【海賊】 水軍スレ 【安宅船】
信長の鉄甲船があったとかなかったとか
そんなことについて語ろうぜ >>525
>>528
【日韓】韓国で大ヒットの“抗日映画”「鳴梁」日本公開に向け準備中 キム監督「この作品は日本人が歴史を知る手助けになる」★2[08/27]
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1409130597/l50 本願寺補給路封鎖作戦で村上水軍にリベンジしたときの九鬼水軍の主力艦は
大安宅船と呼んだらしいな
既存の安宅船より大きかったことは間違いなさそうだ >>534
ナニ行ってるかわからんし誰が誰かも判別つかんけど、日本の大河ドラマよりカッコええな 1560年代あたりの師崎水軍の装備はどんなだっか情報ありませんか 1月4日(日)朝4:55〜5:50 テレビ朝日
「村上水軍と塩飽水軍 海の覇者 瀬戸内海賊ヒストリー」
香川照之が瀬戸内海で活躍した水軍の歴史を巡る〜
正月からマニアックな
そして俺向けな番組やってんなあテレ朝 番組見たわ
村上が世渡りヘッタクソで塩飽が世渡り上手みたいな感じで
紹介されてたがホントなん? 観てないけどどんな内容でした?塩飽水軍って『瀬戸内海族物語』で名前聴いたぐらいでしか知らない 内容は薄かった
村上は武に秀でて主(毛利)を変えず
塩飽は知に秀でて信長秀吉家康と主を変えて交易でボロ儲けした、みたいな感じ。
村上は武吉についてちょっと触れて。塩飽は塩飽大工最後の人みたいなのを紹介。伝太夫とかについては触れず
まあ、あの時間に起きてまで見る内容じゃなかった 普通に考えると、鉄板張りしたら錆ないか?
すぐに使い物にならなくなるよ。しかも海だよ。
戦のたびに鉄板替えてたりとか?
当時は防錆技術なんてないだろうし。
その辺どうなの?誰も指摘しないかど。 鉄甲船は史料だと鉄砲を大量に積んだ軍船の事で
鉄板張りの類は書かれていないと、どっかで読んだ 徳川秀忠が改良して腐食に強い銅張りの鉄甲船作ったからそれなりに錆びたんじゃない >>547
鉄甲船は史料に存在しない
昭和末期に生まれた空想の産物だから
毛利-村上水軍に一度完敗した織田軍が、九鬼に作らせた「大安宅船」で再戦した
大安宅船は既存の安宅船を更に大型化したもので、「大砲」を積んで運用した
フロイスによると、この大砲が決定的な勝利をもたらしたとのこと
少し後の秀吉の時代に、明征服作戦の装備として鉄張の軍船が試作されたが、
これは完全な失敗作で、実用にはならなかった
この情報も、鉄甲船という架空兵器の基の一部になっていると思われる
朝鮮の「亀甲船」が全面装甲艦だったという荒唐無稽な空想と同水準だな
あちらの亀甲船は、甲板上を棘付きの篭で覆い、斬り込みによる白兵戦を防ぐものだった
どこをどう曲解して装甲艦に仕立て上げたものやら >>546
当時の鉄製の金物は
基本的に表面を黒錆処理して内部が錆びるのを防いでいる 名護屋からジョアン・ロドゥリーゲスは一書簡を送付してきたが、彼はその中で次のように述べている。
「関白はこのたびの朝鮮征服のために幾隻か非常に大きい船舶を建造させました。
それらの舟は、すべて水面から上は鉄で覆われ、中央に船楼を有します。
相互に通じる船橋は、いずれも鉄が被せられ、木(造部)は露出していません。
そして全て甚だしく美しく塗金されています。
それは大いに鑑賞に値するもので、私は時々それらの船に入ってみました。
同署にありました船を測ってみましたところ、長さ十九畳ありました。
数名のポルトガル人たちは、それらの船舶に入ってみて肝を潰していましたが、それらの船は弱体で、船骨に欠(陥)があったために、幾隻かは裂けて沈没してしまいました。」 和船に船骨はない
てここのスレまだあったのか…たまげたなぁ 外海には出ないし泊まれる港もなくなるしいらんのよね 一応、鉄甲船も鉄板貼った板を外して船底に収納すれば、渡海も可能 DAT落ちはしないと思うが、いちおう念のために保守。 九鬼水軍の鉄甲船とイスパニアのガレオン船もし戦わば 「李舜臣漫画家」オンリーコムパン「慰安婦被害者全幅支持」
送稿時間| 2016/07/07 07:00
ttp://img.yonhapnews.co.kr/photo/yna/YH/2016/07/06/PYH2016070619260001300_P2.jpg
ソウル漫画アニメフェスティバル参加..."実際の英雄の話を知らせたくて"
(ソウル=連合ニュース)ゴウンジ記者= “李舜臣漫画家”として有名なアメリカ人の漫画家オンリーコムパン(Onrie Kompan・33)は7日、「日本軍慰安婦被害者に全面的な支持(fully support)を送る」と述べた。
6〜10日、ソウル東大門デザインプラザ(DDP)と明洞駅CGVなどで開かれる第20回ソウル国際漫画アニメーションフェスティバル(シカプ・SICAF)に出席するため韓国を訪れたコムパンは聯合ニュースとのインタビューで
「私は日本軍慰安婦被害者を支持する」と言って「日本が彼らに犯した蛮行と慰安婦被害者の声が全世界に知られなければならない」と強調した。
先立ってコムパンは、昨年末、韓国を探して「慰安婦少女像」にショールを巻いて、今年の初めには、自分のソーシャルネットワークサイト(SNS)に「慰安婦のための平和と解決」というタイトルの記事で慰安婦問題等に関する自己の考えを明らかにして話題を集めた。
彼はちょうど「今回はシカプスケジュールに集中しなければならないので、慰安婦をお伺いしたり、それに関する行動をとることはできないようである」と残念がった。
シカプは今年の海外巨匠招待展にコムパンを招待して、イベント期間DDP会場内に設けられた“李舜臣ブース”で彼の作品を展示する。
来る9日には、ここでファンサイン会を開き、コムパンとファンが直接会って話をする時間を持つ。
コムパンは「シカプで私を招待してくれたことに感謝して光栄に思っている」とし「世界各国の様々な漫画・アニメ会場に通ったが、このように圧倒的で、優れた席は初めて」と所感を明らかにした。
コムパンは忠武公李舜臣の業績に盛り込んだ漫画“李舜臣:戦士と守護者”(Yi Soon Shin:Warrior and Defender)シリーズを出版して、米国だけで5万冊以上を販売した。
ttp://img.yonhapnews.co.kr/photo/yna/YH/2016/07/06/PYH2016070619280001300_P2.jpg
韓国のドラマを通じて初めて李舜臣の話に接したはコムパンは、「他のスーパーヒーローとは異なり、李舜臣は実際に存在していた英雄という点で大きな魅力を感じた」とし「逆境に克服し、国を救った彼の尊厳な話を人々に知らせたかった」と語った。
コムパンの“李舜臣愛”は継続される。
彼は来る10月、鳴梁海戦に背景にした“李舜臣:落ちた復讐者”(Yi Soon Shin:Fallen Avenger)を出版する。
コムパンは「現在新作の作業中で、10月中に米国ニューヨークで開催される漫画祭“コミックコン”(Comicon)でデビューをする」と明らかにした。
「イベント期間(四日間)で1千500冊を売る」と作品に対する自信ものぞかせた。
アメリカ人にも韓国の偉人をテーマにした漫画を描いて李舜臣の業績を全世界に知らしめたコムパン。
しかし、彼はむしろ、自分に声援を送ってくれる韓国ファンたちに感謝の気持ちを伝えた。
「私の漫画を愛してくれる韓国ファンにありがたく、すべてのことに感謝します。受けた愛に報いようと、今後も継続してまいります。」
ttp://www.yonhapnews.co.kr/bulletin/2016/07/06/0200000000AKR20160706196600005.HTML やっぱり安宅船の語源は安宅氏だと思うな
南北朝時代から首都圏近郊の海洋で活躍して
人口に膾炙したことは想像に難くない 壬辰倭乱1592
KBS韓国放送公社
スポット
http://www.youtube.com/watch?v=-3dqFN04G5w
今までの戦いは忘れろ!
壬辰倭乱1592が戦争の歴史を直す。
壬辰倭乱1592 - 2016年9月3日(土)21:40 KBS 1TV放送予定。
ttp://www.kbs.co.kr/1tv/sisa/imjinwar/index.html 李舜臣将軍、露梁海戦決戦意志込められた「最後の手紙」初公開
送稿時間| 2016/09/30 10:05
ttp://www.yonhapnews.co.kr/bulletin/2016/09/30/0200000000AKR20160930058500014.HTML
明軍に渡す...撤退する倭軍への先制攻撃を主張
(ソウル=聯合ニュース)イ・ヨンジェ記者=
李舜臣将軍が壬辰倭乱最後の決戦である露梁海戦を控えて、自分の作戦計画を込めて明軍に送った文書が30日初公開される。
国防部はこの日午後、国防部軍事編纂研究所と全南大李舜臣海洋文化研究所の共同主催で全南大麗水キャンパスで開催される国際学術大会で李舜臣の最後の簡札を初めて公開すると明らかにした。
簡札は竹彫刻の竹簡や木の彫刻である木札に書いた文章、広い意味では、紙や絹に記録した手紙も含まれている。
今回の学術大会で公開されている李舜臣の簡札は、1598年11月露梁海戦を控えて作成されたもので、明の監軍・王士gに伝達されたが、彼の子孫が「章安王氏宗譜」に収録して現存することになった。
この簡札で李舜臣は朝-明連合軍の攻勢で順天倭橋城に孤立した倭将小西行長の退路を開けないことを明軍に説得し、彼の撤退を支援するための水軍を先制攻撃しなければならないという主張を繰り広げた。
李舜臣は明水軍将帥劉テイ(劉綎)と陳リン(陳璘)が小西の懐柔と賄賂によって倭軍の撤退路を開ける案を苦心していることを見抜いていた。
当時、日本軍は豊臣秀吉が息を引き取って、残した遺言に基づいて撤退を進めており、海の安全な退路を確保するのが急務だった。
これをよく知っている李舜臣は、朝明連合軍の指揮権を握った明軍に小西の懐柔に乗らないように説得して倭軍を倒すための決戦を促したのである。
今回発掘された李舜臣の簡札は現存する壬辰倭乱・丁酉再乱史料である“朝鮮王朝実録”、“李忠武公全書”、“乱中日記”、“李コ馨文集”などでも見つけることができなかった史料で、歴史的な価値が大きいというのが国防部の説明である。
キム・ギョンロク軍事編纂研究所上級研究員は、「李舜臣将軍の簡札は、朝明連合軍作戦に消極的だった明軍を説得して日本軍の退路を遮断、殲滅しようとしていた作戦の意志を示す史料」と説明した。 >>571
>日本軍の退路を遮断、殲滅しようとしていた作戦
結局、露梁海戦で日本軍の退路を遮断殲滅することに失敗したな。
しかも李舜臣自身が戦死したのをはじめ、明・朝鮮の上級武将が多く戦死。
上級武将が多く戦死しているならば、兵卒も多く戦死していることは間違いない。
朝鮮側にとって惨憺たる結果だったというのが露梁海戦。 >>571
連合軍とは今の韓国視点からの名ばかりで李舜臣が主将ではなかった証拠だね。 何で大航海時代の造船技術や航海術は手に入らなかったの
鉄砲をあれだけ量産したり城や何だと建築できる技術とGDPがあれば
金なんかいくらでも積めたよね
船ごと艦隊ごと買うとか容易かったろうに
海賊はいくらでも買えたろう
蘭学事始並の語学力がいるわけでもなかろうに >>578
武田信玄が駿河を制圧した時に、
どこかの水軍大将を引き抜いたのではなかったか? 伊勢とか熊野で零落した水軍集は関東にきてるね
向井氏 北畠→今川→武田→徳川。
小浜氏 武田→徳川。志摩水軍。
伊丹氏 今川→武田→徳川。
梶原氏 伊勢の海賊から北条氏に出向。北条滅亡後は紀伊へ帰る。
愛洲氏 佐竹氏などに使えた剣豪。元は熊野水軍の出。
信長が九鬼を引き立てた結果(縁戚にある熊野水軍の新宮氏も伸びた)、
勢力争いに敗れた伊勢志摩の水軍が各地へ散った 外国からくる船は当然、外国へ帰る足でもあるので
そんなホイホイ売れないし、軍事機密でもあるんだから
そんな簡単に手放さないでしょ 能島村上海賊の新史料 今治・水軍博で展示
愛媛県今治市大島沖の国史跡・能島城跡を根拠地としていた村上海賊三家の一つ
能島村上家の新史料が発見され21日、市村上水軍博物館が発表した。戦国時代の
古文書の写しをまとめた冊子「御感状御證文写(ごかんじょうごしょうもんうつし)」
や、江戸時代に仕えた萩藩毛利家(山口県)からの書状などで「近世以降の動向
を知る上で貴重」としている。新史料2点などを展示する企画展「能島村上家
伝来資料群」が22日〜6月25日、同博物館で開かれる。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170422-22630501-ehime-l38 なんかこの時代の造船のことについて書かれた、良質な資料ってないかな?探してもなかなかみつからない。 ここがよくまとまってる
http://navy.ap.teacup.com/applet/kanzo/msgcate3/archive?b=30 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:87f20c3c9ee883ab649a4d7f8b996d63) 10匁等の狭間筒は船舶からも使用されたと有るが
通常の関船が此れを大量に装備している可能性は果たして有るのかだが
此れは安宅船の外板も貫通する可能性は有るのかだが
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E8%88%B9
>『小田原北条記』巻七には、「小田原方の船は艪が50挺あり、15間(27メートル)先から鉄砲で撃っても貫けないようにこしらえていた」
此れは10匁狭間筒が27mでも貫通しないと言う訳では無いのかだが
通常の3−6匁筒の可能性も有るのかだが https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E8%88%B9#cite_note-2
>関船も竜骨を用いずに板材を釘とかすがいで繋ぎ止める造船法をとっており、軽量かつ頑丈であるものの、衝突による破損には弱く体当たり攻撃には適さない。
>そのため、西洋船や中国船より採れる戦術の幅が狭い。
http://www.sengokushi.com/sengokushi/?p=950
>上原船は体当たり攻撃を行う構造を持っている。
>箱型の船首に、「衝角」とも言える鉄のバンバーがある。
>和船は、構造上体当たり攻撃は出来ない、と言われるが、戦闘時に接舷し乗り込み
>攻撃を行うのであれば、どの様な態勢であれ、体当たりになる。
>接舷攻撃をする以上、対策は必要であろう。
竜骨無しでも伊勢型の船体でバンパーの様な物が有れば
十分体当たりは出来た可能性も有るのかだが http://blog.livedoor.jp/waruneko00326-002/archives/49572886.html
徳川家御座船安宅丸は、厚さ一尺の盾板表面を厚さ3ミリの銅板を貼り装甲している。
この安宅丸について水戸光圀は「鉄砲いかほどあたりても船やぶる事なき也」『西山遺聞』
と評している。
当時の人達の関心が鉄砲に対する防御に向いていたことがわかるだろう。
盾板の厚さが30cmも有る例が有るのかだが
此れは近距離で無いと10匁狭間筒では貫通出来ないのかだが >>243
>安宅船の盾板は厚さ6〜10センチくらいあるぞ。
10cm程度では少なく共近距離では
10匁狭間筒は止まらないと言う事なのかだが https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/rekihaku/126/witness.html
>1615(元和元)年の津田重長の秘伝書にも「鎧通玉のこと」「先を三角にした太くて長い竹束玉のこと」、
>狭間は城郭の施設、鎧通は文字どおり甲冑を貫通する玉、当時、鉄炮を防禦するために竹束を用意したが、それを貫通する玉が竹束玉である。
上の竹束玉が船舶の貫通に使用された可能性は有るのかどうかだが http://i.imgur.com/MWiRMuN.jpg
上の朝鮮軍図屏風の日本軍の船の一部は竹束が有る様にも見えるが
http://i.imgur.com/Bh04Nzq.jpg
http://i.imgur.com/iwgNrAZ.jpg
上の大阪の陣でも投入された盲船の可能性も有るのかだが
此れは現実に投入されたとすれば
朝鮮水軍の主に手銃を防ぐ為の物なのかだが
此れの射程外から大鉄砲で攻撃を加えるのが基本と言う事では無いのかだが
朝鮮水軍の遠距離の砲を止める為の物の可能性は無いのかだが
絵でも全てが竹束を装備している様にも見えないし
竹束装備の船は切り込みも想定しており
装備しない船は遠距離戦用の可能性も有るのかだが http://i.imgur.com/MWiRMuN.jpg
上の日本船の装甲の竹束に見える物・見えない物双方は
竹束と異なり平たい様に見えるし
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E8%88%B9
>総矢倉の周囲は楯板と呼ばれる木製装甲で囲われており、戦闘員や艪をこぐ水夫を矢や銃弾から保護しているが[2]、安宅船よりも楯板が薄く防弾性能は低い。軽量化のため竹製の楯板になっていることもある。
この軽量化された竹製の盾板の可能性も有るのかだが
此れは遠距離の弓なら止まる可能性も有るのかだが
此れで遠距離の弓を止めつつ砲や手銃の射程外から
大鉄砲を打ち込むと言う事かも知れぬし
斬り込み用の装備では無い可能性も有るのかだが
http://i.imgur.com/EvopOcY.jpg
とは言え上の船には前部に竹束が有る様に見えるし
正面・側面限定でも竹束が装備されている船が
斬り込み用に投入されていた可能性も有るのかだが http://bunkazai.metro.tokyo.jp/jp/search_detail.html?page=1&id=300
江戸期の戦国期の物を模したと言う関船の模型には竹の装甲が有る様にも見えるが
此れは船体下部迄防護しているのはどう言う事なのかだが
船体下部が弓や弩で貫通され浸水するのを防いでいるのかだが
火炎には油を含む竹は弱い筈だが
朝鮮水軍は火矢は現実には余り使用しなかったのかだが 第二次木津川口の戦いのwiki見るとさ
織田方の水軍が鉄甲船6だけみたいな感じで書かれてるんだけど
実際、大船(鉄甲船かどうかは怪しい)を護衛する小舟もたくさん出てたわけでしょ?
一次の時は毛利が出した水軍の船に対して織田が急遽用意できた船が少なくて負けたわけで
二次は当然、毛利に対抗できるだけの数を揃えたと思うんだよ
鉄甲船がどうのみたいな話じゃなく備えがあったか否かの話でさ
なのに、毛利方が出したのは一次も二次もたいして規模の程度はないような記述なのに
二次の織田方は鉄甲船のような大船が6でただけみたいな記述はなんでなん?
二次の織田方の水軍兵力に関する情報ってそんなにないの? 第二次木津川口で織田側が小船を出したという記録は無い じゃあ本当に大船6しかないの?
仮にそれが主力だとしても
護衛艦なしで戦艦突っ込ますようなもんじゃないの?それ 織田の鉄甲船は、河口を塞ぐ移動砲台みたいなものだから 里見の水軍って強かったの?
瀬戸内の水軍に比べたら武装もちんけだろ? 鉄甲船とかあやふやなもんを事実のように書くな
移動砲台?その記述は一次資料にあるの?毛利方の資料とか 船とは名だけの砲台を設けた人工島のようなもんだったと思うよ
5000人乗せられて全長55mもある船って当時の技術じゃありえん >>602
木造船に鉄張りはそれ程、珍奇なモノではないし
文禄の役で鉄甲船が存在したのは確実 >>603
5000人とは6隻の合計人数であり、1隻当たり800人強であるとする意見もある >>600
少なくとも対北条では連戦連勝。海岸沿いの北条領は里見水軍にも年貢を収めてた
北条は自前の水軍じゃ足りないから紀州とか伊勢の水軍を借り出してる
>>604
「木津川口の戦いで」「移動砲台」になり得る「鉄甲船」が
「毛利の水軍を蹴散らした」とする一次資料はあるのかと聞いてる
文禄の役の話なんかしてねえ >>606
> 北条は自前の水軍じゃ足りないから紀州とか伊勢の水軍を借り出してる
それは知らなかった。カネ払えば傭兵になってやって来てくれたの? >>606
ほへ〜ずいぶん遠くのやつらを呼び寄せてたんだな、、、三浦半島のやつらだっけ?半端ない頻度で襲われたとか、、、 今川武田徳川水軍と渡り歩いた駿河水軍の向井正綱は伊勢出身。
それと渡り合った北条水軍の梶原景宗は紀伊出身 伊勢水軍と熊野水軍は東海道沿いの大名たちと交易を介して関係を持っていて、
戦に出張したり、召し抱えられる者も居た 後北条水軍(たしか)の関係者が、
海路、松島の瑞巌寺に参拝した
という記録を読んだ記憶がある。
たぶん安房の里見や、常陸の佐竹とかには事前に話をつけてから
沿岸を通過したんだろうな。 基本的に当時の水軍は傭兵と貿易商兼ねた勢力なので
依頼があれば行けるとこは行くよ
雑賀根来も船出して長宗我部の援軍とか行ってるし >>612
佐竹は水軍らしい水軍は持っていなかったのに、
なぜ雇ったんだろうか? 水軍としてではなく剣術師範としてだからじゃない?
水軍で立ち行かなくなったから剣術の道へ行ったわけだし愛洲さんは >>614
真崎宣広ってのが「佐竹水軍」を率いたってあったんだけど佐竹って水軍なかったの? >>616
河川のパトロール隊程度の水軍しかなかった。 もっとも水軍は戦闘だけではなく、兵站や伝令にも使えるので、
そういう意味での水軍は存在したのではないだろうか? 島等の地形の影から高速の小早等から大鉄砲を
遠距離から一発放って離脱と言う様な事は
果たして行われたのかどうかだが
縦射なら一発でも可成りダメージは受け得るだろうか https://i.imgur.com/MWiRMuN.jpg
前部に竹束の有る様な船も
朝鮮軍図屏風には書かれるが
関船等に大鉄砲を防げる様な竹束を正面に施して
安宅船を大鉄砲で攻撃と言う様な事は行われたのかだが ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%84%E7%94%B2%E8%88%B9
>その『多聞院日記』も「鉄の船なり。鉄砲通らぬ用意、事々敷儀なり」という伝聞の記述である。
と有るから
信長の鉄甲船は防火対策だけでは無く銃対策も
限定的ながら有ると言う事なのかだが
重量はどうなのかだが
秀吉の鉄甲船は幾らか裂けた等と言うが外洋戦闘を考慮しており信長の鉄甲船より軽量化され
防弾は余り考慮していない可能性は無いのかだが http://www.rekishi.info/forum/forum100/20050911173204.html
>肥前名護屋城図には3艘の安宅船が描かれそのうち1艘は3層と2層からなる二つの天守様の矢倉を載せています。
通常船のトップヘビーを招き安定性を失わせる上に、帆走するのにも不利なこうした構造物を単に乗船者の権威を高めるためだけに設けるでしょうか?
他の欠点に目を瞑るくらいやはり軍事上の利点が高かったと考えるべきでしょう。なお、この3層の矢倉を持つ安宅船はその色から鉄板装甲の可能性が指摘されています。
http://i.imgur.com/ErDY5vs.jpg
肥前名護屋城図の上の三層の櫓の有る船は
他の白い船と違い色が青いし
1593年の鉄甲船を書いているのかだが
鉄甲船なら防火用かも知れぬ幕は必要なのかと言う事は有るだろうが
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%AE%85%E4%B8%B8
銅板を貼った安宅丸には幕は無いと言う事だろうか pbs.twimg.com/media/C2MXC9KUkAAPWk5.jpg
上の肥前名護屋城図屏風の右側の船は
http://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_9/view/id/2443187/page/8
名護屋城博物館では全長38mと推定されているのかだが
左側の鉄甲が有るかも知れぬ船は此れよりやや大きい様に見えるが
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%AE%85%E8%88%B9
1573年に琵琶湖に
信長の55mの船と言うのが有った様だが
左側の船は果たして此れなのかどうかだが
琵琶湖から名護屋城に移動出来る物なのかだが
同程度のサイズの別の鉄甲船の可能性は有るのかだが https://twitter.com/boukenkyuu/status/905253802869112832
肥前名護屋城図の2つの大型艦のサイズは
上を見る限り同程度なのかだが
絵師の頭の中では上の櫓が高い物の方が
可成り大きいと言う可能性は有るのかだが 戦国期の水軍用の具足は軽目と言う意見も有るが
http://photozou.jp/photo/photo_only/1849954/200511501
上の蒙古襲来絵詞では大鎧を装備して切り込みをしているし
脛当ては有る様にも見えるから
水軍用の具足も特段軽装なのかだが
毛靴は滑るからか外している様に見えるが
戦国期では船上では草鞋は無いのかだが
https://www.pinterest.jp/pin/343610646561595253/
上の平家物語絵巻でも船上の兵は基本的に
一部の戦闘をしない様な指揮官を除き靴は無いと言う事なのかだが キチガイは妄想垂れ流す前に論文の一本も読みに図書館へ行きたまえ。
貴公は戦国水軍を理解しておらぬ。 安宅船は重装甲で全面の防弾を考慮した物も有るが
関船の場合は防弾を考慮する場合が有るとしても
前部に竹束が有る場合だけなのかだが
敵に上手く前面を向けて銃を放っている例は有るのかだが
こうした事をしても
大鉄砲の縦射を受けてやられる例等も有るのかだが 某研究者うぜえ
俺の覗くスレによくいるけど空気読んでくれ 語尾が「のかだが」だらけでゲシュタルト崩壊起こしそうになった >>629
コテなんだからNGにすればいいだけだろう
不毛な論争繰り返しているアホ共とは違い勉強になるからこれからも遠慮なく続けてほしい