【海賊】 水軍スレ 【安宅船】
信長の鉄甲船があったとかなかったとか
そんなことについて語ろうぜ 坊主が軍事に疎い時代では無かったと思うが、どうだろう? 「テツハウ」は火薬兵器全般を指す言葉では?
元寇で使われた炸裂弾も「てつはう」だろう。 >>232
>「テツハウトヲラヌ用意事々敷也」だっけ。
『多聞院日記』では「トヲラヌ用意」なんだから、
火縄銃の銃弾も貫通を防ぐための用意っぽい。
焙烙の延焼防止対策だったら違う表現を用いただろう。
>軍事に疎いであろう坊さんが伝聞で書いたもんだし、あまりあてにならないんじゃないの。
僧侶は軍事を含めた当時最高の知識人といえる。
武将の幼少期の教育係が僧侶の場合は多い。
今川義元の軍師になった大原雪斎は有名だし
戦国武将の中に幼少期から青年期に寺院で学んだ人物も多い。(石田三成とか)
僧侶にして大名になった安国寺恵瓊もいる。
本願寺の僧侶たちは強大な信長を苦しめてた。 >>235
そんなもん百も承知だが、又聞きは又聞き。
多門院日記には
「人数5千人ばかり乗る。横へ7間、縦へ12,3間もこれあり」なんて記されているが
これは人数といい船の形状といい100%ありえない数字だし、
色々差し引いて考えるべき文献なのは確かであるよ。
そもそも鉄砲の弾だけを防御するんだったら、木製の盾板を分厚くするだけでいい。
重い上に不安定になる鉄板なんか貼る必要はない。 >>236
同じ防御力を達成のためなら
木製の分厚い盾板より
鉄板を貼ったほうが軽い。 同じ重量の防御力
鉄板盾板>>>>木板のみの盾板
鉄板+木板盾板>>>>木板のみの盾板
甲冑の主流が木製でなく鉄製なのは、鉄板の防御力が木板を上回るから。
近代の軍艦や戦車の装甲が木製でなく鉄製なのは、鉄板の防御力が木板を上回るから。 >>239
言っておくが、普通の木製の安宅船でも、並程度の鉄砲玉なら十分防御できるの。
でなけりゃ盾板の意味なんか無いだろう。
安宅船は鉄砲の普及後に登場した強化型の軍船で、あらかじめそういう風に作ってある。
それでも第一次木津川海戦で織田軍が負けて鉄板の装甲を追加せねばならなかったってことは、
毛利が焙烙火矢を使ってきたって事さ。 >>234
『多聞院日記』の書かれた時代には
「テツハウ」は火薬兵器全般を指す言葉ではなくなっている。
この時代に「テツハウ(鉄砲)」と言った場合は火縄銃のことで
炸裂弾は「焙烙」と呼ばれるようになって
もはや「てつはう」とは呼ばれなくなくなっている。
また>>235に書いてあるように「トヲラヌ用意」という表現も併せてみると
『多聞院日記』の「鉄の船也、テツハウトヲラヌ用意事々敷也」は
火縄銃の銃弾貫通防止を目的とした「鉄の船」といえる。 >>240
中世以来使われている対弓矢用の一般的な木盾の厚さでは火縄銃の玉を防げない。
火縄銃の玉を防ぐには板の厚みを相当厚くしなければならず、その場合重量が重くなり
船の復原性や機動力が低下する。
対して重量あたりの防御力に優れた鉄を用いることで軽量化を実現する事ができる。
陸上の攻城戦でも対火縄銃防御に鉄を貼った盾が用いられており、
同じ発想は海上の戦いに適用されていただろうから
船も銃弾を防ぐために鉄で防御されていたと考えるのは、むしろ自然なことだろう。 >>242
待て待て待て・・・
>中世以来使われている対弓矢用の一般的な木盾の厚さでは
それ、厚さ3センチくらいの奴だろう。
何で野戦用の個人装備、しかも弓矢の時代のものを引き合いに出す?
