豊臣三中老 堀尾良晴・中村一氏・生駒親正
名高い「五大老」「五奉行」に挟まれた豊臣政権の調整役(小年寄)の三氏一族を語れ。
堀尾吉晴(遠江浜松12万石)
中村一氏(駿河府中14万石)
生駒親正(讃岐高松17万石)
■関連スレ
豊臣政権の五奉行を語れ
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1171727569/
【内助の功】 山内一豊 【功名が辻】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1154004772/ 三家とも幕末まで大名家としては残れなかった(´・ω・`) この3人と福島が豊臣について死ぬ気で抵抗したら家康は困っただろうね 堀尾 家康に懐柔されて隠居
中村 もう死にかけ
生駒 二股膏薬 つーか、関ヶ原前に既に、家康は豊臣政権の運営者そのものだったんだから、
それに付かないほうが異常だろ。 3家ともお家騒動を起こしたが堀尾だけは吉晴が生きていたので穏便に収まった 伯耆時代の中村家で御家騒動(しかも市街戦有りw)が起きた時、
出雲の堀尾吉晴が手勢を率いて助けに来てくれたんだよな(・∀・)イイ!! >>6
駿河はともかく遠江浜松なんかまさしく家康のお膝元だったんだから、蟷螂の斧にもならない気がするがなあ。 本気で抵抗なんかしようとしたら、それこそ領内で壮絶な一揆が起こって
追い出されただけだろうしな。 堀尾忠晴
忠氏が急死して5歳で家督相続
その際に家督を奪われそうになるが祖父の吉晴が阻止
美少年だったらしく、前田利常(マッチョ)と衆道関係だった
嗣子無し断絶
中村一忠
関ヶ原の直前に一氏が死んで11歳で家督相続
讒言を信じて筆頭家老の横田村詮を誅殺して
村詮の家臣と内戦状態にまで発展(米子騒動)
堀尾吉晴の救援で鎮圧したが、その後酒に溺れて20歳で死去
嗣子無し断絶
生駒高俊
11歳で家督相続、母方の祖父にあたる藤堂高虎の後見を受ける
高虎死後の成人した後も政務を顧みず美少年を集めてホモ踊りにはまる
家臣らが諍いを起こし(生駒騒動)、改易される >>15
>讒言を信じて筆頭家老の横田村詮を誅殺して
>村詮の家臣と内戦状態にまで発展(米子騒動)
家康が送り込んだに等しい家老だったから、印象が最悪だわな。 中核ができてない新興大名家にある
家中統制の難しさだのう
生駒は三好・十河の残党にひどいことをしたね(´・ω・`) 堀尾良晴は不運だったな。長男金助は小田原攻めで陣没。後継者となった忠氏も不遇の若死。息子が一人だったのに家が続いた大名はいくらでもあるのに。
全国的にはあまり知られていないが、金助母が、息子の33回忌の菩提を弔うため作った橋の擬宝珠に彫られた銘文は、名古屋地方では有名。興味ある向きはwiki裁断橋で。 金助生誕の地碑の横を仕事でよく通るけれど、地元でも誰やねん感が漂いまくりだったり。 そもそも、中老職は実際に存在したのかしてないのか。
そこをハッキリさせるべき。 「中老」って名前は、やはり明治以降に付けられたのか? >>15
山内一豊の方が優秀だったよね。
幕末まで雄藩として残り、小説や大河で高評価! 割といい地位にありつけれたんじゃない?
小田原以前に付けられてたんだから、疎まれてなければ 秀次を擁護しなかったのがあれだけど秀次政権が続けば
政権の中枢に居たのが間違い無いだけに秀次事件の被害者とも云えるか。 これだけ出世させてもらったのにみんな徳川になびいてるやん
秀吉は見る目がなさすぎる
1人でも徳川なにするものぞで戦っていたら評価も違うのに
堀尾帯刀先生忠晴
堀尾家は、出雲松江18万石になるも、無嗣につき断絶。
中村式部少輔一忠
中村家は、伯耆米子19万石になるも、やはり無嗣断絶
生駒雅楽頭親正
生駒家は、讃岐18万石より、出羽國内矢島に8000石の堪忍料を与えられ、大名の座から、転落。讃州 >>40
秀吉の下にいたからこそ
家康に付くのが前田なんかが通った道で
秀頼に付くのが佐々が通った道に見えたんじゃないの
この3人は秀吉が若いころからの戦友じゃなかったのか?
だから秀吉も三中老という役職を用意してくれたんじゃないの?
徳川と組むとは思いもしなかったのでは? >>44
お前は会社の上司と運命をともにするのか。 >>15
こんなんなら家康と一戦した方が圧倒的にマシだったなあ
徳川は自分たちになびいても親豊臣には厳しいしさあ(加藤福島の末路とか)
この三家が本気で兵を総動員したら15000くらいにはなるんじゃねえの
>>46
おそらく三成派が政権取ったら真っ先につぶされるだろう
秀吉存命時には秀秋でさえ左遷させるくらいのやつだからな >>46
浅野とか池田とか黒田とか細川とか前田とか大繁栄してるが? >>47
だわな
秀次を諫言で陥れたのはおそらく三成
秀次が政権を手に入れてしまったら権力を握るのは堀尾、中村、生駒だろうしな
何とか阻止したかったはず
そんな立場の彼らが三成につくとも思えないしな 秀次失脚は三成じゃなくて秀吉の暴走だと思う
あと、生駒はともかく堀尾、中村は領地の場所から言って徳川につかざるをえない >>50
豊臣には領土削られた恨みしかないだろう長宗我部や島津が西軍だし
位置取りが重要だったな
>>15
無嗣断絶、大杉。
徳川家に泣きついて、どっかから養子もらえなかったもんかね? >>52
結局当主が自分の子供が出来ることを諦めなけりゃ、家臣にはどうにも出来ないことだからな。
下手に養子つくるとそれはそれで家中が動揺するし。
そんなんばっかりだったからしょうがなく末期養子の制度が出来たわけだ。 堀尾は出雲一国をもらった時に、富田城をすてて、松江城を作ったけど、あんなふうに水辺に城を作るのは小田・豊臣時代の影響だよね。
5大老のぼくりんと、
3中老のお前らと、5奉行のちんぽ ttp://2ch.at/s/20mai00510874.jpg
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ttp://2ch.at/s/20mai00510876.jpg 寛永10年(1633年)、堀尾忠晴は死去するが、嗣子が無く堀尾氏嫡系は3代で改易とな
る。子孫は熊本藩や松江藩に仕えて名跡を存続させた。元NHKアナウンサーで現在フ
リーアナウンサーとして活躍している堀尾正明は子孫であると称しているが、堀尾氏の
子孫を自称する会、堀尾顕彰会では認められていない。 生駒親正
自分は西軍として行動
嫡男は東軍として行動
嫡男が東軍に与した経緯から生駒氏の所領は安堵された >>51
現に長宗我部は徳川方に加担しようとしたけど、関所で止められて西軍へ強制参加
島津は伏見城へ入城しようとするも鳥居に拒否られて西軍参加
だからな 島津に関しては島津義弘は有名な三成派だからそんなもん入城させられるわけがない >>52
身内の男子を早いうちから養子にしとけば良かったんだけど、
自分の実男子生誕を諦め切れなかったんだろうな。
それに当時の大名は豊臣秀次事件の記憶が色濃く残ってるから
甥等を早いうちに養子にする事をためらった可能性も高いね。
本当に自分が死にそうになってから養子縁組しようと思ってたが
それをする前に急死したり、幕府に縁組が無効とされたり。 あと長宗我部も盛親は奉行の増田長盛の偏諱もらってるんだから、
きちんと西軍と対決する姿勢見せないと信用されるわけがない。 >>1
>堀尾吉晴(遠江浜松12万石)
>中村一氏(駿河府中14万石)
>生駒親正(讃岐高松17万石)
石高や国の位置からして、生駒氏が三中老筆頭なのか? >>67
堀尾と生駒はほぼ同格でいいと思うぞ。中村一氏は一格下がるな 出雲大社の横の博物館で、1609年に吉晴が秀頼の命を受けて片桐且元と本殿造営の奉行をやったと書いてある棟札を見たんだけど、
まだこの時点で吉晴は豊臣に臣従しているつもりだったの? >>1の石高見ると、五奉行の方が大身なケースもあるのか。
浅野長政(筆頭・甲斐甲府22万石)
石田三成(近江佐和山19万石)
増田長盛(大和郡山22万石)
長束正家(近江水口5万石)
前田玄以(丹波亀岡5万石)
三中老や五奉行ってのは、本当に後世付けられた名称であるな。 わたしは、三中老が家康を詰問した際に、なぜか山内一豊が同席していたのが腑に落ちません。 >>67
遅レスだが
讃岐は大阪の目と鼻の先だろ ? 十河千松丸
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十河 千松丸(そごう せんまつまる、天正3年(1575年) - 天正17年(1589年)7月)は、安土桃山時代の人物。
生涯
天正3年(1575年)、讃岐国の大名・十河存保の子として誕生。
父・存保は豊臣秀吉に従っていたが、天正14年(1587年)の戸次川の戦いにおいて
「まだ千松丸は豊臣秀吉に謁見していない。自分が亡くなったら必ず秀吉に謁見させ、
十河家を存続させるように」と家臣に伝え戦死した。
しかし、存保の死により2万石の領地は没収され、同地に入った生駒親正は鼻紙代と称し3000石のみ与え、
千松丸は親正の元で養育された。
天正17年(1589年)7月、千松丸は秀吉に謁見。秀吉は千松丸の成長を喜び、同席していた親正とその甥の大塚釆女に3000石しか領地を与えていないことに不服の念を漏らしていたといわれる。
ところが帰国後に千松丸はまもなく病死。その突然の死は生駒氏により毒殺されたと噂された。また、遺臣や領民たちは嘆き悲しみ「命すつるも子ゆえにすたれ けなげなれとよ 千松丸」と唄い、十河父子の菩提を弔ったという。 父・存保は豊臣秀吉に従っていたが、天正14年(1587年)の戸次川の戦いにおいて
「まだ千松丸は豊臣秀吉に謁見していない。自分が亡くなったら必ず秀吉に謁見させ、
十河家を存続させるように」と家臣に伝え戦死した。
子として、嫡子の千松丸、存英、坂東保長がいる。このほかに豊前守長康、雅楽頭存純、村田九兵衛存継の名も伝えられるが
諸説あり定かではない。 十河存英(そごう ながひで) 1575〜1615
○孫二郎 惣次大夫
◇父:十河存保 子:十河長保
1歳の時、父が戦死して十河家は改易となり、存英は浪人する。
1614年、再起を賭け、豊臣秀頼に味方し、大坂城入城。夏の陣で摂津・尼崎に出撃するが戦死した。 生駒の子孫は、幕末にも汚いところを見せてくれるよな。
生駒親敬
嘉永2年(1849年)11月7日、旗本・生駒親道の息子として生まれる。幼少期から聡明といわれた。安政2年(1855年)10月22日、家督を相続する。文久2年(1862年)12月1日、将軍徳川家茂に御目見する。慶応2年(1866年)2月、幕府に領地へ帰国する許可を願う。
慶応4年(1868年)の戊辰戦争では、久保田藩や本荘藩と共に官軍側に与した。同年2月21日、旧幕府に対し、奥羽鎮撫使の指揮下に入るため、矢島に帰国することを願う。同年3月8日、奥羽鎮撫使の指揮下に入り、後に諸侯に加えるとの内諾を得る。
同年7月8日、奥羽鎮撫総督府から庄内藩攻撃の先導役を命じられて出兵する。
同年7月28日、庄内藩の反撃を受けて敗北、矢島陣屋を奪取されて、秋田藩の久保田城下に逃げた。同年9月28日、奥羽鎮撫総督府から見舞金を支給される。同年11月5日、東京に出る。同年11月20日、高直しによって1万5,200石の諸侯となり、従五位下讃岐守に叙任した。
同年12月5日、明治政府から領地へ帰国する許可を得る。
明治2年(1869年)6月22日、版籍奉還により知藩事となる。明治4年(1871年)7月の廃藩置県で免官された。明治13年(1880年)9月9日、死去。享年32。なお、子どもは娘だけであったため、夫人の江美子が家督を相続した。明治29年(1896年)5月20日、従四位を追贈された。 >>77
この旗本生駒だけが、残ってる生駒親正系の子孫かな? 来年の大河ドラマは軍師黒田官兵衛。
備中高松城の水攻めを羽柴秀吉に献策したのは黒田官兵衛とのこと。
大河ドラマにちなんで備中高松城の水攻め復元模型を製作した。
http://mirai660.net/castle/ この3家にあって山内、一柳、田中などになかったものはなんだったんだろう
後世3中老言われてるが 矢島(旧高松藩)の生駒家も加賀藩の生駒勘右衛門家も本来生駒氏の血統じゃないが、なんで生駒に改姓したんだろう 掘掘掘堀尾
槍槍槍槍ヤー
Won't be long 土曜日(17日)16時からのテレ東の番組
>愛知県江南市にある生駒家の子孫宅で家系図を見せてもらうと・・・ コイツら三人とも豊臣の臣下として働かなかった奴等だから
三人とも改易して大谷刑部にでも禄やった方が良かったな。 >>89
信秀の娘、信長の娘で名前が不明な子供がいるだろ
家系図では名前書かず女としか明記しないことが多いんだよ
織田家より資料が少ない生駒が断定出来るわけがない 熊本藩堀尾茂助家
堀尾吉晴後胤っていうのは怪しい気が 秀次年寄を秀次死後に奉行の補佐にすれば良かったのに