【海賊】 水軍スレ 【安宅船】
信長の鉄甲船があったとかなかったとか
そんなことについて語ろうぜ >>65
それは快速艇が有効に活用された好例ってだけでは。
集団海戦の主流とは言わないな。 主流ではないが、その戦法が一時代を築いた以上
大艦巨砲が必ずしも有利なわけではないという証明にはなるだろう >>67
それは一時代を築いたというより海賊の襲撃戦法に有効活用されていたことの証明では。
必ずしも有利な戦法であるのなら、それに倣う方向に流れるはずだが実際の主流は大艦巨砲に移行したという事実。
用途に応じて小型フリゲート艦なども活用してはいるが、戦術的に海上戦闘の主流として期待されていたとは考えられない。
>大艦巨砲が必ずしも有利なわけではないという証明にはなるだろう
そりゃ何にしても絶対ということはない。時と場合状況による例外は必ず存在する。
鈍足のガレアスが快速のガレオンを負かした事例もあるぐらいだから処々の条件にも因るだろう。 九鬼って大名になって海のない地に転封されちゃったけど
水軍の将たちはリストラされたのかな? >>69
そもそも水軍稼業だけで食ってた「水軍」なんて芸予海峡の村上三島水軍くらい。
だからそいつらの場合は「本業に戻った」だけ。 以前にNHKでやってた鉄甲船特集では、
鉄甲船が巨大だったのは戦闘力を高めるためではなく
鉄板を貼っても沈まないだけの浮力を得るためと説明されてた 浮力を得られるか科学的に検証してたね。
ま、それだけ。 >>74
海路の通せんぼをして通行料を取る。
海関を守ってるから「関」船 >>74
75に補足だが、
無視して逃げると、それこそどこまでも追いかけてくる。
件の村上水軍を無視して堺に向かった船を、村上水軍は堺まで追いかけて金を徴収している。 閑山島大捷はどれぐらい大勝利か? 【世界四大海戦?】
ttp://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1799748
ここを見たんですが、当時の日本にはどれぐらいの安宅船や関船があったのでしょうか?
木津川河口海戦の第一次と第二次でも軍船のは数は少なかったではないでしょうか? 信長の鉄甲船について、ひとつふたつ疑問点があります。
その@、装甲になるほどの大面積の鉄板を作ることが出来たのでしょうか?
当時は水車動力のハンマーも無く鉄を延ばすには手打ちしかなかっと思うのですが。
(秀吉の時代には鉄張りの大盾があったらしいけど)伸びの良い銅版のほうが現実的とおもう。
そのA当時の船を平底と信じている方が多いけれど、家光が竜骨を禁止したのなら
それ以前には竜骨を持った船が沢山あったと言うことになり、最先端技術をそなえる軍船に
竜骨が取り入れられていなかったというのは、なんだかおかしいような気がする。
皆さんはいかがお考えですか? >>80
@についてはしらん。
Aについては、信長の時代から家光の時代まで軽く半世紀は離れているのだが。 >>79
総数なんてわかるはずもないが、朝鮮出兵の前年に出された造船命令だと
「東常陸より西四国九州に至り、北秋田より中国に至る沿岸諸国は
各禄10万石ごとに大船2隻を製すべし。その工費は先の半額を与え、竣工後に完納すべし」
とあるな。目安として五万石あたり安宅船一隻?
この令の後、一年間で700隻の船が新造された。 >>80
1:銅板はふつうは装飾用に使う高価なものだし、
戦時下で使い捨ての軍船に貼り付けるほど信長もゴージャスじゃなかったんじゃないかなあ?
もし実在したとするなら、広い面積の鉄板を貼り付けたのではなく、
鎧兜に使う程度の小さい面積の鉄板を小刻みにたくさん貼り付けたものだったと思う。
2:平底の船は竜骨つきの船に一方的に劣るわけではなく、
浅い海でも座礁しにくいというメリットがある。
軍船のように日本近海でのみ使うのなら平底のほうが実用的。
今でもヤマハ発動機とかで平底の和船を売ってるよ。 >>84
輸送船は民間からチャーターされた船がほとんどだったと聞くが?
新造の大船を輸送には使わんでしょ。旗艦の日本丸も新造艦だし。
まあ、安宅船の割合は少ないよね。100隻中、1隻くらいか。
朝鮮出兵で使われた船
馬船 主に軍馬輸送用
戦船 1500石内外のクスノキ造りの装甲船
内櫂船 200石以上の快速船
早船 斥候用の小型船 いわゆる小早船
囲盾船 2000石積前後、二層以上の天守台を持つ、いわゆる大安宅船
井楼船 300石以上、400石以内 前面・両舷を装甲し、高い井楼から火砲で攻撃するための砲艦
幕盾船 80丁立て以下の関船。天守台は持たない。全部を装甲していない場合は幕をもって盾の代用としたので幕盾船と呼ばれた >83さん
装甲板については、なるほどと思いました。
おそらくそのとおりだろうと納得いたしました。
竜骨につきましては日明間の私貿易船と見られる沈没船が
引き上げられ、その船が竜骨を備えた
ジャンクタイプの船だったという記事を読んだ覚えがあります。
結構以前から日本人は竜骨と言うものを知っており
内航船は別に考えるとして、外航船には採用していたのではないかと
感じています。とはいえ、このあたりは証明の難しい問題ですね。
ところで朝鮮出兵の話題ですが、当時ものすごい金額の金が動いたんでしょうね。
大体1000石の船といえばどのくらいの価値があったんでしょう?
とにかくすごい値段の船が何十隻何百隻と建造されたんですねー!
中には粗製濫造の船を作って大金をせしめるといった、
悪徳業者もあったかも知れませんね。 >>86
ウン、ジャンクタイプの船は確かにけっこう前から知られていたし、
日本国内でも小数ながら作られてもいた。朱印船がそうだね。
でも、そうした竜骨を持つような本格的な帆船は、戦国時代には戦力にはならないと考えられていたんだな。
慶長14年、西国大名が持つ500石以上の船がすべて没収された際も、
外航用の船はその対象から外されている。
なぜか?
日本には大砲がほとんど無かったから。
大砲が無ければ喫水の深い帆船はただの小回りのきかない船でしかない。座礁の危険もあるし。
大筒はあるが、火縄銃に毛が生えたような小口径のものばかりで、とても船を沈めてしまうほどの威力は期待できない。
当時の船戦といえば接舷切込みが大半で、火力のみで決するような戦いはまだまだ珍しかった。
技術が進歩して、ヨーロッパなみの大砲が国内でもどんどん作られるようになったら、
そのうち帆装軍艦が安宅船に取って代わるような事も起こったのかもしれないが、
その前に徳川体制のもと平和になってしまったので、帆船の時代はとうとう訪れなかった・・・というわけ。 >87さん
軽快な運動性を必要とした軍船には
喫水の浅い船のほうが適しているとのこと。
なるほどと納得いたしました。
昔漕いだことのある伝馬船の軽快さを
思い出しました。ありがとうございます。 >>89
信長が渡江移動に使ってるじゃん。ぐぐれよ >>89
100挺櫓、で調べてみるといいことがあるかも 安宅船と亀甲船ってどっちが性能的に優れていたんだろうね。 「性能が優れる」の定義を述べやがれこのゲーム脳小僧が 図面通りに再現して転覆しない方が性能いいんじゃないかなw この間、佐賀の名護屋城で朝鮮出兵の屏風絵を見たけど
朝鮮の船が全部亀甲船ってわけじゃないんだね。
日本の大安宅船と同じで、ごく少数しかない。他のは日本の船と似たり寄ったり。
仮に性能が良かったとしても、戦の趨勢にはそうたいした影響はなかったんじゃないかな? 政治的に立場が弱かった一指揮官イスンシン考案の船が多数を占めることはないよな
ジャンクや安宅などの和船とをあわせたような船が限界なのかもね
当時の朝鮮に西洋船の技術を入れる余裕なんてないだろうし
ましてやガレオンを購入できるようにも思えない >87
「戦列艦」の頃でさえ滅多に砲撃で沈没は無いお(アブキールの炉利アンくらいじゃね?)。 信長と石山本願寺の海戦の大安宅船が、確かに鉄甲船だったかはわからない。
多聞院日記で、鉄船だという噂を聞いた、というのが根拠だからな・・・
が、秀吉の時代には書状・宣教師による船への鉄板による装甲の記述が残っており、可能性はあると思う。
後装カートリッジ式の仏郎機砲3門と、銃身長が2m近い大鉄砲を多数装備していた。
朝鮮の役では、日本側の大鉄砲が朝鮮軍の船体を貫通して、中の人員を殺傷し悩ませている。
朝鮮の役のときは鉄板を全国から徴収しているが、筑紫の大船を装甲するためだ、とある。
江戸初期には、イギリス人が鉄板を張り巡らした幕府の軍船を見たという記録もある。 ttp://www.rekishi.info/forum/forum100/20050911173204.html
というか、鉄甲船関連はここに詳しいです。「筑紫の大船」でページ内検索してみてください。 2007/04/18(水) 22:00
NHK その時歴史が動いた
海の関ケ原▽村上水軍信長家康と戦う▽CG戦国大海戦
関ケ原合戦に伴う三津浜の戦いで西軍に属した村上水軍が東軍に敗れた1600年9月16日に焦点を当てる。
天下分け目の戦いとなった関ケ原合戦は陸上だけで勝敗が決したわけではなく、東海沖や瀬戸内海などの海上戦闘もあった。
戦国時代の海戦は船団を組んで戦う水軍が主役。中でも、村上武吉率いる水軍は戦国最強と呼ばれ、瀬戸内海で勢力を誇っていた。
海上で略奪行為をする海賊から脱皮することで一族の結束を図った武吉は、厳しい規律を課して一族を統率。
交易船から護衛や水先案内の対価として通行料を取ることで収入を安定させ、かつての海賊を水軍へと変容させた。
戦国の世を、海を舞台に戦い続けた村上武吉の誇りと夢を探る。 今日のその時は村上水軍の話ですね
第285回
海の関ヶ原
〜村上武吉・水軍に賭けた夢〜
平成19年4月18日 (水) 22:00〜22:43 総合
http://www.nhk.or.jp/sonotoki/main.html 「その時歴史が動いた」って微妙な番組だよな。
番宣観ると観たくなるが、観たら観たで文句言いたくなるしw 主人公に選んだ人物を無理矢理理想主義者・平和主義者に改変するからチャンネル変えるよ 見たけど、「その時」の関ヶ原は完全におまけ、あってもなくても変わりない
メインは木津川口の戦い 「秀吉と武吉」読んだ。なかなか面白かった。
どこまでホントかわからんが、三島村上水軍って木津川口から関ヶ原までの間は
来島以外まったく活動できなかったんだな。
てっきり小田原や朝鮮も武吉の子の元吉らが毛利水軍をまとめたんだとばかり。
ゲームのやりすぎみたいだ。頭冷やしてくる。 >>114
それはほぼ正しい記述だと思います
来島村上通総は1582年織田家に誼を通じ、結果来島を攻められ秀吉の元に逃れ、そこで秀吉の側近となった経緯があります
で本能寺の変に伴う秀吉・毛利の和睦によって来島に復帰した後も秀吉から重用され、
四国平定後は伊予に1万石を超える所領を得ています(関ヶ原で西軍につき所領を失うも後に豊後で大名となる)
一方来島の重用とは対照的に因島・能島は非常に冷遇され、
最終的には海賊禁止令によって既得権益を奪われたことで水軍衆としての勢力基盤を失っています
その後、因島は毛利(小早川隆景)の家臣団に組み込まれることで所領は維持しますが、
能島村上武吉親子に至っては瀬戸内海から追い出されていますから、
独立した水軍衆としての行動力は完全になくなったとみてよいでしょう(最終的にはどちらも子孫は毛利氏に仕える)
これが天正末期のころのことですから、小田原・朝鮮攻めの時に能島村上氏の名前が出てこないのも当然といえます
結局のところ、秀吉にかわいがられたかどうかで豊臣政権時の命運が別れたとも言えます 村上元吉は加藤嘉明の領地に攻め込んで戦死しちゃうしな
毛利の支援も受けてたし東軍につく選択肢はなかったんだろな >>114
もともと毛利水軍と三島村上家は別ものだぞ。
能島家は大友と手を組んで毛利と戦ったりした事もあるぐらいだから。
織豊の中央政権の勢力に圧迫されて来島は豊臣に付き、
能島・因島は毛利配下の一武将としてしか
生き延びられなかったというだけ。 戦国時代海戦ってどれくらいあったの?
木津川しか知らないが、北条vs里見とかでもやっていそう。
誰か詳しい人教えてくれ 武田vs北条の海戦もあったな、そう言えば
北条vs里見の江戸湾での戦いは半世紀に及ぶからなあ・・・
最終的に江戸湾でのアドバンテージを喪失した里見は陸海から追い詰められて北条に屈服せざるを得なくなった >>119
それだけ聞くと、
里見は小競り合いを続けて尻貧になり海戦らしい海戦をせずアボーン
って印象を受けるが、実際海戦はあったの? >>120
よくは知らないけれど、
山本水軍(北条の水軍衆)が上方の技術を導入して造った船を導入して、
それまで優勢だった里見の水軍を圧倒したらしい。
これが大体里見との講和直前の話。 第二次木津川河口海戦って詳細は分かってないんでしょ?
もしかして小規模海戦なのかな?誰か死んだの? 当時の鉄船の鉄板はどの程度腐食に耐えられるのであろうか? 別に腐食してもいいんじゃね?
張り替えればいいだけだし。 第一次木津川河口海戦と露梁海戦とトラファルガー海戦と日本海海戦の比較
第二次木津川河口海戦で戦死者っていたっけ?
●露梁海戦とTrafalgar海戦と幹部損失と結果
ttp://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=phistory&nid=83282 >>124
少し後の時代の徳川の阿宅丸が銅板装甲なのは、鉄板装甲の腐食が問題化したから
ではないかと思うんだけど。 >>129
安宅丸の銅板って水上?水中?
信長の鉄甲船の鉄板は水上構造部の炎上防止
西洋帆船の銅板は水中木材の虫除け
どっちを真似したの? 何の為の鉄板装甲?
投資に見合う必要性なんかあるのか? 焙烙や火矢で舟を焼かれないための対策
基本的に、本願寺への水路を封鎖するための船だから航海能力とかは度外視したんじゃ? 村上水軍は火矢や焙烙玉での戦闘を得意としており、
木造船では炎上してしまうので、防火の為に鉄板を付けた。 速度が10q前後でしょ?海上封鎖には不向きなような希ガス >>135
鉄甲船は川口を封鎖する為のものだから、
極論すると動けなくてもいいんだよ。 実際それに近いんじゃない?
大鉄砲三門も積んだのは自身が動きにくいからだったのかも知れんし >>140
なんでそうなる。リア厨か?
たかが一局地戦の為に他に使い道の無い鉄甲船3隻も造るくらい国力を持っているって事だぞ 鉄張軍船は伊勢で建造されて堺へ回航中に雑賀水軍に迎撃されて、それを打ち破った
という戦果はあるはずだが。 >>143
それはボーナス的についてきた戦果。
信長の考え方はアレクサンダー大王と同じく
“陸地を全て取ってしまえば海軍なんていらね”
だから鉄甲船は本願寺兵糧攻めだけの為のもの。
事実、木津川以降鉄甲船が使われた記録は無い。
無い?
無いでいいんだよね? >>144
信長のなにをもって「陸地を全て取ってしまえば海軍なんていらね」という
発想の持ち主だったと考えているのかが知りたい。
例えば長島を攻撃するときには水軍を念入りに準備したり(大湊に動員を
かけたりもしている。上手くいかなかったようだけど)。
越前を攻撃するときは若狭の水軍衆を動員して海陸から攻撃している。
近江を押えるために堅田の水軍衆を調略で味方につけて優遇したり。
対本願寺だって、包囲のために水軍を動員して大阪湾を封鎖した。現状の織田
水軍よりも強力な毛利水軍が敵として参戦してきたので、対抗するためにさらに
自軍を強化した(その一例が鉄張軍船)。
鉄甲船がその後使われたことがないから、イコール信長は水軍を軽視(ないしは
無視)していたとご主張で? >>145
たぶん、君があげてる例はすべて>>144の論拠を強化する例にしかなってないと思う。
>>144は水軍を軽視していたとは一言も言ってないし。 水軍保有の目的が陸上拠点の制圧にとどまっているという主張だもの、彼の主張。
まぁ、その域を脱した戦国大名って居らんのやけど。
制海権そのものからメシを食ってた村上氏くらいだ、例外は。 陸地を全て取ってしまえば海軍なんていらね
は軽視ととるのが普通のことだと思うが
というかこの時点での信長にとって水軍はまだそこまで必要じゃないだろ この時代の水軍自体が稀な状況でしか使えない代物だからそんなに入れ込む必要はないんだな。
陸と比べたら大身の水軍大名などいないじゃん。 >>149
それは全てあなたの思い込み。
この時代の海賊衆って村上を除けば水陸両用だから分かりにくいだけ。
この大名の何割が海賊衆っていう統計も無いしな。 沿岸地域を制圧するのに水軍がないと制圧しにくいってのもあるんだな。
その典型例が石山本願寺
逆の立場から見ると水軍で制海権を取ってれば沿岸地域を維持しやすい。 まあ徳川幕府は日本を統一したら水軍も交易も捨ててしまったが >>152
水軍は捨ててないのだが・・・
まあ、元々あってないような物かも知れないが>向井水軍 >“天地丸”は寛永7年(1630)、3代将軍家光の時代に建造され、廃船に至る幕末までの実に230年以上の間、将軍の御座船の地位にありました。
ttp://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2000/00200/contents/065.htm
230年以上ってスゲー
これだけ長寿船って世界的にも珍しいんじゃね?
上部構造物がフレーム状になってるけど、戦時にはここに任意の盾板を装着すると思う。 >>154
>寿命230年
ヒント 「御船蔵」
それだけ長寿命の帆船は珍しいが
木造建造物と考えればまあ十分あり得るかなと 〉〉158
江戸時代の来島家しか念頭にないのか?
戦国時代は、ほぼ全てが海賊衆の三島村上、松浦以外に、
かなりの率が海賊衆と思われる宗氏、里見氏、安東氏、毛利家、三好氏や、
どれだけが海賊衆かサッパリ見当がつかない島津家等がいるのだがな。 多分、陸兵が都合によって水軍に転じるような大雑把な体制だったんだろうな
舟があればとりあえず海で戦えます、みたいな
実際、朝鮮半島からの撤退戦の時に李舜臣らの明・朝鮮水軍をボコボコにしたのは島津やら立花やらの、どちらかといえば陸戦で名を売ってた西国大名連中 そもそもこの時代の日本に海戦しかしない武士なんていないんだが
いたのは陸戦しかしない武士と海戦も出来る武士
>>160
ぎゃくに名の売れた来島水軍はぼこぼこにやられて頭首があぼーんしてるしな
まあ九州の猛者の島津と所詮海賊の差かな 違う。命令系統に馬鹿正直に従ったかどうかの差。
朝鮮出兵時の水軍の指揮権は陸戦経験しかない脇坂等の秀吉子飼いの大名が持っていた。
九鬼は命令を聞いていたら負けちまうと命令不服従で本国召還、
馬鹿正直に命令に従った来島は当主討ち死に。
島津等が戦ったのは撤退戦で指揮系統がボロボロになった後。
逆にDQNな縛りが無くなって李舜臣を討ち取る戦果を挙げている。
普通に数の差だろう
朝鮮側戦史では戦果が相当水増しされているが
来島水軍は船数でかなり劣っていた
逆に日本水軍本隊が北上すると、朝鮮水軍は一戦も交えず逃走して水軍本拠地を捨てている
水上戦でも数の理屈は健在 >>163-164の間をとって
来島通之は数で劣るが脇坂が退却を容認しなかったため死ぬハメになったということにするか