海の司令官〜小西行長を語り継ぐ
豪商・小西隆佐の子で、宇喜多家出入りの商人だった所から秀吉に見いだされ、
水軍や兵站で活躍したことで肥後半国の主まで登り詰めた異彩の人。
朝鮮の役での加藤清正との功名争い、関ヶ原での敗退・斬首などなど、
一族・縁者を含めて語りましょう。
■関連スレ
石田三成総合スレ2
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1193273145/
加藤清正は名将です、疑う余地はありません
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1174113771/
キリシタン大名についてオプリガードしよう!
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1158912368/ 三成とはそんなに親密って、感じでもなかったようだね。 朝鮮出兵の際に、独断で変な交渉したんでしょ?
具体的にどういった内容だったの? >>3
悪意のある言い方だなあ。
小西は朝鮮出兵が無茶だということを自覚して
対馬の国主の宗親子や明の使者と組んで、
できるだけ穏便に収まる交渉をしてたの。
秀吉は「明に攻め込め」とか言ってたが、
小西は日本が明の朝貢国になることで収めようとしたの。
「朝貢国」というと聞こえは悪いがいろんな物資をもらえるのは日本の方だ。
中国王朝が周辺諸民族を手名づけるために取った形式的な服属国ね。 小西およびその配下のキリシタン将士は強かった。
関が原の時に国元の留守番部隊が加藤清正に攻められたが、
押し気味に戦を進めた。
宇土城は加藤清正が攻め取ったように言われているが、
実際は関が原の小西軍の敗北と小西の捕縛を知り自主的に開城しただけで、
実は全く加藤軍を寄せ付けなかったという。 >>5
交渉役で活躍したのが、松永長頼の子=内藤如安(小西飛騨守)。
>>6
留守役の弟・小西行景って、結構頑張ったんだな。 行長って戦下手な印象だ。
秀吉に仕える前に宇喜多に仕えて水軍やってたらしいけど。
あまり詳しくわかってないらしいね。
>>10
どこが?
朝鮮じゃ鍋島に馬鹿にされて関ヶ原じゃまっさき崩されて宇喜多隊の足ひっぱりまくりのまるで存在価値のなかった部隊
八代城の兵が強かった?
八代城の回りは湿地態で寄る事が困難な城でしかも行われた戦闘は大半が街中での偶発的遭遇戦闘
船場の戦いは唯一評価される所か
しかも八代城の背後には数倍の兵力を持つと予想される島津が控えてるんだから兵力が減る力攻めは当然できない
八代に兵力集中してるから島津の急速な北上も容易
そうなれば別に加藤にとっては拘って落とす必要性も特に無い。
八代城は二ノ丸まである結構な規模な城だぞ?それを短期間で落とせってほうが無茶
>>11
は?
鍋島ごときの発言が一体なんだと?
鍋島が人を見る目がないアホだったといだけの話し。
お前、そんなに鍋島の言うことが正しいと思うのなら、
鍋島が「お前死ね」と言ったらお前、死ぬのか?
小西が朝鮮の約で一番、頑張ってる部類に属する武将だろう。
確かに平壌城の戦いでは負けてるしその後は撤退しまくったが、
あれはあの状態なら仕方ないだろう。
関が原も崩れてもし刀い状況だ。
言いがかりはやめて糒もんだな。 小西軍は朝鮮では平安道の奥まで進んで疲弊もしてたし補給も届きにくかったからね。
加藤はさして大きな戦もすることなく満州まで出たけど、小西の方は激戦ルートだ。 崩れても仕方ないなんていってたらきりがないわなw
その理論で言わせてもらえば朝鮮で数で押し勝った小西軍の相手の負けも仕方ないわなw いや朝鮮の役で一番頑張ったのは小西でも良いくらい頑張った。
一番活躍したのは慶長の役での島津、一番名が残ったのが加藤清正だが、トータル
で考えれば小西の頑張りが一番凄かったのはガチ。 そうそう、他の連中は朝鮮で無抵抗の民衆を捕らえてその鼻を削いで
戦果を水増ししたが、
キリシタンの小西はそんなことをしなかったので、
ちなみに日本に送った鼻の量の順位が
鍋島、吉川、小早川、島津、立花だったという。
島津と立花はまだしも、
鍋島、吉川、小早川は住民殺戮しか能がなかったみたいだが。 ちなみに鍋島、吉川、小早川が日本に送った鼻の数はそれぞれ六万程度。
中には明らかに乳幼児や女の鼻もたくさんあったそうな。 小西厨って他者を貶めてしめて自尊心を満足させる朝鮮人気質なのかお?( ^ω^) 小西家は朝鮮の役で、相当疲弊してたんだろうな。
関ヶ原での弱さは、朝鮮の時とはギャップが有りすぎて・・・。 >>16
その資料(史料でなくて結構)は何処から得たのもでしょうか?
小西がキリシタン大名云々は解りますが、小早川秀包も同じくキリシタン大名
です。また秀秋ならば彼の軍は侵略部隊には編成されて居らず、虐殺には参加
して居ません。(第一民衆虐殺云々とは言うが、その命令を出したのは秀吉で
慶長の役より「皆殺令」「鼻斬令」を出した。勿論、文禄の役でも虐殺行為は
有りますが、本格的に鼻受取状のやり取りをし出したのは令がでてからです。) >>20
行長自身の沈滞ぶりも然り、まるでやる気なし。 >>20
立花・島津・黒田と言い出したらきりがない他の渡海組みはちゃんと
戦果挙げてるからそれは言い訳にはならんだろ
関ヶ原は宇喜多隊が奮戦し福島隊を壊滅寸前に追い込むも開戦直後いきなり小西がぼっこぼこにやられて
その小西攻撃隊が宇喜多勢に攻めかかったため宇喜多隊は打って出ることが困難な状況に陥り
壊滅寸前の福島隊に追撃できず結果福島を打ち逃す結果を招いている。
そもそも小西の朝鮮での戦での活躍とはなんですか?
天草国人の乱を見てもどう見ても戦下手なんだけど。 八代市立博物館未来の森ミュージアムで11月25日まで小西行長展やってますよ >>23
黒田は知らんが立花や島津などと、ニワカ大名の小西を比べるのは酷だろw
朝鮮でのダメージは小禄には致命的じゃなかったのかな?
あの島津でさえ、将兵をすり減らして関ヶ原では寡兵となってるし。
領内も結構荒れてたんじゃないかな? >>23
島津は関が原で戦果なんてあげてません。
関が原で旗を巻いて敵のいない場所を通り抜けて逃げただけです。
関が原のアレは正面突破退却などではなく実際は横進退却というものです。
黒田はともかく立花に関しても関が原までたどりついてません。
あと天草一揆の件は戦下手ではなくキリシタンに対して手心を加えただけです。
小西の朝鮮の活躍は凄いです。
満州で名を轟かした猛将、申粒の軍をたくみな指揮で打ち破ったり、
ロクな敵のいない僻地をスルスルとくぐり抜けただけの加藤とは違って、
最重要ルートのソウル−平壌を攻略して平壌城の守備でも
物資の不足する中、明の大群から城を守りきり、講和して撤退しただけです。
>>21
まあ鼻削ぎは確かに慶長の役意向ですが、
小西は参加しませんでした。
資料は詳しくは覚えてないですが2chソースです。 >>26
物はいいようだな
手心加えて自分じゃ押さえられない中規模反乱にまで発展したら話しにならんだろ
結局清正が攻勢かけて城落としていくんだけどね。
この城攻めでも行長と清正は対立してるけど。
立花は大津城攻略に尽力してるじゃん
島津は上方の兵しか集められないのは仕方なし
将兵最大の脅威である落武者狩りまで抜けて九州まで帰っただけでも凄いと思わんのか?
国本にはちゃんと兵力もある。
2chソースって……話しにならん。どっちも酷いがwikiソースって言われたほうがまだ説得力ある。
朝鮮の戦ぶりは誉めるとしても、関ヶ原のあの地味さ・・・
配置の問題とか言われればそれまでだが、4000の兵を率いた割には・・
石田と大谷隊は敵が賞賛するほどの戦いぶりだったが
小西は・・・
まあ、嫌いじゃないけど、宇喜多にしろ、小西にしろ・・・
もう少し踏ん張れよ
>>28
宇喜多は御家騒動で、兵を指揮する武将がいなくなってた。
小西は国元への備えと、朝鮮の余波で兵力不足。
あと小西は戦意も高くなかったのかもしれんな。 >>29-29
宇喜多は相当がんばったよ?
活躍的には西軍一ニを争う位じゃない?
まず福島をふるぼっこにして壊滅させてる。追い払う事4度福島の周辺には最終的には旗本しかいなくなった。
追撃できれば間違いなく福島は死んでる。
はずなんだがね。
そこへ藤堂と小西を崩した部隊が援軍に来て打ってでるのが不可能になり防御一辺倒になってしまう。
戦ってる西軍随一の主力宇喜多が前に出れなくなったのは戦況に大きな影響を与えた。
主力の宇喜多苦戦が小早川に与えた印象も良くないだろうな。
お家騒動がなかったら普通に強い宇喜多はもっと強くなるな。
もうちょっと小西が踏ん張ってれば主力の宇喜多が動けるから随分違う結果になると思うがね。
大軍の管理する将としては才能があっても一軍の現場を指揮する才能は三流ってとこだろ
>大軍の管理する将としては才能があっても一軍の現場を指揮する才能は三流ってとこだろ
付け忘れたけど小西がね 石田、宇喜田、大谷の関ヶ原の頑張りは褒めるべきだと思うが
小西のヤル気というか粘りの無さは如何なものか?
>>29
朝鮮出兵のダメージは東西の将共にあったと思うんだよね。 >>30
戦意もあったし頑張ったのは否定せんが、攻勢に出る余力は無かったな。
明石全登はまだしも、新参の本多政重が頑張らないといかんようでは厳しい。
花房や戸田がいればなー。
>>32
双方有ったのは分かるけど、九州勢は特別にボロボロって感じかと。 あ〜そういえば宇喜多は関ヶ原前にお家騒動があったな。
有能な人材だけが抜けていくのは大きかっただろうな。
で、小西だ。
ここは、内藤如安以外誰か特筆できる奴いたの? 小西の悪口言う奴が多いな。
西軍についただけでも、裏切らなかっただけでもありがたく思えよ。
加藤や宗みたいに日和見してもよかったんだし。 悪口に当たるとしても、俺は小西嫌いじゃない
好きでもないが
そうか。
やっぱ行景か。
行長は何で西軍に着いたんだ?
今更ながらで悪い
>>37
小西は三成の片腕だしなぁ
なんで福島が加藤に味方するのかって話しに近いような気もする…
博多、堺の商人絡みの話しもあるかもしれんけど
そもそも関ヶ原の遠因ってのは加藤と小西の対立が遠因なんだよな
加藤と石田ってそんなに仲悪くなかったし逆に福島が石田が気に入らないってのを宥めるほうだったような
そういう意味では小西は関ヶ原を起こした一人としてもっと注目されるべき一人なんだよなぁ >>38
は?
加藤と三成は仲悪いんで有名だが?
冷え粥の逸話とかもあるだろ。 清正と三成は元々不仲ではなかったと言われている
けど清正と小西が対立すると三成が小西の肩を持つ(小西が三成を頼る?)
ようになってだんだん微妙に
(三成−小西ラインは堺奉行職で小西父兄、三成兄らもかかわりがある)
決定的に清正と三成の仲が決裂したのは朝鮮出兵
三成は早期講和派の小西を支持、讒言があったかなかったか清正蟄居など
この時清正は増田か浅野に秀吉への弁解を頼むが「その前に三成と仲直りしろよ」
と言われて「神仏に誓ってもそんなことするか!切腹しても嫌だ!」と言った
らしい?
清正記だったかにある稗粥の逸話
秀吉が死んで三成と浅野、毛利秀元が九州へ赴き撤兵作業にあたる
撤兵が完了し諸将が集まった席で三成が「大阪の秀頼様に挨拶した後はしばらく
領国でゆっくりしてください。落ち着いたら慰労の茶会でもしましょう」という
ある意味普通の挨拶を述べると清正が「我々は朝鮮で飢えに苦しめられ
長い外征で領国も疲弊している。茶のような上品なものは出せないがお返しに
稗粥でもお出ししよう」と大声で言い返した >11
>しかも八代城の背後には数倍の兵力を持つと予想される島津が控えてるんだから
>兵力が減る力攻めは当然できない
>八代に兵力集中してるから島津の急速な北上も容易
八代と島津領の間に加藤領の津奈木と佐敷があるのだが…。
>34
>ここは、内藤如安以外誰か特筆できる奴いたの?
南条元清とか結城弥平次とか加藤内匠とか。 小西は関ケ原ではやる気がなかったらしい。
なんでも三成が小西の提案を却下したからだとか。
確か島津もそうだったよな。 >>44
小西の件は知らないけど、島津の件は後世の創作じゃないか? 海の司令官=提督って、名付け元はルイス・フロイスだっけ? そりゃ、チョン最強武将と称するやつ戦死させたからなあ。 腐女子の妄想で行長は
海が大好きで軽いのりのコテコテの関西人にされてた・・・
(鉢巻きした池面になってたし・・・)
常識考えろよ・・・・ >>49
妄想ってわかってるなら放置しとけよ
わざわざ近づくお前が悪い コニタソは命令を聞かない悪い子。結局使えない子だった。
キリシタンやサボりを評価するのは外国人ばかり。
ちなみに平和主義者とか後付け評価する人もいるけど、朝鮮人も大量に殺しているから。
そのうち戦嫌いの平和を愛する武将としてNHKが大河化。韓国と共同
製作でほとんど李舜臣が主役扱い 西軍敗軍の将
明との講和の偽装
キリシタン大名
これらから業績も殆ど抹消されて、今になっても
史家や歴史ヲタ戦国ヲタからも不当に低く見られている。 >>西軍敗軍の将
紛れもない事実。なんの為に戦場に出てきたかさっぱりわからない最弱軍隊。
天草での反乱鎮圧失敗を見てもまるで戦の才能なし。鍋島にぼろくそ叩かれる。
明との講和の偽装
これもまた事実。この縺れが原因で関ヶ原に繋がる。
キリシタン大名
小西領にはキリシタンが多く集まり栄えた。
宇土城は湿地帯に囲まれ堅固な城で三の丸まであった中々の城であったようだ。
この湿地帯の深さを見誤った清正軍(深いと考えていたが実際は浅い)は攻めあぐねて小西との戦いは市内遭遇戦に留まっている。
この時代のキリシタンなんて
よっぽどの馬鹿か
薄汚い金の亡者のイメージしかない 結果的には小西が余計な動きをしたせいで苦戦するはめになった 商人の出自であるのに
秀吉が加藤と同じく半国を与えて大名にしてまで
競わせ、他の子飼い七本槍や刑部以上の待遇をして
無能扱いとは呆れ果てる解釈。 たかが4倍の数の明軍に押されて逃げ出した小西。
少なくとも現場の戦術家としては無能だったな。
だから無能野郎なんだよ。
商売だけやっていればよかったものを 実は笑うどころか、むしろ顔真っ赤にして興奮している>>71 今の自民で言えば加藤、山崎、古賀系統の人物といったところか
悪いイメージしかない 博多より堺じゃない?
親父が豪商でそっち方面のコネ持ち 秀吉は堺から博多重視に切り替えた政策の一環として小西を九州に配置したってコトを云ってるんだろ。 個人的に武将としての能力は
兼続と長政がほぼ同格
三成と清正がほぼ同格
行長と正則がほぼ同格って感じ 熊本では一般人の知名度0。宇土城址も雑草とサボりの営業車でいっぱいです なんで西軍首脳でもないし合戦で特に奮戦もしなかったのに処刑されたのよ
もっと中核にいた連中は生き残ってるのに・・・
単純につかまったタイミングが悪かっただけか? >>80
安国寺もだけど治部一党として、まとめてスケープゴートにされたようだね。
毛利ほど身代も大きくないし、立花ほど人望も無いし。 小西と加藤の対立が関ヶ原の発端な訳だから他人が小西許しても
加藤が許さんだろ。加藤の面子をたてる意味で小西の死は当然 >>81
やっぱそうなんかね。関ヶ原で処刑された三人の中で
三成はまあ事実上の首謀者だから当然として
残り2人は「え?なんでこいつが?」って感じだったな。 安国寺恵瓊の場合は、輝元を大将に擁立する際に主導的だったからだろう。 小西行長の子孫は昔学生時代のスターリンの隣室に住んでいて友達になった
後にスターリンはかなり彼に会いたがっていたのだが早世していてかなわなかった
その息子は野球解説者をしている >>89
城下町が堀に囲まれてるね。ミニ小田原城? 小西は治世は一流な武将。築城も実は加藤より小西が上だったって話も普通にある。
宇土城は熊本城にかなり影響を与えたと考えられている。
清正は小西を死ぬほど嫌っていたが治世は小西のをそのまま受け継いだ。キリストは除く。
キリシタン大名や唐入り関連で、教科書に載る武将だけど地味なんだよなぁ
なんかこの時代で特筆する能力や逸話があればいいんだけど
兵站や計算はトップクラスだろうけど三成がいるし、水軍の指揮、統率もイマイチよく分かんない
商人上がりなんだから、その手のエピソードとかがあればねぇ。 薬屋の何が恥なのか
その周旋の才を買われて外交などを担当していたのだから
誇りに思うべきなのだ
武ばった将だけでは世はまわらん
堂々としているべきだったのだ
げんに与えられた石高は加藤より五万石近く多いではないか
加藤より評価されていたということだコンプレックスなぞ感じる必要はなかったんだ
反発からではなく誇りを持って紙袋に朱丸旗印を掲げるべきだったのだ
そもそも武将ったって秀吉系は百姓じゃねーか
百姓が薬屋よりそこまで優れているとでも?
斎藤は油屋、黒田だって元は流れ者の目薬屋だ
薬屋は恥とは言わないが身の程を弁えて戦場に出ろ!
宇喜多の足引っ張りやがって 桶屋の小倅とかが薬屋を馬鹿にする構図ってのも凄いよなw 小西がいつどう宇喜多の足を引っ張ったんだよ
配置を見たことある奴ならわかると思うが
小西と宇喜多の場所は激戦地
で両者とも小早川勢によって壊滅させられてる
瞬殺とかも可笑しい話だな
三成やエケイと文治派の筆頭とかいわれてるがそんなことはない
むしろ立場的には加藤黒田といった武断派の人間だと思う
・朝鮮ので疲弊してた
・清正対策で領地に軍勢を残してきた
を理由に挙げられることがあるな。>関ヶ原で押された理由
関係無いが何をもって(そして何のために)武断派文治派と分けるのか
わからないのは自分だけか いやだから小西が激戦に巻き込まれて直ぐに退いたから宇喜多に攻撃が集中したんでしょ?
小西攻撃してた部隊が宇喜多に標準定めて予備隊作って打って出るはずの宇喜多が防戦
ばっかりになったんだから小西の罪は重いわ。宇喜多の防戦一方な姿は小早川に良い印象を
与えなかっただろうね。実際は馬鹿な福島を余裕で壊滅させれるほど宇喜多頑張ってたのに 取りあえず戦の才能がまるで無かったのは確かなような 小西と藤堂は主要な戦では真っ先に崩壊してるイメージが
事実はどうあれ付きまとう・・・ >>103
朝鮮では攻め上ってるが、あれはマグレ? >>105
スマン、「まるで無い」は言い過ぎたかも マグレも何も敵の数倍の数で奇襲すりゃ勝てるわ
これは清正にも当然言える事だけど。しかも最初は民衆も味方だったし。
文禄でも慶長でもその活躍は目覚しいものがあるよね
逆に言えばそれ以外は特にないという
むしろ朝鮮で小西はろくに活躍してないっていうのが無理はある
認めるところは認めろよ >>114
だからどう活躍したのか説明してみろよ… 小西行長の率いた軍勢は一番隊、合戦でもっとも重要な先鋒
一番隊っていうなら
長篠の戦いでいう山県昌景
姉川の戦いで言うなら坂井政尚と磯野員昌
川中島の戦いなら飫富虎昌や柿崎景家
どう考えても小西が戦の才がないへたれと周りから思われてたってことはないはずだよ
小西隊の朝鮮での最初の戦果
漢城の周辺での戦いに勝利、結果として朝鮮軍は漢城の放棄、
小西らは肝心の最初の戦いで勝って敵の首都を占拠できたわけだ。
ろくに戦いの準備してない相手に奇襲で攻撃して、更には敵を圧倒的に上回る数で押し殺してそれが戦果な訳かい?
これを両者戦の準備万全の姉川の先鋒と比較するのは甚だ不自然。
鍋島は実際この初戦の勝利に酔う小西を痛烈に皮肉ってるんだが…
戦闘初期より中期〜後期で測るのが妥当ってもんだと思うけど。
こんなのを戦果戦果って騒ぐから何時までたっても妥当な評価を貰えないのでは?
俺の見解では大軍を管理する能力にはかなり長けて居%8 ろくに戦いの準備してない相手に奇襲で攻撃して、更には敵を圧倒的に上回る数で押し殺してそれが戦果な訳かい?
これを両者戦の準備万全の姉川の先鋒と比較するのは甚だ不自然。
鍋島は実際この初戦の勝利に酔う小西を痛烈に皮肉ってるんだが…
戦闘初期より中期〜後期で測るのが妥当ってもんだと思うけど。
こんなのを戦果戦果って騒ぐから何時までたっても妥当な評価を貰えないのでは?
俺の見解では大軍を管理する能力にはかなり長けて居たが戦闘指揮の将としては凡将って感じかな。
決断力に乏しく策に溺れるタイプ 小西先遣隊15000vs朝鮮軍9000
で奇襲を用いて圧勝
釜山城を一日で攻略
主都漢城占拠
漢城の周辺での戦い小西勢15000vs朝鮮軍9000
小西の圧勝
漢城占拠
平壌占拠
小西先遣隊15000vs明からの援軍 祖承訓の軍勢5000
小西勢の勝利 明の援軍は壊滅vs
小西勢15000vs明43000+朝鮮10000
小西勢敗退
細川忠興 晋州城攻め
細川忠興 20000のvs城兵4000+2000の後詰め
細川隊撤退
宇喜多秀家
漢城周辺
宇喜多秀家40000vs明軍23000
宇喜多の圧勝
停戦
>>120
ろくな準備もしてないほうが悪いんだろ
圧倒的つったって15000vs9000じゃん
それをあっという間に片付けて城までとる
君にとっては戦果じゃないのか?
それに小西は初戦以外もよくやってると思うよ
>これを両者戦の準備万全の姉川の先鋒と比較するのは甚だ不自然
これは先鋒に任されるってことがどういことか、ってことを伝えたかっただけだ。
>鍋島は実際この初戦の勝利に酔う小西を痛烈に皮肉ってるんだが…
これもっとききたい 孫子曰く真に有能な者の勝ち方は智もなく勇もなく偶然もない
小西はいい感じじゃね? 本家は関西俺は好きで別の場所にいる
あだ名は100%に限りなく近い数字でコニタン
親戚にクリスチャンはいるけど俺は無宗教
家紋は違う。 親父さんの隆佐って商人で武家として仕えたのは息子より後なんだが。 江戸時代の商人と戦国時代の商人ではその性質が違うよ
朝鮮では清正に競り勝つ程なのに、関ヶ原では戦意が見られなかったような。 >>141
国元を清正から守る為に、兵が少ないです>< 嘘つくなよ(;^ω^)
宇土城以外全て放棄して宇土に兵集めてるじゃねーか。
それで2000〜3000だから行長は主力を大半連れていった事になるわな。
渡海で疲弊とか言い訳にもならんわ >144
>嘘つくなよ(;^ω^)
>宇土城以外全て放棄して宇土に兵集めてるじゃねーか。
何というひどい嘘…。
>>6
実際は城に立て込もってただけなんですけど。
んで市街でちょこっと遭遇戦があっただけ。
加藤が宇土城攻略にかからなかった理由は第一に沼地の深さを見誤った事。
宇土城はそもそも三の丸まである立派な城で周りは湿地帯で天然の要塞になっていた。
実際の所この湿地の沼地は浅かった訳だが清正はこれを見て慎重になり力攻めを敢行出来なかった。
後は島津の存在がでかい。
北上に戸惑った島津だが九州最大勢力が南にいる以上城攻めで力を使うことは出来ない。
耶蘇を除けば、浄土真宗(一向)と日蓮宗(法華)以外は戦国時代でもマイナーだろ?
ttp://www.konishiyukinaga.com/ >>159
あんたのお城の一口城主になってあげようと思ったけど、
そんな意地悪なことを言うならやめる。
当時からいろんな武将からけちつけられてるし
石田並みのKYだったのだろう 清正、正則、長政あたりがクレーマーだっただけだろw ロジスティック担当の奴が出世したのがよっぽど不愉快だったと見えるな
蝶々トンボも鳥のうち 相手より大勢を動員するというのは戦国武将の重要な能力なのに・・・
しかも奇襲成功ってすげぇ
普通奇襲って少数側の博打的手法なのに・・・
てか、相手はどんだけ馬鹿なのか・・・ >>163
>>164
二つまちがっとる
第一に小西は商人出身やキリシタンというだけで柔弱なイメージあるだけで
実際には苛烈な実戦派だ
第二に清正や正則は講談や時代小説のイメージとは違い、有能な軍事官僚
であり、自らも動員軍政やロジティクス等に長けている
三成や行長との対立は武断派と文治派の反目などというものではなく単なる
政治的な対立に過ぎない
尾張・美濃閥と近江閥を中心とした派閥の争いみたいなもん? 多分そうだな
ただその場合も
近江閥=淀君派
尾張閥=北政所派
という大きな誤解されてることが多い
淀君が実際に政治的な動きを始めるのは関ヶ原の後だし
関ヶ原前あたりで北政所と一番親しかったのは近江閥の三成 だておち寸前とは流石小西(笑)
宇土城周辺の神社や寺を焼き払らう宗燐並みの基地害
こんなアホな事をする奴の末路は宗燐と同じ大敗大衰退だよ(笑) 熊本駅西側の万日山にあった奈良時代以来の古い寺も行長に焼かれてる。
僧侶が大量に生き埋めにされたとか
万日山はそれ以来「穢れ地」とされ、21世紀の現代になってもまだ荒地のまま放置されている
(昭和40年代までは朝鮮人部落もあった) あと宇土城のそばにある西岡神社だったかな?そこも焼き討ちにされてる。
天皇を祭ってる神社を焼き討ちしてるんだぜ!
その後すぐに清正により復興されるけどね。
宗教狂いのきてぃがいですわ
だから行長は全く宇土の人からも無視されてるね。
逆に復興に携わった清正は神となる。 マジだよ
キリシタンが入ってきて発展したのはいいけどそういう庶民の心底を測れなかったアホな事やってた。
「いつかバチが当たるぞ…」ってね。
まぁその後清正が入ってきて神社寺復興して仕事も多いし(治水など)不作も少ないし
清正は神社を復興させて肥後を良い国にしている!→加藤神→加藤神社→清正崇拝
に少なからず影響を与えてる
海音寺潮五郎には「士魂はない」と評されてた。
(武将列伝「加藤清正伝」より。理由は文禄慶長の役で清野の計を行ったこと)
まあ、海音寺は西郷とか謙信とか、裏表ない人を好んで三成とか行長のような
人を嫌ってるからそうなるんだろうな >173
清正領内の寺をなぜ行長や焼けるのか激しく疑問なのだが…。
まぁ、行長に焼かれたという伝承のほとんどは嘘らしいが。 >>179
清正領内のは知らんが宇土城周辺の焼き討ちはがちですが? >174 で挙がっている西岡神社が行長によって焼き討ちされたというのは確認できるが、
行長がキリシタンだから云々というのは話半分に解釈しないとな。 小西がキリシタンに狂ってるから焼き討ちするんだろ。
西岡神社がどこにあるかわかっ言ってるのか?
宇土城からほとんど離れてない場所にあって行長とって
目 障 り でしかないんだよ。 ほんと行長はかわいそうだよなぁ
おとなしく商人してればこんな悲惨な目にあわずにすんだのに。 難病に苦しむ人達の治療院?を建てたり、朝鮮から孤児の女の子を連れ帰った話とかはどうだろう。
でもそのおたぁジュリアはあまり幸せな人生を送ってないんだよなぁ。 >>189
ほんとだね。
あれだけの商売の才覚があったなら、
後にドラッグストア「コニシユキナガ」になってたり、
はたまた「小西百貨店」や「コニシストア」なんて
小西グループで今の時代をリードしてたかもしれない。 むしろ倣岸で商人に向かないから武士になったような人物と評されてるけどな
商人の子でキリシタンということで勝手に柔弱なイメージつけられてる
そもそもキリスト教徒自体が十字軍やらイエズス会のこと考えりゃ平和主義と
程遠いのにw
小西行長の肖像画は無いって話を聞いたけど、
宇土城に立っている銅像は、想像なのかなあ 小西家が渡来人の家系だった、というか
小西隆左が朝鮮人だったっていう説詳しく知ってる人いませんか?
>>135
>親父さんの隆佐って商人で武家として仕えたのは息子より後なんだが。
詳しく教えてください 教えてくださいって…
誰でも調べられる範疇だからここでも誰かに語られてる訳で。
ご自分でお調べになったら如何でしょう…。 もう良いとこ探しはやめようぜ(笑)
まぁほっといても落ちるスレだけど最後にAGEといてやるわ と、いうか西軍武将全体が見直されているように感じるのは俺だけか。
小西行長は関ヶ原ではマトモに戦っていなかったそうで まぁ、商人出身であるにもかかわらず
死後400年以上経ってるのに
教科書にも載るほど名を残してる時点で
有能である事は間違いないんじゃね? 「水軍の将小西行長伝(1)」(秋田書店/能田達規)ってマンガが7/20に出るみたい。 個人的には小西行長好きなんだけど、
このスレでは悪口ばかりだなあ。
良い人だったと思うよ。 そう基本的に清正自身ならびに清正厨に
貶められている人物。 >>219
買った。宗教に懐疑的で出世欲と大志の塊というのは思ったより新鮮。
しかし能田センセなら出身地の河野・村上・来島や藤堂高虎あたりを描きそうな印象があったんだが。 全盛期の豊臣はほんと人材が豊富だな
豊臣家臣は家康によって瓦解されたが >>214
高校の日本史教科書だと小西隆佐も載ってるからね。
とんでもない親子だよ。 安国寺と違って潔い死に際だったというし、
武士出身でないからこそより武士らしくあろうとした人なのかもな 善政を敷いたので領民には凄く慕われてたみたいだよ
行長を慕い続ける領民が清正の暗殺を何度も企んで
清正はその都度解き放って遂には家臣にしたというエピソードは有名
行長も清正も熊本では名君 >>228
宇土城下に留まらず領内の神社仏教施設、及び日本文化に放火破壊しまわって領民から大顰蹙買ってるんですけど。
釈迦院をはじめとするまぁそこそこの山々にある小さな神社、かなり偏狭のど田舎にまで放火と破壊を繰り返す十字軍。
全部は調べてないけど恨み節が結構残ってる。
そういう恨み節が何故声高にならないのか?
それは加藤家が二代に渡って(豊臣家と同じような散財政策かな)片っ端から再建した功績がでかい。
以上の経緯もあって肥後南部の神社や寺に言って建物の経緯や歴史を尋ねると大概
小西行長に燃やされて加藤忠広加藤清正のどちらかの援助、支援を受けての再建という歴史が多い。
領民からも小西行長の滅亡衰亡は自業自得の声が大きいわけ。(この辺り宗麟と似てるか。
そういうこともあって領民からの良い印象を当然後世に伝える事が出来ていない。
小西行長の肥後南部の統治の成功点は上記逆のキリシタンの熱烈振興だったこと。
キリシタンの振興を認めていたことだけあって海外投資、技術をゲットした点は成功だった。
肥後南部は海上貿易に適した場所が結構多かったのもポイント。
この辺りの商業的センスはずば抜けてた。この点は清正も行長の商業センスに嫉妬してる記があるね。
(内容的には宗教批判も含まれてるけど)
商業国として成功を収めつつあるかに見えていた。
ただ上記のように結構熾烈な弾圧構造もあって領民の心象も芳しくなく、またこういう統治政策の
一環で島原の乱へつながってしまったという印象が大きいため肥後領民の心象は最低に近い。
いかんせん統治の時間が短くキリスト教も中途半端だったため領民に広がることが無く(一部地域には根付いたけど)
仏神の破壊で領民の文化を破壊した破壊者の汚名だけが残ってしまったのが痛い。名高いってより存在が無視されてるけど。
もう少し統治時間があれば結果は変わってるんだろうけどね。
行長は長崎か博多辺りに所領もってればもっと才能を活かせたと思う。 いきなりやってきて、神仏関係のもんぶっ壊して、
「お前等が明日から信じる神は○○だからよろしくー」
って言って去っていったらいくら善政しかれててもしこりが残るだろ?
まぁ長く善政しとけば○○でもよくね?ってなるけど、行長の場合は統治期間が短すぎたね >>219
能田逹規ってSFとサッカーしか描けねーと思ってたけど違うんだな >>232
とりあえず熊本では、小西行長を再検証しよう、という本が出てるね。
正確な題名は失念しちゃったけど… 小西より佐々の再評価の動きが大きいかな…。
する事ねーよって感じだけど。 清正の敵役ってことだけでも、熊本では歴史的に抹殺されてるよね 文禄の役和平交渉でのウソの報告ってのは秀吉のプランってのは本当? 昨日の朝日新聞に、熊本で小西を見直す研究の記事載ってた。
お客さん来てくれるのか心配してたらしいけど
フォーラムは500席満席だったって書いてあったよ。 >>234
『小西行長 「抹殺」されたキリシタン大名の実像』かな キリスト教と出会うまですさまじく気が荒かったというのはほんとだろうか
なんか商人上がりでメガネでソロバンのオタク野郎というイメージだったけど
よく考えたら唐入りのときは清正とともに先鋒だもんな 屁タレなわけがないか 小西はゲームでも統率武力低め知力普通政治ちょっと高い
みたいな2流文官だからな
もっと武の面を評価されてもいい 小西行長って関ヶ原じゃあまり活躍きかないね。戦闘経験豊富な大名なのに やっぱり朝鮮での損害が大きかったせいじゃなかろうか >>245
西軍の総予備であったが、投入の機会を掴めずに
小早川の裏切りに動揺する先鋒を収容しようとしたら
そこを東軍に付け込まれて壊乱 用事で熊本行ったんでついでに宇土城跡に行ってみた
熊本宇土間は20kmとあったけど、車で30分くらいもかかったよ
城跡は2つあるんだね
宇土・名和両氏の居城であった中世宇土城と行長が築城した近世宇土城
どちらも市役所から車で5分ほど
そして見事に広っぱのみという……
中世の方には竪堀跡とか柱跡とかあったけど
近世の方は何もなく一番奥にぽつねんと立つ行長像が寂しげだった
歴史資料館は図書館のおまけって感じでちょびっとあるだけ
うどんカッパの手が珍しかった ドラマやるんだね。九州でしか放送しないのかな。
どんな内容なんだろう。 これか
ベールに包まれたキリシタン大名・小西行長ドラマ特集!
放送予定日
16:00〜 TKU 放送予定
監督:近日発表!
主演:近日発表!
脚本:近日発表!
http://www.city.uto.kumamoto.jp/museum/special/index.html
この時期でまだドラマ化以外何一つ発表されていないのは不気味なw
もう出てた
放送日時
10月30日(日)
16:05〜17:20
FNS九州7局ネットで放送
企画:宇土市
脚本:ひかわかよ
演出:立田大助(テレビ熊本)
制作著作:テレビ熊本
制作協力:FCC そのうち「家康がもっとも恐れた男」と同じくらいいっぱい出てくるかもね 宇土市教育委員会PRキャラクター
「うとん行長しゃん」
http://twitpic.com/6q7zil 歴史は勝者の立場で語られる
さらにキリシタン禁制の時代の中で長い間、常に悪人として語り継がれてきたのが小西行長
最近では色々な歴史研究がなされて行長の実態が少しずつ明らかになってきた
無能なのに…なぜ秀吉が重用したのか
裏切り者なのに…なぜ秀吉が許したのか
悪名高い寺社焼き討ち…真実か
過去の通説を根本から見直す必要があるよ。多分。 >254
なんかこのパターンでいくらでも別の武将を作れそうなデザインだなあ
どっかに堺商人ぽさを入れてほしかった 清正公が絶対的な熊本で、清正悪役に見立てたドラマが出来るかな? >>258
清正に一切触れないドラマを作るのがやっとだろうね
それにしても清正を神格化し過ぎだな >257
悪役じゃなくてライバル扱いになるだけじゃね? >>255
他はなんとも言い難いが神社焼き討ちはかなり信憑性が高い。
同年代に喪失した社の数が幾ら何でも多すぎる。
宗教的理由も問題の1つかも知れんが阿蘇氏の勢力の強い地域を拝領したのも原因の1つかも知れないな。
例えば阿蘇氏に縁のある堅志田城のある美里町とかな。美里町含むこの辺りの焼き討ちは結構徹底してる。
別に
焼き討ち=悪ではないわな。
行長なりの統治にあたって思想統一なり旧阿蘇氏領民への引き締めなり思惑があったかもしれん。
ただそれらが実を結ぶ前に滅びしかも神社が再興されれば(しかも再興したのは加藤家)恨み節も仕方ない。
神社といえば清正を祀ってる神社な、省に届け出があるだけでどれだけあるか知ってるか?
手元に資料が今ないからうろ覚えだが40越えてるはず。
(無論祭ってるのが清正オンリーじゃないのが多いけど)
因みに海外にもあるんだよな、清正を祭ってる神社。ハワイとかな。もう訳わからん。
こんなのと対立してしまった行長の運が悪すぎた。
水軍船団指令長官小西行長「最初の二年間は(明・朝鮮に対して)勝算があります
大いに暴れて見せましょう」 >>260
神社焼き討ちはかなり信憑性が高い。同年代に喪失した社の数が幾ら何でも多すぎる。
実際にどこのこと?
言い伝え以外で、間違いなくその時代(在任12年間)に燃えたことが明らかな寺社ってあるの?
寺社に残されている記録も、ほとんどが100年以上後になって書かれたものばかりでしょう。
ちなみに秀吉は、当時、寺社への弾圧を禁じていたって話だし。
行長の寺社焼き討ちは、限りなく捏造に近いと思うけどな。 観たよ
結構よく出来ていたと思う
宇土のイベント企画会社に勤める主人公が行長展の企画を任される現代パートに
戦国パートがちらちら挿入される形
気の強い同僚の女に噛みつかれながらも歴史教師の妻に支えられ、上司にはっぱをかけられながら
行長に迫っていくストーリー
同僚女は無名だがまあまあ美人
妻役の白石美帆はおっぱいでかかった
城跡の銅像は神社仏閣を弾圧したのがけしからんだの喚くクレーマーのせいで
2年も覆い隠されていたんだそうな
キチガイがおるものよ
よもや清正派の犯行か?
あと14万石となってたのが意外だった
22万石くらいだと思ってたのに
清正に関してはさらっと振れた程度でそこまで批判的ではなかった
行長を挑発する屏風絵が紹介されていたが >267
ありがとう。力入れて作ってるんだね
地元で再評価されつつあるなんて嬉しい限り 柏原弟も白石も葛山もよかったけど、
五代高之の演技だけは吹いたw ここの住人って岡田克也の事どうおもってるんだろう?
二人とも商人が上がりだし
結構イメージ的に近いんだよね。 宇土市役所でもらった観光歴史ガイドには巻頭で大きく扱われている
読むといろいろ苦労したわりに報われなかった人という印象だ
城跡の石垣が打込ハギだったからおかしいと思ったら、
今残っているのは関ヶ原後に清正が改修した石垣ばかりだそうだ
行長時代の遺構は下に埋もれいていて、
なんか豊臣を埋めて徳川が築いた大坂城のようだった 行長って地味だけど、秀吉や明の万暦帝までを欺いて朝鮮役という空前の多国間戦争を終わらせようとしたんだよな
何気にスケールのデカい男だ 史料で読む戦国史小西行長って本は結構面白いな
このシリーズの証言本能寺の変ってのがアレだったんで食わず嫌いしてた 堺の歴史・文化を物語る貴重な文化財などを期間限定で特別に公開する「堺文化財特別公開」。
今回は"小西行長と堺ゆかりの戦国武将 〜謎多き行長と堺の歴史を探る〜"のテーマで、5月23日(水)〜27日(日)の5日間開催します。
http://www.sakai-tcb.or.jp/topics/index.php?id=229
プレイベントとして、ドラマ上映会やシンポジウムもあるそうです。 「水軍の将 小西行長伝 1」(能田達規/秋田書店)の続刊まだ? 秋田は返本率が高かったら即効で刊行打ち切るからなぁ… 島原の乱についてどうこう言ってる奴がいるが
あれは唯一、江戸時代で斬首された大名、松倉重政の
常軌を逸した苛政が原因だから、あんま一揆やキリシタンを
悪く言うのは抵抗があるな。 苛政や凶作よりも、天草四郎一派の終末思想の喧伝が大きかった。
天草四郎のもとにキリシタンを集結させたのは確かに苛政があったかも知れないが、それが
挙兵にまで至ったというのは、天草四郎側が追いつめられたと言うよりも、天草四郎の宗教的、組織的都合で行ったものと
考えたほうがいい。
豊臣を滅ぼした戦犯順位1位だろ??小西が
能力があったみたいだから仕方ないか 東條英機に近いのは
三成よりも小西だよね 時代が違えば大事を成していたかもね 堺屋太一の小説読んでたら小西行長は対馬生まれ備前育ちって書いてた
どういうことだ 堺の商人の息子と聞いたが・・・ >>281
小説(フィクション)だったら何でもありだろう。
史料としては、
「羽柴の海軍の司令官は、都生れのキリシタンで、名をアゴスチニヨといひ(略)」(イエズス会日本年報1584年)
「ジョウチン隆佐といふキリシタンで(略)彼の子をアゴスチニヨと称し、幼少の時より都で教を受けたが(略)」(イエズス会日本年報1583年)
などとある。
堺の商人の息子だが、父が都に拠点を置いて商売をしていたときに生まれた子なので都生まれなのだと思われる。 小西行長は元祖、売国奴。日本国内の切り崩しを狙う李如松に買収され、
石田三成に工作し、秀次事件を引き起こし、日本を大混乱に貶め、明側に
大いに貢献した。 ちなみに、加藤清正も秀次事件で三成、行長の讒訴で処罰された。これは
清正の武力が清に恐れられたため、その除去を図る明の買収に乗ったため。
かなりろくでもない人物だよ、小西行長は。 今度堺で小西行長について語るとかいうのがもよおされるが、
誰が傍聴にいくんだろw 放送エリアは熊本県だけだが、こんなのがあるらしい。
くまもとの風「小西行長 〜時代に求められた戦国大名の苦悩〜」
堺の商人の次男坊から肥後南部14万石の戦国大名まで上り詰めた小西行長。
近年の研究によって、これまで語られてきた人物像とは異なる姿が浮き彫りになってきた。
織田信長が褒めるほどの武将としての実績があったこと、南蛮貿易で儲けを目指す豊臣秀吉から絶大な信頼を置かれていたこと、関ヶ原で戦った徳川家康から最も警戒された人物であったこと。
番組では、史料に基づいた様々な歴史研究を紹介し、新たに見えてきた小西行長像に迫る。
平成24年5月11日(金) NHK総合 午後7:30〜7:55
再放送:平成24年5月12日(土)NHK総合 午前10:50〜11:15
http://www.nhk.or.jp/kumamoto/program/b-det0000.html >>274
このイベントは、最近、阪神電車の中吊り広告になってて
行長がすごいイケメン化されてたわ
歴女を釣る気だろ、これwww
つか、広報してるわりに開催期間5日間とか短すぎだろ
なんでせめて1ヶ月とかにしなかったのかねえ >>288
今まで気づかなかったが、毎年春秋に5日間ずつやってる行事のようだ。
初日に行ってみたけど、ボランティアガイドが手弁当でやってる部分が大きくて、
とてもじゃないが1ヶ月もの間続けられないと思う。 最近、行長の研究が進んでいる。
「勝てば官軍、負ければ賊軍」の典型で、伝承と事実が大きく食い違っている武将だね。
>>284
のような話がまことしやかに伝承され、それを鵜呑みにしている人が未だに多い。
歴史を考える場合、誰がいつ書いた内容なのかを知る必要がある。 地元熊本にしてからがせいしょこマンセーなんだろ
それとも南部では違うのか? 嫌われてるとか好かれてるとか以前の問題。
まあ宇土の方では掘り起こして再評価しようとしている人達もいるみたいだ、本も出てるし。 宇土住の俺から言わせてもらえば観光資源への活用を目指して良いとこ探ししてるだけ。
その証拠に、宇土周辺の神社や寺なんかに置かれてる観光案内の歴史表には恨み節のように
『〜年、小西行長に焼き討ちされる』と書いてある。
多少歴史に興味ある人がみればどう思うか。
はっきり言って民からの人気は皆無だったんじゃね?ってくらい信頼も人気もないし無かったんじゃないかって思う。
キリシタンや商人からは受けがよかったみたいだが。
しかし海外貿易を望んでいた清正がキリシタンや商人を利用しようと厚遇した事もあってその手の人気も清正に持っていかれたようだ。
肥後南部に清正じゃなくてまぁそこそこの領主が入ってれば『行長の時代は〜』ってプラスの資料が残るんだろうけど清正が完璧すぎるんだわ。
挙げ句、天草・島原の乱で出てくる『小西有馬浪人』って単語がネガティブすぎんだろ…。
清正が完璧すぎというのも、本来の清正の人物像とは少し違って、
後世作られた人物像だとも聞くよ。
熊本の研究者が、清正age、行長sageのプロセスを史料から明らかにしようとしてる
みたいなことを言ってた。
熊本日日新聞に、史料から明らかになった清正像(?)みたいなタイトルで
連載してるとかいう話だったけど、熊本県民じゃないから読めないので、
単行本化を期待してる。 まあ清正が豊臣の忠臣、ってのは明らかに後世のつくり話だわな。
だからといって行長が忠臣という話でもないがw >>295
お前はただアンチなだけじゃん
清正が完璧?笑わせんな >>299
禿同
清正にしても行長にしても、とにかく作り話ばっかりだからね。
最近の清正の研究では、
清正は無骨ではなく緻密な性格だった。
ため池や河川改修を進めた土木の神様と言われているが、後世の作り話。
熊日新聞の連載でも、露骨ではないにせよこれを容認している。 2代で滅んだ清正があげまくられるほど
細川の治世が悪かったのか? 清正が讃えられたのは彼が熱心な法華信者だったことから、江戸期に法華の守護神みたいに
扱われたことが大きい。
あと明治後、大陸進出の象徴として宣伝され、熊本において「記憶の上書き」が起こった。 肥後一国を統治した著名人が少ないのも要因の一つ。
加藤氏より前は菊池氏くらいしか居ないし群雄割拠しすぎ。
明治維新後、朝臣菊池AGE加藤SAGEキャンペーンが起こったがスルーされた そういや清正スレがいつの間にか落ちたな。
>>298
十年前のネットは三成はじめ西軍武将の持ち上げが酷かったが
最近は清正や正則達をやたらと持ち上げて
行長と三成は糞以下の奸臣と叩くのがネットでのトレンドみたい。 朝鮮役で完全に燃え尽きたが故の関ヶ原での空気振りが酷い 以前の小西は文官扱いだったが、最近は武将として見直されてきてるように思う 燃え尽きたわけではなく、行長は想定外のまま関ヶ原に参戦したんだから
そらそうだ
行長は、慶長5年1月に上洛したまま関ヶ原を迎えたので、
そもそも大規模な軍事行動を想定・準備してないまま参戦したわけで
軍事的に中核を担う家臣も国許に残したままだし、
直属が2900人、これに1100人の与力をつけてもらって戦った
唐入りの時は直属で7000人規模だから、圧倒的に兵力が少なく、
現場の指揮官レベル抜きで戦ったわけだから、当然の帰結というか >>307
小西の兵数は五千から七千と言われているが
後、与力は元からの付属だったはず >>308
この関ヶ原の小西の兵数と与力の数の出典は、
島津亮二『史料で読む戦国史 小西行長』の204-205頁
著者は八代市立博物館の学芸員で、
行長展の企画とかしてる若手の研究書ではこの数として載ってる >>309
真田家に残る三成の書状には小西2900人、与力四人で4000人とある >>312
まずお前が具体的に史料上げて論証しなよ
粘着アンチ君 >>295
少なくとも、焼き討ちは信憑性が薄いよ。
他のキリシタン大名も、禁教令以後は焼き討ちは行ってないし、さすがに
宗教的理由で焼き討ちまでしたら秀吉も黙っていられない。
多くは、普通に焼けたのや戦災にあったのをキリシタンのせいにしたり、
武装勢力だったからという理由で焼き討ちされたり、肥後国人一揆の鎮圧で
焼かれたことを言ってたり。来迎院なんかいい例。
あと、焼き討ちされたって言う寺社の記録が、なぜか江戸中期以降と明治維新の時期に
出来てるのが多いことも注目。
江戸中期の理由は分からんが、明治維新は廃仏毀釈に対する寺社の言い訳として
弾圧にあったからやむなく一緒になってます、みたいなのが多いよ。
小西さんも加藤さんに比べられたり濡れ衣着せられたり、損な役回り・・・。 小西行長って、文禄・慶長の役の活躍を見る限り、戦に長けてたよな
むしろ、自国をちゃんと治められてなかったから、政治的能力より、戦闘能力のほうが高かったんじゃないか 関ヶ原本戦でふるわなかったのは唐入りの時の疲弊があったからだね。
東軍だって黒田や細川などの唐入り参戦組は彼らが
文官と軽んじた石田隊相手にかなり手こずってるし。 彼らの場合、本拠地から遮断されているので損害を補充できない >>316
手こずったも何も西軍って2時間ほどで崩壊してるぞ。ほとんど瞬殺に近い。 その根拠は西軍で戦ったことを無かった事にしたい島津家の史料を基にしている >>319
なかったコトにするで何で時間を短くするんだよ?意味不明な考え方だなw
家康から伊達政宗に戦後当てた書状にも、正午に終わったとしている。
敵味方で一致する以上、事実であると考えるのが合理的。 >>320
島津が戦闘加入する前に終わりとしたかったから
後、伊達への書状は「今日十五日午刻、於濃州山中及一戦、」
「今日15日午の刻に美濃の山中(関ヶ原)で戦闘を行い、」
始まったとも終わったとも記されていない >>321
その書状全体読めばわかるけど、「午刻」に戦いが決した、と読むのが
常識的だと思うぞ? >>322
全文読んでも
「今日15日午の刻に美濃の山中(関ヶ原)で戦闘を行い、宇喜多秀家・島津義弘・小西行長・石田三成の
軍勢を全て討ち取り、直ちに佐和山まで行き、今日到着した。
大垣の今日落としたので、安心されたし。
そちらについて、伝えてくれた仕置でもっともである。
恐々謹言。」
午刻に決したとは見えない。
それに始まりを書かずに、終わりの時間のみを記すという例はあまりないかと >>323
始まりが午刻ならそれはそれで大問題だと思うが >>325
それでも結局、午刻前後の一刻(2時間)って捉えるのが常識的のような。 常識的な書き方ではないからなんとも
午の刻が戦闘の最高潮だったとも取れるし >>328
例えば、福島正則が結城秀康に宛てた岐阜城の戦いについて記したものは
「翌日未明二岐阜江押懸、」と開始した時間を記し
また家康家臣城信茂が最上義光家臣寒河江に宛てた同様書状にも
「廿三日不暁(払暁)ニ押懸、」
こんな感じで普通は始まりの時刻を書く、なぜならば戦闘が何時終了したかなんて、
よく分からないから、気がついたら終わっていたというのが多い 家康本隊が戦闘始めたのが正午頃なんじゃね?
確か最初後方にいた家康本隊は暫くしてから前進してるよね。 でも家康本隊が戦闘始めた頃には小早川も参戦してほぼ趨勢決まってたような。 桐野作人が提唱する早期決着論は午の刻前には西軍は総崩れしていたというもの
午の刻が転換点というのは通説に近い 桐野さんは島津贔屓だからどうしても島津家の史料の記述を優先しちゃう 家康も午刻を指摘している以上、午刻に概ね決着がついたとみてしかるべきだろ それなら巳の刻に攻め懸かり午の刻には勝ち鬨を挙げたとか
討ち果たしたみたいな文言にならないとおかしいジャマイカと。 『板坂卜斎覚書』に「御合戦過候へバ無程日も暮ぬ」とあるから、やはり夕刻まで戦ったのだろう 要するに結局みんないつ合戦が終わったかは割といい加減な認識だったって事ね。 携帯できる時計が国内に片手で数える程度しかない時代だしね 10/24 22:00〜23:00 BS-TBS「ライバルたちの光芒」
今回のテーマ、「加藤清正VS小西行長」。秀吉に仕えた二人であるが、
その生き方は大いに異なっていた。肥後の国を二人に任され、朝鮮出兵
では第一陣と二陣を任された二人はまさに宿命のライバルであった。
武功派、頭脳派とタイプが異なり、秀吉が亡くなった後、関が原の戦いで
も袂を分けた。さあ、ライバル奉行高橋英樹の軍配はどちらに?!
http://w3.bs-tbs.co.jp/rival/ 小西・島津義弘VS武断派が関が原の原因
家康と毛利はそれぞれ彼らを利用し担ぎ上げた。 >>342
ID:5xspctLN=アスペルガーだが
戦国時代の知識も無いくせに知ったかするなキチガイ
ttp://hissi.org/read.php/sengoku/20130622/NXhzcGN0TE4.html?thread=all 「歴史通 3月号」の筑波大学大学院教授・古田博司氏による「あの、朝鮮民族とつき合う方法」から引用。
以下引用(38〜9頁)
日本は豊臣秀吉の時に、朝鮮に出兵しているのを知っていますね?
最近は研究が進んできて、日本の占領地にどんどん朝鮮農民が逃げてきていたことが
分かってしまったのですよ。朝鮮の李朝がひどくて、日本の方がずっといいから、
占領地に城下町もできてしまいます。
朝鮮農民は李朝でひどい目に遭っているから日本の方に行けば良くしてくれるということで、
どんどん日本の占領地に逃げ込んできてしまうわけです。
これが事実なのですね。こんなこと教わってないでしょう?
日本は戦争が強いからどんどん勝ってしまい、そこに日本の城を建ててしまいます。
・ ・ ・ ・ ・
おそらく教科書では負けたと教わったのではないかと思いますが、あれは嘘ですからね。
すでに半島の領地の藩分けもしていたと言われているのです。
でも、秀吉が亡くなって、そのまま撤兵することになってしまいました。
引用終了
学校では全く教わっていない、知らない話でした。 朝鮮出兵時、1595-1597年に秀吉軍勢力地で平和に暮らす朝鮮人。
日本人と合い親しみ同化し同類のように思っていると朝鮮の記録に書かれる始末。
http://town.zaq.ne.jp/u/es1772329/i5eiffc3dtdnwa
そして朝鮮人と左翼が「日本軍の残虐性」ばかりを強調する慶長の役にすら、
日本軍に味方する村々や人物がいたと朝鮮の記録に記されている。
http://town.zaq.ne.jp/u/es1772329/i5eiffccooa39t
宣祖実録の記録と、小西行長とその将兵から聞き取りしたフロイスの記録に残る、
日本人に成りすまして、略奪暴行する朝鮮人の記録↓(今も昔も変わらないね)
http://town.zaq.ne.jp/u/es1772329/i5eiffcvk4n5gd 悲しいかな、出身地の大阪はおろか堺ですらほぼ無名
堺に拠点置いた三好長慶もだけど
堺や大阪では戦国大名と言えば信長や秀吉なんだよね 笛吹きサンケイバイトラーメン
笛吹きサンケイバイトラーメン なんと長持ちなスレw
小西はなんとなく好きな武将なんだよね〜
少なくとも悪人ではなさそうだし。 >>346
確かに三好のことは知る人は少ないだろう
しかし、四国から近畿に来る奴は、例外なくロクデナシだという先入観を与えてくれたのは阿波から来た三好一門だ お前ら熊本きたら熊本北部しか見ないで帰るなよ?
南部も見ていけ!特に神社・寺な。
どこもそこも行長をボロクソ叩いてる。
余程酷い焼き討ち取り壊しがあったらしい。
凄まじい恨み節がそこら中に残っててビックリした!
そして驚くべき事に復興に尽力したとして加藤忠広が名君扱いだ。 よくもまぁあんな山奥まで入って寺院焼き討ちしたなぁってとこまで焼き討ちしてるからびびるで! 清正とはとことん喧嘩ばっかで相性悪かったのがなw
でも逆にあの清正と闘い続けたんだから実際は結構な豪傑なのかもね。 石田もそうだけど、小西は沙婆で思われてるより戦闘力あるよな 文治派とかいうレッテル貼られて
合戦雑魚みたいなイメージあるけど、五奉行や小西は戦功もあるからね。 商人の出ゆえに舐められないよう、武士らしさを求めて果敢な働きを心がけてそうだ しかも宗教狂いのマジキチやからな
今で言うイスラム国を肥後南部に築こうとして、肥後南部を徹底的に破壊した!
斬首された際は肥後南部民は天罰と嘲笑った! >>361
お前関西弁=尼崎や道頓堀のイメージで言っとるやろ
殿様相手にするレベルの高級商店のボンボンがダウンタウンのまっちゃんやヒョウ柄パンチパーマのオバチャンみたいな
荒っぽい喋り方するわけないわ >>351
帰国後だったか加藤清正、黒田長政、毛利勝信、鍋島勝茂と小西行長、手沢広高は揉めてる
長政は忠興とも揉めてるしそこらへんも影響あったりしたかね 極悪人扱いとは知らなかった
つい最近まで銅像を隠さないと襲撃せれるほどとは そりゃ交渉といいつつ
秀吉には朝鮮は服属したといい
朝鮮王には秀吉に統一の祝いの使節を送ってくれと言い
いざ対面して嘘がバレると自分を最前線に配置してくれと挽回の機会を求め
最前線に配置されたと思えば講和の時には
秀吉には朝鮮は降伏したといい
朝鮮には秀吉は降伏したといい
正直一番の敗因と言われても仕方ないぞ
コレ 小西行長は朝鮮出兵だとボロボロだからね…
文禄の役では朝鮮の降伏詐欺に引っかかって明軍参戦を許してしまうわ、和睦欲しさに秀吉降伏書状を送ってしまうわ。 小西行長は朝鮮出兵反対派だったけどだからといってあんまりな戦績だよ… 取り引きとして敵に軍事機密漏らしてたっていうのが決定的だな
どうしても最低最悪の腐れ武将と断定せざるを得ないし
その印象も一生消える事は無いだろうな >>376
大阪で100人に絞った時に行長入れるのかという気はしない
というかなんだその執筆者達は 小西行長はなぜ死罪になったのかな?
関ヶ原の戦いでは西軍結成の首謀者ではなかったと思うんだけど。
朝鮮派兵では一番隊として乗り込んだ。結構、かっこいいと思うけど。