★★★名族 六角氏について語ろう★★★
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近江の名門で
楽市楽座の創始でもある六角氏
の繁栄と没落の歴史を語りましょう。 フィクションなら
一次史料を根拠に赤子の手をひねるほどに
難なく論破できるはずなんだがw
論破されてる自覚はちゃんとあるんだなワロタw 偽造史料に反論できる一次史料が無ければ論破、って言ってるだけじゃん >>546
それはつまり偽造史料では無いからだろ・・・ >>547
「六角義実が参議になった」という時点で偽造では? 勝ち負けとかどうでもいいので、早く世間一般の認識を変えてくださいw そういえば「葉隠聞略」という恥ずかしい間違いはいつになったら修正されるのだろうか? 話題投下
http://blog.sasakitoru.com/200602/article_83.html
>『長命寺結解』の「天文三年十月結解米下用」に、「四郎殿様御在京之時」とある。
>この記事の四郎殿様が、『厳助往年記』同年十月条にある将軍義晴の入洛に供奉した六角四郎と同一人物である。
>これに対して同年の「注進天文三年十二月結解米下用」で「五月十五日御曹司様伊崎へ御参ノ時」とあるように、
>定頼の子息義賢は御曹司様と記され、四郎殿様と書き分けられている。
ここで言う「御曹司」は、「堂上家の部屋住みの子息」という意味で、嫡男である「四郎殿様」の下位者なのに、
「御曹司=嫡男」と勘違いしていることによる誤解ではないかな?
だから「四郎殿様」は義賢で、「御曹司様」は別人でいいのではないかな? 六角氏を堂上家というつもりはないので訂正
×「堂上家の部屋住みの子息」という意味で
○「堂上家の部屋住みの子息」というような意味で 「御曹司」という言葉が「嫡男以外の部屋住み」という意味の例として堂上家を挙げただけで、
「四郎殿様」と堂上家を関連付ける気はないよ >>560
>「御曹司」という言葉が「嫡男以外の部屋住み」という意味の例として堂上家を挙げただけで、
当然、同時代・同地域の史料で、嫡男以外を御曹司様って呼んで、はっきりと嫡男と区別している史料をお持ちなんですよね?
例えば、六角義治と六角義久が列挙されてて、弟の義久のほうを御曹司様って呼んでいる史料とか。
そんな史料があったらそもそも佐々木哲も勘違いしないのでは? 某義久入道を六角氏と仮定しただけで、そんな名前は系図に無い いや、「立花喬之助陣中秘録」「久慈慎之介隠密始末記」「阿部頼母薬事絵傳」にはたしかにかような記録はある 年代記抄節
六角義弼、兄義賢の老臣後藤綱宣を誘殺す
義弼は義治とは別人くさいな。 >>568
ひょっとして>>556の「四郎殿様」は義賢で「御曹司様」は義弼ってこと?
【サッカー/ブンデス】ドルトムント香川真司、今季7ゴール目は決勝点!レバークーゼンを下し首位キープ、5連勝の立役者に★5
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1329023152/
395 :人間七七四年:2012/03/28(水) 14:08:14.93 ID:LPmebqHz
信長公記のデタラメっぷり
公記曰く
信長御憑み御請の事
義昭が信長をひとえに頼み入れられたきの趣を仰せ出され、
既に国をへだて其の上にも信長沽弱の士なりと言えども
天下の忠功を致さんと欲せられ一命を軽じ信長はお受なさった。
永禄11年7/25越前へ御迎へ。
などと公記に書いてあるが実際にはその前から義昭は信長を頼りにしていたが
信長がヘタレ過ぎて半ば、呆れていた件w
永禄8年から計画された義昭の上洛作戦の主導者の箕作城の六角宗房が
武田が美濃を攻めないように協力を申し出、
「阿波から将軍の座を目指して足利義親が上洛する前に
覚慶(義昭)が家督継承宣言させないとダメ。紀伊の根来衆にも話をつけた」
と細川配下の薬師寺に書状を出してる。
一色・細川は清水寺に禁制を与えるなど京の寺院掌握に動き出し、
義昭は近江矢島に拠点を移動し、いよいよ上洛を目前に控えつつ永禄9年を迎えた。
すでに能登の畠山義綱・大和の十市遠勝も出陣準備を整え、
2年前に岐阜城を家臣竹中にパクられた斉藤龍興も公方様の上洛に協力しなければ
罪状を受けることを恐れて細川に誓詞を出している。
三河・尾張・美濃・近江・伊勢の軍勢で上洛戦開始を8/22の信長出陣に合わせよと遠勝に命じていた。
しかしビビった信長が寸前になって、やっぱり辞めようと言い出す。
これを聞き龍興(15歳)が信長はヘタレwと嘲笑するや、逆ギレした信長が8/29に美濃へ攻め込み
閏8月夜に斉藤軍に大敗するカッコ悪さ。
結局、三好軍に襲撃された義昭は朝倉を頼りに北陸へ出発。
永禄11年2月には足利義栄が将軍に就任してしまい
ヘタレ信長がまさかの逆切れで斉藤攻めを開始し六角氏の計画が崩壊した。
さらに今度は天皇まで上洛の要請を信長にしてくるまで上洛を決意できずビビり続けた信長・・・
六角宗房w 直江と河田宛の宗房書状は文中で
此の方屋形(義賢)と進次郎(進藤賢盛)
と書いていて
明らかに安見なんてわかる断定材料は無い。
そもそもなんで安見の屋形が義賢なんだよwって言う。
しかも六角両藤と呼ばれた
後藤(義治に殺されて観音寺騒動に発展)と進藤の二大家老ほどの地位の者を
安見が進次郎と呼び捨てとかありえんわw
さらに六角が河田宛に書状をこれ以後もずっと出してるのは
六角義堯であり、
六角宗房から義堯へ対上杉外交は引き継がれてるわけだ。 >>318
木村氏の子孫に伝えられる六角氏書状巻物に
収められているのに六角氏じゃない別人っていったい誰を指すと主張するのか対案を示せ。
織田厨得意の願望妄想なだけで根拠なんて存在しないで、思いつきでケチつけてるだけだろw
ちなみに該当文書の治(花押)が差出人の宛名はキチ(木筑の極端な短縮で薄礼)
さらにキチを宛名に義治の官途である右衛門の「右」だけの署名文書も存在する。
しかし同時期の義堯はちゃんと差出人に「義堯」と書いてるし、宛名も「木筑」と書いており
文中では「いそいでこっちに来てくれ」と書いてあり義堯と木筑が正式な主従関係を想定できるが、
義治とキチが「(信長方の話を)立ち聞きするように」「美濃や近江の様子の報告を聞いた」など
密書形式の内容の書状なので義堯と義治はまったく別人であるし「治」も六角義治しか考えられない。
「進次郎」だと勘違いしているから無茶苦茶言っているのか?
あまりアホなことを書いていると恥をかくぞ。
「此方屋形并同名新次郎被相催候」が原文だよ。
仮に宗房が六角氏だとしたら、「同名新次郎」は進藤賢盛に比定できないぞ。
「同名新次郎」は遊佐新次郎信教で「宗房」は遊佐氏同名の安見宗房、「此方屋形」は畠山高政となる。 永禄5年と比肩される3/5付の上記上杉文書に
「同名」なんて文章は入ってない。
此方屋形并新次郎以直札被申候と書いてある。
内容は屋形の六角義賢とその重臣進藤が
宗房に書状を書かせて
去年、謙信が関東管領に就任した事を祝い、
贈り物をしている書状。
どうでもいいけど、進藤賢盛って新次郎ではなく新太郎だったはず ふつうに東大も義賢と進藤賢盛だと確定してるわけだがw 永禄五年に「此方屋形并新次郎以直札被申候」と書いてあるからといって、
永禄八年に「此方屋形并同名新次郎被相催候」とあるから「同名新次郎」は否定できないだろ?
進藤賢盛を六角義賢の「同名」とする根拠は?
注を入れたからといって「確定」したことにはならないだろ? はいはいw
お前の妄想である屋形=畠山高政のこと
なんてキチガイ妄言より東大の方が遥かに信用できますからw 「六角宗房」が東大の見解だと言うのなら、
それで論文に引用してみれば?
どうやって引用するのか教えてね〜 ところで、東大以外から史料編纂所へ行った人を「東大」扱いするものなの? すみません、「同格」という言葉は語弊がありましたので撤回します。
例えば、史料編纂所教授を「東大教授」と言うのかな?ということです。 宗房を「安上」宗房のことだと断定してんのって
歴代古案のバカ編者だけだろ。
歴代古案のバカ編者は六角義堯の書状も
三宝院義堯や里見義堯の書状だとかアホ妄想してるしw
明らかにこの編者は六角氏にまつわる
偽書説を真に受けてことごとく人物特定を間違えてる池沼。 「六角義堯」も「六角宗房」も官途が不明なのは不思議 >宗房を「安上」宗房のことだと断定してんのって
>歴代古案のバカ編者だけだろ。
上杉家文書之一にも「安上」宗房と書いてあったけどなぁw 書き方が悪かったな。
東京大学史料編纂所 編の『大日本古文書 上杉家文書』にも「安上」宗房とあるってことだ。 あたりまえだろw
たぶん「安上」宗房のことだろうと付箋した
歴代古案のまんま弄ってないだけなんだからw
>>583では、史料編纂所が「六角宗房、六角義賢、進藤賢盛と確定」と主張するも、
>>597で、史料編纂所が別の箇所で「安上」宗房としていることが判明したとたん、
>>598では、史料編纂所が「歴代古案のまんま弄ってないだけ」というのは矛盾してませんか? 史料編纂所が六角義賢、進藤賢盛のことだと注釈してるじゃんよwww
どこに矛盾があるんだよ意味わかんねぇwww
>598
だったらキチガイ妄言より東大の方を信じてもらわないとな。 史料編纂所の注釈が公式見解だというのなら、
「六角宗房」と「安上宗房」という2人の人物がいる、
ということを東大が確定させたことになりますよ? >>602
>>577
史料編纂所が六角義賢、進藤賢盛と確定しているし
織田研究の第一人者の奥野高広も箕作城主の六角宗房だとしてる。
史料編纂所は安上宗房だなどと確定してないし何言ってんだアホw 「立花喬之助御府内一件始末記」や「宗示院夏目甚八享和秘録」にもはっきりとその旨の記録はある。
>>370の理屈で言えば、安見宗房の論文に反論している論文は無いので安見宗房で確定 久しぶりにのぞいたら哲たんがイタい恋愛相談とかされてたでござるの巻
…大変だなぁw 「後近江風土記」をベースラインとして、「和蘭陀新三長崎日記」と「永松左兵衛捕物帖」を幕府に公認が 近江守護の六角家の子孫て、前田家に仕えて金沢藩士になったんでしょ?
最後の守護職六角義治って豊臣家に仕えてたみたいだけど
次代の六角定治が前田家に初めて仕えたの?、分かる人、教えてください >>620
そういうことにしたかったら、それで良いんじゃね?
ってレベルの与太話だと思うんだが? 六角子孫同士でお互いに本家だと主張して
争ってるからよくわからんね。 歴史ウオーカー:/31 豊臣秀次ゆかりの近江八幡を歩く=長屋良行 /愛知
http://mainichi.jp/area/aichi/news/20130729ddlk23070061000c.html
>日本の商業の礎を築いた近江商人。そのルーツが信長の楽市楽座であったことが何とも興味深い。
六角氏の楽市楽座はスルーですかそうですか 古本屋で偶然手に入れた『近江太平記』って歴史小説がおもしろかった 「持明院赤垣伝兵衛日記」「永松左兵衛残日録」「結城新三阿蘭陀記録」にもこの点、きちんと記載されている。 その三点の書物の信憑性は?
それに信憑性が高い書物だって、当該部分の記述が正しいとは限らないんだけどどうやって証明するの? どなたか六角高一についてご存知のかたいらっしゃいますか? >>633
それは史実らしい
ただし、それと近江商人の隆盛は関係ないと思うが
信長の野望で歴史を学んだ人からしたら、近江の繁栄は秀吉の長浜時代から始まるんだろうけどさw コンスタンチノープルの「オスマン艦隊の山越」は有名だけど
それと同じ手を使ったのが六角定頼
高国の助力で瀬戸内海から牛車で大船を運ばせた
近江岡山城の伊庭氏はこの異様におののいて降伏したのだ 義郷って実在したの?wikiになんやかんや美談がたくさんあるけど出典は確かなのか 六角はもう手遅れだから諦めた方が良い
ここまでぐちゃぐちゃにされ汚されたら真実なんかわからない 三好、畠山、六角で体力消耗
織田信長が華麗に畿内を総取り ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています