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【木刀】宮本武蔵を語る【サイコー!】
0001名無しさん@お腹いっぱい。2006/06/16(金) 21:54:41ID:gKVvU8HE
語りましょう!
0689人間七七四年2019/09/23(月) 06:59:32.25ID:dSid3MCT
>>687
それについてはも少し上の方で重ね重ね指摘しているけども、それだと隆盛した地方が存在するのと整合しない。
そもそもからして、利き腕のあるなしに関わらず、たいていの格闘技も武術も両手をそれぞれ使うわけだし。
二刀双剣は東洋の武術としてはありふれている。
もっといえば、剣道でも両手で使うけど、両手をそれぞれ操作するのでね…。

文化発信のセンターになりえる江戸や京都で普及してなかったというのが、武蔵流の分布が偏っていた最大の理由だろうね。
0690人間七七四年2019/09/23(月) 17:47:15.82ID:dSid3MCT
しかし二刀流の話になると、「難しいから流行らなかった」というような持論?をスレをよく見ずに書き込んで去っていく人、でてくるね。
現実に隆盛してた地方があった以上は武蔵しかできなかった、難しくてできなかったというのは前提としても間違っているとわかろうものであるが。
0691人間七七四年2019/09/24(火) 12:29:10.34ID:p7u77M67
武家中心の都市である江戸で二刀流が隆盛しなかったことがその答え。
競争が激しい武術を教える道場の多くが一刀や体術が中心であまり二刀を扱わなかった
0692人間七七四年2019/09/24(火) 15:21:11.28ID:822FU99v
>>691
それを言い出せば、今も昔も武道で知られた熊本で二天一流が隆盛したことはどう説明したものか。
そもそも、江戸でも17世紀は武蔵の弟子筋の青木家の鉄人流が結構門人がいたらしい。
江戸は武家の町であるが、特に武張っていたのは元禄以前…17世紀までだね。
これも上で書いたけど、寛永年間以降に二刀を入れた流派はこの鉄人流の影響があるという。
この青木家が江戸からいなくなったのが18世紀の前半くらいらしいけど、当時は医学も未熟で、養子とか入れないと家が続かないしね。
それで養子をいれて家を存続させても、家の流儀が継承されていたわけでもない。
地方の大名に仕官したという説もあるしね。

4代家綱が剣術での他流試合を控えるようにしたせいで剣術が衰退したというから、それで見切りをつけて地方にいったのかもしれない。
この手のお触れはお膝元の江戸ならともかく、地方ではあんまり守られてなかったということも多いらしいが。
18世紀後半になると九州で武蔵流が流行っていたという証言が撃剣叢談にでてくる。
撃剣叢談の著者は岡山の人間で、西国中心に書いてるけど、江戸の記述も多いが、とりあえずは岡山に伝わる程度には武蔵流の隆盛は聞こえてたのだろう。
0693人間七七四年2019/09/24(火) 15:33:35.79ID:822FU99v
江戸の武蔵流というと、武蔵の最後の弟子とも言われてる柴任三左衛門が江戸で道場を開いて隆盛したけど、明暦の頃に地方に下っているね。
これは時期的に明暦の大火が関係しているんじゃないかって説もあるけど、はっきりとは解らない。
柴任は筑前に二天一流を伝え、気難しい人であったのか、幾つかの家に仕えては致仕を繰り返している。

まあこんな感じで、たまたま、江戸で定着する人がいなかったってだけだろうね。

尾張だとこの時期の少し後に新陰流が衰微し、円明流が隆盛してる。
これは柳生連也斎が厳しい人で、門人が逃げたからではないかって説もあるが…。
0694人間七七四年2019/09/25(水) 12:01:13.71ID:Z9/BnLQd
そういえば、なぜ武蔵流なんですかね
流派名って概ね苗字から取ることが多いと思うですけれど、俗称とはいえ言うなら宮本流じゃないのかと
それとも知識がないだけで自称の官名から名を取った流派ってあるんですかね
0695人間七七四年2019/09/25(水) 12:04:26.75ID:Z9/BnLQd
いや違うな間違えました、宮本も苗字じゃないから新免流になるはずか
0696人間七七四年2019/09/25(水) 16:39:04.16ID:DExalZgs
>>694
播磨龍野の円明流に伝わる文書の中には「宮本流」って書いたのもあったようですね。
確か『昔咄』には新免無二流と書いてたのもありましたか。
この手の流派の名前は割といい加減というか適当で、通称とか俗称が正式な名称になったりというか、流派の正式名称という考え方自体があったかどうかもよくわかんない。

姓名ではなく名とか号からとった例だと、新免無二の無二流、青木鉄人の鉄人流とかありますね。
この鉄人流も元々は円明流が世間では鉄人流と言われたかいうし、心形刀流の伊庭是水軒が学んだ武蔵流はこの鉄人流だという話もあるから、鉄人流も武蔵流とまとめられていたらしい。
多分、鉄人流の場合は円明流だったので武蔵流でまとめられていたけど、世間では鉄人の流派ということで鉄人流とも呼ばれていた、くらいのことだと思われる。

円明流も播磨で水野流居合を併せた系統は、「円水流」という、なんのひねりもない流派名にしたとか。
ここらの感覚は江戸時代も長いし、個人差はあると思うけど、割合と適当だった時期がかなりあるのではないかと思う。
0697人間七七四年2019/09/25(水) 18:36:26.06ID:Z9/BnLQd
>>696
お答えありがとうございます
今更ながら一心流とか卜伝流とかありましたね

何かネーミングに法則や慣習があるわけじゃなく、なんとなく決まってるものばかりなんですね
勉強になりました
0698人間七七四年2019/09/25(水) 19:35:44.82ID:DExalZgs
>>697
最近は、かなりうるさいようですけどね。
柳生新陰流は俗称で新陰流が正しい云々、野太刀自顕流が正しいとか薬丸自顕流こそが正式であるとかどうとか。
あそこらは団体の正統性を謳うための主張としての側面があるので、歴史的な経緯はおいといて、当人たちのいってることを殊更に否定する必要もないですが…。

先日に熊本の郷土史の本読んでると、二天一流の弟子筋が「天下一流宮本武蔵流」と呼ばれていたのがあるの見つけて大笑いしました。

ちなみに二天一流は、日天月天の二天を一つにした…日月陰陽の合一された完全で完璧なもの、くらいの意味なんだそうです。
これは元々の武蔵の流派である円明流の円明も完全なものという意味なので、意味的にはかぶりますね。
そして円明という字を重ねると、「明」を円…「○」で囲む…日月を一つにしている…ということではないか、とする説もありますね。
つまりは円明流という言葉を、より典雅に捻った形で呼んだのが二天一流ではないかって。

まあその宮本武蔵も、五輪書では二刀一流と書いてる箇所もあるんですが、これは表記ブレなのかなにか意味があるのかは解りません。
自分は表記ブレ説採ってるけど。特に根拠はない。
0699人間七七四年2019/09/25(水) 20:41:04.57ID:WoZLxdt+
>>695
新免流だと時代的に新免無二のほうを連想する人もいて
それと区別する意味でも武蔵流なのかもね
0700人間七七四年2019/09/25(水) 22:34:23.44ID:Z9/BnLQd
>>698
道場破りとかのイメージで看板持ってくという印象が強かったので
名前にうるさい印象を当時に対しても持ってました、ありがとうございます

>>699
新免無二流から意図的に違う流派であると印象づける必要があったってことなんですかね
0701人間七七四年2019/09/26(木) 03:26:09.12ID:2PJoeyNx
新免無二も無二流とか無双流とか言われてたみたいだし、あそこらも適当感あるなあ。
よく言われる当理流は宮本無二斎とかを開祖とするけども、泊神社の棟札によるならば宮本を名乗りだしたのは武蔵の代からだから、後世の創作物だって説もある。
実際、熊本には当理流は宮本武蔵に宮本無二の流派を学んだ塩田松斎が創始したという石碑があるそうだ。
その当理流を伝書などから再現したのが塩田流であるとかなんとか。

>>700
名前については時代や人による差も有り得るので、一概には言えないというのが正解だとは思う。
道場破りは、ああいうのはいつの頃に形成されたイメージかは解らないけども、現実に存在したものかどうか。
江戸中期から後期にかけての廻国修行の記録を見るに、なんだか勝負に白黒つけない交流試合という感じだし。
誰それと試合して勝ったの負けたのというのはあるし、まったく勝負しなかったとも思えないけど。
ただ、江戸後期でも馬庭念流と千葉周作の対立の話とかあったみたいだし、なにかことあればメンツが関わって大事になってたと想像はできる。
近世の人間は今でいうヤンキーみたいなもので、メンツがまず大切だったから。
これが戦国の遺風が残ってた江戸初期だと、それこそ簡単に殺し合いに発展したかもしれない。
そういう時代に道場破りなどしてたら、命が幾つあっても足りなかっただろうね。
武蔵と吉岡の対立がまさにそうだったかもしれんけど。
0703人間七七四年2019/09/26(木) 13:11:05.49ID:MJjno70E
まともに調査していない史料見てないヤツの言葉は軽すぎて反論にもならんな
0704人間七七四年2019/09/26(木) 19:31:19.31ID:2PJoeyNx
>>702
まあ、地方の剣術には違いないですね。
これは武蔵が直接指導した場所や、直弟子がたまたま江戸にはほとんどいなかってだけのことでしかないけど。
武蔵が若い頃は西国の方が都会だったことと、小笠原家が九州移転とかしたのが主な原因だね。
しかし田舎の流派だったけども、心形刀流や柳剛流に二刀は受け継がれているし、武蔵流を入れた流派は他にもある。
大日本武徳会剣術形の審査員の中には武蔵流の三橋鑑一郎とかいるし、地味に剣道史に影響がある。
地方剣術としてはかなり面白い。
0705人間七七四年2019/09/26(木) 23:07:43.79ID:h3n7Coya
二刀流のメリットってなんだろ?西洋剣術ではソードブレイカーのように
盾としての役割があったけど日本の剣術では盾の役割なんて聞かないけど
0706人間七七四年2019/09/27(金) 00:15:25.64ID:ziBmGzKn
見栄えの良さが一番。逆手持ち同様にロマンがある
0707人間七七四年2019/09/27(金) 10:08:18.88ID:0OEYvHVg
「剣道二刀流の技と理論」P187
この日本一の剣士と手合わせしてみた。私もかなり自信をもっていたのだが、
てんで歯がたたない。勝負をすると十本の中一本しかとれないし、
得意の遠間からのさし面も全く通じない。そんな時のこと、
子供を相手に二刀で遊んでいたりしていたのだが、試みに二刀で日本一と対戦してみた。
すると三本の中一本はとれる。はじめたばかりの二刀で日本一の剣士とほとんど対等に戦える。
そこで二刀に転向した。


相手のペースを崩せる変則の強みじゃね
仮想敵と違う動きってやっぱりイヤだし
0708人間七七四年2019/09/27(金) 10:56:35.74ID:bm4/SOIz
>>705
月之抄だったと思うけど、十兵衛が柳生但馬守宗矩との問答で二刀について聞いてるけど、小太刀を盾のように使うと書いてたので、そのようにしていたんじゃないかな。
それに盾といっても、西洋の剣術でいうバックラーは攻撃にも使うし、小太刀なら盾にも攻撃にも使えるだろうね。
宗矩の言葉にはそこらの含意もあると思う。
あとやはり、普通に防御は硬くて手数も増えるというのもあるだろうね。

>>706
ロマンもあるよね。
普通に指導されている二刀には、ロマンもへったくれもないけど。
二天一流など地味にもほどがある。
ある会派がここ何十年かで動きを大きく派手にしたという批判があったので動画見たけど、それでも他の流派より普通に地味だったよ…。

>>707
柳生流なんかでは二刀対策はかなり確立されていたらしく、天狗抄には二本、対二刀の技があるみたいですね。
尾張は円明流と隣接していたので、お互い研究がよくされていたらしい。
元柳生流の円明流とか、元円明流の柳生流とかいて、今の尾張円明流は柳生に伝わる両刀からのものだそうな。
円明流の方でも昭和の終わりくらいまで伝承者いたみたいなんだけど、今はいない。もったいない。
0709人間七七四年2019/09/27(金) 15:32:25.16ID:3A95AroI
天狗抄に対二刀の技があるのは慶長六年に石舟斎が金春七郎宛に出した伝書と変わらんような
疋田なんかは新陰流としてではなく奥山念阿弥陀仏由来の「小太刀虎乱の目録」として
二刀剣術の伝書出してたりする
疋田系統の新陰流としては「磯浪」の仮想敵が二刀に構えてるな

こういうの見ると二刀ってのはイメージ以上に広まってたことを実感させられるよ
0711人間七七四年2019/09/27(金) 15:50:00.69ID:bm4/SOIz
>>709
補足どうも。
というか、紛らわしい書き方しました。天狗抄のあとで尾張のところは一行あけないと。

念流に近い、やはり古く歴史ある流派でもある堤宝山流にも二刀があるね。
以前にネットで見た二刀の歴史の論考では、堤宝山流ですでに二刀は完成していたように書いてたっけ。
ただ、この流派の二刀は鉄人流からいれたのではないかと『二刀流を語る』にはあった。
この流派自体の資料も江戸初期以前のものはないそうだけど…。

二刀そのものは武蔵以前からあったけど、二刀兵法の開祖…つまり、二刀を主体とした流派を作ったのは武蔵が最初、というのが小倉碑文の主張なんだろうね。
0713人間七七四年2019/09/27(金) 16:07:43.57ID:bm4/SOIz
>>712
どうも。

そして、リンクありがとうございます。
この絵伝書は以前に別に見た記憶があるけど、ここで見れたのは知らなかったです。
ありがとうございます。

ではこちらからも。
あんまり興味もないかもだけど、このスレに来ている人ならば多分、嬉しいと思うから
https://heihouechigo.jimdo.com/
播磨武蔵研究会、再開するって。
以前に未掲載だった資料つきで。
0714人間七七四年2019/09/27(金) 18:40:12.57ID:X4JITU3f
ほー!播磨武蔵研究会再開ですか!
これは嬉しい情報ですね ありがたい
0715人間七七四年2019/09/27(金) 18:58:58.01ID:bm4/SOIz
>>714
どうも主宰者が完成させていた兵法先師伝記がネットで読めるかもって話で、ありがたい。
あれは書籍化してるものには現状ではほぼ一つしかないから、解説もつくとなるとなお素晴らしい。
0716天上天下唯我独尊2019/09/29(日) 23:37:29.41ID:Hce4vw+G
てんぷらたぬき三日天下
0717人間七七四年2019/09/29(日) 23:38:26.63ID:Hce4vw+G
戦国武将剣豪実は兄弟 
0719人間七七四年2019/10/01(火) 19:08:28.84ID:fPMGvfoT
兵法先師伝記はwikiに解説が載っているけど、武蔵伝記としての価値は武蔵についての情報ではなくて、当時の二天一流関係者がどういう風な武蔵情報をもっていたのかの確認になるかな。
あと武蔵百周忌についての話がどういう風に補足されているのかも興味がある。
それと当然、執筆者でもあり、越後二天一流の丹羽信英についての情報もあるんだろうな。
越後の伝は剣道日本に掲載された分か播磨武蔵研究会に掲載されたくらいしかろくに情報がないから、気になっていたんだ。
0720人間七七四年2019/10/30(水) 16:01:19.57ID:pbxZexm3
最近思うけど、宮本武蔵が二階堂流の村上吉之丞から逃亡したという撃剣叢談の話、
創作なのは年代から解っていたけど、どういう文脈からできた話かわからんかったが
当時の熊本では村上吉之丞人気がちょっとあったぽいから、そのageエビソードだったんじゃないかと思う。
そのローカル伝承を廻国修行の武芸者が聞き拾って、それを三上元龍が伝え聞いて…という
そういう流れで全国区にたまたま有名になって、村上は熊本マイナー有名人だから忘れられ
それで武蔵sage部分だけが強調されて今に残るのではないか。
0721人間七七四年2019/11/03(日) 01:03:05.72ID:U2HdI7W+
子供部屋おじさんじゃない自炊してる社会人なら宮本武蔵の
何十人切りって話はフィクションだと分かるかと
0722人間七七四年2019/11/03(日) 19:28:39.36ID:UmoSFGqT
武蔵が何十人も切ったというエピソードって、なんかあったっけ?
小倉碑文にも、武公伝にも、二天記にも、吉岡一門に切り殺したというような話は書いてない。
一番威勢がいいこと書いてある小倉碑文でも
「衆敵を散ずるや、走狗の猛獣を追ふに似たり。威を震ひて洛陽に帰る」
武公伝では
「武公察之、又七郎ヲ切弑シ彼門弟ヲ追奔シテ、威ヲ震フテ洛陽ニ帰ル」
二天記では
「武藏又七郎ヲ斬殺シ、徒黨ノモノヲ追退ケ、威ヲ振ヒテ洛陽ニ歸ル」
となっている。
これは要するに、敵に囲まれたけど上手く逃げおおせたって話だね。
まあ、数については最初の小倉碑文が数百人だったのが、以降は数十人という具合にグレードダウンしているから、当時からリアリティない話だと思われていたのだろうね。
0723人間七七四年2019/11/04(月) 18:45:13.69ID:HTbFsbG2
>>721
自炊だろうと子供部屋だろうと独り身なら大差ないような
というか家庭持ってないのを得意げに語られても困るぞ
0724人間七七四年2019/11/06(水) 04:36:21.11ID:2oEok99D
撃剣叢談の村上吉之丞から武蔵が逃げたという話、
同書に熊本では村上平内の武蔵流が繁盛していること書いてるし、
ソース元は同じとみていいだろうね。
村上家は新免弁助と揉めたらしいから、先祖を称揚して武蔵sageようとしたんだろう。
0725人間七七四年2019/11/06(水) 06:57:16.87ID:VmPO0qTN
島原の乱で石投げ攻撃で足が折れてちんばになったやつ
0726人間七七四年2019/11/06(水) 09:05:44.49ID:2oEok99D
島原で石ぶつけられた話、有名になってるけど、あれ呼び出しに際してそれでいけませんって断りの手紙に書いてることで、本当かどうかはよくわかんないぞ。
0727人間七七四年2019/11/06(水) 17:54:25.38ID:YtrBQmiZ
武蔵の自己申告でしかないからな
0728人間七七四年2019/11/08(金) 14:34:15.89ID:LsfGXmgL
ただ、武蔵の自己申告ではあっても、どうもあの書状は有馬家の軍功を証明するものとして重要視されたらしい。
確か吉川英治文学館の記事に書いてあったが、書状は有馬家の軍功の証明のための証拠の櫃にいれてあったようで、特に手垢で汚れていたので、よく読み返されていたのだろうと。
となれば、実際にあったかどうかは調査されただろうから、武蔵が嘘ついたかどうかは調べられたと思う。
武州伝来記には、武蔵が投石を木刀で弾き返したという、事実と逆の逸話が収録されている。
伝承される過程で変異したんだろうけど、これ自体が武蔵が投石をぶつけられたとかの話が当時も知られていた証明になるんじゃないかな。

だからまあ、武蔵が島原で投石で負傷したというのは事実であると考えた方がよい。
ただ、その後すぐに江戸まで旅に出ているし、江戸から直で熊本にもいってるし、負傷者リストにもないし、程度はそんなに重くなかったんだと思う。
いい加減、いい歳だったんだから、それで負傷したらかなり足弱ったんじゃないかな。
もちろん、武蔵が足が弱ってたという逸話もあるし、晩年の二天一流の風格が弱った足と体力を反映したものであるという可能性もあるが。
それが投石による負傷が長引いたものなのか、スポーツマンが晩年に足を萎えさせるものみたいなものなのか。
あるいはその合わせ技だったのか、今となっては解らんけども。
0729人間七七四年2019/11/08(金) 21:00:52.38ID:o7Bs7aNG
>負傷者リストにもないし、

おいおい…
客観的事実の裏づけがないってことが確定かよ
0730人間七七四年2019/11/08(金) 23:06:29.79ID:LsfGXmgL
>>729
あくまでも、現在見当たるものではという話でね。言葉が足りなかった。申し訳ない。
中津藩の負傷記録に武蔵の名前がないというのは、魚住先生も書いてる。資料の名前だしてなかったと思うけど。
もしかしたら今後でてくる可能性はあるかもしれんけど、今のところはない。

ただ、軍忠状とかの類は自己申告だったようだし、島原では石ぶつけられた人の話は他にもあるし、状況的に一揆勢は最後は石投げるしかなかったのかもしれない。
だから、ちょっと石ぶつけられた程度のことは記録しなかったのかもね。

あと、元のツイートにも書いたけど、

城乘ノ時、賊徒石ヲ抛ツ。馬前ニ來ル石ヲ、
「石ガマイル」ト言葉ヲカケ、五尺杖ニテツキ戻シ、
落城ニ及ンデハ、例ノ薙刀ニテ數人薙伏ラレシト也

という説話が筑前の武州伝来記に採取されているということは、武蔵に向けて投げられた石…のエピソードはある程度知られてたんだろうね。
この話は熊本で拾われてないので、筑前ローカルだったものかもしれんけども、もしかしたら小倉の方から伝わったのかもしれない。
有馬直純宛の書状の内容が外部に漏れたとは考えにくいからね。小倉の関係者から広がったのかも。
0731人間七七四年2019/11/09(土) 00:11:11.20ID:f9FJqTvm
まあ武蔵の自己申告なんだから、石ぶつけられたこと自体は疑うほどのことではないけれど
自分の名を落とすようなことを嘘ついてまで書くこともないだろうし。
前後の状況から考えて、さほどに深刻なものでもなかった…くらいじゃないかな。

ただ、剣豪が石ぶつけられて負傷したってのは面白い話だから。
話を又聞きでみんな大きくしていってるって部分はあると思う。
島原にいったら、ガイドさんは武蔵は子どもに石ぶつけられたことになってるって話もあったよ。
何処ソースかもわからないけど、いつの間にかそういうことになっているのだそうだ。
0732人間七七四年2019/11/09(土) 01:02:57.47ID:+9Ecc+pJ
>自分の名を落とすようなことを嘘ついてまで書くこともないだろうし。

手柄傷という通り合戦の負傷は不名誉どころか手柄なんですけどね
0733人間七七四年2019/11/09(土) 07:44:08.24ID:f9FJqTvm
ああ、それもそうか。
武蔵の書状はそういえば、有馬直純の手勢が活躍していることを賞賛してのものだから
それは同時に、武蔵は最前線にいたことの証明でもあるな。
どうせだから、武蔵の書状も貼っとこう。
上にもあったかな?

【有馬直純宛武蔵書状】
被思召付尊礼忝次第ニ奉存候。随而せがれ伊織儀、御耳ニ立申通大慶奉存候。
拙者儀、老足可被御推量候。貴公様御意之様、御家中衆へも手先ニ而申かわし候。
殊御父子共本丸迄早々被成御座候通驚目申候。
拙者も石ニあたりすねたちかね申故、御目見得ニも祇候不仕候。
猶重而可得尊意候。恐惶謹言
    即刻       玄信

先に有馬直純から伊織への賞賛があったものらしいが、伊織もかなり加増されているので、かなりの手柄だったらしい。
0734人間七七四年2019/12/12(木) 14:59:48.88ID:noBj64XC
なんか播磨武蔵研究会、復活しているっぽい
http://musasi.siritai.net/
一部リンク切れで見れないのが気になるけど…。
0735人間七七四年2020/02/09(日) 19:49:42.09ID:/7lhcgGk
武備和訓で武蔵流や武蔵の弟子の柴任三左衛門についてdisり記事が載ってたけど、これの作者の片島武矩、筑前黒田家を致仕しているんだな。
そしてその直前に筑前二天流の継承者で、柴任の孫弟子で、直接指導を受けたこともある立花峰均が遠島から復帰している。
これ多分、片島は立花と敵対していた側だったんだな…。
0736人間七七四年2021/01/06(水) 23:29:18.01ID:PbXaq3ir
リアル武蔵はけっこうヘタレ
0737人間七七四年2021/02/24(水) 20:54:50.38ID:bTOAIm2q
リアルの武蔵?
生前の武蔵のスキルではなく、キャラクターについて同時代人で言及があるのは、今のところは小倉碑文だけだな。

生来おおらかで細かいことを気にしない人だった、とある。
ここらは漢文の慣用句だけど、普通はあまりいい意味では使わない言葉なので、そういうのわざわざ持ち出すくらいには、武蔵は細かいことを気にしない性格してたんだろう。
0738人間七七四年2021/11/16(火) 23:03:10.28ID:gbTejps+
太刀の二刀流で軽々振り回す武蔵が凄いわ
0739人間七七四年2022/04/06(水) 16:56:08.21ID:985OAI2Q
太刀ひとつより、ふたつのほうが良い場合は…とは、五輪書にかかれているけど、あれが太刀二刀流なのかはわからんな。
文字通り読んだり、その章は戦場のケースを中心に語られているから、太刀二刀流を戦場で使う場合という、特殊なケースでのことに読めるは読める。
ただしこれは一般的な解釈ではない。
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