【木刀】宮本武蔵を語る【サイコー!】
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保険依存王宿題auロボットヤーフォーレポート日本評価カウントダウンサロン「わー!オぉあ」↓☆↓☆内閣飲み会郵政省mannernhk証券ディレクターDJ玩具研究員デズネーespana牧師TeNQdio店長少年 いくらなんでも宮本さんが刃牙に勝てるわけないだろ。
刃牙が無敵すぎて話が作れなくなったから実力を落としたんだろうな。
宮本さんは農民の投げた石で骨折する奴だぜ。
刃牙がそんな事ないだろw 「骨折」しましたっけ?
どういう史料に骨折が出てくるのかな? 検索してみると骨折したって思っている奴が結構いるんだな
そんな事が書いてある資料は存在しないから、思い込みなのか何かの受け売りなのか 島原の乱では籠城側が投げ落とした石で幕府側に多数の被害が出てる
武蔵の場合はどういう石だったのやら
あと、武蔵の手紙での自己申告以外にその情報ってあるのかな? 無いね
もしそんなものがあったら久しぶりの新史料発見てことになる >>529
「吉川英治の武蔵はウソパッカリよ、子供のトキは夢中でよんだけど
大人になってわかったヨ」大山倍達の言葉 >>547
お前の「空手バカ一代」もウソパッカリだったけどな〜 あ〜、俺生きてても何も意味がねぇ。
完全に嫌になるよ 空有善無惡
智者有也
理者有也
道者有也
心者空也
今更研究サイト読んだんだけど五輪書空の巻にある識語?っていうのかこれ
これは武蔵オリジナルではなく肥後系五輪書の後入れって事で確定でいいのかな >>550
筑前系の五輪書にはないというから、肥後系で後入れと思っていいんじゃないかな。
去年くらいにヤオフクで孫之丞の弟子・柴任の五輪書…の写しという、恐らく最古に近い五輪書写本が出されたが、残念ながら水の巻だけだった。
もしもこれの空の巻があって、それで確認できたら…と思うと色々と残念だった。
ちなその写しの五輪書は、確か二万とかそこらで売れたんじゃないかと思う。
もっと下だったったかな? >>551
五輪書の解説本では晩年の武蔵が達した境地みたいに紹介されることが多いけど、
後世の後入れだとすると色々とシュールな事になるなw
柴任の五輪書というのは柴任美矩→吉田実連の吉田家本の事?
吉田家本の空の巻なら既に最古の写本として発見されているけれども、
そうでなくて寺尾孫之丞→柴任美矩の五輪書だとしたら例え水の巻だけでも大発見だね >>552
五輪書については当の筑前系の武州伝来記で「清書がない」とあるので、未完成品だったのは共通認識だったんだろうね。
空の巻の後入れが確定の証拠にはならんだろうけども、肥前系の武公伝で五輪書は孫之丞が授かったことになってる。
それで肥後に伝わってる五輪書の方が記述が多いというのは、こちらには未完成だったという伝承は残らなかったのか。
あるいはそれを踏まえた上で完成させようとしたものなのか…。
オークションの内容は忘れたが、柴任が受け取った五輪書の写し、だったはず。
なんか水の巻だけでてた。
記憶曖昧なのだけど、吉田家本ではなかったと思う。
>>547
今更のレスだけど、大山倍達は吉川武蔵について「本物はあんなではない」と聞いてから
「むしろあのような武蔵を作り出せたものだと感心した」
みたいなこと何処かで書いてた記憶があるよ。
極真の道場訓も吉川英治監修だしね。 >>553
未完成だと踏まえた上で完成させようとしたんじゃないかなあ
肥後に流出した写本には筑前系空の巻のように代々の相伝証文が載ってないから
>>550の識語で穴埋めする必要があった、というのが研究サイトの見解だけどこれには同意 ところで沼田家記って検索してみると成立した時期が
寛文十二年(1672年)もしくは元禄二年(1689年)と出てくるんだけどどっちが正しいんだろう 沼田家記は…確か細川家が命じてそれぞれの家の記録を提出させたものの中の一つだったような記憶があるのだが…ソースが見当たらない。
覚え違いだったかな。
でまあ、その胡乱な記憶が確かだったなら、という前提で、寛文二年が成立年代で、元禄二年は細川家に提出して公文書扱いになった頃…かなあ?
しかし、このスレでの上の方で沼田家記の記述についての論争とか、今見るとなんだか面倒くさいだけだねえ…。
小倉碑文や泊神社の棟札の内容を否定するために、随分とグダグダと書いてる。 成立してから17年後に提出って遅すぎるんじゃないかって気がするけど……
寛文十二年に一応成立して、その後増補やら追補やらが色々あって元禄ニ年に舟島の記事が追加されたとかなのかな?
引き続きもう少し調べてみる。 沼田家記が成立してから、それと無関係に提出されるようになった…ということだと考えてるけど、そもそもが曖昧な記憶による前提なんでなんとも。
個人的には沼田家記の巌流島の戦いの描写はどうにも全面的には信用しかねるが、いつ頃に成立かは正確には知っておきたいので、調査結果は知りたいものである。 「図説宮本武蔵の実像 別冊歴史読本 (33) 」に、沼田家記を所蔵する永青文庫の川口恭子氏の記事が載っていた。
それによると沼田家記は二部構成になっていて、一部は延元について、二部は延之についての書だという。
そして沼田家記第一部の奥書には「寛文十二年九月日」と書いてあるそうだ。
寛文十二年という数字の根拠はあっさり見つかった。
引き続き元禄二年の根拠を探そうと思う。けど、これは難航しそうだなあ。 >>560
お、そっちだった。
ご指摘ありがとうございます >>138
十年も前の書き込みにレスするのもアレだけど、美作の宮本村は武蔵の死後にできたから、平田武仁は多分実在しない。
ただ、自分も無二は二人いたのではないかと思う。
無二が二人というのも変な話ではあるが。
武蔵は一時期、「宮本無二斎」あるいは「宮本無二之助」を名乗っていたのではあるまいか。 天正年間に死んだ新免無二
百年以上戦って天正八年に死んだ平田武仁
慶長二、三年に当理流の免許状を書いた宮本無二助/無二斎
慶長六、七年に黒田家に仕官していた新目無二
慶長十八年に木下延俊の御咄衆&兵法指南をしていた無二
どの無二が武蔵だと辻褄が合うかと言ったら年齢的にも状況的にも慶長十八年くらいのしか無いんじゃないの >>566
おお。まさかこんな放置されっぱなしのスレにすぐにレスがあるとは思わなかった。
木下延俊の日記にある無二を武蔵のこととすべきかはまだ慎重であった方がいいと思う。
黒田家に仕官していたという新目無二は、黒田家の分限帳の記載からだけども、分限帳は写本しかなくて後世伝承が混入されているようなので信頼性には疑問がある。
当理流の宮本無二之助については、現存の当理流伝書はみな筆跡が違う上に記名も微妙に異なるし、時代的に使われていないだろう季語もあるので、やはりそのまま信じるのは難しい。
そもそも当理流というのは宮本武蔵の弟子の塩田松斎が、武蔵より無二の流儀を学んで創始したと松斎の顕彰碑にあり、顕彰碑は野田一渓が伝書などを読んで当理流を再興し、塩田流を造ったことが書かれている。
そのことを考えると、当理流伝書は後世の造作じゃろなあ。
平田武仁は論外。
まあ武蔵が無二を名乗っていたのかはまだ要検証事例ではあるんだけども、無二流、あるいは新免無二流、無二も弟子の流派とも考えられている鉄人流…の分布が、なんか二天一流の分布とちょっと重なるのが気になっている。
塩田の顕彰碑にもあるけど、武蔵は無二の流派を教えていたという伝承があるわけで…。
武蔵の無二流の弟子というのがいて、話をややこしくしているのではないかあって気がする。 >後世伝承が混入されているようなので
具体的にどういった後世伝承が混入されていると確認されるんだろうか? >>568
無二関係の記載は幾つかあるけど、慶長六年正月中津より筑前江御打入之節諸給人分限帳には
新免無二に、「武州師父」とある。
これは武蔵先生の父という意味で、慶長六年というと武蔵は十八歳。いくらなんでも、その当時から武蔵が先生と呼ばれる凄い兵法者であったとは考えにくい。
というか、武州というのは筑前系二天一流の用語みたいね。
新免無二の名前がまずあって、そこに二天一流関係者が書き込んだ可能性はあるけども、この時点で写本が弄られているというのは間違いない。
現存の分限帳は転写を繰り返されて、明治になってまとめられたものだから仕方ないっていえば仕方ないんだけど…。 慶長年中士中寺社知行書附だとこれだけじゃないかな
一、百石
古御譜代
新目無二
一真、播磨人
こちらには何か後世の伝承が混入されているんだろうか >>570
慶長年中士中寺社知行書附の方は新免無二になってない?
新目無二は慶長七年諸役人知行割同九年知行書附の方だったかと。
他に新免伊賀守を新目伊賀という書き方もしているし、「新目」は分限帳特有かは知らんが多い誤記だよね。
「新目」は「新免」の転訛だろうけど、18世紀の本で「新免」を「にいみ」とルビを振っている例がある。
そこから「にいみ」→「新目」になったのではないかという類推しているところもあるね
無二に「一真」と諱をいれるのは円明実手流系譜の「宮本無二之助一真」が最初らしい。
そこからあちこちに「宮本/新免無二◯◯一真」の表記が広がったものと考えられるとか。
いずれ新免を新目に誤記をしてしまうあたりで、かなり資料としては辛い。 >>569
長岡寄之の宮本伊織宛書状案に「御同名武州、熊本より程近き在郷へ御引き込み候いて居られ候」とあるから
「武州」という敬称は武蔵存命中には肥後で使われていた。
それが筑前の黒田家中で使われるようになったのは柴任美矩が黒田家に仕官して二天一流を伝えた後だろうから、
件の分限帳は最低でも柴任仕官の年である万治三年(1660)以後の書写ということになるか。 天下無双は吉川英治とバガボンドが98%創ってる事を知るべき
歴史捏造はどこかの国だけで十分 >>573
それはさすがにお前が武蔵のことを知らなすぎるだけだよ… 吉川武蔵が書かれるきっかけは作家たちの武蔵強弱論争だけど
それは武蔵がその時点での有名人じゃなかったら起こりようがない論争なのにな
こういうスレに来る人間で吉川以前からフィクションに取り上げられる人気者だったことを
今時知らないヤツがいるんだろうか? 一次史料で武蔵を天下無双と評したものはないけれど二次資料であれば江戸時代からあるわな
『地誌 播磨鑑』
其後、伊織十六歳の時、赤石の御城主小笠原右近侯に、宮本武藏と云天下無双の兵術者を召抱へられ、客分にておはせしが
長岡房成『刀法録』
円明流の祖新免玄信も亦巡方してその地の剣客と試合す。
既に無双の剣なり。名、後世に高し。この人、教えるに直道を以ってす。
『尾張公徳川氏系譜』
天下無双の達人宮本武蔵至る。卿これが武芸を見ていわく、凡骨に非ず、妙神に入る。
これに仕を勧む、肯かず、客遇し、留まる三年。 つか吉川英治やバガボンドの武蔵ってあまり天下無双という感じがしないんだが
明らかに上泉や胤栄、石舟斎、一刀斎達の方が格上の描写だし 宮本武蔵非名人説の論争のきっかけは、確か斎藤茂吉だっけか。
洋行の行きか帰りか、巌流島に立ち寄ったら、茂吉のイメージとは違う、策略を使って小次郎を陥れて勝った武蔵の話が書かれてる。
それに憤った斎藤茂吉は武蔵を批判する文書を書いて、小次郎を哀れむ歌を詠んだ。
「わが心いたく悲しみこの島に命おとしし人をしぞおもふ」
それで菊池寛と論争してたところに直木三十五が割り込んで、吉川英治が絡んで…という流れだったかな。
斎藤茂吉が憤ったのは、武蔵に対して講談なんかの仇討ちをする武蔵のイメージが否定されたからだったか。
吉川英治も武蔵を書くといった時は編集に「なんで今さら武蔵なんか」と言われたくらいなので、まあ講談なんかでの有名人ではあったらしい。 晩年の勝海舟の談話録である『氷川清話』の中に武蔵への言及があって、
武蔵は大悟して後は丸腰でいても隙が無く、弟子が不意に打ちかかっても軽くいなしてしまった、
みたいな逸話が載ってる。この話の出典は不明。
武蔵が有名だったのは講談のヒーローであったというだけではなく、このような逸話やら伝説やらが
今知られているよりも昔はもっとあったからなのではなかろうか。 本朝武芸小伝なんかでも言及されているしね。
千葉周作も武蔵は二刀流は実戦では使わなかった、みたいに考証?しているし、やはり剣術関係者にはビッグネームだったんだろう。
一応いっとくと、勝海舟も直心影流の使い手で、男谷信友とも親戚。 武蔵対小次郎の巌流島の戦いの真相を、ウィキで調べた知識と勝手な妄想を混ぜてストーリーを考えたんだけど、書いてもいいかな
ちなみに歴史は苦手で正確に資料の調査もしてないから完全にフィクション
この戦いに関するいろんな説もちゃんとチェックしてないからもしかしたらありがちな妄想かもしれないけど
しかもめちゃ長文 そういうのは別のところでやってくれ
創作関係の板はあるだろ はい
とりあえず立ってるスレは無さそうだかし、スレ立てするほどでもないし消えます 巌流島の決闘の真相、というのは『漂流巌流島』でもネタにされていたが、
戦前の鷲尾雨工も小次郎の正体とは何かを論じさせる短編を書いてるね。 映画で見たいんだけど、どれが一番傑作と言われてるの? ☆ 日本人の婚姻数と出生数を増やしましょう。そのためには、公的年金と生活保護
を段階的に廃止して、満18歳以上の日本人全員に支給する、『ベーシックインカム』
の導入は必須です。月額約70000円位ならば、廃止すれば財源的には可能です。
ベーシックインカム、でぜひググってみてください。お願い致します。♪♪ まことは、考えていることが、スグにわかる
反応がわかりやすいからである >>49
それだけ首とっても徳川には雇ってもらえなかったんだ >>590
そんな十年以上前の与太にレスつけんでもw
武蔵が猟官活動していたという証拠はない。
していたかもしれないし、していなかったかもな。
個人的にはしていなかったと思う。
卜伝や上泉、一刀斎なんかも、一時期所属しても基本的に移動していたみたいだしな。
そういう、各地で弘流していく古い世代の兵法者のスタイルを踏襲してたんじゃないか。 大坂の陣の水野、姫路本多、豊前小笠原、肥後細川等徳川親藩の有力大名の元で
客分、客将としての暮らしはしたけど「徳川に雇ってもらう」なんて運動したことあったっけ? >>593
そういうイメージだけの話はもういらないから
何がしかの史料に基づいた具体的な情報を語って欲しい 武蔵が猟官活動をしていたという話の元ネタは、武州伝来記だろ。
それでは武蔵は将軍に召し抱えられそうになるが、柳生がいるし、その下風に立ちたくないからと断るんだ。
自分は仕官の望みを抱いたことはないし、姿も法外だからと。
兵法御覧の沙汰もあったが、将軍様は柳生を尊敬しているし自分の兵法見せても仕方ないやろと断った。
柳生も特に推挙はしなかったそうだ、とかある。
恐らくここらの話が戦後くらいから歪んだんじゃないかな。 細川家とつながったのはいつからなのか
そこが争点なんだよ 武蔵と細川家の関係?
元々、武蔵は水野家やら本多家やら小笠原家やら有馬家に謎の人脈があるからな…。
ここらの大名は外戚関係があるとか聞くがよく知らないな。その伝手がふつたものかもだが。
けど確か、武蔵が熊本に行ったのは長岡佐渡相手の書簡があって、用事があってきたから挨拶しときます
くらいのものだったと記憶している。
それで細川家から接待されたんじゃないかな。
武蔵当人はただの隠居の爺さんだけど。
徳川家の親戚で、九州の大名の監視役のように配置された小笠原家の筆頭家老・宮本伊織の義父だもの。
そりゃ細川家だって丁寧に対応するのが当たり前というか…。 武蔵と細川家の関係?
