB
百姓は今で言う軍属で召集されても
戦闘員である侍や足軽は常備軍だから
元々、兵農分離は戦国期は当たり前
だったんでしょ
0148人間七七四年
垢版 |
2018/02/21(水) 03:46:20.87ID:SOgg2ZMn
このスレは今からもう5〜8年くらい前に盛り上がっていたようだが今じゃもう信長が「兵農分離」をし職業軍人を作った、と言う説がデタラメだと言うのがだいぶ認知されたなぁと
0149人間七七四年
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2018/02/21(水) 10:44:54.30ID:3p542Zl0
歴史的に見ても律令制の徴兵制が崩壊して
平安初期なら村々から兵を募るとかは
あったけど、武士の時代からは完全に
戦闘要員は専門職が担うことになった
から、そもそも兵農分離は武士の誕生と
共に当たり前だったのだろうな
0150人間七七四年
垢版 |
2019/04/22(月) 16:19:50.57ID:W/7diJSg
兵農分離が当たり前だったってマジかよ
0151人間七七四年
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2020/05/20(水) 21:13:46.10ID:v47wCwyY
>>1
完全に兵農分離がなされた後の江戸時代でも、百姓・町人が養子縁組や士分株の購入で武士になることは出来たけど、
一方、中世ヨーロッパでは農民・商人の生まれでも貴族・騎士になることは実際可能だったの?
ローマ帝国だと平民の出から元老院議員や軍団長や属州総督、果ては皇帝にまで成り上がる者までいて、階級の流動性がかなり保たれていたが、
中世ヨーロッパは家柄や血筋によって身分制度がガチガチに固まってるイメージがあるわ。
0152人間七七四年
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2020/05/28(木) 22:30:28.94ID:kxm076U5
ポエニ戦争
兵農分離がハンニバルで
市民兵が大スキピオ
最終的に大スキピオの勝ち

ローマは戦争に勝ち
共和制が衰退し、傭兵部隊にクーデターを起こされ
帝政に移る
0153人間七七四年
垢版 |
2020/05/30(土) 08:00:05.46ID:q9Q77djH
結局、兵農分離ってのは人口が多いから出来る事だからな。
信長が兵農分離を出来たのも尾張が豊かで人口が多かったからだろう。
だから人口の少い四国とかは兵農兼任がずっと残った。
0155人間七七四年
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2020/09/04(金) 22:06:44.87ID:IfSxVCvL
自分が覚えている限りだと、信長の兵農分離て90年代の歴史小説のオリ設定だったはず
作者のオリキャラと化した武将に都合よく信長を苦戦させつつ違和感なく勝利者にできるから、便利設定として小説や漫画で多用された

武具持参の戦闘員が軍の1割で、8割が荷物運びの農民兵、残り1割が遊女、祈祷師、医師、商人て時代に兵農分離は現実的に不可能
0157人間七七四年
垢版 |
2020/09/06(日) 20:07:41.04ID:Fa243A2H
軍役は最低これだけは用意しとけの数。
それにどれだけ上積み出来るかが奉公の基本。

関ヶ原の官兵衛やら幽斎公な。
軍役役分は当主の息子が連れて出ているから
第二国民兵やら国民義勇隊描き集めて戦果挙げとる。
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