■ 明応の政変 ■ P35
明応の政変によって室町幕府が瓦解した事を戦国時代の始期とする説が現在、有力になっています。
日本史上重要な出来事なのに、何故か知名度が低い、細川政元の足利将軍廃立事件を語りましょう。 三好と言えば政元の頃には既に、政元の保護のもと畿内のチンピラ・足軽を組織していたようだが、
明応の政変には何か関わっていたのかね? >>634
明応の政変の頃には、まだ阿波屋形の有力被官という程度で、地盤がためしている段階だと思われます。
三好家自体、出自がはっきりない(一応、旧阿波守護家、小笠原家末裔を称しているが、現段階では真偽不明)
また、阿波屋形と京兆家の力関係は、まだ京兆家が力を持っていた時代ですから、
陪臣に過ぎない三好がそれほど影響力が有ったとは思えません。
三好の躍進は政元暗殺後ではないかと思います。 >>635
たしかにそうなんだろうね。それでも政元の頃から三好が機内で土一揆を組織するような活動をしていて、
政元もそれを黙認していた感じだけど(一揆の閲兵とかしているね)、あれはどういう意図からなんだろう。 >>630
しかし連呼君(>>777=>>779)が痛すぎる件
文章を適切にまとめられる力がつくといいね そもそも西軍の御輿として大乱の当事者だった義材。なんで西軍の流れを
汲む義豊の討伐に動いたのか、動機がよく解らん。 >>637
上から目線で、偉そうだな。
京兆家の事も知らんで、コメントするな馬鹿! …と京兆家のことも知らない馬鹿者が上から目線で偉そうに喚き散らしておりますので注意しましょう! >>784-785
京兆家の譜代の内衆って言っても、在地性は希薄だったらしいよ。
辛うじて京兆家分国の守護代や奉行などの職に任命されているって程度で、
内衆だからと言って自ら広大な領地や城を抱えていた訳でもないらしい。
むしろ内衆ではない国人の方が、広大な領地を抱えていたり、その中に城下町が
出来ていたり、街道の関所から膨大な通行料を徴収していたりして金銭的にも裕福だったようだ。
摂津の池田氏がその典型らしい。
池田氏は、摂津の国人で細川家の被官ではあるが、内衆ではない。
三好のような新興の非内衆系国人が台頭出来た理由の一つには、
内衆にまつわる、この様な背景があったと思う。 例えが悪いかもしれないけど、警察官より地元ヤクザの方が裕福って言う感じ
かな? >>641
内衆の収入って、自分の領地と代官職を任されている土地から上がりの一部とかより
取次の手数料・礼金のほうが大きいんじゃない
もっというと賄賂とか とすると政元が京兆家の主導権を握り返したターニングポイントはいつだったのだろうか? なるほど。守護代級内衆と非守護代級国人の利害対立と紛争の中、勝元時代に領地を大きく拡張した
京兆家当主の求心力が政元の成長とともに回復、拡大した、という理解でよろしいだろうか? >>1
一宮氏は京兆家内衆の初期メンバーで守護代もやっていたけど?
歴史学って帰納的に事実を積み上げるべきかと思うけど、
事実誤認があると台無しだと思う。
それにあなたは自分の主張ありきという気もする。 すまん
×それにあなたは自分の主張ありきという気もする。
○それにあなたは自分の結論ありきという気もする。 >>647
でも、摂津国人一揆や政元誘拐事件、位田の乱などは京兆家家臣団の内部抗争の面が強いよ。
単なるマルクス主義的階級闘争ではないと思う。
もっとも京兆家被官衆でも当主に近いか、そうでないかの違いはあり、
さらに被官同士の格の違いもあって、それが抗争劇の原因となっている。
一宮氏は15世紀末期では、内衆や京兆家近習ではなくて、丹波国人としての性格が強くなっている。
もっとも一宮氏も洛中に住居を構えており、そこから細川管領邸には顔は出していたらしい。 >もっとも一宮氏も洛中に住居を構えており、そこから細川管領邸には顔は出していたらしい。
これは内衆としての要素であり、「丹波国人としての性格が強くなっている」と矛盾するけど? 一宮氏って阿波国人が京兆家内衆になって丹波守護代として入部した家だけど・・・ 応永四年十二月二十七日 丹波国守護代一宮栄正遵行状(東寺百合文書) 【応永】
1394年から1427年までの35年間を指す、一世一元の制導入以前では最長である。
また、応永10年から22年までの10年間は戦乱などが途絶え「応永の平和」と言われる。
室町将軍は足利義満、足利義持、足利義量で幕府安定期である。
14世紀の話しだろ?
15世紀後半の幕政が揺らいでいる時期の話しではない。時期が違い過ぎる。
出目が阿波でも100年近くも丹波に居て所領を確保していれば、
京兆家被官だろうがなんだろうが国人化するだろ普通。 >>1
>ただ一宮氏は、守護代にはなれなかった。その為に丹波全体的に影響を及ぼせる職権は無かったと思われる。
内藤も上原も守護代だから丹波の一円知行を行おうとした訳で、荘園代官、郡代、小守護代、段銭奉行等では、
分国全体に影響を及ぼせるほどの影響力も職務権限も無い。
と書いていたから反証を挙げたのだけど・・・
内藤氏も永享年間から丹波守護代になっているので、70年近くも丹波にいて所領を確保しているけど
それは国人化と言わないの?100年と70年の違いってそんなに大きいかな? 内藤氏も上原氏も立派な丹波国人だろ。
ただ一宮氏と違い、内藤氏は政元死後に一時的に丹波東部を広域的に制圧した。
その後丹波西部の波多野氏が、攻勢に出て丹波は波多野氏が押領する。
波多野氏は、勝元時代に京兆家に任官し、応仁の乱で活躍した部将であり、
政元時代にようやく丹波西部に入植した出来たばかりの武士なので丹波国人と言えるかどうか?
いずれにせよ、内藤氏は、越前守護代の朝倉氏と違い丹波一国押領は、不可能だった。 あなたが、
一宮氏=非内衆系国人
内藤氏=守護代級内衆
という対立構造で考えていたので、
それの反証(一宮氏の丹波守護代事例)を挙げたのですが、
>>1
>内藤氏による丹波国人の一宮氏所領押領
>>810
>内藤氏も上原氏も立派な丹波国人
というのは矛盾してますよね。
ちなみに朝倉氏が越前守護代というのも微妙ですよ。
(朝倉氏が守護代になったのは斯波氏追放後なので、あなたの論旨に合わない。) >>1をよく読めよ。
守護代どころか、
斯波氏と朝倉氏が争っている真っ最中(1471年)に孝景は守護に任命されている。
それに朝倉は、守護代甲斐氏サイドの武将です。 一宮氏・内藤氏から話がそれているので細かくは書かないけど、
1471年までずっと甲斐氏が越前守護代
1471年に斯波義廉から離反した朝倉孝景に越前守護職の御内書
1483年に斯波義寛の下で甲斐氏が遠江守護代、織田氏が尾張守護代、朝倉氏が越前守護代
という時系列なので、朝倉氏は守護代になる前から越前の横領をしている。 守護代甲斐常治が、急死。
その代わりとして、朝倉孝景が戦闘の指揮を取った。
越前での戦闘で朝倉が有利になり、越前の一国押領状態になる。
既に甲斐常治の段階で斯波家被官人等評定衆を基盤にして勢力を拡大し、
斯波一門を蔑ろにしており、その姿勢を朝倉が引継いだ形。
同じ時期に京兆家や細川一門を蔑ろに出来るほど分国支配体制を強化した
丹波と摂津の守護代や内衆系国人や非内衆系国人は居ないだろ。 京兆家は、内衆系国人であれ非内衆系であれ、
分国内の国人を均等化させて突出した勢力を造らせない様にしていた。
また分国内の都市や交通の要所は、京兆家直轄領にしていた。
国人などが関所を作り通行料などの収入を手に入れない様に対策を講じていた。 もともと信州の諏訪氏の出らしいな、上原氏は。
鎌倉時代中期に丹波の物部に土着、そこで開墾を始めて荘園と成ったらしい。
京兆家の内衆には、成っていただろ。
南北朝時代には、丹波守護で管領の細川頼元の随兵を勤めている。
同族が、赤松家の被官になっており、京兆家と赤松家を繋ぐ役目もあったらしい。
ただ賢家・元秀の代まで、意見人とか守護代程の地位には、成ってなかった。 細川頼元の随兵を内衆と言わずして何を内衆と言うんだ? そんな上原氏を「単なる丹波の一介の国人に過ぎなかった」と言うのか? 細川頼元の随兵を「単なる丹波の一介の国人に過ぎなかった」と言う理由ががわからん 所領の規模や影響力からしたら、一介の国人と大して変わらない。
守護代にでもなっていれば、違うのだろうが。
もともと元秀以前の丹波上原家は、そんなにたいした被官でもなかった。 それならば守護代と非守護代の区分だけで十分だろ?
なんでわざわざ内衆系国人とか言うんだ? そもそも>>661で「内衆系国人であれ突出した勢力を造らないように」と言いながら
>>818で「守護代の上原氏が横領で勢力拡大することを政元が認める」と言う意味がわからん
守護代なら突出しても構わん、とでも言うのか? なんか支離滅裂ですよ。
ご自身の論をマトリックスにまとめてみてはいかがでしょうか。
一つのレスの中でも相反することが書かれているので読みにくいです。 >>1
単純で基本的な疑問なんで笑われるかもしれないが
守護代の任免権は守護の専権で、幕府や将軍は関係ないんじゃないか
畿内近国では守護代の任免に将軍が口を出すことがあるのは知っているが
それってただの口先介入で何の権限もないんじゃない? 守護代、内衆、被官、国人、それぞれについてご自身が書いたことを整理してみれば矛盾がわかると思います。
>丹波国人一揆自体が、政元による守護代の上原元秀抑制策の可能性がある。
>政元は、元秀に細川の姓を与えようとしたが、内衆の反発で撤回させられている。
このように一貫していませんよね?
>この人事は管領の細川勝元と畠山持国らに反対され、実行には移されなかったが、義政時代でも守護代職の任免は将軍の介入
が可能であった事を示している。
「実行には移されなかった」ということは>>673が正しいということですよね? >>674
政元の真意内意を知った内衆や近習が、元秀の押さえ込みを考えた可能性もありますよ。
それに守護職獲得の為に将軍介入を狙った織田郷広の今参局へのロビー活動は、
全くの的外れと言う事になりますが、それもおかしいでしょう。
朝倉孝景なんかは、守護代どころか、いきなり越前の守護になっているんですから。 抑え込む対象の人物に細川名字を与える、というのは矛盾ですよね?
守護代の任免権を持つ守護の任免権を行使することで間接的に守護代の人事に介入することを
「守護代の任免権を持つ」とは言いませんよ。 名前の件は、最初は、元秀が望んだって言う話しも有る。
それに元秀には、摂津守護代職も狙っていたと言う話しも有る。
何れにせよ元秀は、伊勢家に近すぎ。
将軍による守護代任免は、間接的介入ではない。
直接任免している。だから織田郷広は、まず今参局へのロビイングしたんだよ。 足利義教のときも、細川持之が丹波守護代解任の伺いをたてただけ。
足利義政のときも、今参局へのロビイングは成功しなかった。
守護代補任状を誰の名義で出しているか考えればわかりますよ。
というか守護以外から出ている事例があったら教えてもらいたい。 >>678
そうなんですよ自分も見たことがない
ただ畿内近国に限っては将軍・幕府による「守護代職の任免」への介入が見られる
実際、首をすげ替えたりもしてるし
守護の専権であるところのものを強引に介入するのに
1、どのような権限を持った人が
2、どのような命令系統で
3、どんな理由付けで
行われたのかがわからない
昔からの疑問です
>足利義教のときも、細川持之が丹波守護代解任の伺いをたてただけ。
めっちゃ気にしてますヤンw
>足利義政のときも、今参局へのロビイングは成功しなかった。
他の件では、成功しているかも知れません。
>守護の専権であるところのものを強引に介入するのに
将軍が、介入していたら、専権では無いでしょうね。
>他の件では、成功しているかも知れません。
「かもしれません」と言われても困ります。
成功例を挙げなければ説得力ないですよ。 足利義政による1471年の朝倉孝景の越前守護職任命。 将軍が守護を差し置いて守護代を任免できた成功例、という話をしているのに
将軍による守護の任命例を出されても困りますが >>682
私も越前の例を考えに入れていましたが問題となるのは甲斐氏の方だと思います
斯波氏の内訌と宿老・守護代クラスの勢力争いが招いた守護権力の空白
守護権力の空白期に上位権力が介入することは大いにあり得ます
守護空白期(幼少なども含む)場合、執事や守護代は幕府と直接結びつく必要があるから
問題になるのは
甲斐氏が将軍直臣のようになっていて、直臣ならばその家督継承にも口を出す事ができること
斯波氏が三管領家のひとつであり、その内訌は幕府権力内の争乱に直結する為に介入したこと
守護任免時に守護代改選もおこうなう慣習があった可能性
守護任免時に特定人物を守護代にすることを条件にしてた可能性
>斯波家がダメになったから、斯波家宿老が将軍直参化したのか、
>逆に斯波家宿老が将軍直参化したから斯波家がダメになったのか…
どちらも違います。
甲斐氏は応永年間でも将軍から所領安堵を受けているなど、初期は将軍御家人でした。
甲斐氏は将軍直参から斯波被官になったという時系列です。 つまり…
>もっと言えば、歴代将軍は、斯波家弱体化の意向があり、
>その為に斯波家がダメになっていたからなのか…
って事じゃん。
これは要するに
>将軍権力主導の下克上だと守護権力抑制策となり、将軍権力の強化と
>幕府の集権化の側面も検討する必要が有るのかも知れません。
って事になる。
“将軍・幕府による「守護代職の任免」への介入”はこの観点から行われたんだろう。 具体例も無いまま、「つまり」とか「要するに」と言っても説得力ありませんよ。 >>687
将軍権力強化の具体例?
義教が暗殺された事そのものが、その具体例なんじゃねーの。 今の話題は、「守護代職の任免」を「将軍が直接行使できるか」または「あくまでも守護の職権か」ですよね? 将軍の権限か?守護の権限か?じゃね?
ま、守護は、自己の分国の守護代人事に将軍がクビ突っ込んで来るのは嫌がるだろう。
明応の政変も将軍権力の復活を阻止する為だったし。 佐々木越中八郎や山内政綱はあくまでも六角一族として、
近江守護になったから守護代は六角時代と同じだと思う。
京極政経のときは京極被官の多賀経家が守護代じゃないかな?
細川政元のときは細川被官の安富元家が守護代。
結城尚豊のときは知らんが、伊庭氏ということが有り得るの? 京極持清のときの守護代の多賀高忠を書き忘れていました。
1485年に土一揆を組織した三好之長を逮捕しようと、細川政元と一緒に細川政之邸を包囲した。←○
1485年に土一揆を組織した三好之長を細川政元と一緒に逮捕しようと、細川政之邸を包囲した。←×
そもそも安富元家は讃岐守護代だったので両立とかいう問題ではない。
ひょっとして在京守護代と在国守護代を混同していないか?
守護代が内衆なのは当たり前。 安富元家が家宰になった後の讃岐守護代は誰だと言うつもり?
京兆家の在京守護代と在国守護代を調べてみれば? 讃岐西方守護代は、安富元顕(元家の息子)。 讃岐東方守護代は、香川満景。
で、肝心の讃岐守護は、細川成之と政之親子なんだな、これがw
政元は、畿内領有化に没頭しつつあり、土佐の統治は、既に守護代家に丸投げ。
讃岐も次第に阿波守護家に譲りつつある状態。ただ守護代だけは、京兆家内衆が務めている。 安富元家が家宰をやっている時の讃岐守護代が元顕?
安富元顕が守護代になったのは相当後だと思うけど、いつごろを想定してるの?
安富元家が家宰になったのはいつだと考えているの? 話が逸れている。
守護代任免権は将軍の権限か?という話題だったので、
安富氏が近江守護代や讃岐守護代になったのは、
京兆家の任命ではなく将軍の任命による、
ということを論証したかったのでは?
私はそうは思わないけど。 甲斐氏は執事(家宰)のときに守護代を兼ねていたのに、
安富氏は執事(家宰)のときは守護代を兼ねていないはず、というの変では? >>696
>政元は、畿内領有化に没頭しつつあり、土佐の統治は、既に守護代家に丸投げ。
とありますが、土佐守護代も京兆家評定衆ですよね? 自分理論に都合の悪い事例を指摘されるたびに議論から逃げたら、誰からも支持されませんよ? 私はここで自分理論を語りたいとは思わないですけど?
史料的な根拠の無い論述が気になるので指摘しているだけです。
一次史料は無視している、とおっしゃるのでしたら何も申しませんが。 >>1
>朝倉氏の越前守護職補任は疑わしいですね。あとで争論の種になります
コレすげーなw
史実を完全に無視している。
朝倉が、守護職に任じられなければ、東軍に寝返る理由が無いのになw
その為に政元と丹波と摂津の守護代は、分国支配を巡り競合関係を生じ始める事態となる。←○
その為に政元は、丹波と摂津の守護代とは、
分国支配を巡り守護代と競合関係を生じ始める事態となる。←× 9代将軍の義尚の死亡は1489年で、10代将軍に義材が就くのは、1490年でした。 >88年までには阿波守護家は反乱を一応鎮圧し阿波守護の細川政之が京に復帰している。
政之は1488年に死亡なので、京に復帰しているのは、弟の義春。
政之の死因と阿波の騒乱状態には、関係有るかもしれない。 >>601-618あたりと同じ流れになってきたな・・・ 東条氏はともかく、飯尾氏・清氏・一宮氏は京兆家内衆だろうが この時点の東条氏は、安富元家の兄弟だよ。
先代の東条国氏は、応仁の乱の時に三河守護代に任じられ、現地での戦闘に破れ自殺。
東条家は断絶状態だったので、京兆家家宰の安富家から名跡を継ぐ人物が来た。
細川持常が、足利義教の一色氏弾圧に功があり、三河守護に任じられ成之がその後を継いでいた。
その為に阿波守護家の有力内衆だった東条国氏も三河守護代に任じられたのだろう。 一色氏や阿波守護家の統治でも三河で強固な守護領国制を敷いた形跡が無く、応仁の乱以降は、
三河の守護、守護代もハッキリしない状態になる。阿波守護家は、応仁の乱後に三河から撤退した。
三河には、奉公衆が多くて将軍御料国の色彩が強く、政所執事伊勢氏が、守護を代行したと言う説も有るが… 松平なんて伊勢氏被官で、応仁の乱の後勢力を伸ばしてるしなあ。 >飯尾氏・清氏・一宮氏は京兆家内衆だろうが
京兆家内衆には、同族が居るし、彼らとしきりに連絡を取ってはいるが、別人だよ。
京兆家からの付家老であり本家による分家のお目付け役だが、一応阿波守護家の内衆。
だが、京兆家への依存度が高く在地性の希薄な被官衆である。その為に地元の阿波国人衆とは仲が悪い。
阿波守護家内衆の名跡を継がせる為に
わざわざ安富家から招いたのは、京兆家内衆と近かったが、別の被官衆であった為。
また、安富家が隣国の讃岐東方守護代家の家筋であった事も関係しているかも。 庶流家の分国の守護代が京兆家に近い人物、ということは
京兆家による「瀬戸内海一体の勢力圏の維持確保」が継続していたとも言えるだろ 例えば>>1で
>京兆家の守護代級(宿老級)内衆は、細川勝元が1473年に死亡すると、跡を継いだ聡明丸(政元)が、若干
7歳である為、従来の管領内意見人(管領管国内意見人?)制度を拡充し構成メンバーの権限を強化して
京兆家当主や分国守護の業務を補佐するという名目で“京兆家評定衆”を設置した。
とあるけど、管領内意見人って1491年にも確認できるのですが?
なんか無理矢理、「管領内意見人→京兆家評定衆」という図式を作ろうとしていませんか?
それと、摂津欠郡は分郡扱いだったので、上郡・下郡と同列にするのは適切ではないですよ? ↑典厩家が欠郡の分郡守護だということを知らないのかな? それは、1482年の段階で解消し、政元で一本化している。 >>1
>摂津欠郡の分郡扱いは、政元の代で解消しているはず。
「してるはず」って、単なるお前の思い込みだろw 摂津欠郡は、1482年に政元が畠山義就と交渉して取り返している。
摂津守護は、政元に変わりない。 摂津守護とは別に置かれていたから分郡守護と言うんだよ
摂津守護は細川政元のままだけど、
少なくとも1486年以降は典厩家が分郡守護となっているよ 欠郡(西成・東成・住吉の3郡)全体が、典厩家の分郡守護の統治範囲かどうかは不明。西成郡だけと言う説も多い。 政元が畠山義就から欠郡を取り戻した1482年以後は、
当然、典厩家の分郡守護の統治範囲は縮小しているんだろう。西成郡だけではないか?
もう戦国時代が始まっているので武力無き分国統治はありえない。
室町幕府が守護を任命したらそれで終わりと言うわけには行かない。
京兆家の軍事力が無いと、京兆家と同盟を組んでいるとは言え、またぞろ義就や基家が
欠郡に手を伸ばしかねないし、明応の政変で完全に京兆家の敵になった畠山尚順は、
京兆家分国の弱点として嵩にかかって攻撃してくるだろう。
また、細川氏同族連合から離脱し始めている阿波守護家や和泉両守護家も如何動くか判らない。
典厩家が欠郡三郡を押えるほど独自の軍事力や経済力があると思えないし、
典厩家や野州家が、細川氏同族連合から離脱しなかった(出来なかった)のは、
京兆家に依存しないと分国が維持できない現実があったからだろう。 セルビア=京兆家
モンテネグロ=淡路守護家
クロアチア=阿波守護家
スロベニア=備中守護家
ボスニア=和泉上下守護家 >>732
元々おんなじものなんだから、神聖ローマ帝国とかのほうがまだ合ってるだろ ■当主ごとの分国支配体制の変化
【政元期】
京兆家当主(守護)→宿老級内衆(守護代)→国人
【高国期】
京兆家当主(守護)→永正の錯乱で内衆半減→国人
【晴元期】
京兆家当主(守護)―――――――――――→国人