【DQN】森長可【鬼武蔵】
レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。
母親が一向宗信仰してるのに何のためらいも無く一揆を殺すわ寺に放火するわであまり拘りが無い。 一向宗も一枚岩じゃ無いからな。
つーか美濃、尾張の一向宗は信長に付いてるし。 畳の上で死ねたのは可行と忠政ぐらいしかいないってのがなんともw ━━━━O/⌒ヽ━━━━+
∧,,∧(^ω^ )
/ο ・ )Oニ)<;;>
/ ノ lミliii|(ヾゝ
(o_o,イ__ヽ´|(__) ノ~⌒)彡 ┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨
ノllllllllヽ| | ̄ノl ノ
/ /~ヽ ノ'''''''~ヽヽ\ヽ_
ヽニフ|_| (_/ ヽノ
(_ヽ
森長可の武器;人間無骨って、写真で見ると確かに切れ味は良さそうだが耐久性はダメそうな印象を受ける まぁ、確かに短すぎるかなぁ。
でも刃の穂先の長さも両鎌合せた幅も40cm近くあるからあまり柄が長いとあれは使えたもんじゃなさそう。 >>9そりゃ八段じゃ8%しか出せてないから駄馬にもなるだろ >>5
ルーデルもそうだが、史実の方がイカレてると、
どんなにジョークを作ろうとしても史実には敵わない。 軍記物の著述を信じるなら、光秀を陰湿にイジメ抜いてた>蘭丸 母親は「本願寺と和睦しなきゃ息子達殺して私も死ぬ!」と信長を脅したんだっけ >>9 そういえば歌手にも はったんあみか というのがいたな。 >>12 和泉守兼定って、土方の歳さんの愛刀じゃなかったか。 >>26
そうだよ。土方も愛用してた。
鬼武蔵は戦国時代でも屈指の兼定コレクター。 こんなものを見つけた
鬼っこ夢まつり
9月の最後の土曜日に、近くを流れる可児川の中洲にある鬼が島で、「鬼っこ夢まつり」がある。
可児市兼山は、織田信長に仕えた戦国武将の森蘭丸の出身地である。
蘭丸の兄にあたる森長可(もりながよし)も、武田攻めや長久手の戦いで武勇伝をなした荒武者で
鬼武蔵と呼ばれていた。
「鬼っこ夢まつり」は桃太郎伝説の鬼が島で行われる鬼武蔵にあやかったおまつりである。
百個あまりの燈篭流しに始まり、兼山に伝わる激しい烏峰太鼓が打ち鳴らされるなか、
鬼武蔵が鬼を退治するストーリーが展開される。
ttp://homepage1.nifty.com/~has デッドリンクだぞw
http://homepage1.nifty.com/~hasegawa/album/onigasima/onigasima.htm
確かにあるみたいだ > 百個あまりの燈篭流しに始まり、兼山に伝わる激しい烏峰太鼓が打ち鳴らされるなか、
>鬼武蔵が鬼を退治するストーリーが展開される。
ドンドコドンドコ♪
ドンドンドンドコ♪
鬼「ぐああっ!」
ドンドコドンドコ♪
鬼武蔵「鬼退治、終了! …次はさっきからうるせー お 前 ら だ」
ドンド…
太鼓係「ヒイィィィィ!(((( ;゚Д゚))) 」 >>32
魚屋町…城下町経営の際、長可が塩問屋を強制移住させてその地に命名
武蔵ケ渕…スッポン退治の際に渕がスッポンの血で染まったことから
這坂…負傷兵が這いずりまわってついた地名
仏畑…弘妙寺を燃やした際に仏だけ畑に非難させたことから
待ち伏せ…待ち伏せしていた苗木方の小池兄弟に狙撃されたことから
ヒマだから調べてみた。間違いあったらスマン
物狂峠…池田軍と森軍が死にモノ狂いで越えたことに由来
鉄砲池…戦乱がおさまって後、この池から多数の鉄砲が出できたため
>>35
ありがとう。魚屋町以外はみんな禍々しさが漂ってくるのが流石だなw 忠政命名
松代(長野県)
津山(岡山県)
現在でもおなじみの地名だな。 鋼鉄の胃袋を持つ長可兄さんなら痛んだ桃も平気なんだろうな 忠政もう60超えたジジイだったし何に当たっても不思議は無かったけどなw おれ、苗字が『森』で、家紋が鶴の丸なんだ(最近知った)。
長可さんとこの森さんと関係あるんだろうか?? >>43
殆どの森さんは鶴の丸の紋だからなあ。
それだけだと、キミが源義隆流の森家の人間であるとしか言えない。 とりあえず可成流の森家の子孫というのはこの世に存在しないはず。 >>44
そうですか。。。。夜分おそくに変なこと聞いてすみませんね。。。。 そういや長可の娘さんはちゃんと医者に嫁いだのかな? >>46
ちなみに神奈川県愛甲郡と言う所が、かつての森(毛利)の荘のあった場所で、
いわゆるキミの『名字の地』だ。先祖に興味があるのなら一度訪ねてみるのもいいかと。 本能寺の変後にあそこまで無茶苦茶なペースで領土拡大しなけりゃ
小牧・長久手であそこまで重要な役回りを演じずに済んだんじゃないかと思う今日この頃。 森長可に関しては、当時としても正直そんなに評価は高くないのに、何故かいつも
重要なポジションにいる不思議な武将だな。 個人の腕っ節だけは評価されてたかもしれんが指揮官としてはまだまだ駆け出しだしなぁ。
信忠配下から外れたのだって1582年の4月以降だし。 有名な彼の槍なんですが、
にんげん『む』こつ なんですか?
にんげん『ぶ』こつ なんですか?
家康に勝ってたら「2ヶ国の太守にする」って約束付ける程秀吉に気を使わせたからな。
若造だけどちっとも思い通りに扱えないし正直ウザかっただろうよw あっさり家康に勝っちゃたら、その後の歴史はどうなったんだろう?
意外と鬼武蔵が天下取ったりしたのかな。 まだ若いし。 正直長可に天下を取るような器量は…。
誰かの下で働いて何ぼの武将だと思う。 流石にねーよwと言わざるを得ない。
まず余計な敵を増やす癖を自重しよう。
東美濃攻めの時に秀吉方に付いてた味方のはずの生駒親正の土田城に放火したりとかさw さすがに三成が死んだときに西軍東軍みな喜んだという逸話は聞かないな 義兄の関成政と同僚の団忠正ぐらいしか思い浮かばん。
池田の親父は友達とは違うような・・・忠興とは兼定コレクターという所でもしかしたら接点有ったかも分からん。
人付き合いという点では忠政の方が上手だな。 >>53
まあでも強いと思われてはいたみたいだけどね。 >>67
一方で「小牧長久手まで、弱い相手としか戦ってなかった。」って批判もあったようだ
(甫庵太閤記) 本能寺後に織田系武将の地獄と化した甲信を切り抜けて部隊連れて帰ってくるだけでも尋常じゃないけどな
ちょっと手段がアレだったりソレだったりするけどさw 頑張っても3000程度の動員で金山周辺7万石から領地を可児含む東美濃全域及び飛騨の一部まで1年半で拡大したのは結構凄い事だと思うんだが。
20〜30万石はあるぞ。 20代の若さで遠江と駿河の太守さまになれば、少しは落ち着きが出て。。。
いや、やっぱないな。
とりあえず領土云々はおいといて、関ヶ原の年まで生きてりゃ40ちょっとか……
朝鮮出兵ではより一段とヒャッハーしてたんだろうな。 森家やその関係者(や馬)は、討ち死にさえしなかったらとんでもなく長生きなのであるいは。。。 森家を出奔した可政おじさんは朝鮮行ってリアルでヒャッハーしてた模様
忠政は名護屋居残り。 長可より2歳年下なのに叔父さんの可政。
可成の38歳年下の弟。隠居のジジイがハッスルしすぎた。 関が原までいきてりゃ五大老かな?
あっというまに領土まとめて戦がつよくて凶暴なんて
目の上のたんこぶとしかいえんよな。
秀吉がしんだことに大喜びするはずだわ。 つーか、森、池田が生きてたら、秀吉の権力は相当制限された、もっと連合政権の色が濃い、
かなり違う形の政権になったと思われる。 池田と森、すっげぇ邪魔だよな。
中入りは秀吉の発案だったんじゃないかと思えてならないw 森は三法師の外戚だった可能性もあるんたろ?
そりゃ邪魔だわ 万が一小牧長久手で助かっててもその後何度も暗殺仕掛けられてそうだ 暗殺では死なないのが森一族
忠政も何度か暗殺未遂あるが全て無傷で切り抜けた。 池田と森が生きてたら豊臣政権の勢力が弱いかわりに
大勢力同士の睨み合いが激化して豊臣自体はもっと長生きできたかもな。
関東も丸々徳川とかは難しいだろうし信雄の改易もすんなりいかなかったかも。 生きてたら、徳川を許さんだろうな。
池田のオヤジが秀吉を動かして、徳川に鬱陶しいことしそう。 長可は敵だった連中に対して恨みを持ち続けるようなタイプじゃ無いな。
むしろふがいない働きをした味方に対していつまでも怒り続けるタイプ。
それで同僚に無駄に敵を作る。 ヒャッハーしているだけで敵も味方も眼中にないかとおもってたわ 長可と信長と蘭丸らが生きてたら…
ある意味恐ろしい >>87
マジでこうなった可能性が高い
織田政権宰相:森蘭丸
幕僚:森坊丸、力丸
織田政権軍団長:森長可
森家執権体制が作られかねない勢い。 織田政権宰相じゃなくて、官房じゃないか?
豊臣政権における三成みたいなもん。 おれの携帯の待ち受け画面を、都内の個人の蔵にあるという
人間無骨にしてみた。 知らない人はともかく知っている人が見たらドン引きだなw 悪い所ばかり目立つ長可さんだがいい所もあるよね…? いいところ
・何のかんので強い
・信長、信忠には忠実
・本貫の地(金山)は大切にしている
・家臣への面倒見もそれなりに良かったらしい
長可の人間無骨を所有するという、『南心』さん ていう人は何者だろう?
森氏の末裔なんだろうか? 忠政はどんな相手でもある程度、好印象を与える事が出来る話術、振る舞いが出来るという外交官として天性のスキルがあったんじゃ無いかと思う。
でも、それを発揮するのは領内の不祥事で江戸に呼び出された時の言い訳とか批判の矛先を交わして誰かになすり付けたりとかそんなんばっかw 関係ないが「森長可」でググると、トップがWikipediaで、次に来るのが
アンサイクロペディアと、いい話悪い話のまとめサイトの森長可カテゴリーだったのが
かなりすばらしいと思った。 ググると検索候補に「森長可 DQN」って出てくるんだがW 忠政はいつの間にか大坂に居たはずの人質を関ヶ原前にどうやってか知らんが回収してたりここら辺は要領がいい。 長可兄さんの酒癖はどうだったんだろう?
女癖は悪くないんだよね? 酒の話も女の話も衆道の話も不思議と全く聞かないな。
小姓経験無しで家督相続時から大名だから信長とのアレな話も無い。
出るのは戦の話ばかり。 戦バカですね
ゲームで出したら変に知名度人気上がりそうだな 2ちゃんの中だけなら、既に五本の指に入るほどの人気武将なんだけどなあw こんな基地外に嫁いだ嫁はどういう心境だったのだろう 家族には優しかったんでは?
仕事とプライベートをキッチリ分けるプロのD●Nだ。 弟の葬式の日に出陣したり弟の仇を召し抱えたりしたのも情が薄いわけではなく仕事プライベートを分けてただけ…かな? 情に薄かったらあの岐阜城に弟連れ戻しに乗り込まないと思う 情には厚かったかも知れないが、その情の発露はことごとく自分本位なのが長可。
良くも悪くも。 舅:信雄が信用して人質返してきたぜ!今すぐ秀吉に味方だ!!信雄の城攻め落とせ!!!
婿:信孝の城から人質奪い返してきたぜ!東美濃は俺の物だ!!
こいつら… >>110
実際、乗り込んでないけどな。
忠政救出が6月4日で長可に本能寺の知らせが届いて越後の陣を引き払ったのが6月8日。
やったのは伴惟安と甲賀忍者のご一行様。 亀鶴姫と忠広がもっと長生きしてくれれば森家はもっと繁栄出来たのに
そこら辺でツキが無かったのはそれまでの一族の業が深すぎたんだろうか・・・ >>114
そんな事言ったら本能寺が起こらなかった場合の森家の繁栄は想像もつかない…。
本能寺が起こった時点で、信長とともにあった、森家の家運も下り坂だったんだろうな。
あの本能寺から、森三兄弟の知恵と武勇で信長を脱出させることができたら、
その後の森家はどうなったんだろうか? 忠政は本能寺の変の数ヶ月前に不祥事起こして家に返されたんだっけ
ほんと悪運強いなw 自分をからかった人を、マジ切れして殴り付けた。
信長も苦笑。 DQNの血が薄いんかな、鬼武蔵だったらその歳でも扇子で半殺しにしそうなw 復刊ドットコムの復刊リクエストに
『戦国鶴の軍団 鬼の武蔵・森武蔵守長可烈伝』というのがあるのだが、読んだ人いる?
もしいるのなら、感想をお願いします。 目次はこんな感じらしい
> 目次
> 濁河の怪老人
> 兄の初陣
> 琵琶湖畔の悲運
> 鬼の初陣
> 霧の城攻め
> 天に舞う鶴の天守
> 発端との宴
> 燃ゆる安土城
> 地侍の反乱
> 新勢力の台頭
> 羽黒の戦い
> 岩崎の戦火
> 長久手の戦い
> 夕陽の退陣
> 悲運の残照
> 余話
どうも郷土史家の人の書いた小説らしいな。
”濁河の怪老人”ってのがいいな。
永禄三年(1561年)、濁河の怪老人が少年ナガヨシ(3歳)を
改造人間にするところを想像してしまった。 >>123
磔による処刑を日本一愛した男、森忠政をあまり舐めないほうがいい
特に意味無く磔したりする辺りそういうのを見て楽しむ嗜好があったと思えなくも無い。 蘭丸の悪い逸話から感じられる嫌味な気質と長可の攻撃性をハイブリットしたような忠政
それでいて八方美人。 不思議と当時の記録だと誰にも悪く書かれてないんだよな、忠政w
目の前で豊家をクソミソに貶された後の石田三成ぐらいしか居ない。 なんというか、森家の人達って何か不思議。
キャラ立ち過ぎというか、変な違和感がある。 不思議と時の権力者から愛される資質がある
同僚からは嫌われても 小牧・長久手に各務、林、伴抜きで出たのはどういうつもりだったんだろう。
彼ら抜きで関成政と遠藤慶隆の兵と混成でようやく数を揃えたといった感じだったがこれじゃ勝てんぜ。
羽黒では統率がgdgdになって負けたのもいくらかこれが原因だろう。
伴の甲賀衆も呼ばないから情報戦でも後手後手だったし。 >>137
織田徳川による一揆扇動の可能性が高かったからな。
地元にしっかりした人間と軍隊を置かざるをえなかった。
まあそういう心配をしないといけない長可の統治が(ry >>138
でも、近江の甲賀に領地がある伴には関係ないからやっぱり呼べばよかったとおもうんだよね。
領地で留守番させとく意味が無い。金山に出仕始めたの忠政の代からだし。 このスレッドは色々な意味で経国の英雄金正日総書記の栄光ある軌跡に変更されました
..................................... ___.. __jgggggggggggggjjjjquj,.,,、
. _,gg瘟躍醴醴醴醴雛醴醴醴醴雛醴醴齟g..
...,j醴醴醴醴醴醴醴醴醴醴醴醴醴醴醴醴醴齟g,,,、
_,,,g醴醴醴醴醴醴醴醴醴醴醴醴醴醴醴醴醴醴醴醴齟. .
、j[醴醴醴醴醴醴醴醴醴醴醴醴醴醴醴醴醴醴醴醴醴醴ggj,...
....j醴醴醴醴醴醴醴醴醴醴醴醴醴醴醴醴醴醴醴醴醴醴醴醴醴飄j、
瀘醴醴醴醴醴醴醴醴覇囀囀夢夢囀鬻嚶嚶覇醴醴醴醴醴醴醴醴齔
...g醴醴醴醴醴醴醴閇^` . `` '゚゚『鷦醴醴醴醴醴髟
漕醴醴醴醴醴鬱゚~ ゙゚『醴醴醴醴蠶,
灑醴醴醴醴鬱゚゙ . `『醴醴醴醴$
醴醴醴醴醴ケ.. .゙'..: 『醴醴醴歡
層醴醴醴歡 . .(濁醴醴歡
醴醴醴醴]['. : `:゙{[醴醴¶
層醴醴蠶[l' .、,,..______、 _____. ';゙(}醴醴†
濁醴醴鏖《' 'f『゚゚゚゚゚゚゚゚゚゚゚゚閂昃'!! . -忌『『『『門愬タ!i'゙(i層躑
..f[醴醴醴』' _. ...`:゚'.: (Jl}~゚ .'.^'゚(li、.'僧歉
. ‘體醴醴廴,。r、':'`‘「.... _,gg豐齟籬gjljl;ilド .:゙l:','。;i,g豐醯踰gz.(.(.( i.j|]「
. ;tqi_゚゚¶醴†` } ii填閇゚゚゙゚゚゚゚゚『『摂'''^' . .::、'ヌ}們゚゙゚゚門門轡埣l゙(|遁
. ゙}}' ゙マl'. ¶$. ` . . !!!!!!!!!!!''''^ .. . . il。゙(`゙゙'゚''''''?ヘ'''''`` ''、ii濬
、 !) .:..jg_゚[Ii;. . _, . `?)j、 . ._,(,(:ア
′、(|『゜.'゚li' . 丶、.,,__.,.,___v!゚` . '''?テliuv- ..、...、r!i゚(.(0i
.,゚''' -. ' .、.;,(jIj.....__,._._..,xs,iiu_,..,,I詬i;。.、....、... .(i゙(I
`` _._,(ii.lI}l゚(゙'ヲ増嚇jg]獅嬲叛l゚(}}IIID,;';゙;iiIi;ii゙(|
、 ::.ミ浴?゚(. . ``'゚タ'゚''''゚''''.!''.(lI泪||I}i.[(l}}Il゙(}
一' . :゙(}l}シ.、;;、....、,,__.,uu,。,,,,,ggggj_j,(I}'゚(勿l.[(','i}ソI.
. . ' .(.(.(.()l瘟尸゚゙゚゙゙゙゚゙゙゙゚゚゙゚゚゚゚゚゚゚層鬱浴)).'';ミi.(,(l;ミ.
. . . . ::、.、..:.(,(:、''゙゚『咐':'・!・ f負鄂、.:'.(.(>.(,(3i゙(}|I'
'、.. .、:.、'.:、'.'.'.、.(`' . : : : : ー;;,(,(i','i.(.(.(.(.(lIIIIIiIIIl゚
、...、'.:.'.、.'.、.'.、::、. . `'゙(!!i'ill}ヌミ(i゙'''.、::.(.(iI|}}I||肝
.゙'.:.'.:i.(.(.(.(i:.:.、'.. ```````` .:゙:;,(jI回回|g.
...g、'.':゙(i.(.(.(.(.(.(,(.(、... .、.:.(jI翩翩謳醴g。
瀘$ ;.゙'.'` :.(.(.(.(i゚(Il}i:ii;。;: . ...、.、:::;、.:.。;i,(jjjII屈讃醴醴醴醴gg__,.
.:.g醴蠶g...、...:゙(i.(.('゙(i> ''゚(!!!)llIi:lIIIj翁朋腸認碯醴醴醴醴醴醴醴醢ggj,.,.
.,,,jgg醴醴醴醴蠶g;;.、.'::゙':''.'ミ.(.(.(.(.(,(iji.iii,ii浴朋器謳醴醴醴醴醴醴醴醴醴醴雛|Ibi、
.:,,jag醴醴醴醴醴醴醴醴醴gg_ . `.' (.(.(.(IIII||瓰蘊槻醴醴醴醴醴醴醴醴醴醴醴雛部}l゚(' .
!}}|讃嬲醴醴醴醴醴醴醴醴醴魎g,,. ``:゚ヌ惚謳醴醴醴醴醴醴醴醴醴醴靈雛部ケ''`
.'.^'゚(}照讃嬲醴醴醴醴醴醴醴醴醴籃j,.,,,,,g繪醴醴醴醴醴醴醴醴醴醴靈雛嫋笏i゚'.'
'‘('゚(}}}}|讃讃讃雛讚嬲醴醴醴醴醴醴醴醴醴醴醴醴醴醴醴靈嬲韜抓l゚(゙'゜ 武蔵野両国統治ってどうだったん?
本人の武将としての個性が強すぎて政治家としての側面が見えん 美濃
・金山城の増築
・金山城下の区分け整備、店の移転
・魚・塩の専売制の導入
・六斎市の開催
・領内の不要な城の破却、廃城
信濃
・領内の村人を海津城下へ住ませ、人口増加を狙う。(後に人質に)
・従った信濃国衆の家族の海津城在住を義務付け(後に人質に)
・信濃国衆の領地安堵の判断
ついでに本能寺後の清洲会議の後に秀吉は「詳細は長可に説明を受けるように」と織田家の諸氏への説明役をやってる。
政務面でも蘭丸に劣る所は一切無い。 >>146
性格がどうしようもなくアレだっただけなのかな? ちょっとくらいアレじゃないと生き残れないのでは?
中部地方は、死のグループだし。 林親子は出来た人間だね。
二度も主君が死んで当主が子供に代わったのに外戚という立場を利用して増長する事も無く成長するまでしっかりサポートしてる。
まぁ、最終的に忠政がやらかして出て行ってしまうんだがw
彼ら無しで家名は残らなかったと思う。 長可が実務に対して優秀な軍官僚だったことは間違いないな。性格はアレだが。
>143
実家が兼山の近くなんだけど、石垣、土塁などはそこそこ残ってるので、
そういうのが好きな人は季節がいい時期に訪ねてみるのもいいかもね。
ところで、最近うちの爺さんが死んで、
葬式で実家に帰って親戚一同集まったのだが、
誰がどこのつながりで・・・なんて田舎のややこしい血縁関係を
確認するために、家計図引っ張り出してきたら、
どうやらおいらの先祖は長可に仕えていたらしい。
ご先祖は小牧長久手の後に
森家を辞して帰農したんだそうな。
「大将が死んじまったら、敵をヒャッハーするのもつまんなくなったぜ。
今度は荒れ地をヒャッハーしてやるか」
てなノリだったんだろうな。たぶん。
実は、>28-29の鬼っこ夢まつりの「鬼が島」も自転車でいけるくらいの距離なんだが、
土田って、考えてみりゃ生駒の領地で森家とはあまり縁がないような・・
そもそもあの鬼が島って、犬山の桃太郎神社に縁があって云々って話を聞いてたんだがなぁw
9月末に帰る機会があれば、お祭りにスネーク行ってみるね。 長可が死んだ後に帰農してしまった家臣って結構居たらしいね。 森家が後世になって「猛将鬼武蔵 森長可」「津山藩の基礎を築いた男 森忠政」じゃなくて蘭丸をキャンペーンした理由が何となく最近分かった。
彼らは埋もれてた方がいい。森家の風評の為にも。 まあその蘭丸も逸話の中では、美少年で優秀だけど君側の奸、って感じに捉えられているんだけどねw 悲劇の美男小姓 森蘭丸
持て囃した甲斐あってそこそこ有名人になれたな。
ついでに頭のネジが飛んでたり磔マニアだったりの兄弟の影が薄くなってまさに計画通り。 長可兄さんの代はみんな過激だけど、その下の世代は影が薄い気がする。 ハ,,ハ
( ゚ω゚ ) 誤爆すまん
/ \
((⊂ ) ノ\つ))
(_⌒ヽ
ヽ ヘ }
ε≡Ξ ノノ `J
10分後
ハ,,ハ
( ゚ω。)
~~~~~~ 忠政の性格の歪み具合半端ないなw
可成が死ぬ数ヶ月前の子供だから実質、父親代わりは鬼武蔵だよね。 そんな兄にも遺書にしつこく絶対跡継ぐなよと書かれる忠政 外交スキルは素晴らしいものがあるので遺言どおり秀吉の直臣になってた方が名が売れたかも知れん。
でもこいつは側近として重用してはいけないタイプ。 信長が忠政を親元に帰したのは実は奴のドス黒い性質を見抜いたからだったりして 忠政は末弟という事で他の兄弟と違って養子に出されそうになったり一時的に僧籍に入れられたりしてるのでそれで歪んだかもしれない。 嫡流という意味では忠政、忠広親子の死で途絶えたよ。
可成の弟の家系が凄まじい増殖ぶりだからそっちは余裕で残ってるけど。 森家が江戸に入って発狂で取り潰されたのも何かの業のような気がするが池田家・細川家・前田家の取り成しで宗家復活が成ったのもまた巡り巡った縁。 森家
信長時代から仕えた?
尾張時代の織田家の譜代で森家より大切にされた家は他に何処がありますか?
丹羽や前田、佐々、水野?
森家ってそんなに名家(大身)ではないよね? 忠政って、鬼武蔵や蘭・坊・力丸と母親が違うんだっけ? >>169
譜代じゃないよ。坂井、金森、蜂屋と同じ美濃からの移籍組。 はぁ、譜代ではないのはわかります。
金森さん家とか美濃勢って斎藤家によって追い出され組or寝返り組なのでしょうかね?
何故に森家はノブちゃんに大切にされたのかつら? >>172
有能だったのと、長可が早くから信忠の親衛隊長的な役割をしていて、
織田家の将来的に必要な家だった。 あとまぁ、信忠配下の若手の中ではいち早く内政で成果挙げてたからな、長可。
ここら辺が他より早く領地加増が早かった要因だろ。 日本語おかしくなったけど要するに信忠配下の他の武将とは違って家督相続時から既に「大名」なんだよな。
そこら辺の経験を買われたんじゃないかと。 信長・信忠に忠実だったのはわかるが権力が秀吉に移行した際は素直に恭順したんですかね?
遺言の時点では内容から秀吉に忠実なんだろうなとはなんとなくおもいましたけど。 秀吉と言うより、舅の池田恒興についていった感じかなあ?
恒興は信長の乳兄弟だし。それに正当性を感じていたっぽい。
その上で、小牧長久手の頃には、本能寺後自力で拡大した勢力を公認してもらうためにも、ともかくも、
秀吉を旧織田勢力の盟主として仰いでいたことは間違いない。
忠実だったというよりかは遜った書き方をして戦後の森家に便宜をはかって貰いたかったんじゃないかね。
相変わらず秀吉の命令無いのに勝手に羽黒に出たりとかしてるけど特に叱責やら処罰が下せないあたり何か微妙な関係だったんだと思う。
まぁ結局、東美濃の領地は拡大前の金山7万石まで戻されるんだけども。 忠政は領地削られた事を16年間ずっと忘れずに根に持ってましたw >>179-180
なるほど。
説得力のある回答ありがとうです。
> その上で、小牧長久手の頃には、本能寺後自力で拡大した勢力を公認してもらうためにも
この辺はズバリかもしれませんね。
端から見ても合点がいきます。 >>176
静かに茶を飲んでる兄貴が想像できないが茶会では大人しくしてたのかな >>184
利休の侘び茶の完成以前の茶は、酒食の出る一種の宴会だと考えたほうがいい。 長可は逸話で人気が出てきたような気がするが忠政の人気が上がった気配が無い。
何故だろう? 長可→戦場で華々しく散る。
忠政→腐った桃を喰って死ぬ。
あまりにも対照的w 長可は間違いなく悪辣な人間だが、その悪辣な事をしてもいいわけもなく後悔もない一種の潔さがあるが、
忠政は同じく悪辣な人間ながら、自分を良く見せようとする小癪さがあるからな。 忠政は外交においては天才だったと思うが内政能力は天災レベル
領民が泣いてる。 ifな話だけど長可が小牧長久手で戦死しなかったとしたらどうなっていたかな?
処世術に長けた感じには感じないし無謀な突撃癖があったからどっちみちどこかで戦死かもしれんが… 義父の池田恒興が生きてれば安泰
豊臣治世でもかなりの地位が約束されたはず
一説では三法師の外戚だって話もあるし 小牧・長久手以降で戦死するような戦ってそうそう無いぜ。 森忠政なんて川中島四郡を
来るべき対徳川戦対策で
奉行連署して加封したのに
もらったとたんに徳川方に付いたからなあ
そのへんの見切りは相当凄いよ
石田三成も激怒したそうだし 1598年の時点で向島に駆け込んで家康に頭下げて信任を得つつ得意の隠滅工作で豊臣家の警戒をかいくぐってる。
こういう政治工作に非常に長けてるから長可が生きてれば上手い事噛み合ったかも? 清和源氏の子孫って肩書はあの時代にはそうとう威力を発揮したと思う >>197
そこに蘭丸もいたら凄いことになりそうだ 2chでは過大評価しすぎな風潮もあるよな。
河尻、滝川の下っぱで流れ弾にあたるような運の無い粗暴な猪武者とも言える。 河尻や滝川の下っ端とか言ってる時点であまりよく理解出来てないみたいなのでお帰りください。 長可は信長が若手武将の中でも特に抜擢していた人物だ。
性格はともかく、織田家の中でもかなり優秀な武将だったことは間違いない。 >>201
理解できてないにしてもお帰りくださいって排他的だね。
一方でそういう見方をする人がいてもいいと思うが?
あながち全て間違ってるわけでもないし 可成の嫡男可隆が長生きしてたら長可も少しは大人しくしてたかな?
あの長可、忠政の兄貴だから可隆も相当の曲者になっていただろう。 長可が長生きして出家でもしたら高名な僧になりそう。
良くも悪くも尋常じゃなさそうな。 若い頃かっ飛ばして奴は高齢になると良い感じに落ち着・・くかなぁ、この人 >>207
側室はいたかもしれんが記録には残ってない。
子供はおそらくいなかった。 室町の礼法では、上位の者から何かを勧められても、ホイホイと受けてはダメだった。二回までは断り、三度目にはじめて、これ以上断るのは失礼にあたる、と受けるのが礼にかなったやりかただった。
そこで、長可の例の遺書のことになる。あのなかで千(のちの忠政)に自分の跡目をとらせるのはいやだ、と二回書いているのに注目。
あの部分を文字通りに受け取ってはいけない。最初に二回断っているんだから、もし秀吉が跡目のことを持ち出したら、受けてよい、と言っているんだ。 >>210
そういう礼法はあるんだろうけど長可の遺書はどうなのかな?
逆に秀吉が認めない訳にはいかないと踏んで認めさせる為に書いたとも受け取れる気がする。 「金山は要衝ゆえに信頼できる人間にお任せください」とかも書いてるけどこれも金山から追い出されないようにする為の書き回しなんだろうか。 忠政をよそへ転封させるには加増が必要だから、
遠回しに加増の要求をしているのではないか? それは無いと思う。
金山って今でこそ寂れてるが当時は物流の交差点みたいな所でかなり旨味のある土地。
忠政も久々利の窯で作られた美濃焼を河港経由で尾張に売りさばいて儲けてた。
ぶっちゃけ川中島移転後の方が金欠。 金欠という事で金を掻き集めるために「右近検地」で無理やり5万石以上増やして搾り取った忠政。
でもこのやり口、後年で問題になるんよ。
津山藩の改易直前の石高が3万3000石分地して減ってるはずなのに26万石にまで膨れ上がってしまってる。(元は18万6500石)
金が欲しくなると基準を弄った検地で石高を水増しするという安易な手段に走る悪しき伝統を作ってしまったので右近検地はある意味、森家の「負の遺産」。 ココはスレタイだけみると長可のスレかと思ったが森家のスレなのか。
忠政はずいぶんと領民を処刑したようだな。
小姓も早々とクビになったし長可の遺書はガチで継がせたくなかったんじゃないかと思えてきたw 一般的には森忠政って名君のカテゴリーに入るみたいね。 島津忠恒だって名君に入れようと思えば入っちゃうからなあ。 >>217
信濃領主時代のやりたい放題っぷりは擁護のしようも無いが美作行ってからはそこそこ仕事してる。
河港を使う事にこだわって吉井川の工事から始めたり津山、林田辺りの商人優遇策は何となく兼山を髣髴とさせる街づくり。
そう考えると兄貴は政務に関していい発想出したと思う。
あとは兼山から商魂逞しい連中がツテを頼って美作へと流れ込んで商人街がまんま出来た。
お陰で未だにこれにちなんだ「津山市美濃町」なんて場違いな名前が付いております。 >>214 兼山は、中仙道からも離れ、JR、名鉄も通わない辺鄙な町だが、木曽川がすぐ近くを流れる。木曽川の水運は江戸時代までは重要な役割を果たしていた。そのターミナルとして兼山は重要な役割を果たしていた。
現在では、兼山より少し下流の可児市から犬山までのライン下りぐらいしかないが、戦前までは木曽川の川遊びはかなり有名だったらしい。名鉄広見線の可児川駅はむかしライン遊園駅という名で、田圃しかない場所が何故遊園なのか不思議だった。
戦争中に川遊びをする余裕がなくなり、その後車社会になって川が忘れられた、ということらしい。
森忠政の像って
..--‐‐‐‐‐‐‐‐---..,
(;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;::::::\
// ヽ::::::::::|
. // ..... ........ /::::::::::::|
|| .) ( \::::::::|
.|.-=・‐. ‐=・=- |;;/⌒i
.| 'ー .ノ 'ー-‐' ).|
| ノ(、_,、_)\ ノ
|. ___ \ |_
.| くェェュュゝ /|:\_
ヽ ー--‐ //:::::::::::::
/\___ / /:::::::::::::::
./::::::::|\ / /:::::::::::::::::
こんな感じの顔だよな。 いい悪いスレのまとめサイトでやってる武将投票の、長可のところにコメントに、
「モバゲの携帯小説も大人気」とか書いてあるんだが、携帯小説で長可の小説なんか
あるのか。 >>222
気になったからモバゲーでワード入れて軽く小説検索してみたが…
鬼武蔵→該当無し
長可→腹黒い生徒会『長可』愛い女子生徒
しか出てこないなぁ… >>221
汚い政治家繋がりか。
だが忠政は地元で人気が無いんです。 忠政って秀吉没後、徳川側についたって事だが一応兄の仇なわけですよね?
領地の恨みや天下の状勢もあると思うけどスンナリ徳川側に就けるもんなんですかね?
逆に家康とかも警戒とかしなかったんだろうか。 もう叔父の可政が秀吉存命時から縁を固めてる。
娘婿の関武兵衛を榊原家に送り込んだり次男の可澄を徳川に入れたりで信任はそこそこ厚い。
後は忠政が可政と仲直りして仲介なりなんなり頼めばどうとでも。
敵とかそういうのはあんま拘り無いんじゃないかな。兄も蘭丸討ち取った男を「武功は武功」で雇っちゃう人だし。 >>223
確かに出てこないね。モバゲ以外の携帯小説なのかな?
どんなのか、読んでみたい気はするが。
>>226
まあ長可は秀吉の「武将」として参戦しただけで、別に森家が徳川家に恨みがあって
戦ったわけじゃないしね。
家康だって三河一向一揆で自分には向かった連中すら、普通に参加に納めてしまうような武将だし。
可成と可政の間に兄弟はいなかったのか?
37歳差もあるんだからいない方が不自然だ。
単に夭折して記録に残ってないだけなのだろうか。 寛永諸家系図伝(1643年完成)には無い。これは諸大名家から提出された系図を元に作ってる。
という事は当時の森家的には「そんなのは居ない」って認識だったって訳だな。 虎の穴みたいな所を生きて出て来ないと兄弟と認めてくれないとかw 森一族って一癖も二癖もある連中ばっかりだな。
可行爺さんも飯の前に汁粉出したり、60代後半で子供(可政)作ってるし。 そういえば9月の最後の土曜日に例の「鬼っこ夢まつり」が開催されるんじゃないか?
という事は今年は26日にやるはず。近くに住んでる人居たら誰かスネークして来てくれw http://www5.ocn.ne.jp/~shiraki/
10月18日に兼山でやる祭りもあるぜ >>235 >>237
そんなわかりきった勝負など面白くないんだよ。
目の前に現れた瞬間一刀両断だ!たわけが。
森公美子なら互角だろう… 長可って霍去病に似てるよな。
名将だけど傍若無人な所とか主君のお気に入りな所とか。 藤原忠政と彫られた灯篭が残ってたりなんちゃって源氏の可能性があるらしいな。 でも徳川家に提出した家系図はきちんと源氏姓になってるよ だからインチキの可能性があるって話。
まぁ、島津とかもなんちゃって源氏っぽいので別に恥じる事でもない。 関さん家の長継くんの代から源氏になったって事で・・・
ちなみに関家も自称源氏なのでそこら辺を合わせたのかもね。 更に赤穂藩主を輩出した各務元直は実は本多家に移籍してる林家からの養子っていう。 津山森家→忠政の代で断絶。関氏からの養子の長継で繋ぐ。
赤穂森家→子が絶えたので林家から各務家に入った各務元直の子たちが藩主に。
三日月森家→森俊韶の代で子が絶える。安芸広島藩、浅野家の出の森快温が藩主に。
新見関家→関成煥の代で子が絶える。浅野家の血が入った後の三日月森家からの養子で繋ぐ。
だいだいこんな感じ。 森快温に実子はいない。三日月藩、新見藩は長継の女系。 全て総合するとなんか宇宙人みたいな生き物が出来上がる 長可が鳩山は無いだろうw
忠政は小沢みたいな面してるが。 長可の小柄説って根拠は現存されている具足のサイズからだよね?
ただ首無しの死体の山から探して拾ってきたって事みたいだから信憑性は薄いかもという話を聞いた事がある。 赤穂の大石神社に所蔵されている伝森長可着用の胴、無駄な装飾がない伊予札胴だが、胸の部分に桐紋の金具がついている高級品。長可着用としても全く不思議はない。
信憑性云々に関しては、松浦静山(まつらせいざん・平戸城主)著 甲子夜話(かっしやわ)の中にある。忠政の子孫の大名が、この胴を着てみようとしてところ、小さすぎてあわなかった。見かけも粗末なものだった。といった記述が根拠。
サイズに関しては、同じ場所に展示してある可成のそれや、忠政のそれより明らかに小さい。
見かけについては、江戸時代の豪華華麗な大名鎧を見慣れていた殿様が、戦国期の実戦的な鎧を知らなかったためと考えることが出来る。 津山市と可児市って友好都市だったんだな、最近知ったよw
森家繋がりだな。 このスレ見てからのぶやぼで重用するようになった。
でももう少し強くてもいいよな。 「百段」「人間無骨」の2つの家宝が揃って初めて鬼武蔵だと思うんだ。 評価が確定する前に死んじまったからな
死に方も雑魚みたいな哀れな最後だったしな >>265
戦国無双の鬼武蔵はモブだが百段と人間無骨は出てるなw
しかも人間無骨は本多忠勝にとられてる >>266
まぁ確かに誰からも語り継がれる様な見事な死に様だったらもうちょっとメジャーになれたよなぁ…
多分、信長の野望でも数値が良くなるはずw 司馬遼太郎も探したが見つからなかったらしい百段の墓 >>269
派手っちゃ派手なんだけど見事な感じじゃないんだよなぁ
真田幸村みたいに華々しく散るか、やりたい放題生きて最期は畳で大往生!とかだったらよかったのに。 真田は後世の講談師や作家なんかが脚色したから派手なんだろ だな。真田「幸村」の場合、真田丸での活躍は長宗我部隊の功績の横取り。
夏の陣での突撃は、毛利勝永隊の功績の横取り。
講談でもなんでも語り継がれてる事が人物評価に繋がってるって話ね。
別に真田がどうとかじゃなく>>263あたりの長可がもうちょっと評価されていいって事へのレスだから長可をリスペクトしていない訳じゃないよ どっかの小説なりマンガなりで、大きく取り上げないと再評価は難しいだろうな。
某スレの大河ドラマ「鬼武蔵」、本当にやればいいのにw これか
183 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/14(水) 16:26:52 ID:IpCq9Sps
大河ドラマ「鬼武蔵」
若鬼編:織田信忠の下につき初陣を果たした長可。若き主君の願いをかなえるため
けなげにも敵陣に一人で果敢に攻め込む。
若武者らしい忠義と勇気を発揮。
飛翔編:父の非業の死により若くして森家の家督を継いだ長可。彼はあえて関所や橋の
乗り捨てや、馬揃えで犯罪者を処罰することにより、信長に「法や力がすべてではない」
と言うことを悟らせる。
怒涛編:甲斐攻めにおいて、高遠城を攻めあぐねる織田信忠軍。だが、それを打開したのは
城の屋根に上って下に向かって銃を乱射すると言う、長可の生み出した全くの
新戦術だった。
新時代の武将としての森長可を、満遍なく表現する。
悲天編:本能寺で信長、信忠、そして弟たちが死に、悲嘆にくれる長可であったが、
秀吉の懇願により、信長、信忠の理想を実現するため再び立ち上がる。
だが、彼の前に立ちふさがったのは、互いに勇者として尊敬しあう友、
徳川家康であった。
その、あまりの無常さに、長可はこの時初めて、戦いの空しさを覚える…
信長が愛し、秀吉、家康が最も恐れた男、鬼武蔵森長可の生涯が、今明かされる!
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-976.html 大河か…
確か『天地人』の次は福山雅治の坂本龍馬でその次は浅井三姉妹で徳川秀忠夫人のお江与だね。
長可を演じるとしたらイメージ的には誰がいいのかねぇ ん? もしかして例の『鬼っ子夢祭り』って、明日じゃね? 景勝→信忠
兼続→鬼武蔵
でかぶるから3年くらい待たないと >151だけど、農作業の手伝いついでに実家帰って
土田まで行ってきたよ。
残念ながら『鬼っ子夢祭り』は今日じゃなかったらしい。
どうも土田をはじめこの近辺の小学校は、今日が運動会だったようで
お祭りって雰囲気ではなかった。
デジカメ故障しちゃってしょぼい携帯画像ですまんが、
とりあえず土田城跡と宿場跡の画像。
http://a.pic.to/12k2rd
例の鬼が島は、携帯カメラ程度ではうまく映せなかった。
あんまり時間なかったんで祭りがいつなのか、確認が取れなかったんだが、
どうも予想以上に規模が小さいっぽいよ。
実家の家族は誰も知らなかったし。
明日時間ができたら、金山城にも行ってみようかな。 >>283
おおー、お疲れ様。
まあたしかに、規模は小さそうな祭りだよね。
ネットにあがっているのをみても、子供会か何かの延長みたいな感じだしw
よい写真ありがとう。
金山城のレポも楽しみにしてますw 桃に当たって死んだ歴史上の人物なんてほかにいるかと調べてみたが、
イギリスのプランタジネット朝第3代ジョン王(ジョン失地王)が、見事に桃に当たって死んでいたw 忠政は才覚は大変にあるぞ、才覚は。
悪い方向に使うんだが… 内政向きの家臣があんまり居なかったねw
各務さんや林さんが頑張らなきゃいけなかった。大塚さんはホラ吹きで別に内政のスペシャリストって訳でもなかったし。 才蔵は違うよ。可児秀行という可児姓の家臣はおそろく何かしらの縁者だが。
一時期、可成の家臣だったという説はあるけど。 >>258 大石神社蔵の伊予札胴、長可討ち死時のものではないのでは、との疑問が生じている一因は、森家系譜記載の装束と違っているため。
森家系譜には、長久手合戦当日の長可の服装は、「御甲御具足御鎧佩盾、何れも総銀萌黄糸威」とあり、黒の伊予札胴の大石神社のものとは異なる。
だが、首とともに井伊家の手の者に持ち去られた冑が現存しており、こちらは銀ではなく、黒漆の筋兜で、大石神社の胴と組み合わせるのに相応しいもの。
系譜の記述の方が誤りと思われる。
http://www5.ocn.ne.jp/~shiraki/index.html
そろそろ兼山は祭りの季節。 長久手の戦いでの長可の動きは、精彩を欠く。三好軍が打ち破られた後、急報を受けた堀秀政は速やかに移動して、追撃して来る徳川軍を迎え撃って局地的な勝利を収める。
しかし、家康指揮下の徳川本軍が接近しているのを知り、兵を引いて退避してしまう。徳川の本軍と単独で事を構えるには、兵力が不足していたからだ。
岩崎城を攻撃して、まだ城の付近に展開していた池田軍が戻るには少し時間がかかるが、、長可指揮下の森軍は、攻城には参加せず堀軍と遠からぬ地点で待機していた。
この時長可が。堀軍とともに移動して、共同して徳川軍を迎え撃っていれば、両軍が徳川軍と戦っている最中に、戻ってきた池田軍が戦闘に参加して徳川軍を打ち破るという展開もありえたのに。
情報戦でいい働きしてた伴を同行させて無かったからなぁ。
情報を軽んじて遅れを取ってたのは羽黒で負けた所からずっと。
┌ o:┐ ┌ o:┐ ┌ o:┐ ┌ o:┐ ┌ o:┐ ┌ o:┐
|.ら| |日| |ぬ| |野| |..ト| |か|
||| |替|.. |. る| |菜|.. |. ン| |.ら|
|め| |定| |ぽ| |炒| |.カ| |揚|
l...ん | ..|食| | | |め|.. |. ツ| |げ|
└─┘ └─┘ └―┘ └─┘ └─┘ └─┘
i||i
∧_∧__i゙'''゙!___∧ ∧
______________________(,, ´∀`) ゙ー'' (゚Д゚,,)___________________
( つ と ヽ
C(,_/ |,_,,)〜
゙ー‐/_______|ー―'
└┬┬──‐┬┬┘ 長男可隆:無謀
次男長可:粗暴
三男乱丸:腹黒
四男五男:影薄
六男忠政:陰険
こんなイメージ 質問なんですが
森一族の本能寺変後の行動なんですが
東美濃で独立勢力化(岩村遠山氏を攻める)→小牧長久手で秀吉に属す、という経緯だと思うんですが
森重臣として知られる関共成なんかは尾張にいたので、清洲会議後は一時、信雄に属して津川義冬と一緒に茶会に出たりしてて
その後、信雄と秀吉が対立すると、秀吉に属した、という感じのようです。
となると、森家も清洲会議後は美濃の支配者たる信孝に属し、秀吉との対立後に秀吉に近づいたのかな?と思うわけなのですが
この辺どうなんでしょうか?
変直後から森家は秀吉に属してたんでしょうか?それとも一時的にせよ織田家に属していたのでしょうか?
それとも秀吉に小牧辺りで属すまでは独立を保っていたんでしょうか?
独立or一時織田家に属す説を採るなら、小牧・長久手で必要以上に頑張っちゃって戦死した経緯もなんとなく合点がいくんですが。 >>301
> 森家も清洲会議後は美濃の支配者たる信孝に属し、秀吉との対立後に秀吉に近づいたのかな?
その通りです。長可は弟の仙千代(後の忠政)を、信孝の下に人質として送っています。
賤ヶ岳の前に、信孝を離れ秀吉につきました。 いや、違うんじゃね?
人質の忠政なら本能寺から2日後に伴惟安が奪還してるので信孝を見限ったのはそれこそ本能寺直後。
賤ヶ岳前に信孝家臣の斎藤利堯の加治田城なんかも攻略して信孝の勢力を圧迫してる。 忠政の救出はどう考えても越後の長可に報が届く前に行われてるので伴の独断専行。
これはどういう事なのかと思ったら「林家覚書」によれば長可は信孝と折り合いがあまりよろしくなかったらしい。 伴が長可その後の動き予想して動いてたともいえるし
その行動によって大きな方向性決まったとも言える。
まぁどっちにしろ間違った方向に動いちゃいなかったからいいんだろうけど。 東で森家が暴れ西で稲葉家が暴れ信孝オワタ
そりゃ秀吉来た時に抵抗も出来んってもんよw 長久手の戦いで、長可を狙撃した井伊家の鉄砲足軽はその功績で士分に取り立てられ、その家は現在まで続いている。
戦いの当日、森は岐阜嶽に陣をとり、池田父子はその東、北へ向かって戦ったから、森が左翼で池田が右翼。対する徳川軍は家康旗本が右翼で、井伊が左翼。
そのままぶつかれば井伊が戦うのは池田の方で、森ではない。何故井伊の足軽が、長可を狙撃できたのか疑問だった。
この日の森軍の配置を見た家康旗本、安藤直次は鉄砲で狙撃すれば有利と判断したが、付近に鉄砲隊がいない。そこで各部隊に鉄砲足軽を出すように要請。
貴重な鉄砲を貸すことを皆渋ったが、家康の権威には逆らえず結局かなりの数が集まり、その結果 長可を討ち取ることも出来た。
家康自身でさえ決戦に際して、十分な鉄砲隊を伴ってはいなかったらしい。 首はどうなったんだろうかと思って調べたが現地に居た丹羽氏次によれば首は森家の家臣に持ち逃げされたらしいな。 もし小牧を生き残っていたら、石田のみっちゃんとかみたいな
官僚系パラメーターの長可が信長で見られてかも知れんと思うとワクワクする。
長可はどこまで行っても官僚タイプでは無いと思うぞw
忠政辺りは当主にならないなら官僚タイプになったかも分からん。 まあ長可は、立場的には軍官僚といっても良いのかも知れないが、官僚と言うには
独断専行が多すぎるw 信孝なんて信雄と大して変わらんボンクラだから従いたくないよな 生き残ってたら関ヶ原ではあっさり家康につきそうだな
秀吉には仕えたがガキに仕える義理は(ryみたいに
忠政と二人で要領よく切り抜けて普通に家を残しそうだ 強いものへの嗅覚と生き残るための直感は鋭いからなw
長可は結果的に討死したがその選択は間違ってない。 可行:土岐→斎藤
可成:斎藤→織田
長可:織田→羽柴(豊臣)
忠政:豊臣→徳川
可政:森→豊臣→徳川→森
必ず勝ち組に鞍替えしてるので勘は鋭いのかねw しかもこれだけ節操が無いのに、時の権力者からはかなり信頼され重用されているところがなんともw そんなに面白い所があるか?
そうやってスライドして生き残った武将なんて山ほどいるが 無茶苦茶な事ばかりやっているようだが世渡りは上手い
そのギャップが面白いと思う やっぱ父親、長男、次男、三男、四男、五男が主君の為に戦場で死んでるのが大きいのでは
同情が少なからずある 今週の義風堂々に我らが鬼武蔵様登場(ワンカットのみ、すげー顔)
恐らく次回は噂に違わぬDQNっぷり、次々回は兼続へのかませ犬っぷりを
存分に堪能させてくれることだろう ま、分かりやすいチンピラ気質なのでかませ犬にされがちなのはしゃーないw ここは長可ってより森一族スレなのか
ちょっと、詳しい人に聞きたいんだが、
森家の定紋は森鶴之丸と鶴之丸の2つあるのか?
使われた歴史的には森鶴の方が新しいんだろうが、
森鶴はいつ誰が使いだしたんだ?
調べまくったがわからなかった http://www.spy.ne.jp/~satomako/akooishi-i-001.html
忠政の鎧にあるこれは森鶴かねぇ。戦国時代にはもうあったんじゃないの? >>327 森鶴だね。
俺もそれ疑問に思ったことあった。
知り合いの森さん、一人は鶴丸だがもう一人は森鶴。
どこでどう分かれたのだろうか? 森鶴そんなにメジャーじゃ無いし似たような紋も一杯あるので敢えて使ってるのは何かしらの縁が有りそう。
で、普通の鶴丸使ってる森さんは明治以降に苗字貰った森さんで森家の子孫を自称したかったけど鶴丸と森鶴の違いが分からなかった。
これでどうだろう。 少々気が触れてるが基本的に鬼武蔵は仕事熱心な男だよな。
手抜きだけはしない。 >>329
突っ込みどころ満載だが、敢えて簡単な所から突っ込むと、博識なHPにも
森氏鶴丸と鶴の丸の2種類あるから、それはないぞ。
(森鶴が多用されてるのもおそらく森家のオリジナル感を出すため?)
赤穂藩が森氏鶴丸を使ってると家紋の本にはあったな。 そら現代の話で誰でも家紋の違いを気軽に知れるが学の無い昔の人間に違いなんて分からんのじゃないか?
http://ameblo.jp/maurice/archive1-200604.html
子孫の人も森鶴はマイナーで呉服屋や刺繍屋に無いと嘆いてる。 森鶴そんなにマイナーなの?手元にある業者向けっぽい本(京都紋章工芸協同組合箸)には載ってるから家紋とか取扱う業界には知られてるものだと思ってた… >>333
ちゃうちゃう。森家についての博識なHPにも、って事だ。抜けてたスマン
>>334
4冊くらい家紋の本見たけど、図が乗ってるのは無かった。
森鶴について書いてあったのは1冊でそれも図はなかった・・・ 恥ずかしながらこのスレ来て初めて知ったよ、森家の鶴丸が普通のと違うって事。 森繁の訃報絡みで森繁がここの一族の末裔とかやってたな。
爺さんが大目付ってのもなかなか、2世代前で行き着くって凄ぇな。 長可は内政やらせると案外普通というか堅実なんだよな。
忠政みたいに酷い圧政は敷かないし。 自分の足元も治められない様な人間じゃ、いくら信長のお気に入りでも出世させられないからねえ。
祖父以来の統治者としての経験もあっただろうし。
忠政はアレだ、成人するまでに、森一族の中で統治の心得を教えてくれる存在が、あらかた
居なくなっちゃってたことが大きい気がする。 名古屋を重用して井戸を排斥した事で林との仲が悪化して各務も死んでしまった信濃統治時代がどう考えても最悪だった忠政。
名古屋が死んだのは森家にとってもしかしたら+だったかも分からん。
そのまま生きてたら名古屋の専横はきっと留まるところが無かったはず。
後年に自分にガンガン意見してこれそうな叔父の可政をわざわざ自分から呼んだのは何かしらアドバイザーを求めてたんじゃないかと思う。 可政を自分で召集したなら英断だよ。彼が一緒に連れてきた3人の息子と外孫の可信の家系は重臣として長らく森家の支えになった。 >>343
井戸の排斥に関しちゃ忠政自身が平城派だったから名古屋の平城案に
乗っかってて井戸が対抗の山城派つくちゃったから仕方がないとは思うが
その後の連鎖が最悪だなどっちも死んじまっちゃったらそりゃ双方怨恨も残るよ
俺個人としては森家にとっちゃ井戸も名古屋も林も誰一人として絶対欠けちゃダメだったと思うわ
忠政や名古屋に強い姿勢で意見言える井戸と重用されてるからこそ仕切れる名古屋がいて
そこにまとめられる林が居たから上手くいってたのにこの三人が一片に消えるなんて
森家で考えたら想定外過ぎるこの消えた三人の代わりをまとめて担える後釜なんてのはそうは居ない
井戸と名古屋が死に林の出奔の時点で喉から手が出るくらい助けが欲しかったはず
と、俺は思うが実際死んじまったんだし可政と和解するまで相当精神的にしんどかったんじゃないかな。 苗木城を数千で落としたのって地味に凄い事だよ、鬼武蔵。
武田軍の美濃侵攻で唯一落ちなかった東美濃の要衝なのに。 >>334 業者向けっぽい本に載ってるというのは、
それはマイナーではないという理由にはならんだろ。
>>335のように何冊か検証してくれ。 >>334 業者向けっぽい本に載ってるというのは、
それはマイナーではないという理由にはならんだろ。
>>335のように何冊か検証してくれ。 >>351
白旗ってのは源氏の象徴。
むしろ「自分は源氏である」って強烈な主張だよ。 >>351
>>352
いざとなったら、そこに「降参」と二文字を書き込めばいいんだよ。
そしたら手柄首の方が、勝手に来てくれる。 と言うことは、長可の代で既に源氏の末裔であるという設定だったの?
>>245と矛盾しない? 長可「森家は源氏(キリッ」
忠政「いいや、藤原氏で行こう」
子孫「どっちだよ・・・源氏にしよっと」 >>348
一般的に知られて無いのは分かるけど上で呉服屋にも無いとか書かれてたから、そこまでマイナーだとは思わなかっただけで…書き方が悪かったかな
ちなみに手元にあるのは「平安紋鑑」ってやつだけど調べたら新しい改訂版が普通に売ってたw業者じゃなくても手に入れられるもよう
関氏が藤原氏という説もあるんだよな。忠政は後継たる森長継とあわせたのかもしれん。
しかしどこからか関氏も源氏説が出てきていつの間にか森も関も源氏という事に 岩村城をどういった経緯で丸め込んだんだろうか。まともに攻めれば信濃帰りの動員ではまず落ちない。
ここら辺がはっきりしないのが「乱丸岩村城主説」の出所なんだろうか。
だからといって金山城に団忠正が入ったという記録も皆無なわけで・・・謎。 >>359
公記と同じ。
岩村城がどうやって手に入ったかはとにかく不明。 >>357
関氏は鳳凰丸を使う前は揚羽蝶紋だったからね。
普段は堅城でも本能寺の変の後の混乱してる時期なら割と簡単に落ちるんじゃねーの>岩村城
つーか動員はともかく、金銭や他の援助は秀吉からあったんじゃね?信孝の牽制になるし 蘭丸に妾とかいたんだろうか。
mixiに妾の子孫だって人がいたんだが・・・
(詳しく書かないけど県も名字もゆかりがあるとは思わんかったが)
蘭丸で検索してもヒドイスレしか出てこないのでこちらに >>363
> 蘭丸に妾
そんな記録は一切無い。つーか正妻もいないのに妾とか、
存在自体が矛盾だわ。
蘭丸は有名だから、後世いろんな伝説が付与された。その類でしょ。 蘭丸 子孫 でググったら自称子孫いすぎでワロタw
しかし十八歳で妾がいたとしたらけしからん、羨ましい 蘭丸が生き残ってて、後世ひょっこり現れた、って逸話はいくつか残ってはいるな。
無論創作だが。 無双向きの人物だと思うんだけどなあ
衝撃のデビューやその後の行いといい
猛将伝で追加されないだろうか >>369
ちょっと厳しいかもな。
基本的に、弱い者いじめしてるか、主君の寵愛を嵩に着て横暴し放題みたいな
話ばかりが目立っている感ありなのが痛い。
というか、少々厳しい評価になってしまうけど、基本的に有利な戦しかしてないし、
小牧長久手であっさり馬脚が出てしまった印象すらある。
むしろ、軍政や実務面といった方面に長けていたような。 初陣 → 伊勢長島攻め
関所破り、橋渡り → 三國無双の五関突破風に。理由は適当につける
武田攻め、高遠城攻略 → 各務無双、鉄砲隊を高所へ誘導するミッション
本能寺の変後 → 信濃撤退戦。攻城兵器で木曽の館へ突入せよ!
小牧長久手 → 無双補正で勝利
関ヶ原 → ちゃっかり東軍について家を残す
うん、やっぱ無いわ
ゲームの話ばかりですまん やっぱり侍大将辺りが一番性に合ってたと思うんだよね。 親父さんの事を語ろうぜ。
城持ちに昇格した速度は織田家中でもかなり早い部類だったというのに早死もったいない。 織田家の、特に天正までの部将クラスの死亡率は凄いからな。 贔屓されてたとはいえやはり可成が死んだ事で森家の出世が停滞したのは間違いない 甲州征伐でその辺一気に取り返したけどね。
そういうふうに目をかけられチャンスをどんどん与えられていたという意味でも、
長可はやはり相当の才能ある部将であると、信長は理解していたのだろう。 実は塙家に忠政を養子に出す計画があったんだが塙直政が死んで立ち消えになったらしい。
塙直政が生きてそのまま出世してれば塙家次期当主が忠政だったのに。 >352
この時代の森氏はまだ源氏を名乗ってたのかね?
忠政の時代に豊臣姓をもらって羽柴に解明しているし、
これを見ると燈籠には藤原と書いてるね
ttp://ameblo.jp/maurice/entry-10153017207.html
森氏が源氏として書かれているのは江戸時代になってからなんじゃない? >352
この時代の森氏はまだ源氏を名乗ってたのかね?
忠政の時代に豊臣姓をもらって羽柴に解明しているし、
これを見ると燈籠には藤原と書いてるね
ttp://ameblo.jp/maurice/entry-10153017207.html
森氏が源氏として書かれているのは江戸時代になってからなんじゃない? でも、鶴丸ってのは源氏に縁のある鶴岡八幡宮の神紋でもあるよな。
これってあんまアテにならん? 可成の嫁は林氏で元を辿ると河野氏なので藤原は関係なさげ。
忠政だけ他の5人とは違って側室の息子という説もあるがその場合は知らん。 >>351
亀だけどバッフクラン的な意味で「相手を地上から一人残らず殲滅する」が似合う 林為忠のオヤジは何者なんだろうか
越前出身らしいが 藤原にしたのって、秀吉のからみじゃねえの?
豊臣になるまで、確か藤原じゃなかったか 問題の石灯篭は1617年に作られたものなので関係ないと思われ wikiの可政の6人息子がいつの間にか補完されとる 残念だなぁ、小牧長久手当事20台でしょ?
まだまだ活躍が期待されてた時の討ち死にだよ でも長可の怖れられ方って、どっちかつうと厄介者としてのそれなんだよねw 年上の蒲生に「俺に挨拶無しとはなめてんのか」と因縁をつける男だし 小牧長久手を生き延びたら猛将としてその名を轟かせたのだろうか 同時代的には猛将として有名だったらしいが、歴史に残るような合戦で活躍したのが
甲州征伐と小牧長久手だけで、しかも長久手ではやられ役だったことが、後世で
マイナー化してしまった理由なんだろうな。
そのへん同じく猛将であった佐久間盛政とちょっとかぶる。
戦いさえしなければ間違いなく天下一の猛将だろうな。
平時に殺した人数は半端ではない。 あそこで戦死しなかったら関ヶ原ではどっちに付いたかな? 本能寺後の事を考えると豊臣をあっさり見限って徳川につきそうだな >>404
徳川につくって行くか、あのまま池田&長可生きてたら
二人で利家クラスかそれ以上の力あったろうし、家康下手に動けないだろ つーか池田恒興と長可がが生きていたら、秀吉の政権内に強大な存在が
二つも残ることになるので、豊臣政権と言う物自体が、史実よりも非常に弱体なものに
なった可能性が高い。 大丈夫。
鬼武蔵なんてそのうち食中毒か何かで家康みたいにポックリ死ぬだろうし、
鬼武蔵が居なくなった池田なんて金棒を失った鬼みたいなもので、簡単に
粛清できる。 食中毒なんかよりは、九州征伐で見事に釣り野伏せに引っ掛かってバキューンとかの方が有り得そうだが。
……もちろん、そんなの関係無いとブチ破ってもおかしくない気もするなあw
あんまり話題にならんが女性陣もキャラが濃いな。
特に妙向尼。 >>407
そのうち、なんて言ってると(本当は)森家最強の男、忠政が成長しちゃうぞ。 忠政は戦場に出るの仮病で誤魔化したりやたら戦死する「可」の字を使わなかったり案外げんを担ぐタイプなんだろうか。 あれだけ親兄弟死にまくればさすがに思うところはあるだろう
長可の遺言だってあんなんだしさ 忠政の器量を心配したのかそれとも性格を心配したのかはたまた別の意図があったのか・・・
いまいち真意が掴めない、あの遺言 高遠城に押し寄せると森隊は三の丸の屋根に登り、板を引き剥がし
城内へと女子供の区別無く無差別に鉄砲の一斉射を加え陥落させ・・
やっぱり怖いな【鬼武蔵】 基本的に敵は性別年齢関係なく切るし集落があれば略奪して火を放つってのが習性 散々ボロクソに言って喧嘩別れしたきりの三成と同じ敷地内に墓を建てる忠政はいい神経してる。
しかもしょぼい三成の墓に比べて忠政の墓はやたら巨大で立派らしい。 鬼武蔵のウィキペのページが大量更新されてるがアンサイクロとの違いがよくわからないぞ むしろアンサイクロペディアの正確性を称えるべきであろう。 むしろネタを付け足せれないほどインパクトのなる人生と言うべきか ゲームとか(…って言っても信長の野望だけど)どういう評価なの?革新とか。
天道では再評価されてるかしら
>>421
基本的にシリーズ通して采配60台武力70台他2〜30前後の二線級戦闘要員。天道でも変化なし。
最期でえらくさっぴかれてる感じがするが、正直知略(悪知恵)はもう少し高くて良いんじゃないかと。
コエの中の人のお気に召さないのか上司に気に入られる能力は内政・智謀系にカウントされない節があるんだよな 忠政って凄いよな、調べると金山時代も一回、一揆を起こされたらしい。
すなわち美濃、信濃、美作統治時代いずれも領民に一揆を起こされている。 一揆ってしょっちゅう発生してるイメージがあるんだけど、実際のところどうだったんだろう
戦国と江戸期ではまた違うだろうけど この頃の一揆は江戸期のような農民による示威行為ではなく
国人、地侍による反領主武装蜂起だからな。 鬼忠政のことだから、人間狩りをしたくてワザと挑発して
一揆を起させたのだろう。 信濃では検地で石高上がりすぎで税がきつくなって農民から検地のやり直しを求められたが徹底無視。
そりゃ一揆も起こるさ。だがその一揆を容赦なくひねり潰して磔しまくるのが忠政。 >>422
規制でレス出来なかったけど、ありがとう。
やっぱり、大河やマンガ化されないと評価されないのかな
戦を重ねる事で武勇が広がって敵が恐れおののくシステムとかなきゃ活躍出来ないか…
古田織部なんかもゲームじゃ使えないからなぁ…茶の湯の弟子にする事で外交が上手く行きやすいとかあれば楽しめるんだけど
何故か(?)権力者に可愛がられたところは二人とも似てるかも
最後は徳川によってのところとかも。 Googleで検索すると
織田信長 の検索結果 約 1,660,000 件
豊臣秀吉 の検索結果 約 1,120,000 件
徳川家康 の検索結果 約 1,320,000 件
森長可 の検索結果 約 88,400,000 件 ←桁違い
ヒット件数が有り得ない事になってるんだが何がそんなにヒットしてるんだ。
>>431
「森」でヒットしてるんだろ
ちなみに名前を””で囲むと
"織田信長" の検索結果 約 1,600,000 件
"豊臣秀吉" の検索結果 約 1,100,000 件
"徳川家康" の検索結果 約 1,270,000 件
"森長可" の検索結果 約 19,400 件(´・ω・`) 誰か面白い漫画やら小説でも作ってくれれば少しは認知されるだろうか・・・ 徹底したアンチヒーローとして書いてくれればあるいは。 取りあえず殺しっぷりが半端ない人だから
朝鮮に渡ってたら凄いことになってただろうね テレビで信長が本能寺で死ななかったらってやってたけど鬼武蔵はどうなるのかな まぁ順当に信長の謎のえこひいき。
当主信忠の腹心として権勢を誇りつつ戦では大活躍なんじゃないの?
ぺんぺん草も残さずに・・・ 博識な先輩方にお尋ねします。
長可は人間無骨をいつ頃から使うようになったんでしょうか? アンサイクロペディアによると、毎年のお年玉をコツコツと溜めて買ったらしいぞ。
だから、家督を継ぐ前じゃないかな。 と言うかこの時代の「名槍」というのは先ず名前ありきだったらしく、
たとえば本多忠勝の蜻蛉切なども、それが何であろうが「忠勝が持っていればそれは蜻蛉切」
と言う扱いだったらしい。
なので人間無骨も、なにげに持っていた槍をふと名付けたところから始まったんだと思う。 安田が証言したんだろうか?
それとも、チン○の傷跡を調べた人が『これは十文字槍によるものだ』とか? これは読んでみたい
戦国、幕末の可児ひと目 市史第2巻予約受け付け
可児市史編さん室は、夏ごろに発刊予定の市史第2巻「通史編 古代・中世・近世」の予約を受け付けている。
B5判800ページ。古代から江戸時代までの可児市の歴史を通史として記述した。戦国時代や幕末の可児の動向もまとめ、
領主千村氏、山村氏についての新資料も採用している。別冊の付録では江戸時代の市域の絵図35点をカラーで収録する。
既刊の第1巻「通史編 考古・文化財」、第4巻「自然編・民族編」、第5巻「資料編 古代・中世・近世」、
第6巻「資料編 近・現代」に続く5冊目となる。
予約は「広報かに」5月15日号に折り込まれたチラシに付いている申し込みはがきを郵送するか、電話やファクスで直接、
市史編さん室に申し込む。
1冊3500円。7月31日までに申し込むと送料無料で、8月1日以降は送料が実費負担となる。
問い合わせは市史編さん室=電0574(62)1111、内線2621=へ。
http://www.chunichi.co.jp/article/gifu/20100527/CK2010052702000019.html?ref=related 忠政の美作入領を援助した美作菅党の末裔が総理になったようで 津山城の縄張りは無駄に実戦的だが一度も実戦では使われなかったとさ
忠政ェ・・・ >>452
エロゲっぽいタイトルだと思ったらエロゲだった・・・
まだまだアングラの域を出ないな むしろ普通に桃が食えなかったら大問題だろw
長可は敵が多かったせいか、死後やたら過小評価されまくったっぽいな。
その履歴の割にマイナーなのは、そういう事も影響したのだろう。 >>455
小牧長久手も奮戦のすえに討ち死にというような華々しさよりも
いいとこなしのまま、鉄砲玉が当たって即死というさえないものだしな。
普段の言動の割りに情けない死に様、という点も影響してるのかも。 甲陽軍鑑にも鬼武蔵出てくるんだが「越後なんぞ俺一人で攻略してくれるわ!ガハハ!」みたいな奴だった。 中1女子を裸にして撮影&メールでバラまきの中学校って、鬼武蔵の地元じゃね? >>458
モロ地元だな。
鬼武蔵も怒ってるだろう。 >>461
残念ながら
可茂地域を襲った豪雨で、可児市兼山の戦国武将森蘭丸ら
一族の菩提(ぼだい)寺である可成寺の墓地(市指定文化財)が、
山から流れ込んだ土砂や倒木などで埋まっていたことが21日分かった。
同寺の小松宗仁住職によると、付近では15日午後4時ごろから雨が
強く降り出した。住職らは雨が一時的に弱まった時に避難。翌日朝に寺に戻ったところ、
土砂が崩れていたことを確認した。墓地には、蘭丸や兄弟、父の可成ら
7人の墓がある。蘭丸の墓は倒れなかったものの、可成の墓が土砂で
押し流されたのをはじめ4人の墓が倒れていた。
小松住職は「びっくりした。早く復旧したい」と話している。
可児市は復旧については、寺と話し合って進めるという。
市文化振興課によると、可成が初代城主だった
金山城跡(県史跡)でも土砂が崩れたという。
http://www.gifu-np.co.jp/news/kennai/20100722/201007220834_11225.shtml
http://www.gifu-np.co.jp/news/kennai/20100722/201007220834_11225.jpg
忠政の墓だけここにないので難を逃れている件
死んでも悪運の強い奴 織田家の人々
* ・織田 信長(おだ のぶなが)・・・・豊川 悦司
* ・森 蘭丸(もり らんまる)・・・・・瀬戸 康史
* ・森 坊丸(もり ぼうまる)・・・・染谷 将太
* ・森 力丸(もり りきまる)・・・・阪本 奨悟
http://www.nhk.or.jp/otsu/go/cast/index.html
上と下がスルーされている件について 空気な長男な事・・・たまにでいいから思い出してあげてください。 その内池田は大河でやりそうな気がするんだよね
池田なら戦国三大英雄網羅出来るし、常に勝者側的なカタルシスも描けるし
天皇家的なネタもあるし
そしたら森も大フューチャー 生きていてもさすがに五大老クラスってのは無い
堀久や蒲生氏郷と同等ってとこだな
秀吉との関係が良好だったら、会津に伊達の押さえとして送られていた可能性が・・・
そっ、そうなったら、((((;゜Д゜)))ガクガクブルブル
>>472
武蔵さんの一揆虐殺ショーが盛大に見られただろうなw 多少は知名度が上がったんだろうがまだまだ一般には知れ渡ってないな。 津山城跡にある忠政公の像は、居眠りしている朝青竜みたいだが、
あれの元になった本源寺の木像はステキなおじ様風らしい(クビもちゃんとあるらしい)。
津山城跡の方を作ったひとに悪意があったのか? 悪意があったかどうかはともかく、津山の人間は忠政にあまりいい印象は持っていないだろうなw 今の浮世は結構ずくし 森の武蔵に池田がなくば 諸国諸大名は長袴♪
この小唄の意味ってどういう意味なんですか? >>477
> 今の浮世は結構ずくし 森の武蔵に池田がなくば 諸国諸大名は長袴♪
「今の世の中は結構なことばかりである。森武蔵と池田がまとめていなくなったおかげで、
諸国の大名たちは戦の心配をすること無く、殿中で履く長袴を付けたままでいられる。」
そんなに嫌われてたのか、まあ仕方がないか
しかし鬼武蔵はともかく、池田も嫌われてたのか? もののついでじゃないかな、死んだとこが悪かったとあきらめるしかないな 弟がついにゆるキャラ入り
安土に登場!「らんまる君」
近江八幡市にある安土町観光協会のイメージマスコット「らんまる君」が10日、初披露された=写真。
安土城ゆかりの織田信長にちなみ、信長に仕えた小姓・森蘭丸をモチーフとした犬のキャラクター。今後、観光イベントなどのPRを手伝う。
同市安土町の文芸セミナリヨであったNHK大河ドラマ「江(ごう)〜姫たちの戦国〜」の脚本家、田渕久美子さんのトークショーで登場した。
らんまる君は、主君信長の声や動きを見逃さないよう、真っすぐ伸びた耳と大きな目が特徴。安土城跡の案内が得意で、ネズミが苦手。
織田家家紋「織田木瓜(もっこう)」に似ているため、キュウリは食べない。安土城を再建し、信長と天守から見渡すのが夢という。
会場には、浅井3姉妹のゆるキャラも登場し、らんまる君お披露目を盛り上げた。
らんまる君をデザインしたラジオパーソナリティーのやまもとひまりさんは「安土城を造った信長公が大好きならんまる君を、皆さんで育ててほしい」と話した。
http://mytown.asahi.com/shiga/news.php?k_id=26000001101110001
http://mytown.asahi.com/shiga/k_img_render.php?k_id=26000001101110001&o_id=7071&type=kiji 兄貴はゆるくしても目付き悪かったりするんだろうな、きっと 次回の大河で森家イケメン3兄弟が出るね。
長可兄さんはイケメン枠から漏れてるみたいだけどw 森長可でぐぐると「ノルウェイの森」の上映情報が一番上にくる…
1939年。英独が死闘を繰り広げる戦略の要ノルウェー、ナルビク。
そこに現れたのは現代に蘇った鬼。人間無骨の前に人類は生き残ることができるのか?
真の死闘はここから始まる!
SFスペクタクルホラーアクションついに上映開始
…だったら見に行くんだが。 鬼武蔵が出てきたらとたんに話が殺伐としちゃうからなw 最近この人に興味を持ったんだけど、おすすめの小説ある?
逸話が織り込まれてるようなの 殺戮系の逸話が盛り込まれた小説ということなら、無い。 小説じゃないけど、戦国武将の遺言の本に
名だたる有名どころと顔を揃えて登場していたな 戦国の鬼森武蔵 鈴木 輝一郎 出版芸術社
森長可 谷口 研語 PHP文庫 実は戦いが嫌いだったとか軟派な事言い出す鬼武蔵は認めたくない 天下泰平のため、心を鬼にして戦ってたんですね。わかります。 長可と忠政のwiki、いつの間にか凄く容量が増えてる・・・ >>495
どっちの本がよりリアルな鬼武蔵ですか?
リアルってのはヒャッハー的な意味で
>>503
自分は495ではないが、両方とも持っているので…
どちらかというと「戦国の鬼 森武蔵」 の方がヒャッハーはしてる。
というより、「森長可」の方は、いきなり本能寺の変の後から始まるため、弟や主君をいっぺんに亡くして、どこか燃え尽きてしまった感のある鬼武蔵しか描かれない。
鬼武蔵が良心的に見える。
回想シーンとして高遠城攻めは多少あったけど物足りないと思う。
そんなわけで「戦国の鬼 森武蔵」の方がいいかな。
ただ、こちらも先天的ヒャッハーというより後天的ヒャッハーという感じかな。(弟や、兄の様に思う信忠の為に鬼になってるって感じ)
織田信忠がとにかく魅力的でかっこいいのだが、その分、鬼武蔵の魅力が薄くなってると感じる。
信忠退場後は「鬼」らしさが出てくるし、怖いけど、どこか物悲しい鬼だ。
でも面白かったよ。 >>505
「戦国の鬼 森武蔵」って、百段も人間無骨も出てこないって本当?
>>506
うろ覚えですが。
池田恒興に槍を貰って、それを愛用している。
それが人間無骨なのかもしれないが分からない。
人間無骨という言葉は確か出てこない。
これもうろ覚えだけど、百段も出てこなかったはず。
重要人物の死は、あっさり終わる。
主人公の鬼武蔵の死も例外じゃないから、百段が亡骸を守ったとかそういうのは確実に無かった。 >>507
>>125で紹介されてる『戦国鶴の軍団 鬼の武蔵・森武蔵守長可烈伝』は読んだことありますか? >>505
有り難う御座いました。
歴史小説なじみないけどやっぱ面白そうなのでヒャッハー読んでみます。 可行・可政・忠政ぐらいだな、布団の上で死ねたのは。
二度幼君を担いで家政を仕切る立場にありながら全く専横しなかった林一族は出来た一族。 おしるこ爺ちゃんの武功話を聞いた事がないのだが。
森家っぽい話ない? 京都の森家三兄弟の墓にガムテープ貼ってあってワロタ
老朽化ここまできたか 鬼武蔵のスッポン退治の逸話、アレも鬼武蔵クオリティだったわ。
鬼武蔵、城下で毎日酒を買っていく老人の話を聞きつける。
↓
俺的に怪しかったので後をつけて斬りつけたら、スッポンの妖怪でした。
ちなみにスッポンの妖怪さん、ちゃんとお金払って酒購入してたので誰にも迷惑かけてない。 >俺的に怪しかったので
やべぇ、俺のような愚民には「酒好きの爺さんなんだな」で怪しいところが何一つ見えないのに
スッポン妖怪と看破してしまう鬼武蔵マジやべぇ 100歩譲って怪しいから後着けたとしても、いきなり斬りつけないからなw すっぽんからすればなぜ斬られないといけないのか無念だっただろうな 親父って長可やその兄弟みたいにDQNエピソードあまり聞かないけど実際どうだったんだろう? 親父は知らんがオカンは、ああ、あいつ等生んだだけのことはあるよってエピが有った気がする オヤジは二条城の普請の時に浅井の連中と喧嘩かました話があったような わらたw
> 298 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/29(月) 13:26:18.36 ID:Z+30jwXX
> スレチだが今週の『信長の忍び』に森長可(12歳)が出てきた
> 「後に戦国時代を代表する狂戦士となる男である」と解説されてたw 戦国無双3のエンパではついに門番を〆るイベントがついた >>525
ちょ、買うわ
ところで鬼武蔵がコイツ今からうちの子な!とか言って一時連れ去った岩松丸こと木曾義利は
何かと粗暴な振る舞いが多かったらしいけど、もしかして影響されちゃったんだろうか たしか誘拐していた期間はそんなに長くなかったんじゃなかった?
だとしたら恐ろしい影響力だぞww いろんな精神的トラウマを植え付けられてちょっとしたPTSDになったのだろう そして大名としての木曾氏は義利の代で終わりを迎えた……
って考えたら鬼武蔵さん恐ろしすぎるなww 秀次を主人公にした小説で鬼武蔵さんが開始数ページで討ち死にしていた
当たり前なのだがあまりにもあっさりしていて笑ってしまった まあ鬼武蔵の特異なキャラクターはネットや一部のゲームなんかでは広がり始めてるんだけど、
小説に関してはまだまだだからなあ。あそこが一番保守的だ。
小説の世界で鬼武蔵がピックアップされるまでには、まだ4,5年はかかるだろうなw たしかにネットやゲームに特異な鬼武蔵像が広がってるならライト層の鬼武蔵認識が近いうち変わるのは間違いないだろうな 鬼武蔵で無双かBASARAみたいなゲームやりたいなあ
雑兵を斬ったり、橋の警備をする人を斬ったり、布陣した神社の境内に出た蛇を斬ったり…
きっと楽しいと思うんだけどw
ストーリーモードの最後は小牧長久手で鬼武蔵戦死→仲間も敵も民も歓喜!という感動EDでどうだろう 徳川なんかにやられやがって、
あっさり挟み撃ちにされた所が単細胞なんだな しかし長可も恒興も都合よく死んでくれたな
生きてればその後面白くなったのに
討ち死にして残念でならない武将が多いね
堀・蒲生もそうだけど、どうして早死にしちゃったんだろ 早死にしたから大きく見られて特って気がしないでもないけどな
蒲生とか特に。なんか生きてたら家康と天下穫り争いするとか思われてるのよく見るし
真っ先に秀吉に付いた男がそんな博打するとは思えん。逆に失礼だ >>537
もし、蒲生氏郷が生きてりゃそりゃ家康公と天下争いになって不思議じゃないだろ?
万が一、生きてりゃ徳川、前田に次ぐ5大老中の第3の男になる。
そのくせ、若い。
絶対に秀吉が生かしておかないだろうけどね。
病気で死んでなきゃ、暗殺されてるよ そういうIFなら恒興&鬼武蔵が存命ならって想像するなぁ 蒲生と堀は石田三成とは仲良かったの?
問題はそこだよ、仲悪かったら東軍につくやろな その二人が生きていた時期だと、二人にとっては三成は未だ、気にするほどの存在じゃないからなあ 森・池田が生きてるとしたら、家康は小牧・長久手で死んでるっていう設定? 仲良かろうが悪かろうが大概の大名は打算で動こうとするだろ
関ヶ原の加藤清正ですらそうなんだから 何か関ヶ原本戦と違う所で合戦して血生臭い地名増やしてそう 石田三成って上司には気に入られるけど同僚や年下に嫌われる感じがするな
関ヶ原で敵に回った連中もほぼ同世代の武将ばかりだ
堀と蒲生は上司にあたる間柄だから
嫌われる事は無かったんじゃないかな? その理屈でいくと田中吉政は西軍になんでつかなかったんだろうな
好き嫌いよりどっちに付いた方が得なのか、より自陣営を魅力的に見せれるかどうかであって個人の好き嫌いだけであんなでかい戦で付くような酔狂な奴なんて滅多にいない
蒲生が生きてると、どっちに付くかというより、そもそも関ヶ原が起こるのかが問題だ。
下手したら豊臣秀次の運命も変わってくるかもしれないしな。
秀吉の寿命も残り少ないから、ちょっとタイミングがずれるだけで史実と全く違う展開もありえるからね。 どの道、最大勢力徳川家康ってのが揺るがないかぎり、氏郷が五大老入りしようが何しようが単独では徳川に当たれないし
家康の対抗馬になる利家が死んだ時点で詰みじゃねーかな
じゃあ利家の代わりに堀なり蒲生なりが対家康の旗頭に成りますって言ったとして
年齢でも戦歴でも石高でも家康には勝てない訳で
しかも場所が関東のスグ上の会津ってなるとなぁ…… 一説では小田原征伐後の関東を堀に与えるつもりだったらしい
まぁ堀があそこまで開発できるかは別問題として領土だけなら張り合えるんじゃないかな
蒲生が生きてリゃあそもそも、上杉征伐自体無かっただろうし 上杉や毛利が健在でも史実のあの結末で終わったものが
蒲生や堀で大きく変わるとも思えんなぁ >>552
上杉征伐が蒲生征伐になるだろうからな
その前に前田利長みたく人質送れば別の生け贄が用意されるだろうけど
前田家が生け贄にされそうになった時点で、豊臣恩顧だとか織田組だとか政治的にこれっぽっちも防御壁にならんわけだし 森スレが蒲生アンチに乗っ取られるとはなかなか予想外だがw
どんだけマイナーな侍好きなんだかw 堀と蒲生が100万石大名で西軍についたら面白そうだな
蒲生が92万だったし堀が関東入りしたらありえない数字ではないだろ
豊家の直轄領は650くらいだったはず
最悪難癖つけて領地没収くらいするだろうし
徳川も関東入りしてないから国力ももっと落ちるし 堀が関東で家康が東海道据え置きで豊臣家の直轄領も据え置きとなると
史実で東海道筋に入る筈の梶尾らが涙目ジャマイカン 堀なら十分に100万石になる可能性があるってだけで他の人事がどうなるとかまではわからん
最悪加増なしとかもあり得るかもね
何かを別の場所に納めれば、そこに収まっていた何かが玉突き的に出て行くのが道理なのに
それを「他の人事がどうなるとかまではわからん」でぶん投げるなら最初からifなんてするなよ、オイ……
例えば甲斐には家康関東転封後、古参の加藤光泰や浅野長政とかが入るワケだぞ、本来なら
それを加増無しとかもあり得るで済ますなよ。済まねーよ。
タダでさえ税率キツイのにどんだけ低恩賞でタダ働きすんだよ豊臣政権下の武将は。朝鮮出兵まで待ってんのに
家康の旧領150万石だぞ。150万石分が無いものとして考えられるわきゃねーだろ 正直人事はどうなるかわからんし絶対何処かで辻褄合わなくなるのがわかってるから語れる自信がない
IFで語るなら伊達の遅参許さなくてそこを宛がうとかも言えるじゃん
上で堀&蒲生の100万は有り得ないって言ってるから、秀吉にそういう発言があったとされてるのと秀政の立場的に大封を得られる可能性があるって言うのを言いたかっただけ
池田の親父も生きてたら100万石クラスになってそう 家康据え置きで割り食うであろうは森家だろうな
家康領に接している美濃には信頼できるヤツをドカンと置かなきゃ怖いだろ
金山に森家置いておく余裕がない 図書館で森武蔵という本を借りてきた まだ3ページしか読んでないが、
どうも森長可は人を殺したことがないかもしれん カーチャンと殺生しないって約束してた >>566ジャイアンだって母ちゃんとのび太達を殴らないって約束してるぞ 森武蔵って荒くれ者のように思えるけど
戦国時代は殺し殺され嫌な世の中ですってまともな事も言ってるんだよね
切れ易い人だったんだろうけどw 家康に大判ぶるまいし過ぎたよな
あの当時天下はもう秀吉の物なんだから関東移封もちょびっとだけの加増ですませりゃ良かったのに
家康は天下取った後、そんなお人よしはせず徹底的に大名を潰した
豊臣まで潰した
人柄の違いがここに出てるよね 人の心をつかむ術はやっぱり秀吉の方が上だったと思う
誰だって褒美くれたら嬉しいもんな
ケチケチ家康じゃ人の心はつかめないだろう 秀次はともかく、信孝の歓心を買う必然性がどこにあるんだ? 無いな
それどころか早く暴発して欲しかっただろうね
旧信忠家臣たちとの関係を構築する前に 秀吉って石田に100万石やるとか丹羽に関東とかすぐ領地やるけど
危機感ないのか?
直轄領が250万石ぐらいだったと思うが怖くないのか?
隣は毛利で150万石ぐらいだっけか?
丹羽や蒲生はなくなったら減らされてるけど 池田が秀吉より長生きしてたら関が原がおきないだろうな。
そもそも徳川が250になれなかったんじゃない?
タイミングがすこしでも外れてたら家康は
天下とろうと思いもしなかったんじゃないかな。 >>566>>568
鬼武蔵「もう争いは止めてくれ、僕は誰も殺したく無いんだーっ!」パリーン
某パイロットで鬼武蔵が再生された 池田だといずれ豊臣乗っ取りそう、前田ですらそんな気配あるのに 池田恒興が関ヶ原の時生きてたら64歳だぜ?
ちょっと無理じゃないのか当時の寿命を考えたら そもそも池田&森が小牧長久手で死ななかったら豊臣政権自体変わってただろうからなんとも 小牧長久手までは、秀吉を中心にしてるとはいえ秀吉−丹羽−池田の三頭体制だったからな。
池田が死んだことでトライアングルが崩れ秀吉の勢力が圧倒できるようになった。 昔買ったのぶやぼひっぱり出してきたらパラが異様に低くて切なくなった
当時の知名度の関係か おまえら、徳川が小牧・長久手で滅んで、池田・森連合が巨大勢力になった場合を語れよ。 >>585
1584年、日本は鬼武蔵の炎に包まれた! >>585
例の遺書を読むに、もう戦がイヤになってたんじゃないか?
2、3カ国の太守様になってるはずだから、一応満足してカドが取れたいい人になったと予想。
数年後、秀吉が死んだらまた過激な人になるかもしれないけど。 >>588
ちょくちょく言われてるが
あの遺書は
「娘を(宮中に出入りできる)医者に、弟を秀吉側近に」と
羽柴家における朝廷工作を森家に一任させろといわんばかりの野心溢れる代物だぞ 長生きして欲しかった。蒲生さんと名人も。
長可公が天寿をまっとうしてたら、ちょっと悪い話スレはもっと勢いがあったはず。 お前は戦国時代をどれだけ恐ろしい地獄にしたいんだよw >>589始めて真意を知ったが鬼武蔵ってやっぱすごいな どうやらモノホンが現代にタイムスリップしてきたって設定らしいな
……設定だが恐ろしすぎるww ADとか司会とかがちょっとでもミスったらバッサリ
ちゃんと仕事してても気に障ったらバッサリ
観客が盛り上がらなかったらバッサリw ねらー受けで過大評価されてる典型武将
つーか更正DQNや893美化とか言うのに昔の人ならいいんだな
500年後には在日朝鮮人かっこいいってなってるよ >>598
お前みたいなのを韓国脳っていうんだな気持ち悪い。
早めにカウンセリング受けたほうがいいぞ。 >>598
>昔の人ならいいんだな
時代背景という当然考慮すべきものをしない辺り、
さすが歴史は連綿と存在するものではなく数日間のやっつけでコリエイトするものという連中は一味違うな。 小牧長久手で戦死せずに生き延びてたらな…
個人的には小田原征伐の後に会津を与えて政宗の隣に置いたら面白かったと思う
それか木村吉清に与えられた領地でも良いな >>601
政宗とタッグ組んだら恐ろしい事になるな、間違いなく ただ鬼武蔵は利害くらいは考えるものの頭は悪いし、政宗も頭はあまりよくないので
非常にろくでもないことになるのは確かだろうなw 森は一応戦上手なんだけどね
北信濃貰ってからの対上杉戦でも活躍してるし 戦上手だけど政治的にはいつもストレートすぎてとても優秀とは言えないな。
まああんな性格だから仕方がないがw 長可と政宗は似た者同士だからすぐ仲良くなりそうだ
2人で東北を荒らしまくる姿が容易に想像出来る >>606
その辺は、大人になった蘭丸ちゃんがフォローする。
はずだったんだろうなぁ。 長可は頭いいだろ
ただ反比例するように道義がないだけだ 長可と政宗は領地が離れてれば意気投合して仲良く暴れてると思う
隣同士の場合は間違いなく荒れる 鬼武蔵鬼武蔵と宗教的に崇めてる奴がコーエーを批判できる資格なんてないんですけどね。。。。 >>614
キミは「宗教的」の意味をきちんと調べなおしたほうがいいぞ。
他の板やスレで神降臨!・神キターとかいうのにもこんな事書き込むのかなw 某作品に鬼武蔵でたんだが…
触手キャラでした
人間無骨ってそういう意味じゃねーよ! どんな形であれ鬼武蔵の露出が多少は増えて来てる気がする。
イケメンにされる事は少ないが。 蘭丸の弟って結構おいしいポジションなのに大体は力丸・坊丸と蘭丸の小姓三人セットで完結してるな そもそも蘭丸を美男と言い出したのが後世の、おそらく忠政没後に出来た
創作だからな。 けど、信長のあの寵愛っぷりはなぁ。
優秀だったとか、可成の息子だとか以外にも何かあると思うんだが。 >>628
蘭丸の寵愛理由を容貌に求めると
鬼武蔵は蘭丸以上の超美男子になってしまうんだがw 「鉄面頬いらぬ鬼武蔵」
「鬼鹿毛に鬼武蔵」
長可の顔面評。とてつもない強面。 >>634
逸話と存在の圧倒的なインパクトから
享年27という事が忘れられがちなのは仕方ない 鬼武蔵のイケメン化が始まったのだろうか
@NagayoshiMori
森長可(長久手歴史トラベラーズ)
写真も頂いた。 ありがとう! わしこのような顔もするんじゃな。
https://twitter.com/#!/NagayoshiMori/status/165804555798446080/photo/1 蘭丸はよく美形に描かれてるし、長可はそれに便乗した印象がある
戦国無双のは老けてるけどPC化するならあのデザインからかけ離れなければいいなあ 革新の顔グラは結構良いと思うんだ
ほのかに香るキチガイな雰囲気が鬼武蔵を絶妙に表現してる気がする 今回の信長の忍びに森家出てきたね
しかもカラー
可成最期が壮絶にカッコいい
ポケモンのぶやぼに蘭丸出演だな
そろそろメジャーゲームに鬼武蔵きてもいいのではないか ポケのぶのランマルは女武将決定戦にしれっと参加してる
ところで漫画の信長の忍びと信長協奏曲に長可と蘭丸が出てるけどどっちも
長可=乱暴者
蘭丸=品行方正
兄弟なのに正反対みたいな描かれ方
蘭丸は戦国武将と言っていいのだろうか?
まあ近衛前久よりはアリだろうけどw 本能寺が起きなきゃ森軍団が武田に続き上杉も殲滅してたんだよなあ。 本能寺がなかったらどんだけ大封もらってたかわからんな >>602
撃退って本能寺を知って二本木から撤退しただけじゃん。
上杉は森軍団を追撃すらできなかっただろ。 「津田藤三郎を討ち取った」とかドヤ顔で大ぼら吹いてる上杉方の史料では負けなしなんだそうな 二本木なんて侵攻してねーよ馬鹿
長沼すら取られてたくらいだし
五月になっても信濃口の無事や仁科地方の防衛書いてる景勝の書状あるのに関山着陣二本木侵攻なんてできるわけねえだろ >>658
森長可が上杉に長沼城を取られた?
よく平気で嘘がつけるな。 かまってちゃんは無視したほうがいいんじゃね? 居座られたら困るし >>662
信長公記は北国だけじゃなくどこの情勢もデタラメだらけだよ
所詮軍記だからね 信憑性だけを云々しだしたら
文書すら正確なわけじゃないからなぁ 後世の軍記と同列に扱うのはおかしいがな
軍令通達の目的で使われた文書ならかなり信憑性高いし 森家ってびっくりするほど知名度低いのな
その辺の本屋の戦国コーナーに売ってるような本だと
蘭丸がたまに名前出てkるくらいで可成と長可はまず出てこない
早死にした息子たちはともかく、少年時代から信長を支えて
最後は華々しく死んだ可成はもっと知名度あってもいい
あの柴田勝家ですら若い頃は信長と敵対してた事を考えると、
信長が最も信頼した男と言っても過言じゃないだろうに 一部での子供たちの人気などに相まって可成もピックアップされるといいね
「信長の忍び」って漫画では可成はイケメンで人気も人望もある武将として
書かれて信長も一番信頼してるっていう様なキャラで大活躍だったけど そのうち森可成が主人公のマンガでも出て、大人気になるさ
前田慶次郎なんてたった一作品であれだぜ 利益は大して活躍もせずにアレだからな
鬼武蔵もそうだが、森家は信忠ともに再評価が欲しいね 森も信忠もたいした活躍してないもんなあ。
森なんて北信濃、羽黒、長久手と敗戦ばかりだし
信忠なんていわずもがなの戦下手だし え 武田勝頼の首をとったのは織田信忠公と配下の森可成じゃなかったか? 武田はほとんど領国疲弊と天変地異による自落だもんなあ
合戦というほどの合戦なんてほとんどなかったし むしろ天変地異があればメシを確保するために他国へ侵攻するのが戦国時代だろ 武田侵攻時の浅間山噴火のこといってんのにアホかこいつ おもいっきり大軍で侵攻されてるとき浅間山噴火が起きてメシ確保するために他国侵攻とか馬鹿じゃね? このスレに勢いがあると、悪い話にも勢いが出てくる傾向があるな。 じゃあ
躊躇という理性を取っ払った室伏広治でおK?
八巻正治先生の活躍の一端として本の紹介をするね。
八巻 正治・八巻 益恵 共著の名作
書籍名 君は麦畑の風の中を−さわやか福祉へのまなざし
著者名 八巻 正治・八巻 益恵
著者紹介 夫 八巻正治:順天堂大学、青山学院大学、東洋大学、立教大学大学院卒。ラブリー・チャペル牧師。
妻 八巻益恵:東京基督教短期大学、玉川大学卒。ラブリー・チャペル福音伝道師。
発行社 樹心社
総頁数 202
定価・頒価 1600
発行日 平成04年05月20日 1992
まさか戦国鍋TVに出るとは思わなかった
しかもキャバクラのコーナーになんて・・・ 次出るとしたら
なんでおとがめ無しなんですか座、
とかでお願いしたい 立川文庫だと猿飛佐助の父鷲塚佐太夫が森長可の家来だったという設定 高遠城攻めの時は激戦で長可の鎧の下半身は高遠城兵の返り血で真っ赤に染まっており、その姿を見た織田信忠は思わず手負いかどうか尋ねたという ここで保科さんを延命せずいつも通りぬっ殺してたらそこそこ歴史変わってたよね 本能寺の変で信長が討たれると一転して敵地深く進攻していた長可は窮地に立たされ6
月8日には二本木の陣を払って越後国から撤退。軍議を開いて信長の仇を討つことを決
定した。しかし信濃国衆にも信長死亡の報が伝わっており、長可配下の信濃国衆たちは
出浦盛清を除いて[9]ほぼ全員が長可を裏切り、森軍を殲滅する為の一揆を煽動してい
た。これに対し長可はまず海津城の人質を逃がさぬように厳命し、入城後はただちに人
質を連れて南進した。長可の家臣大塚次右衛門が一揆と交渉したが、一揆衆は森勢の前
に立ちふさがったため、長可は合戦を仕掛け勝利する。森軍は松本に到着すると人質を
残らず処刑し木曽谷方面へと撤退した。唯一、撤退に協力した出浦盛清に長可は深く感謝し脇差を与えている。 まだ二本木に侵攻してたとか馬鹿な妄想展開してる奴がいるのか
長沼も奪回できてないのに二本木なんか侵攻できるわけねえだろカス >>649
全ての項目での票の伸び方が尋常じゃない。
明らかに一人の人間or一部の徒党が一日に何度も投じてる。
馬鹿だね。
こんなもんで1位にしたからといって賞金が出るわけでもなければ表彰されるわけでもない。
単なる自己満足だ。
それどころか多くの人等の目に結果が分かった時失笑される事間違いなし。 信長のシェフ」で森パパ死亡→乱丸泣く
もちろん長可さんは影も形も無し
その程度だよな、世間的には 鬼武者Soulの鬼武蔵は結構な強キャラでしかもイケメン あるないことよく分からん逸話が大量にある割には嫁との逸話は一つもないという不自然な感じ 濃姫なんか織田家資料からは信長との婚姻前に位しか名前が出てこない位だから
当時の女の扱いなんてそんなもん >>696
まあまあ…冗談だろきっと。
対上杉戦線は全包囲と分裂内乱の鬼武蔵にとってヒャッハーの舞台は整ってたが、
まあ死に物狂いのうえに強兵で知る上杉軍団が相手だからな、
さすがの鬼武蔵も引っ越して浅いこともあり圧され気味なのは常識。。
どこの資料からかわからんが二次資料かそれ以下の講談ネタが元じゃね?
まあネタ話しにはちょうどいいけどね
たぶんみんな二本木まで進行なんて真に受けてないから安心しな。 長沼どころかそれより南西部の仁科地方(安曇・筑摩)にすら上杉方の島津忠直が駐屯してるのが
4/20頃の景勝書状でわかるしな 保守的とは言わねぇよ。
バカはてめぇらだろ。
2ちゃんウケだけではない。
鬼武蔵は異名で、宗教的ではねぇよ。
投票して何が悪い。世間への影響とな考える必要はない。
早世で過大評価されていない。
過大評価すらされないてめぇら(笑)
日本がーと宗教的に喚き散らす反日原理主義者糞バカチョンとかに言われる筋合いないんですけどね。。。
てめぇら図に乗るんじゃねぇよ。捏造偏向歪曲するんじゃねぇよ。生きてる価値ねぇからさっさと消えろカス。 鬼武蔵って呼ばれてる人多いよね。
もっとこの人しか呼ばれないって名前のが良かったんだろか
思いつかないが お前ら鬼武蔵様は赤穂大石神社の祭神だからな。
ttp://nobyama.com/akouooishi.html
>御祭神
>森可成 森可隆 森長可 森蘭丸 森坊丸 森力丸 森忠政
森長可の子孫が浅野の後の赤穂藩主だったから鬼武蔵様も祭ったみたいね。 いや、あそこ明らかにメイン赤穂浪士、ついでに森家…
森家が兼山から分祀した貴船神社はどこいったんだ? 岐阜県のある祭りで、岐阜に関わった戦国武将の行列みたいのがあって、
その戦国コスプレイヤーの中に森長可も一緒に含まれてた。
父である可成でもなく、知名度は圧倒的に兄に勝る蘭丸でもなく、長可を!?と驚いたな。 長篠辺なら、池田や森長可などの一般的にちょいマイナな武将隊が居たぞ >>714
最近出た某女体化ゲーでも長可と可成はいるけど蘭丸はいないな その岐阜県の祭りってのは、多治見市の祭りのことで、
確かに森氏が治めた可児市とは近いけど、
蘭丸のように知名度があるわけではなく、忠政のように長生きしたわけでもないから、
もしや、主催者は2ちゃんでも見たのか?とか思った。 岐阜のゴロツキにして戦国アイドルの筆頭鬼武蔵
創造でのパラメーター(独自評価)
統率 95(+35※DQN部隊に限る)
武勇 97(+10 手癖の悪さ)
知略 88(+80 悪知恵)
政治 75(+74 一揆勢皆殺し)
異論大歓迎w
一揆なんか大歓迎だろうなあ。豪快に殺害できるから。
長生きしてたら間違いなく朝鮮民族は滅亡。半島はグーグルアースで見ると血で真っ赤に染まってる。 森の3月26日遺言状で茶壷を秀吉様に進上をして母上は手当てを秀吉様からおもらいになって
「森家の後継ぎは忠政が長可の地位を継ぐ事は大変困るので、兼山の城は要衝なのでもっとしっかりした者を配置なさいませ
と秀吉様にいいなさい。母上は必ず必ず京都にお住まいになってください。忠政がこの城の後継ぎになるのは困ります。
万一今回の戦が全面敗北になる場合はみんな城に火をかけて死になさい」
というように森は秀吉に対し様をつけ、また進上と完全に目上の人への言葉を使っている
また森家が城主の家柄でなくなることを長可自ら強く望んでいる様が読み取れ、上昇志向が全くなく、
俗にいわれてるようなDQNっぽさは全く読み取れない。 つか池田や森が秀吉方に付かなかったら秀吉は木曽川ライン超えることも叶わず一生伊勢筋の小城郭で苦戦して
信雄は秀吉方に史実以上の大打撃を与えていたのは間違いない
何せ史実では伊勢方面に大軍で出兵してきた秀吉に対応するため、家康・信雄とも総軍伊勢口に兵力集中させててら
味方につくと思ってた池田・森が秀吉方について居留守泥棒的に犬山・楽田方面への上陸成功(北尾張の佐久間正勝らは総じて
伊勢に出兵しており尾張は留守状態だった)この流れで伊勢方面の諸将に加えて信濃の木曽・尾張の石田毛利氏・毛利秀頼・松ノ木近辺の諸将と
秀吉方に寝返りがあいついで圧倒的勢いで信雄を圧倒すると思ったら小牧長久手で1万人戦死の大敗・その後も
松ノ木・蟹江・二重堀・戸木・河波・浜田・東駒野・長久保・神戸と各城郭で敗戦を重ね、135000の規格外の大軍で
わずか16000〜7000の家康信雄領国をろくに切り取ることもできず、諦めて大阪に納馬しようと思ってたら本願寺顕如に必至に信雄への取り成し依頼してたのが
実って信雄がヘタレ和睦に応じただけだしな。そもそもこの和睦時点では信雄は人質なんて出してないし単に顕如使って必至に土下座してきた秀吉を
かわいそうに思って和議に応じてやっただけだし
池田や森らが当初の予想に反して秀吉に付いたため家康方が伊勢方面から尾張方面に転進して伊勢ががらあきになって秀吉方優勢になっただけ
家康方は3/7陣ぶれ3/8岡崎から矢作川3/13津島3/14伊勢の桑名と移動し信雄は桑名に出陣していた水野に3/13になると
その先の戦場として想定される伊勢神戸へ出陣要請している。之に加え、佐久間・中川ら重臣も桑名方面に出陣
特に中川は美濃尾張国境の犬山城主であり、この事は織田・徳川全軍が、桑名近辺に集結したことを意味する。
ところが3/13信雄方が味方と信じていた池田森に一日でがらあきになった犬山を攻略された事に対応して徳川は伊勢戦線から離脱し尾張へ向かう
同日伊勢安野津の織田信包も秀吉方になり、南伊勢は信雄から秀吉へ寝返った神戸・関・田丸ら国人連中らも含めて秀吉方の独壇場となる
あと秀吉が「信雄への寝返りを気にして三河方面への別働隊に組み込んだ」なんて妄想はしらん
秀次や長谷川・堀・木下兄弟など信頼に足るべき連中らとともにきわめて重要な敵地への行動させてる時点で秀吉が池田・森らを信じていないとする根拠なんぞない
特に秀次は秀吉の数少ない一門衆で後継者候補。木下兄弟も秀吉に非常に近く堀や長谷川も本能寺後一貫して行動をともにし、もはや譜代といっていい連中
大して信雄家臣の吉村高木毛利滝川雄利なんてなじみのないもいい所の外様家臣
吉村なんて信雄に付き従ったのがつい去年だしな
そんな信雄の領国状況無視して秀吉が味方の寝返り気にしてどうこうとか完全に妄言もいい所
信雄が家康の離反気にして小牧山から思うように行動できなかったとか
家康が石川の離反気にして思うように命令できなかったとかいってるのと同じ(石川はこの頃から秀吉に通じだしてると三河物語にあるし水野も翌年秀吉に寝返っている) 秀吉厨の馬鹿な妄想のせいで愚将として過小評価うけてるかわいそうな人。 >>721
パワーアップキット買って好きに設定してください 長可をちょうかって読んで殺された人は結構いるとおもう >>729
いるわけねえだろ阿呆か。当時は諱で呼ぶことはめったにない 安田作兵衛、雇うのがすごいよね。だから、DQNとか言われちゃうんだよ。 昨日の大河、あっけなかったな。
竹中秀吉には 『ながよし』とか呼び捨てされるし。 赤穂大石神社「義士宝物殿別館」に行ってきた。
いわゆる「首無しの鎧」、
鋭い歯を剥き出しにした金の龍が巻き付いている兜、
大量のカラスの羽を纏った「黒烏毛銀瓜」の馬印・・・
あまりの禍々しさに圧倒されてしまった。
大石信云(浅野長重家臣。大坂夏の陣で毛利勝永と対戦)、森可成、忠政の甲冑や武具も展示してあったけど
鬼武蔵の一角だけ空気が明らかに違う・・・。実に怖い。
宝物殿の真ん中に両国橋を渡る赤穂義士たちの人形(出来は良くない)があって、
その橋の先で待ち構えているかのように鬼武蔵の武具が配されているというレイアウト、
まさかとは思うが、狙っているのか?
