木村吉清を語れ
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
吉清の事なら何でも書いてください
50スレ超えたら奇跡 秀吉から「吉」の字をもらう前は、どんな名前だったの? 5千石から数年後に30万石か・・。何があったんだろうね? >>5-6
どっちなんだよw
どっちも正しいなら、どっちが先なんだ?
三国志の武将馬謖(バショク)やナポレオンの部下ミュラと被る人だな
組織の人的空隙を埋めるため能力以上の役柄を与えられて失敗、転落していくという
木村吉清の場合、この二人と比べると失敗の幅が小さいが故に知名度も低いという悲しさ
仙石秀久並の復活劇?があればまた違ったんだろうけど ミュラは蛮勇の印象があるだけに同意しかねるけどな。
降将で不相応な禄を得て破綻した人物か。孟達ともまた違うかな。 >10
書状で確認できるのは清久→吉清の改名のみ。
光清なんてどこから出てきた諱なんだろうか…? >13
Wikipediaで得た情報
信憑性のない記事なのか? 小田原陣でこの人って政宗を強硬に弁護しまくり、
秀吉が大激怒してこの人を殺そうとしたんだよね。
なのに政宗ってこの人を大崎葛西の乱を使って陥れて失脚させてる。
マジで政宗って畜生同然の悪辣さだよね。 誰?それって感じの印象しかない
なのに30万石、仙石秀久といい
この時代の秀吉軍の人材不足感は強いな >>16
息子の清久でしょ
一揆改易後は蒲生の家来になり、蒲生氏郷死後に九州で1万石の大名として復活
そしてすぐ死んで、息子は関ヶ原で西軍に参加して改易
その後、大坂の陣で討ち死に >>15
さすが戦国最強の人でなし人間藤次郎まちゃむね。
この人は政宗のせいでヘタレで統治能力すらないアホキャラな印象にされてしまって可哀想だ。
実際能力なかったから政宗公の謀略にまんまとかかったんじゃんお( ^ω^)
能力あれば蒲生みたいに回避してるお( ^ω^) >>24
それは違う。
当時の大崎葛西領は改易された大名の遺臣やその主従が失業し政治的に不安定なだけでなく
超絶不作で大飢饉だったからちょっと煽れば一揆が起きるのはあたり前な状況だった。
木村の能力でどうすることもできない。
蒲生の会津が飢饉だったなんて聞いたことがない。
飢饉で収穫のほとんどない大崎葛西領へ転封させられた政宗が涙目なだけ。
政宗も米沢から転封になったら家臣を抑えられる自信ないし伊達はおしまいだと言ってたくらいだし。
さらに自分で煽った一揆軍に褒美をやると呼び出して大虐殺したり卑怯かつ腹黒い政宗の姿を決定的にしちまうしな。 そんな状態の大崎葛西領に入って雄藩を築いた政宗は優秀ではあったわけだ そりゃあ大崎葛西領で一揆をした者達に政宗は褒美をやると触れ回り
各地の山間部に呼び集め逃げ場を封鎖し、
撫で斬り大虐殺をやりまくって根絶やしにしたからだろうが。
卑劣悪辣ジェノサイド基地害らしい政宗のやり口だよな。 木村の馬鹿兄弟は一揆の責任を撮らされ、越後国頸城郡内一万二千石に左遷 秀吉への御恩を報ずる為の秀頼への忠義に死んだ木村の生き様はカッコいい。
政宗の卑怯な詐術と土下座人生は非常に醜い。 木村秀望(清久)は豊後1万5000石を捨てて西軍に参加し大坂夏の陣で自刃。
ほんと木村親子は超苦労人だったよな。
父は荒木村重や明智光秀や秀吉や大政所に才を愛されて抜擢され続け
子飼いの清正や小西や織田派閥にいた堀や蒲生の譜代出世ルートと違い
外様なのに実力で同格にのし上がってる。
政宗はヒステリック超金持ちボンボンDQNで嫉妬深く心が狭い陰謀家。 陰謀家。いい誉め言葉じゃないか。
なにしろその陰謀が成功してるからそう呼ばれるわけだからな。 >>38
表の顔たる伊達政宗としては失敗の連続
