【海賊】 水軍スレ 【安宅船】
信長の鉄甲船があったとかなかったとか
そんなことについて語ろうぜ ・鉄甲船はヨーロッパのガレオン船より強かったよ派
・鉄甲船はあったよ派
・巨大な船はあったけど鉄貼りではなかったよ派
・鉄貼りではなかったけど大砲は積んでたよ派
・鉄貼りでもなかったし大砲も積んでなかったよ派
・第二次木津川口海戦そのものがなかったよ派
さて君はどーれだ? >多門院日記には鉄張りだと
「鉄の船」とあるだけで、鉄張と書かれているわけではない。
「鉄製船」「鉄砲搭載船」と、どうにでも解釈できる。 >>5
>「鉄製船」「鉄砲搭載船」と、どうにでも解釈できる。
鉄砲搭載ならばちゃんとそう書き記されるんじゃないのか?
素直に鉄板がコーティングされてる箇所がある大船と
解釈したほうが納得するけど。 海戦の参加者の記録か、さもなければテレビ映像を見て書いたのであれば
正確に書けたかもしれませんね。
しかし、奈良の多聞院日記の人が実物を見ていないのなら、
伝言ゲームの末に「鉄の船」と伝わってきたのを書いたのでしょうから
それがどこまで正確なのか書いた人にもわからないでしょう。
下手をすれば記録した当人は海を見たこともなかったかもしれません。
第二次木津川口海戦の五年前に、琵琶湖でプロトタイプが一隻作られていたりする。 鉄甲船がなかったとすれば、どうやって村上水軍を撃破したのか謎になるから
あったことはあったんじゃないかなぁ 海戦つっても兵糧の運搬だけじゃねーの
石山本願寺が頑張っただけ 信長の鉄甲船は、ほとんど動かない洋上要塞だと認識していたけど、違うの?
石山への港が特定されている訳だし、そこまで移動出来れば、後は火力で制圧、という事で。 ガレアスみたいのものだったのかね
これも移動なんて考えてない海上要塞だったし 海戦といえば普通は機動戦だけど、この海戦だけは野戦築城に近いんじゃないかな?
信長の戦い方には、割と付け城による包囲戦が多いけど(野戦は決戦となる戦くらい)、その延長で海の付け城、と考えれば鉄甲船が理解しやすいかも。
信長は、自分の得意な戦に持ち込むのが得意だけど、これも海戦に勝つのではなく、自分の得意な状況に持ち込んだのかもしれない。
どういう構造だったのか判らないところが多いけど、当時の船(和船・西洋船・中東・ジャンク)で、薄鉄板を張って、機動戦が行えたはずが無いから。 >>16
それだけじゃ船をデカくした意味が無い。小型〜中型の船にも大口径鉄砲は積める。
大きいだけの船は、当時の海戦では動きが鈍いわ的にはなるわ、輸送目的以外ではいいところがないので
生粋の海賊らは、機動性のある小型〜中型の小早船や関船を好んで使っていた。 >>20
大型にすればそれだけ火砲の搭載量も増える。
実際、やや時代が下った欧州の軍船は大量の火砲を船体側面に積めるよう大型化している。
また、船縁が高くなれば斬り込みも困難になる。
火矢の的になるのは機動力があっても大して変わらん。
火矢を避けられるスピードで航行できるはずもないのだからな。 大安宅がまともに使えたのは狭い河で戦われた木津川口の合戦くらいで、
実用性は殆どなかったのではないか。
朝鮮でも安宅は殆ど兵力にならなかった。
海での戦いはわずかな速度差でも結局は機動力の勝負になるよ。 >>21
大船に多数の火器を搭載するのも、小船多数に一艘当たり少量の火器を搭載するのも火力の総和は同じ。
大船と小船の装甲が同程度だとすると作戦展開の面で後者の方が有利となる。
西洋帆船が火力を増強する方向に進化するようになったのは風だけで十分な推進力を得られる純帆船として完成されてからのことであり
手漕ぎのガレー船に相当する和船と同列に論ずる事はできない。
欧州においてガレー船を巨大化させて大火力を搭載しようとした「ガレアス」は、試みとしては明白に失敗作であった。 ガレアスはガレーと帆船を合体させた上で大火力を目指していたからねぇ
失敗作なのもむべなるかな
木津川口のような非常に限定的な使い方ならある程度役にはたつだろうけど 安宅船は指揮艦でしょう。
九鬼も、九鬼丸は安宅船だけど、主力は関船ですしね。
ガレアスは強火力・遅速力・弱装甲で、ガレオンは中火力・速速力・弱装甲だから、撃たれたらやられるのは同じ。
だから、ガレアスは駄目だったけど、鉄甲船は、機動力不要・大火力・強装甲という必要充分な性能を持っていたから、戦えたんでしょうか。
となると、鉄甲船は、対石山専用船? 鉄甲船のかわりに、金角湾みたいに河口を鎖で封鎖してても良かったんじゃないかw 長篠の合戦の馬防柵のような、足止め・待ち受け戦術用の船だったと思う>鉄甲船
陸戦の発想を力技(財力)で海戦に持ち込んだものだったのでは 鉄甲船は、火攻め対策を施した新・連環の計だったんだよ!! >>23
>大船と小船の装甲が同程度だとすると作戦展開の面で後者の方が有利となる。
小船による機動戦術が絶対的に有利なら、何故火力に重点を置いた大船に取って代わられたんでしょうかねぇ・・・
>手漕ぎのガレー船に相当する和船と同列に論ずる事はできない。
日本の大安宅船は漕帆両用で、船体構造から言ってもガレーよりガレアスに近いのだが。
ついでにガレーにも帆がついてるものが多い。しかも今の論点は火砲の有用性なんだが。
>欧州においてガレー船を巨大化させて大火力を搭載しようとした「ガレアス」
自分でも気付いてるみたいだけど・・・
>西洋帆船が火力を増強する方向に進化するようになったのは風だけで十分な推進力を得られる純帆船として完成されてからのことであり
完成に至る経緯なんて関係ない。結果として火力に特化して大型になっていったことは歴史的な事実。
仮に火力よりも機動力が絶対的に有利であるのなら小型帆船による集団戦闘が海戦の主流にならなければおかしいが史実にない。
日本の場合は江戸期に入り船体の進化か止まったので欧州の例を参考にした。 ガレアスもコンスタンティノープル攻め落としてるから拠点攻略には強いんだろうな。
>>31
ガレー最後の晴れ舞台となったレパントでも連合軍の6隻のガレアスは敵のガレーと互角異常に渡り合ってるからね。
しかも味方ガレーの援護があったにせよ1隻も沈んでない。全く使い物にならない代物ということはないな。
失敗作なイメージは漕帆両用火力重視の良いとこ取りで特長がぼやけたことと、その後のガレオンに取って代わられたからだろう。 >30
江戸時代の和船は、最も低コストで建造出来、少人数で運用出来、それでいて最も多くの荷物を積載出来る、という形で改良されたからね。
これはこれで、適正進化だとは思うけど。 話は変わるが、瀬戸内海の水軍だが、波がキツくて小型艦しか運用出来なかった可能性もあるね。 >>30
植民地支配で大西洋、太平洋を行き来する欧州海軍同士の戦術と
浅瀬のおおい瀬戸内海の海賊の戦術を一緒くたにして「経緯なんて関係ない」ってずいぶん乱暴だなw
そんなことより来島通総・得居通年兄弟について語ろうぜ
海の上で死んだ大名って唐入り以外でもこいつだけじゃね?
島で切腹したのは九鬼とか陶とかいるけど
>>34
逆に浅瀬・難所が多くて大型船の航行が難しかったのかも
欧州みたいに植民地支配で大西洋や太平洋を行き来する航続距離も必要もないから
大型船の需要がなかったのかと >>30
>小船による機動戦術が絶対的に有利なら、何故火力に重点を置いた大船に取って代わられたんでしょうかねぇ・・・
本筋に戻りましょう。
だから、「鉄甲船はあった」んです。要するにこれを言いたかった。
「装甲が強化されない限り」小型船の群れのほうが有利。
だから日本では重装甲・重火力の大船の方が、小型船より有利になった。
まあ平和な江戸期になって「安宅丸」を最後に大安宅自体が造られなくなったから、
「取って代わった」って表現が本当に正しいかどうかわかりませんがね。 >>37
そんなことよりおまえのIDちょとカコイイ
第四次世界大戦か >装甲が強化されない限り、小型船が有利
まだまだ内洋船に近いからなぁ。
外洋に出る事を基本的に考えていないしな。
以前、秀吉が鉄甲船を建造し直し、朝鮮まで持っていき、亀甲船と戦わせる、というトな架空戦記を読んだが、鉄甲船って外洋出たら、どうなるんだろ? >>39
固定のくせに朝鮮役で鉄甲船が使われたことも知らんのか
宣教師 ロドリゲスでググれ 私が書いたのは、復元性の悪そうな鉄甲船で渡海した場合、外洋ではどうなるか、という疑問だ。
特に、秋から冬にかけての日本海の荒れ模様を知らない訳じゃないからな。
詳細が全く判らない船で復元性の話をしても仕方ないとは思うけど、どの程度だったか興味ないか?
平底の和船で、しかも、鉄張りだよ!
ちょっとした風でも、転覆しそうなんだが。 ちょっとでもシケったらあっという間に地獄行きだろなあ。通常型の安宅船でさえバランス悪いんだから。
まして外洋では潮の流れに櫓を取られてろくに進めまい。 >>46
家光がサクッと禁止したからじゃない?
発明ってのなら何でだろうね。中国のジャンクも竜骨じゃないし。
でも、箱状に区切られて事実上の竜骨構造みたいだけど。
丸木舟からの継承で人が乗るところに邪魔なモン作るなや!ってことかも。 鎖国直前のころが和船が独自に外洋向けに発展する最後の機会だったね。 >>44
半島への航海程度で船体が裂けたと書かれてんのに外洋なんかどう考えても無理だろ >>35
小船対大船の戦術の話なんだが?
地域による船体構造、造船技術、材質強度の違いはあっても小船と大船は存在するだろ。
あくまで火砲量が増加したという歴史的事実を述べているのであって、帆船が発達したからという経緯はこの場合関係ない。
純帆船ではないガレアスが火砲の搭載を意図して大型化したことは>>23も認めているところ。
ついでに、ガレアスもガレーも外洋を行き来するような遠洋航海向けじゃないんだけどな。
>>37
>「装甲が強化されない限り」小型船の群れのほうが有利。
何を根拠に断言してるのでしょうか? 個人的なイメージ以外で何かあるのでしょうか・・・
鉄張りではない鈍足のガレアスも機動力のある小型ガレー相手に軍船としての用を立派に成してますが・・・
必ずしも鈍足な大船は小船の群れのカモになるとは限らない。更に火砲の発達でそれまでの戦闘が変化したということもある。
つまり、「鉄甲船が木津川で使われたかどうかは微妙」なんです。要するにこれを言いたかった。
大鉄砲で装甲の薄い関船小早の船体を破砕することは物理的に可能。それに比べ村上水軍は旧態依然とした
接舷斬り込みや火矢焙烙玉、油の入った桶壷を投げ込むなどの即効性のない延焼攻撃しか持ち合わせていなかった。
織田方が有効射程ギリギリまで敵船を引き付けて上手くあしらい、大鉄砲の火力で小船群を圧倒したとしてもなんら不思議はない。
この場合村上方の火矢攻撃を受けることは充分考えられるが、それにも況して大鉄砲による攻撃量と即効性が勝った結果
だろうと考える。なにしろ船体を破砕されるような攻撃を大規模に受けたのはこれが初めてだっただろうからな。
ついでに、この戦いで村上水軍は大損害を被ったというより早々に引き上げているという点にも注目したい。 九鬼水軍って鉄船だけじゃなく、潜水艦作ろうと頑張ってたみたいだよ ちょっとガレーについて一筆
ヨーロッパの船の火砲量が増加したのは、
オールが廃止されて、それまで漕ぎ手がいた舷側のスペースが開いたからだよ。
ガレー、ガレアスはその構造上、船首部にしか大砲を積めなかったから。
あとガレーは大型化も頭打ちだった。
ガレーは大型化すると、当然ながらその分、漕ぎ手が大勢必要になる。
となると食料ほかの物資を多量に積む事になって航続距離が落ち、経済性も良くない。
一方、帆船は船が大型化しても船員はさほど増えないので、
大型化すればするほど積める物資が増え、航続距離が増す。
ガレアスは唯一の長所である戦闘力でも帆船に負け、航続距離でも負けてしまったわけだ。
言ってみればガレアスは、地中海という環境に過適応して生まれた、
滅び行く運命の恐竜みたいなものだな。 >>53
経緯なんか関係ない!とにかく火砲が増えたんだ!って言ってるやつには理解できんとおもw >>51
織田は第一次の海戦で火矢や焙烙攻撃で惨敗しているわけだから、
リターンマッチにあたって何の対策も施していなかったとは考えにくいと思。
別スレで見たんだが、当時の大筒の命中率はそうとう低い。
(実験では50mでも的にかするのがやっとだとか)
その実験はアルマダの戦いの再現だったそうだが、砲術の本場のヨーロッパでさえそうだったなら
日本ではどうだっただろうか。まして実戦の場では。
ほとんど至近距離でないと当たらなかったのではないか。
村上水軍の弓矢・焙烙のアウトレンジから攻撃をかけたわけでは、たぶんないと思う。 ガレーといってもよほどのことがない限り漕がないけどな >>54
相変らずお前はそんなのばっかりだな。
悪意を持って揚げ足を取ったつもりが言い返されて最後は議論ではなく人格攻撃か・・・
軍用帆船が完成した経緯と、論点である火砲の有効性の証明の違いが解かってないのは寧ろお前だろw
ま、曲解して返すことしか出来ないアレに何言っても無駄か・・・
>>53>>55
>リターンマッチにあたって何の対策も施していなかったとは考えにくいと思。
それが大鉄砲の増量であったと考えます。
>ガレー、ガレアスはその構造上、船首部にしか大砲を積めなかったから。
>当時の大筒の命中率はそうとう低い。
確かに仰るとおりですが、大安宅の船首に搭載された三門の一貫目大筒よりも、側舷の大鉄砲によるが集中射撃が
効果的であったものと考えます。信長公記にも「大鉄砲を一度に撃ち、敵船を打ち崩した」とある。
鉄砲の集中運用は75年の長篠で、大鉄砲の破壊力は76年の長島願証寺で既に実証済みですから織田水軍がそれを
78年の木津川で応用したとしても何の不思議はありません。
また、関船や小早はその特性を活かすために船板を薄くして軽量化を図っているわけで、大鉄砲程度の威力でも充分
船体の一部を破砕できたと考えます。
>ほとんど至近距離でないと当たらなかったのではないか。
大鉄砲の有効射程距離がどの程度であったのかちょっと解からないが、手投げの焙烙玉や油入りの桶壷が届く距離
よりはあったものと考えます。仮に届いたとしても船体が高いため船上や船中に入れることは難しかったのではないか。
それと、味方の小船群も大鉄砲の有利な距離に敵船を寄せ付け、あしらう様にもてなすのに一躍かっていた可能性がある。 鉄甲船ねえ・・・
あった事もなかった事も証明ができない、
UFOやネッシーと同じようなもんだな 実際に作って実証してみるしかないな
いくらかかるか想像もできんけど…サンタマリア復元ですら法外な額がかかったから 朝鮮では亀甲船が復元されたが
歴史家の主張どおりの総鉄板張りにしたら、
進水直後、マスコミの目の前で転覆したらしい >>30
>仮に火力よりも機動力が絶対的に有利であるのなら小型帆船による集団戦闘が海戦の主流にならなければおかしいが史実にない。
つバッカニアのスループ船 >>65
それは快速艇が有効に活用された好例ってだけでは。
集団海戦の主流とは言わないな。 主流ではないが、その戦法が一時代を築いた以上
大艦巨砲が必ずしも有利なわけではないという証明にはなるだろう >>67
それは一時代を築いたというより海賊の襲撃戦法に有効活用されていたことの証明では。
必ずしも有利な戦法であるのなら、それに倣う方向に流れるはずだが実際の主流は大艦巨砲に移行したという事実。
用途に応じて小型フリゲート艦なども活用してはいるが、戦術的に海上戦闘の主流として期待されていたとは考えられない。
>大艦巨砲が必ずしも有利なわけではないという証明にはなるだろう
そりゃ何にしても絶対ということはない。時と場合状況による例外は必ず存在する。
鈍足のガレアスが快速のガレオンを負かした事例もあるぐらいだから処々の条件にも因るだろう。 九鬼って大名になって海のない地に転封されちゃったけど
水軍の将たちはリストラされたのかな? >>69
そもそも水軍稼業だけで食ってた「水軍」なんて芸予海峡の村上三島水軍くらい。
だからそいつらの場合は「本業に戻った」だけ。 以前にNHKでやってた鉄甲船特集では、
鉄甲船が巨大だったのは戦闘力を高めるためではなく
鉄板を貼っても沈まないだけの浮力を得るためと説明されてた 浮力を得られるか科学的に検証してたね。
ま、それだけ。 >>74
海路の通せんぼをして通行料を取る。
海関を守ってるから「関」船 >>74
75に補足だが、
無視して逃げると、それこそどこまでも追いかけてくる。
件の村上水軍を無視して堺に向かった船を、村上水軍は堺まで追いかけて金を徴収している。 閑山島大捷はどれぐらい大勝利か? 【世界四大海戦?】
ttp://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1799748
ここを見たんですが、当時の日本にはどれぐらいの安宅船や関船があったのでしょうか?
木津川河口海戦の第一次と第二次でも軍船のは数は少なかったではないでしょうか? 信長の鉄甲船について、ひとつふたつ疑問点があります。
その@、装甲になるほどの大面積の鉄板を作ることが出来たのでしょうか?
当時は水車動力のハンマーも無く鉄を延ばすには手打ちしかなかっと思うのですが。
(秀吉の時代には鉄張りの大盾があったらしいけど)伸びの良い銅版のほうが現実的とおもう。
そのA当時の船を平底と信じている方が多いけれど、家光が竜骨を禁止したのなら
それ以前には竜骨を持った船が沢山あったと言うことになり、最先端技術をそなえる軍船に
竜骨が取り入れられていなかったというのは、なんだかおかしいような気がする。
皆さんはいかがお考えですか? >>80
@についてはしらん。
Aについては、信長の時代から家光の時代まで軽く半世紀は離れているのだが。 >>79
総数なんてわかるはずもないが、朝鮮出兵の前年に出された造船命令だと
「東常陸より西四国九州に至り、北秋田より中国に至る沿岸諸国は
各禄10万石ごとに大船2隻を製すべし。その工費は先の半額を与え、竣工後に完納すべし」
とあるな。目安として五万石あたり安宅船一隻?
この令の後、一年間で700隻の船が新造された。 >>80
1:銅板はふつうは装飾用に使う高価なものだし、
戦時下で使い捨ての軍船に貼り付けるほど信長もゴージャスじゃなかったんじゃないかなあ?
もし実在したとするなら、広い面積の鉄板を貼り付けたのではなく、
鎧兜に使う程度の小さい面積の鉄板を小刻みにたくさん貼り付けたものだったと思う。
2:平底の船は竜骨つきの船に一方的に劣るわけではなく、
浅い海でも座礁しにくいというメリットがある。
軍船のように日本近海でのみ使うのなら平底のほうが実用的。
今でもヤマハ発動機とかで平底の和船を売ってるよ。 >>84
輸送船は民間からチャーターされた船がほとんどだったと聞くが?
新造の大船を輸送には使わんでしょ。旗艦の日本丸も新造艦だし。
まあ、安宅船の割合は少ないよね。100隻中、1隻くらいか。
朝鮮出兵で使われた船
馬船 主に軍馬輸送用
戦船 1500石内外のクスノキ造りの装甲船
内櫂船 200石以上の快速船
早船 斥候用の小型船 いわゆる小早船
囲盾船 2000石積前後、二層以上の天守台を持つ、いわゆる大安宅船
井楼船 300石以上、400石以内 前面・両舷を装甲し、高い井楼から火砲で攻撃するための砲艦
幕盾船 80丁立て以下の関船。天守台は持たない。全部を装甲していない場合は幕をもって盾の代用としたので幕盾船と呼ばれた >83さん
装甲板については、なるほどと思いました。
おそらくそのとおりだろうと納得いたしました。
竜骨につきましては日明間の私貿易船と見られる沈没船が
引き上げられ、その船が竜骨を備えた
ジャンクタイプの船だったという記事を読んだ覚えがあります。
結構以前から日本人は竜骨と言うものを知っており
内航船は別に考えるとして、外航船には採用していたのではないかと
感じています。とはいえ、このあたりは証明の難しい問題ですね。
ところで朝鮮出兵の話題ですが、当時ものすごい金額の金が動いたんでしょうね。
大体1000石の船といえばどのくらいの価値があったんでしょう?
とにかくすごい値段の船が何十隻何百隻と建造されたんですねー!
中には粗製濫造の船を作って大金をせしめるといった、
悪徳業者もあったかも知れませんね。 >>86
ウン、ジャンクタイプの船は確かにけっこう前から知られていたし、
日本国内でも小数ながら作られてもいた。朱印船がそうだね。
でも、そうした竜骨を持つような本格的な帆船は、戦国時代には戦力にはならないと考えられていたんだな。
慶長14年、西国大名が持つ500石以上の船がすべて没収された際も、
外航用の船はその対象から外されている。
なぜか?
日本には大砲がほとんど無かったから。
大砲が無ければ喫水の深い帆船はただの小回りのきかない船でしかない。座礁の危険もあるし。
大筒はあるが、火縄銃に毛が生えたような小口径のものばかりで、とても船を沈めてしまうほどの威力は期待できない。
当時の船戦といえば接舷切込みが大半で、火力のみで決するような戦いはまだまだ珍しかった。
技術が進歩して、ヨーロッパなみの大砲が国内でもどんどん作られるようになったら、
そのうち帆装軍艦が安宅船に取って代わるような事も起こったのかもしれないが、
その前に徳川体制のもと平和になってしまったので、帆船の時代はとうとう訪れなかった・・・というわけ。 >87さん
軽快な運動性を必要とした軍船には
喫水の浅い船のほうが適しているとのこと。
なるほどと納得いたしました。
昔漕いだことのある伝馬船の軽快さを
思い出しました。ありがとうございます。 >>89
信長が渡江移動に使ってるじゃん。ぐぐれよ >>89
100挺櫓、で調べてみるといいことがあるかも 安宅船と亀甲船ってどっちが性能的に優れていたんだろうね。 「性能が優れる」の定義を述べやがれこのゲーム脳小僧が 図面通りに再現して転覆しない方が性能いいんじゃないかなw この間、佐賀の名護屋城で朝鮮出兵の屏風絵を見たけど
朝鮮の船が全部亀甲船ってわけじゃないんだね。
日本の大安宅船と同じで、ごく少数しかない。他のは日本の船と似たり寄ったり。
仮に性能が良かったとしても、戦の趨勢にはそうたいした影響はなかったんじゃないかな? 政治的に立場が弱かった一指揮官イスンシン考案の船が多数を占めることはないよな
ジャンクや安宅などの和船とをあわせたような船が限界なのかもね
当時の朝鮮に西洋船の技術を入れる余裕なんてないだろうし
ましてやガレオンを購入できるようにも思えない >87
「戦列艦」の頃でさえ滅多に砲撃で沈没は無いお(アブキールの炉利アンくらいじゃね?)。 信長と石山本願寺の海戦の大安宅船が、確かに鉄甲船だったかはわからない。
多聞院日記で、鉄船だという噂を聞いた、というのが根拠だからな・・・
が、秀吉の時代には書状・宣教師による船への鉄板による装甲の記述が残っており、可能性はあると思う。
後装カートリッジ式の仏郎機砲3門と、銃身長が2m近い大鉄砲を多数装備していた。
朝鮮の役では、日本側の大鉄砲が朝鮮軍の船体を貫通して、中の人員を殺傷し悩ませている。
朝鮮の役のときは鉄板を全国から徴収しているが、筑紫の大船を装甲するためだ、とある。
江戸初期には、イギリス人が鉄板を張り巡らした幕府の軍船を見たという記録もある。 ttp://www.rekishi.info/forum/forum100/20050911173204.html
というか、鉄甲船関連はここに詳しいです。「筑紫の大船」でページ内検索してみてください。 2007/04/18(水) 22:00
NHK その時歴史が動いた
海の関ケ原▽村上水軍信長家康と戦う▽CG戦国大海戦
関ケ原合戦に伴う三津浜の戦いで西軍に属した村上水軍が東軍に敗れた1600年9月16日に焦点を当てる。
天下分け目の戦いとなった関ケ原合戦は陸上だけで勝敗が決したわけではなく、東海沖や瀬戸内海などの海上戦闘もあった。
戦国時代の海戦は船団を組んで戦う水軍が主役。中でも、村上武吉率いる水軍は戦国最強と呼ばれ、瀬戸内海で勢力を誇っていた。
海上で略奪行為をする海賊から脱皮することで一族の結束を図った武吉は、厳しい規律を課して一族を統率。
交易船から護衛や水先案内の対価として通行料を取ることで収入を安定させ、かつての海賊を水軍へと変容させた。
戦国の世を、海を舞台に戦い続けた村上武吉の誇りと夢を探る。 今日のその時は村上水軍の話ですね
第285回
海の関ヶ原
〜村上武吉・水軍に賭けた夢〜
平成19年4月18日 (水) 22:00〜22:43 総合
http://www.nhk.or.jp/sonotoki/main.html 「その時歴史が動いた」って微妙な番組だよな。
番宣観ると観たくなるが、観たら観たで文句言いたくなるしw 主人公に選んだ人物を無理矢理理想主義者・平和主義者に改変するからチャンネル変えるよ 見たけど、「その時」の関ヶ原は完全におまけ、あってもなくても変わりない
メインは木津川口の戦い 「秀吉と武吉」読んだ。なかなか面白かった。
どこまでホントかわからんが、三島村上水軍って木津川口から関ヶ原までの間は
来島以外まったく活動できなかったんだな。
てっきり小田原や朝鮮も武吉の子の元吉らが毛利水軍をまとめたんだとばかり。
ゲームのやりすぎみたいだ。頭冷やしてくる。 >>114
それはほぼ正しい記述だと思います
来島村上通総は1582年織田家に誼を通じ、結果来島を攻められ秀吉の元に逃れ、そこで秀吉の側近となった経緯があります
で本能寺の変に伴う秀吉・毛利の和睦によって来島に復帰した後も秀吉から重用され、
四国平定後は伊予に1万石を超える所領を得ています(関ヶ原で西軍につき所領を失うも後に豊後で大名となる)
一方来島の重用とは対照的に因島・能島は非常に冷遇され、
最終的には海賊禁止令によって既得権益を奪われたことで水軍衆としての勢力基盤を失っています
その後、因島は毛利(小早川隆景)の家臣団に組み込まれることで所領は維持しますが、
能島村上武吉親子に至っては瀬戸内海から追い出されていますから、
独立した水軍衆としての行動力は完全になくなったとみてよいでしょう(最終的にはどちらも子孫は毛利氏に仕える)
これが天正末期のころのことですから、小田原・朝鮮攻めの時に能島村上氏の名前が出てこないのも当然といえます
結局のところ、秀吉にかわいがられたかどうかで豊臣政権時の命運が別れたとも言えます 村上元吉は加藤嘉明の領地に攻め込んで戦死しちゃうしな
毛利の支援も受けてたし東軍につく選択肢はなかったんだろな >>114
もともと毛利水軍と三島村上家は別ものだぞ。
能島家は大友と手を組んで毛利と戦ったりした事もあるぐらいだから。
織豊の中央政権の勢力に圧迫されて来島は豊臣に付き、
能島・因島は毛利配下の一武将としてしか
生き延びられなかったというだけ。 戦国時代海戦ってどれくらいあったの?
木津川しか知らないが、北条vs里見とかでもやっていそう。
誰か詳しい人教えてくれ 武田vs北条の海戦もあったな、そう言えば
北条vs里見の江戸湾での戦いは半世紀に及ぶからなあ・・・
最終的に江戸湾でのアドバンテージを喪失した里見は陸海から追い詰められて北条に屈服せざるを得なくなった >>119
それだけ聞くと、
里見は小競り合いを続けて尻貧になり海戦らしい海戦をせずアボーン
って印象を受けるが、実際海戦はあったの? >>120
よくは知らないけれど、
山本水軍(北条の水軍衆)が上方の技術を導入して造った船を導入して、
それまで優勢だった里見の水軍を圧倒したらしい。
これが大体里見との講和直前の話。 第二次木津川河口海戦って詳細は分かってないんでしょ?
もしかして小規模海戦なのかな?誰か死んだの? 当時の鉄船の鉄板はどの程度腐食に耐えられるのであろうか? 別に腐食してもいいんじゃね?
張り替えればいいだけだし。 第一次木津川河口海戦と露梁海戦とトラファルガー海戦と日本海海戦の比較
第二次木津川河口海戦で戦死者っていたっけ?
●露梁海戦とTrafalgar海戦と幹部損失と結果
ttp://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=phistory&nid=83282 >>124
少し後の時代の徳川の阿宅丸が銅板装甲なのは、鉄板装甲の腐食が問題化したから
ではないかと思うんだけど。 >>129
安宅丸の銅板って水上?水中?
信長の鉄甲船の鉄板は水上構造部の炎上防止
西洋帆船の銅板は水中木材の虫除け
どっちを真似したの? 何の為の鉄板装甲?
投資に見合う必要性なんかあるのか? 焙烙や火矢で舟を焼かれないための対策
基本的に、本願寺への水路を封鎖するための船だから航海能力とかは度外視したんじゃ? 村上水軍は火矢や焙烙玉での戦闘を得意としており、
木造船では炎上してしまうので、防火の為に鉄板を付けた。 速度が10q前後でしょ?海上封鎖には不向きなような希ガス >>135
鉄甲船は川口を封鎖する為のものだから、
極論すると動けなくてもいいんだよ。 実際それに近いんじゃない?
大鉄砲三門も積んだのは自身が動きにくいからだったのかも知れんし >>140
なんでそうなる。リア厨か?
たかが一局地戦の為に他に使い道の無い鉄甲船3隻も造るくらい国力を持っているって事だぞ 鉄張軍船は伊勢で建造されて堺へ回航中に雑賀水軍に迎撃されて、それを打ち破った
という戦果はあるはずだが。 >>143
それはボーナス的についてきた戦果。
信長の考え方はアレクサンダー大王と同じく
“陸地を全て取ってしまえば海軍なんていらね”
だから鉄甲船は本願寺兵糧攻めだけの為のもの。
事実、木津川以降鉄甲船が使われた記録は無い。
無い?
無いでいいんだよね? >>144
信長のなにをもって「陸地を全て取ってしまえば海軍なんていらね」という
発想の持ち主だったと考えているのかが知りたい。
例えば長島を攻撃するときには水軍を念入りに準備したり(大湊に動員を
かけたりもしている。上手くいかなかったようだけど)。
越前を攻撃するときは若狭の水軍衆を動員して海陸から攻撃している。
近江を押えるために堅田の水軍衆を調略で味方につけて優遇したり。
対本願寺だって、包囲のために水軍を動員して大阪湾を封鎖した。現状の織田
水軍よりも強力な毛利水軍が敵として参戦してきたので、対抗するためにさらに
自軍を強化した(その一例が鉄張軍船)。
鉄甲船がその後使われたことがないから、イコール信長は水軍を軽視(ないしは
無視)していたとご主張で? >>145
たぶん、君があげてる例はすべて>>144の論拠を強化する例にしかなってないと思う。
>>144は水軍を軽視していたとは一言も言ってないし。 水軍保有の目的が陸上拠点の制圧にとどまっているという主張だもの、彼の主張。
まぁ、その域を脱した戦国大名って居らんのやけど。
制海権そのものからメシを食ってた村上氏くらいだ、例外は。 陸地を全て取ってしまえば海軍なんていらね
は軽視ととるのが普通のことだと思うが
というかこの時点での信長にとって水軍はまだそこまで必要じゃないだろ この時代の水軍自体が稀な状況でしか使えない代物だからそんなに入れ込む必要はないんだな。
陸と比べたら大身の水軍大名などいないじゃん。 >>149
それは全てあなたの思い込み。
この時代の海賊衆って村上を除けば水陸両用だから分かりにくいだけ。
この大名の何割が海賊衆っていう統計も無いしな。 沿岸地域を制圧するのに水軍がないと制圧しにくいってのもあるんだな。
その典型例が石山本願寺
逆の立場から見ると水軍で制海権を取ってれば沿岸地域を維持しやすい。 まあ徳川幕府は日本を統一したら水軍も交易も捨ててしまったが >>152
水軍は捨ててないのだが・・・
まあ、元々あってないような物かも知れないが>向井水軍 >“天地丸”は寛永7年(1630)、3代将軍家光の時代に建造され、廃船に至る幕末までの実に230年以上の間、将軍の御座船の地位にありました。
ttp://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2000/00200/contents/065.htm
230年以上ってスゲー
これだけ長寿船って世界的にも珍しいんじゃね?
上部構造物がフレーム状になってるけど、戦時にはここに任意の盾板を装着すると思う。 >>154
>寿命230年
ヒント 「御船蔵」
それだけ長寿命の帆船は珍しいが
木造建造物と考えればまあ十分あり得るかなと 〉〉158
江戸時代の来島家しか念頭にないのか?
戦国時代は、ほぼ全てが海賊衆の三島村上、松浦以外に、
かなりの率が海賊衆と思われる宗氏、里見氏、安東氏、毛利家、三好氏や、
どれだけが海賊衆かサッパリ見当がつかない島津家等がいるのだがな。 多分、陸兵が都合によって水軍に転じるような大雑把な体制だったんだろうな
舟があればとりあえず海で戦えます、みたいな
実際、朝鮮半島からの撤退戦の時に李舜臣らの明・朝鮮水軍をボコボコにしたのは島津やら立花やらの、どちらかといえば陸戦で名を売ってた西国大名連中 そもそもこの時代の日本に海戦しかしない武士なんていないんだが
いたのは陸戦しかしない武士と海戦も出来る武士
>>160
ぎゃくに名の売れた来島水軍はぼこぼこにやられて頭首があぼーんしてるしな
まあ九州の猛者の島津と所詮海賊の差かな 違う。命令系統に馬鹿正直に従ったかどうかの差。
朝鮮出兵時の水軍の指揮権は陸戦経験しかない脇坂等の秀吉子飼いの大名が持っていた。
九鬼は命令を聞いていたら負けちまうと命令不服従で本国召還、
馬鹿正直に命令に従った来島は当主討ち死に。
島津等が戦ったのは撤退戦で指揮系統がボロボロになった後。
逆にDQNな縛りが無くなって李舜臣を討ち取る戦果を挙げている。
普通に数の差だろう
朝鮮側戦史では戦果が相当水増しされているが
来島水軍は船数でかなり劣っていた
逆に日本水軍本隊が北上すると、朝鮮水軍は一戦も交えず逃走して水軍本拠地を捨てている
水上戦でも数の理屈は健在 >>163-164の間をとって
来島通之は数で劣るが脇坂が退却を容認しなかったため死ぬハメになったということにするか 来島通之が死んだのは1592年じゃなくて1597年だろ? 白村江ではむしろ唐水軍より日本水軍のほうが多かったらしいが。 >>167
当時の場合、船の建造技術がとんでもなく開いていたからな
唐側は外洋航行すらできる大型船
日本・百済連合軍側は小船程度 >>167
白村江の時の両者の兵力ってどれくらい?
隻数だけ書いて日本水軍は唐より数が多かったのに負けたって記述は
見たことがあるが、兵力で比較しないと意味が無いと思うのだが。 千野原靖方『房総里見水軍の研究』(崙書房, 昭和56年) >>168
外洋航行が出来ないなら、どうやって日本から朝鮮に行ったの?
>>168
外洋航行が出来るったって、せいぜい渤海を渡る程度だろ。櫂船なんだし
中国の船が外洋船として完成するのは宋代くらいのことで、
それ以前は中国船=河船。 >>171
琵琶湖で(たまに御前崎や北海道、九州)で
ヨット、ウインドサーフィンを何年かやってた経験から
日本近海で吹く風は冬は北西、夏は南東の風が吹く日が多いから
夏の風が良い日に行ったのでは?
>>171
壱岐、対馬、を中継地にすると、外洋航行が出来なくても朝鮮まで渡れる。 >>174
琵琶湖陸風で風振れすぎ。全然読めない。地元の人間に有利すぎ。
あんなところでインカレするなゴラ!!!
スレ違いスマソ >>175
雨水しかないけど竹島も休憩には使えそう 一年近く前に、瀬戸内海の小豆島へフェリーで渡ったが、本当に小島が多いんだね。
たまたま同船した人に十川という人がいて、「出身は四国ですか、似た名前の武将がいますよね」食いついてきたので、
その人も戦国に興味が合ったのだと思う。
その人と、あの陰に水軍の一団が潜んで……とか想像して会話していたら、かなり萌えた。
>>183
永禄12年(1569)の毛利氏との戦い、
元亀3年(1572)の伊予西園寺氏攻め(土佐一条氏救援)、
天正7年(1579)の島津水軍との日振島沖合戦、
文禄元年(1592)の朝鮮出兵、
その他かなり、いまいち評価が低いのは何故だろうか。 >>184
門司合戦の記録等みると、関門海峡渡海・後方遮断等
毛利水軍が好き勝手にやっていて大友水軍の痕跡が出てこない気がするんだが、
大友水軍何をやっていたんだ? 村上水軍一艘を破壊して感情を賜る
尼子が背後を付いたのを見て、大内輝弘と共に追撃
詳しくは「若林鎮興」で検索してみてください。
あと大友水軍なら安東氏についてのホームページもあったはず。 >>186
門司合戦で毛利水軍にいい様にやられたから、水軍の強化を図ったと思ってた。
それ以前にも、海賊襲来時の感状で分かる様に活動はあったようだが…
そこら辺は余り詳しくないんで…詳しい人いたらお願いします。 >>156
遅レスですが、史料で確認できる天地丸の修理は
正徳元年(1711) 宝暦九年(1759)
寛政九年(1797) 弘化四年(1847)
の4回です。
正徳(81年)以外は平均して44年ごとに修理が行われて
いますので、正徳以前にも1回の大修理が行われた可能性は
高いそうです。幕末期の天地丸は痛みの少ない屋形関係を除
くと、新造時の部分は残っていなかった可能性があります。
ちなみに大名の御召関船(御座船)は21年ごとに作り換える
ことになっていましたが、江戸中期以降は50年ごとになった
そうです。
>>171
持衰を同行させれば無病息災で渡れます。 暴れまわるという意味の「あたける」から来ているらしい。
当初は、仮名書きか、阿武と書き、朝鮮征伐の頃から安宅と
なった。
ちなみに安宅水軍の安宅は「あたぎ」と読む。
>>184朝鮮出兵で大友水軍の誰がどんな活躍をしたの?大友は内陸で戦っていたんでしょ? >>195
村上、九鬼、他に四国の水軍とかも戦ってる >>197
検索しても朝鮮で若林が活躍したって具体的な情報がヒットしないんだが? 村上水軍の家紋って有名な丸に上の字だけど、海賊(水軍)は字紋を使うことが多かったの?
ちょっと気になった。なかなか字紋って見かけないから。 >>200
そうなんだ。
どっかで読んだ資料には
名前から取ったという説と、
字紋で(上)という字が縁起がいいから使ったという2つの説があるって読んだから気になった。
後者なら字紋って海賊が使ってたのかなと思ってたッス
よくわかんねけど 誰か小田原征伐時の徳川水軍の武将の詳細な参加リストみたいなのわかる方いませんか?
おそらく本多重次を頂点に何人も武将がいたと思うんですが。 >202
その頃の徳川水軍には向井正綱、小浜景隆、間宮信高、千賀重親、伊丹康直がいるね。
みんな元武田とか今川の水軍。 >>203
おお、ありがとうございます。
参考になりました。
向井氏はすごく有名ですよね。
水軍スレは貴重なのに最近は廃れててさびしい限りです。 スレがのびないのであえて鉄甲船論争を蒸し返す
>51
装甲なし、火力だけ突出した大型船というのは
AFVに例えれば多砲塔戦車みたいなもんだろう。
ただ火力だけ高くても何にもできんよ。 >>206
まだ成仏してなかったか。
「九鬼右馬允七隻の大船に小船を相添へ、山のごとく飾り立て、敵舟を間近く寄せつけ、あいしらふ様にもてなし、
大鉄砲一度に放ちかけ、敵舟あまた打崩。」
敵船団をあしらいながら有効射程圏内に誘い込み一斉射撃で打ち崩してます。
小船を従え僅かな機動力と大鉄砲の火力で勝ってます。 そもそも現代のArmored Fighting Vehicleと当時の軍船を同列で語るのは妥当とは思えん。
装甲をぶち破り人員や内部を破壊する攻撃と、焙烙や火矢による延焼攻撃とでは違いがありすぎる。
現代の火炎瓶による戦闘車両への延焼攻撃をイメージするのであれば歩兵部隊(小船群)を帯同することで
一定の防御効果を得られていたとは考えられないだろうか。 また、九鬼の黒船に較べて外観が白かった滝川家の大安宅船は白船と呼ばれていたそうだが
これは間違いなく装甲板を貼っていない(間に合わなかった?)船だったであろう。
この白船も木津川の戦闘に参加して無事に帰還していることが全てを物語っている。 うむ。
九鬼の黒船は岡山城天守に見られる当時の防水防腐効果を狙った黒漆塗りであったと類推する。 仮に白塗りにしていたとして、一体何を意図していたものなのだろう。
漆喰塗りにすることで延焼を防ごうとしていたとか? 何にしても78年当時は大安宅船に鉄板を貼るという概念が一般的となる朝鮮役までの間の過渡期と考えるべきだろう。
で、朝鮮役での不備を考慮して江戸幕府の安宅丸には鉄貼りが施されなかったと。 >>212
秀吉の日本丸も白漆喰塗りだったようだから、多分そうだろう しかし鉄甲船論争って普通は
「信長が九鬼に命じて作らせた「燃えない船」の正体は何か」
「鉄板装甲だ」
「いや防火用の漆塗りだ」
って喧々囂々なるもんだが、
大砲だけで勝てる、装甲いらんって説が出るのは珍しいわw >>215
鉄甲船は漆塗りだったって議論が有るんですか?
家に有る漆塗りのお椀は水を漬けっぱなしにしておくとすぐぼろぼろになるのに、
戦国時代の漆塗りの技術って凄かったんですね。 >>216
鉄板装甲説への反論の定番ですな。
世界史板あたりで鉄甲船の話になると、たいがいただの漆塗りだろうって言う奴が出てくる。
漆塗りの船は戦国時代にはあんまり聞かないが、江戸時代にはごろごろあったので、この辺参照してね。
http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2000/00200/contents/065.htm
もちろんほっとくと劣化するから、その時は塗り直す。水軍が維持費がかかるのは知ってるよな。
鉄甲船の場合は戦時下の消耗品だから、一回塗りっぱなしの使い捨てだったかもしれんがね。 個人的には漆塗り説もかなり説得力があると思っている。
防火・防水効果の高い黒漆塗りは、安土城や大坂城など古い城の下見板張りによく使用されたが、
安宅船の建造は船体部分を船大工、櫓部分を屋大工が分業していたことを考えると
同時期の城郭によく使用されていた黒漆塗りの技術を軍船に応用したという事も、十分ありうるのではなかろうか。
鉄甲?船のプロトタイプなのであろう佐和山の大船を建造したのが、
安土城と同じ宮大工・岡部又右衛門なので、よけいにそう思う。 >>213
朝鮮の役で日本の水軍が大損害をこうむったってのは
完全な都市伝説だろ
歴史学者と称する連中の言う通り亀甲縛りを鉄張にして作ったら
見事に沈んだらしいなwww この辺での議論もなかなか濃いようです。
ttp://www.rekishi.info/forum/forum100/20050911173204.html 第一次木津川口の戦いでは織田方は大鉄砲装備してなかったの? wikiの鉄甲船の項目、このスレのやつがいじってるだろう >wikiの鉄甲船
装甲が対焙烙火矢用ってなってるけど
多門院日記には対鉄砲用ってかいてある 「テツハウトヲラヌ用意事々敷也」だっけ。軍事に疎いであろう坊さんが伝聞で書いたもんだし、
あまりあてにならないんじゃないの。 坊主が軍事に疎い時代では無かったと思うが、どうだろう? 「テツハウ」は火薬兵器全般を指す言葉では?
元寇で使われた炸裂弾も「てつはう」だろう。 >>232
>「テツハウトヲラヌ用意事々敷也」だっけ。
『多聞院日記』では「トヲラヌ用意」なんだから、
火縄銃の銃弾も貫通を防ぐための用意っぽい。
焙烙の延焼防止対策だったら違う表現を用いただろう。
>軍事に疎いであろう坊さんが伝聞で書いたもんだし、あまりあてにならないんじゃないの。
僧侶は軍事を含めた当時最高の知識人といえる。
武将の幼少期の教育係が僧侶の場合は多い。
今川義元の軍師になった大原雪斎は有名だし
戦国武将の中に幼少期から青年期に寺院で学んだ人物も多い。(石田三成とか)
僧侶にして大名になった安国寺恵瓊もいる。
本願寺の僧侶たちは強大な信長を苦しめてた。 >>235
そんなもん百も承知だが、又聞きは又聞き。
多門院日記には
「人数5千人ばかり乗る。横へ7間、縦へ12,3間もこれあり」なんて記されているが
これは人数といい船の形状といい100%ありえない数字だし、
色々差し引いて考えるべき文献なのは確かであるよ。
そもそも鉄砲の弾だけを防御するんだったら、木製の盾板を分厚くするだけでいい。
重い上に不安定になる鉄板なんか貼る必要はない。 >>236
同じ防御力を達成のためなら
木製の分厚い盾板より
鉄板を貼ったほうが軽い。 同じ重量の防御力
鉄板盾板>>>>木板のみの盾板
鉄板+木板盾板>>>>木板のみの盾板
甲冑の主流が木製でなく鉄製なのは、鉄板の防御力が木板を上回るから。
近代の軍艦や戦車の装甲が木製でなく鉄製なのは、鉄板の防御力が木板を上回るから。 >>239
言っておくが、普通の木製の安宅船でも、並程度の鉄砲玉なら十分防御できるの。
でなけりゃ盾板の意味なんか無いだろう。
安宅船は鉄砲の普及後に登場した強化型の軍船で、あらかじめそういう風に作ってある。
それでも第一次木津川海戦で織田軍が負けて鉄板の装甲を追加せねばならなかったってことは、
毛利が焙烙火矢を使ってきたって事さ。 >>234
『多聞院日記』の書かれた時代には
「テツハウ」は火薬兵器全般を指す言葉ではなくなっている。
この時代に「テツハウ(鉄砲)」と言った場合は火縄銃のことで
炸裂弾は「焙烙」と呼ばれるようになって
もはや「てつはう」とは呼ばれなくなくなっている。
また>>235に書いてあるように「トヲラヌ用意」という表現も併せてみると
『多聞院日記』の「鉄の船也、テツハウトヲラヌ用意事々敷也」は
火縄銃の銃弾貫通防止を目的とした「鉄の船」といえる。 >>240
中世以来使われている対弓矢用の一般的な木盾の厚さでは火縄銃の玉を防げない。
火縄銃の玉を防ぐには板の厚みを相当厚くしなければならず、その場合重量が重くなり
船の復原性や機動力が低下する。
対して重量あたりの防御力に優れた鉄を用いることで軽量化を実現する事ができる。
陸上の攻城戦でも対火縄銃防御に鉄を貼った盾が用いられており、
同じ発想は海上の戦いに適用されていただろうから
船も銃弾を防ぐために鉄で防御されていたと考えるのは、むしろ自然なことだろう。 >>242
待て待て待て・・・
>中世以来使われている対弓矢用の一般的な木盾の厚さでは
それ、厚さ3センチくらいの奴だろう。
何で野戦用の個人装備、しかも弓矢の時代のものを引き合いに出す?
安宅船の盾板は厚さ6〜10センチくらいあるぞ。
一般の安宅船でも、鉄砲弾を無力化させるくらいの防御力は十分あるって言ってるだろう。
矢弾を防御しつつ接舷して切り込むのが当時の海戦のスタイルなんだから。
盾板には竹の束を使われる事もよくあって、これも銃弾に対しての防御効果は十分だった。長持ちはしなかっただろうが・・・
>火縄銃の玉を防ぐには板の厚みを相当厚くしなければならず、その場合重量が重くなり
>船の復原性や機動力が低下する。
だから、それを実際やったのが安宅船なんだってば。
確かに君の言うように旧来あった関船より機動性は落ちたのだが、
それが実戦において有用であり、日本のどこでも広く使われてたんだから否定しようがない。
毛利が大口径の大鉄砲やら大筒でも大量に持ってたってのなら話は別だが、そんな話は聞かない。
それをやったのは織田の方。
>>241
ループだが、多門院日記のソースは伝聞にすぎない。
鉄甲船を実際に見た人が
「火縄銃対策のための鉄板」とそれを判断したら、間違った認識もそのままに書かれるだろう。
まあ、普通の人は延焼対策なんて思いもよらないだろうから、
対鉄砲用だと誤解されても無理はない話だが。
ていうか君は、何でそこまで鉄板を対火縄銃用の装甲という事にしたいのかね。焙烙対策では、何か不都合でも?
鋼鉄の軍艦が、いかなる銃弾をもはじき返すようなイメージにあこがれてるのかね? >>236
>>243
そろそろ「多門院日記」って書かずに『多聞院日記』って書いてくれ。
なかなか自分で気づかない人だな・・・
ところで、「多門院日記のソースは伝聞にすぎない。」ってソースは? >>244
つまり、信長が
「鉄は木材より重量あたりの防御効果が高いのじゃ」
と主張して、対毛利の鉄砲用軍船を特別に作らせたと。
わかった、もう君はその説を信じててくれ。 客観的事実
対鉄砲用の鉄船とする史料は存在する。
(『多聞院日記』「鉄の船也、テツハウトヲラヌ用意事々敷也」)
対焙烙用の鉄船とする史料は全く存在しない。 一つだけ質問いい?
どんな戦法を使って毛利は第一次木津川海戦で織田方に大勝したの? つうか「どっちも」でしょ?
鉄砲にも火矢にも強いからってだけじゃん 信長鉄船について(『多聞院日記』「鉄の船也、テツハウトヲラヌ用意事々敷也」)
他に
徳川家御座船安宅丸は、厚さ一尺の盾板表面を厚さ3ミリの銅板を貼り装甲している。
この安宅丸について水戸光圀は「鉄砲いかほどあたりても船やぶる事なき也」『西山遺聞』
と評している。
当時の人達の関心が鉄砲に対する防御に向いていたことがわかるだろう。
一方、焙烙に対する防御について書かれた史料は見た事がない。 俺は対鉄砲用なんて主張してる人、あんた以外見た事ないがな 第一次の木津川口の戦で焙烙に惨敗したという史料ならあるが。
信長公記な 多聞院日記の「テツハウ」は銃のことでいいの?
「トヲラヌ」は貫通、通用しない、どっちの意味で使われてるの?
>>254
それに関してはまあ「鉄砲」「通らない(貫通しない)」でいいんじゃないかな。
投げ焙烙なんてマイナーな武器を、水軍に関わりもない坊様が知ってるとも思えないし。 >>253
焙烙対策を講じたという史料はないな。
鉄砲対策を講じたという史料ならあるわけだが。
因みに、第一次木津川口戦について、毛利側の史料には
焙烙攻撃によって織田水軍を破ったとする記述はないようだ。
>>254
ループだな >>256
世界史板の銃・火砲スレで山野氏がそんな事言ってたね。
焼き討ちは村上水軍にとっては常套戦術だから、いちいち何を使ったかなんて記録もせんだろう。
「弓や槍を使って勝利した」なんて書かんよ。 盲船が最強でござるよ
石山攻めで盲船は海の底を這いながら城壁へ接近した資料がある
まさに元祖潜水艦 >>260
放送禁止用語なので大河に出られないでござる
あと珍兵器で行くと村上水軍が設計していたスクリュー船とか つttp://www.tanken.com/wako.html
アイデアだけで実際には作られなかったのかもしれないが、
村上家の水軍書には書いてあるらしい >>265
やはり日本水軍は世界に比べオリジナルを進んでるね
盲船の絵もあるw
船逆さま重石付けてジャックスパロウの海底散歩見たいな感じかな 大坂の陣で九鬼守隆が鉄甲船6隻と三国丸という大安宅船を使っていたようなのだが
どなたか詳細求む ↑子孫の河野兄弟が徳島ヴォルティス・FC岐阜で活躍している
四国にナスカの絵みたいのがあって息吹島に村上水軍の財宝があるらしい。たたりもあるらしい あの番組はトンデモ論多いから気をつけろ
まぁ村上水軍の財宝ってのは元から諸説あるけど >>274
ナスカの絵ってあの巨大な寛永通宝か
あれ見ても銭形平次のOPしか思い出さんぞw 白石一郎の、ウィリアム・アダムスが主人公の小説に缶詰なんちゅう代物が出てきた
ねーよ…(´・ω・`) ノンフィクション歴史小説なんか古今東西存在においてしない 和船も帆柱を切り倒すことなんてあったのか。
マストが何本もある西洋の船だけかと思ってた >>288
ズバッ
「ギャーーー!!!」
「安心せい峰打ち・・・スマン持ってくる刀間違えたwww」 西洋船の場合、切り倒してもいいように木材を積んでいた。
一方何も積んでいない和船は・・・ 帆柱を切り倒さないと、
最善の努力をしなかった
とみなされ、海難証明書
をだしてもらえない。 偶々「その時歴史が動いた」の村上武吉の回のビデオがあったから観た
関ヶ原の時伊勢湾で暴れ回っていたとは知らなかった
熊野灘は何事もなく通過出来たのかな?
あと阿波を占領したってのも初耳だ 広島・因島も水軍ですよね?
因島はかなり歴史古いんでしょうか? SS蒼穹とか一番デキが良い移植じゃないか。下さい。 >>295
阿波や毛利吉成領は毛利氏の占領下に入っているし、
四国では村上元吉らが死んだ後も、関ヶ原の敗報が届くまで
村上水軍・河野衆による加藤嘉明領への侵攻が続いてた模様。
安宅水軍は、蜂須賀家にすべて吸収されてしまったのかな?
安宅町なんて地名にも残っているようだが、 毛利水軍を叩き潰し、石山本願寺への支援ルートを断った九鬼水軍が戦国最強だな
実際、九鬼嘉隆は関ヶ原の戦いで東軍側については戦功をあげたが、江戸幕府が始まった後に、九鬼水軍の力を恐れた徳川家康によって、海に面していない地に移封されるなど晩年は不遇だった。
それでも九鬼氏は水軍としての誇りを忘れないために、小さな湖で訓練をし続けた。 こんなサイトがあった
http://japan.yi-sunsin.com/03ship/02_01.jsp
亀船ってこんな重そうなのに櫓が18丁しかないのな。
動くのか? 復元模型だと16丁しかないぞ
動いたとしても相当な鈍足だろうな 九州征伐で秀吉が水軍(小西・九鬼・脇坂・加藤嘉)を動員したが
こいつらは何をしたんだ?
小西が肥後半国25万石を拝領してるし(佐々改易の後だが) >>308
海軍みたいな水軍があると思っていること自体が間違い。 横浜市歴史博物館で、2009年5月10日まで、
「海賊-室町・戦国時代の東京湾と横浜-」
http://www.rekihaku.city.yokohama.jp/ >>312
それに今日行ってきたよ。案外人が来てて驚いたw
展示物はそんなに多くは無いが、北条、里見、正木、さらに秀吉などの書状は良かった。
虎朱印は実際見るとぐっと来るものがあるなw
あと、個人的に何よりよかったのは、売店に水軍関係の書籍が実に充実していた事w
近くの人はあのためだけでも行って見るのもいいんじゃないかな?
大学時代にたまたま知己を得た先生から直接聞いた話です。
この先生は家系をたどれば河野水軍に行き着き、
祖父の代には子爵だったという家柄のお方でした。
調べればすぐわかるんですが、一応ここではI先生とします。
私がお会いしたときはすでに引退しておられましたが、
現役の時にはベストセラーになったものも含め
何冊も本を出された経済学の大家でいらっしゃいました。
そのI先生がイギリスで講演をなさった時のお話です。
イギリスの空港について入国審査の列に並んでいると、
スーツ姿の男がスッと横に来て、「ロード・I、どうぞこちらへ」と言うんだそうです。
「いや、入国審査をしないと」と答えると
「ええ、しかし貴族の方には専用のゲートがあります」
と言いだすので先生は面食らってしまいました。
「何かの間違いでしょう。私はただの一般市民です」
「いいえ、あなたは子爵です。たとえ日本で貴族制度がなくなったとしても、
ここイギリスでは子爵の家の方は子爵なのです」だそうで。
これ河野なんて人の話? >>317
ここでもいい?
村上吉充は関ヶ原後に毛利家を離れて加藤嘉明領の伊予国野間郡佐方村に移って帰農(廻船業?)しています。
この村に子孫が残っていて近くに菩提寺が残っていて位牌とか系図があるんじゃないかと思います。
来島通則については詳しい資料をみたことがありません。
「玖珠郡史談」に掲載されていた系図についての記事では天正8年生まれ、慶長5年京都で死亡と
手元のメモにあります。
そもそも大名の実子が福島正則に仕えている位なので庶子の可能性が高いのではないでしょうか。 >>317
続き
村上彦右衛門吉清は通総の弟とされています。
来島氏の菩提寺、大通寺に残る系図では通康の成人した男子は
通幸(通之、得居氏、半右衛門)、通総(通昌)、吉清(彦右衛門)、通久(又右衛門)
の4人がいます。
寛永諸家系図伝によると吉清は寛永15年76才で没ということなので永禄5年の生まれでしょうか。
通総と1年違いなので実際には吉清が早く生まれていても庶子で弟とされたのかもしれません。
ちなみにちゃんとした系図や史料には通年の名前は出てこないと思います。 来島氏や村上水軍については不明な点も多いですが、「愛媛県史」の史料や
河野氏、瀬戸内海を扱った研究書を読むと断片的ですがいろいろわかります。
あくまで地方史の世界なので「伊予史談」「玖珠郡史談」あたりを丹念に読むのも手です。 >>318-320
大変詳しくありがとうございました。参考にして自分でも調べてみたいと思います! 堀内氏善率いる熊野水軍に属した人物で
堀内氏善の親兄弟以外で諱のわかる人物っていますか? 信長の鉄甲船と朝鮮の亀甲船が対峙して戦闘すれば歴史に名を残した亀甲船の勝利なの? そりゃぁ鉄甲船じゃ渡海ムリだワナ。あんなの河口に置くだけの船だから。
でも信長なら他の方法取ってるだろ
例えば陸路で港を全部抑えてしまうとかさ。そうすりゃ亀甲船もへったくれもない。 つーか信長の鉄甲船なんて存在自体怪しい。
ぶちゃけ存在しなかったと考えたほうがいい。
話がループしてるのはご新規さんが増えたからからなのか >>327
上のほうでも話されてるが、結局は数。単純に毛利の水軍より多くの船団を織田が用意出来ただけの話。 しかも、織田(九鬼)水軍が劇的な勝利を収めて
以後、毛利水軍が近づけなかったみたいな印象あるけど
局地的勝利に過ぎず、その後も本願寺には水路で兵糧は何度か運び込まれてる。
最後の方で補給が行えなくなったのは、水上を封鎖されていたとか
織田水軍が強かったとかいうわけではなく
陸路の方で秀吉勢が優勢になってきて本願寺の支援どころじゃなくなってきたから 信長が巨船を作ったのは確かなようだが、宣伝に使われただけで実戦には投入されなかったと
考えられる。何故なら九鬼家に、その巨船を運用した記録も戦術も、一切残っていないからだ。
たとえ限定された戦況でのみの物でも、実用に足るものであれば、何らかの形で伝承されるのが
当然なのに、それが無いと言うことは、実戦にはまったく役に立たなかったと言う証拠だと言っていい。 宣伝=プロパガンダって事だろ。
夏休みの宿題は終わったのか? ・鉄甲船はヨーロッパのガレオン船より強かったよ派
・鉄甲船はあったよ派
・巨大な船はあったけど鉄貼りではなかったよ派
・鉄貼りではなかったけど大砲は積んでたよ派
・鉄貼りでもなかったし大砲も積んでなかったよ派
・第二次木津川口海戦そのものがなかったよ派
・鉄甲船はあったがただの飾りだったよ派←new! ちょっとでも戦果があれば、鬼のように宣伝しまくる織田家において、殆ど黙殺されているって事は、
まあ、存在自体がなかったかまったく役に立たなかったかのどちらかだわな。 要は日本の水軍では世界史に名を残す勇ましい朝鮮の亀甲船にはまったく歯が立たないってことだね
実際ボロ負けだったし。 >>339
早く病室に戻らないと先生にしかられるぞ? >>339
当時の朝鮮や中国の史料では亀甲船の活躍の描写なんて極小なんだが?
世界史どころか自国史でも微妙な扱いをしてたのに、
第二次大戦後になって突然降って湧いたよう大々的な扱い。
さすがアジアを始めとして北米南米欧州アフリカ豪州の各地で
「ウソツキ」と呼ばれ忌み嫌われる人種の言葉ですな。
嫌われすぎにもほどがあんだろw
せっせと国技の「捏造」に精を出しておけよw 亀甲船はともかく、日本水軍がボロ負けだったのは事実だけどな
それよりも特筆すべきは、朝鮮に渡った武将の致死率。
戦死はもちろん、向こうの食いもんがマズかったのか病気で死んだ奴が多過ぎw
有能な後取りや家中を支える武将がバカスカ死んでるからな・・・ >>343
この当時の外征は基本的に戦死より病死のほうが多い。
ナポレオンのロシア遠征とか調べてみな。 >>343
日本水軍がぼろ負けって、朝鮮役の事しらなすぎ。
なんかドラマとかのイメージだけで語ってるでしょ。 >>339
朝鮮水軍は閑山島海戦において
推定兵力1500人前後の脇坂安治の水軍相手に
8980人もの損害を強いるという大活躍をしたしな
ボロ負けと言われても仕方がないよな >>345
「不滅の李舜臣」のことか
あれはネタ的には見ておく価値はあるかも知れない
ttp://www.youtube.com/watch?v=ReN8bAbJNzQ&feature=related
ttp://www.youtube.com/watch?v=wruucp8HkGc&feature=related なら、何故日本軍の兵站が確保できなかったのか?餓死・凍死者が続出したのか?教えて下さい。
十分な兵力と武器を有し、指揮官も優秀で、兵站も確保されていたなら
撤退する理由がないと思うんですが。 気候(日本で言うと北海道レベルの寒さ)
輸送路(荷駄輸送に適していない道だらけ)
水(風土病)
ここらへんじゃない?
兵站については朝鮮半島南岸には届いていたでしょ
ただ、そこから先の陸路輸送が滞っていた
もし制海権を日本が失っていたとすれば撤兵時に大混乱と大損害を受ける
はずなんだけど、それに関しては滞りなく撤兵している ・気候
そんなもん戦前から情報はあったはずなんだから(宗やら波多やら現地へ前から行き来してる連中はいるわけで)
準備はできたはず、なのにそれが防げなかったという事は物資が滞った証拠じゃないの?
じゃなきゃ、華々しい活躍をしたはずの日本指揮官が無能って事になる。
・水(風土病)
これも十分な物資があればある程度は防げるよね。食料事情が芳しくなく
寒さも防げず、体力が落ちたところにもってきての病気の蔓延でしょ?
大将とか御家の後取りクラスもバタバタ病気で死んでるし。
・輸送路
それも考慮して戦略練って兵站考えるのが将の務めでは?日本国内だって山道ばっかりのとこは腐る程あるわけで。
それを考えずにどんどん侵攻して兵站を絶たれたりしてるし。
別に制海権を完全に取られたとは思っていないが、(実際主力武将は行き来してるわけだし)
主に非戦力の輸送船団はバカスカ沈められてるし(つまり護衛するだけの余力水軍の能力・戦力がない)
撤兵時にも大損害とは言わないまでも島津とか苦戦を強いられてるよ。
楽々撤退できたわけじゃない。
また、撤退時は主力をほぼ全部載せてるわけだから、戦力も整ってるけど
戦中の輸送船は主力武将は戦地(陸)で戦ってるわけだから、そんなに戦慣れしてない連中が任に当たってた事が多い
だから輸送が滞ったんでしょ。陸地では連戦連勝だから、朝鮮・明など弱い弱いと兵站担当の官僚が舐めてかかった結果。 朝鮮の役については専門スレがあるからそっちで頼むわー 朝鮮の役の水軍衆の活動についての話ならスレ違いではない 江戸時代じゃなくて戦国時代の軍船の史料ってあるの? 絵として戦国時代の船は伝わってないだけ
文章で表現した史料なら色々とある >>357
朝鮮の役に参加した人が、実際に使われた船の模型を献上したんじゃなかった? >>360
お前は戦国や安土桃山期と江戸期が、断絶した歴史だとでも思ってるのか? >>362
これまでの流れを読むと
>「戦国時代の軍船」の史料
ではなく
>戦国時代の「軍船の史料」
が知りたいんじゃないか?
それなら戦国時代にこだわる理由がわからんでもない。 そうだなメジャーな物だとフロイスの日本史にもあるぞ 朝鮮出兵の時の軍船の絵なら「肥前名護屋城図屏風」
精密な絵とはいい難いが一応リアルタイムで描かれたもの まったく素人のたわごとだけど、
今のフザン辺りまでは日本側の制海権あっただろうが、
西側は、島が多いし、海流等の地理的知悉は朝鮮水軍に圧倒的な利が
あり有利だった、と思うが。
朝鮮も、小早川秀秋の大輸送部隊狙った時は、東に流されすぎて全滅したよね。
日本、西側の制海権では苦しかったのでは。
だからソウル辺りまでの海上輸送のあてが外れてしまった。
で、兵站が尽きた、と思っていたが。 日本軍の兵站は最初っから貧弱だった。
朝鮮水軍の活動でさらに苦しくなったのは確かだが、どのみち
朝鮮からの徴収、もしくは略奪なしでは、食っていけない状況だった。
これは外征だからと言う理由だけでなく、豊臣軍の兵站は日本国内の戦争でも
言われているように強力なものではなく、小牧長久手でも九州でも小田原でも、
兵糧不足に陥っている、ギリギリのものだった。
日本国内で軍の兵站をフォローしたのは商人による商業流通だったのだが、朝鮮国内では
それが通用せず、日本軍は初期に持ち込んだ食料を食い尽くすと、たちまち飢えに苦しむ事になった。 >>369
津軽から安東氏を追い出した時に水軍吸収したが逃げられましたw>南部氏 伊達は水軍持っていたの?
佐竹は河と湖の警備部隊みたいな小規模な水軍は持っていたらしいが。 >>371
そう言われてみれば、20万人での渡海しての遠征長期戦というのは、
当時の世界的規模からいっても無理っぽいですなあ。
今の将軍様みたいに、イエスマンしか秀吉の周囲に居なかったからかな。
水軍、どうのこうの以前の問題なんですね。 >>373
戦国時代の伊達領には海も大河もないから水軍なんてあるわけないお( ^ω^)
江戸時代に入って仙台城下や塩釜・石巻が整備されてからは水運が活発になったけど >>378
> 戦国時代の伊達領には海も大河もないから水軍なんてあるわけないお( ^ω^)
それでも河はあるからパトロール部隊程度はなかったのかな? よく「徳川幕府がマストの数を制限〜」なんていうけど、制限されるまでも無く安宅船って
1本マストだよな。名護屋陣屏風なんて見ると櫓が2つ3つ乗っているような超大型安宅船でも
1本マスト。
つーことは、朝鮮にも1本マストの船で渡ったってことか? 帆の長さなどについては色々書かれているけど本数については一本しか見た事ないお( ^ω^)
江戸時代の規制も基本的に軍船の話しで商船については余り規制はなかったお
和船は中央に一本帆柱を立てるのが普通で、あとは弥帆のような補助的なものが付く程度だお( ^ω^)
>>379
渡し舟ぐらいはあったから舟が軍用に全く運用されていなかったとは言い切れないけど
少なくとも水軍と呼べるようなものはなかったはずだお( ^ω^) 大陸の大河じゃないから河をパトロールしてもしょうがないよな
敵は普通に浅瀬を渡ってくるだけだろうし
猪苗代湖に湖賊とかいたのかな? >>382
> 猪苗代湖に湖賊とかいたのかな?
琵琶湖と霞ヶ浦にはたくさんいたのではなかったか?
猪苗代湖にも多少はいたのでは? 俺も琵琶湖と霞ヶ浦は聞いた事あるけど
猪苗代とかは聞いた事ないな
場所的に琵琶湖とか霞ヶ浦は
いろんな諸勢力が戦う戦場としての渡河拠点として必然性があったのかもしれないが
猪苗代辺りは蘆名がどっかといたから、需要もなかったんじゃなかろうか 地味だけど川賊ってのもいるよね
木曽川の川並衆とか 浜名湖や宍道湖、中海には居たような気がしないでもない。 上杉謙信は、強力な軍艦で、南蛮船を追い払ったらしい。 >>391
蜂須賀とか前野がそんなんじゃなかったっけ? 津軽為信ってココでもドコかずれてるんだけどさヘンな武将が多いのよ
水軍じゃなくて、海賊大将ってのがいたんだよ
海賊だよ?海賊・・・水軍って呼ばれてる時代に海賊
略奪とかしてたかどうかは知らないけど、ガンガラ穴の小野茶右衛門とかね
でも、子分が久六島を見つけて日本海海域を広げることに貢献したからただの海賊よりマシなのかも 水軍て呼ばれたのは江戸時代からで
あの時代は村上も九鬼も皆海賊、頭は海賊大将て呼ばれてたよ
ヘンどころか至って普通 >>398
> 津軽為信ってココでもドコかずれてるんだけどさヘンな武将が多いのよ
他の大名家をなんらかの理由で退散した人や、主家が倒産した人を
けっこう雇っているな。
ただ、江戸時代の津軽藩は幕府に遠慮したのか水軍は持っていない。 つーか水軍って言うのは基本海域の通行料を取って活動資金を得るわけで、
それが得られない場合、大名家に取って負担ばかりが過大になるんだよね。
陸上と同じく海も基本的に自由通行の認められた豊臣、徳川期では、水軍が
リストラされるのは当然。 >>400
>他の大名家をなんらかの理由で退散した人や、主家が倒産した人をけっこう雇っているな。
服部とか北畠とか石田とかね。
早くから中央との関係を重視してて、上洛する事も多かったみたいよ
通行料だけじゃなく、貿易でも儲けてたけどね。
まあ、それも江戸幕府じゃ幕府が独占する事になったんで水軍の需要は激減したわけだが ・やたら金がかかる
・貿易は幕府の統制下
この状況で大規模な水軍を維持するなんて、幕府への謀反を考えている以外
理由はないからな。 大安宅丸 30丁艪 砲3門
伝法丸 37丁艪 砲1門
福島丸 60丁艪 砲3門 前田って関ヶ原の時大谷吉継が水軍で前田領を襲うって噂が流れただけで、大慌てしていたような。 大谷吉継の水軍といっても前田領をかく乱できる程度でしょ。 >>411
だから>>410はその撹乱に対応できるかどうかくらいの水軍しか
前田家にはなかったと推し量れるって言ってるんだと思うけど。 ニュース速報で、安宅船が
【文化】 宮崎駿監督 「電車の中でゲーム機のようなもの、iナントカ(iPad)を自慰行為のようにさする人間…嫌悪すら感じる」★4
http://tsushima.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1279079096/
宮崎さんはiPadで得られない大切な情報として、「安宅(あたけ)型軍船」を挙げた。欲しい情報は
この軍船の漕座の雰囲気や、漕手の生活や心理状態。こうしたことはiPadを使っても探し出すのは
不可能。「安宅型軍船」の情報は、様々な記録から自分で推測するしかないし、大切な情報は
自分でその場に出かけていって想像力を注ぎ込んで初めて得られるものだという。 >>350
>そんなもん戦前から情報はあったはずなんだから(宗やら波多やら現地へ前から行き来してる連中はいるわけで)
>準備はできたはず
>じゃなきゃ、華々しい活躍をしたはずの日本指揮官が無能って事になる。
当時は温度計なんてありませんよ?
言葉で「冬はとても寒い」と伝えるしかないので、権力がある人に「気合いでなんとかなる!」と反論されたらどうしようもない。
華々しい活躍=直接戦うのが得意≠気候やら何やらの準備をする
兵站に関して無能ということはそういった事も舐めている可能性が高いということだよ。
その証拠に、寒さに強いはずの上杉軍や伊達軍を戦わせないまま戦争が終わってしまったし。
>・水(風土病)
>これも十分な物資があればある程度は防げるよね。食料事情が芳しくなく
>寒さも防げず、体力が落ちたところにもってきての病気の蔓延でしょ?
風土病というのは日本に無い病気のこと。
つまり体の中に免疫が無いから感染する病気。
体力は関係ない。 >>418
> その証拠に、寒さに強いはずの上杉軍や伊達軍を戦わせないまま戦争が終わってしまったし。
寒さに強いはずの南部や津軽や松前も使いこなさないままで終戦だっけ?
つーか、この出兵でもっとも痛かったのは
有能な武将や、その子息・跡取りが風土病でパタパタ死んじゃったのが
もっともでかかったと思う。
下手すりゃ有名どこは戦死より病死(帰国後まもなくとかも含む)が大多数じゃなかろうか。 そういやどうして日清戦争でこの教訓を活かせなかったのか
戦没者の8割が病死だからね >>422
1次対戦も戦没者のほとんど病死だぞ。
つーかごく最近になるまで戦争はそんなもんだ。
おまえみたいなのや>>423みたいな当時の実情を知らずに分かったようなことをいうバカには
ほとほと呆れ果てる。
日露戦争じゃ病死者の割合はがくっと減ってるよ
そりゃ日清戦争であれだけ病死者が出れば考えるだろう
唐入りの時を考えれば日清戦争の病死者はもっと少なかったかもしれないって話 >>425
10年しか離れておらず経験者がほぼ重なっている日清日露と、
300年以上離れている唐入りと日清戦争が同列に語れると思う
お前の頭の内部構造を除いてみたい。 でも、1570年台に日本が散々やってきた河川や大気の汚染問題を
中国が繰り返すと現代日本と同列にして語るのは何故なんだい? >>429
どこがどう恥ずかしいのか「いろんな」ってくらいだから
列挙できるんでしょ?具体的に言ってみ?できるんなら >>431
全員、書き手が違うし
そのレスが各々、どうおかしいのかも「具体的」に指摘してない。 安宅船が出てきそうなゲームが全然ない
つかここに出てくるキャノン船って実際にあったのだろうか?
http://www.nicovideo.jp/watch/sm13946367 >>434
それは大阪冬の陣で九鬼義隆が造った盲船が元ネタ
中西立太の復元図そのままだし 一般には あたけ船と 読まれてるが あたぎ船のような気がす・・・ 信長にその実力を見出だされた九鬼水軍一党も、徳川幕府により内陸の摂津三田に転封され、ここに九鬼軍艦は、三田城堀割に浮かべられ、九鬼水軍の象徴としての意義を有するに留まった そもそも九鬼水軍はあんまり強くない。小牧長久手でも武田水軍を引き継いだ徳川水軍に
散々にやられているし。 3月の教育テレビの「歴史は眠らない」でも村上水軍やってたよ〜
あげついでにわりとどうでもいい話
少女漫画家の一条ゆかりの母(故人)は村上家の直系子孫だそうな 水軍は
村上が最強だろう
河野は海上がそこそこ強いが陸がからっきしダメ
長曽我部は海上も陸上も強かった
何が言いたいかと言うと四国のスレだねここ 仲良い大名の手伝いしたら水域もらえたりしたの?ちゃんと領地もらえるの? >>434
亀だが、ほい
ttp://www.4gamer.net/games/013/G001372/20100930046/SS/044.jpg 大航海時代オンラインです。
448の画像は大安宅船。造船する時に材質を選べるので
私は銅張りにして、「御船 安宅丸」と名付けて楽しんでる。 質問なのですが、室町〜戦国時代の水軍で弓は使われてたんでしょうか? >>454
ありがとうございます
水軍といったら投焙烙だとか石火矢とか、そういうイメージしかなかったんですが
言われてみると火矢もそういう類でした >>453
当然、水戦では投射兵器は重要だよね。
義経が勝ちたいがために、当時の道徳では非戦闘員とされていた水主を弓で重点的攻撃目標にしたのは有名。
将を射るならばまずは馬を射よってのはそう言うことだとおもう。 >>458
たしかそうだが、それでも大型船だったはず。 >>459
土佐水軍は池氏だよね?
隣の阿波の土佐泊の水軍や河野水軍・来島水軍・能島水軍の方がインパクトが強くて
>>460
長宗我部水軍は結果的に戦闘よりも兵站とか伝令で活躍したからね。 小田原の役の際、秀吉に鯨を献上したとかって話は長宗我部水軍だっけ 豊前今井・元長船合戦図 ぶぜんいまいもとながかっせんず
http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=75752
永禄4年(1561)の大友氏と毛利氏の豊前門司城の争奪戦に関連し、同年11月に豊前今井・元長(福岡県行橋市)沖で起きた大友水軍と毛利水軍との船合戦を描いたもの。
湾内に待機する大友方の奈多・鶴崎・竹原の兵船を、毛利方の村上掃部頭武吉・来嶋河内守吉次・因嶋村上新蔵人吉充らの兵船・丸木船が取り囲む様子が描かれている。
付書によると、大友の兵船は300余艘、毛利軍は兵船800艘・丸木船400艘・軍士3700余騎とある。 >>468
>>471
http://www.kuroyaryusaku.com/history-table/2011/10/1561_1.html
9/8:児玉就方率いる毛利水軍が豊前蓑島で大友方と交戦し、警固船八艘と十三人を生け捕りにする。
10/12:毛利方村上水軍が豊前沼江にて大友方と交戦する。
11/2:毛利水軍が豊前今井、元長を攻め、大友方の軍船数十艘を奪う。
11月2日の海戦を 「蓑島合戦」と呼ぶのか、それとも
「蓑島合戦」は9月8日の海戦のことで、11月2日の海戦は「今井・元長合戦」なのか
よく判らん >>471
> 付書によると、大友の兵船は300余艘、毛利軍は兵船800艘・丸木船400艘・軍士3700余騎とある。
当時の水軍力は毛利かなり優勢ということかな? そりゃそうだ。毛利直属水軍に村上水軍も加わってるんだから最強
大友水軍が太刀打ちできないのは当然。 丸木舟って単材刳船か
まだ古代みたいなもの使ってたんだなぁ 韓国ソウル
世宗文化会館
大砲ゲーム
http://www.livexseoul.com/util/imgView.htm?type=o&img=http://www.livexseoul.com/editorimg/article/201008/100805_sejong/sejong89_t.jpg
夏休みを利用されて観覧に来ている家族連れのかたが多く、こちらの体験コーナーは子どもたちに1番人気の高い場所でした^^* みなさんもぜひぜひ体験してみてくださいね♪♪ 5-1-08
今井元長浦船軍紀 (5/11〜5/12)
http://gazo.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/kaishi/pages/5-1-08.html
十一月朔日の夜半計に赤間関を押出し・・・
(略)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大舩三艘に萱を
高く積上け下に炮禄を数多ハサミ今井の湊に推入
敵舩の間に繋かせ鬨の声と相圖の旗上は其時
舩に火を掛よと教えける角て十一月二日の暁
海面も未晴峯の横雲も未曳に一千余艘の兵船
家々の幕をはしらかし一手々々の舩印を推立
・・・・・・・・・・・
(略) 大日本海志編纂資料|第七部門 絵画・図巻|三 絵図
7-3-13
三嶋流今井津浦船戦図
http://gazo.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/kaishi/category/cate_7_3.html
この絵図には
入江の相対する位置に今井集落と元長集落があり
簔嶋は沖合に浮かぶ島 刈屋畑の戦いは関が原時の地方戦の中でも知名度低いよね
もっと有名になってもいいと思うけど 水軍技術上げて、水軍適性武将引き抜いて、強力な水軍編成、全国一周荒らしまくりたい。 大航海時代の西洋帆船や同時代の軍船である戦国時代の安宅船、関船、
織田信長の鉄甲船などが激突する戦術シミュレーションゲームです。
Androidアプリ
Sengoku Navy 戦国水軍Lite 安宅船、関船・小早・鉄甲船などの
和軍船、の三面図とかあるHPってありませんか?
それとガレオンとかの三面図とか 江戸時代に書かれた武田の安宅船の三面図が合ったような 三面図かどうか忘れたけど学研のムックに図があったような 「安倍の祖父の岸信介は、戦前は原爆開発、戦後も原子力政策に関与してした。
親父の安倍晋太郎は、ロシア日本カレッジという研究機関の設立に出資し、
この機関はオウム真理教によって運営されていた。安倍晋三は神戸製鋼に勤めた時期があるが、
この時の同僚の一人が村井秀夫(後のオウム真理教幹部にして、暗殺された男)である。」
オウム真理教の「宗教法人申請」を東京都は拒否し続けていました。
それに圧力を掛けて強引に認可させたのが、時の運輸大臣だった「石原慎太郎」です。
地下鉄サリン事件が起こると、自分への繋がりがバレる前に石原慎太郎は突如国会議員を辞めます。
http://shanti-phula.net/ja/social/blog/?p=46952#more-46952
安倍の実兄は三菱商事、本体の三菱重工は、日本を代表する軍需産業である。
日本が戦争をしなくても、暴利をむさぼっている軍需財閥で知られる。
三菱は安倍の祖父・岸信介の力を利用して、戦前はいうまでもなく、
戦後も米戦闘機や戦車のライセンス生産をして、戦前を上回る武器生産メーカーに成長した。
防衛予算のほとんどを懐に入れている、と見られている。
http://blog.livedoor.jp/jlj001/archives/52032515.html
三井化学大竹工場は劣化ウラン弾の秘密工場だった。
日本で製造→アメリカに提供→イラク攻撃 の流れで使用されているのではないか?
http://ginga-uchuu.cocolog-nifty.com/blog/2012/06/post-7f2c.html
なぜ石油があったか考えてみたことありますか、これはですね戦争のときに、
アメリカは日本には石油を売らないと、ところがパナマ国籍の船ならば、
石油を積んでいって日本に売っても、自分達は攻撃できないというような理屈で、
日本に石油を間接的に売るわけです、本当の話です、でこれに三菱が作った昭和通商という会社が、
それを引き受けるわけです、で昭和通商と三菱は同じですけど、そこでまずいので、
日本水産という会社が代行するわけです、魚を運ぶということではなくて、
魚の代わりに石油をパナマ国籍からもらって、持って帰るので戦争は長引くわけです。
太平洋でいっぱい戦争しました、あれはアメリカの石油をもらって、
アメリカの石油を使った軍隊と戦争ゴッコをやったっちゅーことですよ。
http://www.youtube.com/watch?v=eugXzHoKnes >>500
おいおい、URL先すべてが、
安重根マンセー、ナンキンガー、イアンフガー、ニホンノコリツガー
ケムトレイルガー、ゼンリョウデカワイソウナチョウセンノカタガタガーじゃないか。
■統一教会と関係があるというデマと大量の壷コピペ
(安倍は統一教会を警戒、しかし関係団体「天宙平和連合」からの祝電依頼を事務所が受けて、
統一の関係団体と知らずに返信してしまう
しめたとばかりに、反日工作員は「安倍=カルト」と事実無根の中傷) 鉄甲船の模型なんて売ってないでしょうか。
20〜30cm程度の長さが理想です。 >>371
実は日、明、朝鮮の各種記録には、李舜臣・朝鮮水軍のせいで
補給が苦しんだという記録は一切ないのが事実。
李舜臣が日本軍の補給線を寸断したという虚構(文禄の役編)
http://tokugawa-tokugawa.blogspot.jp/2011/09/blog-post_10.html
李舜臣が日本軍の補給線を寸断したという虚構(慶長の役編)
http://tokugawa-tokugawa.blogspot.jp/2011/09/blog-post_9643.html
ちなみに文禄初期に補給不全が起きた要因は、
人手不足と険阻な道、冬季到来による部隊の移動制限、
これも冬季到来による日本、対馬、釜山間の海峡の荒波による
渡航制限、輸送隊の往復の糧食の消費等々。
1594年、春が到来して海峡が穏やかになると、
一挙に補給が再開されて、釜山には物が溢れていて
一年半以上も持ちこたえられると記されている。
で文禄の経験を活かした秀吉と日本軍は、
慶長の役では綿密に準備と作戦を練っていたので、
補給不全もおきてないし、戦略・戦術も計画通りに進んだ。
「補給で苦しんだ」といえる時期は、
1592年7月-1594年の春の期間で、
とくに北にいた小西隊や加藤隊が中心。
南方の毛利軍は物資に溢れていて野菜の種までもっていたと記されている。
>>504
残念ながら聞かないな。
博物館とかで展示されているのを見るしかないな。 >>510
これはどっちが勝っても
関ヶ原の戦いにはなんの影響もなかった戦いというのが
有名にならない理由。 >>511
まぁそうなんだけどそういう意味では長谷堂城の戦いと大差ないよなとは思う 政宗や直江、如水が関わった他の戦線と違って有名武将が絡んでないからな…
一応村上武吉・元吉親子が参戦して子の方が討死してるけど、
武吉の動向は調略の書状以外は不詳だし 高虎は関ヶ原にいたから嘉明同様戦ったのは留守部隊だね
んでこっちも西軍に呼応した一揆の鎮圧に兵を出してたから援軍は厳しいかも(おまけに加藤とは仲悪いし) 両方の主君が出張中の留守部隊どうしの戦いってのは、レアケースだと思うが。 一応西軍側は伊予守護家復興の大義を掲げて河野通軌(宍戸景好とも言われる)を大将の一人に奉じてるから
河野家残党にとっては本隊と言えなくもない 萌え女キャラにされてる武将もいっぱい居るんだ。ちんこ付いてるだけマシと思え 日本の水軍がいまいち貧弱に思われるのは唐入り時海戦での朝鮮側の誇張表現もあるが、
日本最強と言われてた村上水軍の総帥の村上武吉の小船好きもあると思う。
馬鹿は大きい=強いって思う節があるからね 先祖(祖母の母or祖母の祖母)が村上一族のお嬢様だったらしい。
お手伝いがいたとか、江戸時代に地域で一人だけ学校に通っていたと聞きました。
家系調査してみたいけど誇張されていそうなので調べるのが怖いです。 朝鮮水軍は日本の水軍と斬り合いをしたのか?
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2014/08/09/2014080900764.html?ent_rank_news
大ヒット映画『鳴梁』日本との戦闘シーン、どこまで正確か
やりやこん棒でなぎ払ったという記録はあるが、剣術では日本側が上
「白兵戦」はなかった
船をぶつけて敵艦を沈める場面…木造船では困難 >>529
> 船をぶつけて敵艦を沈める場面…木造船では困難
難しい技術だが、不可能とまでは言えないだろう。
ハイリスク・ハイリターンな戦いになるが。 >>525
>>528
【日韓】韓国で大ヒットの“抗日映画”「鳴梁」日本公開に向け準備中 キム監督「この作品は日本人が歴史を知る手助けになる」★2[08/27]
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1409130597/l50 本願寺補給路封鎖作戦で村上水軍にリベンジしたときの九鬼水軍の主力艦は
大安宅船と呼んだらしいな
既存の安宅船より大きかったことは間違いなさそうだ >>534
ナニ行ってるかわからんし誰が誰かも判別つかんけど、日本の大河ドラマよりカッコええな 1560年代あたりの師崎水軍の装備はどんなだっか情報ありませんか 1月4日(日)朝4:55〜5:50 テレビ朝日
「村上水軍と塩飽水軍 海の覇者 瀬戸内海賊ヒストリー」
香川照之が瀬戸内海で活躍した水軍の歴史を巡る〜
正月からマニアックな
そして俺向けな番組やってんなあテレ朝 番組見たわ
村上が世渡りヘッタクソで塩飽が世渡り上手みたいな感じで
紹介されてたがホントなん? 観てないけどどんな内容でした?塩飽水軍って『瀬戸内海族物語』で名前聴いたぐらいでしか知らない 内容は薄かった
村上は武に秀でて主(毛利)を変えず
塩飽は知に秀でて信長秀吉家康と主を変えて交易でボロ儲けした、みたいな感じ。
村上は武吉についてちょっと触れて。塩飽は塩飽大工最後の人みたいなのを紹介。伝太夫とかについては触れず
まあ、あの時間に起きてまで見る内容じゃなかった 普通に考えると、鉄板張りしたら錆ないか?
すぐに使い物にならなくなるよ。しかも海だよ。
戦のたびに鉄板替えてたりとか?
当時は防錆技術なんてないだろうし。
その辺どうなの?誰も指摘しないかど。 鉄甲船は史料だと鉄砲を大量に積んだ軍船の事で
鉄板張りの類は書かれていないと、どっかで読んだ 徳川秀忠が改良して腐食に強い銅張りの鉄甲船作ったからそれなりに錆びたんじゃない >>547
鉄甲船は史料に存在しない
昭和末期に生まれた空想の産物だから
毛利-村上水軍に一度完敗した織田軍が、九鬼に作らせた「大安宅船」で再戦した
大安宅船は既存の安宅船を更に大型化したもので、「大砲」を積んで運用した
フロイスによると、この大砲が決定的な勝利をもたらしたとのこと
少し後の秀吉の時代に、明征服作戦の装備として鉄張の軍船が試作されたが、
これは完全な失敗作で、実用にはならなかった
この情報も、鉄甲船という架空兵器の基の一部になっていると思われる
朝鮮の「亀甲船」が全面装甲艦だったという荒唐無稽な空想と同水準だな
あちらの亀甲船は、甲板上を棘付きの篭で覆い、斬り込みによる白兵戦を防ぐものだった
どこをどう曲解して装甲艦に仕立て上げたものやら >>546
当時の鉄製の金物は
基本的に表面を黒錆処理して内部が錆びるのを防いでいる 名護屋からジョアン・ロドゥリーゲスは一書簡を送付してきたが、彼はその中で次のように述べている。
「関白はこのたびの朝鮮征服のために幾隻か非常に大きい船舶を建造させました。
それらの舟は、すべて水面から上は鉄で覆われ、中央に船楼を有します。
相互に通じる船橋は、いずれも鉄が被せられ、木(造部)は露出していません。
そして全て甚だしく美しく塗金されています。
それは大いに鑑賞に値するもので、私は時々それらの船に入ってみました。
同署にありました船を測ってみましたところ、長さ十九畳ありました。
数名のポルトガル人たちは、それらの船舶に入ってみて肝を潰していましたが、それらの船は弱体で、船骨に欠(陥)があったために、幾隻かは裂けて沈没してしまいました。」 和船に船骨はない
てここのスレまだあったのか…たまげたなぁ 外海には出ないし泊まれる港もなくなるしいらんのよね 一応、鉄甲船も鉄板貼った板を外して船底に収納すれば、渡海も可能 DAT落ちはしないと思うが、いちおう念のために保守。 九鬼水軍の鉄甲船とイスパニアのガレオン船もし戦わば 「李舜臣漫画家」オンリーコムパン「慰安婦被害者全幅支持」
送稿時間| 2016/07/07 07:00
ttp://img.yonhapnews.co.kr/photo/yna/YH/2016/07/06/PYH2016070619260001300_P2.jpg
ソウル漫画アニメフェスティバル参加..."実際の英雄の話を知らせたくて"
(ソウル=連合ニュース)ゴウンジ記者= “李舜臣漫画家”として有名なアメリカ人の漫画家オンリーコムパン(Onrie Kompan・33)は7日、「日本軍慰安婦被害者に全面的な支持(fully support)を送る」と述べた。
6〜10日、ソウル東大門デザインプラザ(DDP)と明洞駅CGVなどで開かれる第20回ソウル国際漫画アニメーションフェスティバル(シカプ・SICAF)に出席するため韓国を訪れたコムパンは聯合ニュースとのインタビューで
「私は日本軍慰安婦被害者を支持する」と言って「日本が彼らに犯した蛮行と慰安婦被害者の声が全世界に知られなければならない」と強調した。
先立ってコムパンは、昨年末、韓国を探して「慰安婦少女像」にショールを巻いて、今年の初めには、自分のソーシャルネットワークサイト(SNS)に「慰安婦のための平和と解決」というタイトルの記事で慰安婦問題等に関する自己の考えを明らかにして話題を集めた。
彼はちょうど「今回はシカプスケジュールに集中しなければならないので、慰安婦をお伺いしたり、それに関する行動をとることはできないようである」と残念がった。
シカプは今年の海外巨匠招待展にコムパンを招待して、イベント期間DDP会場内に設けられた“李舜臣ブース”で彼の作品を展示する。
来る9日には、ここでファンサイン会を開き、コムパンとファンが直接会って話をする時間を持つ。
コムパンは「シカプで私を招待してくれたことに感謝して光栄に思っている」とし「世界各国の様々な漫画・アニメ会場に通ったが、このように圧倒的で、優れた席は初めて」と所感を明らかにした。
コムパンは忠武公李舜臣の業績に盛り込んだ漫画“李舜臣:戦士と守護者”(Yi Soon Shin:Warrior and Defender)シリーズを出版して、米国だけで5万冊以上を販売した。
ttp://img.yonhapnews.co.kr/photo/yna/YH/2016/07/06/PYH2016070619280001300_P2.jpg
韓国のドラマを通じて初めて李舜臣の話に接したはコムパンは、「他のスーパーヒーローとは異なり、李舜臣は実際に存在していた英雄という点で大きな魅力を感じた」とし「逆境に克服し、国を救った彼の尊厳な話を人々に知らせたかった」と語った。
コムパンの“李舜臣愛”は継続される。
彼は来る10月、鳴梁海戦に背景にした“李舜臣:落ちた復讐者”(Yi Soon Shin:Fallen Avenger)を出版する。
コムパンは「現在新作の作業中で、10月中に米国ニューヨークで開催される漫画祭“コミックコン”(Comicon)でデビューをする」と明らかにした。
「イベント期間(四日間)で1千500冊を売る」と作品に対する自信ものぞかせた。
アメリカ人にも韓国の偉人をテーマにした漫画を描いて李舜臣の業績を全世界に知らしめたコムパン。
しかし、彼はむしろ、自分に声援を送ってくれる韓国ファンたちに感謝の気持ちを伝えた。
「私の漫画を愛してくれる韓国ファンにありがたく、すべてのことに感謝します。受けた愛に報いようと、今後も継続してまいります。」
ttp://www.yonhapnews.co.kr/bulletin/2016/07/06/0200000000AKR20160706196600005.HTML やっぱり安宅船の語源は安宅氏だと思うな
南北朝時代から首都圏近郊の海洋で活躍して
人口に膾炙したことは想像に難くない 壬辰倭乱1592
KBS韓国放送公社
スポット
http://www.youtube.com/watch?v=-3dqFN04G5w
今までの戦いは忘れろ!
壬辰倭乱1592が戦争の歴史を直す。
壬辰倭乱1592 - 2016年9月3日(土)21:40 KBS 1TV放送予定。
ttp://www.kbs.co.kr/1tv/sisa/imjinwar/index.html 李舜臣将軍、露梁海戦決戦意志込められた「最後の手紙」初公開
送稿時間| 2016/09/30 10:05
ttp://www.yonhapnews.co.kr/bulletin/2016/09/30/0200000000AKR20160930058500014.HTML
明軍に渡す...撤退する倭軍への先制攻撃を主張
(ソウル=聯合ニュース)イ・ヨンジェ記者=
李舜臣将軍が壬辰倭乱最後の決戦である露梁海戦を控えて、自分の作戦計画を込めて明軍に送った文書が30日初公開される。
国防部はこの日午後、国防部軍事編纂研究所と全南大李舜臣海洋文化研究所の共同主催で全南大麗水キャンパスで開催される国際学術大会で李舜臣の最後の簡札を初めて公開すると明らかにした。
簡札は竹彫刻の竹簡や木の彫刻である木札に書いた文章、広い意味では、紙や絹に記録した手紙も含まれている。
今回の学術大会で公開されている李舜臣の簡札は、1598年11月露梁海戦を控えて作成されたもので、明の監軍・王士gに伝達されたが、彼の子孫が「章安王氏宗譜」に収録して現存することになった。
この簡札で李舜臣は朝-明連合軍の攻勢で順天倭橋城に孤立した倭将小西行長の退路を開けないことを明軍に説得し、彼の撤退を支援するための水軍を先制攻撃しなければならないという主張を繰り広げた。
李舜臣は明水軍将帥劉テイ(劉綎)と陳リン(陳璘)が小西の懐柔と賄賂によって倭軍の撤退路を開ける案を苦心していることを見抜いていた。
当時、日本軍は豊臣秀吉が息を引き取って、残した遺言に基づいて撤退を進めており、海の安全な退路を確保するのが急務だった。
これをよく知っている李舜臣は、朝明連合軍の指揮権を握った明軍に小西の懐柔に乗らないように説得して倭軍を倒すための決戦を促したのである。
今回発掘された李舜臣の簡札は現存する壬辰倭乱・丁酉再乱史料である“朝鮮王朝実録”、“李忠武公全書”、“乱中日記”、“李コ馨文集”などでも見つけることができなかった史料で、歴史的な価値が大きいというのが国防部の説明である。
キム・ギョンロク軍事編纂研究所上級研究員は、「李舜臣将軍の簡札は、朝明連合軍作戦に消極的だった明軍を説得して日本軍の退路を遮断、殲滅しようとしていた作戦の意志を示す史料」と説明した。 >>571
>日本軍の退路を遮断、殲滅しようとしていた作戦
結局、露梁海戦で日本軍の退路を遮断殲滅することに失敗したな。
しかも李舜臣自身が戦死したのをはじめ、明・朝鮮の上級武将が多く戦死。
上級武将が多く戦死しているならば、兵卒も多く戦死していることは間違いない。
朝鮮側にとって惨憺たる結果だったというのが露梁海戦。 >>571
連合軍とは今の韓国視点からの名ばかりで李舜臣が主将ではなかった証拠だね。 何で大航海時代の造船技術や航海術は手に入らなかったの
鉄砲をあれだけ量産したり城や何だと建築できる技術とGDPがあれば
金なんかいくらでも積めたよね
船ごと艦隊ごと買うとか容易かったろうに
海賊はいくらでも買えたろう
蘭学事始並の語学力がいるわけでもなかろうに >>578
武田信玄が駿河を制圧した時に、
どこかの水軍大将を引き抜いたのではなかったか? 伊勢とか熊野で零落した水軍集は関東にきてるね
向井氏 北畠→今川→武田→徳川。
小浜氏 武田→徳川。志摩水軍。
伊丹氏 今川→武田→徳川。
梶原氏 伊勢の海賊から北条氏に出向。北条滅亡後は紀伊へ帰る。
愛洲氏 佐竹氏などに使えた剣豪。元は熊野水軍の出。
信長が九鬼を引き立てた結果(縁戚にある熊野水軍の新宮氏も伸びた)、
勢力争いに敗れた伊勢志摩の水軍が各地へ散った 外国からくる船は当然、外国へ帰る足でもあるので
そんなホイホイ売れないし、軍事機密でもあるんだから
そんな簡単に手放さないでしょ 能島村上海賊の新史料 今治・水軍博で展示
愛媛県今治市大島沖の国史跡・能島城跡を根拠地としていた村上海賊三家の一つ
能島村上家の新史料が発見され21日、市村上水軍博物館が発表した。戦国時代の
古文書の写しをまとめた冊子「御感状御證文写(ごかんじょうごしょうもんうつし)」
や、江戸時代に仕えた萩藩毛利家(山口県)からの書状などで「近世以降の動向
を知る上で貴重」としている。新史料2点などを展示する企画展「能島村上家
伝来資料群」が22日〜6月25日、同博物館で開かれる。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170422-22630501-ehime-l38 なんかこの時代の造船のことについて書かれた、良質な資料ってないかな?探してもなかなかみつからない。 ここがよくまとまってる
http://navy.ap.teacup.com/applet/kanzo/msgcate3/archive?b=30 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:87f20c3c9ee883ab649a4d7f8b996d63) 10匁等の狭間筒は船舶からも使用されたと有るが
通常の関船が此れを大量に装備している可能性は果たして有るのかだが
此れは安宅船の外板も貫通する可能性は有るのかだが
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E8%88%B9
>『小田原北条記』巻七には、「小田原方の船は艪が50挺あり、15間(27メートル)先から鉄砲で撃っても貫けないようにこしらえていた」
此れは10匁狭間筒が27mでも貫通しないと言う訳では無いのかだが
通常の3−6匁筒の可能性も有るのかだが https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E8%88%B9#cite_note-2
>関船も竜骨を用いずに板材を釘とかすがいで繋ぎ止める造船法をとっており、軽量かつ頑丈であるものの、衝突による破損には弱く体当たり攻撃には適さない。
>そのため、西洋船や中国船より採れる戦術の幅が狭い。
http://www.sengokushi.com/sengokushi/?p=950
>上原船は体当たり攻撃を行う構造を持っている。
>箱型の船首に、「衝角」とも言える鉄のバンバーがある。
>和船は、構造上体当たり攻撃は出来ない、と言われるが、戦闘時に接舷し乗り込み
>攻撃を行うのであれば、どの様な態勢であれ、体当たりになる。
>接舷攻撃をする以上、対策は必要であろう。
竜骨無しでも伊勢型の船体でバンパーの様な物が有れば
十分体当たりは出来た可能性も有るのかだが http://blog.livedoor.jp/waruneko00326-002/archives/49572886.html
徳川家御座船安宅丸は、厚さ一尺の盾板表面を厚さ3ミリの銅板を貼り装甲している。
この安宅丸について水戸光圀は「鉄砲いかほどあたりても船やぶる事なき也」『西山遺聞』
と評している。
当時の人達の関心が鉄砲に対する防御に向いていたことがわかるだろう。
盾板の厚さが30cmも有る例が有るのかだが
此れは近距離で無いと10匁狭間筒では貫通出来ないのかだが >>243
>安宅船の盾板は厚さ6〜10センチくらいあるぞ。
10cm程度では少なく共近距離では
10匁狭間筒は止まらないと言う事なのかだが https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/rekihaku/126/witness.html
>1615(元和元)年の津田重長の秘伝書にも「鎧通玉のこと」「先を三角にした太くて長い竹束玉のこと」、
>狭間は城郭の施設、鎧通は文字どおり甲冑を貫通する玉、当時、鉄炮を防禦するために竹束を用意したが、それを貫通する玉が竹束玉である。
上の竹束玉が船舶の貫通に使用された可能性は有るのかどうかだが http://i.imgur.com/MWiRMuN.jpg
上の朝鮮軍図屏風の日本軍の船の一部は竹束が有る様にも見えるが
http://i.imgur.com/Bh04Nzq.jpg
http://i.imgur.com/iwgNrAZ.jpg
上の大阪の陣でも投入された盲船の可能性も有るのかだが
此れは現実に投入されたとすれば
朝鮮水軍の主に手銃を防ぐ為の物なのかだが
此れの射程外から大鉄砲で攻撃を加えるのが基本と言う事では無いのかだが
朝鮮水軍の遠距離の砲を止める為の物の可能性は無いのかだが
絵でも全てが竹束を装備している様にも見えないし
竹束装備の船は切り込みも想定しており
装備しない船は遠距離戦用の可能性も有るのかだが http://i.imgur.com/MWiRMuN.jpg
上の日本船の装甲の竹束に見える物・見えない物双方は
竹束と異なり平たい様に見えるし
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E8%88%B9
>総矢倉の周囲は楯板と呼ばれる木製装甲で囲われており、戦闘員や艪をこぐ水夫を矢や銃弾から保護しているが[2]、安宅船よりも楯板が薄く防弾性能は低い。軽量化のため竹製の楯板になっていることもある。
この軽量化された竹製の盾板の可能性も有るのかだが
此れは遠距離の弓なら止まる可能性も有るのかだが
此れで遠距離の弓を止めつつ砲や手銃の射程外から
大鉄砲を打ち込むと言う事かも知れぬし
斬り込み用の装備では無い可能性も有るのかだが
http://i.imgur.com/EvopOcY.jpg
とは言え上の船には前部に竹束が有る様に見えるし
正面・側面限定でも竹束が装備されている船が
斬り込み用に投入されていた可能性も有るのかだが http://bunkazai.metro.tokyo.jp/jp/search_detail.html?page=1&id=300
江戸期の戦国期の物を模したと言う関船の模型には竹の装甲が有る様にも見えるが
此れは船体下部迄防護しているのはどう言う事なのかだが
船体下部が弓や弩で貫通され浸水するのを防いでいるのかだが
火炎には油を含む竹は弱い筈だが
朝鮮水軍は火矢は現実には余り使用しなかったのかだが 第二次木津川口の戦いのwiki見るとさ
織田方の水軍が鉄甲船6だけみたいな感じで書かれてるんだけど
実際、大船(鉄甲船かどうかは怪しい)を護衛する小舟もたくさん出てたわけでしょ?
一次の時は毛利が出した水軍の船に対して織田が急遽用意できた船が少なくて負けたわけで
二次は当然、毛利に対抗できるだけの数を揃えたと思うんだよ
鉄甲船がどうのみたいな話じゃなく備えがあったか否かの話でさ
なのに、毛利方が出したのは一次も二次もたいして規模の程度はないような記述なのに
二次の織田方は鉄甲船のような大船が6でただけみたいな記述はなんでなん?
二次の織田方の水軍兵力に関する情報ってそんなにないの? 第二次木津川口で織田側が小船を出したという記録は無い じゃあ本当に大船6しかないの?
仮にそれが主力だとしても
護衛艦なしで戦艦突っ込ますようなもんじゃないの?それ 織田の鉄甲船は、河口を塞ぐ移動砲台みたいなものだから 里見の水軍って強かったの?
瀬戸内の水軍に比べたら武装もちんけだろ? 鉄甲船とかあやふやなもんを事実のように書くな
移動砲台?その記述は一次資料にあるの?毛利方の資料とか 船とは名だけの砲台を設けた人工島のようなもんだったと思うよ
5000人乗せられて全長55mもある船って当時の技術じゃありえん >>602
木造船に鉄張りはそれ程、珍奇なモノではないし
文禄の役で鉄甲船が存在したのは確実 >>603
5000人とは6隻の合計人数であり、1隻当たり800人強であるとする意見もある >>600
少なくとも対北条では連戦連勝。海岸沿いの北条領は里見水軍にも年貢を収めてた
北条は自前の水軍じゃ足りないから紀州とか伊勢の水軍を借り出してる
>>604
「木津川口の戦いで」「移動砲台」になり得る「鉄甲船」が
「毛利の水軍を蹴散らした」とする一次資料はあるのかと聞いてる
文禄の役の話なんかしてねえ >>606
> 北条は自前の水軍じゃ足りないから紀州とか伊勢の水軍を借り出してる
それは知らなかった。カネ払えば傭兵になってやって来てくれたの? >>606
ほへ〜ずいぶん遠くのやつらを呼び寄せてたんだな、、、三浦半島のやつらだっけ?半端ない頻度で襲われたとか、、、 今川武田徳川水軍と渡り歩いた駿河水軍の向井正綱は伊勢出身。
それと渡り合った北条水軍の梶原景宗は紀伊出身 伊勢水軍と熊野水軍は東海道沿いの大名たちと交易を介して関係を持っていて、
戦に出張したり、召し抱えられる者も居た 後北条水軍(たしか)の関係者が、
海路、松島の瑞巌寺に参拝した
という記録を読んだ記憶がある。
たぶん安房の里見や、常陸の佐竹とかには事前に話をつけてから
沿岸を通過したんだろうな。 基本的に当時の水軍は傭兵と貿易商兼ねた勢力なので
依頼があれば行けるとこは行くよ
雑賀根来も船出して長宗我部の援軍とか行ってるし >>612
佐竹は水軍らしい水軍は持っていなかったのに、
なぜ雇ったんだろうか? 水軍としてではなく剣術師範としてだからじゃない?
水軍で立ち行かなくなったから剣術の道へ行ったわけだし愛洲さんは >>614
真崎宣広ってのが「佐竹水軍」を率いたってあったんだけど佐竹って水軍なかったの? >>616
河川のパトロール隊程度の水軍しかなかった。 もっとも水軍は戦闘だけではなく、兵站や伝令にも使えるので、
そういう意味での水軍は存在したのではないだろうか? 島等の地形の影から高速の小早等から大鉄砲を
遠距離から一発放って離脱と言う様な事は
果たして行われたのかどうかだが
縦射なら一発でも可成りダメージは受け得るだろうか https://i.imgur.com/MWiRMuN.jpg
前部に竹束の有る様な船も
朝鮮軍図屏風には書かれるが
関船等に大鉄砲を防げる様な竹束を正面に施して
安宅船を大鉄砲で攻撃と言う様な事は行われたのかだが ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%84%E7%94%B2%E8%88%B9
>その『多聞院日記』も「鉄の船なり。鉄砲通らぬ用意、事々敷儀なり」という伝聞の記述である。
と有るから
信長の鉄甲船は防火対策だけでは無く銃対策も
限定的ながら有ると言う事なのかだが
重量はどうなのかだが
秀吉の鉄甲船は幾らか裂けた等と言うが外洋戦闘を考慮しており信長の鉄甲船より軽量化され
防弾は余り考慮していない可能性は無いのかだが http://www.rekishi.info/forum/forum100/20050911173204.html
>肥前名護屋城図には3艘の安宅船が描かれそのうち1艘は3層と2層からなる二つの天守様の矢倉を載せています。
通常船のトップヘビーを招き安定性を失わせる上に、帆走するのにも不利なこうした構造物を単に乗船者の権威を高めるためだけに設けるでしょうか?
他の欠点に目を瞑るくらいやはり軍事上の利点が高かったと考えるべきでしょう。なお、この3層の矢倉を持つ安宅船はその色から鉄板装甲の可能性が指摘されています。
http://i.imgur.com/ErDY5vs.jpg
肥前名護屋城図の上の三層の櫓の有る船は
他の白い船と違い色が青いし
1593年の鉄甲船を書いているのかだが
鉄甲船なら防火用かも知れぬ幕は必要なのかと言う事は有るだろうが
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%AE%85%E4%B8%B8
銅板を貼った安宅丸には幕は無いと言う事だろうか pbs.twimg.com/media/C2MXC9KUkAAPWk5.jpg
上の肥前名護屋城図屏風の右側の船は
http://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_9/view/id/2443187/page/8
名護屋城博物館では全長38mと推定されているのかだが
左側の鉄甲が有るかも知れぬ船は此れよりやや大きい様に見えるが
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%AE%85%E8%88%B9
1573年に琵琶湖に
信長の55mの船と言うのが有った様だが
左側の船は果たして此れなのかどうかだが
琵琶湖から名護屋城に移動出来る物なのかだが
同程度のサイズの別の鉄甲船の可能性は有るのかだが https://twitter.com/boukenkyuu/status/905253802869112832
肥前名護屋城図の2つの大型艦のサイズは
上を見る限り同程度なのかだが
絵師の頭の中では上の櫓が高い物の方が
可成り大きいと言う可能性は有るのかだが 戦国期の水軍用の具足は軽目と言う意見も有るが
http://photozou.jp/photo/photo_only/1849954/200511501
上の蒙古襲来絵詞では大鎧を装備して切り込みをしているし
脛当ては有る様にも見えるから
水軍用の具足も特段軽装なのかだが
毛靴は滑るからか外している様に見えるが
戦国期では船上では草鞋は無いのかだが
https://www.pinterest.jp/pin/343610646561595253/
上の平家物語絵巻でも船上の兵は基本的に
一部の戦闘をしない様な指揮官を除き靴は無いと言う事なのかだが キチガイは妄想垂れ流す前に論文の一本も読みに図書館へ行きたまえ。
貴公は戦国水軍を理解しておらぬ。 安宅船は重装甲で全面の防弾を考慮した物も有るが
関船の場合は防弾を考慮する場合が有るとしても
前部に竹束が有る場合だけなのかだが
敵に上手く前面を向けて銃を放っている例は有るのかだが
こうした事をしても
大鉄砲の縦射を受けてやられる例等も有るのかだが 某研究者うぜえ
俺の覗くスレによくいるけど空気読んでくれ 語尾が「のかだが」だらけでゲシュタルト崩壊起こしそうになった >>629
コテなんだからNGにすればいいだけだろう
不毛な論争繰り返しているアホ共とは違い勉強になるからこれからも遠慮なく続けてほしい https://www.pinterest.jp/pin/343610646561609417/
上の水軍城に有る兜の吹返は
波を模している可能性も有るのかだが
果たして水軍が使用した物なのかだが >>631
勉強になるか・・・?
専門書読んでればすぐ分かるような疑問を、延々書き込んでるだけだろ。
某研にモノ教えても礼のひとつも言わないし、調子に乗って居つくからみんなスルーしてるだけだよ。 体系的にまとめるまでは行かないな。特に日本海側はさっぱり >>636
毛利水軍対尼子水軍!とか?
水軍の運用といっても。だいたいは水上機動陸戦なんだよなー >>638
> 水軍の運用といっても。だいたいは水上機動陸戦なんだよなー
あとは伝令用の早舟や、兵站輸送ね。 https://twitter.com/boukenkyuu/status/907874040601124870
上の蒙古襲来絵詞に有る様な小早より小さい小型船から
高精度の狭間筒を放って
大型艦艇をアウトレンジ等は出来るのかだが
的が小さいと言っても大型艦側に高精度の狭間筒が有れば
やられる危険は有ると言う事なのかだが
前面に狭間筒を止められる様な竹束を施せば
機動性は可成り低下する危険も有るのかだが
漕ぎ手と狭間筒を操作する人間のみを乗せれば
軽量化は可成り出来る可能性も有るのかだが
海が荒れている状態ではこうした小型艦の運用は
困難である訳だろうか >>640
https://twitter.com/boukenkyuu/status/907888939490353152
上の朝鮮軍図屏風に恐らく竹束を前部に装備した船が書かれているが
此れは狭間筒迄の防弾は考慮している共思えぬが
上の物はどうなのかだが
https://thepage.jp/osaka/detail/20140621-00000007-wordleaf
>1丁目は徳川方が使用したとされる大鉄砲。長さ1.7メートル、口径2.5センチ、重さ30キロ。大坂冬の陣で大坂城を取り囲んだ徳川方が、堀越しに天守閣へ向けて発射した。
>館長を務める澤田さんが話す。「徳川家康公が滋賀の鉄砲鍛冶の名工に命じて製造させたもので、命中度を高める照準装置を併用した可能性もある。
此れは500mで通常装甲の関船を狙撃すると言う様な事は出来るのかだが
椋の装甲の有る様な安宅船の装甲はそうした距離で貫通出来るのかだが
http://www.osakacastle.net/week/%E7%89%B9%E5%88%A5%E5%B1%95%E9%96%8B%E5%82%AC%E4%B8%AD%EF%BC%81
>慶長大火縄銃 全長3m 135kg
この種の物は大量生産されておらぬだろうし
船に搭載されている大鉄砲は
長い銃は通常は無い可能性は有るのかだが http://blog.livedoor.jp/sengokuranse/archives/36769938.html
>毛利高政所用 大鉄砲 閻魔王
>慶長の役で南原城を攻撃した際に使用したと伝わる。
>毛利高政は津田監物を流祖とする津田流の砲術を学び後に伊勢守流を創始している鉄砲の名手。
>去年オープンした大分の佐伯市歴史資料館に毛利高政が所持してた慶長大鉄砲の
>「閻魔王」、「四海波」、「秋風」の3丁が展示されてて、四海波は逆に徳川方として
>大阪城への攻撃に使われたって書かれてたな
「四海波(しかいなみ)」(全長282cm)
「無聖(むしょう)」(全長281cm)
「閻魔王(えんまおう)」(全長278cm)
「秋風(あきかぜ)」(全長201cm)
毛利高政は文禄・慶長の役では船奉行であるから
こうした銃が海上でも使用されていた可能も有るのかどうかだが
大量生産は無いと言う事なのかだが 自身が動揺する小舟からの大砲射撃など命中を期待できない。
的が巨大であるか余程の近接が必要。
だいたい、大砲や鉄砲に照準器がついてない。
近世でも銃身も火薬も品質が一定でないから当たり前。 >>643
>だいたい、大砲や鉄砲に照準器がついてない。
http://www.rekishi.info/forum/forum100/20050911173204.html
>現存する大型の火縄銃(大鉄炮や置き筒)と呼ばれるものには長大な射程(300〜1,000m)を有するものが存在し、遠距離用の照準装置(ややこしいですがこれも「やぐら」と言います。)も発達していました。
当時の記録には本国に鉄炮とこの「やぐら」を送れといった命令を発したものが見られます。こうした大型銃は船体破壊こそできないものの、朝鮮の火砲より命中精度と射程、可搬性に優れ、
安定性の高い停泊中の大型船や地上で使用すれば、高い命中精度を持つ文字通りの「アウトレンジ攻撃」が可能になります。
遠距離用の照準器は文禄・慶長の役では使われていたと言う事なのかだが
20匁程度の狭間筒なら
500mでも関船の何処かに当てる程度なら何とか成らないのかだが
20匁程度の狭間筒なら発射速度もそう遅いのかだが
小型船でも内海等で海が荒れていない状況なら
瞬発式火縄銃でも有るから狙撃は出来ないのかどうかだが
http://blog.goo.ne.jp/tibisan2006/e/fa88e7e116064ae3af0cfac203bae6e1
>今回は2m80pの”大鉄砲も...。全国にも4丁しかないとか。
此れは古い物では無いと言う事なのかだが
船上でも何とか使用出来そうにも見えるが
装填速度はどうなのかだが http://itworks.lolipop.jp/MyBlog/seventies/index.php?mp=&post=505
火縄銃の遠距離照準器のやぐらと言うのは上に有る物なのかだが
20匁狭間筒の500mの関船への射撃では
こうした物迄果たして必要なのかだが
http://itworks.lolipop.jp/MyBlog/seventies/index.php?mp=&post=510
10匁・全長2mの狭間筒でさえやぐらの装備を考慮していると言う事なのかだが
遠距離では威力は可成り低下する可能性は有る訳だろうか http://www.sanken-intl.co.jp/arcive_sanada/contents/column/hinawa/teppo_tai.html
>また、町打(ちょううち)という100mをこえる遠距離射撃も行われたそうで、3町(327m)の距離から3尺(90cm)の的を打って競ったというのには驚かされる。
此れはどの程度の命中率だったのかだが
こうした訓練をして居た事実は有ると言う事なのかだが
>また細川家の家臣松野亀右衛門という名手は、島原の乱で原城を攻撃する際、5町(545m)先の敵を打って外さなかったそうである。
此れはベイカーライフルと似た様な距離での狙撃だが
通常の火縄銃に拠る物なのかだが
https://pbs.twimg.com/media/DJmjim8VAAEqO3C.jpg
上の学研・日本武器集成には
通常サイズの竹束は28mでも6匁筒がほぼ貫通しないと有るが
https://pbs.twimg.com/media/DJlzZdiVAAAtAGx.jpg
上の朝鮮軍図屏風の上の竹束が前面に有る船は竹束は上部でも2つ重なっているから
10匁或いは其れ以上の筒の防弾を意識している可能性も有るのかだが 竹束を前面に装備した小型船が
大型艦等から大狭間筒の反撃を受ける可能性も有るだろうが
http://massneko.hatenablog.com/entry/2015/07/04/150000
大狭間筒も上の50匁筒以上の物は無いのかだが
6匁筒が30mで通常の竹束を貫けないと言う事は
50匁大狭間筒は500mでは小型船の前面の竹束を貫けない可能性も有るのかだが
300mでも貫けないかも知れぬが
余り接近すると100匁以上等の短い筒の直撃を
的が小さいとしても受けて竹束が貫通する危険は有る訳だろうか 来島対能島とか能島対来島で対決しているが、海戦になっているのかねえ?
島に籠って攻撃してくる軍船に反撃しているだけに見える。
だいたいさー、海戦で戦死した武将って殆ど居なくね?
島に上陸して切腹とか、負けてもそんな感じだよね。 水軍同士の海戦ってどんな感じで戦ってたんだろ?源平合戦のあの頃をイメージすればいいかね? そもそもそんな広い海域がないし
迎え撃つ方も海上より海岸線に築いた砦の方が有利だから
本格的な海戦なんて国内じゃほとんどないんじゃないの >>633
某研のネット検索情報垂れ流しを見て勉強になるとか言ってるんだから
よっぽど基本的な知識がないんだろうな… http://paomaru.dousetsu.com/file/09_hinawa_004.html
中央日本周辺: 長さ→130cm前後 重量→2〜5kg 口径→2〜4匁
瀬戸内海付近: 長さ→140cm前後 重量→2〜6kg 口径→2〜3匁
九州地方付近: 長さ→100cm前後 重量→4〜6kg 口径→5〜6匁
東北地方付近: 長さ→110cm前後 重量→4〜10kg 口径→5〜10匁
>船での戦いでは、相手は基本的に遠くにいます。遠くの敵を狙うのに必要な銃の条件は、長い銃身と小さな口径です。銃身が長ければ、火薬のエネルギーを効率よく使えます。口径が小さければ、弾丸が軽いので弾は遠くまで届きます。
此れは船の装甲を貫く事は考慮していないと言う事なのかだが
装甲は無く火矢を防ぐ為の幕を張っただけの
小型船も多かった訳だろうか 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:77bfa3ad753b2994479210bef5c6504a) >>654
武田水軍と後北条水軍が戦ったことなかったか?
結果は引き分けぽかったが。 ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%B3%8A%E5%81%9C%E6%AD%A2%E4%BB%A4
秀吉の海賊停止令後
海賊は水軍兵や陸軍兵と成った者も多いのかだが
海賊行為が忘れられず倭寇等に入る者は果たして居たのかだが https://kotobank.jp/word/%E6%B5%B7%E8%B3%8A%E7%A6%81%E6%AD%A2%E4%BB%A4-1286560
>海賊衆は,諸大名の被官となり,水軍に組織されていった。
>一般漁民は武装解除されたうえ百姓身分となり,各地の沿岸で小規模漁業を営む専業者に確定づけられた。
雑魚海賊兵は武装解除され漁民と成ったと言う事なのかだが
水軍の兵や漕手等として
以後も軍事に関わった可能性も有るのかだが 漁民も農民も一緒。秀吉の頃には軍勢の4から6割が軍を維持するための軍夫であり非戦闘員。
兵農分離しても農を戦場に連れていかなければ戦えない。 日本の海賊が西欧の海賊の様に頭巾を被る漫画等も有るが
戦国期の盗賊なら浮世絵で熊坂長範や他の盗賊も被る
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/40/Yoshitoshi_-_Hazy-night_Moon_-_Tsuki_hyakushi_no._45.jpg
https://www.pinterest.jp/pin/343610646562046172/
上の熊坂頭巾の様な物を被る例も有るのかだが
海賊は果たしてどうなのかだが
通行料を取る事が主体の者は
自らを賊とは認識していない可能性も有るなら
そうした物は被らない可能性も有るのかだが
熊坂頭巾は能に有ると言うから此れは古い物なのかだが 海賊も敵を一旦見逃した後
損害拡大を避ける為に夜襲を掛ける可能性と言うのは
有るのかだが
通行料を取る事で済むと見せ掛けて
小型艦艇や忍者等で秘密裏に追跡し
夜間等に奇襲攻撃と言う例は有るのかどうかだが >>662
通行料を取る為と称して
敵を間近で偵察し戦力を分析した後
一旦見逃し
夜間に奇襲攻撃と言う様な例は有るのかどうかだが
とは言え偉い人間の配下の船舶には
迂闊にそう言う事はするのかだが 海賊の世界にも仁義というのがあり、
いったん通行料を取ったらそれ以上は危害を加えることはないのではないでしょうか? >>664
偉い者の傘下の船は
報復を考えると襲撃したくは無いだろうが
其れ以外の船はどうなのかだが
偉い者の傘下の船と偽装する船も居るかも知れぬし
此れが本物か否かを見極める為にも
昼間通行料を取ると称して間近で偵察し
偉い者の傘下の船では無いと見れば
夜間奇襲攻撃を掛ける可能性も有るのかだが
確実に違うとは言えないが
資金不足等を理由にどうしても襲撃したい場合は
別勢力に偽装した者にやらせると言う様な方向も有るのかだが 村上海賊の娘の様に
大将が一人で敵船に斬り込むと言う様な事は現実に有ったのかだが
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E5%98%89%E6%98%8E#.E4.BA.BA.E7.89.A9.E3.83.BB.E9.80.B8.E8.A9.B1
>甥の加藤権七と共に密かに手船20艘ばかりで向かうも、朝鮮方の番船に気づかれ、多数の船に包囲され、弓を放たれ、死傷者多数の事態となり、
嘉明自身、矢を二、三射立てられる。熊手で引き寄せようとするも失敗したため、郎等に対し、「我を敵船に投げ入れろ」と言い、やっと番船に家臣の塙団右衛門共々乗り込み、3艘を乗っ取ることに成功したと記される。
加藤嘉明も一人で斬り込んだと言う訳でも無いのかだが
最初は一人で斬り込んだが後で部下も投げ込まれたのかだが
日本の船相手にこうした事をしても
雑兵物語に有る様な
至近距離の射撃を受けてやられる危険は有るかも知れぬし
朝鮮や西欧では至近距離の射撃は無い可能性も有るから
一人での斬り込みも有効なのかだが
西欧のピストルは白兵戦直前にも
至近距離で放たれていた可能性も高いのかだが https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E7%94%B0%E5%9F%8E_(%E7%B4%80%E4%BC%8A%E5%9B%BD)#.E7.AC.AC.E4.BA.8C.E6.AC.A1.E5.A4.AA.E7.94.B0.E5.9F.8E.E3.81.AE.E6.88.A6.E3.81.84
>第二次太田城の戦い
水で囲まれた太田城に羽柴秀吉軍は中川藤兵衛に13隻の安宅船で攻めさせた。船の先端には大きな板を建てて、鉄砲や弓矢から攻撃から守るため改造したが、
太田城の城兵の中で水泳の名手を選び、船底に次々と穴をあけ沈没させ、また押し寄せる攻城兵には鉄砲で防戦した。
第二次大田城攻めに使用された安宅船は
正面に重装甲を施し大鉄砲を防ごうとした可能性も有るのかだが
船の底に穴を開けられてやられたと言うが
此れは忍者が行ったと言う訳でも無いのかだが
安宅船は水密区画が有ると言う意見も有るし
小数穴が空いても容易に沈没等するのかだが 第二次大田城攻めに使われた安宅船の前部に装備された
装甲と言うのは只の板なのかだが
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E6%9D%9F
>対大筒用の大型のもので長さ八尺(約240cm)・幅四尺(約120cm)程のものが使用された
上の様な太い竹束が装備された可能性は有るのかだが
安宅船には砲が装備される可能性も有るだろうが
砲は正面にのみ装備され竹束には此れを撃つ為の銃丸が
有る可能性も有るのかだが
https://i.imgur.com/EvopOcY.jpg
竹束は朝鮮軍図屏風の上の船の様に
横に並べて積まれている可能性も有るのかだが https://potaru.com/p/100000014878
>安宅船の構造は下から「水密区画」、「船倉」、「甲板」となっていました。水密区画は一部に穴が空いても全体に浸水しない構造になっています。
と有るから
船底に小数穴を空けても沈められるのかだが
傾斜させて固定式の大型砲の射撃を困難とさせる程度なら
或いは可能なのかだだが http://www.eniguma49.sak ura.ne.jp/gunnzi,heiki/kanagawa,izu/gunnsenn/gunnsenn1.html
>船底部は漆喰と切石で固められその内側は防水隔壁により一部亀裂が入っても浸水しない構造と成っています、
此れはどの程度細分されているのかだが
設計図は無いのかも知れぬが
ジャンク船の物とほぼ同様と見て良いのかだが
http://ncode.syosetu.com/n9653cs/112/
>三番目としては、水密区画が細かく存在している点である。このため一旦船殻の一部に穴が開いても、すぐにその区画だけを閉鎖すれば航行が可能であったとされる。
民間船でも水密区画は存在しているが、かなり大きな割り方になっているため、
暗礁などで一か所が大きく損壊しても航行不能まではいかないものの、かなり危険な状況に陥る可能性は高い。
現存している和船の最古の設計図と言われる七尾丸は関船に相当するが、全長50メートル程、全幅25メートル程で300程の水密区画を持っていたとされる。
更に、櫂は片側50丁、2丁の舵を有し、四方を板で囲う押し廻し造りと呼ばれる構造になっている。前後に櫓があり、まさに「浮かべる城」であった。
関船でさえ水密区画は300も有るのかだが
此れは民間用ジャンク船の物より多い可能性も有るのかだが
此れでは傾斜させて固定式の大型砲の砲撃を困難とするのも
容易なのかどうかだが
大型爆弾を船底に仕掛けて船体を大きく損傷させ
沈没はさせられず共傾斜させて
大型砲の砲撃を困難としていた可能性も有るのかだが 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:0be20a4887bc3d3353f527d3636c44e3) >>667
> 小数穴が空いても容易に沈没等するのかだが
そこはあやしいですね >>670
> 大型爆弾を船底に仕掛けて船体を大きく損傷させ
当時、そのような爆弾(水中で使える仕様)が日本に存在したかどうか? >>672
>当時、そのような爆弾(水中で使える仕様)が日本に存在したかどうか?
http://gun45.d.dooo.jp/jiguanqiang.htm
>16世紀には早くも、各種類型の機雷がもうすでに明朝海軍の重要な武器となった。1549年に製造された「水底雷」は世界初の機雷と呼ぶことができる。
この機雷は木製の箱を外殻とし、パテで継ぎ目をふさぎ、下面の縄が鉄製のアンカーにつながり、深度をコントロールし、手作業で撃発させ、
西方が製造および使用した機雷に比べ200年あまり早かった。
初の定時爆発機雷は1590年に製造された「水底竜王砲」である。この機雷は牛の膀胱を外殻とし、内部に黒色火薬を装備し、線香を信管に用い、線香の燃焼時間に頼って機雷の起爆時間を定めた。
初の触発機雷は1637年明朝最後の年に製造された「混江竜」機雷で、この機雷は艦船との直接の接触によって起爆が行われた。
史料の記載によれば、長年にわたった抗日援朝(頑住吉注:豊臣秀吉時代の「文禄・慶長の役」)の時期、明朝海軍はかつて「水底雷」を使用して日本の1隻の大型戦闘艦を一挙に撃沈し、
これは人類の歴史上初の機雷の使用が取得した実際の戦果で、日露戦争(1903〜1905)での機雷戦に比べ3世紀近く早かった。
中国にはこの種の物も16世紀には有るが
船底に人が仕掛けるタイプとはやや違うのかだが
改造は容易な可能性も有るのかだが
中国の機雷と同種の物を交易力の有る雑賀衆等が
手に入れて人が仕掛けるタイプも開発した可能性も有るかも知れぬし
分厚い安宅船の板に人力で穴を簡単に
開けられる共思えないし
爆薬が使用されたと見る方が自然かも知れぬが
大田城攻めでは無いかも知れぬが
忍者等に迎撃される危険も有るのかどうかだが >>673
>史料の記載によれば、長年にわたった抗日援朝(頑住吉注:豊臣秀吉時代の「文禄・慶長の役」)の時期、明朝海軍はかつて「水底雷」を使用して日本の1隻の大型戦闘艦を一挙に撃沈し、
この日本の艦艇がやられた機雷と言うのは
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ohgai/3816/heikijiten/heikikaisetu/suirai.htm
>我が国(中国)は早くも明代に水雷をもっています。明の嘉靖二十八年(西暦1549年)、唐順之の編纂した『武編』には一種の「水底雷」が記載されています。
木箱で外殻を作り、内部に火薬を充満させ、起爆装置が一本の長いロープでつながれ、三つの鉄の錨で「水底雷」を水中に固定します。
敵船が殺傷範囲に入ったら、岸辺を防衛する人員は縄を引っ張って、起爆装置を起動させ、水底雷を爆発させて、敵船を撃破します。この種の「水底雷」は我が国(中国)だけでなく世界的にも最初の手動で縄を引っ張って起爆させる水雷です。
上の人力で起爆させる水底雷である訳だろうか
時限式の物は1590年台の登場であるから
大田城攻めで使われたかも知れぬ
船底を攻撃する仕掛け爆弾は
この紐で引く起爆装置を使用している可能性も有るのかだが 第二次太田城の戦いに関しては、不明な点や誇張された記録も混在しているのではないかと思われますが。 >>675
何処が誇張された物かは不明だろうし
誇張だと思われた事が事実だったと言う事も
割に有る話では有る訳だろうか
pin.it/vmpSexR
この槍鳶口は恐らく戦闘用だろうし
船戦用なのかだが
鳶口も木材に打ち込む物だから
甲冑にもピックの様に打ち込んでいた可能性は有るのかだが 実際の記録として残っている瀬戸内の海賊のやってたことは
通行料を取る
村上の旗を持っていれば海賊に襲われないぞと村上の旗を売りつける
こいつを乗せていれば海賊に襲われないぞと村上の手下を船に乗せる料金を請求する
漁船で〜すと行って船底に兵士を満載した船を商船や外航船に近づいて襲う
物盗りのための人殺しは良くないと村上の頭領が宣言した後は事務的に通行料を徴収するシステムの導入
などなど
そりゃ秀吉に陸に上げられるわな >村上の旗を持っていれば海賊に襲われないぞと村上の旗を売りつける
こいつを乗せていれば海賊に襲われないぞと村上の手下を船に乗せる料金を請求する
漁船で〜すと行って船底に兵士を満載した船を商船や外航船に近づいて襲う
旗は実際は余り偽物と疑われ
役にたたなかった可能性も有るのかだが
偽装した漁船も偉い人間の傘下の船は襲撃し難いだろうし
襲撃前に通行料を取ると称して間近で偵察し
偉い人間の傘下の船で無い事を確認している可能性も有るのかだが >>678
朝鮮通信使の日記に 日本の瀬戸内の某港でボロをまとった助けを求めてくる人間がいた 誰かと思ったら我々の仲間で海賊に襲われて身ぐるみ剥がされた という記録がある
少なくとも国家間の外交船でも襲ってるのは事実 >>680
村上の様な大海賊は兎も角
小規模な海賊なら誰が略奪を行ったかは
容易には判明しないだろうし
こうした連中は偉い者の傘下の船の可能性が高い物も
襲撃すると言う事なのかだが
朝鮮通信使が来航する時点では大海賊は
取締令で恐らく消えていたと言う事だろうか 秀吉の海賊禁止令前でも
大規模な海賊は報復を考慮して
偉い者の傘下の船は襲わないかも知れぬが
他の小規模大規模な海賊に偽装して
襲撃をやる可能性も有るのかどうかだが
村上が松浦等の仕業に見せ掛ける或いは其の逆等をして
偉い者の船を襲撃した例等は有るのかどうかだが https://twitter.com/katchusi/status/918655082412965890
>海部刀という四国の徳島阿波地方で作られた刀で船具を切るためや敵陣の柵を壊すためとする説なとがある。
村上水軍等がこうした物を大量に使用していたと言う可能性は有るのかだが
http://trickmaster.orz.hm/katana/data/masayoshi2.html
銘の有る同種の刀も有るから
騎馬武者クラスの者がこうした物を用いていた可能性も有るのかだが
捕虜の虐待等に此の鋸部分が利用される例も有るのかだが >>683
船用のロープ等を切る専用の刃物に似てるね
直径3センチくらいのロープを切ったことあるけど2〜3往復するだけで簡単に切れる 村上海賊の娘で一騎打ちを望む本願寺の下間頼道を
伏兵の弓で射殺した場面も有るが
沼間義清が一騎打ちで倒し本願寺勢の士気が低下した所に
突然伏兵が銃や弓を撃ち込み更に士気を低下させ敗走させると言う様な方向も有ったかも知れぬが
現実にこうした事は有ったのかどうかだが http://www.xn--u9j370humdba539qcybpym.jp/part1/archives/date/2017/03/page/23
>一般の火縄銃は全長130p、銃身長100cm、口径12o程度であるが、この大火縄銃は全長166p、銃身長130p、口径19oで重量は8kgある。
口径でみると約4倍の重量の弾丸を使う。銃の先には城の壁、船舶の船縁などに固定する金具が揃っている。
船舶で使ったのではないか。装填は下の甲板に銃尾を下して行う。
口径が大きいのは敵の船の構造物を破壊すると同時に喫水線を撃ち、浸水させるためだろう。拾一匁あれば相当大きな穴が開く。
弾丸が重く初速は遅いので、中目当て二つを使い曲射照準したのではないか。
此れは果たして船舶で使われたのかだが いつから某研究者の落書き帳になったんだここは自重しろや >>688
過疎スレなんだから目くじら立てることもあるまい 過疎スレだったら好き勝手していいなんてことはねえよ
埒も無い独り言を延々書き込んでるんだから普通に荒らしだろ
少なくともこういう行為を認めちゃいけない 過疎スレだからこそ、1人がたくさん書き込むとレスが流れちゃうんじゃん https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B4%96%E5%B1%B1%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
>元側の記録によると、南宋艦隊は1,000隻の大型船をがっちりと繋ぎ合わせ、防火のため船体外装に泥を塗り、敵が近づけないよう長い木材を縛り付けて防御網とし、油を注いで火攻めを図る元軍を破ったという。
南宋艦隊が泥を塗って対抗と言うのは火矢対策なのかだが
棒火矢にはこうした物では対抗困難な可能性も有るのかだが 1540〜あたりの九鬼水軍の状況について知りたいです
・対「津島の町」「織田氏(各家、信秀)」「周辺国家」への心情
・当時の戦力、各種船数 織田と交流なんてあってのかね1540年代に
完全に北畠傘下だったんじゃないの http://fleishman.co.jp/2008/04/column_nobunaga5/
>さらに1571年の竹生島の浅井攻めでは琵琶湖に大砲の装備を付けた「囲い舟」なる船を登場させて、
従来の大砲の弱点である移動性の悪さを克服し、ついで1573年に琵琶湖で長さ30間、片側100挺櫓の大型船を建造させている
さらに1574年の長島一揆では数百隻の船に大砲を装備し撃ちまくったとの記録もある。
長島一揆で数百門の大砲が使われていたと言う訳では無く
数百隻の船の一部に砲が装備されていたと言う事なのかだが
http://cybertiger.blog.so-net.ne.jp/2017-06-14
>ついで明智光秀、打下(滋賀県高島市)の土豪林員清、堅田(大津市)の猪飼野正勝、山岡景猶、馬場孫次郎、居初又二郎に命じ囲い船(防御用の装備を施した船)造らせた。
そして琵琶湖の湖上から漕ぎ寄せると海津浦(高島市)、塩津浦(伊香郡西浅井町)、与語の湖岸(飯浦、木之本町)を焼き払わせた。
さらに竹生島に船を寄せると火矢、大砲、鉄砲で攻撃を加えた。
この囲い船と言うのは装甲は厚いのかどうかだが
竹束装備の盲船とは違うのかだが
地上からの大鉄砲の攻撃に対抗出来る様な物なのかだが https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12108726022
>勝頼の時代にも、天正2年(1574)に起きた高天神城の戦いで、二の丸を守った本間・ 丸尾兄弟を武田方は狙撃して討ち取っています。
兄、本間八郎三郎氏清が堂の尾曲輪の櫓に登って兵を指揮していたとき、朝日の光で鎧兜が輝いていたのを目印にされ、武田軍に狙撃されたと伝えられています。
そのあとを引き継いだ弟、丸尾修理亮義清も銃弾で戦死します。
この場合は銃での狙撃かも知れぬが
大鉄砲で指揮官の居る櫓を狙撃していた可能性も有るのかだが
船上等の大鉄砲も城攻めでは櫓毎指揮官を狙撃し
指揮能力や士気を低下させるが基本であるかも知れぬし
大鉄砲に備え防御力が石や厚い竹束等で強化されているかも知れぬ
塀を破壊し尽くす等と言う様な事は何処迄出来るのかだが
船の装甲を貫く様な大鉄砲や砲を放つ銃丸付近は
砲で攻撃されていた可能性も有るのかだが https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E6%9D%9F
>大きさは小型のもので長さ六尺(約180cm)・幅一尺(約30cm)、対大筒用の大型のもので長さ八尺(約240cm)・幅四尺(約120cm)程のものが使用された。
対大筒用の竹束等も有るが
一揆勢がこうした物迄用いていたのかだが
大鉄砲は兎も角砲は何処迄防げたのかだが http://www.eniguma49.sak ura.ne.jp/gunnzi,heiki/sonota/senngokuheuki/senngokuheiki1.html
>当時鉄砲の口径は6mm程が標準で現在の2口径の銃と略同じ威力です、鉄砲から身を守るのであれば10cm程の木の板で十分です、
16cmの木の板の上に10cm以上の鋼鉄装甲を施す理由は完全に砲弾の直撃を意識しているのでしょう、また鋼鉄板は斜めに取り付けられています、
此れにより着弾した砲弾が上へと弾き上がり衝撃を緩和する効果があります、ちなみに大戦中に連合国から脅威とされたティーガ−重戦車の装甲板の厚さは大盾車と同じ10cmで
ソビエトのT34戦車、アメリカのシャーマン戦車の75mm相当の対戦車砲弾を至近距離から弾き返しています、この大盾車も大筒の様な大口径の大砲の砲弾は無理としてもフランキ砲や大鉄砲などの比較的口径の小さい大砲の砲撃からは十分に身を守れたのでしょう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E7%94%B0%E5%9F%8E_(%E7%B4%80%E4%BC%8A%E5%9B%BD)#.E7.AC.AC.E4.BA.8C.E6.AC.A1.E5.A4.AA.E7.94.B0.E5.9F.8E.E3.81.AE.E6.88.A6.E3.81.84
前面だけ板を厚くした安宅船が第二次太田城の戦いで使用されていただろうが
上の様な分厚い鉄板が安宅船の前面装甲に使われて
城等からのフランキ・大鉄砲を防弾していた可能性は流石に無いのかだが
対大筒用の太い竹束を装備していた可能性は有るのかだが ちょっと奇特過ぎの牛刀でひよこを裂くような質問なのだが…
WW2の魚雷攻撃は安宅・関舟に爆砕可能でしょうか? そもそも戦闘艦で戦闘艦を叩くというケースが希。
そんなことをしなくとも、根拠地を叩けば敵戦闘艦を無力化できるのが当時の戦い。
なんだか、戦闘機で戦闘機を撃墜するのが制空権争いと思っている人と思考が同じきがする。
制空権争いで重要なのは、敵基地を叩くこと。 イルカやシャチに爆弾を積んで特攻させると言う様な事は
戦国期には果たして有るのかだが
焼き討ち船なら確か使われているだろうが
火薬の使用は誘爆等を考慮して無いのかだが https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%AB%E8%88%B9
>時代が下り火薬が使用されるようになると、火船にも火薬が搭載されるようになった。火薬を搭載する場合は体当たりする時間に火薬に引火するように導火線が用いられた。
しかしながら、敵艦船が火船攻撃から逃れる可能性があったため、乗員は可能な限り火船に留って敵艦船へ船体を近づけた。
八十年戦争(いわゆるオランダ独立戦争)では、オランダ軍が大量の火薬を積んだ強大な火船を使用し、戦果を上げた(en:Hellburnersも参照)。
火船戦術は、17世紀中盤の英蘭戦争で頂点に達した。第一次英蘭戦争では敵艦隊に対し単純に風上から放流するだけで、容易に迎撃や回避をされてしまい戦果が乏しかった。
しかし、第二次英蘭戦争では固定的な目標を狙って使用され、しかも妨害を排除するための護衛艦を伴うなど運用も洗練されたことから、いくつかの海戦で成功を収めることができた[1]。
火薬装備の火船も欧では使われたが
耐弾性は何処迄有るのかだが なんで某研究者(アホ)は
スレの流れを全く読まずに自分の思うことだけを長文コピペで長々流すんだ?
性質の悪い荒らしも同然だろ 九鬼の子孫は、先祖が海賊だということで
後に、持て囃されたらしい 持て囃されてたん ?
海賊が何をしているのか、わかっているのかいな 海賊稼業は、3日やったらやめられない
人の物を奪い取る快感は、やったものにしか
わからない
まったくもって、グズやね グズと言っているわりには、解説していることと真逆だろ 世の中、矛盾だらけのほうがおもしろい
矛盾がつまらないと言っているのは、人生を
知らない証拠や 戦国期の若狭武田氏や土佐中村一条氏は水軍を持っていたのか? >>709
木津川口では言うほど大敗してないし
九鬼より村上の方が水軍としての規模はでかい
単に海賊禁止令→関ヶ原で御家再興失敗没落というテンプレ通りになっただけ
九鬼は息子の方がまがりなりにも幕臣になったから生き残れたわけで
実質、水軍どころか船出頭の役も解かれてる
いわば幕府お抱え以外の水軍(海賊)は全て死んだと思えば間違いない >>709
大名になったり、毛利の水軍になって残っているけど? >>719
> 木津川口では言うほど大敗してないし
白村江の倭国船団やバルチック艦隊みたいに続々と撃沈したわけではなく、
退却に成功した船のほうが多かったみたいですな。 外国のしかも機帆船での質問で済まない…。
どこ行きゃいいのかわからん&同じ船関係だから誰か知る人いるかな?…の期待感で
聞きたいのですが。
下のイギリス最初の航洋装甲艦『ウォーリア』なのですが
これって石炭以外の貨物で運用したい場合総じて何トン喰らいつめれそうなのでしょうか?
ttp://www.d3.dion.ne.jp/~ironclad/wardroom/Warrior1/1860warrior1.htm
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%A2_(%E8%A3%85%E7%94%B2%E8%89%A6) 小田原城攻城戦では大鉄砲+大筒が1000門使われたと言うし
此れの一部は後で船にも搭載されていたと言う事なのかだが
文禄・慶長の役では大部分は当初陸戦に回っていたのかだが
後で船の装備率は増えたと言う事なのかだが ここ過疎スレだったのに最近よくあがるようになったな。なんかあったのか? >>730
http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/293400
海戦用の船手具足も軽装では無いし
海賊も騎馬武者クラスの人間は村上海賊の娘・景の様に
軽装では無いと言う事なのかだが
とは言え劇中の様に長時間徒歩で移動する場合は
軽装の可能性も高いのかだが
長時間歩く必要の無い船上では重装備なのかだが
http://cubeaki.dip.jp/taiheiki/taiheiki/taiheiki21-30/taiheiki-22-1.html
>彼の甥に所大夫房快舜と言うとんでもない無頼僧がいました。また中間に悪八郎と言うミツクチ(兎唇)の大力自慢がいました。
それ以外に犬獅子と名付けた、不思議な犬を一匹飼っていました。この二人の者と一匹は闇夜になれば、帽子兜(眉庇のない兜)と言う粗末な兜をかぶり、
鎖帷子を着て足軽に扮して出かけたりします。またある時には大鎧を着けて七物(武士の持つ七種の武器)を携えることもあります。
太平記に出て来るこうした高位の者も徒歩で隠密行動する際は
軽装と言う事なのかだが >>729
某研究者ってアホが各スレで暴れてるから https://www.pinterest.jp/pin/343610646561480695/
https://www.pinterest.jp/pin/343610646561480945/
海戦で鎖鎌を使う描写も江戸期には有るが
戦国期には有るのかだが
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%B5%E6%B5%81
>念流鎖鎌術から派生したとされる一心流(流祖・丹一心)の鎖鎌は、鎖の長さが1丈2尺(約3.6メートル)、分銅の重さが300匁(1.1キログラム以上)とかなり大きいものを操っている[3]。
これは妙に分胴が重いから甲冑を想定した物なのかだが
https://myarmoury.com/review_lut_17001.html
フレイルの分胴でさえ700g程度の物も有るが
細長い分胴の物は恐らく更に重いだろうか
3.6mの鎖で1kgの分胴を振り回せば
板金鎧でも危ういのかだが >>733
http://sendai.shindomusoryu.jp/kusarigama.html
一心流鎖鎌術は14世紀にも有るのかだが
古い流派なので重い分胴で太平記に出て来る
板金的な金胴も含む甲冑を
打ち砕く事を狙っている可能性も有るのかだが 霞ヶ浦の湖賊。
戦国時代には存在していたんだっけ? https://www.pinterest.jp/pin/343610646562452166/
上の土蜘蛛草紙の右の人物は渡辺綱かも知れぬが
歩兵の様な格好をしているから違う可能性も有るのかだが
http://www.emuseum.jp/detail/100257/000/000?mode=detail&d_lang=ja&s_lang=ja&class=1&title=&c_e=®ion=&era=¢ury=&cptype=&owner=&pos=81&num=7
此れを着て騎乗している場面も序盤に有るし
下位の騎兵用の胴丸と言う事なのかだが
偉い人間も戦争時では無いから
村上海賊の娘の様な軽装をしていると言う可能性も有るのかだが >>735
ほとんど資料ないけど多賀谷氏や江戸崎土岐氏に水軍がいたって話はあるね >>738
>>735
江戸崎土岐氏は水軍もっていたね。
ただし他の大名や小名と戦うためではなく
霞ヶ浦の商船を狙う海賊と戦うだけだから
それほどの規模ではなかったように思う。 戦国時代は万が一沈没や浸水した時に使う救命用の筏の類はあったんだろうか
水軍の人たちはどうやって対策してたんだろう >>741
ひょっとして小早程度なら安宅船に載せられるのかな
関船だと難しいだろうけど >>743
さすがに無理かぁ
伝馬船…勉強になります 載せるっていうか軍船とか大型船とかなら
戦艦と駆逐艦みたいに随伴して航行しなかったの?
商船とかは知らないけどさ >>740
大量の小早・関船が有れば
此れに出来るだけ分散して救助した者を乗せれば
部隊の移動に支障はほぼ出ないと言う事なのかだが
救助に時間が懸けられない状況なら
手近の船が最大限乗せた後
後で他の船に最大限分散移乗させれば
部隊の機動性はほぼ低下しないと言う事なのかだが
大量の船損失に備えて人や物資が余り乗らない
予備の船舶も有る可能性も有るのかだが
此れでも足りない場合は
物資を投棄して人を乗せていたと言う事なのかだが
pin.it/d2mfdvbhgtxvdd
こうした先端が長い鳶口も有るが
船戦用の物は此処迄のサイズは無いのかだが https://www.pinterest.jp/pin/343610646561492649/
上の朝鮮軍図屏風に有る日本船は
蔚山城から脱出する兵を救出する為に派遣された物だろうが
此れは浅瀬に出来る限り入る為に小早を使用しているのかだが
小早とは言え集中射撃に対応する為に対弓の装甲を全面に施しているのかだが
救出用の特殊仕様なのかだが
こうした船は食料や水はほぼ搭載せず
救出に特化していると言う事なのかだが >>747
まず経緯を考えろアホ
その船がなんなのかわかるだろ 海戦用船手具足も
面具は船から落下した際の呼吸の邪魔とは成るのかだが
http://ikkaiyoroi.com/14.htm
上の物は口は歯も無く
割に大きくは開けられている様に見えるが
http://bunka.nii.ac.jp/heritages/heritagebig/293400/0/1
上は鼻の無い面頬が有るだろうか 漫画村上海賊の娘8巻では
小早は垣盾を装備しているが
此れは近距離の銃は防げないから
現実には火矢を止める為の幕或いは薄い竹板を装備していたと言う事なのかだが
https://www.pinterest.jp/pin/343610646561492649/
近距離の銃が防げるのは正面の竹束のみと言う事なのかだが
pinterest.jp/pin/343610646561492649/
一番上の船は正面の後方には盾板は有るが
遠距離の鉄砲なら此れは防げるのかだが
安宅船同様の10cm等は有るのかだが
一番下の船にも前の方に盾板は有るがこの後方にも盾板は有るのかだが
或いは当時の垣盾と同様に
5cm程度しか無い可能性も有るだろうが
構造は垣盾では無く盾板的にも見えるが
https://www.pinterest.jp/pin/343610646561481063/
関船の場合は下部は薄い竹装甲だが
正面や上部の銃兵が戦闘する際に居る部分は盾板が装備されていると言う事なのかだが
この板は10cm等は有るのかだが
https://www.pinterest.jp/pin/343610646561481080/
伏せて漕ぐと言う様な事も
この構造では困難と言う事なのかだが
前部等の一部の漕手だけは盾板や竹束等で防護され
方向転換は出来る可能性も有るだろうし
敵に対し下部も耐弾性が有る正面或いは後方を向けた後漕手を大量に下部に移動させ
射程外に離脱と言う様な事が出来る可能性は有るのかだが
pinterest.jp/pin/343610646561481063/
盾板は下に倒せて移乗可能な構造だろうから
此れを斜めに倒して漕手が伏せれば耐弾性が得られる可能性は無いのかだが
人が乗れる強度は有るだろうが
果たして斜めにしても防弾能力は何処迄有るのかだが
https://www.pinterest.jp/pin/343610646563738579/
上の様な形で薄い竹の盾板を固定すれば
果たして耐弾性は得られるのかどうかだが https://pbs.twimg.com/media/C2MXC9KUkAAPWk5.jpg
安宅船の先端に立ってる棒がバウスプリットで下に見えるのは筵帆あるいはジャンク帆ってことなんかな
だとしたら帆を張った状態の安宅船ってこんな感じ?
https://i.imgur.com/6fZYZwf.jpg
コグとキャラックの中間みたいな 寺社に奉納する模型かこれ
本物そっくりに作るしきたりだから
資料的な価値はかなり高そう シンクでポコチンは毎日洗ってる
電気代は蓄えからだなぁ 「水軍と海賊の戦国史」(小川雄)読了。
朝鮮の役で来島村上が当主兄弟討ち死にという
他の大名に見られない大被害を受けたのは
秀吉による国内統一の過程で
他の海賊衆がどんどん大大名の一家臣として吸収され
自立性を失っていったものの、その大大名の下では
どんどん大型船建造や火力増強などの恩恵も受けれた
ところが来島氏は毛利VS秀吉の頃に
いち早く秀吉に寝返った功績から
秀吉に厚遇されて、転封や家臣化されずに
1万石の小大名として自立性を認められた。
その自立性がゆえに、大兵力&大型船同士の
合戦に移行していた朝鮮の役において
小大名がゆえ小兵力&小船舶で戦わざるを得ず
もう個々の技量云々の時代ではなくなっていたがゆえに殲滅した…っていう
考察が「なるほどね」って関心させられた
この時期に至って、もう海賊衆としての特殊技能が云々という時代ではなくなり
大兵力対大兵力、大型船舶VS大型船舶の戦いになっていて
そういう大大名の後ろ盾のない元・海賊衆は消えていったのだ…っていう 朝鮮の役で九鬼やら村上やらの水軍衆が
さしたる活躍をしていないのも
もうそういう操船能力に特化した連中の特殊技能として
専売特許となっていた時代は終わり
水戦に縁のなかった大名たちが
かつて海賊だった連中を吸収していった結果
必要なくなったから、って見解みたい
国内でドンパチやってる時は
時勢によってあっちこっちに所属する
水軍衆の自立性や特殊能力は重宝されたけど
それが統一政権下になっていく過程で
どんどん大大名に吸収、技術等も分散したので
海賊大名の特異性が失われていった
ゆえにもう数対数の勝負になっていったと 朝鮮役での苦戦は大型火砲の生産運用能力の差が原因とは思っていたがそういう事情もあったんだな 水軍領主っていっても動員の裏付けになる人的資源が貧弱で数百が精々だよね 水軍出身で10万石以上とかあんまいないだろうしな
数百の小回りの効く部隊を日本の狭い海域で動かすのには
特化していても外海で数対数の戦闘になると
そら兵数の少ない順に被害は拡大するよねっていう
当たり前の話だったのかもしれない >>765
別に殲滅されていない件
親族が指揮を引き継いで終戦まで活動していたし
大名家としても子供が継いで明治維新を迎えている
水軍(海賊)だけでの関税収入が無くなって自立不可になったってことなら
秀吉の海賊禁止令の時点で滅んでいると言うことになる >>771
朝鮮の役での「軍」としては殲滅状態だろ
誰が来島一族がこの戦いで滅亡したって書いてるんだよ
「活動」と「活躍」は違う
実質、軍として機能できない程の兵力なら戦力としてはカウントされないだろ
あと関税収入がなくなったから自立不可になったなんてどこにも書いてない
関税があろうがなかろうが、大大名に吸収された他の支族に比べて
独立の小大名として自立していたことが、逆風になったって話をしてるんだろ
読解力ゼロか >>772
え゛っ?小川本はまあまあ良書だと思うけど、それだけでは駄目だよね
だいたい来島軍って壊滅してないでそ?
通総が死んだ後も後継指揮官が指名されて海戦なり海運に従事していたし
蔚山城の戦いでも来島水軍や菅水軍は活躍した書状が残っているし
その後に現場から秀吉に具申された戦線縮小案に他の大名と並んで来島や菅は署名している、カウントされているよね
海賊禁止令のあおりは深刻で収入が所領だけになるわけで石高なりの規模の影響力になるのは当然、減封みたいなもの
逆風ってのはどこで出てきた話なんだ? 森本は学者じゃないとはいえ書籍で因島水軍が15万石相当とか吹きすぎ
江戸後期の換算表使ったり税収と収穫を混同したり色々換算の方法が間違ってる 朝鮮役で日本の水軍が壊滅していたら何万人も対馬海峡を海送できてないよなー 人的には越冬による病死で壊滅して、翌春に子供から老人まで総動員している なんで来島水軍が壊滅的打撃を受けたって話が
日本水軍全体が壊滅したみたいな解釈になってんだよアホか 来島「水軍」も、1人残らず壊滅したわけじゃないんだから
そら輸送でも籠城でも生き残りがいれば戦功として感状くらい出るだろ
あくまで「その他大勢」のくくりでな
署名もそう。
腐っても大名なんだから
戦力として数千数百の兵を率いて
当主兄弟の戦死後も蔚山城の戦い等で
華々しい活躍をしたって記述はどこにあんのよ
「戦場にいた」ってだけで
活躍した、カウントされてるってのは
(小)大名としての家格があったからってだけだろ
雑兵じゃないんだから 軍勢が健在なら壊滅状態とはいえないな。
それに来島水軍が壊滅したって話も聞いたことがない。
元々の来島の軍勢は数百なんだから「数千数百の軍勢レベルの活躍が見れないから壊滅している」なんて論理は破綻している。 >>780
慶長の役の後半で水軍の半数を帰国させたときも来島や菅は残留組に選出されているし健在だった だから、軍として機能したって根拠はなによ
万単位の軍勢の中で10人20人でも生き残って現場にいたのだから
戦力となっていた、ってのは苦しい言い訳にしか聞こえねえよ
>元々の来島の軍勢は数百なんだから
逆に元々数百の軍勢が当主兄弟が討ち死にするような激戦を抜けて
まともな戦力として運用できたわけがねえだろ
「活躍していた」から「健在していた」に表現を落としたのはなんでなんですか? ピンポイントに当主兄弟だけがスナイプでもされて
軍勢としてはほぼ無傷だったとでも言いたいのだろうか
万単位の軍勢を率いる部隊なら、そら指揮官が討ち死にしても
継続運用できるかもしれないが
数百の小軍が指揮官兄弟を失ってまともな戦力として
以後も活動していたって何故思えるんだろうか
元々さしたる戦力でもないのに >>783
でも明梁海戦なんて実際それに近いでしょ
主力の安宅船を温存して小関船のみで進出した分に被害が出たんだから
その海戦後半で安宅が出動してからは全羅道西岸を制圧して数万人の捕虜を海送している
来島だけ見ても弟が指揮を引き継いで活動を続けていて根拠地の普請や蔚山城への救援に出動して感状まで貰っている
数百で出動して数百で帰って来たのだから壊滅などとは程遠いよね
関ヶ原でも来島の活動は続いていたし >>784
安宅船は温存というより運動性が悪いので置いていかれた
かといって安宅船の足に合わせると朝鮮水軍を補足できないというジレンマ
李舜臣としてはこの段階では現存艦隊主義なので、土地を捨てて艦船を
温存するのは当然の方針 腐っても小大名なのだから
現場で仮に1人しか兵が残らなかったって
生きて帰れば「家格」で感状くらいもらえるでしょ
具体的に来島勢がどれだけ当主死亡後に
合戦で活躍できたかの記述がどこかにあるのか?
数百で出撃して数百で戻ったの典拠は? >>786
嘘は良くないよ
軍功を挙げなければ秀吉からの感状は発行されない
例えば間に合わなかった場合や働きが悪かった場合
蔚山戦での来島には発行されている
また秀吉の課した軍役が負担できないなら当然交代させられる
軍勢が形成できなけはれば得井の軍が来島には編入されたように再編成する場合もある
来島には独立して軍役を遂行しているから意見具申で署名されたり秀吉からの指令の宛先になっている
だいたい戦力の損耗で軍の体を成していないのであれば交代要員の側に入れられたり代わりの軍が送り込まれるがそうではなかった 秀吉が直接全部見分して感状出してるわけじゃないんだから
取次次第だろ、そんなもん
>軍功を挙げなければ秀吉からの感状は発行されない
>例えば間に合わなかった場合や働きが悪かった場合
敵前逃亡とか拠点失落とか、そういった明らかな落ち度があるなら
そら感状は出ないが、大名の家格があって
籠城戦等を生き抜いたのなら、払った犠牲に対しの慰労も込めて
感状くらい出るだろって言ってんの
本当に来島が残兵で華々しい活躍をしたのなら加増されてたっておかしくないだろ
>また秀吉の課した軍役が負担できないなら当然交代させられる
>軍勢が形成できなけはれば得井の軍が来島には編入されたように再編成する場合もある
>来島には独立して軍役を遂行しているから意見具申で署名されたり秀吉からの指令の宛先になっている
得井勢は「大名」ではない。
軍勢が形成できなければ交代させられるというが交代させる軍勢や
退路が確保できていなければ小勢でも現地に留まるのは当たり前だよな
勝手に撤退はできないわけだから。
朝鮮の役がそんな簡単に軍勢を交代・交換できたり
日本と高速通信して現状報告できたと思ってんのかアホウ
で、来島勢が数百で出て数百で戻ったとか
合戦で有力な戦力として活躍したって根拠は?
おまえの根拠は「感状があるだろ」しかないわけ?
島津や立花など実際に多大な戦果を挙げた大名は
「感状」なんてあやふやなもんしか功績の軌跡がないわけじゃないし
加増されたりしてんだけど
何を根拠に来島が戦力として活躍したって認定してるわけ? 仮にも大名の軍勢が多大な犠牲を払って
当主兄弟も討ち死にしてんのに
紙切れ1枚しかもらえないって時点で活躍の規模なんか
お察しだろ
1武将の立場ならまだしも
まがりなりにも「大名」なんだからな来島は
事実上、たいした戦果は挙げなかったけど
秀吉のお気に入りで生きて帰ってこれたから
家名存続と残念賞のお手紙1枚がもらえただけって話を
「感状があるから壊滅後も戦力として有力な働きをした!」って無理にも程がある 数字は仮だけど
来島が500の軍勢率いて
当主討ち死にの海戦で400の兵を失って
残りの100で諸合戦に従軍して
たいした活躍もないが落ち度もなく
生きて戻ったとしたら
感状くらいそら出るでしょ
大名なんだから
400の犠牲を払った残念賞としてな >>784
来島の石高(1万石)を考えれば
安宅船を複数所有できたとは思えず
ほとんどは小早だろう
初戦で突出したそれらの小早勢に来島は参加し
当主が死んでいるのだから
主力は壊滅したと思って間違いないでしょ
主力(安宅)を温存して当主が小舟で敵に突撃するって
来島はアホなのか?
逆に考えれば、ほぼ小早しか戦力がなかったから
安宅と速度差で離れ、前線に突出して敗退したんだろ
>その海戦後半で安宅が出動してからは全羅道西岸を制圧して数万人の捕虜を海送している
来島が単独でそれを引き受けたかのような語弊を招く表現はどうだかな
>数百で出動して数百で帰って来たのだから
で、これのソースは? >>765
逆に来島が壊滅したっていう根拠はなんか載ってるの? それ以上のソースねえだろって感じのソースだよな
指揮官が突出して死んだ合戦で、その軍が以後も活躍し続けたなんて
例の方が稀有だろ
それくらい当主の死というのは重いし
だからこそ普通は後方でどっかと構えてるわけで
本陣が壊滅的被害を受けなければ当主兄弟の討ち死になんて
状況にまずならない 露梁海戦で李舜臣が戦死して朝鮮水軍は壊滅?
すでにほぼ壊滅状態で明水軍の指揮下だったみたいだが まあ李舜臣は王朝から指揮権を預かっていたから
他のやつが引きつけば壊滅ではないと言えそうだが
これは来島水軍にも当てはまりそうな気がする では殲滅・壊滅の定義を行って総数と被害の割合がわかれば落とし所が見つかるんかね
日本軍の被害は李舜臣の乱中日記によれば「31隻を撞破(撞破=突き破る)」
日本戦史 朝鮮役によれば「来島通総以下数十人が戦死、藤堂高虎が負傷し、数隻が沈没するなどの損害を受けた」
みたいだが 被害の実数ってのは敵方は大きく
味方側が少なく書くものだから把握は難しいだろうね
ただ、三国時代の話でもなければ大将が突出して先陣に切り込むなんてことは
この時代そうそうなかった話なわけで
当主が死ぬってことは本陣近くまで切り込まれたとか
軍が孤立したとか、そういう状況にならなきゃ発生しない状況だろうから
損害のでかさもお察しって感じではあるけどな 同時代や関ヶ原・大坂の陣などを見ても
指揮官が討ち死にした後も軍として機能し続けた部隊なんて
ほぼないだろうしな 別部隊に回収されたり、合流したりで体裁を保ったってケースはあるだろうけど 来島は兄の得居も戦死と言われているんだっけ?
どいう状況で討死したんだろうな
大名であり将でもあるし見通しの聞かない小舟主体だったから戦況把握のために前線に出すぎたんだろうか
慶長の役での李舜臣の前任・元均と配下の将も討死しているし
海の上で逃げ場がないから戦死者出やすいのかな つまり、トップが二度戦死した朝鮮水軍は二度全滅
トップ3の一角が戦死した明水軍は三割壊滅ぐらい?
ま、主将のネルソンは戦死したけどイギリス艦隊は保全されたしねえ
船戦と陸戦を同一視するのもなんだかな >>803
つべこべ言ってねえで
おまえがたった1つ、来島が当主兄弟戦死後も
戦果を挙げ続けたって記述を1つ出せばいいだけの話だろ
感状なんてよほどの失態をやらかさない限り
「参加賞」みたいなもんでももらえるわけで
敵の記述とか、加増とか、そういった具体的な裏付けも無しに
来島軍は当主死亡後も軍として活躍し続けたとか何を根拠に言えるんだ >>804
既に色々書かれているのでは?
軍役を果たせば感状が貰える
果たせないと叱責を受ける
更には召還されて改易される場合もある
軍目付同士が監視しているので感状の乱発なんて無理
それに来島は先発帰国組から外れて残留組合せの水軍戦力だからな
関ヶ原でも活動していたし 戦力にならないと大友みたいに潰されたり中川みたいに減封されるから島津みたいに震え上がって戦うしかない で、その感状にはどこの合戦でどれだけの戦功をあげたって書いてあるのかな
結局おまえのは「感状がある」だけの1点張りだけ
敵の資料にも
味方の資料にも来島の具体的活躍はない
朝鮮の役で改易されたのなんて無断逃亡とか、軍令違反とかばかりで
ただ単に兵力をを失ったから改易、なんてケースは聞いたことがない
そして関ケ原の話はここでは関係ない
朝鮮の役で、どれだけ結果を出したのか?って話をしてんだろ。話を逸らすな
大友は敵の虚報を信じて仲間を見捨てて無断撤退したから
中川は合戦ではなく鷹狩り中に暗殺されたのを戦死とごまかそうとしたから
明らかな「失点」があるから改易(or改易されそうになった)になっただけ
勝敗は時の運なわけで、明らかな命令違反や戦以外での失点ならともかく
拠点を失ったり、兵力を消耗したからといって改易された大名などいない
だから参加賞で来島は感状をもらっただけ。
大名格であり、初戦で当主が戦死した事以外、大きな失点がないのだから
その後、戦功を上げるか上げないかなんて問題ではない
生きて帰っただけで感状くらい出るだろ。まがりなりにも大名なんだから 「数百の兵を率いて、当主死亡後も戦で活躍した」
と、おまえは主張したのだから、感情をもらったとか曖昧な話ではなく
それを具体的に裏付ける証拠を出せよ ま、来島通総の戦死後も来島水軍は来島吉清に引き続き率いられ
藤堂高虎や加藤嘉明や脇坂安治や菅達長らと同程度には活躍したってことだな 今話題になっているのは来島水軍が壊滅したかではなく
活躍したかに変わったのか 並の活躍というか豊臣政権の期待には答えていたってことね
来島も朝鮮にいる間は築城ゆら援軍やら輸送やらに従事し続けていた
日本は大抵代わりが効くからな
大名が死んでも代行が立つし
軍が壊滅すると代わりの武官が動員される 壊滅=戦力として当てになるほどの残存兵力がなかったという話(>>782)を
「その後も諸合戦で数百の軍勢を率いて活躍した」って(>>773)(>>784)言い出し
その後、根拠がないと見るや「活躍した」から「健在した」(>>781)に言い換えたり
コロコロ言うこと変わってるのは当主戦死後も来島大活躍派のおまえな >>811の言うように単独部隊として当てにできなくなったので
より大所帯の部隊に編成しなおされ(吸収され)
築城や輸送の一部に関与したって「感状」くらい出るだろうし
それを根拠に「来島は当主死亡後も合戦で活躍しただろ!」って
話にはならないって事を言ってるだけなんだけど
頑なに「感状があるってことは合戦でも当主死亡後も戦功をあげたってことだろ!壊滅なんかしてない!」って
言い張ってるアホがいるってだけの話 壊滅=全滅ではないし
1兵残らず死んだ状態を指す言葉でもない
実質全体の3割が戦闘不能になった時点で壊滅と判断してもいいくらいだしな
もともと数百の来島勢が当主討ち死にするような乱戦に巻き込まれて
ほとんど兵損がなかったと考える方が難しいだろ >>813
出ないよ
他の村上水軍や毛利は以下の水軍指揮官にも感状は出ていない >>815
陸戦じゃないから指揮官がピンポイントでやられたとでも?
その根拠は?
基本、陸戦だろうが水上戦だろうが、配下は指揮官を守ろうとするし
指揮官が先陣切って敵陣に突っ込んだりはしないで後方で指揮を執るもの
たまたま指揮官の乗った船だけが孤立して、死んだとでも言いたいのかよ
妄想を膨らませるのは結構だけど、根拠を提示してくれよ
>>816
村上や毛利配下の水軍指揮官は「家臣」
来島は「大名」
その違いも何度も言ったはずだが? 大名格にはその上役である豊臣政権が感状を出すのが当たり前だし
各大名の家臣に感状を出すのは、その上役である大名が出すのが当然
村上や毛利水軍に感状を出すのは毛利の役目
来島は少なからず1万石の「大名」としての家格があり
秀吉政権の中で特別扱いを受けている(早期に秀吉に転属したので)
大名格で大きな失態をやらかしたわけでもないのに
感状すらもらえなかったって例があるなら出してみなよ >>818
当たり前じゃないよ
貰えた大名と貰えない大名がいるから
同じく軍役が果たせずに更迭されたり減封された大名もいるし、軍役を果たして使い続けられた大名がいる
明確に違うよね? だいたい壊滅していないから来島吉清が指揮を引き継いでいるわけで
ま、脇坂ぐらいは活躍しているだろうよ 脇坂なんて海戦で大敗して重臣や水軍幹部を失っても戦力を維持して戦い続けてたよ 鳴梁海戦は軍勢が崩されて敗走したわけで、なく逆に前進した戦いだった
それに小型船に乗った状態で遠戦志向の朝鮮水軍の大型船に近づいた訳だから通総は恐らく狙撃による戦死だろうな >>819
だから、例を出せよ例を
おまえが出した改易されたような大名は
明確な失態があったから懲罰を受けてるんだろ
何も失点がないのに、感状すらもらえなかった大名がいるなら名前出してよ
>>820
だからそら誰かが引き継ぐのは当たり前だろ?1人残らず死んだわけじゃねーんだから
その後の具体的な活躍(戦功)があるなら提示しろって言ってんだろ?
>>822
脇坂の話はしてない
>>823
普通に考えて大大名は大型船で速度が遅く
小早中心の少大名・与力連中は速度の早い船で先陣を務めるというのが当然で
突出した機動力重視の小勢が被害を出し
後に大型船が加勢して押し返した、(もしくは朝鮮軍が数の圧で退いた)と
見るのが妥当だろ
狙撃されたなら狙撃された、と軍目付の記録にでも残るでしょ普通に そもそもそんなピンポイントで狙撃等で死亡しているなら
敵兵なり、お供の兵なりから「死に様」が伝わってるはずだよね
敵からしても大将首(手柄)なわけだし
家中の家臣からしたら「どんな死に様だったのか」は伝えるべき話だし
それが「戦死」としか伝わってないんだから
乱戦の中で少なくとも通総の船(及びその周囲の護衛船)は沈められて
誰もその死に様は見届けていないって事じゃねえの >>824
脇坂の場合はまさに水軍で大ダメージ受けた例ですよ、閑山島海戦
それに来島とかなり一緒に戦っているし
九鬼も結構叩かれたけど続けて戦線を維持している
鳴梁海戦では藤堂高虎や毛利高政も負傷していて小型船で突入した部隊に参加している
政権からの感状って褒賞に繋がるものだからそんなに乱発できないもんだと思うぞ >>824
進出が間に合わなかった水軍武将は貢献にならなかったから貰えてない そもそも当時の海鮮で船が沈むことは希なんだけど
小早なら全滅しても損失は十数人以下
集団で押し引きする陸戦とはだいぶ様相が違う >>822
脇坂の時は秀吉の命で、各大名の大船が船頭・水夫込み与えられた >>829
武器弾薬は支給されたけど水夫までついていたかは不明のはず
それに武器弾薬の支給は脇坂だけでなく水軍大名全員宛 >>830
7月15日付渡海大名宛秀吉朱印状に保有する大船を、水夫・船奉行を付けて
脇坂・加藤嘉明・九鬼にわたすことを命じている 九鬼は文禄は出陣したけど慶長は行かなかったんだっけ? 慶長2年に九鬼嘉隆から守隆へ代替わりしたから、その影響かもしれない >>831
そうだね、諸大名後持つ船の中から大船を抽出して船頭と船奉行を付けて支給していた模様 文禄の役での越冬による病死・凍死で、日本水軍は人的な面で壊滅している >>828
なのに文禄では兄が
そして慶長では大名である自身が戦死したわけで
率いてる人数は600だから小早が20艘くらい沈めば損害率は三〜四割越えということになるのかな? >>826
来島も脇坂も九鬼も藤堂も毛利も豊臣政権下の「大名」だって事を忘れてる
大名支配下の与力・家臣・国人ならともかく
「大名」クラスで合戦に従軍し、感状すらもらえなかった奴っているのかよ
(失態を犯して改易されたような連中を除いて)
>>827
そら不参加ならもらえるわけねーだろ
>>837
十分「壊滅」の定義に当てはまるじゃんかな
総大将が戦死して全体の3割が負傷・死亡で戦闘不能となれば
通常は合戦の続行などできないわけで >>838
被害ったって多めに見て七百人中で三十人くらいじゃないの?
同時に藤堂高虎や毛利高政にも矢が命中したり海に落ちたりしているけど事後の軍事行動は制限されずに追撃しているわけだし
そもそも文禄の役で来島通之が戦死したときだって続けて軍役を勤めていたし 壊滅的被害が出るのは相手が戦場を支配して敗走した場合などのこと(残敵掃討になった場合)
閑山島海戦や巨済島海戦はこのタイプ
鳴梁海戦では日本の水軍に被害が出ているが海戦後の戦場を支配していたのは日本側で負傷者の救助や回収をしている
小規模部隊の派遣であり戦場を支配していたことから大被害にはなり得ない
状況は第二次木津川口の戦いに似ていて
戦場支配の点では木津川口で負けた毛利水軍より鳴梁で叩かれた来島水軍の方が軽減要素がある
少数の鉄甲船に撃たれて被害が出て突破はできなかったけど毛利水軍の活動は海戦後も衰えず石山城に補給を継続していた 朝鮮渡海用の船舶が六端帆船基準で壱岐−対馬で500隻、水主4000人、搭載量12000人分位なので
名護屋−壱岐、対馬−釜山で3倍くらい居たのかな?
西国の一人役分くらいは水主のような気がするよね
五島氏で14000石、700人の内訳は戦闘員200人、人夫300人夫、水主200人(28%)、船17隻
島津12000人の内、人夫2000人、水主2000人ぐらい >>839
藤堂や毛利の動員数と来島の動員数が同じ規模ならな
>>840
だから小早と関船の速度差だろ
通常の野戦と違うのは
戦功した小部隊の小早勢が孤立して大打撃を受け
後からきた関船が押し返して敵軍が退いただけ
大乱戦の中での討ち死にではなく
先行部隊が壊滅しただけ
そしてその先行部隊に大名とはいえ小禄の来島勢がいたわけで
(資金力の問題で編成は小早中心)
後方で備えていた大大名の藤堂や毛利と比較するのが間違ってる 当時の海戦は効果気力がひどく低くて戦場への滞在時間が限られているのと
明や朝鮮の水軍は倭寇対策で接近戦を避けるから決定打が出ない
他の海戦でも船を失ったとしても泳いで漂着してから生還するケースが多いのはこのせい
巨済島海戦で朝鮮水軍が大ダメージを受けたのは逃げた陸地側が日本陸軍の支配地だったため 海賊できないと人的資源は一水軍で3000人(三千石)も居ない感じだね 来島通之とか来島通清は誰だかはわかるけど
この2人は来島は名乗ったっけ 死んだ祖母は来島の人間やが色々と話聞いとけば良かったな >>845
通之は秀吉から公文書で「くるしまきゃうだい」呼ばわりされているな 村上武吉の次男である村上景親の正室は平岡房実の娘で側室の星州李氏の両班の娘だったというが
家督を継いだ村上元信は両班の息子の方なんだな オーダニやWビシなどのやきう報道でやたらと世界ガー世界ガーと煽るのがメディアの傾向ですが、バスケサッカーなど本当に『世界』で活躍する選手をまともに報じない理由が分かってきた。
それらをまともに報じてしまうと、やきうの世界的不人気、大会の薄っぺらさが露呈してしまうからなんだなと 村上水軍最強は能島?来島?
一番ぱっとしないのが因島 一般人の性犯罪は糾弾するのにジャニーズややきう選手の性犯罪には言及しない。
ロシアスポーツのドーピングは糾弾するのにドーピング検査をまともにやっているかどうかも分からないやきう界は言及しない。
なのにやきう選手の活躍は大々的に垂れ流す。
そういうダブルスタンダードが嫌いなんですよ 不倫で無期限謹慎になりCMが差し替えられる女優がいる一方、婦女暴行沙汰を起こしても練習参加が許され記録映画はそのまま上映される野球選手がいる。 「女性の人権が~」と叫ぶ連中が山川問題になるとダンマリなのは余りにも異常だ REVELATION
資金源/コング
フロント/天下り/右翼思想
フィクサー/集団ストーカー/ハッキング/盗聴/盗撮/家宅侵入
汚職/集団ストーカー/ハッキング/盗聴/盗撮/家宅侵入/揉み消し
揉み消し加担 海戦に強い安房里見を対朝鮮に使わなかったのはどうなんだろうね?