【木刀】宮本武蔵を語る【サイコー!】
>>98、>>100
巌流島の決闘に関しては、二天記やら沼田家記やら丹治峯均筆記やら江海風帆草で全然違うがね。
案外行きずりの武芸者同士の決闘程度のもんだったんじゃねえの?
第一、小倉藩の公式な試合だったら、九州より本州に近い島をわざわざ決闘場所にするかね? 武蔵が巌流島で使用した武器は木刀ではなく棒。
だから小次郎に剣術で勝ったとは言わない。 一刀斎が実在してるかも分からんのに比較なんてできん サイコーサイコーサイコーサイコーサイコーサイコーサイコー 直木三十五先生曰く「上泉信綱のほうが偉い」だそうだw バガの夢想権乃助は、ちゃんと武蔵と戦うまでに成長するんだろうか・・・
ていうか再登場するのだろうか。
一応夢想流杖術の開祖なのにな 武蔵が渡来人ってのは新しいな。
何で渡来人だと思ったん? 理由は勝つためにはなんでもすることと、大男ってだけなんだけどね 長文ですまんな。
二天流の継承者の書いた記録はマンセーばっか。
(『小倉碑文』『武州傳来記』『武公傳』『二天記』『兵法先師伝記』なんか)
要するに亀田一家で亀田興毅の試合の記録を書いてるようなもんな。
逆に他人の記録ををみると武蔵が巌流と交わした武士同士の約束を破って多く
の弟子を引き連れ加勢させたという記録が多い。
『西遊雑記』なんかに記録されてる地元の民間伝承や『本朝武芸小伝』にある
中村守和が語る話もそうだし。
だいたい当時の武蔵の使う武道は新免無二の当理流ベースだから
弟子達が手裏剣術とか、小具足のヒモとかで、遠くからわかんねーように
巌流の動きを封じてったんだろーよ。
更に昭和後期に見つかった『沼田家記』の試合後の記録な。
卑怯な行動に怒った巌流の弟子達に追われて必死で逃げて、沼田のおっさんに
助けてって匿って頼んで城に匿ってもらって
更には鉄砲隊で警護してパパ(無二)のとこまで送って貰うんだぜ。
★どう考えてもフツーの一浪人への待遇じゃないよな。
調べてみるとそもそも沼田延元って細川忠興の従兄弟で、新免無二は細川家に
弟子がものすご多いんだよ。要は親戚の師範のワルガキを匿ったようなものな。
沼田家記の表現もあんまし身内の武蔵の事を悪く書けず微妙に抑え気味な表現
なんだが、それでも奴の卑怯さは伝わる。
★もともと武蔵と巌流で小倉の師範としてどっちが優秀かって決闘だったけど
勝ったあと、小倉から逃げ出してパパの住んでるとこに行くんだぜ。
小倉で師範できなかったんだよ。
みんなが卑怯さにあきれかえって白けてもう小倉に居場所がなくなったって事な。
『桜庭を、ヌルヌル作戦で破って殺した秋山』みたいなもんで
強い武蔵すっげー!マンセー!ムードなど出るはずなかったのはわかるよ
地元には試合後百数十年も「巌流は負けたけど侍の誉れ!」的伝承が残ってるし
だいたいついた島の名前も武蔵島とか新免島ではなくって、
わざわざ 「 巌 流 島 」 だぜ。
何をかいわんやだよ。 >>98
>>19
藩士だから武蔵の弟子でないなんて決めるのはおかしい。
1605年くらいに関ヶ原の論功で移封して
当時細川忠興が小倉を治めるようになったとこだよな。
そもそも無二って前から細川藩に弟子一杯いるから
藩士は無二の弟子じゃねーのかな。
http://homepage3.nifty.com/ganryu/musashi/munimen.htm
まあこれは偽書かもしれないけど。
そうでなければ本当に「沼田家記」の通り
武蔵が小倉で教えていた藩士か。
で、その卑怯モンの武蔵さんの紹介で出仕した伊織が筆頭家老になってたり、
明石の町割りに参画して城や寺院の作庭を行ったり、
細川家に客分として迎えられてかなり良い待遇受けたりしてる件については?
本当に卑怯な試合やってたんだったら、こんな風に色々な大名との接点生まれるかね?
あとね
>地元には試合後百数十年も「巌流は負けたけど侍の誉れ!」的伝承が残ってるし
百数十年伝わったから「巌流は負けたけど侍の誉れ!」的伝承に変形してったんじゃないの。
巌流島も同じく、地元の判官びいきのあらわれだと思うけど。 >119
晩年の細川の客分評価はその後の各地での活躍だろ
巌流島直後細川藩じゃほとぼり冷めるまで使ってくんないから
大坂の役んとき広島の水野勝成んとこに行って大活躍したんだろ。
そのあと姫路だっけ。
今みたいに情報網発達してないから、あっちなら小倉なんてローカルエリアの情報より、どっちかいうと京都側から入ってくる評価のほうで雇ってくれるだろうしな。
小笠原行った伊織は伊織でまた活躍してる評価されてるしさ。
小倉に宮本が戻れたのは移封でとのさんが小笠原に変わって以降
>地元の判官びいきのあらわれだと思うけど。
,j;;;;;j,. ---一、 ` ―--‐、_ l;;;;;;
{;;;;;;ゝ T辷iフ i f'辷jァ !i;;;;;
ヾ;;;ハ ノ .::!lリ;;r゙ そんなふうに考えていた時期が
`Z;i 〈.,_..,. ノ;;;;;;;;> 俺にもありました
,;ぇハ、 、_,.ー-、_',. ,f゙: Y;;f
~''戈ヽ `二´ r'´:::. `!
判官びいきじゃ「沼田家記」の説明がつかんのでは。
まあ「沼田家記」が地元の伝説とりこんだうそっぱちの出鱈目文書ならばわかるけど。
巌流島・武蔵英雄伝説ってのは小倉碑文を元にした二天流継承者による身内ルートしか残ってない。
(江戸時代のエンタテイメント系は論外な)
それに対し、巌流島・武蔵卑怯者伝説は、地元伝承と細川藩士沼田家公式文書の2ルートで残ってる。
だから後者に説得力を感じる。
>沼田家記
伊織の奉納した棟札との矛盾がある(棟札のほうでは無二は既に死んでる)し、
巌流島の決闘についての記事は民間伝承が混じりこんでるんじゃないの。
慶長年間の無二についての史料も後世編纂された分限帳、名前がてんでバラバラの免許、
無二としか書かれてない慶長日記だから、棟札を否定するに足る代物だとは思えないし。 泊神社棟札が100%真実で天正年間に無二が亡くなっていたなら
関が原の時黒田家家臣になってた記録の残る無二は何者なのかという話もある。
「武州傳来記」も100%ウソになる(武蔵を勘当できないしね)
ついでに『武公傳』『二天記』『兵法先師伝記』も全滅で、武蔵英雄伝説を書いた文書は崩壊。
まあそれぞれの文書の無二の記述だけウソで巌流島武蔵英雄伝説だけは真実だ!
と主張はできるかもしれないけど、ご都合主義すぎて説得力がない。
もうひとつ慶長日記は単独では評価できない
平姓杉原氏御系図附言の延俊の項「剣術は宮本無二斎の流派を伝たまふ」ってのがある。
まあでもこの「無二斎」は実は「無三四」だったって説もあるけど。
書き忘れ
泊神社棟札を信頼すると「小倉碑文」もウソになる。もしかすると矛盾しないかもと思って読んでたけど、
父・新免、無二と号し、十手の家を爲す。武藏、家業を受け、朝鑚暮研、思惟考索して、灼に知れり、十手の利は一刀に倍すること甚だ以て夥しきと 。
新免死んでたら、武蔵に十手を教えられないっす。
関ヶ原の時の黒田家の家臣云々は分限帳のだろ?それは上記のレスに書いたとおり後世のもの。
平姓杉原氏御系図附言も宝暦元年で随分と時代の下ったものだから、棟札のほうに軍配が上がると思う。
棟札は年代だけでなく、養子の伊織によるものだから、そんな信用の置けないものだとは思えんが。
で、無二に関する記述が誤っているからといって丹治峯均筆記を始めとする伝記全てが正しくないとは言えんだろ。
丹治峯均でも武蔵の五代後だから、正しく伝わった内容と誤って伝わった内容が混じっていてもおかしくはない。
あと、俺も別に巌流島武蔵英雄伝説とやらが正しいとは思わん。
ただ。卑怯者伝説とやらも同じぐらい正しいとは思えないってだけ。
英雄か卑怯者かの二択ではなく、普通の武芸者兼それなりの知識人だったと俺は考えてる。 >>124
どこに無二から直に教わったと?
・父の新免は無二と号した
・新免十手の家をなした
・武蔵は新免家を継いだ
・武蔵はその術を研鑽した
・武蔵は十手は一刀より有利と知った
これ以上の情報はこの文中には含まれていないだろ。
これだけなら棟札との矛盾はないぞ。 平姓杉原氏御系図附言は、棟札より前の慶長18年日記の信頼性UPだけだよ。
ふたつ合わせると
少なくとも豊後の日出に、無二とか宮本無二斎とか呼ばれる人物がいて、細川忠興の義弟に剣術教えてたぞと。
巌流島が慶長17年なら、「沼田家記」にある武蔵を送った「豊後の無二」は多分こいつだろうと。それだけ。
ところで神社棟札の文ってそんなに信頼性高いんだっけ。
>正しく伝わった内容と誤って伝わった内容が混じっていてもおかしくはない。
うん、新免生存と武蔵英雄伝説、双方否定する外部文書があるわけで信頼性は同等だよな。
ただ身内ほめまくり文書はあんまし信用できんという個人的感覚。おいらのは。
ああわかったまあ無理やりだがそうも読めなくもないな。
弟子か伝書が残ってて、新免の技を教えるか勉強して貰って
家業を継いだと無理に読めばな。
しかし強引だな。 ていうか、やっぱ考えれば考えるほど強引すぎ
普通、無二が死んでから引き継いだって情報があったなら、小倉碑文にもそう書くだろ。
あの小倉碑文だけで自然に「無二が死んでいて 家業を受けた。」なんて理解できる人間いないぞ。
誰もそう読めないから『武州傳来記』『武公傳』『二天記』『兵法先師伝記』 に無二と武蔵の話があるんだろ。
なぜ『泊神社棟札』だけで『慶長18年日記』『沼田家記』『平姓杉原氏御系図附言』『武州傳来記』『武公傳』『二天記』『兵法先師伝記』
の全部を否定できるのかよくわからん。
というか棟札作ったとき伊織が事実誤認してただけじゃないの?
伊織は無二とは当然会ってない訳だし。
で、一年後碑文作るときには何らかの情報得て事実誤認がわかった。それだけじゃね?
家業を受けて朝に晩に研鑽したとしか書いてないんだから、父から教わったとも他から教わったとも断ぜられないだろう。
同じく伊織の奉納した棟札には、無二は天正の間に跡継ぎがなく死んだとあるから、父からは教わってないだろうと。
泊神社の棟札については、武蔵死後最初の資料で、後世のものよりはこちらの記述を採るべきだと思うのだが。 >>130
誰もあの碑文だけで「無二の死後に武蔵が新免家を継いだ」と書いてあるとは言ってない。
上に書いたように、神社の棟札と碑文合わせて考えればこうなる、って言ってるだけ。
で、誰も上記の史料全否定なんて言ってない。
無二については、棟札に載ってる説を採るべきだって言ってるの。 上の続き。
その上で、沼田家記の巌流島の記述は素直に肯定できないんじゃないかと。
巌流島については「武蔵と巌流が戦って武蔵が勝った」以上は断言しかねると俺は言いたいの。 まあウソや誤記が入っている可能性を考えて慎重にいくぞというなら
沼田家記も棟札も小倉碑文とそれ以降の身内マンセー文書も信頼できない。
それはわかる。それならわかる、すんげーわかる。
キャラへの感情移入・贔屓目は捨てて
「武蔵と巌流が戦って武蔵が勝った」という淡々とした情報だけが正しいって話だよな。
それは他の史料も伝説も全く否定はしていないよ。
沼田家記、下関伝説ともに「武蔵と巌流が戦って武蔵が勝った」話だ。
「巌流が勝った」なんて書いてないし伝わってない。
どう勝った、勝った後どうした、という話は付加されているが。
まあ俺らは所詮、数百年後の世界で残された情報の取捨選択し
そのシーンを想像して遊んでるだけだよ。
だから俺は淡々としてるとツマンネ。
いろいろ想像して考えて書くぞと。
それがこのスレの正しい姿だろ。 >>132
分かりにくくてすまん。130でかきたかったののは、仮に棟札の情報を信頼するなら
「無二と武蔵は生前に会っていない・武蔵が継いだときには無二は死んでた」
という家にとって重要な情報を、碑文に一切書いてないのが理解できないって話。
碑文と棟札が矛盾していないなんてのは言葉尻いじったこじつけにしか見えない。
政治家の強引な日本国憲法9条解釈でイラク派兵するみたいなもんで。
棟札と碑文は、碑文側に明確な無二死亡情報がない時点でズレてるんでね。
ってはなし。
…古いほうが信頼できるというなら、慶長18年日記は武蔵生前の史料では?
>>135
碑文自体は別に新免家云々を書くものでなく、武蔵個人の業績を称える目的のものなんだから、
新免家について突っ込んだ記述をしてないのは別に不自然だとは思わんが。
棟札のほうは、「私はこういう出自ですよ」と伊織の生家の田原家、養子に入った新免家を書いているから、
「武蔵という人は、嗣子なく死んだ新免家に養子に入って継ぎ、私もその武蔵の養子となって宮本家を継いだんですよ」
と無二の死亡情報を書いた。
碑文のほうの一文は、「武蔵の二刀のもとは十手にあったんですよ」ということを書くのが目的で、
別に武蔵の家の情報を書くのは目的じゃないんだから「父の無二の家業を受けて研鑽して、悟ったんですよ」
とだけ書き、死亡情報は書かなかったと。
慶長日記自体には、無二=武蔵の養父とは書いてないでしょ?
時代が下ってからの平姓杉原氏御系図附言から推察して無二=武蔵の養父だってのは首肯しかねると。
それに宮本姓も、武蔵の代からだと棟札にはあるから、
「免許もあるよ」と言ってる割には宮本無二斎と書いてるのも疑問。 あ、それと、色々想像して云々なら、個人的に思うのは、巌流島はかなり本州寄りの島で、
豊前の人間が出張ってく場所と思えないってのがあるんだよね。
だから、俺としては巌流が豊前の人間だったっていうものよりも、
長府の人間だったとしてる伝説のほうに個人的には説得力を感じる。 >136
棟札(家系紹介)と碑文(個人紹介)の目的差から情報に相違が生じたのではないかとの説はわかった。そうかもしれない
ただし碑文は武蔵個人の紹介だけど
「父・新免、無二と号し、十手の家〜中略〜十手を改めて二刀の家と爲す。」
ここのとこは武蔵の属する新免家の紹介では?
棟札のほうは、おそらく、宮本村の平田武二と混同したのではないかと個人的には思っている。天正8年に死んでるって記録もあるそうだし、
いろいろ読んでるとどうも、宮本村に天正年間に無くなった武二と、慶長まで生きてた無二の二人がいるように思えるんだよな。
>慶長日記自体には、無二=武蔵の養父とは書いてないでしょ?
百歩譲って、養父と確認はできないし新免ではないかもしれんが、それでも武蔵の生きている当時、慶長年間、豊後・日出城主に剣術を指南している「無二」なる武道家が豊後に居たという証拠にはなるよな。
だから、もしも棟札どおり武蔵の養父が死んでいたとて「沼田家記」の
「道を致警護無別条豊後へ送届武蔵無二斎と申者に相渡申候由に御座候」
これが誤りとはいえない。
つまり(親かどうかはわからんが)武蔵を警護して、(慶長日記にある)豊後の「無二斎」なる武道家のとこまで送ったってことだからね。
棟札は「沼田家記」を否定しないし、慶長日記は「沼田家記」の信頼性を上げている。
まあそうすると「平姓杉原氏御系図附言」のほうは、無二って名前から類推して「剣術は宮本無二斎の流派を伝たまふ」と書いたってことだな。
…ところで気になるのだけど、沼田家記、ネット上検索すると
1、「道を致警護無別条豊後へ送届武蔵無二斎と申者に相渡申候由に御座候」
2、「道を致警護無別条豊後へ送届武蔵親無二斎と申者に相渡申候由に御座候」
この2バージョンあるね。どっちが正しいんだろう。
もし1が正しいのであれば矛盾はない。
2であっても、身元引受人の武道家「無二」を沼田側が勝手に親だと勘違いしただけと解釈もできる。
沼田延元の慶長時代の手記を沼田家記に編集するときに「親」と足したのかもしれんよね。
なんせ編集時にはもう「小倉碑文」経由で武蔵の親は無二っていう情報があるんだから。
>長府の人間だったとしてる伝説のほうに個人的には説得力を感じる。
http://maps.google.co.jp/maps?f=q&hl=ja&layer=&ie=UTF8&z=14&ll=33.934815,130.933428&spn=0.030194,0.086517
なるほど、昔と今で地形変わっているかもしれんけど、
門司側から1km余だけど、彦島側からなら300mくらいか。
確かにここの海流がはやければ門司側から渡るのは面倒そうだな。
>137
>139
距離の問題ではなく海流、逆らえば少しの距離でも必死だし、乗れば長距離も楽
下関近辺は海流が一日に数回変わる
海流の状態が良ければ小倉からでも比較的楽に彦島&巌流島に行ける
武蔵が巌流島から門司へ逃げる場合も同様
それから今の巌流島は埋め立てで当時の数倍の面積になっているから今の地図
をみても参考にしかならん 小倉碑文にツッコミ。
二刀兵法の元祖と為るなり。
=>ウソばっか
十手の利は一刀に倍すること甚だ以て夥しきを灼知す。
=>五輪書と矛盾するだろ。伊織は理解してないのか。
…伊織、武蔵と生前ちゃんと会話してるか?
ウソかホントかわからんテキトーな昔の自慢話ばっか聞かされた系だろ。
或ひは真剣を飛ばし、或ひは木戟を投げ、北る者、走る者、逃避する能はず。
=>当理流には手裏剣技あるからわからんでもないけどさ
其の勢、恰も強弩を発するが如し。百発百中、養由も斯れに踰ゆる無し。
=>荒唐無稽の創作しすぎ
新当流有馬喜兵衛なる者
大力量の兵術の人、秋山
=>ふたつとも他に史料がないヨタ話。
扶桑第一の兵術、吉岡なる者有り。
=>吉岡側にも吉岡伝があるから本当に試合はしたんだろうな。
でも相互に相手の記述が同レベルのウソっぽさ。
「清十郎」「伝七郎」「又七郎」どこの誰だよそれ
「松平忠直の家臣・奥羽の無敵流・宮本武蔵」どこの誰だよそれ
吉岡伝を荒唐無稽っつー奴がいるが碑文も五十歩百歩。両方とも身内ぼめだしな。
まあどっちが勝ったかわかったもんじゃないな。
洛外下り松の百人相手はありえない。他の史料にないし、荒唐無稽な創作だろ。
吉岡滅んでないし。
新免無二をして日下無双兵法術者の号を賜ふ。
=>そんな記録ほかにあるのか?
爰に兵術の達人、岩流と名のる有り。
=>小倉・引島近辺に伝承もあるし、沼田家記もあるからまあ決闘はしたし勝ったんだろ。
でもなぜ碑文以外の伝承・記録は武蔵卑怯者なんだろうね。
事実細川藩はその後師範としてないし、よっぽどひでー決闘だったんだろうよ。
勝てばいいという系ってなら…「五輪書」とは矛盾しないけどね。
あれか、要は地元の武蔵卑怯者伝説を消したいから碑文立てたのか。
十三より壮年迄、兵術勝負六十余場、一つも勝たざる無し。
=>証拠のない妄言。つうか自慢話を真に受けすぎだって伊織。
且つ定めて云く、敵の眉八字の間を打たざれば勝ちを取らずと。毎に其の的を違はず。
=>五輪書にそんな事書いてないよ。
>103
あそこはかなり海流があるから距離だけじゃ計れない
それなりの広さがあって逃げにくく、他人の迷惑のかからない場所ならどこでも良かったのでは
>>142
吉岡道場って滅んでないのか、あんなにボコボコにされたのに。
バカボンド読んだだけだけど。 歴史認識でいったら
吉川もろくなもんじゃねーだろ
勝手にストーカー女足すし。 >137
>139
幅1.5`bの海峡で本州寄りったってせいぜい数百メートルじゃん
これが10`bも差があるなら137にも説得力があるんだが バガボンド面白いじゃん
絵ばかりで10分で1巻終わるがw バガボンドに又七郎はいないんだね、つか植田って誰だよ。
>142
新当流有馬喜兵衛なる者
大力量の兵術の人、秋山
=>ふたつとも他に史料がないヨタ話。
五輪書にあるが バガボンド→○
バカボンド→×
剣だけで生きた武蔵が、晩年になると書などだけとは…。
仮説だが、本当の武蔵は肥後に入る前に既に亡くなってて、別人が入れ替わったかも? バガボンドの小次郎
かわゆい
(*´Д`)ハァハァ _ ,. - '' "~ ~’ ー- 、
. ,. ´ _,, . -‐ '' ~ ニニ= 、
/ ,r'" _ ,. -‐ '" ヽ. うぐぅ
,' /,- '~/ 、 ; . ヽ.ヽ.ヽ
. { i { {./ / ノ'i .i ! }i !i }. }i. }
} /^{. {r 'ソ_ }.ノ }ノ },ノ_}ノ,ノ i}ノ 兵仗弓箭で武装した
. / .ノi (.ヽ ヽ O O }V {. 数百人の武人集団と
, ー-{ {. {`i-'ヽ. ヽ.o o ノ、._ \ 闘って生き残るのも
\_ ヽゝ_ヽ.ヽ_.ヽ. ヽ./ ̄~`i' ̄\i /`;ノ 奇跡だよね。
> {イiニ=. `_/ i^ ) (^i h-'}.
く__ ゝ ` [^` ー -‐']'` ー '〈 /
~) ヽ. ,.i` ー -‐ フ[.` ー ' .!
"ー‐e〉ヽ._ /oi /
. { ` ー -‐ ' o ` ー 'i、
. 〉、 ,、. ` ー- , ★★★ああ残忍!戦時中、アジアで最も嫌われたのは朝鮮人だった!★★★
■ある医師の述懐 『キヤンガン、山下将軍降伏の地』
フィリピン人「日本の占領下で最も残虐だったのはコリアンだった。赤ん坊を投げて銃剣でうけたのも彼らだった。皆がそう信じている。」
http://www.net-ric.com/advocacy/datums/95_10irohira.html
■当時の中国人が描いた漫画 「日本の軍旗を振り回す朝鮮人が中国人を殺す!」
http://photoimg.enjoyjapan.naver.com/view/47/43/enjoyjapan_13/40000/39250.jpg
■中国人 謝永光著 『日本軍は香港で何をしたか』
(朝鮮人は)一般の日本人よりも背が高く、日本の正規軍よりももっと凶暴だった。
民家に乱入して婦女暴行を働いたのは、ほとんど日本人の手先となって悪事を働いていた朝鮮人であった。
当時香港住民は日本軍に対するよりももっと激しい憎悪の念を彼らに抱いた。 五輪の書って
最初オリンピックの公式ブックかなんかの本だと思ってた Wikiみたけど実在した武蔵が又八のキャラに思えてきた…。
卑怯すぎる 武蔵は刀の切先三寸の所で見切れたと云うが、本当であれば神業だ! 「むさし」より「たけぞう」のがかっこいいと思った。 「武蔵」より「無三四」のが納得いくと思った。
「新免無二」の子だけに。 弟子の過大広告が酷いんだよな
本多や細川に厚遇されたり弟子がたくさんいるんだから
武蔵本人は真面目な人だったと思ってる まあ、武蔵は人気も知名度も高いし資料も結構残ってるからよく槍玉に挙げられるが、
実際は剣豪の逸話って胡散臭い話ばっかりだからな。
武将にしてもそうだけど、弟子が師を少しでも大きく見せようとするのはごく普通の話。
弟子の記述をそのまま鵜呑みにするのは(・A・)イクナイ!
兵法家に対する現代人のイメージが美化されすぎてるってのもあるが。 ここにきてみたら武蔵のスレなのに評判悪くてなんだかなw しかしなんだな、イチロー見てると宮本武蔵ってホントに居たんだな〜と思う。
ぬるいカップラーメンをすすりながら。
「武士はくわねど高楊枝」よ。 資料が少なかったら評価はもっと良かったんじゃないか?
歴史系のやつらって捻くれてる人大杉。 つか、吉川の小説が史実と思われているのが問題。
吉川にあわせてあとづけ史跡すら捏造されている。 潰してないから。
潰したと言い張っているのは、弟子連中だけ。
吉岡武蔵戦は史料によって差がある
吉岡伝では引き分けと武蔵の不戦敗の2戦
古老茶話では引き分け。
本朝武芸小伝も引き分け
宮本伊織の碑文だけが、自分の養父が3戦全勝で吉岡を滅亡させたと書いている。
二天一流の伝記は所詮碑文を元にしているだけ
しかも肥後と筑前で内容が全然違うので信憑性がない 槍に刀で勝つにはかなりの腕の差がいると聞くが、
武蔵と胤舜の間にそこまでの差があると思えん
刀においての対槍の戦術というものがあるんだろうか 武蔵最強なり!俺はブルース・リーと同じくらい大好きです。 >>185
剣道経験者なんだけど、剣道の知り合いで薙刀と対戦した経験がある人がいる。
槍と薙刀じゃ、ちょっと違うのかもしれないけど、
その人曰く
『基本的に薙刀のほうがリーチが長いから、遠い間合いだとこっちが不利。
だから、セオリーとしては相手の長いリーチを逆手にとって相手の懐に
飛び込むしかないけど、相手も自分よりリーチの短い相手に懐に飛び込まれたら
厄介なのを知ってるから、足を使って近寄らせないようにしてる』
とのこと。
試合結果は、薙刀の圧勝だったらしい。
現代剣道には、薙刀にある腰から下を攻撃する技(要は脛打ちのこと)がないし、
こじり(薙刀の柄の先)で攻撃する技も無いから、
剣道人では競技薙刀相手には基本的に不利みたいだね。
槍も、刀よりはリーチが長いから対薙刀の場合と同じことがいえると思われる。
二天一流は普通の剣道とかわらんね 戦国の剣とは違うな 甲冑つけた不特定多数相手の戦いではなく1対1の決闘に根ざしているものだ 武蔵って島原の乱でも全く活躍出来なかったじゃん
敵の投石で足負傷だっけ? >>189 レス感謝
後でフェンシングスレで見たんだが、基本的に突くオンリーの武器の使い手は
たいてい同じクラスの剣術者に勝てるんだが達人同士になると突きを見切れるから
なすすべがなくなるらしい 工芸の才能があったらしいが当時どのようにして出展したんだろう? 『世界一受けたい授業!! 一億人の国語算数理科社会(秘)期末テストSP
"日本史リフォーマー"の河合敦氏は、巌流島での宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘の真実など、調査の進展で明らかになった日本史の新事実を披露。
「教科書に載せたい日本史」巌流島の戦いに、宮本武蔵が、遅刻したというのは嘘。 関ヶ原で西軍につき、大坂の陣では豊臣についたのに落ち武者狩りから逃れた運のよさ >>200
>吉川ってなに?
昭和の小説家。
一般的日本人には奴の小説で、岡山生れだとか、小次郎が武蔵より若いとか
それまでとは異なったイメージを植え付けられている。
あくまで小説なのに、史実と勘違いされている事が多い。
お通も又八も彼の創作キャラ。