■ 明応の政変 ■ P35
明応の政変によって室町幕府が瓦解した事を戦国時代の始期とする説が現在、有力になっています。
日本史上重要な出来事なのに、何故か知名度が低い、細川政元の足利将軍廃立事件を語りましょう。 >>734
> 【晴元期】
>
> 京兆家当主(守護)―――――――――――→国人
晴元の時は国人との間に、三好政長なんかの奉行人が介在してるだろ。こいつらの存在が
三好長慶との対立を生んだわけだし むしろ国人が、内衆規模に拡大してる面がある。
大きくなった国人のコントロールに晴元が苦労している感じ。
政元の段階で、内衆を整理して、守護一円知行(国人直接統治)を完成させるべきだった。
政元は、内衆の排除を考えていたフシはあるけど、内衆もそれを察知して反乱を起こし始める。 政元は、摂津の守護代を廃止したがっていた感じがする。
薬師寺氏は、反乱起こしていたし、そのワリには、在地性が希薄だからね。
西摂津の池田氏なんて、一回の国人に過ぎないのに、
勝元から色んな恩賞ももらっているし、内衆にはしてもらえなかったのに、
応仁の乱前後から拡大し始めて、下手な内衆よりも財力や兵力を持っている感じ。 さらに言っちゃえば摂津国人衆はみんなが実力を持ったため分裂状態に陥る
一人傑出した人物が登場したら戦国大名に成長できたかもしれない
いや傑出した人物はいたけどなんだかんだ消されていったが正しい解釈かな
この摂津国人衆の対立に乗じて阿波三好が管領細川を凌駕していくのは面白いけどね >さらに言っちゃえば摂津国人衆はみんなが実力を持ったため分裂状態に陥る
>一人傑出した人物が登場したら戦国大名に成長できたかもしれない
>いや傑出した人物はいたけどなんだかんだ消されていったが正しい解釈かな
それなんてハシシタ? まあ〜ハシシタは、自滅のケースだけど。 ま、ハシシタはともかく、日本史的観点のみで言うと、摂津国人が分裂状態で一人傑出した勢力が
出なかったのは、それが京兆家の政策だったから。と言う面もある。とにかく京兆家は、突出した
家臣を作らせなかった。内衆にせよ、国人にせよ、徹底的に均衡させて、並列化させて分国を統治した。
また、京兆家は、所領を分国内に徹底的に集中させている。
これは、応仁の乱の時期に行った勝元による荘園押領の遺産でもある。
勝元は、徹底的かつ大量に寺社領や公家領を押領した。
大乗院尋尊は「武士の中で荘園押領が最も激しかったのは、細川勝元と朝倉孝景だ!」
と記録に残しており、別の尋尊の記録には、勝元の葬儀の時に激しい雷鳴が鳴り響いた
のは「勝元が行った寺社領押領の天罰である」と記している位である。 907は変な人っぽいからスルー
>>740
勝元の遺産も肝心の細川が抗争を繰り返してしまってはなんともなりませんね 政元に直系男子が居たとしたら、京兆家は、如何なっていただろうね? >>742
そもそも直系男子が存在するなら永正の錯乱が発生するかどうか
それ以前に三人も養子縁組するかどうか
まあそんなことを言ったら先に進まないので養子はアリで永正の錯乱は発生ルートの場合
その直系男子の能力次第でしょうか?
無能なら家中をまとめられず衰退
有能なら足利義澄を支持し足利義尹と対立 >延々と畿内周辺で畠山や細川庶流や宗教勢力との抗争が続きそうです。
畠山や宗教勢力はともかく、
庶流って言っても、何代も前に枝分かれしているから、親族親戚の感覚は無いだろう。 (>>744の修正)
>延々と畿内周辺で畠山や細川庶流や宗教勢力との抗争が続きそうです。
畠山や宗教勢力との抗争は当然有得るだろうけど、
細川庶流って言っても、何代も前に枝分かれしているから、親族親戚の感覚は無いのだろう。
野州家や典厩家は、比較的京兆家と血統が近いが、
阿波守護家や備中守護家、それに和泉両守護家なんかは、何代も前に枝分かれしている。
応仁の乱後に守護家で京兆家と協調しているのは、淡路守護家と土佐守護代家ぐらいか。 >>738
>この摂津国人衆の対立に乗じて阿波三好が管領細川を凌駕していくのは面白いけどね
このあたりは関東における北条氏の立ち位置と似ている。
河内だけど木沢長政が良いところまでいったけどね。 政元のイメージって、後漢末のトウタクあたりが近いんじゃないの? 政元と内衆は別に対立しているようには思えないな
安富元家や上原元秀を重用しているように見えるし、実際に対立したのだって薬師寺の件くらいで
鎮圧後、守護代を廃したわけではなく弟の長忠が継いでいる。
香西元長に殺されるのも、内衆との対立ではなくて世継ぎ問題の対立。
個人的自論だけど、むしろ政元の殺害は足利義澄の陰謀の可能性もあると思う。
そもそも細川澄元・三好之長は阿波細川の出身で、足利義材・畠山尚順と同盟関係にあった。
澄元を後継者にするという決定は、政元が義材に寝返る可能性を持ったものだと解釈できなくもない。
義忠(義材の弟)の件もあるし義澄が政元を警戒していたのは間違いなく
香西元長が三好之長と険悪であったことから利害が一致して政元を殺した可能性は十分考えられると思う
実際に永正の錯乱の後、澄之は義澄から管領に任命されているし、澄元には尚順が味方している。
澄元は勝利したのち、義材との和睦を模索しだすのも三好之長・畠山尚順など義材派が多かったからではないかな
ただ分からないのは、なぜ義材はこれをそっちのけで高国を味方にしたのか・・・
さすがの尚順も以降将軍家とは距離を置くようになるし 魔法将軍マジカル☆細川〜山伏☆天狗☆魔術でつかむよ!室町幕府♪〜
http://engawa.2ch.net/test/read.cgi/poverty/1384056585/
魔法半将軍の暗殺(中) 山伏・天狗・魔術で権力つかんだ室町幕府細川マジカル大名≠フ天才的謀略センス
魔術に熱中する余りに家臣から見放され、ついには湯殿で行(ぎょう)に入る直前、
首を切られて殺された室町幕府管領、細川政元。子供のときから父・勝元も認める知略
を駆使して将軍以上の権力を持ち、「半将軍(はんしょうぐん)」と恐れられた存在だった。
そんな彼がどのように魔術に魅せられ、権力をつかんでいったのか。誕生から姿を追ってみた。
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/131110/wlf13111007010000-n1.htm >>752
和泉上守護家で系図的にはこんな感じです
細川元有1459┬元常1482─晴貞
└晴員1500┬藤英
└藤孝 三淵晴員って、三淵の養子になった人だから
藤孝は細川氏の養子にならないと細川になれないよね?
細川の誰の養子になったの? >>754
晴員の実兄元経の養子というのが通説。
ただ藤孝が養子になった頃には既に晴員の実子晴貞が守護職を継いでいたらしいので、藤孝は元経ではなく晴貞の養子だったのではないか?という説も。 尚順と澄元が和睦した前後に細川元常や赤沢長経が尚順に与して義英を攻撃してるから、船岡山合戦前に両畠山の争いが見られないなんて言えないんじゃないか
まあ間もなく高国が蜂起した際に尚順は高国方について、長経・義英と戦うことになるけど
ついでに言えば義稙の上洛作戦にはほぼと言っていいほど尚順との連携が見られるし、今更大内の上洛に抵抗するなんてことは考え難い
あと尚順の紀伊下向は隠居とか追放じゃないよ
尚順が自ら大内義興を通して義稙に申し出たもので、義稙からは「御覚悟」を労われている
目的としては敵が阿波から上洛しようとする澄元に絞られたことで、和泉・紀伊・河内の国境付近を強化するために前線に赴いたんじゃないかと推測されてる
ただ紀伊で積極的に支配を強化しようとした結果、熊野衆ら反発されて没落することになったけどね
ともかく稙長期以外の遊佐長教の時代ならともかく、この時点の畠山家に「家臣>主君」と言える根拠はないと思う(長教の河内領国論ですら近年は疑問視されてきてるのに) P35.cgi (Perl,SJIS) 2015/11/18 FOX.
>&ft;1 元のスレ
../sengoku/dat/1157454306.dat
P35 ■ 明応の政変 ■
472293 -> 202268 (バイト)
P35 テストに夢中。これ以降書いても消えちゃうかも
「足利義稙-戦国に生きた不屈の大将軍」って本が5月に出るらしいぞ いったん埋まった後で、760から1000が消える形で復活したってとこなのか? 義稙本、読了。
足利義稙の評伝ってよりも、明応の政変を中心とする畿内政治史的な構成だったが面白かったよ。
あの時代の敵味方が入れ替わる混沌とした状況が初心者にも分かりやすい。
日野富子が誰を支持するかで、権力者基盤が揺れ動く様は色々と興味深かった。 この本に明応の政変以降も領主間の競争意識を背景に
幕府による諸領主への栄典授与とそれに伴う
新規加入者出現などによって奉公衆の規模はそれなりに維持されていた
とあるらしい
ttp://www.douseisha.co.jp/book/b352834.html 室町時代って結局、南北朝騒乱が終わりきらないうちに戦国時代になってるな。
歴史学者でも、三好政権くらいまでの室町中期の中央抗争や関東の戦乱を、
資料見ずに諳んじて解説できる人っているんだろうか?選書やハードカバーの
解説書を読んでも「カオスすぎる」と毎度感じる。 御所巻が正当化しとるし
全盛期な義満ですら大内義弘敗死に成功しても、弘茂を当主にするのは盛見が勝ったことで断念せざるをえなかった
誰を家督に据えるかで争いが起きるから難しい 細川政元が主犯ってのもかなり怪しくなってきた
加担はしたんだろうが主犯だったら政変直後(義材脱出後)の早い段階から和睦交渉はしない筈 >>779
狡猾な政治家なら別に普通だよ
昨日まで激しく言い争ってても、今日になれば一緒に酒を飲んで談笑 他大名連はただ追随しただけのか 赤松大内は少し伝わってるけど
家格断然の斯波や義稙を保護してた土岐に山名一色などは何してたんだろ REVELATION
資金源/コング
フロント/天下り/右翼思想
フィクサー/集団ストーカー/ハッキング/盗聴/盗撮/家宅侵入
汚職/集団ストーカー/ハッキング/盗聴/盗撮/家宅侵入/揉み消し
揉み消し加担 明応の政変が起きた理由、そして大名や奉公衆の多くが将軍義材を見捨てた理由として義材が同性愛者だったからという記事を読んだわ
第二次政権で側室の山名豊重の娘がいたのと整合性が取れないのは気になるけど >>781
政変が起こる前に参陣した大名は葉室光忠を排除するための訴訟を起こすんだけど
その際に上洛した大名が細川一門と武田土岐
斯波は赤松大内京極(材宗)と共にその間は堺に在陣してる
山名(宗家)一色は領国で揉め事が起きてるからそもそも参陣してない 「戦国時代の始まりは明応の政変」。
いくら考えても首肯できない。
「戦国時代」とは、
先ず「小氷期」とまで呼ばれる気候変動並びに大地震を頻発させた地殻変動がもたらした壊滅的社会状況を受けて;
1. 室町幕府型統治システムの崩壊
2. 暴力に担保された在地型の一円領域統治権力群の叢生・分立
の両項で定義される時代である。
そして2項の権力体を「戦国大名」と云う。
上記両項を先駆的、典型的、不可逆的、且つ急激に進行させた事案は享徳ノ乱に他ならない。
従って戦国時代開始の画期は享徳ノ乱だ。
明応の政変がもたらしたのは1項のみ、
それもシンボリックな意味での幕権崩壊のみであって統治権力構造そのものは永享ノ乱段階からとっくに崩壊していた。
2項についても上杉房定から始まって既に久しい。
よって明応の政変に画期性は全く無い。
応仁ノ乱の過大評価も含めて、
京都偏重史観は歴史を見る目を曇らせる。