【権六】柴田勝家 その2
秀吉視点で損してるけど、
十分以上に優秀な家老、軍人、人望
お市がいっしょに死んでくれるほど。
魅力があったんじゃないか。 でも野心丸出しで台頭してきた家康に同盟申し込んだけどナァナァであしらわれたよね。
あの頃の秀吉同様、家康も神掛かってた時期なんだけど(利用できるものは信雄でも利用してたたけど)
同盟して秀吉に対抗できるほどの器量でもないし、たいして利用価値もないと見切られちゃったのが
権六風情の器量をあらわしてるんじゃないの。
信長の下でなら名将といっていい働きをしたけどね。でもそれだけ。 つーかあの当時の家康は、織田家内部の紛争には、局外中立の立場だっただけで。
自分の新領地もまだ不安定なのに、不安定をほっておいて他所に手を広げるような
アホな真似をする家康じゃ無いよ。
勝家の器量と言うより家康の都合だわな。
勝家や佐々や佐久間は乱世には向いてない感じがする
真面目すぎたような
逆に秀吉家康利家などはのし上がる為ならなんでもする
乱世向きの武将
実際のところ、猛将といわれる割に華々しい戦がないし。
どっつかっつーと伊勢撤退戦のときに負傷してやられかけたとか……
有名な甕割りの逸話はもろ創作だし。 わしが権六じゃー。鬼の柴田じゃー。猿ー。お市は貰ったぞー。わはははっー。
猿
小一郎。わしゃー、勝家だけは許せんでよ。お市様はわしのもんじゃで。戦じゃ戦じゃ。
小一郎
兄者。姉様が聞いたらどえりゃことでよ。
猿
いいや、わしゃやるで
、勝家に勝ってゲットするだぎゃ。出陣じゃー。
小一郎はそれ以上何も言えなかった。 >>8
んなこたない。派手な奇策や大逆転といった講談向きの話だけが「軍功」ではない。
きっちりと堅実に戦果を挙げるのも重要な軍功。
常に先陣などの重要な役割を任されて、かつ織田軍は着実に勝利を重ねたのだから、
勝家が優秀な指揮官であったという評価は間違いではない。 >>10
たしかに勝家は有能は有能だろうけど「猛将」と言われるほどの軍事功績があるかと言われると疑問符は付く。
これは福島正則のスレでも似たようなこと書いたことあるけど、少数で多数の軍を猪突猛進で打ち破ったくらいの講談向きな「軍功」がないと「猛将」とは呼びづらい。
勝家には「甕割り」とか「かかれ柴田」などの逸話はあるけど、勝家や福島は軍功そのものよりも本人の剛毅な性格が「猛将」と呼ばれる所以なんじゃないかな。
ただ福島は好きじゃないけど勝家は割りと好きなのは、福島は偉そうな事を言っておいて形としては簒奪者(家康)に擦り寄った印象があるのに対して勝家はあくまで簒奪者(秀吉)に立ち向かったイメージのせいなのかなあ? まあ「猛将」は江戸時代に作られたイメージだろうね。
江戸時代は神君家康↑、相対的に秀吉↓、さらに相対的に勝家↑という構図だしね。 そういえば江戸期の元禄くらいに評価されてた武将と言うのは、明智光秀、柴田勝家、石田三成
だったそうな。
三人とも天下分け目の戦をしたから、だそうな。 勝家が簒奪者に立ち向かったって・・・
各将の思惑はどうあれ、一応形式上は当時織田家の政策決定会議だった清洲会議を反故にしてるし、
信孝より織田家一門の序列が上だった信雄(更に信包)を会議でもろに蔑ろにして自分と親しい信孝を推し、
その後信孝以外の主要な織田家一門衆や織田家の家老や譜代衆、信長側近だった稲葉・細川・蒲生などと敵対。
清洲会議の決定を反故にして三法師を譲り渡さない信孝に肩入れ。
なりふりかまわず織田家と敵対勢力のはずの長宗我部や雑賀衆らと同盟。
どうみても織田家内部の派閥抗争です、ありがとうございました。
勝家がその派閥抗争にもし勝っていたら秀吉同様簒奪者にならなかったという確証がどこにあるのやら。
どうみても勝家も野望を持ってあの派閥抗争に臨んでいったようにしか見えん。 >>15
あくまでイメージな。それは福島も同じだけど。 >>15
だから勝家も秀吉同様織田家の存続よりも
自分の領地と影響力の拡大と派閥闘争にあけくれてたってだけでしょ。
それが秀吉だけ簒奪者で勝家だけ織田家の守護者みたいに言われるのはおかしいよね。
>>17
フクシマ?北条綱成のおやぢ?誰の話? >>18
おかしい言われても実際簒奪していないんだからしょうがない。
勝家に織田家を簒奪する意図があったという証拠を見つけてから言ってくれ。
>>15
そういうイメージが広まっている、って話でしょ。事実がどうかでなくて。 >>5
あの時点で家康が動くわけねーだろ
つーか
>権六風情
とか言ってる時点でバイアスかかってるのが見え見えだけど。 領国経営に加えて、北陸の一揆を平定して、上杉をあそこまで追い詰めたんだから十分華々しいだろ。
そりゃ功績でいえば秀吉より上だわな。 鞆にいる義昭にも書状出してるくらい、権六も余裕がなかったみたい。 良い家臣になれても良い勢力の長にはなれなかったタイプだな。
指導してくれる人がいるうちはいいが。それがなくなるとどうしていいのかわからなくなる。
それだけ毒気がなかったってことなんだろうが。 家臣の意味を知っていたのでしょう
皆が主やTOPを目指しているわけではないよ
そこに譜代武将としての潔さや美しさを感じるのです
大きな大名家には必ず存在するタイプの人ですけどね ↑エライ!
天下を目指せばいいってもんでもないからな。権六は秀吉に屈することなく見事に散った。 秀吉とその部下たちが凄すぎたね
秀吉は勝家の養子から盟友からどんどん切り崩していった
まさに相手が悪かった
秀吉の家臣にはプライド的になれないし
どうしようもなかったね >秀吉とその部下たちが凄すぎたね
というか、秀吉とその部下たちの「運」が凄すぎたのだと思う。
やはりいち早く京都に上って明智光秀を撃破したことが大きかった。
勝家にも光秀を撃破する力は充分にあったのだろうけど、
越中から京都までの距離&上杉軍の猛抵抗があり、秀吉に比べ不利な状況だった。
あとは、今の時代もそうだと思うが、
どんなに義理堅い人物も、いつだれに裏切られるか分からないということ。
こればかりはどうしようもないし、信長もどれだけの人物に裏切られたことか。
最後まで勝家に味方した金森長近や佐久間盛政はもっと評価されるべきだね。 ていうか
もともと秀吉と光秀はつるんで本能寺起こしたんじゃないの?
だってつじつまの合わないことだらけじゃない
まず光秀が毛利に密使送った時、裏道はいくらでもあるのになぜわざわざ秀吉の本陣近くを通らなければならない?
ほんとは毛利でなく裏で結託していた秀吉に対する密使で秀吉が裏切ったわけでないの?
なぜ光秀は京制圧後、主力の兵を近江に送った?
確かに対勝家、対徳川に備えるということもあるが
通常は堺や摂津など当時の日本の経済的中心地の畿内制圧し
唯一の同盟者長宗我部と連絡路確保し与力の筒井に圧力をかけるのが妥当だろう
あたかも【西方から援軍】が来るかのように畿内はガラ開き状態
従って小兵の信孝に信澄を討たれた
また秀吉の大返しも疑問
そもそもこれだけの急反転するには足軽など装備を外し急行せねばならないだろう
畿内近くで新たに再装備するにも街道沿いに糧食を準備するにもかなり事前に準備していなければならない
秀吉に単独講和権なぞないのにすんなり毛利と和議できるのも怪しい
結局、勝家も光秀も秀吉にハメられたんじゃないの? いや、運 だけではないだろ。
なりふり構わずやれるだけやった秀吉軍団に
運が味方したんだろ。
相当の行動力がなければあんなことできないだろ。
勝家には織田家で実権握るだけで天下取りなんて考えもしなかっただろう。 最近こういう贔屓の引き倒しで、お気に入り武将を現代の自分の感覚で理想化しちゃうキモイのが増えたよな。
であげくには敵対した相手を親の仇の様にこき下ろして、運だのわけのわからん陰謀論だのに終始して。
戦国板の質の低下が著しくなったのっていつ頃からだっけ。 運は大きいだろ。背後は人質とった宇喜多や南条がおさえ、毛利も運よく追撃しなかったし
敵討ちの大義名分得る事ができたから多くの味方が集まったし >>34
まるで理想の時代があったかのような話しぶりだなw
特に変わって無いぞ、この板。 >>28
信長の野望と何の関係があるのか分からんけど、
勝家の地位は大名並の裁量権も与えられてるから立派な一勢力
軍事力だけでいえばその辺の大名よりよっぽど強大だし。 >>31
> 秀吉に単独講和権なぞないのにすんなり毛利と和議できるのも怪しい
実はある史料によれば、毛利方も本能寺のことを知っていたことになってる。
で、小早川が、信長の後は秀吉の天下になるだろうから恩を売ろう、と言ったと書かれている。 後日に書かれた安国寺の話は話半分で理解してください ところがどっこい、これがなんと「佐久間軍記」に書いてあったりする。
話の出所は不明だけどね。 >>41
明智軍記よりはマシじゃないか?
そういや、勝家の子孫は旗本になってると思うけど、家譜とか伝わってないのかな? でもあの時点で毛利はもうガタガタだからね。単独での勢力挽回は無理でしょ。
いまさら追激戦で秀吉の軍勢に打撃を与えたところで
情勢が落ち着いた頃に織田軍が戻ってきたらやられるだけ。
毛利家の威光に陰りが見えた以上は一旦秀吉を追い払っても、中国地方の豪族たちもすぐに又離反するだろうし。
もし小早川が信長と信忠の死去を知っていたら、
織田家は混乱するだろうけど秀吉が纏め上げて戻ってくるだろう、
だったら目の前の小さな勝利は放っといて、今のうちに恩を売っとけ、
くらいに考えてもそこまで不思議じゃないと思うけど。 毛利が信長横死を知っていたら普通、宗治に腹切らせるような真似しないお┐ (´ω`) ┌
そもそも追撃追撃言うけど、宇喜多や秀吉の残した押さえの兵を無視して
一体どうやって追撃するつもりなのだお
ましてあの異常な行軍速度だし
長躯追い縋るような真似したら逆に秀吉側に分断されて崩壊するのがオチだお┐ (´ω`) ┌ まあ秀吉の大返しは全軍ではないし逃亡者続出で播磨で立て直さざる
おえなかったのは秀吉好きの無視する点
播磨で偽装する秀吉の切れ味は凄いのだけどスピードだけなら勝家のほうが早かったりするwww 小早川でなく吉川元春が毛利を仕切っていたなら秀吉を追撃した可能性はある?
兵が無尽蔵であるまいし秀吉が随伴した兵力や秀吉の領国国力からの動員兵力から推察するに
秀吉の残置した兵なんかたかが知れてるだろう
それに宇喜多はあくまで山陽方面に集中されてるから山陰方面はカスカスじゃないの? どっちにせよ明智ときちんと連絡の取れていない状況で動けるわけ無いだろ。
勝家と市をくっつけたのは秀吉ってマジ
これって秀吉の勝家への最大の配慮じゃね
秀吉は「勝家殿、ワシに逆らわないで従ってくれ」って思ってたぽいな
勝家も若い頃ノブなんとかから信長に鞍替えしてるからな
前田達の秀吉への鞍替えも戦国のならわしとして納得済み
勝家みたいな武将は前田達を囲えなかった自分の不徳を責めるタイプ
責めるタイプもなにも府中城で詫びてんじゃん。
前田方が盛政のせいだとか、「秀吉軍を食い止めるから落ち延びよ」とか前田家譜で
ほざいてんのは見苦しいけど。 前田の資料ははっきり言って武功以上に信用できぬ
後世の物語だから仕方ないと言えばそれまでだが 最高指揮権もって敗戦という意味じゃ賎ヶ岳くらいだろ
稲生やら伊勢長島攻めやらは負け戦に参加してるだけだし
手取川の責任を全部柴田に押し付けるのは無理がある。 勝家も内心は
前田〜
裏切り者〜
と思ってただろう なんか時代が秀吉に味方したように思えて仕方ない
古いタイプの武将の勝家より、新しいうねりを起こせる秀吉に時代が味方した
そんな気がしてならない。 >>42
三男の流れの者だけど一応辿れるよ。勝家から数えると当代は20ー23代くらいかな。
でも伝記的なモノはほとんどなくて山崎の後、黒田を頼って九州へ。出家してさらに筑紫野、平戸と落ちた事くらい。
ウチは本筋じゃないので筑紫野、平戸の本家にはもう少し残ってるのかもね。 どうも清洲会議では対立なんか無く、三法師擁立して織田家を支える事ですんなり決まったらしいな。 しかし秀吉の死因がかっけだったとは・・・
野菜や果物食わずに魚ばっかり食ってたのかな
とんだ百姓の味方だなw 玄米食べずに白米ばかり食べてるとなりやすいんじゃなかったっけ? 宣教師の記録からの推測らしいけど、
どこまで信用できんのかね?
症例が合致しそうな病気って他にもありそうだし。
家康より長生きをっていう意思があっただろうから
偏食はしなさそうだが。 宣教師の記録によると勝家の領地では
大殿といえば勝家
殿といえば勝家の子息
だったらしい。
それぐらい絶大な権力があったんだから食生活も豪勢だっただろ。
蟹食い放題 おれ親から柴田勝家の子孫だって教わってるんだけど
どうも信用できません
家計図うpしますんで
http://imepita.jp/20090810/776360
鑑定お願いします >>75
内容は全く読み取れません
書かれている紙は現代のモノのように見えます
これだけの判断ではダウトです なるほど
実際の家計図も見たことあるのですが
それの縮小コピーらしいです
昭和51年につくられたと書いてあります
確かにその紙も古くはありませんでした うちも勝家というより勝豊の子孫らしいぞw
長浜での秀吉からの降伏勧告の書状見せてもらったことがあるw
まじかw
一番右のほうが書いておくと
柴田修理亮勝家 三男三郎太郎 勝久
↓
初代 市郎右衛門 勝清
ここからはじまってるんだが
wikiで調べたら勝家の三男の勝久(勝敏)って
16歳で死んでるやんw
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B4%E7%94%B0%E5%8B%9D%E6%95%8F 初代 本国越前 生国尾州 市郎右衛門 勝清
とある
誰これ? おお・・・権六公の・・・!
誇りに思ってくださいませ! >>82
どうしてそう思うの?
どのへんがどんな風に? 滅びた名家の、いたかいなかったか定かでないような人物を祖先にする、
というのは偽系図の黄金パターンだよ 何で食ってかかるの?
「よくあるパターンだ」といってるだけなんだが? 仮に偽家系図だったとしても
自分の家系に勝家公を選んだご先祖は見る目があると思う。 戦に身代わりになった影武者が沢山いたし
先祖を残す為に女の子は政略結婚させられたから
どこかしらには残ってる
勝家軍の亡霊出るんだってな。
○橋で首のない武者行列見ると絶対死ぬらしい。 「なんでも鑑定団」の出張鑑定in国分寺に毛受の子孫が出てたな 羽柴軍なんて言ったら・・・(((( ;゚Д゚)))) 質問です。
柴田勝定という人物と
柴田勝全という人物について調べているのですが
両者とも源左衛門を名乗っていた為、事績が混同している事が多く
どちらが何を成したのか、よくわかりません。
たぶん、どちらかは明智光秀に属して山崎合戦で討ち死に。
どちらかは勝家の滅亡後は堀秀政に仕えて以後も堀家臣として名前が度々出てくると思うのですが
どっちがどっちなんでしょうか?
花押が違うので同一人物ではないようなのですが >>99
要するに、同一人物かもしれないし、兄弟だったかもしれない、
個人の事績はよくわからん、という事ですよね?そのリンク先を読む限り。 >>100
ちゃんと読んでないだろw
そんな曖昧な内容じゃなく、もっとしっかりしたことが書いてあるよ。 勝全が堀家に仕えた人で
勝定が明智に仕えて死んだ人?で
兄弟かもしれないので事績が混同されているかも・・・という事しかわからんのですが。 >>98
>両者とも源左衛門を名乗っていた為
他人が混同した為に、両者とも「源左衛門を名乗っていた」ことになったのでは?
花押が違うと言うことは両者が書いた書状が残ってると思うけど、
その両方に「源左衛門」って書いてあったのかい?? 「織田信長家臣人名辞典」って本だと
両者とも「源左衛門尉」って名乗りを使ったようで
一部、勝定を「次左衛門」とする資料もあるが、「源」の誤植であろう、と書いてあったです。
で、明智に属した人物も「柴田源左衛門」を名乗ったと。
署名の現物は当然見たことないです。
ただ、上記の本では同一人物ではないとした上で
勝定は柴田勝家の重臣で、柴田家の滅亡後に堀家に仕官した、とあり
山崎の合戦において明智勢の中に「柴田源左衛門」がいるので、
一時何らかの理由で明智家に属したのか?と書いてありました。 同族で同じ通称ってことはあるよ。
柴田の親戚の佐久間家でも
久六盛重 - 久六, 久右衛門盛次 - 久六, 久右衛門安政
って父子3代にわたって通称を継承してる。
右衛門は信盛も使ってるし(右衛門尉)。 ドラマなどで、秀吉に嫌がらせをする嫌な先輩のように描かれることが多いが
実のところ、どんな人だったのだろうか 一度信長に逆らったにも関わらず許されて重用されてんだから有能な人物であった事は確かだな。 >>106
織田家中では仲間たちからの信頼が厚く、尊敬されていたようだ。
戦場での働きで実績を挙げたタイプだから、調略で頭角を現した
秀吉と比較されやすく、実績重視の織田家臣たちが反羽柴の
代表として担ぎやすい対象だったのではないかと。
たとえばだけど、天下りでやってきた常務に反発する社員が、
現場叩き上げの専務の元に結集する、みたいなのと似ているというか。
庶務課のアルバイトが、要領がよくて仕事もできるので正社員に採用したら、
どういう方法だかわからないが大口の契約を沢山取ってくるので、昇進をかさね、
いつのまにか取締役になっていた。
面白くないのは古参のキャリア組。
という感じ >>106
軍記物では頭の固い猪武者だが
実際は若い頃から晩年まで武芸達者な策士
性格までは不明 >>110
ポイントは、信長は秀吉の才能と実績を評価していたが、当時の
家臣団は信長のような新しい考えではないので、戦場での槍働きで
なければ何の実績にもならない、と思われていたこと。
家臣団の目から見ると、何の能力も実績もないやつが、殿の覚えが
よいというだけで出世している、というように見えたはず。
あなたの例のように「契約を取ってくる」という、だれもが納得する成果を
挙げていたのなら、反発は少なかったでしょう。 敵を倒して勢力を広げるという槍働きと、
調略で味方を増やし、内部分裂を図って敵を崩壊させ勢力を広げる気働き、
信長にとっては結果は同じ。
キャリア組が嫉んだのは、藤吉郎が命を削らずにうまく立ち回り成果を上げたこと。
>何の能力も実績もないやつが・・ではなく、自分に無い能力で実績を作っていくのが悔しいということ 秀吉は馬鹿丸出しで命落としそうな事色々やってるよ
しかも一人で功を上げずに譜代家臣とタッグ組んで結果を残している
これが一番印象いいからね
手取川も迷惑したと書かれているが揉めたのかまでわからない
むしろ譜代や古参同士のほうが激しく喧嘩しまくっているのが現実
信長存命中に秀吉と揉めた武将って荒木くらいじゃね? ていうか
実際には手取川の合戦なんかなかっただろう
畠山が上杉に滅ぼされたのを知り撤収しただけ
秀吉はそれ以前に兵を勝手に引いたため処罰された
天王寺の戦いで惨敗敗死した原田直政の一族は直政が大和国主という大身だったにも関わらず
戦後追放処分など厳しい処罰を受けた
重要な戦いでの失策に対する処罰はかなり重い
第一次伊賀征伐失策の信雄も一門衆に甘い信長に厳しく叱責されている
※姉川の場合、浅井に五陣まで抜かれたというが、あれは予定通り引き込んだだけ
なぜならその後、抜かれた勝家や秀吉は処罰されなかった
後方にいた稲葉らが勝手に兵を動かすなんて有り得ない
全て引き込んで殲滅する信長の作戦 最新版ノブヤボの能力値は
統率 武勇 知略 政治 義理
90 93 53 67 72
こんな感じですが、どうでしょうか 打倒光秀を果たしたのが秀吉であることを考慮しても、
もう少し粘ることぐらいはできなかったのかとは思う。 >>120
そもそも能力を数値化できるという前提で考えることじたいをやめたほうがいいよ。
あくまでゲーム、あくまでキャラクターと割り切って。 今オークションに出てるのって本物かな
少し字が違う気がする 清洲会議で羽柴を斬り殺し軍勢を吸収して
佐々成政と上杉を攻めて叩き潰して佐々成政を奥州方面軍にして
勝家は羽柴の領地を攻めて
前田利家に越前を
佐久間盛政を徳川の備えに
滝川一益も勝家と一緒に羽柴の領地を攻める
柴田の覇権が確立してゆくとして、(秀吉が断念した)足利家への猶子入りの実現性はあったのかなぁ? >>128
秀吉の妨害がなければ、
丹羽長秀、細川藤孝、筒井順慶、蒲生氏郷あたりも勝家になびいたと思う。 勝家は秀吉のように信長の子らから権力を奪ったろうか >>129
秀吉もやろうと思えば幕府を開けたと思うよ。
自分の推測だけど。 賤ヶ岳の時、本当に上杉軍は北陸に侵攻する力があったのか?
佐々がほぼ全軍で残らないといけないほどだったのか疑問が残る
実は勝家と佐々は不仲だったのでは?佐々は動けたが不仲だったので参戦を拒否したのでは?
秀吉>柴田>前田
こういう評価が不思議
結果である程度見るしかないわけだけど、それなら前田は晩年随分出世したんだよな。
だから柴田と五分、もしくは前田の方が上でもおかしくはない。
もちろん柴田存命中は柴田の方が上だったのは明らかだけどさ。
それを言ったら前田存命中に前田より下だったけど前田以上に評価されてる人間もいるわけだ。
まあ結局前田はイマイチなんだろうな。
頑張って勉強した人がそう言ってるんだから、大河で好きになった程度の自分がごちゃごちゃいう事でもないな。
ただ、これだけは言いたいのd
>>138
三回も読んでもらって恐縮してる
過去の人物の能力と結果の違いを現代から推測するのはとても難しい
>>137前田厨うぜーよ馬鹿
おまえが大河で好きになったからそれで評価がどうのこうのなんてどうでもぴいんだよ死ね ネット上で「親戚同等の扱いだった。」とか書いてあるのを見たことがある
偉かったのかね 現在の地図で見ると北ノ庄城(福井城)は九頭竜川を遡って、福井港の方まで続いていますが
勝家の統治時代も、こんな感じで川と海が繋がっていて海運・貿易などの行き来はあったのでしょうか? もう1つ質問。
これもどこで聞いていいか迷ったので。
飛騨統治前の金森氏の拠点って越前では大野城だけですか? >>126
秀吉でも天下は治まらなかったけどなwwwww
死んだ途端、これ幸いと瓦解する程度の政権 wikipedia
天正2年(1574年)、3回目の長島攻めに参加する。三手の内右翼を佐久間信盛と共に指揮する。砦を陥落させ城に逃げ込ませて2月、兵糧攻めをしてたまらず和解に応じたところを銃撃し兵で襲撃、残った農民も柵を築いて2万人を焼き殺した。
ギャー 信長軍団は、お市の方を中心に回っております。
信長死後、お市を巡る争奪戦!
歴史は、女が中心で回っている気がする。 >>149
15代250年以上も続いた江戸幕府とは比較にならんだろw
豊臣政権とは違って官僚組織も整備されてるしな。 >>150
カルト信者の末路
信長の親族殺しまくってるしな。 >>154
本来仏教はストイックな宗教なはずなのに
禁じられてるはずの鳥獣を喰らい
信者から御布施と称し高額な上納金を搾取し
教祖は信者の女どもを犯して150人も子供を作った色情破戒僧だからな
一気にこの時点で完全に滅しておくべきだった 一向一揆は全滅させないと大人しくならない程の狂った集団だからな
虐殺もやむなし 勝家は越前一向一揆の一部を穏健的な宗派に改宗させるとか政略もやってるな。
何百年経ってもそういう点は評価されないよなこの人。
ずっと直情径行で髭面で、融通が利かない門閥家老扱い。 お市の方は、秀吉と寝るくらいなら、
柴田勝家と心中する方がましだと思ったのでしょうか?
茶々さんが、身代わりになってしまったけれど・・・ >>157
でもそうやって、ごく一部の人だけでも勝家の仁政が認識されているだけましかも。
ちなみに、佐久間信盛は追放されて終わっているからもっとかわいそうかもね。 >>160
市と淀と大奥関連は陰謀論めいた番組やってたし。 >>163
盛政の名誉回復スレの賤ヶ岳〜がいつの間にか消えてるしな 勝家が勝つにはやっぱり家康と組むしかないんじゃないのか?
家康は秀吉と小牧長久手で互角に渡り合った が
勝家はあっさり負けた
やっぱり天下人の器だよな家康は まあ家康の側に権六と組むメリットがなかった。
中央で争っている隙に信濃や甲斐を手に入れてしまおうということだろう
>>157
愚直な家老としてキャラが立ってるからな。勝家は。
そのストイックさがいいんだろう。 >>165
動員兵力も地理も全然違う。
一概には比べられん もし天命をまっとうして勝家が死んだら誰が家督を引き継ぐのよ?
勝政?
勝豊?
それとも生きてるのか?死んでるのか?そもそも存在自体が怪しい実子勝敏か?
それとも意表を突いて佐久間盛政か(これが勝家にとって憂い無くあの世に行けるかも知れんがw) 決戦を急ぎ過ぎたな、勝家は
勝負に及ばなければ潰せなかった筈だぜ秀吉もさ
大人しく三法師の世継ぎ認めるべきだったのさ
時間稼いでる間に多数派工作してってやるべきだった >>163
佐久間盛政は行動が素早い
本能寺の変直後、帰国して直ちに5000の兵を臨機応変にどこにでも動かさせるようにした
この時は前田が石動山を攻撃され救援を求めてきて間伐入れずに迅速に動き
前田軍以上の戦果を挙げたが
本当は柴田軍に合力して明智追討したかったのだろうに(時は遅かったが)
前田は本来石動山の蠢動に対し独力で対処できたはず
前田が秀吉に調略されたのは清須後と言われるが
もしかするとそれ以前にされていたのか?
盛政の兵を勝家に合力させずに引き留めるタイミングがあまりに良すぎる
盛政は本能寺の変後だけでなく
天正九年の大馬揃いで勝家が越前を留守にした時も機敏に動き佐々成政を救援している
勝家が留守にしたのを機に上杉が一向宗も扇動し越中に侵攻してきた
盛政は迅速に越中へ兵を進め
勝興寺、瑞泉寺、川上窪城の一向宗や上杉勢を殲滅した
結局、距離的には盛政より近い前田から救援が来る前に成政と盛政だけで危機を克服した 秋葉でも一時期だけ盛政タンがブレイクしていたがもう消えちゃったな
でも二十代前半で一国を任せられるスピード出世は織田家No1でしょう
なぜ信長と盛政のやりとりが残されてないのか謎であります >秋葉でも一時期だけ盛政タンがブレイクしていた
くわしく! >>172
>距離的には盛政より近い前田から救援が来る前に成政と盛政だけで危機を克服した
この辺での前田のヘタレっぷりから
>前田は本来石動山の蠢動に対し独力で対処できたはず
これはありえないw 頭を下げることができる秀吉と下げることができない勝家 >>172
前田が秀吉に調略されたのは清須後と言われるが
もしかするとそれ以前にされていたのか?
盛政の兵を勝家に合力させずに引き留めるタイミングがあまりに良すぎる
佐久間盛政は名将だが、わけのわからん陰謀説を持ち出すと途端にチープになるからやめてくれ。
本能寺直後なんて自分の支配地域以外情報が錯綜して、ろくな状況把握もできてないんだから連携なんて無理。
今の時代の人間が考え出すような器用な謀略なんてできっこない。下手すれば自分の首が飛びかねんわ。
あと勝家は猛将のイメージがあるけど果断さが足りないことが多いから
盛政がどうやっても秀吉どころか家康より先に明智追討に向かうのは無理だと思うぞ。
前田がヘタレだとしてもそれすら使いこなせなかったのが勝家の限界では。
おまけに橋頭堡となるべき長浜に病に臥せっていて冷遇されてた勝豊を捨石の如くおいて裏切られて。
秀吉の部将連中は一部を除いては前田以下のへタレぞろいだけど、秀吉はうまくやりくりしてたぞ。
そこいら辺の差も大きく出たんじゃないかな。 清洲会議以降、(大散財して築いた)北ノ庄城を拠点にせざるを得なくなって、雪国に閉じ込められたのが決定的だったが、、
勝家は譜代だけに、守るべきもの(お市や信孝など)が多すぎたんだろう。その点、秀吉は守るものが自分の家臣以外なかった。
だから、秀吉は自分の出世だけを考えて全力投球できた。香川照之の岩崎弥太郎みたいにw
その勝家の思いが詰まった北ノ庄城。
平野に建てた平城ゆえ天守閣単体では安土城より高く、階数としては日本一だった(?)勝家の北ノ庄城9重天守閣を復元して欲すぃな。
勝豊の丸岡城は北ノ庄城の望楼部を模したであろうから、こんな感じ↓
http://img.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/f5/de/myriver1020/folder/1577045/img_1577045_46502799_1?1233845753
だれか絵の上手い香具師、もっと美しく描いて、勝家公の御無念を晴らし、成仏させてあげてくれ。 >>177
賤ヶ岳での勝家の判断については高柳氏の著書に依拠して
前スレで散々議論されてる話。
賤ヶ岳について語るならそれくらい読んでからレスしろよ 功名ヶ辻やってた頃に
「長浜城に篭城すればいいのに」
「秀吉だったら同じ状況でもどうにかできたはず」
とかブログ上で言ってる女がいたな。
長浜城に篭城とかキチガイ沙汰だろ。
秀吉だったら〜とか無責任に語りすぎ。 結論は唯一つ「無理してでも賤ヶ岳に佐々を連れてくるべきだった」
まあ勝家は長期戦のつもりだった様だしまさか一気に勝負が付くなんて
思ってないのだろうけどねえ このスレのみんなで、オフ会やろうよ!
http://okubiwako.jugem.jp/?eid=74
第26回 賤ヶ岳まつり
今年も賤ヶ岳古戦場と琴糸の里を舞台に楽しいステージイベントが繰り広げられます。
地元の方々のステージショーや模擬店に加え、甲冑グループ刀竜門『BASARA』が戦国甲冑劇を熱演!
そして恒例のウォークラリーやよさこい演舞、ちびっこに大人気のふあふあなど盛りだくさんの内容となっておりますので、
皆様お揃いでお越し下さい。お待ちしております。
日時/平成22年5月9日(日) 9:30〜
会場/長浜市木之本町大音 賤ヶ岳リフト駐車場
内容/戦国甲冑劇などのステージショー
賤ヶ岳合戦戦国史談会
お楽しみ模擬店戦国茶コーナー
かぐや餅実演販売 など
まつり参加者は、賤ヶ岳リフト無料 今月で休日千円キャンペーン終わりだし、天気も良さそうだし、逝ってみるか… ○第6回 賎ヶ岳合戦城郭フオーラムと砦跡見学会
日 時 6月26日(土)10時〜16時
場 所 滋賀県長浜市余呉町国安 行市山陣城と別所山陣城
集 合 JR余呉駅10時10分集合 小雨決行
講 師 長谷川博美氏(愛知中世城郭研究会・滋賀民俗学会理事)
参加費 2500円 (資料代、弁当代、バス代を含む) (要予約)
装 備 山城探訪に適した服装・雨具など。
主 催 「賤ヶ岳合戦」城郭フォーラム実行委員会 ウッディパル余呉
後 援 浅井三姉妹キャンペーンイベント実行委員会
問合せ (予約先)ウッディパル余呉 〒529-0515 滋賀県長浜市余呉町中之郷260
TEL:0749-86-4145 FAX:0749-86-4545 wp-yogo@zc.ztv.ne.jp
※御遠方の方は宿泊施設も予約出来ます。 佐々成政の方が名将のような気がする。
お互い3000持たして柴田と戦わせたら多分佐々が勝つ。
勝家は部隊指揮能力も高いのか低いのかもわからんほど実績無い。
三国志でいう夏侯惇みたい。
奴も実績無いのにゲーム、漫画じゃもう将だ。 勝家は外交戦略で秀吉にメタメタにやられたのを見ると滝川タイプに近い
信長がいて活きるタイプ、自分で仕切るのは苦手とは言わんが向いてない感じ。 よくわかんないのは、勝家が成り上がりの秀吉と犬猿の仲だったって説。
勝家自身も成り上がりでなんでそういう説が出てきたのかね?
だいたい元から二人は本当に仲が悪かったのか?
秀吉が北陸戦線に駆り出された時にサボタージュして帰った時は印象悪くなったろうけど。
勝家は佐々とも仲悪い説がある
仲悪いからしずに来なかった
上杉は関係なかったとな >>200-201
どっちもwiki知識だけで語ってるのがよくわかるレスだなw 佐々のほうがむしろ成り上がり嫌いそう。
猿と前田嫌いだったし。
勝家は何処の馬の骨ともわからん滝川の面倒みたり意外と成り上がりにもおおらかだったかも。 勝家は結構甘い性格だったのでは?
織田家の武将がほとんど秀吉になびいても何も言わず
前田にも離脱され、佐久間にも勝手に動かれてるし
信長の息子にもなんか利用されてる感じだし。
性格かどうかは知らんが人使いとか策謀とか色々と見通しが甘かったのは確か。
あと勝家が信孝を利用してるフシもある。
だいたい信孝って信長在命時は一門衆第四位だろ。
信雄も信包もすっ飛ばして信孝担ぎ上げたんじゃ上の信雄が絶対納得しないから
織田家内部の抗争を自分で撒いてるようなもんだ。
信孝を利用して自分の地位固めに奔ってる様にもみえるんだが。
だから織田家武将も勝家になびかなかった一因・・・かも。
>>202
200も201も何も断定的なことかいてないのに何がウィキ知識なのか分からん。
202って通ぶってみたいお年頃?
まあ佐々は蜂屋が母衣衆に配属されたときも不満を漏らしたとも言われてるし(それもウィキに書いてあるの?w)
結構エリート意識は高かったんじゃないかな。 >>205
じゃあ>>200や>>201が何を読んでそう思ったのか教えて欲しいな。
>>200
勝家・秀吉、北陸戦線離脱頃から不仲になったのでは=wikiに載ってるね。ああ、あと光栄の武将ファイルとか。
>>201
勝家・成政仲が悪い説=wikiに載ってるね。
どっちも俺は他の書籍(wikiや光栄の武将ファイルなんて怪しい奴じゃなく)で読んだからさ。
別に自慢とかじゃなくて、200や201が何を読んでそう思ったのかな?と
また、その2つの説を疑問視する意見も結構あるので、wiki以外読んでないんじゃないのかなー?と思ったまで。
いろんな書籍を読んで多面的な見方ができるなら、そういう断片的な見方はでないだろうから
あと勝家が信孝を利用してるフシもある。
だいたい信孝って信長在命時は一門衆第四位だろ。
信雄も信包もすっ飛ばして信孝担ぎ上げたんじゃ上の信雄が絶対納得しないから
織田家内部の抗争を自分で撒いてるようなもんだ。
信孝を利用して自分の地位固めに奔ってる様にもみえるんだが。
だから織田家武将も勝家になびかなかった一因・・・かも。
-------------------------------------------------------------
そもそも、秀吉が三法師を担いで、勝家が信孝を推した、とする
所謂「清洲会議」の信憑性ある記録が残っていない。秀吉サイドが残した軍記物だけ。
本能事後は信包も信雄も秀吉方に属しており、実質的に指示を出せない三法師に代わって
秀吉は信雄を織田家当主として担いでる。
勝家としては、信孝を担ぐしか手段がなかったわけ。
実際、「担いだ」というよりも秀吉・信雄に対抗する為に仲間に引き入れる必要があったから
結んだだけであって、当初から勝家が信孝との協力を考えていたとは思えない
結果論として信孝と結ばざるを得なかった、というのが真相だろう。
そこから「清洲会議」が秀吉が三法師を担ぎ、勝家は信孝を推した」という話になったんだろう おまけ
>>205の言う
「だいたい信孝って信長在命時は一門衆第四位だろ。」というのも事実で
1・信忠 2・信雄 3・信包 4・信孝となっているわけだが
信忠・信雄と信包・信孝の間には大きな開きがある
任されていた支配地の広さ・動員兵力などが段違い。
信忠・信雄はほぼ1国以上を任されて軍団長クラスの権限を与えられている。
対して信孝・信包は伊勢に僅かに領地があるのみ。
本能寺前の四国征伐(予定)に信孝が率いていった軍勢も
ほとんどが信雄領内の兵(伊勢衆)と明智光秀が出した丹波衆がほとんどで
信孝の直轄兵はほとんどいなかった。
ゆえに変後に信孝率いる四国征伐予定軍はほとんどは逃げ去ったわけで。
勝家にしろ秀吉にしろ、時期織田当主として担ぐのであれば
動員兵力からしても、家督順位からしても信雄を担ぐのが当然の成り行きとなる。
結果、信雄は秀吉を選らんだわけで、その対抗上、勝家は信孝と結んだというだけ。
はじめから勝家が信雄を避けて信孝と結ぶ意味はない。
全ては結果論から「勝家が信孝を推した」と推測されているに過ぎない。 >>209
「ほとんど」って単語を重複して使い過ぎたね、すまんすまん。 流れ的にはもう勝家は完全に不利なんだね
秀吉に頭を下げて許してもらえば良かったのに
隠居するんでと言えば命までは取られないでしょ
佐々や滝川や佐久間ですら許されてるのに(佐久間は結局死を選んだが)
やはり秀吉との仲がガチで悪いというのは本当かな
しずがたけに秀吉嫌いの佐々が来ないというのもやはり不自然だよな
上杉も脅威だけど、それ以上に秀吉の方が脅威でしょ
実は佐々と秀吉って仲悪くないのかな?秀吉を応援してたりしてw >>211
佐々は援軍出してるよ。
佐々平左衛門(成政の叔父)が兵600を率いて参加してる。
上杉より秀吉の方が脅威だろう、ってのも
歴史を知ってる現在の自分らからすれば、の結果論であって、
実際問題、それまで押せ押せで上杉を滅亡寸前まで追い込んでた
信濃北部の森長可・毛利秀頼らの織田勢は上杉の侵攻を恐れて美濃・尾張に撤退しているし
変直前に落としたばかりの越中・魚津城も上杉に奪回されてる。
遠く離れた中国地方の秀吉より目下の敵である上杉の方を脅威と見なすのが当然でしょ。 福井にあるという勝家の木像はいつ作られたのですか? お市とやれただけ良かったじゃないか
戦国一の美女だからな 来年の大河ドラマ「江」では大地康雄さんが勝家を演じるが、みんな楽しみだな 407 名前:冬広[sage] 投稿日:2008/06/25(水) 13:07:41 ID:zaTUmH0H
男のきずなの話
ある戦で前田利家と佐々成政が、二人がかりで稲葉某って豪傑を倒した。
曲がったことの嫌いな二人は、「稲葉に致命傷を与えたのはおめーだろ」って首の譲り合い
を始めるもお互い譲らず、果ては取っ組み合いの喧嘩になりそうになった。
そこに通りかかった柴田勝家が、「この首いらないの?じゃ、おれが貰う」って言って、唖然
とする二人を尻目に稲葉の首を勝手にもっていってしまった。
そして、二人は不承不承、主君・織田信長の城に帰還した。
すると、柴田が来て「利家・成政、殿がお呼びだぞ」って二人を呼んだ。
二人は「殿が何の用事だろ?」って不審に思いながら拝謁すると、上座に信長・そばには勝家が
ニコニコして座っている。
「そちたち、豪傑稲葉を打ち取ったそうだな。これは手柄である。しかも、その首を譲りあうとは
近年ない奥ゆかしいことだ。これも手柄である。いきさつはすべて勝家から聞いた。そちたちの手柄は
2つあることになるから、2人共に褒美を遣わす」って二人とも褒められた。
以後、2人は信長に一層の忠誠を誓い、粋なはからいをした勝家を兄貴と慕ったという。 >>217
それ、池田恒興か誰か別の人の話を引用して作り話じゃなかったっけか 戦国武将列伝10月号でお市の話の中で勝家出てたな。
思わず衝動買いしてしまったわ >>12
もう‐しょう〔マウシヤウ〕【猛将】
強くて勇気のある武将。
>隠居するんでと言えば命までは取られないでしょ
あの時代の武士の規範意識からして、謀反人相手にそんな事するバカはまずいない 勝家題材の小説ググってみたけども少ないな
誰かこれはよかったって一冊ある? 安西篤子氏の柴田勝家 ひたむきに戦国乱世を駆け抜けた男は読んだが、
小説と言うより勝家の業績を淡々と書いている本だった。
柴田勝家―「鬼」と呼ばれた猛将は読んだことない。
あとは知らないw 柴田の北陸軍って実は佐久間が実質の支配者だったのでは?
数も多く柴田の命令も無視してるし
前田が離脱したのも仲の悪い盛政だったからと考えれば
つじつまが合うような。 当時の勝家さんは年齢的にも隠居のレベルだろ
実質仕切ってたのは佐久間一族でしょ養子も含めてさあ
これで命令無視とかつじつまが合うと思うんだけど。
賤ヶ岳での勝家のやる気のなさがどうも気になるんだ
あっけなく敗走したのも形勢が不利になったからだと言う人もいるけど
例えば関ヶ原の石田や大谷なんかは命かけて最後まで粘ってるよね
(他の戦いでも死ぬまで抵抗した武将たくさんいるでしょ)
そういう必死さが勝家から見えないんだよ
そこで崩れたら城に戻ろうが負けは決定でしょ?勝家だって当然わかってるよね
なら憎い秀吉相手に見事に戦って散ってくれるわというのが勝家に相応しいと思うんだよ
本当は戦いを回避したかったんじゃないのかなあ
長期戦に持ち込んでお互い和睦みたいなさあ
>>239
前田利家の裏切りを薄々感づいていたのだろう
しかし信孝が挙兵した以上出ざるを得ない
織田家で信孝が没落すればあとはふがいない信雄と幼子の三法師しかいない
家中を仕切って野心ありありの秀吉が主家を乗っ取るのは目に見えている
佐久間盛政が奇襲により優位な態勢を取ったとき
盛政の要請通り勝家は全力で押して出るべきだった
既に盛政の調略により山路ら旧柴田勝豊家臣が内通していたため
勝家が出れば羽柴方が浮足立つ可能性は十二分にあった
羽柴方には内心で信長の血族を蔑ろにする秀吉をよくは思っていない者も少なくない
勝家が出なかったのは前田利家の裏切りで出た勝家らの背後を突かれるのを恐れたためだろう
だから仕切りに盛政の帰陣を命じた
盛政の帰陣は消極案というよりは前田の裏切りを抑止するためだろう 前田は勝家とは仲良いけど、佐久間とは仲悪いからな
勝家もここは心配していただろう
信長がいれば前田も佐久間を助けただろうが、もはや信長はおらず
ある意味、前田の気持ち次第だからな
前田が佐久間より、娘を養子に出していた秀吉を選ぶのは当然ありうることだし
勝家もこういうことを踏まえて
出来れば秀吉との一戦は回避して和睦で終わりたいと考えていても不思議じゃないよね >>242
佐久間盛政と前田利家が仲が悪いというのは初耳だな
本能寺の変後、上杉に支援された畠山旧臣による石動山合戦で
佐久間盛政は前田利家の救援要請を快く受け直ちに自ら2500の兵を率いて
電光石火、温井景隆、三宅長盛、遊佐長員らを討ったはずだが
仲が悪いというのは秀吉におべっかを使うために柴田の配下武将をおとしめるための後世の創作では? お市以前の勝家の妻や側室ってどうなの
実子がいたところを見ると、一応女はいたんだ 勝家とお市の結婚を仲介したのは
信孝ではなく秀吉であることを
示している秀吉の書状があるらしいが
本当なのかねえ?
内容をご存知の方おられます? 清洲会議自体、勝家と秀吉が白熱した議論を展開したものじゃないし・・・ >>250
すまん、実はよく覚えてない
勝家が市を嫁にすることとか
織田家の跡継ぎの確認などをしたっていう
別に白熱しておらず、淡々と進んだってのをどっかで見た
秀吉と勝家の市取り争いってのも無かったらしい 清洲会議がどういった様子で行われてたかは川角太閤記の記述くらいしかなく
上記も信頼性はいまいちなので具体的な様子はわからないといっていい 本能寺の変がなかったら、柴田はどうなってただろう?
加賀と越前に三十万石くらいもらって引退? どうして権六は信行側で負けたのに殉死しなかったの?
主君売ったってことかな? >>254
殉死するほどの武将じゃなかったんだろ>信行 佐久間が勝ってもダンマリ
滝川が立ってもダンマリ
そのうち各個撃破されて敗走
すげーモヤモヤが残る この時代劇は福井県民激怒・・・
いや端から見てないか >>253
信長が天下統一したら
信忠→美濃、尾張、信濃、甲斐、越前、北伊勢
柴田→越後、陸前
滝川→武蔵、相模
明智→筑前、安芸、周防
丹羽→日向、大隅
(三好)信孝→讃岐、阿波
羽柴は謀反して処刑 >>254
勝家の主君は最初から信長
それを信行にしようとした、が正しい
すいませんやめました、ってとこかな 織田家の人間がときどき本家に遠慮してか?津田を名乗るけど、
実は柴田家も織田家の隠れ一門衆とどっかの本で見た気がする >>268
勝家と養子達以外に柴田家の人って居る? >>269
柴田勝敏:勝家の実子(庶子?)
柴田勝里:勝家の庶子
柴田勝忠:一族、詳細不明
柴田勝全:柴田勝定と別人、当家滅亡後、堀秀政家臣 最近ずっと織田家臣団のこと調べてたんだけど、
結局、信長の死後、勝家に味方した有力人物って、
市、織田信孝、滝川一益、金森長近、佐々成政、
不破光治、前田利家、佐久間盛政
だけなのね?
金森、不破、前田は戦わずに逃げたけど
あと光治じゃなくて直光ね >>270
佐々木小次郎も入れてあげて
まだ幼児だったけど
佐々も戦ってはないだろ
他のメンツもすぐに降伏してるし
佐久間一族はなぜそこまで秀吉を嫌ったのかな
勝家以上に嫌ってる感じ
佐々は秀吉と結託した上杉と戦ってるじゃん
賤ヶ岳にも途中までだが援兵を出してるよ
敗戦を聞いた援軍大将が「義理は果たした、引き揚げる」と語った逸話まである
丹羽から秀吉に味方して欲しいという話も断っている←これは少し年代不明
でも義理って所が味噌ですな 人間てのはその大多数が義理や人情でなく、利害で動くんだなあああ;; 前田利家はあまりウソが上手な人じゃないようで、秀吉側につく気だったのは
もうバレバレだったらしい 佐久間盛政などはもう斬るしかないとか言ってたのを
権六勝家が止めてたらしい お人好しだぜ・・・・ >>279
その通りなのだが、しかし親兄弟親戚ってのはちょっと違う事が多いんだな
柴田佐久間と戦う事になったら佐々軍は大分裂で確実に内部崩壊すると思うよ
>>280 そのソース知らないkwsk だが利害のためには義理・人情も考慮しなければならないというのも、また事実 しかし自分の裏切りをごまかすために、賤ヶ岳の後勝家が自分の城に寄って「お前は秀吉につけ!」
って言ってくれたんだよ!なんて嘘八百をぬけぬけと捏造した前田利家だけは許せない。
裏切るなら堂々と裏切れ。 >>274
東美濃勢の大半は柴田方といえる気がする。
逆に織田家臣で秀吉方についたのは、
織田信雄、丹羽長秀、池田恒興、筒井順慶、細川幽斎、
中川清秀、森長可、毛利長秀、蒲生氏郷、堀秀政、長谷川秀一、、
秀吉方についたのが裏目に出た武将も多いね。
・織田信雄→家康と組み小牧・長久手の戦いを起こす。
小田原攻めのあと、改易。
・丹羽長秀→織田氏をないがしろにする秀吉を憂ううちに、病死。
しかも子の代では領地削減。
・池田恒興→長久手で戦死。
・筒井順慶→立て続けに出陣を強要され、小牧・長久手の頃に若くして病死。
・中川清秀→賤ヶ岳で戦死。
・森長可→長久手で戦死。
・蒲生氏郷→会津に転封、若くして病死。
・堀秀政→小田原攻めのとき、若くして病死。
あれ?高山右近が忘れられている。
高山も、伴天連追放令で不適合扱いに…。
ちなみに高山は賤ヶ岳のとき、柴田と戦う気なかったっぽいね。
>>283
前田は勝家にも秀吉にも子供を預けてるから無茶はできんだろ
どちらとも戦わずに撤退するという策しか実際にはなかっただろ
勝家側からの出陣要請を断ったら内通を疑われて先に潰される可能性があるし
筒井順慶は30歳で20万石以上だから、長生きすればどれだけの領地を得られたことか >>285
賤ヶ岳での右近はかなり消極的だね。
中川清秀との意見の相違だとか、父親が勝家の世話になったせいもあるかもしれないけど、
戦況によっては寝返り、それでなくても不戦に近い立場。
寝返り予備軍みたいなのは多かったんだろうな。
だから勝家も盛政の強攻策に乗らなかった。
結局主な武将は全く寝返らなかったけど。 >>289
高山右近のほか、細川藤孝、筒井順慶、蒲生氏郷あたりが、
隙あらば勝家側に寝返ろうと考えていたかも。
たまたま領国が近畿周辺にあったから、秀吉の傘下にいただけで。
逆に柴田方にも状況次第で秀吉に寝返る武将は多いだろうと勝家は考えてたのかもな
結局は織田家の内輪揉めだしね
ただし勝家が強攻策を頭から拒否したり佐久間盛政に押し切られて渋々認めたという逸話はダウトだ
佐久間盛政が行った迂回作戦は、柴田方全軍が積極的に協力しないと発動も無理な作戦
そして迂回した佐久間勢が中川たちの陣を強襲するのと同じタイミングで、
柴田方本隊も南下し、羽柴秀長の主力を釘付けにしてる
佐久間勢の後詰をするために前田勢も移動して背後の山を固めていた
秀吉・秀長が柴田勢を誘い込もうと罠を仕掛けたというのは戦の後の作り話
秀吉方は秀吉が在陣していた時は盛んに挑発を仕掛けたが、秀吉が美濃に移動してる間は柵を増設するなど守りに徹していた
長良川の増水で足止めされた秀吉が、おかげですぐに戻ってこれたのが真実
それを証明する、秀吉から堀秀政に宛てた書状が残ってる
そして後詰がいるおかげで佐久間勢は崩壊するどころか、疲労困憊の秀吉軍の追撃部隊を逆襲して徐々に後退した
前田勢が突然持ち場を離れるまでは こうやって見ると盛政は本当不憫だな。
前田家が江戸時代通して生き残ったこともあって、
再評価できるような環境になかったのかな。
賤ヶ岳合戦の実像については戦史研究もされてるけど、一般レベルだと全く認知されてないね。 >>291
なぜ柴田勝家が佐久間が持ち堪えている間に総攻撃を仕掛けなかったのか不思議。
そうすれば余呉湖の西と東で羽柴勢を攻めることができるから、
佐久間の援護にもなるし、部下の裏切りも発生しづらくなるだろうに。 佐久間が自陣へ一旦戻り再び打って出る時こそが総攻撃の時
まさにその時裏切りが発生
前田からみてもそのタイミングしか寝返るチャンスは無いよ >>293
前田勢投入→勝家本隊が総攻撃って流れでしょ。
でも前田が裏切ったから、
勝家本陣側の武将は「前田勢が撤退=佐久間勢潰滅」とみて戦意喪失して逃げていった。 戦意喪失したかは知らないが佐久間が全滅(ありえないけど)しても突然逃げる事は無いでしょ
前田の殿がが柴田の軍に潰されているから裏切りは瞬間的に判断されていたんだと思うよ
味方なら襲い掛かる事は無いだろう 前田の家臣が書状に残してるけど、
撤退中の混乱下で前田隊を攻撃したのは羽柴軍だよ。
裏切りを察知した柴田方じゃない。 前田が攻撃してきたなら反撃せざるを得なかっただろうけど、
撤退していく後方の前田家を攻撃するような余裕あったのかな。
それも必死の防戦中に。 戦闘前にすでに寝返る決意はしてたと思うがなあ
当時、本拠地が能登国で、早めに寝返ったら加賀の柴田軍団最強部隊の佐久間盛政軍と
これまた最強説のある越中の佐々成政軍に袋叩きにされるから、
最後の最後まで寝返るタイミングを見計らってたのだろう・・・ >>300
秀吉は全軍あげて佐久間追撃しているわけではないから、この時点で勝家は動けないと思う
佐久間が自陣に戻った時に追撃部隊も届かない場所まで引き揚げるかもしれない
そしたらお互い手を出せない元の膠着状態に戻る
盛政が再び出なければ秀吉側も総攻撃をかけれない=勝家も動けない
そんな感じがしない?勝政次第だけど 勝家につかなかった武将が多いな、人望が無かったのかな権六さんには 大義名分はどちらにも無いから別に勝家についたっていいんだけどな
明智の反乱の時は謀反だから光秀には大義名分ないから
秀吉についたのは分かるけど
賤ヶ岳の時は謀反でもなんでもないから別に勝家についたっていいんだけどな
丹羽とか池田は何やってたんだろ 北ノ庄の囲んでる際に諸将から助命嘆願が出てるし、
むしろ人望はあるほうだろ。 丹羽は親子で参戦してる。
大義名分がなければ、柴田と羽柴の陣営比べて、石高の多い方につくでしょ。
そもそも柴田陣営は北陸、岐阜、伊勢等東側に固まってるから、
柴田側につくと明言したら真っ先に孤立する。
丹羽は本能寺の変で秀吉より近い位置にいたにもかかわらず何もできなかった負い目があるから。
>>287
まあな
前田が秀吉軍相手に奮闘→秀吉に出してる娘が危なくなる
前田が裏切って勝家軍を攻撃、もしくは前田が最初から出陣拒否→勝家の城にいる娘が危なくなる
だからな、戦に出てからの撤退が一番の方策だろうね
人質のためとかそんな殊勝な理由じゃないと思うけどな。 そもそも利家が秀吉に人質を出してる事がおかしいよな。 いや人質見捨てないのは殊勝な理由でもなんでもなく、利益目的だろ
血縁を簡単に見捨てるような奴なら、血の繋がってない俺らなんて…と兵士どもに思われちゃ商売あがったりだからな >>305
若狭や北近江だから、むしろ秀吉側の方が孤立する気がする。
柴田は丹羽の方から切り崩すべきだったんじゃないだろうか。 長島で破れ、謙信に破れ
出世競争で羽柴、滝川に抜かれ
殿からの信頼度で丹羽、明智に劣り。
柴田勝家こそ、
「過大評価されすぎスレ 」
が必要だと思う。 >>314-315
抜かれてない、敗れてないと思っている様だけど、
実質的には負けているんだよ。 柴田がいつ長島で破れたのか
まさか殿やって負傷したのを負けとか言ってるのか? 負傷したあげく旗指物まで奪われて殿の役目を降りているけど。 戦果を挙げられずに退却を命じた信長が責められるべきなんじゃねーの?wwww 戦も上手くない、外交もとろい。
信雄と信孝の争いも調停できない。
こんな古置物が瞬間的に織田家重臣筆頭扱いされるとは、
信長も予想外だったよな。 都合の悪いことは答えられないんですね^^
はよ寝ろ 殿の失敗を信長のせいにして何の意味があるのやら?
それに信盛、一益、秀吉は、そんな大失敗の記録ないから。 そうだね。
信盛は本願寺攻めの失敗で更迭されてないし、一益は戦で大敗したことないし、秀吉は無断撤兵なんてしたことないしね。
確かに3人に大失敗はないわー。 >>323
信盛は「本願寺攻めの失敗」で更迭されてない。
一益は戦で「勝家級の大敗」したことない。
秀吉は無断撤兵なんて「したかどうかよくわから」ない。 >>324
>信盛は「本願寺攻めの失敗」で更迭されてない
失敗以前に何もしてないからな、とでも言ってほしいのかい?
屁理屈のレベルだな。
>一益は戦で「勝家級の大敗」したことない
殿で負傷したことがいつの間に「大敗」に?
そもそも勝家は無事に信長を逃がしてるんだけど?
あと一益は神流川の戦いで大敗してるから。
>秀吉は無断撤兵なんて「したかどうかよくわから」ない
確実にしています。
ついでに小牧長久手も大失敗だね。 そうですねw信盛に対する折檻状からして大坂攻めだけでなく大失敗だらけですね。
その同じ折檻上の中で、光秀、秀吉、池田恒興と並んで、柴田はわざわざ一条設けて功績を褒められてるな。
信長公記に「羽柴筑前御届をも申上げず帰陣仕候段、曲事の曲御逆鱗なされ、迷惑申され候。」って書かれちゃってますけど。
あと勝家級ってなんだwww 柴田勝家は前田利家に裏切られたのが痛い
利家が信長公のお気に入りの茶坊主を斬り殺したとき、勝家が止めなかったら
その場で手討ちになってた その後浪人中も世話をし、再就職を支援した
北陸軍司令官になったときは利家、成政らは目付け、監察官のような
存在だったようだが、利家は勝家を親父殿とよんでずいぶんなついてた
そんな男の寝返りを許すようでは甘いし、どこかカリスマが足りなかったのかも
知れない >>325
信盛が更迭されたのは「本願寺攻めが成功した」からだろ。
>信盛は家中に於いては特別な待遇を受けている。
>三河・尾張・近江・大和・河内・和泉に、根来衆を加えれば
>紀伊にもと七ヶ国から与力をあたえられている。
ここに大坂を加えるなぞとんでもないと、信長から危険視されたのが真相だな。
ある意味有能すぎた為に早々に追放されたとみるのが正しい。
>>326
柴田はわざわざ一条設けて褒められたってこれか?
>柴田勝家もこれらの働きを聞いて、越前一国を領有しながら手柄がなくては評判も悪かろうと気遣いし、
>この春加賀へ侵攻し平定した。
ギリギリセーフという感じだな。
>>325
殿の話と、戦の話を混ぜてるのはそちら。
殿の話でいえば、
・退き佐久間
・進むも退くも滝川
と
・負傷したあげく旗指物まで奪われて殿の役目を降りた勝家
じゃ役者が違う。
しかも信長を逃がしたのは、勝家と交代して死んだ氏家卜全だし。 >>327
森、堀、長谷川、丹羽、池田、蒲生と誰も勝家に着いてきていない時点で、
調整能力の欠如が見られる。
あげくに与力からも見放されるんじゃ、重臣として何を統制してたのやら? >>328
違う。
信盛は本願寺攻めが成功した後に、本願寺攻めでの失態を理由に更迭された。
信盛に大坂を与えたくないなら追放する必要なんぞない。
ただ与えなければいいだけ。
追放はできるが大坂を与えない事は出来ないなんてのはありえん。
>>330
どっちも後世の軍記物の話じゃねーかw
「退き佐久間」「進むも退くも滝川」「旗指物まで奪われて」全て軍記物の話。
>信長を逃がしたのは、勝家と交代して死んだ氏家卜全
なら信長を徹底させるという作戦目的を達成した功績は、勝家と卜全で半々くらいだわな。
>>332
「誰も」とか書いちゃって、他にも織田家の家臣はいるだろ。
あと勝家が与力を統制しちゃダメだろw
与力は直属の家来じゃないんだから。 勝家は頼りないんだよ
この人についていってもダメだと思われたらおしまい 何なの、新年のしょっぱなから勝家のスレ荒らしてるなんて、ばかじゃないの?
勝家には誰もついてこなかったって?
いやいや、十分いるじゃないの。
信長の身内では、織田信孝、お市の方。
他は、滝川一益、金森長近、佐々成政、佐久間盛政…
前田利家は賤ヶ岳から逃走しちゃったけど。
ところで、手取川の戦いって、本格的な合戦ではないんだっけ?
織田軍が七尾城を救援しようと能登へ向かったけど、
すでに城を陥落していた上杉軍に加賀で迎撃された合戦でしょ? >>336
迎撃されたというよりは、戦わず撤退してるところに追撃を食らったって感じだな。
金ヶ崎の戦いと似たようなもんじゃないか? 手取川で大損害を出したってのもひょっとすると上杉側の情報操作かもね
信長公もよくやった手だ 手取川で信長大敗北っていうのは江戸期の北越軍談が初出だったはず。
しかも作った理由が幕府の推した甲陽軍鑑に対抗するためという
いかにもな理由 元日から沸いてるのは荒らしというよりアンチだなw
それもKOEIのゲームに出てくる知識しか知らない感じのw >>339
正確な損害がわからんからねえ。
というか軍勢そのものには大して被害が出てない感じなんだよね。
伊勢長島のように死んだ有力武将もいないみたいだし。
もちろん、北陸における織田家の勢力圏内にも上杉に通じるものが出てくるけど。 なんで勝家は織田家の武将を纏められず空中分解しちゃったんだろう? 秀吉も織田家の武将で秀吉の方が人望あったからだろ
秀吉が嫌われてたら勝家一本にまとまった筈だ 信孝が下手に秀吉に手を出さずに大人しくしてたらどうなったんだろうね
戦の口実が無くなるから柴田には手は出せんぞ まともに戦ったのは盛政だけか
前田ってムカつくよな〜っ 人望でも実力でも秀吉に大きく劣っていた
秀吉の軒先で馬を繋ぐ決断ができなかった時点で勝家は死ぬ運命だった 秀吉には馬を繋がせる気なんてはなからなかっただろw
織田家の縁戚で、長年の功績で言えば秀吉より上なんだから。
だからこそ諸将の助命嘆願を断わってんだし。 人望、好感度自体はどうだったからわからんけど、四方八方に敵を抱え、カリスマの塊の
信長公が死ぬという緊急事態で織田家臣はみんな誰がリーダーなら、誰についていけば
生き残れるかって考えたんだろうな そうなると多少秀吉のことが嫌いなやつでも
生き残るのは秀吉だろうって思ったんじゃないだろうか そもそも柴田勝家って信孝や一益が挙兵しなかったら、
どうする気だったんだろう?
朝倉義景なみに動きが鈍重じゃね? 領国が越前だから春まで兵が動かせなかっただけ。
ぐぐったら分かるようなこと書き込むなよ。 >>352
あ なんかお市さまが勝家みたいなジジイの嫁になった理由がわかったような気がした
お市さまたち、織田家の遺児たちは秀吉がリーダーになると絶対に簒奪されると
確信してて、なんとか反秀吉連合をつくろうとしてたんじゃないだろうか
そのリーダーになんとなく腰の重い勝家をすえるため、お市さまが飛び込んで
いったのではあるまいか 単純に思うことは、勝家と秀吉がなんで戦ったのかということ、戦う必要ってある?
勝家ファンは織田家を守るために戦ったと言うけど、織田の重臣のほとんどは秀吉についてるし
なんかそれは無理があるよね
やっぱり勝家に天下取りの意志があって
それで同じく天下をねらってた秀吉と争うことになったと見るのが自然だよね そもそも雪解けと同時に戦う気があるのならば、
長浜や岐阜を積雪前に確保しとくべき。
勝家には秀吉と違い、準備の様子が見られない。 一方の秀吉は
・他の家臣から人質を集める(織田家に無断で)
・なぜか味方領に面した場所に新しく城を作る(織田家に無断で)
>>355
秀吉がなんにもしなきゃ戦う必要はないわな。 この後何もしないのにパタパタと旧織田家重臣が倒れていくのは見事だ
綺麗にみんな死んだもんな?
秀吉すげーわ >>355
織田家を守る気があったのかどうか。
信孝、信雄、三法子の誰を選んだのかもよくわからない。
野心どころか、状況に流されて挙兵しただけだと思う。
歴史の皮肉だよな
秀吉が北国方面任されて、勝家が中国方面任されてたらどうなったんだろ
秀吉は雪で動けない場合が多くなるぜ? 本能寺の変もだけど
全ての出来事が秀吉の都合のよいように回ってるような気がするわ
池田と森が討ち死にしたのも含めて >>364
その部隊に対し集中的に射撃されている銃弾を流れ弾とは言わない。 かっこいい死に方
なんかもう死ね!って烙印押されて死んだ感じする
武蔵さん大好きなんだけどw 権六www
羨ましい
助命嘆願ってされてたの?
なら生き延びてやりまくりの余生過ごしても良かったのに >>367
長可は戦国板だと何かと話題になるけど、
世間一般では秀吉ageの為に間抜けな武将扱いされてる気がする。
そのへんの扱いが柴田と被ってるな。
柴田スレだから無理やりこじつけただけなんだけどw >>357
まったく同意。
勝家の側は仕掛けられた戦争にすぎない。
それどころか対立自体、秀吉が、三法師、信孝、信雄を排除して、養子の秀
勝を立てて信長葬儀を強行して強引に持ち込まれている。
勝家が北陸を抑えることに四苦八苦し、信孝が(最もおさめにくかった)美
濃の経営に足をとられているときに、気が付いたら秀吉がすべて準備を整え
ていて襲いかかってきた、というところだろう。 60過ぎだもんなあ
現代でも定年退職する年齢
亡き右府様の妹君を妻に迎えのんびり暮らしてもバチはあたるめえ
北陸では、上杉と対峙し、一向一揆勢生き残りや(一応鎮圧されたとはいえ)畠山旧臣など織田家への強力な反感をもつ連中が生き残っているただなかで、まだまだのんびりできる余裕はなかったでしょう。
岐阜にいた織田信孝を越前へ招き入れて、
賤ヶ岳になんか出ないで、
北陸だけで王国を作ってみてほしかったわ。
>>378
12月に三法師を奪われるまでは、実質三法師―信孝政権だったので、面白
い展開になったのでは。
ただ、秀吉は、京畿の経済力と朝廷を抑えていたところに強みがあった。
それにしても、秀吉が、もとから三法師を擁していたように言って、信
孝、勝家を「三法師への謀反」などと正反対に描き出したのは、権力闘争
の常道とは言え、すごいけれどもあくどい。
秀吉が行ったことは、三法師―信孝政権への光秀なみの謀反に他ならない。
(別に謀反を道義的に非難する立場ではないけれど) 小山評定後にアッサリ帰った真田
万石も無ければ、将軍にも媚びない喜連川氏
1万500石でも苗木城持ち遠山氏(金さんの親類)
家光側室の町人だった増山氏 米が取れない松前氏など
【陪臣・喜連川ほか】 「小大名」スレ 2 建てました
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1329412330/l10 首都である京を、秀吉が抑えたのは大きかっただろうなあ
勝家は利家に裏切られたのがひどい 利家自身が命の恩人と
呼んでいたのに・・・ 命の恩人でもついていけないほど劣勢だったのだろうか・・・ 利家が裏切ったのに、利家を攻めなかった勝家。
この辺を勝家の甘さととらえて、利家等をつなぎとめきれなかった要因だという歴史家もいる。
しかし、そうだろうか。 利家だけじゃなく不破、金森もだし仕方なかったというか
勝家的に彼らをそこまで攻められるような状態じゃなかったんじゃない
敵といっても利家、不破、金森達からすりゃ秀吉はこの間まで同じ主君に仕える同僚だし
何がなんでも倒さなきゃいけない憎い相手でもない
自家を守る為には勝機のある奴につくしかなかったんじゃないかと(始めから秀吉に付ける位置じゃないし)
小さな会社社長の父を持つ俺は思ってしまう 事前に調略されてた前田と、戦の趨勢を見て逃亡した(せざるを得なかった)不破金森は一緒じゃないだろ。
与力連中の逃亡は前田隊の撤退が原因なんだし。 利家は事前に調略されてて、不破金森はされてないって断定して話してるけどソースあるの? うちは柴田外記の直系に近い。
『もみの木は残った』のおかげで、一転、悪者になってしまった(泣)。
勝家も秀吉のおかげで正反対の悪者にされ、少し親近感を感じる。 柴田家って大昔に織田家から枝分かれした家系ってほんとかな?
聞いたことない?そんなウワサ 斯波氏の庶流ってのは聞いたことはあるが、織田氏ってのは聞いたことがない うむ
先祖が斯波氏なんだって聞くと「お、鬼柴田の末裔か?」と聞き返すのがデフォ
99%が残念ながら勝家の血は流れてないと返答がくる 佐久間系統はともかく、勝家の直系の子孫はいないんじゃないか? 昭和3年(1928年)11月10日、宮内省より贈従三位に叙位された。 勝家が支配してた当時越前一国で動員できる兵力ってどのくらい? 1万石あたり250人だとして、
勝家の所領49万石→約12000人 元亀元年の、信長と半信長派の「勅命講和」の『尋憲記』の記事に
「朝倉義景と浅井長政は営所を焼き、青木景忠の子と魚住景固の子を人質として信長に送り、
信長は稲葉良道の子と柴田勝家の子を人質として送った。
また将軍義昭は奉公衆三淵藤英の子を朝倉方に人質として送った」
ってのがあるんだが、この「柴田勝家の子」って誰だ? 武骨の性格で、その秀でた武勇から鬼柴田と呼ばれ、江戸中期の随筆『翁草』の小唄の1節に秀吉らとともに、勝家は戦場における突進力では随一という意味でかかれ柴田と評されている。 勝家がBASARAに出てたらどんなキャラにされてただろうか 勝家って丹羽に見捨てられ、前田、不破、金森に裏切られ、
意外に人望無かったよな
人柄が厳しすぎたのかな それらの連中は与力であって勝家の家臣ではない。
だから敗色濃厚になれば生き延びて家名を守るために鞍替えするのは当たり前。
また、北之庄を囲んでる際に諸将から助命嘆願が出たのを、秀吉が「自分の庭に虎を放つようなもの」と断ったという経緯もある。
むしろ人望はある方。
つーか、このスレは話題が少なすぎるせいで、その話題と、忠臣論争やら、賎ヶ岳の意思決定やらの話題は何度もやってるからログ嫁。
>>383
前田も恩を感じてるからこそ勝家軍として出陣したんだろう
本来なら秀吉軍につきたかったのでは
織田の重臣はみんな秀吉についてるし
それで恩は返した感じ
あとは勝家と秀吉でどうぞということだろう
だからどちらにも攻撃せず撤退した
その通り。和平交渉の場で丸め込まれた挙句、最悪のタイミングで撤退してるんだから、恩返しどころか後ろ足で砂をかけてる。
褒められた行為じゃないからこそ、「もう一戦交えるために撤退した」とか前田自身が家譜の中で弁解してる。
ただ、前田は柴田の同盟者であって家臣ではないし、
当時、寝返りはままあることだし、生き残る為には仕方がない面もあるから倫理的な批判ばかりしてもしょうがないというだけ。 でも利家は酷い裏切りをした割にはあまり非難されていないよね、その後。
小早川秀秋は関が原後かなり非難を浴びてそれを苦にしてみたいだし。
何が違うんだろう。 金吾さんは早死したからみんなから言われ放題なのと
あと本戦では事態を静観した後に参戦って形だったから
「迷いに迷った挙げ句戦況の有利な方についた」みたいな誤解をされたんだと思う。
開戦当初からガンガン西軍に攻撃してたら別にそこまで言われなかったかと。 その後の道を誤らなかったからな、秀吉の基盤が弱かったのも良い方に働いたな その上、秀吉は宣伝がうまい。
うまいというより、秀吉は、『天正記』を書かせ、公家などの前で
読み聞かせたという。計画的で徹底の度合いが凄い。
秀吉の印象など、秀吉が作り出したものがかなりあるのではないか。
その中で、利家を善玉にしている。
秀吉(およびその周囲)が創った歴史で、まだ生き延びている者はずいぶ
んありそうだ。 前田の裏切りってどうもピンとこないんだよね
後ろから柴田を攻撃して秀吉を勝たせたというのなら立派な裏切りだが
前田は秀吉軍の勢いに押されて撤退しただけだからな
明確な裏切りという感じじゃないんだよな
関ヶ原で島津が戦わずに撤退したけど裏切りと言えないでしょ?
同じだと思うんだよね。 そもそも攻め立ててくる東軍を相手に防戦するので精一杯だったって説もあるし。 >>411
別に利家隊は秀吉方の勢いに押されてないよ。
秀吉到着以後の戦況は大体の以下の流れ。
佐久間盛政隊を攻撃したものの、秀吉の手勢は強行軍で弱ってたため、
まんまと撤退された上に被害を出したのでターゲットを柴田勝政隊に変えたんだけど、
押される勝政隊を見て盛政隊が加勢して一進一退の状況になった。
そこで盛政隊は当然、背後の利家隊が加勢にくるものと思ってたのに突然撤退されために戦線が崩れた。
さらに勝家本陣側の諸将も利家隊の撤退を見て右翼が完全に崩壊したと早とちりして総崩れになった。
要するに秀吉方の勢いで利家隊が撤退したんじゃなくて、利家隊が撤退したから秀吉方が勢いづいた。
事の順序が違う。
そういう意味で戦史研究ではあれは裏切りだと言われてる。 もしこの時柴田側が勝っていたらその後の織田家、天下の推移はどうなったんだろう。 まあ、そうだけど興味があって。
誰が天下の推移を束ねたんだろうってね。 勝つなら秀吉が戻る前に決戦しないと、佐久間が行った時に決戦の決断してれば面白かった
そこで勝家が動けば相手は凄く動揺したはず、秀吉不在で相手の士気も落ちてただろうし
前田の裏切りを恐れて動けなかったという人もいるけど
恐れてたなら参戦はさせないだろうし、まずあんな場所に置かないだろう
本当に疑ってたら一番前に置くよ普通は
第一、前田からは人質取ってるしね
>>418
勝家本体は、堀秀政の陣に封じられていた。
勝家が、佐久間に引き返せ、とばかり言ったというのは、話を面白くする
創作だと思うのだが。
>>415
勝家は、賤ヶ岳で勝条件はあったと思うが、その後、なかなか大変だった
のではないか。
秀吉は、賤ヶ岳で勝っただけでなく、北の賞まで攻め込んで直ちに勝家を
倒すことができた。これは、前田利家も大きくあずかっているので、利家
の「裏切り」による功績は、賤ヶ岳だけではない。
賤ヶ岳で勝家が勝てば、近江北東部―美濃―尾張から、まだ一益が抵抗を
続けている伊勢の線まで支配は及びそうに思う。
しかし、勝家が賤ヶ岳で勝っても、秀吉が逃げ伸びるなら(その可能性が
高い)、宝寺城(山崎天王寺)にこもるなどして、簡単には倒すことは難
しそうだ。
同盟勢力内での秀吉の信望は落ちるだろうが、京畿に基盤を持つ強さは、
すぐには崩れないのでは。
一時的に群雄割拠敵になるのか? 本当に答えのないifの世界とは思う。 >>419
なるほどイフでも面白いなあ。
でも結局の所歴史的ナ意味では秀吉が勝つべくして勝ったんだろうな。 勝家が勝った場合、勝家は家康などと共に足利義昭が京に戻ることを認めて、後援していたフシがあるので、
義昭を盟主にしたゆるい体制が形成された可能性がある。
何度目かの室町幕府大復活だなw 前から疑問に思っていたけど柴田勝家は織田家を簒奪しようとする秀吉に
対抗したという位置づけで織田家忠臣と言われるけど本当にそうだったの?
しずがたけ(だっけ)の戦いはあくまでも織田家内乱だし、秀吉が織田家
簒奪に動くのはこの戦い以後だよね。
彼も結局自分の利で動いたに過ぎず、単にそれが秀吉とベクトルが違う
だけのような気がする。 言われてるけどって書いてるけど、誰が忠臣って言ってるんだ? 誰ってわけじゃないけど、自分が今まで読んできた資料とか本、ブログ
とかかな。
結構そういう論調が多いのよ。
あと前スレでもそういう論調で語り合っていたから。 秀吉と比べれば家中融和に動いてた気がするが。あくまでも秀吉との相対的評価でしょ。
無私のご奉公なんてあり得ないし。
勝家は織田家の体制維持と繁栄が自分の利益につながると考えてたんだろうし、その前後どちらに注目して見るかで違ってくるしな。
かといって世間で勝家が忠臣として持ち上げられてるかと言えば全然違うし、
むしろ嫌な上司とかかませ扱いじゃん。最近ちょっとドラマ等のメディアでの描写がマシになったくらいか。
結局、秀吉ファンが勝家を忠臣として秀吉と対置されるのを嫌がってるだけにしか見えない。
秀吉よりは織田家に忠義があったかもねで終わる話だと思う。 勝家は譜代重臣だから秀吉と比べるとどうしてもそういう評価がされるな
結果論になるけど他の譜代家老クラスで戦う姿勢も見せずにホイホイ秀吉に
従ったのは丹羽長秀一人だけ
先祖代々てのは忠義の重みが違うからのおと言う世界 信長死後の丹羽長秀という人物の心情は掴みづらいよね。
信長の姪を妻にして、信長の娘を息子の嫁にしている程で重臣の中では
誰よりも織田家に関係が近い。そして彼自身信長の幼馴染でもある。
だから秀吉が織田家簒奪していくのに全く抵抗らしき事していないのが不思議。
勿論当時はお家大事というのはよくわかっているが。
ただ佐々成政の一連の行動と比べるとどうにも薄情に見えてしまう。
秀吉から羽柴姓を賜っても自身は信長から賜った名前を終生使用していた
から(といっても羽柴姓を賜ってから死ぬまで短いんだけどね)、彼自身は
複雑な思いがあったんだろうけど。
それで結局長秀死後がっつり丹羽家は領地削られて他の旧織田家臣達
と比べて冷遇されてるんだから残念だよな。 じゃあ本能寺長秀黒幕説で。つか良岑丹羽氏って外様じゃ無いの
同様に色々と信長に近い池田恒興と、
信長に個人的に厚遇されていた逸話の多い森長可もホイホイ秀吉に従ったし
織田家はともかく信長の築いた織田勢力圏を保持するには
秀吉に万事任せた方がいいという認識がそれなりの勢力であったんじゃね >>428
まあ、池田恒興と森長可は自身が戦で命を落としたからなあ。
ただ彼らのお家はそれなりに優遇されてんのよ。
秀吉が織田家簒奪の過程で丹羽家が果たした役割は池田家や森家
よりずっと大きかったのにね。 若輩者には大権を与えないってのは戦国末期の流れの一つだからな。致し方ない。
例を出すなら上杉や武田の後継者が幼少なら領地か軍勢半分預かりとか
豊臣政権だと丹羽家は政権が固まり切ってない時だからじわじわやったが
蒲生なんかはさっくりだし、宮部継潤は佐々の前に熊本を与えられる予定だったが
自身の高齢、後継者が幼少を理由に辞退してるがこれも先を見越したものだろうし
江戸幕府では岡山池田藩国替えとか 丹羽長秀は秀吉が織田家から簒奪を繰り返すので憤死したようなものじゃね?
実際に自殺だし。
浪人から取り立ててもらったんだから、織田家を裏切るような事はしないと思ったのだろう。
>>427
大坂で信孝と喧嘩別れしたのかも
>>432
きっと秀吉のことだろう 権六そばってなんでカツなの?
そばにカツっておかしくないのか福井県民 >>438
おいおい、福井県民に対して失礼じゃね? >>443
別に仲悪くはないだろ。政治路線が違っただけの話で >>443
この問題、気になって少しだけ調べたことがある。
勝家、長秀不仲説は、どうも根拠が弱く、444さんの見解の方が妥当に感じる。
長秀は、元々、琵琶湖管理の一中心だったようだが、坂本城を得て、若狭―
琵琶湖―大坂(大阪は本能寺の変までだが)という、この時代、日本を縦断
する交通・交易の中枢に深くかかわった。
この時代は、日本海側の方が概して先進地域で、この縦断路の位置は非常に
大きい。
他方、清洲会議後、秀吉は、京畿の権威及び経済を掌握し、急成長している。
長秀が築いてきた基盤と秀吉の基盤とは分かちがたく絡まり結びついていた。
こうした清洲会議後の状況で、秀吉は、突然に、信孝・勝家陣営に対して、
一方的に挑発し「喧嘩を売り」、戦端を開いてゆく。
(清洲会議以来の対立とか、清洲会議の決定に対する信孝側の違反・謀反な
どというのは、秀吉側の完全なデマである。違反は、三家老による信雄推挙
など、秀吉が先に大規模に行ったことで、三法師の安土移動問題は家臣の側
からの織田家に対する無法な難癖にすぎない)
長秀にとって、秀吉と対立する側に行くことは、長秀の社会的・経済的基盤
から見て至難であったはず。
清洲会議後の対立の土台には、京畿派(秀吉、長秀、恒興)と、あえていえ
ば美濃・北陸派(伝統的基盤、国内に本能寺の変以来の統治困難状況を引き
ずってきたことで共通)との対立があり、それを秀吉が利用したという構図
になっている。
勝家、長秀の不仲が主因には見えない。
信孝は、秀吉による三法師―信孝体制に対する軍備、挑発を、かなりあと
まで、家臣間の対立ととらえ、両者の和解を期待している。残念ながら、
かなりお人好しだった。
勝家も、秀吉のように狡猾にはなりきれなかった。
それを秀吉に利用されつくした。 清須会議を読んだけどスゲー楽しかった
映画も楽しみだ >>445
大変面白かった
しかし勉強不足で下記の部分がよく理解できなかった
できれば参考史料か、詳細を教えて頂きたく
・違反は、三家老による信雄推挙など、秀吉が先に大規模に行ったこと
・信孝は、秀吉による三法師―信孝体制に対する軍備、挑発を、
かなりあとまで、家臣間の対立ととらえ、両者の和解を期待している。 丹羽は清州会議の時は他の4人と比べて領地も狭いし格下扱いとなってたからなぁ みえみえの釣りだけど正月だから釣り上げられとく
>>448
池田さんより領地が狭いのかよw
格下の根拠はなんだw
他の4人とは柴田さんと羽柴さんと池田さんとあと誰だw
もしかして、信長の側近No.1で安土城を完成させ、大坂城を普請し、
四国攻めで加増間違いなしだった一人なのに一羽、二羽と数えられ… 秀吉は清州会議で「新規の築城停止」を約束したのに、それからすぐに山崎城を建築するようなことしてるからなあ 清州会議の後に毛利が丹羽さんに対して秀吉の部下扱いした書状を送ってるんじゃなかったっけ?
領地とか他の宿老達より全然狭かったし、信長の中で他より格下扱いされてたのは事実だろうね >>452
長秀さんの全体評価では、それほど格下扱いではなかったと捉えている側
だが、451さんがいう手紙はあったはず。
毛利輝元が丹羽長秀と蜂須賀正勝にまったく同文・同形式の書状をだした
ことを指しているのだろう。
ただ、これは、本能寺の変の後、秀吉が力を付けた時期のもので、信長存
命期の評価に直結させられないとは思っている。 http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1119963598/287
瓶汚し柴田
元亀元年6月、六角承禎は5千の軍勢で長光寺城を包囲した。
対する城方は柴田勝家と8百の兵のみ。
近くの川から引かれた城に通ずる水路は断たれ飲み水も残り僅か。
落城は時間の問題と思われた。
勝家「水なくしてこれ以上の篭城は不可能、ここは敵の囲みを破って脱出するしかない」
勝家は将兵を台所に集めると僅かに水が残った瓶を前に逝った。
なにかを言ったのではなく、瓶の前で自慰をして逝ったのである。
将兵壱「ああっ!貴重な水が汚れてしまった・・・・」
将兵弐「こんな白い物が浮いた水はもう飲めぬぞ!!」
勝家「よいか皆の者!もはや水を飲むことは出来ぬ!」
生き延びたくば敵の囲みを破り、岐阜までたどり着くのじゃ!!」
これで水を断たれ意気消沈していた将兵の士気は上がる!
勝家はそう確信していた、だが・・・・・。
将兵壱「このバカたれがぁっ!!貴重な水に何するだ!!」
将兵弐「そうだそうだ!!こんなもったいないことしやがって!!お仕置きじゃ!!」
兵士たちは勝家を取り囲むと彼に襲い掛かった!!
将兵壱「罰当りめっ!食らえい!!」
勝家「ぎゃあああっ!しっ尻が裂けるうっ!?」
将兵壱「ふんっ!ふんふんっ!!」
勝家「痛いっ!痛いーっ!!うっ動かないで・・・っ!!」
将兵壱「嘘を言うな!こんなに股の竿を硬くしおって!!」
こうして兵士達の暴挙は丸1日続いたが、
勝家の尻の絞まりに満足し十分に英気を養った彼らは
翌日、六角承禎の軍勢を蹴散らし悠々と岐阜へと帰っていったのだった。 >>453
摂津のおそらく3分の1、つまり4万石程度の池田と、
若狭10万石と佐和山を有する丹羽を比べれば明らかに丹羽が格上だったろうに
柴田や羽柴に匹敵する発言力を持っていてもおかしくないと思う。
それとも若狭武田氏の反乱で急速に立場を失ったのだろうか? >>446
普通、原作読んだら映画は楽しめないものだと思うけど 池田って清州会議での四宿老に挙げられているけど、
柴田・丹羽・滝川・羽柴より明らかに格下でしょ?
大和18万石の筒井順慶様のほうが上だわ。
でも滝川は北条氏との戦いで敗れて、四宿老から除外。
筒井順慶様も山崎の合戦には参加してなかった。
それに対して丹羽・池田は合戦に参加していたから、発言力もてたんだね。
しかしその論理なら、後継者織田信孝で良かったんじゃないかなあ?
信孝も山崎で戦闘に参加してたそうだし。 >>447さん、関心を持ってもらい感謝です。
この間、レスの時間がなく、今もまだあまり余裕がないので、今回は、前回
とあまり変わらないものですが、今後、なるべく答えてゆきたいと思ってい
ます。
>>458
清洲会議前後、清洲城周囲で、信雄軍と信孝軍が一触即発状態で、家臣の
兵が引き上げたら衝突になるのではないかとまで言われていた(日記など
複数の証言があったはず)。
そのような状況で、三法師は、信雄領になった尾張清洲城から岐阜城に移
された(秀吉が、岐阜城で改めて信孝に三法師を渡したという)。
岐阜城では、織田家当主三法師を、当主候補にもなった信孝が直接後見す
る形になっている。
これは、実質、三法師―信孝を当主とする体制と言えるのではないか。
たとえば、織田家直轄軍が出陣するとなったら、三法師の名代で直轄軍を
率いるのは、信孝ということになるはずだ。
信雄―信孝の衝突寸前という情勢で、清洲会議の結果、四家老が、三法師を岐
阜城に移した意味は小さいものではないと考えられる。
「信長葬儀」の後、秀吉ほか三家老が、信雄を担ぎあげて、この体制を強
引に崩してしまうが。 B'z
世界最強のロックバンド
エアロスミスとの共演を果たす
youtubeの画像で検索数トップをキープできるか
売上げは国内でも有数のセレブ >>401
ネガティブストーカーキャラになりました 大河のキャスティングは大概適当だけど
権六だけはやたら肖像画にこだわってるよな >>469
江〜姫たちの戦国
のときの大地康雄の勝家はよかったわ
今日再放送あっててたまたま見たらいい味だしていた 直金ルーブル共演センタクフィルターアップルとりでプラズマラーメン
直金ルーブル共演センタクアップルとりでちばラーメン
ETCスキャンじゃぶじゃぶくるーぽんプラズマクラスターらーめん
フェイスブック新幹線ダイヤ開票所速報わがまま女シート
中国あこがれフレンチインサイドパキスタンタンバリンドラマyo-fo-らーめん >>471
でも今年はなんで勝野洋が勝家じゃなかったんだろう?
近藤芳正と配役逆でも良かったんじゃない? 勝家って実子はいるのかいないのかパッとしないよなあ もし柴田でなく島田勝家だったら
秀吉も羽島秀吉になってたかと思うと
感慨深いものをかんじるな。 手取川の戦い上杉軍参戦武将※独自調べ
上杉謙信
上杉景勝
上杉景虎
直江景綱
上条織部
河田長親
鯵坂長実
長尾与太郎
河田吉久
吉江資堅
吉江景資
水原親憲
斉藤朝信
本庄繁長
安田顕元 真田と接点全くないし
賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破った秀吉は〜て
ナレーションで名前がでるだけやろね あんなのは苗字が同じだけで子孫でも何でもないw
プロレスラー(格闘家?)で戦国時代に関係深い人は高坂剛かな
もう20年以上前から高坂弾正の子孫だって取材受けてる 家康が苦手としてたのは、柴田だと司馬氏の本では書いてあったけどね。 こいつが玄蕃に全指揮権を譲っとけば本能寺前に上杉滅亡してたし秀吉にも負けなかったのにな ウィキペの清洲会議に
「それまで織田家臣団の中で最大の発言力を持った〜」とか書いてあるけど
勝家ってイメージほど織田家中で最大勢力ではないよね?
小物ではないけど2の線ってイメージ。いろいろ調べると ☆ 日本人の婚姻数と出生数を増やしましょう。そのためには、公的年金と生活保護
を段階的に廃止して、満18歳以上の日本人全員に支給する、『ベーシックインカム』
の導入は必須です。月額約70000円位ならば、廃止すれば財源的には可能です。
ベーシックインカム、でぜひググってみてください。お願い致します。♪♪ >>474
柴田勝敏
言うことを聞かない盛政への使者として
送った。
勝家の言葉を伝えるも既に敵が迫っていて
退却戦に巻き込まれ盛政と行動を
共にした。
敗戦後も盛政らと逃れて民家に逃げこむが、
恩賞に目がくらんだ村人にからめられ
秀吉の前に連れて行かれた。
そのあと斬首に。
まだ若かったためか目立つ活躍はなかった いるにはいるが年齢的にそれなりの年齢だったはずなのに
賤ヶ岳で死んだって連中しかでてこないから実質いないも同然だろ 最後に秀吉に「織田家を頼む」て遺言したらかっこよかったのに 茶々ら三姉妹を秀吉に渡したのはかっこいいと思う
浅井三姉妹が大きく羽ばたいて天皇家にまで遺伝子残したのも、
柴田の親父さんのおかげ 勝家こそ三姉妹の父 サンドウィッチマン&芦田愛菜の博士ちゃん 2時間SP★2お市のあずき 権六って結構ズルいよな
信秀が跡取り決めるとき当時の自分の主君の信行を推薦しておいて
拒まれるや後年になって信行に謀反を促して
信長にチクって鞍替え(自作自演じゃん)
こいつ出世したいだけでは 盛政と同時に、賤ケ岳に突撃してれば、勝てたんじゃね?
モタモタしてたから、利家が寝返るんだよ。
決断力が足りないわ 後から退却してきた柴田権六が、府中城に立ち寄って湯づけを所望したエピソードも、江戸期前田家の創作と解してよいのか そこは創作だろう
でも前田家にとって勝家とは悪く言える存在ではないからそういう話ができた >>496
言うことを聞かないって何?勝家から盛政に言うことあったかもわからないのに 信澄を養育したり
元信勝付だった盛次その子供たちの寄親になったり
成敗になりそうな前田利家を取り成してたり
この時期の勝家もなんだかんだ信長評価してたりしないのかね 柴田勝家はかかれ柴田で有名だよね
でも実は攻めの三左の森可成三左衛門とは結構仲良くて戦場ではよく同行していた
前田利家を命乞いしたのも森と柴田だし
はっきり言うと森三左衛門は信長青年期の右腕的な存在
蘭丸の父親なんだけどちょい早めに戦死したけど功績は明智光秀より大きかった
忘れないでもらえるとうれしいな >>520
可成三左衛門ではなく三左衛門可成
森よりは佐久間信盛か林通勝だろう
可成が亡くなってから羽柴同様明智は出世頭だけどそもそも比較する必要はあまりない
忘れておいた方がいいね @林秀貞(通勝)
A佐久間信盛
B柴田勝家
C平手久秀・汎秀
D足軽大将級
お気に入り: 滝川一益、丹羽長秀、森可成、木下秀吉など
中堅・ベテラン: 坂井政尚、簗田広正、蜂屋頼隆、中条家忠、中川重政など
美濃系:氏家卜全、安藤守就、稲葉良通、斎藤利治など
一門衆(織田信包、織田信広など)
E吏僚・旗本、側近(村井貞勝、武井夕庵、前田利家、佐々成政、池田恒興など)
↓
@佐久間信盛
A柴田勝家
B丹羽長秀
C森可成、滝川一益
D羽柴秀吉、明智光秀
E林秀貞(通勝) ※信忠付きへ転出
F足軽大将級
河尻秀隆、簗田広正、蜂屋頼隆、中川重政、前田利家、佐々成政、池田恒興、
氏家卜全、安藤守就、稲葉良通、斎藤利治など
一門衆(織田信包など)
G吏僚・旗本・側近
↓
@佐久間信盛
A柴田勝家
B丹羽長秀
C滝川一益
D羽柴秀吉、明智光秀
E側近衆
F足軽大将級
G側近以外の吏僚・旗本、一門衆
>>521
あんたも人名まちがえてる
林通勝ではなくて秀貞
林通勝は松永久秀の家臣 去年だけでも、中公新書の和田祐裕『柴田勝家』、福井県立歴史博物館の特別展『鬼柴田』、岩田書院の『越前・若狭 武将たちの戦国』と相当勝家研究は進んだのに誰も触れてないか…
和田著は在野研究者の書いた一般著なんでまあまあって感じなんだけど、福井の特別展と岩田書院のブックレットはほんとによかった
特にそん中でピックアップされた織田政権では勝家が最も早く惣国検地に着手、それも今川・北条・朝倉といった戦国大名検地をさらに発展させたものだったていうのは、勝家研究の一つの指針として注目していいんじゃないかな 林通勝云々あるが本当に通勝もしくは通貞だったのかもしれんのよな
だって他の林氏の通字が通だらけ
織田信秀に一字拝領されたら秀を最初につける