【一領具足】戦国時代の兵農分離【郷士】
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信長は「兵農分離」を進めて常備軍を作ったとか本に書かれてるけど、本当だろうか? >>1
本当。だから戦国の世で頭一つ抜きん出た。
武田みたいに農閑期しか戦えない軍隊じゃあ勝てないよ。 ただし、「金と命が大事」な兵だから
敗色をみると簡単に逃げ出す。
合戦をみると当たり負けが結構多い。 > 池上裕子著「織豊政権と江戸幕府」より
>
> 「(佐久間盛信への)折檻状から読み取れるように、信長自身は所領の大きさに比例して、
> 家臣一人ずつの軍役数を定めると言う方法をとっていない。家臣をどれだけ抱えるかは
> 各自に任されていた。
> これは鎌倉・室町期の武士たちの有り方と類似で、北条・武田らが所領貫高に比例して
> 軍役数を決定した方法といちじるしい対照を成す。
> 従って武篇道と戦果が問題となる。
>
> (中略)
>
> 信長は信盛親子に続いて、家老の林通勝(秀貞)、安藤守就親子、丹羽右近も追放した。
> それは信長の権力強化の表れのようにも見える。これをもって中世の武家権力と違って、
> 信長が家臣の所領に対し干渉しているとか、領域統治能力を問うているとかと評価して、
> 信長の権力は新しいとみる見方もあるがいかがであろうか。
>
> 信長は家臣を大名に任じて分国を統治させ、各方面ごとの総大将を任命して統一戦争を
> 戦っていかなければならない。
> 拡大する家臣団と支配領域に対応した家臣団編成、軍役賦課・軍事力編成が
> なされていないからこそ生じた問題であろう。
> それを武篇道の督励で対応しようとしたのが追放策であろう。
> それは、信長自身が武篇道に邁進して土地支配制度と知行制の整備を怠ってきたことに
> 原因があるのであって、逆に信長の限界を示すべきものとみるべきであろう。
>
> この問題の解決は秀吉の課題となる。」 >>9
それで北条・武田の動員兵力は単独で織田以上出すことが出来るのかw
そんなきちきちに決めなければならないほど織田家は兵に困っていたわけではないw 武田、北条が細かい兵役を定めたのは貧しい地域で少しでも多くの兵士を集めるための苦肉の策だったのかな 努力して兵を集めても織田には及ばないということか? 最近>>9のような北条・武田は石高に応じて兵役を決めたから革新的
織田はむしろ遅れていたと主張するのが流行ってるらしいね
実際は後進地域が少しでも周りの勢力に対抗するための必要に迫られた
制度だったんだろう
>>15
ニワカにも分かりやすく概論を開陳してくれ。 無理だろ
大抵こういうこと言う人間は自分がわかった気になってるだけで説明する能力もない >>16
信長のやったことは鎌倉室町と変わらぬ旧態依然としたものであり、北条や武田のやったことは
そこからの脱却を明らかに志向した上、近世に引き継がれた。
時代からの脱却を志した側と旧態依然とした慣習の中に安穏としていた側、
どちらが先進的か馬鹿でも解るだろうに。 信玄みたいに勝つたんびに自分家戻ってたら
時間がいくらあっても足りない。
天下統一のためになによりもスピードを最優先した。
時間を金で解決した...と、見るべきだと思うがな。
信長は土地支配だの知行だのという土臭いのより
ホリエモンのような考えだったと俺は見てる。 >>19
北条も武田もその制度や政治、軍制を徳川が参考にしてその手本となり
後世に引き継がれたわけだから、いいものを残せばやはり残るわけだ >>20
スピードを最優先か
信長がわずかの時間の間に大きな勢力になれた理由ってなんなんだろうね >>20
武田の甲府も信虎の代に領内の中心として移転されたもの。
信玄時代に領土が4〜5国程になった時もその中心だったので移転の必要がなかった。
信長も他の大名と同様に戦いの度に律儀に岐阜城に戻ってる。
安土も広がった領内の中心地という事で他大名と似た感じの選択地だった。 合理性と、単純に図抜けて戦が上手かったから。かね。 戦が上手いってのは信長に対する典型的な誤解だな。信長は確かに武闘派だが
ポカやミスが多く決して戦上手とは言えない。
信長の真骨頂は寝技の政略だ。信長の政略の上手さは確かに群雄の中で抜きん出ている。 政略こそポカしてるだろ浅井とか越前とか本願寺とか義秋とか、
最後は反乱で死んでるし 武田信虎は、常備軍というか金で雇った用兵集団・新参の召抱え集団を
持っていたよ。
「御意の足衆」と呼ばれていたとか。
もっともこれは、二代続けて内紛で、軍の主力(最も戦闘力の高い)が
消耗していての止むを得ない処置だったみたいだが。
戦国の世に常備軍なんて超非効率的なことは
普通やらないからね 傭兵を大量動員して戦い続けたなんてのは
応仁の乱でもあるわけで
別に特別な発想ではない
むしろ農兵を大量動員し始めたことが
戦乱の世を一気に進展させ戦国大名が生まれていった 信長のスピーディな領土拡大は
むしろモンゴル帝国などと同じで
あえて征服地の制度をそのまま残すことで統治コストを減らしたことにある 戦国時代に常備軍ってのはないな。
兵農分離での効果は、
1.年貢納入責任者を絞り込むことで、それ以外の農民なら農繁期でも徴兵&長期出兵しやすくなった
2.武士階級を農業から切り離し、領地経営や政務従事、守衛業務等に専念させることで、
やはり農繁期の出兵がしやすくなった
ってとこだろう。
2を以て常備軍とは言えない。
備における武士階級の割合はたかが知れてるからな。
分割相続を禁止し、家臣の嫡男以外の者を小姓衆として召抱え、
親衛隊を組織するぐらいのことは可能だろうが、
常備「軍」と呼べるほど大規模なものではないし、
それは兵農分離前でもそれなりに可能だし。 100反の田植え、稲刈りは10人でやるとどれ位時間かかりますか? そもそも「兵農分離」という現象は江戸期のもので戦国時代には起きていない
戦国時代は「兵農一致」だ 信長が兵農分離を進めて、農繁期でも攻めまくりとかいつ頃生まれた伝説なんだろ? まあ大きく出てきたのは戦後だろうな。一種の進歩主義的な歴史観に
ぴったりマッチした。
実態は畿内は人口が多いから他の大名と変わらぬ軍役でも、より多くの人間が集められた、
ってだけの話だな。
信長の軍役制度はむしろ、あの当時ですら制度として遅れておる。 >>38
>一種の進歩主義的な歴史観にぴったりマッチした。
もう少し詳しく、具体的に。 >>39
進歩主義史観ってのは「歴史の段階的進歩を先取りしたものが勝つ」って思想。
なので信長の拡大には何か「進歩」があるはずだってことになり、その思想に合わせて
後から理由付けされたのが「兵農分離」
信長が中世から近世への転換だったという「思い込み」
歴史が転換した以上それには進歩的(あるいは革命的な)思想があったはずだという「思い込み」
それらの思い込みが作った魔法のキーワードが「兵農分離」だよ。
兵農分離と言ってれば詳細な研究をすること無く戦国をストーリーとして語れるわけだからな。 小説家とかが喜んで使ってそうだなw ノブりんは革命児ナリ♪とか 遠藤周作なんてその典型だな。あの時代だからしょうがないが今読むと非常に気持ち悪い。
一種のゲーム小説みたいな感じがする。 小説は面白けば何でもいい。史実に沿っててもつまらなければ無価値。
問題は読み手。 >>44
遠藤周作の歴史小説で信長が出てるのは、ほぼ全部そんな感じじゃね? 【本能寺の変】明智光秀/惟任日向守を語る2
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1298723473/200
200 名前:人間七七四年 投稿日:2011/04/09(土) 07:06:39.40 ID:Tug5M9ir
織田軍は武具兵糧全て完全支給の自己完結型軍隊。略奪厳禁。
もろ近代軍。こんな初歩も知らんとは。
他人の書き込みを貼り付けて悦の、思考が停止して久しい夢遊病者。 キチガイの書き込みを大喜びで他所に貼り付けるのもキチガイ。
これ基本知識な。 自分がキチガイであると自覚しているキチガイも珍しい >>52
・もし信長が生きててもあれ以上の事はやらなかっただろうと勝手に断定し、「信長の限界(>>9)」などと言う
・理由も語らず安土宗論をインチキ呼ばわり
・相変わらず残酷で厳しい信長、優しい秀吉というイメージで物事を語る
・それでいて朝鮮出兵では「朝鮮侵略での秀吉の残虐行為」という項を設ける
・朝鮮の地名のルビが朝鮮語。慶尚道は「けいしょうどう」ではなく「キョンサンド」。どうでもいいが
・家康が各大名を弾圧しまくった件についてはほぼスルー >>53
そりゃお前の読み方が全然ダメだわwお前が予断で読み過ぎてるだけの話 >>55
スクリプトだからほっとけ。
煽られて反論できなくなった
→ ○○ 必 死 だ な (w
予期せぬ自分の無知で煽られた
→ 釣れた
→ わーマジレス返ってきたよ
言い返せないけど 負けは認めたくない
→ ( ´,_ゝ`)プッ
→ 無知白痴は黙ってろ
→ 知能障害をおこす
→ 放置出来ないお前も厨なんだよ(w
相手の精神的に追い詰めてやる
→ ブラクラ、グロ画像のURL貼り
→ テンプレ(○○の特徴)、オタ系のAAで煽る
→ ○○Uzeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeee
最後の悪あがき
→ IP抜くぞゴルァ!
→ 知り合いのハッカーが(ry
→ スクリプトによる連カキ ←今ここ
→ 他のスレで相手のレスを貼って皮肉を吐く
完全敗北
→ F5連打
→ 田代砲 >>55
実際に信長は生きててもあれ以上はできないとおもうし
その内部制度が粗雑で欠陥だらけだったのも事実
単なる事実述べられてるだけじゃね
>>56
そんな迷惑なことやるのは必死でニートな織田厨くらいだろ >>58
だがさんちーっすw
だがさんの上洛スレ64事件
http://www26.atwiki.jp/dagamatome/pages/20.html
>実際に信長は生きててもあれ以上はできないとおもうし
何の根拠もなくお前が思ってるだけじゃあな。
>その内部制度が粗雑で欠陥だらけだった
お前の妄想。 >>59
廃人ニート織田厨君ちーッスww
相変わらず廃人ニートで妄想しかかけない馬鹿丸出しでワロスww
結局自演かどうかの証拠だせなかった事例を大威張りでまとめられてもな
結局証拠みつけられなかったわけだw
根拠あるぞ
信長の生涯はそれこそ離反・虐殺・粛清のオンパレードだった
本能寺の後でそれこそ反乱おきまくりで
家臣も誰も織田家を守ろうとしなかったくらいに結束力ももろいもの
さらには統治体制も適当で
武田攻め程度の距離で兵糧におっかなびっくりになるくらいの適当体制
こんな体制で信長みたいな人間性じゃそれこそ拡大すればするほど崩壊する危険性は高まるだけ
ま、信長のやり方じゃ日本統一する前に寿命尽きて死亡するか、
もしくは本能寺に類する謀反おきて死亡して崩壊するか、
領国離反が相次いで収拾つかなくなって崩壊するか、
いずれかの道しか残されてないような感じだな
よくて一代限りの政権だよ
残念だったな、廃人ニート織田厨www
お前の馬鹿げた妄想と違って現実はこんなもんww >>60
>>9を百ぺん読んで出直してきな。だがさん >>61
>>9を100回読んでも
信長政権とやらがろくに兵力指示すら出来ず、領内整備もろくにしてない適当体制だった事が
明白にわかるだろ
お前こそ>>9に書かれてる文章の中身本当に理解できてるのか?
ひょっとしてコピペ長文が読めずに無条件で信長礼賛だと思い込める幸せ回路全開の馬鹿ですかww
あ、廃人ゴミニート織田厨だったねwwごめんごめんww >>62
> 折檻状から読み取れるように、信長自身は所領の大きさに比例して、
> 家臣一人ずつの軍役数を定めると言う方法をとっていない。家臣をどれだけ抱えるかは
> 各自に任されていた。
とあるが、その折檻状で信盛を「俸禄に応じて家臣をちゃんと召抱えていない」と書かれている。
よって君の言う「ろくに兵力指示すら出来ず」は間違い。
また信長は領内全てで道路工事をしている。
よって「領内整備もろくにしてない適当体制」というのも間違い。 >>63
そっちのほうこそ間違いw
折檻状においては「せっかく俸禄与えても譜代家臣の俸禄揚げたり、人を養わないで、自分の蓄財増やすだけ。
それで結局面目を失うような事態になった」とけなしてる。
つまり、ここで問題になってるのは「手柄を上げられず面目を失った事」であって
「人を雇わなかったことじゃない」のねwww
文章みればわかるはずなのにワロスww
それから「領内すべてで道路工事」てどこの世界の話ですかww
むしろ領内全域から見ればやったところのほうが少ないわww
ためしにやったというところあげてみなww
てかろくに裁判も出来ずに、「俺の指示受けろ」といいつつ指示出さなくて
困った挙句代官が現地に丸投げしてる適当体制がなんだっていうんだかww >>64
信長政権とやらがろくに兵力指示すら出来ず>>62
↓
してる>>63
↓
折檻状で問題にしてるのはそこじゃない>>64
以上、話の論点ずらし乙。
>むしろ領内全域から見ればやったところのほうが少ないわww
>ためしにやったというところあげてみなww
1575年の時点で尾張・美濃・近江・山城・摂津・河内・三河・遠江。
その後も領国全部で拡張されている。 >>65
論点ずらししてんのはお前だっつのww
信長政権が兵力指示ろくに出来ず>>62
↓
してる(と妄想)>>63
↓
佐久間折檻状では別に兵力指示を示してない。>>64
信長が言ってるのは「手柄上げられないのに譜代家臣の俸禄あげたり、人を雇おうともしないってどういう事?」
という事であって、信長が兵力指示してるわけではない事がこれでわかる
はっきりいえば信長の下では手柄さえ上げられるなら兵力に関しては特にお咎め無しだった事がわかる
以上、>>65の阿呆が盛大に自爆したことをさらしてあげました
ていうか、廃人ニート織田厨って本当に文章よめないのな
だから、どこでそれが示されてるんだよ
お前がいってるだけじゃん
資料だせ、資料 つーか>>65であげられてる三河とか遠江ってそもそも織田領土じゃねえしww
ニート織田厨厚顔無恥すぎてワロスww >>66
「先々より自分に抱へ置き侯者どもに加増も仕り、似相に与力をも相付げ、新季に侍をも抱へるにおいては、是れ程越度はあるまじく侯に〜」
以前から召抱えていた者に加増し、同じように与力をつけ、新しく侍を召抱えておけば、これほど不覚を取ることはなかったのに〜
よって>>64の、信長が問題にしてるのは人を雇わなかったことじゃない、というのは間違い。
つまり信長は「もっと人を雇っておけ」と言ってるわけ。
道路については信長公記8巻、1575年7月5日のフロイスの書状、およびフロイス日本史第2部40章を読みなさい。 >>68
だからいってるだろ
「人を雇っておけば不覚とらなかったのに。」
つまり不覚とらなければ別に口出ししなかったし、関知もしなかったわけだ。
記述出してみ。
つか、織田領でもない三河遠江が入ってる時点で眉唾すぎだろww >>69
その不覚をとらないために家臣を雇えって言ってるのに、無理矢理すぎる解釈だな。
本当に折檻状を読んでるのか?
小河かり屋跡職申し付け侯ところ、先々より人数これあるべしと、思ひ侯ところ、其の廉もなく、剰へ、先方の者どもをぼ、多分に追ひ出だし、
然りといへども、其の跡目を求め置き候へぱ、各同前の事侯に、一人も抱へず侯時は、蔵納とりこみ、金銀になし侯事、言語道断の題目の事、
→最低でも各同前(=以前と同じくらい)は雇え、ということ。
山崎に申し付け候に、信長詞をもかけ侯者ども、程なく追失せ侯儀、是れも最前の如く、小河かりやの取り扱ひ紛れたき事、
→信長が声をかけておいた者を召抱えずに追放してしまったことを非難。
大まはしに、つもり侯へぽ、第一、欲ふかく、気むさく、よき人をも抱へず、其の上、油断の様に取沙汰侯へば、畢竟する所は、父子とも武篇道たらはず候によつて、かくの如きの事、
→またも人を召抱えない事を非難。
与力を専とし、余人の取次にも構へ侯時は、是れを以て、軍役を勤め、自分の侍相抱へず、領中を徒になし、比興を構へ侯事、
→与力ばかり使っていること、および自分で家臣を召抱えない事をまたまた非難している。
これだけ繰り返し言われてるのに。
「信長の政治体制が適当だ」と言うくらい詳しいんなら、信長公記とフロイス日本史くらい持ってるだろ。
たった数ページの話だ、自分で読みな。 >>70
読んでるからいってんだろ
もはや最後の追放にいたる折檻状で何いってんだって話だな
てか、折檻状見ればわかるが、10年前20年前の事柄だって
ゴロゴロ書いてあるのに、それをどんだけ放置していたんだって話になる
結局信長には家臣の兵数を自分で定める制度も権限も無かったんだよ
結局お前が揚げている文章で言われてるのは、「武辺道たらはず」といわれてるように
「お前の態度や仕事のやり方ってどうなのよ?」的な武辺道という道徳的観念からの追求に過ぎない
武田や北条が部下に書状を発給してその兵力や装備にまで口出しして軍隊編成を行っていたのとはまるで別物
結局のところ、信長は長い間その佐久間の所業を気に入らないとおもっていたにせよ放置せざるを得ず、
しかも、人を雇う・雇わないの選択及びその編成や構成は佐久間本人によらざるを得ないことが
折檻状からの内容からして明白
結局信長は後に武田攻めの時にも「兵糧心配なので兵力調整してきてくだちゃい」といってることや
軍役に関する書状が「なるべくたくさんつれてきてね」的なニュアンスでしかない事からも
家臣に対する軍役を定める制度も権限ももっちゃいなかったんだよ
寝言ほざいてんじゃねーぞ
自分で言い出したんだからさっさと出せよ
またいつもの書名だけ出してのあるある詐欺か?
ま、いつもの低脳織田厨ニートらしい馬鹿っぷりだな そもそも兵農分離が先進的とか言い出したのは戦後に過ぎないっつーの。
しかもその認識は間違いだし。
兵農分離は政策ではなくあくまで現象にすぎん。それも江戸期に起こったものだ。
>>74
江戸期は兵農分離したのではなくて、帰農したんだよ。
それが実態。200石で2名の江戸出仕に代えたんだよ。
基本は200石で20人の江戸出仕で総動員は30人以上だよ。
お前は馬鹿なのかw ちゃんと一次史料で調べてないだろw >>75
半武半農が帰農もしていない状況を兵農分離とはいわねーんだよあほかw >>76
違うよ。馬鹿はお前w
足軽であっても徒歩侍であって、専門で城に詰めてるんだよ。
後北条家の到着状をみろよ。
2貫400文は扶持米で1貫200文。これは12か月分の扶持米。
一反が1石で500文の計算なんだよ。安藤枡、いわゆる関東枡の大きさで
一食2合分で3食で計算があってる。
なので15歳で歩者(足軽身分)になったら年中、城に詰めてるんだよ。
お前は馬鹿であまりに無知すぎだろ! ちょっと訂正な。
2貫400文は、金1貫200文と扶持米が1貫200文分(1日6合で1年分支給)。
扶持米が1貫200文分は、2石4斗分。
なんでこんな無知と低脳と馬鹿しかおらんの?
暫く来ないうちに馬鹿しかおらんのか? そもそもID:JFR2uORaの兵農分離の定義がさっぱりわからん。
北条は兵農分離してたってことか? とりあえず>>74から始まっている論点について書いてみると
兵農分離は政策ではなく現象であるか否か
→YES
詳しくは下で説明するが、戦国時代の兵農分離は主として郷村側の対応であって大名側の政策ではない
江戸期の兵農分離は帰農であるか否か
→YES
士農工商の枠組みが分けられ、それまで曖昧だった武士と豪農や地侍の区別が明確につけられた
士となったものは>>75がいうようにそれこそ足軽に至るまで城詰めのサラリーマン武士となり、
農となったものは武士的な生活や様式をやめて農村社会での生活に溶け込んでいった
いわゆる近世的兵農分離
戦国時代に兵農分離は起きなかったか
→NO
ただし本格的な近世的兵農分離は江戸時代に起きたものではあったが、
戦国時代にも中世的兵農分離と呼ぶべき現象は起きていた
その詳細は戦乱が続いて軍役が恒常化した事で、軍役衆の供給先である郷村社会が対応したもの
具体的にいうと軍役をこなしてくれる人間を郷村内で固定する代わりに特権や地位を与えたり、
さらには他所の流れ者や浪人などと契約を結んでおき、いざ軍役という時に出陣してもらう、といったもの
後者の場合は質がかなり悪かったらしく、毛利元就などは「まともな奴をよこせ!」と怒声をあげている
このように戦国時代における兵農分離というのはあくまでも郷村側が課せられた軍役に対して対応したものであり、
大名側の政策として行われたものではない
ただし武田などは書状において農民その他の参戦ではなく、武勇人・有徳人を参戦させるように指示しているので
一部にそれに近い動きがあったともいえる
しかし、小説家などによって兵農分離の代名詞のように語られる織田にはこのような動きはろくにない
というか軍役自体が織田はかなり適当
兵農分離は先進的であるか否か
→微妙
そもそも「先進的」なるものをどう定義するかにもよるが、戦国時代的価値観でいうと
江戸時代の近世的兵農分離では戦闘階級と非戦闘階級が分けられてしまうため、
戦闘員の減少が起きてしまう
他国との戦争で少しでも軍役人数を増加させたがっていた戦国大名達にとってはこれはNG
江戸時代という平和な時代に秩序構成のために行われたもの
戦国時代の中世的兵農分離は郷村側の対応であって、大名側の政策ではない
当然の事ながら「兵農分離してるから農繁期農閑期に縛られなくてお得!」
とかいった類のものでも無論無い
戦国時代では多くの大名がオールシーズンで戦っている 兵農分離という言葉が誤解の種なんだから、
使わないに越したことない。 島原や幕末みるに江戸時代ですら有事の際は農民を戦闘員として組み込むの想定してたわけで
身分制度面や現象としてはともかく軍制としては兵農分離はいずれ死語になるんじゃないか つうか信長が領地あたりの人数決めてないってのは
「お前どれくらい出すの?」「やる気あんの?」
ということでやる夫は規定以上につれてくるし
やらない夫は少なめということで全体的には収支トントンなんじゃねえの 何人くるか明確じゃないので、
事前にまともな作戦を立てられない 領土拡大があまりに急だったから均一的制度面はおっつかなかったが
広域指揮官単位では明智軍法など関東中部大名に近い感じではやっている
ある面、部下任せともいえるがサボれば佐久間みたいに追放される >>87
明智軍法はほぼ確実に江戸期に製作されたものだよ。 それはしらなんだ。
確かにそれっぽいけど根拠はどんな感じなんだ? >>89
領地の石高換算してないのに石高で軍役計算してるしな、アレ。 戦国から江戸時代を通じて兵農分離が最も進まなかった家は何処? 城下町への武士集住を徹底せず地方地行を続けた場合を兵農未分離と仮定するなら
島津・伊達・鍋島あたりの家は幕末まで戦国期に近い体制を維持してる >地方地行を続けた場合を
それって単なる封建制の特徴じゃ? 江戸時代すら封建制と呼ぶべきかどうか議論があるしな >>94
>城下町への武士集住を徹底せず地方地行を続けた場合を兵農未分離と仮定するなら
仮定がおかしい。
兵農未分離のポイントは、第一に職業だろ。 そもそも戦国時代は兵農一致の進んだ時代と考えた方がいい。兵農の分離は完全に江戸時代に入ってからの現象 今だに兵士を物理的に農村から離す事を兵農分離だと思ってる奴多いのな そもそも戦国時代を通じて百姓は戦闘に参加しないのが基本だしな。
農村から軍役で徴集されるのは軍夫・人夫といった非戦闘員。
農村にあって武士の下に組織される戦闘員である足軽などは在村給人という身分であり、百姓ではない。
彼らは百姓とは違い、戦力となる代わりに年貢や賦役の一部を免除されていた。 >>81
>軍役自体が織田はかなり適当
”適当”だから、常備兵?メインになってた可能性も
織田家で城下町に兵士を集めはじめたのは朝倉が滅んでからくらい
覇権が確立して軍役の軽減とともに兵農分離が進んだとも見れるし
「国中土民百姓新義之主執不可仕」(天正四年柴田勝家黒印状)とか
天正7年には信長自身が安土に妻子の移住を命じたり、
家臣の新恩給付は基本転封が伴い、いわゆる在地性を失った兵士が主流だったわけで
織田家の少数精鋭(常備軍)化は兵農分離の一端、と見てかまわないのでは?
まぁ近江の井戸村氏とか兄は豊臣配下で専業武士となり弟は在地で農業を続けたり
天正13年の筒井の伊賀転入では在地の侍衆の採用はなかった(百姓か牢人になった)わけで
”兵士と農業(土地)との分断”の例はいくつも残っているわけで…… >>102
それを兵農分離の常備兵というなら東国は信長の100年前に兵農分離も常備兵化も達成しとる >>103
北条でも足軽衆は平時は村にいた(農業に従事)のでは?
秀吉の大返しのとき、姫路城下に足軽衆の家族もいたので
ちょっと事情が変わると思います >>104
信長の足軽衆が普段城下に居たとでも思ってるのかよ?
秀吉がどうして畿内に身分法令出したのか考えてみろよ。 天正19年の身分統制令なら、朝鮮の役の頃の話ですよね
あれは身分制の確立というより(外征のための)武家奉公人を確保するために出された、のでは?
当時は長宗我部家では(外征負担から逃れるため)一領具足からの離脱が起こったり
軍役のメリットがなくなってきた時代の法令ですし、織田家の話とはまた別かと
つか織田家後期では、強大化による相対的な軍役負担軽減によって足軽衆の城下居住が起こった、わけで
(秀吉の大返しでは姫路城下に配下足軽衆の家族がいましたよね?)
それは兵農分離と呼んでかまわないと思いますが ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています