木村吉清を語れ
吉清の事なら何でも書いてください
50スレ超えたら奇跡 >>101
それは成実記のデタラメ内容だろ。
蒲生や浅野の兵もまだ駐留していたし
大崎家臣だった高清水城主の高泉隆景は木村に仕えたが一揆参加のち政宗家臣だし。
蒲生氏郷を「親と思え」と秀吉から言われていた日本一情けない武将だねw >>107
どうせ示せないんだから、いじめるのはやめてあげよう
こういう単芝は大体無学 このひと出身地や家系不明だよね?
どういった経路で荒木村重に仕えたんだろう 参考
信長なんて恐怖で支配してただけで統治力もゼロ
なんせ尾張・美濃ですら面従腹背で人心は織田家から離れていたからな。
そりゃあ本能寺の変で尾張美濃兵が信長のあだ討ちなんてするわけない。
むしろ歓迎してたのは明らか。
なんせ天正10年10月十八日付け秀吉→信孝側近斉藤玄蕃・岡本太郎左衛門宛書状でも
信長が死ぬや謀反したので人質を出させて降伏を許すのでなく首を刎ねるべきと秀吉が書いてるなかで
江州の阿閉氏を挙げたあとで、さらに尾・濃の御成敗に言及してる。
濃州の面々、城を拵え、悉く御敵と成り、稲葉山えおは、既に、斉藤玄蕃允相上られ候といへども、
長浜へ罷り越し、我等に稲葉山、相渡さるべきに極められ候、其の外、国衆の人質、残らず我等請取り申候
長松へつれて馳せ向ひ候間、一国の者首を助け申し候事
其れより尾州へ罷り越し、又ぞろや、悪逆人成敗いたすべきと申し候処に、我等清洲の御城に居申し候へば、
国中の人質残らず、三河・信濃境迄出し申し候間、是非に及ばず候、是又首を助け申し候事
などと秀吉は尾張と美濃のまたぞろ現れた悪逆人を処罰をせずに人質を受け取ることで許す信孝を非難してる。
この不審な態度は信孝が信長・信忠暗殺の黒幕とも思える話で秀吉が激怒してる文である。
いかに信長が尾張美濃の人々からも憎しみを向けられ敵視され、隙あらば謀反自立しようとしていたかわかる。
そして秀吉は信長親子への謀反をした者どもと組している信孝を討って仇討ちをするのである。
光秀重臣の佐竹宗実を許してるなんて
朝廷が信長暗殺に加担していた傍証だよな。
この人の妹が吉田神社の兼見の妻だし
天正10年正月に兼見が坂本で光秀と会談したときに
取次ぎしたのが宗実の弟の佐竹弥吉だったし。
この人は秀吉に許され、丹羽長秀に仕えてる。
伊勢貞知は光秀重臣伊勢貞興の従兄弟で幕臣→光秀配下となり
山崎の戦いを記述した山科言経の日記のうちで
山崎での合戦で敗北し伊勢守(貞興)以下30余討ち死と
最初に名前があがるほどの人物だった。
貞知は幕臣→近衛前久に仕えて信長のために島津と大友の和睦に奔走した。
この明智方重臣の家も秀吉は許している、
その他にも光秀騎下の近江の土豪磯谷新右衛門の息子で
光秀が元服名付け親となっていた磯谷彦四郎なんかも秀吉は許している。
木村吉清とかも許してるしな。
津田信勝(盛月)
柴田の部下を斬って信長と柴田の怒りを買った張本人。
秀吉に密かに庇われていたが毛利攻め末期に備中陣にいるのが
信長にバレて責任を取って切腹させられそうになった時に本能寺の変勃発。
秀吉も津田信勝隠匿が露見し終了寸前。
津田といえば 光秀の養子の津田信澄の父も信勝・・・
やはり信長は朝廷・近衛・吉田神社・光秀・秀吉・信孝の謀議で殺されてるとしか思えない。 天皇が義昭の将軍職を解任しないどころか、
天皇は国僧に快川紹喜を任命し、
国寺に恵林寺を任命するなど天皇は武田擁護しまくり。
織田はそれに対して快川を焼き殺し、恵林寺を焼き捨てて、天皇を脅迫。
天皇を辱めた織田に見切りをつけた光秀は、
義昭を奉じて信長を天誅した。
6月13日付け雑賀衆土橋重治宛光秀書状には、
将軍への奔走と入洛に言及してるし、
義昭も信長を討ち果たしたと書いてるしな。
柴田が光秀を討ちに行くことに消極的だったのめた義昭とつるんでいたから。
勝家は天正11年3月4日付け義昭近臣真木宛でも義昭上洛へ言及してるなど光秀の意向を勝家は引き継いでる。
結局、天皇をコケにした信長は家臣団に裏切られて義昭に敗北し、信玄を尊敬していた快川の死に方と同じやり方で信長は報復された。
朱印状貿易も信長が簒奪者の成り上がりだとして、到底正統とは認められず許可されなかったし、
本能寺の変後に義昭は毛利の乃美への「信長を討ち果たした」と勝利宣言をしているが、
島津義久には「織田は天命のがれがたく自滅した」と書くなど
義昭は実は天皇の天意を奉じて信長に天誅を加えたことに触れている。
信長の御勘気をこうむっていた教如を顕如が義絶していたが
本能寺の変の20日後にはさっそく天皇が
待ってましたとばかりに教如を赦免するように顕如を諭してる。
日本において天皇は神のように崇められているって宣教師も書いてる。その宣教師を厚遇する背教者信長。
丹波の御領回復に対して、天皇は馬・鎧などを下賜。
(朝廷との取次ぎ役以外の陪臣に対して下賜を行うのは稀有)
信長に欺かれていた光秀は、
信長の勤皇を称えたあとに、天下はすべて天皇の土地であるという旨の文書残してる。
「あまねく天之下王土」の考えは、仲の良かった吉田兼見や行祐からの影響だろう。 坊や、糞スレだからといって荒らしていい法なんてないからね この人も明智光秀に加担した挙句に、
信長暗殺の軍功を評価されて遅れたとは言え論功褒賞で加増された口だね。 葛西大崎一揆って、政宗が仕立て上げたってイメージだけどどうなの? >>121
そうだよ。だから証拠隠滅のために一揆やったやつらを片っ端から殺戮した。
宮城県なんて支配階級山形県民による血の粛清によってできたようなもの。 なんでこいつが30万石なんだろうな
せいぜい大名になれた程度だろ 吉清の「吉」は秀吉からもらったんだろうけど、何時頃もらったんだろ? 明智家臣は結構知ってるけど、こいつの名前は全く出てこない。
斎藤利三
明智秀満
明智光忠
溝尾茂朝
藤田行政
四王天政孝
四王天政実
進士貞連
妻木範賢
松田政近
伊勢貞興
御牧兼顕
荒木行重
柴田勝定
ほらやっぱり出てこない 統率 武勇 知略 政治 魅力 野心
木村吉清 51 70 43 60 65 63 >>130
木村吉清は、光秀から亀山城の城代を任されるぐらいの重臣だぞ >>130
それ山崎の戦いに参加した武将中心でしょ
光秀の丹波平定で手足となって活躍した丹波の小畠氏(小畠左馬進など)や片山氏(片山兵内など)などが抜けている
その頃、木村吉清もかつて丹波内藤氏に仕えて丹波のことをよく把握していたので、亀山城の城代となり光秀の本能寺の変の留守を守っている 経歴から考えて山崎の戦い後の5000石から奥州仕置までずっと5000石の
ままだったとは考えにくい
その間にも京都町奉行や検地奉行として活躍している
5000→30万は恐らく誤伝であり、それまでに数万石の身上には昇進していたか、
知行は5000石でも蔵入地の代官として実質十数万石を管理していたのではないか?
秀吉が「わざと失敗させるために30万石与えた」というのは風聞に過ぎない
光秀が城代という家老クラスを与えていることや、改易後も氏郷が5万石も与えて
召し抱えたことからも、むしろ有能な人物だったのだろう
>>137
なるほど。いきなりの大出世ではなく、中間が落ちているだけってことか。なっとくできますね。 吉清が暴政をひいたというより、近代化の必須プロセスとしての検地と大名廃絶が原因
検地による一揆は四国、九州、関東、奥州全てで起きている 蒲生家でも5万石を有して福島の由来となる城を築城した人物か 福島に行ったことコロはわかるけど、何故に豊後に行ったんかいまいちわからん。 有能なのに、1回の失敗で不当に低く評価されている人だな >>147
九州は出兵命令を課している重要な地
豊後は大友を改易させた以上、織豊下で検地経験ある武将を置くのが望ましいと 中川、太田、福原、早川、毛利(森)、垣見、竹中
こんなところ+木村かあ 秀吉も人が悪い
信長が勝家、信忠にベテラン何人も与力つけたのやれよ
こうなることもわからなかったのは
わざとなのかわざとじゃないなら耄碌始まってたな