裏の顔たる大崎政宗としては成功の連続
うまいこと祖父以来の伊達の乗っ取りの野望には成就したな。 木村の失態のおかげで、蒲生氏郷も政宗に痛めつけられている
から気の毒だなw いきなりの大抜擢されるって事は、それなりに優秀な証だろうけど、
大抜擢すぎたんだろうね・・・・
氏郷の与力大名のような格好で10万石程度とかならよかったのに・・・・ 氏郷の若年での頓死は、政宗へのストレスが原因だったことは疑いようもない。
つくづく秀吉も罪深いな。 名護屋陣において政宗は「このたびも蒲生殿から様々な表裏を受けた」と嘆息している。
蒲生&前田コンビは南部の肩を持って津軽をイビッていたが政宗もイビられていたのだろう。
「このたび」と言っているので長い間虐められていたのがわかる。
木村は小田原陣で政宗を全力でかばって秀吉の怒りを買ったほどの政宗寄り人物。
その人物を失脚させたから政宗をかばうやつが皆無で蒲生&前田コンビに遊ばれて泣き寝入りしてるバカ宗。
そもそも秀吉は木村に大崎葛西旧臣を配下にせずに冷遇するように命令していた為に治安が極度に悪かった。
それにマッチで火を付けて回った放火魔政宗は秀吉に領地をすべて没収され、
一揆を鎮圧したらその地を代わりに与えると言う命令を受けて領地無しの刑罰を受けて一揆衆を詐術で騙し討ち虐殺をして回り、さらに蒲生の力も借りて鎮圧。
政宗はフテ腐れて仮病を使ってたら、蒲生には政宗の父祖の地たる旧伊達領は俺がもらったからwって言われたり、
大谷からはおいトロトロしてたら秀吉にチクるぞ!と言われて病気のはずなのに慌てて政宗はソッコー赴任w
ほんと政宗ってアホ過ぎて笑えるわな〜。 >>46
かなり悪意に満ちた文脈だが、だいたい合ってるからなぁ・・・w 九戸の乱を平定してその地を併合した南部や
仙北一揆を煽って小野寺の雄勝郡を併合した最上
しかし大崎葛西の乱を煽って秀吉の激怒を買い土下座しまくって許しを乞うたが赦されず先祖代々の伊達本領を全て奪われる超絶バカの政宗とその補佐役無能家臣団。 蒲生氏郷が会津に「左遷」されてわずか5年後に頓死。
心筋梗塞だった可能性がある。
政宗が氏郷の死因を早めたとするなら、
政宗は本当に人が悪いw >>49
デタラメばっかり並べてバカじゃねぇのw
捏造教育を受けてきた仙台人ってホントに可哀想だわw >>5
>>13
実子が同じ諱を名乗ってるのは、何か理由があるのかな?
混同されてたりはないんだろうか? 木村吉清ほどマヌケな武将はいないな。
蒲生氏郷の「監督不行届」がそもそもの原因なのかもしれないがw 木村は蒲生の与力じゃないもんな。
蒲生は42万石で木村は30万石。ほぼ同格だしな。 >>54
やっぱり伊達厨って無知なだけでなくバカだな… 木村は実力で叩き上げられた名将ですよ。文武両道だったから秀吉が重宝して引き上げてる。
秀吉子飼いや織田派閥にいたわけじゃないのに蒲生や浅野や前田や佐々と同じくらいの評価を得ていた。 これほどのダメ武将は見たことがない。
お守り役の浅野長政も呆れ果てていたわけだ。 浅野より石高上じゃん。
それにもともと秀吉の腹心だから、浅野に監視されるような立場じゃない。
むしろ、東北大名を蒲生とともに監視する役。 武人としては蒲生より上だろ。
関東牽制と奥羽の鎮守として蒲生より先には木村は任されたんだし。
政治家としても少なくとも浅野や大谷と同等な立場だったろ。
それに検地施行ができる行政能力もあるし
福島の城下町を計画したので縄張り設計力もある万能タイプだからこそ
佐々みたいに責任取らされ自刃に追い込まれなかった。
そもそも改易牢人国人達の現地採用禁止命令とかキツすぎる。 政治能力はお前の言うとおりだと思うが、蒲生のような武功は木村には無いだろ?
大きな武功とか、勇名が高いとかいう話は聞いた事が無い。 明智配下だったから武功があっても伝わってないだけだろ。
じゃなければ実力でのし上がってきた秀吉から高く評価されたりしてないだろう。
評価も無く引き上げて奥羽の鎮護役になったら武功命な秀吉古参の山内一豊らや秀吉子飼いらの武将たちが怒るだろ。 丹波の城の明け渡しで秀吉に目を付けられて、取り立てられたんだっけ? >武功命な秀吉古参の山内一豊らや秀吉子飼いらの武将たち
秀吉子飼い=少々おつむの弱い連中のことですねw >>63
政治的業績に関しては記録が多いのに、軍事的功績だけ旧明智配下だからって伝わって無いってことも無いだろう。
仮に木村吉清の地位で、秀吉の天下統一戦で軍事的功績があったなら、伝わってるはず。
明智時代の武功が伝わらなくても、秀吉時代の武功なら伝わってない方がおかしい。
そういう事も名将としての評判も無いなら、やはり政治能力はあっても、軍事能力はさほどでもないと考えた方が適切。 いやいや
現代わかる武功はほとんどは軍記や家譜や藩公式記録だよ。
だから武功がよくわからんのに当時、高い評価をあげてる人物は少なくない。
木村は小牧長久手や小田原征伐や奥州仕置でそれなりに武功もある。
大将首を取ったり、敵を撃破したり、城を落としたりも。
数年間でこれだけ武功があったら、明智家臣時代にもそれなりの武功があったことも想像できるぐらいには、
武勇は優れていたと思われる。 可哀想な武将。
当時の陸中は伊達や南部といった有力者達の間者も数多く入り
結構カオスな状況だった。
能力が無いと言えばそこまでだけど大変な地域だったのも事実だよ。 可哀想な武将。
当時の陸中は伊達や南部といった有力者達の間者も数多く入り
結構カオスな状況だった。
能力が無いと言えばそこまでだけど大変な地域だったのも事実だよ。 あと伊達ばかり批判されてるけど南部も結構悪い事してる。
当時の南部は津軽奪還を諦めて南に領土を広げることを
画策し実行してた。 それはどうだろう。南部は九戸対策で頭がいっぱいで
葛西大崎方面どころじゃないと思うよ。
1590年10月岩手沢城で一揆が発生するや瞬く間に広がる。
11月16日蒲生と伊達が共同で一揆鎮圧にあたることで合意
1591年2月4日謀反の嫌疑で上洛した政宗に対する査問
5月に米沢へ戻り伊達も討伐へ向かい8月中旬頃にほぼ鎮圧
9月23日家康は仕置を終えて政宗に新領土を引き渡した。
1591年1月九戸政実が南部氏の正月参賀を拒絶し
3月に挙兵
9月1日秀次の討伐軍が九戸氏所領への攻撃
信長の野望 天道 武将データ
統率 武勇 知略 政治 総合 足軽 騎馬 弓隊 鉄砲 兵器 義理
<隣人>
蒲生氏郷 85 73 81 83 322 B B D A B 78
伊達政宗 96 86 92 93 367 C A D S A 10
<同僚>
石田三成 52 13 85 99 249 B D D C C 98
加藤清正 88 92 64 71 315 S B D B A 80
福島正則 82 88 37 51 258 A S C D D 88
大谷吉継 93 68 89 89 341 A C B B B 99
仙石秀久 43 71 20 16 150 B D D D D 19
<旧主>
荒木村重 74 70 65 65 261 B D C B D 25
明智光秀 88 85 92 96 361 B C D S A 42
<推測される能力>
木村吉清 50 69 64 59 242 C C D B D 49
木村清久 42 33 69 75 219 D D D C D 77 葛西大崎一揆はその北の旧和賀や稗貫、斯波辺りの
旧領主たちも呼応した。
その中には南部の謀略によって所領を失った和賀氏もいる。
>>76
木村吉清は戦功が無いわけじゃないけど、元はと言えば奉行畑の人だぞ?
明智でも留守居役。天下統一前の秀吉政権のトップ官僚の一人。 >>78
ただの官僚ならあれだけの領地加増はありえない。
あきらかに武も文もできたから
外様でありながら蒲生氏郷並みの地位につけたと見るべき。
>>77>>74
南部が悪巧みした根拠があるのか?
そもそも当時の南部は九戸と八戸を組下の位置づけに成功したなど
豊臣政権が安定してくれた方が得なはずで、
木村は九戸や八戸の不満に対する南からの牽制である。
さらに南部は三戸と八戸だったか?のどちらに本拠を移すか
悩んでいたようなところがあり
豊臣政権からは妻子を三戸に置けと命じられ、その後は大坂へ送れと命じられている。
また盛岡城計画すらない時代で九戸問題もあり
さらに南方に目を向ける余裕はない。
しかも大崎葛西の乱の拡大を見て好機到来とばかりに
九戸まで挙兵しちまうし・・・ 秀吉に人身御供にされたって説もある。
中央の威光が届きにくい辺境の地で
中央の力を誇示する名目を作る為にわざと派遣されたのかもしれない。 >>79
豊臣大名で15万石越える人は、だいたい政治も軍事もできるけど、
どっちも有能ってのは少なくて、優秀な政治家で軍事は一通りできる程度か、
逆に優秀な武将で政治は一通りできる程度っての方が圧倒的に多いよ。
んで、木村吉清は政治は優秀で、軍事はそこそこな人。
抜群の政治能力に比肩するほど、武勇が凄かったわけじゃない。 浅野長勝の養女のねねと同じで長勝の養子に入ってのちに
信長の命で秀吉の与力になった古株の奉行畑の浅野長政でさえ
若狭国小浜8万石レベルだったし
吉清の12郡30万石の加増から考えて武も優れていたと考えるべきだろう。
武功を挙げずに奉行仕事だけでは大きな加増機会はなかなかない。 証拠が第一だよ、歴史は。妄想だけで突っ走るのは良くない。 ひたすら木村吉清を持ち上げてる奴(今日のID:YDckX+6+)はサブだよね。 秀吉から一文字もらってるし、気に入られていたことは間違いない。 証拠はその加増された石高そのものが証拠だろ。
小田原陣が終わったあたりでの奉行は前野長康や大谷吉継らで
平均して5万石前後だし
武功でのし上がった武功組で
中村一氏や長谷川秀一ランクですら15万石前後。
木村の30万石は改易だらけの難しい場所での
奥羽の鎮護役と期待されてのことだから
文武に優れていたから派遣されたとみるのが自然。
たまたま荒木村重や明智光秀ら信長への謀反組に仕官してたから
業績がちゃんと現在まで残ってないだけだろ。
葛西大崎一揆に関しても大谷が出羽国の検地で失敗して
藤島一揆を引き起こして上杉軍の援軍で平定したり
九戸一揆も豊臣秀次の支援で鎮圧したりと
奥羽の一揆はかなり激しかったから仕方が無い。 >>86
明智や荒木配下の武功が多い将は、主君が叛いた時に運命を共にした奴でも、
だいたい武功に関する記録はある。木村は生き残って栄達したのに無い。
政治関連の記録ばかり。それがすべて。 何言っても無駄そうなタイプだな、こいつ。
持論に固執しそう。 >>86
>葛西大崎一揆に関しても大谷が出羽国の検地で失敗して
>藤島一揆を引き起こして上杉軍の援軍で平定したり
>九戸一揆も豊臣秀次の支援で鎮圧したりと
だから何で木村だけが責任取らされてんの?って話。
その理屈で言えば大谷も南部も改易されてなきゃおかしいだろ。
始めから秀吉は人身御供に使っただけと考えれば
様々な矛盾点は解決する。 >>87
>>明智や荒木配下の武功が多い将は、主君が叛いた時に運命を共にした奴でも、
だいたい武功に関する記録はある。
じゃあ5〜6人ほど具体的に名を上げて武功を箇条書きに書いてもらおうか。
>>89
>>理屈で言えば大谷も南部も改易されてなきゃおかしいだろ。
始めから秀吉は人身御供に使っただけと
えっお前は何を言ってんだ?いつ大谷が出羽に領地もらってたんだ?
責任ならちゃんと武藤と本庄が一揆の背後にいたとして改易されて処分されただろ。
九戸も一揆の当事者だから潰されたし。木村は蒲生の与力として福島への減転封にすぎんのだが・・・
そもそも>>80でも書いてるようだが木村が人身御供なんて説は聞いたことがない。
おおかた、徹底的に秀吉に敵対してきた佐々成政を憎んでいた秀吉が
肥後でわざと統治に失敗させるように仕向けて肥後一揆の責任を問うて自刃
なんて妄説を安易に転用してきただけだろw
佐々はその指揮能力を買われて朝鮮出兵での活躍を期待されて
肥後一国を任せられたんであって秀吉が殺意を抱いていたなんて話は妄想に過ぎないし。
佐々は秀吉が肥後の国情から国人一揆が起きないように数年は検地すんなって命令してたのに
竿を入れて一揆を起されたり、キリシタンを保護してたりしたから責任を取らされただけ。
そして清正や行長を肥後に入れて朝鮮出兵の先陣にしてる。
秀吉の唐入りの情熱は非常に高く、島津に安堵を与えたのも博多を物凄い勢いで復興させたのも
相良が佐々の命令で島津の進軍路を封鎖した件で
相良も一揆内通の嫌疑をかけられて改易しそうになったり
朝鮮でブザマな敵前逃亡で大友を改易したのも九州の混乱で唐入りの支障が出るのを嫌ったからで
奥羽の一揆で木村で人身御供なんて話は完全なデタラメだろ。
>>79
東北に惣無事令が制定される前年に内通者を獲得し、
高水寺斯波氏を滅ぼしたりしてる。
他にも和賀氏にも間者を使って豊臣政権に近づけないなどの
謀略も行っているよ。
>>91
それ秀吉の奥羽での仕置き完了以前の話だよね・・・なんで関係ない話を持ち出すの?意味わからん。。 そもそも和賀氏の秀吉への参陣が遅れるように
群議を長引かせたとする
黒岩城家老の昆土佐が南部に内通して
出立前夜には腹痛事件を起したって話に
ソースも根拠もまったく無いし。 あれ?>>91はもしかして和賀一揆の背後に南部がいたと主張したかったの?
それはないよ。
和賀氏の領地は豊臣家の直轄領となってる以上は
その領地において和賀一揆を煽る行為は
秀吉の逆鱗に触れて南部改易になるだけだから。
南部が清廉潔癖かと言えばそうでもないんだが。
というか和賀一揆は木村吉清とは関係ないだろ。
>>95
誰も南部は潔癖なんて主張してないが・・・
>>和賀一揆は木村吉清とは関係ないだろ
秀吉の奥羽での仕置き後の話をしてるのに
>>91が仕置き前の話を書いてる不可解さから
ひょっとして大崎葛西の乱に乗じた
和賀一揆の背後に南部がいたと主張したかったの? と聞いただけだろ・・・ 力量以上の役目与えられて没落した良い例としか語れん。 Subが必死で言ってるように武勇があったら、
一揆軍なんて三十万石に物言わせて大軍集めて、
軽く蹴散らしてるんじゃないか? >>97>>98
相次いで自演を重ねるとはブザマだなw >>98
一揆に加わってる人間はその30万石の中の人たちなので集められん。
直轄領は善政を行わないとならないのにまるで逆のことをやってしまったのが最大の失敗。 >>100
木村は葛西や大崎の旧臣召し抱えないで、
金にあかせて浪人を集めたり、小者を侍に取り立てたりしたじゃない。
もっとやってれば、一万ぐらいは集まったと思うが。 >>100>>101
お前まだ自演してたのw
お前は別人を装っているようだけど
書いてる内容が全部、伊達側からのパクリ内容だけだから
伊達厨の自演ってすぐバレるんだよw
和賀のこと。
伊達世臣家譜 和賀の譜には、和賀改易が浅野と南部の謀と書いてあるが、これは伊達史料の大ウソである。
奥南落穂集や岩崎一揆由来に和賀薩摩守信親が秀吉に参陣せずにいたので秀次下向の際に城を落ちたとしている。
さらに当時の政宗は自分が豊臣政権に対する奥羽の代表窓口だと主張しており、
政宗は和賀信親の他にも岩手郡不来方城主福士直経・志和郡平沢城主梁田詮泰・稗貫郡鳥屋崎城主稗貫輝家に書状を出しており
8/16には和賀が政宗に「御隔心無く仰せ下さる可く候、それがし儀、万端頼み奉る迄に候」と哀れなくらい非常に信頼して対豊臣外交を一任している。
政宗を信用し小田原へ参陣せずに伊達家臣に認定されたのが不満で長江氏は滅ぼされ、黒川も反抗した挙句に知行の大幅削減を飲み降伏を政宗から許された。
留守は政宗の叔父なので泣き寝入りしたようだがw田村、白河、石川、葛西、大崎らは政宗を信じた挙句に参陣してないとして独立大名認定を受け改易された被害者だ。
葛西大崎領などでは秀吉の方針で撫切令で臨む。葛西大崎は浅野長政が検地をしていた。
成実記
小者・あらし子を侍にして本侍を百姓にし米を略奪し百姓の下女どころか本侍の娘子まで
我が女房に取り集めており沙汰の限り仕様候故、侍百姓は明日の事すら分からず…
木村→浅野長吉10/5
米泉という村落の住民が伝馬の課役を拒否し隠していた刀を取り出して反抗したので30人を貼り付けにしたが脇百姓は見分けて悉く助けた
成実記は木村暴政と事実無根の悪口を記す。成実記のデタラメぶりは
天正18年を19年に混同し政宗が九戸包囲に参加したと書いていることからも理解できよう。
>>70
なんかいろいろと混同してるね…。
秀頼の唯一の幼なじみと言われ大坂夏の陣で玉砕した木村重成の父は誰だか確定してないよ。
まぁ木村定重やその子の定光と木村吉清はあるいは兄弟か親類同士かも知れないね。
だからその縁で光秀から秀吉に仕えることができた可能性はある。
もし定光の子が重成と仮定すると、
定光は秀次事件に連座して子供まで皆殺しにされてるから、
子がなぜ生き残っているのか?
秀頼に殉死する理由があるのか?と言う疑問が出てくるね。
木村吉清の子の清久(秀望)は蒲生の下野転封の際に、豊後1万4000石に転封になった父の遺領を継ぎ、
大坂冬の陣では兵を率いて丹波田辺城攻撃に参加後に改易。
夏の陣では大坂城に籠城して戦死してるよ。
まあ織田サラブレット蒲生氏郷並みの評価を父が受けたと思えば、清久には秀頼に殉死する理由はあるしね。
同じ最後を遂げた事から、あるいは清久と重成は兄弟なのかも…
>>101
それは成実記のデタラメ内容だろ。
蒲生や浅野の兵もまだ駐留していたし
大崎家臣だった高清水城主の高泉隆景は木村に仕えたが一揆参加のち政宗家臣だし。
蒲生氏郷を「親と思え」と秀吉から言われていた日本一情けない武将だねw >>107
どうせ示せないんだから、いじめるのはやめてあげよう
こういう単芝は大体無学 このひと出身地や家系不明だよね?
