伊勢の名門―北畠―
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別に京に行けば他の村上源氏がごろごろいるからな。
本家である久我家も残ってるし。 つっ、塚原だよっ べ、別にアンタに教えてる訳じゃ、無いんだからね ただ間違えて覚えてしまって、人前で恥をかいても 有馬家が末裔ってのはどんだけ信憑性があるんですかね… 結局、江戸時代まで家名を残せなかったのか。
血脈が残ってれば、旗本程度にはなれただろうに。 伊勢国司家としては信雄さんのとこが引き継いだってことでいいかな 結城みたく祭祀は天童織田家でやってるみたいなことはないかな
それとも村上源氏にお返ししたのか >>94
1年以上前の話に亀レスだが、浪岡から舘野越に落ち延びる途中、当然大混乱となった。
また、江戸時代に隠棲していた舘野越周辺に津軽藩が色々聞きまわったときに
素性が割れるのではとドタバタがあった。
浪岡城落城後はいつ素性が割れて手入れが入り根絶やしにされるかという恐怖が常に付きまとった。
証拠物である錦の旗を持ってる家は津軽藩に根絶やしにされる危険を蒙るため、
本家が根絶やしにならないように直接本家の手元に持たない方策を取ったとかなんとか。
家系図にしてもそうで、生存戦略のために本家を本家と絶対的に証明できる物は
消失しただけでなく意図的に残していないとか。
親は明言はしなかったが、そうした経緯で明治維新の復姓時に
たまたま旗を持っていたところがこれ幸いと宗家を称していると理解している。
いずれにせようちは明治以降に分家となってるため本家ではありえないが、
どこが本家かなんてもう分からんとさ。そのため「うちの本家筋」とかいう言い方をしてる。
北畠家は、南北朝時代まで公家として和漢の学を持って天皇に仕えた。
その公家の執務に堪える頭脳くらい受け継がれててもいいと思うんだが、
どう見ても名前負けしてる癖に虚しく家柄を誇る奴が多すぎる。
明治維新で復姓し、約270年に渡る滅亡の恐怖からやっと解放されて
世の中に出られたのだから、受け継いだ能力で社会的成功を収めるよう
精進したらいいと思うんだけどねー。 >>166 御先祖に当るんだから普通は祭るでしょうね。 具教の男系子孫っていないのかな?
あと織田家に遣えた事もあるっていう、江戸時代も武家として存続した庶流ってどこのことでしょうか? >>172
武田並みの根絶やし政策くらってたような
落し胤とかも聞かないし 田丸直昌は剣の達人で北畠具教の甥っていわれているけど
北畠具教に田丸具忠という兄弟がいたという系図が見当たらない。実際のところどうなのか 具房の遺児が浪岡に逃れたとか
木造の子孫は肥後細川に仕えてたり >>177
1行目はデムパサイトの受け売りwwwww >168
小さい頃に盆に錦旗を見に行った事があるがもしや親戚か??
ウチでもあっちだのこっちだの親が話してた記憶があるがウチは館野越の系統ではないと言ってた希ガス。ウチのじーちゃんも94のばーちゃんの如く凛としていた記憶がある。
伊勢の人達ってどこにいるんだろ... どうだろ?浪岡の一族なら遠い近いということはあれ、親戚かも。
ttp://homepage1.nifty.com/t-kubo/Japan/meizoku/namioka.htm
↑どこまで本当かはよく分かりませんが、うちはとりあえず
館野越に落ち延びた一族でつ。その後親に聞いたら旗は
どうなっても痛くも痒くもないところに身代わりに預けたそうで、
館野越ではあそこがほんとの本家ではないというのは通説だ、とゆうてた。
スレ違いばかり続けるのも何なんで、ちなみに顕家との関係ってどう聞いてます?
(これでもスレ違いといえばスレ違いだけど)。ネット上の通説と伝承とがずいぶん違うのでおやっと思ってる。
うちは霊山落城かなんかのときに娘の姫君が浪岡に逃げてきたって聞いてるんだけど。
浪岡落城のときも男共は皆殺しにあって、かろうじて姫君と側近の女たちだけ
逃げてきたと聞いてて、家臣と結婚したとは聞いてるが、顕佐が本家を継いだとか言う話は聞いたこと茄子。
村上天皇から数えて書類上、対世間上はともかく計2回女系になってるという認識。 たぶん遠い親戚だろうw
ウチは恥ずかしながら具信の系統で明治時代に復姓した家系です。
具信があんなことしなかったら北畠家はもう少し良い終わり方をしてたような気がするのですが...。
旗についてはよくわかりませんが近代までの他の系統の名前がウチの家系図にのってる(謀反を起こした系統でありながら)ので交流はあったんだと思います。
霊山から顕成が浪岡に来た(家系図に記載)という話。
浪岡落城の時の話しは全く一緒なので本家筋(?)は一回女系になったという認識。
伝承どころかウチに代々ある家系図とネット上の家系図とも違う箇所があったりしてアレレな感じ。
ウチは津軽藩に身を寄せていたので助かったと聞いてます。(これもこれでおかしい話しだが)
弘前出身で東京在住で大鰐と札幌に一族がいます。
このスレはもう浪岡も伊勢もごっちゃでイイ希ガス。
ちなみにたまたまウチの山を管理してたオッちゃんが伝説の伊勢の昌教を秋田に連れてきた家臣の子孫だとか言ってました。
長レススマソ。 というかウチには家系図が残っているが本家筋には残っていないのか??
浪岡の資料館にも貸し出したことがある。
名字を変えていたから残せたのだろうか? レスどうもです。
じゃあ顕成の系が昔からの言い伝えで、うちで聞いた話はどこかで劣化したんですね。
しかし、よそで聞く顕成が吉野にずっといた説の1次資料は何なんでしょ。
> 系図
なぜか親が系図を持ってきていません。私自身マジで信じられません。
近い親戚間で仲悪くごたごたが絶えず、親が嫌がってるので系図とか北畠関係の由緒あるものは見たこと茄子。
ボケる前に近い親戚から系図の写しをもらってきて伝承の類も全部電子文書化してくれと言ってるところでつw
本家筋からはそれなりに離れてるようなので、情報が劣化してるかもしれませんが
浪岡落城のときには持ってこれなかったような。ただ、明治の復姓時には使ったはずなので、
全く無いはずも無く、いつ頃作ったものかはともかく、系図は本家筋にはあるはずです。
ちなみに前の循環器学会会長が新聞に載ったときに、館野越のうちの本家筋の人だと聞いたことはありまつ。
どのくらい離れてるのかというのはよう分かりませんが。
具信の末裔と交流が江戸時代にあったという話は初耳ですが、あの目と鼻の先で見逃されたこと、
京徳寺の禅林街移転とその後の処遇を考えると具信の末裔に匿われたのだろうなと納得がいきまつ。
すべてを失ったところから始まり、明治の復姓時に庄屋・地主としてそれなりの力を持ってたのは
やはり津軽の目の光ってる中で自力では無理ぽ。普通に考えると。
長文でスマソ >>176
田丸具忠というのは、北畠具教の祖父材親の弟、田丸顕晴の子。
だから、田丸直昌が具教の甥というのはまったくの誤り。
年齢は離れてると思うが世代的には同じ。
北畠政郷 − 北畠材親 − 北畠晴具 − 北畠具教
L 田丸顕晴 − 田丸具忠 − 田丸直昌
となる。直昌が剣の達人というのも初耳だが。。。 自分が入り込めないやつは全部自演かよ
もっとやってくれい つか2ちゃんっていう匿名の板で自分の家系がどうのこうの言ったって真偽を確かめる術はない
だから本物であれ偽物であれ、家系自慢は嫌がられるってだけ
傍流さんで新しい事が聞けるわけでもないしな
どうせこのスレ過疎ってるから放っておこうとは思ってたけど
流石に正論吐いた>>187に対してもっとやれって自演してまで自分の家系話しを続けたいのは目に余るわ
自分達で掲示板でも作って存分に語ればいいじゃない? いきなりの上にマイナーだがウチの近所に伊勢北畠の重臣奥山信濃守の子孫が当時と全く同じ場所に住んでる。
城山って地名残ってて小森上野城って木造城の支城あとらしき場所もある。
忠臣奥山常陸介とは別系
ちなみに江戸時代は一郡に匹敵する土地をもつ豪農だったみたい 本田左京佐 清和源氏足利今川末枝 松阪市松江船江城主 侍所家老
だれこれ?
今川庶流に本田?わからん >>191
そういえば中学、高校の同級生に奥山君っていたけどその辺だった覚えが。
現代にもつながってることが実感できると、歴史は面白いね。
奥山に紅葉踏みわけ鳴く鹿の 声聞くときぞ秋はかなしき。 具藤の官位ってわかってないの?
兄の具房が左近衛中将、弟の親成が式部少輔とわかっているけど、
具藤の官位は調べてみてもわからない・・・。
>>191
すまぬ、正にその小森上野の住人なのだが、
城のあった場所を教えてくれないか?
地元だけど全然知らんのだわ。 城山から坂下ったところにあるバス停北側の細い坂の上やよ。相川見下ろす高台 >>198
わかりにくいので小森上野城の位置(goo地図)
http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E136.30.46.734N34.40.35.547&ZM=9
子供の頃遊んだ記憶では遺構などはなかったと思う。
場所は伝承というか「城山って言うけど城あったん?」と祖父に聞いたらソコと教えられた。
地勢的にも北から来る敵を迎え撃つにはいい場所かもと地史を知るようになってから思った。 >>199-200
おおお、サンクス!
あそこにあったのか〜!
全然知らんかったわ。
そういや石柱みたいなの建ってるけど、何か関係あるのかしらん? 石柱みたいなのって戦没者慰霊碑じゃなかったかな?
よく覚えてない。
あと里の上に小森城っていうのもあったらしいけど、コッチは場所がわからない。
昭和18年に土塁跡破壊ってなってる。
今の小学校か中学校あたりにあったのかもしれん。
槍主水の家城城跡には、この間行ってきました。 現地確認してきた。
石柱は大正に立てられた氏子中だった。
で、宇氣比神社なるものが出来ていて驚いた。
ガキの頃はあんな神社の体裁なかったんだけどなあ。
で、坂上っていったけど、城跡はよく分からなかったw
民家になってるところ辺りなのかな? 伊勢の北畠氏は、国司から戦国大名になったといいます。
守護から戦国大名になったとは、よく聞きます。例えば甲斐の武田氏、駿河の今川氏など。
北畠氏は、伊勢の国司でもあり、南伊勢半国守護だったとも聞きます。
国司から戦国大名とは珍しいです!
そこで素朴な疑問ですが、朝廷の律令制度の国司は南北朝期には、
幕府の任命した守護にその地位を奪われ形骸化したといわれています。
北畠氏の国司は、実権を伴った地位だったのでしょうか? そもそも後醍醐天皇の建武の新政において公家と武家をまず平等に扱おうという所から
天皇が打ち出した方針が国司・守護を並列させて任命するという方針だ
もちろん官位上では国司が守護を包括するけど、それぞれ独立し、各地に配置した
当然、その後の南北朝の混乱では国司側が南朝に、守護側が幕府にスライドした
北畠氏は南朝の大身であり、北朝に降伏した後もその位置を保った存在だからな >>205 >>206少し調べて見ました。
南朝の国司は、南伊勢に限っては、実権を伴った地位のようですね!
南北朝合一(1392)後は、その既得権が幕府にも認められ、
北畠顕泰が、先ず南伊勢半国守護に補任されています。
応仁の乱後の文明期には、北畠政郷が、北も含めた伊勢一国守護にも
補任され(1484)、その後戦国大名としての地位を固めた。
の時系列のようです。 先日、長宗我部氏の本を読んでいたところ
「伊勢の北畠朝親」なる人物が登場し、小牧長久手の戦いの際に
家康の命令を受けて四国・紀伊方面へ動くように使者として派遣された・・とあったのですが
この北畠朝親って誰なんでしょうか?
伊勢北畠氏の一門?信雄の一門?
検索すると六角承禎の娘が妻で・・・とかいう記述もあるんですが
同一人物だろうか?
情報お願いします。 「忍びの国」で北畠具教の格好良さが描かれてます。
ほんの少しだけど。
ああいう注目される本(ベストセラーの「のぼうの城」の著者の2作目)
にのって知名度かなりUP?
名門といっても戦国期での認知度ひくいからよかったね。 >>209
>六角承禎の娘が妻
これが正しいなら北畠具教の弟の北畠具親だな。
但し具親は小牧の役において秀吉方の蒲生氏郷の客臣なので、
>家康の命令を受けて四国・紀伊方面へ動くように使者として派遣された
とは矛盾する。
その長宗我部氏の本の末尾にあるだろう参考文献一覧にそれらしいものがないかね? >>211
読んでいた長宗我部氏の本の参考文献欄には
長宗我部氏関連と、土佐関連の資料しか載っていませんでした。 >>212
いや、その長宗我部氏関連の史料に記載されてるはず。
「香宗我部家文書」や「土佐国蠧簡集」の細かい内訳([-Bなどの文書記号や書状名)も無い?
小牧の役の際信雄や家康との交渉を担っていたのは親泰なんで、
香宗我部関係の史料を当たったほうが早い。
文献名しか書いてないのであれば、情報としては>>211ぐらいしかわからんなぁ。
お役に立てずすまん。 天正12年比定の朝親署名書状(植松文書)。
本多重次に宛てて、紀伊・四国方面の取りなしをしたので、
家康に伊勢国内の旧領回復を取りなしてほしいと依頼している。
「伊勢国内の旧領回復」から北畠氏を当てたんだと思う。 >>215
確か文書上では「朝親」だったと思う。
まぁ当時は本人ですら字にはこだわらないって場合もあるしな。 >>191
大正二年まで高茶屋村小森に住んでいたらしい奥山姓のものです。
家系図をわかりやすくまとめようと思い、いろいろ調べたりネットで検索していたらこのスレを発見しました。
そんな城があったなんて初めて知りました。一度城跡らしき所にも行ってみようと思います。
他になんか知ってることがあったら何でもいいので教えてください〜。 >>220
高茶屋小森は奥山姓だらけで分家や元小作の家とかも明治以降は奥山名乗ってる。
正直にいって、どの家出身か探るのは難しい。
ただ血縁関係入り組んでるので小森出身奥山家なら多少の血は入ってると思われる。
屋号など分れば今でも系統は分るかも
こんな地元民しか知り得ない情報ばらして良いのかw >>221
日本は武士の帰農が15世紀から17世紀にかけて盛んに行われたから、
自分たちが思っているよりも武士の血を引く家は多いぞ? >>222
おお!貴重な情報ありがとうございます〜。
商売しているので、文字を組み合わせたような屋号はあります。(マルダイとかヤマサみたいな)
家紋とかはどうなんでしょう。あまり当てにはならないですかね?
高茶屋の奥山姓に一人知り合いがいるので聞いてみようかな。
ところで、えらく詳しい>>222さんは奥山さんですか?
原戸籍謄本やら除籍謄本で天保10年に亡くなった先祖まではたどれたのですが、
たしか明治維新までは武家公家以外に苗字は認めらていなかったんですよね?
農民or商人だったであろうウチの除籍謄本の
明治以前の人物に苗字が付いてるのは、たぶん後から加えられたということなんですかね。
その前に滅亡している・・・
おとしだねが逃亡したという説もあるが、同時代史料もなく眉唾の域を出ない
江戸時代以降で「北畠」を名乗っているのは公家久我家の分家 >>224
公的には使わなかっただけで、名字は持ってたよ。
家紋とセットみたいな部分もあるし。 元青森県住人だが、高校の時クラスメートに北畠家の坊ちゃまがいたよ。
当時小柄でメガネの理系男子、名前に顕の字が入ってた。
ウチの祖先は北畠家に従って陸奥まで下ったときいてたんで、殿!なんて言ってふざけた記憶がある。
今までピンときてなかったんだけど、このスレ読んで興味がでてきた。
ちなみにウチは苗字について聞かれたら「館野越の○○」と答えろといわれてたな。
本家にボロイ鎧兜と刀があったけど本物かね。 北畠が伊勢の支配権認められたの南朝の遺臣の世話押し付けられたからって本当? 「忍びの国」に出てきた日置大膳って
史実ではどんな人なんですかね? 安濃津を居城とせずに山奥のほうに引きこもってたわけは何? 三重県民にとっての武将イメージ
服部半蔵→超有名(住んでないのに)
藤堂高虎→津市のみ有名
蒲生氏郷→松阪のみ有名
九鬼嘉隆→志摩のみ有名
北畠具教→誰一人知らない うちは中院家の子孫なんですけど、家系図に北畠へ子供を養子に出したと言う記述があったような。中院通勝という先祖の頃です。養子に出した子供に家督を継がせたが、滅亡したとか聞いたような気がします。歴史に詳しくないので、違うかもですけど… >>245
室町・戦国時代までは都市に居城構える例は無いよ。
土木技術が未発達で要塞が貧弱なのしかできないから、都市部に城造るのはリスキー。
郊外の防御しやすい山にこもった方が安全だ罠w >>247
滅亡してないぞ
中院通勝の次男が継いだというか復興させて(江戸時代になってから)、
地下家として幕末まで存続したよ
確か男爵になったはず
その家系図の記述は史実に合致している ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています