【DQN】森長可【鬼武蔵】
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秀吉の別働隊が中入りに出発したのは4/6で家康がその動きをやっと把握したのは4/8の夜になってから。
全く状況把握が完璧とはいえない。 家康が馬防柵を作ったとか三弾うちとかとんでも講談だな 敵地のど真ん中で放火や築城や城攻めを行いながら隠密とは程遠い行軍させた秀吉の戦闘センスがなさすぎる
4/8秀吉→丹羽長秀
池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかる
4/6に派遣して4/9に白山林で会戦。敵地のど真ん中で無謀ののろのろ行軍させた秀吉の完敗 >>767
うぜーよ、知ったかの誹謗中傷の犯罪者が
てめーは二度と人に話しかけんな
馬防柵なんて縄と竹があればすぐにできるだろうが。
しかも長久手は湿地帯で簡単に地面に竹は突き刺さる
竹なんてナタで近くの竹林を切って来れば終わりだ
農家には竹を備蓄しているところもあるからそれを利用すれば一時間もかからない 小牧長久手の戦いで信雄と家康が馬防柵作ったとか長久手が湿地帯とか完全な妄想講談にしかないハッタリ逸話じゃん
江戸中期以降の軍記くらいにしかそんな記述ないし 馬防柵なんて家康が作ってるわけねーだろバーカ
池田隊や森隊や秀次隊や堀・長谷川隊と、どこで交戦するかなんて家康は全く想定できるわけないし
そもそも相手方部隊の移動中を狙って突発的に襲撃しただけの戦だし
あらかじめどこどこでどんな戦争が起こるかなんて相手の行動や反応がわからんのだから予測できるわけねぇっつの。 >>770
いやそもそも軍記や講談にすらそんな記述はない >>771
バカはお前だろ
秀次隊の場合には徳川の奇襲だから、馬防柵なんて必要ない
堀も結局は本体とは戦わずに逃げている
池田と森に関していえば退路や低い位置、そして丘の上にある本陣の周りに敷くに決まっているだろうが
そしてそこに鉄砲隊があったんだよ
つうか、鉄砲隊があるのに馬防柵がないなんてどんだけバカなんだ?
そんな事を言うのはお前くらいだろ 堀は榊原と交戦してるし池田や森は徳川軍が襲撃してきたから本陣の周りに池田隊や森隊が馬防柵を作ってないとおかしいよ
それに徳川軍からすれば秀次隊や堀隊と交戦してからすぐに池田隊と交戦したから馬防柵作るなんて無理だし
馬防柵は作るのに一定時間かかるからな
長篠の時も馬防柵を信長が作ったのは、事前の準備があったからだが
家康が木を切り倒して柵を組ませてる記述なんてどんな史料にも出てきてないし妄想としかいえないだろアホ
鉄砲隊とかどこの部隊だろうがあるだろ。
どんな部隊でも鉄砲隊くらい持ってるからすべての部隊で馬防柵を作ってないとおかしい事になるわな
ルイスフロイス「日本史」
三河の国主は夜に入ってからその小牧山を出て、天明を待って秀吉の甥の秀次の陣地を襲撃した。
なんの苦労もなしに彼らを潰走させることができた。
彼はこれらの敵を潰走させるとすかさず離れていた他の敵兵を襲撃した。
9時にきわめて激しい戦争が展開され双方の陣営ではおびただしい戦死者を出した。
当代記
家康公先勢秀次併堀久太郎人数を追い崩し数多討ち捕り池田これを聞き、出向の間、右の衆退散、
家康公押出で、直に合戦、
4/11 秀吉→長船・富岡(宇喜多家臣)
敵夜中人数くり候て、彼後切懸及一戦 >>774
>池田と森に関していえば退路や低い位置、そして丘の上にある本陣の周りに敷くに決まっているだろうが
>そしてそこに鉄砲隊があったんだよ
同時代史料でソース出してね
ついでに鉄砲隊なんてどんな部隊でも存在するからお前のアホ理屈だとすべての部隊に鉄砲隊が存在しないといけなくなるな このスレで流される秀吉厨の馬鹿妄想
・徳川軍は馬防柵を作り、池田や森がそこに襲い掛かった→史料にない秀吉厨のアホ妄想。
当代記やフロイスの日本史や秀吉の長船・富岡宛書状によれば、襲い掛かったのは徳川軍の方
・長久手は湿地帯→根拠0の秀吉厨の妄想。現代の長久手に湿地帯はないし、戦国期から江戸期では地勢が大きく変遷してるので、江戸期の史料(しかも講談類)に書かれようと
戦国期の地勢の証明にはならない >>777
アホやろ、こいつw
戦国期の地形は今でも残っている事を知らんらしいw 現代の長久手古戦場は湿地帯とは程遠い普通の住宅街
戦国期の地勢が現代に残ってたとしたら、当時の長久手はただの平野部、乾燥地帯 天正大地震が起きて尾張の地勢なんて変わりまくったし河川の流域も変遷しまくったんだから当時の地勢なんてわからんわな
ましてや天正大地震以降もそれなりの規模の地震は何度も起きてるし
そもそも長久手合戦の場所自体が長久手市の中のどこなのかはっきりよくわからんし
瀬戸よりか尾張旭よりか名古屋より日進よりかでも大分地勢も変わるだろうし 4/11 秀吉→長船・富岡(宇喜多家臣) では敵が夜中に城を出て、別働隊の背後を襲撃して一戦に及んだと書いてるし
4/12 松井康之(細川家臣)→千紹安書状 では、家康が夜に小牧山を出て、
池紀・森小蔵・羽左・三好孫・木下助左(祐久)・同勘解由の部隊に切り懸けて一戦に至ったと書いてるし
当代記の原文
家康公合戦これあるべくにて、六七八三日相続、小幡筋へ打ち出られといえども
敵見ず、、九日にまたうち出でられるところに、敵先勢池田庄入岩崎の城を攻め崩され
軍兵数多討ち取り、家康公先勢秀次併堀久太郎人数を追い崩し、数多討ち取り、池田これを聞き出向の間、右の衆退散
家康公押しいで、直に合戦、庄入併武蔵守討死之間、士卒令敗北、二万余討取、秀吉公聞給則出馬、
家康の先手が秀次や堀を襲撃して、これを追い崩してたくさん討取り、池田がこれを聞いて出向したら、家康先手衆は退散し
家康がじかに押し出てじかに合戦して大勝したと書いてるじゃん
家康が押し出てるって事は家康が池田を襲撃してるんだろ。
当代記に家康公押出で、直に合戦と家康が押し出てじかに合戦をしたと書いてるし
ルイスフロイス「日本史」には 三河の国主は夜に入ってからその小牧山を出て、天明を待って秀吉の甥の秀次の陣地を襲撃した。
なんの苦労もなしに彼らを潰走させることができた。
彼はこれらの敵を潰走させるとすかさず離れていた他の敵兵を襲撃した。
と徳川軍が敵軍を次々に襲撃したと書いてるじゃねぇか。 >>790
>天正大地震が起きて尾張の地勢なんて変わりまくったし河川の流域も変遷しまくったんだから当時の地勢なんてわからんわな
ましてや天正大地震以降もそれなりの規模の地震は何度も起きてるし
>そもそも長久手合戦の場所自体が長久手市の中のどこなのかはっきりよくわからんし
いいや、大まかな事はわかっているぞ
それも知らないで投稿をしていたのか? >>783
戦国期に当時の地勢が書かれた同時代史料なんてないよ
江戸中期くらいに書かれた、江戸期の尾張の地誌ならあるけど
小牧長久手合戦にしても、一次資料類だと岩崎口の合戦としか書かれてないし
長久手という地名自体誰も書いてないから、長久手であったのか、日清であったのかよくわからんし
長久手という地名自体存在しなかった可能性高いし >>784
現地にはきちんとした史跡があるので訪れてみてはどうだろうか? >>785
長久手市の史跡に行って尋ねてみても当時の地勢が書かれた史料なんて置かれてません 家康が本陣をはった御旗山(小さな丘みたいな山)もないの?
ブルトーザーでだいぶん削られているみたいだけど
池田と森の墓もあったと思うんだけどそれもないとでもいいたいの? 家康が御旗山に本陣張ったなんて軍記にすらないハッタリ逸話じゃん 一次資料見る限り小牧長久手の戦いの戦場は岩崎口だから岩崎方面
岩崎方面に山なんてないし普通に平野部の白兵戦 じゃあ、長久手市役所郷土資料室やら史跡管理している人間にそういえばいいだろ?
俺はお前なんかより、長久手の先祖や長久手の戦いの生き残り言い伝えをそのまま残して史跡を作った
長久手市役所やら地元の人々の方が正しいと思うがな 長久手市役所郷土資料館においてある史料は長久手町史資料編の収録されてるものがすべてでそれ以外はない。
で、長久手町史資料編の同時代史料はおろか軍記物にすら家康が御旗山に本陣張ったなんて書いてない
秀吉や家康の書状見る限り長久手合戦のあった場所は岩崎口と書かれてるから岩崎近辺で戦ってる 長久手市が発行してる長久手町史資料編に当時の地勢が書かれた史料なんて収録されてないし
江戸中期や後期の地勢が書かれた史料が数点収録されてるだけ。 小牧長久手合戦にしても、一次資料類だと岩崎口の合戦としか書かれてないし
長久手という地名自体誰も書いてないから、長久手であったのか、日進であったのかよくわからんし
長久手という地名自体存在しなかった可能性高い
まして長久手といっても広いから瀬戸方面か尾張旭方面かトヨタ方面か日進方面であったのかもわからんし ルイスフロイス「日本史」などを一次資料と考えている時点でダメだな
時代は同じでも又聞きの又聞き資料は一次資料として二次資料以下になりうることもあり得る
現場で戦に参加した人が作った史跡である一次資料というより二次資料みたいな扱いにする時点で話にならんだろ
桶狭間とは違いどこでどのような戦いが行われたのかわざわざ忘れられないように
史跡作った先人たちに敬意を払わないとは
もしこいつが長久手市役所郷土資料館の職員ならこんなガキは即刻、首にすべきだろ フロイスの日本史は長久手関連の記述は全く参考にはならんが
現場当事者の秀吉や家康の書状で長久手なんて地名出てきてないからな
それどころか年代記や当代記、三河物語など同時代史料の類ですら長久手なんて地名出てきてない
結局長久手合戦は岩崎で戦った戦いでしょ
秀吉も家康も岩崎口の戦いと書状で書いてるし そもそも史跡って後世の人が勝手に作っただけでしょ
史跡に行ってみても当時の長久手の地勢なんてどこにも裏付けの取れる史料なんて置いてないし 史跡は明治時代以降に勝手に作っただけのもの
当然根拠となる史料もすべていい加減 残念だが長久手市の史跡に家康が御旗山に陣張っただの長久手の地勢だの書いてはいない
秀次と徳川勢らが白山林、仏が根などで衝突したというのは書いてるけど 紙の資料よりも史跡の方が捏造しにくい分だけ、特にお墓は信用できるだろう
その当時に作られたものだからな 史跡なんていくらでも後世に勝手に作れるだろ
そもそも長久手市の史跡に家康が御旗山に陣張っただの長久手の地勢だの書いてはいない
秀次と徳川勢らが白山林、仏が根などで衝突したというのは書いてるけど 神の史料は基本的に花押がきっちり書かれてるし捏造は不可能
そもそも長久手の地勢なんて捏造しても特段メリットはない 史跡は明治時代以降に勝手に作っただけのもの
当然根拠となる史料もすべていい加減 至極まっとうな意見しかこのスレには書かれてないじゃん まあ、鬼とか言っても信ヤボでも統率62、武力79程度
おまけに知力低いから、すぐに策略に引っかかるしw ゲーム脳と呼ばれる池沼ってたまにいるよな
そんなアホな奴に語られる長可もまた不運だな 二十代で20万石の領地を得た長可
信長の二十代家臣では最速の出世頭
それだけに嫉妬の対象となりやすい 弟の蘭丸も17〜8才で五万石
これが枕営業というやつか… 当時の織田家臣団の中で、明智・羽柴みたいな佐久間・林コースの人達は除いて、
森家より石高が高いのはどこ? 柴田勝家80万石、羽柴秀吉60万石 滝川一益40万石 明智光秀50万石
これら家臣団の石高が多い
次に同じくらいの20万石高は
河尻秀隆、前田利家、佐々成政などほとんどが40代以上の家臣。
その中で森長可だけが織田信忠や織田信雄を除いて二十代で突出していた。
信長の子でも働きの悪いものは森長可以下の石高しかない。
丹羽長秀 13万石 池田恒興 10万石など既に織田の有名な家臣の石高も抜いていたからかなり目立っていた。
だから信長家臣団の中でもかなり特別扱いだよ。 本能寺の変がなければ間違いなく次世代代のトップ
本能寺の変で織田信忠だけでも生きていれば
織田信忠のよき理解者として、右腕として、活躍は間違いなかったんだけど残念だね 上杉攻めの搦手の長可と四国攻めの搦手の池田之助が信忠のツートップかな 森長可といえば、娘に関する遺言を託した友人・尾藤知宣の末路が哀しい 信長限定で限れば可成は柴田以前の最古の将だから意外とあり
1000しか兵がいなかった初めの時期の信長には森一族の多くの将兵が加勢していた
ただその中心となる父の森可成は早くに死んでいる 信長の初期にいたのは信長の親族と森と佐久間くらいで前田利家は追い出されている
木下藤吉郎も明智も滝川も柴田もいなかった
でも柴田は信長と森に敗北してすぐに信長の家臣になる
信長にとってはまず第一に思い浮かぶのが親族以外では森一族と佐久間
他の森家に関しては意外と数が多いので略 >>822
違う
森可成が信長に仕えたのは、美濃土岐氏の滅亡後の1554年あたり
信長20歳の頃だ
後の中堅クラスの部将となる池田恒興、前田利家、河尻秀隆、金森長近、中川重政らは
すでに信長に仕えていたし、家老として林秀貞、平手政秀もいた
恐らく塙直政も、森可成より前に旗本として仕えていたと考えられる
柴田勝家が、信長の周囲におらず、敗北してから家臣になったというのも間違い
信秀の侍大将だった勝家は、嫡男である信長とともに働いており、信長の弟・信行の家老
になるのは、信秀の死後に信行の後見を信長に命じられてからだ もっと内情は複雑
そもそも信長の父信秀と森可成の父可行の交流から両家の関係は生まれてきた
そして信長に仕える前から森可成は既に優れた腕前を持つ将として評判だった
その森親子と戦いを通じて信秀は自軍に引き入れたいと考えた
まずは信秀が森可成の父と可成を呼び寄せて、信秀の死後に可成は信長を選んだ
待遇も初めから将扱い 信長の快進撃は森可成と組んだ時から始まっている
前田利家はその時はまだ小姓上がりだし
信長が独立してまず最初に頼ったのは親族と森可成くらい
信長が柴田と信行に勝てたのも。森可成の存在が大きい
それに柴田勝家が信長の家臣になったのは敗北してから
それまでは敵同士で弟信行とはいえ殺し合いをやってきたわけだし
柴田勝家も信長の家臣をこの時の戦さで殺していたと思うが? 信長は森家の人間を可愛がり過ぎ。
って、戦国時代板ではよく言われるけど、信長の生涯を振り返ってみると、当然だったんだな。 信長と共に歩んだ森家は信長と森蘭丸三兄弟の死により大きなダメージを負った
この長可も蘭丸と共に信長と信忠に人生のすべてをささげたと言って過言ではない
せめて信忠か蘭丸が生きていれば長可も正気を保てただろうにこの身内同然の信忠や兄弟の死が精神的に長可を追い詰め、最終的に死に至らしめたと考えるのが妥当 森長可の居城の金山城の目と鼻の先の明智城が勝頼に攻め落とされるのを
ビビって息を潜めて目を逸らしていたヘタレ長可www
その後は北信濃から逃亡してきたり、家康にフルボッコされて討ち死にwww
所詮、織田軍なんて屑屁たれ武将ぞろいwww 屁をたれるくらいまだいいだろ。
世の中には糞までたれたのもいるらしい。 >>832
明智城?勝頼?
お前の知識は妄想SF漫画からきているものだろうw
アホにもほどがある
家康も長可は認めており
銃でようやく撃ち殺せただけだ 世の中には兼山の目と鼻の先にある明智城と
目と鼻の先にない明知城がある。 センゴクに今出演中だがageてるようでsageてるような描写 信忠と共に長可は武田にとどめを刺しているから、武田シンパからはあらぬ誹謗中傷を受けがち 信忠さえ生きていれば長可はなんとかなったな
信長そして蘭丸三兄弟
そして殿であり盟友とも言えるべき信忠さえも失ったから、長可も少しおかしくなった おかしくなったって運命的な意味でか
性格的には最初からおかしかったよーなとか考えてしまったわ その性格とやらは講談類にしか書かれていない事だがな 森の書状見る限り上昇志向が全くなく、むしろ保守的な性格だったことが読み取れ
このスレのバカが書いてるような性格と真逆だったことがわかるからな 本当にただのDQNだったら、信長から相手にされるはずないわな。 「荒事や騙し討ちを躊躇わない」って戦国武将の標準でしかないからな そもそもセンゴクにはかっこいい武将が居ないからあんなもんじゃね センゴク読んだことないけど、小牧長久手以外にも鬼武蔵・蘭丸等の
森家の人たちは登場するの? >>852
センゴクは信長を筆頭に山県とか馬場とか
最近だと堀Qとか池田とかカッコいい武将が目白押しだぞ
鬼武蔵はダサかったけど センゴクの作者も2chなみ
史料を読んでいるようで読んでいない
好き嫌いが激しいな
千石と言えば長良川の戦いで千石又一が信長を殺そうとしている
17500の大軍の義龍軍に対し道三は3000にも満たずにやられる
17500の大軍の義龍軍は次は援軍に来た信長に襲い掛かり森可成は奮戦して信長を助け逃がした
但し千石又一により負傷した
森の評価はいつも著しく低いが、本当はかなり活躍している このセンゴクの作者は森一族が信長にとってかなり重要な存在であるのがわかっていないらしい
千石とも十分につながりがあるのだが、その認識も薄いのでは?
漫画は読んでいないけど、wikiみてそう思う。
武田家を滅ぼしたのも森長可で20代で二十万石は評価がかなり高い
戦国最後の大トリを務めたのも本当は森
でも同時に悲劇の主人公だったりする
センゴクの作者くらいの認識だとわかんないかもしれないけど
強いけどいつも誤解されて悲運で死んでしまったのが森
悲運の対象として戦国武将からみなされていた
それを現代人の著名人が現代の感覚そして少ない知識量で物事を判断し
または捏造して森の矮小化が進んでいると思う 「Fate/Koha−Ace 帝都聖杯奇譚」に登場、おめでとうございます。
「よっし。じゃ兵士は10点、女子供は3点、サーヴァントは100点でどうよ? マスター!!」
>神秘の秘匿どころか、見境なしに嬉々としてDAIGYAKUSATU。
「まぁおちつけよマスター。オレは主君殺しとかヒデェコトはしねえから」
>令呪ごとマスターの片腕を握りつぶしながらの発言。
「ここから出すな!!」
「絶対に止めろ!!」
基地の外に出たら女子供まで得点換算なので、橋番ならぬ門番の如く扉の前に集まった兵士達は…。
会話する知能のあるバーサーカーなんて、まんま鬼武蔵。 森長可は信長や信忠、そして蘭丸さえ生きていれば
歴史に名を残す名大名になっていたと思うのだが 森長可は若くて強くて有名だったのだが
最近は悪く言われ過ぎ
実際には家康もその強さを認めていた武将だったのだが >>862
> 最近は悪く言われ過ぎ
悪くは言われてないだろ。どっちかといえばスゲエって感じじゃない? 「名城をゆく」で森一族が「プライベート・ライアン」に例えられてるな そうだね、それが戦国時代の宿命
織田一族も当然たくさん死んでいる
それだけ森一族家と織田一族は前線で戦っていた証明だ
蘭丸ら三兄弟は兄が戦場で常に命をとして戦っている代わりに
安全な場所で信長に仕えていたはずだった ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています