【海賊】 水軍スレ 【安宅船】
信長の鉄甲船があったとかなかったとか
そんなことについて語ろうぜ 一応、鉄甲船も鉄板貼った板を外して船底に収納すれば、渡海も可能 DAT落ちはしないと思うが、いちおう念のために保守。 九鬼水軍の鉄甲船とイスパニアのガレオン船もし戦わば 「李舜臣漫画家」オンリーコムパン「慰安婦被害者全幅支持」
送稿時間| 2016/07/07 07:00
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ソウル漫画アニメフェスティバル参加..."実際の英雄の話を知らせたくて"
(ソウル=連合ニュース)ゴウンジ記者= “李舜臣漫画家”として有名なアメリカ人の漫画家オンリーコムパン(Onrie Kompan・33)は7日、「日本軍慰安婦被害者に全面的な支持(fully support)を送る」と述べた。
6〜10日、ソウル東大門デザインプラザ(DDP)と明洞駅CGVなどで開かれる第20回ソウル国際漫画アニメーションフェスティバル(シカプ・SICAF)に出席するため韓国を訪れたコムパンは聯合ニュースとのインタビューで
「私は日本軍慰安婦被害者を支持する」と言って「日本が彼らに犯した蛮行と慰安婦被害者の声が全世界に知られなければならない」と強調した。
先立ってコムパンは、昨年末、韓国を探して「慰安婦少女像」にショールを巻いて、今年の初めには、自分のソーシャルネットワークサイト(SNS)に「慰安婦のための平和と解決」というタイトルの記事で慰安婦問題等に関する自己の考えを明らかにして話題を集めた。
彼はちょうど「今回はシカプスケジュールに集中しなければならないので、慰安婦をお伺いしたり、それに関する行動をとることはできないようである」と残念がった。
シカプは今年の海外巨匠招待展にコムパンを招待して、イベント期間DDP会場内に設けられた“李舜臣ブース”で彼の作品を展示する。
来る9日には、ここでファンサイン会を開き、コムパンとファンが直接会って話をする時間を持つ。
コムパンは「シカプで私を招待してくれたことに感謝して光栄に思っている」とし「世界各国の様々な漫画・アニメ会場に通ったが、このように圧倒的で、優れた席は初めて」と所感を明らかにした。
コムパンは忠武公李舜臣の業績に盛り込んだ漫画“李舜臣:戦士と守護者”(Yi Soon Shin:Warrior and Defender)シリーズを出版して、米国だけで5万冊以上を販売した。
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韓国のドラマを通じて初めて李舜臣の話に接したはコムパンは、「他のスーパーヒーローとは異なり、李舜臣は実際に存在していた英雄という点で大きな魅力を感じた」とし「逆境に克服し、国を救った彼の尊厳な話を人々に知らせたかった」と語った。
コムパンの“李舜臣愛”は継続される。
彼は来る10月、鳴梁海戦に背景にした“李舜臣:落ちた復讐者”(Yi Soon Shin:Fallen Avenger)を出版する。
コムパンは「現在新作の作業中で、10月中に米国ニューヨークで開催される漫画祭“コミックコン”(Comicon)でデビューをする」と明らかにした。
「イベント期間(四日間)で1千500冊を売る」と作品に対する自信ものぞかせた。
アメリカ人にも韓国の偉人をテーマにした漫画を描いて李舜臣の業績を全世界に知らしめたコムパン。
しかし、彼はむしろ、自分に声援を送ってくれる韓国ファンたちに感謝の気持ちを伝えた。
「私の漫画を愛してくれる韓国ファンにありがたく、すべてのことに感謝します。受けた愛に報いようと、今後も継続してまいります。」
ttp://www.yonhapnews.co.kr/bulletin/2016/07/06/0200000000AKR20160706196600005.HTML やっぱり安宅船の語源は安宅氏だと思うな
南北朝時代から首都圏近郊の海洋で活躍して
人口に膾炙したことは想像に難くない 壬辰倭乱1592
KBS韓国放送公社
スポット
http://www.youtube.com/watch?v=-3dqFN04G5w
今までの戦いは忘れろ!