元々、武蔵は水野家やら本多家やら小笠原家やら有馬家に謎の人脈があるからな…。
ここらの大名は外戚関係があるとか聞くがよく知らないな。その伝手がふつたものかもだが。
けど確か、武蔵が熊本に行ったのは長岡佐渡相手の書簡があって、用事があってきたから挨拶しときます
くらいのものだったと記憶している。
それで細川家から接待されたんじゃないかな。
武蔵当人はただの隠居の爺さんだけど。
徳川家の親戚で、九州の大名の監視役のように配置された小笠原家の筆頭家老・宮本伊織の義父だもの。
そりゃ細川家だって丁寧に対応するのが当たり前というか…。 あ、なんかミスって二重書き込みしてしまった。失礼。 >元々、武蔵は水野家やら本多家やら小笠原家やら有馬家に謎の人脈があるからな…。
謎のというか水野勝成は武蔵の弟子になってるだろ 山田真竜軒との対決の漫談、途中までしかしらない。
結末を教えて。 >>601
水野勝成が武蔵の弟子ってのは、円明流に伝わる伝書だったっけか。
宮本武蔵義軽名義で発行されてたやつ…あれ本物かね?
そもそもどういう経緯で武蔵と勝成が関わったのかがよくわからん…。
大阪の陣の時に兵を募集して、その中に武蔵がいたというだけの話かもだが。 >大阪の陣の時に兵を募集して、その中に武蔵がいたというだけの話かもだが
その他大勢の扱いとして水野家の史料に登場するならそうかもしれないな
でもそうだったっけ? >>604
大坂御陣御人数附覚というのがある。
これによると、武蔵は水野勝成の御供騎馬武者二百三十人の中の一人として名前が載っているそうだ。
これがその他大勢の扱いだったかどうかは解らない。
福田正秀先生の記事のコピペだが
ttps://mizunoclan.exblog.jp/14496991/
《総御供騎馬二百三十騎、総御人数三千二百人之由》となっている。
士(さむらい)大将は中山外記、そして御供騎馬武者二百三十人の中
「作州様附」十人の四番目に宮本武蔵の名前があった。
作州様とは勝成の嫡男、美作守勝重(のち勝俊)のことである。
(略)武蔵の立場は当初陣場借りかとも考えたが、
勝重付十人のうち二人までは名前の上に「牢人にて出陣」との但し書きがある。
武蔵にはそれがないということは、仕官を求めての陣場借りとも思えない。
この頃すでに六十余度の勝負に勝ち、天下無双の剣豪として高名であった武蔵は、
その気になればいくらでも仕官が出来たはず。水野家では遊遇の名士、
勝成の御客分としての身分で、後の島原の陣での小笠原家同様、
若殿勝重の身を守る護衛の任を特に勝成から頼まれたものであろう。
いわば客将と見るのが正しいと思う
…とあるが、順序は逆で、武蔵が大阪の陣で活躍したから世間に知られたのかもしれない。
当時の価値観だと、兵法(剣術)勝負の勝ち負けなんぞ大名連中はたいした評価はしなかったと思う。
まあそれだと、武蔵が勝成に優遇されているっぽい理由は解らんけど。 >若殿勝重の身を守る護衛の任を特に勝成から頼まれたものであろう。
>いわば客将と見るのが正しいと思う
これがその他大勢のやることなのかあ
こんな重要なことをその他大勢にやらせるってことは
よほど人材がいなかったってことなんだろうな
普通は主君の兵法師範を務める人間とかがやることだよなあ
たとえば水野勝成を弟子にして信頼を勝ち得ている「宮本武蔵義軽」なんかが
やればよかったのでは? 宮本武蔵義軽名義の伝書は、正直偽書くさいが、元になる伝承なりがあったんだろう…というのが妥当なところかな。
なんらかの師弟関係か、それに準ずるものがあったと考えるのは自然ではある。
とはいえ、武蔵は伝承の範囲からしても明石在住していたようだし、水野家との関わりはどうにも見えにくい。
大阪の陣の前の水野勝成は刈谷にいたんだっけ。ちょっと遠いな…。 宮本武蔵義軽名義の伝書は、正直偽書くさいが、元になる伝承なりがあったんだろう…というのが妥当なところかな。
なんらかの師弟関係か、それに準ずるものがあったと考えるのは自然ではある。
とはいえ、武蔵は伝承の範囲からしても明石在住していたようだし、水野家との関わりはどうにも見えにくい。
大阪の陣の前の水野勝成は刈谷にいたんだっけ。ちょっと遠いな…。 あら。また二重書き込みしちまった…どうにも最近の仕様には慣れないなあ どの辺が偽書臭いんだろう
義軽名義の文書に見られる活動と反する内容の別の信頼性の高い同時代史料があるとかならともかく
伝承の方を無批判に優先するってのも凄いよな 武蔵についての関係文書は、私信なら「宮本武蔵」はあるけども、五輪書や小倉碑文など
そういうのだと「新免武蔵(守)藤原玄信」なんだよ。
他にも「新免玄信」があるけども、武蔵の正式な名乗りは「新免」だったのは間違いない。
熊本でも武蔵の弟子筋から「新免」を再興させるべく誰それに名乗らせた、みたいな話が二例でてくる。
どうも宮本は後から名乗ることになったものらしい。それは伊織の遺した棟札にも書いてある。
なんで宮本と名乗ったりしだしたかの理由は解らないが、通称として使用していたのが妥当だと考える。
だからまあ、「宮本武蔵守藤原義経」あるいは「宮本武蔵守義軽」みたいな署名の伝書はかなり怪しい。
というか、この「義軽」というのが当時としてはかなり怪しい名前であると、綿谷雪先生は兵道鏡について当時から述べていた。
多分、「義経」の写し崩れではないかという話なんだが、森田栄先生はこれに反論して、義軽名義はあり得るとして
綿谷先生が死んでから30年くらいして…何年か前に反論の本書いてたな。 大坂御陣御人数附覚は1650年代前半の写本だから、原本でもそうだったかは解らん。
もちっと上の方でも書かれているが、黒田分限帳なんかでも後世写本には伝承を反映したと思しき書き込みがされることがある。
その記述をそのまま受け取っていいものかは断言できない。 大坂御陣御人数附覚の内容は恐らく大まかには正しいと思うのは、武蔵はその後、
水野の家臣の中川志摩之助から三木之助、九郎太夫の二人を養子にとっているから。
なんの縁もなしに、養子縁組をするとは考えにくい。
とりあえず水野勝成宛の伝書は、改めて調べたけども慶長十三年発行…水野勝成44歳、武蔵25歳か…。
年の差は師弟関係としてありえなくはないけども、武蔵は若すぎないか?
あと勝成宛の伝書が兵道鏡として転写されているものの一つなのだけども、この兵道鏡は何種か
同様の内容のものがあって、しかもほぼ同内容の伝書が18世紀に円明流の脇坂によって発行されている。
脇坂の伝書、兵法教之巻とかいうそうだ。他にも円明流奥義書とか、類似内容の文書があるんだとか。
これらが武蔵の兵道鏡から抜粋して発行したと考えてもいいけど、箔をつけるという意味からすれば、
最初から全部、武蔵より相伝されし云々と兵道鏡と名付けて伝授しただろうと思う。
…とかここらは某所の記述のほぼそのまんまの要約だから自分の考えたみたいに書くのはアレだが、
水野勝成が武蔵の弟子だったとかいう話は、それこそ水野家の方に記録がなければおかしい話だが、
ぶっちゃけこの兵道鏡以外には調べてもでてこない。
現状、水野勝成と武蔵の関わりから18世紀以降に誰かが円明流の伝書を改変して創作した可能性が高いと思っている。 そういえば、播磨武蔵研究会、ジオシティーズだから三月にはたぶんなくなるよ。
主宰死んだそうだし、消えたら復活はないだろうな。 >>614
誰かの受け売りっぽいと思ったら案の定かよ
結局あんた自分で判断してないんだな
ちゃんと史料の内容確認してるのかとか聞くのがバカらしくなってきた >>616
入手できる資料は検討したんだよ。
やや自信はないので書かなかったが、自説としても、兵道鏡にある真位之事の記述は
かなり怪しい。
これが二天一流にもない、対二刀の教えでな。
自分は歴史資料の研究はそっちの研究者の方々にまかせて、実技方面と現在の伝承から
検討しているんだが、武蔵が対二刀技法を初期に完成させているのなら、晩年の二天一流
にもなんらかの痕跡がないとおかしいが、これがまったくない。
取材できる範囲で幾人かの二天一流の指導者に伺ったが、対二刀はないんだ。
そういうものが兵道鏡にあるのはやはり不自然にすぎる。
武蔵より後代に研究と検討が重ねられて作られたものだと思う。
ただ、これは他の事情からやや整合がとれないので、得意げに説として掲げるには躊躇われた。
あと剣道史研究の森田栄先生の著書だと兵道鏡は武蔵の著書であるという主張で
こちらは武蔵の筆跡から『五方之太刀道』などと共通しているという話ではあるが、
この書は大倉隆二先生などは武蔵筆であることは否定的だったと記憶している。
付け加えると、播磨武蔵研究会さんは五輪書以前の兵法書を武蔵は発行していないという立場で
一貫しているが、それは五輪書に「初めて書いた」ようなことが書いてるのが論拠で、
これは個人的には結構危ういと思っている。 ここ数年、武蔵は二刀流は使っていない、今の二天一流で二刀を使用しているのは歌舞伎などで武蔵が二刀流で有名になったから
五輪書から適当に創作した…という話をあちこちで書き込んで広めようとしている人を見つけて困惑している >>462
>>459じゃないけど、柳生但馬守が松山主水を恐れて戦わなかったという記述は『綿考輯録』だな。
松山主水ハ戸田流の剣術名人にて色々語伝も有之、
中にも柳生但馬守殿御聞およひ候而忠利君に御噂ニ而、
御対面之時忠利君御所望ニよつて但馬守殿御立合有之候、
然処双方しなひを取て立向はれ候処、但馬守殿しなひを下ニ置、
主水との立合ハ御断ニ被及旨ニ而被差止候、
主水御次ニ罷立候跡に而、何故に御やめ候哉と忠利君御尋被成候得は、
主水儀しなひを取立向ひ候得は、両足畳より弐寸程すき申候、
常の事ニ而ハ無之と存御断申候、
但右之者遠からさるうち剣難の相見へ申候と被仰候由、
然に無恙御供ニ而罷下、其翌年庄林十兵衛ニきられ候と或人の咄也
…とある。
>>464の江戸期のとある流派の伝書のひとつ、とか書いてあるのは、多分、
孫引きでうろおぼえてたのでソースが出せなかったので適当なこと言って誤魔化したか
あるいは、伝書は実在して、それは綿考輯録のソース元と同じ文献から引いたのかもね。 宮本武蔵って、吉川英治が小説にする前にはどんな扱いだったのかね
今ほど神格化はされてないと思うんだけど 作家の間で宮本武蔵強弱論議が起こるくらいには有名だった 一般庶民は武蔵の存在を認識するくらいには知名度あったのかな?
武道家や武芸者、学者、研究者、作家ではなく
そこいらのオッさんとか こういうスレに来る人に江戸時代から芝居や講談にもよく登場することすら
知られてないってのは逆に意外だな
真田十勇士を作って有名にした子供向けの立川文庫にも武蔵を主人公にしたものがあるよ
当然吉川武蔵より前 そうなんだ
無名の剣客を小説の題材にして
そこで初めて有名になって
俄かに研究する人があらわれて
みたいなパターンかなと思ってたのよね
例えば坂本龍馬なんかが、そのパターンでしょ
武蔵もそのクチなのかなと >例えば坂本龍馬なんかが、そのパターンでしょ
坂本龍馬って昭和3年に桂浜に巨大銅像が建てられた坂本龍馬のこと?
あれってそれ以前の小説家が題材にしたから作られたものだったの? 地元の郷土史家は偏った論文書くから学会では忌避される傾向がある
オラが村の英雄とかね
坂本龍馬もそのパターンで高知で騒がれてただけの人でしょ >>626
>無名の剣客を小説の題材にして
>そこで初めて有名になって
>俄かに研究する人があらわれて
>みたいなパターンかなと思ってたのよね
>例えば坂本龍馬なんかが、そのパターンでしょ
明治16年の「汗血千里駒」はそんなに影響力あったのか? まず地元の新聞であること
たびたび時事物の政治論争を混ぜ込んで連載中止させられてること
このあたりから現地でば大人気で、時事的な出来事も龍馬の考案にされて偉人賢人化に拍車がかかって
いまの俺たちの龍馬像になってる可能性が否定出来ない 吉川以前から武蔵が有名だった事も知らない無知な>>624は
司馬の竜馬がゆくあたりを頭において書いたんだろうけど
随分強引な流れになってきたなw 新撰組はどうだろうね
明治や大正期だと当人達がまだ生きているから
無名ってことはなさそうだけど 戦艦大和も宇宙戦艦ヤマトがヒットするまでは
一部の軍オタしか知らなかった 梶原一騎も一部の軍オタなんだな
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E6%88%A6%E8%89%A6%E5%A4%A7%E5%92%8C
>『新戦艦大和』(しんせんかんやまと)は、梶原一騎による絵物語、漫画。
>絵物語版は、1961年に吉田郁也の絵で「日の丸」に掲載された。漫画版は、「少年画報」の1963年7月号から1964年3月号まで連載された。作画は団鉄也。
>艦長の沖田とその息子2人が新戦艦大和でキラー博士と戦うという物語。アニメ『宇宙戦艦ヤマト』の10年以上前に「戦艦大和が空を飛ぶ」アイデアを出した先駆的作品である。
>新戦艦大和は潜水も可能となっている。 >>632
新選組も戦前からある程度知名度はあったと思う。
大菩薩峠だとか鞍馬天狗だとかにも出てくるし。
どういう扱いをしていたのかは知らないけども、
三田村鳶魚の「話に聞いた新選組」というエッセイを読むと
いずれにも人を沢山斬ったなどというと、剣術の腕前の凄じいように思うものもありましょうが、
彼の剣道は決して立派なものではない。私の祖父は剣術が好きでありまして、
近藤とも立ち合ったことがあるといって、よく近藤の剣術の話をしました。
ナニあれは強くはない、しかしいかにも粘った剣術であった、三本に一本は取れる、
と申しておりました。私の祖父なるものは、びっくり仰天するだけの人間であって、
真剣なんぞを持って斬り合うなんていう肚胸のある人間ではありませんから、
何のお話もないが、竹刀を持って立ち合ってみても、その人の根性が出ないことはありません。
私の大伯父になります谷合量平というものがございまして、
それも近藤の剣術の話を致しましたが、やはり祖父が申すのと違っておりません。
先日新徴組の一人でありました千葉弥一郎さんから承りますのに、
近藤の剣術はさまでのものじゃない、ということを言っておられました。
そういうふうでありますから、近藤が剣術の道場を持っておったなどという話は、
私は聞いていない。とても剣道の指南などをするほどの腕前があった人ではないのであります
…と書いてある。
青空文庫にあるけども、発表の日付が子母澤寛が新選組関係本を出した二年くらい後だから
多分そこらを意識して書いたものだと思う。
三田村鳶魚は時代小説だとかそういうのに噛み付いてた人で、だけど彼にして天然理心流など当時は知らなかったのだろう。
あと、もしかしたら戦後の小説で近藤勇の剣術が大したことがない、三本に一本はとれたみたいな言説はここらに端を発してるかもしれない。
なにせ割と最近まで、三田村鳶魚全集読んでたら時代小説は書けるって言われたくらいに影響力はあったからね
だからまあ、子母澤寛までは新選組は知られていたけど、割と半端だった…くらいの認識でいいと思う。
あと子母澤寛もかなり適当に虚偽とか混ぜていることは近年の研究で知られているという話だが詳細は知らない。 >>636
あ、「話に聞いた近藤勇」だった。
タイトルミスったわ。
>>624
元々は斎藤茂吉が洋行のついでに立ち寄った巌流島に建てられた顕彰碑かなんか読んだら
それが講談のヒーローだった武蔵と違い、わざと遅れたりして戦ったという卑怯な振る舞い
をしているということにショックを受け、小次郎を哀れむためになんか建てたのが評判になって
菊池寛や吉川英治と武蔵は実はーという論争を引き起こし、そこに直木三十五が載ってきて
「武蔵非名人説」というのを出してまあまあ評判になって、吉川英治はそれに反論する形で
「宮本武蔵」を書き出した…という経緯がある。
そして「随筆宮本武蔵」によると、今更武蔵?と言われたそうだ。
だからまあ、吉川英治以前から創作物の題材になったり、議論の対象になる程度には
みんなには知られていた。 歌舞伎とか浄瑠璃の武蔵は佐々木厳流に仇打ちのために挑むなんて筋立てだから
そりゃ実像とはかけ離れてるよね