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【木刀】宮本武蔵を語る【サイコー!】
0001名無しさん@お腹いっぱい。
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2006/06/16(金) 21:54:41ID:gKVvU8HE
語りましょう!
0588クバの化身
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2018/05/31(木) 09:18:21.04ID:g7E1rbI/
まことは、考えていることが、スグにわかる
反応がわかりやすいからである
0590人間七七四年
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2018/08/07(火) 16:21:43.57ID:LWHNwiKM
>>49
それだけ首とっても徳川には雇ってもらえなかったんだ
0591人間七七四年
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2018/08/14(火) 05:53:14.22ID:9oCLMN57
>>590
そんな十年以上前の与太にレスつけんでもw

武蔵が猟官活動していたという証拠はない。
していたかもしれないし、していなかったかもな。
個人的にはしていなかったと思う。
卜伝や上泉、一刀斎なんかも、一時期所属しても基本的に移動していたみたいだしな。
そういう、各地で弘流していく古い世代の兵法者のスタイルを踏襲してたんじゃないか。
0592人間七七四年
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2018/08/21(火) 15:18:22.23ID:0NaidUHg
大坂の陣の水野、姫路本多、豊前小笠原、肥後細川等徳川親藩の有力大名の元で
客分、客将としての暮らしはしたけど「徳川に雇ってもらう」なんて運動したことあったっけ?
0594人間七七四年
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2018/08/21(火) 16:44:57.76ID:BB6lypaI
>>593
そういうイメージだけの話はもういらないから
何がしかの史料に基づいた具体的な情報を語って欲しい
0595人間七七四年
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2018/08/22(水) 04:24:43.31ID:rXaeRXq9
武蔵が猟官活動をしていたという話の元ネタは、武州伝来記だろ。
それでは武蔵は将軍に召し抱えられそうになるが、柳生がいるし、その下風に立ちたくないからと断るんだ。
自分は仕官の望みを抱いたことはないし、姿も法外だからと。
兵法御覧の沙汰もあったが、将軍様は柳生を尊敬しているし自分の兵法見せても仕方ないやろと断った。
柳生も特に推挙はしなかったそうだ、とかある。

恐らくここらの話が戦後くらいから歪んだんじゃないかな。
0596人間七七四年
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2018/11/13(火) 20:23:12.13ID:bBhHhhbp
細川家とつながったのはいつからなのか
そこが争点なんだよ
0597人間七七四年
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2018/11/17(土) 00:55:03.77ID:12BHW4Sj
宮本武蔵、は存在していない
証拠もある
0598人間七七四年
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2018/11/20(火) 22:42:53.91ID:ynASBiXb
武蔵と細川家の関係?
元々、武蔵は水野家やら本多家やら小笠原家やら有馬家に謎の人脈があるからな…。
ここらの大名は外戚関係があるとか聞くがよく知らないな。その伝手がふつたものかもだが。
けど確か、武蔵が熊本に行ったのは長岡佐渡相手の書簡があって、用事があってきたから挨拶しときます
くらいのものだったと記憶している。
それで細川家から接待されたんじゃないかな。
武蔵当人はただの隠居の爺さんだけど。
徳川家の親戚で、九州の大名の監視役のように配置された小笠原家の筆頭家老・宮本伊織の義父だもの。
そりゃ細川家だって丁寧に対応するのが当たり前というか…。
0599人間七七四年
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2018/11/20(火) 23:04:56.51ID:ynASBiXb
武蔵と細川家の関係?
元々、武蔵は水野家やら本多家やら小笠原家やら有馬家に謎の人脈があるからな…。
ここらの大名は外戚関係があるとか聞くがよく知らないな。その伝手がふつたものかもだが。
けど確か、武蔵が熊本に行ったのは長岡佐渡相手の書簡があって、用事があってきたから挨拶しときます
くらいのものだったと記憶している。
それで細川家から接待されたんじゃないかな。
武蔵当人はただの隠居の爺さんだけど。
徳川家の親戚で、九州の大名の監視役のように配置された小笠原家の筆頭家老・宮本伊織の義父だもの。
そりゃ細川家だって丁寧に対応するのが当たり前というか…。
0600人間七七四年
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2018/11/20(火) 23:05:42.12ID:ynASBiXb
あ、なんかミスって二重書き込みしてしまった。失礼。
0601人間七七四年
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2018/11/24(土) 11:54:11.06ID:IdrBMRM4
>元々、武蔵は水野家やら本多家やら小笠原家やら有馬家に謎の人脈があるからな…。

謎のというか水野勝成は武蔵の弟子になってるだろ
0602人間七七四年
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2018/11/25(日) 16:59:47.01ID:AARvFstc
山田真竜軒との対決の漫談、途中までしかしらない。
結末を教えて。
0603人間七七四年
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2018/11/26(月) 20:47:58.97ID:YrOwRlYk
>>601
水野勝成が武蔵の弟子ってのは、円明流に伝わる伝書だったっけか。
宮本武蔵義軽名義で発行されてたやつ…あれ本物かね?
そもそもどういう経緯で武蔵と勝成が関わったのかがよくわからん…。
大阪の陣の時に兵を募集して、その中に武蔵がいたというだけの話かもだが。
0604人間七七四年
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2018/11/27(火) 01:22:15.03ID:tYFTfCRe
>大阪の陣の時に兵を募集して、その中に武蔵がいたというだけの話かもだが

その他大勢の扱いとして水野家の史料に登場するならそうかもしれないな
でもそうだったっけ?
0605人間七七四年
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2018/11/27(火) 05:02:20.76ID:nPghBI4c
>>604
大坂御陣御人数附覚というのがある。
これによると、武蔵は水野勝成の御供騎馬武者二百三十人の中の一人として名前が載っているそうだ。
これがその他大勢の扱いだったかどうかは解らない。
福田正秀先生の記事のコピペだが
ttps://mizunoclan.exblog.jp/14496991/

《総御供騎馬二百三十騎、総御人数三千二百人之由》となっている。
士(さむらい)大将は中山外記、そして御供騎馬武者二百三十人の中
「作州様附」十人の四番目に宮本武蔵の名前があった。
作州様とは勝成の嫡男、美作守勝重(のち勝俊)のことである。
(略)武蔵の立場は当初陣場借りかとも考えたが、
勝重付十人のうち二人までは名前の上に「牢人にて出陣」との但し書きがある。
武蔵にはそれがないということは、仕官を求めての陣場借りとも思えない。
この頃すでに六十余度の勝負に勝ち、天下無双の剣豪として高名であった武蔵は、
その気になればいくらでも仕官が出来たはず。水野家では遊遇の名士、
勝成の御客分としての身分で、後の島原の陣での小笠原家同様、
若殿勝重の身を守る護衛の任を特に勝成から頼まれたものであろう。
いわば客将と見るのが正しいと思う

…とあるが、順序は逆で、武蔵が大阪の陣で活躍したから世間に知られたのかもしれない。
当時の価値観だと、兵法(剣術)勝負の勝ち負けなんぞ大名連中はたいした評価はしなかったと思う。
まあそれだと、武蔵が勝成に優遇されているっぽい理由は解らんけど。
0606人間七七四年
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2018/11/27(火) 12:35:29.98ID:AN3qyr2E
>若殿勝重の身を守る護衛の任を特に勝成から頼まれたものであろう。
>いわば客将と見るのが正しいと思う

これがその他大勢のやることなのかあ
こんな重要なことをその他大勢にやらせるってことは
よほど人材がいなかったってことなんだろうな

普通は主君の兵法師範を務める人間とかがやることだよなあ
たとえば水野勝成を弟子にして信頼を勝ち得ている「宮本武蔵義軽」なんかが
やればよかったのでは?
0607人間七七四年
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2018/11/28(水) 00:53:58.23ID:fHd9FOJa
宮本武蔵義軽名義の伝書は、正直偽書くさいが、元になる伝承なりがあったんだろう…というのが妥当なところかな。
なんらかの師弟関係か、それに準ずるものがあったと考えるのは自然ではある。
とはいえ、武蔵は伝承の範囲からしても明石在住していたようだし、水野家との関わりはどうにも見えにくい。
大阪の陣の前の水野勝成は刈谷にいたんだっけ。ちょっと遠いな…。
0608人間七七四年
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2018/11/28(水) 00:55:03.54ID:fHd9FOJa
宮本武蔵義軽名義の伝書は、正直偽書くさいが、元になる伝承なりがあったんだろう…というのが妥当なところかな。
なんらかの師弟関係か、それに準ずるものがあったと考えるのは自然ではある。
とはいえ、武蔵は伝承の範囲からしても明石在住していたようだし、水野家との関わりはどうにも見えにくい。
大阪の陣の前の水野勝成は刈谷にいたんだっけ。ちょっと遠いな…。
0609人間七七四年
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2018/11/28(水) 00:55:52.84ID:fHd9FOJa
あら。また二重書き込みしちまった…どうにも最近の仕様には慣れないなあ
0610人間七七四年
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2018/11/28(水) 15:11:57.01ID:mvy3BPtf
どの辺が偽書臭いんだろう
義軽名義の文書に見られる活動と反する内容の別の信頼性の高い同時代史料があるとかならともかく
伝承の方を無批判に優先するってのも凄いよな
0611人間七七四年
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2018/11/29(木) 19:30:42.65ID:Iw6EH8cX
武蔵についての関係文書は、私信なら「宮本武蔵」はあるけども、五輪書や小倉碑文など
そういうのだと「新免武蔵(守)藤原玄信」なんだよ。
他にも「新免玄信」があるけども、武蔵の正式な名乗りは「新免」だったのは間違いない。
熊本でも武蔵の弟子筋から「新免」を再興させるべく誰それに名乗らせた、みたいな話が二例でてくる。
どうも宮本は後から名乗ることになったものらしい。それは伊織の遺した棟札にも書いてある。
なんで宮本と名乗ったりしだしたかの理由は解らないが、通称として使用していたのが妥当だと考える。
だからまあ、「宮本武蔵守藤原義経」あるいは「宮本武蔵守義軽」みたいな署名の伝書はかなり怪しい。
というか、この「義軽」というのが当時としてはかなり怪しい名前であると、綿谷雪先生は兵道鏡について当時から述べていた。
多分、「義経」の写し崩れではないかという話なんだが、森田栄先生はこれに反論して、義軽名義はあり得るとして
綿谷先生が死んでから30年くらいして…何年か前に反論の本書いてたな。
0612人間七七四年
垢版 |
2018/11/30(金) 16:00:06.35ID:HjvgaNi8
大坂御陣御人数附覚では「宮本武蔵」だな
0613人間七七四年
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2018/11/30(金) 19:29:50.47ID:3XM0cOBO
大坂御陣御人数附覚は1650年代前半の写本だから、原本でもそうだったかは解らん。

もちっと上の方でも書かれているが、黒田分限帳なんかでも後世写本には伝承を反映したと思しき書き込みがされることがある。
その記述をそのまま受け取っていいものかは断言できない。
0614人間七七四年
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2018/11/30(金) 20:14:55.33ID:3XM0cOBO
大坂御陣御人数附覚の内容は恐らく大まかには正しいと思うのは、武蔵はその後、
水野の家臣の中川志摩之助から三木之助、九郎太夫の二人を養子にとっているから。
なんの縁もなしに、養子縁組をするとは考えにくい。

とりあえず水野勝成宛の伝書は、改めて調べたけども慶長十三年発行…水野勝成44歳、武蔵25歳か…。
年の差は師弟関係としてありえなくはないけども、武蔵は若すぎないか?

あと勝成宛の伝書が兵道鏡として転写されているものの一つなのだけども、この兵道鏡は何種か
同様の内容のものがあって、しかもほぼ同内容の伝書が18世紀に円明流の脇坂によって発行されている。
脇坂の伝書、兵法教之巻とかいうそうだ。他にも円明流奥義書とか、類似内容の文書があるんだとか。
これらが武蔵の兵道鏡から抜粋して発行したと考えてもいいけど、箔をつけるという意味からすれば、
最初から全部、武蔵より相伝されし云々と兵道鏡と名付けて伝授しただろうと思う。

…とかここらは某所の記述のほぼそのまんまの要約だから自分の考えたみたいに書くのはアレだが、
水野勝成が武蔵の弟子だったとかいう話は、それこそ水野家の方に記録がなければおかしい話だが、
ぶっちゃけこの兵道鏡以外には調べてもでてこない。
現状、水野勝成と武蔵の関わりから18世紀以降に誰かが円明流の伝書を改変して創作した可能性が高いと思っている。
0615人間七七四年
垢版 |
2018/12/03(月) 22:18:50.35ID:ljR7NFzJ
そういえば、播磨武蔵研究会、ジオシティーズだから三月にはたぶんなくなるよ。
主宰死んだそうだし、消えたら復活はないだろうな。
0616人間七七四年
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2018/12/24(月) 13:05:24.59ID:cs8FHIPT
>>614
誰かの受け売りっぽいと思ったら案の定かよ
結局あんた自分で判断してないんだな
ちゃんと史料の内容確認してるのかとか聞くのがバカらしくなってきた
0617人間七七四年
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2019/01/01(火) 08:28:26.11ID:9HK53fF4
>>616
入手できる資料は検討したんだよ。
やや自信はないので書かなかったが、自説としても、兵道鏡にある真位之事の記述は
かなり怪しい。
これが二天一流にもない、対二刀の教えでな。
自分は歴史資料の研究はそっちの研究者の方々にまかせて、実技方面と現在の伝承から
検討しているんだが、武蔵が対二刀技法を初期に完成させているのなら、晩年の二天一流
にもなんらかの痕跡がないとおかしいが、これがまったくない。
取材できる範囲で幾人かの二天一流の指導者に伺ったが、対二刀はないんだ。
そういうものが兵道鏡にあるのはやはり不自然にすぎる。
武蔵より後代に研究と検討が重ねられて作られたものだと思う。
ただ、これは他の事情からやや整合がとれないので、得意げに説として掲げるには躊躇われた。

あと剣道史研究の森田栄先生の著書だと兵道鏡は武蔵の著書であるという主張で
こちらは武蔵の筆跡から『五方之太刀道』などと共通しているという話ではあるが、
この書は大倉隆二先生などは武蔵筆であることは否定的だったと記憶している。

付け加えると、播磨武蔵研究会さんは五輪書以前の兵法書を武蔵は発行していないという立場で
一貫しているが、それは五輪書に「初めて書いた」ようなことが書いてるのが論拠で、
これは個人的には結構危ういと思っている。
0618人間七七四年
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2019/01/13(日) 20:08:20.90ID:yWBkSCP2
ここ数年、武蔵は二刀流は使っていない、今の二天一流で二刀を使用しているのは歌舞伎などで武蔵が二刀流で有名になったから
五輪書から適当に創作した…という話をあちこちで書き込んで広めようとしている人を見つけて困惑している
0619人間七七四年
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2019/03/11(月) 05:58:25.58ID:C0Snur4Z
>>462
>>459じゃないけど、柳生但馬守が松山主水を恐れて戦わなかったという記述は『綿考輯録』だな。

松山主水ハ戸田流の剣術名人にて色々語伝も有之、
中にも柳生但馬守殿御聞およひ候而忠利君に御噂ニ而、
御対面之時忠利君御所望ニよつて但馬守殿御立合有之候、
然処双方しなひを取て立向はれ候処、但馬守殿しなひを下ニ置、
主水との立合ハ御断ニ被及旨ニ而被差止候、
主水御次ニ罷立候跡に而、何故に御やめ候哉と忠利君御尋被成候得は、
主水儀しなひを取立向ひ候得は、両足畳より弐寸程すき申候、
常の事ニ而ハ無之と存御断申候、
但右之者遠からさるうち剣難の相見へ申候と被仰候由、
然に無恙御供ニ而罷下、其翌年庄林十兵衛ニきられ候と或人の咄也

…とある。
>>464の江戸期のとある流派の伝書のひとつ、とか書いてあるのは、多分、
孫引きでうろおぼえてたのでソースが出せなかったので適当なこと言って誤魔化したか
あるいは、伝書は実在して、それは綿考輯録のソース元と同じ文献から引いたのかもね。
0620人間七七四年
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2019/04/10(水) 10:56:50.70ID:3+uInH3K
宮本武蔵って、吉川英治が小説にする前にはどんな扱いだったのかね
今ほど神格化はされてないと思うんだけど
0621人間七七四年
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2019/04/11(木) 13:20:23.52ID:RsCdepMR
作家の間で宮本武蔵強弱論議が起こるくらいには有名だった
0622人間七七四年
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2019/04/12(金) 11:19:27.98ID:F407akk9
一般庶民は武蔵の存在を認識するくらいには知名度あったのかな?
武道家や武芸者、学者、研究者、作家ではなく
そこいらのオッさんとか
0623人間七七四年
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2019/04/12(金) 15:21:39.48ID:5QRPX+Zs
こういうスレに来る人に江戸時代から芝居や講談にもよく登場することすら
知られてないってのは逆に意外だな

真田十勇士を作って有名にした子供向けの立川文庫にも武蔵を主人公にしたものがあるよ
当然吉川武蔵より前
0624人間七七四年
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2019/04/12(金) 19:56:12.72ID:hTF8TKHm
そうなんだ
無名の剣客を小説の題材にして
そこで初めて有名になって
俄かに研究する人があらわれて
みたいなパターンかなと思ってたのよね
例えば坂本龍馬なんかが、そのパターンでしょ
武蔵もそのクチなのかなと
0625人間七七四年
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2019/04/13(土) 00:26:29.07ID:rYw+8YYp
>例えば坂本龍馬なんかが、そのパターンでしょ

坂本龍馬って昭和3年に桂浜に巨大銅像が建てられた坂本龍馬のこと?
あれってそれ以前の小説家が題材にしたから作られたものだったの?
0627人間七七四年
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2019/04/16(火) 08:16:53.30ID:FCnCwpdw
>>626
何の地元?
0628人間七七四年
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2019/04/16(火) 14:51:15.06ID:5TlD9bT+
地元の郷土史家は偏った論文書くから学会では忌避される傾向がある
オラが村の英雄とかね
坂本龍馬もそのパターンで高知で騒がれてただけの人でしょ
0629人間七七四年
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2019/04/16(火) 15:59:50.22ID:zyer7sxM
>>626
>無名の剣客を小説の題材にして
>そこで初めて有名になって
>俄かに研究する人があらわれて
>みたいなパターンかなと思ってたのよね
>例えば坂本龍馬なんかが、そのパターンでしょ

明治16年の「汗血千里駒」はそんなに影響力あったのか?
0630人間七七四年
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2019/04/17(水) 10:55:31.46ID:qvxFCE04
まず地元の新聞であること
たびたび時事物の政治論争を混ぜ込んで連載中止させられてること
このあたりから現地でば大人気で、時事的な出来事も龍馬の考案にされて偉人賢人化に拍車がかかって
いまの俺たちの龍馬像になってる可能性が否定出来ない
0631人間七七四年
垢版 |
2019/04/17(水) 10:59:33.82ID:o/1gioOj
吉川以前から武蔵が有名だった事も知らない無知な>>624
司馬の竜馬がゆくあたりを頭において書いたんだろうけど
随分強引な流れになってきたなw
0632人間七七四年
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2019/04/17(水) 13:30:41.16ID:TvD8Gx+w
新撰組はどうだろうね
明治や大正期だと当人達がまだ生きているから
無名ってことはなさそうだけど
0633人間七七四年
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2019/04/18(木) 22:58:56.70ID:npoVu0y6
戦艦大和も宇宙戦艦ヤマトがヒットするまでは
一部の軍オタしか知らなかった
0635人間七七四年
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2019/04/19(金) 12:09:39.26ID:Yz4Cjkxx
梶原一騎も一部の軍オタなんだな

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E6%88%A6%E8%89%A6%E5%A4%A7%E5%92%8C

>『新戦艦大和』(しんせんかんやまと)は、梶原一騎による絵物語、漫画。
>絵物語版は、1961年に吉田郁也の絵で「日の丸」に掲載された。漫画版は、「少年画報」の1963年7月号から1964年3月号まで連載された。作画は団鉄也。

>艦長の沖田とその息子2人が新戦艦大和でキラー博士と戦うという物語。アニメ『宇宙戦艦ヤマト』の10年以上前に「戦艦大和が空を飛ぶ」アイデアを出した先駆的作品である。
>新戦艦大和は潜水も可能となっている。
0636人間七七四年
垢版 |
2019/04/20(土) 17:11:00.16ID:mTpmCaTf
>>632
新選組も戦前からある程度知名度はあったと思う。
大菩薩峠だとか鞍馬天狗だとかにも出てくるし。
どういう扱いをしていたのかは知らないけども、
三田村鳶魚の「話に聞いた新選組」というエッセイを読むと

いずれにも人を沢山斬ったなどというと、剣術の腕前の凄じいように思うものもありましょうが、
彼の剣道は決して立派なものではない。私の祖父は剣術が好きでありまして、
近藤とも立ち合ったことがあるといって、よく近藤の剣術の話をしました。
ナニあれは強くはない、しかしいかにも粘った剣術であった、三本に一本は取れる、
と申しておりました。私の祖父なるものは、びっくり仰天するだけの人間であって、
真剣なんぞを持って斬り合うなんていう肚胸のある人間ではありませんから、
何のお話もないが、竹刀を持って立ち合ってみても、その人の根性が出ないことはありません。
私の大伯父になります谷合量平というものがございまして、
それも近藤の剣術の話を致しましたが、やはり祖父が申すのと違っておりません。
先日新徴組の一人でありました千葉弥一郎さんから承りますのに、
近藤の剣術はさまでのものじゃない、ということを言っておられました。
そういうふうでありますから、近藤が剣術の道場を持っておったなどという話は、
私は聞いていない。とても剣道の指南などをするほどの腕前があった人ではないのであります

…と書いてある。
青空文庫にあるけども、発表の日付が子母澤寛が新選組関係本を出した二年くらい後だから
多分そこらを意識して書いたものだと思う。
三田村鳶魚は時代小説だとかそういうのに噛み付いてた人で、だけど彼にして天然理心流など当時は知らなかったのだろう。
あと、もしかしたら戦後の小説で近藤勇の剣術が大したことがない、三本に一本はとれたみたいな言説はここらに端を発してるかもしれない。
なにせ割と最近まで、三田村鳶魚全集読んでたら時代小説は書けるって言われたくらいに影響力はあったからね

だからまあ、子母澤寛までは新選組は知られていたけど、割と半端だった…くらいの認識でいいと思う。
あと子母澤寛もかなり適当に虚偽とか混ぜていることは近年の研究で知られているという話だが詳細は知らない。
0637人間七七四年
垢版 |
2019/04/20(土) 17:19:22.70ID:mTpmCaTf
>>636
あ、「話に聞いた近藤勇」だった。
タイトルミスったわ。

>>624
元々は斎藤茂吉が洋行のついでに立ち寄った巌流島に建てられた顕彰碑かなんか読んだら
それが講談のヒーローだった武蔵と違い、わざと遅れたりして戦ったという卑怯な振る舞い
をしているということにショックを受け、小次郎を哀れむためになんか建てたのが評判になって
菊池寛や吉川英治と武蔵は実はーという論争を引き起こし、そこに直木三十五が載ってきて
「武蔵非名人説」というのを出してまあまあ評判になって、吉川英治はそれに反論する形で
「宮本武蔵」を書き出した…という経緯がある。
そして「随筆宮本武蔵」によると、今更武蔵?と言われたそうだ。
だからまあ、吉川英治以前から創作物の題材になったり、議論の対象になる程度には
みんなには知られていた。
0638人間七七四年
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2019/04/20(土) 20:18:59.86ID:nVzIaWdj
歌舞伎とか浄瑠璃の武蔵は佐々木厳流に仇打ちのために挑むなんて筋立てだから
そりゃ実像とはかけ離れてるよね
0639人間七七四年
垢版 |
2019/04/20(土) 20:21:05.67ID:nVzIaWdj
でも明治大正期の講談ならもう少しマシにはなってるかな
0640人間七七四年
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2019/04/21(日) 01:40:41.13ID:mei1NlLe
まあ歌舞伎とか浄瑠璃の宮本武蔵イメージは、小倉碑文の適当な内容を、さらに伝聞で聞きかじったものがベースだろうしなあ
武蔵が卑怯なことをした系の話は江戸時代からあるはあるけど、やはりメインにはなりえないんだろう。

とはいえ、武蔵の実像がどんなものだったのかはやはり今持ってよくわからんけどね。
現在の武蔵イメージは反「吉川英治『宮本武蔵』」がベースになった、狷介孤高の野望強き兵法者って感じか。
ただ、『随筆宮本武蔵』を読むと吉川英治も実在の武蔵をかなり暑苦しくて側にいてほしくないと書いてる。
当時から20世紀くらいの資料だとだいたいそういう感じの、我の強い兵法者ってところに落ち着くんだと思う。
0641人間七七四年
垢版 |
2019/04/21(日) 15:37:30.86ID:f/ETPLDD
最近じゃ後半生に関しては自分の名声や社会的信用で養子を名家に仕官させ
自分は客分として誰の下になることもなく悠々自適に暮らすイメージも出てきている

仕官を熱望した武蔵ってのも古いイメージになっていくのかもしれない
0642人間七七四年
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2019/04/21(日) 20:49:55.79ID:F+HAzJLt
無収入で、どうやって糊口を凌いでいたのだろう。
辻強盗などまさか。
0643人間七七四年
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2019/04/21(日) 21:22:24.73ID:mei1NlLe
伊織は養子になってから仕官したのか、仕官してたのを養子として斡旋されたのかちょっと解んないな。
どちらにせよ、武蔵は当時はそれなりの名士として認識されてたんだろうけど。

武蔵は弟子が多かったし、仕官はしてなくても生活するのに十分な収入はあったんじゃないかな。
もしかしたらパトロンくらいいたかもしれない。

小倉碑文には「生来大らかで細かいことは気にしない人だった」とあるので、その人物評が正しくて
それでいて五輪書なんて教本を書き残そうとしたとしたのなら、難しいことを言ったりガミガミ怒ったりしない、
人当たりがよくて面倒見もよい先生だったのかもね。
0644人間七七四年
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2019/04/22(月) 08:47:10.32ID:dfTz1tBj
武蔵の葬儀は熊本の泰勝寺という寺で執り行われているが
ここって細川家の菩提寺なんだよな

家臣でもない浪人者の葬儀を藩主菩提寺で行うことって割とあるのかな?
0645人間七七四年
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2019/04/22(月) 16:59:54.17ID:qyb8ipws
武蔵が浪人者というのはどうかな。
武蔵当人の身分はおいといて、武蔵の社会的地位は小笠原家筆頭家老、宮本伊織の養父だし。
小笠原家の当主、小笠原忠真は細川忠利の義理の兄弟で、当時の細川家の当主、光尚の伯父にあたる。
その小笠原家にとっての重要人物の伊織の養父だから、そら歓待もするだろうし、盛大に葬儀もあげて不思議でもないな。
0646人間七七四年
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2019/04/22(月) 19:01:14.72ID:cjec0O3U
武州伝来記の「一生福力ありて、金銀に乏しからず」ってのも
武蔵の後半生に限っていえば案外誇張ではなかったのかな?
0647人間七七四年
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2019/04/22(月) 19:57:03.82ID:qyb8ipws
養子たちは全員優秀だったしな…弟子も多くいた上にハイソサエティにも顔が利く…
これで貧乏して生活困ってたら逆に変だ。

伊織は島原の乱で加増されて四千石超えたけど、それまでにも二千石はあったし。
若くして殉死した三木之助も知行七百石貰ってた。
武蔵が世話になってたかどうかは不明だが、二代目三木之助の九郎太郎も恐らく七百石。
武蔵自身の収入も併せたら、まあ苦労のない生活はできただろうな。
0648人間七七四年
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2019/04/22(月) 20:09:24.46ID:BQJ5Ga8I
やっぱり悠々自適な生活なのか
昔よく言われていた仕官に失敗し失意の後半生ってのとはちょっと違う感じするな
0649人間七七四年
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2019/04/22(月) 20:49:31.25ID:qyb8ipws
仕官に失敗した失意の後半生を送った…というのは、元々悪意有りきの解釈だからね。
戦後の武蔵イメージが吉川英治の死後、こぞって吉川武蔵の作り出した偶像の武蔵を壊すため
殊更に武蔵は剣聖と呼べるような人間ではなかった、高名な割に評価は低かった……
みたいな方向で語られてたというのはある。

元々、吉川英治が描く武蔵も「強かったかもしれないが人格卑しく失敗者であった武蔵」という
直木三十五の武蔵非名人説に対する反論という意味合いがあったが、直木三十五のこれも
講談のヒーローであった武蔵の実像を暴いて失墜させるという目的があったわけで。

江戸時代でさえも武蔵については毀誉褒貶あった。
むしろこの評価の反復が長い間繰り返されて続いてきたということ自体が、
武蔵の特異さの証明かもだ。

ここ十五年くらいで武蔵の研究も色々と進んできた感じはあるけど、
最近の創作物がそれを反映しているかどうかは、ちょっとわからない。
趣味人で明るく楽しい武蔵を描いてるのは、漫画だと伊藤勢先生くらいしか自分は知らない。
0650人間七七四年
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2019/04/23(火) 18:04:39.19ID:FvOGqL8E
武蔵の人格なんて本当のところは解らないんだから、創作物ならば別に史実ベースでなくてもいいというのはある。
剣術にすべてをかけた求道者というのもありだし、狷介孤高で野望に溢れた天才剣士なのか。
これが史実だ、という風に断定しなければどっちでもいいと思う。
0651人間七七四年
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2019/04/23(火) 18:54:05.56ID:fatayY06
個人的には吉川や司馬等の先行作品に乗っかってるだけだったり受け売りの武蔵像は萎えるが
逆にそれ以外ならなんだってアリじゃないかなと
0652人間七七四年
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2019/04/24(水) 05:22:32.84ID:7mJrnEil
変な武蔵といえば『中年宮本武蔵』なんか、やや古い作品だけどなかなかすごかったよ。
あらゆる意味で空気読まなくて好き勝手に生きている迷惑親父で、伊織がそれに振り回されていると。
そして伊織は若い頃はその武蔵とホモセクシャルな関係があったという…
色々と無茶苦茶な話。後半がやや失速気味だったかな。
0653人間七七四年
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2019/07/10(水) 02:26:14.28ID:jHKFlTl3
宮本武蔵なんて実際の強さは幕末の志士たちと戦ったら2秒で斬り殺されるレベル
0654人間七七四年
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2019/07/19(金) 06:43:48.14ID:mFYUNZSf
一応、二天一流の使い手が幕末の切り合いに出た記録はある。
高木元右衛門という人物が池田屋事件で襲撃されて、とっさに脇差と短刀の二刀で切り抜けて新選組の方位を突破したそうだ。
0655人間七七四年
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2019/08/08(木) 19:00:53.96ID:LGmwoIXe
20世紀までは関ケ原で西軍として参戦してそのせいで仕官が進まず〜みたいなのがよくある武蔵像だった
2000年代以降に大坂の陣で水野家配下で参陣記録が見つかったり、信憑性はそれ程高くないにしろ関ケ原より黒田家配下で九州地方の参陣可能性も出てきた
晩年の来歴も東軍の名家を厚遇で転々としてるので、仕官は養子に任せて自分は悠々自適な楽隠居を満喫してる21世紀盤武蔵像が出来つつある
0656人間七七四年
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2019/08/10(土) 15:16:02.98ID:cbU790Vy
細川家が自らの菩提寺で盛大に葬儀を行ったのも失意の人生を生きた武蔵へのせめてもの同情みたいなこと言ってるのがいたが
なんてことはない、名士である客分にふさわしい待遇を行ったってだけなんだよな
0657人間七七四年
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2019/08/11(日) 03:42:26.38ID:yH+BVuY5
武蔵の葬儀は、細川光尚の母親が小笠原忠政の娘だからってのはあるだろうね。
伊織が小笠原家筆頭家老だったわけだし、武蔵の厚遇は、やはりそちらから考えた方が通りがいいと思う。

例の武蔵が島原の乱で石ぶつけられたということが書かれた書状も、
有馬直純からの呼び出しへの断りのものだったし、
しかもその書状、有馬家の戦功の証拠として保存されていたというからな。
それを考えれば、武蔵は大名家にとって信頼できる証言できる人物であったということなんだろう。
0658人間七七四年
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2019/08/14(水) 15:59:48.64ID:r1L8K3rG
武蔵とあわせて、武蔵の流派である二天一流や円明流のイメージの更新もした方がいいかもね。
昔は時代小説などでも武蔵の死後すぐ廃れたみたいに言われてたけど、今も普通に伝承されているし
結構各地に伝播していたりするし。
0659人間七七四年
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2019/08/18(日) 15:17:02.48ID:Ae47HUpZ
宮本武蔵の美作出生説、当時は宮本村なかったけどそれを承知しつつまだ主張している人がいるんだよなあ…。
0661人間七七四年
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2019/08/19(月) 12:50:07.84ID:gM+/XcRu
一応、武蔵の生前からあの地方が宮本と呼ばれていたという史料はあったと思うけど、そこに村があったかは別の話だからなあ。
0662人間七七四年
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2019/08/21(水) 12:15:59.28ID:8m4Vrs6u
>>658
二刀流は怪力の武蔵しか使えなかったみたいな変なイメージすらあるね
武蔵が生まれる以前からあるっていうのに
0663人間七七四年
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2019/08/21(水) 20:26:53.99ID:2aeQueTb
>>662
まー、なんで武蔵以前に二刀流をメインに据えた流派がでてこなかったのか、という疑問からそういう結論になるのはわからないでもない。
あと昔は、武蔵流はそんなに広まらなかったって考えられていたしね。
二刀流がそんなに強いのならばみんなやっていたはずだ、というのも、シンプルではあるが説得力がある話だとは思うよ。

ここらは多分、刀剣史とか服飾史も含めて考えないとあかん領分なんだと思う。
0664人間七七四年
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2019/08/22(木) 09:03:02.80ID:OZuYiOZj
武蔵は強いから二刀流にしたんだっけ?
0665人間七七四年
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2019/08/22(木) 15:08:59.33ID:mSyACOrB
単純に、武蔵が家を嗣いだ新免無二の家が二刀多めに含む十手術の家だったからじゃないかね。
十手は腰に常用するものではいから二刀の流派にした、だから武蔵が二刀兵法の開祖である…と、小倉碑文にはある。

武蔵以前に二刀流がメインになる流派がでてこなかった理由は、現状では推論するしかないが、剣術ができた頃の武士は二本差ししてなかったからじゃないかな。
恐らく武術はその文化圏の社会背景だとか風俗が関係して生まれるのだと思う。
二本差ししてないのなら、刀を二本持つのが前提の二刀流が生まれる理由は薄い。
刀の二本差しが常態になったのがいつ頃かは明確には解らないが、戦場には刀を複数持ち込むことが多かったので、それが日常化したんじゃないかな。
脇差は腰刀が長大化したものだという話も聞くけど。
0666人間七七四年
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2019/08/22(木) 19:07:26.97ID:mSyACOrB
二刀流が強いか弱いかは人それぞれだと思うけど、武蔵が熊本に滞在したのは五年で、その短期間で流派が定着して、それなりに隆盛して今も継承されているからには二天一流はなんだかんだと優秀な流派だったんだろうね。
0667人間七七四年
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2019/08/23(金) 21:24:07.28ID:idApuWuR
しかしこのスレ、13年たつのにまだ600台か…宮本武蔵なんて有名な剣豪の割に、スレなかなか埋まらないなあ。
0668人間七七四年
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2019/08/25(日) 09:11:43.19ID:WcAqQBmI
西遊雑記の巌流島の記述と沼田家記の記述は類似しているから、多分、ソースは同一だと思うが
そうすると沼田家記の記述の元になるような事実、あるいは伝承は細川家の転封の前からずっと下関近辺に残っていたってことになんのかな?
火のないところに煙は立たないというが、世間の噂が火のない所に湧いて出ることもあるので即事実であるとも限らないけれど、武蔵はその後、小倉で棲んでいたはずだな。
さぞ、居心地が悪かったろうなあ。
0669人間七七四年
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2019/08/25(日) 15:04:02.04ID:WcAqQBmI
割と誤解されるているところであるけど、沼田家記での武蔵は、一度小次郎に勝ち、その後で弟子たちが殺したことになっている。
弟子たちと一緒に殺したというような話は、西遊雑記などからだな。武芸小伝もかね。
沼田家記は、元々沼田家の手柄話が書かれたものであるというが、巌流島の決闘の他の記述をネットでみたことがないからなあ。
武蔵を護衛して木下家にまで送り届けたのがこの場合の沼田家の手柄になるのだけど、恐らく武蔵はそのために一度勝つ必要があったと思われる。
つまり、武蔵は決闘の正統な勝者であるから、それで強者であることは証明され、その武蔵も小次郎の弟子たちに狙われると立ち行かない。
その武蔵の護衛をした沼田家の者は、武蔵より上ということに必然となるということだ。
そう考えると、このエピソードは元々は西遊雑記と同様に小次郎を武蔵は弟子たちと一緒に殺した話だったのかもしれない。
それを手柄話として改変してこの形にしたのかもね。
武蔵が一度勝ってから、さらにその弟子がとどめを刺すっていうのはよく考えたら意味がわからん行動だしね。
沼田家の手柄話とするためには、武蔵には強者であってほしかったし、護衛する必要性があったから弟子に殺させるという、逃走の理由を残したのかもしれない。
しれない、しれないばかりだけど、まあ、こういう解釈もできる…くらいの話。
0670人間七七四年
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2019/08/25(日) 15:29:04.37ID:WcAqQBmI
ただ、沼田家記のこの記述については、元々の伝承の改変があったかどうかは別にしても、地名は怪しいし、日付も書いてないし、泊神社の棟札を信じるのならば死んだはずの無二が存在していることになる。
無二の生死に関しては伊織の勘違いであるとして処理するとして、他の二つに関してはよくわからない。
やはり後世に伝承を元にして創作したのだと思う。
武蔵の死後30年以内という、比較的近い時期に成立した文書だからその分の信頼性は高いと考えたいけども、それなのに地名からして胡乱ということはやはりみながいうほどそのまま信頼できるかどうかはやはり怪しいんじゃないかな。
ただ、西遊雑記とソースが同じであるとしたら、細川家転封以前から小倉、下関にはそういう伝承があったということの証明にはなるけど。

あとこれはもしかしたら無関係かもしれんのだけど、沼田家記がまとめられた寛文十二年頃の熊本、なんかあったかなと二天一流関係の話漁ってたら、このくらいの時期に新免弁助が活躍してたんだな。
正確な時期はわからないけど、この頃、武蔵の再来と言われた弁助の登場によって二天一流はかなり勢力を伸ばしたそうだ。
もしかしたら、もしかしたら、沼田家記のこの記述は、今をときめく二天一流だって、その開祖も集団でかかられると逃げるしかなく、自分の先祖はその護衛したった…所詮、個人の兵法者の武勇なんてたかが知れたものだ…
という意図があって、伝承を元に書かれたのかもしれない。

あとこれは、本当にただの思いつきで、なんら証拠はないけど、西遊雑記の古川古松軒は、肥後にまできているんだよなあ…。
その時に沼田家記の話を拾って、創作したという可能性は…多分、ないだろうけど。
何かしら後でまとめる時に下関の話と勘違いしたとかーー
いや、単なる思いつきでしかないんだが。
0671人間七七四年
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2019/08/28(水) 09:33:28.47ID:2J9DCfda
>>130
今更十年も前のにレスつけるのはどうかと思うが、小倉碑文見るとキツキツだから、書かなくていいことは書かなかったんじゃないかな。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%80%89%E7%A2%91%E6%96%87

碑文は武蔵を顕彰するためのものだから、無二の情報なんか文字数入らないのならできるだけ省くと思う。
あと、沼田家記が書かれた頃には、無二周辺の情報がなくなってたとしても、別に不思議ではない。
武蔵の死後30年たってるしね。
正確な情報もなくなってたのだろう。
0672人間七七四年
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2019/08/28(水) 23:27:44.19ID:isgCIm7K
西洋東洋を問わず二刀流は常人以上の握力と腕力が必要不可欠な時点でマイナーな宿命からは逃れられない
0673人間七七四年
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2019/08/29(木) 03:08:21.29ID:J+QdniLT
>>672
そう思うのは無理もない話であるが、江戸時代の武蔵関連流派の分布の仕方とか考えると、特殊な条件が必要な技術とするのは資料と整合しない。
二天一流なんかは熊本で主流な流派として伝承され続けたし、武蔵の弟子が一人移動するだけで根付いたりもするし。
刀なんて片手で持てるものをあつらえればよいだけの話で、そういうのはむしろ多かった。
二刀流がマイナーなのは確かだけども、中国武術では双剣や双刀はむしろかなり多い。
東南アジア武術でもかなりある。
何かしらの条件があるんだろう。
0674人間七七四年
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2019/08/29(木) 03:18:50.83ID:J+QdniLT
ヒストリカルではないが、甲冑競技をしている人たちは普通に双剣や二刀を使う人たちはいるが、格別に腕力が必要でないのは確認している。
0675人間七七四年
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2019/08/29(木) 23:35:06.95ID:J+QdniLT
元々、二刀流が難しいとか、弱いとかの言説は、宮本武蔵の流派が広まらなかったということを説明する「ための」ものという側面が強い。
昔は情報があまりなかったから、二天一流も武蔵以降は目立った名人がいないとかで形骸化したとか続かなかったとか時代小説家が適当吹いて、それが定着していったんだよなあ。

現実には全国展開する流派は江戸にあることが前提だし、武蔵関係流派は武蔵以降も続いてる流派は多いし、地元限定ではあるが名人の話もかなりある。
そもそも全国規模で有名になる名人というのが少数派だということが見落とされている。
0676人間七七四年
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2019/09/06(金) 23:36:21.11ID:zGinOuRg
二刀流は利き手でない腕の訓練が必要であり良くも悪くも人を選ぶ剣術。
ただ利き手の矯正は吃音の原因になったりと日常生活に支障を来す場合もあるから
やっぱり片手剣や両手剣に比べると主流にはなれない
0677人間七七四年
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2019/09/07(土) 00:29:45.66ID:ua/pvmmw
>>676
それだと、現実に二刀流が藩によっては大きな勢力になってたり、江戸時代を通じていたことの説明はできませんね…。
世界的には双剣や二刀流はいっぱいあるし、国によっては主流になっていたりする。
よもや日本人以外には利き腕がないってこともない。

両手をそれぞれ使う武術は日本でも珍しくないし、これは上にも書いたけど、二刀が難しいというのは、
「昔の小説家」が書いたような「二刀は広まらなかった」とか「武蔵の流派は絶えた」ということの『ため』
に創作されたもので、実際のところはそんなことはないので、まあ要するに前提が間違っている。
0678人間七七四年
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2019/09/12(木) 20:07:49.43ID:mnSJcCod
二刀流は利き腕じゃない腕の訓練が必要だから難しいとか言うが
素手の格闘技では打撃系でも組技系でも利き腕じゃない方の腕の鍛錬もするんだから難しいからとか日常で支障をきたすとか言い訳にならないだろ
ようはその武術武道流派で片手や利き腕じゃない方の腕の技術的な使い方のノウハウが有るか無いかってだけで
0679人間七七四年
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2019/09/13(金) 05:26:27.26ID:5KsoK931
二刀流が広まらなかったのは、ある程度の刃渡りを持つ刀剣がそれなりのお値段だったからのと
平時は1本差しの時代が長かったから。

また、ほとんどの道具(武器か日用品かは問わず)が片手か両手で1つずつ使うものだったため、片手に1つずつ刀剣をもって戦う技法は中々根づかなかった。
0680人間七七四年
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2019/09/13(金) 11:36:06.15ID:m5oOEEOB
刀の値段はよくわからないな。
武士以外の者もたいがい持ってたんだから、そんなに極端に高かったものでもないと思うけど。

二刀技法は念流の最初期からあったみたいだから、まあ二本差ししてないからメインにならなかった、程度の話だと思う。
二本差しになるまで念流ができてから200年近く経過しているはずだから、その間に蓄積された剣術メソッドをひっくり返して二刀から教えるってのは勇気がいったことなんじゃないかな。
どれだけ強かろうと、やはり人間、最初に習った技術、鍛錬を積んだ技術を信頼するものだからね。

武蔵流系統は多くが二刀から指導するけども、ああいう順番の変更は些細なようでいて、相当に革命的なことだったんじゃないかって気がする。
0681人間七七四年
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2019/09/13(金) 21:51:40.40ID:Jx0jieyZ
まあ何れにせよ二刀流は一刀と比較してマイナーなのは事実
江戸にある多くの流派は一刀だし幕末の内乱に二刀を用いる剣士は殆ど居ないしな
0682人間七七四年
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2019/09/14(土) 02:23:55.70ID:XZxdcXPn
二刀含むまでいれると、心形刀流、柳剛流、鏡心明智流なんかが江戸で有名な流派になるけどね。
柳剛流は心形刀流から出ているし、心形刀流の二刀は武蔵流…どうも江戸初期にあった青木家の鉄人二刀流からいれたらしい。
『二刀流を語る』によると、寛永以降の多くの流派の二刀技法は、鉄人流から入れたものが多いのではないかとある。
これもやはり、江戸に道場があるというのが大きいのだろうね。

明治の撃剣試合で有名を馳せた奥村左近太は、愛媛の田宮神剣流の高橋と試合して、二刀遣いに苦戦してから独自に二刀流を工夫したという。
これを奥村二刀流というが、田宮神剣流の二刀も江戸にあった鉄人流からいれたらしい。
佐賀の鉄人二刀流の達人、牟田文之助が愛媛の田宮神剣流と対戦して、ここの二刀は武蔵流だと証言している。

まあこれは一例だけど、他にも両剣時中流なども鉄人流系統らしいし、江戸にあるということはそれだけ影響力があったということだろうか。

江戸の青木家がどうなったのかは解らんけども、江戸初期の道場はほとんど残ってないことを考えれば、断絶していたとしても特に不思議でもないか。
確か熊本で山東派二天一流を継承した八代目青木規矩男が鉄人流の青木家の裔だという話もあったが、根拠になる資料は知らないな。
0683人間七七四年
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2019/09/14(土) 02:32:20.58ID:XZxdcXPn
幕末で二刀を使用した例は桜田門外の変の話が有名だけど、これは流派はわからない。

宮崎滔天の義理の兄貴にあたる、山東派二天一流の高木元右衛門が二刀で池田屋事件の際に近藤を突破して、新選組の包囲から抜けたという話があるか。
まあ蛤御門の変で死んでいるけど。

まあ考えれば、全国に何千とある流派で幕末で京都の動乱で活躍した流派はそんなに数はないし、その中で二刀遣いがなかったというのは確率的には仕方ないかもしれない。
肥後には二天一流伝わっていたし、もっと何かしら関わっていてもよかったのにな。
もしかして暗殺に二刀を使っているケースもあったかもしれんが、それはわからないからなあ。
0684人間七七四年
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2019/09/22(日) 06:20:55.01ID:8gjNK4Vl
幕末にどれだけの流派が存在していたのかは正確な数は解らないけど、剣術の数は江戸後期の防具の発明からの試合が盛んになってからだしね…。
その原動力になったのが江戸の直心影流と一刀流で、このふたつはたまたま一刀だけの流派だったんだけど、ここらの影響を受けて流派が創作されていったのならば、そら一刀しかないのが多いのも仕方がないかもしれない。

幕末に活躍した人間の流派も、ざっと思い出す限りだと神道無念流とか北辰一刀流とか直心影流、鏡心明智流…なんかの有名流派が多いような印象もある。
多分、もっとほかにもあるんだろうけど、やはり江戸で遊学してからきたって人間が多いと思うので、必然、江戸の流派になるんじゃないかな。
新選組で有名な天然理心流も、あれも近藤勇の前の世代では関東ではかなり有力な流派だったらしい。

やはり江戸になかったというのが、二天一流や他の武蔵流が活躍できなかった最大の理由なんだろうね。
肥後の武士もそれなり京都にきているはずだから、高木以外の使い手もいたんだろうけど。
幕末の志士には詳しくないけども、薩長土肥の中で、肥後ってなんか影薄いね…。
0686人間七七四年
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2019/09/22(日) 23:27:44.65ID:8gjNK4Vl
>>685
おっと、すげえ勘違いしてた!なんでこんな覚え間違えしてたのか…。
恥ずかしいぞ!
ご指摘ありがとうございます。
0687人間七七四年
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2019/09/22(日) 23:29:43.59ID:HZ2bpJC8
単純に両利きの鍛練が求められる二刀は習得の難易度が高いから流行らなかっただけだろ
ボクシングや空手といった素手ならまだしも利き手でない腕で道具を使うのは相応の訓練が必要
野球や卓球でサウスポーが有利と言われてもそうか
0688人間七七四年
垢版 |
2019/09/22(日) 23:30:57.04ID:HZ2bpJC8
そう簡単にサウスポーになれるわけでないのと同じ
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