どういった経路で荒木村重に仕えたんだろう 参考
信長なんて恐怖で支配してただけで統治力もゼロ
なんせ尾張・美濃ですら面従腹背で人心は織田家から離れていたからな。
そりゃあ本能寺の変で尾張美濃兵が信長のあだ討ちなんてするわけない。
むしろ歓迎してたのは明らか。
なんせ天正10年10月十八日付け秀吉→信孝側近斉藤玄蕃・岡本太郎左衛門宛書状でも
信長が死ぬや謀反したので人質を出させて降伏を許すのでなく首を刎ねるべきと秀吉が書いてるなかで
江州の阿閉氏を挙げたあとで、さらに尾・濃の御成敗に言及してる。
濃州の面々、城を拵え、悉く御敵と成り、稲葉山えおは、既に、斉藤玄蕃允相上られ候といへども、
長浜へ罷り越し、我等に稲葉山、相渡さるべきに極められ候、其の外、国衆の人質、残らず我等請取り申候
長松へつれて馳せ向ひ候間、一国の者首を助け申し候事
其れより尾州へ罷り越し、又ぞろや、悪逆人成敗いたすべきと申し候処に、我等清洲の御城に居申し候へば、
国中の人質残らず、三河・信濃境迄出し申し候間、是非に及ばず候、是又首を助け申し候事
などと秀吉は尾張と美濃のまたぞろ現れた悪逆人を処罰をせずに人質を受け取ることで許す信孝を非難してる。
この不審な態度は信孝が信長・信忠暗殺の黒幕とも思える話で秀吉が激怒してる文である。
いかに信長が尾張美濃の人々からも憎しみを向けられ敵視され、隙あらば謀反自立しようとしていたかわかる。
そして秀吉は信長親子への謀反をした者どもと組している信孝を討って仇討ちをするのである。
光秀重臣の佐竹宗実を許してるなんて
朝廷が信長暗殺に加担していた傍証だよな。
この人の妹が吉田神社の兼見の妻だし
天正10年正月に兼見が坂本で光秀と会談したときに
取次ぎしたのが宗実の弟の佐竹弥吉だったし。
この人は秀吉に許され、丹羽長秀に仕えてる。
伊勢貞知は光秀重臣伊勢貞興の従兄弟で幕臣→光秀配下となり
山崎の戦いを記述した山科言経の日記のうちで
山崎での合戦で敗北し伊勢守(貞興)以下30余討ち死と
最初に名前があがるほどの人物だった。
貞知は幕臣→近衛前久に仕えて信長のために島津と大友の和睦に奔走した。
この明智方重臣の家も秀吉は許している、
その他にも光秀騎下の近江の土豪磯谷新右衛門の息子で
光秀が元服名付け親となっていた磯谷彦四郎なんかも秀吉は許している。
木村吉清とかも許してるしな。
津田信勝(盛月)
柴田の部下を斬って信長と柴田の怒りを買った張本人。
秀吉に密かに庇われていたが毛利攻め末期に備中陣にいるのが
信長にバレて責任を取って切腹させられそうになった時に本能寺の変勃発。
秀吉も津田信勝隠匿が露見し終了寸前。
津田といえば 光秀の養子の津田信澄の父も信勝・・・
やはり信長は朝廷・近衛・吉田神社・光秀・秀吉・信孝の謀議で殺されてるとしか思えない。 天皇が義昭の将軍職を解任しないどころか、
天皇は国僧に快川紹喜を任命し、
国寺に恵林寺を任命するなど天皇は武田擁護しまくり。
織田はそれに対して快川を焼き殺し、恵林寺を焼き捨てて、天皇を脅迫。
天皇を辱めた織田に見切りをつけた光秀は、
義昭を奉じて信長を天誅した。
6月13日付け雑賀衆土橋重治宛光秀書状には、
将軍への奔走と入洛に言及してるし、
義昭も信長を討ち果たしたと書いてるしな。
柴田が光秀を討ちに行くことに消極的だったのめた義昭とつるんでいたから。
勝家は天正11年3月4日付け義昭近臣真木宛でも義昭上洛へ言及してるなど光秀の意向を勝家は引き継いでる。
結局、天皇をコケにした信長は家臣団に裏切られて義昭に敗北し、信玄を尊敬していた快川の死に方と同じやり方で信長は報復された。
朱印状貿易も信長が簒奪者の成り上がりだとして、到底正統とは認められず許可されなかったし、
本能寺の変後に義昭は毛利の乃美への「信長を討ち果たした」と勝利宣言をしているが、
島津義久には「織田は天命のがれがたく自滅した」と書くなど
義昭は実は天皇の天意を奉じて信長に天誅を加えたことに触れている。
信長の御勘気をこうむっていた教如を顕如が義絶していたが
本能寺の変の20日後にはさっそく天皇が
待ってましたとばかりに教如を赦免するように顕如を諭してる。
日本において天皇は神のように崇められているって宣教師も書いてる。その宣教師を厚遇する背教者信長。
丹波の御領回復に対して、天皇は馬・鎧などを下賜。
(朝廷との取次ぎ役以外の陪臣に対して下賜を行うのは稀有)
信長に欺かれていた光秀は、
信長の勤皇を称えたあとに、天下はすべて天皇の土地であるという旨の文書残してる。
「あまねく天之下王土」の考えは、仲の良かった吉田兼見や行祐からの影響だろう。 坊や、糞スレだからといって荒らしていい法なんてないからね この人も明智光秀に加担した挙句に、
信長暗殺の軍功を評価されて遅れたとは言え論功褒賞で加増された口だね。 葛西大崎一揆って、政宗が仕立て上げたってイメージだけどどうなの? >>121
そうだよ。だから証拠隠滅のために一揆やったやつらを片っ端から殺戮した。
宮城県なんて支配階級山形県民による血の粛清によってできたようなもの。 なんでこいつが30万石なんだろうな
せいぜい大名になれた程度だろ 吉清の「吉」は秀吉からもらったんだろうけど、何時頃もらったんだろ? 明智家臣は結構知ってるけど、こいつの名前は全く出てこない。
斎藤利三
明智秀満
明智光忠
溝尾茂朝
藤田行政
四王天政孝
四王天政実
進士貞連
妻木範賢
松田政近
伊勢貞興
御牧兼顕
荒木行重
柴田勝定
ほらやっぱり出てこない 統率 武勇 知略 政治 魅力 野心
木村吉清 51 70 43 60 65 63 >>130
木村吉清は、光秀から亀山城の城代を任されるぐらいの重臣だぞ >>130
それ山崎の戦いに参加した武将中心でしょ
光秀の丹波平定で手足となって活躍した丹波の小畠氏(小畠左馬進など)や片山氏(片山兵内など)などが抜けている
その頃、木村吉清もかつて丹波内藤氏に仕えて丹波のことをよく把握していたので、亀山城の城代となり光秀の本能寺の変の留守を守っている 経歴から考えて山崎の戦い後の5000石から奥州仕置までずっと5000石の
ままだったとは考えにくい
その間にも京都町奉行や検地奉行として活躍している
5000→30万は恐らく誤伝であり、それまでに数万石の身上には昇進していたか、
知行は5000石でも蔵入地の代官として実質十数万石を管理していたのではないか?
秀吉が「わざと失敗させるために30万石与えた」というのは風聞に過ぎない
光秀が城代という家老クラスを与えていることや、改易後も氏郷が5万石も与えて
召し抱えたことからも、むしろ有能な人物だったのだろう
>>137
なるほど。いきなりの大出世ではなく、中間が落ちているだけってことか。なっとくできますね。 吉清が暴政をひいたというより、近代化の必須プロセスとしての検地と大名廃絶が原因
検地による一揆は四国、九州、関東、奥州全てで起きている 蒲生家でも5万石を有して福島の由来となる城を築城した人物か 福島に行ったことコロはわかるけど、何故に豊後に行ったんかいまいちわからん。 有能なのに、1回の失敗で不当に低く評価されている人だな >>147
九州は出兵命令を課している重要な地
豊後は大友を改易させた以上、織豊下で検地経験ある武将を置くのが望ましいと 中川、太田、福原、早川、毛利(森)、垣見、竹中
こんなところ+木村かあ 秀吉も人が悪い
信長が勝家、信忠にベテラン何人も与力つけたのやれよ
こうなることもわからなかったのは
わざとなのかわざとじゃないなら耄碌始まってたな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています