■ 明応の政変 ■ P35
明応の政変によって室町幕府が瓦解した事を戦国時代の始期とする説が現在、有力になっています。
日本史上重要な出来事なのに、何故か知名度が低い、細川政元の足利将軍廃立事件を語りましょう。 教科書では完全に無視される事変の一つだね。
そのせいか大学入試には出ることが多い(京大入試などたまに出題される)から勉強しないとダメだが。 足利茶々丸の討伐がこの政変と綿密に関わってるとみられてますね。 同じ明応二年だからね。
中央の動乱に連動したものと見られているようだ。
明応政変以後の、畿内の政治史区分
政元政権期 1493−1507
高国政権期 1508−1531
晴元政権期 1531−1550
三好・松永政権期 1550−1568
正確には、高国政権は義稙が将軍の前期と義晴が将軍の後期に分けた方が良いのかも。 明応二年の政変で畿内を追われた前将軍義材について面白い記事があります。
公方越中国正光寺ニ御座、近国皆以奉随了、能登守護畠山大夫参申、越前国朝倉参申、
越後国上杉参申、加賀国守護トカセ参申、
「雑事記」明応二年七月二十六日条
義材は当初、反政元派大同盟ともいえるこの北陸で復権の機会を伺ったようです。
それに対して政元は本願寺と連携して永正三年の北陸一向一揆(1503年)を引き起こして牽制します。
ちなみにこの時期の朝倉氏は三代貞景の代で、政変後は一貫して義材派として行動、
度々京都を伺った義材に対し、軍勢1500余を一年半に渡って逗留させたりしてたです。 余談ですが永正三年の北陸一向一揆のとき、一向一揆20万対朝倉宗滴1万2000といわれる(ぉ、
かの有名な九頭竜川合戦があったわけです。 史料における軍勢の数ほどあてにならないものはないっすね。
この永正三年の一向一揆の規模について史料を元に検証しようと思ったのですが、
打った長文消しちゃったのでやめます。
ただ富樫介が討たれた長享二年加賀一向一揆では、加越だけで20万と「蔭涼軒日録」にあります。
永正三年の一向一揆は、それよりはるかに大規模なものだったことから察すると、
20万じゃまだまだものたりないぜ的数だったことになります。
実際、明応の政変までは、室町幕府は応仁の乱以前とほとんど変わらずに機能しているからな。 明応の政変が、非常に重大な事件であったのは認める
でも戦国時代=戦乱の時代でとらえると、応仁の乱からの方がしっくりくる
足利幕府は曲がりなりにもあるわけだし
個人的な考えなですけど 何故教科書で取り上げられないのだろうか?
天皇関係の出来事でもないし。 現行の教科書に何が載ってて何が載ってないか、知らないからなんともいえないけど、
そもそも明応の政変が戦国時代の始まりだー
と言い出した学者って誰?
>>15
戦国時代以前の室町時代もわりと戦乱の時代だったりするんだよね 応仁の乱終わった後は、足利幕府の畿内への支配力は、強化されてる。
将軍義向の近江親征や伊勢・大和・河内への出兵計画、義材の河内出陣etc
将軍は親衛隊;奉公衆を応仁の乱後に完全に掌握し将軍の指揮下に置き畿内
における最大の軍事力を目指している。それに守護大名は乱の最中から在国
を始めており、洛中には例の細川政元とその一門、それに管領の畠山政長ぐ
らいしか居ない。畿内の大名は六角氏と畠山氏ぐらいでその2家を足利将軍
がしきりに攻撃している。そのかわり幕府の全国レベルの支配力は無くなっ
てるけど・・・義向・義材両将軍は幕権回復のため将軍親裁と奉公衆の軍事
力強化で対応し、畿内に関してはある程度成功してる。応仁の乱後に畿内に
奉公衆に単独で対抗できる軍事力を持った大名は、細川政元ぐらい。そのた
めなのかな?義向・義材両将軍の御親征に協力的でなかったのは。 >>19
たしかその頃の討伐に、
次は越前朝倉か?美濃土岐か?
と真剣に検討される位、将軍家の力は回復してたのは事実だね。 >>15
下剋上的な側面から言ってるんじゃないの? >>21
その通りですな。
ただし下の細川が上の将軍家を滅ぼして代わりに上に立った
わけではなく、将軍家の間で別の神輿を担いだという形だから、
「下剋上」じゃなくて「主君押し込め」と呼んだほうがいい、
という説はある。 >>23
ナイス ツッコミ!義尚ですね。失礼致しました。よしなお君です。 >>24
よしひさです・・・たびたび間違えてしまい申し訳ないです。
たしか陣中でお酒の飲みすぎで死んじゃった将軍ですね、昼夜逆転の生活を
していたとか、甘いものが好きだったとか、公家の娘にストーカーまがいの
事したとか変な人ですね。
足利一門には「鬱の遺伝子がばらまかれてた」との事ですが、
義尚もそうなんでしょうね。25歳で死ぬのは早すぎですね、あと10年生きて
れば将軍権力の集権化や幕府の支配領域の回復も進んだ可能性もあると思う
んですが? 細川政元の室町幕府乗っ取り説(京兆専制)→今谷明
細川政元の室町幕府からの独立説(戦国大名)→末柄豊
どちらが事実に近いのでしょうか?
政元が自分で将軍になるつもりは無いんでしょうけど。
管領畠山政長の専横に対する反感はかなりあったんでしょうね。政長は、他の在国の守護大名にも嫌われてたと言う話を聞いたことあります。 細川政元の力の源泉は、幕府内の地位や権限ではなく
丹波・摂津両国を支配している事にあると考えてもよいのでしょうか?
この両国は、幕府所在地の山城を西から囲むように隣接し、交通の要所
でもあり何かあればすぐに洛中に軍勢を入れられる。また勝元の代から
山城領国化工作を開始しています。元々畠山氏の力が強かった山城は、
南山城国一揆で畠山氏を追放します。これも政元の陰謀ぽいです。
細川京兆家は、応仁の乱終結後も将軍家の意向に囚われずに
(伊勢氏とは協力しつつ)山城の領国化を行う方針であり、同時に丹波
摂津両国の維持に全力を注ぐ政策を取っている。
讃岐も京兆家は、領有維持の姿勢であり現地の反乱や阿波から侵入に軍勢を
送り軍事的対決をしている。
ただし土佐の支配は現地の守護代(細川一門)に委ねている。 間違いを修正します。
在京した守護大名を刺激したと言われている。
↑
を
在国した守護大名を刺激したと言われている。
に直します。失礼いたしました。
再度、間違いを修正いたします。
このように将軍義材が在国要求を一色氏にした事に
を
このように将軍義材が在京要求を一色氏にした事に
に直します。失礼いたしました。 >>29 >>32は、>>30の修正です。あしからず。 末柄豊は、細川政元が将軍義尚の第一次近江親征に協力しなかったと記述し
ているが、他の資料では政元は協力した事になっている。京兆家の軍勢は奉
公衆と一緒に出陣しているし、政元は六角氏を追撃しその後近江に守護にも
任命されてる。義尚と政元の間には特に何もない。1479年に政元が丹波に拉
致された時、内衆と細川一門の一部が細川勝之を還俗させ擁立しようとした
事件でも、幕府は事態を静観しており特に勝之に肩入れしていない。京兆家
の家督分裂の危機が他家同様に存在したのに将軍義尚と大御所義政はそれを
利用することはなかった。義尚・義政と政元の間には特に対立点はないよう
に思える。 名前を変えて将軍職に復帰ってのが面倒だな。改名した意図はなんだろ? >>35
義材→義尹→義稙のことかな?
義尹改名が明応七年(1498)とすると、周防に落ちていたころ
義稙改名が永正十年(1508)とすると、そのころは高国、義興で安定してたころ
前者は期するものがあるとしても、後者はよくわからないね >>37
永正10年(1513←だよね?)3月に、義稙は高国らの専恣を怒って近江甲賀に出奔してる。
4月に高国と義興がもう背きませんっていう誓書を提出して、5月に義稙は帰京。
ここら辺で思うところがあったんじゃないかな? そういや等持院の木像は、どの名義で作られてるんだろ? 最初の義材? 義稙か恵林院じゃないですかね、行ったことないのでわかりませんが
>>38
ううう、申し訳ありません、間違えました
その流れで11月改名ですね
>>41-42
義稙の名義みたい。
ttp://homepage1.nifty.com/heiankyo/rekishi/reki11.html 実隆公記あたりがいいんじゃね?
あとは大乗院寺社雑事記かな >>42
載ってない。実況中継とかいう参考書にも無いね。
教科書に載ってないから京大とかが入試で出すんだろうな
日本史用語辞典にはさすがにあるけど。 そんな馬鹿な・・・
これほどの重大事件がなぜ載ってないの?
はっきり言って、例えば川中島合戦だの大坂の乱なんぞとは
比較にならないほど歴史的重要度が高いんだが。 大坂はまあ、一つの時代の終わりだからいいんじゃね。
しかし時代の転換点たる明応の政変が載らないのはおかしい。 室町時代の、特にこの時期は、対立というか勢力の構図が
ほんとにわかりにくいってのが一因でもあると思う。
畠山義就(基家)にしても、最初は細川京兆と対峙してたのに。。。
って感じだし。
明応の政変で室町「幕府」の機構はほぼ瓦解した(というのがスレでの定説)
んだけど、
やっぱり事件のインパクトとして、京一面が焼け野原になった
応仁の乱の方が、取り上げやすいし、
ここで室町幕府の凋落が明らかになった、
ってした方が教えやすいんだろうな。 明応の政変くらいならまだまだじゃね?
南北朝や応仁文明の乱はもっとごちゃごちゃしてね?
というか、室町時代はいつもごちゃごちゃしてね?
安土桃山時代がえらいスッキリしてて物足りなくなるくらいじゃね?
そこがイイ!と思わね? 何で"明応の政変”は有名じゃないのかね?不思議だね。
この政変は、日本史のターニングポイントだよ。"本能寺の変”もあれだけ
語られるのだからこちらも語られてもおかしくない。
織田信長は、戦国時代を終わらせた人物だとすれば、細川政元は、戦国時代
を始めた人物。対照的だけど同じ程度のキーパーソン。中国の三国志なら
細川政元は"司馬い”並みの人物。クーデターで政権乗っ取った。特に
将軍の親衛隊「奉公衆」と皇帝の親衛隊「禁軍」を崩壊させたのは同じで
中央権力の直属の武力部隊をやっつけた事で実質的な政権を獲得した。
ただ政元と司馬いの違いは、政権獲得後、元将軍や敵対勢力からの巻き返し
や反撃があったが政元は敵対勢力からの反撃に負けてしまい。結局養子を
乱立させたため内紛で自滅。その点、司馬氏のほうが色んな反撃を撃退、
新王朝「晋」の成立に向かった。 学会で高名な学者が新しい論文でも出さないと盛り上がらないね。 自民党をぶっ壊した政治家→小泉純一郎
室町幕府をぶっ壊した大名→細川政元
魏王朝をぶっ壊した武将→司馬い 将軍義尚の第一次近江親征の後は、美濃と越前への親征の計画もあり
美濃の土岐氏や斉藤氏と越前の朝倉氏は、近江の六角氏と提携し足利幕府と
対決姿勢を強めた。もし第一次近江親征が成功し六角氏を完全に滅ぼせた
なら足利幕府は、畿内の幕府への集権化だけでなく中部地方への幕権回復
の可能性も。土岐氏と朝倉氏が手をくみ幕府と対峙したら足利将軍家自体が
戦国大名化したかも。将軍義尚も義材もやたら畿内で親征してる。ある意味
これは将軍の戦国大名化を意味してるのか?そうなると将軍の戦国大名化
を細川政元が“明応の政変”により阻止したことになる。また将軍親衛隊の
「奉公衆」が軍事力として畿内・中部地方の大名にはかなり強力に意識され
始められいたという事だろう。 関東はすでに戦国時代に入ってまつ。
足利持氏\(^^@)/万歳\(^^@)/
戦国時代はくじ引きで足利義教が将軍になった時に開始されますた。
よってもっとも重要な事件は【でっち上げのくじ】です。 関東では、鎌倉公方が関東管領を暗殺してから戦国時代に突入。時代的には
関東のほうが先に戦国時代に入ってます。しかし京都の将軍様は義教は暗殺
されただけで別に戦国時代にはなってない。義政の時代でも親政を行い諸大名
を統制している。ただし「文政の政変」で大名への抑えは効かなくなってる
けど、この政変で一時的に手を組んだ細川勝元と山名宗全は後に対立を激化
応仁の乱へ。ただし応仁の乱の最中でも奉公衆の働きもあり将軍家は直接攻撃の
大衆にはなってない。東軍の頭にされてるけど西軍が降伏する時も簡単に許して
大名が国許に帰ることを許可してる。そのせいで守護の在京制度くずれ畿内以外
の大名へのコントロールは効かなくなってる。 神保みたいな氏素性が微妙な奴を頼るとは将軍家も墜ちたものだ。 神保氏は畠山氏の歴代の被官で宿老にもなってる。従って本拠地はないはず。
斉藤氏・遊佐氏も同じ。
土肥氏・椎名氏は越中の国人。
応仁の乱の13年前、足利義教が暗殺された後に遊佐氏が神保氏の京都の
屋敷を攻撃、神保氏父子は死亡、屋敷は炎上、洛中は大騒ぎになった。
また同じく土肥氏・椎名氏も攻撃されて京都から逃亡、三管領家の一つの
畠山氏の内訌の始まりである。
義教時代に畠山持国は総領の地位を追われ異母弟の持永に取って代わられた。
義教死亡後、持国が総領に復帰、しかし子供がナカナカ生まれないため
別の弟の持富の子の弥三郎を持国が跡取りに指名、しかし後に持国に実子
義就が生まれた。実子に相続させたい持国が弥三郎を廃嫡する為、弥三郎派
の神保氏・椎名氏・土肥氏を遊佐氏に攻撃させ、京で市街戦に。
まるでバクダットやね 神保氏は弥三郎・政長派だけじゃなく
義就派の内衆に神保国久もいるように、両派に分裂している。
遊佐氏も両派に分かれてるし、本当にややこしくて混乱する。 足利義稙は本当に流転の人生だね。
周囲の権力構造もそうなのだが、本人の資質もそれに拍車をかけてるような。
幕府に公然と反旗を翻した結城合戦
もしくは関東を混迷の渦に巻き込み二度と旧体制に戻る事のなかった管領管領足利成氏の鎌倉放棄の古河城移転が戦国の幕開けではないかと。
それか義政の弟の掘越公方が関東入部できない時点。
早雲がキッカケを作ったのを初めとするのは微妙。
つかなんで掘越公方が関東に入れなかったんだろう?今川が紛争中だったのか、扇谷上杉が関東に入れなかったのか?(旗下の太田氏や大森氏や三浦氏が反対?)
成氏の三島侵攻もあったが、あの時は山内上杉の長尾軍が古河城を落城させて牽制してるが相模守護の扇谷上杉は三島まで見て見ぬフリでもして素通りさせたのか? 何年か忘れたが、義稙は暗殺者と斬り合いをしてるね。
手傷を負いながら撃退してるようだが。 1509年(永正6)の10月の事件
近江の足利義澄が送った刺客で、義稙の同朋衆が手引して忍び込んだとか。
ワザと灯りをつけず、騒がずに暗闇で撃退したってやつだっけ。 公家化してしまったかと思いきや、さすがは将軍だな。 義植はヘタレというイメージが強かったんだが、
それは偏見だったよw
将軍様tueeeee 義稙は不屈の人だよ
義晴も細川晴元も同じだけど、諦めることを知らない 本人はともかく周りが許さないんだろう。
家臣団は殿の出世に賭けていた。
鎌倉公方vs関東管領の時も互いに本人には実権がないしヤル気も???
鎌倉公方の実権は、奉公衆に
関東管領の実権は、執事の長尾家や太田家に移行しているので
本人が止めたいのに回りに引き回されて暗殺&合戦に
>>71
>1509年(永正6)の10月の事件
↑
この時期になると「奉公衆」が明応の政変で崩壊しボディガードもままならない
のが実態。やっぱ親衛隊が居ないのはこの時代ムリな事。
足利将軍は、明応の政変後は細川・三好・松永の都合で殺されたり追放されたり
ばっかり。しまいには織田が出てくるわけだが。
奉公衆は5000人〜10000人の兵力だが、まとまりはあるし畿内でコレだけの
軍勢を集められるのは細川政元ぐらいか?畠山は分裂してるから数千人ぐらい?
六角氏は将軍親征でに逃げ出してるし色んな意味で貴重な軍隊だったと思う。
奉公衆の基幹構成員(約300人)の半分が三河・美濃・尾張・近江の4カ国に所領を
持つ御家人。御今の兄も奉公衆です。将軍御料地もこの4カ国に多く
足利幕府の基盤はこの地域にあるということか。 >>78
奉行衆は国元に代官を置いて、自分達は常に上洛してたの?
江戸時代の旗本みたいな感じで。 >>79
横レスだけど、奉行衆(奉行人)と奉公衆は別物。
奉公衆は守護家一門子弟、御家人・国人が主体。軍事的基盤。
奉行衆は、飯尾・松田・斉藤・諏訪などの官僚群。
元々は軍勢催促を行えない、純粋な行政官僚。このころはどうなのかは、忘れたけど。 >>77
当初義材を支援したのは、政長との兼ね合いで、畠山尚順、神保、
これに朝倉が加わり越中〜越前
六角、政元に敗れて落ちていったのが周防
そして義稙を大内義興が擁して上洛
この一連の流れは、各氏の思惑も大きいだろうけど
義稙の思いによるところも大きいと思うが
しかしろくな実権があるかも疑わしい権力に魅力があるのかね? >>1
細かいことだけど、神保長誠は義材を放生津に迎えてしばらくして、中風を患ってしまっている。
子の慶宗を、義材と共に大内氏の元に赴かせてるらしいし、
直接的な軍事行動を起こさなかった、って程度の評価じゃなかろうか。
あと、話はずれるけど、南大和って不思議なところだな。
後南朝の影響があったり、幕府権力に背いたものが拠ってたり・・・ >>83
神保長誠は、所詮畠山の家臣の国人の1人にすぎず、畠山政長・尚順親子に
頼まれて義材をかくまっただけに過ぎない。神保長誠と畠山尚順は、イーブン
な関係じゃなくて上下関係。畠山尚順の方がぜんぜん大物。
軍隊の動員数もぜんぜん桁違い。畠山尚順は細川政元に追い落とされたとは
いっても3カ国の守護をかねる大大名。明応の政変後も細川家と戦い続ける
ことが出来た有力者。神保長誠じゃ小物で細川家とは戦争できません。
河内は畠山基英が抑えてるが、紀伊は尚順がおさえてる。大和は両者入り乱れで
よく分からないがほぼ折半か?南大和は、紀伊に近いため尚順側の勢力下に
あり、細川&将軍義高から見れば敵地。細川家の武将が何回か侵攻してる。
尚順も紀伊から大和に進出してくるし大和は細川家と畠山家の決戦場になっている。 >>85
書き方が悪かったかな。
国人じゃなく、神保氏は畠山家内衆ですね。
弥三郎擁立時の寛正内訌の詳細を参照されたし。
神保氏は同時期なら越中・紀伊守護代なんで、
義材=尚順方の軍事的行動の消極性に原因があるのかなぁとも思ってみたり。
そもそも、この頃の情勢を16世紀以降の戦国大名同様に見ていいのかなぁ。 政元は確かに傑物だけど、えらく変わった人だよね
周りの評価はどうだったんだろ? この事件を分かりやすく解説した本とかないかな?
高価な専門書じゃなくて。 室町時代にはよくある権力闘争の一つ
観応の擾乱から南北朝合体までのごたごたにくらべりゃ
対立図式はかなりシンプル >>1
全面的押領ができていたら、戦国時代なんてやってこなかったんじゃね?
所詮、「押領がほかより激しかった」程度じゃないかな。
ちなみに誰の日記?提示していただけるとありがたい。 細川政元(武将) 84.6点
画数:細[11] 川[3] - 政[9] 元[4]
天画(家柄)14画 凶 対人関係がうまくいかず、精神的な悩みも多く抱え孤独感に悩む。
地画(個性)13画 大吉 誰からも好かれて話し上手で社交上手、穏やかな性格で成功する。
人画(才能)12画 凶 小心者で神経質、強引だが中途半端。孤独で家庭に恵まれない。
外画(対人)15画 大吉 人の輪、家庭運に恵まれ、周囲の協力に恵まれ、大成功する。
総画(総合)27画 吉 自力で道を切り開けるが、人の輪をおろそかにするため発展しない。
評価 : 84.6点
モバイル姓名判断
おっ!なんか、当ってね!?点数は悪くない。 政元は、播磨・備前・美作を押えていた赤松政則と同盟していた為
山陰地方への出兵はほとんどしていない。
政元は、自分の姉と赤松政則を結婚させている。
政元のメインの進出先は機内南部、河内・大和であろう。
そうなると邪魔なのは畠山氏。 畿内での合戦の兵力規模ってどれくらいだったんだ?謙信が2千人くらいの兵力で上洛したとき
松永や三好が震え上がったと聞くが 謙信が震え上がったから坂本から京に通ったの間違いだろ? >>96
明応の政変の時、政元は2万の軍勢集めたといっていたけど、
将軍義尚の近江第1次親征は1万の軍勢。
応仁の乱のときみたいに7万とか8万とかの軍勢は居ないだろうが。
数千から1万ぐらいかもしれない。
応仁の乱の終わりごろ、畠山が洛中から河内に撤退する時には
2000名の歩兵と数百の騎馬隊が撤退したと言っていたけど?
それが目安になるのでは? >>98
となると五千あれば十分戦が出来たということか。 >>99
つーか、1万人以上動員する戦なんて、戦国時代通してみてもそう数は無いだろ。 船岡山・天王寺・教興寺の合戦は畿内でも最大規模の合戦だな
まぁそれぞれ性格が違うのは置いといて 少なくとも松永の性格からいってびびることはないだろう そうなると細川政元は、守護大名でもなく戦国大名でもない中間的な存在。
政元は自分で将軍を追放しているのだから守護大名ではないだろう。
このころの守護大名はみんな国許に帰り国人層の掌握に躍起になるか
他国からの侵略に備えるか、下克上で守護代や国人に滅ぼされるかの
どれかになる。
守護の皆さんは自分たちが将軍あっての存在だと気付かなかったんですかね?
三好も松永も守護や守護代ではないな、
松永なんかどこの馬の骨かもわからん位の人物。
三好は信濃の守護をやっていた小笠原家の分家筋だから下克上の
成り上がり組みだけど言われているほど家筋は下ではない。
それに三好は細川管領家(京兆家)の執事という立場で細川政元に呼ばれ
京へ上り中央政界デヴュー
それを嫌がった細川京兆家の内衆が政元を暗殺、三好もその後の合戦で戦死。
三好は成り上がりだろう
鎌倉南北朝期の活動はやはり不透明 それは最近分かったことじゃなくて、三好の系譜まんまじゃないの?
まぁいいけどさ
でも十分成り上がりだろう
細川の分家の家来が幕府牛耳るまでになったんだから 義材はともかく義尚は政元とは関係悪くないんじゃない? 強大になった京兆家に対して将軍家が分家の対立を煽って勢力を削ごうとした
のに対抗して政元が先手を打った可能性は?
もう1つの領国の土佐には阿波守護は手を出していたのですか? >>1
根来寺はともかく、本願寺は政元攻撃していないのでは?
政元が攻撃したのは、延暦寺です。
あと大和の興福寺も攻撃してましたっけね。 >>1:人間七七四年2007/08/13(月) 00:06:07 ID:KQHBpTjw(1)
>京兆家の阿波での下守護家(阿波守護家)に対する反乱工作は1985年に
行われているし。備中での庄元資の乱は、1991年です。
…五百年ほど違くね? 赤沢朝経をもっと有名人にしよう。
相当やり手だったんだろうな。
一度裏切ったくせにまた仕えてる。政元もよく許したね。というか、政元から戻ってきてくれと。
でも、言い方は悪いが朝経は政元の犬。
奈良の寺焼くわ比叡山焼くわ。波々伯部五郎もそうだけど。
でも、最後がいいよね。政元の後を追ったって感じで。 それならなぜ政元は阿波守護家の澄元を養子にしたのですか?
澄之も理解できない人選でしたが 政元は、ガチガチのホモw
家臣の内衆や細川一門のおとな衆にも呆れられてる。 守護代クラスの内衆への対抗上では?
政元暗殺後の内衆は澄之一本でまとまっているし、
それ以前から澄之擁立の動きはあったでしょう。
澄元を養子にすることにより、
阿波守護家との関係強化、後継者問題で澄之派を牽制、
おまけに三好之長も手駒に使えると一石三鳥。
…むしろ破滅を早めた気もしますが、末期の政元は綱渡り状態ですね。 >>114
>>145
古野貢氏の論文に、澄之・澄元を迎えたことについて書いたものがあったと思う。
「細川氏同族連合体制」の崩壊を主題としたものだったと思う。 この政変が無かったら、室町幕府はどのくらい命脈を永らえたんだろうね?
地方に強力な戦国大名が生まれ始めていた以上、あまり史実と大差なかったような気もするが。 史実以上に生きながらえる可能性もあるが、
諸大名にしてみれば危険な存在なので史実より早く潰される可能性もある。
いずれにせよ、担がれるだけの御輿ではなくなるだろうね。 義輝や義昭みたいな野心家が史実通り出てくるなら、戦国大名化するね。
細川や三好、六角が強大化するとやばいけど。 実力者の一存で天下人がすげ替えられるって、相当なことだな。
武田信虎の追放とか、比じゃないし。 足利家が戦国大名化したら相当強力なんじゃ無いか?奉行衆は数は多くないとはいえ
当時の日本でも最新の戦術を操る最精鋭部隊だろ。 煽るわけではないが
足利将軍家が戦国大名化することってできるの ?
できるならば、それはどういう状態をさすのだろうか >>127
政元が明応の政変を起こすまで足利将軍家は戦国大名化するコースだったよ。
奉公衆の兵力は畿内の大名にとって大きな脅威的存在。
政元も怖いので、明応の政変を起こした。
>>128
何故どうやって戦国大名化への道を進むのか教えて欲しいです。 >>130
自立した領域国家化すればそれを戦国大名化というんでないかい?
義尚、義澄あたりはそう言う意味で足利家を戦国大名化しようとしていたと言っていいと思うが。 直轄地で増えてくれば、それだけ軍事力も高まるからね。
やっぱ、足利幕府は御料所(天領)が少なすぎた。
六分の一殿とかありえないw 斯波や畠山が上手く自滅してくれたが、ついでにぐたぐたになった将軍家
が建て直しして細川を弱体化させようとしていたが、政元に先手を打たれた
のがこの政変? >>133
>ついでにぐたぐたになった将軍家
義尚・義材は近江親征・河内親征を行ったように、軍事力を重視して実際に行使している。
明応の政変前に将軍家がぐだぐだな状態だったわけではない。
むしろ親征という軍事的な強権を発動する将軍家が今後より一層強い存在にならないように、
事前に縮小化させることを狙ったのがこの政変ではなかろうか。
斯波氏が尾張に逼塞、渋川氏が没落(関東・北九州の一地方勢力)、
赤松氏と山名氏が相争って国力を疲弊、京極氏が没落(出雲は尼子台頭、近江は六角優勢)。
義材の目にはこれら在京武家の極端な没落及び地方大名化を目にした上、
河内親征により畠山氏を追い落とせば残る在京の危険勢力は細川氏のみになるわけで、
細川氏の弱体化を狙っていたとしてもおかしくはないけど。 >>164-165
将軍家としては望ましい展開だろうね。
だから、政元がホモではなくて、ちゃんと子供作っていれば
あそこまで京兆家が分裂しないと思います。
養子3人もとるなよw
ただし、下克上が始まっていますので、仮に政元の実子が居て京兆家家督を継いだとしても
丹波・摂津・河内・大和・山城の国人や守護代が黙って大人しく従うかどうかは不明。
仮定の話として政元の実子が継いだ瞬間、領国内の国人や守護代と大戦争となるかも。 >>139
> 養子3人もとるなよw
思うんだけどこの養子って
アッー!
の為だよね? 阿波守護家からはなんとなくわかるが
九条政基の子を養子に貰う意味は? いいや政元の性癖ではなく、以前からの付き合いが深い公家との養子縁組は守護大名には多い。
個人的な関係というよりもイエとイエとの関係に近い。
京兆家と同盟している赤松家も公家から養子もらっている。
江戸時代には、後に財閥家になる住友家は、男子直系が断絶し
西園寺家から養子をもらっている。
近衛家も戦前の昭和期に京兆家の分家筋の熊本細川家に婿入れてるし。 勝元が畠山あたりを引っかきまわしたから 分裂も因果応報だよ。 奉公衆に非常に興味ありまくりんぐなんだが
彼らの忠誠心ってどれくらいだったのかな?
何かいろいろ調べくと飛騨の内ヶ島氏?とやらも『奉公衆』だったようだが
1510年くらいにはもう忠誠心何か忘れてるっぽいような事書かれてる
んだがwww 実際義政くらいの時は将軍のための死ぬ覚悟とか
あったのかな? ちょっと胡散臭そうw >>148
義尚・義材までの奉公衆は忠誠心高かったろうな。
近江遠征軍や河内遠征軍の中核なわけだし。
明応の政変以後の奉公衆はそれ以前とは別物と考えていいんじゃね?
規模も縮小されたし、あの辺りから中身を伴わない地位的な位置に落着したと思うが。 もともと室町幕府の体制は、守護たちの寄合い所帯のイメージがある
奉公衆も江戸期の旗本や譜代大名とは全く違うような どうも足利家の意識としては、北条を排除した鎌倉幕府を復興した、くらいの意識だったらしい>室町幕府 御所から見ればあれだが、得宗からみれば鎌倉幕府の方がしっかりしていたと思うな 室町幕府は建武の新政の反動か知らんが、法律まで鎌倉幕府の御成敗式目を
全くそのまま使い通した、って言うのが面白い。おかげで社会の現実から乖離しまくって
訴訟なんか大変だったらしい。担当者によって現実と合わせた解釈をするかどうかが
えらく違ってて、町の揉め事すら将軍の裁決を仰ぐはめになる事も間々あったらしい。 >>154
別に変じゃないよ。
御成敗式目は武家(政権)の祖法と思われていたから。
朝廷だって、全く形骸化した養老律令を明治維新まで掲げていた。 鎌倉のやり方を受け継いだら、将軍は力持てないよね
反面教師にしながら、家康は相当考えたものだ >>156
鎌倉時代の、いわゆる源氏三代以降の宮将軍や公卿将軍も、実際はかなりの権威と権力を持っていたらしいぞ。
実は北条としょっちゅう対立してたりする。決して北条に唯々諾々と従うだけのお飾りのロボット、では無かったことは
確かだ。 北条得宗って結構全国に領国もっていたよね
対する足利将軍は…
ここらに問題がある
>>157
九条頼経・頼嗣・宗尊親王・惟康親王と悉く追放されちゃうけどね
>>158
やはり山城や近江(か大和)は直轄地にすべきだったな。 >>159
そうなんだけど、細川京兆家に横取りされるからな。 >>159
寺社勢力が強い大和は無理じゃないか?
羽柴秀長がかなり巧みに支配したようだけど。 >>159
元々幕府発祥の頃から諸氏の神輿的な存在だからなぁ
北条氏と比較するよりは源氏と比較した方がいいかもしれん
源氏と比較すれば、よくやった方だと思うよ 明応の政変の前に、将軍義尚が戦陣で没しているが、酒の飲みすぎで体壊したなどといわれているがアレはやっぱり
暗殺かねえ? 甲賀53家が将軍の陣を襲ったらしいけどね
病死じゃないかな 六角攻めが成功していたら、足利幕府は勢力を盛り返したかねえ? >>170
自分の領内の直轄管理を最初にやり始めたのは室町幕府だぞ。
幕府官僚だった伊勢盛時は駿河や関東でその政策を展開しているので、だいたいあの当時の室町幕府が
どういう方向性を志向していたのかは予想できる。 >>170
足利家の初期の所領は南北朝の戦いで敵に奪われたり、恩賞で家臣にくれてやったからかなり早い時期に相当の直轄領が失われた。 直轄軍の強化を狙って実行に移していたわけだから、当然直轄地という発想もあったんじゃまいか 足利義教の頃から将軍家の直轄領や親衛隊の整備始めているよ。 足利義政は伊勢氏を使って山科を直轄領にしようとしたら、畠山政長に邪魔された。それで明応の政変で伊勢氏と細川政元が結託して明応の政変に。
>>161
大和は興福寺が守護だけど、実際は畠山家の支配地。
畠山家が分裂するので、大和の国人衆も2派に分かれて争います。 結局、将軍家の戦国大名化への志向はあったが、義教暗殺で潰えたと。 義尚が死んで直系が絶えたのが大きいんじゃないかな
義政は無能だけど傀儡かというとそれは違うし >>179
義政は本質的に、享楽主義の独裁者だからなあ。
あんなに失政を、天皇から叱られている将軍も、いないんじゃなかろうか。
今の時代ですら、天皇自身による政府批判なんて明らかになったら、その政府は一発で吹っ飛ぶだろ。
それを考えると、義政のあの鉄面皮と、政権基盤の、ある意味の強固さは、恐ろしいものがあるw >>178
一応、形の上では統一権力だから割拠して勢力を小さく必要性は無いだろう 天皇から云々については、天皇の方が勘違いというか間違っていたという見方もあるけどね。 義政は妻や子からもダメだしくらって
晩年は中風でそのまま没だからな 義教も義政も方向は違うが ともにまともじゃないんだよね。
義尚は結構まともだけどね。 >>188
義政は自分の思う通りに成らないと、とりあえず人事をいじるタイプ。 享徳の乱を鎮圧しようとして、軍事力調達のため斯波家の当主の首挿げ替えまくって起きたのが武衛騒動と応仁の乱
応仁の乱の後も斯波義廉のことだけは許せなかったのか執拗に追い回して歴史から消滅させた
将軍を義尚に譲った後も人事権だけは手放さないなど、目の付け所だけは心得てる 同じように執拗に追い回していた畠山義就に対しては、逆に周りが呆れて、義政の命令を無視するようになったのに。 つーか、畠山の嫡流は本来、奥州の畠山なんだよな。
管領家である河内畠山(金吾家)は、実は傍流。 岩切合戦の後、国詮が40年ぐらいふんばってたんだけど、晩年にはスルー対象になってて
次の代で庶流の本宮氏とお家騒動が起きて完全に一国人に零落 むしろ、畠山の真の嫡流は北条の策動で倒されただろうが >>189
つーより、パパやお爺ちゃんの真似して、自分もあちこちに口突っ込んでみたら
段々収拾が付かなくなって、応仁でドッカーンってイメージなんだが >>197
応仁に関しては、その直前に義政が、「畠山の家督争いは私闘だから幕府は関係ない。勝手に勝負つけろ。」
って言い放ったのが、乱勃発のトドメだったとおもう。 >>199
少なくとも、直接的な原因は全部、義政が作ってるな。 遠因だけ言ったらそれこそ、室町幕府の成り立ちにまで突き当たるからなあ。
やっぱり直接的な原因は、義政がその場しのぎの人事を繰り返した事と、両畠山の紛争を
自分で煽っておいて、騒ぎが大きくなったら、「アレは私闘」って、無責任に突き放した事でしょ。 そんじょそこらの凡君じゃあそこまでの事は出来ないわなw
むしろ、そんな中でも権力を終始保持している手腕を見れば、ある意味天才だと思うよ。
あと、芸術面に関しては本当に天才。その分野だけで歴史に名を残せるくらい。>義政 しかしこの変で成立した京兆家政権が、政元が暗殺されない場合は、長く続いたのだろうか?
敵が多すぎることも含めて、どうも非常に不安定な体制だったように見えるが。 在地の国人層の強い反発を受けていたから暗殺されちゃったわけで
暗殺されなくとも、相当の混乱は避けられなかっただろうな しかし政元も信長と一緒で、しょっちゅう派手に、配下に裏切られるよねーw
それでも結構許しちゃうところも似ているな。 ご存知の方へ。1つ質問があるのですが…。
延徳3年(1491)管領細川政元が秘かに越後を訪問したとのことですが…、
それはどれくらいいたのでしょうか? また私の資料には3月3日に東国(越後?)を巡回したとの事ですが…
それは本当なのでしょうか? なんでもいいので情報待っています。一応「関東王 越後守護 上杉房定親子」スレにも書きました。恐々謹言。
>>1
入嗣するのに、澄元だけを連れてくるなんて無理だろう
普通は複数の家臣をつけるもんだ
澄元を養子にした時点で、内衆と阿波衆の多少の対立は避けられない
その阿波衆に三好之長がいたのは不運だったが… >>1
> 政元は、どちらかと言うと国人層を新たに京兆家家臣団に組み入れようとしていた。
> 内衆を守護代に任命する間接的な従来の統治方法を変更し、政元直属の家臣団として国人
> 層を組み入れたり、領国内の政元の直轄地を増やす体制変換を考えていた。
なるほど。今風に言えば、京兆家の戦国大名化を推し進めていたって事かな? 三好之長が一揆関係でパクられたのも間接的には阿波細川家への嫌がらせだよね
> しかし、特に畿内では国人の独立志向が非常に高く、山城や丹波などで、
> 守護(細川氏)が数十年をかけても国人層の被官化を達成できない事例も
> 見られた。これは京兆家内衆が守護代に就いている事もあり、京兆家家督の
> 権限拡大を妨害した為でもある。
畿内は京兆家、内衆、国人層の三すくみみたいな状況だったと考えていいのかな?
それに分裂した将軍家などの要素がかかわってきて、安定しえなかったと。
しかし土地と人民の一元支配って、おそらくは足利義尚も目指した方向性だろうし、
伊勢宗瑞が関東で実践したものでもあるね。やはり畿内では利害が交錯しすぎてて、
改革の芽は出ていても、それを育てることは出来なかった、って事なのだろうか。 >>227-232
義政クンに全責任を押しつけないでください…
義教の強引な政治に嫌気が差した側近が義政クンを凡君に教育(調教?)したんです…
義政はそれによって芸術面に傾倒していっただけなんです… いやあ、義政は方向性が違うだけで、義教と変わらん位の、強烈な独裁者だよw 義政&富子が日本史上最悪の馬鹿夫婦なのは間違いないだろ
有力守護を二派に分裂させることで幕府を安定させるという
室町幕府の基本政策を踏襲していたものの、
バランス感覚と事態収拾という点において、大きく失敗してしまった
混乱に拍車をかけた細川・山名・伊勢たちの責任も大きいがな
馬鹿世代のツケをまとめて払わされる義尚も気の毒だな >>212
三好之長は、くだらない馬泥棒でも幕府から追及されている。
阿波細川家は、山城守護職を狙っていたから、三好之長が畿内でうごめいている。
応仁の乱終了時は。山城で土一揆・国一揆が続発している。
三好之長は、それに絡んで山城の国人層の支持を集めて細川政之の山城守護職任官を企んだ。
細川成之と細川政元の対立は、この辺りからもうかがえる。
また。阿波守護家の細川政之・義春兄弟が、若死にしているのも京兆家との対立と関係しているのかも。
応仁の乱終了後に阿波国内でも争乱が続発している。
阿波細川家だけでなく備中細川家・和泉両守護家も京兆家から離れて行く方向。
備中では京兆家内衆と戦闘を起こしているし。和泉守護家は畠山家と組んで京兆家と
戦闘に及んでいる。 畠山尚順はけっこう働き者だな
ノブヤボの冴えない顔グラと城配置のイメージがいまだに抜けなかったりするけど 長尾為景と連携とったりいろいろしてるよね。
しかし残ってる書状とか見ても、確かにいまいち頼りないw >>1
> おそらく代々の京兆家家督は分国経営にはそれほどタッチしておらず、
> 幕政の参加を第一の職務にしていた可能性があるのかも、
逆に、だからあれだけ幕府の中で主導権を取れたのかな?
> むしろ山城の一円支配の方が時期としては先で、この伊勢家のノウハウがあるから
> 伊勢新九朗盛時は、関東で一円支配の統治システムが実現できた。
ありがとう。凄く勉強になった。 上原元秀の排除、罷免も、内衆と国人衆との対立と言う面から見たほうがいいのかな? 丹波を京兆家の直接統治下におくって事?当時の京兆家にそんな事可能だったんだろうか?
延徳三年の富士一見すら、経費は上原の負担だったようだけど。 丹波という難しい土地を支配できるようになったのは、信長以降の話だからねぇ
北陸・中国・山陰・山陽を結ぶ戦略上の要地ではあるが… 奥州と近畿では錯綜する勢力の数も規模も違いすぎないかな?
たしかに政元のころは京兆家が圧倒的な勢力を持っていたことは確かだろうけど。
もしくは、京兆家が圧倒的だったからこそ、改革の必要性はわかっていても、
それをやろうという機運が盛り上がらなかったのかもしれませんね。
ほおって置いても脅かされる心配が、少なくとも当面はないのだから。 南北朝時代の丹波は分郡守護だったけど、京兆家が丹波守護の時代の丹波守護代は一人制みたいだよ(文書上では) 京兆家は足利幕府に変わる新しい政権の形を模索していたんだろうか?
正直そこまでの実力はなかったようにも思うけど。 >京兆家が丹波守護の時代の丹波守護代は一人制みたいだよ
ご指摘ありがとうございます。おそらく、そうでしょう。
>京兆家は足利幕府に変わる新しい政権の形を模索していたんだろうか?
越後に山内上杉定正と会いに行って、堀越公方に潤童子の擁立を相談したり、
茶々丸の攻撃を伊勢盛時に命令したり、関東のことは頭にあるようですね。
ただ、潤童子の擁立は暗殺で不可能になり、伊勢盛時の伊豆侵攻は潤童子擁立失敗の後始末ですからね。
堀越公方でさえ擁立出来ない訳で、全国政権の構想は無理でしょう。
政元は、畿内で精一杯でしょう。
政元は、摂津守護代と山城下守護代に殺されているわけで、いかに京兆家家督による
分国の一円知行が守護代に阻害されているか分かります。摂津守護代の反乱は実に2度目です。
畿内の領有化も政元晩年の包囲網と守護代のサボタージュにさらされているのが分かります。 仮に潤童子擁立が出来ていたら、どんな体制になってたんでしょうね?
ただ、足利義澄も政元に従順と言うタイプではないから、関東と近畿に
足利義澄-潤童子の兄弟ラインが出来てしまうと、逆に将軍家の強化につながったんじゃないかな? > いささか無理な仮定かと思います。
> 山内上杉家は、潤童子擁立どころか堀越公方そのものを嫌がっている感じです。
> 足利政知がそもそも山内上杉家の反対で鎌倉に入れず、仕方なく伊豆に御所を
> 設置した訳で、元々すぐに消えるべき存在かと。両上杉は、堀越公方の動員令
> に従っているのでしょうか?
じゃあ政元は、元々無駄な足利義澄-潤童子の兄弟ラインを、無駄を承知で画策してたって事?
そこまでピエロ的な人物だとは思えないけど…。 古河公方と敵対してる山内上杉は伊豆を政知に譲渡してるので堀越方ですよ。
むしろ相模国を領有してる扇谷が鎌倉入りに協力的でなかったように見えますね。
上杉禅秀の息子らが政知に扇谷重臣の讒言をして政知が義政に訴える事態になったりしてますし。
古河公方らが伊豆三島へ侵攻した時も扇谷領を一気に突っ切って伊豆まで侵攻できたのも非常に怪しい。
この時は山内上杉の家宰だった白井長尾景信が下野内を撃破して古河城を落城させて堀越を救ってます。
のちに道灌の死を経て上杉同士の対立になると、古河&扇谷&伊勢氏VS山内上杉&堀越&越後上杉の対立構造になるくらいだし。
ちなみに景信の息子の景春の姉妹が扇谷定正の正妻で山内と敵対して古河方にいる。
この戦いは勝ち続けた定正が増長し古河が離反し苦戦するようになり、最後は伊勢氏の救援なく越後長尾によって平塚まで蹂躙され川越が落城し扇谷が山内に降伏する事で山内扇谷が対伊勢氏協調体制に。
この間に山内の策謀(顕定の父である越後上杉氏が相模守護に任じられる)で早雲は幕府から切り離されてしまい相模統一に苦戦するようになったらしい。 >>1
> 政元は、義尚の近江親征ですら、あまり賛成していませんよね。
あまり賛成してないどころか、裏で六角と結んで近江親征を極力邪魔してますやん。 (>>1 最後3行修正)
細川京兆家は東軍の総大将であり西軍との対立感情は尚更大きく被官衆に浸
透していると思われる、元服後でも山名家の血統を引く政元の家督相続への
反対は実は家臣団の中にくすぶっていたのではないかと想像する。
政元の母は、山名宗全の娘とも養女とも言われる←俗説だろ? 南総里見八犬伝に、細河 左京兆 政元って名前で出てくるな、細川政元w 八犬士の誰だったかのイケメンを男色狂いの政元が誘うんでなかったっけ?
気持ち悪がって政元からうまく脱出したんだよな。
政元もイケメンに好意を寄せてたから里見によい返事だしてたような…
長尾景春とか同時代人はけっこう登場するね。 そういえば政元って例の誘拐事件のとき、あっさり後継者から外されそうになってたなあ。
あのとき後継者から外されたままになったら、歴史は大きく変わったんだろうなw >>239
1479年12月の政元が13歳の時に発生した、丹波国人の一宮宮内大輔による丹波への拉致事件ね。
あれは本当に不思議な事件ですね。政元がまだ元服する前の事です。
結局、事件そのものは、3ヵ月後に同族なのか一宮賢長により政元が救出され、
京兆家家宰の安富元家と内衆の庄元資が一宮宮内大輔を討って一応の終結となります。
問題なのは、この事件の3ヶ月間の間に内衆が、京兆家評定衆として誘拐され
不在となっている政元を廃し、1472年に山名宗家と単独講和の為に細川勝元に
廃嫡され出家していた勝之を還俗させ再度京兆家家督として擁立しようとして
いた事である。
これは、細川京兆家も他家と同一に家督分裂の芽が有った、と言う事になる。
しかし幸いにも、畠山家や斯波家のような家臣団同士の戦闘にまでは至らずに
事件は終結した。この点も不思議である。 裏があったのか、単純な所領問題の不満からの誘拐事件なのか。 勝元が生きていた頃までは内衆をうまく統制していたのかな 応仁の乱の和平交渉で身動き取れなくなって、髻を切った件とかみると、どうなんだろうねえ>勝元 勝元は宗全と連携とってたときは上手くいってたっぽいけど、
山名と大内を両方敵に回す羽目になって同族連合と内衆に
頼らざるをえなくなってから精彩を欠くようなイメージ 政元は誘拐事件とかのトラウマで、あんな変な性格に育ったのだろうか?w そんな事件に巻き込まれなくても、
あんな政治の中枢に生まれてまともに育つとは思えないんだが >>246
政元以外の京兆家の人って、案外常識的というか、まともな人って印象があるが。 優秀から凡庸の差はあるけど、当主の個性が今ひとつ感じられないというか 勝元なんて個人としても相当優秀だし、政治的にもえぐいこといっぱいやってるけど、
全体の印象として、なんというか、人間としての生臭みが少ない。
そう言う意味でも、政元の個性は強烈だよねw この戦国時代初期の守護や各武将の動きときたら、複雑で良く分からないな。
駆け引きと言うか、互いのだましあいなんだろうけど。
ある種のゲームの理論だな、ナッシュ均衡だっけ?
あの映画のビューティフルマインドの。
だれか応仁の乱から細川政元暗殺まで、ゲームの理論で説明できない?
関東の享徳の乱とかも、複雑すぎて良く分からん。 義植に常に協力していた畠山尚順が
船岡山だけ反目に廻っているのは何故? >>250
簡略化して言ってしまえば、義稙系と義澄系という2つの流れが
あり、実力者たちがそれぞれの事情でどっちかを擁したり敵対したり
という図。 >>251
船岡山で戦死した「遊佐河内入道印叟」ってのがいるけど
同じ受領名の人物が尚順の家臣にも義英の家臣にもいるから紛らわしい
尚順の家臣の遊佐順盛だろうってのが昔の説だけど、
順盛はその後も生きてたことが分かってるから
今では義英の家臣の遊佐就盛だろうってことになってる
しかし明応の政変は、結局誰が得をしたのか良くわからん。
政元にしても事態収拾のため嫌々表舞台に出されたような。
あれは単純な、足利家内の内乱に過ぎないんじゃないだろうか? 政元てホモ?
初めて聞いた
不老長寿を求める宗教的情熱に被れたと思ってた
俗人には分からない変人では? 政元にしても事態収拾のため嫌々表舞台に
よしたねにかなりの憎悪を抱いてたと思ふけどな >政元にしても事態収拾のため嫌々表舞台に
そうなの? >>254
義材が将軍だから、将軍廃立が出来た。
義尚が将軍のままなら明応の政変はかなり成功確率が低くなる。
なぜなら奉公衆が義尚の下で結束しているからで、特に近江親征以降はその傾向が強くなる。
政元も、旧西軍系の義材が将軍なら奉公衆がすぐに分裂する事を見抜いているから政変を起こした。
義尚政権自体、奉公衆が創出した政権との評価もある。
逆に言えば、足利幕府の支配領域は畿内に縮小しているともいえる。
守護大名の在国化が一般化し有力守護大名の連合政権という足利幕府の基本的性格が、
応仁の乱で崩壊し、足利幕府は畿内限定の地域政権に転落したとも言える。 もともと室町幕府自体の支配領域は、畿内から瀬戸内程度に限定されてたしねえ。
あとは間接支配地域。 >>260
>あとは間接支配地域。
応仁の乱以後は、足利幕府は、間接支配すら出来なくなる。
応仁の乱以前は、守護は在京していたが、応仁の乱以後は、将軍に挨拶もせずに下国している。
また、守護は幕府への上納金も納めなくなり、幕府は山城を幕府直轄領にして事態を乗り切ろうとする。 >>1
そういえば政元は山城一揆も含めて、やたら国一揆や土一揆の黒幕やってるね。
これも対幕府と言うより、京兆家内での、内衆を抑えての主導権確立と言う意味が
あったのかもね。
>>304
> また、守護は幕府への上納金も納めなくなり、
そういえば後の戦国大名や、畿内政権、信長もそうだけど、将軍直轄領である「寺社領の回復」を
戦争や権力保持の、公的正当性の根拠の一つにするようになるね。
義尚のやろうとしたことは、あの時代的には公論であった、って事にもなるな。 >>1
しかしこれだと、国人達にとっても京兆家は敵、もしくは強大な脅威だ、って事にならない? なりますね〜
実際には京兆家に所領を没収された国人も居るのではないでしょうか?
分国内国人全部が京兆家家督サイドと言う訳ではないでしょう。
ただし京兆家家督の近習や分国内の小守護代・奉行などに就いていた国人は、
京兆家の所領没収から免れやすいと思います。
摂津の嶋上郡と嶋下郡の国人がこれだと思います。 >>265
つまり、国人にとって同じ脅威なら、まだ京兆家のほうが、普段接している守護代などの内衆よりも、
上級権力であるだけに御す価値がある、って事かな? >>1
そこまで独立性を志向しているのに、それでも京兆家の内衆は、例えば斯波の朝倉や
土岐の斉藤妙椿、後の三好長慶のように、京兆家を通り越して直接将軍に繋がろうとはしなかったよね。
これは何故なんだろ?
あと1477年の段階だと義政は室町殿だな。 >>1
> 政元はそれを押さえ
> 込みつつ同時に分裂し弱体化しつつある畠山氏や幕権再興に燃える足利幕府
> 細川家の同族連合体制から脱却し将軍家と手を結んで山城や讃岐守護職へ手
> を伸ばす阿波守護家と対決をしなければならなくなります。これがこの時点
> の京兆家家督の政治的課題となります。
それが細川政元掟書に繋がるわけなのかな? 細川政元掟書は内部統制の問題で、それだけでは無いですけどね。
足利義材・細川成之・細川義春・畠山政長・畠山尚順・一色義有・比叡山延暦寺・根来寺 等の
外敵を打ち破るには、戦争しかないわけで、政元は、ある種の多面戦争を強いられます。
政元の味方と言えば、
畠山義豊・畠山義英・赤松政則・武田元信などで、東国には伊勢盛時や今川氏親・上杉定正などでしょう。 細川政元掟書は1501年に政元と京兆家評定衆の合意により制定された、
5ヶ条の式条のことですね。
喧嘩・盗人の沙汰の条項があり、京兆家家督が家臣間の紛争に介入できる内容のようですが、
全条文は、知りません。
誰か教えて下さい。 細川政元掟書はたしか、九条政基旅引付の中に収録されているんだっけ? >>270
細川政元式条は、全部で五条で、
喧嘩、盗人、請負沙汰、強入部、新関についてかかれたものだそうですね。
条文は一部しか知らないのですが。 薬師寺元一の反乱は華麗に鎮圧。
意外と軍事感覚は優れてたんじゃね?>>政元 摂津守護代の薬師寺元一は、表向きの理由として澄元擁立を目指して淀城に籠城したんだっけ、
実際は、摂津守護代職を取り上げられそうになり、それを察知して籠城している
でも内衆には赤沢朝経以外の同調者はいないので、大失敗。
摂津国人ですら、この反乱に同調していない所を見ると政元の分国の直接統治
は意外と浸透していたのではないかとも思える。
薬師寺氏は、元一の父元長の頃から政元と利害が対立し領地の取り合いをしている。
政元にとって薬師寺氏の存在自体が、邪魔になりつつあったのかもしれない。
元一の弟の長忠は、政元を香西元長と一緒に暗殺するに関与する。
香西元長は、澄元家督相続と三好之長の京兆家家宰就任に反対する為に暗殺したが、
薬師寺長忠が政元暗殺に関与したのは、兄と同じく守護代職に取り上げられない為といわれ、
政元の摂津守護代の薬師寺氏圧迫の政策が垣間見える。 明応の政変と北条早雲
近年、明応の政変と北条早雲(伊勢宗瑞)による伊豆の堀越御所(茶々丸)討ち入り
は、連動しているとの説明がなされていますが、
詳しい方いらっしゃいますか? >>277
明応の政変→義澄が将軍に→茶々丸は将軍の生母と弟潤童子の仇
→将軍の敵討ちとして宗瑞伊豆に討ち入り→茶々丸を滅ぼす
以上 細川政元式条より、家中の喧嘩に関する条文
・喧嘩(による殺人事件)については、どんな事があっても先ず(被害者側が加害者側の主人に)
使者を派遣して、大法の成敗(加害者本人の処刑)を行うように要請し、それでも加害者側の主人が
処罰を渋った場合は、その次第を細川家に申し上げれば、細川家の手により御成敗(処分要求)
を出す。
万一、それでも加害者側が処分を行わない場合は、加害者をかくまっている主人の、
細川家の被官としての身分を剥奪し、その所領も没収する。 >>278
>>326 基本的構図は、327のとおり(将軍となった義澄VS母の仇の異母兄茶々丸)です。
従来、早雲による堀越御所討ち入りは、延徳3年(1491年)されていました。
それが近年、明応2年(1493年)が有力です。
ただ、将軍となった義澄は当時13歳の少年、自分の意思を幕命にして下せるほどの
能力があったかは疑問です。 >>281
感謝いたします。特に現代語訳して頂いて光栄です。
他の盗人、請負沙汰、強入部、新関の4条についてもお願いいたします。
細川政元式条は、事実上の京兆家分国法と理解しても良いのですか?
そうなると政元は初期の戦国大名と言う事になりますが・・・ >>1
しかし文明五年に勝元が死ぬと、政元があっさり家督を継ぐよね。
その時点では教春・勝之親子らの反対派に、新たに京兆家の後見となった持国が勝利したって事かな? >>1
そういえば義尚の新将軍代になった、富子の兄の日野勝光が、畠山義就の帰参を図ろうとしたな。
礼金の要求額が大きすぎて義就が断ったやつ。 歴代細川当主の寿命が短いのは
斯波はすでに無理としても畠山にとって千載一遇だったはず
なのに 生かしきれなかったなかったですねえ 畠山の内ゲバの最中においしい所領は持ってかれちゃったしな
気づいた頃にはもう遅かった 持国政長尚順はそれぞれちょっと盛り返したんだけど
結果 畿内のぐだぐだ状態が加速されただけというか
のちに畠山家臣の木沢長政が三好長慶に討たれたことを鑑みても
やはり細川の地盤はそれなりには強靭だったんですねえ
義就系とか奉公衆系の畠山一族がしぶとく残ってたし
家督相続の最終的な決定権は幕府が持ってて
幕府の実権は京兆家が握ってるとくれば
いくらでも引っ掻き回せるしな >>288
>やはり細川の地盤はそれなりには強靭だったんですねえ
応仁の乱以前でも守護大名としては、1の存在だが、さらに応仁の乱の
最中に荘園を押領しまくり分国内での所領を急激に拡大した事が京兆家の
それも家督の権力基盤・経済基盤が乱以前よりもより強化された。
大乗院尋尊が日記の中で、
「応仁の乱で武士たちによる荘園押領をもっとも激しく行ったのは細川勝元と朝倉孝景だ。」
と言いっており、尋尊自身の丹波や摂津、越前の荘園領もほぼ勝元に押領された。
一条兼良も越前の荘園領を全部朝倉に押領れてしまった。 >>290
京兆家が、それほどまでに荘園横領を「出来た」理由は何なんだろ?
反発だって非常に強かっただろうに。 義尚が長命でもやはり政元との衝突は避けられなかったってことか
ただ政元もかなりてこずったはず
あるいは将軍家権威高揚が実現した可能性も 義政は政所の伊勢氏と協調して指導力発揮できてたけど
義尚は母親と近い伊勢氏を遠ざけて近習やら奉公衆だけで
なんとかやろうとして、かえって余計な溝を作った印象がある なんでここは日本史板並の濃さなんだろうなw
たまにカキコするけど相当調べ上げないとツッコミきつそうでハラドキするw >>296
日本史板のレベルが下がっているだけような気もするが、
それはともかくして、ここはマジで勉強になるな。 日本史板は時代ごとに特化しないとレベルが落ちる一方かも知らん。
もともとそんなに高くもないんだけれど。 >>301
勝元や孝景の荘園横領は、義尚擁立以前から進められてたと思うが。
あと応仁の乱の終局前にコロっと死んじゃうし。
京兆家全体としてそう言う、ある種の戦国大名化方針をとらせる体制を作るほど、
時間的余裕があったようにも思えない。 >>1
公家が地方に疎開したから荘園が横領されたのではなく、
荘園が横領されたから地方へと疎開したのでは? >>303
食い扶持が入ってこなくなったから、食い物を生産しているところに行こう、って感じがあるな。
応仁の乱のときの貴族の疎開って。 公家の地方疎開は、戦火を避けるのが第一の目的。
若狭と大和への疎開が多かったらしい。親戚を頼ったり、自分の荘園の近くに
引っ越したらしいから確かに食い物の近くに行く感じはある。
それと荘園から公家の処には直接食料が送られてくる事は少なく、
金納契約が圧倒的に多い。現地の請負代官は武士で彼らが農地管理をしている。
請負代官が、農作物を換金してそのうち何%もらうとの契約だが、その請負
代官の武士が応仁の乱開始後に荘園領主たる公家や寺社に送金を止めてしま
いそのまま押領というケースも多い。 >>1
斯波義廉を私怨と言っていいほど憎んでいた義政が、そう簡単に
西軍に参加するかな?
それに大内政弘の伯父教幸を離反させたり、朝倉を寝返らせたりしたのは
義政主導といってもいいんじゃない?
義政と富子は、別の思惑で動いていると思う。 >>1
> わが子の将軍任官を願うのは一緒でしょうね。
でも少なくとも応仁2年9月の、義視が義政に提出した例の、「邪徒三人」排斥の諫書までは、
後継は義視って路線で動いていたと思うよ?>義政 朝倉の下克上の公認って言っても、それは室町将軍がかねてからやってきた
守護のコントロール手段じゃない? >>308
守護統制手段の一つだろうが、
守護家が存在するにも関わらず守護代を守護に任ずるのは先例とまったく異質じゃないか?
応永の乱や明徳の乱に代表される総領交代劇とは別物だと思うが。 >>309
斯波家に関してはそれ以前に甲斐を幕府の直臣にしたり、幕府内にそういう、
一定の勢力削減、もしくは分裂方針があったとは思うぞ。 >>310
勢力削減と分裂方針は同一の目的で行われるのは理解できるが、
別個の守護家を取り立てることは削減・分裂と同一目的といえるだろうか?
越前と尾張に分裂した斯波家のうち、越前の方を滅ぼして後釜にその家臣を据えたんだぞ?
斯波の庶流をもってきたり、富樫や武田らを斯波に替えて守護に命じる、ってのがそれまでの政策。
そのどちらでもなく、斯波の家臣に過ぎない朝倉を持ってきたのは前代未聞のことじゃないか?
斯波が滅亡したからならともかく、斯波家そのものは存続しているわけだし。
有力守護大名家の勢力削減方法にしてはかなり異例な措置だったと思うが。 異例だろうね
その後数十年間は斯波との間でgdgdの訴訟が続いたぐらいだから そもそも東軍への寝返りの条件である、守護職補任はあったのだろうか?
応仁の乱勃発当時、越前守護は斯波義敏(東軍)
越前守護代はおそらく甲斐氏だろう
西軍に属していた朝倉孝景を東軍に寝返らせる条件は、
守護職ではなく守護代に任じることの方が自然だと思う
その後、斯波義廉の息子に鞍谷氏を継がせることで、
斯波義敏を追放したんじゃないのか? いまでこそ管領家の中で冴えない斯波だけど
当時の感覚では鎌倉公方に近い存在だったんじゃないか
細川は実力はもちろんだけど家柄が将軍家としては
安心できたというのもあるはず 斯波氏は幕府内で北関東、東北の取りまとめ役だよね。 まあ、斯波氏に対する幕府の態度も、例によってころころ変わるんで、
一貫した政策があったとはとても思えないが。
むしろ斯波義廉への、義政の敵愾心からくるものが、斯波氏弱体化にいたる政策への影響の
ウエイトが大きいのではなかろうか? 斯波氏から守護職を奪い取った先例を朝倉が作ったおかげで
織田信長も守護職に就けたんだよな。 斯波義将が孫の義淳を管領にして後見してたあたりは
名実ともに三管領筆頭だったけど
そのは後全然いいとこなしで、も少しなんとかならなかったものかと 幕府が関東に手間取っていればもっと立場を強く出来た 斯波義将がやり過ぎて将軍義持の警戒心をかったと思います。
管領を5年しかやっていないけど、義持の弟の足利義嗣の将軍への動きを
完全に押えるなど動きが凄かった。
斯波義将は将軍義持の側近を失脚させるなどの動きもあり、そのあたりが
義持の警戒心を煽ったと思う。 応仁の乱後の生き残り方を見ると
細川に10の力があったとして
畠山3か4、斯波は1がいいとこかと >>324
逆。
関東の平定に手間取ったから見境なく斯波の力を利用しようとして
義政が当主の首のすげかえをやりまくったのが斯波弱体化を決定つけた
最初は政知の執事が渋川義鏡だった関係から義鏡の子の義廉に斯波の家督継がせて
斯波の軍事力を利用としたけど、義鏡が失脚すると義廉を袖にして、奥州の斯波氏にパイプを
もっていた義敏をまた家督に戻そうとした
義廉の時代には奥州の斯波と連絡とれなくなってた形跡が残ってる 狙ったわけでなくても 義政と細川にはよかったかな 斯波の弱体化。 3管領家の管領在任期間をみると細川管領家が異常に長期間管領を勤めている事が分る。 畠山が管領家に加わったの将軍家の意向?
斯波細川の2対立の緩衝作用を期待 というか斯波を恐れてか??
西軍=大内山名一色土岐は元は斯波派のながれ
斯波が健在なら応仁の乱は激しい決戦になって白黒ついたのでは 斯波も細川も足利親族だけど、畠山は足利と代わらない鎌倉以来の名門だからな。 南北朝の時に、和氏やら頼春やら顕氏やら兄弟従兄弟らが競い合ったのが大きいと思う 頼之と斯波義将の勢力争いは伯仲していたが、そののちは細川が強い
貿易のせいもあるか >>342
細川は領地以外に瀬戸内航路を勢力圏にしてたけど、斯波はせいぜい北関東から東北だからな。 明徳の乱で山名氏清が足利義満に滅ぼされた。
幕府所在地である山城の隣地である丹波と
貿易港が複数存在し、農地が広く石高が大きい摂津の
両方を押えた事で畿内での京兆家の存在が大きくなった。
貿易港だけでなく京兆家が洛中への山陰・西国街道を押さえた事により、物流網を握った事も大きい。 四国統一して瀬戸内の海軍もしっかりおさえておければよかったのに >>347
京兆政権(政元?)時代は、畿内に政権基盤を移していた。
政元は、丹波と摂津の維持にかけていた。
領国内の反抗的な国人を倒し、京兆家家督直轄領に組み込んだり
重要拠点の国人を直参に抱え込んだりしている。
守護代の支配権の拡大の阻止にも動いている。
従来の家臣団(内衆)の再編成も行い京兆家家督よる分国直接支配体制に移行している。
勝元代から継続している京兆家による山城の国人への家臣団リクルート工作も継続しているが、
京兆家の四国の分国である土佐と讃岐は、半ば放棄しつつある。 足利幕府の中央権力の弱体化に伴い、細川家の同族連合体制が崩壊したから。
京兆家だけではないが、守護大名は、複数の分国を支配する場合には
隣国などのまとまった領土ではなく飛び地で守護職に任命されるケースが
ほとんどである。
その場合には、どこかの飛び地の支配を諦める。
応仁の乱が終結し、足利幕府の中央政府としての権力が喪失してからは
守護大名の飛び地放棄政策が恒常化する。
放棄した場合は、土着の有力国人に支配を委ねるか、飛び地の隣国の守護に
支配を委ねる場合が多い。
言わば一種の領国経営のリストラです。 複数の分国支配の場合、守護大名にとって重要な分国とどうでも良い分国があるんだよ 個人的には戦国の収束は、兵農分離がほぼ完了した徳川家光期でいいと思う。 戦国時代の開始時期は畿内(中部地方以西)と関東では異なります。
畿内では明応の政変の1493年から
関東では1454年の享徳の乱から
畿内では応仁の乱終結の1477年から明応の政変の1493年までの16年間は
足利幕府の幕権回復期
将軍親征を繰り返し畿内では将軍の権力はむしろ強まっている。
それに明応の政変は、それに対抗する意味もあり。 幕権回復=長い目で見れば細川の基盤も固まる
下剋上を起こせば巡り巡って政元自身も・・
という発想はなかったんでしょうか >>354
ぶっちゃけると、明応の政変で政元は、京兆家が政権を丸抱えするような事態になるとは
想定していなかったと思われる。
変そのものより、義材の逃亡を許したのが痛かったんじゃないかな? 1467〜1590が戦国時代
1467〜1493が黎明期
明応の政変は「始まりの終わり」 上原元秀の監視体制が悪かったか、義材に買収されてわざと逃がしたかのどちらかだね。
細川政元の信任厚かったものの驕慢の振る舞いが多かった上原元秀は
他の内衆や丹波諸国人の怒りを買いあまり京兆家内では評判が良くない。
丹波守護代として国人領地の押領を強化したため1489年9月に丹波国人一揆の位田の乱が起こった。
これに関連して1492年上原元秀と長塩弥六と刃傷沙汰となりその傷がもとで死亡した。 >>357
上原元秀が死亡したのは1493年でした。
明応の政変の半年後です。
修正します。 義材が予定どおり流されてたら
さらに政元に実子がいたら
幕府はより長く存在したか 否か??
>>359
将軍家が二流に分かれなければ、少なくとも対抗する勢力それぞれが「将軍」を頂いて
正当性を争う、って状況はなくなるわけで、
政元死後京超家が分裂しても、その影響は限定的だったと考えられる。
幕府が滅びないまま何らかの新秩序が形成された可能性すらあるんじゃないかな? >>360
明応の政変で将軍の親衛隊である奉公衆は崩壊します。
幕府再建は、奉公衆再建を何とかしないとダメでしょうね。
1477〜93年までの幕権回復期も結局奉公衆の積極的な軍事行動に支えられていた訳ですから。
政元に実子が居れば、あそこまで畿内の政局は混乱しないでしょう。
この時期の畿内の政局は、将軍職よりも半ば京兆家の家督を巡るものになります。
ただし政元の実子が居れば京兆家の分裂は避けられますが、
細川家の分裂は避けられません。
政元生存時から、京兆家と阿波守護家との対立、京兆家と備中守護家との備中大合戦
京兆家と和泉両守護家との合戦が繰り広げられており、もはや細川家の同族連合体制
は、応仁の乱後の幕府支配地域の縮小に伴い崩壊しています。 将軍義材も政元を押さえ込むために阿波守護家に肩入れした。
その挙句の明応の政変。
当時の阿波守護家の家督細川義春は、河内に将軍義材と一緒に出陣中
しかし、政元の軍勢が京から迫ると将軍を見捨てて逃亡w 義材と一緒だったのは政長父子 斯波義寛 阿波細川
大内は近くまで来て退散
一色あたりも参加したのか 一色義直は、応仁の乱後は分国の丹後に在国し京には居なかった。
しかし、将軍義材は、丹後への親征計画を止める代わりに一色義直が
京に戻る事を要求し一色義直は京に戻った。
応仁の乱以後に守護大名の在国が一般化したが、一部では在京化が戻り始めていた。 >>361
足利義晴の内談衆再建は実質上の奉公衆+奉行衆集団の再編+再建だったのだが、時期が悪すぎた。 >>433
義植が元西軍というのと政長の不人気で参加大名が少なかった
ということだろか
>>1
は京兆家と統一した畠山家と対決させるつもり
義材は足利家中興の将軍となった可能性もあった
政元のおかげで流浪将軍に・・
本当に義材に求心力があれば、政元の軍勢と戦うはず。
しかし実際には義材を諸大名は見捨てた。
明応の政変は、政元個人の行動ではなく、畿内や西日本などの守護大名は将軍の専制化を嫌がっていたのだろう。 恐ろしかった公方が弱体化していよいよ俺たち守護の時代だぜ!
と思ったら公儀の権威が消失したので国人に下剋上されたでござるの巻 >>370
基本的にはそうだけど、政元の場合は守護代に下克上された。
丹波と摂津の国人はどちらかというと政元寄り
むしろ伝統的な譜代の京兆家家臣団(内衆)が下克上している。
>>437
幕府中興は、旧西軍系の義材では無理。
義尚が長命なら可能かも。
義政や日野富子も後ろに控えているし。 応仁の乱以前から、直接的な支配は畿内と瀬戸内地域に限定されてると思う>室町幕府 >>372
応仁の乱以降の室町幕府は畿内と瀬戸内地域支配すら怪しくなっている。
守護大名の在国化が進み、京には細川政元や畠山政長以外の大名は完全には居ない体制になる。
義政が応仁の乱以前に発令した寺社領還付・保護命令は大名は完全無視状態。
畿内でも在国化した守護大名やその家臣団による寺社領や公家領や奉公衆領への押領が盛んになる。
もちろん国人による守護大名への反抗も始まっている。
応仁の乱以前の権門体制は、乱以後急速に崩壊し始める。 甲斐一国程度の規模なら出来た事でも、細川家ほどの規模では抵抗勢力もその分多くなるわけで、
単純に甲斐でうまく行ったから細川家でもそうすればうまく行った、と言うわけにはいかんでしょ。 参考になってもそれが単純に他でもマネ出来るかっていうのは別の話で。
それに武田家の改革と言えども紆余曲折があって、信玄の時代になってようやく安定した体制になったという
側面もあるわけで。 中間層を排除し分国の土地と人民のダイレクトな統治体制(一円支配)を作るのは
守護大名から戦国大名への転換の基本コース
そのくらい出来ないなら大名止めた方が良いね。 >>380
基本コースってw
別に定められた進行表があるわけじゃ無いんだから、何が正しくて何が正しくないかなんて、
誰にもわからないっつーの。
戦国大名だって、初めからその方向を目指したわけではなく、生き残りのために紆余曲折を得た挙句、
気がついたらあの形になっていたに過ぎない。目標モデルがあってそこに向かったわけじゃ無い。
結果の出た後の視点から、過去の優劣を考えるのは、非常に愚かな行為だと思うぞ? 基本的な計画性がないとマズイでしょう。
権門体制の崩壊や下克上(国人・農民一揆)はリアルにその時代に起きている現象
どうすれば生き残れるか少し考えればわかるはず。
政元に限れば、摂津に大内政弘が上陸して来た時に摂津国人衆がこぞって
寝返ったのが京兆家に中間層への不信感を植え付けたかもしれないですね。 義材は大名連にどの程度協力を得て
政元はこれほどの政変を起こすに前、どの程度根回ししたんだろか
政元は赤松には接触してるが山名 一色 京極 土岐らには?
在京せず情報もなく単なる傍観者か・
政元への消極的支持者ってとこが妥当なんだろか
細川京兆家ー赤松家ー京極家ー武田家(若狭)は一つのラインになっている。
応仁の乱のときの東軍はこのラインで形成された。
明応の政変の時もこのラインは生きている >>384
明応の政変の支持勢力はそれに加えて、義就流畠山、堀越公方、越後−山内上杉、日野富子、
って所か。 政元派は今川か
上杉顕定が弟の仇を討ちに越後の攻め込んだ際
朝廷で北国凶徒の鎮定を祈った記録があったらしい
なんで関東管領が凶徒??だが義植復権時だからか
長尾為景は義種や大内と連携してたと思われ 義材は、在国化した大名を再び在京化させようとしていたのでは? 義尚が長命で実子がいても政元は明応の政変を起こせたかどうか
また、赤松邸に将軍を呼び出して・・・・・ つーか、政策の問題っていうより、明応の政変を引き起こしたのは、義材の西軍系の人脈が、
最大の問題だったんじゃないかね? 西軍系の将軍が幕権回復を目指す中央集権策をとったから政元が反発した。
義材は露骨に畠山政長に肩入れしたからな この時代に興味あるんですが、
入門用としてそこそこ詳しく、かつお奨めな本ってありますか。 >>393
ありがとうございます!
早速買ってきました。
今から読みます。 結局、足利将軍家は三管領家のバランスの上に乗っかっていたのに
義教・義政両将軍が、畠山家と斯波家を分裂内訌に追いやった為
この2家が弱体化し細川京兆家のみが結果的に強大化した。
将軍義教も京兆家を狙っていたが、京兆家と仲が深い赤松家に先手を
うたれて殺害され、将軍義政も応仁の乱で京兆家と山名や畠山、大内
と戦わせたが弱体化せず、後に明応の政変を起こすくらいの実力を貯
めてしまった。
足利将軍家の守護大名抑圧政策が裏目に出たといえる。
これも結局足利将軍家が封建領主として弱体でり、絶えず地方の封建領主
を抑圧しないと中央政権である足利将軍家が圧倒されかねないという力関係の現れ。 戦争の日本史
畿内・近国の戦国合戦 福島克彦/著
http://www.7andy.jp/books/detail/-/accd/R0422875
> 足利将軍家の継嗣問題、畠山氏と細川氏の内紛、三好長慶や松永久秀らによる争乱…。
> 応仁・文明の乱終息後も畿内とその近国では戦乱が断続的に繰り広げられた。
> 絵画資料・現地踏査・発掘調査を手がかりに都市や城郭、防御施設の実態を探り、
> 織豊時代への連続性を検証する。「英雄不在」といわれる信長以前の約一〇〇年間、
> 「都の戦国時代」を詳細に描く。
これは楽しみだ >>400
『畿内・近国の戦国合戦』
応仁の乱後信長入京までの畿内史(もちろん「明応の政変」含む)を扱った書籍は、
今谷氏などの専門の研究書はあったのですが、
本書籍のような通史一般の解説本は、ありませんでした。
本スレ「明応の政変」読者が、期待するような内容の本であって欲しい!
期待外れでないことを祈りたいです。 >>400
まだ売ってなかった訳だが。流石吉川弘文館。 だれか細川政元を単行本にしないかな?
明応の政変でもいいけど 織田信長→下克上で成り上がる
細川政元→上克下で内衆押さえ込む >>1
この本出てたよ。買った。
まだ最初のほうしか読んでないが、たいていの本で軽くスルーされる、
応仁の乱から乱後における、両畠山の戦いの詳しい描写だけで、個人的には買う価値があったw
応仁の乱で畠山が義就流と政長流に分かれて、
明応の政変で将軍家が義稙流と義澄流に分かれて、
政元の暗殺で京兆家が澄元流と高国流に分かれて、
畿内はぐちゃぐちゃになったってことだな。 >>400>>473>>477
『畿内・近国の戦国合戦』 福島克彦/著
書籍の真ん中ら辺の城郭史関連の記述が気にかかる。
著者の専門なのか知れませんが、あまり興味がない。その意味では残念。
>>13
魔法半将軍の作者が本名で次期衆院選の民主の公認を取ったそうだ。 アマゾンやセブンイレブンなら送料ただで送ってもらえるよ? 福島先生小学生のときに日教組にいじめられてたのね。
俺も似たようなこといわれたなあ。
こういうわけの分からん教師が多いよな。 「機内政権」という不思議なものを作り出した人だね。
豊臣政権くらいまでは、政元の構想の延長線にあると思う。 >>428
エアフォースワンを占拠したんですね。わかります。 政元は戦は上手くて強いのに、もの凄いむらっ気があるよな。
やる気がなくなるとさっさと引き上げて、粘着力がない。 早めに撤退して戦力を温存した後反撃を考えていたんだよ >>437
正直政元がなにをやりたかったのか良くわからん。
政権を持つ事自体、面倒くさいと思っていたような節もある。 政元に限らず室町時代の幕府高官って、さっさと引退して悠々自適に過ごしたい、
ってタイプが少なくない。 基本的に変わり者だよ、政元は。
ただし畠山家と足利将軍家だけは潰している。 厭世的な面倒くさがり屋のなした所業が、歴史の転換点になっている事が面白いな 元々最大の権勢家だからな。
足利義材さえおとなしくしていれば、家柄といい勢力といい権威といい、
何もしなくても天下の第一人者。 勝元のときは宗全や畠山に勢いがあったよなぁ
細川氏そのものも京兆家を頂点とした集合体に過ぎず、
京兆家の当主に圧倒的な権力があったわけでもないしな 勝元をちと過少評価しすぎやしないか
まあ山名宗全が化け物じみてるしな 勝元はすごい強大な権力を持っているよな。
ただ若い頃は、勝元と政権争いしてた畠山持国の化け物じみた政治力に
いいようにやられてた印象もあるが。 そういえば長宗我部元親のじいちゃんの、長宗我部兼序が政元の被官だったな。 >>451
政元の被官じゃなく土佐細川氏の被官だろ
土佐の一土豪で大平氏のように中央とパイプがあるわけでもない長宗我部氏が、
京兆家の直接の被官になれるわけがない >>452
当時の土佐は京兆家支配じゃなかったか?
支配かどうかは別として政元までは土佐守護も兼ねてるね 実態はともかく、名目としては政元被官と言っていいだろうな。 長宗我部氏は、実態は土佐一条家の被官じゃなかったの?
一条家の勢力範囲が実際どの程度だったのか、今一歩わかりにくいのだが、
細川家の土佐支配はあくまで名目上で、実際は各地の有力土豪が権力を牛耳っていたと思われる。
名目上でも守護権力、それも中央政権を牛耳っている勢力と繋がっているってことは
大きな力がある。
長尾為景が細川高国政権と繋がっていた間、彼の越後支配は安定していた事を
考えるといい。
あと長宗我部が一条家に服属したのは国親の時代からかと。 上原元秀は金策は上手かったんだろうがどうして政元にそこまで信任されたんだろうか。 上原は豊臣政権とかに居たら能吏として扱われたかもしれんがやっぱりすぐ調子に乗る性格が災いして消されそう。 上原元秀は、明応の政変の実行者だよ、企画したのは、細川政元と日野富子かも知れんけど。 赤澤朝経は信濃から来たんじゃなくて阿波の国人説の方がしっくりくるような。
信濃の方が泊付けるために系図つなげたんじゃないの。 家督問題を見ると政元には破滅願望でもあったんじゃないかと思ってしまう 応仁の乱以上に全国に大きな影響与えているわけだしなあ>明応の政変
将軍家が二流に分裂したことで全国の合戦が恒常化し、関東への伊勢宗瑞の侵入も
中国、九州での大内の巨大化も、明応の政変が原因。 応仁の乱で守護が在京しなくなり荘園も横領されて全国統治が破綻したほうが大きいと思うけど お隣の近江の、四職の京極氏の支族の六角氏すら従わせられなかったのに
あと摂津や備中などでも争乱が起こってたけどそれらも要因が荘園支配のこじれだったと思う。
他にも山名氏が播磨に侵攻してたし既にに戦国乱世って状態になってただろう >>478
義尚、義材の六角征伐では共に、六角は将軍に屈服してるぞ。その後将軍家の方で
事件が起こったから有耶無耶になっただけで。
あとの紛争は室町期に恒常的に起こっていた騒乱に過ぎないんじゃね?
個人的には明応の政変までは、応仁の乱の余波である地方の紛争も、収束傾向にあったと考えている。
摂津国人はこの一揆以降ずっと自立的に振舞うようになるし備中もずっと争乱状態が続くし、
山名のほうだけど毛利次郎の乱なんてのもあるし、
戦国時代の肝である守護在京制や荘園制の破綻と国人などの地方勢力の台頭による争乱ってのは十分起こってる。
収束に向かってたようには見えない >>480
そのへんは個々の事象をどう評価するかで結論もぜんぜん違うだろうからなあ。
個人的には、明応の政変までの、特に西日本での紛争の根は畿内での両畠山の戦いであり、
これが解決すればその他の紛争も自然に収まった、と考えるが。 政元自ら下向しなければならなかったのは摂津の国人が把握しにくくなってたってことじゃないの 政元の放浪癖はガチだからなあ。どこまでが修験道の修行でどこまでが政治的動きなのか
正直良くわからん。 >>482
政元を殺したのは、摂津や丹波の国人ではなく、守護代クラスの内衆です。
摂津に下向しているのは事実だが、今まで見たいに他人任せは止めて
自分で直接分国経営に乗りだしたとも言える。
実態は、応仁の乱まで嶋上郡の国人衆が分国摂津の経営の代行をしてくれていたが、
応仁の乱の時に大内に味方したり、後に国人一揆を起こしたりだったので、
結局、京兆家が嶋上郡の国人衆を滅ぼしてしまった。
一連の動きが政元の意思なのか内衆(京兆家評定衆)主導なのか、よく判りませんが・・・
>>559
ワザとそうしたのかもしれません。 >>484
じゃあ実際摂津の国人の自立化に対して政元が対策として直接的な支配をしようとしたってことじゃないの? 戦国時代は、国人層の下克上もありますが、反対に守護の上克下もあるんです。
下からの反乱を片っ端に弾圧して、反抗した家臣団の所領を守護がジャンジャン収交し直轄領にしてしまえば
戦国大名の出来上がりとなります。 1485年から1493年にかけての山城国一揆なんてむしろ政元が首謀者だもんね。
両畠山家を山城から追出す為の工作でもある訳でっしょ〜〜う!
“国人一揆=守護に敵対”と単純に思わない方が良い。 >>1
んじゃ摂津の上郡の直接支配は摂津の国人への警戒より内衆の独走への警戒が大きかったってこと? >>1
丹波と摂津を重視するのは政元に限らず細川氏の方針で遠隔地交易のためなんだから当然その経路の讃岐も重要だと思うんだけど。
あと近いから在京=在国と出来るのなら三好氏による晴元への下克上なんて起きないんじゃないの? あと阿波守護が讃岐守護を兼ねるようになったのは勝元が死んだ時でしょ? 丹波って重視されてたのか
上原って信頼されてたの? 丹波は重視するでしょう、当然。
摂津と丹波は政元にとってセットで重要。
上原元秀は、荘園や国人所領の横領を繰り返し急激に財政的に豊かになり、
さらに性格的にもすぐ調子に乗るので、他の内衆や主君政元に嫌われている。 >>1
大内義興帰国後の澄元の戦いにしろ在京勢力が阿波勢力の摂津上陸を許してしまうという事態が戦国時代には多く起きてるのを見ると
在京と在国をイコールで結び付けられるようには思えない
三好の下克上にしろ摂津にいたのを晴元が統制できなかった結果といえるし
>政元時代にも阿波守護は讃岐守護を兼任していませんか?
勝元が死んだ時からってことね。既得権のようになって口が出せなかっただけなんでは? >>1
畿内のもいるけど、基本的には南北朝時代の頼之の頃までに関東から来たり四国で被官化したものが内衆を構成してる
丹波はともかく摂津の守護代は内衆の持ち回りでやってるはず。
四国など、畿外では遠隔地の統治をしやすくするためなのか累代の守護代が多いけどそれでも権力の集中を念入りに防いでるように思う。 >>1
>内衆はともかく、政元は讃岐確保にそれほど力を入れているとは思えません。
それは海を隔ててるから摂津や丹波のような後代から見て分かりやすい直接統治のような行動が取れなかっただけなんでは?
細川氏には交易路こそが重要なんだから、北岸の備中の問題にもしつこく干渉してたし、当然南岸の讃岐も重要なはずだけど。 政元は一回ぐらいは、讃岐へ軍勢を派遣したかも知れませんが、
政元自身が渡海して讃岐で戦闘した事ありましたっけ?
こういうのは内衆だけでしょう、安富とか香川とか香西とか。 >>498
そもそも讃岐で政元がわざわざ軍勢を派遣したり戦闘したりするほどの争乱はないだろう
東讃で国人間の争いの調停はしたりしてたけど。
備中の戦いに讃岐の軍勢を派遣したりはしてたから讃岐の一定の統制は取れてて、かつ備中をそこまでして確保しようとしてたってことだろう。 >>495
何で丹波は、国人を守護代に登用し、摂津は四国系内衆を守護代に登用したんですかね?
土佐なんて勝元や政元あたりになると分家の土佐守護代家に丸投げって感じですが。 讃岐に阿波守護家の軍勢が攻め込み、京兆家が一回だけ讃岐に援軍出しませんでしたっけ?
それも負けてしまい、それ以降讃岐に阿波守護家の力が及ぶようになったと思いますが。 細川家同族連合体は、応仁の乱終結で崩壊していますよ。
畠山家も斯波家も幕府も弱体化し、それほど細川家の本家も分家も手を組む必要性が無くなります。
なかでも京兆家と阿波守護家の山城守護職の取り合いはすざましいモノだったようです。 応仁の乱後に他の守護大名は内紛などで没落していったのに、持ちこたえたのが細川同族連合ってのが一般的な説明じゃないの。
応仁の乱後の細川氏の畿内の領国化を強調するためにそこまで否定されてもなあ 細川家が16世紀まで内訌を起こさなかった理由は
将軍家による分断工作が無かった事と、(特に京兆家の)分国内の守護直轄領が
大きく集積してしまい守護代や国人がなかなか下克上出来なかった事です。
応仁の乱後には細川家同族連合体制は機能していませんよ。
特に京兆家と阿波守護家の山城守護職を巡る対立は激しさを増すばかり。 阿波は元々細川氏の支配の特徴の分割統治的な体制作りが進まず、有力過ぎて例外的な立場だと思う。
野州家や典厩家あたりまでが好き勝手に振る舞ってたならともかく機能してないってのは極端じゃないの。 備中守護家だって和泉上下守護家だって、応仁の乱後には京兆家と合戦してますよ?
典厩家は、京兆家を良く補佐していますが、野州家はどうでしょうか?
応仁の乱の末期に細川京兆家と山名宗家の間で単独講和の話しが出たときに
細川勝之は、反対している。
元々阿波守護家も山名との講和には大反対でしょう。
1479年に政元が一宮宮内大輔によって丹波の山奥に誘拐された時も内衆は
勝之を還俗させて京兆家家督を相続させようとした。
早く解決しなければ、この時期に京兆家が分裂内訌しかねなかったとも言われています。
典厩家・野州家は独自の分国を持たず京兆家に寄生している家なので
外部から見れば協調しているかもしれませんが、
それだけに京兆家乗っ取りの願望も強かったでしょう。 ID:pXzL3eIWは一方的な決め付けや推測が多すぎると思うぞ。
自説を語るのは構わないけど、それを他者に押し付けるような態度をとるのは宜しくない。 なぜ京兆家は丹波守護代には地元国人を採用し、摂津守護代は、内衆の持ち回りにしたんですか? 守護代級内衆には畿内国人は居ないと今谷明氏は主張しています。
香西は讃岐国人ですが、内藤と上原は丹波国人ですよ、四国系内衆ではありません。
摂津守護代だけは、関東系ないし四国系内衆を採用したのは不思議なので誰か教えてください。 > 父が西軍に担がれた足利義視である義材は、彼の旧西軍由来性を嫌がる奉公衆(五番衆)
> の掌握を難しくし、明応の政変時に京兆家の軍勢に対して徹底抗戦を続ける事が出来なかった。
傍流である「水戸由来」を旗本御家人に忌避された慶喜を彷彿とさせるな。 確かに鳥羽伏見の戦いを家茂が指揮したら彼が大阪城から逃げ出す事は無かっただろうし
大目付滝川具挙や勘定奉行小野広胖も対朝廷戦争に成りかねないとして嫌がる将軍(慶喜)を
脅して無理やり大阪城から幕府陸軍を出撃させる事は無かったかも。
それと江戸城や関東でももっと旗本や譜代大名の官軍に対する抵抗が激しかったであろう。
室町幕府9代将軍義尚の若年での死亡が案外室町幕府の滅亡の重要要素の一つかも。
政元にしても奉公衆が結束している義尚政権を打倒するのはなかなか大変だろうし、
大乱での京の破壊による社会秩序の弛緩と同時に余剰生産物の増大によるマネーサプライの増加が
中世権門体制を揺るがしており、それが戦国時代の到来の底辺にあるのかもしれないが、
政局を無闇に混乱させる事がなければ、中央政府の消滅と言う事態には至らなかったかも。
結果論だが、足利将軍家の稚拙な政治運営が、有力封建領主の離反や反乱を招き、室町幕府滅亡を早めた。
ばら戦争の時のプランタジネット家と同じ。 義尚が長生きした場合はたして畿内近国の細川諸家は京兆家に従っただろうか?
義尚も当然細川家への分裂工作を仕掛けるだろうし、将軍権力が一元化した状況ならば
細川同族体制、あるいは京兆家分裂も可能だったのではないだろうか。 越後守護代←× 越前守護代←○
>義尚が長生きした場合はたして畿内近国の細川諸家は京兆家に従っただろうか?
阿波守護家や備中守護家が、義尚側に参じるでしょうな、大内もそれに参加しますが、
そろそろ尼子や毛利の活動が活発化していますので、畿内ばかりに関心を払う事も出来ないでしょう。
畿内に大軍を出発させて摂津や和泉で京兆家に大敗北したら、大内の本国支配がやばくなります。
史実でも阿波守護家は、政元と対立している間(1493〜1505年)は畿内で活動出来ていません。 >>515
> そろそろ尼子や毛利の活動が活発化していますので、
尼子はともかく毛利はどうかと。
そして将軍権力が一元化している状況で、将軍の命に従っている大内に対し
尼子がそうそう動くことが出来るとは思えないのですが(史実の尼子の大内への攻撃は、
将軍家が二流に分かれていることから来る大義名分の取得が大きいと考えます) >そして将軍権力が一元化している状況で、将軍の命に従っている大内に対し
>尼子がそうそう動くことが出来るとは思えないのですが
応仁の乱以後は、室町幕府の支配地域は畿内近国に限られると思います。
将軍権力一元化がなされていても、大して関係ないでしょう。
尼子も別の理由を探して大内を攻撃するだけでは? >>517
尼子経久は出雲統一だけでも30年かかってるし、それすら畿内での将軍家や京兆家の
分裂があって出雲に目が向かなかったため、と言う部分が大きいのだから、
将軍家の分裂がない場合経久は出雲統一すら無理なんじゃないかな? >>1
>1479年に政元が誘拐されて時に内衆が勝之の還俗相続のに動いたのも事実です。
京兆家自体を排除したいならこの際にとっとと政元ごと攻め滅ぼしてたんじゃないの。
そんな絶好の機会がありながら政元を生かしておいた意味のほうが考えるべきだと思う。
それと、なんで山城守護職での対立や備中大合戦を同族連合が破たんしてる証拠としながら
>抜き差しなら無いのは、阿波守護家と山名宗全の播磨の支配権を巡る対立で、
>勝元もそれに引っ張られて、宗全と対立し始めたと言われます。
>これを見る限り、応仁の乱以前は、細川氏同族連合体制は機能していたんでしょう。
といった、応仁の乱以前の庶流の暴走を京兆家が御せなかった事実は逆に同族連合が機能していた証拠としてるのかがわからん。 >>1
>その時期には政元による京兆家相続を足利将軍家は願っていたんでしょう。
願っていたなら家の中の争いにも待ったをかけられてたのか?自分の家の逆臣を誅殺するなんてことに。
当主が死ぬかもしれない状況に置かれたときにあらかじめ後継ぎを決めておくことだって京兆家を存続させるための当然の行動だろう。
>また、京兆家当主近習やまた、京兆家当主近習や分国内奉行を勤めるの国人と守護代級内衆の対立はよく言われている。
安富や香川など、守護代と近習を同族で受け持つのが細川京兆家の内衆の特徴だったんでは?
>勝元が細川氏同族連合体制維持のために阿波守護家の主張を飲んだ可能性がある。
それならば澄之の後に澄元を養子にしたことも同族連合を維持する動きと取れる。
同族からの養子を後継ぎにすること自体同族の連帯の表れだろう。 >また、応仁の乱以後には、
といいつつ備中守護以外庶流家と合戦に及んだのは明応の政変以後。
野州家はそもそも勝之、高国と養子を出しているし交易の拠点の分郡守護を維持するのには京兆家との協調は欠かせないだろう。
細川氏内で起きたトラブルをいちいち細川同族連合が崩壊した証拠だとこじつけてるようにしか見えない。 >>1
>替わりの当主候補が居る事自体、内訌の芽が有る証拠だろ。>>601をよく読め!
政元が死んでから次の当主を決めることのほうがよほど内訌を招く危険性が高いだろう。601を読んで覆ることでもない。 応仁の乱以前に、細川家同族同氏で武力衝突した事は無い。
それに明応の政変以後だって応仁の乱以後だろ。 >政元が死んでから次の当主を決めることのほうがよほど内訌を招く危険性が高いだろう。
???????????????????? >>523
んじゃ全部縄文以後って語るのか?
和泉守護家にしろ阿波守護家にしろ合戦に及んだのは明応の政変による情勢変化が要因だぞ。 >んじゃ全部縄文以後って語るのか?
アホww
>和泉守護家にしろ阿波守護家にしろ合戦に及んだのは明応の政変による情勢変化が要因だぞ。
応仁の乱でも十分情勢は変化しているよ。
備中守護家と京兆家は合戦に及んでいるし、幕府も畿内近国しか支配力ないんだから。
それに京兆家と阿波守護家が山城守護職をめぐり対立す始めたのは、
明応の政変前からだよ、1485年頃から三好之長が細川政之の了解の下に京で一揆
を組織している。その為に幕府から逮捕命令が出ているのに細川政之から庇護され
身柄の拘束を逃れている。その頃から山城領有化を巡り両家は対立関係に成っている。 >細川家も急な両畠山家和睦の事態に対応し、応仁の乱後に対立を続けてきた京兆家
>と阿波守護家も和睦、その為に澄元を京兆家養子に迎えたとある。
この事態も、政元の意志というよりは、京兆家評定衆での決定らしい。
この決定により薬師寺元一と土佐守護代家である細川政益は阿波に下り
細川澄元を出迎えている。
おそらく讃岐出身の国人が多い京兆家の内衆は、讃岐が京兆家分国から
欠落し阿波守護家の分国になることに反対していたと思われる。
そのためも阿波守護家から京兆家の養子を迎え入れる事を京兆家評定衆で
組織決定した。また同時に今まで対立してきた両畠山氏の急な和解にも対応
し様としたのだろう。しかし既に京兆家内衆は、畿内国人も多数採用して
おり、この決定で京兆家の内部分裂が、より加速される事になる。 一つだけ質問いいか?
>明応の政変が成功し、元秀の働きに気を良くした政元は、家臣である上原元秀
に細川の苗字を与え細川一族に加えるべき旨を一族家臣に披露する。
これの出典を教えて欲しい。疑うわけじゃなくて初耳なんで興味が湧いた。 絶対にこの人が言うべきことじゃないね
あんた自分の驕りを極めんがために将軍になったんじゃねーのかww
しかも、勝手に義材を義政の息子にしてるしwww
んでこいつには罰が下ってないから余計腹立つわ 政元の代の成り上がりというと赤沢朝経もそうだな。
彼はどういう経緯で重用されるようになったんだ? 畿内を積極的に武力で平定しようとしたのは義尚の方だと思う
>>1
> 不思議だな〜、ソースは?
>>643に『披沙揀金』って書いてあるぞ? 義材にゃ寄るべきものがないから彼が畿内平定を志していたとしても机上の空論だったと思う
実際に政元にクーデター起こされちゃったし、その後はまあフラフラとアッチいったりコッチいったりと
名実伴っていたのが義尚の方で足利幕府最後の輝き 義材は、肝心の奉公衆が全然掌握出来ていないから、全然ダメ。
義尚は、奉公衆が創出した政権とまで言われている。
義政が、全然幕府の実権を義尚に渡さないので、義政サイドの奉行衆と義尚サイドの奉公衆が武力衝突している。
でもその結果、義尚が実権を掌握し将軍親征を始めているから、奉公衆の義尚への期待が如何に高いか良く判る。
ここまで奉公衆や伊勢家、日野富子の支援が義尚サイドで固まるとなかなか細川政元も将軍廃立は難しいかも…
義尚が子供をつくらず、若死にしたのが案外室町幕府の崩壊要因の重要な一つかも。 薬師寺元一が、謀反を起こしたのは、摂津守護代職を政元が没収しようとしていると聞かされたからなのだから
やはり、政元はもっと早い時期に丹波、摂津の守護代職を廃止した方が良かったかもしれない。
丹波守護代の廃止の理由は“位田の乱”の発生で構わないが、摂津国人一揆の発生は摂津守護代の廃止の理由には難しいかも、
そうであれば、丹波守護代だけでも位田の乱終結時の1493年に廃止し、丹波は守護である政元の直接統治にしておくのも
悪くないと思う。
こういう意見を言うと、「この時期に京兆家では守護代廃止は難しい」と言う事を言う人が居るけど、
同じ時期に南近江の六角氏は守護代伊庭氏を2回の戦闘を経て押さえ込み守護代職を廃止している。
同じ畿内の六角氏が出来ているのに、京兆家が出来ない理由は無いと思う。
ただ政元が、早期に守護代廃止を実行しなかったは事実だし、後から慌てて摂
津守護代を没収しようとして将軍義澄に反対されたり、薬師寺元一に謀反を起
こされたりしたのは、やはり政元の判断として抜かったのだろうと思う。 丹波守護代は、位田の乱が再発した1491年に
摂津守護代は、薬師寺元一が謀反を起こした1504年に
それぞれ廃止べし。
政元も活動拠点を京の細川上屋敷(管領細川邸)から丹波や摂津に移し
守護所としての居城を建設した方が良い。
摂津では、茨木に滞在し安威に城を建設しそこが守護所となっている。
薬師寺氏も守護代所を茨木に設置している。
丹波は、八木城が内藤氏の活動拠点である為にここが守護代所と言われる。 それぞれ廃止べし。 ←× それぞれ廃止すべし。 ←○ 明応の政変の後京では放火事件が続出して、下京も上京も大火で大被害を受けたそうな。
当時の記録には「賊」がネズミの尻尾の先に火種をつけて離す、という無差別テロだったとか。
政元のクーデターに反発する反京兆家の運動はかなり活発に起こってたみたいね。 京が政元に取って必ずしも安全な場所ではなかったとすると、
摂津などに居着いていたのは危険を避けるという意味もあるのかね? わかんないんだろ、生まれた年月日が。自害したのが 明応7年(1498年)。
正式な元服をする前に自害したので成人としての実名である諱は伝わっていない。
近世後期に高松松平家が編纂した『歴朝要紀』には、何に拠ってか、茶々丸の名を政綱としている。
明応4年(1493年)、宗瑞(盛時が出家)は伊豆へ乱入して堀越公方足利茶々丸を討っている。
戦国時代の幕開けとされる事件だが、近年の研究では、この事件は中央で起こった明応の政変
(管領細川政元が将軍足利義材を追放して茶々丸の弟の義遐を将軍に据えた)に連動したものとする説が有力。
京兆家と伊勢家はこの件では一致出来たんだろうな、山城国一揆対策では一致出来ていないが。 また、大和守護である興福寺が支配していた。大和国人を膝下の宗徒として興福寺が支配していた。←×
また、守護である興福寺が大和を支配していた。大和国人は膝下の宗徒として興福寺に支配されていた。←○
足利義教以来再び根本中堂は灰燼に帰した。
禁闕の変でも燃えなかった? 地頭職を与えるのが守護大名で
知行を与えるのが戦国大名では? 畠山尚順は、紀伊にて根来衆や雑賀衆だけではなく熊野衆も動員している。 上原元秀は京兆家当主権力の強大さと限界の両方を表しているな >一説によると一揆勢がここまで頑強に抵抗したのは政元が密かに国人衆を支持していたからだともいう。
これが事態の肝だわな、国人層は上級権力である守護(京兆家当主)に寄生して
自らの所領を守りたかったのかも知れない。そのために中間に位置する守護代
級内衆が邪魔なんだろう。
国人にとっても、京兆家当主にとっても、中間的な守護代級内衆を排除して
守護の直接統治を考えていたために位田の乱は、発生したのかも知れない。 そもそも、山城に守護領国制が確立されること事態が幕府にとって不都合の極み 1478年に畠山政長が山城に守護領国制をひこうとして、日野富子と伊勢貞宗に反対されている。
その後に富子と義尚が、山城を領国化しようとする畠山政長を煙たがり、山城守護から解任しようとする。
しかし、その直後に何故か、政元の丹波国人による誘拐事件と京兆家評定衆による政元廃嫡未遂事件が勃発する。
そしてその2年後に幕府は正式に山城御料国化政策を発表している。
この時は山城守護に赤松政則、御料所代官に浦上則宗を内々に打診しているが、
山城国内での畠山家軍勢の存在を理由に辞退されてしまっている。
そして1485年の11月に山城守護に細川政元が任じられると言う噂が京の政界に飛ぶが、
その一ヵ月後に山城国一揆が勃発、両畠山家軍勢が山城より追放される。
山城を京兆家と畠山家で取り合っている感じだな、将軍家とその代官の伊勢家は
その間を行ったり来たりしている感じw >政元は摂津でも守護代薬師寺を常に監視して牽制し、京兆家分国支配システムの維持を図った。
中小国人が守護代級(宿老級)内衆から身を守る術として、政元直参衆や分国行政スタッフに
参加したという背景もあるのだろうが・・・
京兆家当主が、将軍家から特権的闕所処分権を付与されている怖い存在だからこそ、
ダイレクトな京兆家の判決執行システムや分国行政スタッフに中小国人を動員出来たのかも知れない。
もっとも政元からしたら、小規模な所領や兵力しかない中小国人よりも
守護代級(宿老級)内衆の所領を削り取る為に特権的闕所処分権を行使したいのだろうが。 政元の本当の敵は、守護代級内衆だからね。
彼を殺したのもそうだし。
政元は、力の無い分国内中小国人をそれほど相手にしていないだろう。 >政元は、力の無い分国内中小国人をそれほど相手にしていないだろう。
中小国人は、小さいながらも所領を持っている土豪的性格を失ってしまい、
京兆家に勤務するサラリーマンみたいな感じになったんだろう。
自宅の一階で床屋をやっていた人が、近所に1000円カットのQBハウスが出来てしまい
客が入ら無く成った為に、自宅の床屋を閉めて自分もQBハウスみたいなところに
サラリーマンとして勤め人になった感じ。
元自営の薬剤師が自分の店を閉めてサラリーマンとして大手ドラッグストアの管理薬剤師をやっている場合さえある。 政元の本当の敵は、守護代級内衆+畠山家。
両畠山家の合一が成った時点で政元の転落が始まる。 同族連合が破綻したとか旧来からの内衆が敵だとかを前提として語ってて
そうなっていった理由や過程や内実が言及されてないな。 >>565
このスレの主ですね!
このほぼ一人の方、明応の政変後信長入京までの畿内政治史にかなり詳しい方とみた。 >>688-689
原稿を持ち込んで初心者向けの新書でも書いて欲しい。
>>1
> 畿内三好氏が率いる独自の兵は一体何処で調達してたのかが今一つ解らない。
これは後に織田信長が大軍を率いられた理由にも成るのだけど、畿内は日本中で
余剰人口の最も多い地域であり、金や食料を出せばいくらでも兵は集められたと
考えられる。 >>1
之長は阿波守護細川政之に従って在京しているんだけど、このときに「一揆之張本」になっていたという
記録が残っており、徳政一揆の編成を通じて山城西岡地区の国人を被官化していた可能性が指摘されている。
阿波については、之長・元長は吉野川中流域の領主を被官化して編成しており、吉野川水運を生かして畿内へ進出
する過程で下流の勝瑞を押さえ、撫養氏などの海運を押さえている領主たちを従えている。これにくわえ、篠原氏や
加地氏のような他国出身が加わっている。これらが三好氏の阿波国内での勢力基盤になっている(だけど、それ以外の
国人たちについては、あくまでも守護細川家から指揮権を預かっているだけという状態なので、軍事動員権を掌握できる
ようになるのは、実休が阿波守護細川持隆を討つ段階まで待たなきゃならない)。で、これらが長慶が畿内へ
進出すると三好実休のもとで編成され、後に実休が河内南部の支配を担ったときにもその中枢となっている。
で、実休が討ち死にすると、上記の阿波国人や三好笑岩が若年の長治のもとで結束を図っている。 信濃の赤澤と阿波板西城主の赤澤信濃守ってどういう関係なんでしょうかね?
信濃の小笠原家と阿波の小笠原家の関係もいまいちはっきりしない。
信濃守を名乗る以上、信濃と関係が深いはずですが、
阿波側の資料が少ないようで、なんとも・・・。
細川、三好と京でつながりができて、阿波に下ったのか、
それとも、細川、三好とは関係なく小笠原家の事情で阿波に遷ったのか・・・。
もっというと、三好と小笠原は同族だって言うし、
結構ややこしいです。
勝元による勝之廃嫡に反発があった事になります。←○
勝之廃嫡に抵抗があった事になります。←× >>538 >>650
室町幕府も、義尚が子を残してその系統だったら実権を伴う幕府が続いていたかもしれない。
義材では正統性が弱いし、義澄以下の将軍は堀越公方系列の将軍で更に正統性が弱い。
いずれにしろ、それは小さなことで、幕府弱体化は時間の問題ともいえます。 >室町幕府も、義尚が子を残してその系統だったら実権を伴う幕府が続いていたかもしれない。
義尚の子が居たら、政元による明応の政変は出来たかどうか…
明応の政変は、伊勢氏や日野富子の支援があったから、成功した訳で、
それが無い場合にはカナリ苦しい。
以前に書きましたが、むしろ義尚流の足利将軍と細川京兆家(管領細川家)
の対立が恒常化し、畿内版の享徳の乱みたいな状態になるかも。 しかし将軍権威あってこその京兆権力なわけで、足利一門である京兆家が将軍から離れて
その権力の正当性を持続できるとは全く思えん。
将軍から家督の分裂工作されておしまいだろ。 足利家と細川家が別れたのはだいぶ前ですからね、
それに、その理屈だと、明応の政変は起こせない事になりますね。
>将軍から家督の分裂工作されておしまいだろ。
政元は、守護代級内衆に殺されますが、摂津守護代職解任の反対は、
案外、将軍義澄による京兆家の分断工作かも。
また、将軍を京や畿内から放逐してしまえば、
将軍による京兆家家督の分裂工作はやり難くなります。 >>577
明応の政変は足利将軍の権威を否定したわけでもなんでもないし。
どのみち朝廷と直接つながるとか(政元はもしかしたらその方向性を模索していたかも知れないが)
そういう、将軍からのいただき物じゃない、京兆家独自の権威を作り出さないと
安定した独立勢力圏なんて作れないよ。
実相院義忠は、義材の異母弟ですた。失礼致しました。
>将軍からのいただき物じゃない、京兆家独自の権威を作り出さないと
>安定した独立勢力圏なんて作れないよ。
そういう意味では、山内上杉家は、上杉氏の宗家でもあり、上手い事足利義教を利用して
鎌倉公方を滅ぼし、関東管領の職をほとんど独占、上野国を本拠に武蔵、伊豆をも事実上
の分国としてしまい事実上関東一円の武士を掌握、鎌倉府以上の力を持つようになってしまった。
永享の乱から1447年の鎌倉府再興まで東国支配を関東管領が単独で8年間も受け持つことになったし、
享徳の乱でも28年間も古河公方と戦い続けるなどを考えると山内上杉家は、関東で独自の権威を
作り出したと言えるのではないか?
まあ〜1493年からは、後北条が台頭してしまうが。 誰か自費出版で“細川政元”を書けば良いじゃん? 紙質の悪いペーパーバックで良いからさ〜 >>580
その点、北条得宗家は、上手い事自己の家を権威付けた。
北条時宗や貞時は、他家はもとより、同族傍流や得宗家臣筆頭(内管領)までも
滅ぼして謀反の発生を力で押さえ込んでいる。
政元も時宗や貞時を見習わなくては。 松山新介は一体何処出身の人だったんだろうか
三好氏勉強してる身だけどこの人謎すぎるんだよね。
斎藤利三が最初に仕えてた人って事と信長の高野山攻めの前線大将って事位か。
細川政元は上原一族で元秀しか興味なかったんだな。
賢家も一応守護代にしてやったがあっさり捨ててあと継いだのは守護代になる事すら無かった。 元秀は、膨大な献金を政元にしていた、政元としては資金源として利用していた。
それに元秀は、丹波守護代に就いてから、強引な一円知行と公家領・寺社領・国人領の押領を始めており、
政元から見ると、下手をするとこのままでは丹波を元秀に乗取られかねない状態。
これ以上の上原元秀の一円知行や押領の拡大は、丹波の京兆家直轄領を上回る上原家領を形成させかねないし、
政元近習の国人衆(右筆・京兆家奉行人等)の所領も元秀は、押領し始め、“位田の乱”の原因になっている。 また、元秀は、明応の政変では活躍している、政元は元秀の挙げた功績を高く評価し、細川姓を与えて
細川一門に加えるという考えを一門や内衆たちに披露したが、猛反対に合いこれは撤回させられている。
元秀は、丹波での継続的な押領行為や位田の乱などで周囲の反発をかなり買っていたのだろう。
政変後の元秀は、前将軍の身柄を逃がしたり、京兆家内衆でありながら伊勢貞宗に接近したり、
内衆だけでなく、政元自身からも不信を買っていたのかも知れない。位田の乱も一度鎮圧したのに
再発し、その鎮圧に時間がかかっているのは、位田の乱に参加した国人衆を密かに政元が支援した
可能性すらある。
元秀の最後は、政元近習の長塩弥六と喧嘩の末に抜刀し双方斬られ、長塩は元秀に斬られ即死し
元秀も重傷を負い一ヵ月後に死亡した。この事件も伊勢氏との協調路線を取る元秀への政元の刺客
という説がある。 京兆家も伊勢氏と協調路線を取ったのは一緒じゃない?
この場合元秀は政元の意図とは別に独自に伊勢氏と結びつこうとした、って事なのかな? かなり好き勝手やってるからそれも有り得そうだな。
刺客抜きにしても斬られるに充分な恨みを買ってたとも思うけども。 >>590
面白かったのは面白かったが、基本義政期をざっとなぞった内容なので
基礎的な知識以上のものは求められないな。
明応の政変も事実の説明程度。
後何でもかんでも義政の無能で説明しようというのは無理があると思った。
個人的にはこの内容なら、明応の政変の部分も含めて吉川弘文館の日本の戦争史シリーズの
「応仁文明の乱」のほうが内容があると思った。 >>591
助言ありがとう。
余力があったら、買うぐらいにするわ。 ありがとうございます。
上守護家元有は確か幽斎の祖父ですよね
彼の代に和泉から追い出されたと聞いてたので畠山か三好にヤられたと思っていたのですがよりによって京兆家ですか >>591>>721
近衛前久が文庫本で出ているくらいなんだから、
文庫本で「細川政元」が発刊されないかな?
親父さんの細川勝元の解説本は、結構有るんだけど…
しかし京兆家って北条得宗家に似ているなw
得宗家は、御内人に乗っ取られるし、京兆家は、内衆に乗っ取られる。
権力が、下に下に行く感じ。
管領内意見人と京兆家評定衆とをそれぞれ構成する氏族はほぼ同じだから、せいぜい発展形でしょう 強烈な印象を残している上原元秀、wikiも無いのは何だかw
やってることは傑物レベルだけど
現代になってまで表に殆ど出てきてないってのは相当嫌われてたんだろうな >>1
歴史学において
>意見人は、単独形の名詞で自分の意見を言いっぱなしの状態で
実際には複数居たとしても管領との関係は個別に一対一だった。
意見人=顧問、評定衆=取締役(取締役会)位の違いが有る。
のような国語辞典的解釈をしても説得力が全く無いので、
一対一の関係を示す文書、顧問的役割を示す文書を挙げる方がよいかと。 >当主代行として政国が居るのに何で守護代級(宿老級)内衆は、京兆家評定衆を設置したのよ?って事。
>応仁の乱の拡大進展による幕府の分裂や弱体化、家格秩序の崩壊等により管領細川一門が、
>守護代級(宿老級)内衆に一歩引く形で京兆家評定衆を設置を認めたか、それとも
>京兆家庶流の野州家や典厩家と守護代級(宿老級)内衆の利害が一致して新しい京兆家当主
>を掣肘し権限の一部を取り上げる為に機関決定の場を設置したかのどちらかであろう。 >>1
>源頼朝が何故“大将軍”職に就きたかったのか
征夷大将軍就任(辞任)後も「前右大将」を名乗り続けた頼朝のことをどうお考えですか?
>取締役と執行役、執行役員の違い
委員会設置会社の子会社として執行役員制度を持つ会社を立ち上げる
というややこしいことに関わったことがあるから、普通の人よりは詳しいよ。
むしろ取締役会で報告すれば取締役個人に対してはレクの必要は無いけど、
代表取締役や顧問に対しては取締役会の前に個別にレクが必要なことが多いから、
むしろ顧問の方が存在感が大きいので、意見人=顧問、評定衆メンバー=取締役
に例えるようなやり方はいかがかな、と思いました。 (修正)娘婿の鈴木恭二→三代目三郎助の娘婿の鈴木恭二
執行役員制度と執行役制度は別物。 1492年には京兆家と阿波守護家には色々な事が起きる。
京兆家には、摂津国人一揆と政元誘拐事件が、発生した。
阿波守護家では、78年に阿波守護職を継いだ成之の子の細川政之を被官人達が
「正体無き人」との言い分で批判し別人を立てる、との行動を起した。
結果的に守護の交代は起こらず、未遂事件で終わったが…
これらの行動を起したのは、飯尾氏、清氏、東条氏と言った親京兆家派の阿波守護家の被官人達であり、
これ以降この動きに同調しなかった三好之長が、阿波守護家内部で出世し始め、親京兆家派の被官人達と
対立を深める事になる。
これら一連の三つの動きに関連性がみられるが、京兆家評定衆の動きと絡んで検討する必要がある。 1492年には京兆家と阿波守護家には色々な事が起きる。←×
1479年には京兆家と阿波守護家には色々な事が起きる。←○ 阿波守護家は、当主が政之に替わってから、ちょっと自立の道がもたげてきちゃったよね。
まぁ、それより以前から京兆家とは違う動きをしていた部分もあったが、応仁の乱はいい刺激だったなー。
浅識を恥じらいながら言うと、「管領内意見人」という言葉って、誰の著書で使われてますか?
評定衆っていうのはよく目にするのだが、その言葉は管見にないのです。
室町中期の話だから、多分、小川信先生の本かなとは思うのだが、どうでしょう?
史料を引用している部分まで教えていただく必要はないので、(学術的に作られた用語かもしれないですし)
ぜひ、よろしくお願いします。
あと、「意見」は普通に『衆議の結論』という意味でも、あの時代の様々な身分で使われてますぜ。
特に奉行衆について言えば制度的な用語を示します。
「意見」という言葉の捉え方については>>1氏にも伺いたいです。 管領内意見人と評定衆のほぼ同じような守護代級の氏族で構成されていますが、
管領内意見人には細川政国がいる、という点が大きな違いだと思います。 すみません、誤字訂正
管領内意見人と評定衆は、ほぼ同じような守護代級の氏族で構成されていますが、
管領内意見人には細川政国がいる、という点が大きな違いだと思います。 >>612
ソニーの顧問達は、
ソニー音楽部門の意向を受けてipodの開発を途中でやめてさせた。
法的には、何の権限無いのに無駄に45人も居やがる。
年寄りのクセに邪魔ばかりしやがって、早く視ね!
ipodの開発を止めさせたのなら、少しでも林檎への対抗策考えろ! そろそろ明応の政変の話題に戻すが畠山政長はあっけなく死んだよな
畠山の家風である異常な粘り強さは一体何所に・・・ ありゃあ義材逃がすために死んだようなもんだからなあ。 明応の政変から政長が死ぬまで1ヶ月近くある
義材を逃がすならとっとと逃がせばいい
それに味方の兵士の脱走も著しく孤立無援状態
この状況で迎え撃つとは狂気の沙汰としか言い様が
齢50も超えるとある意味死を覚悟に散ったと見る方が妥当かと
尚順を逃がすためだったんじゃない?
尚順は一貫して義材復帰に協力したが管領にはなれず
だいぶ後に義就系から一瞬管領がでたのが細川以外で唯一でしたね >>619
>尚順を逃がすためだったんじゃない?
逃がすなら捕まらないように早い段階で逃がすべき
逃げることすら難しい状況まで手元に置いておいた時点で無能だ
つーか逃がすためとか言っている時点で間違いだろ
コピペ貼り付けは流行らないよ
内容を集約して3〜5行でまとめる力をつけた方がいい >>1
おい、間違っているぞ!
>この2004年の畠山家の統一を見て
えらい最近の出来事だな。
正解は1504年12月18日。 >>1
それだと足利茶々丸のクーデターで、山内上杉が茶々丸側を支持した理屈がわからなくなる。
山内上杉は京兆家のクーデターを認めず、義材の方を正当と考えていたように思えるのだが? 私も770に賛同。
実際、囚われていた足利義材が北陸に脱出した時、
上杉定実は畠山尚順・富樫泰高・朝倉貞景と共にこれを支援。
山内上杉家は足利義材派として支持していると考えるべきだと思う。 政元と山内上杉家の越後での直接会談は?
山内上杉家と京兆家(さらに鎌倉公方家も)は、
政局ごとに敵対的になったり味方したりの繰り返しだったのだろう。
ただ「関東における山内上杉家と畿内における京兆家の立場には近い」
と言うのは、双方とも将軍家(公方家)を祭り上げ畿内と関東の領有化を
狙っていたと言う事。 上杉定実って山内上杉家ってよりも越後上杉家だし、越後守護代の長尾家の傀儡だし。
政元と明応の政変で会談したのは、上杉房定・顕定父子だし。
延徳3年(1491年)、管領細川政元と歌人冷泉為広が越後を訪問した。
表向きは奥州に修験道の修行に行くという政元を房定が説得して京都に
帰らせた事になっているが、近年では10代将軍足利義材の廃立計画に
ついて房定・顕定父子の協力を求めに来たのではないかとも言われている。
そして将軍足利義材から第二次六角高頼討伐の出陣命令が届いた為に
奥州行きを断念、4月に帰京した。
この旅行の背景は堀越公方足利政知と連携する意向で房定を取り込む意図が
あり、政知との会見をも計画していたが、政知が亡くなった為もあり帰京した。
政元は、この時から明応の政変を計画していたとされる。 顕定は1507年に一旦越後制圧に成功したが定美為景すぐに逆襲された
定美為景が同時期復権した義植派だったころが大きいのかと
顕定の越後支配が、
一円知行的であまりにも強硬姿勢だった為に国人が反乱を起こしただけ。
定美為景もそれに参加しただけ。
定美為景が義植派云々は、それほど関係ない。 >>1
「しかし」だらけの文章は君の国語のレベルの低さを証明するだけ
それに内容も稚拙で主張が支離滅裂
文章を書く時は何回も書き直してからレスすることを勧める
できればお家の人に添削してもらってね >内容も稚拙で主張が支離滅裂
それは、そちらの頭の悪さが原因。
一々絡まないでくれる?キモイから。 「俺の文章を理解できない奴は頭が悪い。
なぜなら俺の文章は完璧だからだ。
俺の文章が完璧なのは俺が証明している。」
と言いたいのですか? >>5
三好長治は暴君だったかも知れないが、
それを誅したのは、主家の細川真之(しかも長治の異父兄)
下克上じゃないんだよな。長治がもっとまともだったら、長宗我部の勢力拡張も無かったし、
三好家の衰退も、もっと違う結末だった可能性が有る。いろいろ残念な人物ではある。 三好と言えば政元の頃には既に、政元の保護のもと畿内のチンピラ・足軽を組織していたようだが、
明応の政変には何か関わっていたのかね? >>634
明応の政変の頃には、まだ阿波屋形の有力被官という程度で、地盤がためしている段階だと思われます。
三好家自体、出自がはっきりない(一応、旧阿波守護家、小笠原家末裔を称しているが、現段階では真偽不明)
また、阿波屋形と京兆家の力関係は、まだ京兆家が力を持っていた時代ですから、
陪臣に過ぎない三好がそれほど影響力が有ったとは思えません。
三好の躍進は政元暗殺後ではないかと思います。 >>635
たしかにそうなんだろうね。それでも政元の頃から三好が機内で土一揆を組織するような活動をしていて、
政元もそれを黙認していた感じだけど(一揆の閲兵とかしているね)、あれはどういう意図からなんだろう。 >>630
しかし連呼君(>>777=>>779)が痛すぎる件
文章を適切にまとめられる力がつくといいね そもそも西軍の御輿として大乱の当事者だった義材。なんで西軍の流れを
汲む義豊の討伐に動いたのか、動機がよく解らん。 >>637
上から目線で、偉そうだな。
京兆家の事も知らんで、コメントするな馬鹿! …と京兆家のことも知らない馬鹿者が上から目線で偉そうに喚き散らしておりますので注意しましょう! >>784-785
京兆家の譜代の内衆って言っても、在地性は希薄だったらしいよ。
辛うじて京兆家分国の守護代や奉行などの職に任命されているって程度で、
内衆だからと言って自ら広大な領地や城を抱えていた訳でもないらしい。
むしろ内衆ではない国人の方が、広大な領地を抱えていたり、その中に城下町が
出来ていたり、街道の関所から膨大な通行料を徴収していたりして金銭的にも裕福だったようだ。
摂津の池田氏がその典型らしい。
池田氏は、摂津の国人で細川家の被官ではあるが、内衆ではない。
三好のような新興の非内衆系国人が台頭出来た理由の一つには、
内衆にまつわる、この様な背景があったと思う。 例えが悪いかもしれないけど、警察官より地元ヤクザの方が裕福って言う感じ
かな? >>641
内衆の収入って、自分の領地と代官職を任されている土地から上がりの一部とかより
取次の手数料・礼金のほうが大きいんじゃない
もっというと賄賂とか とすると政元が京兆家の主導権を握り返したターニングポイントはいつだったのだろうか? なるほど。守護代級内衆と非守護代級国人の利害対立と紛争の中、勝元時代に領地を大きく拡張した
京兆家当主の求心力が政元の成長とともに回復、拡大した、という理解でよろしいだろうか? >>1
一宮氏は京兆家内衆の初期メンバーで守護代もやっていたけど?
歴史学って帰納的に事実を積み上げるべきかと思うけど、
事実誤認があると台無しだと思う。
それにあなたは自分の主張ありきという気もする。 すまん
×それにあなたは自分の主張ありきという気もする。
○それにあなたは自分の結論ありきという気もする。 >>647
でも、摂津国人一揆や政元誘拐事件、位田の乱などは京兆家家臣団の内部抗争の面が強いよ。
単なるマルクス主義的階級闘争ではないと思う。
もっとも京兆家被官衆でも当主に近いか、そうでないかの違いはあり、
さらに被官同士の格の違いもあって、それが抗争劇の原因となっている。
一宮氏は15世紀末期では、内衆や京兆家近習ではなくて、丹波国人としての性格が強くなっている。
もっとも一宮氏も洛中に住居を構えており、そこから細川管領邸には顔は出していたらしい。 >もっとも一宮氏も洛中に住居を構えており、そこから細川管領邸には顔は出していたらしい。
これは内衆としての要素であり、「丹波国人としての性格が強くなっている」と矛盾するけど? 一宮氏って阿波国人が京兆家内衆になって丹波守護代として入部した家だけど・・・ 応永四年十二月二十七日 丹波国守護代一宮栄正遵行状(東寺百合文書) 【応永】
1394年から1427年までの35年間を指す、一世一元の制導入以前では最長である。
また、応永10年から22年までの10年間は戦乱などが途絶え「応永の平和」と言われる。
室町将軍は足利義満、足利義持、足利義量で幕府安定期である。
14世紀の話しだろ?
15世紀後半の幕政が揺らいでいる時期の話しではない。時期が違い過ぎる。
出目が阿波でも100年近くも丹波に居て所領を確保していれば、
京兆家被官だろうがなんだろうが国人化するだろ普通。 >>1
>ただ一宮氏は、守護代にはなれなかった。その為に丹波全体的に影響を及ぼせる職権は無かったと思われる。
内藤も上原も守護代だから丹波の一円知行を行おうとした訳で、荘園代官、郡代、小守護代、段銭奉行等では、
分国全体に影響を及ぼせるほどの影響力も職務権限も無い。
と書いていたから反証を挙げたのだけど・・・
内藤氏も永享年間から丹波守護代になっているので、70年近くも丹波にいて所領を確保しているけど
それは国人化と言わないの?100年と70年の違いってそんなに大きいかな? 内藤氏も上原氏も立派な丹波国人だろ。
ただ一宮氏と違い、内藤氏は政元死後に一時的に丹波東部を広域的に制圧した。
その後丹波西部の波多野氏が、攻勢に出て丹波は波多野氏が押領する。
波多野氏は、勝元時代に京兆家に任官し、応仁の乱で活躍した部将であり、
政元時代にようやく丹波西部に入植した出来たばかりの武士なので丹波国人と言えるかどうか?
いずれにせよ、内藤氏は、越前守護代の朝倉氏と違い丹波一国押領は、不可能だった。 あなたが、
一宮氏=非内衆系国人
内藤氏=守護代級内衆
という対立構造で考えていたので、
それの反証(一宮氏の丹波守護代事例)を挙げたのですが、
>>1
>内藤氏による丹波国人の一宮氏所領押領
>>810
>内藤氏も上原氏も立派な丹波国人
というのは矛盾してますよね。
ちなみに朝倉氏が越前守護代というのも微妙ですよ。
(朝倉氏が守護代になったのは斯波氏追放後なので、あなたの論旨に合わない。) >>1をよく読めよ。
守護代どころか、
斯波氏と朝倉氏が争っている真っ最中(1471年)に孝景は守護に任命されている。
それに朝倉は、守護代甲斐氏サイドの武将です。 一宮氏・内藤氏から話がそれているので細かくは書かないけど、
1471年までずっと甲斐氏が越前守護代
1471年に斯波義廉から離反した朝倉孝景に越前守護職の御内書
1483年に斯波義寛の下で甲斐氏が遠江守護代、織田氏が尾張守護代、朝倉氏が越前守護代
という時系列なので、朝倉氏は守護代になる前から越前の横領をしている。 守護代甲斐常治が、急死。
その代わりとして、朝倉孝景が戦闘の指揮を取った。
越前での戦闘で朝倉が有利になり、越前の一国押領状態になる。
既に甲斐常治の段階で斯波家被官人等評定衆を基盤にして勢力を拡大し、
斯波一門を蔑ろにしており、その姿勢を朝倉が引継いだ形。
同じ時期に京兆家や細川一門を蔑ろに出来るほど分国支配体制を強化した
丹波と摂津の守護代や内衆系国人や非内衆系国人は居ないだろ。 京兆家は、内衆系国人であれ非内衆系であれ、
分国内の国人を均等化させて突出した勢力を造らせない様にしていた。
また分国内の都市や交通の要所は、京兆家直轄領にしていた。
国人などが関所を作り通行料などの収入を手に入れない様に対策を講じていた。 もともと信州の諏訪氏の出らしいな、上原氏は。
鎌倉時代中期に丹波の物部に土着、そこで開墾を始めて荘園と成ったらしい。
京兆家の内衆には、成っていただろ。
南北朝時代には、丹波守護で管領の細川頼元の随兵を勤めている。
同族が、赤松家の被官になっており、京兆家と赤松家を繋ぐ役目もあったらしい。
ただ賢家・元秀の代まで、意見人とか守護代程の地位には、成ってなかった。 細川頼元の随兵を内衆と言わずして何を内衆と言うんだ? そんな上原氏を「単なる丹波の一介の国人に過ぎなかった」と言うのか? 細川頼元の随兵を「単なる丹波の一介の国人に過ぎなかった」と言う理由ががわからん 所領の規模や影響力からしたら、一介の国人と大して変わらない。
守護代にでもなっていれば、違うのだろうが。
もともと元秀以前の丹波上原家は、そんなにたいした被官でもなかった。 それならば守護代と非守護代の区分だけで十分だろ?
なんでわざわざ内衆系国人とか言うんだ? そもそも>>661で「内衆系国人であれ突出した勢力を造らないように」と言いながら
>>818で「守護代の上原氏が横領で勢力拡大することを政元が認める」と言う意味がわからん
守護代なら突出しても構わん、とでも言うのか? なんか支離滅裂ですよ。
ご自身の論をマトリックスにまとめてみてはいかがでしょうか。
一つのレスの中でも相反することが書かれているので読みにくいです。 >>1
単純で基本的な疑問なんで笑われるかもしれないが
守護代の任免権は守護の専権で、幕府や将軍は関係ないんじゃないか
畿内近国では守護代の任免に将軍が口を出すことがあるのは知っているが
それってただの口先介入で何の権限もないんじゃない? 守護代、内衆、被官、国人、それぞれについてご自身が書いたことを整理してみれば矛盾がわかると思います。
>丹波国人一揆自体が、政元による守護代の上原元秀抑制策の可能性がある。
>政元は、元秀に細川の姓を与えようとしたが、内衆の反発で撤回させられている。
このように一貫していませんよね?
>この人事は管領の細川勝元と畠山持国らに反対され、実行には移されなかったが、義政時代でも守護代職の任免は将軍の介入
が可能であった事を示している。
「実行には移されなかった」ということは>>673が正しいということですよね? >>674
政元の真意内意を知った内衆や近習が、元秀の押さえ込みを考えた可能性もありますよ。
それに守護職獲得の為に将軍介入を狙った織田郷広の今参局へのロビー活動は、
全くの的外れと言う事になりますが、それもおかしいでしょう。
朝倉孝景なんかは、守護代どころか、いきなり越前の守護になっているんですから。 抑え込む対象の人物に細川名字を与える、というのは矛盾ですよね?
守護代の任免権を持つ守護の任免権を行使することで間接的に守護代の人事に介入することを
「守護代の任免権を持つ」とは言いませんよ。 名前の件は、最初は、元秀が望んだって言う話しも有る。
それに元秀には、摂津守護代職も狙っていたと言う話しも有る。
何れにせよ元秀は、伊勢家に近すぎ。
将軍による守護代任免は、間接的介入ではない。
直接任免している。だから織田郷広は、まず今参局へのロビイングしたんだよ。 足利義教のときも、細川持之が丹波守護代解任の伺いをたてただけ。
足利義政のときも、今参局へのロビイングは成功しなかった。
守護代補任状を誰の名義で出しているか考えればわかりますよ。
というか守護以外から出ている事例があったら教えてもらいたい。 >>678
そうなんですよ自分も見たことがない
ただ畿内近国に限っては将軍・幕府による「守護代職の任免」への介入が見られる
実際、首をすげ替えたりもしてるし
守護の専権であるところのものを強引に介入するのに
1、どのような権限を持った人が
2、どのような命令系統で
3、どんな理由付けで
行われたのかがわからない
昔からの疑問です
>足利義教のときも、細川持之が丹波守護代解任の伺いをたてただけ。
めっちゃ気にしてますヤンw
>足利義政のときも、今参局へのロビイングは成功しなかった。
他の件では、成功しているかも知れません。
>守護の専権であるところのものを強引に介入するのに
将軍が、介入していたら、専権では無いでしょうね。
>他の件では、成功しているかも知れません。
「かもしれません」と言われても困ります。
成功例を挙げなければ説得力ないですよ。 足利義政による1471年の朝倉孝景の越前守護職任命。 将軍が守護を差し置いて守護代を任免できた成功例、という話をしているのに
将軍による守護の任命例を出されても困りますが >>682
私も越前の例を考えに入れていましたが問題となるのは甲斐氏の方だと思います
斯波氏の内訌と宿老・守護代クラスの勢力争いが招いた守護権力の空白
守護権力の空白期に上位権力が介入することは大いにあり得ます
守護空白期(幼少なども含む)場合、執事や守護代は幕府と直接結びつく必要があるから
問題になるのは
甲斐氏が将軍直臣のようになっていて、直臣ならばその家督継承にも口を出す事ができること
斯波氏が三管領家のひとつであり、その内訌は幕府権力内の争乱に直結する為に介入したこと
守護任免時に守護代改選もおこうなう慣習があった可能性
守護任免時に特定人物を守護代にすることを条件にしてた可能性
>斯波家がダメになったから、斯波家宿老が将軍直参化したのか、
>逆に斯波家宿老が将軍直参化したから斯波家がダメになったのか…
どちらも違います。
甲斐氏は応永年間でも将軍から所領安堵を受けているなど、初期は将軍御家人でした。
甲斐氏は将軍直参から斯波被官になったという時系列です。 つまり…
>もっと言えば、歴代将軍は、斯波家弱体化の意向があり、
>その為に斯波家がダメになっていたからなのか…
って事じゃん。
これは要するに
>将軍権力主導の下克上だと守護権力抑制策となり、将軍権力の強化と
>幕府の集権化の側面も検討する必要が有るのかも知れません。
って事になる。
“将軍・幕府による「守護代職の任免」への介入”はこの観点から行われたんだろう。 具体例も無いまま、「つまり」とか「要するに」と言っても説得力ありませんよ。 >>687
将軍権力強化の具体例?
義教が暗殺された事そのものが、その具体例なんじゃねーの。 今の話題は、「守護代職の任免」を「将軍が直接行使できるか」または「あくまでも守護の職権か」ですよね? 将軍の権限か?守護の権限か?じゃね?
ま、守護は、自己の分国の守護代人事に将軍がクビ突っ込んで来るのは嫌がるだろう。
明応の政変も将軍権力の復活を阻止する為だったし。 佐々木越中八郎や山内政綱はあくまでも六角一族として、
近江守護になったから守護代は六角時代と同じだと思う。
京極政経のときは京極被官の多賀経家が守護代じゃないかな?
細川政元のときは細川被官の安富元家が守護代。
結城尚豊のときは知らんが、伊庭氏ということが有り得るの? 京極持清のときの守護代の多賀高忠を書き忘れていました。
1485年に土一揆を組織した三好之長を逮捕しようと、細川政元と一緒に細川政之邸を包囲した。←○
1485年に土一揆を組織した三好之長を細川政元と一緒に逮捕しようと、細川政之邸を包囲した。←×
そもそも安富元家は讃岐守護代だったので両立とかいう問題ではない。
ひょっとして在京守護代と在国守護代を混同していないか?
守護代が内衆なのは当たり前。 安富元家が家宰になった後の讃岐守護代は誰だと言うつもり?
京兆家の在京守護代と在国守護代を調べてみれば? 讃岐西方守護代は、安富元顕(元家の息子)。 讃岐東方守護代は、香川満景。
で、肝心の讃岐守護は、細川成之と政之親子なんだな、これがw
政元は、畿内領有化に没頭しつつあり、土佐の統治は、既に守護代家に丸投げ。
讃岐も次第に阿波守護家に譲りつつある状態。ただ守護代だけは、京兆家内衆が務めている。 安富元家が家宰をやっている時の讃岐守護代が元顕?
安富元顕が守護代になったのは相当後だと思うけど、いつごろを想定してるの?
安富元家が家宰になったのはいつだと考えているの? 話が逸れている。
守護代任免権は将軍の権限か?という話題だったので、
安富氏が近江守護代や讃岐守護代になったのは、
京兆家の任命ではなく将軍の任命による、
ということを論証したかったのでは?
私はそうは思わないけど。 甲斐氏は執事(家宰)のときに守護代を兼ねていたのに、
安富氏は執事(家宰)のときは守護代を兼ねていないはず、というの変では? >>696
>政元は、畿内領有化に没頭しつつあり、土佐の統治は、既に守護代家に丸投げ。
とありますが、土佐守護代も京兆家評定衆ですよね? 自分理論に都合の悪い事例を指摘されるたびに議論から逃げたら、誰からも支持されませんよ? 私はここで自分理論を語りたいとは思わないですけど?
史料的な根拠の無い論述が気になるので指摘しているだけです。
一次史料は無視している、とおっしゃるのでしたら何も申しませんが。 >>1
>朝倉氏の越前守護職補任は疑わしいですね。あとで争論の種になります
コレすげーなw
史実を完全に無視している。
朝倉が、守護職に任じられなければ、東軍に寝返る理由が無いのになw
その為に政元と丹波と摂津の守護代は、分国支配を巡り競合関係を生じ始める事態となる。←○
その為に政元は、丹波と摂津の守護代とは、
分国支配を巡り守護代と競合関係を生じ始める事態となる。←× 9代将軍の義尚の死亡は1489年で、10代将軍に義材が就くのは、1490年でした。 >88年までには阿波守護家は反乱を一応鎮圧し阿波守護の細川政之が京に復帰している。
政之は1488年に死亡なので、京に復帰しているのは、弟の義春。
政之の死因と阿波の騒乱状態には、関係有るかもしれない。 >>601-618あたりと同じ流れになってきたな・・・ 東条氏はともかく、飯尾氏・清氏・一宮氏は京兆家内衆だろうが この時点の東条氏は、安富元家の兄弟だよ。
先代の東条国氏は、応仁の乱の時に三河守護代に任じられ、現地での戦闘に破れ自殺。
東条家は断絶状態だったので、京兆家家宰の安富家から名跡を継ぐ人物が来た。
細川持常が、足利義教の一色氏弾圧に功があり、三河守護に任じられ成之がその後を継いでいた。
その為に阿波守護家の有力内衆だった東条国氏も三河守護代に任じられたのだろう。 一色氏や阿波守護家の統治でも三河で強固な守護領国制を敷いた形跡が無く、応仁の乱以降は、
三河の守護、守護代もハッキリしない状態になる。阿波守護家は、応仁の乱後に三河から撤退した。
三河には、奉公衆が多くて将軍御料国の色彩が強く、政所執事伊勢氏が、守護を代行したと言う説も有るが… 松平なんて伊勢氏被官で、応仁の乱の後勢力を伸ばしてるしなあ。 >飯尾氏・清氏・一宮氏は京兆家内衆だろうが
京兆家内衆には、同族が居るし、彼らとしきりに連絡を取ってはいるが、別人だよ。
京兆家からの付家老であり本家による分家のお目付け役だが、一応阿波守護家の内衆。
だが、京兆家への依存度が高く在地性の希薄な被官衆である。その為に地元の阿波国人衆とは仲が悪い。
阿波守護家内衆の名跡を継がせる為に
わざわざ安富家から招いたのは、京兆家内衆と近かったが、別の被官衆であった為。
また、安富家が隣国の讃岐東方守護代家の家筋であった事も関係しているかも。 庶流家の分国の守護代が京兆家に近い人物、ということは
京兆家による「瀬戸内海一体の勢力圏の維持確保」が継続していたとも言えるだろ 例えば>>1で
>京兆家の守護代級(宿老級)内衆は、細川勝元が1473年に死亡すると、跡を継いだ聡明丸(政元)が、若干
7歳である為、従来の管領内意見人(管領管国内意見人?)制度を拡充し構成メンバーの権限を強化して
京兆家当主や分国守護の業務を補佐するという名目で“京兆家評定衆”を設置した。
とあるけど、管領内意見人って1491年にも確認できるのですが?
なんか無理矢理、「管領内意見人→京兆家評定衆」という図式を作ろうとしていませんか?
それと、摂津欠郡は分郡扱いだったので、上郡・下郡と同列にするのは適切ではないですよ? ↑典厩家が欠郡の分郡守護だということを知らないのかな? それは、1482年の段階で解消し、政元で一本化している。 >>1
>摂津欠郡の分郡扱いは、政元の代で解消しているはず。
「してるはず」って、単なるお前の思い込みだろw 摂津欠郡は、1482年に政元が畠山義就と交渉して取り返している。
摂津守護は、政元に変わりない。 摂津守護とは別に置かれていたから分郡守護と言うんだよ
摂津守護は細川政元のままだけど、
少なくとも1486年以降は典厩家が分郡守護となっているよ 欠郡(西成・東成・住吉の3郡)全体が、典厩家の分郡守護の統治範囲かどうかは不明。西成郡だけと言う説も多い。 政元が畠山義就から欠郡を取り戻した1482年以後は、
当然、典厩家の分郡守護の統治範囲は縮小しているんだろう。西成郡だけではないか?
もう戦国時代が始まっているので武力無き分国統治はありえない。
室町幕府が守護を任命したらそれで終わりと言うわけには行かない。
京兆家の軍事力が無いと、京兆家と同盟を組んでいるとは言え、またぞろ義就や基家が
欠郡に手を伸ばしかねないし、明応の政変で完全に京兆家の敵になった畠山尚順は、
京兆家分国の弱点として嵩にかかって攻撃してくるだろう。
また、細川氏同族連合から離脱し始めている阿波守護家や和泉両守護家も如何動くか判らない。
典厩家が欠郡三郡を押えるほど独自の軍事力や経済力があると思えないし、
典厩家や野州家が、細川氏同族連合から離脱しなかった(出来なかった)のは、
京兆家に依存しないと分国が維持できない現実があったからだろう。 セルビア=京兆家
モンテネグロ=淡路守護家
クロアチア=阿波守護家
スロベニア=備中守護家
ボスニア=和泉上下守護家 >>732
元々おんなじものなんだから、神聖ローマ帝国とかのほうがまだ合ってるだろ ■当主ごとの分国支配体制の変化
【政元期】
京兆家当主(守護)→宿老級内衆(守護代)→国人
【高国期】
京兆家当主(守護)→永正の錯乱で内衆半減→国人
【晴元期】
京兆家当主(守護)―――――――――――→国人 >>734
> 【晴元期】
>
> 京兆家当主(守護)―――――――――――→国人
晴元の時は国人との間に、三好政長なんかの奉行人が介在してるだろ。こいつらの存在が
三好長慶との対立を生んだわけだし むしろ国人が、内衆規模に拡大してる面がある。
大きくなった国人のコントロールに晴元が苦労している感じ。
政元の段階で、内衆を整理して、守護一円知行(国人直接統治)を完成させるべきだった。
政元は、内衆の排除を考えていたフシはあるけど、内衆もそれを察知して反乱を起こし始める。 政元は、摂津の守護代を廃止したがっていた感じがする。
薬師寺氏は、反乱起こしていたし、そのワリには、在地性が希薄だからね。
西摂津の池田氏なんて、一回の国人に過ぎないのに、
勝元から色んな恩賞ももらっているし、内衆にはしてもらえなかったのに、
応仁の乱前後から拡大し始めて、下手な内衆よりも財力や兵力を持っている感じ。 さらに言っちゃえば摂津国人衆はみんなが実力を持ったため分裂状態に陥る
一人傑出した人物が登場したら戦国大名に成長できたかもしれない
いや傑出した人物はいたけどなんだかんだ消されていったが正しい解釈かな
この摂津国人衆の対立に乗じて阿波三好が管領細川を凌駕していくのは面白いけどね >さらに言っちゃえば摂津国人衆はみんなが実力を持ったため分裂状態に陥る
>一人傑出した人物が登場したら戦国大名に成長できたかもしれない
>いや傑出した人物はいたけどなんだかんだ消されていったが正しい解釈かな
それなんてハシシタ? まあ〜ハシシタは、自滅のケースだけど。 ま、ハシシタはともかく、日本史的観点のみで言うと、摂津国人が分裂状態で一人傑出した勢力が
出なかったのは、それが京兆家の政策だったから。と言う面もある。とにかく京兆家は、突出した
家臣を作らせなかった。内衆にせよ、国人にせよ、徹底的に均衡させて、並列化させて分国を統治した。
また、京兆家は、所領を分国内に徹底的に集中させている。
これは、応仁の乱の時期に行った勝元による荘園押領の遺産でもある。
勝元は、徹底的かつ大量に寺社領や公家領を押領した。
大乗院尋尊は「武士の中で荘園押領が最も激しかったのは、細川勝元と朝倉孝景だ!」
と記録に残しており、別の尋尊の記録には、勝元の葬儀の時に激しい雷鳴が鳴り響いた
のは「勝元が行った寺社領押領の天罰である」と記している位である。 907は変な人っぽいからスルー
>>740
勝元の遺産も肝心の細川が抗争を繰り返してしまってはなんともなりませんね 政元に直系男子が居たとしたら、京兆家は、如何なっていただろうね? >>742
そもそも直系男子が存在するなら永正の錯乱が発生するかどうか
それ以前に三人も養子縁組するかどうか
まあそんなことを言ったら先に進まないので養子はアリで永正の錯乱は発生ルートの場合
その直系男子の能力次第でしょうか?
無能なら家中をまとめられず衰退
有能なら足利義澄を支持し足利義尹と対立 >延々と畿内周辺で畠山や細川庶流や宗教勢力との抗争が続きそうです。
畠山や宗教勢力はともかく、
庶流って言っても、何代も前に枝分かれしているから、親族親戚の感覚は無いだろう。 (>>744の修正)
>延々と畿内周辺で畠山や細川庶流や宗教勢力との抗争が続きそうです。
畠山や宗教勢力との抗争は当然有得るだろうけど、
細川庶流って言っても、何代も前に枝分かれしているから、親族親戚の感覚は無いのだろう。
野州家や典厩家は、比較的京兆家と血統が近いが、
阿波守護家や備中守護家、それに和泉両守護家なんかは、何代も前に枝分かれしている。
応仁の乱後に守護家で京兆家と協調しているのは、淡路守護家と土佐守護代家ぐらいか。 >>738
>この摂津国人衆の対立に乗じて阿波三好が管領細川を凌駕していくのは面白いけどね
このあたりは関東における北条氏の立ち位置と似ている。
河内だけど木沢長政が良いところまでいったけどね。 政元のイメージって、後漢末のトウタクあたりが近いんじゃないの? 政元と内衆は別に対立しているようには思えないな
安富元家や上原元秀を重用しているように見えるし、実際に対立したのだって薬師寺の件くらいで
鎮圧後、守護代を廃したわけではなく弟の長忠が継いでいる。
香西元長に殺されるのも、内衆との対立ではなくて世継ぎ問題の対立。
個人的自論だけど、むしろ政元の殺害は足利義澄の陰謀の可能性もあると思う。
そもそも細川澄元・三好之長は阿波細川の出身で、足利義材・畠山尚順と同盟関係にあった。
澄元を後継者にするという決定は、政元が義材に寝返る可能性を持ったものだと解釈できなくもない。
義忠(義材の弟)の件もあるし義澄が政元を警戒していたのは間違いなく
香西元長が三好之長と険悪であったことから利害が一致して政元を殺した可能性は十分考えられると思う
実際に永正の錯乱の後、澄之は義澄から管領に任命されているし、澄元には尚順が味方している。
澄元は勝利したのち、義材との和睦を模索しだすのも三好之長・畠山尚順など義材派が多かったからではないかな
ただ分からないのは、なぜ義材はこれをそっちのけで高国を味方にしたのか・・・
さすがの尚順も以降将軍家とは距離を置くようになるし 魔法将軍マジカル☆細川〜山伏☆天狗☆魔術でつかむよ!室町幕府♪〜
http://engawa.2ch.net/test/read.cgi/poverty/1384056585/
魔法半将軍の暗殺(中) 山伏・天狗・魔術で権力つかんだ室町幕府細川マジカル大名≠フ天才的謀略センス
魔術に熱中する余りに家臣から見放され、ついには湯殿で行(ぎょう)に入る直前、
首を切られて殺された室町幕府管領、細川政元。子供のときから父・勝元も認める知略
を駆使して将軍以上の権力を持ち、「半将軍(はんしょうぐん)」と恐れられた存在だった。
そんな彼がどのように魔術に魅せられ、権力をつかんでいったのか。誕生から姿を追ってみた。
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/131110/wlf13111007010000-n1.htm >>752
和泉上守護家で系図的にはこんな感じです
細川元有1459┬元常1482─晴貞
└晴員1500┬藤英
└藤孝 三淵晴員って、三淵の養子になった人だから
藤孝は細川氏の養子にならないと細川になれないよね?
細川の誰の養子になったの? >>754
晴員の実兄元経の養子というのが通説。
ただ藤孝が養子になった頃には既に晴員の実子晴貞が守護職を継いでいたらしいので、藤孝は元経ではなく晴貞の養子だったのではないか?という説も。 尚順と澄元が和睦した前後に細川元常や赤沢長経が尚順に与して義英を攻撃してるから、船岡山合戦前に両畠山の争いが見られないなんて言えないんじゃないか
まあ間もなく高国が蜂起した際に尚順は高国方について、長経・義英と戦うことになるけど
ついでに言えば義稙の上洛作戦にはほぼと言っていいほど尚順との連携が見られるし、今更大内の上洛に抵抗するなんてことは考え難い
あと尚順の紀伊下向は隠居とか追放じゃないよ
尚順が自ら大内義興を通して義稙に申し出たもので、義稙からは「御覚悟」を労われている
目的としては敵が阿波から上洛しようとする澄元に絞られたことで、和泉・紀伊・河内の国境付近を強化するために前線に赴いたんじゃないかと推測されてる
ただ紀伊で積極的に支配を強化しようとした結果、熊野衆ら反発されて没落することになったけどね
ともかく稙長期以外の遊佐長教の時代ならともかく、この時点の畠山家に「家臣>主君」と言える根拠はないと思う(長教の河内領国論ですら近年は疑問視されてきてるのに) P35.cgi (Perl,SJIS) 2015/11/18 FOX.
>&ft;1 元のスレ
../sengoku/dat/1157454306.dat
P35 ■ 明応の政変 ■
472293 -> 202268 (バイト)
P35 テストに夢中。これ以降書いても消えちゃうかも
「足利義稙-戦国に生きた不屈の大将軍」って本が5月に出るらしいぞ いったん埋まった後で、760から1000が消える形で復活したってとこなのか? 義稙本、読了。
足利義稙の評伝ってよりも、明応の政変を中心とする畿内政治史的な構成だったが面白かったよ。
あの時代の敵味方が入れ替わる混沌とした状況が初心者にも分かりやすい。
日野富子が誰を支持するかで、権力者基盤が揺れ動く様は色々と興味深かった。 この本に明応の政変以降も領主間の競争意識を背景に
幕府による諸領主への栄典授与とそれに伴う
新規加入者出現などによって奉公衆の規模はそれなりに維持されていた
とあるらしい
ttp://www.douseisha.co.jp/book/b352834.html 室町時代って結局、南北朝騒乱が終わりきらないうちに戦国時代になってるな。
歴史学者でも、三好政権くらいまでの室町中期の中央抗争や関東の戦乱を、
資料見ずに諳んじて解説できる人っているんだろうか?選書やハードカバーの
解説書を読んでも「カオスすぎる」と毎度感じる。 御所巻が正当化しとるし
全盛期な義満ですら大内義弘敗死に成功しても、弘茂を当主にするのは盛見が勝ったことで断念せざるをえなかった
誰を家督に据えるかで争いが起きるから難しい 細川政元が主犯ってのもかなり怪しくなってきた
加担はしたんだろうが主犯だったら政変直後(義材脱出後)の早い段階から和睦交渉はしない筈 >>779
狡猾な政治家なら別に普通だよ
昨日まで激しく言い争ってても、今日になれば一緒に酒を飲んで談笑 他大名連はただ追随しただけのか 赤松大内は少し伝わってるけど
家格断然の斯波や義稙を保護してた土岐に山名一色などは何してたんだろ REVELATION
資金源/コング
フロント/天下り/右翼思想
フィクサー/集団ストーカー/ハッキング/盗聴/盗撮/家宅侵入
汚職/集団ストーカー/ハッキング/盗聴/盗撮/家宅侵入/揉み消し
揉み消し加担 明応の政変が起きた理由、そして大名や奉公衆の多くが将軍義材を見捨てた理由として義材が同性愛者だったからという記事を読んだわ
第二次政権で側室の山名豊重の娘がいたのと整合性が取れないのは気になるけど >>781
政変が起こる前に参陣した大名は葉室光忠を排除するための訴訟を起こすんだけど
その際に上洛した大名が細川一門と武田土岐
斯波は赤松大内京極(材宗)と共にその間は堺に在陣してる
山名(宗家)一色は領国で揉め事が起きてるからそもそも参陣してない 「戦国時代の始まりは明応の政変」。
いくら考えても首肯できない。
「戦国時代」とは、
先ず「小氷期」とまで呼ばれる気候変動並びに大地震を頻発させた地殻変動がもたらした壊滅的社会状況を受けて;
1. 室町幕府型統治システムの崩壊
2. 暴力に担保された在地型の一円領域統治権力群の叢生・分立
の両項で定義される時代である。
そして2項の権力体を「戦国大名」と云う。
上記両項を先駆的、典型的、不可逆的、且つ急激に進行させた事案は享徳ノ乱に他ならない。
従って戦国時代開始の画期は享徳ノ乱だ。
明応の政変がもたらしたのは1項のみ、
それもシンボリックな意味での幕権崩壊のみであって統治権力構造そのものは永享ノ乱段階からとっくに崩壊していた。
2項についても上杉房定から始まって既に久しい。
よって明応の政変に画期性は全く無い。
応仁ノ乱の過大評価も含めて、
京都偏重史観は歴史を見る目を曇らせる。