【海賊】 水軍スレ 【安宅船】
信長の鉄甲船があったとかなかったとか
そんなことについて語ろうぜ >>167
白村江の時の両者の兵力ってどれくらい?
隻数だけ書いて日本水軍は唐より数が多かったのに負けたって記述は
見たことがあるが、兵力で比較しないと意味が無いと思うのだが。 千野原靖方『房総里見水軍の研究』(崙書房, 昭和56年) >>168
外洋航行が出来ないなら、どうやって日本から朝鮮に行ったの?
>>168
外洋航行が出来るったって、せいぜい渤海を渡る程度だろ。櫂船なんだし
中国の船が外洋船として完成するのは宋代くらいのことで、
それ以前は中国船=河船。 >>171
琵琶湖で(たまに御前崎や北海道、九州)で
ヨット、ウインドサーフィンを何年かやってた経験から
日本近海で吹く風は冬は北西、夏は南東の風が吹く日が多いから
夏の風が良い日に行ったのでは?
>>171
壱岐、対馬、を中継地にすると、外洋航行が出来なくても朝鮮まで渡れる。 >>174
琵琶湖陸風で風振れすぎ。全然読めない。地元の人間に有利すぎ。
あんなところでインカレするなゴラ!!!
スレ違いスマソ >>175
雨水しかないけど竹島も休憩には使えそう 一年近く前に、瀬戸内海の小豆島へフェリーで渡ったが、本当に小島が多いんだね。
たまたま同船した人に十川という人がいて、「出身は四国ですか、似た名前の武将がいますよね」食いついてきたので、
その人も戦国に興味が合ったのだと思う。
その人と、あの陰に水軍の一団が潜んで……とか想像して会話していたら、かなり萌えた。
>>183
永禄12年(1569)の毛利氏との戦い、
元亀3年(1572)の伊予西園寺氏攻め(土佐一条氏救援)、
天正7年(1579)の島津水軍との日振島沖合戦、
文禄元年(1592)の朝鮮出兵、
その他かなり、いまいち評価が低いのは何故だろうか。 >>184
門司合戦の記録等みると、関門海峡渡海・後方遮断等
毛利水軍が好き勝手にやっていて大友水軍の痕跡が出てこない気がするんだが、
大友水軍何をやっていたんだ? 村上水軍一艘を破壊して感情を賜る
尼子が背後を付いたのを見て、大内輝弘と共に追撃
詳しくは「若林鎮興」で検索してみてください。
あと大友水軍なら安東氏についてのホームページもあったはず。 >>186
門司合戦で毛利水軍にいい様にやられたから、水軍の強化を図ったと思ってた。
それ以前にも、海賊襲来時の感状で分かる様に活動はあったようだが…
そこら辺は余り詳しくないんで…詳しい人いたらお願いします。 >>156
遅レスですが、史料で確認できる天地丸の修理は
正徳元年(1711) 宝暦九年(1759)
寛政九年(1797) 弘化四年(1847)
の4回です。
正徳(81年)以外は平均して44年ごとに修理が行われて
いますので、正徳以前にも1回の大修理が行われた可能性は
高いそうです。幕末期の天地丸は痛みの少ない屋形関係を除
くと、新造時の部分は残っていなかった可能性があります。
ちなみに大名の御召関船(御座船)は21年ごとに作り換える
ことになっていましたが、江戸中期以降は50年ごとになった
そうです。
>>171
持衰を同行させれば無病息災で渡れます。 暴れまわるという意味の「あたける」から来ているらしい。
当初は、仮名書きか、阿武と書き、朝鮮征伐の頃から安宅と
なった。
ちなみに安宅水軍の安宅は「あたぎ」と読む。
>>184朝鮮出兵で大友水軍の誰がどんな活躍をしたの?大友は内陸で戦っていたんでしょ? >>195
村上、九鬼、他に四国の水軍とかも戦ってる >>197
検索しても朝鮮で若林が活躍したって具体的な情報がヒットしないんだが? 村上水軍の家紋って有名な丸に上の字だけど、海賊(水軍)は字紋を使うことが多かったの?
ちょっと気になった。なかなか字紋って見かけないから。 >>200
そうなんだ。
どっかで読んだ資料には
名前から取ったという説と、
字紋で(上)という字が縁起がいいから使ったという2つの説があるって読んだから気になった。
後者なら字紋って海賊が使ってたのかなと思ってたッス
よくわかんねけど 誰か小田原征伐時の徳川水軍の武将の詳細な参加リストみたいなのわかる方いませんか?
おそらく本多重次を頂点に何人も武将がいたと思うんですが。 >202
その頃の徳川水軍には向井正綱、小浜景隆、間宮信高、千賀重親、伊丹康直がいるね。
みんな元武田とか今川の水軍。 >>203
おお、ありがとうございます。
参考になりました。
向井氏はすごく有名ですよね。
水軍スレは貴重なのに最近は廃れててさびしい限りです。 スレがのびないのであえて鉄甲船論争を蒸し返す
>51
装甲なし、火力だけ突出した大型船というのは
AFVに例えれば多砲塔戦車みたいなもんだろう。
ただ火力だけ高くても何にもできんよ。 >>206
まだ成仏してなかったか。
「九鬼右馬允七隻の大船に小船を相添へ、山のごとく飾り立て、敵舟を間近く寄せつけ、あいしらふ様にもてなし、
大鉄砲一度に放ちかけ、敵舟あまた打崩。」
敵船団をあしらいながら有効射程圏内に誘い込み一斉射撃で打ち崩してます。
小船を従え僅かな機動力と大鉄砲の火力で勝ってます。 そもそも現代のArmored Fighting Vehicleと当時の軍船を同列で語るのは妥当とは思えん。
装甲をぶち破り人員や内部を破壊する攻撃と、焙烙や火矢による延焼攻撃とでは違いがありすぎる。
現代の火炎瓶による戦闘車両への延焼攻撃をイメージするのであれば歩兵部隊(小船群)を帯同することで
一定の防御効果を得られていたとは考えられないだろうか。 また、九鬼の黒船に較べて外観が白かった滝川家の大安宅船は白船と呼ばれていたそうだが
これは間違いなく装甲板を貼っていない(間に合わなかった?)船だったであろう。
この白船も木津川の戦闘に参加して無事に帰還していることが全てを物語っている。 うむ。
九鬼の黒船は岡山城天守に見られる当時の防水防腐効果を狙った黒漆塗りであったと類推する。 仮に白塗りにしていたとして、一体何を意図していたものなのだろう。
漆喰塗りにすることで延焼を防ごうとしていたとか? 何にしても78年当時は大安宅船に鉄板を貼るという概念が一般的となる朝鮮役までの間の過渡期と考えるべきだろう。
で、朝鮮役での不備を考慮して江戸幕府の安宅丸には鉄貼りが施されなかったと。 >>212
秀吉の日本丸も白漆喰塗りだったようだから、多分そうだろう しかし鉄甲船論争って普通は
「信長が九鬼に命じて作らせた「燃えない船」の正体は何か」
「鉄板装甲だ」
「いや防火用の漆塗りだ」
って喧々囂々なるもんだが、
大砲だけで勝てる、装甲いらんって説が出るのは珍しいわw >>215
鉄甲船は漆塗りだったって議論が有るんですか?
家に有る漆塗りのお椀は水を漬けっぱなしにしておくとすぐぼろぼろになるのに、
戦国時代の漆塗りの技術って凄かったんですね。 >>216
鉄板装甲説への反論の定番ですな。
世界史板あたりで鉄甲船の話になると、たいがいただの漆塗りだろうって言う奴が出てくる。
漆塗りの船は戦国時代にはあんまり聞かないが、江戸時代にはごろごろあったので、この辺参照してね。
http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2000/00200/contents/065.htm
もちろんほっとくと劣化するから、その時は塗り直す。水軍が維持費がかかるのは知ってるよな。
鉄甲船の場合は戦時下の消耗品だから、一回塗りっぱなしの使い捨てだったかもしれんがね。 個人的には漆塗り説もかなり説得力があると思っている。
防火・防水効果の高い黒漆塗りは、安土城や大坂城など古い城の下見板張りによく使用されたが、
安宅船の建造は船体部分を船大工、櫓部分を屋大工が分業していたことを考えると
同時期の城郭によく使用されていた黒漆塗りの技術を軍船に応用したという事も、十分ありうるのではなかろうか。
鉄甲?船のプロトタイプなのであろう佐和山の大船を建造したのが、
安土城と同じ宮大工・岡部又右衛門なので、よけいにそう思う。 >>213
朝鮮の役で日本の水軍が大損害をこうむったってのは
完全な都市伝説だろ
歴史学者と称する連中の言う通り亀甲縛りを鉄張にして作ったら
見事に沈んだらしいなwww この辺での議論もなかなか濃いようです。
ttp://www.rekishi.info/forum/forum100/20050911173204.html 第一次木津川口の戦いでは織田方は大鉄砲装備してなかったの? wikiの鉄甲船の項目、このスレのやつがいじってるだろう >wikiの鉄甲船
装甲が対焙烙火矢用ってなってるけど
多門院日記には対鉄砲用ってかいてある 「テツハウトヲラヌ用意事々敷也」だっけ。軍事に疎いであろう坊さんが伝聞で書いたもんだし、
あまりあてにならないんじゃないの。 坊主が軍事に疎い時代では無かったと思うが、どうだろう? 「テツハウ」は火薬兵器全般を指す言葉では?
元寇で使われた炸裂弾も「てつはう」だろう。 >>232
>「テツハウトヲラヌ用意事々敷也」だっけ。
『多聞院日記』では「トヲラヌ用意」なんだから、
火縄銃の銃弾も貫通を防ぐための用意っぽい。
焙烙の延焼防止対策だったら違う表現を用いただろう。
>軍事に疎いであろう坊さんが伝聞で書いたもんだし、あまりあてにならないんじゃないの。
僧侶は軍事を含めた当時最高の知識人といえる。
武将の幼少期の教育係が僧侶の場合は多い。
今川義元の軍師になった大原雪斎は有名だし
戦国武将の中に幼少期から青年期に寺院で学んだ人物も多い。(石田三成とか)
僧侶にして大名になった安国寺恵瓊もいる。
本願寺の僧侶たちは強大な信長を苦しめてた。 >>235
そんなもん百も承知だが、又聞きは又聞き。
多門院日記には
「人数5千人ばかり乗る。横へ7間、縦へ12,3間もこれあり」なんて記されているが
これは人数といい船の形状といい100%ありえない数字だし、
色々差し引いて考えるべき文献なのは確かであるよ。
そもそも鉄砲の弾だけを防御するんだったら、木製の盾板を分厚くするだけでいい。
重い上に不安定になる鉄板なんか貼る必要はない。 >>236
同じ防御力を達成のためなら
木製の分厚い盾板より
鉄板を貼ったほうが軽い。 同じ重量の防御力
鉄板盾板>>>>木板のみの盾板
鉄板+木板盾板>>>>木板のみの盾板
甲冑の主流が木製でなく鉄製なのは、鉄板の防御力が木板を上回るから。
近代の軍艦や戦車の装甲が木製でなく鉄製なのは、鉄板の防御力が木板を上回るから。 >>239
言っておくが、普通の木製の安宅船でも、並程度の鉄砲玉なら十分防御できるの。
でなけりゃ盾板の意味なんか無いだろう。
安宅船は鉄砲の普及後に登場した強化型の軍船で、あらかじめそういう風に作ってある。
それでも第一次木津川海戦で織田軍が負けて鉄板の装甲を追加せねばならなかったってことは、
毛利が焙烙火矢を使ってきたって事さ。 >>234
『多聞院日記』の書かれた時代には
「テツハウ」は火薬兵器全般を指す言葉ではなくなっている。
この時代に「テツハウ(鉄砲)」と言った場合は火縄銃のことで
炸裂弾は「焙烙」と呼ばれるようになって
もはや「てつはう」とは呼ばれなくなくなっている。
また>>235に書いてあるように「トヲラヌ用意」という表現も併せてみると
『多聞院日記』の「鉄の船也、テツハウトヲラヌ用意事々敷也」は
火縄銃の銃弾貫通防止を目的とした「鉄の船」といえる。 >>240
中世以来使われている対弓矢用の一般的な木盾の厚さでは火縄銃の玉を防げない。
火縄銃の玉を防ぐには板の厚みを相当厚くしなければならず、その場合重量が重くなり
船の復原性や機動力が低下する。
対して重量あたりの防御力に優れた鉄を用いることで軽量化を実現する事ができる。
陸上の攻城戦でも対火縄銃防御に鉄を貼った盾が用いられており、
同じ発想は海上の戦いに適用されていただろうから
船も銃弾を防ぐために鉄で防御されていたと考えるのは、むしろ自然なことだろう。 >>242
待て待て待て・・・
>中世以来使われている対弓矢用の一般的な木盾の厚さでは
それ、厚さ3センチくらいの奴だろう。
何で野戦用の個人装備、しかも弓矢の時代のものを引き合いに出す?
安宅船の盾板は厚さ6〜10センチくらいあるぞ。
一般の安宅船でも、鉄砲弾を無力化させるくらいの防御力は十分あるって言ってるだろう。
矢弾を防御しつつ接舷して切り込むのが当時の海戦のスタイルなんだから。
盾板には竹の束を使われる事もよくあって、これも銃弾に対しての防御効果は十分だった。長持ちはしなかっただろうが・・・
>火縄銃の玉を防ぐには板の厚みを相当厚くしなければならず、その場合重量が重くなり
>船の復原性や機動力が低下する。
だから、それを実際やったのが安宅船なんだってば。
確かに君の言うように旧来あった関船より機動性は落ちたのだが、
それが実戦において有用であり、日本のどこでも広く使われてたんだから否定しようがない。
毛利が大口径の大鉄砲やら大筒でも大量に持ってたってのなら話は別だが、そんな話は聞かない。
それをやったのは織田の方。
>>241
ループだが、多門院日記のソースは伝聞にすぎない。
鉄甲船を実際に見た人が
「火縄銃対策のための鉄板」とそれを判断したら、間違った認識もそのままに書かれるだろう。
まあ、普通の人は延焼対策なんて思いもよらないだろうから、
対鉄砲用だと誤解されても無理はない話だが。
ていうか君は、何でそこまで鉄板を対火縄銃用の装甲という事にしたいのかね。焙烙対策では、何か不都合でも?
鋼鉄の軍艦が、いかなる銃弾をもはじき返すようなイメージにあこがれてるのかね? >>236
>>243
そろそろ「多門院日記」って書かずに『多聞院日記』って書いてくれ。
なかなか自分で気づかない人だな・・・
ところで、「多門院日記のソースは伝聞にすぎない。」ってソースは? >>244
つまり、信長が
「鉄は木材より重量あたりの防御効果が高いのじゃ」
と主張して、対毛利の鉄砲用軍船を特別に作らせたと。
わかった、もう君はその説を信じててくれ。 客観的事実
対鉄砲用の鉄船とする史料は存在する。
(『多聞院日記』「鉄の船也、テツハウトヲラヌ用意事々敷也」)
対焙烙用の鉄船とする史料は全く存在しない。 一つだけ質問いい?
どんな戦法を使って毛利は第一次木津川海戦で織田方に大勝したの? つうか「どっちも」でしょ?
鉄砲にも火矢にも強いからってだけじゃん 信長鉄船について(『多聞院日記』「鉄の船也、テツハウトヲラヌ用意事々敷也」)
他に
徳川家御座船安宅丸は、厚さ一尺の盾板表面を厚さ3ミリの銅板を貼り装甲している。
この安宅丸について水戸光圀は「鉄砲いかほどあたりても船やぶる事なき也」『西山遺聞』
と評している。
当時の人達の関心が鉄砲に対する防御に向いていたことがわかるだろう。
一方、焙烙に対する防御について書かれた史料は見た事がない。 俺は対鉄砲用なんて主張してる人、あんた以外見た事ないがな 第一次の木津川口の戦で焙烙に惨敗したという史料ならあるが。
信長公記な 多聞院日記の「テツハウ」は銃のことでいいの?
「トヲラヌ」は貫通、通用しない、どっちの意味で使われてるの?
>>254
それに関してはまあ「鉄砲」「通らない(貫通しない)」でいいんじゃないかな。
投げ焙烙なんてマイナーな武器を、水軍に関わりもない坊様が知ってるとも思えないし。 >>253
焙烙対策を講じたという史料はないな。
鉄砲対策を講じたという史料ならあるわけだが。
因みに、第一次木津川口戦について、毛利側の史料には
焙烙攻撃によって織田水軍を破ったとする記述はないようだ。
>>254
ループだな >>256
世界史板の銃・火砲スレで山野氏がそんな事言ってたね。
焼き討ちは村上水軍にとっては常套戦術だから、いちいち何を使ったかなんて記録もせんだろう。
「弓や槍を使って勝利した」なんて書かんよ。 盲船が最強でござるよ
石山攻めで盲船は海の底を這いながら城壁へ接近した資料がある
まさに元祖潜水艦 >>260
放送禁止用語なので大河に出られないでござる
あと珍兵器で行くと村上水軍が設計していたスクリュー船とか つttp://www.tanken.com/wako.html
アイデアだけで実際には作られなかったのかもしれないが、
村上家の水軍書には書いてあるらしい >>265
やはり日本水軍は世界に比べオリジナルを進んでるね
盲船の絵もあるw
船逆さま重石付けてジャックスパロウの海底散歩見たいな感じかな