壬辰倭乱1592が戦争の歴史を直す。
壬辰倭乱1592 - 2016年9月3日(土)21:40 KBS 1TV放送予定。
ttp://www.kbs.co.kr/1tv/sisa/imjinwar/index.html 李舜臣将軍、露梁海戦決戦意志込められた「最後の手紙」初公開
送稿時間| 2016/09/30 10:05
ttp://www.yonhapnews.co.kr/bulletin/2016/09/30/0200000000AKR20160930058500014.HTML
明軍に渡す...撤退する倭軍への先制攻撃を主張
(ソウル=聯合ニュース)イ・ヨンジェ記者=
李舜臣将軍が壬辰倭乱最後の決戦である露梁海戦を控えて、自分の作戦計画を込めて明軍に送った文書が30日初公開される。
国防部はこの日午後、国防部軍事編纂研究所と全南大李舜臣海洋文化研究所の共同主催で全南大麗水キャンパスで開催される国際学術大会で李舜臣の最後の簡札を初めて公開すると明らかにした。
簡札は竹彫刻の竹簡や木の彫刻である木札に書いた文章、広い意味では、紙や絹に記録した手紙も含まれている。
今回の学術大会で公開されている李舜臣の簡札は、1598年11月露梁海戦を控えて作成されたもので、明の監軍・王士gに伝達されたが、彼の子孫が「章安王氏宗譜」に収録して現存することになった。
この簡札で李舜臣は朝-明連合軍の攻勢で順天倭橋城に孤立した倭将小西行長の退路を開けないことを明軍に説得し、彼の撤退を支援するための水軍を先制攻撃しなければならないという主張を繰り広げた。
李舜臣は明水軍将帥劉テイ(劉綎)と陳リン(陳璘)が小西の懐柔と賄賂によって倭軍の撤退路を開ける案を苦心していることを見抜いていた。
当時、日本軍は豊臣秀吉が息を引き取って、残した遺言に基づいて撤退を進めており、海の安全な退路を確保するのが急務だった。
これをよく知っている李舜臣は、朝明連合軍の指揮権を握った明軍に小西の懐柔に乗らないように説得して倭軍を倒すための決戦を促したのである。
今回発掘された李舜臣の簡札は現存する壬辰倭乱・丁酉再乱史料である“朝鮮王朝実録”、“李忠武公全書”、“乱中日記”、“李コ馨文集”などでも見つけることができなかった史料で、歴史的な価値が大きいというのが国防部の説明である。
キム・ギョンロク軍事編纂研究所上級研究員は、「李舜臣将軍の簡札は、朝明連合軍作戦に消極的だった明軍を説得して日本軍の退路を遮断、殲滅しようとしていた作戦の意志を示す史料」と説明した。 >>571
>日本軍の退路を遮断、殲滅しようとしていた作戦
結局、露梁海戦で日本軍の退路を遮断殲滅することに失敗したな。
しかも李舜臣自身が戦死したのをはじめ、明・朝鮮の上級武将が多く戦死。
上級武将が多く戦死しているならば、兵卒も多く戦死していることは間違いない。
朝鮮側にとって惨憺たる結果だったというのが露梁海戦。 >>571
連合軍とは今の韓国視点からの名ばかりで李舜臣が主将ではなかった証拠だね。 何で大航海時代の造船技術や航海術は手に入らなかったの
鉄砲をあれだけ量産したり城や何だと建築できる技術とGDPがあれば
金なんかいくらでも積めたよね
船ごと艦隊ごと買うとか容易かったろうに
海賊はいくらでも買えたろう
蘭学事始並の語学力がいるわけでもなかろうに >>578
武田信玄が駿河を制圧した時に、
どこかの水軍大将を引き抜いたのではなかったか? 伊勢とか熊野で零落した水軍集は関東にきてるね
向井氏 北畠→今川→武田→徳川。
小浜氏 武田→徳川。志摩水軍。
伊丹氏 今川→武田→徳川。
梶原氏 伊勢の海賊から北条氏に出向。北条滅亡後は紀伊へ帰る。
愛洲氏 佐竹氏などに使えた剣豪。元は熊野水軍の出。
信長が九鬼を引き立てた結果(縁戚にある熊野水軍の新宮氏も伸びた)、
勢力争いに敗れた伊勢志摩の水軍が各地へ散った 外国からくる船は当然、外国へ帰る足でもあるので
そんなホイホイ売れないし、軍事機密でもあるんだから
そんな簡単に手放さないでしょ 能島村上海賊の新史料 今治・水軍博で展示
愛媛県今治市大島沖の国史跡・能島城跡を根拠地としていた村上海賊三家の一つ
能島村上家の新史料が発見され21日、市村上水軍博物館が発表した。戦国時代の
古文書の写しをまとめた冊子「御感状御證文写(ごかんじょうごしょうもんうつし)」
や、江戸時代に仕えた萩藩毛利家(山口県)からの書状などで「近世以降の動向
を知る上で貴重」としている。新史料2点などを展示する企画展「能島村上家
伝来資料群」が22日〜6月25日、同博物館で開かれる。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170422-22630501-ehime-l38 なんかこの時代の造船のことについて書かれた、良質な資料ってないかな?探してもなかなかみつからない。 ここがよくまとまってる
http://navy.ap.teacup.com/applet/kanzo/msgcate3/archive?b=30 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:87f20c3c9ee883ab649a4d7f8b996d63) 10匁等の狭間筒は船舶からも使用されたと有るが
通常の関船が此れを大量に装備している可能性は果たして有るのかだが
此れは安宅船の外板も貫通する可能性は有るのかだが
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E8%88%B9
>『小田原北条記』巻七には、「小田原方の船は艪が50挺あり、15間(27メートル)先から鉄砲で撃っても貫けないようにこしらえていた」
此れは10匁狭間筒が27mでも貫通しないと言う訳では無いのかだが
通常の3−6匁筒の可能性も有るのかだが https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E8%88%B9#cite_note-2
>関船も竜骨を用いずに板材を釘とかすがいで繋ぎ止める造船法をとっており、軽量かつ頑丈であるものの、衝突による破損には弱く体当たり攻撃には適さない。
>そのため、西洋船や中国船より採れる戦術の幅が狭い。
http://www.sengokushi.com/sengokushi/?p=950
>上原船は体当たり攻撃を行う構造を持っている。
>箱型の船首に、「衝角」とも言える鉄のバンバーがある。
>和船は、構造上体当たり攻撃は出来ない、と言われるが、戦闘時に接舷し乗り込み
>攻撃を行うのであれば、どの様な態勢であれ、体当たりになる。
>接舷攻撃をする以上、対策は必要であろう。
竜骨無しでも伊勢型の船体でバンパーの様な物が有れば
十分体当たりは出来た可能性も有るのかだが http://blog.livedoor.jp/waruneko00326-002/archives/49572886.html
徳川家御座船安宅丸は、厚さ一尺の盾板表面を厚さ3ミリの銅板を貼り装甲している。
この安宅丸について水戸光圀は「鉄砲いかほどあたりても船やぶる事なき也」『西山遺聞』
と評している。
当時の人達の関心が鉄砲に対する防御に向いていたことがわかるだろう。
盾板の厚さが30cmも有る例が有るのかだが
此れは近距離で無いと10匁狭間筒では貫通出来ないのかだが >>243
>安宅船の盾板は厚さ6〜10センチくらいあるぞ。
10cm程度では少なく共近距離では
10匁狭間筒は止まらないと言う事なのかだが https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/rekihaku/126/witness.html
>1615(元和元)年の津田重長の秘伝書にも「鎧通玉のこと」「先を三角にした太くて長い竹束玉のこと」、
>狭間は城郭の施設、鎧通は文字どおり甲冑を貫通する玉、当時、鉄炮を防禦するために竹束を用意したが、それを貫通する玉が竹束玉である。
上の竹束玉が船舶の貫通に使用された可能性は有るのかどうかだが http://i.imgur.com/MWiRMuN.jpg
上の朝鮮軍図屏風の日本軍の船の一部は竹束が有る様にも見えるが
http://i.imgur.com/Bh04Nzq.jpg
http://i.imgur.com/iwgNrAZ.jpg
上の大阪の陣でも投入された盲船の可能性も有るのかだが
此れは現実に投入されたとすれば
朝鮮水軍の主に手銃を防ぐ為の物なのかだが
此れの射程外から大鉄砲で攻撃を加えるのが基本と言う事では無いのかだが
朝鮮水軍の遠距離の砲を止める為の物の可能性は無いのかだが
絵でも全てが竹束を装備している様にも見えないし
竹束装備の船は切り込みも想定しており
装備しない船は遠距離戦用の可能性も有るのかだが http://i.imgur.com/MWiRMuN.jpg
上の日本船の装甲の竹束に見える物・見えない物双方は
竹束と異なり平たい様に見えるし
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E8%88%B9
>総矢倉の周囲は楯板と呼ばれる木製装甲で囲われており、戦闘員や艪をこぐ水夫を矢や銃弾から保護しているが[2]、安宅船よりも楯板が薄く防弾性能は低い。軽量化のため竹製の楯板になっていることもある。
この軽量化された竹製の盾板の可能性も有るのかだが
此れは遠距離の弓なら止まる可能性も有るのかだが
此れで遠距離の弓を止めつつ砲や手銃の射程外から
大鉄砲を打ち込むと言う事かも知れぬし
斬り込み用の装備では無い可能性も有るのかだが
http://i.imgur.com/EvopOcY.jpg
とは言え上の船には前部に竹束が有る様に見えるし
正面・側面限定でも竹束が装備されている船が
斬り込み用に投入されていた可能性も有るのかだが http://bunkazai.metro.tokyo.jp/jp/search_detail.html?page=1&id=300
江戸期の戦国期の物を模したと言う関船の模型には竹の装甲が有る様にも見えるが
此れは船体下部迄防護しているのはどう言う事なのかだが
船体下部が弓や弩で貫通され浸水するのを防いでいるのかだが
火炎には油を含む竹は弱い筈だが
朝鮮水軍は火矢は現実には余り使用しなかったのかだが 第二次木津川口の戦いのwiki見るとさ
織田方の水軍が鉄甲船6だけみたいな感じで書かれてるんだけど
実際、大船(鉄甲船かどうかは怪しい)を護衛する小舟もたくさん出てたわけでしょ?
一次の時は毛利が出した水軍の船に対して織田が急遽用意できた船が少なくて負けたわけで
二次は当然、毛利に対抗できるだけの数を揃えたと思うんだよ
鉄甲船がどうのみたいな話じゃなく備えがあったか否かの話でさ
なのに、毛利方が出したのは一次も二次もたいして規模の程度はないような記述なのに
二次の織田方は鉄甲船のような大船が6でただけみたいな記述はなんでなん?
二次の織田方の水軍兵力に関する情報ってそんなにないの? 第二次木津川口で織田側が小船を出したという記録は無い じゃあ本当に大船6しかないの?
仮にそれが主力だとしても
護衛艦なしで戦艦突っ込ますようなもんじゃないの?それ 織田の鉄甲船は、河口を塞ぐ移動砲台みたいなものだから 里見の水軍って強かったの?
瀬戸内の水軍に比べたら武装もちんけだろ? 鉄甲船とかあやふやなもんを事実のように書くな
移動砲台?その記述は一次資料にあるの?毛利方の資料とか 船とは名だけの砲台を設けた人工島のようなもんだったと思うよ
5000人乗せられて全長55mもある船って当時の技術じゃありえん >>602
木造船に鉄張りはそれ程、珍奇なモノではないし
文禄の役で鉄甲船が存在したのは確実 >>603
5000人とは6隻の合計人数であり、1隻当たり800人強であるとする意見もある >>600
少なくとも対北条では連戦連勝。海岸沿いの北条領は里見水軍にも年貢を収めてた
北条は自前の水軍じゃ足りないから紀州とか伊勢の水軍を借り出してる
>>604
「木津川口の戦いで」「移動砲台」になり得る「鉄甲船」が
「毛利の水軍を蹴散らした」とする一次資料はあるのかと聞いてる
文禄の役の話なんかしてねえ >>606
> 北条は自前の水軍じゃ足りないから紀州とか伊勢の水軍を借り出してる
それは知らなかった。カネ払えば傭兵になってやって来てくれたの? >>606
ほへ〜ずいぶん遠くのやつらを呼び寄せてたんだな、、、三浦半島のやつらだっけ?半端ない頻度で襲われたとか、、、 今川武田徳川水軍と渡り歩いた駿河水軍の向井正綱は伊勢出身。
それと渡り合った北条水軍の梶原景宗は紀伊出身 伊勢水軍と熊野水軍は東海道沿いの大名たちと交易を介して関係を持っていて、
戦に出張したり、召し抱えられる者も居た 後北条水軍(たしか)の関係者が、
海路、松島の瑞巌寺に参拝した
という記録を読んだ記憶がある。
たぶん安房の里見や、常陸の佐竹とかには事前に話をつけてから
沿岸を通過したんだろうな。 基本的に当時の水軍は傭兵と貿易商兼ねた勢力なので
依頼があれば行けるとこは行くよ
雑賀根来も船出して長宗我部の援軍とか行ってるし >>612
佐竹は水軍らしい水軍は持っていなかったのに、
なぜ雇ったんだろうか? 水軍としてではなく剣術師範としてだからじゃない?
水軍で立ち行かなくなったから剣術の道へ行ったわけだし愛洲さんは >>614
真崎宣広ってのが「佐竹水軍」を率いたってあったんだけど佐竹って水軍なかったの? >>616
河川のパトロール隊程度の水軍しかなかった。 もっとも水軍は戦闘だけではなく、兵站や伝令にも使えるので、
そういう意味での水軍は存在したのではないだろうか? 島等の地形の影から高速の小早等から大鉄砲を
遠距離から一発放って離脱と言う様な事は
果たして行われたのかどうかだが
縦射なら一発でも可成りダメージは受け得るだろうか https://i.imgur.com/MWiRMuN.jpg
前部に竹束の有る様な船も
朝鮮軍図屏風には書かれるが
関船等に大鉄砲を防げる様な竹束を正面に施して
安宅船を大鉄砲で攻撃と言う様な事は行われたのかだが ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%84%E7%94%B2%E8%88%B9
>その『多聞院日記』も「鉄の船なり。鉄砲通らぬ用意、事々敷儀なり」という伝聞の記述である。
と有るから
信長の鉄甲船は防火対策だけでは無く銃対策も
限定的ながら有ると言う事なのかだが
重量はどうなのかだが
秀吉の鉄甲船は幾らか裂けた等と言うが外洋戦闘を考慮しており信長の鉄甲船より軽量化され
防弾は余り考慮していない可能性は無いのかだが http://www.rekishi.info/forum/forum100/20050911173204.html
>肥前名護屋城図には3艘の安宅船が描かれそのうち1艘は3層と2層からなる二つの天守様の矢倉を載せています。
通常船のトップヘビーを招き安定性を失わせる上に、帆走するのにも不利なこうした構造物を単に乗船者の権威を高めるためだけに設けるでしょうか?
他の欠点に目を瞑るくらいやはり軍事上の利点が高かったと考えるべきでしょう。なお、この3層の矢倉を持つ安宅船はその色から鉄板装甲の可能性が指摘されています。
http://i.imgur.com/ErDY5vs.jpg
肥前名護屋城図の上の三層の櫓の有る船は
他の白い船と違い色が青いし
1593年の鉄甲船を書いているのかだが
鉄甲船なら防火用かも知れぬ幕は必要なのかと言う事は有るだろうが
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%AE%85%E4%B8%B8
銅板を貼った安宅丸には幕は無いと言う事だろうか pbs.twimg.com/media/C2MXC9KUkAAPWk5.jpg
上の肥前名護屋城図屏風の右側の船は
http://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_9/view/id/2443187/page/8
名護屋城博物館では全長38mと推定されているのかだが
左側の鉄甲が有るかも知れぬ船は此れよりやや大きい様に見えるが
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%AE%85%E8%88%B9
1573年に琵琶湖に
信長の55mの船と言うのが有った様だが
左側の船は果たして此れなのかどうかだが
琵琶湖から名護屋城に移動出来る物なのかだが
同程度のサイズの別の鉄甲船の可能性は有るのかだが https://twitter.com/boukenkyuu/status/905253802869112832
肥前名護屋城図の2つの大型艦のサイズは
上を見る限り同程度なのかだが
絵師の頭の中では上の櫓が高い物の方が
可成り大きいと言う可能性は有るのかだが 戦国期の水軍用の具足は軽目と言う意見も有るが
http://photozou.jp/photo/photo_only/1849954/200511501
上の蒙古襲来絵詞では大鎧を装備して切り込みをしているし
脛当ては有る様にも見えるから
水軍用の具足も特段軽装なのかだが
毛靴は滑るからか外している様に見えるが
戦国期では船上では草鞋は無いのかだが
https://www.pinterest.jp/pin/343610646561595253/
上の平家物語絵巻でも船上の兵は基本的に
一部の戦闘をしない様な指揮官を除き靴は無いと言う事なのかだが キチガイは妄想垂れ流す前に論文の一本も読みに図書館へ行きたまえ。
貴公は戦国水軍を理解しておらぬ。 安宅船は重装甲で全面の防弾を考慮した物も有るが
関船の場合は防弾を考慮する場合が有るとしても
前部に竹束が有る場合だけなのかだが
敵に上手く前面を向けて銃を放っている例は有るのかだが
こうした事をしても
大鉄砲の縦射を受けてやられる例等も有るのかだが 某研究者うぜえ
俺の覗くスレによくいるけど空気読んでくれ 語尾が「のかだが」だらけでゲシュタルト崩壊起こしそうになった >>629
コテなんだからNGにすればいいだけだろう
不毛な論争繰り返しているアホ共とは違い勉強になるからこれからも遠慮なく続けてほしい https://www.pinterest.jp/pin/343610646561609417/
上の水軍城に有る兜の吹返は
波を模している可能性も有るのかだが
果たして水軍が使用した物なのかだが >>631
勉強になるか・・・?
専門書読んでればすぐ分かるような疑問を、延々書き込んでるだけだろ。
某研にモノ教えても礼のひとつも言わないし、調子に乗って居つくからみんなスルーしてるだけだよ。 体系的にまとめるまでは行かないな。特に日本海側はさっぱり >>636
毛利水軍対尼子水軍!とか?
水軍の運用といっても。だいたいは水上機動陸戦なんだよなー >>638
> 水軍の運用といっても。だいたいは水上機動陸戦なんだよなー
あとは伝令用の早舟や、兵站輸送ね。 https://twitter.com/boukenkyuu/status/907874040601124870
上の蒙古襲来絵詞に有る様な小早より小さい小型船から
高精度の狭間筒を放って
大型艦艇をアウトレンジ等は出来るのかだが
的が小さいと言っても大型艦側に高精度の狭間筒が有れば
やられる危険は有ると言う事なのかだが
前面に狭間筒を止められる様な竹束を施せば
機動性は可成り低下する危険も有るのかだが
漕ぎ手と狭間筒を操作する人間のみを乗せれば
軽量化は可成り出来る可能性も有るのかだが
海が荒れている状態ではこうした小型艦の運用は
困難である訳だろうか >>640
https://twitter.com/boukenkyuu/status/907888939490353152
上の朝鮮軍図屏風に恐らく竹束を前部に装備した船が書かれているが
此れは狭間筒迄の防弾は考慮している共思えぬが
上の物はどうなのかだが
https://thepage.jp/osaka/detail/20140621-00000007-wordleaf
>1丁目は徳川方が使用したとされる大鉄砲。長さ1.7メートル、口径2.5センチ、重さ30キロ。大坂冬の陣で大坂城を取り囲んだ徳川方が、堀越しに天守閣へ向けて発射した。
>館長を務める澤田さんが話す。「徳川家康公が滋賀の鉄砲鍛冶の名工に命じて製造させたもので、命中度を高める照準装置を併用した可能性もある。
此れは500mで通常装甲の関船を狙撃すると言う様な事は出来るのかだが
椋の装甲の有る様な安宅船の装甲はそうした距離で貫通出来るのかだが
http://www.osakacastle.net/week/%E7%89%B9%E5%88%A5%E5%B1%95%E9%96%8B%E5%82%AC%E4%B8%AD%EF%BC%81
>慶長大火縄銃 全長3m 135kg
この種の物は大量生産されておらぬだろうし
船に搭載されている大鉄砲は
長い銃は通常は無い可能性は有るのかだが http://blog.livedoor.jp/sengokuranse/archives/36769938.html
>毛利高政所用 大鉄砲 閻魔王
>慶長の役で南原城を攻撃した際に使用したと伝わる。
>毛利高政は津田監物を流祖とする津田流の砲術を学び後に伊勢守流を創始している鉄砲の名手。
>去年オープンした大分の佐伯市歴史資料館に毛利高政が所持してた慶長大鉄砲の
>「閻魔王」、「四海波」、「秋風」の3丁が展示されてて、四海波は逆に徳川方として
>大阪城への攻撃に使われたって書かれてたな
「四海波(しかいなみ)」(全長282cm)
「無聖(むしょう)」(全長281cm)
「閻魔王(えんまおう)」(全長278cm)
「秋風(あきかぜ)」(全長201cm)
毛利高政は文禄・慶長の役では船奉行であるから
こうした銃が海上でも使用されていた可能も有るのかどうかだが
大量生産は無いと言う事なのかだが 自身が動揺する小舟からの大砲射撃など命中を期待できない。
的が巨大であるか余程の近接が必要。
だいたい、大砲や鉄砲に照準器がついてない。
近世でも銃身も火薬も品質が一定でないから当たり前。 >>643
>だいたい、大砲や鉄砲に照準器がついてない。
http://www.rekishi.info/forum/forum100/20050911173204.html
>現存する大型の火縄銃(大鉄炮や置き筒)と呼ばれるものには長大な射程(300〜1,000m)を有するものが存在し、遠距離用の照準装置(ややこしいですがこれも「やぐら」と言います。)も発達していました。
当時の記録には本国に鉄炮とこの「やぐら」を送れといった命令を発したものが見られます。こうした大型銃は船体破壊こそできないものの、朝鮮の火砲より命中精度と射程、可搬性に優れ、
安定性の高い停泊中の大型船や地上で使用すれば、高い命中精度を持つ文字通りの「アウトレンジ攻撃」が可能になります。
遠距離用の照準器は文禄・慶長の役では使われていたと言う事なのかだが
20匁程度の狭間筒なら
500mでも関船の何処かに当てる程度なら何とか成らないのかだが
20匁程度の狭間筒なら発射速度もそう遅いのかだが
小型船でも内海等で海が荒れていない状況なら
瞬発式火縄銃でも有るから狙撃は出来ないのかどうかだが
http://blog.goo.ne.jp/tibisan2006/e/fa88e7e116064ae3af0cfac203bae6e1
>今回は2m80pの”大鉄砲も...。全国にも4丁しかないとか。
此れは古い物では無いと言う事なのかだが
船上でも何とか使用出来そうにも見えるが
装填速度はどうなのかだが http://itworks.lolipop.jp/MyBlog/seventies/index.php?mp=&post=505
火縄銃の遠距離照準器のやぐらと言うのは上に有る物なのかだが
20匁狭間筒の500mの関船への射撃では
こうした物迄果たして必要なのかだが
http://itworks.lolipop.jp/MyBlog/seventies/index.php?mp=&post=510
10匁・全長2mの狭間筒でさえやぐらの装備を考慮していると言う事なのかだが
遠距離では威力は可成り低下する可能性は有る訳だろうか http://www.sanken-intl.co.jp/arcive_sanada/contents/column/hinawa/teppo_tai.html
>また、町打(ちょううち)という100mをこえる遠距離射撃も行われたそうで、3町(327m)の距離から3尺(90cm)の的を打って競ったというのには驚かされる。
此れはどの程度の命中率だったのかだが
こうした訓練をして居た事実は有ると言う事なのかだが
>また細川家の家臣松野亀右衛門という名手は、島原の乱で原城を攻撃する際、5町(545m)先の敵を打って外さなかったそうである。
此れはベイカーライフルと似た様な距離での狙撃だが
通常の火縄銃に拠る物なのかだが
https://pbs.twimg.com/media/DJmjim8VAAEqO3C.jpg
上の学研・日本武器集成には
通常サイズの竹束は28mでも6匁筒がほぼ貫通しないと有るが
https://pbs.twimg.com/media/DJlzZdiVAAAtAGx.jpg
上の朝鮮軍図屏風の上の竹束が前面に有る船は竹束は上部でも2つ重なっているから
10匁或いは其れ以上の筒の防弾を意識している可能性も有るのかだが 竹束を前面に装備した小型船が
大型艦等から大狭間筒の反撃を受ける可能性も有るだろうが
http://massneko.hatenablog.com/entry/2015/07/04/150000
大狭間筒も上の50匁筒以上の物は無いのかだが
6匁筒が30mで通常の竹束を貫けないと言う事は
50匁大狭間筒は500mでは小型船の前面の竹束を貫けない可能性も有るのかだが
300mでも貫けないかも知れぬが
余り接近すると100匁以上等の短い筒の直撃を
的が小さいとしても受けて竹束が貫通する危険は有る訳だろうか 来島対能島とか能島対来島で対決しているが、海戦になっているのかねえ?
島に籠って攻撃してくる軍船に反撃しているだけに見える。
だいたいさー、海戦で戦死した武将って殆ど居なくね?
島に上陸して切腹とか、負けてもそんな感じだよね。 水軍同士の海戦ってどんな感じで戦ってたんだろ?源平合戦のあの頃をイメージすればいいかね? そもそもそんな広い海域がないし
迎え撃つ方も海上より海岸線に築いた砦の方が有利だから
本格的な海戦なんて国内じゃほとんどないんじゃないの >>633
某研のネット検索情報垂れ流しを見て勉強になるとか言ってるんだから
よっぽど基本的な知識がないんだろうな… http://paomaru.dousetsu.com/file/09_hinawa_004.html
中央日本周辺: 長さ→130cm前後 重量→2〜5kg 口径→2〜4匁
瀬戸内海付近: 長さ→140cm前後 重量→2〜6kg 口径→2〜3匁
九州地方付近: 長さ→100cm前後 重量→4〜6kg 口径→5〜6匁
東北地方付近: 長さ→110cm前後 重量→4〜10kg 口径→5〜10匁
>船での戦いでは、相手は基本的に遠くにいます。遠くの敵を狙うのに必要な銃の条件は、長い銃身と小さな口径です。銃身が長ければ、火薬のエネルギーを効率よく使えます。口径が小さければ、弾丸が軽いので弾は遠くまで届きます。
此れは船の装甲を貫く事は考慮していないと言う事なのかだが
装甲は無く火矢を防ぐ為の幕を張っただけの
小型船も多かった訳だろうか 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:77bfa3ad753b2994479210bef5c6504a) >>654
武田水軍と後北条水軍が戦ったことなかったか?
結果は引き分けぽかったが。 ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%B3%8A%E5%81%9C%E6%AD%A2%E4%BB%A4
秀吉の海賊停止令後
海賊は水軍兵や陸軍兵と成った者も多いのかだが
海賊行為が忘れられず倭寇等に入る者は果たして居たのかだが