あと、大石神社では9月19日に森家遠祖追慕式があるそうです。 >>1
【鬼武蔵】は、よしとして【DQN】とは何なんだ?無礼にもほどがある
【DQN】とは1自身の事だろ
死ねばいいのに 長久手の戦いは指揮系統がバラバラで家康側にはこちらの行動が筒抜けで
家康軍の行動は秀吉側には何一つ把握されていないというありえないデタラメな戦いだった
作戦のほぼすべてがでたらめで秀次も堀も逃げるのに精いっぱいで池田と森を見殺しにした
野戦では強い森長可をこんなところで失うとは秀吉が秀次を怒鳴るのも無理はない
秀吉軍に頼らずに独自で動いていれば長可も死ぬことはなかっただろう 長久手の戦いの秀吉軍の指揮系統がバラバラとか妄想もいいところだな
小牧長久手のある1584年頃だともう秀吉はとっくの昔に織田家の家臣の直轄家臣化に成功してる
清洲会議後秀吉は丹羽長秀の三男仙丸を実弟秀長の養子にして羽柴ー丹羽体制の構築を測った。
秀吉はかねてより入魂だった摂津衆の池田・中川・高山に加えて筒井ら大和衆、三好康長に加え、若江三人衆といわれた池田教正・多羅尾綱知・野間康久らの河内衆から人質を取って陣営内に取り込み、軍事再編を行った。
秀吉は清洲会議から数ヶ月後の10/22時点で5畿内の配下の悉くから人質を徴収してるし
清洲会議時点でも丹羽への叱責の意を表す書状を書いたり池田の領分にまで介入してる始末。
その上蒲生や堀や筒井などもいつの間にか取り込んでて
細川とは血判状交わして臣従関係結んでる
最も身分の高かった池田や丹羽ですら 小牧長久手より2年も前の清洲会議時点で 秀吉に対して領土に介入されたり 転封命令出されたり 人質召集されたり
自分の失態を叱責されたりしてるほど はっきりと上下関係があったのに 秀吉の配下は信服してないとかないわ
羽柴軍は本能寺以前の直轄地だけでも200万石前後あるので ほとんど直轄軍しかいないよ それに本能寺後は旧織田家の諸侯から人質召集した上で 転封命令まで出したり
領土の中の問題に介入したり、失態を叱責したり あるいは戦争中は直接逐一細かく命令出したり 皆を直轄軍として動かしてるね
三鬼清一郎氏によれば 秀吉の陣立書の導入により
それまでの一揆的秩序の軍団が初めて上下関係や統制の存在する公儀の軍になったとされてる 小牧長久手どころか、それより遥か以前の清州会議後ですら
秀吉は丹羽長秀の三男仙丸を実弟秀長の養子にして羽柴ー丹羽体制の構築を測った。
秀吉はかねてより入魂だった摂津衆の池田・中川・高山に加えて筒井ら大和衆、三好康長に加え、若江三人衆といわれた池田教正・多羅尾綱知・野間康久らの河内衆から人質を取って陣営内に取り込み、軍事再編を行った。
秀吉は清洲会議から数ヶ月後の10/22時点で5畿内の配下の悉くから人質を徴収してるし
清洲会議時点でも丹羽への叱責の意を表す書状を書いたり池田の領分にまで介入してる始末。
その上蒲生や堀や筒井などもいつの間にか取り込んでて
細川とは血判状交わして臣従関係結んでる
最も身分の高かった池田や丹羽ですら 小牧長久手より2年も前の清洲会議時点で 秀吉に対して領土に介入されたり 転封命令出されたり 人質召集されたり
自分の失態を叱責されたりしてるほど はっきりと上下関係があったのに 秀吉の配下は信服してないとかないわ
羽柴軍は本能寺以前の直轄地だけでも200万石前後あるので ほとんど直轄軍しかいないよ それに本能寺後は旧織田家の諸侯から人質召集した上で 転封命令まで出したり
領土の中の問題に介入したり、失態を叱責したり あるいは戦争中は直接逐一細かく命令出したり 皆を直轄軍として動かしてるね
三鬼清一郎氏によれば 秀吉の陣立書の導入により
それまでの一揆的秩序の軍団が初めて上下関係や統制の存在する公儀の軍になったとされてる 清洲会議の1か月半後の8月11日付けで秀吉が長秀に宛てた
5か条からなる長文の手紙(専光寺所蔵文書)で次のことがわかる。
執政官の一人であるだけに滝川や信孝から長秀に訴えがあった。
しかしとても彼の力では裁定できない。それで秀吉にお伺いを立てて裁定を仰いでいる
安土城普請が遅れているので三法師が安土城に移る事ができず、
これは長秀の責任であると秀吉は詰っている。
秀吉自身も直接普請のため安土に行く覚悟である。
安土の普請の遅れについて言葉は柔らかいものの『(長秀の)御油断と存じ候』
という明らかな叱責な言葉が使われており二人の間が同格であるとは言えない。
池田はずっと小身のまま止められ一時は信忠軍団の一員にされ、
ようやく摂津の大部分の支配を委ねられ遊撃軍の地位に昇ったが
実績で言えば秀吉や勝家はおろか、丹羽にすら及ばない程度であった。
天正十年十月付けで恒興が摂津塚口神家に下した禁制と
同年十月十八日付けで同所に秀吉が下した禁制(興正寺文書)から
恒興と秀吉の権力の差が推し計れる。摂津塚口とは恒興が清洲会議で得た新領であり、
恒興の領分にまで秀吉が介入している有様がわかる。
秀吉は清洲会議から数ヶ月後の10/22時点で5畿内の配下の悉くから人質を徴収してるし
清洲会議時点でも丹羽への叱責の意を表す書状を書いたり池田の領分にまで介入してる始末。
その上蒲生や堀や筒井などもいつの間にか取り込んでて
細川とは血判状交わして臣従関係結んでる
追記するとして3/20秀吉書状で秀吉は池田を池勝入と呼び捨てにして其の方と完全に上から目線で書いている
また犬山へ留守居を堅固に申し付け森を同行して池尻に来るように指示をだし「置目」のごとく
城城へいれる留守居は秀吉の方から申し付ける事を指示を出すというように完全に縦の関係が読み取れる
また森の3月26日付け書状で茶壷を秀吉様に進上をして母上は手当てを秀吉様からおもらいになって
森家の後継ぎは忠政ではなく「長可の地位を継ぐ事は大変困るので、兼山の城は要衝なのでもっとしっかりした者を配置なさいませ」
と秀吉様にいいなさい。母上は必ず必ず京都にお住まいになってください。忠政がこの城の後継ぎになるのは困ります。
万一今回の戦が全面敗北になる場合はみんな城に火をかけて死になさい。
というように森は秀吉に対し様をつけ、また進上と完全に目上の人への言葉を使っている
また森家が城主の家柄でなくなることを長可自ら強く望んでいる様が読み取れ、上昇志向が全くなく、
むしろその反対である事がわかる。一般的に思われているような武功にあせっている様は全く見て取れない 愛知県史資料編より
天正10年11/1秀吉→石川数正書状 真田宝物館所蔵文書
柴田勝家が織田信孝と図って謀反を企てている
丹羽・池田と自分で申し合わせて信雄を御代にたてる
五機内の主要な武将から人質を残さず取った
江州衆も人質を全く残さず出した
毛利輝元とは暇なくもうし合わせている
12/16 秀吉→高木
西美濃衆が大垣城へ出頭し人質を出したことを報じ
高木親子にも同様の行動をとることを勧告してる
12/18秀吉→宇喜多
織田信孝が和睦を申し出て
柴田勝豊は人質にだし近江の横山城には秀長を入れた。
稲葉親子と西美濃衆から人質を受け取ったことを伝えている
藤田達生 秀吉神話をくつがえす より P169−172
天正10年9/18と9/20において行われた秀吉と丹羽長秀との会談において秀吉が養子としていた織田信長5男秀勝を施主として
10/15に信長の葬儀を挙行するという決定した
これは長秀が軍勢を率いて近江坂本城から上洛し 堀や長谷川も交えての会談で決定したものである
会談翌日の9/21には秀吉自ら「信長御仏事」のために同寺に向かった。
これは信雄・信孝をないがしろにするものであり
彼らに大きな衝撃を与えた。
秀吉は丹羽長秀の三男仙丸を実弟秀長の養子にして羽柴ー丹羽体制の構築を測った。
秀吉はかねてより入魂だった摂津衆の池田・中川・高山に加えて筒井ら大和衆、三好康長に加え、若江三人衆といわれた池田教正・多羅尾綱知・野間康久らの河内衆から人質を取って陣営内に取り込み、軍事再編を行った。 >>秀吉軍は指揮系統がバラバラだった
清洲会議後秀吉は丹羽長秀の三男仙丸を実弟秀長の養子にして羽柴ー丹羽体制の構築を測った。
秀吉はかねてより入魂だった摂津衆の池田・中川・高山に加えて筒井ら大和衆、三好康長に加え、若江三人衆といわれた池田教正・多羅尾綱知・野間康久らの河内衆から人質を取って陣営内に取り込み、軍団の再編成を行い
旧織田諸侯を秀吉の直轄軍として編成した
最も身分の高かった池田や丹羽ですら 小牧長久手より2年も前の清洲会議時点で 秀吉に対して領土に介入されたり 転封命令出されたり 人質召集されたり 自分の失態を叱責されたりしてるほど はっきりと上下関係があったのに 秀吉の配下は信服してないとかないわ
羽柴軍は本能寺以前の直轄地だけでも200万石前後あるので ほとんど直轄軍しかいないよ それに本能寺後は旧織田家の諸侯から人質召集した上で 転封命令まで出したり
領土の中の問題に介入したり、失態を叱責したり あるいは戦争中は直接逐一細かく命令出したり 皆を直轄軍として動かしてるね
三鬼清一郎氏によれば 秀吉の陣立書の導入により それまでの一揆的秩序の軍団が初めて上下関係や統制の存在する公儀の軍になったとされてる
清洲会議の時点で丹羽や池田と秀吉では歴然と上下関係が読み取れる。
清洲会議の1か月半後の8月11日付けで秀吉が長秀に宛てた5か条からなる長文の手紙(専光寺所蔵文書)で次のことがわかる。
執政官の一人であるだけに滝川や信孝から長秀に訴えがあった。
しかしとても彼の力では裁定できない。それで秀吉にお伺いを立てて裁定を仰いでいる
安土城普請が遅れているので三法師が安土城に移る事ができず、これは長秀の責任であると秀吉は詰っている。
秀吉自身も直接普請のため安土に行く覚悟である。
安土の普請の遅れについて言葉は柔らかいものの『(長秀の)御油断と存じ候』
という明らかな叱責な言葉が使われており二人の間が同格であるとは言えない。
池田は天正十年十月付けで恒興が摂津塚口神家に下した禁制と
同年十月十八日付けで同所に秀吉が下した禁制(興正寺文書)から
恒興と秀吉の権力の差が推し計れる。摂津塚口とは恒興が清洲会議で得た新領であり、
恒興の領分にまで秀吉が介入している有様がわかる。
秀吉の配下の兵卒は秀吉の直属や部下が雇った直轄軍。
三鬼清一郎氏によれば、秀吉は陣立書の導入によりそれまでの一揆的秩序・寄り合い所帯の豪族連合的な軍隊を脱却し
日本で最も早く上下関係が確立し、確固たる統制の行き届いた公儀の軍になったとされてる。
現にこれまでとは比較にならないほど、秀吉は文書によって事細かに指示を配下の武将に送ってて
配下の武将もこれに忠実に動いている。
それまでと違って自分の意思に忠実に動かせる手足のような軍勢になったということ。
秀吉は本能寺以前の織田家みたいな与力制の間接統治ではなく軍閥化・軍制改革に取り組んで
直轄支配・直接支配体制に変革させて陣立書によって今までのような一揆的秩序の貫徹する軍隊内部に
命令系統と上下秩序を持ち込む戦争史の画期といえるもので
これを以って中世の軍隊との決別する新たなる公儀的軍隊編成となったとされている。
これにより、特定の戦争を想定し、自己の軍勢を最も効率的に配置し布陣することが徹底されることになる軍事革命である。
これが可能になる条件は徹底した検地を通じて軍役や普請役の統一的賦課基準を確立しなければならない。 羽柴軍は本能寺以前の直轄地だけでも200万石前後あるので
ほとんど直轄軍しかいないよ
それに本能寺後は旧織田家の諸侯から人質召集した上で
転封命令まで出したり
領土の中の問題に介入したり、失態を叱責したり
あるいは戦争中は直接逐一細かく命令出したり
皆を直轄軍として動かしてるね
本能寺の時点での羽柴領は播磨但馬因幡備前美作伯耆備中淡路長浜尾張讃岐に及び
200万石を越える
それらは秀吉が切り取った直轄地で
秀吉が手足のように動かしていて
信長との主従関係などない。
三鬼清一郎氏によれば
秀吉の陣立書の導入により
それまでの一揆的秩序の軍団が初めて上下関係や統制の存在する公儀の軍になったとされてる
秀吉は下記のようにいう事の聞かない先代からの譜代など全くおらず、秀吉自ら育てた「生え抜きの譜代」ばかりいて
先代からの専横ばかりしてた邪魔な譜代に比べて、皆秀吉との結びつきが非常に強く、豊臣の恩を受けまくってる連中ばかりいた。
熊見川合戦時点での秀吉家臣団は一門衆が秀長・秀勝・三好義房・浅野長政・杉原家定・家次、木下家定
尾張衆は加藤清正・福島・山内・蜂須賀(河波衆リーダー)青木・平野・加藤嘉昭・堀尾・宮田光次
美濃衆が竹中・坪内利定・稲葉貞祐・加藤光康・小野木生駒石川光政日根野弘就谷衛好仙石秀久
一柳直末・伊藤秀盛・尾藤知宣。
近江衆の木村隼人正・片桐且元・寺沢広政・石田三成・中村一氏・増田長盛・宮部継潤・速水守久・脇坂安治・
長浜衆(伊藤牛助・谷兵介・石川小四郎・藤縣三蔵・田中小十郎など)
他国衆の中川清秀(摂津茨城城主、舎弟)小西行長(堺衆)・黒田孝高(播磨姫路城主)
これとは別に播磨衆と但馬衆に亀井・垣谷などが加わるし相当の規模の軍団だっただろ。これに加えて尼子残党の
上月城でしぶとく敢闘してる尼子義久や山中幸盛らや、同陣している荒木村重らがいるんだから普通に18000程度は余裕でいく。
下手すりゃ22000くらいはいてもおかしくない。蜂須賀前野とか河波衆のリーダー格だからそんなに極端に少ない兵力って事はないだろうし
一方の毛利軍は超遠距離で兵站の問題もあるし、背後の大友はいるし、反旗を翻した鈴木孫右衛門等に備えて清水らを備中に帰国させてるし。
ほぼ互角といった所じゃね。中川や荒木あたりは普通に大身だしな。蜂須賀も尾張時代ですでに2000程度持ってたとされるし
それから主君の秀吉が出世したんだから家臣の蜂須賀も出世してるだろうし。
谷とかも、竹中と同程度の地位だったし。 藤田達生 秀吉神話をくつがえす より P169−172
天正10年9/18と9/20において行われた秀吉と丹羽長秀との会談において秀吉が養子としていた織田信長5男秀勝を施主として
10/15に信長の葬儀を挙行するという決定した
これは長秀が軍勢を率いて近江坂本城から上洛し 堀や長谷川も交えての会談で決定したものである
会談翌日の9/21には秀吉自ら「信長御仏事」のために同寺に向かった。
これは信雄・信孝をないがしろにするものであり
彼らに大きな衝撃を与えた。
秀吉は丹羽長秀の三男仙丸を実弟秀長の養子にして羽柴ー丹羽体制の構築を測った。
秀吉はかねてより入魂だった摂津衆の池田・中川・高山に加えて筒井ら大和衆、三好康長に加え、若江三人衆といわれた池田教正・多羅尾綱知・野間康久らの河内衆から人質を取って陣営内に取り込み、軍事再編を行った。
愛知県史資料編より
天正10年11/1秀吉→石川数正書状 真田宝物館所蔵文書
柴田勝家が織田信孝と図って謀反を企てている
丹羽・池田と自分で申し合わせて信雄を御代にたてる
五機内の主要な武将から人質を残さず取った
江州衆も人質を全く残さず出した
毛利輝元とは暇なくもうし合わせている
12/16 秀吉→高木
西美濃衆が大垣城へ出頭し人質を出したことを報じ
高木親子にも同様の行動をとることを勧告してる
12/18秀吉→宇喜多
織田信孝が和睦を申し出て
柴田勝豊は人質にだし近江の横山城には秀長を入れた。
稲葉親子と西美濃衆から人質を受け取ったことを伝えている
秀吉は実際に信雄信孝だけではなく 広大な領土獲得に邁進して
実際に河内、丹波、丹後、山城、大和など広範な領土獲得してるし
坂本など近江の一部の要求は 自分の息がかかっている丹羽に譲ったようだが。
しかも清洲会議が終わってまもなく丹後の細川と秀吉は血判同盟を取り交わして備えているのは、
清洲会議で対立した為に旧織田重臣間で徒党を組んで全面戦争に備えていた証拠。
秀長は河内の他に大和、摂津の一部を領地にしてもらってる。
(池田恒興摂津12万石以外は秀長。しかも池田を犬山城に飛ばして大坂城築城開始してる)
岸和田など和泉も秀長領になっていたとも言われているな。
だから筒井などは秀長配下。
のちの高野山征伐の伏線であり大和大納言領の前身を清洲会議を契機に形作っている。
だから大和興福寺の僧が、
羽柴の思惑通りになったと言っている。 会戦当初から池田森津田富田八重羽津川尾張毛利両氏といった重臣連中が悉く寝返りがボロボロ出ていた上に重臣石川まで篭絡されていた織田徳川軍が一枚岩とか
とっくに軍閥化が完了し、誰も寝返らないどころか、池田も森も丹羽も完全な上限関係と秀吉への必死な忠孝を行っているのが史料からわかるのに
敗戦原因を秀吉の指揮能力ではなく、大軍ゆえに一枚岩ではなかったとか
徳川軍は結束していたとか他に押し付けようとする秀吉厨はガチで馬鹿だな 家康が秀吉方の中入りの動きを察知して動き出したのは4月7日の夜になってから。
それに対し、秀吉は家康の動きを4月8日の午前には既に察知していた。
しかし即座に兵を起こさず、秀次・堀・長谷川・木下兄弟・森・池田親子の敗北を知ってから動き出したために大敗した。
谷口央氏
「小牧長久手の戦いから見た大規模戦争の創出」
秀吉は、小牧長久手敗戦当日となる九日に「小牧出候人数小幡へうつり候者、得其意候椰」;長久手町史106号
と柏井にいる一柳に伝えている
このことから、家康自らか、もしくはその一部の部隊の小幡方面への進軍を把握していたことがわかる
しかし秀吉は、このときすぐに進軍せず、長久手での敗報を受けた後、竜泉寺を経て長久手まで進軍した。
しかし家康が小牧に戻ったことを知り、楽田もしくは犬山に引き返した。 訂正
家康が秀吉方の中入りの動きを察知して動き出したのは4月8日の夜になってから。
しかし動き出したタイミングが遅かったため一度は岩崎城を秀次軍に落とされて、出し抜かれた形になっている
それに対し、秀吉は家康の動きを4月9日の午前には既に察知していた。
しかし即座に兵を起こさず、秀次・堀・長谷川・木下兄弟・森・池田親子の敗北を知ってから動き出したために大敗した。
谷口央氏
「小牧長久手の戦いから見た大規模戦争の創出」
秀吉は、小牧長久手敗戦当日となる九日に「小牧出候人数小幡へうつり候者、得其意候椰」;長久手町史106号
と柏井にいる一柳に伝えている
このことから、家康自らか、もしくはその一部の部隊の小幡方面への進軍を把握していたことがわかる
しかし秀吉は、このときすぐに進軍せず、長久手での敗報を受けた後、竜泉寺を経て長久手まで進軍した。
しかし家康が小牧に戻ったことを知り、楽田もしくは犬山に引き返した。 >>740
指揮系統がバラバラというか作戦そのものがバラバラで一貫性がない
岡崎への奇襲の隠密なのに途中で岩崎城を攻めている
家康が出てきて回りこんできた時点でどうして秀吉は家康の後ろに回り挟みこんで攻撃をしなかったのか?
元々はそういう作戦だったのに秀吉側はどうしてすぐに動かなかったのか?
秀次もどうして徳川の動きに気がつかなかったのか?
秀次も軍監の堀も逃げてどうやって軍の指揮が取れるのか?
堀は逃げずにせめて秀吉と池田森との使い番(伝令)に徹するべきではなかったのか?
伝令なくして指揮なんか取れないし、さらにこの奇襲部隊の大将の秀次はいない
などなど作戦全体がちぐはぐで指揮系統以前の問題だと思える
森長可も秀吉を信用しているのに将も軍監の堀もいない
悪いのは秀吉が構築した戦時中の指揮系統で何の役にも立たなかった
それは機能しないどころか、冷静な判断を失わさせて森長可の命を奪った >>750
>岡崎への奇襲の隠密なのに途中で岩崎城を攻めている
4/8秀吉→丹羽長秀
池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかる
4/6に派遣して4/9に白山林で会戦。敵地のど真ん中で無謀ののろのろ行軍させた秀吉の完敗
また柏井にいる一柳などと緊密に連絡を取っている事から、この軍事行動自体秀吉が全面的に行動に移している証左といえる
秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
柏井にいる一柳宛書状に『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから
一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる
しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。 秀吉が短期戦構想で決戦を挑んでいるのは
3月13日の丹羽宛書状「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や
3日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」 「天下の弓膳一大事である」
佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
4/8の丹羽長秀宛書状などでも明らかなんだが。
白峰旬 小牧長久手の戦いに関する時系列データベース より
P43 時系列DBによれば、長久手の敗戦以前は、秀雄氏は野戦による短期決戦をもくろんでいた様子がうかがえ、敗戦前日の四月八日の時点では丹羽長秀に対して、池田恒興などの兵力を三河へ発向させる予定である旨を報じているので
三河への攻撃は単なる陽動作戦ではなく、短期決戦を目指した本格的な軍事作戦であった事がわかる。
その証左として、その後も秀吉は家康の本国である三河・遠江への総攻撃を志向している。
長久手の敗戦後、秀吉は長期戦を予想し、本営の防備強化という意味を含めて楽田城の本格的普請に着手した
P49 秀吉は当初短期決戦を目指して家康の本国である三河攻撃を企図したが主力部隊が長久手の敗戦で壊滅したため
五月上旬には岐阜まで退却し
来秋(太陰暦なので7〜8月)に軍事行動を行う予定であった。 >家康が出てきて回りこんできた時点でどうして秀吉は家康の後ろに回り挟みこんで攻撃をしなかったのか?
>元々はそういう作戦だったのに秀吉側はどうしてすぐに動かなかったのか?
秀吉の判断が稚拙すぎただけでしょ
家康が秀吉方の中入りの動きを察知して動き出したのは4月8日の夜になってから。
しかし動き出したタイミングが遅かったため一度は岩崎城を秀次軍に落とされて、出し抜かれた形になっている
それに対し、秀吉は家康の動きを4月9日の午前には既に察知していた。
しかし即座に兵を起こさず、秀次・堀・長谷川・木下兄弟・森・池田親子の敗北を知ってから動き出したために大敗した。
谷口央氏
「小牧長久手の戦いから見た大規模戦争の創出」
秀吉は、小牧長久手敗戦当日となる九日に「小牧出候人数小幡へうつり候者、得其意候椰」;長久手町史106号
と柏井にいる一柳に伝えている
このことから、家康自らか、もしくはその一部の部隊の小幡方面への進軍を把握していたことがわかる
しかし秀吉は、このときすぐに進軍せず、長久手での敗報を受けた後、竜泉寺を経て長久手まで進軍した。
しかし家康が小牧に戻ったことを知り、楽田もしくは犬山に引き返した。
>秀次もどうして徳川の動きに気がつかなかったのか?
気づいていたけど背後を取られていてすぐに対応できなかった可能性もある 小牧長久手の戦いは3月13日の丹羽宛書状で「半月程度で決着つけてやる」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するがこの目的も『必家康後巻可仕儀にて候間』
(毛利輝元宛書状)『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している 長久手の戦いの敗因
1 秀吉軍は斥候が役立たず、もしくは出していないので状況把握が出来ていない
徳川は斥候が優秀で家康の手足になって状況把握が完ぺきだった
2 作戦がでたらめ、挟撃するべきところで軍さえ派遣していない
池田と森に待機命令すら出さない 援軍の要請を無視して秀次と堀は逃げた
その一万軍の逃亡の事さえ池田と森には連絡を出していない
3 家康を落とすためにすぐに池田と森は不利な条件を知りつつ攻撃してしまった
ここは家康が逃げないように包囲網を張り、堀のいた地点に兵を秀吉が増強し
家康を逃さないように包囲網を組むべきだった
すると不利になるのは家康の方で秀吉が望んだ短期決戦になるはずだった
4 ビビり過ぎの秀吉が軍を出すのをためらったのが間違いの元
さらに秀次の8000もの大軍がろくに戦いもせずに逃げたことで兵数に大きな差が出た
堀3000も逃げなければ兵数は1万1000ある
この二つの主力が逃げたために池田と森は勝ち戦を逃した
5 軍監の堀が逃げたために全体的な作戦が構築できずに9000の池田と森は倍の数の家康軍を不利な状況下で攻めてしまった
池田と森は少し様子を見るべきだった
それ以前に秀次と堀は一万の軍は全て逃げており反対側には存在しない事を森と池田に連絡すべきだった
一番悪いのは秀吉と秀次と堀
勝ち戦になるところを家康の奇襲によりビビり逃げてしまった
冷静になれば池田と森と連絡を取り合い、包囲網を取るべきだというのがわかるはずなのに
それを検討することもなく逃げさってしまった
秀次8000と堀3000は池田6000と森3000よりも多い数
この秀次と堀の1万1000が負けて勝手に自軍陣地に逃げたことが池田と森の敗因になったのは明白である
繰り返すけど秀吉が救援を出さなかったのが致命傷だった
秀次と堀には戦での指揮能力はないのだから1万の兵を森と池田に委託していれば戦は互角だった
池田は羽黒の戦いで森に援軍を出さなかったことを後悔している
だから今回はまだ秀次と堀の1万の兵が生きていると勘違いして挟撃しようと堀に使者を出して
よく確認もせずに攻撃を開始した 家康を逃さないために慌てて攻撃したのはミスだった
実際に森と池田は二倍の数の家康軍と戦う羽目になる
運が悪いことも影響しているだが、全体の作戦を指揮した秀吉と秀次の責任は大きいと思われる >秀吉軍は斥候が役立たず、もしくは出していないので状況把握が出来ていない
秀吉のキチンと状況把握はしていたが、戦術レベルでの判断がクソだったので負けただけ。
谷口央氏 「小牧長久手の戦いから見た大規模戦争の創出」
秀吉は、小牧長久手敗戦当日となる九日に「小牧出候人数小幡へうつり候者、得其意候椰」;長久手町史106号
と柏井にいる一柳に伝えている
このことから、家康自らか、もしくはその一部の部隊の小幡方面への進軍を把握していたことがわかる
しかし秀吉は、このときすぐに進軍せず、長久手での敗報を受けた後、竜泉寺を経て長久手まで進軍した。
しかし家康が小牧に戻ったことを知り、楽田もしくは犬山に引き返した。
また秀吉は柏井にいる一柳などと緊密に連絡を取っていて、状況はある程度は把握していたと思われる
>徳川は斥候が優秀で家康の手足になって状況把握が完ぺきだった
秀吉の別働隊が中入りに出発したのは4/6で家康がその動きをやっと把握したのは4/8の夜になってから。
全く状況把握が完璧とはいえない。
>池田と森に待機命令すら出さない
待機命令もクソも、秀吉の命令そのものが4/8秀吉→丹羽長秀
池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせている
と三河方面への大々的な正面からの決戦行軍なんだから最初から待機させることなんて秀吉の頭にはない
援軍の要請を無視して
>秀次と堀は逃げた
そりゃ秀吉の馬鹿な中入り襲撃作戦のために背後から奇襲されて、秀次につけられてた木下兄弟があっという間に戦死するほどだったんだから逃げるしかないでしょ
そもそも敵地のど真ん中で無謀ののろのろ行軍させるなんて軍事原則から言って馬鹿としかいいようがないんだが
これを正面から大々的に行ったのが秀吉だよ
>家康を落とすためにすぐに池田と森は不利な条件を知りつつ攻撃してしまった
池田と森は、白山林、檜が根と池田からみて退路にあたる部分を家康方にすべて抑えられていて、退却しようにもできなかっただけでしょ。
池田と森は岩崎城を落としてさらに岡崎方面へ行動したところ、思いがけない状況になり勝利を失ったと書いていて(愛知県史405号406号)
また秀吉軍は背後から襲われた事も407号の書状に書いている
秀次隊が襲撃されたのは白山林であり
掘隊は檜が根 そして池田らは岩崎城を落としてさらに南方へ進軍中だったと秀吉の書状に書かれてるため
相当縦長の布陣だったと考えられる
>ここは家康が逃げないように包囲網を張り、堀のいた地点に兵を秀吉が増強し
秀次隊が白山林で敗北してのち、堀隊は至近距離にいたし池田隊ははるかに離れた南方へ行軍中だったから包囲網を張るなんて無理でしょ
というか、秀吉の書状にも4/8秀吉→丹羽長秀
池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかるし
包囲網を敷いて家康を弱らせる事なんて最初から秀吉の頭にはないよ。
三河方面へ陸海両方面から総攻撃かけるのが秀吉の戦略
>すると不利になるのは家康の方で秀吉が望んだ短期決戦になるはずだった
まず秀次隊が襲撃された時点でそんな作戦はまず成り立たないでしょ。
堀隊と池田隊の間は離れてるし秀吉は最初から城にこもって包囲網貼らせる戦術なんて全く想定してなくて
陸海両方面から一気に攻撃する事しか考えてないし
>秀次の8000もの大軍がろくに戦いもせずに逃げたことで兵数に大きな差が出た
背後を襲撃されたんだからまともに抗戦するなんて無理でしょ
でもなぜ背後を襲撃されたかといえば4/8の丹羽宛書状にあるような、秀吉の命令の堂々とした隠密とは程遠い行軍が原因なわけで。
>9000の池田と森は倍の数の家康軍を不利な状況下で攻めてしまった
池田や森からすれば家康と戦わずに敗走したとあれば、武士の面目の面でも、退路塞がれた状況での退却の困難さもあって
戦わざるを得なかったというのが実際のところじゃね。
>池田と森は少し様子を見るべき
様子を見ても家康が襲い掛かってくるだけでしょ >秀次と堀は一万の軍は全て逃げており反対側には存在しない事を森と池田に連絡すべきだった
連絡してるかもしれないし、連絡しようにもできなかっただけかもしれないし、連絡したところで退却が容易になるわけでもないし同じ事だと思うがね
>池田と森と連絡を取り合い、包囲網を取るべき
実際には連絡したかもしれないし、連絡しようにもできなかっただけかもしれないし連絡しても同じ結果になったと思うがね
そもそも包囲網を取るなんて最初から秀吉の頭にはない命令にない戦略だし
>池田は羽黒の戦いで森に援軍を出さなかったことを後悔している
そんな文書あったっけ?講談類にしかないような話だと思うが
>だから今回はまだ秀次と堀の1万の兵が生きていると勘違いして挟撃しようと堀に使者を出して
それは一次資料類にはない講談や俗説の部類じゃん
>よく確認もせずに攻撃を開始した
確認もクソも退却方向に家康が陣取ってるんだから戦うしかないじゃん
>家康を逃さないために慌てて攻撃したのはミスだった
家康が眼前にいるのに戦わずに退却したり城に引きこもるとか秀吉からの命令違反だし
武士の面目丸つぶれでしょ
それに退却方向に家康がいるからどのみち交戦は避けられないし
>運が悪い
運はかなり良かったと思うがね
あれだけ無謀な敵地の隠密とは程遠い行軍をさせておきながら家康には4/8夜まで悟られなかったようだし
秀吉は4/9の柏井への一柳宛書状から家康の動きをしっかり把握できたようだし >>758
こいつ何なの?
そもそも菅沼遼太って誰なんだよ
うざ 川上稔?とか森長可を小バカにしているアホにはぜひ死んでほしいね 戦いに生き戦いに死んだ戦国武将の森長可を悪く言うのなら
もう今後一切戦国武将について語るな
戦国武将で稼いだ金を全部返せ!って感じだな 性格がDQNなだけで戦では十分な器量と武勇があったんだろうな
平時は絶対に遭遇したくないけど 関所の件だと例え若くても長可は数々の武功を上げている5万石から20万石の大名
その大名にケンカを売ったのだから、切り捨てられても仕方ない
温厚な家康や徳川四天王でも関所の門番に重要な戦で急いでいる時に馬を下りろと言われたら切るはず
徳川時代でさえ大名行列を横断しただけでも切り捨てありの時代だから
当時の感覚は現代とは大きく違う 長久手の戦いは家康の作戦勝ち
伊賀の忍者などの斥候を利用した完全な戦場把握
長篠の戦いで信長から見て盗んだ馬防柵(簡易馬防柵)と三段撃ちの銃の戦法
秀次側は縦に長く伸び切った隊列だったので襲われても援軍が来ず
近くの堀がようやく気がつく有様でわずか200の徳川軍を削るのが精いっぱいで
みすみす一万の軍を飛散させ逃亡させた
おかげで森と池田は退路に罠を敷いた1万以上の徳川軍と戦う羽目になった 秀吉の別働隊が中入りに出発したのは4/6で家康がその動きをやっと把握したのは4/8の夜になってから。
全く状況把握が完璧とはいえない。 家康が馬防柵を作ったとか三弾うちとかとんでも講談だな 敵地のど真ん中で放火や築城や城攻めを行いながら隠密とは程遠い行軍させた秀吉の戦闘センスがなさすぎる
4/8秀吉→丹羽長秀
池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかる
4/6に派遣して4/9に白山林で会戦。敵地のど真ん中で無謀ののろのろ行軍させた秀吉の完敗 >>767
うぜーよ、知ったかの誹謗中傷の犯罪者が
てめーは二度と人に話しかけんな
馬防柵なんて縄と竹があればすぐにできるだろうが。
しかも長久手は湿地帯で簡単に地面に竹は突き刺さる
竹なんてナタで近くの竹林を切って来れば終わりだ
農家には竹を備蓄しているところもあるからそれを利用すれば一時間もかからない 小牧長久手の戦いで信雄と家康が馬防柵作ったとか長久手が湿地帯とか完全な妄想講談にしかないハッタリ逸話じゃん
江戸中期以降の軍記くらいにしかそんな記述ないし 馬防柵なんて家康が作ってるわけねーだろバーカ
池田隊や森隊や秀次隊や堀・長谷川隊と、どこで交戦するかなんて家康は全く想定できるわけないし
そもそも相手方部隊の移動中を狙って突発的に襲撃しただけの戦だし
あらかじめどこどこでどんな戦争が起こるかなんて相手の行動や反応がわからんのだから予測できるわけねぇっつの。 >>770
いやそもそも軍記や講談にすらそんな記述はない >>771
バカはお前だろ
秀次隊の場合には徳川の奇襲だから、馬防柵なんて必要ない
堀も結局は本体とは戦わずに逃げている
池田と森に関していえば退路や低い位置、そして丘の上にある本陣の周りに敷くに決まっているだろうが
そしてそこに鉄砲隊があったんだよ
つうか、鉄砲隊があるのに馬防柵がないなんてどんだけバカなんだ?
そんな事を言うのはお前くらいだろ 堀は榊原と交戦してるし池田や森は徳川軍が襲撃してきたから本陣の周りに池田隊や森隊が馬防柵を作ってないとおかしいよ
それに徳川軍からすれば秀次隊や堀隊と交戦してからすぐに池田隊と交戦したから馬防柵作るなんて無理だし
馬防柵は作るのに一定時間かかるからな
長篠の時も馬防柵を信長が作ったのは、事前の準備があったからだが
家康が木を切り倒して柵を組ませてる記述なんてどんな史料にも出てきてないし妄想としかいえないだろアホ
鉄砲隊とかどこの部隊だろうがあるだろ。
どんな部隊でも鉄砲隊くらい持ってるからすべての部隊で馬防柵を作ってないとおかしい事になるわな
ルイスフロイス「日本史」
三河の国主は夜に入ってからその小牧山を出て、天明を待って秀吉の甥の秀次の陣地を襲撃した。
なんの苦労もなしに彼らを潰走させることができた。
彼はこれらの敵を潰走させるとすかさず離れていた他の敵兵を襲撃した。
9時にきわめて激しい戦争が展開され双方の陣営ではおびただしい戦死者を出した。
当代記
家康公先勢秀次併堀久太郎人数を追い崩し数多討ち捕り池田これを聞き、出向の間、右の衆退散、
家康公押出で、直に合戦、
4/11 秀吉→長船・富岡(宇喜多家臣)
敵夜中人数くり候て、彼後切懸及一戦 >>774
>池田と森に関していえば退路や低い位置、そして丘の上にある本陣の周りに敷くに決まっているだろうが
>そしてそこに鉄砲隊があったんだよ
同時代史料でソース出してね
ついでに鉄砲隊なんてどんな部隊でも存在するからお前のアホ理屈だとすべての部隊に鉄砲隊が存在しないといけなくなるな このスレで流される秀吉厨の馬鹿妄想
・徳川軍は馬防柵を作り、池田や森がそこに襲い掛かった→史料にない秀吉厨のアホ妄想。
当代記やフロイスの日本史や秀吉の長船・富岡宛書状によれば、襲い掛かったのは徳川軍の方
・長久手は湿地帯→根拠0の秀吉厨の妄想。現代の長久手に湿地帯はないし、戦国期から江戸期では地勢が大きく変遷してるので、江戸期の史料(しかも講談類)に書かれようと
戦国期の地勢の証明にはならない >>777
アホやろ、こいつw
戦国期の地形は今でも残っている事を知らんらしいw 現代の長久手古戦場は湿地帯とは程遠い普通の住宅街
戦国期の地勢が現代に残ってたとしたら、当時の長久手はただの平野部、乾燥地帯 天正大地震が起きて尾張の地勢なんて変わりまくったし河川の流域も変遷しまくったんだから当時の地勢なんてわからんわな
ましてや天正大地震以降もそれなりの規模の地震は何度も起きてるし
そもそも長久手合戦の場所自体が長久手市の中のどこなのかはっきりよくわからんし
瀬戸よりか尾張旭よりか名古屋より日進よりかでも大分地勢も変わるだろうし 4/11 秀吉→長船・富岡(宇喜多家臣) では敵が夜中に城を出て、別働隊の背後を襲撃して一戦に及んだと書いてるし
4/12 松井康之(細川家臣)→千紹安書状 では、家康が夜に小牧山を出て、
池紀・森小蔵・羽左・三好孫・木下助左(祐久)・同勘解由の部隊に切り懸けて一戦に至ったと書いてるし
当代記の原文
家康公合戦これあるべくにて、六七八三日相続、小幡筋へ打ち出られといえども
敵見ず、、九日にまたうち出でられるところに、敵先勢池田庄入岩崎の城を攻め崩され
軍兵数多討ち取り、家康公先勢秀次併堀久太郎人数を追い崩し、数多討ち取り、池田これを聞き出向の間、右の衆退散
家康公押しいで、直に合戦、庄入併武蔵守討死之間、士卒令敗北、二万余討取、秀吉公聞給則出馬、
家康の先手が秀次や堀を襲撃して、これを追い崩してたくさん討取り、池田がこれを聞いて出向したら、家康先手衆は退散し
家康がじかに押し出てじかに合戦して大勝したと書いてるじゃん
家康が押し出てるって事は家康が池田を襲撃してるんだろ。
当代記に家康公押出で、直に合戦と家康が押し出てじかに合戦をしたと書いてるし
ルイスフロイス「日本史」には 三河の国主は夜に入ってからその小牧山を出て、天明を待って秀吉の甥の秀次の陣地を襲撃した。
なんの苦労もなしに彼らを潰走させることができた。
彼はこれらの敵を潰走させるとすかさず離れていた他の敵兵を襲撃した。
と徳川軍が敵軍を次々に襲撃したと書いてるじゃねぇか。 >>790
>天正大地震が起きて尾張の地勢なんて変わりまくったし河川の流域も変遷しまくったんだから当時の地勢なんてわからんわな
ましてや天正大地震以降もそれなりの規模の地震は何度も起きてるし
>そもそも長久手合戦の場所自体が長久手市の中のどこなのかはっきりよくわからんし
いいや、大まかな事はわかっているぞ
それも知らないで投稿をしていたのか? >>783
戦国期に当時の地勢が書かれた同時代史料なんてないよ
江戸中期くらいに書かれた、江戸期の尾張の地誌ならあるけど
小牧長久手合戦にしても、一次資料類だと岩崎口の合戦としか書かれてないし
長久手という地名自体誰も書いてないから、長久手であったのか、日清であったのかよくわからんし
長久手という地名自体存在しなかった可能性高いし >>784
現地にはきちんとした史跡があるので訪れてみてはどうだろうか? >>785
長久手市の史跡に行って尋ねてみても当時の地勢が書かれた史料なんて置かれてません 家康が本陣をはった御旗山(小さな丘みたいな山)もないの?
ブルトーザーでだいぶん削られているみたいだけど
池田と森の墓もあったと思うんだけどそれもないとでもいいたいの? 家康が御旗山に本陣張ったなんて軍記にすらないハッタリ逸話じゃん 一次資料見る限り小牧長久手の戦いの戦場は岩崎口だから岩崎方面
岩崎方面に山なんてないし普通に平野部の白兵戦 じゃあ、長久手市役所郷土資料室やら史跡管理している人間にそういえばいいだろ?
俺はお前なんかより、長久手の先祖や長久手の戦いの生き残り言い伝えをそのまま残して史跡を作った
長久手市役所やら地元の人々の方が正しいと思うがな 長久手市役所郷土資料館においてある史料は長久手町史資料編の収録されてるものがすべてでそれ以外はない。
で、長久手町史資料編の同時代史料はおろか軍記物にすら家康が御旗山に本陣張ったなんて書いてない
秀吉や家康の書状見る限り長久手合戦のあった場所は岩崎口と書かれてるから岩崎近辺で戦ってる 長久手市が発行してる長久手町史資料編に当時の地勢が書かれた史料なんて収録されてないし
江戸中期や後期の地勢が書かれた史料が数点収録されてるだけ。 小牧長久手合戦にしても、一次資料類だと岩崎口の合戦としか書かれてないし
長久手という地名自体誰も書いてないから、長久手であったのか、日進であったのかよくわからんし
長久手という地名自体存在しなかった可能性高い
まして長久手といっても広いから瀬戸方面か尾張旭方面かトヨタ方面か日進方面であったのかもわからんし ルイスフロイス「日本史」などを一次資料と考えている時点でダメだな
時代は同じでも又聞きの又聞き資料は一次資料として二次資料以下になりうることもあり得る
現場で戦に参加した人が作った史跡である一次資料というより二次資料みたいな扱いにする時点で話にならんだろ
桶狭間とは違いどこでどのような戦いが行われたのかわざわざ忘れられないように
史跡作った先人たちに敬意を払わないとは
もしこいつが長久手市役所郷土資料館の職員ならこんなガキは即刻、首にすべきだろ フロイスの日本史は長久手関連の記述は全く参考にはならんが
現場当事者の秀吉や家康の書状で長久手なんて地名出てきてないからな
それどころか年代記や当代記、三河物語など同時代史料の類ですら長久手なんて地名出てきてない
結局長久手合戦は岩崎で戦った戦いでしょ
秀吉も家康も岩崎口の戦いと書状で書いてるし そもそも史跡って後世の人が勝手に作っただけでしょ
史跡に行ってみても当時の長久手の地勢なんてどこにも裏付けの取れる史料なんて置いてないし 史跡は明治時代以降に勝手に作っただけのもの
当然根拠となる史料もすべていい加減 残念だが長久手市の史跡に家康が御旗山に陣張っただの長久手の地勢だの書いてはいない
秀次と徳川勢らが白山林、仏が根などで衝突したというのは書いてるけど 紙の資料よりも史跡の方が捏造しにくい分だけ、特にお墓は信用できるだろう
その当時に作られたものだからな 史跡なんていくらでも後世に勝手に作れるだろ
そもそも長久手市の史跡に家康が御旗山に陣張っただの長久手の地勢だの書いてはいない
秀次と徳川勢らが白山林、仏が根などで衝突したというのは書いてるけど 神の史料は基本的に花押がきっちり書かれてるし捏造は不可能
そもそも長久手の地勢なんて捏造しても特段メリットはない 史跡は明治時代以降に勝手に作っただけのもの
当然根拠となる史料もすべていい加減 至極まっとうな意見しかこのスレには書かれてないじゃん まあ、鬼とか言っても信ヤボでも統率62、武力79程度
おまけに知力低いから、すぐに策略に引っかかるしw ゲーム脳と呼ばれる池沼ってたまにいるよな
そんなアホな奴に語られる長可もまた不運だな 二十代で20万石の領地を得た長可
信長の二十代家臣では最速の出世頭
それだけに嫉妬の対象となりやすい 弟の蘭丸も17〜8才で五万石
これが枕営業というやつか… 当時の織田家臣団の中で、明智・羽柴みたいな佐久間・林コースの人達は除いて、
森家より石高が高いのはどこ? 柴田勝家80万石、羽柴秀吉60万石 滝川一益40万石 明智光秀50万石
これら家臣団の石高が多い
次に同じくらいの20万石高は
河尻秀隆、前田利家、佐々成政などほとんどが40代以上の家臣。
その中で森長可だけが織田信忠や織田信雄を除いて二十代で突出していた。
信長の子でも働きの悪いものは森長可以下の石高しかない。
丹羽長秀 13万石 池田恒興 10万石など既に織田の有名な家臣の石高も抜いていたからかなり目立っていた。
だから信長家臣団の中でもかなり特別扱いだよ。 本能寺の変がなければ間違いなく次世代代のトップ
本能寺の変で織田信忠だけでも生きていれば
織田信忠のよき理解者として、右腕として、活躍は間違いなかったんだけど残念だね 上杉攻めの搦手の長可と四国攻めの搦手の池田之助が信忠のツートップかな 森長可といえば、娘に関する遺言を託した友人・尾藤知宣の末路が哀しい 信長限定で限れば可成は柴田以前の最古の将だから意外とあり
1000しか兵がいなかった初めの時期の信長には森一族の多くの将兵が加勢していた
ただその中心となる父の森可成は早くに死んでいる 信長の初期にいたのは信長の親族と森と佐久間くらいで前田利家は追い出されている
木下藤吉郎も明智も滝川も柴田もいなかった
でも柴田は信長と森に敗北してすぐに信長の家臣になる
信長にとってはまず第一に思い浮かぶのが親族以外では森一族と佐久間
他の森家に関しては意外と数が多いので略 >>822
違う
森可成が信長に仕えたのは、美濃土岐氏の滅亡後の1554年あたり
信長20歳の頃だ
後の中堅クラスの部将となる池田恒興、前田利家、河尻秀隆、金森長近、中川重政らは
すでに信長に仕えていたし、家老として林秀貞、平手政秀もいた
恐らく塙直政も、森可成より前に旗本として仕えていたと考えられる
柴田勝家が、信長の周囲におらず、敗北してから家臣になったというのも間違い
信秀の侍大将だった勝家は、嫡男である信長とともに働いており、信長の弟・信行の家老
になるのは、信秀の死後に信行の後見を信長に命じられてからだ もっと内情は複雑
そもそも信長の父信秀と森可成の父可行の交流から両家の関係は生まれてきた
そして信長に仕える前から森可成は既に優れた腕前を持つ将として評判だった
その森親子と戦いを通じて信秀は自軍に引き入れたいと考えた
まずは信秀が森可成の父と可成を呼び寄せて、信秀の死後に可成は信長を選んだ
待遇も初めから将扱い 信長の快進撃は森可成と組んだ時から始まっている
前田利家はその時はまだ小姓上がりだし
信長が独立してまず最初に頼ったのは親族と森可成くらい
信長が柴田と信行に勝てたのも。森可成の存在が大きい
それに柴田勝家が信長の家臣になったのは敗北してから
それまでは敵同士で弟信行とはいえ殺し合いをやってきたわけだし
柴田勝家も信長の家臣をこの時の戦さで殺していたと思うが? 信長は森家の人間を可愛がり過ぎ。
って、戦国時代板ではよく言われるけど、信長の生涯を振り返ってみると、当然だったんだな。 信長と共に歩んだ森家は信長と森蘭丸三兄弟の死により大きなダメージを負った
この長可も蘭丸と共に信長と信忠に人生のすべてをささげたと言って過言ではない
せめて信忠か蘭丸が生きていれば長可も正気を保てただろうにこの身内同然の信忠や兄弟の死が精神的に長可を追い詰め、最終的に死に至らしめたと考えるのが妥当 森長可の居城の金山城の目と鼻の先の明智城が勝頼に攻め落とされるのを
ビビって息を潜めて目を逸らしていたヘタレ長可www
その後は北信濃から逃亡してきたり、家康にフルボッコされて討ち死にwww
所詮、織田軍なんて屑屁たれ武将ぞろいwww 屁をたれるくらいまだいいだろ。
世の中には糞までたれたのもいるらしい。 >>832
明智城?勝頼?
お前の知識は妄想SF漫画からきているものだろうw
アホにもほどがある
家康も長可は認めており
銃でようやく撃ち殺せただけだ 世の中には兼山の目と鼻の先にある明智城と
目と鼻の先にない明知城がある。 センゴクに今出演中だがageてるようでsageてるような描写 信忠と共に長可は武田にとどめを刺しているから、武田シンパからはあらぬ誹謗中傷を受けがち 信忠さえ生きていれば長可はなんとかなったな
信長そして蘭丸三兄弟
そして殿であり盟友とも言えるべき信忠さえも失ったから、長可も少しおかしくなった おかしくなったって運命的な意味でか
性格的には最初からおかしかったよーなとか考えてしまったわ その性格とやらは講談類にしか書かれていない事だがな 森の書状見る限り上昇志向が全くなく、むしろ保守的な性格だったことが読み取れ
このスレのバカが書いてるような性格と真逆だったことがわかるからな 本当にただのDQNだったら、信長から相手にされるはずないわな。 「荒事や騙し討ちを躊躇わない」って戦国武将の標準でしかないからな そもそもセンゴクにはかっこいい武将が居ないからあんなもんじゃね センゴク読んだことないけど、小牧長久手以外にも鬼武蔵・蘭丸等の
森家の人たちは登場するの? >>852
センゴクは信長を筆頭に山県とか馬場とか
最近だと堀Qとか池田とかカッコいい武将が目白押しだぞ
鬼武蔵はダサかったけど センゴクの作者も2chなみ
史料を読んでいるようで読んでいない
好き嫌いが激しいな
千石と言えば長良川の戦いで千石又一が信長を殺そうとしている
17500の大軍の義龍軍に対し道三は3000にも満たずにやられる
17500の大軍の義龍軍は次は援軍に来た信長に襲い掛かり森可成は奮戦して信長を助け逃がした
但し千石又一により負傷した
森の評価はいつも著しく低いが、本当はかなり活躍している このセンゴクの作者は森一族が信長にとってかなり重要な存在であるのがわかっていないらしい
千石とも十分につながりがあるのだが、その認識も薄いのでは?
漫画は読んでいないけど、wikiみてそう思う。
武田家を滅ぼしたのも森長可で20代で二十万石は評価がかなり高い
戦国最後の大トリを務めたのも本当は森
でも同時に悲劇の主人公だったりする
センゴクの作者くらいの認識だとわかんないかもしれないけど
強いけどいつも誤解されて悲運で死んでしまったのが森
悲運の対象として戦国武将からみなされていた
それを現代人の著名人が現代の感覚そして少ない知識量で物事を判断し
または捏造して森の矮小化が進んでいると思う 「Fate/Koha−Ace 帝都聖杯奇譚」に登場、おめでとうございます。
「よっし。じゃ兵士は10点、女子供は3点、サーヴァントは100点でどうよ? マスター!!」
>神秘の秘匿どころか、見境なしに嬉々としてDAIGYAKUSATU。
「まぁおちつけよマスター。オレは主君殺しとかヒデェコトはしねえから」
>令呪ごとマスターの片腕を握りつぶしながらの発言。
「ここから出すな!!」
「絶対に止めろ!!」
基地の外に出たら女子供まで得点換算なので、橋番ならぬ門番の如く扉の前に集まった兵士達は…。
会話する知能のあるバーサーカーなんて、まんま鬼武蔵。 森長可は信長や信忠、そして蘭丸さえ生きていれば
歴史に名を残す名大名になっていたと思うのだが 森長可は若くて強くて有名だったのだが
最近は悪く言われ過ぎ
実際には家康もその強さを認めていた武将だったのだが >>862
> 最近は悪く言われ過ぎ
悪くは言われてないだろ。どっちかといえばスゲエって感じじゃない? 「名城をゆく」で森一族が「プライベート・ライアン」に例えられてるな そうだね、それが戦国時代の宿命
織田一族も当然たくさん死んでいる
それだけ森一族家と織田一族は前線で戦っていた証明だ
蘭丸ら三兄弟は兄が戦場で常に命をとして戦っている代わりに
安全な場所で信長に仕えていたはずだった その他の大名の家臣になるともっっと死んでいる
森一族は早くから信長を支え共に戦い数多くの戦場に出ていたのでそれだけ死者も多い
それゆえに殺した数もかなり多い
信長が天下を取る要因ともなった、特に森は信長の軍勢が1000にも満たない時の主力
信長が天下を取る直前までいったのはこうした縁の下の力持ちの森や柴田や佐久間や藤吉郎や利家や丹羽や滝川など優秀な家臣がいたから 甲州征伐で武田家を滅ぼすときに
主力となったのが若い信忠と長可
本能寺の変がなければこの二人は戦国最強のコンビになっていたはず 信長の勢力拡張自体がほとんど畿内の有力諸侯の相次ぐ死亡や
尾張のチート国力や足利義明のお膳立てによるものだし
実力とは関係ないからね。
美濃なんて井口を取れば一国平定できると書いてるくらいのコンビニ国だし。 信長があれほど簡単に畿内での支配が可能になったのは
1561年に 十河一存 斉藤義龍
1562年 三好義賢
1563年 細川晴元 細川氏綱 三好義興
1564年 安宅冬康 三好長慶
と相次いで主要人物が死んでいき畿内は空白地と化したからでしょ。
特に父祖に劣らず器量に勝りて一度は天下の乱をも相鎮めた人なりと
賞賛された長慶嫡男三好義興が22歳で死去したので長慶がボケ老人になったのが痛かったな。
この畠山高政と六角義賢の挟撃策に三好義興が芥川城で指揮して勝利したことで事実上、
畠山氏と六角氏が決定的に衰退することになり果て将軍を巡るシーソーゲームに終止符が打たれた。
そして三好は分裂崩壊し、大仏を燃やした天皇は激怒し疲弊しきった勢力群の外側にいる信長に上洛を促すことになる。 いやいや、信長は初めは800程度からのスタート
尾張どころか受け継いだ領地を巡っての弟との戦いから始まっている
それに以前にも多数の戦いを森一族と共に経験している
尾張統一までにもかなりの戦をこなしている
生涯にわたり最低でも60以上、小さいのを合わせるとおそらく百以上
信長は早くから鉄砲を取り入れ森も戦にもうまく活用していた
決して運だけではないぞ 信長がチートスタートなのははっきりしてるだろ。
そもそも信長が大名への返礼で虎や豹の皮や絹織物と言った唐国からの輸入物ばっかり贈ってる時点で経済的屈強さを物語ってる。
今川戦にしたって天文23年には信長は斎藤軍の援軍をもらい、知多半島の尾三国境にある村木城を奪い、
お隣の刈谷城の水野の安全保障を示すことで知多半島戦線を優位に進めてる。
つか発生年代からして超デタラメな桶狭間の戦いって捏造軍記だろ。
後世に作りだされた写し以外の原本確認できる一次史料からわかるのは義元が不慮になったと書いてあって、
思いがけない突然死があったと書いてるだけで、ムリくり桶狭間の戦いと結びつけているだけだし。
そもそも米による収入以外に商業による上りと税関収入がある。
信長の祖父の信貞が勢力を拡大させたのは木曽川と伊勢の通商路の津島社とその門前町と港を支配できたから。
そして信秀も熱田社とその門前町と港を支配し伊勢と知多半島に渡る商業圏を手に入れたから。
祖父や父によって二大商業圏を手に入れていたことで織田は抜きん出た国力を持つ強国を成立させていた。
それは朝廷への圧倒的献金額でもはっきりしている。
博多を押さえさらに中国との貿易をしていた大内ですらカスレベル。 信長ほどヌルゲーな大名はいないからな。
斉藤…道三・義龍・龍興と三代続けての内紛と幼君で混乱しクーデター騒ぎで弱体化しきったまともに抗戦するものもなく勝手に自落
伊勢… 木造・長野・神戸・関・北畠など完全に内紛で分裂、自壊
今川…たまたまおきた遠州騒乱と松平独立で極度に弱体化
六角… 観音寺騒動と対浅井の敗戦で極度に弱体化、信長の斉藤攻めや上洛戦では信長に大いに協力
足利将軍家… 三好や松永らの反逆で権威が落ちきり形骸と化し信長に助けを求める
播磨但馬丹波…守護の赤松・小寺・別所など衰退した弱小勢力しかいない
摂津… 石高がわずか12万石しかない
浅井…もともとは織田方で上洛戦や斉藤攻略などで信長を大いに助ける。石高はわずか10万石程度
波多野…石高は10万石以下。
上杉…謙信死後の御館の乱や新発田の乱で自爆崩壊、葦名・伊達も協力して新発田支援
武田…勝頼の失政自爆と外交失敗で自爆、甲江和与反故の騙まし討ちにかかり、防衛体制解除 スレタイ読めないような奴が言ってることなんてまず間違いだろうな 実際に信長の周りには弱体化したり分裂したり幼君だったり当主が死んだりで
ろくな敵がいなかったのは事実でしょ 信長に戦の才能があったし、森一族と生駒一派が非常に協力的なのがよかった
もし戦いの才能がなく鉄砲にも興味を示さなかったのなら
森を含め誰も信長にはついていかなかっただろうし、今川にすぐに占領されていただろうな
実際の信長はかなり年少から戦を繰り返し、鉄砲も早く取り入れて、戦術にも優れていていた
だからこそ森一族は信長ら織田一族と共にあった
運だけじゃないんだよな、運も当然あったけどね
桶狭間の前にはもう武将としての経験は数多く積んでいた
森可成になるともう百戦錬磨の武将
ここの点をもう少し詳しく調べるべきだろうね
桶狭間の戦いなんて運だけで勝てるほど甘くはない戦いだし信長はすごく綿密な戦略を立てている (尾張国)一宮城
信長(勝幡城)の家臣、関氏(清和源氏)が城主。森可成の娘が嫁ぐなど濃尾森家とは
関わりが深い。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E5%AE%AE%E5%9F%8E_(%E5%B0%BE%E5%BC%B5%E5%9B%BD) 木曽川で繋がったんだろうなぁ〜織田一族と森一族や生駒一族は。 ヤフーのトレンドワードで「東MAX 桃食べて死にそうに」ってあったのを見て、このスレ思い出した
忠政もアナフィラキシーショックが命取りだったのかも 長可って用兵というか戦の手並みって具体的にはどうなん?
当人からして猛者も猛者って感じはわかるけど、漠然とではあるけど
猪突傾向の一手の将程度の器量以上ではなさそうな 伊達政宗、細川忠興、島津忠恒は文化人、教養人としても有名だけど
鬼武蔵さんってそのあたりどうだったんだろう 書を好み、能筆であったという。戦場にも常に矢立と紙を携帯しており、何か報告事がある時はそれらを取り出して自ら筆を取った。
と、Wikipediaに書いてあった。 金山の跡目は嫌にて候
岐阜県下呂市金山 41.0℃ 森可成は信長軍がわずか700しかいない時の武将だからな
森可成がいなければ弟の信行との家督争いの戦いで柴田勝家に殺されていた
もう少し評価があってもいい武将 森可成(蘭丸の父)も忘れないでくれ
信長軍わずか700人の時の武将で1700人の弟+猛将柴田勝家から
信長を守った初期信長軍の唯一の猛将
森可成こと「攻めの三左」 通称 三左衛門
美濃国からきた猛将三左衛門を信長は配下にしたことで弟と柴田勝家に勝利できた
なんせ弟と柴田勝家は信長の手の内を全部知っていた
しかしこの新しい信長の家臣の三左衛門の事はよく知らなかった
それで信長は三左衛門の協力の下で柴田勝家を打ち負かした
三左衛門は実際には初期信長においてはなくてはならない存在で
年若い信長の命を何度も救っている
でも今は忘れ去られているんだよな
しかもメチャクチャ悪口言われているし 蘭丸だけ有名だけど森可成や森長可ももう少し知名度上げて欲しいね ガチムチ親父にDQN兄貴じゃ蘭丸の薄幸の美少年イメージを損なう可能性があるからな
本当は乱丸なのもバレちゃう 長可と蘭丸の兄弟不仲説は本当なの?
明智軍記のほかに不仲説が書かれた資料はあるの? >>897
そもそも会うこともそんなになかったんじゃない?
長可は信忠で蘭丸は信長だし 妙向尼が生んだ子供は長可までで、蘭丸以下は側室子で妙向尼と養子縁組した説を聞いたことがある。
妙向尼の年齢と、長可と蘭丸の間は開いてるのに、蘭丸以下兄弟は団子状態なのは生母が違うと考えるのが自然だとか。
戦国時代は側室が生んだ男子は正室の子として育てるのが当たり前だったとも。 >>899
きつのは年子を三人産んだせいで早死したと言われてるしね
森家の団子三兄弟と忠政は母親が違うと思うわ 長可は乱丸の法要を行っているから乱までが同じ腹なんじゃ…
あと信忠と乱丸でみるとあまり仲良さげな感じがないから
そこらで微妙な空気は流れていたかもしれんな 初代の森冠者は落武者刈りで死んでるね。
首は琵琶湖に。
持ってない一族なのかな。 >>1
謀反人で裏切り者の光秀の美化だけが進んで信長を初めから最後まで支えてきた森一族が小馬鹿にされる風潮には異を唱えたい >>907
光秀はテレビや出版界に沢山いるパヨパヨのヒーローだからな
本来の日本人の価値観とは逆を行ってる業界だし >>908
万が「信長を殺した男」とかもあるね
明智の子孫は明智上げのために周囲を全部悪く描写するからね
18歳の蘭丸(お乱)もおっさんになるから
まあ蘭丸は信長と共に光秀を追い込んだ人間にはなるんだろうけどひどすぎ
1万を超える軍勢で100名以下の信長を殺した癖に責任を全部他者に擦り付けるとかマジでありえんわ
信長の森長可や森蘭丸へのえこひいきは全部森三左衛門可成の功績が元であるのに
その事は無視していると思う
また明智光秀の謀反も森三左衛門の功績を知らなかったことに由来していると思う
この部分がクローズアップされると明智光秀の言い分も弱くなり
また明智光秀が悪人になってしまうからね >>909
漫画万が「信長を殺した男」とかもあるね >>909
光秀善人化のためなら何でもやるのがあっちの人たちだからなぁ
被害者アピ、謀反一人でやったんじゃないもん、実は若かった… 次は何がくるのやら >>909
可成の功績知らないとかは無いんじゃないか
明智が織田家臣になった後でしょ可成が亡くなるのは、その後初陣前の長可が家督相続して重用されているから、知っている方が自然
いくらでも話や噂聞けるだろうし、可成が無名ってことも無いだろうから 可成が戦死した頃って信長にとってみれば特にきつい時期だった感じかね >>913
長可が出来る奴だとわかってきた時は信長も色んな意味で嬉しかったでしょうね 可成の子も忠政の子も短命が多くて江戸時代早くに養子と >>908
現在の政治の左右がどっちでも戦国の人物に重ねる頭にはなりたくはない レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。