安宅船の盾板は厚さ6〜10センチくらいあるぞ。
一般の安宅船でも、鉄砲弾を無力化させるくらいの防御力は十分あるって言ってるだろう。
矢弾を防御しつつ接舷して切り込むのが当時の海戦のスタイルなんだから。
盾板には竹の束を使われる事もよくあって、これも銃弾に対しての防御効果は十分だった。長持ちはしなかっただろうが・・・
>火縄銃の玉を防ぐには板の厚みを相当厚くしなければならず、その場合重量が重くなり
>船の復原性や機動力が低下する。
だから、それを実際やったのが安宅船なんだってば。
確かに君の言うように旧来あった関船より機動性は落ちたのだが、
それが実戦において有用であり、日本のどこでも広く使われてたんだから否定しようがない。
毛利が大口径の大鉄砲やら大筒でも大量に持ってたってのなら話は別だが、そんな話は聞かない。
それをやったのは織田の方。
>>241
ループだが、多門院日記のソースは伝聞にすぎない。
鉄甲船を実際に見た人が
「火縄銃対策のための鉄板」とそれを判断したら、間違った認識もそのままに書かれるだろう。
まあ、普通の人は延焼対策なんて思いもよらないだろうから、
対鉄砲用だと誤解されても無理はない話だが。
ていうか君は、何でそこまで鉄板を対火縄銃用の装甲という事にしたいのかね。焙烙対策では、何か不都合でも?
鋼鉄の軍艦が、いかなる銃弾をもはじき返すようなイメージにあこがれてるのかね? >>236
>>243
そろそろ「多門院日記」って書かずに『多聞院日記』って書いてくれ。
なかなか自分で気づかない人だな・・・
ところで、「多門院日記のソースは伝聞にすぎない。」ってソースは? >>244
つまり、信長が
「鉄は木材より重量あたりの防御効果が高いのじゃ」
と主張して、対毛利の鉄砲用軍船を特別に作らせたと。
わかった、もう君はその説を信じててくれ。 客観的事実
対鉄砲用の鉄船とする史料は存在する。
(『多聞院日記』「鉄の船也、テツハウトヲラヌ用意事々敷也」)
対焙烙用の鉄船とする史料は全く存在しない。 一つだけ質問いい?
どんな戦法を使って毛利は第一次木津川海戦で織田方に大勝したの? つうか「どっちも」でしょ?
鉄砲にも火矢にも強いからってだけじゃん 信長鉄船について(『多聞院日記』「鉄の船也、テツハウトヲラヌ用意事々敷也」)
他に
徳川家御座船安宅丸は、厚さ一尺の盾板表面を厚さ3ミリの銅板を貼り装甲している。
この安宅丸について水戸光圀は「鉄砲いかほどあたりても船やぶる事なき也」『西山遺聞』
と評している。
当時の人達の関心が鉄砲に対する防御に向いていたことがわかるだろう。
一方、焙烙に対する防御について書かれた史料は見た事がない。 俺は対鉄砲用なんて主張してる人、あんた以外見た事ないがな 第一次の木津川口の戦で焙烙に惨敗したという史料ならあるが。
信長公記な 多聞院日記の「テツハウ」は銃のことでいいの?
「トヲラヌ」は貫通、通用しない、どっちの意味で使われてるの?
>>254
それに関してはまあ「鉄砲」「通らない(貫通しない)」でいいんじゃないかな。
投げ焙烙なんてマイナーな武器を、水軍に関わりもない坊様が知ってるとも思えないし。 >>253
焙烙対策を講じたという史料はないな。
鉄砲対策を講じたという史料ならあるわけだが。
因みに、第一次木津川口戦について、毛利側の史料には
焙烙攻撃によって織田水軍を破ったとする記述はないようだ。
>>254
ループだな >>256
世界史板の銃・火砲スレで山野氏がそんな事言ってたね。
焼き討ちは村上水軍にとっては常套戦術だから、いちいち何を使ったかなんて記録もせんだろう。
「弓や槍を使って勝利した」なんて書かんよ。 盲船が最強でござるよ
石山攻めで盲船は海の底を這いながら城壁へ接近した資料がある
まさに元祖潜水艦 >>260
放送禁止用語なので大河に出られないでござる
あと珍兵器で行くと村上水軍が設計していたスクリュー船とか つttp://www.tanken.com/wako.html
アイデアだけで実際には作られなかったのかもしれないが、
村上家の水軍書には書いてあるらしい >>265
やはり日本水軍は世界に比べオリジナルを進んでるね
盲船の絵もあるw
船逆さま重石付けてジャックスパロウの海底散歩見たいな感じかな 大坂の陣で九鬼守隆が鉄甲船6隻と三国丸という大安宅船を使っていたようなのだが
どなたか詳細求む ↑子孫の河野兄弟が徳島ヴォルティス・FC岐阜で活躍している
四国にナスカの絵みたいのがあって息吹島に村上水軍の財宝があるらしい。たたりもあるらしい あの番組はトンデモ論多いから気をつけろ
まぁ村上水軍の財宝ってのは元から諸説あるけど >>274
ナスカの絵ってあの巨大な寛永通宝か
あれ見ても銭形平次のOPしか思い出さんぞw 白石一郎の、ウィリアム・アダムスが主人公の小説に缶詰なんちゅう代物が出てきた
ねーよ…(´・ω・`) ノンフィクション歴史小説なんか古今東西存在においてしない 和船も帆柱を切り倒すことなんてあったのか。
マストが何本もある西洋の船だけかと思ってた >>288
ズバッ
「ギャーーー!!!」
「安心せい峰打ち・・・スマン持ってくる刀間違えたwww」 西洋船の場合、切り倒してもいいように木材を積んでいた。
一方何も積んでいない和船は・・・ 帆柱を切り倒さないと、
最善の努力をしなかった
とみなされ、海難証明書
をだしてもらえない。 偶々「その時歴史が動いた」の村上武吉の回のビデオがあったから観た
関ヶ原の時伊勢湾で暴れ回っていたとは知らなかった
熊野灘は何事もなく通過出来たのかな?
あと阿波を占領したってのも初耳だ 広島・因島も水軍ですよね?
因島はかなり歴史古いんでしょうか? SS蒼穹とか一番デキが良い移植じゃないか。下さい。 >>295
阿波や毛利吉成領は毛利氏の占領下に入っているし、
四国では村上元吉らが死んだ後も、関ヶ原の敗報が届くまで
村上水軍・河野衆による加藤嘉明領への侵攻が続いてた模様。
安宅水軍は、蜂須賀家にすべて吸収されてしまったのかな?
安宅町なんて地名にも残っているようだが、 毛利水軍を叩き潰し、石山本願寺への支援ルートを断った九鬼水軍が戦国最強だな
実際、九鬼嘉隆は関ヶ原の戦いで東軍側については戦功をあげたが、江戸幕府が始まった後に、九鬼水軍の力を恐れた徳川家康によって、海に面していない地に移封されるなど晩年は不遇だった。
それでも九鬼氏は水軍としての誇りを忘れないために、小さな湖で訓練をし続けた。 こんなサイトがあった
http://japan.yi-sunsin.com/03ship/02_01.jsp
亀船ってこんな重そうなのに櫓が18丁しかないのな。
動くのか? 復元模型だと16丁しかないぞ
動いたとしても相当な鈍足だろうな 九州征伐で秀吉が水軍(小西・九鬼・脇坂・加藤嘉)を動員したが
こいつらは何をしたんだ?
小西が肥後半国25万石を拝領してるし(佐々改易の後だが) >>308
海軍みたいな水軍があると思っていること自体が間違い。 横浜市歴史博物館で、2009年5月10日まで、
「海賊-室町・戦国時代の東京湾と横浜-」
http://www.rekihaku.city.yokohama.jp/ >>312
それに今日行ってきたよ。案外人が来てて驚いたw
展示物はそんなに多くは無いが、北条、里見、正木、さらに秀吉などの書状は良かった。
虎朱印は実際見るとぐっと来るものがあるなw
あと、個人的に何よりよかったのは、売店に水軍関係の書籍が実に充実していた事w
近くの人はあのためだけでも行って見るのもいいんじゃないかな?
大学時代にたまたま知己を得た先生から直接聞いた話です。
この先生は家系をたどれば河野水軍に行き着き、
祖父の代には子爵だったという家柄のお方でした。
調べればすぐわかるんですが、一応ここではI先生とします。
私がお会いしたときはすでに引退しておられましたが、
現役の時にはベストセラーになったものも含め
何冊も本を出された経済学の大家でいらっしゃいました。
そのI先生がイギリスで講演をなさった時のお話です。
イギリスの空港について入国審査の列に並んでいると、
スーツ姿の男がスッと横に来て、「ロード・I、どうぞこちらへ」と言うんだそうです。
「いや、入国審査をしないと」と答えると
「ええ、しかし貴族の方には専用のゲートがあります」
と言いだすので先生は面食らってしまいました。
「何かの間違いでしょう。私はただの一般市民です」
「いいえ、あなたは子爵です。たとえ日本で貴族制度がなくなったとしても、
ここイギリスでは子爵の家の方は子爵なのです」だそうで。
これ河野なんて人の話? >>317
ここでもいい?
村上吉充は関ヶ原後に毛利家を離れて加藤嘉明領の伊予国野間郡佐方村に移って帰農(廻船業?)しています。
この村に子孫が残っていて近くに菩提寺が残っていて位牌とか系図があるんじゃないかと思います。
来島通則については詳しい資料をみたことがありません。
「玖珠郡史談」に掲載されていた系図についての記事では天正8年生まれ、慶長5年京都で死亡と
手元のメモにあります。
そもそも大名の実子が福島正則に仕えている位なので庶子の可能性が高いのではないでしょうか。 >>317
続き
村上彦右衛門吉清は通総の弟とされています。
来島氏の菩提寺、大通寺に残る系図では通康の成人した男子は
通幸(通之、得居氏、半右衛門)、通総(通昌)、吉清(彦右衛門)、通久(又右衛門)
の4人がいます。
寛永諸家系図伝によると吉清は寛永15年76才で没ということなので永禄5年の生まれでしょうか。
通総と1年違いなので実際には吉清が早く生まれていても庶子で弟とされたのかもしれません。
ちなみにちゃんとした系図や史料には通年の名前は出てこないと思います。 来島氏や村上水軍については不明な点も多いですが、「愛媛県史」の史料や
河野氏、瀬戸内海を扱った研究書を読むと断片的ですがいろいろわかります。
あくまで地方史の世界なので「伊予史談」「玖珠郡史談」あたりを丹念に読むのも手です。 >>318-320
大変詳しくありがとうございました。参考にして自分でも調べてみたいと思います! 堀内氏善率いる熊野水軍に属した人物で
堀内氏善の親兄弟以外で諱のわかる人物っていますか? 信長の鉄甲船と朝鮮の亀甲船が対峙して戦闘すれば歴史に名を残した亀甲船の勝利なの? そりゃぁ鉄甲船じゃ渡海ムリだワナ。あんなの河口に置くだけの船だから。
でも信長なら他の方法取ってるだろ
例えば陸路で港を全部抑えてしまうとかさ。そうすりゃ亀甲船もへったくれもない。 つーか信長の鉄甲船なんて存在自体怪しい。
ぶちゃけ存在しなかったと考えたほうがいい。
話がループしてるのはご新規さんが増えたからからなのか >>327
上のほうでも話されてるが、結局は数。単純に毛利の水軍より多くの船団を織田が用意出来ただけの話。 しかも、織田(九鬼)水軍が劇的な勝利を収めて
以後、毛利水軍が近づけなかったみたいな印象あるけど
局地的勝利に過ぎず、その後も本願寺には水路で兵糧は何度か運び込まれてる。
最後の方で補給が行えなくなったのは、水上を封鎖されていたとか
織田水軍が強かったとかいうわけではなく
陸路の方で秀吉勢が優勢になってきて本願寺の支援どころじゃなくなってきたから 信長が巨船を作ったのは確かなようだが、宣伝に使われただけで実戦には投入されなかったと
考えられる。何故なら九鬼家に、その巨船を運用した記録も戦術も、一切残っていないからだ。
たとえ限定された戦況でのみの物でも、実用に足るものであれば、何らかの形で伝承されるのが
当然なのに、それが無いと言うことは、実戦にはまったく役に立たなかったと言う証拠だと言っていい。