伊勢の名門―北畠―
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北畠って、「伊勢の名門」より、「南朝の忠臣」の方が
しっくり来るし、華があると思うけど、戦国じゃないから仕方ないか。
でも、北畠具教って、公家なのに大名で、しかも剣豪とは、
とても興味深い人物だと思う。 前に居城の霧山城跡に行きました。
本拠の南勢と大和南朝に行き来し易い中間地点に作ったんだって。 >>8
将軍様と国司様ぐらいだろ
むしろ幽斎とか氏真みたいに天寿をまっとうしてるイメージ 北畠政郷と北畠晴具はなかなかしたたかだったらしいね >>12
後南朝の滅亡じゃね?
あれで、幕府に反抗する理由が消滅した。
それに北畠は国司として統治していただけで、守護にはなっていないから
盟友に近い関係だったと言えるかもしれない。 ゲームでも晴具は凡将扱いだったのが最近は有能な評価になってきたな。 伊勢の関氏って、北畠の家臣とかじゃなくて六角の同盟者だよね? 57万石の領土を持ち(伊勢一国)、鎌倉からの歴史を持ち(正三位)、武勇に優れた盟主を持ち、
日本中から人の集まる伊勢神宮と町・港を領内に持ち、あっさりと家を明け渡すいさぎよさを持ち。 伸びないな。伊勢方面の人で、思い入れがある人はいないのか? 具教は剣術を好み、修行の旅をする剣客を保護、援助していた。自身も塚原卜伝に剣を学んだ剣豪である。奥義である一の太刀を伝授されたと言われる。
また、諸国修行の旅で具教の元を訪れた上泉信綱からも剣を学んだ。
具教は、領土が隣接する柳生宗厳とは剣を通じても親交があり、信綱に彼や宝蔵院胤栄を紹介するなど、剣豪たちの交流に一役買っていたと言われる。
具教は、塚原卜伝の新当流に、上泉信綱の新陰流の長所を取り入れた「伊勢新刀流」と言う流派を創始したとされる。
この流派は北畠家の子孫である有馬家に伝わっていたが、現存していない。
織田氏の刺客に襲撃された際も、太刀を手に19人の敵兵を斬り殺すという凄腕を見せている 長野氏とか藤野氏、関氏らが元気すぎて伊勢一国治めてる印象がないんだよな。 57万石も実際に領土無かっただろ>伊勢北畠氏
「獅子身中の虫」というか権勢の有った同族に悩まされ、国内では一向宗が勢力を伸張、
守護大名から戦国大名になろうとしてなりきれなかった印象 伊勢神宮との関係は微妙だった。宇治と山田の間の紛争に介入したりして。
あまり触れられたくない歴史なのかも。 政争に敗れた奴をかくまったりしたはずだか、誰なんだか、何時なんだか。
横山高治氏の本に詳しいと思ったが。(忘れちまったってわけさ) >>35
嘉吉の変の後、赤松満祐の子教康が北畠を頼ってきたというやつ?
北畠は受け入れ拒否したらしいが。 北畠スレなかなか盛り上がりませんね!
自分は陸奥の浪岡北畠、顕則の子孫だそうです。
しかし、浪岡北畠は津軽為信に滅ぼされ、残った者はその後、
顕則含め、それぞれ各諸藩の家臣となり、
どんどん名門から遠ざかり、現在に至るわけなんですが、
当時、その北畠顕則も伊勢新刀流の剣術指南だったらしいんです。
新刀流の創始、伊勢の北畠とはこの流派を通じ、浪岡北畠と
それぞれ交流があったんでしょうか?
その辺、だれか詳しい方居ませんか? 北畠って苗字は今でもあるの?
地元(伊勢方面)に1軒あったような気がした 青森と大阪に北畠姓が多いみたいですね。
全国では約1000世帯くらいあるはず。
世帯ですから、個人になると×3か、4くらいは居るんじゃないですか? 北畠さん1クラス46人の中に一人はいたよ@大阪市内 東京にも居る、↓
ttp://www2.asahi.com/koshien/88/chihou/wtokyo/news/TKY200607210133.html 水戸藩に伊勢北畠系の家臣が召し抱えられたから
茨城にも多いんじゃないかな 河内の方に北畠って地名あるよね。銀行強盗事件が昔あったとこ。
北畠顕家親子をお祀りしてる神社と公園もあるよ
地名はそこから来てると思う
銀行は厳密には北畠にはないんだよね。区も違うし ああ、河内じゃなくて旧国名だと摂津だよ。今の大阪市阿倍野区
伊賀との関係は良好だったんだろうか?
北畠氏は南伊勢が本拠地で北部や中部はどうだったんだろ >46
大阪市内なんですね。北畠氏は江戸時代に公家に戻ったということですが、
そのころできたのでしょうか?
>>50
>延元3年(1338年)、阿倍野合戦で戦死した北畠顕家の墓が当地にあり「大名塚」と呼ばれていた。
江戸時代になると本格的な墓所として整備され、それから当地を北畠と称するようになったという
というのが地名の由来のようなので、整備され呼称されるようになったのは江戸時代のようですね。
顕家のお墓は北畠公園の中にありますよ 北畠氏については神皇正統記ほか、伊勢神宮外宮神宮との協調による著作も数々あり、武家としての実績以上に日本史に影響を
残しているとのことですね。 >>47
甲賀の棟梁山中家とは縁続きで関係は終始良好だったよ。
合戦ではいつも戦忍びを派遣してくれてた。 南大和、熊野、新宮、十津川流域まで支配してたのか。
紀伊半島の東半分を押さえてた事になるな。 >>55
晴具。
wikiだからあまり当てにならないか。 南朝亡き後も、ずっと続いていたという事実がすごい。
後に南伊勢を引き継いだ蒲生氏郷が早々と転封になったのも、
秀吉が地勢的なアドバンテージに気付いたからでは。 北畠が滅ぼされなかったのは、京からの距離がそこそこ離れていたからかな
それとも顕泰の政治力?南北朝合体を平和裏に行うための条件? >>58
>南朝亡き後も、ずっと続いていたという事実がすごい
教具が傑物なんだと思う
義教に献上品贈ったり、満祐の子教康を自害させて首を幕府に送ったり、
常に親幕府で北畠を盛り立てた 私は北畠です。
親は津軽出身。関東在住。
私は数年前関東から大阪へ。
大阪来るまで先祖のこと知らなかった。
最近知った。情けない私。
偶然だがしばらく石津近辺に住んでた。
過去帖も調べた。 まあ、がっこの日本史で習うのは神皇正統紀の北畠親房ぐらいだしな
織田信雄がでてくりゃよく知ってるほう
東北政権とか後南朝とかになるとヲタ知識だ 19人を倒し100人に傷をつけたっていくら何でも誇張だろ 一応、信雄の息子の秀雄、高雄は雪姫の血を引いているが 転勤で津市に来た
藤方 分部 長野 木造 雲林院 戸木 とか
大字に残っていて興味が湧いてきたので
ちょっと自分の中で北畠ブームがはじまったところ ググりはじめたけど
>安濃の長野家は雲林院、細野、分部、家所、草生などの豪族を配下とし
家所 草生 なんてのも現在の安濃町の大字に残っているよ
いやまあ全国的にこういうのはどこもそうなのかもしれんけど >>73
家紋はどんな感じ? お墓の横とかに掘ってあると思うが。 たしか笹竜胆と呼ばれるヤツですよ
青森出身なのだが >>79
そんな話聞いたことない
ソース提示してくれ 在日は華族の名前と左右対称の漢字を好むとはよく言う話。
北畠の子孫は今は有馬だけど。 だから明確なソースを示してくれって
なんでも在日と言われちゃたまらないわ 在日かB民が火病ってるときいて飛んできました
家系図が無い華族の名字なんてB民か在日しか名乗らねーよw ああ、奈良の男爵も北畠姓だね
このあたりの氏族もいるんじゃないかな 元々公家なんだから類族は都のあった関西に多い
むろん伊勢にもね 北方が書いた顕家?とかいう人の話読んだ。
すごいね。惚れた。
未読の人必読。 絶世の美少年顕家といえば、その昔大根ゴクミが演じた
若い人は知らないか 母方の祖母が浪岡出身で旧姓北畠。
「本当は「こっち」が本家なのに錦の御旗をうばわれて「あっち」が本家になった」
と言っていた意味がわからなくてずっと考えていたのだが(祖母は故人)
河原御所の変で当主具運が殺害されて、その後弟顕範一統が本家になったことを言っているのか?
と思いついた。具運殺害時顕村以外にも子がいたのかも知れないし。
自分はその(顕村以外の子、あるいは女子の)子孫なのに傍系扱いになってしまったと。
しかしいずれにしてもさー、浪岡北畠を士族にする話があったらしいが
条件が整わずダメになったらしいじゃんか。
家系の正統性が証明できなかったということで、
顕村以後の北畠は「詐称」に近いんじゃないの?
地元の記録は地元に都合よく作られている可能性大有りだから信用ならないし。
まあ、在日の線はさすがにないとは思うがw
子供時代いっしょに暮らしたが、ばーちゃんのことは大好きだったよ。
「北畠顕家の子孫」と口にするときはきりっとしたいい表情をしていた。
ばーちゃんの姉妹たちもみんな上品で凛とした人で、
「こんなド田舎にどうしてこんな皇族みたいな人たちが?」と
子供心に不思議だったものだ。
それが事実なのかどうかは別として、血の誇りを支えとして、
血に恥じないように生きようとする姿勢は悪いことではないと思うし、
親がそういう矜持をもって子を教育するのも大事なことだと思うよ。
学問的にはいろいろ言いたいことはあるが、
今現在「北畠」姓をもって生きている浪岡出身の方々を貶める意図はないので、
一言付言いたします。
「伊勢の名門北畠」スレなのにお邪魔してすみませんでした。
このスレ、シーンとしちゃってるので、反省しています。 子孫乙。
元々シーンとしてたから安心汁。
>>91
南北朝あんまり知らないけど、北方謙三の『楠正成』読んだら、東北の管領かなんかになった北畠って人が
出てきたけどそれかな。
足利軍追って北畠軍が東北から一気に機内へ押し寄せる所はすごい。
これ読むまでは新田ってのは偉い奴だと思ってたけど、これ読んでからなんか間抜けなおやじって気がする。
ちょっと興味出てきたので、この辺りの何かいい本あったら誰か教えてプリーズ。
史料や小説ジャンルはこだわらないけど、史料は読み易い初心者向けおながいします。
それにしてもこの辺の争いの中で新田や楠木と比べると北畠顕家って一般に遥かに知名度低いよね。
根拠地が東北だったからなの?
あれだけの活躍して死んだ歳が21って、紛れもない傑物でしょ。
それなのに埋もれすぎ。 南北朝知らないのに北畠語るのは結構むちゃなコトだと思うんだが・・・ >>91は惚れた武将の名前もうろ覚え…
>>97は管領とか偉いとか…それぐらいネットで検索できるレベルだろ 北畠で足利将軍の偏諱をもらったのは
満雅 教具 材親 晴具かな。 >>101
南北朝の因縁があるから将軍家とはアレかと思ったが、
結構偏諱してもらってるのが多いな。 名門の割りにあっさり消えてった印象あるよね。六角みたいに。 73ですけど代々の墓には水木北畠・・・と彫ってありました
水木北畠っていったい・・・ 今日地図見てたら木造城ってすごいいい場所にあったんだな
雲出川沿いで南北が街道
モロ交通の要所なんだな
当たり前っちゃあ当たり前なんだけど
ああこんな場所だったんだってあらためて思った保全age 北畠は名門だ ○○御所と呼ばれるのは足利氏か
足利一族でも吉良氏くらいしか呼ばれておらず、
北畠一族は支族でさえ伊勢の地元民から○○御所と呼ばれていた
たとえば田丸御所とか笠木御所など多数見られる 田舎に貴人が定住すると御所と呼ばれる例なら土佐国司一条氏があるよ。
貴人でないなら高清水斯波氏とかも。 >>95
浪岡氏って顕家の弟顕信の子孫っていうのが正しいらしい 野呂越前守實高の子孫だよ。
国司が神領に横暴をして合戦時に山田三保の兵に横撃されて討ち死にしました。 南北朝、北畠神社くらいしか分からん
だれか詳しい人、教えてくれ 海道龍一朗
『禁中御庭者綺譚 乱世疾走』(新潮文庫)
主人公ではないが、あんなに思い入れたっぷりに北畠を描いた戦国小説は始めてみた。 超亀だが、>>191の言う小説って「破軍の星」じゃあないだろうか。
というか、北畠一族がメイン張ってる小説ってこれくらいしか思いつかん。
誰かオススメの本ありませんかね? 北畠親房って源氏長者になったくらいだから
北畠って名門だよなぁ 代々正二位・権大納言だね、親房以前の北畠
名門といえば名門だが、太政大臣もいる久我からみるとちと落ちる 具教の正親町帝即位時献金は二十貫。
毛利元就二千貫 三好長慶百貫 朝倉義景百貫に比べるとだいぶ少ない。
でも官位はその前年に正三位 権中納言。 晴具の頃は紀伊新宮あたりまで進出してたのに、信長の進行にはあっさりやられ過ぎだよなあ。 戦自体は織田軍を跳ね返しているんだからあっさりじゃ無いだろ。
信長お得意の「講和と称して自分の息子と家臣団を送っておいて、騙まし討ちで暗殺」に
引っかかっただけで。 大河内城で信長に講和入れられるまで耐えたもんなぁ‥…。
織田が攻め落とせ無かった大河内城マムシ谷、今も時々銃弾が見つかるらしい。急峻な崖は今も健在!
一度見に行かれては? 北畠の歴代が
満雅ー教具ー政郷ー材親ー晴具だもんな
親房や顕家はどう思うんだろう 宇陀三将とか見向きもされないよね。
北畠の支配は大和南東の彼らにまで及んでたのに、名前が出てくるのが秋山直国ぐらいしか…… 本能寺直後に、一族の残党が伊勢で蜂起してるんだね。 >>44
河内じゃなくって、阿倍野区の北畠は大阪随一の高級住宅街だ
そのお高く留まったお屋敷街であの銀行立てこもりをあえて起こしたことに
犯人、梅川昭美の社会への怨恨感情としては意味があるのだろう
南北朝時代の阿倍野の戦いの舞台であり、北畠顕家の墓とかあるとこの近くだね
近くの阿倍野神社も北畠顕家を祭る神社で、ゆかりのある地なのです。
http://www12.plala.or.jp/HOUJI/shiseki/newpage425.htm
http://www.city.osaka.jp/abeno/variety/spot.html
若くして死んだ非業の忠臣として人気があったのだろう
>>136
そうだよね。
父顕泰は幕府から守護に任ぜられ応永の乱で活躍。
子の教具は幕府の忠誠を誓い 赤松教康を匿わなかった。
満雅は完全に南朝側だけどね。 晴具、具教なんか完全に幕臣で、時の将軍を助けて細川・三好と戦ってるじゃん >>141
将軍から偏諱まで受けてるからね、晴具とか。 皆様方にお聞きいたします。信長が伊勢志摩への侵略が遅れた理由を忘れてはおられませぬか。
伊勢長島城の伊藤氏、願證寺の一向勢、さらには北方諸家、等々。
関氏などは弱小勢力にすぎないのに、いかにも大勢に影響したかの如く
主張されておられる方がおられますが、もっと視野を拡げて議論される
ことを望みます。
だいたい、赤堀氏、濱田氏、稲生氏、星宮氏などの名前が挙がっていない
のは何故なのですか。もっと詳しく調べたのちに発言されるべきです。
追記 異流も多々ありまするが、星宮氏は星合氏(大河内)の傍流でござる。 北畠氏は,室町期においても公卿の官位を貰っているけど,伊勢に在国のまま
もらっていたのでしょうか?
それとも,北畠氏も守護のように,実際は京に屋敷を構えて住んでいたんでし
ょうか?
浪岡家の場合は、具永が官職貰うために領地から搾り取りすぎて
孫の代で起きたのが川原御所の反乱 >>147
浪岡みたいな辺境だと自官でも良いのにねw しかし北畠的に考えて伊勢より浪岡の方が縁があるよな 北畠が,喜連川や岩松みたいになれなかったのは,関東にいなかったからかな?
それとも,江戸期が来る前に実質消滅してたからかな?
北畠は,交代寄合になれる程度の貴種性はあったと思うし,南北朝以降にはもう,征夷大将軍の権威に対抗する存在ではなかったし。
別に京に行けば他の村上源氏がごろごろいるからな。
本家である久我家も残ってるし。 つっ、塚原だよっ べ、別にアンタに教えてる訳じゃ、無いんだからね ただ間違えて覚えてしまって、人前で恥をかいても 有馬家が末裔ってのはどんだけ信憑性があるんですかね… 結局、江戸時代まで家名を残せなかったのか。
血脈が残ってれば、旗本程度にはなれただろうに。 伊勢国司家としては信雄さんのとこが引き継いだってことでいいかな 結城みたく祭祀は天童織田家でやってるみたいなことはないかな
それとも村上源氏にお返ししたのか >>94
1年以上前の話に亀レスだが、浪岡から舘野越に落ち延びる途中、当然大混乱となった。
また、江戸時代に隠棲していた舘野越周辺に津軽藩が色々聞きまわったときに
素性が割れるのではとドタバタがあった。
浪岡城落城後はいつ素性が割れて手入れが入り根絶やしにされるかという恐怖が常に付きまとった。
証拠物である錦の旗を持ってる家は津軽藩に根絶やしにされる危険を蒙るため、
本家が根絶やしにならないように直接本家の手元に持たない方策を取ったとかなんとか。
家系図にしてもそうで、生存戦略のために本家を本家と絶対的に証明できる物は
消失しただけでなく意図的に残していないとか。
親は明言はしなかったが、そうした経緯で明治維新の復姓時に
たまたま旗を持っていたところがこれ幸いと宗家を称していると理解している。
いずれにせようちは明治以降に分家となってるため本家ではありえないが、
どこが本家かなんてもう分からんとさ。そのため「うちの本家筋」とかいう言い方をしてる。
北畠家は、南北朝時代まで公家として和漢の学を持って天皇に仕えた。
その公家の執務に堪える頭脳くらい受け継がれててもいいと思うんだが、
どう見ても名前負けしてる癖に虚しく家柄を誇る奴が多すぎる。
明治維新で復姓し、約270年に渡る滅亡の恐怖からやっと解放されて
世の中に出られたのだから、受け継いだ能力で社会的成功を収めるよう
精進したらいいと思うんだけどねー。 >>166 御先祖に当るんだから普通は祭るでしょうね。 具教の男系子孫っていないのかな?
あと織田家に遣えた事もあるっていう、江戸時代も武家として存続した庶流ってどこのことでしょうか? >>172
武田並みの根絶やし政策くらってたような
落し胤とかも聞かないし 田丸直昌は剣の達人で北畠具教の甥っていわれているけど
北畠具教に田丸具忠という兄弟がいたという系図が見当たらない。実際のところどうなのか 具房の遺児が浪岡に逃れたとか
木造の子孫は肥後細川に仕えてたり >>177
1行目はデムパサイトの受け売りwwwww >168
小さい頃に盆に錦旗を見に行った事があるがもしや親戚か??
ウチでもあっちだのこっちだの親が話してた記憶があるがウチは館野越の系統ではないと言ってた希ガス。ウチのじーちゃんも94のばーちゃんの如く凛としていた記憶がある。
伊勢の人達ってどこにいるんだろ... どうだろ?浪岡の一族なら遠い近いということはあれ、親戚かも。
ttp://homepage1.nifty.com/t-kubo/Japan/meizoku/namioka.htm
↑どこまで本当かはよく分かりませんが、うちはとりあえず
館野越に落ち延びた一族でつ。その後親に聞いたら旗は
どうなっても痛くも痒くもないところに身代わりに預けたそうで、
館野越ではあそこがほんとの本家ではないというのは通説だ、とゆうてた。
スレ違いばかり続けるのも何なんで、ちなみに顕家との関係ってどう聞いてます?
(これでもスレ違いといえばスレ違いだけど)。ネット上の通説と伝承とがずいぶん違うのでおやっと思ってる。
うちは霊山落城かなんかのときに娘の姫君が浪岡に逃げてきたって聞いてるんだけど。
浪岡落城のときも男共は皆殺しにあって、かろうじて姫君と側近の女たちだけ
逃げてきたと聞いてて、家臣と結婚したとは聞いてるが、顕佐が本家を継いだとか言う話は聞いたこと茄子。
村上天皇から数えて書類上、対世間上はともかく計2回女系になってるという認識。 たぶん遠い親戚だろうw
ウチは恥ずかしながら具信の系統で明治時代に復姓した家系です。
具信があんなことしなかったら北畠家はもう少し良い終わり方をしてたような気がするのですが...。
旗についてはよくわかりませんが近代までの他の系統の名前がウチの家系図にのってる(謀反を起こした系統でありながら)ので交流はあったんだと思います。
霊山から顕成が浪岡に来た(家系図に記載)という話。
浪岡落城の時の話しは全く一緒なので本家筋(?)は一回女系になったという認識。
伝承どころかウチに代々ある家系図とネット上の家系図とも違う箇所があったりしてアレレな感じ。
ウチは津軽藩に身を寄せていたので助かったと聞いてます。(これもこれでおかしい話しだが)
弘前出身で東京在住で大鰐と札幌に一族がいます。
このスレはもう浪岡も伊勢もごっちゃでイイ希ガス。
ちなみにたまたまウチの山を管理してたオッちゃんが伝説の伊勢の昌教を秋田に連れてきた家臣の子孫だとか言ってました。
長レススマソ。 というかウチには家系図が残っているが本家筋には残っていないのか??
浪岡の資料館にも貸し出したことがある。
名字を変えていたから残せたのだろうか? レスどうもです。
じゃあ顕成の系が昔からの言い伝えで、うちで聞いた話はどこかで劣化したんですね。
しかし、よそで聞く顕成が吉野にずっといた説の1次資料は何なんでしょ。
> 系図
なぜか親が系図を持ってきていません。私自身マジで信じられません。
近い親戚間で仲悪くごたごたが絶えず、親が嫌がってるので系図とか北畠関係の由緒あるものは見たこと茄子。
ボケる前に近い親戚から系図の写しをもらってきて伝承の類も全部電子文書化してくれと言ってるところでつw
本家筋からはそれなりに離れてるようなので、情報が劣化してるかもしれませんが
浪岡落城のときには持ってこれなかったような。ただ、明治の復姓時には使ったはずなので、
全く無いはずも無く、いつ頃作ったものかはともかく、系図は本家筋にはあるはずです。
ちなみに前の循環器学会会長が新聞に載ったときに、館野越のうちの本家筋の人だと聞いたことはありまつ。
どのくらい離れてるのかというのはよう分かりませんが。
具信の末裔と交流が江戸時代にあったという話は初耳ですが、あの目と鼻の先で見逃されたこと、
京徳寺の禅林街移転とその後の処遇を考えると具信の末裔に匿われたのだろうなと納得がいきまつ。
すべてを失ったところから始まり、明治の復姓時に庄屋・地主としてそれなりの力を持ってたのは
やはり津軽の目の光ってる中で自力では無理ぽ。普通に考えると。
長文でスマソ >>176
田丸具忠というのは、北畠具教の祖父材親の弟、田丸顕晴の子。
だから、田丸直昌が具教の甥というのはまったくの誤り。
年齢は離れてると思うが世代的には同じ。
北畠政郷 − 北畠材親 − 北畠晴具 − 北畠具教
L 田丸顕晴 − 田丸具忠 − 田丸直昌
となる。直昌が剣の達人というのも初耳だが。。。 自分が入り込めないやつは全部自演かよ
もっとやってくれい つか2ちゃんっていう匿名の板で自分の家系がどうのこうの言ったって真偽を確かめる術はない
だから本物であれ偽物であれ、家系自慢は嫌がられるってだけ
傍流さんで新しい事が聞けるわけでもないしな
どうせこのスレ過疎ってるから放っておこうとは思ってたけど
流石に正論吐いた>>187に対してもっとやれって自演してまで自分の家系話しを続けたいのは目に余るわ
自分達で掲示板でも作って存分に語ればいいじゃない? いきなりの上にマイナーだがウチの近所に伊勢北畠の重臣奥山信濃守の子孫が当時と全く同じ場所に住んでる。
城山って地名残ってて小森上野城って木造城の支城あとらしき場所もある。
忠臣奥山常陸介とは別系
ちなみに江戸時代は一郡に匹敵する土地をもつ豪農だったみたい 本田左京佐 清和源氏足利今川末枝 松阪市松江船江城主 侍所家老
だれこれ?
今川庶流に本田?わからん >>191
そういえば中学、高校の同級生に奥山君っていたけどその辺だった覚えが。
現代にもつながってることが実感できると、歴史は面白いね。
奥山に紅葉踏みわけ鳴く鹿の 声聞くときぞ秋はかなしき。 具藤の官位ってわかってないの?
兄の具房が左近衛中将、弟の親成が式部少輔とわかっているけど、
具藤の官位は調べてみてもわからない・・・。
>>191
すまぬ、正にその小森上野の住人なのだが、
城のあった場所を教えてくれないか?
地元だけど全然知らんのだわ。 城山から坂下ったところにあるバス停北側の細い坂の上やよ。相川見下ろす高台 >>198
わかりにくいので小森上野城の位置(goo地図)
http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E136.30.46.734N34.40.35.547&ZM=9
子供の頃遊んだ記憶では遺構などはなかったと思う。
場所は伝承というか「城山って言うけど城あったん?」と祖父に聞いたらソコと教えられた。
地勢的にも北から来る敵を迎え撃つにはいい場所かもと地史を知るようになってから思った。 >>199-200
おおお、サンクス!
あそこにあったのか〜!
全然知らんかったわ。
そういや石柱みたいなの建ってるけど、何か関係あるのかしらん? 石柱みたいなのって戦没者慰霊碑じゃなかったかな?
よく覚えてない。
あと里の上に小森城っていうのもあったらしいけど、コッチは場所がわからない。
昭和18年に土塁跡破壊ってなってる。
今の小学校か中学校あたりにあったのかもしれん。
槍主水の家城城跡には、この間行ってきました。 現地確認してきた。
石柱は大正に立てられた氏子中だった。
で、宇氣比神社なるものが出来ていて驚いた。
ガキの頃はあんな神社の体裁なかったんだけどなあ。
で、坂上っていったけど、城跡はよく分からなかったw
民家になってるところ辺りなのかな? 伊勢の北畠氏は、国司から戦国大名になったといいます。
守護から戦国大名になったとは、よく聞きます。例えば甲斐の武田氏、駿河の今川氏など。
北畠氏は、伊勢の国司でもあり、南伊勢半国守護だったとも聞きます。
国司から戦国大名とは珍しいです!
そこで素朴な疑問ですが、朝廷の律令制度の国司は南北朝期には、
幕府の任命した守護にその地位を奪われ形骸化したといわれています。
北畠氏の国司は、実権を伴った地位だったのでしょうか? そもそも後醍醐天皇の建武の新政において公家と武家をまず平等に扱おうという所から
天皇が打ち出した方針が国司・守護を並列させて任命するという方針だ
もちろん官位上では国司が守護を包括するけど、それぞれ独立し、各地に配置した
当然、その後の南北朝の混乱では国司側が南朝に、守護側が幕府にスライドした
北畠氏は南朝の大身であり、北朝に降伏した後もその位置を保った存在だからな >>205 >>206少し調べて見ました。
南朝の国司は、南伊勢に限っては、実権を伴った地位のようですね!
南北朝合一(1392)後は、その既得権が幕府にも認められ、
北畠顕泰が、先ず南伊勢半国守護に補任されています。
応仁の乱後の文明期には、北畠政郷が、北も含めた伊勢一国守護にも
補任され(1484)、その後戦国大名としての地位を固めた。
の時系列のようです。 先日、長宗我部氏の本を読んでいたところ
「伊勢の北畠朝親」なる人物が登場し、小牧長久手の戦いの際に
家康の命令を受けて四国・紀伊方面へ動くように使者として派遣された・・とあったのですが
この北畠朝親って誰なんでしょうか?
伊勢北畠氏の一門?信雄の一門?
検索すると六角承禎の娘が妻で・・・とかいう記述もあるんですが
同一人物だろうか?
情報お願いします。 「忍びの国」で北畠具教の格好良さが描かれてます。
ほんの少しだけど。
ああいう注目される本(ベストセラーの「のぼうの城」の著者の2作目)
にのって知名度かなりUP?
名門といっても戦国期での認知度ひくいからよかったね。 >>209
>六角承禎の娘が妻
これが正しいなら北畠具教の弟の北畠具親だな。
但し具親は小牧の役において秀吉方の蒲生氏郷の客臣なので、
>家康の命令を受けて四国・紀伊方面へ動くように使者として派遣された
とは矛盾する。
その長宗我部氏の本の末尾にあるだろう参考文献一覧にそれらしいものがないかね? >>211
読んでいた長宗我部氏の本の参考文献欄には
長宗我部氏関連と、土佐関連の資料しか載っていませんでした。 >>212
いや、その長宗我部氏関連の史料に記載されてるはず。
「香宗我部家文書」や「土佐国蠧簡集」の細かい内訳([-Bなどの文書記号や書状名)も無い?
小牧の役の際信雄や家康との交渉を担っていたのは親泰なんで、
香宗我部関係の史料を当たったほうが早い。
文献名しか書いてないのであれば、情報としては>>211ぐらいしかわからんなぁ。
お役に立てずすまん。 天正12年比定の朝親署名書状(植松文書)。
本多重次に宛てて、紀伊・四国方面の取りなしをしたので、
家康に伊勢国内の旧領回復を取りなしてほしいと依頼している。
「伊勢国内の旧領回復」から北畠氏を当てたんだと思う。 >>215
確か文書上では「朝親」だったと思う。
まぁ当時は本人ですら字にはこだわらないって場合もあるしな。 >>191
大正二年まで高茶屋村小森に住んでいたらしい奥山姓のものです。
家系図をわかりやすくまとめようと思い、いろいろ調べたりネットで検索していたらこのスレを発見しました。
そんな城があったなんて初めて知りました。一度城跡らしき所にも行ってみようと思います。
他になんか知ってることがあったら何でもいいので教えてください〜。 >>220
高茶屋小森は奥山姓だらけで分家や元小作の家とかも明治以降は奥山名乗ってる。
正直にいって、どの家出身か探るのは難しい。
ただ血縁関係入り組んでるので小森出身奥山家なら多少の血は入ってると思われる。
屋号など分れば今でも系統は分るかも
こんな地元民しか知り得ない情報ばらして良いのかw >>221
日本は武士の帰農が15世紀から17世紀にかけて盛んに行われたから、
自分たちが思っているよりも武士の血を引く家は多いぞ? >>222
おお!貴重な情報ありがとうございます〜。
商売しているので、文字を組み合わせたような屋号はあります。(マルダイとかヤマサみたいな)
家紋とかはどうなんでしょう。あまり当てにはならないですかね?
高茶屋の奥山姓に一人知り合いがいるので聞いてみようかな。
ところで、えらく詳しい>>222さんは奥山さんですか?
原戸籍謄本やら除籍謄本で天保10年に亡くなった先祖まではたどれたのですが、
たしか明治維新までは武家公家以外に苗字は認めらていなかったんですよね?
農民or商人だったであろうウチの除籍謄本の
明治以前の人物に苗字が付いてるのは、たぶん後から加えられたということなんですかね。
その前に滅亡している・・・
おとしだねが逃亡したという説もあるが、同時代史料もなく眉唾の域を出ない
江戸時代以降で「北畠」を名乗っているのは公家久我家の分家 >>224
公的には使わなかっただけで、名字は持ってたよ。
家紋とセットみたいな部分もあるし。 元青森県住人だが、高校の時クラスメートに北畠家の坊ちゃまがいたよ。
当時小柄でメガネの理系男子、名前に顕の字が入ってた。
ウチの祖先は北畠家に従って陸奥まで下ったときいてたんで、殿!なんて言ってふざけた記憶がある。
今までピンときてなかったんだけど、このスレ読んで興味がでてきた。
ちなみにウチは苗字について聞かれたら「館野越の○○」と答えろといわれてたな。
本家にボロイ鎧兜と刀があったけど本物かね。 北畠が伊勢の支配権認められたの南朝の遺臣の世話押し付けられたからって本当? 「忍びの国」に出てきた日置大膳って
史実ではどんな人なんですかね? 安濃津を居城とせずに山奥のほうに引きこもってたわけは何? 三重県民にとっての武将イメージ
服部半蔵→超有名(住んでないのに)
藤堂高虎→津市のみ有名
蒲生氏郷→松阪のみ有名
九鬼嘉隆→志摩のみ有名
北畠具教→誰一人知らない うちは中院家の子孫なんですけど、家系図に北畠へ子供を養子に出したと言う記述があったような。中院通勝という先祖の頃です。養子に出した子供に家督を継がせたが、滅亡したとか聞いたような気がします。歴史に詳しくないので、違うかもですけど… >>245
室町・戦国時代までは都市に居城構える例は無いよ。
土木技術が未発達で要塞が貧弱なのしかできないから、都市部に城造るのはリスキー。
郊外の防御しやすい山にこもった方が安全だ罠w >>247
滅亡してないぞ
中院通勝の次男が継いだというか復興させて(江戸時代になってから)、
地下家として幕末まで存続したよ
確か男爵になったはず
その家系図の記述は史実に合致している 室町の南北朝時代は、形式上は、北の勝ちだが、
実質は、南の勝ちかもしれない。男系は、わからんしね。 幕府の勝ち
以前と比べて朝廷の権威が著しく下がった 浪岡北畠氏ってマイナーかと思ってたけど知ってる人多いんだな >>255
北畠って木造家庶流の滝川かよ。
反主流派の木造て時点で論外だな >>256
先祖の七光りでは?
北畠顕家といえば日本史に輝く悲劇のヒーロー(ただしイケメンに限る)じゃん 武田スレで北畠の話題盛り上がり。
詳しい人きてー
【武田】2万5千で上洛【信玄】その64
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1276600624/l50
45 :人間七七四年:2010/06/20(日) 00:51:49 ID:xopliY1Z
信玄秋田。北畠を語れ
>>209
>>211
その具親って、江戸時代に旗本とかになってないの? 木造
田丸
星合
滝川
藤方
以外に旗本になれた一族ている?
木造
田丸
星合
滝川
藤方
以外に生き残って旗本などになれた一族ている? 顕家の直系は奥州じゃね。多分伊勢は弟の方の血筋だと思う あと顕家が好きな人は是非とも破軍の星を読んで欲しい。 大名家としての滅亡なら信長がやった暗殺事件の時滅亡した。 家名としての北畠なら残ってる
親房や顕家の子孫という意味だといわくつきの子孫ぐらいしかいない >>277
木造長政の子孫が清正→細川家って感じで残ってるっぽい。
地元が津で仕事上ゼンリンの地図とか良く見るんだが木造城周辺に木造って家は無いな。
ちなみに同級生に細野(ホソヤ)、分部(ワケベ)、家城、川北、奥山って苗字は結構いた。 >>277
具政次男の子孫が500石の旗本
具政入る前に親子喧嘩起こして廃嫡された本来の血筋の子孫がご存じ木造流滝川家 信長が神戸氏に大敗した永禄8年に市を六角氏の斡旋で浅井に嫁がせ協力を取り付けて
やっと近江浅井からの挟撃の軍事的圧力のおかげで翌9年に信長は西美濃の調略に成功し
10年近くかけてやっと永禄10年に美濃を奪うことができたくらい信長は戦の下手くそだからね。
そもそも信長公記はデタラメだらけだしね。例えば伊勢なんて簡単に平定したみたいに書かれてるけど
永禄10年(1567年)に滝川を先鋒に4万で伊勢侵攻したが
仁木氏勢力圏の楠城の山路弾正の籠城&神戸氏への支援として
白子からの伊勢水軍・鳥羽からの志摩水軍&鈴鹿の関氏の他に
長島門徒・高田門徒・天台宗信徒に呼応して美濃で氏家・安藤・稲葉が謀反の噂が流れ。
さらに支流支援として北畠氏は鳥屋尾石見を使者として信玄とも
協調し徹底抗戦したから滝川を放置して信長は逃亡してるし、
永禄11年11月の伊勢攻めでは去年の屈辱からかおよそ武士とは言えない略奪暴行大虐殺をしまくって南下するも苦戦。
結局戦闘行為で力でねじ伏せることを諦め神戸氏に人質として信孝と信包を与えて縁戚化させるしかなかった。
(情勢的には10/18義昭征夷大将軍になったり10/28松永久秀が幕府に降伏するなど
続々と幕府に帰順降伏していて六角義秀や仁木義政らの影響も受けている神戸氏は義昭への協調姿勢に転じた)
織田軍は永禄12年春には安濃津城前面まで来ながら抵抗が激しく信長は逃走してる。
この頃、長野氏やその家臣の細野氏や雲林院氏らが家中で内紛を起しており、
(もともと具藤は暗愚だから長野氏の養子に迎えることに細野・雲林院は大反対だった)
それに乗じて織田軍はやっと進出し長野具藤は長野城を放棄して実家の北畠氏へ逃げ、
細野藤敦から離反した弟達の尽力により神戸友盛の娘を娶っていた信包が入城した。
怒った細野藤敦が長野城を奪い取ると滝川の子を信長養子にし
細野へ人質として渡し味方になってもらった。 関盛信は信長帰属を良しとせず六角承禎の近江日野城へ逃亡。
永禄12年5月北畠四御所木造氏が北畠内での序列に不満があり織田方へ走るや
北畠は信玄・伊賀・大和へ支援要請し大和三人衆秋山・沢・芳野らも動員して木造を滅ぼそうとする
織田も伊勢神戸・長野に滝川・織田信昌を援軍派兵し滝川三郎兵衛が
九鬼を買収し一部の志摩水軍が北伊勢反北畠連合に寝返る。
北畠が2ヶ月に及ぶ親族同士の殺し合いをして疲弊してると見て取るや信長7万で自ら出兵し
北畠氏を踏み潰そうとやってきた信長は大河内城2ヶ月大包囲で高級幹部20人以上が討ち死に大敗。
撤退での追撃を恐れて信雄を人質として差し出して和睦する他に手が無かった。
伊勢長島一揆でも北畠に関係の南伊勢諸国人は船舶動員に非協力的で何度も信長の要請をシカトしてるし
彼らは北畠家臣や南朝以来の繋がりがある
紀伊半島の土豪連中まで長島一揆に入城してるし伊豆国方面からも敵大船が伊勢大湊へやってきたと
織田側は通報してる(日根野弘就に協力してた自由商業町の山田三方の福島親子とか有名)
3/23義昭は京都聖護院門跡道澄を通じて小早川と浦上宗景の出陣を命じる(成籑堂古文書)
たった織田軍が1万だけなのは年代記抄節にキッチリ書いてあるし
丹波の実力者内藤如安は義昭に味方しないと信長は決めつけていたが、
その内藤(松永久秀の弟の子)が射撃手1000を含めた5000で参加
3/6付で兄の義輝殺しの三好義継と松永久秀を義昭はついに許していて
「京都に集結してくれるてはめでたい。足利家について奔走してくれ」(尋憲記)
3月19日付けの書簡フロイス日本史に信玄は六万の兵を以て三遠に侵入し
軍兵をほとんど損する事なく占領したという3月下旬の報告がある。
朝倉の書状で既に小谷に先発隊が入って普請を行っている事があり義景自身も敦賀にまで出陣して5月まで在陣してる
武田軍が野田表から撤退を確認した信長が2/23に上洛して畿内平均宣言したが
2/26に御内書が出された武田に東美濃(加治田城・つぼ城)で暴れられてビビッて中止。
(ついでに二条城の魔改造完成&朝倉軍出撃のお知らせ付き小島氏所蔵文書2/26浅井書状)
この時期の摂津では荒木や高山重友が織田に謀反して和田惟長を殺し高津帰城攻撃開始。
(和田惟政が殺された後、信長から幽斎が惟長を御指南するよう言われていた)
岐阜城で震えていた信長は3/25と1ヶ月後にやっと上洛するため岐阜出発。
しかもこれも信玄死去を知らない義昭が3/6信長からもらった人質を突き返して
新たな堀を作り始め挑発したからで京に誘き出されたのは信長の方。
北条の武田軍への援軍2000・織田の徳川軍への援軍3000など義理で派兵した北条と大差なしの織田兵力に余裕無し。
近江横山城で朝倉・浅井にビビって家康の援軍待ちをしてたのは秀吉。
京都を火の海にして義昭と和睦したあとに来た家康の使いの小栗に
近江横山城への出陣は必要なくなったと4/6に伝えたように(小石暢太郎文書)
兵力不足から朝倉を押さえていた秀吉と信玄にフルボッコされて間もない家康を交代させようとするほど逼迫
家康に援軍いらないと信長が発言したのも4/4禁中不慮の時は避難と聞いた天皇が
4/5義昭と信長の講和を斡旋した翌日4/6の発言だし
(4/7義昭と呼応して信長の背後を閉鎖した近江百済寺一揆と六角の攻撃に急ぎ出発するほど追い詰められていた)
安国寺恵瓊 天正元年(1573年)12月12日付
「信長之代、五年、三年は持たるべく候。明年辺は公家などに成さるべく候かと見及び申候。
左候て後、高ころびに、あおのけに転ばれ候ずると見え申候。藤吉郎さりとてはの者にて候」
公家や寺社との付き合いのある安国寺には信長のやり方ではどっちにしろ破滅する末路しか見えないのだった。
本能寺の変後に義昭は毛利の乃美への「信長を討ち果たした」
島津義久には「織田は天命のがれがたく自滅した」と語ってる 朝倉滅亡後の9/29には小瀬清長・織田信次・織田信直・織田信広・織田信成・織田信昌・織田秀成
佐々成政の長男・佐治信方・平手久秀・山田勝盛・和田定利が戦死してるなど
実際の織田軍は朝倉平定戦において大きく兵力が消耗していたと思われるね。
そもそも非常に珍しいことに織田親族の軍まで出さざるおえなかったくらい
兵力が足らずにかき集めていたのが見える。信玄死去後の
朝倉攻め時点でさえ織田軍が3万動員できていたなんてありえない。
河内上国+松永の軍勢に河内下国の畠山昭高はボコボコにされて
孤立無援のまま高屋城篭城して織田の援軍待ちじゃん。 しかも遊佐信教に6月に暗殺される始末。
三好義継の河内を本願寺の前衛と捉えて支援してますがwww
(河内が落ちると河川のない大坂南へ通ずる四天王寺方面へ織田軍が進出できる為)
近江すら平定できない信長・・・
4/7 六角義治の籠城する鯰江城を佐久間、蒲生、丹羽、柴田に攻撃させる。
4/19 鯰江城攻撃失敗。柴田に十河存保への援軍として義継の若江城攻めを行うように命じる。
6/25 高屋城で遊佐信教が畠山昭高を暗殺。
7/14 信長、内応するか悩んでいた畠山昭高を遊佐信教が暗殺した事に怒り
信教を必ず討つべし、指令については柴田に命じると言っているので
柴田は若江城攻めどころか高屋城まで敵方に落ち織田は河内国を見事に失陥。
河内国から柴田敗走か。なぜか近江にいて朝倉攻め参加する始末・・・
9/4 柴田へ鯰江城の攻撃を命じる。
浅井・朝倉滅亡後に佐久間の石部城包囲で
天正2年4月 六角承禎が4/13に石部城から信楽に向けて退城
山中山城らが敵を追い払ったから無事に信楽に着いたことを書いた感状だけど
出した日付は12/24だから天正3年前後も信楽でまだ織田に抵抗。
ちなみに伊賀国は六角氏綱の子が仁木氏を継承し仁木義政を名乗って以来、六角勢力圏。
天正4年以降になっても承禎は近江や伊賀でがんばって抵抗。
11/25北畠具教が信長によって謀殺された後に
北畠庶子家坂内氏が逃亡し、具教の弟の朝親も還俗し坂内へ書状出してるし坂内も勝頼に書状だしてる。
その時に沙弥承禎の名前で坂内氏に12/18付けで書状出してるが
国司御一類御生涯付〜北畠殿相続無き場合はあなたが家督を継ぎなさい。
そのこと大本所へ意見しますよって言ってる。ちなみに具教の正妻は承禎の妹。
年不詳12/7付け武田刑部大輔宛朝倉宮増丸書状では
佐々木源兵衛なる者が朝倉残党や加賀一向宗と連絡とってるし
これ吉川文書収録だから、鞆にいた義昭側近の若狭武田氏や大本所六角義堯に佐々木源兵衛は関わりある人物だね。
天正6年に義堯は阿波・淡路の軍を率いて境に上陸するから、それ以前の文書だと思う。
六角氏は朝倉と北畠再興運動やってひたすら信長に対抗してる。
義昭側近の一色昭辰も天正3年8/24に元春に修理大夫一色義辰(一色義道)の本国丹後の儀につき
輝元御出勢の刻は本意に任せるので頼みます。 (毛利を)御馳走することは本望です。
などと言っていて毛利は丹後も傘下に収めているんだよな。 “城下町”示す石列発見 津・美杉の多気北畠氏遺跡
室町時代から戦国時代にかけ、伊勢国司の北畠(きたばたけ)氏が本拠地とした津市美杉町上多気(たげ)の
多気北畠氏遺跡から、城下町の存在を示す石列が見つかった。北畠氏が目抜き通り沿いに配したとみられ、
発掘調査を進める津市教委は「北畠氏が計画的な城下整備を進めたことが明らかになった」と話す。
調査しているのは、北畠氏の住まいだった館跡がある国史跡「多気北畠氏城館跡」の東側の地区7・5ヘクタール。
10月からの調査で、館跡の100メートル東の地中から、直径50センチ前後の石が8メートルにわたり並んで
いるのが見つかった。過去の調査で向かい側にも並行する石列が確認されており、館から城下町を東西に貫く
目抜き通りがあったと推定されるという。
北畠氏は九代240年にわたって南伊勢を治め、山あいの美杉町多気地域を拠点とした。北畠氏滅亡後の
江戸時代に描かれた城下絵図には、町家などが立ち並ぶ大規模な城下町が記されているが、他に確かな
資料がなく存在が裏付けられていなかった。
市教委は2006年から調査を進め、城下地域の国史跡追加指定を目指している。担当者は「今でこそのどかな
田園地帯だが、かつては壮大な町だったことが想像できる」と解説する。
現地説明会は10日午後1時半から。館跡がある北畠神社(津市美杉町上多気)に集合。予約不要。問い合わせは
前日までに市教委生涯学習課=電059(229)3251=へ。 (河北彬光)
http://www.chunichi.co.jp/article/mie/20111208/CK2011120802000115.html
http://www.chunichi.co.jp/article/mie/20111208/images/PK2011120802100069_size0.jpg
http://www.chunichi.co.jp/article/mie/20111208/images/PK2011120802100068_size0.jpg
館跡の東側地域で見つかった石列=津市美杉町上多気で 美杉町のゆるキャラ「ともふさくん」が必要だと思うの >>289
その偉い人が戦前戦中生まれとかだったら神皇正統記の影響とかなんじゃね? 織田厨マジでアホw
130 :人間七七四年:2012/03/21(水) 22:16:33.30 ID:rG6ktPb9
北畠家臣
北近江国人
甲賀衆
摂津国人
雑賀衆
大和国
伊賀衆
このへんは殺して何が悪いの?レベル
伊勢奥津駅から北畠神社まで歩いたら1時間以上かかった 今夜の信長のシェフで初めて実写の具教を見たw
無名な割には具教具房キャスト豪華すぎ
ちょっと具教老けてる気がするけどすごいな 先祖が浪岡氏の家臣だったんだが、家格に比して結構高めの官職もらってたな 確か出番はなかったな・・・
まあ高国見れただけでも嬉しいよw
晴具は娘婿なんだっけ? >>303
多気(たき)郡は三瀬御所とかがあった地域です。
多気(たげ)御所は三杉町にありますよ。
大河内城(現松阪市)から櫛田川を遡ったところです。
というか吉野から山を越えてきたところって言った方が順序的には正しいかも
霧山城
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%A7%E5%B1%B1%E5%9F%8E 信長は大河内城2ヶ月大包囲で
将来の織田での出世を期待された池田衆のお馬回役朝日孫八郎・波多野弥三郎
丹羽衆の近松豊前守・神戸伯耆守・神戸市介・山田大兵衛・寺沢弥九郎・溝口富助・鈴木主馬允ら
高級幹部20人以上が討ち死に。氏家軍に夜襲をかけたり、信長本陣に肉薄突撃したり
藤堂高虎の兄も大河内城で討ち死に及んで信雄を人質として差し出して和睦する他に手が無かった。
(大河内城の北東の守りを固める阿坂城1万5000包囲では秀吉が左股に矢を受ける大苦戦で
落城させたのは浅井長政が援軍に出していた配下の遠藤喜右衛門の調略によるもの)
信長の危機を知った義昭が北畠との和睦を斡旋し(古簡雑簒)
信雄を人質に取ったことで和睦を拒否ってた水谷刑部少輔が織田との和睦にやっと同意。
追撃されないよう信雄を人質として差し出して京へ帰る他に手が無かった。 >>306
その義昭に恩に報いるどころか八つ当たりした挙句に
ふてくされて岐阜へ帰る糞信長 >>306
織田軍が圧倒的優位にもかかわらず大苦戦したのは、その通りだと思うが、
戦死した武将たちが戦況に影響が出るような身分だったとは思えないが。
将軍家はもっと早い段階で和睦の斡旋ができたはずなのに、
損害が大きくなってからしゃしゃり出てきて、信長にしてみれば面白いはずがない。 死んで、その後がなかったから名が有名にならなかっただけだろ。
秀吉の配下にいた生駒親正、中村一氏、堀尾吉晴なんかも
秀吉の成功がなければ埋もれていただけだし >>310
309への反論みたいな書き方だが、ただの補足にしかなっていない。
戦死した人々は、槍を持って城に突撃する身分で、
高級幹部とは言えないんじゃないかと言いたいんだが。
どれだけ優秀でも、今はまだ身分が低い人物が何人か戦死したぐらいで
動揺してたら軍なんて成り立たないだろうが。
そういう人物の死を惜しんで、軍記物には必ず戦死者が長々と書かれるから
>>306の戦死者の羅列も
軍記物から引いたんじゃないかと思っただけ。 なに言ってんだ・・・前田利家だって
まだ最前線で槍をふるったりしてた時期だぞ。 >>312
それで、大河内城で前田利家が戦死してたら撤退してたとお前は思うのか? 城持ちの神戸伯耆を鉄砲玉よばわりするおとこの人って
ステキ!!抱いて!! >>314
スレタイからして『伊勢』の名門北畠なんだから
鈴鹿のカンベさんじゃ鉄砲玉だろ >>316
尾張一宮の光明寺城に、神戸伯耆って人がいたらしい。
伊勢の神戸氏との繋がりをはじめ、一切の経歴は不明。
一宮は岩倉織田家の領分だった所なので、
信長に仕える前は、岩倉織田家の家臣だったと思われる。
やっぱり鉄砲玉確定。
>>314
誰もいないスレで、そんなキチガイレスしてるのが不憫なので
釣られに来てあげましたよ? 誰もいないから今日ボーっと地図見てて気づいたことをひとつ
藤方氏の小森上野城、奥山信濃守の小森城、星合氏の星合城、天花寺氏の曾原城が
木造氏の木造城から半径5km以内にあった。
しょーもないネタですまん! 鳥屋尾満栄についてなんだけど、現在のwikiでは
北畠具親の挙兵(1577年)に従って戦死したって事になってんだが
これを裏付ける資料って何かあるの? >>320
川俣の戦いで討死したとあるけれど、川俣の戦いが書かれている史料って何だろう?
全く史料名が探し出せない。
怪しいのは、北畠具親の項で引用されている戦国人名事典コンパクト版だろうか。
そこに引用文献が書かれていればわかるだろうけど、持っていない。
戦国武将録のHPでも同じことが書かれているから、聞いてみるというのも手かも。
あとは、三重県史でもあたるか。 wikiの出典が全くない記事は検証が難しい。けれど削除されると
手がかりすらなくなったりして困るし。
せめて合戦の参加や仕官先の根拠くらいは示してほしよいね。
あと、時々、人名辞典の丸写しとかもあるけど、数年経ってばれたみたいで、
連鎖的に多くの武将記事が丸ごと消されてたりするから探してるとびっくりするw >>324
そういうのは大概シェーラ=ドルチェットの仕業なんだなー
北畠昌教もそう 喧嘩相手を捜しているのか?武勇伝でも聞き出したいのか?‥一体どのような主旨で漢を募集する
のかね?中・高生の頃、単なる不良として地域に名を残しても現在は建設作業員やトラックの運転手など
世の中に数知れないが…(笑)
俺の場合、腕っ節の強さと明晰な頭脳&度胸&仲間達等関わる人達総てに対する優しさが評価され、若い頃は組関係の大物から
焼肉屋で深夜まで接待されてスカウトされた経験も数多い。(爆)
それはそれとして方向が違っても成功
出来たであろう自信は在るが、現在のリーマン生活で良かったと思うぜ。だって学卒だし、年収は2000万
は貰えてるし…
決して、威張れるような額じゃないが…フーガとエルグランドを所有して生活にも困っていないょ!(核爆) 北畠史学講座ってページは何を参考文献にしてるんだろう?
うさんくさいが。。。 40代ファイナンシャルプランナー40代ニュース報道春文教授立会人そていFX博奕「ニューヨーク砂漠ソルトレイク」センター50代野村光金しゅっちょおしょくじけん
https://www.youtube.com/watch?v=jET485MS1Vw宇ドナルド)マック張内戦中華
40代ファイナンシャルプランナー40代ニュース報道春文教授ディズニーちゃくふく春分解雇FXさんどりしゅっちょう[ヘルシアノートン緑茶]
https://www.youtube.com/watch?v=oMbYLIPZQ6c寸止講演会自主責任
40代ファイナンシャルプランナー40代ニュース報道巨樹グルテンそてい十代FXセーブデータ遠隔消去KAR-Dローン(シュッ)しょうきょ家賃滞納決算20代かふぇまなー銀行光金動画蓄物牧場
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ぼったくり春文インフラ時事ネット遊園地たかが監督(しん原宿あっせん安保上納金決算ドーピングニュース)井野頭3月経歴査定
虎の門20代無許可監督者保証池上横浜ポセイドンニュース外国人秋葉原情報(ブフランス西村ドナルドソフトバンク仏師アドバイザー退会処分NYダウ9月振高値ビジネス)
40代お手柄プランナータイムカード 田丸城跡に行ったら、
ポケモンを探す人が7、8人ウロウロしててびっくりした。 _.. -‐ ¨ ̄ ̄¨ <ヽ ̄ヽ、
/////////////// ̄¨ヽ//\
//////////////////////\ /\
//////. ィ//////////////////ヽ / ヽ
////// !////l_/////////////:ハ///:!
l /// V///ト、//////////////}///}
{i|V-.、 =ニV//ハ V////////////l///j
|i/¨¨´ ヽVミ、 V///////ヽ//j//ノ
__ 从イzェァ tzェォマt、_ V/////^ }:イ// / ̄ ̄ ̄ ̄
\ :'´⌒ヽ f ノ ヽ、 }iリ¨´r'´ //// | ふ 散
|i " )_,,, _ { (_,__入 r_.ノ///{ .| え 財
う や |i ヽ . , ‐-‐ 、_ :. /////{ヽj | る が
⚫ っ .|i / ・ i 、 ヽr=-‐ 7 ´|////ヘ、 < よ
ら た |i t `ー '゙ . !///トミ≧、 |. !!
ち ね |i 〃 ● ヽ、 .. イ |///! ヾi|i |
ゃ |i r一 ヽ ) >-‐'/-、 _ /' ´ ̄ ヽ }リ. \____
ん |i | i ∀ ,' / / ',
! |i | i ノi ,i.イ / i
|i ニ| |二二◎ /:::;' , - '::l ヽ l
|i i i ヽ ,':::::::::::i //::::::::::::::l 入 l
li } i::::::::::::::',./::::::::::::::::::::::l . ', l
|i | ',:::::::::::;ィ!;::::::::::::::::::::::::';: i l
__ / / ⌒`)⌒) `i‐ ' ',ヽ::::::::::::::::::ノ==ュ.,.イ l
メ / ノ l ` " ´ / l l 【311】 「致死量の放射能を放出しました」東電の小森常務は、こう発言したあと泣き崩れた。 【318】
福島で続く鳥の大量死
2015/12/23 福島県でカラス75羽の死骸!鳥インフルは陰性反応! ネットでは放射能を指摘する声も・・・
2016/ 8/17 福島・鏡石でカラス48羽死ぬ 鳥インフルは陰性
2016/ 8/18 スズメ250羽死ぬ、鳥インフル陰性
2016年
6月25日 スピリチュアルTVテディ小泉(52、埼玉)さん、脳梗塞で死去。
7月21日 ケニアに帰国したジョハナ・マイナ(25)選手が急逝。2仙台国際ハーフマラソンで3度優勝
8月 3日 写真家の宮本敬文(50)さん 脳出血で死去、SMAP写真集など手がける
マイト レーヤは原発の閉鎖を助言されます。
マイト レーヤによれば、放射能は自然界の要素を妨害し、飛行機など原子のパターンが妨害されると墜落します。
マイト レーヤの唇からますます厳しい警告と重みが発せられることを覚悟しなさい。彼はいかなる人間よりもその危険をよくご存じです。
日本の福島では多くの子どもたちが癌をもたらす量の放射能を内部被ばくしています。
健康上のリスクは福島に近づくほど、高まります。福島県民は発電所が閉鎖されれば1年か2年で戻って来られるでしょう。
日本の近海から採れた食料を食べることは、それほど安全ではありません。汚染されたかもしれない食料品は廃棄すべきです。
問題は、多くの人々が核の汚染の影響で死んでいるのに、日本政府が、原子力産業を終わらせるおそれのあることを何も認めようとしないことです。
注意欠陥障害(ADD)多動性障害(ADHD)、慢性疲労、あらゆる種類の癌の増大、呼吸そのものが脅かされています。
世界中で病気、主に皮膚、心臓、肺に関する病気の発生率が上昇し、ずっと昔に征服された病気が復活しはじめています。
汚染による死者の数は、他のいかなる原因よりも多いです。河川の汚染は社会に対する犯罪と見られなければなりません。
免疫システムの崩壊の結果がアレルギーです。人々は肺炎やインフルエンザやHIV/エイズなどに抵抗できなくなっています。
認知症の過程は放射能汚染によって加速します。増加するアルツハイマー病の原因となっており、より若い人々に起こっています。 南朝、後南朝とやらかしたにもかかわらず戦国まで残ったとか神がかってるね。 織田信長を題材にしたドラマは多数出されているが、お市さんが嫁いだ浅井家との戦いはクローズアップされるが、伊勢平定や信雄、信孝養子入りの件はナレーションだけで片付けられるパターンが殆どである。
よって此度、話し合いなど無しに御座る 信長のシェフと言うドラマには、北畠攻め出てきたよ。
北畠具教は本田博太郎がやってた。 >江戸時代の『伊乱記』に「北畠具教は武田勝頼の滅亡から何も学ばなかった」とあるのですが
Σ(゚Д゚) >>1
こんな立派な名門を信長は滅ぼしたのか
人間のクズだな 映画「忍の国」に北畠具教とかが出てくるらしい
日置大膳
心技体に優れる最強の武将
長野左京亮
現実的な思考を持つ武将。日置大膳の盟友 忍びの国の北畠具教は、暗殺されるためだけに登場する、
昔すごかったけど今はただの隠居って感じのキャラだから。。。 大河内城という壮大な山城を持ってたのに
信長には歯が立たなかったか >>344
国力、兵力差から歯が立つはずもない。
よく抵抗したと思うけど。 【ここまでわかった】戦国時代の天皇と公家衆たち
天皇制度は存亡の危機だったのか?
日本史史料研究会 監
神田 裕理 編
http://www.yosensha.co.jp/book/b213586.html
これ以外になんか北畠氏関係で読むなら何がいいかな >>346
伊勢国司記略と勢州軍記は読んだ?
あと、同じ日本史史料研究会監修の本で、南朝研究の最前線 というのもあった。 >>344
どんな堅固な城でも落ない城はない
援護する勢力がいなければ時間の問題じゃろ 勢州軍記に、
大河内城の戦いで北畠が優勢だったので、和睦の証に織田信雄を人質に取った
と書いてあるってホント? >>348
織田の家臣なのにこんな手紙が届くぐらいだから、北畠は信長に警戒されて当然か。
でも具房だけは暗殺されなかったよな。
>>350
ここに例の奴を呼び込まないでくれ。 >>351
将軍は節操なく誰にでも手紙を書くのが仕事だから
書状1つで万が一でも動けば儲け物って思ってたんだろ
そもそも具房は「織田の家臣」ではない
義昭と同じく復権を狙って独立しようと思う可能性も0ではなかっただろう
そんな気概がなかったから延命したんだろうが 具教や他の北畠重臣にも送っててもおかしくないね。
三瀬の変の直接の原因かも そういえば浪岡御所はここの人たちには北畠一族と思ってもらえてますか? 浪岡の話もしてたはず。
スレタイからは外れるけど、気にしなくていいと思う 覇気と軍才がある当主がいたら、
伊勢から近江・尾張・美濃を制して上洛
浪岡から津軽統一
はできたかな? 伊勢国司が上洛するのに、尾張も美濃も要らないだろ。
北畠具教に家中をまとめる力とやる気があったなら、
近江の六角と協力して義昭を奉じて上洛し、畿内から三好を追い払えたかもしれない。
浪岡御所も、一族の内紛がなければ津軽為信が出てくる前に津軽統一しただろう。
伊勢の北畠も浪岡も源氏らしく、一族の争いでガタガタになって滅んだから
そこが何とかなれば有力大名になれたと思う。 源氏に限らず、親子兄弟とか親戚同士で争った事のない大名ってほとんどないけど。
内紛を、家のダメージにせずに上手く利用できる才覚があれば、
そりゃ勢力拡大できたろう。 いや、なんで北畠が源氏らしく一族の争いでガタガタなんて話になるのかなーと思って
村上天皇の流れから出た村上源氏ってそんなに頻繁に相争うのが有名だったの? 話の主題でない所に噛みついて、
源氏を村上源氏に限定して全部否定したがる、鼻息の荒いヤツはウザい。
こんなヤツがのさばってるから、板が衰退してる。 >>362
どうやら何をバカにされているかまだわかってないみたいだなww
お前みたいなバカがのさばるから衰退したってのはよくわかる そのバカにする行為自体をバカにされて、
頭に血を上らせて意味不明な事を喚きながら、マウント取って来るとか
長文コピペレスバトルやってる気違いどもの一人に間違いない。
菅沼遼太かアンチ菅沼か区別は付かないけど、どっちでもいいからさっさと巣に帰れ。 伊勢北畠家の本拠地、多気御所。
何であんな田舎に?と思うような山奥だが
吉野から伊勢へ向かう途中なんだよな。浪漫がある。 >>364
急によくわからんローカル認定してどうした?
こういうのが変な空気作ってるせいで板が衰退しているんじゃないのか? 誤りを指摘されるとマウントとられたーとか言って泣きつくヤツ増えたなww 村上源氏の大名は、伊勢北畠家と播磨赤松氏の二家で、どっちも内紛で家が傾いた。
清和源氏の大名家は、戦国時代に限定しても、骨肉の争いをやってない家が珍しい。
常陸の佐竹氏ぐらい。
戦国時代以前でも、源頼朝も足利尊氏も骨肉の争いしてる。
対して平氏の大名家は、
下総千葉氏、陸奥蘆名氏は内乱で衰退し、織田氏は信長が弟を討ったが、
あとは後北条氏、陸奥相馬氏、対馬宗氏など、結束の強い一族が多い。 >清和源氏の大名家は、戦国時代に限定しても、骨肉の争いをやってない家が珍しい。
>常陸の佐竹氏ぐらい。
はあ?
一族の山入氏が太田城を奪ったり当主義舜が奪い返したりの佐竹氏を二つに割る戦いがあったのは
戦国前期だぞ
ほんとにここは戦国板なのかよ? >>369
そうかそうか。物知らずの負け犬は去るから、
その豊富な知識をちゃんと活かして、このスレを盛り上げてね。 >>370
いやいやいくらなんでもほんとに物知らず過ぎじゃないか?
山入の乱の克服のおかげで佐竹の戦国大名となる流れにもつながっていくのに 佐竹?北畠の話はどうした。
上がってると思ったら、関係ない話でバトルかよ。
しかし博識な奴が居るみたいだから、
どんな話題を提供してくれるのか、
さぞや北畠についても博識なんだろうから、期待しようか。 >>372
物知らずの負け犬が他人のフリして居残るとは >>374
他人のフリなんてせずにちゃんと居残ってるよw
スレ違いの書き込みしかできないお前を笑うために、ね。
スレ違い荒らしに、他人の無知を笑う資格あんの?マジ草が生えるw >>373
今川氏は、氏親が戦国大名化させたって言われてるけど、義忠からなの?
北畠は晴具からじゃないの?
詳しい事をお教えください 物知らずの負け犬は去るんじゃなかったのか
ずいぶんと言葉の軽いヤツだなあ ウィキペディアの村上源氏の項目見ると
北畠家を地下家って書いてある。
こんな明らかな誤りでも放置されてるのが驚き ウィキなんかそんなもんだろ。
ちゃんとした研究を参考に書いてる奴はほんの一握り。
ヤフー知恵袋がちょっと頭よくなった程度の価値しかない。 伊勢楠木氏は北畠氏から偏諱を受けたっぽいのが二人いるけど
楠木正顕、楠木正具、どっちも楠木氏の方が格上扱いの謎 北畠って信長に対してなんかやらかしたの?
伊勢侵攻の大義名分とか聞いたことない 大義名分なんかなくても、伊勢は支配下に収めておきたいだろ。
信長が北畠に上洛に協力するように要請して、断られたから攻めた可能性はあるけど。 北畠なんて名門だし、大義名分無き戦いに7万も動員できるのかなと思って
そもそも将軍家が認めないんじゃなかろうか 確か具教の弟の木造が手引したんだろ?
兄貴と相当仲悪かったんだろう
北畠家の内紛に信長が乗じたのが本当のところでは? 長野を降して津まで支配下に収めたら、足場固めとしては十分だからな。
わざわざ僻地の北畠まで攻めたのは、木造が頼んだからというのは要因としてあるかも。 織田軍が7万というのは勢州軍記の記述によるので、たぶん森杉てる。
実際の数は不明。 wikiに
戦国時代に入ると、英主・北畠晴具が現れ、
北畠家は南伊勢、志摩国、伊賀国の南部、大和国の南部、紀伊国の東部にまでに及ぶ一大勢力
とあるけど
伊勢南部、志摩、伊賀南部、大和南部、紀伊東部って人住んでたの?
人口めちゃ少なそう >>388
人口は少なかっただろう。
山林とか海産物でそれなりに豊かだったので、現代のそのあたりほど僻地ではなかったかも。 長野左京亮(長野一族で具教を槍で突き殺した)と日置大膳亮(松ヶ島細首城主で田丸城での長野具藤・
北畠親成・坂内具義殺害に関与)は、織田信雄に積極的に乗り換えて旧主一族や北畠旧臣たちを
次々に滅ぼし、その後もそれなりに活躍したのにマイナーだよなあ マイナーな人物は、能力か人格かネタが優れてないと人気にはならないよ。
マイナー大名を裏切ってうつけに仕えた人物に、人気の出る要素はないだろ。 和田竜の小説は、実在した事件と実在人物の名前借りてるだけで
ほぼ創作だからな。
日置大膳カッコいいってファンがいても、実在の日置大膳亮はほとんど事績が伝わってないので
それ以上どうしようもない。 幕府の権威がピークだった義満〜義教時代に攻め滅ぼそうとか思わなかったのかね?
奥州や九州の端っこならともかく、畿内近くに南朝シンパ大名がいるってのに。 思わなかったのかね?ってw
義持の時、義教の時と二回攻めて、二回目では当主の北畠満雅が戦死してるんだが。。。
それで北畠家は幕府に恭順したわけだ。 鎌倉時代の政争は族滅が多いのに、室町時代の大名征討は家を残すことが多いね。 >>399
『鎌倉殿の13人』では、北条義時は実はいい人で、「こんなこと(競合御家人の
粛清等)したくなかったのに……」設定らしい。NHKはもうまともな時代劇は
制作できないんだろうな。 恭順しているなら滅ぼして他の守護大名に治めて貰って力をつけるよりは北畠にそのまま治めて貰った方がいいんだろう >>400
大河主役の明智光秀が織田信長を殺したのも、大河主役の徳川家康が豊臣秀頼を殺したのも、ほぼそんな感じだったじゃないか?
大河ドラマの主役を悪者にはできんやろ 今回の義時は当初襲撃対象じゃなかったやつに対して
以前侮辱された恨みを忘れずついでに討ち取ってしまいましょうって進言するくらいのキャラだよ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています