【海賊】 水軍スレ 【安宅船】
某研究者うぜえ
俺の覗くスレによくいるけど空気読んでくれ 語尾が「のかだが」だらけでゲシュタルト崩壊起こしそうになった >>629
コテなんだからNGにすればいいだけだろう
不毛な論争繰り返しているアホ共とは違い勉強になるからこれからも遠慮なく続けてほしい https://www.pinterest.jp/pin/343610646561609417/
上の水軍城に有る兜の吹返は
波を模している可能性も有るのかだが
果たして水軍が使用した物なのかだが >>631
勉強になるか・・・?
専門書読んでればすぐ分かるような疑問を、延々書き込んでるだけだろ。
某研にモノ教えても礼のひとつも言わないし、調子に乗って居つくからみんなスルーしてるだけだよ。 体系的にまとめるまでは行かないな。特に日本海側はさっぱり >>636
毛利水軍対尼子水軍!とか?
水軍の運用といっても。だいたいは水上機動陸戦なんだよなー >>638
> 水軍の運用といっても。だいたいは水上機動陸戦なんだよなー
あとは伝令用の早舟や、兵站輸送ね。 https://twitter.com/boukenkyuu/status/907874040601124870
上の蒙古襲来絵詞に有る様な小早より小さい小型船から
高精度の狭間筒を放って
大型艦艇をアウトレンジ等は出来るのかだが
的が小さいと言っても大型艦側に高精度の狭間筒が有れば
やられる危険は有ると言う事なのかだが
前面に狭間筒を止められる様な竹束を施せば
機動性は可成り低下する危険も有るのかだが
漕ぎ手と狭間筒を操作する人間のみを乗せれば
軽量化は可成り出来る可能性も有るのかだが
海が荒れている状態ではこうした小型艦の運用は
困難である訳だろうか >>640
https://twitter.com/boukenkyuu/status/907888939490353152
上の朝鮮軍図屏風に恐らく竹束を前部に装備した船が書かれているが
此れは狭間筒迄の防弾は考慮している共思えぬが
上の物はどうなのかだが
https://thepage.jp/osaka/detail/20140621-00000007-wordleaf
>1丁目は徳川方が使用したとされる大鉄砲。長さ1.7メートル、口径2.5センチ、重さ30キロ。大坂冬の陣で大坂城を取り囲んだ徳川方が、堀越しに天守閣へ向けて発射した。
>館長を務める澤田さんが話す。「徳川家康公が滋賀の鉄砲鍛冶の名工に命じて製造させたもので、命中度を高める照準装置を併用した可能性もある。
此れは500mで通常装甲の関船を狙撃すると言う様な事は出来るのかだが
椋の装甲の有る様な安宅船の装甲はそうした距離で貫通出来るのかだが
http://www.osakacastle.net/week/%E7%89%B9%E5%88%A5%E5%B1%95%E9%96%8B%E5%82%AC%E4%B8%AD%EF%BC%81
>慶長大火縄銃 全長3m 135kg
この種の物は大量生産されておらぬだろうし
船に搭載されている大鉄砲は
長い銃は通常は無い可能性は有るのかだが http://blog.livedoor.jp/sengokuranse/archives/36769938.html
>毛利高政所用 大鉄砲 閻魔王
>慶長の役で南原城を攻撃した際に使用したと伝わる。
>毛利高政は津田監物を流祖とする津田流の砲術を学び後に伊勢守流を創始している鉄砲の名手。
>去年オープンした大分の佐伯市歴史資料館に毛利高政が所持してた慶長大鉄砲の
>「閻魔王」、「四海波」、「秋風」の3丁が展示されてて、四海波は逆に徳川方として
>大阪城への攻撃に使われたって書かれてたな
「四海波(しかいなみ)」(全長282cm)
「無聖(むしょう)」(全長281cm)
「閻魔王(えんまおう)」(全長278cm)
「秋風(あきかぜ)」(全長201cm)
毛利高政は文禄・慶長の役では船奉行であるから
こうした銃が海上でも使用されていた可能も有るのかどうかだが
大量生産は無いと言う事なのかだが 自身が動揺する小舟からの大砲射撃など命中を期待できない。
的が巨大であるか余程の近接が必要。
だいたい、大砲や鉄砲に照準器がついてない。
近世でも銃身も火薬も品質が一定でないから当たり前。 >>643
>だいたい、大砲や鉄砲に照準器がついてない。
http://www.rekishi.info/forum/forum100/20050911173204.html
>現存する大型の火縄銃(大鉄炮や置き筒)と呼ばれるものには長大な射程(300〜1,000m)を有するものが存在し、遠距離用の照準装置(ややこしいですがこれも「やぐら」と言います。)も発達していました。
当時の記録には本国に鉄炮とこの「やぐら」を送れといった命令を発したものが見られます。こうした大型銃は船体破壊こそできないものの、朝鮮の火砲より命中精度と射程、可搬性に優れ、
安定性の高い停泊中の大型船や地上で使用すれば、高い命中精度を持つ文字通りの「アウトレンジ攻撃」が可能になります。
遠距離用の照準器は文禄・慶長の役では使われていたと言う事なのかだが
20匁程度の狭間筒なら
500mでも関船の何処かに当てる程度なら何とか成らないのかだが
20匁程度の狭間筒なら発射速度もそう遅いのかだが
小型船でも内海等で海が荒れていない状況なら
瞬発式火縄銃でも有るから狙撃は出来ないのかどうかだが
http://blog.goo.ne.jp/tibisan2006/e/fa88e7e116064ae3af0cfac203bae6e1
>今回は2m80pの”大鉄砲も...。全国にも4丁しかないとか。
此れは古い物では無いと言う事なのかだが
船上でも何とか使用出来そうにも見えるが
装填速度はどうなのかだが http://itworks.lolipop.jp/MyBlog/seventies/index.php?mp=&post=505
火縄銃の遠距離照準器のやぐらと言うのは上に有る物なのかだが
20匁狭間筒の500mの関船への射撃では
こうした物迄果たして必要なのかだが
http://itworks.lolipop.jp/MyBlog/seventies/index.php?mp=&post=510
10匁・全長2mの狭間筒でさえやぐらの装備を考慮していると言う事なのかだが
遠距離では威力は可成り低下する可能性は有る訳だろうか http://www.sanken-intl.co.jp/arcive_sanada/contents/column/hinawa/teppo_tai.html
>また、町打(ちょううち)という100mをこえる遠距離射撃も行われたそうで、3町(327m)の距離から3尺(90cm)の的を打って競ったというのには驚かされる。
此れはどの程度の命中率だったのかだが
こうした訓練をして居た事実は有ると言う事なのかだが
>また細川家の家臣松野亀右衛門という名手は、島原の乱で原城を攻撃する際、5町(545m)先の敵を打って外さなかったそうである。
此れはベイカーライフルと似た様な距離での狙撃だが
通常の火縄銃に拠る物なのかだが
https://pbs.twimg.com/media/DJmjim8VAAEqO3C.jpg
上の学研・日本武器集成には
通常サイズの竹束は28mでも6匁筒がほぼ貫通しないと有るが
https://pbs.twimg.com/media/DJlzZdiVAAAtAGx.jpg
上の朝鮮軍図屏風の上の竹束が前面に有る船は竹束は上部でも2つ重なっているから
10匁或いは其れ以上の筒の防弾を意識している可能性も有るのかだが 竹束を前面に装備した小型船が
大型艦等から大狭間筒の反撃を受ける可能性も有るだろうが
http://massneko.hatenablog.com/entry/2015/07/04/150000
大狭間筒も上の50匁筒以上の物は無いのかだが
6匁筒が30mで通常の竹束を貫けないと言う事は
50匁大狭間筒は500mでは小型船の前面の竹束を貫けない可能性も有るのかだが
300mでも貫けないかも知れぬが
余り接近すると100匁以上等の短い筒の直撃を
的が小さいとしても受けて竹束が貫通する危険は有る訳だろうか 来島対能島とか能島対来島で対決しているが、海戦になっているのかねえ?
島に籠って攻撃してくる軍船に反撃しているだけに見える。
だいたいさー、海戦で戦死した武将って殆ど居なくね?
島に上陸して切腹とか、負けてもそんな感じだよね。 水軍同士の海戦ってどんな感じで戦ってたんだろ?源平合戦のあの頃をイメージすればいいかね? そもそもそんな広い海域がないし
迎え撃つ方も海上より海岸線に築いた砦の方が有利だから
本格的な海戦なんて国内じゃほとんどないんじゃないの >>633
某研のネット検索情報垂れ流しを見て勉強になるとか言ってるんだから
よっぽど基本的な知識がないんだろうな… http://paomaru.dousetsu.com/file/09_hinawa_004.html
中央日本周辺: 長さ→130cm前後 重量→2〜5kg 口径→2〜4匁
瀬戸内海付近: 長さ→140cm前後 重量→2〜6kg 口径→2〜3匁
九州地方付近: 長さ→100cm前後 重量→4〜6kg 口径→5〜6匁
東北地方付近: 長さ→110cm前後 重量→4〜10kg 口径→5〜10匁
>船での戦いでは、相手は基本的に遠くにいます。遠くの敵を狙うのに必要な銃の条件は、長い銃身と小さな口径です。銃身が長ければ、火薬のエネルギーを効率よく使えます。口径が小さければ、弾丸が軽いので弾は遠くまで届きます。
此れは船の装甲を貫く事は考慮していないと言う事なのかだが
装甲は無く火矢を防ぐ為の幕を張っただけの
小型船も多かった訳だろうか 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:77bfa3ad753b2994479210bef5c6504a) >>654
武田水軍と後北条水軍が戦ったことなかったか?
結果は引き分けぽかったが。 ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%B3%8A%E5%81%9C%E6%AD%A2%E4%BB%A4
秀吉の海賊停止令後
海賊は水軍兵や陸軍兵と成った者も多いのかだが
海賊行為が忘れられず倭寇等に入る者は果たして居たのかだが https://kotobank.jp/word/%E6%B5%B7%E8%B3%8A%E7%A6%81%E6%AD%A2%E4%BB%A4-1286560
>海賊衆は,諸大名の被官となり,水軍に組織されていった。
>一般漁民は武装解除されたうえ百姓身分となり,各地の沿岸で小規模漁業を営む専業者に確定づけられた。
雑魚海賊兵は武装解除され漁民と成ったと言う事なのかだが
水軍の兵や漕手等として
以後も軍事に関わった可能性も有るのかだが 漁民も農民も一緒。秀吉の頃には軍勢の4から6割が軍を維持するための軍夫であり非戦闘員。
兵農分離しても農を戦場に連れていかなければ戦えない。 日本の海賊が西欧の海賊の様に頭巾を被る漫画等も有るが
戦国期の盗賊なら浮世絵で熊坂長範や他の盗賊も被る
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/40/Yoshitoshi_-_Hazy-night_Moon_-_Tsuki_hyakushi_no._45.jpg
https://www.pinterest.jp/pin/343610646562046172/
上の熊坂頭巾の様な物を被る例も有るのかだが
海賊は果たしてどうなのかだが
通行料を取る事が主体の者は
自らを賊とは認識していない可能性も有るなら
そうした物は被らない可能性も有るのかだが
熊坂頭巾は能に有ると言うから此れは古い物なのかだが 海賊も敵を一旦見逃した後
損害拡大を避ける為に夜襲を掛ける可能性と言うのは
有るのかだが
通行料を取る事で済むと見せ掛けて
小型艦艇や忍者等で秘密裏に追跡し
夜間等に奇襲攻撃と言う例は有るのかどうかだが >>662
通行料を取る為と称して
敵を間近で偵察し戦力を分析した後
一旦見逃し
夜間に奇襲攻撃と言う様な例は有るのかどうかだが
とは言え偉い人間の配下の船舶には
迂闊にそう言う事はするのかだが 海賊の世界にも仁義というのがあり、
いったん通行料を取ったらそれ以上は危害を加えることはないのではないでしょうか? >>664
偉い者の傘下の船は
報復を考えると襲撃したくは無いだろうが
其れ以外の船はどうなのかだが
偉い者の傘下の船と偽装する船も居るかも知れぬし
此れが本物か否かを見極める為にも
昼間通行料を取ると称して間近で偵察し
偉い者の傘下の船では無いと見れば
夜間奇襲攻撃を掛ける可能性も有るのかだが
確実に違うとは言えないが
資金不足等を理由にどうしても襲撃したい場合は
別勢力に偽装した者にやらせると言う様な方向も有るのかだが 村上海賊の娘の様に
大将が一人で敵船に斬り込むと言う様な事は現実に有ったのかだが
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E5%98%89%E6%98%8E#.E4.BA.BA.E7.89.A9.E3.83.BB.E9.80.B8.E8.A9.B1
>甥の加藤権七と共に密かに手船20艘ばかりで向かうも、朝鮮方の番船に気づかれ、多数の船に包囲され、弓を放たれ、死傷者多数の事態となり、
嘉明自身、矢を二、三射立てられる。熊手で引き寄せようとするも失敗したため、郎等に対し、「我を敵船に投げ入れろ」と言い、やっと番船に家臣の塙団右衛門共々乗り込み、3艘を乗っ取ることに成功したと記される。
加藤嘉明も一人で斬り込んだと言う訳でも無いのかだが
最初は一人で斬り込んだが後で部下も投げ込まれたのかだが
日本の船相手にこうした事をしても
雑兵物語に有る様な
至近距離の射撃を受けてやられる危険は有るかも知れぬし
朝鮮や西欧では至近距離の射撃は無い可能性も有るから
一人での斬り込みも有効なのかだが
西欧のピストルは白兵戦直前にも
至近距離で放たれていた可能性も高いのかだが https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E7%94%B0%E5%9F%8E_(%E7%B4%80%E4%BC%8A%E5%9B%BD)#.E7.AC.AC.E4.BA.8C.E6.AC.A1.E5.A4.AA.E7.94.B0.E5.9F.8E.E3.81.AE.E6.88.A6.E3.81.84
>第二次太田城の戦い
水で囲まれた太田城に羽柴秀吉軍は中川藤兵衛に13隻の安宅船で攻めさせた。船の先端には大きな板を建てて、鉄砲や弓矢から攻撃から守るため改造したが、
太田城の城兵の中で水泳の名手を選び、船底に次々と穴をあけ沈没させ、また押し寄せる攻城兵には鉄砲で防戦した。
第二次大田城攻めに使用された安宅船は
正面に重装甲を施し大鉄砲を防ごうとした可能性も有るのかだが
船の底に穴を開けられてやられたと言うが
此れは忍者が行ったと言う訳でも無いのかだが
安宅船は水密区画が有ると言う意見も有るし
小数穴が空いても容易に沈没等するのかだが 第二次大田城攻めに使われた安宅船の前部に装備された
装甲と言うのは只の板なのかだが
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E6%9D%9F
>対大筒用の大型のもので長さ八尺(約240cm)・幅四尺(約120cm)程のものが使用された
上の様な太い竹束が装備された可能性は有るのかだが
安宅船には砲が装備される可能性も有るだろうが
砲は正面にのみ装備され竹束には此れを撃つ為の銃丸が
有る可能性も有るのかだが
https://i.imgur.com/EvopOcY.jpg
竹束は朝鮮軍図屏風の上の船の様に
横に並べて積まれている可能性も有るのかだが https://potaru.com/p/100000014878
>安宅船の構造は下から「水密区画」、「船倉」、「甲板」となっていました。水密区画は一部に穴が空いても全体に浸水しない構造になっています。
と有るから
船底に小数穴を空けても沈められるのかだが
傾斜させて固定式の大型砲の射撃を困難とさせる程度なら
或いは可能なのかだだが http://www.eniguma49.sak ura.ne.jp/gunnzi,heiki/kanagawa,izu/gunnsenn/gunnsenn1.html
>船底部は漆喰と切石で固められその内側は防水隔壁により一部亀裂が入っても浸水しない構造と成っています、
此れはどの程度細分されているのかだが
設計図は無いのかも知れぬが
ジャンク船の物とほぼ同様と見て良いのかだが
http://ncode.syosetu.com/n9653cs/112/
>三番目としては、水密区画が細かく存在している点である。このため一旦船殻の一部に穴が開いても、すぐにその区画だけを閉鎖すれば航行が可能であったとされる。
民間船でも水密区画は存在しているが、かなり大きな割り方になっているため、
暗礁などで一か所が大きく損壊しても航行不能まではいかないものの、かなり危険な状況に陥る可能性は高い。
現存している和船の最古の設計図と言われる七尾丸は関船に相当するが、全長50メートル程、全幅25メートル程で300程の水密区画を持っていたとされる。
更に、櫂は片側50丁、2丁の舵を有し、四方を板で囲う押し廻し造りと呼ばれる構造になっている。前後に櫓があり、まさに「浮かべる城」であった。
関船でさえ水密区画は300も有るのかだが
此れは民間用ジャンク船の物より多い可能性も有るのかだが
此れでは傾斜させて固定式の大型砲の砲撃を困難とするのも
容易なのかどうかだが
大型爆弾を船底に仕掛けて船体を大きく損傷させ
沈没はさせられず共傾斜させて
大型砲の砲撃を困難としていた可能性も有るのかだが 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:0be20a4887bc3d3353f527d3636c44e3) >>667
> 小数穴が空いても容易に沈没等するのかだが
そこはあやしいですね >>670
> 大型爆弾を船底に仕掛けて船体を大きく損傷させ
当時、そのような爆弾(水中で使える仕様)が日本に存在したかどうか? >>672
>当時、そのような爆弾(水中で使える仕様)が日本に存在したかどうか?
http://gun45.d.dooo.jp/jiguanqiang.htm
>16世紀には早くも、各種類型の機雷がもうすでに明朝海軍の重要な武器となった。1549年に製造された「水底雷」は世界初の機雷と呼ぶことができる。
この機雷は木製の箱を外殻とし、パテで継ぎ目をふさぎ、下面の縄が鉄製のアンカーにつながり、深度をコントロールし、手作業で撃発させ、
西方が製造および使用した機雷に比べ200年あまり早かった。
初の定時爆発機雷は1590年に製造された「水底竜王砲」である。この機雷は牛の膀胱を外殻とし、内部に黒色火薬を装備し、線香を信管に用い、線香の燃焼時間に頼って機雷の起爆時間を定めた。
初の触発機雷は1637年明朝最後の年に製造された「混江竜」機雷で、この機雷は艦船との直接の接触によって起爆が行われた。
史料の記載によれば、長年にわたった抗日援朝(頑住吉注:豊臣秀吉時代の「文禄・慶長の役」)の時期、明朝海軍はかつて「水底雷」を使用して日本の1隻の大型戦闘艦を一挙に撃沈し、
これは人類の歴史上初の機雷の使用が取得した実際の戦果で、日露戦争(1903〜1905)での機雷戦に比べ3世紀近く早かった。
中国にはこの種の物も16世紀には有るが
船底に人が仕掛けるタイプとはやや違うのかだが
改造は容易な可能性も有るのかだが
中国の機雷と同種の物を交易力の有る雑賀衆等が
手に入れて人が仕掛けるタイプも開発した可能性も有るかも知れぬし
分厚い安宅船の板に人力で穴を簡単に
開けられる共思えないし
爆薬が使用されたと見る方が自然かも知れぬが
大田城攻めでは無いかも知れぬが
忍者等に迎撃される危険も有るのかどうかだが >>673
>史料の記載によれば、長年にわたった抗日援朝(頑住吉注:豊臣秀吉時代の「文禄・慶長の役」)の時期、明朝海軍はかつて「水底雷」を使用して日本の1隻の大型戦闘艦を一挙に撃沈し、
この日本の艦艇がやられた機雷と言うのは
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ohgai/3816/heikijiten/heikikaisetu/suirai.htm
>我が国(中国)は早くも明代に水雷をもっています。明の嘉靖二十八年(西暦1549年)、唐順之の編纂した『武編』には一種の「水底雷」が記載されています。
木箱で外殻を作り、内部に火薬を充満させ、起爆装置が一本の長いロープでつながれ、三つの鉄の錨で「水底雷」を水中に固定します。
敵船が殺傷範囲に入ったら、岸辺を防衛する人員は縄を引っ張って、起爆装置を起動させ、水底雷を爆発させて、敵船を撃破します。この種の「水底雷」は我が国(中国)だけでなく世界的にも最初の手動で縄を引っ張って起爆させる水雷です。
上の人力で起爆させる水底雷である訳だろうか
時限式の物は1590年台の登場であるから
大田城攻めで使われたかも知れぬ
船底を攻撃する仕掛け爆弾は
この紐で引く起爆装置を使用している可能性も有るのかだが 第二次太田城の戦いに関しては、不明な点や誇張された記録も混在しているのではないかと思われますが。 >>675
何処が誇張された物かは不明だろうし
誇張だと思われた事が事実だったと言う事も
割に有る話では有る訳だろうか
pin.it/vmpSexR
この槍鳶口は恐らく戦闘用だろうし
船戦用なのかだが
鳶口も木材に打ち込む物だから
甲冑にもピックの様に打ち込んでいた可能性は有るのかだが 実際の記録として残っている瀬戸内の海賊のやってたことは
通行料を取る
村上の旗を持っていれば海賊に襲われないぞと村上の旗を売りつける
こいつを乗せていれば海賊に襲われないぞと村上の手下を船に乗せる料金を請求する
漁船で〜すと行って船底に兵士を満載した船を商船や外航船に近づいて襲う
物盗りのための人殺しは良くないと村上の頭領が宣言した後は事務的に通行料を徴収するシステムの導入
などなど
そりゃ秀吉に陸に上げられるわな >村上の旗を持っていれば海賊に襲われないぞと村上の旗を売りつける
こいつを乗せていれば海賊に襲われないぞと村上の手下を船に乗せる料金を請求する
漁船で〜すと行って船底に兵士を満載した船を商船や外航船に近づいて襲う
旗は実際は余り偽物と疑われ
役にたたなかった可能性も有るのかだが
偽装した漁船も偉い人間の傘下の船は襲撃し難いだろうし
襲撃前に通行料を取ると称して間近で偵察し
偉い人間の傘下の船で無い事を確認している可能性も有るのかだが >>678
朝鮮通信使の日記に 日本の瀬戸内の某港でボロをまとった助けを求めてくる人間がいた 誰かと思ったら我々の仲間で海賊に襲われて身ぐるみ剥がされた という記録がある
少なくとも国家間の外交船でも襲ってるのは事実 >>680
村上の様な大海賊は兎も角
小規模な海賊なら誰が略奪を行ったかは
容易には判明しないだろうし
こうした連中は偉い者の傘下の船の可能性が高い物も
襲撃すると言う事なのかだが
朝鮮通信使が来航する時点では大海賊は
取締令で恐らく消えていたと言う事だろうか 秀吉の海賊禁止令前でも
大規模な海賊は報復を考慮して
偉い者の傘下の船は襲わないかも知れぬが
他の小規模大規模な海賊に偽装して
襲撃をやる可能性も有るのかどうかだが
村上が松浦等の仕業に見せ掛ける或いは其の逆等をして
偉い者の船を襲撃した例等は有るのかどうかだが https://twitter.com/katchusi/status/918655082412965890
>海部刀という四国の徳島阿波地方で作られた刀で船具を切るためや敵陣の柵を壊すためとする説なとがある。
村上水軍等がこうした物を大量に使用していたと言う可能性は有るのかだが
http://trickmaster.orz.hm/katana/data/masayoshi2.html
銘の有る同種の刀も有るから
騎馬武者クラスの者がこうした物を用いていた可能性も有るのかだが
捕虜の虐待等に此の鋸部分が利用される例も有るのかだが >>683
船用のロープ等を切る専用の刃物に似てるね
直径3センチくらいのロープを切ったことあるけど2〜3往復するだけで簡単に切れる 村上海賊の娘で一騎打ちを望む本願寺の下間頼道を
伏兵の弓で射殺した場面も有るが
沼間義清が一騎打ちで倒し本願寺勢の士気が低下した所に
突然伏兵が銃や弓を撃ち込み更に士気を低下させ敗走させると言う様な方向も有ったかも知れぬが
現実にこうした事は有ったのかどうかだが http://www.xn--u9j370humdba539qcybpym.jp/part1/archives/date/2017/03/page/23
>一般の火縄銃は全長130p、銃身長100cm、口径12o程度であるが、この大火縄銃は全長166p、銃身長130p、口径19oで重量は8kgある。
口径でみると約4倍の重量の弾丸を使う。銃の先には城の壁、船舶の船縁などに固定する金具が揃っている。
船舶で使ったのではないか。装填は下の甲板に銃尾を下して行う。
口径が大きいのは敵の船の構造物を破壊すると同時に喫水線を撃ち、浸水させるためだろう。拾一匁あれば相当大きな穴が開く。
弾丸が重く初速は遅いので、中目当て二つを使い曲射照準したのではないか。
此れは果たして船舶で使われたのかだが いつから某研究者の落書き帳になったんだここは自重しろや >>688
過疎スレなんだから目くじら立てることもあるまい 過疎スレだったら好き勝手していいなんてことはねえよ
埒も無い独り言を延々書き込んでるんだから普通に荒らしだろ
少なくともこういう行為を認めちゃいけない 過疎スレだからこそ、1人がたくさん書き込むとレスが流れちゃうんじゃん https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B4%96%E5%B1%B1%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
>元側の記録によると、南宋艦隊は1,000隻の大型船をがっちりと繋ぎ合わせ、防火のため船体外装に泥を塗り、敵が近づけないよう長い木材を縛り付けて防御網とし、油を注いで火攻めを図る元軍を破ったという。
南宋艦隊が泥を塗って対抗と言うのは火矢対策なのかだが
棒火矢にはこうした物では対抗困難な可能性も有るのかだが 1540〜あたりの九鬼水軍の状況について知りたいです
・対「津島の町」「織田氏(各家、信秀)」「周辺国家」への心情
・当時の戦力、各種船数 織田と交流なんてあってのかね1540年代に
完全に北畠傘下だったんじゃないの http://fleishman.co.jp/2008/04/column_nobunaga5/
>さらに1571年の竹生島の浅井攻めでは琵琶湖に大砲の装備を付けた「囲い舟」なる船を登場させて、
従来の大砲の弱点である移動性の悪さを克服し、ついで1573年に琵琶湖で長さ30間、片側100挺櫓の大型船を建造させている
さらに1574年の長島一揆では数百隻の船に大砲を装備し撃ちまくったとの記録もある。
長島一揆で数百門の大砲が使われていたと言う訳では無く
数百隻の船の一部に砲が装備されていたと言う事なのかだが
http://cybertiger.blog.so-net.ne.jp/2017-06-14
>ついで明智光秀、打下(滋賀県高島市)の土豪林員清、堅田(大津市)の猪飼野正勝、山岡景猶、馬場孫次郎、居初又二郎に命じ囲い船(防御用の装備を施した船)造らせた。
そして琵琶湖の湖上から漕ぎ寄せると海津浦(高島市)、塩津浦(伊香郡西浅井町)、与語の湖岸(飯浦、木之本町)を焼き払わせた。
さらに竹生島に船を寄せると火矢、大砲、鉄砲で攻撃を加えた。
この囲い船と言うのは装甲は厚いのかどうかだが
竹束装備の盲船とは違うのかだが
地上からの大鉄砲の攻撃に対抗出来る様な物なのかだが https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12108726022
>勝頼の時代にも、天正2年(1574)に起きた高天神城の戦いで、二の丸を守った本間・ 丸尾兄弟を武田方は狙撃して討ち取っています。
兄、本間八郎三郎氏清が堂の尾曲輪の櫓に登って兵を指揮していたとき、朝日の光で鎧兜が輝いていたのを目印にされ、武田軍に狙撃されたと伝えられています。
そのあとを引き継いだ弟、丸尾修理亮義清も銃弾で戦死します。
この場合は銃での狙撃かも知れぬが
大鉄砲で指揮官の居る櫓を狙撃していた可能性も有るのかだが
船上等の大鉄砲も城攻めでは櫓毎指揮官を狙撃し
指揮能力や士気を低下させるが基本であるかも知れぬし
大鉄砲に備え防御力が石や厚い竹束等で強化されているかも知れぬ
塀を破壊し尽くす等と言う様な事は何処迄出来るのかだが
船の装甲を貫く様な大鉄砲や砲を放つ銃丸付近は
砲で攻撃されていた可能性も有るのかだが https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E6%9D%9F
>大きさは小型のもので長さ六尺(約180cm)・幅一尺(約30cm)、対大筒用の大型のもので長さ八尺(約240cm)・幅四尺(約120cm)程のものが使用された。
対大筒用の竹束等も有るが
一揆勢がこうした物迄用いていたのかだが
大鉄砲は兎も角砲は何処迄防げたのかだが http://www.eniguma49.sak ura.ne.jp/gunnzi,heiki/sonota/senngokuheuki/senngokuheiki1.html
>当時鉄砲の口径は6mm程が標準で現在の2口径の銃と略同じ威力です、鉄砲から身を守るのであれば10cm程の木の板で十分です、
16cmの木の板の上に10cm以上の鋼鉄装甲を施す理由は完全に砲弾の直撃を意識しているのでしょう、また鋼鉄板は斜めに取り付けられています、
此れにより着弾した砲弾が上へと弾き上がり衝撃を緩和する効果があります、ちなみに大戦中に連合国から脅威とされたティーガ−重戦車の装甲板の厚さは大盾車と同じ10cmで
ソビエトのT34戦車、アメリカのシャーマン戦車の75mm相当の対戦車砲弾を至近距離から弾き返しています、この大盾車も大筒の様な大口径の大砲の砲弾は無理としてもフランキ砲や大鉄砲などの比較的口径の小さい大砲の砲撃からは十分に身を守れたのでしょう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E7%94%B0%E5%9F%8E_(%E7%B4%80%E4%BC%8A%E5%9B%BD)#.E7.AC.AC.E4.BA.8C.E6.AC.A1.E5.A4.AA.E7.94.B0.E5.9F.8E.E3.81.AE.E6.88.A6.E3.81.84
前面だけ板を厚くした安宅船が第二次太田城の戦いで使用されていただろうが
上の様な分厚い鉄板が安宅船の前面装甲に使われて
城等からのフランキ・大鉄砲を防弾していた可能性は流石に無いのかだが
対大筒用の太い竹束を装備していた可能性は有るのかだが ちょっと奇特過ぎの牛刀でひよこを裂くような質問なのだが…
WW2の魚雷攻撃は安宅・関舟に爆砕可能でしょうか? そもそも戦闘艦で戦闘艦を叩くというケースが希。
そんなことをしなくとも、根拠地を叩けば敵戦闘艦を無力化できるのが当時の戦い。
なんだか、戦闘機で戦闘機を撃墜するのが制空権争いと思っている人と思考が同じきがする。
制空権争いで重要なのは、敵基地を叩くこと。 イルカやシャチに爆弾を積んで特攻させると言う様な事は
戦国期には果たして有るのかだが
焼き討ち船なら確か使われているだろうが
火薬の使用は誘爆等を考慮して無いのかだが https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%AB%E8%88%B9
>時代が下り火薬が使用されるようになると、火船にも火薬が搭載されるようになった。火薬を搭載する場合は体当たりする時間に火薬に引火するように導火線が用いられた。
しかしながら、敵艦船が火船攻撃から逃れる可能性があったため、乗員は可能な限り火船に留って敵艦船へ船体を近づけた。
八十年戦争(いわゆるオランダ独立戦争)では、オランダ軍が大量の火薬を積んだ強大な火船を使用し、戦果を上げた(en:Hellburnersも参照)。
火船戦術は、17世紀中盤の英蘭戦争で頂点に達した。第一次英蘭戦争では敵艦隊に対し単純に風上から放流するだけで、容易に迎撃や回避をされてしまい戦果が乏しかった。
しかし、第二次英蘭戦争では固定的な目標を狙って使用され、しかも妨害を排除するための護衛艦を伴うなど運用も洗練されたことから、いくつかの海戦で成功を収めることができた[1]。
火薬装備の火船も欧では使われたが
耐弾性は何処迄有るのかだが なんで某研究者(アホ)は
スレの流れを全く読まずに自分の思うことだけを長文コピペで長々流すんだ?
性質の悪い荒らしも同然だろ 九鬼の子孫は、先祖が海賊だということで
後に、持て囃されたらしい 持て囃されてたん ?
海賊が何をしているのか、わかっているのかいな 海賊稼業は、3日やったらやめられない
人の物を奪い取る快感は、やったものにしか
わからない
まったくもって、グズやね グズと言っているわりには、解説していることと真逆だろ 世の中、矛盾だらけのほうがおもしろい
矛盾がつまらないと言っているのは、人生を
知らない証拠や 戦国期の若狭武田氏や土佐中村一条氏は水軍を持っていたのか? >>709
木津川口では言うほど大敗してないし
九鬼より村上の方が水軍としての規模はでかい
単に海賊禁止令→関ヶ原で御家再興失敗没落というテンプレ通りになっただけ
九鬼は息子の方がまがりなりにも幕臣になったから生き残れたわけで
実質、水軍どころか船出頭の役も解かれてる
いわば幕府お抱え以外の水軍(海賊)は全て死んだと思えば間違いない >>709
大名になったり、毛利の水軍になって残っているけど? >>719
> 木津川口では言うほど大敗してないし
白村江の倭国船団やバルチック艦隊みたいに続々と撃沈したわけではなく、
退却に成功した船のほうが多かったみたいですな。 外国のしかも機帆船での質問で済まない…。
どこ行きゃいいのかわからん&同じ船関係だから誰か知る人いるかな?…の期待感で
聞きたいのですが。
下のイギリス最初の航洋装甲艦『ウォーリア』なのですが
これって石炭以外の貨物で運用したい場合総じて何トン喰らいつめれそうなのでしょうか?
ttp://www.d3.dion.ne.jp/~ironclad/wardroom/Warrior1/1860warrior1.htm
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%A2_(%E8%A3%85%E7%94%B2%E8%89%A6) 小田原城攻城戦では大鉄砲+大筒が1000門使われたと言うし
此れの一部は後で船にも搭載されていたと言う事なのかだが
文禄・慶長の役では大部分は当初陸戦に回っていたのかだが
後で船の装備率は増えたと言う事なのかだが ここ過疎スレだったのに最近よくあがるようになったな。なんかあったのか? >>730
http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/293400
海戦用の船手具足も軽装では無いし
海賊も騎馬武者クラスの人間は村上海賊の娘・景の様に
軽装では無いと言う事なのかだが
とは言え劇中の様に長時間徒歩で移動する場合は
軽装の可能性も高いのかだが
長時間歩く必要の無い船上では重装備なのかだが
http://cubeaki.dip.jp/taiheiki/taiheiki/taiheiki21-30/taiheiki-22-1.html
>彼の甥に所大夫房快舜と言うとんでもない無頼僧がいました。また中間に悪八郎と言うミツクチ(兎唇)の大力自慢がいました。
それ以外に犬獅子と名付けた、不思議な犬を一匹飼っていました。この二人の者と一匹は闇夜になれば、帽子兜(眉庇のない兜)と言う粗末な兜をかぶり、
鎖帷子を着て足軽に扮して出かけたりします。またある時には大鎧を着けて七物(武士の持つ七種の武器)を携えることもあります。
太平記に出て来るこうした高位の者も徒歩で隠密行動する際は
軽装と言う事なのかだが >>729
某研究者ってアホが各スレで暴れてるから https://www.pinterest.jp/pin/343610646561480695/
https://www.pinterest.jp/pin/343610646561480945/
海戦で鎖鎌を使う描写も江戸期には有るが
戦国期には有るのかだが
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%B5%E6%B5%81
>念流鎖鎌術から派生したとされる一心流(流祖・丹一心)の鎖鎌は、鎖の長さが1丈2尺(約3.6メートル)、分銅の重さが300匁(1.1キログラム以上)とかなり大きいものを操っている[3]。
これは妙に分胴が重いから甲冑を想定した物なのかだが
https://myarmoury.com/review_lut_17001.html
フレイルの分胴でさえ700g程度の物も有るが
細長い分胴の物は恐らく更に重いだろうか
3.6mの鎖で1kgの分胴を振り回せば
板金鎧でも危ういのかだが >>733
http://sendai.shindomusoryu.jp/kusarigama.html
一心流鎖鎌術は14世紀にも有るのかだが
古い流派なので重い分胴で太平記に出て来る
板金的な金胴も含む甲冑を
打ち砕く事を狙っている可能性も有るのかだが 霞ヶ浦の湖賊。
戦国時代には存在していたんだっけ? https://www.pinterest.jp/pin/343610646562452166/
上の土蜘蛛草紙の右の人物は渡辺綱かも知れぬが
歩兵の様な格好をしているから違う可能性も有るのかだが
http://www.emuseum.jp/detail/100257/000/000?mode=detail&d_lang=ja&s_lang=ja&class=1&title=&c_e=®ion=&era=¢ury=&cptype=&owner=&pos=81&num=7
此れを着て騎乗している場面も序盤に有るし
下位の騎兵用の胴丸と言う事なのかだが
偉い人間も戦争時では無いから
村上海賊の娘の様な軽装をしていると言う可能性も有るのかだが >>735
ほとんど資料ないけど多賀谷氏や江戸崎土岐氏に水軍がいたって話はあるね >>738
>>735
江戸崎土岐氏は水軍もっていたね。
ただし他の大名や小名と戦うためではなく
霞ヶ浦の商船を狙う海賊と戦うだけだから
それほどの規模ではなかったように思う。 戦国時代は万が一沈没や浸水した時に使う救命用の筏の類はあったんだろうか
水軍の人たちはどうやって対策してたんだろう >>741
ひょっとして小早程度なら安宅船に載せられるのかな
関船だと難しいだろうけど >>743
さすがに無理かぁ
伝馬船…勉強になります 載せるっていうか軍船とか大型船とかなら
戦艦と駆逐艦みたいに随伴して航行しなかったの?
商船とかは知らないけどさ >>740
大量の小早・関船が有れば
此れに出来るだけ分散して救助した者を乗せれば
部隊の移動に支障はほぼ出ないと言う事なのかだが
救助に時間が懸けられない状況なら
手近の船が最大限乗せた後
後で他の船に最大限分散移乗させれば
部隊の機動性はほぼ低下しないと言う事なのかだが
大量の船損失に備えて人や物資が余り乗らない
予備の船舶も有る可能性も有るのかだが
此れでも足りない場合は
物資を投棄して人を乗せていたと言う事なのかだが
pin.it/d2mfdvbhgtxvdd
こうした先端が長い鳶口も有るが
船戦用の物は此処迄のサイズは無いのかだが https://www.pinterest.jp/pin/343610646561492649/
上の朝鮮軍図屏風に有る日本船は
蔚山城から脱出する兵を救出する為に派遣された物だろうが
此れは浅瀬に出来る限り入る為に小早を使用しているのかだが
小早とは言え集中射撃に対応する為に対弓の装甲を全面に施しているのかだが
救出用の特殊仕様なのかだが
こうした船は食料や水はほぼ搭載せず
救出に特化していると言う事なのかだが >>747
まず経緯を考えろアホ
その船がなんなのかわかるだろ 海戦用船手具足も
面具は船から落下した際の呼吸の邪魔とは成るのかだが
http://ikkaiyoroi.com/14.htm
上の物は口は歯も無く
割に大きくは開けられている様に見えるが
http://bunka.nii.ac.jp/heritages/heritagebig/293400/0/1
上は鼻の無い面頬が有るだろうか 漫画村上海賊の娘8巻では
小早は垣盾を装備しているが
此れは近距離の銃は防げないから
現実には火矢を止める為の幕或いは薄い竹板を装備していたと言う事なのかだが
https://www.pinterest.jp/pin/343610646561492649/
近距離の銃が防げるのは正面の竹束のみと言う事なのかだが
pinterest.jp/pin/343610646561492649/
一番上の船は正面の後方には盾板は有るが
遠距離の鉄砲なら此れは防げるのかだが
安宅船同様の10cm等は有るのかだが
一番下の船にも前の方に盾板は有るがこの後方にも盾板は有るのかだが
或いは当時の垣盾と同様に
5cm程度しか無い可能性も有るだろうが
構造は垣盾では無く盾板的にも見えるが
https://www.pinterest.jp/pin/343610646561481063/
関船の場合は下部は薄い竹装甲だが
正面や上部の銃兵が戦闘する際に居る部分は盾板が装備されていると言う事なのかだが
この板は10cm等は有るのかだが
https://www.pinterest.jp/pin/343610646561481080/
伏せて漕ぐと言う様な事も
この構造では困難と言う事なのかだが
前部等の一部の漕手だけは盾板や竹束等で防護され
方向転換は出来る可能性も有るだろうし
敵に対し下部も耐弾性が有る正面或いは後方を向けた後漕手を大量に下部に移動させ
射程外に離脱と言う様な事が出来る可能性は有るのかだが
pinterest.jp/pin/343610646561481063/
盾板は下に倒せて移乗可能な構造だろうから
此れを斜めに倒して漕手が伏せれば耐弾性が得られる可能性は無いのかだが
人が乗れる強度は有るだろうが
果たして斜めにしても防弾能力は何処迄有るのかだが
https://www.pinterest.jp/pin/343610646563738579/
上の様な形で薄い竹の盾板を固定すれば
果たして耐弾性は得られるのかどうかだが https://pbs.twimg.com/media/C2MXC9KUkAAPWk5.jpg
安宅船の先端に立ってる棒がバウスプリットで下に見えるのは筵帆あるいはジャンク帆ってことなんかな
だとしたら帆を張った状態の安宅船ってこんな感じ?
https://i.imgur.com/6fZYZwf.jpg
コグとキャラックの中間みたいな 寺社に奉納する模型かこれ
本物そっくりに作るしきたりだから
資料的な価値はかなり高そう シンクでポコチンは毎日洗ってる
電気代は蓄えからだなぁ 「水軍と海賊の戦国史」(小川雄)読了。
朝鮮の役で来島村上が当主兄弟討ち死にという
他の大名に見られない大被害を受けたのは
秀吉による国内統一の過程で
他の海賊衆がどんどん大大名の一家臣として吸収され
自立性を失っていったものの、その大大名の下では
どんどん大型船建造や火力増強などの恩恵も受けれた
ところが来島氏は毛利VS秀吉の頃に
いち早く秀吉に寝返った功績から
秀吉に厚遇されて、転封や家臣化されずに
1万石の小大名として自立性を認められた。
その自立性がゆえに、大兵力&大型船同士の
合戦に移行していた朝鮮の役において
小大名がゆえ小兵力&小船舶で戦わざるを得ず
もう個々の技量云々の時代ではなくなっていたがゆえに殲滅した…っていう
考察が「なるほどね」って関心させられた
この時期に至って、もう海賊衆としての特殊技能が云々という時代ではなくなり
大兵力対大兵力、大型船舶VS大型船舶の戦いになっていて
そういう大大名の後ろ盾のない元・海賊衆は消えていったのだ…っていう 朝鮮の役で九鬼やら村上やらの水軍衆が
さしたる活躍をしていないのも
もうそういう操船能力に特化した連中の特殊技能として
専売特許となっていた時代は終わり
水戦に縁のなかった大名たちが
かつて海賊だった連中を吸収していった結果
必要なくなったから、って見解みたい
国内でドンパチやってる時は
時勢によってあっちこっちに所属する
水軍衆の自立性や特殊能力は重宝されたけど
それが統一政権下になっていく過程で
どんどん大大名に吸収、技術等も分散したので
海賊大名の特異性が失われていった
ゆえにもう数対数の勝負になっていったと 朝鮮役での苦戦は大型火砲の生産運用能力の差が原因とは思っていたがそういう事情もあったんだな 水軍領主っていっても動員の裏付けになる人的資源が貧弱で数百が精々だよね 水軍出身で10万石以上とかあんまいないだろうしな
数百の小回りの効く部隊を日本の狭い海域で動かすのには
特化していても外海で数対数の戦闘になると
そら兵数の少ない順に被害は拡大するよねっていう
当たり前の話だったのかもしれない >>765
別に殲滅されていない件
親族が指揮を引き継いで終戦まで活動していたし
大名家としても子供が継いで明治維新を迎えている
水軍(海賊)だけでの関税収入が無くなって自立不可になったってことなら
秀吉の海賊禁止令の時点で滅んでいると言うことになる >>771
朝鮮の役での「軍」としては殲滅状態だろ
誰が来島一族がこの戦いで滅亡したって書いてるんだよ
「活動」と「活躍」は違う
実質、軍として機能できない程の兵力なら戦力としてはカウントされないだろ
あと関税収入がなくなったから自立不可になったなんてどこにも書いてない
関税があろうがなかろうが、大大名に吸収された他の支族に比べて
独立の小大名として自立していたことが、逆風になったって話をしてるんだろ
読解力ゼロか >>772
え゛っ?小川本はまあまあ良書だと思うけど、それだけでは駄目だよね
だいたい来島軍って壊滅してないでそ?
通総が死んだ後も後継指揮官が指名されて海戦なり海運に従事していたし
蔚山城の戦いでも来島水軍や菅水軍は活躍した書状が残っているし
その後に現場から秀吉に具申された戦線縮小案に他の大名と並んで来島や菅は署名している、カウントされているよね
海賊禁止令のあおりは深刻で収入が所領だけになるわけで石高なりの規模の影響力になるのは当然、減封みたいなもの
逆風ってのはどこで出てきた話なんだ? 森本は学者じゃないとはいえ書籍で因島水軍が15万石相当とか吹きすぎ
江戸後期の換算表使ったり税収と収穫を混同したり色々換算の方法が間違ってる 朝鮮役で日本の水軍が壊滅していたら何万人も対馬海峡を海送できてないよなー 人的には越冬による病死で壊滅して、翌春に子供から老人まで総動員している なんで来島水軍が壊滅的打撃を受けたって話が
日本水軍全体が壊滅したみたいな解釈になってんだよアホか 来島「水軍」も、1人残らず壊滅したわけじゃないんだから
そら輸送でも籠城でも生き残りがいれば戦功として感状くらい出るだろ
あくまで「その他大勢」のくくりでな
署名もそう。
腐っても大名なんだから
戦力として数千数百の兵を率いて
当主兄弟の戦死後も蔚山城の戦い等で
華々しい活躍をしたって記述はどこにあんのよ
「戦場にいた」ってだけで
活躍した、カウントされてるってのは
(小)大名としての家格があったからってだけだろ
雑兵じゃないんだから 軍勢が健在なら壊滅状態とはいえないな。
それに来島水軍が壊滅したって話も聞いたことがない。
元々の来島の軍勢は数百なんだから「数千数百の軍勢レベルの活躍が見れないから壊滅している」なんて論理は破綻している。 >>780
慶長の役の後半で水軍の半数を帰国させたときも来島や菅は残留組に選出されているし健在だった だから、軍として機能したって根拠はなによ
万単位の軍勢の中で10人20人でも生き残って現場にいたのだから
戦力となっていた、ってのは苦しい言い訳にしか聞こえねえよ
>元々の来島の軍勢は数百なんだから
逆に元々数百の軍勢が当主兄弟が討ち死にするような激戦を抜けて
まともな戦力として運用できたわけがねえだろ
「活躍していた」から「健在していた」に表現を落としたのはなんでなんですか? ピンポイントに当主兄弟だけがスナイプでもされて
軍勢としてはほぼ無傷だったとでも言いたいのだろうか
万単位の軍勢を率いる部隊なら、そら指揮官が討ち死にしても
継続運用できるかもしれないが
数百の小軍が指揮官兄弟を失ってまともな戦力として
以後も活動していたって何故思えるんだろうか
元々さしたる戦力でもないのに >>783
でも明梁海戦なんて実際それに近いでしょ
主力の安宅船を温存して小関船のみで進出した分に被害が出たんだから
その海戦後半で安宅が出動してからは全羅道西岸を制圧して数万人の捕虜を海送している
来島だけ見ても弟が指揮を引き継いで活動を続けていて根拠地の普請や蔚山城への救援に出動して感状まで貰っている
数百で出動して数百で帰って来たのだから壊滅などとは程遠いよね
関ヶ原でも来島の活動は続いていたし >>784
安宅船は温存というより運動性が悪いので置いていかれた
かといって安宅船の足に合わせると朝鮮水軍を補足できないというジレンマ
李舜臣としてはこの段階では現存艦隊主義なので、土地を捨てて艦船を
温存するのは当然の方針 腐っても小大名なのだから
現場で仮に1人しか兵が残らなかったって
生きて帰れば「家格」で感状くらいもらえるでしょ
具体的に来島勢がどれだけ当主死亡後に
合戦で活躍できたかの記述がどこかにあるのか?
数百で出撃して数百で戻ったの典拠は? >>786
嘘は良くないよ
軍功を挙げなければ秀吉からの感状は発行されない
例えば間に合わなかった場合や働きが悪かった場合
蔚山戦での来島には発行されている
また秀吉の課した軍役が負担できないなら当然交代させられる
軍勢が形成できなけはれば得井の軍が来島には編入されたように再編成する場合もある
来島には独立して軍役を遂行しているから意見具申で署名されたり秀吉からの指令の宛先になっている
だいたい戦力の損耗で軍の体を成していないのであれば交代要員の側に入れられたり代わりの軍が送り込まれるがそうではなかった 秀吉が直接全部見分して感状出してるわけじゃないんだから
取次次第だろ、そんなもん
>軍功を挙げなければ秀吉からの感状は発行されない
>例えば間に合わなかった場合や働きが悪かった場合
敵前逃亡とか拠点失落とか、そういった明らかな落ち度があるなら
そら感状は出ないが、大名の家格があって
籠城戦等を生き抜いたのなら、払った犠牲に対しの慰労も込めて
感状くらい出るだろって言ってんの
本当に来島が残兵で華々しい活躍をしたのなら加増されてたっておかしくないだろ
>また秀吉の課した軍役が負担できないなら当然交代させられる
>軍勢が形成できなけはれば得井の軍が来島には編入されたように再編成する場合もある
>来島には独立して軍役を遂行しているから意見具申で署名されたり秀吉からの指令の宛先になっている
得井勢は「大名」ではない。
軍勢が形成できなければ交代させられるというが交代させる軍勢や
退路が確保できていなければ小勢でも現地に留まるのは当たり前だよな
勝手に撤退はできないわけだから。
朝鮮の役がそんな簡単に軍勢を交代・交換できたり
日本と高速通信して現状報告できたと思ってんのかアホウ
で、来島勢が数百で出て数百で戻ったとか
合戦で有力な戦力として活躍したって根拠は?
おまえの根拠は「感状があるだろ」しかないわけ?
島津や立花など実際に多大な戦果を挙げた大名は
「感状」なんてあやふやなもんしか功績の軌跡がないわけじゃないし
加増されたりしてんだけど
何を根拠に来島が戦力として活躍したって認定してるわけ? 仮にも大名の軍勢が多大な犠牲を払って
当主兄弟も討ち死にしてんのに
紙切れ1枚しかもらえないって時点で活躍の規模なんか
お察しだろ
1武将の立場ならまだしも
まがりなりにも「大名」なんだからな来島は
事実上、たいした戦果は挙げなかったけど
秀吉のお気に入りで生きて帰ってこれたから
家名存続と残念賞のお手紙1枚がもらえただけって話を
「感状があるから壊滅後も戦力として有力な働きをした!」って無理にも程がある 数字は仮だけど
来島が500の軍勢率いて
当主討ち死にの海戦で400の兵を失って
残りの100で諸合戦に従軍して
たいした活躍もないが落ち度もなく
生きて戻ったとしたら
感状くらいそら出るでしょ
大名なんだから
400の犠牲を払った残念賞としてな >>784
来島の石高(1万石)を考えれば
安宅船を複数所有できたとは思えず
ほとんどは小早だろう
初戦で突出したそれらの小早勢に来島は参加し
当主が死んでいるのだから
主力は壊滅したと思って間違いないでしょ
主力(安宅)を温存して当主が小舟で敵に突撃するって
来島はアホなのか?
逆に考えれば、ほぼ小早しか戦力がなかったから
安宅と速度差で離れ、前線に突出して敗退したんだろ
>その海戦後半で安宅が出動してからは全羅道西岸を制圧して数万人の捕虜を海送している
来島が単独でそれを引き受けたかのような語弊を招く表現はどうだかな
>数百で出動して数百で帰って来たのだから
で、これのソースは? >>765
逆に来島が壊滅したっていう根拠はなんか載ってるの? それ以上のソースねえだろって感じのソースだよな
指揮官が突出して死んだ合戦で、その軍が以後も活躍し続けたなんて
例の方が稀有だろ
それくらい当主の死というのは重いし
だからこそ普通は後方でどっかと構えてるわけで
本陣が壊滅的被害を受けなければ当主兄弟の討ち死になんて
状況にまずならない 露梁海戦で李舜臣が戦死して朝鮮水軍は壊滅?
すでにほぼ壊滅状態で明水軍の指揮下だったみたいだが まあ李舜臣は王朝から指揮権を預かっていたから
他のやつが引きつけば壊滅ではないと言えそうだが
これは来島水軍にも当てはまりそうな気がする では殲滅・壊滅の定義を行って総数と被害の割合がわかれば落とし所が見つかるんかね
日本軍の被害は李舜臣の乱中日記によれば「31隻を撞破(撞破=突き破る)」
日本戦史 朝鮮役によれば「来島通総以下数十人が戦死、藤堂高虎が負傷し、数隻が沈没するなどの損害を受けた」
みたいだが 被害の実数ってのは敵方は大きく
味方側が少なく書くものだから把握は難しいだろうね
ただ、三国時代の話でもなければ大将が突出して先陣に切り込むなんてことは
この時代そうそうなかった話なわけで
当主が死ぬってことは本陣近くまで切り込まれたとか
軍が孤立したとか、そういう状況にならなきゃ発生しない状況だろうから
損害のでかさもお察しって感じではあるけどな 同時代や関ヶ原・大坂の陣などを見ても
指揮官が討ち死にした後も軍として機能し続けた部隊なんて
ほぼないだろうしな 別部隊に回収されたり、合流したりで体裁を保ったってケースはあるだろうけど 来島は兄の得居も戦死と言われているんだっけ?
どいう状況で討死したんだろうな
大名であり将でもあるし見通しの聞かない小舟主体だったから戦況把握のために前線に出すぎたんだろうか
慶長の役での李舜臣の前任・元均と配下の将も討死しているし
海の上で逃げ場がないから戦死者出やすいのかな つまり、トップが二度戦死した朝鮮水軍は二度全滅
トップ3の一角が戦死した明水軍は三割壊滅ぐらい?
ま、主将のネルソンは戦死したけどイギリス艦隊は保全されたしねえ
船戦と陸戦を同一視するのもなんだかな >>803
つべこべ言ってねえで
おまえがたった1つ、来島が当主兄弟戦死後も
戦果を挙げ続けたって記述を1つ出せばいいだけの話だろ
感状なんてよほどの失態をやらかさない限り
「参加賞」みたいなもんでももらえるわけで
敵の記述とか、加増とか、そういった具体的な裏付けも無しに
来島軍は当主死亡後も軍として活躍し続けたとか何を根拠に言えるんだ >>804
既に色々書かれているのでは?
軍役を果たせば感状が貰える
果たせないと叱責を受ける
更には召還されて改易される場合もある
軍目付同士が監視しているので感状の乱発なんて無理
それに来島は先発帰国組から外れて残留組合せの水軍戦力だからな
関ヶ原でも活動していたし 戦力にならないと大友みたいに潰されたり中川みたいに減封されるから島津みたいに震え上がって戦うしかない で、その感状にはどこの合戦でどれだけの戦功をあげたって書いてあるのかな
結局おまえのは「感状がある」だけの1点張りだけ
敵の資料にも
味方の資料にも来島の具体的活躍はない
朝鮮の役で改易されたのなんて無断逃亡とか、軍令違反とかばかりで
ただ単に兵力をを失ったから改易、なんてケースは聞いたことがない
そして関ケ原の話はここでは関係ない
朝鮮の役で、どれだけ結果を出したのか?って話をしてんだろ。話を逸らすな
大友は敵の虚報を信じて仲間を見捨てて無断撤退したから
中川は合戦ではなく鷹狩り中に暗殺されたのを戦死とごまかそうとしたから
明らかな「失点」があるから改易(or改易されそうになった)になっただけ
勝敗は時の運なわけで、明らかな命令違反や戦以外での失点ならともかく
拠点を失ったり、兵力を消耗したからといって改易された大名などいない
だから参加賞で来島は感状をもらっただけ。
大名格であり、初戦で当主が戦死した事以外、大きな失点がないのだから
その後、戦功を上げるか上げないかなんて問題ではない
生きて帰っただけで感状くらい出るだろ。まがりなりにも大名なんだから 「数百の兵を率いて、当主死亡後も戦で活躍した」
と、おまえは主張したのだから、感情をもらったとか曖昧な話ではなく
それを具体的に裏付ける証拠を出せよ ま、来島通総の戦死後も来島水軍は来島吉清に引き続き率いられ
藤堂高虎や加藤嘉明や脇坂安治や菅達長らと同程度には活躍したってことだな 今話題になっているのは来島水軍が壊滅したかではなく
活躍したかに変わったのか 並の活躍というか豊臣政権の期待には答えていたってことね
来島も朝鮮にいる間は築城ゆら援軍やら輸送やらに従事し続けていた
日本は大抵代わりが効くからな
大名が死んでも代行が立つし
軍が壊滅すると代わりの武官が動員される 壊滅=戦力として当てになるほどの残存兵力がなかったという話(>>782)を
「その後も諸合戦で数百の軍勢を率いて活躍した」って(>>773)(>>784)言い出し
その後、根拠がないと見るや「活躍した」から「健在した」(>>781)に言い換えたり
コロコロ言うこと変わってるのは当主戦死後も来島大活躍派のおまえな >>811の言うように単独部隊として当てにできなくなったので
より大所帯の部隊に編成しなおされ(吸収され)
築城や輸送の一部に関与したって「感状」くらい出るだろうし
それを根拠に「来島は当主死亡後も合戦で活躍しただろ!」って
話にはならないって事を言ってるだけなんだけど
頑なに「感状があるってことは合戦でも当主死亡後も戦功をあげたってことだろ!壊滅なんかしてない!」って
言い張ってるアホがいるってだけの話 壊滅=全滅ではないし
1兵残らず死んだ状態を指す言葉でもない
実質全体の3割が戦闘不能になった時点で壊滅と判断してもいいくらいだしな
もともと数百の来島勢が当主討ち死にするような乱戦に巻き込まれて
ほとんど兵損がなかったと考える方が難しいだろ >>813
出ないよ
他の村上水軍や毛利は以下の水軍指揮官にも感状は出ていない >>815
陸戦じゃないから指揮官がピンポイントでやられたとでも?
その根拠は?
基本、陸戦だろうが水上戦だろうが、配下は指揮官を守ろうとするし
指揮官が先陣切って敵陣に突っ込んだりはしないで後方で指揮を執るもの
たまたま指揮官の乗った船だけが孤立して、死んだとでも言いたいのかよ
妄想を膨らませるのは結構だけど、根拠を提示してくれよ
>>816
村上や毛利配下の水軍指揮官は「家臣」
来島は「大名」
その違いも何度も言ったはずだが? 大名格にはその上役である豊臣政権が感状を出すのが当たり前だし
各大名の家臣に感状を出すのは、その上役である大名が出すのが当然
村上や毛利水軍に感状を出すのは毛利の役目
来島は少なからず1万石の「大名」としての家格があり
秀吉政権の中で特別扱いを受けている(早期に秀吉に転属したので)
大名格で大きな失態をやらかしたわけでもないのに
感状すらもらえなかったって例があるなら出してみなよ >>818
当たり前じゃないよ
貰えた大名と貰えない大名がいるから
同じく軍役が果たせずに更迭されたり減封された大名もいるし、軍役を果たして使い続けられた大名がいる
明確に違うよね? だいたい壊滅していないから来島吉清が指揮を引き継いでいるわけで
ま、脇坂ぐらいは活躍しているだろうよ 脇坂なんて海戦で大敗して重臣や水軍幹部を失っても戦力を維持して戦い続けてたよ 鳴梁海戦は軍勢が崩されて敗走したわけで、なく逆に前進した戦いだった
それに小型船に乗った状態で遠戦志向の朝鮮水軍の大型船に近づいた訳だから通総は恐らく狙撃による戦死だろうな >>819
だから、例を出せよ例を
おまえが出した改易されたような大名は
明確な失態があったから懲罰を受けてるんだろ
何も失点がないのに、感状すらもらえなかった大名がいるなら名前出してよ
>>820
だからそら誰かが引き継ぐのは当たり前だろ?1人残らず死んだわけじゃねーんだから
その後の具体的な活躍(戦功)があるなら提示しろって言ってんだろ?
>>822
脇坂の話はしてない
>>823
普通に考えて大大名は大型船で速度が遅く
小早中心の少大名・与力連中は速度の早い船で先陣を務めるというのが当然で
突出した機動力重視の小勢が被害を出し
後に大型船が加勢して押し返した、(もしくは朝鮮軍が数の圧で退いた)と
見るのが妥当だろ
狙撃されたなら狙撃された、と軍目付の記録にでも残るでしょ普通に そもそもそんなピンポイントで狙撃等で死亡しているなら
敵兵なり、お供の兵なりから「死に様」が伝わってるはずだよね
敵からしても大将首(手柄)なわけだし
家中の家臣からしたら「どんな死に様だったのか」は伝えるべき話だし
それが「戦死」としか伝わってないんだから
乱戦の中で少なくとも通総の船(及びその周囲の護衛船)は沈められて
誰もその死に様は見届けていないって事じゃねえの >>824
脇坂の場合はまさに水軍で大ダメージ受けた例ですよ、閑山島海戦
それに来島とかなり一緒に戦っているし
九鬼も結構叩かれたけど続けて戦線を維持している
鳴梁海戦では藤堂高虎や毛利高政も負傷していて小型船で突入した部隊に参加している
政権からの感状って褒賞に繋がるものだからそんなに乱発できないもんだと思うぞ >>824
進出が間に合わなかった水軍武将は貢献にならなかったから貰えてない そもそも当時の海鮮で船が沈むことは希なんだけど
小早なら全滅しても損失は十数人以下
集団で押し引きする陸戦とはだいぶ様相が違う >>822
脇坂の時は秀吉の命で、各大名の大船が船頭・水夫込み与えられた >>829
武器弾薬は支給されたけど水夫までついていたかは不明のはず
それに武器弾薬の支給は脇坂だけでなく水軍大名全員宛 >>830
7月15日付渡海大名宛秀吉朱印状に保有する大船を、水夫・船奉行を付けて
脇坂・加藤嘉明・九鬼にわたすことを命じている 九鬼は文禄は出陣したけど慶長は行かなかったんだっけ? 慶長2年に九鬼嘉隆から守隆へ代替わりしたから、その影響かもしれない >>831
そうだね、諸大名後持つ船の中から大船を抽出して船頭と船奉行を付けて支給していた模様 文禄の役での越冬による病死・凍死で、日本水軍は人的な面で壊滅している >>828
なのに文禄では兄が
そして慶長では大名である自身が戦死したわけで
率いてる人数は600だから小早が20艘くらい沈めば損害率は三〜四割越えということになるのかな? >>826
来島も脇坂も九鬼も藤堂も毛利も豊臣政権下の「大名」だって事を忘れてる
大名支配下の与力・家臣・国人ならともかく
「大名」クラスで合戦に従軍し、感状すらもらえなかった奴っているのかよ
(失態を犯して改易されたような連中を除いて)
>>827
そら不参加ならもらえるわけねーだろ
>>837
十分「壊滅」の定義に当てはまるじゃんかな
総大将が戦死して全体の3割が負傷・死亡で戦闘不能となれば
通常は合戦の続行などできないわけで >>838
被害ったって多めに見て七百人中で三十人くらいじゃないの?
同時に藤堂高虎や毛利高政にも矢が命中したり海に落ちたりしているけど事後の軍事行動は制限されずに追撃しているわけだし
そもそも文禄の役で来島通之が戦死したときだって続けて軍役を勤めていたし 壊滅的被害が出るのは相手が戦場を支配して敗走した場合などのこと(残敵掃討になった場合)
閑山島海戦や巨済島海戦はこのタイプ
鳴梁海戦では日本の水軍に被害が出ているが海戦後の戦場を支配していたのは日本側で負傷者の救助や回収をしている
小規模部隊の派遣であり戦場を支配していたことから大被害にはなり得ない
状況は第二次木津川口の戦いに似ていて
戦場支配の点では木津川口で負けた毛利水軍より鳴梁で叩かれた来島水軍の方が軽減要素がある
少数の鉄甲船に撃たれて被害が出て突破はできなかったけど毛利水軍の活動は海戦後も衰えず石山城に補給を継続していた 朝鮮渡海用の船舶が六端帆船基準で壱岐−対馬で500隻、水主4000人、搭載量12000人分位なので
名護屋−壱岐、対馬−釜山で3倍くらい居たのかな?
西国の一人役分くらいは水主のような気がするよね
五島氏で14000石、700人の内訳は戦闘員200人、人夫300人夫、水主200人(28%)、船17隻
島津12000人の内、人夫2000人、水主2000人ぐらい >>839
藤堂や毛利の動員数と来島の動員数が同じ規模ならな
>>840
だから小早と関船の速度差だろ
通常の野戦と違うのは
戦功した小部隊の小早勢が孤立して大打撃を受け
後からきた関船が押し返して敵軍が退いただけ
大乱戦の中での討ち死にではなく
先行部隊が壊滅しただけ
そしてその先行部隊に大名とはいえ小禄の来島勢がいたわけで
(資金力の問題で編成は小早中心)
後方で備えていた大大名の藤堂や毛利と比較するのが間違ってる 当時の海戦は効果気力がひどく低くて戦場への滞在時間が限られているのと
明や朝鮮の水軍は倭寇対策で接近戦を避けるから決定打が出ない
他の海戦でも船を失ったとしても泳いで漂着してから生還するケースが多いのはこのせい
巨済島海戦で朝鮮水軍が大ダメージを受けたのは逃げた陸地側が日本陸軍の支配地だったため 海賊できないと人的資源は一水軍で3000人(三千石)も居ない感じだね 来島通之とか来島通清は誰だかはわかるけど
この2人は来島は名乗ったっけ 死んだ祖母は来島の人間やが色々と話聞いとけば良かったな >>845
通之は秀吉から公文書で「くるしまきゃうだい」呼ばわりされているな 村上武吉の次男である村上景親の正室は平岡房実の娘で側室の星州李氏の両班の娘だったというが
家督を継いだ村上元信は両班の息子の方なんだな オーダニやWビシなどのやきう報道でやたらと世界ガー世界ガーと煽るのがメディアの傾向ですが、バスケサッカーなど本当に『世界』で活躍する選手をまともに報じない理由が分かってきた。
それらをまともに報じてしまうと、やきうの世界的不人気、大会の薄っぺらさが露呈してしまうからなんだなと 村上水軍最強は能島?来島?
一番ぱっとしないのが因島 一般人の性犯罪は糾弾するのにジャニーズややきう選手の性犯罪には言及しない。
ロシアスポーツのドーピングは糾弾するのにドーピング検査をまともにやっているかどうかも分からないやきう界は言及しない。
なのにやきう選手の活躍は大々的に垂れ流す。
そういうダブルスタンダードが嫌いなんですよ 不倫で無期限謹慎になりCMが差し替えられる女優がいる一方、婦女暴行沙汰を起こしても練習参加が許され記録映画はそのまま上映される野球選手がいる。 「女性の人権が~」と叫ぶ連中が山川問題になるとダンマリなのは余りにも異常だ REVELATION
資金源/コング
フロント/天下り/右翼思想
フィクサー/集団ストーカー/ハッキング/盗聴/盗撮/家宅侵入
汚職/集団ストーカー/ハッキング/盗聴/盗撮/家宅侵入/揉み消し
揉み消し加担 海戦に強い安房里見を対朝鮮に使わなかったのはどうなんだろうね?