【海賊】 水軍スレ 【安宅船】
信長の鉄甲船があったとかなかったとか
そんなことについて語ろうぜ 九鬼の子孫は、先祖が海賊だということで
後に、持て囃されたらしい 持て囃されてたん ?
海賊が何をしているのか、わかっているのかいな 海賊稼業は、3日やったらやめられない
人の物を奪い取る快感は、やったものにしか
わからない
まったくもって、グズやね グズと言っているわりには、解説していることと真逆だろ 世の中、矛盾だらけのほうがおもしろい
矛盾がつまらないと言っているのは、人生を
知らない証拠や 戦国期の若狭武田氏や土佐中村一条氏は水軍を持っていたのか? >>709
木津川口では言うほど大敗してないし
九鬼より村上の方が水軍としての規模はでかい
単に海賊禁止令→関ヶ原で御家再興失敗没落というテンプレ通りになっただけ
九鬼は息子の方がまがりなりにも幕臣になったから生き残れたわけで
実質、水軍どころか船出頭の役も解かれてる
いわば幕府お抱え以外の水軍(海賊)は全て死んだと思えば間違いない >>709
大名になったり、毛利の水軍になって残っているけど? >>719
> 木津川口では言うほど大敗してないし
白村江の倭国船団やバルチック艦隊みたいに続々と撃沈したわけではなく、
退却に成功した船のほうが多かったみたいですな。 外国のしかも機帆船での質問で済まない…。
どこ行きゃいいのかわからん&同じ船関係だから誰か知る人いるかな?…の期待感で
聞きたいのですが。
下のイギリス最初の航洋装甲艦『ウォーリア』なのですが
これって石炭以外の貨物で運用したい場合総じて何トン喰らいつめれそうなのでしょうか?
ttp://www.d3.dion.ne.jp/~ironclad/wardroom/Warrior1/1860warrior1.htm
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%A2_(%E8%A3%85%E7%94%B2%E8%89%A6) 小田原城攻城戦では大鉄砲+大筒が1000門使われたと言うし
此れの一部は後で船にも搭載されていたと言う事なのかだが
文禄・慶長の役では大部分は当初陸戦に回っていたのかだが
後で船の装備率は増えたと言う事なのかだが ここ過疎スレだったのに最近よくあがるようになったな。なんかあったのか? >>730
http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/293400
海戦用の船手具足も軽装では無いし
海賊も騎馬武者クラスの人間は村上海賊の娘・景の様に
軽装では無いと言う事なのかだが
とは言え劇中の様に長時間徒歩で移動する場合は
軽装の可能性も高いのかだが
長時間歩く必要の無い船上では重装備なのかだが
http://cubeaki.dip.jp/taiheiki/taiheiki/taiheiki21-30/taiheiki-22-1.html
>彼の甥に所大夫房快舜と言うとんでもない無頼僧がいました。また中間に悪八郎と言うミツクチ(兎唇)の大力自慢がいました。
それ以外に犬獅子と名付けた、不思議な犬を一匹飼っていました。この二人の者と一匹は闇夜になれば、帽子兜(眉庇のない兜)と言う粗末な兜をかぶり、
鎖帷子を着て足軽に扮して出かけたりします。またある時には大鎧を着けて七物(武士の持つ七種の武器)を携えることもあります。
太平記に出て来るこうした高位の者も徒歩で隠密行動する際は
軽装と言う事なのかだが >>729
某研究者ってアホが各スレで暴れてるから https://www.pinterest.jp/pin/343610646561480695/
https://www.pinterest.jp/pin/343610646561480945/
海戦で鎖鎌を使う描写も江戸期には有るが
戦国期には有るのかだが
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%B5%E6%B5%81
>念流鎖鎌術から派生したとされる一心流(流祖・丹一心)の鎖鎌は、鎖の長さが1丈2尺(約3.6メートル)、分銅の重さが300匁(1.1キログラム以上)とかなり大きいものを操っている[3]。
これは妙に分胴が重いから甲冑を想定した物なのかだが
https://myarmoury.com/review_lut_17001.html
フレイルの分胴でさえ700g程度の物も有るが
細長い分胴の物は恐らく更に重いだろうか
3.6mの鎖で1kgの分胴を振り回せば
板金鎧でも危ういのかだが >>733
http://sendai.shindomusoryu.jp/kusarigama.html
一心流鎖鎌術は14世紀にも有るのかだが
古い流派なので重い分胴で太平記に出て来る
板金的な金胴も含む甲冑を
打ち砕く事を狙っている可能性も有るのかだが 霞ヶ浦の湖賊。
戦国時代には存在していたんだっけ? https://www.pinterest.jp/pin/343610646562452166/
上の土蜘蛛草紙の右の人物は渡辺綱かも知れぬが
歩兵の様な格好をしているから違う可能性も有るのかだが
http://www.emuseum.jp/detail/100257/000/000?mode=detail&d_lang=ja&s_lang=ja&class=1&title=&c_e=®ion=&era=¢ury=&cptype=&owner=&pos=81&num=7
此れを着て騎乗している場面も序盤に有るし
下位の騎兵用の胴丸と言う事なのかだが
偉い人間も戦争時では無いから
村上海賊の娘の様な軽装をしていると言う可能性も有るのかだが >>735
ほとんど資料ないけど多賀谷氏や江戸崎土岐氏に水軍がいたって話はあるね >>738
>>735
江戸崎土岐氏は水軍もっていたね。
ただし他の大名や小名と戦うためではなく
霞ヶ浦の商船を狙う海賊と戦うだけだから
それほどの規模ではなかったように思う。 戦国時代は万が一沈没や浸水した時に使う救命用の筏の類はあったんだろうか
水軍の人たちはどうやって対策してたんだろう >>741
ひょっとして小早程度なら安宅船に載せられるのかな
関船だと難しいだろうけど >>743
さすがに無理かぁ
伝馬船…勉強になります 載せるっていうか軍船とか大型船とかなら
戦艦と駆逐艦みたいに随伴して航行しなかったの?
商船とかは知らないけどさ >>740
大量の小早・関船が有れば
此れに出来るだけ分散して救助した者を乗せれば
部隊の移動に支障はほぼ出ないと言う事なのかだが
救助に時間が懸けられない状況なら
手近の船が最大限乗せた後
後で他の船に最大限分散移乗させれば
部隊の機動性はほぼ低下しないと言う事なのかだが
大量の船損失に備えて人や物資が余り乗らない
予備の船舶も有る可能性も有るのかだが
此れでも足りない場合は
物資を投棄して人を乗せていたと言う事なのかだが
pin.it/d2mfdvbhgtxvdd
こうした先端が長い鳶口も有るが
船戦用の物は此処迄のサイズは無いのかだが https://www.pinterest.jp/pin/343610646561492649/
上の朝鮮軍図屏風に有る日本船は
蔚山城から脱出する兵を救出する為に派遣された物だろうが
此れは浅瀬に出来る限り入る為に小早を使用しているのかだが
小早とは言え集中射撃に対応する為に対弓の装甲を全面に施しているのかだが
救出用の特殊仕様なのかだが
こうした船は食料や水はほぼ搭載せず
救出に特化していると言う事なのかだが >>747
まず経緯を考えろアホ
その船がなんなのかわかるだろ 海戦用船手具足も
面具は船から落下した際の呼吸の邪魔とは成るのかだが
http://ikkaiyoroi.com/14.htm
上の物は口は歯も無く
割に大きくは開けられている様に見えるが
http://bunka.nii.ac.jp/heritages/heritagebig/293400/0/1
上は鼻の無い面頬が有るだろうか 漫画村上海賊の娘8巻では
小早は垣盾を装備しているが
此れは近距離の銃は防げないから
現実には火矢を止める為の幕或いは薄い竹板を装備していたと言う事なのかだが
https://www.pinterest.jp/pin/343610646561492649/
近距離の銃が防げるのは正面の竹束のみと言う事なのかだが
pinterest.jp/pin/343610646561492649/
一番上の船は正面の後方には盾板は有るが
遠距離の鉄砲なら此れは防げるのかだが
安宅船同様の10cm等は有るのかだが
一番下の船にも前の方に盾板は有るがこの後方にも盾板は有るのかだが
或いは当時の垣盾と同様に
5cm程度しか無い可能性も有るだろうが
構造は垣盾では無く盾板的にも見えるが
https://www.pinterest.jp/pin/343610646561481063/
関船の場合は下部は薄い竹装甲だが
正面や上部の銃兵が戦闘する際に居る部分は盾板が装備されていると言う事なのかだが
この板は10cm等は有るのかだが
https://www.pinterest.jp/pin/343610646561481080/
伏せて漕ぐと言う様な事も
この構造では困難と言う事なのかだが
前部等の一部の漕手だけは盾板や竹束等で防護され
方向転換は出来る可能性も有るだろうし
敵に対し下部も耐弾性が有る正面或いは後方を向けた後漕手を大量に下部に移動させ
射程外に離脱と言う様な事が出来る可能性は有るのかだが
pinterest.jp/pin/343610646561481063/
盾板は下に倒せて移乗可能な構造だろうから
此れを斜めに倒して漕手が伏せれば耐弾性が得られる可能性は無いのかだが
人が乗れる強度は有るだろうが
果たして斜めにしても防弾能力は何処迄有るのかだが
https://www.pinterest.jp/pin/343610646563738579/
上の様な形で薄い竹の盾板を固定すれば
果たして耐弾性は得られるのかどうかだが https://pbs.twimg.com/media/C2MXC9KUkAAPWk5.jpg
安宅船の先端に立ってる棒がバウスプリットで下に見えるのは筵帆あるいはジャンク帆ってことなんかな
だとしたら帆を張った状態の安宅船ってこんな感じ?
https://i.imgur.com/6fZYZwf.jpg
コグとキャラックの中間みたいな 寺社に奉納する模型かこれ
本物そっくりに作るしきたりだから
資料的な価値はかなり高そう シンクでポコチンは毎日洗ってる
電気代は蓄えからだなぁ 「水軍と海賊の戦国史」(小川雄)読了。
朝鮮の役で来島村上が当主兄弟討ち死にという
他の大名に見られない大被害を受けたのは
秀吉による国内統一の過程で
他の海賊衆がどんどん大大名の一家臣として吸収され
自立性を失っていったものの、その大大名の下では
どんどん大型船建造や火力増強などの恩恵も受けれた
ところが来島氏は毛利VS秀吉の頃に
いち早く秀吉に寝返った功績から
秀吉に厚遇されて、転封や家臣化されずに
1万石の小大名として自立性を認められた。
その自立性がゆえに、大兵力&大型船同士の
合戦に移行していた朝鮮の役において
小大名がゆえ小兵力&小船舶で戦わざるを得ず
もう個々の技量云々の時代ではなくなっていたがゆえに殲滅した…っていう
考察が「なるほどね」って関心させられた
この時期に至って、もう海賊衆としての特殊技能が云々という時代ではなくなり
大兵力対大兵力、大型船舶VS大型船舶の戦いになっていて
そういう大大名の後ろ盾のない元・海賊衆は消えていったのだ…っていう 朝鮮の役で九鬼やら村上やらの水軍衆が
さしたる活躍をしていないのも
もうそういう操船能力に特化した連中の特殊技能として
専売特許となっていた時代は終わり
水戦に縁のなかった大名たちが
かつて海賊だった連中を吸収していった結果
必要なくなったから、って見解みたい
国内でドンパチやってる時は
時勢によってあっちこっちに所属する
水軍衆の自立性や特殊能力は重宝されたけど
それが統一政権下になっていく過程で
どんどん大大名に吸収、技術等も分散したので
海賊大名の特異性が失われていった
ゆえにもう数対数の勝負になっていったと 朝鮮役での苦戦は大型火砲の生産運用能力の差が原因とは思っていたがそういう事情もあったんだな 水軍領主っていっても動員の裏付けになる人的資源が貧弱で数百が精々だよね 水軍出身で10万石以上とかあんまいないだろうしな
数百の小回りの効く部隊を日本の狭い海域で動かすのには
特化していても外海で数対数の戦闘になると
そら兵数の少ない順に被害は拡大するよねっていう
当たり前の話だったのかもしれない >>765
別に殲滅されていない件
親族が指揮を引き継いで終戦まで活動していたし
大名家としても子供が継いで明治維新を迎えている
水軍(海賊)だけでの関税収入が無くなって自立不可になったってことなら
秀吉の海賊禁止令の時点で滅んでいると言うことになる >>771
朝鮮の役での「軍」としては殲滅状態だろ
誰が来島一族がこの戦いで滅亡したって書いてるんだよ
「活動」と「活躍」は違う
実質、軍として機能できない程の兵力なら戦力としてはカウントされないだろ
あと関税収入がなくなったから自立不可になったなんてどこにも書いてない
関税があろうがなかろうが、大大名に吸収された他の支族に比べて
独立の小大名として自立していたことが、逆風になったって話をしてるんだろ
読解力ゼロか >>772
え゛っ?小川本はまあまあ良書だと思うけど、それだけでは駄目だよね
だいたい来島軍って壊滅してないでそ?
通総が死んだ後も後継指揮官が指名されて海戦なり海運に従事していたし
蔚山城の戦いでも来島水軍や菅水軍は活躍した書状が残っているし
その後に現場から秀吉に具申された戦線縮小案に他の大名と並んで来島や菅は署名している、カウントされているよね
海賊禁止令のあおりは深刻で収入が所領だけになるわけで石高なりの規模の影響力になるのは当然、減封みたいなもの
逆風ってのはどこで出てきた話なんだ? 森本は学者じゃないとはいえ書籍で因島水軍が15万石相当とか吹きすぎ
江戸後期の換算表使ったり税収と収穫を混同したり色々換算の方法が間違ってる 朝鮮役で日本の水軍が壊滅していたら何万人も対馬海峡を海送できてないよなー 人的には越冬による病死で壊滅して、翌春に子供から老人まで総動員している なんで来島水軍が壊滅的打撃を受けたって話が
日本水軍全体が壊滅したみたいな解釈になってんだよアホか 来島「水軍」も、1人残らず壊滅したわけじゃないんだから
そら輸送でも籠城でも生き残りがいれば戦功として感状くらい出るだろ
あくまで「その他大勢」のくくりでな
署名もそう。
腐っても大名なんだから
戦力として数千数百の兵を率いて
当主兄弟の戦死後も蔚山城の戦い等で
華々しい活躍をしたって記述はどこにあんのよ
「戦場にいた」ってだけで
活躍した、カウントされてるってのは
(小)大名としての家格があったからってだけだろ
雑兵じゃないんだから 軍勢が健在なら壊滅状態とはいえないな。
それに来島水軍が壊滅したって話も聞いたことがない。
元々の来島の軍勢は数百なんだから「数千数百の軍勢レベルの活躍が見れないから壊滅している」なんて論理は破綻している。 >>780
慶長の役の後半で水軍の半数を帰国させたときも来島や菅は残留組に選出されているし健在だった だから、軍として機能したって根拠はなによ
万単位の軍勢の中で10人20人でも生き残って現場にいたのだから
戦力となっていた、ってのは苦しい言い訳にしか聞こえねえよ
>元々の来島の軍勢は数百なんだから
逆に元々数百の軍勢が当主兄弟が討ち死にするような激戦を抜けて
まともな戦力として運用できたわけがねえだろ
「活躍していた」から「健在していた」に表現を落としたのはなんでなんですか? ピンポイントに当主兄弟だけがスナイプでもされて
軍勢としてはほぼ無傷だったとでも言いたいのだろうか
万単位の軍勢を率いる部隊なら、そら指揮官が討ち死にしても
継続運用できるかもしれないが
数百の小軍が指揮官兄弟を失ってまともな戦力として
以後も活動していたって何故思えるんだろうか
元々さしたる戦力でもないのに >>783
でも明梁海戦なんて実際それに近いでしょ
主力の安宅船を温存して小関船のみで進出した分に被害が出たんだから
その海戦後半で安宅が出動してからは全羅道西岸を制圧して数万人の捕虜を海送している
来島だけ見ても弟が指揮を引き継いで活動を続けていて根拠地の普請や蔚山城への救援に出動して感状まで貰っている
数百で出動して数百で帰って来たのだから壊滅などとは程遠いよね
関ヶ原でも来島の活動は続いていたし >>784
安宅船は温存というより運動性が悪いので置いていかれた
かといって安宅船の足に合わせると朝鮮水軍を補足できないというジレンマ
李舜臣としてはこの段階では現存艦隊主義なので、土地を捨てて艦船を
温存するのは当然の方針 腐っても小大名なのだから
現場で仮に1人しか兵が残らなかったって
生きて帰れば「家格」で感状くらいもらえるでしょ
具体的に来島勢がどれだけ当主死亡後に
合戦で活躍できたかの記述がどこかにあるのか?
数百で出撃して数百で戻ったの典拠は? >>786
嘘は良くないよ
軍功を挙げなければ秀吉からの感状は発行されない
例えば間に合わなかった場合や働きが悪かった場合
蔚山戦での来島には発行されている
また秀吉の課した軍役が負担できないなら当然交代させられる
軍勢が形成できなけはれば得井の軍が来島には編入されたように再編成する場合もある
来島には独立して軍役を遂行しているから意見具申で署名されたり秀吉からの指令の宛先になっている
だいたい戦力の損耗で軍の体を成していないのであれば交代要員の側に入れられたり代わりの軍が送り込まれるがそうではなかった 秀吉が直接全部見分して感状出してるわけじゃないんだから
取次次第だろ、そんなもん
>軍功を挙げなければ秀吉からの感状は発行されない
>例えば間に合わなかった場合や働きが悪かった場合
敵前逃亡とか拠点失落とか、そういった明らかな落ち度があるなら
そら感状は出ないが、大名の家格があって
籠城戦等を生き抜いたのなら、払った犠牲に対しの慰労も込めて
感状くらい出るだろって言ってんの
本当に来島が残兵で華々しい活躍をしたのなら加増されてたっておかしくないだろ
>また秀吉の課した軍役が負担できないなら当然交代させられる
>軍勢が形成できなけはれば得井の軍が来島には編入されたように再編成する場合もある
>来島には独立して軍役を遂行しているから意見具申で署名されたり秀吉からの指令の宛先になっている
得井勢は「大名」ではない。
軍勢が形成できなければ交代させられるというが交代させる軍勢や
退路が確保できていなければ小勢でも現地に留まるのは当たり前だよな
勝手に撤退はできないわけだから。
朝鮮の役がそんな簡単に軍勢を交代・交換できたり
日本と高速通信して現状報告できたと思ってんのかアホウ
で、来島勢が数百で出て数百で戻ったとか
合戦で有力な戦力として活躍したって根拠は?
おまえの根拠は「感状があるだろ」しかないわけ?
島津や立花など実際に多大な戦果を挙げた大名は
「感状」なんてあやふやなもんしか功績の軌跡がないわけじゃないし
加増されたりしてんだけど
何を根拠に来島が戦力として活躍したって認定してるわけ? 仮にも大名の軍勢が多大な犠牲を払って
当主兄弟も討ち死にしてんのに
紙切れ1枚しかもらえないって時点で活躍の規模なんか
お察しだろ
1武将の立場ならまだしも
まがりなりにも「大名」なんだからな来島は
事実上、たいした戦果は挙げなかったけど
秀吉のお気に入りで生きて帰ってこれたから
家名存続と残念賞のお手紙1枚がもらえただけって話を
「感状があるから壊滅後も戦力として有力な働きをした!」って無理にも程がある 数字は仮だけど
来島が500の軍勢率いて
当主討ち死にの海戦で400の兵を失って
残りの100で諸合戦に従軍して
たいした活躍もないが落ち度もなく
生きて戻ったとしたら
感状くらいそら出るでしょ
大名なんだから
400の犠牲を払った残念賞としてな >>784
来島の石高(1万石)を考えれば
安宅船を複数所有できたとは思えず
ほとんどは小早だろう
初戦で突出したそれらの小早勢に来島は参加し
当主が死んでいるのだから
主力は壊滅したと思って間違いないでしょ
主力(安宅)を温存して当主が小舟で敵に突撃するって
来島はアホなのか?
逆に考えれば、ほぼ小早しか戦力がなかったから
安宅と速度差で離れ、前線に突出して敗退したんだろ
>その海戦後半で安宅が出動してからは全羅道西岸を制圧して数万人の捕虜を海送している
来島が単独でそれを引き受けたかのような語弊を招く表現はどうだかな
>数百で出動して数百で帰って来たのだから
で、これのソースは? >>765
逆に来島が壊滅したっていう根拠はなんか載ってるの? それ以上のソースねえだろって感じのソースだよな
指揮官が突出して死んだ合戦で、その軍が以後も活躍し続けたなんて
例の方が稀有だろ
それくらい当主の死というのは重いし
だからこそ普通は後方でどっかと構えてるわけで
本陣が壊滅的被害を受けなければ当主兄弟の討ち死になんて
状況にまずならない 露梁海戦で李舜臣が戦死して朝鮮水軍は壊滅?
すでにほぼ壊滅状態で明水軍の指揮下だったみたいだが まあ李舜臣は王朝から指揮権を預かっていたから
他のやつが引きつけば壊滅ではないと言えそうだが
これは来島水軍にも当てはまりそうな気がする では殲滅・壊滅の定義を行って総数と被害の割合がわかれば落とし所が見つかるんかね
日本軍の被害は李舜臣の乱中日記によれば「31隻を撞破(撞破=突き破る)」
日本戦史 朝鮮役によれば「来島通総以下数十人が戦死、藤堂高虎が負傷し、数隻が沈没するなどの損害を受けた」
みたいだが 被害の実数ってのは敵方は大きく
味方側が少なく書くものだから把握は難しいだろうね
ただ、三国時代の話でもなければ大将が突出して先陣に切り込むなんてことは
この時代そうそうなかった話なわけで
当主が死ぬってことは本陣近くまで切り込まれたとか
軍が孤立したとか、そういう状況にならなきゃ発生しない状況だろうから
損害のでかさもお察しって感じではあるけどな 同時代や関ヶ原・大坂の陣などを見ても
指揮官が討ち死にした後も軍として機能し続けた部隊なんて
ほぼないだろうしな 別部隊に回収されたり、合流したりで体裁を保ったってケースはあるだろうけど 来島は兄の得居も戦死と言われているんだっけ?
どいう状況で討死したんだろうな
大名であり将でもあるし見通しの聞かない小舟主体だったから戦況把握のために前線に出すぎたんだろうか
慶長の役での李舜臣の前任・元均と配下の将も討死しているし
海の上で逃げ場がないから戦死者出やすいのかな つまり、トップが二度戦死した朝鮮水軍は二度全滅
トップ3の一角が戦死した明水軍は三割壊滅ぐらい?
ま、主将のネルソンは戦死したけどイギリス艦隊は保全されたしねえ
船戦と陸戦を同一視するのもなんだかな >>803
つべこべ言ってねえで
おまえがたった1つ、来島が当主兄弟戦死後も
戦果を挙げ続けたって記述を1つ出せばいいだけの話だろ
感状なんてよほどの失態をやらかさない限り
「参加賞」みたいなもんでももらえるわけで
敵の記述とか、加増とか、そういった具体的な裏付けも無しに
来島軍は当主死亡後も軍として活躍し続けたとか何を根拠に言えるんだ >>804
既に色々書かれているのでは?
軍役を果たせば感状が貰える
果たせないと叱責を受ける
更には召還されて改易される場合もある
軍目付同士が監視しているので感状の乱発なんて無理
それに来島は先発帰国組から外れて残留組合せの水軍戦力だからな
関ヶ原でも活動していたし 戦力にならないと大友みたいに潰されたり中川みたいに減封されるから島津みたいに震え上がって戦うしかない で、その感状にはどこの合戦でどれだけの戦功をあげたって書いてあるのかな
結局おまえのは「感状がある」だけの1点張りだけ
敵の資料にも
味方の資料にも来島の具体的活躍はない
朝鮮の役で改易されたのなんて無断逃亡とか、軍令違反とかばかりで
ただ単に兵力をを失ったから改易、なんてケースは聞いたことがない
そして関ケ原の話はここでは関係ない
朝鮮の役で、どれだけ結果を出したのか?って話をしてんだろ。話を逸らすな
大友は敵の虚報を信じて仲間を見捨てて無断撤退したから
中川は合戦ではなく鷹狩り中に暗殺されたのを戦死とごまかそうとしたから
明らかな「失点」があるから改易(or改易されそうになった)になっただけ
勝敗は時の運なわけで、明らかな命令違反や戦以外での失点ならともかく
拠点を失ったり、兵力を消耗したからといって改易された大名などいない
だから参加賞で来島は感状をもらっただけ。
大名格であり、初戦で当主が戦死した事以外、大きな失点がないのだから
その後、戦功を上げるか上げないかなんて問題ではない
生きて帰っただけで感状くらい出るだろ。まがりなりにも大名なんだから 「数百の兵を率いて、当主死亡後も戦で活躍した」
と、おまえは主張したのだから、感情をもらったとか曖昧な話ではなく
それを具体的に裏付ける証拠を出せよ ま、来島通総の戦死後も来島水軍は来島吉清に引き続き率いられ
藤堂高虎や加藤嘉明や脇坂安治や菅達長らと同程度には活躍したってことだな