【海賊】 水軍スレ 【安宅船】
信長の鉄甲船があったとかなかったとか
そんなことについて語ろうぜ 水軍としてではなく剣術師範としてだからじゃない?
水軍で立ち行かなくなったから剣術の道へ行ったわけだし愛洲さんは >>614
真崎宣広ってのが「佐竹水軍」を率いたってあったんだけど佐竹って水軍なかったの? >>616
河川のパトロール隊程度の水軍しかなかった。 もっとも水軍は戦闘だけではなく、兵站や伝令にも使えるので、
そういう意味での水軍は存在したのではないだろうか? 島等の地形の影から高速の小早等から大鉄砲を
遠距離から一発放って離脱と言う様な事は
果たして行われたのかどうかだが
縦射なら一発でも可成りダメージは受け得るだろうか https://i.imgur.com/MWiRMuN.jpg
前部に竹束の有る様な船も
朝鮮軍図屏風には書かれるが
関船等に大鉄砲を防げる様な竹束を正面に施して
安宅船を大鉄砲で攻撃と言う様な事は行われたのかだが ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%84%E7%94%B2%E8%88%B9
>その『多聞院日記』も「鉄の船なり。鉄砲通らぬ用意、事々敷儀なり」という伝聞の記述である。
と有るから
信長の鉄甲船は防火対策だけでは無く銃対策も
限定的ながら有ると言う事なのかだが
重量はどうなのかだが
秀吉の鉄甲船は幾らか裂けた等と言うが外洋戦闘を考慮しており信長の鉄甲船より軽量化され
防弾は余り考慮していない可能性は無いのかだが http://www.rekishi.info/forum/forum100/20050911173204.html
>肥前名護屋城図には3艘の安宅船が描かれそのうち1艘は3層と2層からなる二つの天守様の矢倉を載せています。
通常船のトップヘビーを招き安定性を失わせる上に、帆走するのにも不利なこうした構造物を単に乗船者の権威を高めるためだけに設けるでしょうか?
他の欠点に目を瞑るくらいやはり軍事上の利点が高かったと考えるべきでしょう。なお、この3層の矢倉を持つ安宅船はその色から鉄板装甲の可能性が指摘されています。
http://i.imgur.com/ErDY5vs.jpg
肥前名護屋城図の上の三層の櫓の有る船は
他の白い船と違い色が青いし
1593年の鉄甲船を書いているのかだが
鉄甲船なら防火用かも知れぬ幕は必要なのかと言う事は有るだろうが
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%AE%85%E4%B8%B8
銅板を貼った安宅丸には幕は無いと言う事だろうか pbs.twimg.com/media/C2MXC9KUkAAPWk5.jpg
上の肥前名護屋城図屏風の右側の船は
http://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_9/view/id/2443187/page/8
名護屋城博物館では全長38mと推定されているのかだが
左側の鉄甲が有るかも知れぬ船は此れよりやや大きい様に見えるが
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%AE%85%E8%88%B9
1573年に琵琶湖に
信長の55mの船と言うのが有った様だが
左側の船は果たして此れなのかどうかだが
琵琶湖から名護屋城に移動出来る物なのかだが
同程度のサイズの別の鉄甲船の可能性は有るのかだが https://twitter.com/boukenkyuu/status/905253802869112832
肥前名護屋城図の2つの大型艦のサイズは
上を見る限り同程度なのかだが
絵師の頭の中では上の櫓が高い物の方が
可成り大きいと言う可能性は有るのかだが 戦国期の水軍用の具足は軽目と言う意見も有るが
http://photozou.jp/photo/photo_only/1849954/200511501
上の蒙古襲来絵詞では大鎧を装備して切り込みをしているし
脛当ては有る様にも見えるから
水軍用の具足も特段軽装なのかだが
毛靴は滑るからか外している様に見えるが
戦国期では船上では草鞋は無いのかだが
https://www.pinterest.jp/pin/343610646561595253/
上の平家物語絵巻でも船上の兵は基本的に
一部の戦闘をしない様な指揮官を除き靴は無いと言う事なのかだが キチガイは妄想垂れ流す前に論文の一本も読みに図書館へ行きたまえ。
貴公は戦国水軍を理解しておらぬ。 安宅船は重装甲で全面の防弾を考慮した物も有るが
関船の場合は防弾を考慮する場合が有るとしても
前部に竹束が有る場合だけなのかだが
敵に上手く前面を向けて銃を放っている例は有るのかだが
こうした事をしても
大鉄砲の縦射を受けてやられる例等も有るのかだが 某研究者うぜえ
俺の覗くスレによくいるけど空気読んでくれ 語尾が「のかだが」だらけでゲシュタルト崩壊起こしそうになった >>629
コテなんだからNGにすればいいだけだろう
不毛な論争繰り返しているアホ共とは違い勉強になるからこれからも遠慮なく続けてほしい https://www.pinterest.jp/pin/343610646561609417/
上の水軍城に有る兜の吹返は
波を模している可能性も有るのかだが
果たして水軍が使用した物なのかだが >>631
勉強になるか・・・?
専門書読んでればすぐ分かるような疑問を、延々書き込んでるだけだろ。
某研にモノ教えても礼のひとつも言わないし、調子に乗って居つくからみんなスルーしてるだけだよ。 体系的にまとめるまでは行かないな。特に日本海側はさっぱり >>636
毛利水軍対尼子水軍!とか?
水軍の運用といっても。だいたいは水上機動陸戦なんだよなー >>638
> 水軍の運用といっても。だいたいは水上機動陸戦なんだよなー
あとは伝令用の早舟や、兵站輸送ね。 https://twitter.com/boukenkyuu/status/907874040601124870
上の蒙古襲来絵詞に有る様な小早より小さい小型船から
高精度の狭間筒を放って
大型艦艇をアウトレンジ等は出来るのかだが
的が小さいと言っても大型艦側に高精度の狭間筒が有れば
やられる危険は有ると言う事なのかだが
前面に狭間筒を止められる様な竹束を施せば
機動性は可成り低下する危険も有るのかだが
漕ぎ手と狭間筒を操作する人間のみを乗せれば
軽量化は可成り出来る可能性も有るのかだが
海が荒れている状態ではこうした小型艦の運用は
困難である訳だろうか >>640
https://twitter.com/boukenkyuu/status/907888939490353152
上の朝鮮軍図屏風に恐らく竹束を前部に装備した船が書かれているが
此れは狭間筒迄の防弾は考慮している共思えぬが
上の物はどうなのかだが
https://thepage.jp/osaka/detail/20140621-00000007-wordleaf
>1丁目は徳川方が使用したとされる大鉄砲。長さ1.7メートル、口径2.5センチ、重さ30キロ。大坂冬の陣で大坂城を取り囲んだ徳川方が、堀越しに天守閣へ向けて発射した。
>館長を務める澤田さんが話す。「徳川家康公が滋賀の鉄砲鍛冶の名工に命じて製造させたもので、命中度を高める照準装置を併用した可能性もある。
此れは500mで通常装甲の関船を狙撃すると言う様な事は出来るのかだが
椋の装甲の有る様な安宅船の装甲はそうした距離で貫通出来るのかだが
http://www.osakacastle.net/week/%E7%89%B9%E5%88%A5%E5%B1%95%E9%96%8B%E5%82%AC%E4%B8%AD%EF%BC%81
>慶長大火縄銃 全長3m 135kg
この種の物は大量生産されておらぬだろうし
船に搭載されている大鉄砲は
長い銃は通常は無い可能性は有るのかだが http://blog.livedoor.jp/sengokuranse/archives/36769938.html
>毛利高政所用 大鉄砲 閻魔王
>慶長の役で南原城を攻撃した際に使用したと伝わる。
>毛利高政は津田監物を流祖とする津田流の砲術を学び後に伊勢守流を創始している鉄砲の名手。
>去年オープンした大分の佐伯市歴史資料館に毛利高政が所持してた慶長大鉄砲の
>「閻魔王」、「四海波」、「秋風」の3丁が展示されてて、四海波は逆に徳川方として
>大阪城への攻撃に使われたって書かれてたな
「四海波(しかいなみ)」(全長282cm)
「無聖(むしょう)」(全長281cm)
「閻魔王(えんまおう)」(全長278cm)
「秋風(あきかぜ)」(全長201cm)
毛利高政は文禄・慶長の役では船奉行であるから
こうした銃が海上でも使用されていた可能も有るのかどうかだが
大量生産は無いと言う事なのかだが 自身が動揺する小舟からの大砲射撃など命中を期待できない。
的が巨大であるか余程の近接が必要。
だいたい、大砲や鉄砲に照準器がついてない。
近世でも銃身も火薬も品質が一定でないから当たり前。 >>643
>だいたい、大砲や鉄砲に照準器がついてない。
http://www.rekishi.info/forum/forum100/20050911173204.html
>現存する大型の火縄銃(大鉄炮や置き筒)と呼ばれるものには長大な射程(300〜1,000m)を有するものが存在し、遠距離用の照準装置(ややこしいですがこれも「やぐら」と言います。)も発達していました。
当時の記録には本国に鉄炮とこの「やぐら」を送れといった命令を発したものが見られます。こうした大型銃は船体破壊こそできないものの、朝鮮の火砲より命中精度と射程、可搬性に優れ、
安定性の高い停泊中の大型船や地上で使用すれば、高い命中精度を持つ文字通りの「アウトレンジ攻撃」が可能になります。
遠距離用の照準器は文禄・慶長の役では使われていたと言う事なのかだが
20匁程度の狭間筒なら
500mでも関船の何処かに当てる程度なら何とか成らないのかだが
20匁程度の狭間筒なら発射速度もそう遅いのかだが
小型船でも内海等で海が荒れていない状況なら
瞬発式火縄銃でも有るから狙撃は出来ないのかどうかだが
http://blog.goo.ne.jp/tibisan2006/e/fa88e7e116064ae3af0cfac203bae6e1
>今回は2m80pの”大鉄砲も...。全国にも4丁しかないとか。
此れは古い物では無いと言う事なのかだが
船上でも何とか使用出来そうにも見えるが
装填速度はどうなのかだが http://itworks.lolipop.jp/MyBlog/seventies/index.php?mp=&post=505
火縄銃の遠距離照準器のやぐらと言うのは上に有る物なのかだが
20匁狭間筒の500mの関船への射撃では
こうした物迄果たして必要なのかだが
http://itworks.lolipop.jp/MyBlog/seventies/index.php?mp=&post=510
10匁・全長2mの狭間筒でさえやぐらの装備を考慮していると言う事なのかだが
遠距離では威力は可成り低下する可能性は有る訳だろうか http://www.sanken-intl.co.jp/arcive_sanada/contents/column/hinawa/teppo_tai.html
>また、町打(ちょううち)という100mをこえる遠距離射撃も行われたそうで、3町(327m)の距離から3尺(90cm)の的を打って競ったというのには驚かされる。
此れはどの程度の命中率だったのかだが
こうした訓練をして居た事実は有ると言う事なのかだが
>また細川家の家臣松野亀右衛門という名手は、島原の乱で原城を攻撃する際、5町(545m)先の敵を打って外さなかったそうである。
此れはベイカーライフルと似た様な距離での狙撃だが
通常の火縄銃に拠る物なのかだが
https://pbs.twimg.com/media/DJmjim8VAAEqO3C.jpg
上の学研・日本武器集成には
通常サイズの竹束は28mでも6匁筒がほぼ貫通しないと有るが
https://pbs.twimg.com/media/DJlzZdiVAAAtAGx.jpg
上の朝鮮軍図屏風の上の竹束が前面に有る船は竹束は上部でも2つ重なっているから
10匁或いは其れ以上の筒の防弾を意識している可能性も有るのかだが 竹束を前面に装備した小型船が
大型艦等から大狭間筒の反撃を受ける可能性も有るだろうが
http://massneko.hatenablog.com/entry/2015/07/04/150000
大狭間筒も上の50匁筒以上の物は無いのかだが
6匁筒が30mで通常の竹束を貫けないと言う事は
50匁大狭間筒は500mでは小型船の前面の竹束を貫けない可能性も有るのかだが
300mでも貫けないかも知れぬが
余り接近すると100匁以上等の短い筒の直撃を
的が小さいとしても受けて竹束が貫通する危険は有る訳だろうか 来島対能島とか能島対来島で対決しているが、海戦になっているのかねえ?
島に籠って攻撃してくる軍船に反撃しているだけに見える。
だいたいさー、海戦で戦死した武将って殆ど居なくね?
島に上陸して切腹とか、負けてもそんな感じだよね。 水軍同士の海戦ってどんな感じで戦ってたんだろ?源平合戦のあの頃をイメージすればいいかね? そもそもそんな広い海域がないし
迎え撃つ方も海上より海岸線に築いた砦の方が有利だから
本格的な海戦なんて国内じゃほとんどないんじゃないの >>633
某研のネット検索情報垂れ流しを見て勉強になるとか言ってるんだから
よっぽど基本的な知識がないんだろうな… http://paomaru.dousetsu.com/file/09_hinawa_004.html
中央日本周辺: 長さ→130cm前後 重量→2〜5kg 口径→2〜4匁
瀬戸内海付近: 長さ→140cm前後 重量→2〜6kg 口径→2〜3匁
九州地方付近: 長さ→100cm前後 重量→4〜6kg 口径→5〜6匁
東北地方付近: 長さ→110cm前後 重量→4〜10kg 口径→5〜10匁
>船での戦いでは、相手は基本的に遠くにいます。遠くの敵を狙うのに必要な銃の条件は、長い銃身と小さな口径です。銃身が長ければ、火薬のエネルギーを効率よく使えます。口径が小さければ、弾丸が軽いので弾は遠くまで届きます。
此れは船の装甲を貫く事は考慮していないと言う事なのかだが
装甲は無く火矢を防ぐ為の幕を張っただけの
小型船も多かった訳だろうか 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:77bfa3ad753b2994479210bef5c6504a) >>654
武田水軍と後北条水軍が戦ったことなかったか?
結果は引き分けぽかったが。 ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%B3%8A%E5%81%9C%E6%AD%A2%E4%BB%A4
秀吉の海賊停止令後
海賊は水軍兵や陸軍兵と成った者も多いのかだが
海賊行為が忘れられず倭寇等に入る者は果たして居たのかだが https://kotobank.jp/word/%E6%B5%B7%E8%B3%8A%E7%A6%81%E6%AD%A2%E4%BB%A4-1286560
>海賊衆は,諸大名の被官となり,水軍に組織されていった。
>一般漁民は武装解除されたうえ百姓身分となり,各地の沿岸で小規模漁業を営む専業者に確定づけられた。
雑魚海賊兵は武装解除され漁民と成ったと言う事なのかだが
水軍の兵や漕手等として
以後も軍事に関わった可能性も有るのかだが 漁民も農民も一緒。秀吉の頃には軍勢の4から6割が軍を維持するための軍夫であり非戦闘員。
兵農分離しても農を戦場に連れていかなければ戦えない。 日本の海賊が西欧の海賊の様に頭巾を被る漫画等も有るが
戦国期の盗賊なら浮世絵で熊坂長範や他の盗賊も被る
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/40/Yoshitoshi_-_Hazy-night_Moon_-_Tsuki_hyakushi_no._45.jpg
https://www.pinterest.jp/pin/343610646562046172/
上の熊坂頭巾の様な物を被る例も有るのかだが
海賊は果たしてどうなのかだが
通行料を取る事が主体の者は
自らを賊とは認識していない可能性も有るなら
そうした物は被らない可能性も有るのかだが
熊坂頭巾は能に有ると言うから此れは古い物なのかだが 海賊も敵を一旦見逃した後
損害拡大を避ける為に夜襲を掛ける可能性と言うのは
有るのかだが
通行料を取る事で済むと見せ掛けて
小型艦艇や忍者等で秘密裏に追跡し
夜間等に奇襲攻撃と言う例は有るのかどうかだが >>662
通行料を取る為と称して
敵を間近で偵察し戦力を分析した後
一旦見逃し
夜間に奇襲攻撃と言う様な例は有るのかどうかだが
とは言え偉い人間の配下の船舶には
迂闊にそう言う事はするのかだが 海賊の世界にも仁義というのがあり、
いったん通行料を取ったらそれ以上は危害を加えることはないのではないでしょうか? >>664
偉い者の傘下の船は
報復を考えると襲撃したくは無いだろうが
其れ以外の船はどうなのかだが
偉い者の傘下の船と偽装する船も居るかも知れぬし
此れが本物か否かを見極める為にも
昼間通行料を取ると称して間近で偵察し
偉い者の傘下の船では無いと見れば
夜間奇襲攻撃を掛ける可能性も有るのかだが
確実に違うとは言えないが
資金不足等を理由にどうしても襲撃したい場合は
別勢力に偽装した者にやらせると言う様な方向も有るのかだが 村上海賊の娘の様に
大将が一人で敵船に斬り込むと言う様な事は現実に有ったのかだが
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E5%98%89%E6%98%8E#.E4.BA.BA.E7.89.A9.E3.83.BB.E9.80.B8.E8.A9.B1
>甥の加藤権七と共に密かに手船20艘ばかりで向かうも、朝鮮方の番船に気づかれ、多数の船に包囲され、弓を放たれ、死傷者多数の事態となり、
嘉明自身、矢を二、三射立てられる。熊手で引き寄せようとするも失敗したため、郎等に対し、「我を敵船に投げ入れろ」と言い、やっと番船に家臣の塙団右衛門共々乗り込み、3艘を乗っ取ることに成功したと記される。
加藤嘉明も一人で斬り込んだと言う訳でも無いのかだが
最初は一人で斬り込んだが後で部下も投げ込まれたのかだが
日本の船相手にこうした事をしても
雑兵物語に有る様な
至近距離の射撃を受けてやられる危険は有るかも知れぬし
朝鮮や西欧では至近距離の射撃は無い可能性も有るから
一人での斬り込みも有効なのかだが
西欧のピストルは白兵戦直前にも
至近距離で放たれていた可能性も高いのかだが https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E7%94%B0%E5%9F%8E_(%E7%B4%80%E4%BC%8A%E5%9B%BD)#.E7.AC.AC.E4.BA.8C.E6.AC.A1.E5.A4.AA.E7.94.B0.E5.9F.8E.E3.81.AE.E6.88.A6.E3.81.84
>第二次太田城の戦い
水で囲まれた太田城に羽柴秀吉軍は中川藤兵衛に13隻の安宅船で攻めさせた。船の先端には大きな板を建てて、鉄砲や弓矢から攻撃から守るため改造したが、
太田城の城兵の中で水泳の名手を選び、船底に次々と穴をあけ沈没させ、また押し寄せる攻城兵には鉄砲で防戦した。
第二次大田城攻めに使用された安宅船は
正面に重装甲を施し大鉄砲を防ごうとした可能性も有るのかだが
船の底に穴を開けられてやられたと言うが
此れは忍者が行ったと言う訳でも無いのかだが
安宅船は水密区画が有ると言う意見も有るし
小数穴が空いても容易に沈没等するのかだが 第二次大田城攻めに使われた安宅船の前部に装備された
装甲と言うのは只の板なのかだが
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E6%9D%9F
>対大筒用の大型のもので長さ八尺(約240cm)・幅四尺(約120cm)程のものが使用された
上の様な太い竹束が装備された可能性は有るのかだが
安宅船には砲が装備される可能性も有るだろうが
砲は正面にのみ装備され竹束には此れを撃つ為の銃丸が
有る可能性も有るのかだが
https://i.imgur.com/EvopOcY.jpg
竹束は朝鮮軍図屏風の上の船の様に
横に並べて積まれている可能性も有るのかだが https://potaru.com/p/100000014878
>安宅船の構造は下から「水密区画」、「船倉」、「甲板」となっていました。水密区画は一部に穴が空いても全体に浸水しない構造になっています。
と有るから
船底に小数穴を空けても沈められるのかだが
傾斜させて固定式の大型砲の射撃を困難とさせる程度なら
或いは可能なのかだだが http://www.eniguma49.sak ura.ne.jp/gunnzi,heiki/kanagawa,izu/gunnsenn/gunnsenn1.html
>船底部は漆喰と切石で固められその内側は防水隔壁により一部亀裂が入っても浸水しない構造と成っています、
此れはどの程度細分されているのかだが
設計図は無いのかも知れぬが
ジャンク船の物とほぼ同様と見て良いのかだが
http://ncode.syosetu.com/n9653cs/112/
>三番目としては、水密区画が細かく存在している点である。このため一旦船殻の一部に穴が開いても、すぐにその区画だけを閉鎖すれば航行が可能であったとされる。
民間船でも水密区画は存在しているが、かなり大きな割り方になっているため、
暗礁などで一か所が大きく損壊しても航行不能まではいかないものの、かなり危険な状況に陥る可能性は高い。
現存している和船の最古の設計図と言われる七尾丸は関船に相当するが、全長50メートル程、全幅25メートル程で300程の水密区画を持っていたとされる。
更に、櫂は片側50丁、2丁の舵を有し、四方を板で囲う押し廻し造りと呼ばれる構造になっている。前後に櫓があり、まさに「浮かべる城」であった。
関船でさえ水密区画は300も有るのかだが
此れは民間用ジャンク船の物より多い可能性も有るのかだが
此れでは傾斜させて固定式の大型砲の砲撃を困難とするのも
容易なのかどうかだが
大型爆弾を船底に仕掛けて船体を大きく損傷させ
沈没はさせられず共傾斜させて
大型砲の砲撃を困難としていた可能性も有るのかだが 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:0be20a4887bc3d3353f527d3636c44e3) >>667
> 小数穴が空いても容易に沈没等するのかだが
そこはあやしいですね >>670
> 大型爆弾を船底に仕掛けて船体を大きく損傷させ
当時、そのような爆弾(水中で使える仕様)が日本に存在したかどうか? >>672
>当時、そのような爆弾(水中で使える仕様)が日本に存在したかどうか?
http://gun45.d.dooo.jp/jiguanqiang.htm
>16世紀には早くも、各種類型の機雷がもうすでに明朝海軍の重要な武器となった。1549年に製造された「水底雷」は世界初の機雷と呼ぶことができる。
この機雷は木製の箱を外殻とし、パテで継ぎ目をふさぎ、下面の縄が鉄製のアンカーにつながり、深度をコントロールし、手作業で撃発させ、
西方が製造および使用した機雷に比べ200年あまり早かった。
初の定時爆発機雷は1590年に製造された「水底竜王砲」である。この機雷は牛の膀胱を外殻とし、内部に黒色火薬を装備し、線香を信管に用い、線香の燃焼時間に頼って機雷の起爆時間を定めた。
初の触発機雷は1637年明朝最後の年に製造された「混江竜」機雷で、この機雷は艦船との直接の接触によって起爆が行われた。
史料の記載によれば、長年にわたった抗日援朝(頑住吉注:豊臣秀吉時代の「文禄・慶長の役」)の時期、明朝海軍はかつて「水底雷」を使用して日本の1隻の大型戦闘艦を一挙に撃沈し、
これは人類の歴史上初の機雷の使用が取得した実際の戦果で、日露戦争(1903〜1905)での機雷戦に比べ3世紀近く早かった。
中国にはこの種の物も16世紀には有るが
船底に人が仕掛けるタイプとはやや違うのかだが
改造は容易な可能性も有るのかだが
中国の機雷と同種の物を交易力の有る雑賀衆等が
手に入れて人が仕掛けるタイプも開発した可能性も有るかも知れぬし
分厚い安宅船の板に人力で穴を簡単に
開けられる共思えないし
爆薬が使用されたと見る方が自然かも知れぬが
大田城攻めでは無いかも知れぬが
忍者等に迎撃される危険も有るのかどうかだが >>673
>史料の記載によれば、長年にわたった抗日援朝(頑住吉注:豊臣秀吉時代の「文禄・慶長の役」)の時期、明朝海軍はかつて「水底雷」を使用して日本の1隻の大型戦闘艦を一挙に撃沈し、
この日本の艦艇がやられた機雷と言うのは
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ohgai/3816/heikijiten/heikikaisetu/suirai.htm
>我が国(中国)は早くも明代に水雷をもっています。明の嘉靖二十八年(西暦1549年)、唐順之の編纂した『武編』には一種の「水底雷」が記載されています。
木箱で外殻を作り、内部に火薬を充満させ、起爆装置が一本の長いロープでつながれ、三つの鉄の錨で「水底雷」を水中に固定します。
敵船が殺傷範囲に入ったら、岸辺を防衛する人員は縄を引っ張って、起爆装置を起動させ、水底雷を爆発させて、敵船を撃破します。この種の「水底雷」は我が国(中国)だけでなく世界的にも最初の手動で縄を引っ張って起爆させる水雷です。
上の人力で起爆させる水底雷である訳だろうか
時限式の物は1590年台の登場であるから
大田城攻めで使われたかも知れぬ
船底を攻撃する仕掛け爆弾は
この紐で引く起爆装置を使用している可能性も有るのかだが 第二次太田城の戦いに関しては、不明な点や誇張された記録も混在しているのではないかと思われますが。 >>675
何処が誇張された物かは不明だろうし
誇張だと思われた事が事実だったと言う事も
割に有る話では有る訳だろうか
pin.it/vmpSexR
この槍鳶口は恐らく戦闘用だろうし
船戦用なのかだが
鳶口も木材に打ち込む物だから
甲冑にもピックの様に打ち込んでいた可能性は有るのかだが 実際の記録として残っている瀬戸内の海賊のやってたことは
通行料を取る
村上の旗を持っていれば海賊に襲われないぞと村上の旗を売りつける
こいつを乗せていれば海賊に襲われないぞと村上の手下を船に乗せる料金を請求する
漁船で〜すと行って船底に兵士を満載した船を商船や外航船に近づいて襲う
物盗りのための人殺しは良くないと村上の頭領が宣言した後は事務的に通行料を徴収するシステムの導入
などなど
そりゃ秀吉に陸に上げられるわな >村上の旗を持っていれば海賊に襲われないぞと村上の旗を売りつける
こいつを乗せていれば海賊に襲われないぞと村上の手下を船に乗せる料金を請求する
漁船で〜すと行って船底に兵士を満載した船を商船や外航船に近づいて襲う
旗は実際は余り偽物と疑われ
役にたたなかった可能性も有るのかだが
偽装した漁船も偉い人間の傘下の船は襲撃し難いだろうし
襲撃前に通行料を取ると称して間近で偵察し
偉い人間の傘下の船で無い事を確認している可能性も有るのかだが >>678
朝鮮通信使の日記に 日本の瀬戸内の某港でボロをまとった助けを求めてくる人間がいた 誰かと思ったら我々の仲間で海賊に襲われて身ぐるみ剥がされた という記録がある
少なくとも国家間の外交船でも襲ってるのは事実 >>680
村上の様な大海賊は兎も角
小規模な海賊なら誰が略奪を行ったかは
容易には判明しないだろうし
こうした連中は偉い者の傘下の船の可能性が高い物も
襲撃すると言う事なのかだが
朝鮮通信使が来航する時点では大海賊は
取締令で恐らく消えていたと言う事だろうか 秀吉の海賊禁止令前でも
大規模な海賊は報復を考慮して
偉い者の傘下の船は襲わないかも知れぬが
他の小規模大規模な海賊に偽装して
襲撃をやる可能性も有るのかどうかだが
村上が松浦等の仕業に見せ掛ける或いは其の逆等をして
偉い者の船を襲撃した例等は有るのかどうかだが https://twitter.com/katchusi/status/918655082412965890
>海部刀という四国の徳島阿波地方で作られた刀で船具を切るためや敵陣の柵を壊すためとする説なとがある。
村上水軍等がこうした物を大量に使用していたと言う可能性は有るのかだが
http://trickmaster.orz.hm/katana/data/masayoshi2.html
銘の有る同種の刀も有るから
騎馬武者クラスの者がこうした物を用いていた可能性も有るのかだが
捕虜の虐待等に此の鋸部分が利用される例も有るのかだが >>683
船用のロープ等を切る専用の刃物に似てるね
直径3センチくらいのロープを切ったことあるけど2〜3往復するだけで簡単に切れる 村上海賊の娘で一騎打ちを望む本願寺の下間頼道を
伏兵の弓で射殺した場面も有るが
沼間義清が一騎打ちで倒し本願寺勢の士気が低下した所に
突然伏兵が銃や弓を撃ち込み更に士気を低下させ敗走させると言う様な方向も有ったかも知れぬが
現実にこうした事は有ったのかどうかだが http://www.xn--u9j370humdba539qcybpym.jp/part1/archives/date/2017/03/page/23
>一般の火縄銃は全長130p、銃身長100cm、口径12o程度であるが、この大火縄銃は全長166p、銃身長130p、口径19oで重量は8kgある。
口径でみると約4倍の重量の弾丸を使う。銃の先には城の壁、船舶の船縁などに固定する金具が揃っている。
船舶で使ったのではないか。装填は下の甲板に銃尾を下して行う。
口径が大きいのは敵の船の構造物を破壊すると同時に喫水線を撃ち、浸水させるためだろう。拾一匁あれば相当大きな穴が開く。
弾丸が重く初速は遅いので、中目当て二つを使い曲射照準したのではないか。
此れは果たして船舶で使われたのかだが いつから某研究者の落書き帳になったんだここは自重しろや >>688
過疎スレなんだから目くじら立てることもあるまい 過疎スレだったら好き勝手していいなんてことはねえよ
埒も無い独り言を延々書き込んでるんだから普通に荒らしだろ
少なくともこういう行為を認めちゃいけない 過疎スレだからこそ、1人がたくさん書き込むとレスが流れちゃうんじゃん https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B4%96%E5%B1%B1%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
>元側の記録によると、南宋艦隊は1,000隻の大型船をがっちりと繋ぎ合わせ、防火のため船体外装に泥を塗り、敵が近づけないよう長い木材を縛り付けて防御網とし、油を注いで火攻めを図る元軍を破ったという。
南宋艦隊が泥を塗って対抗と言うのは火矢対策なのかだが
棒火矢にはこうした物では対抗困難な可能性も有るのかだが 1540〜あたりの九鬼水軍の状況について知りたいです
・対「津島の町」「織田氏(各家、信秀)」「周辺国家」への心情
・当時の戦力、各種船数 織田と交流なんてあってのかね1540年代に
完全に北畠傘下だったんじゃないの http://fleishman.co.jp/2008/04/column_nobunaga5/
>さらに1571年の竹生島の浅井攻めでは琵琶湖に大砲の装備を付けた「囲い舟」なる船を登場させて、
従来の大砲の弱点である移動性の悪さを克服し、ついで1573年に琵琶湖で長さ30間、片側100挺櫓の大型船を建造させている
さらに1574年の長島一揆では数百隻の船に大砲を装備し撃ちまくったとの記録もある。
長島一揆で数百門の大砲が使われていたと言う訳では無く
数百隻の船の一部に砲が装備されていたと言う事なのかだが
http://cybertiger.blog.so-net.ne.jp/2017-06-14
>ついで明智光秀、打下(滋賀県高島市)の土豪林員清、堅田(大津市)の猪飼野正勝、山岡景猶、馬場孫次郎、居初又二郎に命じ囲い船(防御用の装備を施した船)造らせた。
そして琵琶湖の湖上から漕ぎ寄せると海津浦(高島市)、塩津浦(伊香郡西浅井町)、与語の湖岸(飯浦、木之本町)を焼き払わせた。
さらに竹生島に船を寄せると火矢、大砲、鉄砲で攻撃を加えた。
この囲い船と言うのは装甲は厚いのかどうかだが
竹束装備の盲船とは違うのかだが
地上からの大鉄砲の攻撃に対抗出来る様な物なのかだが https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12108726022
>勝頼の時代にも、天正2年(1574)に起きた高天神城の戦いで、二の丸を守った本間・ 丸尾兄弟を武田方は狙撃して討ち取っています。
兄、本間八郎三郎氏清が堂の尾曲輪の櫓に登って兵を指揮していたとき、朝日の光で鎧兜が輝いていたのを目印にされ、武田軍に狙撃されたと伝えられています。
そのあとを引き継いだ弟、丸尾修理亮義清も銃弾で戦死します。
この場合は銃での狙撃かも知れぬが
大鉄砲で指揮官の居る櫓を狙撃していた可能性も有るのかだが
船上等の大鉄砲も城攻めでは櫓毎指揮官を狙撃し
指揮能力や士気を低下させるが基本であるかも知れぬし
大鉄砲に備え防御力が石や厚い竹束等で強化されているかも知れぬ
塀を破壊し尽くす等と言う様な事は何処迄出来るのかだが
船の装甲を貫く様な大鉄砲や砲を放つ銃丸付近は
砲で攻撃されていた可能性も有るのかだが https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E6%9D%9F
>大きさは小型のもので長さ六尺(約180cm)・幅一尺(約30cm)、対大筒用の大型のもので長さ八尺(約240cm)・幅四尺(約120cm)程のものが使用された。
対大筒用の竹束等も有るが
一揆勢がこうした物迄用いていたのかだが
大鉄砲は兎も角砲は何処迄防げたのかだが http://www.eniguma49.sak ura.ne.jp/gunnzi,heiki/sonota/senngokuheuki/senngokuheiki1.html
>当時鉄砲の口径は6mm程が標準で現在の2口径の銃と略同じ威力です、鉄砲から身を守るのであれば10cm程の木の板で十分です、
16cmの木の板の上に10cm以上の鋼鉄装甲を施す理由は完全に砲弾の直撃を意識しているのでしょう、また鋼鉄板は斜めに取り付けられています、
此れにより着弾した砲弾が上へと弾き上がり衝撃を緩和する効果があります、ちなみに大戦中に連合国から脅威とされたティーガ−重戦車の装甲板の厚さは大盾車と同じ10cmで
ソビエトのT34戦車、アメリカのシャーマン戦車の75mm相当の対戦車砲弾を至近距離から弾き返しています、この大盾車も大筒の様な大口径の大砲の砲弾は無理としてもフランキ砲や大鉄砲などの比較的口径の小さい大砲の砲撃からは十分に身を守れたのでしょう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E7%94%B0%E5%9F%8E_(%E7%B4%80%E4%BC%8A%E5%9B%BD)#.E7.AC.AC.E4.BA.8C.E6.AC.A1.E5.A4.AA.E7.94.B0.E5.9F.8E.E3.81.AE.E6.88.A6.E3.81.84
前面だけ板を厚くした安宅船が第二次太田城の戦いで使用されていただろうが
上の様な分厚い鉄板が安宅船の前面装甲に使われて
城等からのフランキ・大鉄砲を防弾していた可能性は流石に無いのかだが
対大筒用の太い竹束を装備していた可能性は有るのかだが ちょっと奇特過ぎの牛刀でひよこを裂くような質問なのだが…
WW2の魚雷攻撃は安宅・関舟に爆砕可能でしょうか? そもそも戦闘艦で戦闘艦を叩くというケースが希。
そんなことをしなくとも、根拠地を叩けば敵戦闘艦を無力化できるのが当時の戦い。
なんだか、戦闘機で戦闘機を撃墜するのが制空権争いと思っている人と思考が同じきがする。
制空権争いで重要なのは、敵基地を叩くこと。 イルカやシャチに爆弾を積んで特攻させると言う様な事は
戦国期には果たして有るのかだが
焼き討ち船なら確か使われているだろうが
火薬の使用は誘爆等を考慮して無いのかだが https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%AB%E8%88%B9
>時代が下り火薬が使用されるようになると、火船にも火薬が搭載されるようになった。火薬を搭載する場合は体当たりする時間に火薬に引火するように導火線が用いられた。
しかしながら、敵艦船が火船攻撃から逃れる可能性があったため、乗員は可能な限り火船に留って敵艦船へ船体を近づけた。
八十年戦争(いわゆるオランダ独立戦争)では、オランダ軍が大量の火薬を積んだ強大な火船を使用し、戦果を上げた(en:Hellburnersも参照)。
火船戦術は、17世紀中盤の英蘭戦争で頂点に達した。第一次英蘭戦争では敵艦隊に対し単純に風上から放流するだけで、容易に迎撃や回避をされてしまい戦果が乏しかった。
しかし、第二次英蘭戦争では固定的な目標を狙って使用され、しかも妨害を排除するための護衛艦を伴うなど運用も洗練されたことから、いくつかの海戦で成功を収めることができた[1]。
火薬装備の火船も欧では使われたが
耐弾性は何処迄有るのかだが なんで某研究者(アホ)は
スレの流れを全く読まずに自分の思うことだけを長文コピペで長々流すんだ?
性質の悪い荒らしも同然だろ 九鬼の子孫は、先祖が海賊だということで
後に、持て囃されたらしい 持て囃されてたん ?
海賊が何をしているのか、わかっているのかいな 海賊稼業は、3日やったらやめられない
人の物を奪い取る快感は、やったものにしか
わからない
まったくもって、グズやね