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【河野・安芸】四国の戦国大名 その2【長宗我部】
0001名無し議論スレにて投票方法審議中
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2007/02/09(金) 21:22:45ID:Wh3OtXxt
四国地方の戦国大名について語り合うスレです。
瀬戸内、淡路、豊予、太平洋側の水軍(海賊)の話もOKです。

四国は三好、長宗我部、村上水軍だけじゃないはず!

【河野・安芸】四国の戦国大名【長宗我部】
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1149000541/
0002名無し議論スレにて投票方法審議中
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2007/02/09(金) 21:23:46ID:Wh3OtXxt
とりあえず有名どころ

伊予・・・河野、西園寺、宇都宮、来島
土佐・・・長宗我部、一条、土居、安芸、香宗我部
讃岐阿波・・・阿波細川、三好、十河、池田、香川、大西
淡路・・・篠原、安宅etc...
水軍・・・風早河野、三島村上、来島村上、飽塩、篠原etc...

その後の四国にまわされた武将、藩主など。
伊予…加藤嘉明・光泰、藤堂、脇坂、戸田、福島、小早川、安国寺、伊達、一柳、蒲生、久松etc...
土佐…長宗我部、山内
讃岐阿波…十河、香川、長宗我部、生駒、蜂須賀
淡路…仙石etc...
0007名無し議論スレにて投票方法審議中
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2007/02/10(土) 06:28:13ID:+Og7bKLA
鳥無き島
0009人間七七四年
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2007/02/13(火) 14:32:41ID:O9ntWpwm
河野氏は同名の武将が多くて分かり辛い。
0010人間七七四年
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2007/02/14(水) 01:08:03ID:79KgR5oO
河野ってどうやって滅びたの?
0011人間七七四年
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2007/02/14(水) 05:44:02ID:mgpQQoQ1
長宗我部の侵攻に耐えきれず降伏
その後、秀吉の四国征伐で長宗我部共々所領没収
0012人間七七四年
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2007/02/14(水) 12:44:14ID:iXOKgEOV
伊予は水軍が発達して交易が盛んだったろうから
湯築城下はかなり賑わってたんだろな。
石高も32万石(伊予全体で)とまずまず豊かなほうだ。
河野家の当主がもうちと出来た人物だったらな。
0013人間七七四年
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2007/02/14(水) 18:24:40ID:JsyDvPR7
四国の戦国は
土居清良に
名を為さしめるために存在したようなものだな
0014人間七七四年
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2007/02/14(水) 21:03:44ID:w2jcvE//
>>12
河野通直の後継を娘婿の来島通康にする話がすんなり通ればよかったのにね
0016人間七七四年
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2007/02/15(木) 09:46:23ID:erTiUbfz
河野氏の功績は
大山祇神社を保護し多数の武具等を後世に伝えたことだな
0017人間七七四年
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2007/02/18(日) 04:34:34ID:zgNWr4HN
伊予の西園寺家はマイナーかな?
0019人間七七四年
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2007/03/08(木) 13:48:06ID:6i6MjiL9
>>17
公良が伊予松葉城(岩瀬城)に入ったのは 永和2年(1376)と
土佐一条よりだいぶ前なんだけどね
0020人間七七四年
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2007/03/20(火) 21:27:00ID:+4rdWwMY
河野氏の別れで得能氏っていましたよね?
0022人間七七四年
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2007/04/10(火) 01:40:00ID:LV2RMUvb
国虎タン
0023too
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2007/04/18(水) 20:04:34ID:ynuZBly5
アゲ
0026人間七七四年
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2007/05/25(金) 15:33:52ID:gtK/5ywi
吾妻鏡にみえる西園寺公経が宇和郡を欲した話って、どんな話なんだろうか?
0027人間七七四年
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2007/06/28(木) 10:15:21ID:4Rts220K
>>26
ここ面白いよ

網野善彦 「西園寺家とその所領」
ttp://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/amino-yoshihiko-saionjiketo-sonoshoryo.htm
0031人間七七四年
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2007/08/05(日) 04:12:12ID:5M65tE/0
鳥無き島の蝙蝠以下の人達だから。
0032人間七七四年
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2007/08/06(月) 20:20:14ID:6tIwT/eZ
 
0033人間七七四年
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2007/09/07(金) 13:48:52ID:pdAkyRZz
西園寺と河野との力関係はどうだったの?
0034人間七七四年
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2007/09/08(土) 02:08:21ID:O2Vqot9h
河野に「通直」って名前の奴は、何人いるんだ?w
0035人間七七四年
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2007/09/08(土) 03:24:49ID:Om9L72ud
15世紀末期からだと、
通直(教通)−通宣−通直−通政(晴通)−通宣−通直−通軌
なので約100年の間に3人もいるなw
0036人間七七四年
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2007/09/08(土) 14:02:42ID:PSl2cYb/
ところで通軌って実在するの?
河野家譜の築山本には宍戸元秀の子と書かれているけど、
宍戸氏の系図にも出てくるんだろうか…。
0037人間七七四年
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2007/09/22(土) 22:12:24ID:Idp5uPn6
あれー江戸時代の伊予って松平じゃないの?
0039人間七七四年
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2007/10/25(木) 09:00:58ID:a1jFQoyr
松山藩
加藤嘉明(1600〜1627/蒲生氏と入れ替わり会津へ)
蒲生忠知(1627〜1634/嗣子なく断絶)
松平定行(1635〜/久松松平)

今治藩
藤堂高虎(1600〜1608/転封)
松平定房(1635〜/久松松平)

大洲藩
脇坂安治・安元1608〜1617/転封)
加藤貞泰(1617〜)

宇和島藩
(1595年〜1600迄藤堂高虎)
富田信高(1608〜1613/坂崎直盛との政争で改易)
伊達秀宗(1614〜/政宗庶長子)

小松藩(西条藩主一柳直盛より相続分与で立藩)
一柳直頼(1636〜)


そんなわけで久松だけではなく伊達、加藤、一柳がいる。
そして紀州藩支藩の西条藩は久松じゃなくて紀州徳川。
0041人間七七四年
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2007/11/03(土) 18:01:21ID:YI+D0r8C
>>40
大祝氏の娘云々の「鶴姫」は戦前の作り話だけどね
0042人間七七四年
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2007/11/19(月) 15:53:06ID:5fvLmJme
>>39
伊予は南予、中予、東予の地域差があると聞いたことがあるけど、諸藩の配置にも関係するのかな?
0043人間七七四年
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2007/12/04(火) 15:12:34ID:NdWa2UB2
東予と南予が藤堂高虎と関連してるんだよね 確か。
0046人間七七四年
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2008/01/17(木) 00:52:16ID:FCVileqf
四国の大名は元弘・南北朝・応仁でどのように分かれたの?
0047人間七七四年
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2008/01/18(金) 05:19:55ID:p7mjhltD
その時期の四国はほとんど細川一色じゃないかな
伊予や淡路が南朝の根城だったらしいけど
0048人間七七四年
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2008/01/21(月) 18:23:44ID:d4xUONr2
鎌倉時代から残っている家はほとんどないんじゃ。河野は本家は六波羅主力→北朝。分家は討幕→南朝だったはずだけど。
0049人間七七四年
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2008/02/07(木) 14:59:40ID:/rftLgSZ
土佐に満良親王が派遣されたんだって?あまり聞かないね。
0050人間七七四年
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2008/02/11(月) 23:53:33ID:fYnrwswg
親王は彼方此方に派遣されてるからな
0051人間七七四年
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2008/02/24(日) 04:23:05ID:BnwSJIvq
脇屋義助くんも来ていたよ。
0052人間七七四年
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2008/02/24(日) 09:40:03ID:/yrn5prg
>>45
伊予は原則、河野の守護領国だったけど、東予は細川が分国守護だったらしい。
0053人間七七四年
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2008/02/24(日) 14:17:59ID:BnwSJIvq
東予は河野氏の支配も今ひとつ浸透しなかったようですな。
0054人間七七四年
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2008/02/24(日) 15:45:52ID:/yrn5prg
南予だって西園寺が事実上独立してたし、実質的に河野は中予だけの戦国大名だな。
0055人間七七四年
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2008/02/24(日) 15:51:29ID:BnwSJIvq
河野氏は代を重ねる毎に弱体化していったのですな。
数多の分家や被官をまとめる求心力がね。
0056人間七七四年
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2008/02/25(月) 00:09:50ID:mn4hyrGG
最後は毛利に寄生するような感じだったしね(最後の当主が舅の小早川隆景に寄宿)。
フェードアウトというか、縮みっぷりが物悲しいw。
005755
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2008/02/25(月) 00:14:40ID:f1Ig8HXL
>>56
かく申す私の家も元は河野氏支流なので悲しさ一塩なのですな・・・。
0058人間七七四年
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2008/02/26(火) 02:11:05ID:ToqOw7Uq
南北朝期の伊予は河野本家は北朝方で伊予国守護・宇都宮氏に従っていました。
河野支族の土居氏・得能氏は南朝方ですな。海賊衆の村上氏・忽那氏・祝氏らと共に
活躍し、一時の伊予は南朝方が優勢ですらありました。
しかし讃岐守護・細川頼春の西進によって壊滅するのですな。
それに端を発している訳でもないのじゃが、河野本家は求心力に欠けているのですな。
0059人間七七四年
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2008/02/26(火) 15:55:24ID:ToqOw7Uq
連投で相済みませぬ。
戦国期になっても伊予一国を支配するほどの大名は遂に現われず、
中予の河野氏・宇都宮氏、南予の西園寺氏あたりが大名クラスですかな。
宇都宮氏は鳥坂峠で敗れて後は家臣の大野氏に取って替わられますな。
大野氏は河野支族でありながら長宗我部氏と結んで反河野行動をとります。
東予はも細川氏の元被官の石川氏がおりましたが、家臣の金子氏・高橋氏が
台頭、金子氏は長宗我部氏と同盟を結びますな。
長宗我部氏の伊予進出は中予・東予では在地勢力との同盟関係で行われたが
南予では軍事行動でしたな。
九州の大友氏や土佐一条氏との戦いで弱体化した西園寺氏を最終的には制圧。
もはや河野氏にとっては毛利氏との結びつきを強める事でしか存続を図れなかったと
いう事ですな。
その甲斐あって秀吉の四国侵攻まで河野氏は中予支配を維持して、長宗我部氏の
四国統一を完成させなかったのですな。
長文にて申し訳ございませぬな。
0060
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2008/02/26(火) 21:46:30ID:yA72onId
バチカン四国って、バチモンくさいな。
0061人間七七四年
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2008/03/02(日) 04:36:22ID:gyM9mSpl
江戸時代の来島氏って、九鬼氏みたいに内陸の大名家になってるんだな。
0062人間七七四年
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2008/03/02(日) 05:15:11ID:YwvaBbTA
>>61
関ヶ原合戦の際、当初は西軍として村上水軍と共に伊予の東軍方を攻め、
のちに東軍側に加わって、豊後国の内陸部に1万2000石を賜っています。
九鬼氏同様に徳川幕府の水軍封じ込めの一環だと思われますな。
村上水軍は東軍の加藤嘉明居城を攻めた際に当主の元吉が戦死、嫡子は
毛利氏の船手方として周防国三田尻に移り、海賊衆の伝統を残したのとは
対照的ですな。
0063人間七七四年
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2008/03/02(日) 05:35:53ID:gyM9mSpl
>>62
時代を下るにつれて、水軍の技術は失われていったんでしょうな。
残念なことです。
0064人間七七四年
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2008/03/02(日) 05:41:00ID:YwvaBbTA
>>63
同感ですな。
ただ今でも周防から長門あたりには「○○丸」等の船名のような苗字の方も
おられますが、もしかするとその名残りなのかも知れませんな。
0065人間七七四年
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2008/03/02(日) 06:46:01ID:WEN+Wl9p
>>64
「〇〇丸」の元は船の名前ではなく、小高い丘のことを「丸」と俗称することに由来すると思われ。
西日本(北九州と山陽)に多い苗字らしいので、船名を由来とする家も中にはありそうだけどね。
0067人間七七四年
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2008/03/02(日) 17:47:35ID:YwvaBbTA
>>65
ご指摘に感謝します。
確かに城の「一の丸」などの呼称もそうでしたな。いや、これは失礼!
私の知り合いは長門の漁師の出で「今朝丸」と申したもので。
0068人間七七四年
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2008/03/04(火) 12:12:07ID:PewZeKBt
河野は秀吉の四国征伐まで滅びなかったんだから
毛利の助けがあったにせよ底力はあったんじゃないか
周囲の強豪に何度も攻め込まれているが防戦に関しては9割方勝ってるよ
しかし四国の戦国大名ってひとつ残らず滅亡したな
0070人間七七四年
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2008/03/05(水) 18:08:00ID:bShuCa07
仙石がいなかったら戸次川で信親が戦死する事もなかったかも。
そうしたら四国の歴史も少しは変わっていたのでは。
0071人間七七四年
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2008/03/05(水) 20:40:34ID:r7CV4bDi
あれって四国の大名を一掃する為のわなだったんじゃないかとすら思う
0072人間七七四年
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2008/03/05(水) 23:23:33ID:bShuCa07
だとしたら・・・猿め、なかなかやりおるわいw
0073人間七七四年
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2008/03/09(日) 01:40:44ID:8cRtguy1
元親夫人の奈々が亡くなったのって1584?それとも九州征伐の頃?
0074人間七七四年
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2008/03/10(月) 02:19:56ID:gOMkXPdQ
戸次川合戦で信親を失い、伊予の日振島で落胆していた元親が
妻の死の報にも接して、さらに落胆したとする史料もありますね。
0075人間七七四年
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2008/03/10(月) 02:46:14ID:Q9mQppUA
盛親に家督をつがせたのは、菜々の子だったから?
0076人間七七四年
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2008/03/10(月) 05:34:46ID:1W+s2XVl
単に上の2人はもう養子に出しちゃってたからじゃね?
0077人間七七四年
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2008/03/11(火) 16:19:14ID:Q9fTyX9f
信親も菜々の子だから、2人が亡くなってショック受けたため、菜々の子で信親の実弟の盛親に家督を譲りたかったのかも
0080人間七七四年
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2008/03/12(水) 02:18:34ID:WX2t8Amf
そうだったのか
自分77だが、夏草の賦には「菜々の子は盛親だった」みたいに書かれてたので養子に行った二人は側室の子かと思ってた

間違ってたならすまん
0081人間七七四年
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2008/03/12(水) 21:02:21ID:1/PjFXY1
美濃の斉藤伊豆守利賢の娘を娶ったのは永禄6年(1563)、元親が25歳といわれる。
以来、5男4女をもうけたと伝わっているよ。
長男・孫三郎信親、次男・五郎次郎親和、3男・孫次郎親忠、4男・右衛門太郎盛親、
長女は一条内政室、次女は吉良親実室、3女は佐竹親直室、4女は吉松十左衛門室、
そして5男が右近大夫だと。
0082人間七七四年
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2008/03/12(水) 21:38:43ID:kYzZVvjD
右近大夫が正室腹ってのは見つけないけど、何の史料?
0083人間七七四年
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2008/03/12(水) 23:27:42ID:1/PjFXY1
>>82
81です。誤解を招いた言い方で申し訳なかったです。
これは徳永真一郎氏の採っている説ですが、典拠についてはまた調べてみます。
(司馬遼太郎氏は信親と盛親が正室腹だとしておられますね。)
0084人間七七四年
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2008/03/12(水) 23:39:15ID:lVPNVqKq
>>81
25歳って、随分嫁をもらうのが遅かったんだな。
今なら40歳くらいの感覚かな?
0085人間七七四年
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2008/03/12(水) 23:52:24ID:1/PjFXY1
>>84
元親の初陣と家督相続が22歳なので当時としては遅いですよね。
また、本山氏との戦いの最中でもありますしね。
0086人間七七四年
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2008/03/13(木) 00:35:44ID:Fn0BJa6G
>>83
真面目に言ってると思うからマジレスするけど、どちらにしろそれ小説家。
むろんそんじょそこらの歴史オタよりよほど収集、分析はするだろうけど、
説の正しさや史料への準拠より「フィクション」「作品」としての完成度を
求めるべき人たちの名前をこういう場であげるのは場違いだよ。

>>84
元親の正室に関しては年齢から継室なんじゃないかとは言われてるね。
最初の正室は子供生まずに、あるいは最初の数人生んで若くして亡く
なったんじゃないか、と。
0087人間七七四年
垢版 |
2008/03/13(木) 01:05:50ID:Tcl6KaUt
信親が生まれたのは菜々が嫁いだ後のこと
0088人間七七四年
垢版 |
2008/03/13(木) 01:25:01ID:Fn0BJa6G
元親の婚姻に関しては土佐国編年紀事略の永禄六年には「頃年、元親〜」
としか記載がない。25歳で結婚と特定しているのはあくまで土佐物語の話。

まぁ俺も信親は正室腹と思うけど、継室と考えれば長女も含めて可能性は
否定できない、て事で一応併記した。
0089人間七七四年
垢版 |
2008/03/13(木) 01:55:28ID:R+VNGiCG
>>86,88
83ですが、もちろん場違いなのは承知ですよ。
80さんが「夏草の賦」のお話をされていたので作家ベースで語らせていただきました。
諸方に誤解を招いたようですね。申し訳ないです。
元親の婚姻についても然りで、あくまでも「といわれる」「と伝わる」と記したのも
それが正説ではないかも知れないとの理由からです。
重ねてお詫びいたします。

昨今は小説やゲームで長宗我部家にご興味を持たれる方々も増えていますよね。
ですので、貴殿のように史実をあげて解説いただける方はとても貴重な存在かと。
当方も長宗我部関係者として頼りにいたしております。
今後とも何卒よろしくお願いいたします。
0090人間七七四年
垢版 |
2008/03/19(水) 15:04:56ID:JmYV9vlx
香川の戦国大名や豪族について調べてるんだけど、
寒川氏の居城のうち寅丸館って今現在大きい公園があるあの辺でいいのかね
昼寝城とかはしっかり看板とかあってわかったけど
0091人間七七四年
垢版 |
2008/03/19(水) 21:25:22ID:5jAe61tI
>>90
虎丸山の麓、別所地区に居館があったと思われるがハッキリとはわからない
「城の内」と呼ばれる地名もあるし、城内と繋がっていたであろう道もあるにはあるけど
0092人間七七四年
垢版 |
2008/03/19(水) 22:32:35ID:JmYV9vlx
>>91
ありがと、とらまる公園とかいうあたりだと勝手に思い込んでた
引田城とかもいってみたけどあれは江戸時代の遺構だったお
0093人間七七四年
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2008/03/20(木) 03:51:41ID:RcH4fB5z
>>92
引田城も今ひとつ調査されてないんだよねぇ
生駒氏入城以前の状況がよく判らんのよね

落ちてる瓦は生駒時代の物で間違いないそうだ
石垣積みなおしたりすれば何か判ることもありそうだけど
0094人間七七四年
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2008/04/08(火) 16:20:30ID:2aVsak42
讃岐の香川氏が相模国香川庄出身とすると 県名も相模から来た事になる・・・
0096人間七七四年
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2008/04/13(日) 04:42:51ID:iZu7QRvp
>>94
県庁所在地のある高松は旧地名でいうと讃岐国香川郡高松だよ。
現在の県名が外から来たこと例もあるけどな。
例:福岡県(備前福岡から)
0097人間七七四年
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2008/04/18(金) 01:04:12ID:LUlAoOTJ
>>14
最近は、来島騒動は、通直の後継争いなどではなく、
親大内派と親大友派の争いで、親大友家臣団が晴通をかついで
通直に対抗したもので、当時の西日本の情勢の変化に影響された結果だと
いう研究があるね。
っていうか、来島通康も晴通も通宣もみんな通直の実子だそうだし。これが事実なら、
通康は妹とケコーンってことに。萌える。
0098人間七七四年
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2008/04/18(金) 01:09:23ID:LUlAoOTJ
>>35
通直(教通)のひいじいさんも通直(通尭)だ。
ともに、刑部大輔なので官名で呼び分けることもできず、厄介だ。
0099人間七七四年
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2008/04/18(金) 01:16:22ID:8X+ZWnyb
>>97
全くの空想なんだがその場合は通康の妻が実は来島村上氏の出だったて可能性は?
0100人間七七四年
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2008/04/18(金) 11:43:37ID:LUlAoOTJ
>>99
まあ、来島通康の妻として有名なのは河野通直の娘だけど、
宍戸隆家娘もいるからね。
来島の末裔の誰かが、河野氏の総領家としてふさわしいのは、
我が来島だ!として、通直の娘婿だったんだぞ、さらに通直は
通康に家督を譲ろうとしたんだ!くらいのことをでっちあげたのかも。
なにしろ、河野氏って、戦国時代は弱弱で、これといった実績もないくせに
支族末裔はえらい多いし、何故か伊藤博文までが河野氏の出と言い出す
始末。正岡子規や秋山兄弟がが河野の末裔を名乗ったのは、同じ松山だからわかるとして、
なぜ、伊藤。明治時代の西瀬戸内は突然の河野氏ブームだったのか。
0101人間七七四年
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2008/04/18(金) 15:27:12ID:8X+ZWnyb
なるほど、昔は地元でそこそこ活躍したけど今に本流の子孫が残っていない(あるいは発言力が無い)家として便利だったと言う事か
0102人間七七四年
垢版 |
2008/05/01(木) 15:44:11ID:iUzrF1PS
河野宗家は通直で断絶したんだね。
0103人間七七四年
垢版 |
2008/05/16(金) 13:02:33ID:hA9mjLqq
予州家とか池原とか、いろいろあった分家はどうなったんだろ
0104人間七七四年
垢版 |
2008/05/19(月) 13:18:22ID:4UCBclNb
>103全く根拠ないけど、
通直の竹原移住に付いて行って、
目端がきいたやつは宍戸家に仕えて
毛利家臣になったりしたんではなかろうか。
そういう連中の末裔が>100の伊藤博文だったりして。
0105人間七七四年
垢版 |
2008/05/20(火) 22:59:49ID:aJ1EZa5C
>>71
結果として戦国期に四国で活動していて江戸期に大名家として残ったのは来島家だけ、だと思う。
伊予の西園寺氏も戸田氏に謀殺されているし、同時期の竹原での通直の死も病死でないのでは、
としている研究もあるね。
0106人間七七四年@全板トナメ開催中
垢版 |
2008/06/06(金) 14:14:32ID:YxvRqzyF
伊藤博文が河野末裔?
長州人がどうせ名乗るなら(名門で地縁があり)大内とか尼子がいいのに・・・と言う事は真実なのかもよ
0107人間七七四年
垢版 |
2008/06/14(土) 21:20:19ID:NEUkIJNY
本能寺の変直後の伊予国のパワーバランスってどんな感じですか?
国力・兵力など。

なんか伊予=河野みたいなイメージ強いけど
その頃にはもう全然支配力なくなってたわけでしょ?

河野家を10として基準にすると

西園寺・金子・来島村上・能島村上とか、どんな規模だったんでしょうか?
0108人間七七四年
垢版 |
2008/06/14(土) 22:15:07ID:5gZoi8we
詳しい比率は分からんので、とりあえず所属だけ。

西園寺 ――― ギリギリ大友配下だっけ
金子 ―――― 一応長宗我部
来島村上 ―― 羽柴に寝返り済み
能島村上 ―― 毛利だけど半自立

正直、伊予だけの国力差みても意味ないと思うけど。
0109人間七七四年
垢版 |
2008/06/15(日) 06:38:42ID:ET81opC1
>>108
いや、その辺の外交関係?は把握済みなんだけど
某ゲームで兵力バランスをどうしようか参考にしようと思ってて。
戦国末期(四国征伐直前くらい)の勢力バランスって
どんなもんだったのかなーと。
伊予で一番勢力保ってたのはどこ?程度でもいいんだが。
0110人間七七四年
垢版 |
2008/06/15(日) 09:24:57ID:3/jjEmcM
それなら、長宗我部が文句無く第一等だろう。
東予は完全に抑え、南予もかなり侵食してる状況だし。
かなり恣意的だけど、長宗我部:河野:西園寺で6:3:1くらいじゃないかな?
これでもまだ後者に補正かけてるくらいだと思うけど。
0111人間七七四年
垢版 |
2008/06/15(日) 13:36:38ID:ET81opC1
ありがと。
いや俺の書き方が悪かったんだけど
長宗我部が一番なのも理解してるんだ。
長宗我部を除いた、伊予の諸勢力の兵力・国力比率を知りたかったんだ。
少なくとも河野>西園寺ではあったの?
なんかイメージ的に西園寺の方が合戦の記録が多いような気がするんだけど。
0112人間七七四年
垢版 |
2008/06/15(日) 14:23:23ID:3/jjEmcM
土佐から伊予に入ろうとすれば、南予に行くか、
阿波・讃岐方面から東予に入るしかないんだし、
東予が河野領でない以上、西園寺との交戦のほうが多くなって当然じゃね?

比率に関してはゴメン、適当。
道後平野の分、石高では河野の方が上かなと思ってみたりしただけ。
0113人間七七四年
垢版 |
2008/06/15(日) 19:51:47ID:ET81opC1
まあ、そうなんだけど
河野氏は小早川隆景の庇護下にあってどうにか勢力を維持していたのに対し
西園寺は大友や長宗我部に最終的には降伏してるけど
そこそこ善戦して、局地戦では勝ってる事も多いし(久武親信を討ち取ったり)
四国征伐までは何とか家を保ってたわけだから、
(よく言えば、時の権力者に次々乗り換えて、家を残したともいえるし)
組織力的には単独で考えた場合、河野より上だったのかなあ?とか。

河野は末期にそれまで従えていた石川・金子・来島とかにも離反されてるし。
0114人間七七四年
垢版 |
2008/06/18(水) 23:43:24ID:ha14IU97
室町中期に東予2郡は細川家の分郡守護なわけで。
ということで石川、金子はそもそも河野配下ではないのでは…
0115人間七七四年
垢版 |
2008/06/19(木) 01:06:04ID:vOcTBL/K
石川氏、金子氏ともに在地豪族で、室町期以前より河野氏配下だよ。
細川氏は東予二郡守護とはいっても、当時の中予以西は河野氏の勢力圏内。
しかも南北朝期には敵対関係となったこともある両者だから推して知るべし。
石川氏の居城とされる高峠城も元々は細川氏に対して河野氏が築き家老の
石川氏に守らせたもの。
この後、戦国期に石川氏は河野氏からの独立を企て、阿波の三好氏を手引き、
却って河野氏に攻められて弱体化、更に長宗我部元親の攻撃に降伏。
石川氏の家臣だった金子氏は主家の衰退をみて独立を図って長宗我部氏と
密かに通じて、長宗我部氏に東予への楔を打ち込ませたんだよ。

0116人間七七四年
垢版 |
2008/06/19(木) 01:38:53ID:bttSx3tt
知恵袋
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1417233679でも
質問させていただいているのですが
「長宗我部親吉」について、わかる事がありましたら教えて下さい。
「長宗我部一門で、秀吉の四国侵攻で抗戦し、土豪に討ち取られた」以外に
何か伝わっている事績はあるのでしょうか?
また、戸波親清が「親吉」を名乗っているのは何か関係があるのでしょうか?偶然?

実在を疑われる(資料に乏しい)人物なのか
家系図等にもでてくる存在が確実視されている人物なのでしょうか?
0117人間七七四年
垢版 |
2008/06/20(金) 04:22:16ID:8JqFO/44
>>116
親吉は阿波平定戦で脇城を攻略しているが、それ以外だと四国征伐の時ぐらいなので、
よくわかってないことが多い。
元親の叔父・甥とも言われるが、不明。
元親の叔父とすると生年が兼序死去以前になるから、1585年当時の年齢が80歳頃となり、極めて不自然。
逆に甥とすると、1539年生まれの元親の甥ということは1585年当時に20歳前後となり若すぎてまた不自然。
実在を疑うことは可能だが、では脇城で活躍した人物は誰なのかかを新たに発見しなければ、
親吉の実在を否定する意義は余り無い。
系図に載ってるかどうかは知りたいところだね。

戸波親清が親吉を名乗ったかどうかは不明のはず。確実な文書は見たことがない。
親吉は勇猛だったとされるから、それにあやかって一時名乗ったと考えることはできるので、
その際に混同されるようになった可能性は否めない。さすがにその確率は低いと思うが。
偶然だと思う。
ちなみに親清は元親にとっては従姪(じゅうてつ)に当たるため、
「親吉は元親の甥」という説明に関しては、親吉が親清を指す場合は誤りではない。

0118人間七七四年
垢版 |
2008/06/20(金) 14:52:28ID:7UjPdkPV
長曾我部家って大阪の陣の時に子供もろども殺されたんちゃうん
0119人間七七四年
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2008/06/20(金) 20:08:48ID:8JqFO/44
>>118
盛親系はその通り。
元親の妾腹の子とされる長宗我部康豊が酒井氏に召し出されて仕えて子孫を残したほか、
吉良親実の子孫である町氏が明治になって長宗我部氏に復したはず。
0120人間七七四年
垢版 |
2008/06/20(金) 21:32:37ID:LzbVV/I1
>>117
なるほど。ありがとうございました。
とりあえず、それらしい人物は確認できるが
詳細は不明、って事ですね。

戸波親清同一人物説は低いにせよ、親吉自体は
誰か複数の人物の事績が混同されている可能性も否定できないわけで。
(例えば一門・某の親と子の事績が一緒になっているとか)
0121人間七七四年
垢版 |
2008/06/21(土) 12:44:31ID:eGmT3Y8F
福留政親についてなのですが・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E7%95%99%E6%94%BF%E8%A6%AA
wikiでは「大阪の陣では、長宗我部盛親の陣に参陣」とあり

http://www.geocities.jp/masaru_mania_top/KtosaH.html#han
こちらのサイトでは、「長宗我部改易後は徳川家に仕えて、大阪の陣では井伊隊に所属」とあります。

どちらが、本当なのでしょうか?
盛親に付いたか、徳川に付いたかで、彼の人生は大きく変わると思うのですが・・・
また、彼の大阪の陣後、の記録は何も残っていないのでしょうか?
0122人間七七四年
垢版 |
2008/06/22(日) 09:40:59ID:Hxf9kxTU
>>115
宇都宮氏も西園寺氏も河野氏配下だよと言うのと同じ位には
石川氏や金子氏も河野氏の配下と言えるかもね。

新居、宇摩の石川氏は河野氏系列ではなくて、元は備中守護細川氏の配下の
石川氏系統だったような気がしたのだけれど違いました?
0124人間七七四年
垢版 |
2008/06/22(日) 23:34:30ID:yiP9wq/J
>>122
何かイヤミな物言いだよね。
そこまで言うならご自分で調べてみたら如何かな?
0125人間七七四年
垢版 |
2008/06/23(月) 03:06:01ID:rrX0RgyE
>>124
122じゃないが、調べてみたら115より114や122のほうが相応しいという結果だった。

石川氏は122の言う通り細川氏の家臣で、在地豪族じゃない。
高峠城を守ったのは石川氏じゃなく河野氏で、河野宗家と対立する河野予州家っぽい。
河野宗家vs河野予州家<<従属<<石川氏<<従属<<金子氏<<支援<<細川氏・三好氏
河野宗家と予州家が講和状態のときは石川・金子は河野家臣といえるが、
両家が対立状態のときは家臣とはいえないみたいだ。

ややこしすぎるぞ石川w
0126人間七七四年
垢版 |
2008/07/07(月) 16:12:57ID:MhzY59p1
予州家と宗家の抗争は約百年も続いたのね
0127人間七七四年
垢版 |
2008/07/23(水) 02:30:07ID:B+psD/qs
>>118
>>119氏に補足すると、香曽我部親泰の子孫は、最終的には春日局の縁を
頼って堀田氏の重臣となっています。
また、佐竹親直の子(元親の外孫にあたる)は柴田外記で、仙台藩に仕えて
伊達騒動の中心人物のひとりになり、その子孫は船岡城代を世襲。
0128人間七七四年
垢版 |
2008/07/23(水) 02:45:06ID:9fK8Y7v8
その事件の首謀者と目される伊達兵部が土佐に流され
生涯を閉じたのも何かの縁でございましょうな。
0129人間七七四年
垢版 |
2008/07/30(水) 18:25:26ID:0kuNQbt6
一条や西園寺のような公家大名が結構な武力保有してるな、四国って。

信長にあっさりやられた北畠や姉小路よりがんばったともいえる。
0130人間七七四年
垢版 |
2008/07/30(水) 19:38:01ID:+mFXniOq
姉小路はもはや公家じゃないような
西園寺・一条は周囲に強大な勢力がいなかったのが大きいような
0132人間七七四年
垢版 |
2008/07/31(木) 19:55:20ID:9kUSqu7r
>>129
天正年間に滅んだ姉小路は公家の姉小路とは別物だ。
公家の姉小路は天文〜弘治に三木に取って代わられて滅んどる。
北畠も何だかんだ言って藩士として江戸時代にも生き残ってるしな。

逆に一条や西園寺は子孫がなく滅亡してるし、
少なくとも北畠よりは頑張れていないな。
0133人間七七四年
垢版 |
2008/07/31(木) 23:35:36ID:QL+srxvZ
建武期に上り調子で国司になった北畠氏と比較するのも如何なものかと・・・・。
0134人間七七四年
垢版 |
2008/08/01(金) 01:00:01ID:3cLOeFp5
信長さえいなければもっと長続きしただろうな、と思わせられる北畠
誰が隣国でも勝手に自滅するんだろうな、と思わせられる一条

つーか一条って大名だったなの?
0135人間七七四年
垢版 |
2008/08/01(金) 09:30:54ID:3P4gzojs
今住んでるところは、狭い地域に曽我部さんという苗字の人がすごく多いんですが
長宗我部となにか関係あるんでしょうかね、落人の子孫とかですかね。
ちなみに愛媛側なんですが
0136人間七七四年
垢版 |
2008/08/01(金) 10:17:28ID:m1LL2TjX
長宗我部も香宗我部も元々は曽我部氏で、長宗我部の方が後から土佐に来たけど
区別のために居住地の郡名(長岡郡・香美郡)を名の上につけたのが始まりだから、
関係あるといえばあるけど、さすがに子孫ってのはないと思う。
0137人間七七四年
垢版 |
2008/08/01(金) 19:55:43ID:BeK1SpL4
>>134
名目上長宗我部元親の主君なので、形骸でしかないが一応は大名かと。
大名に含める必要性は無いとは思うが、一応は、ということで。
0139人間七七四年
垢版 |
2008/08/02(土) 13:59:38ID:DGDM5wq1
>>138
多聞院日記に「一条殿の内」と記載されているので、
一条氏の家来という認識をされることがあったのは確か。
ま、一条が長宗我部の主君であるという典拠はそれぐらいしかないけどw
0140人間七七四年
垢版 |
2008/08/02(土) 23:22:58ID:tp479zLQ
国司という地位が当時の地方ではさほど意味のない事を
中央は判ってないしね、仕方ないかw
0141人間七七四年
垢版 |
2008/08/03(日) 03:27:19ID:TljYO3Cq
国司や摂関家に連なる氏族だったからこそ
一条はうまくやっていけたんじゃないか?
突然土佐に流れてきてあの存在感はすごいだろ
0142人間七七四年
垢版 |
2008/08/03(日) 11:23:14ID:yiX0c+w2
守護の細川家が土佐にはあんま興味なかったから
0143人間七七四年
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2008/08/04(月) 03:41:15ID:dM3Kt6xo
明治生まれの徳島の祖母が
悪いことをしたら、ソガベが首を取りに来ると
脅かしていた。
ソガベ」て鬼のことと理解してたが、
やっと、意味が解った。
0144人間七七四年
垢版 |
2008/08/05(火) 00:14:55ID:jqm3zqQM
そういう話は南予地方にも残っていますね。
0147人間七七四年
垢版 |
2008/08/21(木) 15:56:50ID:nSuv8Gdi
ひどいことをするから地下人は豪族について侵略者と戦うんだよ。
0148人間七七四年
垢版 |
2008/09/05(金) 01:18:40ID:C1sX0JLC
それは長宗我部に限らんでしょうが。
0149人間七七四年
垢版 |
2008/09/22(月) 14:33:08ID:0QdpwvVO
特に強暴だったの?そうでもないんじゃ。
0150人間七七四年
垢版 |
2008/09/23(火) 04:48:17ID:QZEXkdVW
部落県徳島の自演につきあうなよ
どマイナー武将しかいないどマイナー県のヒガミやから
0151人間七七四年
垢版 |
2008/09/24(水) 12:19:42ID:c/DcBRYh
そうかな
いろんな名族の自称ご落胤とやらには事欠かない地域
南北朝時代では激戦地だし、戦国時代にしても、瀬戸内海交通の要地だったことには変わりない
0152人間七七四年
垢版 |
2008/09/27(土) 13:41:25ID:2rV+hiuN
そんな要所も三好家の没落とともに終焉が
0154人間七七四年
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2008/10/17(金) 14:59:02ID:Ijno7cao
河野や十河が大名なら大名だろな。
0155人間七七四年
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2008/10/29(水) 01:01:27ID:OOI+gEbs
そもそも四国の大名の定義って何だろね???
0156人間七七四年
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2008/10/31(金) 17:35:15ID:j/ke2eFu
河野氏で像があるのは六郎さんだけ?
0158人間七七四年
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2008/11/07(金) 01:04:23ID:MXJno8Dj
元親の家臣で、四国統一の際には香川や徳島で戦った野中家の子孫の一人です。
野中肥後守貞吉やその長男の右近重治、次男の市正頼綱、
三男の三郎左衛門親孝、四男の貞俊についてなにかご存知の方いませんか?
小学校の時には同じクラスに曽我部さんがおり、そうして野中家の子孫がいたという
戦国時代そのままだったんだなと今感慨にふけっています。
0159人間七七四年
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2008/11/08(土) 22:11:36ID:f1WTW0dk
うちのクラスにも野中くんいましたよw
他に津野くん福留くん別役くん五百蔵くんなどなど
今にして思えば凄いメンバーだったんだなとw
ちなみに私も高岡郡下の土豪の子孫です。
0160人間七七四年
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2008/11/09(日) 02:07:35ID:w1MOddV0
中学時代は吉良・三宮・久保
高校時代には一円姓の友人もいたな〜
0161158
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2008/11/09(日) 02:32:54ID:KaSFvji2
レスどうもです。
いましたよね。
ほかに萩野、浜田、細川、横山、豊永、吉田、谷、佐竹。。。
どうしてこんなに多いのかというと香北町(野中家の居城があった−芳野城)の隣町、
土佐山田町の山田小学校と鏡野中学校の出身だからです。
小中のみを通じてみると、私のクラスメートで野中姓は3人いました。
そのほか長宗我部氏に敗れた山田氏関係で言えば、山田、楠目、西峯もいました。
香北町には萩野、五百蔵といった地名があるし。
0162人間七七四年
垢版 |
2008/11/09(日) 02:35:33ID:w1MOddV0
>>161
こちらは高知市内で高校まで育ったんだけど
前述のような長宗我部遺臣の姓がゾロゾロでした
あ、私も遺臣の子孫だったwww
0163158
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2008/11/09(日) 02:52:04ID:KaSFvji2
こんな時間まで起きておられてお疲れさんです。
ところで長宗我部氏遺臣というとき、どうですか、
家系図とかで確認しています?
うちは両親ともに家系図のほかに町史や村史で確認していますが。。。
そのあたりどうです?
0164人間七七四年
垢版 |
2008/11/09(日) 02:55:37ID:w1MOddV0
>>163
いえいえ、貴殿こそ乙です
もちろん史書類、家系図をはじめ寺の過去帳などなどですね
ちなみに家系図は先日、新調しましたw
0165158
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2008/11/09(日) 12:28:47ID:KaSFvji2
>>164
子孫としては万全ですねぇ。すばらしいです。
0166人間七七四年
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2008/11/09(日) 23:56:03ID:w1MOddV0
>>165
いえいえ、それを子々孫々に伝えていくのも私の仕事かと
思っておりますのでw
お互いに頑張って残していきましょうね!
0167人間七七四年
垢版 |
2008/11/12(水) 08:02:08ID:u1CYe3sm
阿波…三好氏 大西氏 佐藤氏 (阿波)足利氏 新開氏 一宮氏 海部氏 仁宇氏 阿佐氏
香川県…十河氏 香川氏 安富氏 香西氏 羽床氏 寒川氏 奈良氏 由佐氏
愛媛県…西園寺氏 河野氏 土居(河野系)氏 土居(穂積系)氏 久留島氏 能島村上氏 宇都宮氏 大三島大祝氏 重見氏 大野氏 忽那氏
二神氏 金子氏
高知県…長宗我部氏 安芸氏 本山氏 香宗我部氏 一条氏 大平氏 津野氏 吉良氏 山田氏 豊永氏 片岡氏
0168人間七七四年
垢版 |
2008/11/12(水) 23:48:12ID:6pF5JibD
長宗我部氏の家老
吉田備中守、桑名藤蔵人、福留飛騨守、中嶋大和守、姫倉豊前守、久武肥後守、江村備後守、吉田次郎左衛門、
久武内蔵助、国吉甚左衛門、中嶋右兵衛、桑名丹後守、馬場因幡守、吉田伊賀守、南岡左衛門太夫。

若年寄
久武彦七、桑名弥次兵衛、桑名将監、国吉三郎兵衛、姫倉太郎左衛門、中内源兵衛、江村孫左衛門、野田甚左衛門、
南岡四郎四郎兵衛、山川五郎左衛門、吉田弥右衛門、十市新右衛門、比江山掃部助、桑名太良左衛門、野中三郎左衛門、
横山九郎兵衛、横山三郎左衛門。
0169人間七七四年
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2008/11/16(日) 14:32:46ID:AXTIkt6e
キリシタンだったタミアン桑名古庵(桑名瀬兵衛)のお墓へいってきたら、「香」宗我部氏のお墓が二つありました。
香宗我部氏のお墓なんてはじめてみた。
0170人間七七四年
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2008/11/17(月) 10:07:46ID:1gNlVFrP
ちょっと前まで土佐一条氏や伊予西園寺氏を扱った(扱おうとした?)サイトがあったんだが
殆どが工事中で全コンテンツを埋めるまでにサイトを閉じちゃったんだよな・・・ 期待してたのに
やはり資料が乏しすぎるのかな?四国の公家大名は
0171人間七七四年
垢版 |
2008/11/19(水) 04:22:24ID:C4tGYSLQ
元親は南予対策のため、一部を除き一條旧臣を中村や宿毛から排除した。
彼らやその息子は山内家、中村山内家、伊賀家(宿毛)、深尾家(佐川)に召し抱えられたらしい。
宿毛町は郷土史の研究が盛んで、伊賀家の家老・騎馬に一條遺臣・津野遺臣(とその末裔)が多くいたことが判る。
吉田茂の実父たる竹内綱の竹内家も一條遺臣末裔で伊賀家の家老の一つ。
林有造を生んだ林家は重臣とはいえないが、これまた一條氏遺臣末裔で、家老に次ぐ身分の騎馬。
幕末に林家長男(有造の長兄)だった英俊は家老の一つ岩村家(こちらは
一豊の国入りと共に入ってきた家だったような記憶がある)の養子になった←後に脱藩するが。
0172人間七七四年
垢版 |
2008/11/19(水) 04:32:04ID:C4tGYSLQ
道俊 ○
秀俊 ×

秀俊は岩村通俊の親父さんだ。もしかしたら岩村家に養子か婿養子になったのは親父さんの代だったかもしれん。
林有造は親父さんの実家(林家)を継いだような。
あと、岩村通俊を林有造の長兄と書いたけど、長兄も何も有造は次男だから兄貴は通俊しかいない。
記憶が曖昧な上、寝ぼけててスマソ。後日出直します。
0173またまた間違い!
垢版 |
2008/11/19(水) 04:34:07ID:C4tGYSLQ
道俊じゃなく通俊の書き間違い。(・∀・)ダメダコリャ
0174人間七七四年
垢版 |
2008/12/01(月) 15:00:17ID:hk9a/Un9
林譲治も関係ありか、ああ有造の長男なんだ
0177人間七七四年
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2009/01/01(木) 21:59:56ID:/p9tKD1j
戦国武将のご先祖の土地を500年来いまだに守っているという人いる?
うちはそうだけど。。。
0178人間七七四年
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2009/01/02(金) 00:22:41ID:f9LbBP5H
守りたかったけど元親に滅ぼされちゃったからなあ・・・・。
一応、一族の末裔が住んではくれてるけどね。
0179ひゃくななじゅうなな
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2009/01/04(日) 20:53:15ID:883hmWZN
人生いろいろ、運命いろいろ、そんでもって先祖もいろいろですなぁ。
うちの八幡様は古ぼけた小さなお宮なのでいま兄弟で
どうにかようせんといかんと思案中です。どうしたものやら。。。
0180人間七七四年
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2009/01/07(水) 18:30:47ID:8zfUbw8/
城跡にそこの城主の子孫が今でも住んでるってのは何例か聞いた事があるな
0182人間七七四年
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2009/01/25(日) 06:34:33ID:yzMNrbk/
>>181
教通の弟(子ではありません)の通秋とは別人ですね。
教通の弟は一時期教通の跡を継ぎましたが教通よりも先に亡くなっていますので、
生年も没年も15世紀の人物になります。

吉見氏の食客として出てきている通秋については私もわかりません。
吉見広頼の娘が河野通直に嫁いでいますので伊予を失った後に
吉見氏を頼った河野一族がいたのかもしれませんが、
萩藩毛利氏の閥閲録にはそれ以前から毛利元就配下で活動している
伊予出自を謳う河野氏もいたようですのでそうした流れの人物の可能性もあるかと。
生没年がはっきりしているようなので、吉見氏関連の史料に詳しく出ているか、
位牌でも現地に残っているのかもしれませんのでその辺の詳細がわかれば
何らかの手がかりになりそうですが。

字が違う河野通昭であれば河野通宣(左京大夫)の子で後に築山氏と改めた系譜がありますが
年代が微妙にあわないように思います。
通昭あるいは宍戸氏から入ったとされる通軌など、竹原で亡くなった通直以後の系譜として
築山本河野家譜に現れる人物についてはどこまで1次史料で確認されているのかは
私も興味があるのですがあまり論じられているものをまだ見たことがありません。

こちらでも質問されるとまた別の情報が得られるのではと思います。
ttp://www.ehime.net/bbs/yuduki/index.html
0183人間七七四年
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2009/01/25(日) 16:03:13ID:49B47ata
>>182
御意見ありがとうございます。
とりあえず、教通の子でないという事がわかっただけでも収穫です。
河野氏の一族が毛利に入っているのは知っていたのですが
河野家没落後に入った連中と、その前から入っていた連中との区別が難しいので
どっちなのかなーと思いまして。
紹介されたリンク先でも聞いてみますね。ありがとうございました。
0184人間七七四年
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2009/02/18(水) 11:36:55ID:ZGlqjws1
>>163
おや、うちは河野の子孫なので敵同士ですなw
掲示板越しに会話出来るなんて平和な世だなぁ
0185人間七七四年
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2009/02/18(水) 22:48:02ID:oZtGGNui
>>184
最近の研究だとそこまで単純な敵対関係じゃなかったようで面白いですよ。
織田、長宗我部、毛利のパワーバランスによって状況が刻々変化していたようで。

実際、戦闘も郡内表(喜多郡)や宇和郡を巡るものがほとんどで
現在の松山市、今治市あたりには長宗我部軍は入ってきてないんじゃないかと思いますが、
あちこちに長宗我部軍と戦った伝承が残ってるのが興味深いです。
0186184
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2009/02/19(木) 16:47:33ID:nmXZ24ij
>>185
ご丁寧にありがとうございます。
色々ご存知なんですなぁ。確かに、調べると面白そうだw
思い込みで敵認定ってのも失礼な話ですしね。反省。
0187人間七七四年
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2009/02/20(金) 09:49:07ID:to28dWuL
最近は四国の戦国関係のサイトが次々と無くなってしまっていき寂しい。
0188人間七七四年
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2009/02/28(土) 10:50:08ID:H/+3o7YC
ブームも過ぎ去った感がありますね。
0189人間七七四年
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2009/03/03(火) 21:28:28ID:qE40301K
>>125
河野予州家の本拠地は高峠城ではないよ。
河野通之が細川頼之の後援を得て、東予を支配したってのは嘘!
河野通之は御幸寺山城、通之の嫡男・通元は菊ヶ森城、通之の次男・通重は
名越城、通之の三男・通忠は行基山城を、それぞれ本拠としている。
全て中予地方だ。
ちなみに河野通元の子・通春は湊山城が本拠地だしね。
河野通之が兄・通義から家督を譲られた後、東予の諸将が新居・宇摩郡を
支配する細川氏に寝返るのを防ぐ為に、桑原通興に命じて鷺森城を築城して
るくらいだ。自分(通之)が高峠城にいて新居・宇摩郡を支配してるのなら
鷺森城を築城する意味がないだろ?
0190人間七七四年
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2009/03/06(金) 20:20:43ID:0Yh30a4/
>>189
125には
>河野予州家の本拠地は高峠城
なんてことは一言も書かれてないわけだが?
高峠城は予州家の属城ってことにしか読めんが。
元レスも河野予州家の話ではなく石川や金子は〜って話だし。
遅レスの上に見当違いなことを書くなよ。
0191人間七七四年
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2009/03/06(金) 22:44:01ID:zInb3/ry
>>190
>高峠城を守ったのは石川氏じゃなく河野氏で、河野宗家と対立する河野予州家っぽい。
ここのとこに過敏に反応し過ぎてしまいますた。スマソ。

高峠城を築いて細川氏と戦ったのは河野通直(通堯)なのは
間違いないと思うんだけど、(この時点では河野氏の城)
1379年11月6日に佐志久原で河野通直(通堯)が討死した後、
細川氏との和睦の条件が新居郡と宇摩郡の割譲だったわけで、
この和睦以降、高峠城は細川氏の支配下にあったと考えるのが妥当では?

西條誌や保國寺縁起には、河野通直の討死後、石川通之が高峠城に入城し
支配したという記述がある。石川通之が河野通直の四男で幼名鬼王丸という
説明付きでね。まるで、戦国期に西条地方を支配した石川氏は河野一族だと
いわんばかりにね。
この話が誤伝だということが言いたかっただけでつ。
石川氏は河野一族ではなくて、備中石川氏の一族で細川氏の被官だお。

0192人間七七四年
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2009/03/07(土) 14:48:21ID:TVcA/kb7
私の親の里が香川県の丸亀・旧・鵜足郡(飯野山南西・土器川中流周辺)なのですが、
戦国当時、鵜足郡はどの豪族が治めていたのでしょうか?
香川氏(観音寺周辺)、羽床氏(讃岐中央南部)、奈良氏(宇多津周辺)と考えているのですが、
上記三氏の中間地帯あたりにあるので、イマイチわからず気になったのでカキコさせて貰います。
お詳しい方居られましたらお教え下さい。
0193人間七七四年
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2009/03/07(土) 15:17:14ID:+XnJqWb4
>>191
熱くなりすぎだが、それぐらいに戦国時代にハマッてるのはいいことかもしれんなw
現在に伝えられる「歴史」をしっかり考証する姿勢を持ちつつ、
遊びの部分では妄想を膨らませて「歴史」を楽しみたいもんだね。
0194人間七七四年
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2009/03/07(土) 22:44:53ID:7bM1G1YM
>>191
たまたまなのか石川氏が通字に「通」の字を使っていたせいで、
子孫か誰かが河野氏との繋がりを誤解したか、利用したのでしょうね。

戦国期の石川通昌が備中から来たという話の検証が、以前の伊予史談に掲載されていましたが。
逆に細川通薫は宇摩郡から備中に戻ったと言われているんでしたっけ。
0195人間七七四年
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2009/03/07(土) 23:43:07ID:P5hhFgWD
南北朝後期〜室町初期の河野通堯は、なかなかの人物だと思うんだけど、
みなさんの評価はいかが?
0197人間七七四年
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2009/03/11(水) 22:19:18ID:zsN67grt
14世紀初めから15世紀初めまでは南北朝時代の括りだろう。
さすがに戦国時代とはちょっと板的にズレすぎだ。
0198人間七七四年
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2009/03/16(月) 00:01:08ID:kDXLNzu9
丸亀城は長宗我部軍により攻め落とされ、土佐の山崎氏が130石を賜ったことがある。
0200人間七七四年
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2009/04/07(火) 00:37:36ID:5JGMJSEu
アンジェラ・アキって安芸氏の末裔か?
0201人間七七四年
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2009/04/09(木) 18:41:19ID:JNqn/orm
知らなかったの?
あき竹城が宗家だがな
0202人間七七四年
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2009/04/12(日) 19:55:25ID:cnVp01jc
分家が半島に渡り、戦後のドサクサで日本に不法に住み着いたのが和〇アキ子の先祖なんだけどね
0203人間七七四年
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2009/04/13(月) 09:54:42ID:PVCHRMxz
ほし〜のあきは、武家の血がそうさせるのか、馬にこだわっているね。
0204人間七七四年
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2009/04/28(火) 13:40:34ID:BcSEh8KT
四国で栄えていたのは瀬戸内でいい?
0207人間七七四年
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2009/05/18(月) 02:40:27ID:Rc29QVE7
>>206
別に交易の方が盛んってこともないだろうが、そもそも米がいっぱい取れる平野部も
瀬戸内海側とか吉野川の河口あたりに集中してるといってもいいと思う。
0208人間七七四年
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2009/06/01(月) 17:21:24ID:uUYfqr0S
戦国後期の四国では石高はあんまりステータスにはならないだろうなあ。
河野、三好あたりは交易の利益がかなりあったろうし長宗我部は一領具足で石高以上の強さを持ってただろうし
0209人間七七四年
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2009/06/06(土) 06:43:01ID:BYgdQEys
>>208
実力を必ずしも反映しないならむしろステータスでしかないんじゃ
0211人間七七四年
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2009/06/22(月) 16:57:18ID:S+ACvaEc
米以外の部分も大きいということか。
0212人間七七四年
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2009/07/07(火) 15:01:43ID:zBmfjz1V
細川は交易強いから 三好もそうなんだろうね。
0213人間七七四年
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2009/07/12(日) 10:33:29ID:17Gjizjv
長宗我部は外国から傭兵を雇っていれば良かったのにな
0214人間七七四年
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2009/07/14(火) 23:59:36ID:Itrci/v9
ポルトガルとかスペイン?
それともスイス?
0215人間七七四年
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2009/07/15(水) 00:12:26ID:u6RvRhEW
傭兵以前に外来文化あまり入ってないっぽいから
いろんな意味で無理そうな気がする
0216人間七七四年
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2009/07/18(土) 09:57:06ID:+819uXMN
ポルトガル人の記録にあるのも一條さんの海外派遣使節くらいか
0218人間七七四年
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2009/07/19(日) 00:19:50ID:t6ZBrKhJ
>>217
どう考えても中国人傭兵や中国文化の話ではなく南蛮人傭兵や南蛮文化の話だろ
0219人間七七四年
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2009/07/19(日) 00:22:41ID:BqJQLEs4
>>218

213 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/07/12(日) 10:33:29 ID:17Gjizjv
長宗我部は外国から傭兵を雇っていれば良かったのにな
0220人間七七四年
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2009/07/19(日) 01:33:21ID:IU/N0wa9
中国・朝鮮人傭兵ってかw
強制連行された謝罪と賠償(ry
0221人間七七四年
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2009/07/19(日) 08:09:45ID:PdZmQzQT
秀吉に対抗する為に

長宗我部の外交力で西日本軍事同盟を結び
長の国を作る

そして東は北条の手で東日本軍事同盟を結ぶそして北の国を作る

秀吉は畿内で秀の国を作り均衡する
0222人間七七四年
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2009/07/19(日) 20:52:33ID:t6ZBrKhJ
>>219
その「外国」がポルトガルやスペインだろってことだよ。
>>214-216も当然「外国」=「南蛮」って解釈をしてるし、普通はそうする。
中国人傭兵なんて聞いたことないしな。
0223人間七七四年
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2009/08/01(土) 03:49:36ID:g9fnneno
そのスペインポルトガル人が日本人を傭兵にしなければやっていけない台所事情だったというのにw
0225人間七七四年
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2009/08/01(土) 15:07:15ID:wqpn37RH
>>223
逆だ逆w
台所事情が厳しい場合自軍の兵士を傭兵にして報酬を要求するだろw
スペインの国家財政が破綻していたのは間違いないがw
フェリペ2世軍事介入しすぎ&イギリスの海賊スペイン船襲いすぎ。
0227人間七七四年
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2009/08/24(月) 20:26:12ID:OAIKv/fo
「西園寺十五将」って呼び名だけはカッコいいよね?
全くと言って良いほど知られてないけどw
0228人間七七四年
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2009/08/24(月) 21:03:12ID:jrwiKVSR
必ずしも西園寺に従っていた武将ではないらしいのもイイw
0229人間七七四年
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2009/08/25(火) 02:51:46ID:fLEsGP9x
渡辺教忠は一条房基の三男だったっけ
公家大名同士が隣接していたのなんてこの辺ぐらいだよね?
これは結構すごい
0230人間七七四年
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2009/08/25(火) 16:42:49ID:QbQ8C73b
>>227
〜四天王、とか
〜何人衆とか
〜何勇士とか
そういう奴って大概活躍してないよな、まとめてよくやく1つの勢力扱いみたいな
0231人間七七四年
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2009/08/25(火) 19:21:16ID:F6yOJN0L
土佐との国境付近の十五将は、一条家との掛け持ち家臣のようなもんだからなあ。
だから興味深いんだよね、伊予西園寺家は。マイナー大名にしとくのは勿体無い。
0232人間七七四年
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2009/08/26(水) 02:40:27ID:dk9zg2rq
>>230
仁井田五人衆をなめるなよ!
もちろん「まとめてようやく一つの勢力」だけど・・・w
0234人間七七四年
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2009/08/30(日) 20:26:29ID:S3P8MAet
東肥前十九城将とかも西園寺十五将や由利十二頭に並ぶんじゃね?
仁井田五人衆や天草五人衆とかはその下か。
長野十六槍はさらにその下とか。
常陸の南方三十三館はどの辺かな?
那須七騎は西園寺十五将よりは上だろうなぁ。

数字スレみたいw
0235人間七七四年
垢版 |
2009/09/04(金) 22:30:23ID:qX//CLHo
戦国伊予の事が調べられる、入手し易い文献って無いですかね?
0239人間七七四年
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2009/09/14(月) 10:32:33ID:AJ5cDTTm
       ___  /ヽ   ヽ /   /    }   __,,/  ノ
     ,.-''"  `ー---ヽ    l   /    /`ー-'" `ー--''"{
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0241人間七七四年
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2009/09/26(土) 01:31:21ID:dVExuqiv
>>240
仲がいいも悪いもない。基本的に国境は山深いから繋がりが深まるはずがない。
国境近くではお互いまったく無関係とはいかないだろうけど、山より海を越える方が早いし海の方が豊か。
戦国の世なら尚更。
0242人間七七四年
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2009/09/26(土) 03:46:18ID:JvHNQPk0
だから統一しようとする奴が出てこなかったのか
0243人間七七四年
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2009/09/26(土) 13:24:14ID:zvfE6+0a
高知歴史民俗資料館が主催する、戸次川の古戦場や長宗我部信親の御墓を訪ねるツアーがあったが、携行人員40名の選に漏れてしまって悔しい。
0244人間七七四年
垢版 |
2009/09/27(日) 02:33:37ID:9E/tYCsV
個人的に行ったほうが予定も自由に組めていいと思うよ。
0245人間七七四年
垢版 |
2009/09/28(月) 22:26:11ID:YO77xMER
>>242
伊予辺りはちょっとでも油断したら大友や毛利が介入してくるし
讃岐・阿波の勢力は中央に目が向いているし・・・
四国を統一しよう等と余計な事を考えられるのは土佐を統一して暇な長宗我部ぐらい?
0246人間七七四年
垢版 |
2009/10/04(日) 10:52:35ID:g7ozAORC
っていうか実際は戦国時代に一定の領土を統一しようとする人物自体が稀だしな
0247人間七七四年
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2009/10/04(日) 23:52:05ID:x0xKd9sI
通常の国人や地侍クラスなら自分の土地を守ったり
隣の領地を少々侵すのが関の山ってこと?
0248人間七七四年
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2009/10/05(月) 10:05:51ID:Aantbcvj
そんなとこでしょうかね。激しい戦乱にいかに巻き込まれないようにするかって国人もいただろうし。
0249人間七七四年
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2009/10/06(火) 00:45:12ID:Y5y5cnOM
まさに「一所懸命」だった訳ですね。
0250人間七七四年
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2009/10/06(火) 19:06:38ID:3HtJ0vyt
>>247
そういう事だよ
ほとんどの領主はいかに勝ち馬に乗るかしか考えてないじゃんか
「四国を統一する」とかメンドクサイしできるかどうか分からんからって感じで
とりあえず引きこもって温々してる奴らばっかだしね
外に出ようとするより内輪もめを収集するのに忙しいしね
0251人間七七四年
垢版 |
2009/10/11(日) 16:59:56ID:YweEDtf+
伊予の豪族は瀬戸内の利権を守った方が経済的に有利だし、
険しい山脈があるから簡単に背後を突かれることも無いからなあ。
あえて土壌もあまり豊かでない土佐に攻め込んでも益は少ないかな。

阿波や讃岐に至っては畿内の一部だし、伊予以上に土佐には関心が無い。

九州と違って統一する価値が全く無いのな。
0252人間七七四年
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2009/10/11(日) 17:37:57ID:uo9pXvqq
高松城を水攻めにしてみた



香川県民は喜んでうどんを茹ではじめた

    ∧,,∧
   ( ´・ω・) 
   (っ=|||o)
 ̄ ̄ `――´ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\
0253人間七七四年
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2009/10/12(月) 00:27:20ID:kU5QZSl/
>険しい山脈があるから簡単に背後を突かれることも無いからなあ。
大友と長宗我部がアップを始めました。
0254人間七七四年
垢版 |
2009/10/13(火) 23:00:38ID:0DIxct++
四国山脈はそれほどけわしくはない
冬に山越えはキツいが
0255人間七七四年
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2009/10/13(火) 23:41:43ID:aTtPLsR8
標高的にはそれほどでもないが、軍勢がまともに通過できるような道はなかった。
住民レベルでの阿波・伊予間の交流は多かったが。
元親の白地城攻めの際も吉野川沿いの崖っぷちの細道を恐る恐る進んだとか。
今も大歩危小歩危辺りで国道32号から見上げると岩の縁に旧道が残っている
場所がある。
0257人間七七四年
垢版 |
2009/10/24(土) 16:04:56ID:JVvN8p+V
大歩危小歩危で合戦なんかしたら
酷いことになりそうだ
0258人間七七四年
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2009/10/24(土) 16:28:40ID:/JWIC0s5
いつのまにかウィキの四国征伐が充実してた。
0259人間七七四年
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2009/10/24(土) 19:03:25ID:Xq34egMY
四国から統一する意義が無いんだ。
いままでも統一した奴は一人も居ない。
0260人間七七四年
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2009/10/25(日) 00:15:14ID:KUtybr+8
統一した人って戦国期で言えば東海地方からだけだよね。
0261人間七七四年
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2009/10/25(日) 19:11:51ID:V8HJRNEn
よく知らないんだけど、四国のアクセスってどうなって居るんだろう?
吉野川沿いに「S」の字を伸ばしたように阿波から土佐まで道があって、
それ以外は阿波−讃岐も讃岐-伊予も海沿いのみ?
0262人間七七四年
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2009/10/26(月) 00:43:43ID:52DqEcDq
讃岐〜伊予は南北に狭いこともあって、ほとんど海沿いだけど
阿波〜讃岐は山越えルートもあるよ
0263人間七七四年
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2009/10/26(月) 01:01:38ID:60ewI3eq
私女だけど彼氏が香川県民だった 死にたい。。

      ∧,,∧
     (・ω・`) どこでも食うぜ
ズルズル(っ=|||ol丶l丶
     /`― (   ) やめて!
     (ノ ̄ と、 i
          しーJ
0266人間七七四年
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2009/11/15(日) 20:15:41ID:dCFXCqar
だから土佐が流刑地になったんだと思います
0268人間七七四年
垢版 |
2009/11/16(月) 20:07:26ID:Cmtn0mpU
んな事言い出したら流刑地なんて日本全国にw
ttp://empire-of-japan.org/archives/24872004.html
0270人間七七四年
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2009/11/20(金) 20:30:09ID:LW88WQ7m
ええ、「あなた方に」言っているんですよ?w
0271人間七七四年
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2009/11/22(日) 19:09:37ID:Qip6G3tu
阿波守護の自立が細川京兆家政権を粉砕した
0272人間七七四年
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2009/12/14(月) 00:13:37ID:5oyg4ht4
戦国四国の動員能力って、どう考えても1万石≠2500人は行ってるよな
旧参謀本部(の見立て)も裸足で逃げ出す余裕の総動員振り
0274人間七七四年
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2009/12/14(月) 16:00:51ID:tm7/d53i
>>192
もともと奈良氏は細川氏は鵜足・那珂の2郡をもらっていた。
拠点は宇多津の聖通寺城。
三好政権の時代になると、三好家から課せられた軍役で領内は荒廃、
香川氏の調略と侵攻によって那珂を獲られてしまう。

その後、長宗我部氏の侵攻にあたり、阿波勝瑞へ逃げ、
中富川合戦で数百名の家臣と共に当主も討死。

四国の役の後には仙石氏が入部。
仙石失脚後は生駒親正が入るも、高松に移ったため聖通寺城は廃城。

その他、鵜足の戦国期のマイナー豪族だと、三谷氏、小川氏、高木氏、増田氏、長尾氏など。


ちなみに那珂の丸亀城は元々、奈良氏の支城。
0276人間七七四年
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2009/12/14(月) 22:35:46ID:FymYALwd
>>273
参謀本部の論法で計算すると、戦国四国全土の合計石高でも動員できるのは2万人を切るぐらい。
長宗我部は土佐と阿波・讃岐それぞれ半国ぐらいの石高で、2.3万人も動員して十河を攻めてる...
やっぱり中富川の合戦時の兵力は誇大記録なのかな?
0277人間七七四年
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2009/12/14(月) 23:59:42ID:1lo+gJxj
>>276
誇大に記録されてるのが半分、一領具足で根こそぎ動員っていうのが半分では?
大体3万人が楽々動員できるならもっと早くに阿波も落とせてるだろうし、
伊予の中心部まで攻め込めてるだろうに。
0278人間七七四年
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2009/12/15(火) 00:47:11ID:KCaZj972
>>276
引田合戦の際も長宗我部は白地より2万の軍を率いて讃岐に向かっていますね。
別働隊として香川氏の西讃、大西氏の西阿から計5千が動員されている所を見ると
土佐と東阿が中心となって2万動員されている、ということになります。
おそらく讃岐で合流した東讃諸氏の数も含まれているとは思いますが…。
これも誇大でしょうかね。



0279人間七七四年
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2009/12/15(火) 01:22:16ID:rWHECc5O
讃岐の戦国時代は面白そうだけどあんまり扱われてないのは
やっぱり武将たちが江戸時代を迎える前に一掃されて大々的に語り継がれなかったからかな…
香川氏牙城の天霧城が史実は早めに和睦したはずの長宗我部に攻められたという言い伝えもあったりと
秀吉の家臣の生駒氏の半世紀の支配によるゆがみも大きそうだ
0280人間七七四年
垢版 |
2009/12/15(火) 01:23:49ID:BE5DGhbq
江戸時代の四国は地栄えの大名がな…
0281人間七七四年
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2009/12/15(火) 12:50:29ID:KCaZj972
>>279
ノブヤボとかじゃ一緒くたに三好勢力にされてますが、
香川、香西などは同盟結んで三好長治に抗ってますよね。
その間も毛利や河野、織田と通じたり。
長宗我部侵攻の際も十河の言うこと全然聞かないし。

ただ、やはり全体的に地味…ですね。

0282人間七七四年
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2009/12/15(火) 17:39:51ID:rWHECc5O
>>281
戦国時代も信長以降だと単なる地方勢力になってて地味だけど
細川政権まではむしろ細川京兆家の内衆として畿内の情勢に深く関わってたから
重要な存在だと思うんだがなぁ。
だがやはり細川もその後の三好没落するしでやはりあまり語り継げない、それを足掛かりにして研究もできないじゃ
評価されないのかな…。
讃岐に限らず織田以前の畿内とその周囲ってなんか神聖ローマ帝国にも似た扱いの悪さな気がする
0283人間七七四年
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2009/12/15(火) 19:02:05ID:hA8akAfS
>>277
2.3万人と言うのは2万3千人の事です。
ややこしい書きかたして申し訳ない...orz
0284人間七七四年
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2009/12/15(火) 22:59:28ID:1DObyOSN
>>280
いませんねぇ。

それどころか戦国期に四国で活動していた家について江戸時代の禄高ランキング作ったら
陪臣まで見ても地元に残って取り立てられるのも小身ばかりで、大身がほとんどいなくて悲惨なことになると思います。
試しに私の知るところだとこんな感じ。石高は時代とともに変わるのもあって大まかですが。

1. 久留島家(豊後森、大名)15000石。唯一の大名家
2. 村上家(村上景広系)(細川家)10000石。村上武吉の従兄弟。忠興に重用されるも次代かその次で致仕
3. 村上家(村上彦右衛門系)(福島家、紀州徳川家)5000石。来島通康の子、紀州徳川家に召し抱えられて続く
4. 村上家(能島系)(毛利家)3000石。武吉の子、元吉の系統。景親の系統も毛利家に残る

1000石を越えていそうなラインだと他に萩藩の因島村上家とか紀州藩の村上吉継系などがありますが、
ってここに挙げたのは全部村上水軍になってしまいました。

あとは長宗我部系で藤堂とか細川に仕えた人たちがいたはずですが、
この人たちはそれなりの禄を貰ってそうです。

阿波、讃岐で探すと縁がありそうなのは三好政勝系の旗本ですが、三好も康長系はともかくとして
政勝だと四国というイメージがあまりないのですけれど。

ということでフォローがあればぜひ。
0285人間七七四年
垢版 |
2009/12/15(火) 23:04:24ID:1DObyOSN
一応、稲葉氏と一柳氏は河野氏の流れ、ということですが、伊予に戦国時代まで住んでいたかというと
微妙な年代なのではないかということもあって外しておきました。

血を引くということであれば、来島通康の娘が毛利秀元を生んで、後には萩の本家の藩主までつながってます。
長宗我部や三好の娘たちもどこかにつながってそうですけれど。
0286人間七七四年
垢版 |
2009/12/16(水) 15:05:16ID:GSKqtm4p
伊達家に保護された元親の外孫の柴田外記の子孫はどうなったんだろう。
柴田家は一応ずーっと船岡城代だったらしいけど血脈としては繋がっていたのかな。
0287人間七七四年
垢版 |
2009/12/16(水) 19:56:26ID:gFYiYBIZ
三好氏の末裔といえば伊吹島だけど
香川氏の末裔は土佐に土地もらった後どこにいってどうなったのか
0288人間七七四年
垢版 |
2009/12/17(木) 17:02:08ID:/Z7HVDuh
>>287
戸次川で戦死という説もありますが、おそらくそういう記録が無いのでガセかと。
肥後で死んだというのもありますが、「なぜ肥後に?」となりますね。
あと、満濃のあたりに住んで、子孫は医師になったというのもあります。

塩江の豪族川田氏も香川の傍系だという系図になっていますが、
これもかなり怪しいですね。途中で通字がおかしい人が出てきます。

おそらく、阿波の川田から来た豪族がなんらか香川氏と血縁をもったか、
後世に偽造したかのどちらかではないかと思われます。
香川の末孫と名乗る家は多数ありますしね。

ただ、香川氏の家系図はすでに戦国以前にも色々な系図があり、(もっと言えば鎌倉氏もそうですが)
また、通字の「景」と偏倚を合わせたものが多いので、どの人物がいつこの名を名乗ったのか…など
これまた不明なことばかりです。

昔、どこかの歴史掲示板で子孫と名乗る方が書き込みしておりましたが、これも真偽は不明です。

個人的には土佐でそのまま無死んだか、上記の満濃説がまだ「らしい」かなとは思いますが、
確証はまったくありません。
0289人間七七四年
垢版 |
2009/12/17(木) 17:06:40ID:/Z7HVDuh
>>282
おそらく畿内の戦乱はドロドロした金や権力絡みがほとんどなので、
普通の人にはキナくさく思えてしまうのでしょう。
個人的に好きな時代なんですけどね、戦国前夜って。
0290人間七七四年
垢版 |
2009/12/17(木) 19:00:10ID:aTk9LKkw
>>288
讃岐の南端にいたのは本当としても分家の者じゃないかと思う。
長宗我部が引き取るにしても家臣団まるまるというわけにはいかないだろうし、途中で脱落したのかも。
家臣たちは一旦土佐に行ったものの政治的な事情か知らんがまた讃岐に戻ったとかいう話も。
宗家は所領を与えられたから長宗我部の統治時代は土佐にいただろうがその後はどうなったんだろうか
0291人間七七四年
垢版 |
2009/12/18(金) 01:06:52ID:2HYZAIJQ
>>290
家老の河田と三野は生駒から知行を得てますね。

信景自身は正直不明としかいいようがありませんね。。

ただ土佐に当てがないのなら讃岐に帰るほうが妥当かと思います。

もしくは岩国の安芸香川氏を頼ったということも考えられなくはありませんね。

信景自身、毛利とも友好を結んでたふしがありますので。
0292人間七七四年
垢版 |
2009/12/18(金) 01:17:35ID:LEn3XZbT
>>291
香川宗家のことが書かれた土佐藩の史料ってないのかね…
陪臣になるなり郷士になるなり
0293人間七七四年
垢版 |
2009/12/18(金) 18:20:47ID:Hwmkh8k0
信景と分家の者など一部の家臣が土佐へ
長曽我部の後継者争いか山内の支配か何かの影響で土佐にいられなくなる
讃岐に戻ろうとするも生駒氏の支配体制は確立してて居場所はない
仕方なく讃岐や阿波の山奥に定住
ってところかね
0294人間七七四年
垢版 |
2009/12/20(日) 03:10:58ID:OF8RZW9/
>>292
香川傍系の一族は土佐の森郷に移り住んでいたという伝承があります。
そういった所を頼ったのかもしれませんね。
0295人間七七四年
垢版 |
2009/12/20(日) 09:38:35ID:N96zKgK1
讃岐の城を簡単に攻略する方法

うどんを差し入れる

水不足で降伏
0296人間七七四年
垢版 |
2009/12/20(日) 10:33:08ID:sEWaxAKe
>>294
土佐国森郷は親の故郷です
香川傍系の苗字なりが判れば調べますよ
0297人間七七四年
垢版 |
2009/12/20(日) 12:55:32ID:OF8RZW9/
>>296
ちょっとググってみたんだけど
これのことじゃないかな?

川田景村
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E7%94%B0%E6%99%AF%E6%9D%91

床鍋の森
http://www.reihoku-k.jp/kyoboku/tosa/36.html

けどまたなんで讃岐から土佐へ行ったんだろう。
なんか和田氏の一族とかもあのへんに移り住んでいたよね。>森郷
細川氏の命令か何かだろうか。
てか森郷の領主って森氏だっけ?
山内時代はどうなったの?
0298人間七七四年
垢版 |
2009/12/20(日) 17:54:12ID:w9XGYuAq
>>297
土佐に行ったのは香川氏が早々に長宗我部氏に下って同盟者として四国統一に関わってたので
秀吉の四国攻めの結果退去させられたから。この頃には細川氏の影響力は消えている。
長宗我部と同盟したのは単に攻められて持ちこたえられなかったというのもあるだろうが、
永正時代の細川政元の養子の後継者争いの頃から続く阿波勢力・三好氏との確執も大きいだろう
0299人間七七四年
垢版 |
2009/12/20(日) 21:25:01ID:oIRLKg4B
>>298
>>297の話は川田氏についてだろうから、土佐に行ったのは細川氏との関係?っていうのはごくごく普通な考えでは。

土佐は京から遠いし、細川家だと当主はほぼ在京、いろいろ大変な面もあったんだろうなと。
守護代(又守護代)の力が強くなりすぎないように在地の土豪と競わせるような
手を打っていたのでは、という趣旨の論文も読んだ記憶がある。
0300人間七七四年
垢版 |
2009/12/20(日) 22:35:23ID:rBaOBzs6
>>288
関係ないかも知れんが長尾の前山辺りで庄屋をやってた川田氏は阿波から来たそうだ
0301人間七七四年
垢版 |
2009/12/21(月) 12:28:43ID:7rRUZTpt
>>297
川田氏が何故に土佐の森郷へ来住したのか詳細は不明ですが、
他の方のおっしゃるような理由が主因なのでしょうね。
天正15年の地検帳には森郷の相川名(現在の土佐郡土佐町相川)に
川田染衛門はじめ川田一族の名が見えます。また床鍋の森にある
川田氏が勧請と伝わる河内神社には文亀2年と文禄5年の棟札が
あるとの事です。もちろん現在でも当地一帯に川田姓の家があります。

森郷和田村の和田氏は和田義盛あるいはその弟の後裔といい、応永
初めに讃岐を経て来住といいます。越後守義宗の代に北隣の本川郷に
移り、子の義清は長宗我部氏に仕えて本川五党に数えられました。
天正15年の森村地検帳の和田名に和田氏の名が見当たらないのは
既に本川郷に移住していたからかも知れませんね。
ちなみに和田氏は今でも土佐町地域では結構ポピュラーな苗字です。

また、森郷領主の森氏ですが、6代・森頼清が豊後戸次川で戦死、その
子孫は長宗我部氏没落と共に現在の高知市瀬戸で帰農したようです。
山内藩政時代の森郷は中心地の土居に大庄屋、諸村には名本が置かれ
ました。幕末近くまで大庄屋は和田氏が勤めたようですよ。

以上、ご参考になりましたら幸いです。
0302人間七七四年
垢版 |
2009/12/21(月) 20:14:28ID:c15kJg0f
細川といえば長宗我部の侵攻の時にいた細川頼弘と細川氏政ってどういう経緯で西讃にいたんだろう。
香川氏の臣下だったそうだけど土佐と比べると細川氏の支配体制にがっちり組み込まれて、実際畿内の政争に関わり振り回された讃岐で
すぐにその権威をないがしろにはできないと思うんだがなぁ。
0303人間七七四年
垢版 |
2009/12/22(火) 05:39:12ID:pA1507n9
>>301

いやーすごいですね。歴史って。

けど川田氏がなぜに土佐の森にいったかは不明ですね。。


>>302さんの疑問もたしかに…。。


讃岐って不思議なことだらけですね。


0304人間七七四年
垢版 |
2009/12/22(火) 05:46:43ID:pA1507n9
てか森さんまで戸次川で戦死とは…


仙石、まじでイラつくわ。


自分のことだけ考えて小田原で復帰とは。
0305301
垢版 |
2009/12/22(火) 14:39:08ID:xAOgP1Ex
>>303,304
川田七兵衛の森郷来住が文明年間といわれているので
応仁の乱の波及で・・・とも考えられる位で詳細な理由までは???です。

仙石には全くもって同感です。
我がご先祖も戸次川では家臣を失っておりますので。
0306人間七七四年
垢版 |
2009/12/22(火) 15:28:37ID:pA1507n9
>>305
森城って今もなにか残っているのですか?
今度、本山城に行こうと思っているので、ついでに行けたらいいなと思ってます。
東京人なもので地理に疎いのですが、今は昔と違い、高速が通って行きやすくなったみたいですね。
0307192
垢版 |
2009/12/23(水) 15:15:14ID:DFIC6tfM
>>274
遅ればせながら、ありがとうございます。
>その他、鵜足の戦国期のマイナー豪族だと、三谷氏、小川氏、高木氏、増田氏、長尾氏など。
このあたりの名前は初耳でした。
0308305
垢版 |
2009/12/23(水) 23:26:26ID:4Ri8qVXi
>>306
森城については森氏ご子孫の方も行かれたようですね。
      ↓
http://www2.plala.or.jp/tyosokabe/shiseki001.html

本山から行かれるのでしたら、国道439号を車で15分も走れば土佐町土居です。
国道から右手に土居の集落が見えたら、その左手の山が城跡です。
花瀬山といわれる山で、その中腹には私の先祖の墓もあるので時々行きました。
旧地名に「城山」等は残るものの、切り崩されて植林されています。
土佐町の調査でも遺構は確認されていないようですよ。
森氏の菩提寺・鏡峯寺は土居集落の北東側に残っています。(新しい建物ですが。)
それから長宗我部氏没落後の森氏の詳細ですが、戸次川で戦死した頼清の子の
頼国は山内一豊の土佐入国で巡検使となった山内内記から仕官を勧められました。
しかし頼国の母がこれを固辞、頼国は森喜右衛門と改名して浪人になったとも
天保9年の森郷郷士・森綱次郎の先祖書指出に記されていました。

和田氏の城跡でしたら、土塁や堀切が現存していますよ。
行かれる際には土居から南越トンネルを通って早明浦ダム湖岸経由で和田の集落、
和田小学校を目指して下さい。和田氏が鎌倉から勧請したという子守神社を挟んで
本城と西城があります。本城には和田若狭守の墓もありましたよ。

上記が土佐町域の比較的判り易い城跡です。国道部分はかなり整備されて楽に
なりましたが、それ以外の道は林道並みなので走行にはご注意下さいね。
行かれる前に土佐町教育委員会にも確認しておいたほうがよいかと思います。

また、私が本山城に行った時は公民館(コミュニィティセンター)に駐車させて
もらいました。近くには東光寺があり、本山攻防戦での長宗我部側戦死者を供養
してありますので、立ち寄られてみては?
本山氏最後の抵抗地・瓜生野への道も結構な林道区間がありますので、行かれる
のでしたら充分にご注意下さいまし。


0309305
垢版 |
2009/12/24(木) 01:58:55ID:eTLToHGX
追伸です。
例の川田氏関連の床鍋の森や河内神社のある相川地区へは
土居地区からすぐです。こちらは判り易いかと思います。
そう言えば、直接関係があるかどうかは判りませんが、土佐町の
教育委員にも川田さんがおられたかと。
ちなみに土居の中心部辺りの事を今でも「森」と呼んでいますよ。
0310306
垢版 |
2009/12/24(木) 13:05:38ID:1qV0fNC1
>>309
どうも色々とご丁寧にありがとうございます。
10年くらい前に瀬戸川渓谷には行ったことがあるのですが、
あの辺りは、色んな伝説があって不思議な感じがいいですね。
たしか瀬戸川渓谷には安徳天皇の言い伝えがありましたよね。
森氏は白髪神社の伝説など、元ネタは山賊退治かな?とか思ってしまいますね。
しかし現地の方はやはりお詳しい。
こっちではとてもそういう資料はお目にかかれませんが、
案外、色々な地元の言い伝えをつなげていけば、色んな謎が解明されたり、
以外な豪族同士の関係性が浮かび上がるかもしれませんね。。
あと家紋にも興味があるのですが、森氏、和田氏、川田氏は伝来の家紋なのでしょうか?
森氏=?
和田氏=三つ引両に檜扇?
川田氏=不明(香川氏のままなら巴九曜)
また、森郷のその他の豪族などにも興味がわいてきました。
地理に疎いので色々まわることは困難かもしれませんが、
本山城と森城、和田氏の城跡(和田城?)には行ってみたいですね。
あと床鍋の森の関連で見たのですが、川田八幡って徳島県にもありますよね?
そう考えると自然な流れとしては阿波川田→讃岐安原→土佐森と流れたことになりますが、
もしかしたらそういう宗教絡みの事情も、移動の理由かも知れない、、なんてことも思ってしまいます。
0311306
垢版 |
2009/12/24(木) 15:09:02ID:1qV0fNC1
追記

ちょっと色々調べてみたました。

川田景安が岩部に川田八幡の分霊を仰いだのも文明年間…
同時期に森郷に景村が移住したのも同時期…

この徳島の川田八幡は阿波忌部氏とのつながりの深い神社だそうです。
また、室町時代には同地の材木、藍などの生産、輸出が有名とあり、
移住の背景にはそういった関係もあるのかも…
といったら飛躍しすぎでしょうか。

あと土佐の話に戻りますが、
滝山一揆で有名な滝山とは瓜生野のことでしょうか。
本山行きは高石左馬助の足跡を訪ねて…という意味合いで行きますので、、

しかし瓜生野=滝山だとすると、なんとも因縁の深い地ではありますね。

なんだか聞いてばかりですいません。
0312309
垢版 |
2009/12/24(木) 16:43:20ID:eTLToHGX
>>310
いえいえ、どういたしまして。
土佐町にご興味を持っていただき光栄です。
私は土佐を「脱藩」して幾年月の浅学者ですが(笑
山間ゆえの良さもまたあると思っております。
我が先祖が江戸期に入って以来、言わば「第2の故郷」でもある訳ですしね。

森郷に来住した頼実は近江守を名乗り、近江国・鏡山城主との事ですよね。
また、例の白髪神社も有名な近江の同社から勧請したといわています。
近江でそれに該当するのは蒲生郡竜王町鏡の鏡山城(星ヶ崎城という呼称が
現在では一般的です。)。その城主は鏡氏で近江源氏・佐々木氏の流れです。
太平記でも有名な佐々木判官(道誉)の兄・貞氏に始まるともいわれています。
森郷の森氏がその末裔だとすれば家紋もそれに準ずるはずですが、未確認
です。高知の森さんの中には「上がり藤に左鎌」紋の方もいらっしゃるとか。
土佐・森家ブログの管理人さんにも尋ねてみなくては(笑
川田氏ですが、例のWikiでは「左三つ巴」とありますね。これも未確認です。
和田氏も同じく未確認ながら、「三つ引両」系と共に「七曜星」の可能性も
あるかも知れません。家紋ではあまりお役に立てず残念です・・・。

森郷の他の主な土豪は、瀬戸川のある瀬戸(せど)には西内氏、古味に
川村氏。南川(みながわ)の山野内氏は森氏を敗退させた事もあり、
江戸期に藩主・山内氏が土佐に入国すると山中と改姓、代々が南川の
名本を勤めました。南川にその大久保城と檜尾(ひお)城の跡があるよう
ですが、そちらへはまだ行った事がありません。

川田八幡の件、香川景兼兄弟が阿波麻植郡川田荘を攻めた際に川田
八幡に祈願し戦勝して川田に改姓、讃岐安原のち岩部に居して勧請した
ともいいますから、おっしゃる通りの流れになりますよね。それが嘉吉から
文明年間といいますので、畿内での抗争も絡んでいるのでしょうか。
ちなみに森氏の来住は文安年間といいますから、川田氏とも何らかの
関係があったりしたのかも知れませんね。





0313306
垢版 |
2009/12/24(木) 18:34:04ID:eTLToHGX
>>311
貴殿の「追記」を拝見せずに書き込んだもので前後して申し訳ありません。

阿波・忌部氏まで辿り着きましたか。
忌部氏については別件で私も調べているのですが、なかなかに不可思議な
一族でもありますよね。川田八幡も関係があったとは知りませんでした。
材木関連で気になったのは森郷も長宗我部時代にその産地として着目され、
結構な奥地にも森一族と思える人物が配されていた形跡がある事です。
もしかすると川田氏もその方面に明るい人物だったのかも知れませんよね。
それから川田氏は森氏の傘下でもあったようですよ。

高石氏とはまた・・・古い友人が嫁いだのも本山の高石家だったなぁ(笑
滝山一揆で敗退した左馬助の逃走路が瓜生野で、滝山は本山町北山に
あります。本山城跡のある中心部から、まずは「滝山の滝(大樽の滝)」を
目指して下さい。吉野川対岸へ本山大橋を渡り、東へ車で数分で北山地区
です。そこから栗ノ木川を遡る舗装林道で数分走ると最奥の細野です。
私が行った時には集会所に駐車させてもらいましたが、もう少し奥まで車で
行けるようですね。私は滝を見に行ったのですが、結構切り立った岩崖で
その上方に一揆勢が立て籠もった岩屋があると聞きました。展望台まで
行かれた方のHPをご参考までに。
         ↓
http://www.kcb-net.ne.jp/jjjsss/takiyama/takiyama.htm

また、本山中心街からのルート取りのご参考にどうぞ。
         ↓
http://www.reihoku-k.jp/kyoboku/motoyama/22.html
http://www.reihoku-k.jp/kyoboku/motoyama/26.html

敗れた左馬助は西へ山越えで汗見川沿いに瓜生野へ逃走、伊予から讃岐へ
逃れたと伝わっています。
ちなみに我が一族ももともとは一領具足、本山近辺の郷士となり、のちにこの
一揆の報告書を土佐藩庁に提出している事に因縁を感じています。
0314311
垢版 |
2009/12/26(土) 19:34:41ID:vlGSZpoL
>>312
>>313
さっそくの回答感謝致します。

家紋の件、お気になさらないでください。
なんとなく、家紋が同族間でどう変化していくのかが気になっただけですので、、

土豪について、ちょっと気になりましたのが
「山野内」家が「山中」に改姓したのはやはり
山内家に対しての避諱のようなものなのでしょうか。
昨今、山内氏は「やまのうち」ではなく「やまうち」と呼ばれているというのが定説になっているようですが、
当時より「やまのうち」との呼称も存在していたのでは、、などと考えてしまいました。
単に「山」と「内」を使うのを避けただけかも知れませんが、、

城跡等については、森城も含め
戦後の植林の影響で遺構が失われた所もずいぶんあるのでしょうね。
仕事の絡みで山梨の山村へ行ったとき、住民の方が
「今は中国から安価な木材を大量に買っているので林業がなりたたなくて、
戦後植林された木々も手入れされていない」というのを聞き、
なんだかせつない気分になったことを思い出してしまいました。

川田氏についてですが、床鍋の森や八幡の杉、>>301の内容など、
讃岐から来たよそ者にしては、森一帯に結構な土地を持っていたようですね。
これが不思議でなりません。讃岐でもそこまで強大な勢力ではないので、、
いきなり召しかかられたよそ者が、数代で多くの知行を貰っていたら
他の家臣や在地の有力者なども納得しないと思います。
やはり、ここは森氏傘下の「部将」としてではなく
技術などを通じた職人的な位置づけだったと考えるほうが自然な気がしますね。
とくに城なども持っていた形跡もなさそうですし。

滝山についての詳細、ありがとうございます。本当に助かります。
また、友人の方の繋がりなども聞けてよかったです(笑
あと、土佐藩では長宗我部遺臣が郷士になったと聞きますが
あの辺一帯の在地の豪族、有力者、上記の森氏、本山氏やその旧臣などで帰農していない家は
ほとんどが郷士となったのでしょうか。
0315人間七七四年
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2009/12/27(日) 22:33:04ID:Lsqk+an5
土佐って讃岐や阿波みたいに畿内の争いに深く関わってなかったの?
0316313
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2009/12/27(日) 23:18:57ID:Z9eSbT3u
>>314
これはまた、ご丁寧に。

山野内氏の改姓はご指摘通り山内家への憚りからという説と
土佐藩側の意向からという説があります。
森郷の近隣の本川郷に割拠した本川五党が和田氏・筒井氏・
伊藤氏・中ノ内氏・山内氏で、そのうち山内氏は前述の山野内氏の
事、あるいは同族と考えられ、土佐藩主・山内氏と同祖ともいいます。
こちらも土佐藩の意向により山中に改めたといわれていますね。

川田氏については私も前述のように材木関連に明るかったのでは
ないかと思っています。おっしゃるように「部将」というよりも職能を
もって森氏に仕えたのでしょうね。
土佐町宮古野にある森郷の白髪神社ですが、それ以前に森氏が
近江国から土佐入国の際に最初に勧請した地は本山郷(本山町)の
白髪山。ここは江戸期には土佐藩の御用材木の御留山となり、檜等
を伐り出して吉野川を利用して阿波経由で大坂まで搬出された地でも
あります。もちろんそれ以前からそのルートは利用されていたでしょう。
となると、材木資源にも注目していた森氏と搬出経路にあたる阿波の
川田氏との関係も想像に難くないですよね。その縁で川田氏が森氏に
招請されたのではないかと考えられるのですが如何でしょうか。

森郷や本山郷の在地土豪も長宗我部時代にはその傘下となった訳で、
かつては対立していた本山氏も長宗我部家臣となっていますよね。
長宗我部氏没落時に森氏のように在地を離れた者もいるようです。
残った者ですが、本山采女の系統は土佐藩の参勤交代経路の立川
上名(大豊町)の番所の道番と庄屋を兼ねたり、同じく立川下名の庄屋
と番所道番は在地土豪の川井氏、その他の者も村役人や庄屋、上層
農民になっていますね。
ご存知のように郷士という身分は土佐藩に取り立てられてなるもので、
江戸初期には長宗我部遺臣ばかりでしたが、遺臣の全てが郷士になった
という事ではありません。これは森郷等にも当てはまる事です。
郷士は随時募集されましたが、郷士株を売買できた時期もあり、先祖が
士分でなくても郷士になった者もいます。逆に郷士でなくなった者も
あります。幕末に郷士だった者は藩全体で1,000名余りです。
その中で森郷の者を全て確認していませんが、在地土豪の子孫で庄屋や
上層農民だった者は他の郷と同様に郷士格の者となっていたでしょうね。
ちなみに森氏の重臣だった波越(なみお)氏はやはり戸次川で戦死、
子孫は幕末の土佐勤皇党に加盟していており、今でも町内に波越姓は
残っています。

都会でも地方でも歴史的遺構は時の波に呑みこまれたかのように消えて
しまって寂しい限りですよね・・・。



0317人間七七四年
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2009/12/28(月) 02:12:36ID:Ad5FkF7Y
>>315
土佐も細川氏の領国で応仁の乱には長宗我部・大平・安芸ら諸氏が
在京したようですが、土佐での細川氏の権威は徐々に失墜。
その頃、下向してきた一条氏を求心力として国人領主の間では
一時的に平和が訪れたものの、畿内での細川氏内紛に絡んで
守護代一族も土佐から離れると、再び国人領主間での争乱状態。
土佐での細川家有力被官だった長宗我部氏とて所詮は寺奉行程度、
それも他の国人領主らに反長宗我部連合を組まれるほどで阿波の
三好氏らほどの力もなく、畿内進出の野望があったとしても無理
だったのでは?
0318人間七七四年
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2009/12/28(月) 06:42:29ID:m+yVfXlB
>>317
へぇ、土佐にいた細川氏は早いうちに引き揚げて影響はなくなってたってことか。
なんで土佐には京兆家-内衆/同族体制ってのが確固とした形で築かれなかったのだろう
讃岐や阿波では畿内の争いでも守護や守護代は宗家や分家が在国して引き揚げるってことはなかったわけだけど
引き上げざるを得ないほど統制が取れてなかったのかな?
戦国時代に入る前も土佐の支配は弱かったのかな?
0319人間七七四年
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2009/12/28(月) 21:16:55ID:cgDy+eEM
横レスですけど。

>>318
単純に遠いから、ではないかと思ってます。
細川氏が四国統一できなかったというのもあるかもしれませんけれども。

京兆家から見れば土佐は飛び地ですし、畿内から近いとも言い切れません。
讃岐は引き上げるも何も有力家臣の根拠地になっていますから他に行く宛もないと思うのですが、
侵略地とも言えそうな土佐では家中で内紛が起これば求心力はなくなりそうです。
河内畠山家にとっての越中と同じような位置づけとは言えないでしょうか??
0320人間七七四年
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2009/12/28(月) 22:54:37ID:Ad5FkF7Y
>>318
再びの補完レスです。
>>319さんもおっしゃるように地勢的なことが主因ではないかと考えます。
応仁の乱では土佐の国人衆も上洛していたものの、讃岐勢や阿波勢に比べて
在京期間は短かったと思われます。それには経済的な事情もあったでしょう。
京兆家の支配体制にしても讃岐のように細川氏と共に入国した部将に分郡の
支配を任せたりするような形跡もありませんし、また阿波の三好氏のように
かなり有能な家宰的な国人も育たなかったと。その為に派遣した守護代の
細川氏ですが、結局は土佐の国人衆をまとめ切れなかった事もあるのでは?
0321人間七七四年
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2009/12/29(火) 06:49:34ID:ZKWJ1OES
なんでキャリアかえて無駄な自演する
補完なら補完でいいだろよ
文体一緒なくせに
0322317
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2009/12/30(水) 14:41:29ID:1c7zjpSo
>>319の補完レスは私ですが、横レスされた>>319さんとは別人ですよ。
おっしゃるように「無駄な自演」などする必要性もないですしね(笑
0323317
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2009/12/30(水) 14:42:56ID:1c7zjpSo
間違えてしまいましたので訂正いたします。

>>320の補完レスは私ですが、横レスされた>>319さんとは別人ですよ。
おっしゃるように「無駄な自演」などする必要性もないですしね(笑 」
0324319
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2009/12/30(水) 15:29:01ID:/fhLQRvg
私もなんで>>319の内容で自演扱いされてるのかわかりませんが、これも自演カキコ扱いされるんでしょうかww
それはさておき余計なレスで変な流れになってしまい失礼しました。

失礼ついでに、細川氏の話を。
室町期に伊予の新居、宇摩二郡は幕府裁定で細川氏の分郡守護地となっていたと思いますが、
宇摩郡が備中細川氏(野州家)、新居郡が京兆家だったでしょうか。
なのでこちらも京兆家にとっては讃岐から飛び地と言えそうです。

土佐同様に細川氏の統制はとれなくなって、備中細川氏の守護代(?)石川氏の一族が
新居郡に入り、さらに金子氏が台頭して野々市原の合戦に繋がっていく、と。
0325人間七七四年
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2009/12/30(水) 17:21:09ID:hxw7VSE2
>>324
詳しくないので誤ってるかもしれませんが、分郡守護は宇摩郡が野州家、新居郡が備中守護家で、
石川氏は備中守護家の守護代として新居郡にいて、備中の各守護代同様備中守護家の衰退・断絶により
実権を握り、そしてその後国人が台頭したというのが自然でしょうか。
0326人間七七四年
垢版 |
2009/12/30(水) 23:29:06ID:/fhLQRvg
>>325
適当に書いてしまったみたいで、野州家と備中守護家は別物なのですね、失礼。

石川氏は16世紀初頭くらいに通昌が備中から来たという
「澄水記」の裏付けを取られていた方がいたはずですが、
それまでの間の支配はどうなっていたのか……。

ただ、備中守護家も早くに衰退しているので京兆家支配下でなくてもやはり細川氏からは離れてしまいそうですね。
0327人間七七四年
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2009/12/31(木) 19:29:50ID:8hhXomzB
外野の雑音など気にせず続けてください。
傍から見ている者ですが大変興味深く読んでいます(個人的には伊予西園寺家に興味があるのですが)

まあ、このような書き込みも自演呼ばわりされるのでしょうが・・・
0328人間七七四年
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2009/12/31(木) 21:01:53ID:NARerO0U
そうですよね。
面白いスレだと思いますし、有名無名の様々な武将や土豪の動きまで
判りますので、個人的にも楽しみにしています。
このスレに関わる方々、どうぞ良いお年をお迎え下さいませ。
0329人間七七四年
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2010/01/09(土) 11:52:36ID:cMahSWIq
新居・宇摩って讃岐との経済や政治的な結びつきは深かったの?
讃岐弁の境界が新居浜市というけど。
0330人間七七四年
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2010/01/10(日) 21:02:26ID:4Z+eaFL2
>>329
せっかく上がってたので(?)書いてみる。

詳しくは、多分話を鎌倉幕府滅亡まで遡らないといけないが簡単に説明すると、足利義満の頃に幕府内部の争いがあった。
幕府の反細川派は一気に細川頼之を滅ぼそうとするが、機先を制した頼之が伊予に侵攻し、反細川派の河野通尭は敗死。
将軍義満の仲介で細川氏に伊予東端の新居、宇摩二郡を分郡守護として割譲を条件に細川、河野両氏が和睦した
(その後も伊予は度々細川氏の介入を受け続けるのだけれど)。
以後、戦国時代に至るまでこの二郡は細川一門の支配下にあったので、近隣で同じく細川支配下の讃岐とは
親しい地域であったということは言えると思う。
(元々地理的にも予讃の国境は四国の中では平坦な部類なので関係が浅かったとは思えないけれど)

なお、何故かこの二郡に河野宗家と争いを続けた分家(予州家)の根拠地があったとするものがあるが、
「河野家譜」で通尭の遺児の一人通之の烏帽子親に頼之がなったとしているのが影響しているのかもしれない。
この名乗りも普通に考えれば河野氏の通字「通」を上に、頼之の「之」を下に置いていることから、
偏諱を受けた訳ではないと理解した方がよさそうだけれど。
通朝、通尭と二代続けて細川氏に敗死している恨みもあるだろうし。
0331人間七七四年
垢版 |
2010/01/11(月) 00:20:49ID:gVexY4EY
>>330
>>325によると備中守護家と野州家が支配してたようだけど
讃岐と言語が似かよるようになったのは人や物の交流の結果なのかな?
上の二つの家が香川氏に対して二郡の統治に関して協力や指図をした例はあるんだろうか
0332人間七七四年
垢版 |
2010/01/11(月) 19:01:40ID:qvlRZKUY
>>331
あー、確かに>>330は地理的、政治的には条件が揃ってた部分はあるってことにはなるけど、
強い証拠とは言えないかも。
ただ、京兆家が弱体化するまでは、野州家も備中守護家も強く独自の動きをとる事はなかったろうから
伊予東部が讃岐の動向に左右されることは多かったのではないかな。

逆に言えば細川氏の力もせいぜいそれも室町期の200年位のことなので、それがどの程度影響しているのか
そもそも言葉がどの程度新居郡まで影響しているのか、という所でもありますし。

むしろ、上方へ向かう沿岸航路の影響の方が考えられるのかな?
新居郡からであれば沿岸部を東へ向かい讃岐を経由するのだろうけれど、
越智郡より西からであれば芸予諸島沿いに安芸、備後へと抜けるのではないかと思われるので。
0333人間七七四年
垢版 |
2010/01/12(火) 00:27:58ID:mhkgBvs7
京兆家の指示で河野氏に対する防衛策は取ってたと思うけど、
讃岐から移民させたりはしたのかな?
0334人間七七四年
垢版 |
2010/01/12(火) 01:49:34ID:lynUSYF9
方言でいうと香川徳島は似てて関西より、愛媛は中国より、高知は独特

これはやはり室町時代の頃の影響なのかな。
0335人間七七四年
垢版 |
2010/01/14(木) 13:41:49ID:7FHuz5DW
>>334
細川京兆家は内衆(重臣)の一族を畿内や他の各地に行き来させて手足のようにしてたから
言語的な影響は大きいと思う。讃岐はとりわけ京兆家自身が守護を勤めてたし。
実際に讃岐弁はイントネーションが室町時代の京に近いとか。

阿波は近世以降の影響も強いみたい。
土佐が独特なのは細川氏の支配があまり行き届いてなかったためか。
現地にいた細川氏も守護じゃなく守護代のみ、しかも頼春流(頼之の兄弟)じゃないし
在京することのあった大平氏もあまり名前が見られなかったり、畿内の国の守護代になることもなかったりと
内衆と呼べるかあやしい。
0336人間七七四年
垢版 |
2010/01/16(土) 06:57:29ID:CEykAERd
南海通記で細川四天王とされた香川奈良香西安富の四氏の所領だけで讃岐の大半を占めるからなぁ
0337人間七七四年
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2010/01/17(日) 08:23:12ID:Qp+hJEBy
内衆とされる者に限らず、讃岐の主な国人は被官化されて京にのぼったりもしてたようだ
0338人間七七四年
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2010/01/17(日) 11:46:49ID:eSWEQJiQ
天霧山,甲山と高瀬にある山、すべて香川氏の支配下の城のあった山が
ことごとく採石場になってるけど何か意味があるのかな?
いつ頃から崩しだしたか分からないけど不気味だ。
北朝側の細川氏の家臣だった事と関係あるんですかね。
0339人間七七四年
垢版 |
2010/01/17(日) 17:45:41ID:Qp+hJEBy
>>338
単にどっかの業者が目につけただけなんでは
しかしあんあ重要な史跡を…
0340人間七七四年
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2010/01/20(水) 05:37:46ID:gx8MFjWu
>>338
20年くらい前から採掘されてた気がする。
0341人間七七四年
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2010/01/20(水) 18:07:09ID:JTVpjY0B
三好は
四国なんか捨てて
畿内に勢力集中すれば良かったのに
0342人間七七四年
垢版 |
2010/01/20(水) 22:35:04ID:gx8MFjWu
>>341
させてたじゃないか。
讃岐や阿波の豪族は在京の者を立てて兵役を課してた。

言っておくが信長の野望みたいなのは無理だぞ。
0343人間七七四年
垢版 |
2010/01/22(金) 19:02:05ID:DrASonKv
畿内に進出すると、寺社勢力との軋轢がどうしても生じる。
その点四国は畿内に比べると寺社勢力の力が弱いし、(0では無い。)
水軍を使えば陸路より素早く兵を送り込める。
わざわざ権益を捨てる理由は無いと思うが、どうよ?
勢力のピークの時期も短いし、完全に畿内を掌握出来てなかったのが実情ではないのかな?



0344人間七七四年
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2010/01/25(月) 22:57:24ID:OP3pc+Q0
天霧城包囲戦以降といえば篠原長房だけど、
薬師寺元一の反乱の結果讃岐守護の地位が阿波守護家に渡されて以降の讃岐って
阿波守護家の実効支配を受けてたの?
大内義興の上洛でフイになったりはしてない?
0345人間七七四年
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2010/01/29(金) 12:06:13ID:eEEJfBSx
>>341
兵力供給源でもあるし、根拠地を捨てるのはパスポート持たずに外国を放浪するようなもんだなw
0346人間七七四年
垢版 |
2010/01/31(日) 23:49:01ID:KbfOWgOd
>>344
持隆の伊予遠征の際、阿波淡路讃岐の兵を率いてるなど
まったく影響力がなかったわけでもないみたいだけど、
実質的には管領家の影響のほうが強かったと思う。
香川氏などはずっとそうだし。
0347人間七七四年
垢版 |
2010/02/01(月) 00:58:51ID:ULqWPzuL
>>346
その遠征は晴元が管領に決まって以降だね。
義興・高国時代には東讃には義興に主君を変えた国人もいたようだけど、
香川香西安富のような有力内衆は高国の下で元の地位に戻れたのかな?
高国単独政権の1525年頃の京を描いた絵の解説本によると、
将軍の邸宅を香川氏の家の跡に持ってくるうんぬんってことが書かれてたけど、
これは単に洛中の別の場所に引っ越したんだろうか、
それとももう京に居場所がなく在地領主化してたのか…
0348人間七七四年
垢版 |
2010/02/01(月) 18:14:35ID:WMvCF8iR
>>347
内衆自体がフェードアウトしだした時期な上に
敵側だった三氏は讃岐に戻らざるを得なかったんじゃないかな。
てか三氏としても親族の相次ぐ討ち死にに嫌気さしてただろうし。
天文年間からは在地領主としてかなり自発的に動き始めてるよね。
けど香川香西両氏の三好嫌いは異常(笑
細川の管領の入れ替わりや三好への入れ替わりとかで
散々兵役課せられてブチきれたのかな。
0349人間七七四年
垢版 |
2010/02/13(土) 02:29:07ID:9RBsfT5K
ちょっと調べたけど遊初軒の戦いに至るまでに脱落してる者がいたり、高国の離反にも内衆の働きかけがあったりと
永正の錯乱でそれまでの内衆が一掃されたわけではないようだ。
当時の記録に香川上野介満景、安富新兵衛尉元顕などと個人名が記されてるから内衆の氏族全体が行動を共にしたようなことはなく、
その勢力もまだ健在だったってところかな。
となるとやはり高国政権の崩壊自体が画期かなー…

>けど香川香西両氏の三好嫌いは異常(笑
これについては、阿波守護家の反乱に対して政元が譲歩し、澄元の後見人の三好之長に立場を脅かされたのだからまあ当然というか。
細川成之が澄元の後見を従来の京兆家内衆に任せてればあれほどの混乱にはならなかったんでは…。
0350人間七七四年
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2010/02/13(土) 02:49:33ID:9RBsfT5K
あ、そもそも京兆家に反乱を起こした時点でそれは無理な話か…
0351人間七七四年
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2010/02/16(火) 22:04:20ID:px3pr8jm
土佐に武田勝頼あるいはその遺児が流れてきて土佐武田氏になったっていうのはマユツバかな
うちの親戚がソレなんだけど
0352人間七七四年
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2010/02/16(火) 23:51:00ID:u93V0cgP
>>351
安芸か若狭の武田氏が流れてきたってほうがありそうな気が…
0353人間七七四年
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2010/02/17(水) 00:11:36ID:OxPsj9+5
>>351
大崎玄蕃のことですね。
ということはそのご親戚はこの会の会員さんでしょうか?
                 ↓
http://katsuyoritosa.web.fc2.com/index.html

けっこう色々なイベントやアプローチをしているようですよ。
彼を祀る大崎八幡宮は新興宗教です。
                 ↓
http://www.choseikyo.com/honin/index.htm
0354人間七七四年
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2010/02/17(水) 18:17:18ID:IXBZoCKX
その会の会員かは知らないけど子供のころからそんなこと聞かされてて嘘ばっかじゃんと思ってたら
ネットでそんな説があることを見たもんでつい聞いてみた
0355人間七七四年
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2010/02/17(水) 20:43:15ID:t2cJE6aO
源義経は大陸に渡りジンギスカンとなった。
明智光秀は家康に匿われ天海僧正になった。
豊臣秀頼は真田幸村と共に薩摩へ落ち延びた。
西郷隆盛は生存しており、ロシア皇太子ニコライ二世と共に帰国する。
0356人間七七四年
垢版 |
2010/02/17(水) 21:13:46ID:Dgcm5R5L
四国に武田一族がいるとしたら、鎌倉時代に
小笠原の手先としてついていったって考えるのが一番自然だろう
安芸武田の一族とか若狭武田の一族も十分ありうるけど
0357人間七七四年
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2010/02/17(水) 23:28:28ID:G+ShA8aA
ttp://www.city.kochi.kochi.jp/deeps/01/0104/rekishi/re0703.htm

一応高知市が書いてることだから資料のあるものなんだろう

奇遇だけど板垣退助は武田信玄の育て役と名高い板垣爺の子だか孫だかが掛川城主になった一豊に仕えてそのまま土佐藩にもついてきたってことになってるんだっけ
これもマユツバくさいけど
0358人間七七四年
垢版 |
2010/02/18(木) 02:21:36ID:qC5siVf8
>>349
香川、安富両氏討ち死の記録があるから内衆てか京都班は機能しなくなったんじゃない?
0359人間七七四年
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2010/02/18(木) 16:53:29ID:FdpxPqVM
馬場美濃の子孫も幕末土佐にいたな
わざわざ甲斐の山田舎から土佐の島山田舎に来る物好きな名将の末裔がそんなに多いとは
0360人間七七四年
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2010/02/18(木) 20:43:39ID:nUWnnTZY
>>358
政元暗殺の首謀者の香西氏なんかその後の畿内政権にも居続けたりするからその両氏だけ縁が切れるのは疑問
0361人間七七四年
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2010/02/18(木) 23:57:01ID:IPO2AXHe
源平の昔から落ちゆく先は決まっているじゃないですか。
だから「わざわざ」来る方もおられるのでは?
(真偽のほどは別として。)
0362人間七七四年
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2010/02/19(金) 18:48:01ID:dI9foh5k
「〇〇平」何て付いた地名は
殆どが平家の落ち武者関係
0363人間七七四年
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2010/02/19(金) 20:04:18ID:yD8cWmO0
土佐は源氏系の落ち武者が多いのかな
源希義が土佐に落ち延びてその末裔は吉良氏になってるし
0364人間七七四年
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2010/02/20(土) 02:30:50ID:KNv92I0r
「○○平」地名はもともと山間の平坦地形のことのようですね。

詳細な統計をとった訳ではありませんが、土佐でも源氏より平家の後裔を
名乗る家が多いようですよ。
0366人間七七四年
垢版 |
2010/02/20(土) 03:31:40ID:KNv92I0r
だとすれば、まんまと引っ掛かってしまいましたねw
0367人間七七四年
垢版 |
2010/03/06(土) 22:47:39ID:fAsr80hS
保守
0368人間七七四年
垢版 |
2010/03/12(金) 00:55:36ID:hu1bS8Sn
>>360
香西は完璧に京都と讃岐で別れたからでは?
一方、香川は立て続けに京都組が死んで本家まで危ういことになったことがあるし、
安富も大内絡んでから地元で手いっぱい。
香川・安富「もういいよ>京都」
0369人間七七四年
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2010/03/15(月) 08:36:24ID:aq6zLan7
篠原さんが「そうだ京都にいこう」と言いたげなようです
0370人間七七四年
垢版 |
2010/04/23(金) 19:56:40ID:qNKB3qbK
土佐での山内さん家の嫌われ方は異常です
0371人間七七四年
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2010/04/24(土) 02:30:37ID:jpHDn+2a
それって現代の話じゃないですよね?
0372人間七七四年
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2010/04/24(土) 08:17:42ID:AZ8OWJv7
大河で取り上げられた時にはそれなりに活用していたね>山内一豊&千代
実際に高知に行ってみると、地元の人に関心を持たれているのは
長宗我部でも山内でもなく坂本さんなんだなあ・・・と思うよ。
0373人間七七四年
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2010/05/10(月) 23:02:17ID:rUsyHWqc
>>351
鎌倉初期。
甲斐源氏の当主武田信義の嫡子一条忠頼が、頼朝に粛正されて
その遺児が土佐にやってきた。
次男の板垣兼信もアボーンされてる。
0374人間七七四年
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2010/07/09(金) 21:18:36ID:bMztBMom
夏草の賦に出てくる一条兼定と十河存保は酷く矮小化され過ぎなんじゃないか?
0375人間七七四年
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2010/07/09(金) 22:19:47ID:dL0XvBGO
主役は長宗我部なんだし仕方ないんじゃね?
0376人間七七四年
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2010/07/13(火) 20:04:37ID:xZ48M6kZ
だとしても一条兼定の扱いはかなり酷いと思う
幾らバカ殿でも普通他家の妻女をNTRしようとはしないだろう?
まあ、家臣の妻をNTRするのならO友宗麟の悪例があるけど・・・

それに兼定の復帰戦四万十川の戦いが全くスルーされてるのも頂けないな
司馬センセは四万十川の戦いをご存じなかったのかな??
0378人間七七四年
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2010/07/16(金) 22:05:00ID:IxUp2s/j
その小説を史実として鵜呑みにする奴がいるのが大問題・・・特に司馬遼は
0380人間七七四年
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2010/08/25(水) 02:08:49ID:LuFus0Je
河野水軍の子孫って愛媛と大分に広がっているよね。
0381人間七七四年
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2010/09/12(日) 20:33:03ID:eSoMpi8b
毛利と大友の抗争に巻き込まれたからその影響かな?
0382人間七七四年
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2010/09/13(月) 03:52:53ID:/KyP+wCC
愛媛はお膝元だから居ても当たり前でしょ?w
0383人間七七四年
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2010/10/03(日) 22:19:43ID:pVgoX0Zi
ポンジュース県のクセに生意気でちゅわ!?
0384人間七七四年
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2010/10/31(日) 22:06:44ID:r2RVzHXx
鳥坂峠の合戦の全容が解る文献が出たら本気出す・・・

0385人間七七四年
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2010/11/10(水) 23:32:52ID:dhgdo0XL
ゴキブリに火、作業場全焼 駆除の炎が建物に広がる
http://www.47news.jp/CN/201011/CN2010111001000865.html

>10日午前11時35分ごろ、香川県三豊市のしいたけ栽培農家で、
>ゴキブリ駆除のためアルコールをまいて火を付けたところ、ゴキブリが逃げ炎が広がり、
>鉄骨平屋のしいたけ栽培作業場約500平方メートルを全焼した。
>燃えたのは同市高瀬町、香川忠さん(64)方の作業場。

香川さん焼き討ち失敗…(´;ω;`)
0386人間七七四年
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2010/11/26(金) 12:41:53ID:OaKdDNEW
>261
伝承とかでは、現久万高原町の大野直昌とかが長宗我部にだまし討ちにされたとかあるが、
金子元宅が元親の影響下にあったとか、元親くらいだな、山越えようと考えて実行したのは。
土居清良とか清宗の逸話を考慮すると、
元親以前は、土佐〜伊予も四国西南部の海沿いっぽいし。
0387人間七七四年
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2010/11/26(金) 12:54:19ID:OaKdDNEW
>380
確証がなくていいなら、
伊藤博文だって、河野の子孫なんだぜ?
愛媛は本拠し、大分の森に来島氏がいくじゃん?
来島通康は、通直(ノブヤボでの初代)の実子という説もあるから、
河野の子孫を名乗る連中がいたんじゃねーの?
美濃稲葉氏が河野子孫を名乗ってるのが意味わからん。
0388人間七七四年
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2010/11/26(金) 20:17:28ID:D2tiUBai
河野通宣は河野通直の子
河野通直は河野通宣の子
0389人間七七四年
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2010/11/27(土) 23:34:30ID:6QVw1ytF
>388
牛福の通直は通康の子とかいう説もあるんだぜ?
0390人間七七四年
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2010/12/04(土) 13:55:06ID:wMR60lwO
ここの人に質問!

一宮ナリスケに娘っていたんですか?

俺の爺様の話だと、その娘のせいで当時城下町だったところの土地に触れれば破傷風におかされ指が腐り、水を飲めば、大腸菌かなんかの菌で腹痛をおこし死ぬって伝説があるのですが…娘の名前はイトらしいです詳しいかた情報よろしくお願いしますm(_ _)m
0391人間七七四年
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2011/02/21(月) 20:58:49.62ID:t0MsNQkS
河野水軍
0392人間七七四年
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2011/02/21(月) 21:59:40.69ID:4ZLAyvs8
>>387
一応美濃に領土持ってたっぽい
だから通盛は六波羅滅亡時番場から鎌倉に逃げれた
0393人間七七四年
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2011/02/25(金) 21:42:39.89ID:83Ut9RIW
村上の親分は河野水軍
0394人間七七四年
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2011/02/26(土) 16:55:36.17ID:2jVI1a1r
時代は違うが通盛君て京都いる間に伊予全てからそっぽむかれたの
0395人間七七四年
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2011/02/26(土) 19:58:04.26ID:SFbwPSGo
一時衰退していた河野家を通有君が元寇の時の活躍で盛り返した。(瀬戸内の三島水軍を率いて敵将を討ち取る大手柄)
0396人間七七四年
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2011/02/26(土) 22:44:47.08ID:F0pNdMi2
それが河野家の最後の光明であった
0397人間七七四年
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2011/03/01(火) 19:31:14.69ID:VKKrsIF0
河野通有は、海音寺潮五郎の蒙古来たるの中では国士無双として
描かれてるんだけどな〜。
河野通有の末子である河野通盛なんかは、太平記の中に頻繁に出てくる
勇将だし(蓮華王院の戦いを参照)、有力庶子家の土居・得能両氏が
敵対する中で、相当頑張った方だと評価できると思う。
河野通盛の孫の河野通堯(通直)なんか、もうその生涯がまさに波乱万丈。
田中芳樹の小説でいうならば、アルスラーン戦記の主人公並みの人物なんだけど
なぁ〜。マイナーだけど、河野氏は、結構いい題材になる人物を輩出してる
とおもうな〜。
河野通堯以降の河野氏は、確かに物足りないけど。。。
0398人間七七四年
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2011/04/29(金) 16:07:48.02ID:5gB5k6H4
燧灘二郎の「伊予河野一族」を読んだ。
なんだこりゃw
とんでもない駄作だなw
0399人間七七四年
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2011/04/29(金) 23:06:07.88ID:EhTbf2cr
>>390
一宮成助の娘って松永久秀の側室の?
0400人間七七四年
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2011/04/30(土) 16:50:24.37ID:Hdt/g2XO
土佐国なのに安芸氏とはこれいかに?
0401人間七七四年
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2011/05/01(日) 04:09:05.47ID:c2qUz0BY
>>400
土佐の「安芸」の由来は安芸氏の先祖「蘇我赤兄」に由来する…とか聞いたことがある。
本当かどうかはわかんないけどね。
広島は安芸は元々「阿岐」と書いていたみたいなんで
この2つ(安芸郡と安芸国)の名前が一緒なのは単なる偶然かなと思う。
0402人間七七四年
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2011/05/10(火) 18:31:17.79ID:ytoU+SKB
戦国三国司に数えられることもある阿波国司一宮家
0403人間七七四年
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2011/06/02(木) 10:13:53.47ID:oyj+iOEh
残りのうちの1つは国司元相さんとこかい?
0404人間七七四年
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2011/06/02(木) 18:17:26.61ID:oSi3vv5M
>>403
飛騨国司姉小路家、伊勢国司北畠家、土佐国司一条家の3家
ごく稀に一条家の代わりに阿波国司一宮家が入ることがある。
0405人間七七四年
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2011/06/04(土) 02:15:25.13ID:d9+6FHjh
誰か長宗我部モグ親の画像ください
0406人間七七四年
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2011/07/19(火) 23:45:33.64ID:gXEs0/cs
あげる。
0408人間七七四年
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2011/07/31(日) 19:26:08.39ID:iFHV6Vhv
元親に各個撃破を許した四国大名・豪族の連携の無さは嘆かわしい
0409人間七七四年
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2011/07/31(日) 22:36:00.10ID:eL8sDgSR
十河存保&仙石秀久タッグも長宗我部に敗北したな
0410人間七七四年
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2011/08/14(日) 10:06:32.33ID:fzRh0Sw9
一条とか西園寺とか勧修寺とか公家系の
勢力が多いのは何故
0411人間七七四年
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2011/08/18(木) 23:47:42.13ID:X07mezNx
おちんちん
0412人間七七四年
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2011/09/25(日) 15:10:53.83ID:8rMsKkuD
香川氏は四国征伐後の改易されたかとどうなったのですか?
0413人間七七四年
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2011/09/27(火) 22:02:23.21ID:YvIl0fNO
名前は忘れたが本山氏を中心に書いてあった本を読んだがすごかった
0414人間七七四年
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2011/10/13(木) 20:19:01.34ID:DcDgwHyh
>>412
土佐内で領地もらった
親和死後はよく分からん
0415人間七七四年
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2011/10/22(土) 11:52:42.34ID:ZDgte5hk
今度本山最後の決戦地瓜生野にいこうかと思ってますが何かあとは残ってますか?
0416人間七七四年
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2011/10/28(金) 21:53:27.93ID:XB+Id0yg
戦国BASARAに河野(大祝)鶴姫が出てたのね・・・・。
0417人間七七四年
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2011/11/02(水) 11:51:57.19ID:T6leHAUP
話のネタに四国の武将について研究してるんだが
あんまり書き込まれてないな
やっぱマイナーなのか
0418人間七七四年
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2011/11/02(水) 19:48:21.15ID:0BMrDLTI
大名として残ったのが
久留島(来島)家だけだから
0419人間七七四年
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2011/11/03(木) 18:28:56.57ID:6iZO42i+
みんなどこ行ったの?
0420人間七七四年
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2011/11/04(金) 01:14:58.07ID:XH34CmfQ
十河家は大名として残るチャンスはあったけど
アホの仙石と生駒家のせいで消滅
0421人間七七四年
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2011/11/08(火) 21:57:34.21ID:iqgdKAs8
(´;ω;`) ぶわっ
0422人間七七四年
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2011/11/10(木) 01:34:44.48ID:mhME6+xj
三好家って 最終的にどうなったの
0423人間七七四年
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2011/11/10(木) 15:16:29.46ID:2HRCga/i
十河家は存保が戦死し、その遺児は生駒氏によって謀殺される
安宅家は清康が所領を失い、その後没している
三好康長は豊臣秀次を養子にするなどして生き延び
その子・康俊は山内家に仕えている。
0424人間七七四年
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2011/11/10(木) 21:37:09.81ID:bVq2UIQ0
河野の傍流は稲葉、一柳と残ってるな
まあ、系譜がちょっと怪しかったりするけど
0425人間七七四年
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2011/11/13(日) 09:35:59.78ID:5V3Pt1FH
細川四天王って言われた 香川家以外の家はどうなったの
香西家とか奈良家とか安冨家
0426人間七七四年
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2011/11/13(日) 21:24:53.13ID:SRJqbLSX
織田はともかく、羽柴・徳川と連続して滅ぼされたイメージがある四国土着大名たち
とくに罪も無い西園寺家を潰した戸田勝隆は許せねえ・・・
0427人間七七四年
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2011/11/17(木) 22:52:03.03ID:w6Kc7Dv+
戸田勝隆はキチガイ
0428人間七七四年
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2011/11/17(木) 22:56:01.00ID:G6y8FUWw
三好系で徳川の旗本になったのもいくつかあるな
0429人間七七四年
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2011/11/18(金) 17:59:17.21ID:b7efn0uV
伊予西園寺って結局どこからでたんだ。
南北朝らしいが南朝についた竹林院公重の子孫?
0430人間七七四年
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2011/11/21(月) 21:33:32.91ID:7oTEVuuB
>>428
三好為三の系統が2家だっけ。
造船学の三好晋六郎が幕臣三好幽叟の子というけど、為三系の三好氏なのかな
あと、家光が取り立てた浅井氏の係累の三好家もあったりするけど
0431人間七七四年
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2011/11/21(月) 22:16:52.20ID:cafv8F4R
西園寺公望
0432人間七七四年
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2011/12/06(火) 21:39:56.35ID:xH8b8qyK
あげ
0433人間七七四年
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2011/12/07(水) 03:24:00.33ID:YFwUh9ex
稲葉とかはどうなんだろうな
河野通治が近江番場越えて鎌倉まで逃亡成功してるから美濃辺りに領土持っててもおかしくないが
元寇&頼綱討伐の恩賞は伊予国内だっけ?
0434人間七七四年
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2011/12/11(日) 22:15:25.85ID:elv0Ipcm
河野通通
0435人間七七四年
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2011/12/17(土) 11:22:00.94ID:3IpVYzM5
四国統一に苦戦=長宗我部元親の書状発見−高知
http://www.jiji.com/jc/zc?k=201112/2011121600957&rel=y&g=pol

「元親が四国を完全には統一できていなかったことをうかがわせる史料の一つ」としている。
0436人間七七四年
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2011/12/18(日) 01:50:14.16ID:IKEkxVfm
河野氏の直系の子孫(本家)っているんですか?
0437人間七七四年
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2011/12/18(日) 02:35:25.71ID:HHIstPUx
「チョウソカベはあらゆる時間と空間に偏在している、
恐ろしく巨大な他者だ。僕が反抗すると、
祖母はチョウソカベが森からやってくると威嚇したが、
その声の響きは、幼児の僕のみならず八十歳の祖母自身にも、
われわれと同時代に生きている恐ろしく巨大なチョウソカベの気
を実感させた」

大江健三郎 愛媛出身
0438人間七七四年
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2011/12/25(日) 02:32:04.06ID:tbVfNDVD
>>435
ちょうそかべ信者涙目w
0440人間七七四年
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2011/12/25(日) 17:49:49.75ID:l063+dvw
島嶼部確保できなかったから最初から完全でないのは自明
0441人間七七四年
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2011/12/26(月) 22:25:37.65ID:t9z5NmXY
ふと思ったんだが河野の分家の予州家ってなんなんだろうな
予州ったら河野の本貫地なんだから武田で言えば「甲州家」って言うようなもんだろ?
0442人間七七四年
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2012/01/01(日) 23:38:15.43ID:T/TffKOI
うm
0443人間七七四年
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2012/01/02(月) 11:03:47.68ID:BSwcdnx7
阿波守護細川氏が讃州家で、讃岐守護細川氏が京兆家、というのと同じ
単に本家の官途が刑部大輔で分家が伊予守だっただけだよ
0444人間七七四年
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2012/01/08(日) 00:27:54.73ID:XRQnpGcg
安芸虎虎
0445人間七七四年
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2012/01/12(木) 22:55:52.85ID:JfZxiLEh
なんだこいつ
0446人間七七四年
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2012/01/12(木) 22:59:55.40ID:IXHeid6w
道も柔道もサムライも文化財も韓国の文化になってしまっている。
泥棒だな。でもマスコミも民主も韓国人だから抗議しない。

この板でやたら質問してんのがもしかしたらチョンでそれを参考に細かいところつめて
「韓国サムライ」ストーリーをもっともらしく作ろうとしてんじゃね?
 盗まれてるかもよ。

http://www.youtube.com/watch?annotation_id=annotation_720065&feature=iv&src_vid=RnnLj7ChmL8&v=sW4H2PGj6JU
0447月孔雀
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2012/01/12(木) 23:18:50.17ID:EpIjrm1d
長宗我部って帰化系だっけ?
0449人間七七四年
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2012/01/18(水) 22:51:35.25ID:m4LubwEx
中華皇帝系
0450人間七七四年
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2012/01/22(日) 15:39:18.71ID:JeKeWeYL
嘘だろうけどな
0451人間七七四年
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2012/01/22(日) 16:34:58.28ID:N5656f4G
まあ確実に嘘だろうね
ただまあ秦氏系って自称するからには渡来人系であるにはあるんじゃないかな
しかしまあ岡豊ってちょっと山下れば香美平野で根城には良いかも知れんが
毎年この時期になると高知なのに雪が積もって住むのに大変そうな気がする
0452人間七七四年
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2012/01/24(火) 00:59:06.82ID:r3WO69rk
帰化人設定すると交易に有利だったらしい。なので室町期は貿易やってる大名にそういうのが多い
0453人間七七四年
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2012/01/26(木) 01:09:30.98ID:Py+F5K42
朝鮮に朝貢しにいってる大名もいたそうな
0454人間七七四年
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2012/01/29(日) 09:03:02.45ID:ctH61MyN
八巻正治。氏の学歴は以下の通りです。

【学習歴の記録】
 美幌幼稚園 卒園  美幌小学校 卒業  美幌中学校 卒業   美幌高校 卒業  ※高校は途中転入で、しかも不登校でした!

 順天堂大学  体育学部  健康教育学専攻   卒 業 ※ガンガン勉強しました!

 青山学院大学  第U文学部  教育学科  卒 業 ※幼稚園での教育実習も行いました!

 東洋大学  第U文学部  教育学科  卒 業 ※養護学校の教員免許を取得しました!

 立教大学・大学院  文学研究科:博士課程(前期)   教育学専攻  修 了 ※良き学師たちに巡り合えました!

 カリフォルニア神学大学院日本校    博士課程  キリスト教神学  修 了 ※神様の深き愛の素晴らしさを学びました!

 米ニューポート大学大学院  博士課程  教育学専攻  修 了 ※論文執筆に燃えました!--------------------------------------------------------------------------------

資       格
1973年03月19日   中学校教諭1級(千葉県教委 昭47中1普 第501号),高等学校教諭2級(昭47高2普 第427号) 教員免許状(保健体育)取得
1973年04月26日  衛生管理者免許状(第61号) 取得
1978年03月31日 養護学校教諭1級(東京都教育委員会 昭53養学1普 第132号) 教員免許状取得
1994年02月26日 『米セント・チャールズ大学(カリフォルニア神学大学院日本校:提携校)』より 『博士(宗教学)(Ph.D.)』 の学位を取得
,「精神保健福祉士(登録番号 第32657号)」
および「社会福祉士(登録番号 第114083号)」の有資格者
0455人間七七四年
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2012/02/03(金) 23:16:31.73ID:g7u6pBML
長宗我部氏って、実は忌部氏系?
0458人間七七四年
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2012/02/08(水) 22:02:24.37ID:4EWwVlYT
>>456
旧サンプルシナリオの元になったのが四国志全国版(四国シナリオの作者の作品)だっけ。
最初期は四国志ともう一つしか全国シナリオが無かったような。なつかしいな
0459人間七七四年
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2012/02/16(木) 22:42:48.79ID:QGM6+bCA
>>455
いや、どうだろう

>>456
m9(^Д^)プギャー
0460人間七七四年
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2012/02/25(土) 23:45:19.07ID:gggWkUSE
こやつめ!ハハハ
0461人間七七四年
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2012/02/28(火) 22:25:55.09ID:wbBhRkgY
HAHAHA
0462人間七七四年
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2012/03/04(日) 17:32:08.45ID:vUMiwvHe
随分マイナーな中世城郭(家臣の城)のジオラマだ。
沼地に突き出た台地の要害に築かれた土の城だ。
大きさも500o×330oで卓上サイズで手ごろな感じ。
博物館仕様で作らせただけあって見事なできばえだ。
http://saikatsutramway.sakura.ne.jp/saikatsu_tramway/furumaki.html
0463人間七七四年
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2012/03/08(木) 23:33:07.92ID:uSOdAWOV
マルチ乙
0464荒らされたので、住人誘致中
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2012/03/12(月) 22:55:40.23ID:IDDrPZi6
小山評定後にアッサリ帰った真田
万石も無ければ、将軍にも媚びない喜連川氏
1万500石でも苗木城持ち遠山氏(金さんの親類)
家光側室の町人だった増山氏 米が取れない松前氏など

【陪臣・喜連川ほか】 「小大名」スレ 2 建てました
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1329412330/l10
0465人間七七四年
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2012/03/16(金) 23:14:27.97ID:HSK9SPHC
安芸国虎って本当に戦上手だったの?
0466人間七七四年
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2012/03/17(土) 01:25:15.50ID:6zmtgtd6
前田家が加越能百二十万石と四国を交換するよう幕府に言われ、断った
0467人間七七四年
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2012/03/17(土) 21:19:07.93ID:Kbv9qsuP
四国の石高ってどれぐらいあったんだろ?
0469人間七七四年
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2012/03/19(月) 22:05:59.49ID:7TDj8hRr
きいてねえよw
0470人間七七四年
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2012/03/19(月) 23:14:19.01ID:Vz6GbFCY
あほか、高松じゃなくて丸亀じゃ!
0471人間七七四年
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2012/03/21(水) 03:08:32.56ID:qNoXXQFo
四国って全部合わせても百万石もないだろW

ただ、幕末の前田家のグダグダっぷりからすると、四国王になってた方が活躍出来たかも

まぁ、前田家の家風からすれば、どこにいたって大したことは出来ないかなwW
0472人間七七四年
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2012/03/21(水) 09:39:08.34ID:HlJ3o1WZ
前田式石盛計算術なら100万ぐらい楽に超すよ
0473人間七七四年
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2012/03/22(木) 03:31:42.39ID:3uLvrPl6
淡路足しても100万なんてほど遠いな
0474人間七七四年
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2012/03/22(木) 11:33:53.45ID:zXQ2AgI9
加賀藩は田畑に上下の等級つけず1反=1.7石ぐらいでまとめて計算するから
だいたい他の藩の基準からしたら四割から五割増しで計上されるんだよ
だから太閤検地の基準で75万もあれば前田家が入っていたら110万前後に修正されたはず
0475人間七七四年
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2012/03/22(木) 13:25:37.81ID:idSHEVWL
一条さんのおかげで今の四国がある
0476人間七七四年
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2012/03/22(木) 13:33:09.39ID:RZvP7ntM
加賀藩の百万石って隣国越中の一部まで込みでその数値じゃなかったけかな
現代における富山県高岡市辺りまで含んでたような気がする
0477人間七七四年
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2012/03/23(金) 03:45:56.88ID:CiZIdTjX
越中国は、支藩の富山藩十万石以外は全て加賀藩

0478人間七七四年
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2012/03/24(土) 13:22:49.10ID:q84Kgst2
丸亀市の急な京極氏押しに驚いてる
丸亀に住んでたけど全然知らなかったよ
0479人間七七四年
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2012/03/24(土) 23:34:57.40ID:kRcpBwUr
丸亀城に篭城するということは
亀が丸くなって手も足もでない状況です
0481人間七七四年
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2012/06/21(木) 15:40:17.60ID:dFseWz+y
ヤンジャンのクソ漫画が終わったらしい。めでたいな
0482人間七七四年
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2012/06/25(月) 06:14:45.48ID:rVyVE3V3
秀吉の時代に伊予で六万とかじゃなかったっけ
0483人間七七四年
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2012/07/09(月) 08:51:47.29ID:eFYRJMER
河野分家の得能って南北朝がピークなんかね
本籍が西宇和郡でそのあたりが気になるんだけど
南予に大友が来寇した時、萩森宇都宮旗下の伊方や保内の土豪や城主城代に得能の名がちらほら
伊方には得能神社まであるし

その後長宗我部に滅ぼされたみたいなんだが
室町時代前に足利に備えて築城したとか、新田義貞の落胤と一緒に落ち延びてきたとか
その辺の時代の城主とごちゃごちゃになってる気もする
個人的には河野宗家との争いに敗れて流れた一派が土着したのかなぁと

主筋の「宇都宮or萩森or髯刷 房綱or元教」もよくわからん
八幡浜(萩森)の土豪が、宇都宮の勢力拡大で服属して宇都宮姓を下賜されたけど
大洲の宇都宮が毛利にやられて毛利に本領安堵されそっち系の名乗りにしつつ
領地経営に便利なんで宇都宮一族でしたってことにしてたとか想像してます

飯森の得能も萩森の房綱も彦右衛門なんも気になる
この地区で由緒ある名前なんだろうか
0484人間七七四年
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2012/07/15(日) 12:51:31.57ID:KIywcWtd
長宗我部三代記の大河ドラマ化がピンチに
韓国テレビが元親の朝鮮人拉致を問題視

 
 カツオのたたきは<丶`∀´>韓国起源ニダ
 韓国TVが高知県内各地でロケ 
 カツオのわら焼きたたきなどの食文化と長宗我部元親による朝鮮人の連行をつなぐ内容
 http://www.kochinews.co.jp/?&nwSrl=290821&nwIW=1&nwVt=knd
0485人間七七四年
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2012/08/06(月) 09:09:44.07ID:YRoq1PhM
>>481
本誌打ち切りでネットで連載してなかった?それも終わったなら感激だ

あの漫画のせいで長宗我部が糞に思えてきたからな
0486人間七七四年
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2012/08/06(月) 20:43:51.24ID:66fsYfh2
長宗我部っていうか元親公以外は大したことないからね
お父さんの国親さんは頑張ってたけどその孫以降はまったく大した人物がいない
0488人間七七四年
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2012/08/07(火) 18:24:57.46ID:Nr8JTzEL
大穢嫌座侮老は愛媛県民が最も嫌う有名既知害です。
あいつは大嘘吐きです。得意分野は歴史の改竄です。
0489人間七七四年
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2012/08/13(月) 22:07:27.51ID:WF5xCAGL
だな。
なんで、あんなのがノーベル賞貰ったのか不思議。
0490人間七七四年
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2012/08/20(月) 23:35:33.16ID:YE+9+OwZ
そりゃアベコウボウが死んじゃったからな。本人も分かってることだ。
0491人間七七四年
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2012/08/27(月) 17:22:02.25ID:LudMr1ZO
実力があるプロの作家に本当の長宗我部漫画を描いてほしい

ドラマ化も希望薄いし人気のピークは過ぎたか?
0492人間七七四年
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2012/08/27(月) 20:57:22.00ID:RplU4AVU
北方謙三辺りが書いてくれればなぁ

ないか
0493人間七七四年
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2012/09/09(日) 05:35:42.14ID:Wmz0CoE4
長宗我部とかって日本人ぽくないですよね
どっから来たんですか
香宗我部と何が違うんですか
0494人間七七四年
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2012/09/09(日) 08:28:53.94ID:wF4zpYDT
>>長宗我部とかって日本人ぽくないですよね

どうしてそう思うの?
ただキミの勘は当たってる
祖先は中国からやってきて秦の始皇帝の子孫だったとか
初めは信州の辺りで「曾我部」と名乗ってたが
ある時に土佐の長岡郡に引っ越した
んでその近くの香美郡って所にたまたま無関係の「曾我部」さんがいたらしい
それらと区別するために香美郡の曾我部さんは香曾我部(香宗我部)、
秦の始皇帝の子孫の曾我部さんは長曾我部(長宗我部)って名乗るようになったんだとさ
0497人間七七四年
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2012/10/15(月) 23:53:15.94ID:h65VDkP6
毛利の木原と長宗我部の和睦とか...
信長の野望IV.
0498人間七七四年
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2013/03/02(土) 15:21:44.97ID:nfiEgIUf
長宗我部元親式目が偽書の可能性があるってマジですか
0499人間七七四年
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2013/03/15(金) 09:03:43.91ID:Y8DF40kL
長宗我部元親って本州の大名と比較したら実力はどのぐらいだろうな
里見義暁ぐらい?
0500人間七七四年
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2013/03/16(土) 01:15:00.03ID:19chtbDV
流石に里見義堯よりは下だろ別所氏くらいかな
0501人間七七四年
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2013/03/27(水) 19:35:32.40ID:dy5lNaYV
「金子備後守元宅」の著者は神社仏閣の破壊は毛利や織田もやってるのに
なんで長宗我部元親ばかり非難されるんだと書いてるな
今は大友が有名だけどこの頃は長宗我部が有名だったらしい
0502人間七七四年
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2013/03/27(水) 19:39:11.95ID:dy5lNaYV
「金子備後守元宅」の著者は神社仏閣の破壊は毛利や織田もやってるのに
なんで長宗我部元親ばかり非難されるんだと書いてるな
今は大友だけどこの頃は長宗我部元親が有名だったらしい
0503人間七七四年
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2013/03/27(水) 19:40:47.97ID:dy5lNaYV
501
すまん二回書き込んじまった
0504人間七七四年
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2013/05/02(木) 19:23:42.98ID:4Qq+b0HM
【大学野球】戦国武将末裔の亜大・長曽我部竜也内野手、V打で打率・500
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1367468379/

東都大学野球第4週第1日 亜大5―0専大 (5月1日 神宮)


1回戦2試合が行われ、亜大と駒大が先勝した。亜大は長曽我部(ちょうそかべ)
竜也内野手(3年)が決勝打を放つなど5―0で専大を下した。駒大は西村凌外野手(4年)が
今季2号となる2点本塁打を放ち、青学大を5―4で破って開幕5連勝を飾った。

今季初めて2番に座った亜大の長曽我部が、3回1死一、二塁から決勝の右前適時打を放った。
「後ろにつなぐ意識で行った。2番でも9番でも自分の役割は変わらない」と胸を張った。
四国で活躍した戦国武将・長宗我部元親の末裔(まつえい)で「何代目かは分からない。
名前に負けないようにしたい」。オフの一日2000スイングが実を結び、16打数8安打、
打率・500はリーグトップ。それでも「打率は全く考えていない」と謙虚だった。

http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/05/02/kiji/K20130502005722080.html
0505人間七七四年
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2013/08/27(火) NY:AN:NY.ANID:fPwO1bO4
長曽我部竜也内野手  乙
0506人間七七四年
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2013/08/29(木) NY:AN:NY.ANID:ATIzV2ql
長宗我部友親さんに関係ある人なのかな??
0507人間七七四年
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2013/09/04(水) 06:49:08.69ID:S7Umc8q2
そういえば高松にある田村神社の昔の宮司に長宗我部なんとかっていう人がいたはず。
明治くらいの宮司だったと記憶してるけど、縁者かな?
0508人間七七四年
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2013/09/04(水) 20:05:27.57ID:yEtfaYzS
吉良とか香宗我部さんの子孫はおらんの?
0509人間七七四年
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2013/09/08(日) 08:06:22.49ID:nr+jJ8+9
香宗我部は、乗っ取られた方も乗っ取った方も健在
0510人間七七四年
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2013/09/22(日) 16:21:53.90ID:AnC5gjXE
来年の大河ドラマは軍師黒田官兵衛。
備中高松城の水攻めを羽柴秀吉に献策したのは黒田官兵衛とのこと。
大河ドラマにちなんで備中高松城の水攻め復元模型を製作した。
http://mirai660.net/castle/
0511人間七七四年
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2013/10/03(木) 21:51:07.77ID:dHohQe8L
第三の性別:姫若子
0512人間七七四年
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2013/12/30(月) 08:59:49.45ID:Fo6UCufb
徳島の四国放送のアナに長宗我部家の子孫の人がいるんだよな
0513人間七七四年
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2014/01/13(月) 21:54:55.13ID:TCf+FAbq
>>512

もっとくわしく
0514人間七七四年
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2014/01/13(月) 22:04:12.71ID:+LiPdlPw
もしかして曽我部アナウンサーかな
長宗我部も土佐に赴任する前は曽我部だったそうだ
0515人間七七四年
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2014/01/15(水) 01:33:33.60ID:Zsrwi1ki
「やっと土佐に着いたか。どうやらここは曾我部郷というらしい。心機一転、曽我部と氏を変えて一から頑張ろう」


「たのもう!」
「はいはい。どなたですかな?」
「俺はここの東の地を治める曾我部だ」
 !?
「私はここら一帯を治めている曾我部だ」
「知っている。だからこうして訪ねてきた。このままではややこしくてかなわん。だから相談に来た。おまえ、氏を変える気はないか?」
「ない。ようやく馴染んできたところだ。おまえの方こそ変えてくれないか?」
「無理だ。そんなことをしたら先祖に笑われよう」
「そうか。・・・何かいい方法はないものか」

「そうだ。ここは長岡郡。おまえ、長岡郡の長を付けて長曾我部と名乗ってはどうだろう?
 勿論おまえだけ買えるのは不公平だ。俺は俺のとこの香美郡から香をとって香曾我部と名乗ることにしよう」
「そうだな。それがいいか」

こうして隣接する2つの曾我部はそれぞれ長曾我部、香曾我部と名乗るようになった。
ちなみに長岡郡は今の南国市、香美郡は香美市+香南市
0516人間七七四年
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2014/02/14(金) 19:23:26.62ID:3xTGUi90
>>514
そう曽我部さん
「先祖がご迷惑をおかけしてすみませんでした」
ってテレビで言ってたことある(笑)
0517人間七七四年
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2014/02/15(土) 16:21:43.22ID:ItxVahP3
>>516

自虐的なかたなんだろうか?(笑)
0518人間七七四年
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2014/04/07(月) 16:15:05.52ID:vRL4nzMz
長宗我部さんちからは秦さん、江村さん、蒲原さん、久礼田さんなんかが出てるけど曽我部さんはいなかったと思うよ。
長岡郡の曽我部郷(そがべきょう)に居着いた秦さんが長(宗)曽我部さんに、香美郡の曽我部郷に居着いた山田さんが香曽我部さんになったんであって曽我部さんとは無関係ですよ。
0519人間七七四年
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2014/04/07(月) 19:52:38.58ID:Ycih0eBH
いや、元々が長宗我部は「曽我部」って名乗ってたからありえない話じゃないんだけど
0520人間七七四年
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2014/04/08(火) 09:36:56.81ID:j8V2hq48
>>519
曽我部郷に入って曽我部氏を名乗ったのは土佐に入国した初代秦能俊。で香美郡にも曽我部氏がいたからと長岡の長をつけて長宗我部と改めたのも初代秦能俊。長宗我部さんは初代から長宗我部さんだったということですよ。
途中の分家に曽我部さんがいないとは限らないけど曽我部の名で代替わりしてないし、長宗我部家の主だった分家として残っていないんなら分家と言ってもほぼ他人に近いレベルだよ。
0521人間七七四年
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2014/04/08(火) 19:38:31.93ID:nT8mzWOq
いや、一系だけが土佐に赴任したって考えるほうがおかしくね?
元親の祖先の曽我部さんは確かに長宗我部になったけど他はそれに習ったかどうかは分からんよな
まあそんなこと言ってもキリがないけどさ
当時の習慣を考えると夫婦とその子どもたちだけが移民したって考えるほうがおかしくない?
由緒正しい家柄なんだからぞろぞろ大所帯でやってきたはずだよ
0522人間七七四年
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2014/04/09(水) 10:42:13.33ID:H6nsicU1
>>521
可能性はゼロではないってのは史実から考察するのとは違う次元の話だと思うんですがね。
それと仮に一族が曽我部さんを名乗ったとしても長宗我部さんは秦能俊の流れを汲んでないといけないので、どのみち曽我部さんが長宗我部さんの子孫である可能性は極めて低いんじゃないかって言ってるだけなんですよ。
念のためですが自分的には事実がどうであれ誰かの子孫を自称するのが格別悪い事だとは思ってませんよ。
0523人間七七四年
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2014/05/21(水) 20:55:16.72ID:AEWAQsVY
津野倫明『長宗我部氏の研究』(吉川弘文館、2012年)

津野倫明『長宗我部元親と四国』(吉川弘文館、2014年)
0524人間七七四年
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2014/05/27(火) 20:02:28.15ID:572QwU4H
長宗我部家が生き残る方法はなかったのだろうか?
0525人間七七四年
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2014/05/27(火) 21:02:13.13ID:1HUMkKuy
後継者問題が無ければ改易されなかった
0526人間七七四年
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2014/05/27(火) 21:03:52.68ID:PONBFbgO
とりあえず信親さんを九州遠征に連れていかなきゃよかったんじゃないかね
0528人間七七四年
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2014/05/28(水) 00:39:21.74ID:536k6tkq
地理的に四国は畿内に近いからなあ…
良くて讃岐と阿波は領土召し上げ、あるいは関東かどっかへの転封は避けられなかったかも
0529人間七七四年
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2014/05/28(水) 20:43:49.33ID:+c8g7r2S
そう考えると明らかに不利な国替えに従った家康や政宗は先見の明があったのかも
太閤の天下は持たないであろうと
0530人間七七四年
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2014/05/28(水) 22:08:38.61ID:U5fTQgc8
>>528
多分九州だろう
島津潰した後の薩摩大隅に転封とか
0531人間七七四年
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2014/05/29(木) 01:30:29.45ID:/AthNz5z
>>530
ただその後の歴史が基本変わらないなら、九州は土着の大名を除けば
黒田や細川・小西ら秀吉と関わりが深い武将が封じられてる
畿内から遠い場所でかつある程度の石高がある土地といえば関八州か北陸くらいしかない
山国は流石に酷だろうから、安房と下総あたりで落ち着きそう

本能寺の時点で秀吉支持をしてれば土佐と伊予までは安堵かもしれない
転封の場合は安房と下総にくわえて上総かな
0532人間七七四年
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2014/05/30(金) 00:24:40.89ID:54pVnUOW
>>531
で、関が原で東軍に属して土佐に返り咲きと
しかし立花宗茂ってのは凄いんだな
0534人間七七四年
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2014/06/04(水) 01:31:43.75ID:dk0UxET7
>>531
安房には一応里見がまだ健在か、でも飛ばすならやっぱり関東のどっかだろう
あと元親は光秀を窓口として織田に接近してたわけだから
秀吉とはやっぱり相容れなかったんじゃないかなあ
0535人間七七四年
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2014/06/04(水) 07:18:52.82ID:GsyqrcFv
秀吉支持=阿波、讃岐の放棄だからまずありえない
0536人間七七四年
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2014/06/04(水) 18:41:14.20ID:14zOnumu
>>535
最初は讃岐と伊予を返せって要求だったけど、突っぱねた
で、秀吉の勢力が磐石になってか慌てて返しますって言ったけど
今更ふざけるなってことで四国征伐
0537人間七七四年
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2014/06/21(土) 15:46:48.14ID:EuYuP/Oi
突然ゴメン

先日、図書館に行って何となく本を見ていたら、長宗我部家の
再興を明治天皇に願い出て許されたって内容の本が有ったんだけど、
これ実話なのかな?

借りるのを忘れた上に書名をチェックせず帰ってしまって、
今になって慌てて探しに行ったら見つからず著者も判らない状態

オイラはガキンチョの頃から長宗我部ファンなのだけど、
今までお家再興の話を聞いた事が無くて、実話だったら嬉しいし
嘘だったら嘘を憶えたくないので、出来れば教えて欲しい

(勝手言ってスマン)
0538人間七七四年
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2014/06/22(日) 07:21:22.06ID:hTZkH9FJ
ファンなら長宗我部友親(現当主らしい)の長宗我部って本を読んでみるべきだろう
その辺りのことも載っていた
もしかしたらこの本のことかも知れんな

大阪の陣後お家を取り潰さたれ長宗我部は元親の子供(島弥九郎)も
長宗我部を名乗ることができなかったけどひっそりと血脈は続いていたのが
幕末ごろに時代の流れで再び名乗ることができるようになった
恐らく明治天皇に許されたというのは、大政奉還してすぐに
元親などご先祖を祀る神社を作らせて欲しいって願い出て許可されたことを指すのだろうと思われる
江戸幕府からすれば長宗我部(盛親)は敵方についた逆臣だったからなかなか許されなかったが
時代も変わり先祖の名乗りをあげてもお咎めを受けなくなったから
大々的に私達は元親の子孫なんですって言えるようになったってこったね
0539人間七七四年
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2014/06/22(日) 07:30:59.05ID:hTZkH9FJ
島弥九郎は子供じゃなくて弟だったな
だから現当主は元親の子孫ではないね すまん
元親の親の国親の子孫で生き残った家系だね
そして弥九郎は若くして死んでたから長宗我部性を名乗りたくても名乗ることができなかったのは
弥九郎の子供からってことになるね
他の兄弟同様、他の家に出向して継いだからその時点で長宗我部じゃなくなってる
0540人間七七四年
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2014/06/23(月) 21:28:43.39ID:LxV9pLyE
【文化】 長宗我部元親、信長に恭順示す 手紙発見、本能寺直前 [共同通信]
http://peace.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1403521414/

 戦国時代に土佐の武将だった長宗我部元親が四国の領土をめぐり織田信長の命令に従う意向を示した手
紙が見つかり、所蔵する林原美術館(岡山市)と、共同研究する岡山県立博物館が23日発表した。

 信長は、四国を元親の自由にさせる方針から一部しか領有を認めないことに変更。手紙は明智光秀の家臣
斎藤利三に宛てたもので、元親が従う姿勢だったことが確認されたのは初めて。

 手紙は1582年5月21日付で6月2日に起きた本能寺の変は、織田と長宗我部の仲介役の光秀が信長の
方針転換に納得しなかったことが原因と考える説もあり、美術館は「本能寺の変に大きく影響した要因ではな
いか」と話す。

2014/06/23 19:00 【共同通信】
http://www.47news.jp/CN/201406/CN2014062301002133.html
0541人間七七四年
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2014/06/23(月) 21:33:57.23ID:1FZ8bkJZ
うん
斎藤氏とも関係あったから長宗我部が影響を及ぼしたってのは多からずあるだろうな
ほんの一要素ではあるだろうけど無くはない、ぐらいにはね
0542人間七七四年
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2014/06/24(火) 19:08:43.35ID:Q/MpmnDZ
>>540
本能寺の変の動機の一端が明らかになったかも?
まあ単なる時間稼ぎの可能性もあるけど
0543人間七七四年
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2014/06/24(火) 21:52:38.39ID:I2eMzisZ
それは前からあったけどね
一因ではあっただろ
けど原因じゃあないね
0544537
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2014/06/26(木) 17:04:15.46ID:GDVN/IiL
>>538さん
丁寧に有り難うございます

以下なさけない言い訳です

実は今のようにネットが無かった頃にファンになりまして、
その頃に目に入った長宗我部関連の本を見る度に読んで居たので
勝手に「十分かな?」と判断していました

本当にファン失格ですし、何よりネットの時代になったので、
色々と本を買ってみます
0545人間七七四年
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2014/06/29(日) 10:41:55.03ID:DfMCCOmB
本能寺の一因に長宗我部と明智の関係があるのは知られていたけど、
元親が信長に恭順の手紙送ってたのは新発見だな

この時点で信長の四国遠征軍(信孝)と戦っていたら正直、
毛利と同じくらいには粘れてた筈なんだけど
0546人間七七四年
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2014/06/29(日) 10:50:25.57ID:DfMCCOmB
信長が元親の恭順を拒否した理由は何なんだろうな?
阿波と土佐に恭順した長宗我部を配置して、伊予から毛利の小早川を牽制させた方が
秀吉の毛利攻めも楽になる筈なんだけど。

信長に取り入ってた三好と十河との絡み?
恭順の手紙を明智が故意に信長に渡さなかった?

兎も角、今回の発見は新しい見解を産む可能性がある。
0547人間七七四年
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2014/06/29(日) 11:56:38.69ID:DfMCCOmB
本能寺の一因に長宗我部と明智の関係があるのは知られていたけど、
元親が信長に恭順の手紙送ってたのは新発見だな

この時点で信長の四国遠征軍(信孝)と戦っていたら正直、
毛利と同じくらいには粘れてた筈なんだけど
0548人間七七四年
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2014/06/29(日) 11:57:10.75ID:u0HW++La
備中高松城が落ちれば毛利は詰みも同然
今さら長宗我部の力を借りるより土佐も阿波も取り上げて息子に分配した方がいい
0549人間七七四年
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2014/06/29(日) 23:42:03.33ID:ZYpAg7tk
>>546
妄想乙
信長が拒否したかどうかの史料はまだ無い
0550人間七七四年
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2014/06/30(月) 02:14:08.01ID:rCOvuE3a
無いも何も信孝丹羽の軍勢が大坂に集結していたのがその証拠だろ
ただの時間稼ぎと看破されたんだろうな
0551人間七七四年
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2014/06/30(月) 09:20:55.72ID:xM+zhpv0
てか、手紙が届いたか分からないし、一通だけだったのかも分からんし
0552人間七七四年
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2014/06/30(月) 19:54:04.54ID:1ikG66MK
>>551
そこまで疑うか?
それ言うならすべての文書は本当に信長が読んで信長が花押したかどうかとか分からんだろw
0553人間七七四年
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2014/06/30(月) 20:26:01.73ID:xM+zhpv0
だってこれ石谷家に伝わったものだしょ?出せてれば、坂本か安土あたりで燃えててもいいんでないかい?
0555人間七七四年
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2014/06/30(月) 22:47:54.51ID:HQqiWY93
守る側は時間が経てば経つほど有利になる
それで優位に立てる保証はないけどやらないより全盛まし
0557人間七七四年
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2014/07/01(火) 09:01:00.90ID:5hzUl4g0
故意に光秀が手紙を信長に届けなかった可能性もある

そうなるとそれはそれで面白い
0558人間七七四年
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2014/07/01(火) 18:20:51.67ID:wddc5zJr
>>550
無知乙
集結命令が出されたのは今回の元親の書状が出されるより前だ
0559人間七七四年
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2014/07/02(水) 19:47:38.95ID:AaYjasqe
集結命令が出た

先陣の笑岩が阿波に乱入
びびった元親が書状を出した

集結継続でシカトされたと同然

ってことで>>558が無知な
0560人間七七四年
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2014/07/04(金) 15:15:48.54ID:tTO+BhnU
>>559
集結命令が出た

先陣の笑岩が阿波に乱入
元親が書状を出した

(斎藤利三に書状が届いたか?斎藤が信長に書状を披露したか?信長の返答は?これら一切不明)

当然ながら信長の返答が来るまで軍勢は集結したまま解散しない


というわけで無知乙
まあ元々>>553にも言い返せてないがw
0561人間七七四年
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2014/07/04(金) 16:17:13.80ID:yrB23j+M
少なくとも長宗我部との交渉がまとまるまでは解散しないだろうな。
でないともし交渉が決裂した場合に三好その他を見捨てることになる。
0562人間七七四年
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2014/07/04(金) 20:01:43.11ID:lzdelgfd
それ以前に交戦中の敵が書状送ってきただけで帰る奴はいねぇだろ
0563人間七七四年
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2014/07/05(土) 11:37:01.68ID:hCvsBcBn
信長は京に政権を開く事を考えていて、長宗我部側が恭順を
心から考えていても、京の喉元の四国に「何であれ」反乱の種が残った
状態は見過ごせないと考えた・・・・・・って可能性はどうかな?
0564人間七七四年
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2014/07/05(土) 14:09:09.55ID:4Wo5BgJe
そもそも恭順の書状もまだ詳しい内容が公開されたわけじゃないんで、これ以上の推測はいらないっす
0565人間七七四年
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2014/07/18(金) 22:18:39.48ID:BzTZ/rIM
明智氏がまたヘンテコ解釈してる……
0566人間七七四年
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2014/07/20(日) 01:00:14.01ID:OzWI3y2t
書状を突っ返すって当時の常識からしてありえんからな
0567人間七七四年
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2014/07/22(火) 01:39:18.86ID:PygaGMT1
>>537
明治時代に古い有名武将に官位を配ったんだよ。そのついでに家系を認めたって話だと思うよ。しょせんは天皇自身の権威付けの為だろうけど。
長宗我部家は元親の弟の子孫もいるのにそれを無視し遡って国親の子孫(?)が正統を名乗ってるくらいだから当時としても結構適当。現在じゃ枝葉の一人が勝手に当主を名乗ってるくらいにか思ってない。
0568人間七七四年
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2014/07/30(水) 23:45:54.49ID:h6wyqLz1
>>567
元親の弟の子孫=国親の子孫じゃないかw
『長宗我部』の子孫は島弥九郎の子孫だっけ。あとは香宗我部の子孫は堀田家の
家老になった系統が存続している
0569人間七七四年
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2014/08/02(土) 06:23:36.07ID:RLDLOqs/
国親の息子は元親、吉良親貞、香宗我部親泰、島の四人だから確実に弥九郎の子孫が今の当代になる
他でも長宗我部の末裔を名乗ってる人がいくつかあるみたいだけど傍系とかかもね
元親の直径は途絶えたから別に枝はが勝手に名乗ってる訳じゃなくて正当性はあると思うけど
0571人間七七四年
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2014/10/16(木) 14:42:31.21ID:8ZaEsD1C
すいません、谷忠澄について教えていただきたいのですが、幕末にいた谷千城や新撰組の谷兄弟とかは、忠澄と関係あるんですかね?
0572人間七七四年
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2014/10/21(火) 21:55:54.49ID:1QwPSyi9
ないだろ あったらそういう記載があるはずだし
0573人間七七四年
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2014/12/08(月) 00:35:26.11ID:KJeam4yt
岡山県立博物館
http://www.pref.okayama.jp/kyoiku/kenhaku/schedule.htm#kikakuten
「戦国大名 宇喜多氏と長宗我部氏」
期 間
平成27年1月16日(金曜日)〜2月15日(日曜日)

平成23年度より始まった高知県との文化交流事業の最終年。室町時代後期、
それぞれの地域で力をたくわえて戦国大名となり、関ヶ原の戦いによって
滅んでいった長宗我部氏と宇喜多氏。両氏にゆかりのある甲冑や古文書等の
資料を通して、戦国時代の高知県や岡山県の歴史について紹介します。
0574人間七七四年
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2015/01/24(土) 09:56:55.52ID:w968Kylo
>>568
単に元親の弟の子の子孫と書くと正統に見えるだろう。だがその元親の弟は1570年代に死んでるんだが肝心の息子は1590年代に生まれてるんだな。
まあ石鎚山に氷室を作って精子を冷凍保存してた可能性も無くはないんだが
0575人間七七四年
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2015/04/27(月) 23:45:42.39ID:hsHdC8bI
http://www.asahi.com/articles/ASH4W4SY5H4WPLPB00B.html
http://archive.is/ExjAp
イケメン容姿、歴女の反応は? 高知に長宗我部元親像
2015年4月27日19時35分

大坂夏の陣から400年となる今年、戦国大名、長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の銅像が、
居城跡にある高知県南国市の県立歴史民俗資料館前に設置された。

全国から約1500万円の募金が集まり、像のデザインをカードゲームなどで
武将を描くイラストレーターに依頼したところ、イケメン風の容姿に。

鎧兜(よろいかぶと)姿で、約3・7メートルの長槍(やり)を持つ。
呼びかけ人で資料館の前館長、宅間一之さん(80)は
「歴史ファンのハートを貫きたい」。

除幕式は5月3日。

http://www.asahicom.jp/articles/images/AS20150427003683_comm.jpg
http://www.asahicom.jp/articles/images/AS20150427003689_comm.jpg
全国から約1500万円の寄付を集め、設置された長宗我部元親の銅像
=高知県南国市岡豊町八幡の県立歴史民俗資料館 ?? 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:1322b9cf791dd10729e510ca36a73322)
0577人間七七四年
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2015/05/09(土) 21:55:58.13ID:os8yYwOO
そいや讃岐の軍記の一篇に由佐長曾我部合戦記ってのがあって、
由佐城の北側からの寄せ手の大将に、元親の末子で小三郎元成ってのがいたけど、他で見ない名前なんだよね。
長宗我部の一族でそれっぽい年の人物っているんかえ。
0578人間七七四年
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2015/05/10(日) 09:34:59.63ID:iT+ckipm
>>577
元親の父・兄弟・叔父・従弟に付いている「親」が付いてない
武功を立てて、元親から「元」をもらった家臣じゃないか?
0579人間七七四年
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2015/05/10(日) 13:10:44.55ID:LgH7CU6C
言ってみれば、異常すぎる姑息さは、
50代まで引き篭った負のエネルギーそのもの
なのである。
まことのネット中毒は、脳まで逝ってしまっている。
0580人間七七四年
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2015/05/10(日) 15:21:53.35ID:2QMC/pty
>>578
ご返事ありがとう。

確かに「親」の字は判断材料の一つになるね。
この一篇にしか出てこない名前だから創作か、
もしくは側室の子か養子で「親」が付かないのかとも思っちゃったよ。
小少将の子の右近大夫は諱不詳だし、
足立氏の子の康豊は誰が名付けかわからないもんね。

軍記の中では未熟な若大将として描かれてて、
混戦の末、副将の香宗我部何某、桑名八郎左衛門が小三郎元成を助けて討ち死にしてるんだよね。

この軍記は由佐家文書の1つで、香川叢書に漢字仮名交じり文で収められてる。
香南町史 生活と文化・資料編には現代語訳があるので、気になる方は是非どうぞ。
0581人間七七四年
垢版 |
2015/05/10(日) 15:22:38.62ID:9sFblSeg
>>577
へえ 面白いね
なんっていう軍記なん?
0582人間七七四年
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2015/05/10(日) 15:24:12.68ID:iT+ckipm
>>571-572
谷忠澄の直系じゃなくて、谷忠澄の兄弟の家系が、江戸時代に儒学者を輩出して、
その一人である儒学者・谷景井の子が谷干城じゃなかったっけ?
 
0583人間七七四年
垢版 |
2015/05/10(日) 15:42:22.13ID:2QMC/pty
ごめん、>>580でちょっと嘘書いた。

原本見たことないけど、由佐家文書に秦元親与秦小三郎書って文書があるみたいだ。
他にも小三郎宛ての長宗我部元親感状も。
由佐氏に小三郎という人物がいたかはまだ知らないけど、
由佐氏は元親に降伏後、三谷氏の王佐山城を小三郎元成と一緒に攻めてるから、
その時に小三郎元成から受け取った文書かもしれない。
秦小三郎ってことは長宗我部姓の可能性が高いしね。
0584人間七七四年
垢版 |
2015/05/10(日) 16:07:00.98ID:2QMC/pty
>>581
興味持ってくれてありがとう。

軍記の名前は「由佐長曾我部合戦記」だよ。
出典は>>580の通り。
現代語訳は「香南町史 生活と文化・資料編」のpp.386-398。
国立国会図書館なら書名とページがわかってればコピーして送ってくれるけど、
香川県立図書館はそんなサービスはなかったかな。
手元にスキャンデータあるから送ってあげたいけど、
匿名掲示板でうpするのは著作権云々であれなので自粛しますね。

なんか今読み直してたら、元親の末の弟だったかもって気がしてきた。
0586人間七七四年
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2015/05/10(日) 17:56:24.77ID:9sFblSeg
血族かどうかはいろいろ考えられることはあるけど
これから調べてみる価値はあるね
元親の弟という筋はないだろうな
島弥九郎はもうすでに死んでただろうしその子供とか
あるとしたら父親の国親の親戚とかそういう筋だろうと思われる
それなら「親」がついてなくてもおかしくはないし
0587人間七七四年
垢版 |
2015/05/10(日) 20:04:40.02ID:2QMC/pty
「末の弟」がどこに書いてあったか見つからないけど、最後の項「香西伊賀守城江寄事」に、
元親已に由佐を攻て和談し、弟小三郎に由佐勢を指添え三谷を責る處に 〜云々と書かれてるので、
少なくとも軍記書いた1700年ごろの由佐氏の末裔は元親の弟だと思ってたらしい。

自分が十河の人間で、長宗我部氏には全く詳しくないのだけど、
島弥九郎親房が死んでなくてご本人の可能性は、・・・ないよね。
長宗我部友親さんの「長宗我部」を読み返すとそんな気起こらないな。
この方、親房の末裔のはずだし、親房の最後について入念に調べてないはずないもんね。
そういう意味では一番有力そうな親房の子の可能性も怪しくなってくるんだよね。
ただ友親さんも五郎左衛門親典のことを、親房の家系に連なる、としか書いてないから
なくもないんやろうか。
結局「親」の字がないのが決定打に欠けるんだよね。

由佐氏、三谷氏、香西氏の文書漁れば他にも小三郎がらみのものがでてくるんかもね。
今は戸次川の戦いのこと調べてて、ろくに草書体も読めないのに手書きの古文書を入手しちゃって、
そっちに気を取られてるから後回しかな。
http://www.dotup.org/uploda/www.dotup.org306302.jpg
http://www.dotup.org/uploda/www.dotup.org308395.jpg
どなたか読めたりしませんでしょうか。
豊後の大友氏の軍記「豊筑乱記」です。
長宗我部信親討死の描写があって、十河家やうちんくのこと書いてるかと期待したんだけど、
仙石以外の讃岐勢に全く触れられていないことくらいしかわかりませんでした。
読めそうな方いらっしゃったら本項の全文うpします。該当箇所全文で6ページ、写真4枚分です。
0588人間七七四年
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2015/05/11(月) 18:46:38.56ID:YSlYgniD
小三郎という名前からして「三男」であるということと
「幼名」であるということは考えられないの?
どっちにしろ親益ではありえないね
0589人間七七四年
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2015/05/11(月) 21:07:55.88ID:Hhlcez77
そっかー。
島弥九郎が生きているかも、みたいな伝説どっかに残ってればなくもないかと期待したんだけどな。

襲名じゃなければ三男なんだろうね。
嫡男信親の弥三郎は実父元親から、
次男親和の五郎次郎は養父香川之景から、
三男親忠の孫次郎は養父津野勝興からの襲名だけど、
四男盛親の右衛門太郎は後継ぎに決まったから太郎なんかな。

三男だとすると元親の兄弟、元親の子どもという線はほぼなさそうね。
たまに変則的な名づけ方された人もいるみたいだから確実とは言い切れないながらも、
元親の兄弟や、父国親の兄弟の系統の三男って可能性はまだまだ残るのか。

弥三郎も幼名みたいだし、〜〜郎の幼名も確かに考えられるね。
元服前でも初陣はあるだろうし。
その場合、「小三郎元成」と「秦小三郎」の表記が気になるや。
幼名+諱や、氏+幼名の表記って一般的なんだろうか。
一般的じゃなくても、小三郎が幼名だと筆者が知りませんでした、って可能性が捨てきれないな。
書かれたのが元親の讃岐攻めから100年以上経ってるしね。
幼名だったとしたらどの家の人物なのか、今は見当もつかないや。
0590人間七七四年
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2015/05/13(水) 21:03:34.98ID:j/yr6sig
流れを読まずに>>2に名前の出ている家の子孫が通りますよー
面白い個人ブログがあったのでご紹介(●取ってね)
地元の方なんでしょうかね、ウチに関する部分は聞いた話とほぼ同じだったので
へー凄いなと思って。

h●ttp://homepage3.nifty.com/~manabe/nii.htm 

裏話として、ウチは負けた後、敵だった皆さんの夢枕に立って殿様を狂死させるとか
その家の長男を病気にしたり、あちこちで色々と祟りまくった挙句
こりゃどうしようも無いってことで神社に祀られてしまいましたw
結局、明治の終わり頃に四国を離れたんですが、昭和の頃に某市の何かの行事に
親が招待されてたりして、まあ今でも一応子孫だと認定されているんだなという状態です。
その時に先祖の神社に行って記念撮影したら、境内で撮った分は全部心霊写真w
丸い物がフワフワしてたり帯状の光が入ってたり、マトモな写真が一枚も無いw
帰って来てウチの寺(ってのがあるんですわ)の坊さんに見せたら絶句して
「・・・・ご先祖、喜んでますね」みたいな感じw
親は「じいちゃん何やってるんだ、肝心な所が写ってない」って残念がってましたがw
更に一代下った自分は今度「じいちゃん、最近は女体化されてるよ」って言いに行こうと思ってますw
0591人間七七四年
垢版 |
2015/05/13(水) 21:30:55.41ID:j/yr6sig
幼名?のお話が出ているようなのでウチの家系図を見てみましたが
幼名の記載は無いみたいですね〜
ってかいつ纏めたんだろうコレ?って感じです
男は「××(土地の名前)守(役職)○○(名前は二文字)」
女は「室」
某家から来たお嫁様だけ別格らしくて名前がありますね
負けた時にその人が子供を連れて逃げたので、ウチはまだ続いている模様です。
何か子供の頃は「○○家の血の人は気が強い」とか「念が強いから」とかで
年寄りに嫌がられた記憶が急に蘇ってきましたw
余談ですが「佐村河内守」が出てきたときはサムラゴウチノカミ・・・名前は?と
ちょっと混乱しましたw
0592人間七七四年
垢版 |
2015/05/13(水) 21:37:05.95ID:j/yr6sig
書き忘れ
ウチに嫁に来て子供を産んだ人は「室」
ウチで生まれた娘は「女」になってますねー<家系図
で、格上の某家から来た嫁さんだけ「○」(漢字ひとつ)で名前があるという
男尊女卑というか何というかw
0594人間七七四年
垢版 |
2015/05/14(木) 05:36:56.95ID:s9Sou2eV
>>591
佐村河内守は広島出身
佐村という姓は山口に多く見られ、佐村河内は広島県広島市に数十世帯いる
恐らくは周防・長門・安芸あたりの国人で、大内氏・毛利氏に仕えたのだろう
その佐村氏の中で、「河内守」を代々自称、または任官した佐村氏の家系が、
他の佐村氏と区別するために「佐村河内」を姓とするようになり、その末裔が
自分の子供に、偶然または意図的に「守」と名前を付けたのだろうね
0595人間七七四年
垢版 |
2015/05/17(日) 16:55:17.95ID:oNUfXMFL
>>591
コメントありがとう。

やっぱ幼名はほとんど記録に残ってないよね。
真鍋氏って讃岐国山田郡拝師郷(現・高松市林町)の向城(むかい-じょう)の、
源平合戦で平氏についた真鍋五郎橘助光しか知らなかったけど、
伊予のほうにもいらっしゃったんやね。
でも>>2のどの家かはわかんなかったよ。塩飽水軍かな。

〜守ってことは国司の百官名の方かえ。
なかなか立派なお家っぽいね。
江戸時代以前の女性の名前って記録少なくてわかるのは珍しいらしいよ。
よかったら参考程度に教えてもらえない?
聞くだけじゃあれなので、うちの記録も見ると、
江戸時代末期に、こちらも漢字一文字で「夏」という名前の女性がおります。
多分夏に生まれたかどうかは関係なく名付けられたのだろうね。
0596人間七七四年
垢版 |
2015/05/17(日) 17:08:06.04ID:oNUfXMFL
向城の位置をちょっと間違えました。
拝師郷だけど現・木太町の方でした。
林と木太の両方含んでるみたいね。
失礼しました。
0597人間七七四年
垢版 |
2015/05/17(日) 17:48:52.03ID:xarvDZjM
せっかく久々にいいネタが入ったのに人が少ないからいかんせん続かないな

あんまり有益じゃないかもしれんけど
19日にNHKの知恵泉って番組で元親公の特集やるみたいだぞ
0598人間七七四年
垢版 |
2015/05/18(月) 06:13:07.80ID:dmjEPluP
元親の特集かー。
情報ありがとう。
明日を楽しみにしとこう。
0599人間七七四年
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2015/05/21(木) 00:54:04.31ID:FisGFth8
津野倫明さん出てきてたね。
本持ってたけど見るのは初めてだった。

1時間弱で長宗我部元親と、獺祭の酒蔵の社長さんとを交互に紹介して
更に対比までしてるとあまり詳しいことは言えないやろうし、こんなもんかー。
四国制覇も一瞬で、中央勢力との駆け引きは紹介されず、
いつの間にか豊臣秀吉に降伏した話になってた。

十河氏は名前も出てきませんでしたねー。
三好氏は、たぶんあれ中富川の戦いのくだりやろう、そこでだけ出てたね。
河野氏はでてなかったような。

知らないこともあったし見てよかったけど、前提知識として
元親記、長元物語、土佐物語あたりは読んどいたらよかったな。
手元にないんだけどこのあたり網羅してる手ごろな本ってない?
0600人間七七四年
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2015/05/21(木) 08:01:29.91ID:yCPuxDvX
>>599
南海治乱記(教育社新書) by 香西成資

香西成資
 江戸時代前期-中期の兵法家。
 寛永9年生まれ。讃岐出身。
 通称は武兵衛。号は本立軒常山。
 小早川能久,のち小幡景憲にまなぶ。
 天和2年(1682)黒田家につかえた。
 著書に四国の中世史を描いた軍記物『南海治乱記』『南海通記』など。

 
0601591
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2015/05/22(金) 01:09:51.56ID:UcTNy+Tp
>>595
塩飽水軍ではありませんです
国司の百官名?でもないと思うんですがw
まあ負け方なので、家の自慢をしたいという事でもないというか何というかw
でもこのスレのお話は大体分かりますよ。
自分はウチの中の話しか聞いていないので、何だよアレは本当だったのか
ボケた年寄りの寝言かと思っていたのに・・・と驚いている状態というか何というか
勉強させていただいておりますw
その年寄ですが、ウチの方は集落?ごと四国から某所に移住したもんで、
周りは四国方言ネイティブばかりw
自分も子供の頃は普通に「〜〜しよる」とか「そんなことせられんわぁ〜」とか言ってましたねw
今でも出身地の方言は馴染まないですね。
ちなみにウチの正月の雑煮は「餡の丸餅を薄い出汁」というキワモノですw
0602591
垢版 |
2015/05/22(金) 01:48:09.94ID:UcTNy+Tp
そういえば「刀」が話題になっているようでw
ウチにもあるんですが銃刀法違反なので「ある」とは言ってないんですが
まあウチにあるって事はご近所の皆が知っているというw
油紙に包んであって、戦時中も何とか見逃してもらったので
鶏を潰すとかに使っていたらしいんですがw
そんな風ですから美術館とか博物館に出せるようなモノではないので
「ウチにある」ってだけの話になってます。
由来としては中将とか少将とかの「お姫様に頂いた」ってことになってる模様ですが
なんかもう申し訳ありません、って感じでw
0603人間七七四年
垢版 |
2015/06/19(金) 16:56:25.16ID:yUZOVJB2
まことは、動揺していた。
「二言目にはソースか?」
この男は言った。
まことは、そういう空気に合わない言い回しをしながらも、
「都合の悪い質問」を逸らそうとしている。
0604人間七七四年
垢版 |
2015/07/10(金) 21:24:04.22ID:7Aw3VQSE
やっと仕事の山が過ぎました。
お返事遅くなって申し訳ないです。

>>600
南海治乱記にあったんだね。
4か月前くらいに買って、ここ3か月くらい手元には取るけど読む時間少なくて毎日数ページしか読めてなかったよ。
応仁考、細川考、三好考、長曾我部考なんかがあるね。今細川考読んでるとこ。
表紙の原著者名の香西(こうざい)に「かさい」って読み振ってあってちょっと内容が不安になるよね。
もっと古い刊行本は仮名遣い難しくてすんなり読めないから十河周りの一部分しか読めてないや。

>>601
長宗我部土佐守元親、十河讃岐守一存とか、
国司というよりこういう武家官位からの百官名なんかな。
こういうのついてると〜〜介よりもすごそうに見えるけど、
十河家にも自称だろうなって感じの名前の人が多いしそういう百官名なんかな。
十河壱岐守、久保佐渡守、植田美濃守、神内石見守、三谷伊豆守、由良遠江守、溝渕(溝口)飛騨守、池田遠江守、大熊丹後守、云々。
あれ、こうやって見ると〜〜介のほうが珍しく思えてくる不思議。というか十河家の人はひとりも思い浮かばない。
植田若狭允の〜〜允は介より等級が下がるっぽいし、池内主殿助は太政官の名前だし、前田頼母助の頼母は官名ですらないしね。

私も讃岐の出身で餡餅雑煮は大好きだよ。
ただこちらは東讃なので白味噌だけど、小豆島ら島嶼部、西讃の特に満濃辺りは澄まし汁に餡餅を入れるらしいね。
その辺り出身の方でしょうか。
最近就職して今は中部に住んでるんだけど、餡餅雑煮ってだけで話した時の周り人の引きっぷりが凄いよね。

刀ですか。
うちにも戦時中持っていかれないように隠し通したぼろぼろの脇差があって、
目釘抜いてばらして見ましたけど、茎(なかご)には差表にも差裏にも銘は入ってなかったです。
うちのも、薪割りに使ってた、と祖父から聞きましたよ。伝来の詳細はわかりません。
0605人間七七四年
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2015/07/28(火) 18:49:45.05ID:wrsgiS3U
一条さんを追っ払った「前科」があるから、
秀吉時代には朝廷から警戒されそうなもんだが
そういう史料は残っていないみたいだな。

官位も石高相当みたいだし。
0606人間七七四年
垢版 |
2015/10/27(火) 22:54:41.93ID:GKdmY8Lr
四国の人は大野川合戦祭行くんかな
今年は11/14(土)やって

長宗我部家、十河家の方々は例年通り参加するみたいだけど
仙石家の方とか来たことあるんかな
0607人間七七四年
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2015/10/28(水) 06:44:44.48ID:VoDwWBCv
>>606
これは信親が死んだ時の戦?
それとは違うん?
0608人間七七四年
垢版 |
2015/10/30(金) 01:10:45.02ID:fA1SmCHW
>>607
そうだよ
今の大野川の、大分市の街中より少し上流の辺りが戸次川って呼ばれてたらしいね
信親の戦死した「戸次川の戦い」の合戦祭が大野川合戦祭
十河さんに毎年お誘いいただいてて是非行ってみたいけど、今四国にいないのもあってまだ行ったことないんだよね
岐阜に住んでた時に仙石さんっていたから、仙石権兵衛の末裔の方もいそうだね
岐阜から参加だと遠いかな
0609人間七七四年
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2015/10/31(土) 22:18:33.01ID:PeiCAVah
>>591
気が強いとか、念が強いとかって憑き物系ってことですよね
自分は関東の平野部なんでそういう慣習には幸いにして縁がなかったけれど、いまも残っている所は残っているんですね
0610人間七七四年
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2015/11/03(火) 11:17:57.23ID:v+VflYq7
安芸に行ったけど安芸城跡は本当に町外れにあるのな。毒を投げ込まれたという井戸も残ってたし。
国道沿いの国虎うどん美味しかった。2号店がフランスのパリと聞いてかなり驚いたな。
0611人間七七四年
垢版 |
2015/11/03(火) 18:33:41.29ID:v+VflYq7
小説で当時の土佐に嫁に行く事は現代においてアフリカの奥地に嫁に行くようなものとか書いてあってドン退き佐久間。

この2月ようやくセブンイレブンが上陸した事を考えると仕方ないのかも…。民放も3局しかないし。
0612人間七七四年
垢版 |
2015/11/03(火) 22:21:39.32ID:43l5V8Jg
四国っていうのは流刑地だったからな
それも四国の奥深く 海に面してる成れの果てって感じなのかもね
けど意外と近代化っていうか文明化はしてたようだ
戦国期でも四国四県の石高は軽く百万石越えてたしな
0613人間七七四年
垢版 |
2015/11/04(水) 06:10:53.78ID:uy1xjx9R
>>612
実家が安芸市なんだけど現在でも流刑地なんだよな。小学生の頃東京から転校生が来たんだけど親が仕事で大ポカやらかしたとかで。
0614人間七七四年
垢版 |
2015/11/07(土) 16:19:10.60ID:XdVuUs7J
高知って台風来ると毎年のように他県につながる道は全面通行止めで陸の孤島になるもんね
四国じゃなくて土佐単位でも島流しと言っていいくらいじゃないか
0615人間七七四年
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2015/11/07(土) 19:30:28.49ID:qz5TAoDc
>>612

土佐 10
伊予 35
讃岐 13
阿波 17

80万石にもならんぞ>太閤検地換算なら
0616人間七七四年
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2015/11/11(水) 21:10:33.40ID:ePnFnHT7
>>613

なるほど!
0618人間七七四年
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2015/12/29(火) 17:34:22.16ID:R9pI3yDz
>>617

すまない。わかりません。
0619人間七七四年
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2015/12/31(木) 14:56:31.71ID:eAQwv1fp
山内氏は、一介の地侍から土佐20万石を徳川将軍家から賜り、大きな恩がある。
土佐では、前の主君・長宗我部氏が一両具足という常備軍を作っている。一両具足は、長宗我部元親により百姓身分から武士階級に取り立てたことから、長宗我部氏への忠誠度が半端じゃない。
関ヶ原では国主・盛親が徳川方と一戦も交えることなく敗れた。そのため、盛親に対する処分は、斬首とするわけにもいかず、改易ととなった。盛親は一国の大名から突然、土地を持たない浪人として、京で隠居することになった。
家康は、関ヶ原で功労のあった山内氏に、国主が去り、空いた国となった土佐一国を賜る。しかし、忠義心半端ない一両具足達が本来の主君と奉ずる盛親が存命のまま、敵から強要された新たな主を素直に迎え入れるわけがない。
家康は、山内氏に土佐一国を与えたように見えて、同時に厄介な一両具足を押し付けたとも言える。
20万石もの領地を突然得ることになった山内氏は、土佐全土を治めるには明らかに家臣不足だった。そのため、城に仕える武士には主に譜代の家臣を用いて、これを上士とし、土佐山村部の支配には長宗我部からの武士を用いて、これを下士とした。
このため、土佐藩の武士は家系で上下の身分が定まり、上士は生涯上士、逆に下士は如何なる功があっても生涯下士のままという特有の制度が生まれた。
ただし、山内氏支配確立の過程で長宗我部氏の家臣ながら山内氏の支配を支持し、功績のあった武士には白札という事実上の上士階級が与えられた。
こうした経緯が後の世まで続く土佐の複雑な立場を形作る。
0620人間七七四年
垢版 |
2016/01/05(火) 17:45:07.25ID:RY7Ww6yZ
城仕えには主に少数の上士と白札が
山村の支配は、長宗我部からの武士である下士がそれぞれ任されていた。
しかし、江戸後期からは非生産階級である武士階級の財政もひっ迫し始め、
財ある地主や商人を養子に入れるなど、身分をカネで売るようなことが頻発した。
坂本龍馬の家系がこれに相当する。

長く支配階級だった武士は、商いなんていう、人に頭を下げて利益を得るような行為を毛嫌いしていたが、
下士階級だった坂本家は、上士だけを顧客に高利貸しを営んでいた。
上士が相手なら、いくら頭下げても恥じることはない。それどころか、秩序を重んじる武士らしい。
上士も江戸後期になれば、藩の財政事情が厳しい時は高利貸しの世話にならないとやっていけなかった。
藩に必要な財を調達して利益を得るなら、武士としても恥と感じるところはない。
これが明治の世になって生まれる政商の考え方の元になる。
0621人間七七四年
垢版 |
2016/01/05(火) 18:59:29.79ID:QSw35lSR
三好長慶を、人気作家に小説にしてもらい、花の慶次みたいに人気マンガにできたら徳島の文化が変わる。
0622人間七七四年
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2016/01/10(日) 19:36:03.36ID:zR5wV1Js
十河の町起こししたいんだけどアイディア貰えんかな
板違いで申し訳ないけど、ここに来るような人が一番この話題に関心ありそうでアイディアも的を射そうかなって

十河の人たちは、その郷土に戦国大名がいたなんて知ってる人すら3%くらいのもので知名度もまったくないんだ
最近、十河の公民館に「戦国武将の町」って横断幕を掲げ出して俄かにアピールしだしたけど、まだまださっぱりだろう
天正10年から天正12年まで丸2年の籠城戦だった十河城の戦いとか、押し出したいところだけどあんま詳細に記録残ってないよね、戦記も
その時に城を守ってた十河隼人が実休の子の十河存保なのか、鬼十河の庶子の存之なのかすら誤記も多くてよくわかんないし
十河や前田の小学校で郷土史の授業やってて最近の子どもには多少は郷土の英雄を知る機会があるようだけどね

小説でも作ろうかと思っても、この籠城戦で戦果を挙げてるの十河側で前田甚之丞宗清と十河(池内)主殿助孝晴くらいかな、結局最後は開城だしね
鬼十河の活躍はほぼ畿内だし、
存保は秀吉の四国征伐の後に山田郡2万石に復してすぐ戸次川で戦死だし、司馬遼太郎さんの「夏草の賦」では長宗我部憎さに勝ち目のない仙石の渡河作戦に同意したことにされてるし、
存保の嫡子の千松丸は生駒親正に毒殺されて大名家としては廃絶だし、
存保の子とされてる存英は大坂の陣でそれまで匿ってくれてた宇喜多の軍に属して(と十河では言われてるけど、秀家出てこないから明石全登かな)落城後は尼崎で討死だし、
物語性に欠けるというか、まあこの辺は筆先ひとつなんだろうか
司馬さんの「十一番目の志士」みたいな手法も良さそう

どの方面から行くべきなんだろう
十河関係のお土産を開発するのか(ゆるキャラ路線とか?)
まず小説などのメディアで有名にするのか(まだ十河が主役の有名どころは海音寺潮五郎さんの「十河物語」くらいしかない)
JTBさんとかの旅行会社に頼んで十河のネタを仕込ませてもらうのか
市役所や県庁で援助頼むのか
まずもっと郷土史の資料を掘り起こすべきなんだろうか(出てくるのか?)
民間の有志の集まりは60代以上の人ばかりみたいだから、若手で興味ある人を探す必要もありそう

三好長慶は徐々に有名になりつつあるね
三好長慶会さんとか、最近よく本見る天野忠幸さんのおかげかえ
ただ劇的には展開できてないし、町起こしに有効策を打ててるかはクエスチョン
三好長慶会さんのHPはかなり有効な気はする
十河にこの手のページはないし
まずは三好にスポットライトが当たってからじゃないと十河まで光が届かんやろうか

長宗我部は元親も信親も戦国BASARAの影響なのか人気爆上がりだよね
十河もおこぼれに預かってるけどさ、、

宮下秀樹さんの「センゴク」ももうじき戸次川の戦いだし、戦国時代好きに十河存保の名前が売れるチャンスではあるか
でも三好三郎として出てるんだっけ
十河じゃなくて三好が売れそう
0623人間七七四年
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2016/01/10(日) 20:45:54.93ID:N6XhJTvX
三好十河は諦めて篠原長房を宣伝しまくる
0624人間七七四年
垢版 |
2016/01/11(月) 13:08:54.34ID:5uC8YP9x
>>622
最低でも三好と十河で連携しないと駄目。

さらに
・三好氏、十河氏関連史跡の観光MAP作成
・三好氏、十河氏のHP作成
ここまでは個人で出来る。

その後、
・十河氏子孫会の結成
・十河氏研究会の結成
・各家庭の史跡保護
・お土産開発
・政治家への陳情
・香川県・和歌山県の連携
・テレビ番組の誘致
・小説の執筆
・他県との連携(和歌山、大阪?)
ここまでがよくあるパターン。

その先は
・十河氏博物館の建設
・十河城の観光地化
・十河氏の菩提寺
で最低3箇所(1日分)のハードが揃わないと
観光地としての成功はしていないのが現状。
0626人間七七四年
垢版 |
2016/04/10(日) 20:02:38.96ID:7FkcP0YB
高知は長宗我部の中央政権への影響力や豊富な歴史資料と戦国ゲームの描かれ方に恵まれてる
愛媛は河野村上水軍の歴史と明治〜現代に紡がれる歴史、風光明媚なしまなみ海道に恵まれてる

十河はあんまり聞かないけどね三好は結構アイデンティティ大事にしてる三好さんいるんだよ四国〜関西
でも近畿圏の中央政権による排除に飲み込まれた感じあるしよく分かってないことも多い
子孫会の結成であったり魅力の発信は>>624と同じ意見
0627人間七七四年
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2016/04/19(火) 03:03:52.35ID:yM8GD0Pi
返信大変遅くなって申し訳ないです。
622です。

>>623
また天野忠幸さんの新しい本出てて、三好一族と織田信長、っていうのね。
これ読んで篠原長房のことこれまでより詳しく知って、なるほどなかなか劇的だとは思ったんだけど、
三好長慶、義継、松永久秀あたりがいての篠原長房だとは感じたよ。
この本読んで自分の中で評価が上がったのが三好義継、松永久秀、篠原長房、三好長治、長宗我部元親。
松永久秀、全然不忠者じゃないね。
元親は最初からずっと信長に付いてたのね。
土佐物語とかの軍記でよく見かけた、切り取り次第〜云々、のくだりは物語くさいと思ってたけど、
それ以外の実際の書簡や物品の遣り取りで念入りに友好関係築いていたのがよく分かった。
ほぼ四国制覇していたのも間違いないね。
それが秀吉のために土佐一国のみになり、秀吉の子の秀頼のために土佐すら失う没落っぷりはまさに悲劇。

逆に下がったのは羽柴秀吉かな。
讃岐山田郡二万石を十河存保にくれたけど、どうやら大名とは認めてなかったっぽい。
常に存保を十河孫六郎としか呼ばず、戸次川の戦いでは討死の後は十河家を改易したの、
後者はもちろん以前から知ってたけど改易は初めから秀吉の既定路線だったように感じる。

十河存保はプラマイゼロ。
一存は大体堺にいたの知ってたけど、存保もそうやったんやね。
十河家を継いでるのにほとんど三好姓ばかり名乗ってたみたいだなあ。
三好を継ごうとするなら一存の庶子で、母方不明だけどおそらく十河の人間を母に持つ十河存之に十河家を継がせて欲しかったよ。
十河としての売りがなくなるじゃない。
ここマイナス。
特にこの書籍で言及無かったけど、十河城は存之が城代で、存保は勝瑞から帰った後ずっと虎丸城で籠城してたんだなと思う。
存之が天正12年6月に十河城を脱出した後も、虎丸城がしばらく残っていたのは複数の一次資料があることからほぼ確信。
でもその後落城してるだろうね。
最近になって香川県埋蔵文化財センターのページに紹介されてるけど、発掘の結果土佐軍の改修の跡が見つかったようだし。
ここ若干プラス。
あと信長とはずっと敵対してたようだね。
どこかで三好咲岩とかに説得されて信長に服属してるんだと思ってたよ。
阿波・讃岐の国人の糾合や戦略も思っている以上に評価されるべきと思えるくらいには成果あったみたいだし。
ここの気骨ある感じはプラス。

どうでもいいとこでは土佐国蠧簡集(とさのくにとかんしゅう)の「蠧」の字が、
「蠢」(うごめ・く、シュン)になってるところが4か所はあったのが気になったね。
少なくとも2か所は「蠧」の字だったのに。
著者さんは手書きで、編集さんか誰かが活字に起こしてるのだろうか。
0628人間七七四年
垢版 |
2016/04/19(火) 03:06:16.30ID:yM8GD0Pi
>>624
詳細にご返信くださり真に痛み入ります。
これだけの価値あるご回答への返事が遅くなり自責の念に堪えません。

> ・三好氏、十河氏関連史跡の観光MAP作成
> ・三好氏、十河氏のHP作成
三好氏、十河氏関連の史跡は実はあまり存じておりません。
地元にあんまりそういうの紹介されてないんだよね。
なかなか知れない。
だからこそ作ればいいってことでしょうけど、自分の持ってる情報だけじゃ全然不足してるんだ。
香川県の県立図書館の郷土史料は粗方漁ったんだけどね。勉学の傍ら8年ほど。
情報系の学科も出てるからHP作成は勉強すればどうにかなるかな。
今後どうやって情報収集するかが課題。

> ・十河氏子孫会の結成
これは実はあるんだ。十河同族会が昭和の時代から。
でも私が生まれてからは活動してるの見たことない。
うちは十河城のあったとこで、小字は城なんだよね。
昔は武者行列とかやってたみたいだけど。
会報も十何年止まってるだろう。香川県立図書館や国立国会図書館で初めて見た程度。
有効活用させていただくとして、今はどれだけのマンパワーが得られるかな。

> ・十河氏研究会の結成
これも、十河氏に限らず地元の研究してたり、史跡保護をしてる団体が複数あるんだ。
勧誘していただいたこともある。
私が県外就職してしまったので残念がられましたが。
70-90歳くらいのお爺様がたなので電話でアポ取るのも大変で、
メールをできる人に会ったことがないです。
地元に帰るタイミングじゃないと交流が難しそう。
三好長慶会はIT化されててメールで遣り取りできるのに。

> ・各家庭の史跡保護
これに就きましては十河城跡の周囲だけでもなかなか、なかなか。。
言い伝えはほぼ消滅してまして、史跡だったのに処分されてしまったパターンをいくつか知ってます。
2代前までは言い伝えられてたはずの家が今は何も伝承されてなかったり。。
うちも古文書で残ってなかったら消滅してた。親戚の誰も内容わかってなかったし。
ここ実は急務かもね。
古文書は活字で残しましょう。内容は失われないようにネットの海に撒きましょう。
と研究者としては言いたいところだけど、伝えてきた家としては共有財産にしたくはないんだろうなあ。
家系図とか特に。十河氏の系図も群書類従のしか公開されてないし、植田家譜、前田家譜はどこにある。
史跡のことを知っている人がいないから守れないっていう負のスパイラルもあります。
知っている人に情報の供出を促す、情報を出しやすくする仕組み作りが必要かもしれない。
そしてその仕組みそのものに知名度がなければ、その仕組みが利用されることはないんだよね。

> ・お土産開発
この辺りしようとすると組織で運用する必要があるかな。
鬼十河饅頭。月代を頭の後ろまで剃ったスタイルのデザイン。うん普通の饅頭じゃないかなこれ。
資金調達は最近はやりのクラウドファンディングでしょうか。
若輩の身では自己資産の捻出は高が知れてるもの。
もう少しで定年って人なら資産運用や年金とか、
人生のノウハウなんかを利用して趣味でできそうだけど、定年までまだ40年あるし。
組織の持続的運用には継続的な収入がいる訳で、
法人化するなら企業勤めのままじゃ社規違反で懲戒になりそうだね。
この年明けからの長期出張中に簿記2級の勉強して2月末に受けてみたけど試験難しかったです。
教科書レベルの基礎的は内容は把握できたけど、今後もし機会があっても財務会計は専門家に任せよう。。
0629人間七七四年
垢版 |
2016/04/19(火) 03:08:40.05ID:yM8GD0Pi
> ・政治家への陳情
現職じゃないけど元市議会議長が十河にいて、
同窓に孫がいて昔何度か遊びに行ったこともあるという伝手もあるし、手がなくはないかな。
コネがなくても、郷土振興は市の利するところでしょうし、市民の望むところでしょう。
十分な活動をして行動力を示し、説得力を上げた後にはこの一手だろうね。

> ・香川県・和歌山県の連携
和歌山県と連携できる点はどこなのでしょう。
県外、特に四国外の歴史には疎くて申し訳ないです。
本願寺や、篠原長房の子の松満が逃げ込んだ絡みでしょうか。
三好氏流十河氏を称する一族が代々紀州の寺の住職か何かをやっていたような気もします。

> ・テレビ番組の誘致
> ・小説の執筆
テレビで放送して反響を期待できるレベルまで行けば小説を書く方も出てくるでしょうね。
地元放送局のリポータにも親しい友人がいるので、継続的に活動できれば企画も組んでくれそう。

> ・他県との連携(和歌山、大阪?)
十河歴史資料館の十河さんは、高知県の長宗我部祭や大分県の大野川合戦祭には毎年参加されてるけど、
徳島や大阪での活動は聞いたことないね。
長慶会さんとはお知り合いのよう。
十河さんからは長慶会さんを、長慶会さんからは十河さんを紹介されたので。
少なくとも徳島では三好十河関連で何かはしてるんだろうなあ。
でも大阪は何かご存知でしょうか?
今大阪に住んでるんだけどね。出張でほとんどいなくて、今も出張先からコメントしてますが。

> ・十河氏博物館の建設
これは十河歴史資料館の拡充のことだね。
古文書をネットで仕入れて読んでみて、関係ありそうなものは寄付したりしてるけど、
まだまだ所蔵点数が微々たるものだ。先は長そう。
展示物は研究家さんたちの研究成果が多いし。

> ・十河城の観光地化
これは、うーん、生駒氏が移してきた称念寺が本丸跡に建って400年経ってるんだよね。今は墓石も無数に。
縄張りに就いては江戸時代の東十川村の庄屋の池内武存が遺してる図があるし、
棚田や水路や池が往時を残してるらしいのでそれっぽくはできるのかな。
ここが土塁で、ここが大手門で、ここが北門、ここが長宗我部親政の陣所、とかって。

> ・十河氏の菩提寺
そういや十河氏の菩提寺ってどこだっけ。
称念寺は生駒氏が十河家の怨念を鎮めるために移築したもので菩提寺じゃなかったはず。
北東450mくらいのとこにある朔方寺もできたの1580-90年くらいで西本願寺系列かなんかだっけ。
十河の分家らしい池内武存の墓は朔方寺境内にあったけど、十河姓の檀家は1つしかなかったような。
三好氏から嗣子が入った前後で菩提寺も替わってそうな気はするけど。
これは次帰った時に調べよう。

技術職やってると平素忙しすぎて帰りも遅く、夜中寝る間を惜しんで勉強するしかないってのが大変。
今後海外出張もあると思うと今の仕事しながらでは首突っ込む程度で、町興しを主動するのは無理なのだろうか。
0630人間七七四年
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2016/04/19(火) 03:18:23.24ID:yM8GD0Pi
>>625
土佐は言わずもがなだよね。長宗我部元親も坂本龍馬もあるもん。
伊豫も河野氏や西園寺氏はもちろん、海には村上水軍や日本総鎮守の大山祇神社の鶴姫伝説もある。
秋山好古や真之、正岡子規は司馬遼太郎さんに坂の上の雲で描かれてるし、羨ましい限り。
阿波も古代最大級の穀倉地帯か集落かの遺跡がここ1,2年内くらいに出てきてたような
阿波忌部氏は四国の歴史の曙だし、三好氏の本領あるしで前面に押し出せるとこいっぱいあるよね。

隣の芝生は青いのか、讃岐はヤマトタケル伝説、大明法家讃岐永直、弘法大使佐伯真魚というか空海、
源平屋島合戦、応仁の乱(細川方、舞台は京都だけど)、あとは十河氏、
うーんと水戸光圀の兄の松平頼重から始まる讃岐松平家、金刀比羅宮、平賀源内に、菊池寛、壺井栄、、。
ああここ四国の戦国大名板だし、やっぱ応仁の乱と十河氏くらいしかないのかな。
ヤマトタケルの弟の神櫛王の家系で、奈良時代には讃岐永直を介して連なる十河氏ならちょっとは絡めさせられるかも。
羽床氏や香西氏は祖の藤原章隆の母方が、ヤマトタケルの息子の武殻王の後裔氏族の綾氏だし。
香川は戦国時代もまとまりなかったから、全体を巻き込む方向がよさそうなんかな。
0632人間七七四年
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2016/04/23(土) 08:35:58.92ID:VrlY6kXf
伊予の人ごめんね
マジゴメン
爺さんに聞いたら、なんと俺の家系は戸田勝隆の家臣兼親族の戸田豊前守重治って人の子孫らしい
0633人間七七四年
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2016/05/01(日) 15:17:13.95ID:Py9oMGle
祭には早いが、初めて岡豊城に行ったわ。
なんつーか、関東平野にざらにある山城と変わらんな。
こんな小領主が四国統一しようとしてたのか。
一方、浦戸、長浜まで行くと完全に漁師町の雰囲気だな。
土佐は、山と海両方揃った南国の地でした。
0634人間七七四年
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2016/05/03(火) 11:23:09.86ID:KBPVU1vl
大名じゃないけど吉田政重は過小評価だと思う
0635人間七七四年
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2016/05/03(火) 13:33:38.63ID:LNvQ9i9N
>>629
なんで和歌山なんだろう?全く思い出せない。
十河一存の足跡で考えるなら岸和田城だよねぇ。
子孫会や研究会は消滅する前に史料を回収しないといけない。
でもネットで拡散してしまうのもよくない。
会報にして売るのが保存、継続に繋がって、最終的に皆の利益になると思う。
0636人間七七四年
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2016/05/29(日) 21:33:58.94ID:LEGDxyrT
長宗我部遺臣末裔の土佐藩上士って吉田氏、谷氏、本山氏、吉松氏、明神氏、
横山氏、高島氏、中山氏(中山田氏←香宗我部氏)、馬場氏、町氏、
植木氏(正確には津野遺臣末裔)、上村氏(上林氏だったかな?)、志和氏、ぐらい?

鹿持氏、平井収二郎の家、武市半平太みたいに下士や白札から新留守居や留守居に
昇格した家は別として
0637人間七七四年
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2016/05/30(月) 21:24:29.88ID:Z8AD0xKC
>>590
負け戦というのが氷見高尾城の籠城戦の事だったら
言い伝えなど、聞いてる事を教えてくれると有り難いんだけど…
0638人間七七四年
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2016/06/03(金) 15:44:43.08ID:H7vXFhQy
>>636
直参は必然的に山内直轄地の中の家になるから県中央部の家になるんじゃないかな。地理的な部分が大きいと思うよ。中央部から離れたとこの家だと家老の封地になるから陪臣=郷士になるし。
0639人間七七四年
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2016/11/02(水) 13:41:19.65ID:sdDVsCFS
長宗我部家の血縁者が勢州津藩の藤堂家に剣術指南役として仕えており、藤堂家に預けになった荒木又右衛門と渡辺数馬が数年間弟子いりしていたようだな
0640人間七七四年
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2016/11/21(月) 22:12:54.88ID:XHapjcXx
長宗我ってマイナー扱いなの?
Microsoft IMEの一般だと変換できなかった
ほかの大名だとほぼ抑えてるのに
0641人間七七四年
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2016/11/22(火) 20:19:07.23ID:dYLOCiai
「ちょうそがべ」で変換できるよ昔から
0642人間七七四年
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2016/12/03(土) 13:21:53.39ID:/3ZaPD4J
実は山内よりも悪、長宗我部のクズ逸話を打線にしてみた。

1.盆踊り大会とみせかけ、
伊予曾根歯長城を殺害、鼻を削ぎ落とす。(山内の相撲大会の前)

2.盆踊り大会で殺すのを気に入り、
おまけとして惟宗国長も殺害する。 (信親暗殺前)

2.自分(長宗我部元親)が出した禁酒令を自分で破り、ぶちギレた儀重に従者が殴られる。 (信親暗殺前)

3.一条兼定に悪口を吹き込み土居宗珊を殺害させた。(信親暗殺前)

4.敵対していないのに四国のほとんどの寺を焼き討ちにし、良僧も女子供も殺害した。 (信親暗殺前)

5.延命寺の名鐘を盗もうとして仏に祟られる。

5.長宗我部盛親が嫉妬で実の兄を殺害。(盛親は気性が荒く家臣からも嫌われていた)

6.実の兄弟の吉良親実、比江山親興などを殺害し七人ミサキとして霊に祟られる。

7.信親暗殺前も普通に悪すぎて大河に出来ない。(宇喜田直家レベル)

8.信親死後、飛脚は時間に遅れたら死刑。 百姓は道を自費で直さないと厳罰とかだったため実際には山内の善政を喜んだ百姓が多かったという。
(このため、肥後と長崎の3万人の一揆と比べ高知の一揆は200人しか集まらなかった。)

9.中国人の秦氏として土佐に入り、
清和源氏の香宗我部氏から宗我部の苗字を乗っとった。

DH.新開実綱一族を酒宴を装い虐殺。天井の血が今も消えない模様。
0644人間七七四年
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2016/12/03(土) 21:20:34.63ID:G2+603Bv
>>642

> 7.信親暗殺前も普通に悪すぎて大河に出来ない。(宇喜田直家レベル)


そういうところはカットするから大丈夫だよ。
0645人間七七四年
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2016/12/04(日) 04:13:10.50ID:wdyJvQ8o
その手の所業を非道とか言ってたら大概の大名は似たようなことやってるよ
そういう時代なんだから
0646人間七七四年
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2016/12/04(日) 04:15:27.31ID:dwO4q/jN
山内家が捏造した逸話の可能性もあるからな
0647人間七七四年
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2016/12/07(水) 15:28:17.24ID:wzXFyZ3J
山本太郎、安倍首相をメッタ斬り!
「TPPはゲームセット、完全に詰んだ!」


抑制のない成長に基づく経済政策は終焉

日本国民はどう対処すればいいのか
新しい政権は民意を反映し、
食糧、住宅、健康、教育、最後に防衛です。
国民の意志を裏切ることは、
極端な場合、自殺や殺人にまでつながります。
民衆の指導者は
職業的政治家ではない人々から見つかるのです。

世界平和の脅威は、
イスラエル、イラン、アメリカです。
イスラエルの役割は跪いて、
パレスチナに許しを請うことです。
アメリカによる他国の虐待に
反対の声を上げなければなりません。
彼らが世界中に‘民主的’制度を確立したい
という衝動(世界を支配する)をコントロール
するのは、マィトレーャの任務です。

非常に間もなく
マィトレーャをテレビで見るでしょう。
彼は「匿名」で働いております。
彼は非常に物静かなやり方で話します。
彼の控えめな態度に混乱してはなりません。
マィトレーャは毎日テレビに現れ、
質問に答えるでしょう。
0648人間七七四年
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2016/12/09(金) 13:51:23.02ID:1meatGw0
長宗我部元親がクズなのはいわずとしれたことだからな
今まで山内が悪いとし過ぎただけだろ
長宗我部の盆踊り大会、山内の相撲大会で仲良くやれば良いだけの話
0649人間七七四年
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2016/12/18(日) 19:07:41.25ID:NbToAifq
質問させてもらいたいんだけど俺の苗字は別役って言うんだ親父とかに聞くと戦国時代は長宗我部の重臣だったって言うけどホントかな?
ネットで調べると苗字と同じお城があったりするが、関係あるのか詳しい方いらっしゃったら教えて頂けるとありがたいです
0650人間七七四年
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2016/12/18(日) 21:07:44.06ID:j3/N6bXj
小物すぎてわからん
0651人間七七四年
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2016/12/18(日) 22:51:26.83ID:UrADJEbq
香北町あたりに500石強の領地を治めていたようだね
0652人間七七四年
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2016/12/20(火) 10:37:20.45ID:cZbVM/8W
>>651
>>650
レスありがとうございます。
やっぱり小物ですよね...文献漁っても全然出てこないし
九州出兵の際に当主が信親と一緒に戦死したとか聞いたこともありますが親父は亡くなっているので身内でも知ってる人少ないんですよね
0653人間七七四年
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2016/12/20(火) 16:07:12.87ID:YgxRQiO9
1000石以下の人物とかよほどなんか変わった事やってないと
記録にほとんど残らんからな
織豊とか徳川あたりなら残ってるかもだけど
長宗我部あたりじゃ・・・
0654人間七七四年
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2016/12/20(火) 19:23:55.17ID:wmsleZzg
>>653
本家の方行けば家系図やら文献やらあるらしいのですが、大分疎遠になってしまっていて...これを機にお邪魔してみようかな
0655人間七七四年
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2016/12/20(火) 20:33:12.85ID:uZv7dgW6
>>652
戸次川合戦で戦死者に別役三郎左衛門の名前があるね
凄いね信親と最期まで戦ったんだね
0656人間七七四年
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2016/12/20(火) 20:49:16.02ID:gRn+lrqq
>>655
そうですその方がどうも直系では無いですが、御先祖様だそうで
かの有名な長宗我部の家臣として戦ったと言うのは誇りにしてますww
許すまじ仙石
0657人間七七四年
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2016/12/20(火) 21:01:06.96ID:uZv7dgW6
>>656
郎等一人連れていたみたいだね
おそらく血縁関係がある人だと思う
戦死者の名前の順が早いのでなかなかの身分だったのかも知れないね
0658人間七七四年
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2016/12/20(火) 21:02:44.31ID:gRn+lrqq
>>657
わずかですが所領と城を頂いていたみたいですね。
でも、全然文献がないので今度訪ねてみようかな
0659人間七七四年
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2016/12/20(火) 21:08:12.69ID:uZv7dgW6
>>658
是非行くべきだよ
大分県の戸次川合戦場跡に長宗我部のお墓があるからそちらも行きなされ
0660人間七七四年
垢版 |
2016/12/20(火) 21:10:53.65ID:q24Q6akh
うらやましいのう
父親の実家の隣町に姓と同じ小城跡があって、城主も同姓だからひょっとするかもしれんが、だとしてもこちらは陪臣よw
まあ、うちは分家の分家なんで本家とは付き合いなんてないから調べに行くきもおきないが
0661人間七七四年
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2016/12/20(火) 21:11:36.28ID:gRn+lrqq
>>659
東京からだと長旅になる予感...でも自分のルーツ巡りができるって幸せ者なのかもしれないな信親様のお墓に手を合わせてこよう
0662人間七七四年
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2016/12/20(火) 21:13:40.29ID:gRn+lrqq
>>660
まぁ家も分家だし、本家と殆どの縁が切れてるから貴方と同じようなものですがねw
本家も武家の直径かどうか...聞いて見ねば
神社やってるから宗家ではあるんだけれど
0663人間七七四年
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2016/12/20(火) 21:39:19.01ID:YgxRQiO9
昔、谷忠澄だか滝本寺非有だったか
どっちか忘れたけど、子孫だっていう和菓子屋の女の子と
お知り合いになった事あったなあ・・・
当時は信長の野望くらいしか知識なかったから
長宗我部の内政要員が先祖なんだーくらいしか思わなかったけど
0664人間七七四年
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2016/12/20(火) 21:51:41.49ID:uZv7dgW6
私の先祖は徳川の家臣で友達の先祖が武田の家臣だったな
戦場で会ったかもねと話してる
0665人間七七四年
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2017/02/09(木) 16:31:44.82ID:l+E34J+h
やっぱり四国の人たちは仙石秀久大嫌いなの?

長宗我部って薄幸なイメージあるけど
子孫が龍馬なんだよね
それだけで凄いわ
歴史上の人物ナンバーワン人気
0666人間七七四年
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2017/02/09(木) 16:44:00.17ID:l+E34J+h
長宗我部に使えてた者の子孫ってこと
0667人間七七四年
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2017/02/10(金) 07:53:54.40ID:bsBCYtdJ
坂本龍馬が自称してたのは明智の子孫だろ
0668人間七七四年
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2017/02/10(金) 09:47:20.11ID:acSHMQKQ
明智の子孫ってすごいのかすごくないのかわからん
0669人間七七四年
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2017/02/11(土) 13:56:15.39ID:F+FoEspV
名前が残ってる人の子孫だから一応凄いと思う
よっぽど悪行を積み重ねて悪名高くないかぎりは子孫を自称したくなるでしょ
織田信長の子孫にとっては悪者だろうけどね
0671人間七七四年
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2017/03/27(月) 18:49:42.35ID:ZChbjv0W
          愛媛県                 PUMA

           ,,,llll、             , ,,                 ,,,,,
          iiilllllllllli、 ,,iiiiiiiiii,,,iilllll    iiillllllliiiiiii,、            ,iillllll!
         iiillllllllllllllllllllllllllllllllllll!!!!!!   `!l!!!lllllllllllllllliiii、        ,ill!!´
         llllllllllllllllllllll!!´`       ,,iiiiiiiiillllllllllllllllllllllliii、      ,,il!´
      ,,,,,,iiillllllllllllllllllll!!´         `` ``!!!!!´`!!lllllllllllllliiii,,,、 ,,,,iill!
    ,,,,illllllllllllllllllllllllllll,                  `!!!!!!!!!!!!llllllllllli、
 ,,,iiii!!!!!llllllllllllllllllll`´´´                        `!llllllllli
´´´  lllllllllllllllllllllllli                           `llllllll
      ``llllllllll´´                           `!!lllii、
     !!lllllll`´                               `ll、
      llllllllll                                 !!!!
      !!!!!
0672人間七七四年
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2017/04/29(土) 21:32:10.22ID:03+S0QAL
河野氏絡みの冊子欲しくて愛媛まで行きたいけどそれだけのために道後公園行くには遠すぎる
取り寄せとか出来たら良いんだけどな
0673人間七七四年
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2017/06/05(月) 22:29:04.80ID:T0Eu+15C
ついにセンゴクで次週戸次川の戦い来るでー♪

なお権兵衛は「強いやつと戦いてぇ!」という理由で家久と戦う模様
0675人間七七四年
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2017/06/09(金) 20:10:33.44ID:TZQWiV/Q
前代未聞の大逃走はどう処理するつもりなんだろうな
蒼天航路の赤壁並にわけわからんことになりそう
0676人間七七四年
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2017/10/24(火) 10:22:48.72ID:+vmeDOog
大敗したのは事実だけど讃岐まで逃げたってのは司馬遼太郎の創作だって話は本当?
0677人間七七四年
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2017/10/30(月) 14:49:35.51ID:q2poYHhW
今日のその時ー♪

センゴクで遂に信親死亡………
0678人間七七四年
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2017/11/03(金) 04:49:40.20ID:+gubPHmn
知らんけど司馬史観がさも事実かのように語られてるケースは多々あるわな
0679人間七七四年
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2017/11/10(金) 19:30:27.00ID:a9KTd7T+
豊臣政権下では長宗我部氏は一条氏の陪臣扱いだったって話がネットでちらほらあるけど本当かなあ?
0681人間七七四年
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2018/05/18(金) 01:07:36.86ID:unLtDy2F
伊予河野 山内氏朋 
西園寺  山内氏朋
土佐一条 中脇聖
長宗我部 平井上総、津野倫明

ってな感じか研究者
0684人間七七四年
垢版 |
2018/08/25(土) 22:41:32.93ID:i//4dkQR
色々資料手に入れたから久々にこのスレ来たけど過疎ってるなあ
0685人間七七四年
垢版 |
2018/08/26(日) 10:38:30.40ID:qApcvSEP
実際こんなところに新情報書き込んでやるくらいなら
ツイッターとか個人HPとかで自分の名前でやったほうがいいと思う
0686人間七七四年
垢版 |
2018/08/26(日) 11:15:51.92ID:ZqSlmf3l
新情報なんてほどの話じゃないからこそゆるくやれるところが欲しかった
まあニッチ過ぎるしそこらへんは仕方ないか
0688人間七七四年
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2018/08/29(水) 18:44:21.05ID:EWJ4T+8q
「過疎ってるから書かない」とかいう理由で書かないなら
そもそもこんなとこ来るな
0689人間七七四年
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2018/09/02(日) 20:54:49.54ID:gSKWUGNa
■ハプログループで語るスレに出没し、数年に渡って荒らしまわる危険人物
IP:221.52.219.121 = Y染色体ハプログループO2a2b1a1= キットナンバーN264217 = Chosogabe
https://www.familytreedna.com/public/japan?iframe=yresults
本物の秦氏の子孫、秦の始皇帝の末裔と考えられるY染色体保有者

■バレたスレ
【IPなし】ハプログループで語るスレ 裏スレ3
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/geo/1535447834/276

■荒らしているスレ
【Y-DNA】ハプログループで語るスレ44【mtDNA】
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/geo/1524323706/
【IPなし】ハプログループで語るスレ 裏スレ3
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/geo/1535447834/

■内容
・漢民族(O2)にアイデンティティを持ち、O1bを朝鮮人、D1bを土人として決め付け徹底的に差別。
・天皇家が自分と同じO2であると妄想し、異なる意見を片っ端から罵倒し粘着する。
・人がいない時は延々と根拠無い妄想を垂れ流し、自己満足に浸る(数年継続中)。
・縄文人が気に入らないらしく、下層階級、底辺、エタ、土人とこき下ろす。
・弥生人も気に入らないらしく、チョン一重とこき下ろす。
・ヒートアップすると相手を精神病扱いする癖あり。
・口癖は「一重二重」「んだよ」 ←妄想の押し付け
・立場が悪くなったらコピペ連打のパラノイア。



おい、長宗我部のガチの直系子孫(遺伝子確認済)がトチ狂って2chで荒らしまわってるぞ。
家臣団の子孫が居たら救いにいってやってくれ。
0690人間七七四年
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2018/09/03(月) 23:11:34.23ID://aKlRHY
河野家譜築山本に名前のある河野通昭ってその当時活動した記録あるんだろうか
本自体の信憑性の問題もあるしどこまで記述を信じていいものか分からない
0691人間七七四年
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2020/01/17(金) 20:33:50.87ID:IMeT9572
通用しない情報もあるだろうけどわかりやすいな
ttp://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:2/62/view/7858
0692人間七七四年
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2020/06/12(金) 07:33:54.43ID:hIUVxTkJ
吉田政重ってエピソードも面白いしもう少し知名度上がってもいいんだけどな
0693人間七七四年
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2020/08/15(土) 19:44:46.53ID:3jPXTQV6
大分もんだが今日11時30分頃、大分市中戸次 長宗我部信親の墓傍を通ったら、
高知からのマイクロバスが1台停まってた
盆に信親公の墓参ですね  頭が下がります
0694人間七七四年
垢版 |
2020/10/25(日) 01:10:51.62ID:Zjz+VLYF
戸波親武・比江山親興らの父であり
長宗我部国親の弟である長宗我部国康なんですが
ネットに全然情報が無い
2人の子供を残してるって事は夭折したりしたわけじゃないでしょ?
国康はいつどうやって死んだんでしょうか
事績について何かわかりませんか?
0695人間七七四年
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2022/01/02(日) 12:59:53.87ID:MDPY1CV/
別姓名乗っても良さそうなのに長宗我部姓なのね
0696人間七七四年
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2022/01/03(月) 18:23:37.01ID:jArG7hCl
>>679
豊臣政権ではなく織田政権だろう
長宗我部元親が傀儡として一条内政を土佐国司・大津御所としていたので
元親自らが表向きは一条氏の老臣として振舞うことで国内の一条派を押さえていたし、
『信長公記』にも「土佐国捕佐(補佐)せしめ候長宗我部土佐守」と書かれている
しかし内政は、本能寺前の1581年に伊予へ追放または元親に殺害されているし、
秀吉は四国征伐後に元親に土佐を与えているので、秀吉政権時には一条氏は
国主ではない
0697人間七七四年
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2022/02/26(土) 01:10:06.42ID:hyv/ltP9
>>690
その築山本を信用すると河野家は庶流が築山と名を改め堀尾氏次いで浅野氏に仕えたことになるということか

河野通宣ー通昭ー通許ー通護ー(略)ー通政
0698人間七七四年
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2022/05/22(日) 18:36:53.85ID:6w7Ngp4j
こいつのゴミの人生
 「あいつ、タンヤオばっかり、すぐ狙うだろ、面白くないんだよ、皆んな嫌ってんだよ、タンヤオばっか、狙うんだよ、皆んな嫌ってんだよ、一緒にしたくないわ」





自衛隊を首になるわ、お前が、詐欺師
0699人間七七四年
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2023/01/29(日) 08:30:51.50ID:5tsOXBpK
香川県が昭和に編纂した香川叢書
香川県下の寺や神社での由緒や縁起録。

全部調べたら長曾我部元孝によって焼かれたという寺社のほとんどは事実と合わない
年代とか勢力とか。
時代が合うのは三好の讃岐攻めの時のものが多い
つまりは江戸半ばになってから三好やら他の勢力による焼失をすべて長曾我部の責任に押し付けている。
この流れは現代になっても続いていて例として大窪寺や一宮寺は天正2年に長曾我部により焼かれたといまでも
寺の説明でされているけれど天正2年はまだ元親は土佐から出ていない。
そしてその天正2年は三好が攻めてきた年。
三好に焼かれたと南海治乱記他書いてある。
そして大窪寺自身も大窪蜜寺記で長曾我部以前に焼かれていたと書いてあるが、これを改竄して長曾我部が焼いたと伝える。
更にどうしようもないのが埋蔵文化財センターなどが寺の発掘調査の報告書で「長曾我部に焼かれた」と
寺の話をそのまま報告書として書いている事。
このように元親によって焼かれたという捏造は続いている。
これは江戸末期の全讃史で中山城山も長曾我部は冤罪であると語っている。
0700人間七七四年
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2023/01/29(日) 08:43:18.41ID:5tsOXBpK
他にも顕著なのが例として元親の天霧城攻めの時に焼かれたと説明する寺社とかがある。
もちろん元親は天霧城攻めをしていない。
天霧城攻めを行ったのは三好である。それも再三に渡って行われている。
何よりも長曾我部が讃岐に来るまでの間、讃岐は100年に渡って戦乱となり、
三好の讃岐攻めは50年以上何度も繰り返されている。
ところがこの三好が讃岐を繰り返して攻めたという事実は語られなくなっている。
元親が寺社を焼いたという話しは江戸半ばになってから急に増えている。
中には逆賊長曾我部などと書いてあったりするがこの逆賊との表現は戦国期に於いて誰への逆賊なのか?
つまりは関ケ原や大阪の役を経て徳川から見ての逆賊ではあるが戦国期の元親を逆賊と名指しする不適当さがわかるだろう。
これが何を意味するのか。
阿波に荒らされたとするより土佐の長宗我部に荒らされたとする必要があった。
そもそもが上で誰かが僧を殺してかぞくを殺し云々と言っていたがそんな記述はどこにもない。
僧を殺し寺を焼いてなどというはなしであればそれこそ三好は近畿で散々やっている。
また、金毘羅などは復興に元親の力があったのだがその事実を金毘羅は隠している。
このように元親は後世にスケープゴートとして利用されていったと思われる。

滅んだ者にすべての責任を押し付ける狭量さが見える。
0701人間七七四年
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2023/01/29(日) 08:57:21.29ID:5tsOXBpK
この話は徳島県でも同じ現象が見られると語っている研究者がいる。

さて、高松市塩江町の前場城には平成末期に大きな碑が創られた。
教育委員会の長が中心となってつくられたその碑は「鎮魂碑」
そこに掘られた文面。
「長曾我部が前場城を攻めた際に無垢な里人を殺戮しその怨念により天才が今でも起きる。
その魂を鎮める為にこの碑を云々」
この地域で里人が殺されたのは仙石秀久の時代。
それまでの長宗我部政権だったころよりも重い年貢を強いる仙石に反発する農民を100人磔にしたと言われる。
後にも先にもここの人たちが殺戮されたという話しは他にない。
元親の内場城攻めについて見られるのは安原史という文書があるがこれは江戸半ばになって九州の民家で見つかったとされる。
その見つかった経緯を聞くだけでも中身の真偽に疑問が湧くのだが、書かれている城攻めの年や攻めているのが元親本人だったりと
史実とそぐわない。
このかなり怪しい文書にそれでも元親による里人の殺戮がかかれているならまだしも勿論そんなことは書いていない。
また、ここの伝承で百々ヶ淵というふちから大蛇が出て退治したというものがあるのだが昭和にとある作家がこの大蛇は土佐の兵の事である。
元親が讃岐侵攻の際に大虐殺を讃岐全土で行ったことはまちがいなくなどと書いてあるがそんな事実は確認されていない。
しかし歴史資料館はその一文を大きく掲示している。
0702人間七七四年
垢版 |
2023/01/29(日) 09:10:34.47ID:5tsOXBpK
上で誰かが語っていた由佐長曾我部合戦記。
これは真実ではないという事も述べておく。
やはり江戸半ばになって書かれたものであるが、この由佐という地域は学者が多く輩出されている。
教育文化の高い地域だと言える。
つまりそれなりの学識を持った人により書かれた史実と違った物語。
ただここで厄介なのは由佐家古文書という本物もあること。
これは様々な勢力からもらった感状などが中心となった古文書だが、この古文書に沿って創作している。
ここでは天正10年に元親本軍が由佐城攻めを行っているがここに元親はいない。
天正10年と言えば西から香川親政を総大将とした西衆(讃岐・阿波・伊予の混成軍)が西長尾城から香西を8月に攻めた後に
十河城まで到達しており、ここで阿波から侵入してきた元親本軍と合流している。
由佐長曾我部合戦記では元親本軍とこの西衆が一緒に由佐城を攻めてそのあとに香西攻めをしたとあるが時系列が合わなさすぎる。
ここに書かれてある人名が他の文書で見つからないのは当然のことでフィクションだからだ。
他の寺社でも言えることだが発掘調査を行うと焼かれた跡などは見つからない。
事実は西衆が香西を攻めながら十河城を目指すに際して戦うことなく降伏したというところだろう。
ところが中身を検証することもなくこの由佐長曾我部合戦記を事実として語る人が江戸期も今も多いことから真実から遠ざかっていると言える。
上の人も由佐長曾我部合戦記をもっと深く精査してみることをお勧めする。
0703人間七七四年
垢版 |
2023/01/29(日) 09:23:23.49ID:5tsOXBpK
由佐は特にこの長曽化へ元親をスケープゴートとするのに懸命だった地域だと言える。
先に書いた安原も由佐である。
ところが長曾我部は冤罪であると語った全讃史の中山城山がこの由佐の出身であることも興味深い。
彼は讃岐の人々の元親をスケープゴートとして語るところを史実を追及する郷土史家として苦々しく思っていたのではないか
しかしその想いは今でも叶わず、平成になっても1千万円はしそうな鎮魂碑を築いたり、寺の説明文も改竄されている。
先日、久米石清水神社にお伺いした。
碑に永正のころに長曾我部元親によって焼かれ・・・と書いてあった。
神主さんのお話では先代の神主が調べて書いたという。
久米石清水神社の由緒書は戦前に高松市内の方が持っていてそこで借りたものを県が香川叢書に編纂している。
いわばそれだけしかないのであるが恐らくは空襲で焼かれただろう。
ともかくもそこには元親が焼いたなどとは書いていない。
永正のころに焼かれたとは確かに書いてある。
しかし永正といえば皆さんもお分かりの通り元親は生まれていない。
どこから元親がとなったのか・・・。
神主さんは先代が懸命に調べた結果だから正しいのだと言うのみ。
こういったことがありとあらゆる寺社で行われているが香川県の県立ミュージアムのお話では
「寺が語っている以上はそれも歴史であり、通説であり正しい」
とのこと。讃岐の人は宇宙から来たとどこかの寺が語ればそれも史実として報告書に書くのであろう。
生まれてもいない元親が焼いた寺があるというのはある意味ギャグである。
しかし特にお年寄りの郷土史家はこういつた史実にそぐわない元親悪人説をしたり顔で語っているのが現在の香川県なのである。
0704人間七七四年
垢版 |
2023/01/29(日) 09:25:17.43ID:5tsOXBpK
誤字脱字失礼しました。
そして長文も失礼しました。
誰か一人でもこの状況を分かっていただければと思います。
ちなみに僕は三好側の子孫です。
それでもこの元親をスケープゴートとして続いている郷土の狭量さに我慢がならないなと思っています
0705人間七七四年
垢版 |
2023/02/03(金) 02:28:21.71ID:Rs75Jo17
安芸吉川氏が土佐の分郡守護とされたらしいんだけどどういった経緯でそんな事になったんだろう
0706人間七七四年
垢版 |
2023/02/03(金) 13:44:27.89ID:L+gVH3ID
>>705

朝廷に献金したんだろうか?
0707人間七七四年
垢版 |
2023/03/09(木) 23:53:08.66ID:BFiwOnom
自称始皇帝の子孫とは、大きく出たよな
超人的存在除けば、皇族及び源平藤橘より格上だろ
0708人間七七四年
垢版 |
2023/08/28(月) 04:38:49.21ID:YzjUVwto
REVELATION
資金源/コング
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汚職/集団ストーカー/ハッキング/盗聴/盗撮/家宅侵入/揉み消し
揉み消し加担
0709人間七七四年
垢版 |
2024/03/29(金) 18:03:02.03ID:Uwg5Gp8q
ttps://news.denfaminicogamer.jp/kikakuthetower/240329h
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