北条高広
過疎ってるので今更な話を…
天文二十四年の善根での騒乱は北条高広が武田に通じて起こったのではありません。
根拠とされる越佐史料の武田晴信書状が、新潟県史編纂時の原本調査で"信玄"と
署名されていることが判明したからです。御存知の通り武田晴信が信玄と名乗るのは永禄期であるので、
安田氏宛の文書で確認される騒乱と、北条高広が信玄と内通していたことを示す書状とは結びつかないのです。 >>63さんへ。
へぇ。そうだったんですか?
貴公の私見でもいいので…
詳しく教えてくださいね。 順当に考えれば、何かの原因で春日山で長尾藤景を突発的に単独犯で殺害してしまい、
これはやばいと考えて拠点に逃げ帰り、篭城して武田などの周辺勢力に、
手当たり次第に助けを求めただけでしょ。
殺害理由は川中島に関する論争かも。 >>63について既に上杉家過去スレに分かりやすいレスがあったのでコピペ↓
【毘】上杉家を、普通に語りましょう。【毘】
http://curry.2ch.net/warhis/kako/1013/10136/1013659467.html
> 522 名前: 515 投稿日: 02/03/15 14:54
> あと、北条高広が何度も謀反したという定説についてですが、最初の
> 天文23年(1554)12月の謀反というのはどうも怪しいんです。ちょっと
> 煩雑ですが詳しく述べますと……。
>
> この謀反は「越佐史料」が最初に書いたようで、花ヶ前先生が何度も
> 書かれて(笑)定着しましたが、根拠となる史料は、一つは天文24年
> 2月3日に本庄宗緩(実乃)ら3人が安田景元に対して出した起請文
> です。これは「今度、善根(ぜごん)の一件で(殿が)出陣されたが、あ
> なた(安田景元)は、(敵が自分の)骨肉であるにもかかわらず、殿に
> 異心なく働くと誓われた。われわれも決して景元父子を見放すような
> ことはしないことを神に誓う」というもの。
> この史料からは、善根という場所で何かあったこと、そこで景虎に攻
> められたのは安田景元の一族だったことはわかりますが、北条高広
> かどうかはわかりません。
>
> もう一つの史料は、書状なので年が書かれていませんが、某年12月
> 5日付けの武田晴信書状(北条丹後守あて)で、これに「先日聞いた
> 話が事実なら大慶です」とか書いてあるので、越佐史料編者はこれを
> 上の起請文と結びつけて、天文23年12月の北条高広謀反説を立てた
> ようです。しかし「先日の話」が何かは書いてないので、そもそも根拠
> が薄い議論ではあります。 > 523 名前: 515 投稿日: 02/03/15 14:55
> (つづき)
> ところが、この12月5日の晴信書状は、まったく同文のものが茨城県
> 江口氏所蔵北条文書という史料の中にあって、「柏崎市史資料集」
> に収録されていますが(306号)、それは差出人が「信玄」なのです。
> 天文23年にはまだ晴信は信玄と名のっていませんから、この書状を
> 天文23年に当てるのは間違い。
>
> では、はじめの史料(善根うんぬんの史料)だけで北条高広の謀反
> が言えるかというと、これは疑わしい。善根(ぜごん)というのは柏崎
> 市の南の方にある八石山(はちこくさん)という山の麓にある地名で、
> ここに善根城という城がありました。
> しかしこの城主は北条高広ではなく、地元の伝説では毛利大万助
> (だいまんのすけ)という城主で、北条丹後守の謀略で滅ぼされたと
> されています。
> この伝説は全部真実ではないかもしれませんが、景虎が出陣した善
> 根の一件と関係があるなら、北条丹後守ではなく一族の毛利某が
> 討たれたとみるべきでしょう。
>
> なお「柏崎市史」では、この理由からだと思いますが、天文23年の高
> 広謀反説は無視しています。 > 525 名前: 515 投稿日: 02/03/15 15:03
> なお、それなら武田信玄書状はいつ頃のものかというのははっきり
> しませんが、信玄時代なら、北条高広が厩橋城代になってからのこ
> とではないでしょうか。謀反であるかどうかも書状だけからは断定で
> きませんが、厩橋城代になったあとで一時高広が謙信に背いたのは
> 事実なので、そのときのものかもしれません。
―ここまでコピペ―
>>68
偽書じゃなくて今まで写しでしか伝わっていなかった書状の原本が見つかっただけ。
で、写しには差出人の花押しか記されていなかったのが、原本では花押に加えて「信玄」という
署名がされていたので年次比定が間違っていることが分かったと。
あと上記の柏崎市史資料集306号信玄書状は新潟県史研究No.20の資料編補遺が初出だと思われる。 >>69-71さんへ
その信玄書状ってこれのこと?
・元亀二年(1571)12月5日付、信玄→高広あて書状で、信玄は
「…(略)…先日承った事が、真実ならば大満足です。
今後は他の武将よりも優先して仲良くしようね。
(この同盟は)私の望みなので同意するよ…以下略」と書いていますし…
>>72
それで合ってると思います。
ちなみに善根の武将ですが、延徳年間の上杉家臣に毛利左近将監定広という人がいるので、
安田らに鎮圧された同族はこの人の子孫である可能性が高いかと… >>73に追記
延徳年間に毛利定広が善根を拠点にしていることが分かる、という意味です。
誤解を招きそうだったので一応…。 >>73-74さんへ
大いに、感服させられましたよ。ありがとう。
4: 武田家滅亡の原因は100%信玄が作ってる件その2 スレッドでも言いましたが
「定説・通説だけど…云々ですね」
この北条とか本庄とか独自性強すぎw
毎度帰順を許してる謙信公も相当懐が広いというか・・・。 一応可能性の高そうな系図を書いてみた。ずれてもご愛嬌(´ω`)
「安田」清広─広春─景元─顕元
‖
「北条」輔広=広春=高定┬高広┬景広
‖ | ├高広(毛利弥五郎。高明?)
「石曾根」……………高定| └高繁(常陸介、大胡を継ぐ)
└高政(長門守)
・広春は元々安田の庶子で北条を継いだが、安田のほうが何かの事情で
継ぐ人がいなくなってしまったので、同時に安田も継いだ?
・ところがその広春も子供ひとりしかいなかったので、それには安田を継がせ、
北条の方には石曾根の高定を連れて来て養子にした?(高定は『前橋八幡宮文書』の
寄進状によると北条下総守を名乗っていたらしいから、多分北条は高定から継いでいたと思われる)
・北条一族には安芸入道芳林よりやや年下と思われる「長門守」という人物がいて、
これは芳林の弟の高政か?
・芳林と同名の毛利弥五郎高広はひょっとしたら高明とも名乗っていたのかもしれん。
・大胡常陸守(常陸介)高繁は芳林の実子か養子か判らんが、とにかく大胡を継いだ。
この人物はことによると上泉家ともつながりがある、というのは考えすぎか。 >>79
ありがとう
北条毛利と安田毛利の関係はややこしいから
前からちゃんとした家系図を見たいと思ってた
しかし天文23年に(北条高広ではないと判明した)反乱を起こした
善根城の毛利大万助って家系図に入ってこないのかな? 山本高広を初めて知った時、まず北条高広を思い浮かべたのは俺だけか? >>79
北条長門守って年齢推定可能な史料あったんだ?
御館の乱関係の書状に出てくるのは知ってるが、
年齢は全然わかんなかった。
確か景勝方だったよね、長門守って。 こいつは越相同盟締結後も、信玄と私的に交流しているんだよな
謙信は人がいいのか、2度の謀反後も信頼して、上野の豪族・膳氏の嫡男を高広の猶子にさせたり、能登畠山の娘を北条家に嫁がせたりしているww 一度目の謀反は史家の誤解なので。
でも厩橋の変節は通常万死に値する離反だよなあ。
なんでこの人の権力基盤を固めてあげたんだろうかw キタジョウ・タカヒロです。
上条政繁はジョウジョウ・マサシゲです。
ややこしいので気をつけてね。 のぶやぼでは義理に乏しく、そここ裏切りやすかったりする >>95
バカ花なんとかの二回も謀反したとする誤解釈が原因です。 敵中に切り込み易いよう自分の旗指物を小さくしてたとか何かで読んだ それ、息子の景広だったような…
>>98
近衛の小説でも、その説がばっちり採用されてたなw
彼のブレーンの一人が、バカヶ前だからw 高広の祖父は旗指物を木の枝にひっかけて宙吊りになってるところを無様に突き殺された。
それ以来北条家では旗指物をなるべく小さくすることが通例になった。
現存する最小のものでは縦10センチ、横3センチのものがある。 >>99
近衛はゴミ作家だな。
上杉小説=駄作の方式を一人で作り続けているし、
ブレーンが鈴木と花ヶ前。
おまけに藤木の馬鹿な略奪説も宣伝してくれるw
景虎バンザイ、柿崎は暗殺、景勝は不義。
本当はこいつアンチ上杉なんじゃないのか。 三郎景虎とか佐竹の小説は割とまともなことを考えると、アンチ上杉かもしれんなww >>101
景広のこと?
鬼弥五郎なんて異名もらってるのに不遇だ >>101
そこまで小さいとわざわざ旗にする必要がないな。鎧に縫い込んどけばいい。
もっとも何のための旗印がわからなくなるがw >>107
でも、大河のガイドの御館のシーンは中々かっこ良く描かれるっぽいぞ ガイドブック読んだが、御館の乱で討ち死した設定になってた
それって息子の方だよな?
本人は景勝に降伏してなかったか?逃走、行方知れずだっけ? >>109
武田勝頼に降伏し、勝頼を通じて上杉家に復帰した。 天地人見たが、北条高広って1564年は厩橋にいなかったのか?
普通に謙信と越後から山を越えようとしてたんだが。 >>111
突っ込みどころイパーイなのは大河のお約束
なぜか柿崎家からまだ家督を継いで無いはずの
晴家が出てきてるし。 >>111
強引に解釈しようぜ。
つまり「輝虎に出兵を願いに直々に春日山に出向いていた」んだよ。
実際彼の妻子は越後に住んでいるわけだから不具合はない。
でも関東じゃなくて信濃に出兵していたのは内緒。 当たり前だけどむさい髭面のおっさんばっかでてきて笑ったなぁ また高広が春日山にいたぞ。
越後に米が実りやすいって…
新潟が米どころになったのは
江戸後期か近代以降だろ 先週も「北条は卑怯にも我らの落とした城を寝返らせおった」とか
北条高広に言われたくねーよwと思った。 まあ1564年の事だしまだ小田原北条の配下に
なってなかったか良いんじゃねw 名前がアチラ系なので新井にやらせる悪意。
大河の根は国粋を突き詰めると気が保たない。 春先に厩橋に戻ってきたら
すっかり親北条になってた部下達に怒鳴られる高広w 城主を人質に取ってたんだろw
大河の謙信は参勤交代を先取りしていたと。 >>123
寛永期に成立した勘定奉行という職責も、いち早く導入していたなw 確かに上杉家に限らず参勤交代の前身のようなシステムはあったようだけれど、
高広の場合、代官としてじゃなくて領主として配置されているからねえw 平和時に参勤交代がないシステムなんてどの将軍様も不安になるわな
ただ真冬に春日山は・・・。 まあ正月の挨拶に強行軍で来たついでの絵と補完するか
謙信は質素を好み正月の飾りつけなど無用という方針で・・・
どうでもいいか 宇佐美や政景が変死して間もないから
春日山へ行って状況を確認してたんじゃね
ついでに下野常陸への次の軍事侵攻の打ち合わせ会議やってさ
今週の高広様は凄絶すぎ。
天正元年の台詞
「武田の謀略にはこれまで何度煮え湯を飲まされたことか!」
おまえがいうな!ww
そして景勝に苦手な舞を求めて辱める高広様。兼続がフォローすると楽しんでるから悪意はないんでしょーけどw このまま御館の乱では風林火山の高遠くらいに大活躍して欲しいね
出てくるたびに「お前が言うな!w」という台詞ばかり言ってる気がするんだが
脚本家先生は北条高広をどうしたいんだ 高広は佐竹義昭から輝虎の越山への努力を賞して、輝虎と討った旧小田領の常陸国沼崎郷や前野郷を佐竹から宛行われた。
また高広は永禄12年の時点で、後北条に宛行われていたのか伊豆国稲取郷や片瀬郷をすでに領有していた。
>>136
あのドラマの酷さ見てると、あえてそうした訳でもなく、
ただ高広と景広の名前を間違っちゃったんだと思う。
たまたま景虎派武将だから高広の名を付けられてるだけで
高広じゃなくても良さそうだし。
景広でも上杉景信でも本庄秀綱でも良さそう。 今回の天地人って御館の乱から描こうとするから難しいのかな?
上杉家臣団の構成ってもっと複雑だったらしいし、
わかりやすく描こうと思うと薄っぺらくなるし。
御館の乱の戦後処理とかどう描く?
でも、もう見る気無いけどねw
やっぱ景広として死ぬのか。高広なのに。
景家じゃなくて柿崎晴家の方を謙信時代から出してるんだから
北条も景広って名前にしておきゃ良かったのにな。 史実通り生きてるだろあれ。
雪に埋もれてるだけで、助けられて武田に仕えるんだよ > おまけ
> http://j.orz.hm/?up2.viploader.net/pic3/src/vl2_126082.jpg>
> 先日所要で柏崎方面を通りかかった時に発見。思わず撮ってしまった
> 大河ではあんな扱いだったけど旗までつくってもらえてよかったねキタジョウさん
上条の息子に畠山弥五郎景広ってのがいるようだが、
北条弥五郎景広と輩行・諱が被ってる。
しかも北条は謙信から畠山の未亡人を押し付けられるし。
何か関係が…?
高広は御館の乱後も生存したと言われるが、
同名の息子の事だという説もあるらしいな。 北条が北条からあてがわれた伊豆の領地は御館の乱後どうなったんだろ? 保守age
>>69>>70>>71>>72>>73
wikiも修正した方がいいんじゃね。 御館の乱以降、どうなったか詳しくは分からないままなんだな。
生死不詳が一番悲しい。 きたじょう なんですよね
後北条に寝返った時は喜多条に改名させられたらしいけど