【河野・安芸】四国の戦国大名 その2【長宗我部】
四国地方の戦国大名について語り合うスレです。
瀬戸内、淡路、豊予、太平洋側の水軍(海賊)の話もOKです。
四国は三好、長宗我部、村上水軍だけじゃないはず!
【河野・安芸】四国の戦国大名【長宗我部】
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1149000541/ >>550
無知乙
集結命令が出されたのは今回の元親の書状が出されるより前だ 集結命令が出た
↓
先陣の笑岩が阿波に乱入
びびった元親が書状を出した
↓
集結継続でシカトされたと同然
ってことで>>558が無知な >>559
集結命令が出た
↓
先陣の笑岩が阿波に乱入
元親が書状を出した
↓
(斎藤利三に書状が届いたか?斎藤が信長に書状を披露したか?信長の返答は?これら一切不明)
↓
当然ながら信長の返答が来るまで軍勢は集結したまま解散しない
というわけで無知乙
まあ元々>>553にも言い返せてないがw 少なくとも長宗我部との交渉がまとまるまでは解散しないだろうな。
でないともし交渉が決裂した場合に三好その他を見捨てることになる。 それ以前に交戦中の敵が書状送ってきただけで帰る奴はいねぇだろ 信長は京に政権を開く事を考えていて、長宗我部側が恭順を
心から考えていても、京の喉元の四国に「何であれ」反乱の種が残った
状態は見過ごせないと考えた・・・・・・って可能性はどうかな? そもそも恭順の書状もまだ詳しい内容が公開されたわけじゃないんで、これ以上の推測はいらないっす 書状を突っ返すって当時の常識からしてありえんからな >>537
明治時代に古い有名武将に官位を配ったんだよ。そのついでに家系を認めたって話だと思うよ。しょせんは天皇自身の権威付けの為だろうけど。
長宗我部家は元親の弟の子孫もいるのにそれを無視し遡って国親の子孫(?)が正統を名乗ってるくらいだから当時としても結構適当。現在じゃ枝葉の一人が勝手に当主を名乗ってるくらいにか思ってない。 >>567
元親の弟の子孫=国親の子孫じゃないかw
『長宗我部』の子孫は島弥九郎の子孫だっけ。あとは香宗我部の子孫は堀田家の
家老になった系統が存続している 国親の息子は元親、吉良親貞、香宗我部親泰、島の四人だから確実に弥九郎の子孫が今の当代になる
他でも長宗我部の末裔を名乗ってる人がいくつかあるみたいだけど傍系とかかもね
元親の直径は途絶えたから別に枝はが勝手に名乗ってる訳じゃなくて正当性はあると思うけど すいません、谷忠澄について教えていただきたいのですが、幕末にいた谷千城や新撰組の谷兄弟とかは、忠澄と関係あるんですかね? 岡山県立博物館
http://www.pref.okayama.jp/kyoiku/kenhaku/schedule.htm#kikakuten
「戦国大名 宇喜多氏と長宗我部氏」
期 間
平成27年1月16日(金曜日)〜2月15日(日曜日)
平成23年度より始まった高知県との文化交流事業の最終年。室町時代後期、
それぞれの地域で力をたくわえて戦国大名となり、関ヶ原の戦いによって
滅んでいった長宗我部氏と宇喜多氏。両氏にゆかりのある甲冑や古文書等の
資料を通して、戦国時代の高知県や岡山県の歴史について紹介します。 >>568
単に元親の弟の子の子孫と書くと正統に見えるだろう。だがその元親の弟は1570年代に死んでるんだが肝心の息子は1590年代に生まれてるんだな。
まあ石鎚山に氷室を作って精子を冷凍保存してた可能性も無くはないんだが http://www.asahi.com/articles/ASH4W4SY5H4WPLPB00B.html
http://archive.is/ExjAp
イケメン容姿、歴女の反応は? 高知に長宗我部元親像
2015年4月27日19時35分
大坂夏の陣から400年となる今年、戦国大名、長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の銅像が、
居城跡にある高知県南国市の県立歴史民俗資料館前に設置された。
全国から約1500万円の募金が集まり、像のデザインをカードゲームなどで
武将を描くイラストレーターに依頼したところ、イケメン風の容姿に。
鎧兜(よろいかぶと)姿で、約3・7メートルの長槍(やり)を持つ。
呼びかけ人で資料館の前館長、宅間一之さん(80)は
「歴史ファンのハートを貫きたい」。
除幕式は5月3日。
http://www.asahicom.jp/articles/images/AS20150427003683_comm.jpg
http://www.asahicom.jp/articles/images/AS20150427003689_comm.jpg
全国から約1500万円の寄付を集め、設置された長宗我部元親の銅像
=高知県南国市岡豊町八幡の県立歴史民俗資料館 ?? 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:1322b9cf791dd10729e510ca36a73322) そいや讃岐の軍記の一篇に由佐長曾我部合戦記ってのがあって、
由佐城の北側からの寄せ手の大将に、元親の末子で小三郎元成ってのがいたけど、他で見ない名前なんだよね。
長宗我部の一族でそれっぽい年の人物っているんかえ。 >>577
元親の父・兄弟・叔父・従弟に付いている「親」が付いてない
武功を立てて、元親から「元」をもらった家臣じゃないか? 言ってみれば、異常すぎる姑息さは、
50代まで引き篭った負のエネルギーそのもの
なのである。
まことのネット中毒は、脳まで逝ってしまっている。 >>578
ご返事ありがとう。
確かに「親」の字は判断材料の一つになるね。
この一篇にしか出てこない名前だから創作か、
もしくは側室の子か養子で「親」が付かないのかとも思っちゃったよ。
小少将の子の右近大夫は諱不詳だし、
足立氏の子の康豊は誰が名付けかわからないもんね。
軍記の中では未熟な若大将として描かれてて、
混戦の末、副将の香宗我部何某、桑名八郎左衛門が小三郎元成を助けて討ち死にしてるんだよね。
この軍記は由佐家文書の1つで、香川叢書に漢字仮名交じり文で収められてる。
香南町史 生活と文化・資料編には現代語訳があるので、気になる方は是非どうぞ。 >>577
へえ 面白いね
なんっていう軍記なん? >>571-572
谷忠澄の直系じゃなくて、谷忠澄の兄弟の家系が、江戸時代に儒学者を輩出して、
その一人である儒学者・谷景井の子が谷干城じゃなかったっけ?
ごめん、>>580でちょっと嘘書いた。
原本見たことないけど、由佐家文書に秦元親与秦小三郎書って文書があるみたいだ。
他にも小三郎宛ての長宗我部元親感状も。
由佐氏に小三郎という人物がいたかはまだ知らないけど、
由佐氏は元親に降伏後、三谷氏の王佐山城を小三郎元成と一緒に攻めてるから、
その時に小三郎元成から受け取った文書かもしれない。
秦小三郎ってことは長宗我部姓の可能性が高いしね。 >>581
興味持ってくれてありがとう。
軍記の名前は「由佐長曾我部合戦記」だよ。
出典は>>580の通り。
現代語訳は「香南町史 生活と文化・資料編」のpp.386-398。
国立国会図書館なら書名とページがわかってればコピーして送ってくれるけど、
香川県立図書館はそんなサービスはなかったかな。
手元にスキャンデータあるから送ってあげたいけど、
匿名掲示板でうpするのは著作権云々であれなので自粛しますね。
なんか今読み直してたら、元親の末の弟だったかもって気がしてきた。 >>581
香川叢書が近代デジタルライブラリーで公開されてたので、
漢字仮名交じり文でちょっと読みにくくてよければうpするよ。
http://www.dotup.org/uploda/www.dotup.org308053.zip.html
passは合戦のあった「1583」年 血族かどうかはいろいろ考えられることはあるけど
これから調べてみる価値はあるね
元親の弟という筋はないだろうな
島弥九郎はもうすでに死んでただろうしその子供とか
あるとしたら父親の国親の親戚とかそういう筋だろうと思われる
それなら「親」がついてなくてもおかしくはないし 「末の弟」がどこに書いてあったか見つからないけど、最後の項「香西伊賀守城江寄事」に、
元親已に由佐を攻て和談し、弟小三郎に由佐勢を指添え三谷を責る處に 〜云々と書かれてるので、
少なくとも軍記書いた1700年ごろの由佐氏の末裔は元親の弟だと思ってたらしい。
自分が十河の人間で、長宗我部氏には全く詳しくないのだけど、
島弥九郎親房が死んでなくてご本人の可能性は、・・・ないよね。
長宗我部友親さんの「長宗我部」を読み返すとそんな気起こらないな。
この方、親房の末裔のはずだし、親房の最後について入念に調べてないはずないもんね。
そういう意味では一番有力そうな親房の子の可能性も怪しくなってくるんだよね。
ただ友親さんも五郎左衛門親典のことを、親房の家系に連なる、としか書いてないから
なくもないんやろうか。
結局「親」の字がないのが決定打に欠けるんだよね。
由佐氏、三谷氏、香西氏の文書漁れば他にも小三郎がらみのものがでてくるんかもね。
今は戸次川の戦いのこと調べてて、ろくに草書体も読めないのに手書きの古文書を入手しちゃって、
そっちに気を取られてるから後回しかな。
http://www.dotup.org/uploda/www.dotup.org306302.jpg
http://www.dotup.org/uploda/www.dotup.org308395.jpg
どなたか読めたりしませんでしょうか。
豊後の大友氏の軍記「豊筑乱記」です。
長宗我部信親討死の描写があって、十河家やうちんくのこと書いてるかと期待したんだけど、
仙石以外の讃岐勢に全く触れられていないことくらいしかわかりませんでした。
読めそうな方いらっしゃったら本項の全文うpします。該当箇所全文で6ページ、写真4枚分です。 小三郎という名前からして「三男」であるということと
「幼名」であるということは考えられないの?
どっちにしろ親益ではありえないね そっかー。
島弥九郎が生きているかも、みたいな伝説どっかに残ってればなくもないかと期待したんだけどな。
襲名じゃなければ三男なんだろうね。
嫡男信親の弥三郎は実父元親から、
次男親和の五郎次郎は養父香川之景から、
三男親忠の孫次郎は養父津野勝興からの襲名だけど、
四男盛親の右衛門太郎は後継ぎに決まったから太郎なんかな。
三男だとすると元親の兄弟、元親の子どもという線はほぼなさそうね。
たまに変則的な名づけ方された人もいるみたいだから確実とは言い切れないながらも、
元親の兄弟や、父国親の兄弟の系統の三男って可能性はまだまだ残るのか。
弥三郎も幼名みたいだし、〜〜郎の幼名も確かに考えられるね。
元服前でも初陣はあるだろうし。
その場合、「小三郎元成」と「秦小三郎」の表記が気になるや。
幼名+諱や、氏+幼名の表記って一般的なんだろうか。
一般的じゃなくても、小三郎が幼名だと筆者が知りませんでした、って可能性が捨てきれないな。
書かれたのが元親の讃岐攻めから100年以上経ってるしね。
幼名だったとしたらどの家の人物なのか、今は見当もつかないや。 流れを読まずに>>2に名前の出ている家の子孫が通りますよー
面白い個人ブログがあったのでご紹介(●取ってね)
地元の方なんでしょうかね、ウチに関する部分は聞いた話とほぼ同じだったので
へー凄いなと思って。
h●ttp://homepage3.nifty.com/~manabe/nii.htm
裏話として、ウチは負けた後、敵だった皆さんの夢枕に立って殿様を狂死させるとか
その家の長男を病気にしたり、あちこちで色々と祟りまくった挙句
こりゃどうしようも無いってことで神社に祀られてしまいましたw
結局、明治の終わり頃に四国を離れたんですが、昭和の頃に某市の何かの行事に
親が招待されてたりして、まあ今でも一応子孫だと認定されているんだなという状態です。
その時に先祖の神社に行って記念撮影したら、境内で撮った分は全部心霊写真w
丸い物がフワフワしてたり帯状の光が入ってたり、マトモな写真が一枚も無いw
帰って来てウチの寺(ってのがあるんですわ)の坊さんに見せたら絶句して
「・・・・ご先祖、喜んでますね」みたいな感じw
親は「じいちゃん何やってるんだ、肝心な所が写ってない」って残念がってましたがw
更に一代下った自分は今度「じいちゃん、最近は女体化されてるよ」って言いに行こうと思ってますw 幼名?のお話が出ているようなのでウチの家系図を見てみましたが
幼名の記載は無いみたいですね〜
ってかいつ纏めたんだろうコレ?って感じです
男は「××(土地の名前)守(役職)○○(名前は二文字)」
女は「室」
某家から来たお嫁様だけ別格らしくて名前がありますね
負けた時にその人が子供を連れて逃げたので、ウチはまだ続いている模様です。
何か子供の頃は「○○家の血の人は気が強い」とか「念が強いから」とかで
年寄りに嫌がられた記憶が急に蘇ってきましたw
余談ですが「佐村河内守」が出てきたときはサムラゴウチノカミ・・・名前は?と
ちょっと混乱しましたw 書き忘れ
ウチに嫁に来て子供を産んだ人は「室」
ウチで生まれた娘は「女」になってますねー<家系図
で、格上の某家から来た嫁さんだけ「○」(漢字ひとつ)で名前があるという
男尊女卑というか何というかw >>591
佐村河内守は広島出身
佐村という姓は山口に多く見られ、佐村河内は広島県広島市に数十世帯いる
恐らくは周防・長門・安芸あたりの国人で、大内氏・毛利氏に仕えたのだろう
その佐村氏の中で、「河内守」を代々自称、または任官した佐村氏の家系が、
他の佐村氏と区別するために「佐村河内」を姓とするようになり、その末裔が
自分の子供に、偶然または意図的に「守」と名前を付けたのだろうね >>591
コメントありがとう。
やっぱ幼名はほとんど記録に残ってないよね。
真鍋氏って讃岐国山田郡拝師郷(現・高松市林町)の向城(むかい-じょう)の、
源平合戦で平氏についた真鍋五郎橘助光しか知らなかったけど、
伊予のほうにもいらっしゃったんやね。
でも>>2のどの家かはわかんなかったよ。塩飽水軍かな。
〜守ってことは国司の百官名の方かえ。
なかなか立派なお家っぽいね。
江戸時代以前の女性の名前って記録少なくてわかるのは珍しいらしいよ。
よかったら参考程度に教えてもらえない?
聞くだけじゃあれなので、うちの記録も見ると、
江戸時代末期に、こちらも漢字一文字で「夏」という名前の女性がおります。
多分夏に生まれたかどうかは関係なく名付けられたのだろうね。 向城の位置をちょっと間違えました。
拝師郷だけど現・木太町の方でした。
林と木太の両方含んでるみたいね。
失礼しました。 せっかく久々にいいネタが入ったのに人が少ないからいかんせん続かないな
あんまり有益じゃないかもしれんけど
19日にNHKの知恵泉って番組で元親公の特集やるみたいだぞ 元親の特集かー。
情報ありがとう。
明日を楽しみにしとこう。 津野倫明さん出てきてたね。
本持ってたけど見るのは初めてだった。
1時間弱で長宗我部元親と、獺祭の酒蔵の社長さんとを交互に紹介して
更に対比までしてるとあまり詳しいことは言えないやろうし、こんなもんかー。
四国制覇も一瞬で、中央勢力との駆け引きは紹介されず、
いつの間にか豊臣秀吉に降伏した話になってた。
十河氏は名前も出てきませんでしたねー。
三好氏は、たぶんあれ中富川の戦いのくだりやろう、そこでだけ出てたね。
河野氏はでてなかったような。
知らないこともあったし見てよかったけど、前提知識として
元親記、長元物語、土佐物語あたりは読んどいたらよかったな。
手元にないんだけどこのあたり網羅してる手ごろな本ってない? >>599
南海治乱記(教育社新書) by 香西成資
香西成資
江戸時代前期-中期の兵法家。
寛永9年生まれ。讃岐出身。
通称は武兵衛。号は本立軒常山。
小早川能久,のち小幡景憲にまなぶ。
天和2年(1682)黒田家につかえた。
著書に四国の中世史を描いた軍記物『南海治乱記』『南海通記』など。
>>595
塩飽水軍ではありませんです
国司の百官名?でもないと思うんですがw
まあ負け方なので、家の自慢をしたいという事でもないというか何というかw
でもこのスレのお話は大体分かりますよ。
自分はウチの中の話しか聞いていないので、何だよアレは本当だったのか
ボケた年寄りの寝言かと思っていたのに・・・と驚いている状態というか何というか
勉強させていただいておりますw
その年寄ですが、ウチの方は集落?ごと四国から某所に移住したもんで、
周りは四国方言ネイティブばかりw
自分も子供の頃は普通に「〜〜しよる」とか「そんなことせられんわぁ〜」とか言ってましたねw
今でも出身地の方言は馴染まないですね。
ちなみにウチの正月の雑煮は「餡の丸餅を薄い出汁」というキワモノですw そういえば「刀」が話題になっているようでw
ウチにもあるんですが銃刀法違反なので「ある」とは言ってないんですが
まあウチにあるって事はご近所の皆が知っているというw
油紙に包んであって、戦時中も何とか見逃してもらったので
鶏を潰すとかに使っていたらしいんですがw
そんな風ですから美術館とか博物館に出せるようなモノではないので
「ウチにある」ってだけの話になってます。
由来としては中将とか少将とかの「お姫様に頂いた」ってことになってる模様ですが
なんかもう申し訳ありません、って感じでw まことは、動揺していた。
「二言目にはソースか?」
この男は言った。
まことは、そういう空気に合わない言い回しをしながらも、
「都合の悪い質問」を逸らそうとしている。 やっと仕事の山が過ぎました。
お返事遅くなって申し訳ないです。
>>600
南海治乱記にあったんだね。
4か月前くらいに買って、ここ3か月くらい手元には取るけど読む時間少なくて毎日数ページしか読めてなかったよ。
応仁考、細川考、三好考、長曾我部考なんかがあるね。今細川考読んでるとこ。
表紙の原著者名の香西(こうざい)に「かさい」って読み振ってあってちょっと内容が不安になるよね。
もっと古い刊行本は仮名遣い難しくてすんなり読めないから十河周りの一部分しか読めてないや。
>>601
長宗我部土佐守元親、十河讃岐守一存とか、
国司というよりこういう武家官位からの百官名なんかな。
こういうのついてると〜〜介よりもすごそうに見えるけど、
十河家にも自称だろうなって感じの名前の人が多いしそういう百官名なんかな。
十河壱岐守、久保佐渡守、植田美濃守、神内石見守、三谷伊豆守、由良遠江守、溝渕(溝口)飛騨守、池田遠江守、大熊丹後守、云々。
あれ、こうやって見ると〜〜介のほうが珍しく思えてくる不思議。というか十河家の人はひとりも思い浮かばない。
植田若狭允の〜〜允は介より等級が下がるっぽいし、池内主殿助は太政官の名前だし、前田頼母助の頼母は官名ですらないしね。
私も讃岐の出身で餡餅雑煮は大好きだよ。
ただこちらは東讃なので白味噌だけど、小豆島ら島嶼部、西讃の特に満濃辺りは澄まし汁に餡餅を入れるらしいね。
その辺り出身の方でしょうか。
最近就職して今は中部に住んでるんだけど、餡餅雑煮ってだけで話した時の周り人の引きっぷりが凄いよね。
刀ですか。
うちにも戦時中持っていかれないように隠し通したぼろぼろの脇差があって、
目釘抜いてばらして見ましたけど、茎(なかご)には差表にも差裏にも銘は入ってなかったです。
うちのも、薪割りに使ってた、と祖父から聞きましたよ。伝来の詳細はわかりません。 一条さんを追っ払った「前科」があるから、
秀吉時代には朝廷から警戒されそうなもんだが
そういう史料は残っていないみたいだな。
官位も石高相当みたいだし。 四国の人は大野川合戦祭行くんかな
今年は11/14(土)やって
長宗我部家、十河家の方々は例年通り参加するみたいだけど
仙石家の方とか来たことあるんかな >>606
これは信親が死んだ時の戦?
それとは違うん? >>607
そうだよ
今の大野川の、大分市の街中より少し上流の辺りが戸次川って呼ばれてたらしいね
信親の戦死した「戸次川の戦い」の合戦祭が大野川合戦祭
十河さんに毎年お誘いいただいてて是非行ってみたいけど、今四国にいないのもあってまだ行ったことないんだよね
岐阜に住んでた時に仙石さんっていたから、仙石権兵衛の末裔の方もいそうだね
岐阜から参加だと遠いかな >>591
気が強いとか、念が強いとかって憑き物系ってことですよね
自分は関東の平野部なんでそういう慣習には幸いにして縁がなかったけれど、いまも残っている所は残っているんですね 安芸に行ったけど安芸城跡は本当に町外れにあるのな。毒を投げ込まれたという井戸も残ってたし。
国道沿いの国虎うどん美味しかった。2号店がフランスのパリと聞いてかなり驚いたな。 小説で当時の土佐に嫁に行く事は現代においてアフリカの奥地に嫁に行くようなものとか書いてあってドン退き佐久間。
この2月ようやくセブンイレブンが上陸した事を考えると仕方ないのかも…。民放も3局しかないし。 四国っていうのは流刑地だったからな
それも四国の奥深く 海に面してる成れの果てって感じなのかもね
けど意外と近代化っていうか文明化はしてたようだ
戦国期でも四国四県の石高は軽く百万石越えてたしな >>612
実家が安芸市なんだけど現在でも流刑地なんだよな。小学生の頃東京から転校生が来たんだけど親が仕事で大ポカやらかしたとかで。 高知って台風来ると毎年のように他県につながる道は全面通行止めで陸の孤島になるもんね
四国じゃなくて土佐単位でも島流しと言っていいくらいじゃないか >>612
土佐 10
伊予 35
讃岐 13
阿波 17
80万石にもならんぞ>太閤検地換算なら 山内氏は、一介の地侍から土佐20万石を徳川将軍家から賜り、大きな恩がある。
土佐では、前の主君・長宗我部氏が一両具足という常備軍を作っている。一両具足は、長宗我部元親により百姓身分から武士階級に取り立てたことから、長宗我部氏への忠誠度が半端じゃない。
関ヶ原では国主・盛親が徳川方と一戦も交えることなく敗れた。そのため、盛親に対する処分は、斬首とするわけにもいかず、改易ととなった。盛親は一国の大名から突然、土地を持たない浪人として、京で隠居することになった。
家康は、関ヶ原で功労のあった山内氏に、国主が去り、空いた国となった土佐一国を賜る。しかし、忠義心半端ない一両具足達が本来の主君と奉ずる盛親が存命のまま、敵から強要された新たな主を素直に迎え入れるわけがない。
家康は、山内氏に土佐一国を与えたように見えて、同時に厄介な一両具足を押し付けたとも言える。
20万石もの領地を突然得ることになった山内氏は、土佐全土を治めるには明らかに家臣不足だった。そのため、城に仕える武士には主に譜代の家臣を用いて、これを上士とし、土佐山村部の支配には長宗我部からの武士を用いて、これを下士とした。
このため、土佐藩の武士は家系で上下の身分が定まり、上士は生涯上士、逆に下士は如何なる功があっても生涯下士のままという特有の制度が生まれた。
ただし、山内氏支配確立の過程で長宗我部氏の家臣ながら山内氏の支配を支持し、功績のあった武士には白札という事実上の上士階級が与えられた。
こうした経緯が後の世まで続く土佐の複雑な立場を形作る。 城仕えには主に少数の上士と白札が
山村の支配は、長宗我部からの武士である下士がそれぞれ任されていた。
しかし、江戸後期からは非生産階級である武士階級の財政もひっ迫し始め、
財ある地主や商人を養子に入れるなど、身分をカネで売るようなことが頻発した。
坂本龍馬の家系がこれに相当する。
長く支配階級だった武士は、商いなんていう、人に頭を下げて利益を得るような行為を毛嫌いしていたが、
下士階級だった坂本家は、上士だけを顧客に高利貸しを営んでいた。
上士が相手なら、いくら頭下げても恥じることはない。それどころか、秩序を重んじる武士らしい。
上士も江戸後期になれば、藩の財政事情が厳しい時は高利貸しの世話にならないとやっていけなかった。
藩に必要な財を調達して利益を得るなら、武士としても恥と感じるところはない。
これが明治の世になって生まれる政商の考え方の元になる。 三好長慶を、人気作家に小説にしてもらい、花の慶次みたいに人気マンガにできたら徳島の文化が変わる。 十河の町起こししたいんだけどアイディア貰えんかな
板違いで申し訳ないけど、ここに来るような人が一番この話題に関心ありそうでアイディアも的を射そうかなって
十河の人たちは、その郷土に戦国大名がいたなんて知ってる人すら3%くらいのもので知名度もまったくないんだ
最近、十河の公民館に「戦国武将の町」って横断幕を掲げ出して俄かにアピールしだしたけど、まだまださっぱりだろう
天正10年から天正12年まで丸2年の籠城戦だった十河城の戦いとか、押し出したいところだけどあんま詳細に記録残ってないよね、戦記も
その時に城を守ってた十河隼人が実休の子の十河存保なのか、鬼十河の庶子の存之なのかすら誤記も多くてよくわかんないし
十河や前田の小学校で郷土史の授業やってて最近の子どもには多少は郷土の英雄を知る機会があるようだけどね
小説でも作ろうかと思っても、この籠城戦で戦果を挙げてるの十河側で前田甚之丞宗清と十河(池内)主殿助孝晴くらいかな、結局最後は開城だしね
鬼十河の活躍はほぼ畿内だし、
存保は秀吉の四国征伐の後に山田郡2万石に復してすぐ戸次川で戦死だし、司馬遼太郎さんの「夏草の賦」では長宗我部憎さに勝ち目のない仙石の渡河作戦に同意したことにされてるし、
存保の嫡子の千松丸は生駒親正に毒殺されて大名家としては廃絶だし、
存保の子とされてる存英は大坂の陣でそれまで匿ってくれてた宇喜多の軍に属して(と十河では言われてるけど、秀家出てこないから明石全登かな)落城後は尼崎で討死だし、
物語性に欠けるというか、まあこの辺は筆先ひとつなんだろうか
司馬さんの「十一番目の志士」みたいな手法も良さそう
どの方面から行くべきなんだろう
十河関係のお土産を開発するのか(ゆるキャラ路線とか?)
まず小説などのメディアで有名にするのか(まだ十河が主役の有名どころは海音寺潮五郎さんの「十河物語」くらいしかない)
JTBさんとかの旅行会社に頼んで十河のネタを仕込ませてもらうのか
市役所や県庁で援助頼むのか
まずもっと郷土史の資料を掘り起こすべきなんだろうか(出てくるのか?)
民間の有志の集まりは60代以上の人ばかりみたいだから、若手で興味ある人を探す必要もありそう
三好長慶は徐々に有名になりつつあるね
三好長慶会さんとか、最近よく本見る天野忠幸さんのおかげかえ
ただ劇的には展開できてないし、町起こしに有効策を打ててるかはクエスチョン
三好長慶会さんのHPはかなり有効な気はする
十河にこの手のページはないし
まずは三好にスポットライトが当たってからじゃないと十河まで光が届かんやろうか
長宗我部は元親も信親も戦国BASARAの影響なのか人気爆上がりだよね
十河もおこぼれに預かってるけどさ、、
宮下秀樹さんの「センゴク」ももうじき戸次川の戦いだし、戦国時代好きに十河存保の名前が売れるチャンスではあるか
でも三好三郎として出てるんだっけ
十河じゃなくて三好が売れそう >>622
最低でも三好と十河で連携しないと駄目。
さらに
・三好氏、十河氏関連史跡の観光MAP作成
・三好氏、十河氏のHP作成
ここまでは個人で出来る。
その後、
・十河氏子孫会の結成
・十河氏研究会の結成
・各家庭の史跡保護
・お土産開発
・政治家への陳情
・香川県・和歌山県の連携
・テレビ番組の誘致
・小説の執筆
・他県との連携(和歌山、大阪?)
ここまでがよくあるパターン。
その先は
・十河氏博物館の建設
・十河城の観光地化
・十河氏の菩提寺
で最低3箇所(1日分)のハードが揃わないと
観光地としての成功はしていないのが現状。 高知は長宗我部の中央政権への影響力や豊富な歴史資料と戦国ゲームの描かれ方に恵まれてる
愛媛は河野村上水軍の歴史と明治〜現代に紡がれる歴史、風光明媚なしまなみ海道に恵まれてる
十河はあんまり聞かないけどね三好は結構アイデンティティ大事にしてる三好さんいるんだよ四国〜関西
でも近畿圏の中央政権による排除に飲み込まれた感じあるしよく分かってないことも多い
子孫会の結成であったり魅力の発信は>>624と同じ意見 返信大変遅くなって申し訳ないです。
622です。
>>623
また天野忠幸さんの新しい本出てて、三好一族と織田信長、っていうのね。
これ読んで篠原長房のことこれまでより詳しく知って、なるほどなかなか劇的だとは思ったんだけど、
三好長慶、義継、松永久秀あたりがいての篠原長房だとは感じたよ。
この本読んで自分の中で評価が上がったのが三好義継、松永久秀、篠原長房、三好長治、長宗我部元親。
松永久秀、全然不忠者じゃないね。
元親は最初からずっと信長に付いてたのね。
土佐物語とかの軍記でよく見かけた、切り取り次第〜云々、のくだりは物語くさいと思ってたけど、
それ以外の実際の書簡や物品の遣り取りで念入りに友好関係築いていたのがよく分かった。
ほぼ四国制覇していたのも間違いないね。
それが秀吉のために土佐一国のみになり、秀吉の子の秀頼のために土佐すら失う没落っぷりはまさに悲劇。
逆に下がったのは羽柴秀吉かな。
讃岐山田郡二万石を十河存保にくれたけど、どうやら大名とは認めてなかったっぽい。
常に存保を十河孫六郎としか呼ばず、戸次川の戦いでは討死の後は十河家を改易したの、
後者はもちろん以前から知ってたけど改易は初めから秀吉の既定路線だったように感じる。
十河存保はプラマイゼロ。
一存は大体堺にいたの知ってたけど、存保もそうやったんやね。
十河家を継いでるのにほとんど三好姓ばかり名乗ってたみたいだなあ。
三好を継ごうとするなら一存の庶子で、母方不明だけどおそらく十河の人間を母に持つ十河存之に十河家を継がせて欲しかったよ。
十河としての売りがなくなるじゃない。
ここマイナス。
特にこの書籍で言及無かったけど、十河城は存之が城代で、存保は勝瑞から帰った後ずっと虎丸城で籠城してたんだなと思う。
存之が天正12年6月に十河城を脱出した後も、虎丸城がしばらく残っていたのは複数の一次資料があることからほぼ確信。
でもその後落城してるだろうね。
最近になって香川県埋蔵文化財センターのページに紹介されてるけど、発掘の結果土佐軍の改修の跡が見つかったようだし。
ここ若干プラス。
あと信長とはずっと敵対してたようだね。
どこかで三好咲岩とかに説得されて信長に服属してるんだと思ってたよ。
阿波・讃岐の国人の糾合や戦略も思っている以上に評価されるべきと思えるくらいには成果あったみたいだし。
ここの気骨ある感じはプラス。
どうでもいいとこでは土佐国蠧簡集(とさのくにとかんしゅう)の「蠧」の字が、
「蠢」(うごめ・く、シュン)になってるところが4か所はあったのが気になったね。
少なくとも2か所は「蠧」の字だったのに。
著者さんは手書きで、編集さんか誰かが活字に起こしてるのだろうか。 >>624
詳細にご返信くださり真に痛み入ります。
これだけの価値あるご回答への返事が遅くなり自責の念に堪えません。
> ・三好氏、十河氏関連史跡の観光MAP作成
> ・三好氏、十河氏のHP作成
三好氏、十河氏関連の史跡は実はあまり存じておりません。
地元にあんまりそういうの紹介されてないんだよね。
なかなか知れない。
だからこそ作ればいいってことでしょうけど、自分の持ってる情報だけじゃ全然不足してるんだ。
香川県の県立図書館の郷土史料は粗方漁ったんだけどね。勉学の傍ら8年ほど。
情報系の学科も出てるからHP作成は勉強すればどうにかなるかな。
今後どうやって情報収集するかが課題。
> ・十河氏子孫会の結成
これは実はあるんだ。十河同族会が昭和の時代から。
でも私が生まれてからは活動してるの見たことない。
うちは十河城のあったとこで、小字は城なんだよね。
昔は武者行列とかやってたみたいだけど。
会報も十何年止まってるだろう。香川県立図書館や国立国会図書館で初めて見た程度。
有効活用させていただくとして、今はどれだけのマンパワーが得られるかな。
> ・十河氏研究会の結成
これも、十河氏に限らず地元の研究してたり、史跡保護をしてる団体が複数あるんだ。
勧誘していただいたこともある。
私が県外就職してしまったので残念がられましたが。
70-90歳くらいのお爺様がたなので電話でアポ取るのも大変で、
メールをできる人に会ったことがないです。
地元に帰るタイミングじゃないと交流が難しそう。
三好長慶会はIT化されててメールで遣り取りできるのに。
> ・各家庭の史跡保護
これに就きましては十河城跡の周囲だけでもなかなか、なかなか。。
言い伝えはほぼ消滅してまして、史跡だったのに処分されてしまったパターンをいくつか知ってます。
2代前までは言い伝えられてたはずの家が今は何も伝承されてなかったり。。
うちも古文書で残ってなかったら消滅してた。親戚の誰も内容わかってなかったし。
ここ実は急務かもね。
古文書は活字で残しましょう。内容は失われないようにネットの海に撒きましょう。
と研究者としては言いたいところだけど、伝えてきた家としては共有財産にしたくはないんだろうなあ。
家系図とか特に。十河氏の系図も群書類従のしか公開されてないし、植田家譜、前田家譜はどこにある。
史跡のことを知っている人がいないから守れないっていう負のスパイラルもあります。
知っている人に情報の供出を促す、情報を出しやすくする仕組み作りが必要かもしれない。
そしてその仕組みそのものに知名度がなければ、その仕組みが利用されることはないんだよね。
> ・お土産開発
この辺りしようとすると組織で運用する必要があるかな。
鬼十河饅頭。月代を頭の後ろまで剃ったスタイルのデザイン。うん普通の饅頭じゃないかなこれ。
資金調達は最近はやりのクラウドファンディングでしょうか。
若輩の身では自己資産の捻出は高が知れてるもの。
もう少しで定年って人なら資産運用や年金とか、
人生のノウハウなんかを利用して趣味でできそうだけど、定年までまだ40年あるし。
組織の持続的運用には継続的な収入がいる訳で、
法人化するなら企業勤めのままじゃ社規違反で懲戒になりそうだね。
この年明けからの長期出張中に簿記2級の勉強して2月末に受けてみたけど試験難しかったです。
教科書レベルの基礎的は内容は把握できたけど、今後もし機会があっても財務会計は専門家に任せよう。。 > ・政治家への陳情
現職じゃないけど元市議会議長が十河にいて、
同窓に孫がいて昔何度か遊びに行ったこともあるという伝手もあるし、手がなくはないかな。
コネがなくても、郷土振興は市の利するところでしょうし、市民の望むところでしょう。
十分な活動をして行動力を示し、説得力を上げた後にはこの一手だろうね。
> ・香川県・和歌山県の連携
和歌山県と連携できる点はどこなのでしょう。
県外、特に四国外の歴史には疎くて申し訳ないです。
本願寺や、篠原長房の子の松満が逃げ込んだ絡みでしょうか。
三好氏流十河氏を称する一族が代々紀州の寺の住職か何かをやっていたような気もします。
> ・テレビ番組の誘致
> ・小説の執筆
テレビで放送して反響を期待できるレベルまで行けば小説を書く方も出てくるでしょうね。
地元放送局のリポータにも親しい友人がいるので、継続的に活動できれば企画も組んでくれそう。
> ・他県との連携(和歌山、大阪?)
十河歴史資料館の十河さんは、高知県の長宗我部祭や大分県の大野川合戦祭には毎年参加されてるけど、
徳島や大阪での活動は聞いたことないね。
長慶会さんとはお知り合いのよう。
十河さんからは長慶会さんを、長慶会さんからは十河さんを紹介されたので。
少なくとも徳島では三好十河関連で何かはしてるんだろうなあ。
でも大阪は何かご存知でしょうか?
今大阪に住んでるんだけどね。出張でほとんどいなくて、今も出張先からコメントしてますが。
> ・十河氏博物館の建設
これは十河歴史資料館の拡充のことだね。
古文書をネットで仕入れて読んでみて、関係ありそうなものは寄付したりしてるけど、
まだまだ所蔵点数が微々たるものだ。先は長そう。
展示物は研究家さんたちの研究成果が多いし。
> ・十河城の観光地化
これは、うーん、生駒氏が移してきた称念寺が本丸跡に建って400年経ってるんだよね。今は墓石も無数に。
縄張りに就いては江戸時代の東十川村の庄屋の池内武存が遺してる図があるし、
棚田や水路や池が往時を残してるらしいのでそれっぽくはできるのかな。
ここが土塁で、ここが大手門で、ここが北門、ここが長宗我部親政の陣所、とかって。
> ・十河氏の菩提寺
そういや十河氏の菩提寺ってどこだっけ。
称念寺は生駒氏が十河家の怨念を鎮めるために移築したもので菩提寺じゃなかったはず。
北東450mくらいのとこにある朔方寺もできたの1580-90年くらいで西本願寺系列かなんかだっけ。
十河の分家らしい池内武存の墓は朔方寺境内にあったけど、十河姓の檀家は1つしかなかったような。
三好氏から嗣子が入った前後で菩提寺も替わってそうな気はするけど。
これは次帰った時に調べよう。
技術職やってると平素忙しすぎて帰りも遅く、夜中寝る間を惜しんで勉強するしかないってのが大変。
今後海外出張もあると思うと今の仕事しながらでは首突っ込む程度で、町興しを主動するのは無理なのだろうか。 >>625
土佐は言わずもがなだよね。長宗我部元親も坂本龍馬もあるもん。
伊豫も河野氏や西園寺氏はもちろん、海には村上水軍や日本総鎮守の大山祇神社の鶴姫伝説もある。
秋山好古や真之、正岡子規は司馬遼太郎さんに坂の上の雲で描かれてるし、羨ましい限り。
阿波も古代最大級の穀倉地帯か集落かの遺跡がここ1,2年内くらいに出てきてたような
阿波忌部氏は四国の歴史の曙だし、三好氏の本領あるしで前面に押し出せるとこいっぱいあるよね。
隣の芝生は青いのか、讃岐はヤマトタケル伝説、大明法家讃岐永直、弘法大使佐伯真魚というか空海、
源平屋島合戦、応仁の乱(細川方、舞台は京都だけど)、あとは十河氏、
うーんと水戸光圀の兄の松平頼重から始まる讃岐松平家、金刀比羅宮、平賀源内に、菊池寛、壺井栄、、。
ああここ四国の戦国大名板だし、やっぱ応仁の乱と十河氏くらいしかないのかな。
ヤマトタケルの弟の神櫛王の家系で、奈良時代には讃岐永直を介して連なる十河氏ならちょっとは絡めさせられるかも。
羽床氏や香西氏は祖の藤原章隆の母方が、ヤマトタケルの息子の武殻王の後裔氏族の綾氏だし。
香川は戦国時代もまとまりなかったから、全体を巻き込む方向がよさそうなんかな。 伊予の人ごめんね
マジゴメン
爺さんに聞いたら、なんと俺の家系は戸田勝隆の家臣兼親族の戸田豊前守重治って人の子孫らしい 祭には早いが、初めて岡豊城に行ったわ。
なんつーか、関東平野にざらにある山城と変わらんな。
こんな小領主が四国統一しようとしてたのか。
一方、浦戸、長浜まで行くと完全に漁師町の雰囲気だな。
土佐は、山と海両方揃った南国の地でした。 >>629
なんで和歌山なんだろう?全く思い出せない。
十河一存の足跡で考えるなら岸和田城だよねぇ。
子孫会や研究会は消滅する前に史料を回収しないといけない。
でもネットで拡散してしまうのもよくない。
会報にして売るのが保存、継続に繋がって、最終的に皆の利益になると思う。 長宗我部遺臣末裔の土佐藩上士って吉田氏、谷氏、本山氏、吉松氏、明神氏、
横山氏、高島氏、中山氏(中山田氏←香宗我部氏)、馬場氏、町氏、
植木氏(正確には津野遺臣末裔)、上村氏(上林氏だったかな?)、志和氏、ぐらい?
鹿持氏、平井収二郎の家、武市半平太みたいに下士や白札から新留守居や留守居に
昇格した家は別として >>590
負け戦というのが氷見高尾城の籠城戦の事だったら
言い伝えなど、聞いてる事を教えてくれると有り難いんだけど… >>636
直参は必然的に山内直轄地の中の家になるから県中央部の家になるんじゃないかな。地理的な部分が大きいと思うよ。中央部から離れたとこの家だと家老の封地になるから陪臣=郷士になるし。 長宗我部家の血縁者が勢州津藩の藤堂家に剣術指南役として仕えており、藤堂家に預けになった荒木又右衛門と渡辺数馬が数年間弟子いりしていたようだな 長宗我ってマイナー扱いなの?
Microsoft IMEの一般だと変換できなかった
ほかの大名だとほぼ抑えてるのに 実は山内よりも悪、長宗我部のクズ逸話を打線にしてみた。
1.盆踊り大会とみせかけ、
伊予曾根歯長城を殺害、鼻を削ぎ落とす。(山内の相撲大会の前)
2.盆踊り大会で殺すのを気に入り、
おまけとして惟宗国長も殺害する。 (信親暗殺前)
2.自分(長宗我部元親)が出した禁酒令を自分で破り、ぶちギレた儀重に従者が殴られる。 (信親暗殺前)
3.一条兼定に悪口を吹き込み土居宗珊を殺害させた。(信親暗殺前)
4.敵対していないのに四国のほとんどの寺を焼き討ちにし、良僧も女子供も殺害した。 (信親暗殺前)
5.延命寺の名鐘を盗もうとして仏に祟られる。
5.長宗我部盛親が嫉妬で実の兄を殺害。(盛親は気性が荒く家臣からも嫌われていた)
6.実の兄弟の吉良親実、比江山親興などを殺害し七人ミサキとして霊に祟られる。
7.信親暗殺前も普通に悪すぎて大河に出来ない。(宇喜田直家レベル)
8.信親死後、飛脚は時間に遅れたら死刑。 百姓は道を自費で直さないと厳罰とかだったため実際には山内の善政を喜んだ百姓が多かったという。
(このため、肥後と長崎の3万人の一揆と比べ高知の一揆は200人しか集まらなかった。)
9.中国人の秦氏として土佐に入り、
清和源氏の香宗我部氏から宗我部の苗字を乗っとった。
DH.新開実綱一族を酒宴を装い虐殺。天井の血が今も消えない模様。 >>642
> 7.信親暗殺前も普通に悪すぎて大河に出来ない。(宇喜田直家レベル)
そういうところはカットするから大丈夫だよ。 その手の所業を非道とか言ってたら大概の大名は似たようなことやってるよ
そういう時代なんだから 山本太郎、安倍首相をメッタ斬り!
「TPPはゲームセット、完全に詰んだ!」
抑制のない成長に基づく経済政策は終焉
日本国民はどう対処すればいいのか
新しい政権は民意を反映し、
食糧、住宅、健康、教育、最後に防衛です。
国民の意志を裏切ることは、
極端な場合、自殺や殺人にまでつながります。
民衆の指導者は
職業的政治家ではない人々から見つかるのです。
世界平和の脅威は、
イスラエル、イラン、アメリカです。
イスラエルの役割は跪いて、
パレスチナに許しを請うことです。
アメリカによる他国の虐待に
反対の声を上げなければなりません。
彼らが世界中に‘民主的’制度を確立したい
という衝動(世界を支配する)をコントロール
するのは、マィトレーャの任務です。
非常に間もなく
マィトレーャをテレビで見るでしょう。
彼は「匿名」で働いております。
彼は非常に物静かなやり方で話します。
彼の控えめな態度に混乱してはなりません。
マィトレーャは毎日テレビに現れ、
質問に答えるでしょう。 長宗我部元親がクズなのはいわずとしれたことだからな
今まで山内が悪いとし過ぎただけだろ
長宗我部の盆踊り大会、山内の相撲大会で仲良くやれば良いだけの話 質問させてもらいたいんだけど俺の苗字は別役って言うんだ親父とかに聞くと戦国時代は長宗我部の重臣だったって言うけどホントかな?
ネットで調べると苗字と同じお城があったりするが、関係あるのか詳しい方いらっしゃったら教えて頂けるとありがたいです 香北町あたりに500石強の領地を治めていたようだね >>651
>>650
レスありがとうございます。
やっぱり小物ですよね...文献漁っても全然出てこないし
九州出兵の際に当主が信親と一緒に戦死したとか聞いたこともありますが親父は亡くなっているので身内でも知ってる人少ないんですよね 1000石以下の人物とかよほどなんか変わった事やってないと
記録にほとんど残らんからな
織豊とか徳川あたりなら残ってるかもだけど
長宗我部あたりじゃ・・・ >>653
本家の方行けば家系図やら文献やらあるらしいのですが、大分疎遠になってしまっていて...これを機にお邪魔してみようかな >>652
戸次川合戦で戦死者に別役三郎左衛門の名前があるね
凄いね信親と最期まで戦ったんだね >>655
そうですその方がどうも直系では無いですが、御先祖様だそうで
かの有名な長宗我部の家臣として戦ったと言うのは誇りにしてますww
許すまじ仙石 >>656
郎等一人連れていたみたいだね
おそらく血縁関係がある人だと思う
戦死者の名前の順が早いのでなかなかの身分だったのかも知れないね >>657
わずかですが所領と城を頂いていたみたいですね。
でも、全然文献がないので今度訪ねてみようかな