雑兵足軽の実状
>>651-654
3〜4時間間隔で気にしてやんのwww 金そう医は、兜武者に対するのと、足軽に対するのでは対処に違いがあったのだろうか? 足軽に実態知ってから徴兵された兵士こそ最大の戦争犯罪人で
全員地獄へ落ちるべきもの、と思うようになりました。
乱取り、略奪、強姦。
戦争の勝ち負けに関わらず役目が終わったら処刑しといた方がいい連中ですね。 初期の足軽と、土一揆を構成している層とは殆ど同じ、という説は面白い。 信長の弓衆てのは弓足軽の集団でしょうか?
北政所の養家浅野家も弓衆の出と言いますが? 研究してるわけじゃないが、個人的には多分足軽身分ではないと思う。
弓衆太田牛一は堂洞城での戦いの功績で信長から重ねて知行を下されたと公記に記述がある。
知行を持っているのは普通士分。よって弓衆牛一は足軽ではないと思う。
浅野家も同様じゃないかな。 >730は女かね?
雑兵も足軽も野伏も一揆衆も僧兵も
そのへんは変わらないんじゃないの >>732
信長公記の記述の事を言ってるなら上の人が言ってる様に
弓小隊の指揮官の侍くらいに考えていいと思うよ >>733
岩倉織田家の林弥三郎の様な立場の武者だろうね 足軽=一兵卒
侍=本来は馬上。最低でもお供のモノがつく
っつう認識でいいの? ただし足軽と侍は身分上明確に区別された。
足軽はあくまで農民、百姓扱いだった。 >>731
黄巾賊が曹操に取り込まれて青州兵になったみたいなもんか。
要は農家の次男三男で食うに困った連中。農耕社会では東西を問わず不安定要素
とされる遊休人口だな。 >>737
足軽はもともと形容詞としても使われるから
戦国以前だと、武士が鎧を脱いで足軽になるとかいう表現があったりする >>730
乱取りなんて大名公認だろ。
そうでもしなきゃ合戦なんて成り立たなかった。
そんな時代だったってことなだけ。 >>737
恒常的に仕えてる立場の者が士分で、徴兵か臨時に雇われた立場が足軽といいたいけど
陣借り武者なんかもいるから難しいね 足軽にも二種類あって、
普段は農業などを営み、戦時に臨時徴収される一般的イメージの足軽と、
常備軍として雇用されている西洋でいう傭兵のような足軽がいた。
前者は訓練などもおざなりな文字通りの雑兵でしかないが、
後者は弓鉄砲などの訓練を積んだプロ集団だった。 まず足軽定義を書いとかないと・・・
身分についてなのか、兵種なのか、形体なのか >>747
徴収でも常備でも知行50石程度の武士に仕えてた足軽もいるんだけどね
ついでに金で臨時雇いもある 「足軽」という言葉も、兵種ではなく「武家身分でない戦闘員」全体を表している観があるからなあ。 >>748
【足軽の身分】
若党=士分(侍)の若衆、功績や推薦、志願で士分として家中に
取り立てられた士分以外の者。昔ながらの封建的な御恩奉公。
一族衆、有力家臣の子弟、末端家臣の陪臣などはこれ。
中間=契約によって武家に従う常備軍的な惣村、野党、盗賊、流民
(この場合の流民は、軍役を糧とする流動的な漂白傭兵、浪人の類)
による傭兵的兵員、武家の主力戦闘集団、乱取狼藉の類はこの層が中心?
小物、下人=一般農村の軍役、武家の譜代奉公人、一代限りの奉公人など
ただし、一般農村からの軍役は、報酬や代価を払って惣村や野党、流民の
身代わり賦役も横行。主に雑用。平時には子供、年寄り、女性も多い
【足軽の兵種】
騎乗しない雑兵身分。頭、組頭から騎乗。
士分の若党は家中の身分、功績、年齢によって段階的に頭、組頭に自動出世。
兵種に特化した近隣外地の傭兵的、常備的足軽集団の供給源も存在
(有名なのは雑賀衆、根来衆、伊賀衆、甲賀衆、風間党、各海賊衆など
これらは惣村、地侍、或いは個々の傭兵的雑兵と契約する形。
武家との起請文が主な契約形式)
【足軽の形体】
室町時代
野党、野武士・流民・惣村が主流。一揆(契約社会)の風潮が高まる。
戦国時代
上記身分の円熟期。戦国大名との抗争や取立てによって次第に二極化
末期には集権化した武家(豊臣・徳川)により禁制または駆逐
江戸時代
士分から外れたものは主に帰農或いは郷士など。海外での傭兵も散見
こんな感じ? 士分を得ないまま下士として武家社会の中にとどまったものも多かったけどな。
時代劇によく出てくる、奉行所の実務部隊である「同心」は、身分的には足軽だ。 江戸時代とかの感覚では、足軽とは別に中間や小者がいて、
足軽は基本的に兵士で、中間や小者は基本的に武士の身の回りの世話とかする感じやね。
しずがたけ合戦図屏風に手明と思われる連中が描かれてるけど
平服に武装は脇差のみなところから見ても、戦闘することが無いのが窺える 軍夫、人夫も平装やがな。戦国時代も、敵であってもこういう非戦闘員は討たないのが
不文律だった。まあ首を取っても手柄にならないからなんだが。 足軽の中にも自然災害で嫌気がさした奴もいただろうな 日根野鉢の兜は下々では鍋替わりに使われてたらしいな。
兜って言ってもピンキリだがそういう所でも日根野鉢は実用性が高かったという。 別に溶接してるわけじゃないんだから隙間から漏るんじゃないか 煮炊きの鍋代わりに使ったというよりは、カップ麺のお椀的な役割だったという説もありますね。 煮炊きの鍋代わりに使ったというよりは、カップ麺のお椀的な役割だったという説もありますね。 ttp://img3.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/ed/0c/bananamiti/folder/23033/img_23033_8709467_3?1302573860
こんな感じの足軽が鎧の下に着てるのはたっつけ袴なの? 裁付袴の場合もあるし普通の袴に臑当付けている場合もある 合戦屏風なんかだと、裸っぽい足軽もいっぱい描かれていますね >>146
普段は鍋で雑炊のようにして食っていたそうだ 戦国時代の足軽て、北斗の拳のモヒカンのヒャッハー軍団
みたいなもんすかね? >>772
蜂須賀みたいなのがヒャッハー軍団に充たるだろ >>773
川並衆って単に河川流通に関わってる地元豪族ってだけではなかろうか? >>775
港湾流通に関わる地元有力集団もあるわけで >>775
勝手に「この流域は俺達の縄張りだ」て言い張って通行量取ってるアウトロー集団だろ。
明治になって蜂須賀の末裔が学者に頼んで蜂須賀は盗賊の家系ではないと証明しようとしたが、
あっさりと「先祖は盗賊だった」という調査結果が出てしまった。 >>778
通行税取ってるだけなら盗賊ではないだろ
海賊衆みたいに船を襲うこともあるってんなら分かるが 役人が偉そうに積み荷の一部を徴収するのも
盗賊が積み荷の一部を拝借するのもやってる事は変わらん >>778
普通の領主は街道の関所で通商通行税を取る
川並衆らのように領地が川沿いなら水運で通商通行税を取る
それだけの違いだよ >>781
あなたの思う普通の領主の実例は?
後世に名の残った領主の殆どが守護や守護代の部下あるいは本人。
あるいは地頭の類。
寺社に服属するもの。
結局は、殆どが公的権力(鎌倉以降の幕府もしくは朝廷)に地位を承認されてる。
蜂須賀党だっけ?
さらに昔の楠木正成達みたいな存在じゃないの?
そりゃ近代の価値観からしたら盗賊だろw
なんとかしたかったら大名になってすぐに系図をでっち上げておけば間に合ったろうにw 現代に於いて守護大名と戦国大名の区分は公認か自力救済かという解釈もあるしな
具体的に信秀時代の織田弾正忠家の例だけ取って見ても公権力の補任があった痕跡は無い
夜盗働きを行う者すべてがヒャッハーアウトロー(笑)だというのであれば当時の地方勢力や豪族や
農村なんかもすべて該当してしまうw
喜田貞吉が言いたかったのは戦国当時の夜盗働きは一般的であって恥ずべき行為ではないと
いうものではなかっただろうか 織田とか武田とかは足軽とかの武装度が華麗なイメージあるんすが、
他の大名とかの足軽の武装度はどんなもんなんでしょう?
蜂須賀の盗賊説は明治大帝が公認なされたんだろ、否定したら、明治大帝のお言葉に間違いがあったとなってそれこそ不敬の極みだわな。 足軽というのは読んで字のごとく軽武装の兵だ。
足軽の兵装に関しては、結局惣村からの軍役なのでどこもそんなに大差ない。 応仁の乱の頃は徴募制だが戦国時代には足軽は軍役に入ってる。
秀吉の実父が織田家足軽の家だった、という伝承の意味を少し考えてみるといい。 >>789
軍役は武士が主君に提供する軍事的負担を意味するのだが
戦国時代の足軽も徴募制か常時雇用の形 >>790
基本的には足軽提供も惣村にかかる軍役だぞ?
普段は惣村にいる。中で武家に召抱えられたものは惣村給人という存在だな。
これが分離するのは秀吉の身分法令以後だよ。 >惣村給人
半士半農の地侍や土豪の事だよね?
彼らは知行地の安堵と引き換えに軍事的奉公を行う士分だと認識してたんだけど
給人というのは土地持ちの武士の事だし。
もう一つは年貢や夫役の一部免除と引き換えに戦時に軍役をになう「軍役衆」
もしかしてこちらのことかな?でも彼らは給人じゃない。
どちらにしても惣百姓とは立場が異なる人達だよ。
>>793
その定義が地域・時代によって様々だからなぁ。江戸期に入ってですら
大名ごとにバラバラ。 >>793 >>794
オフクロの先祖が上州前橋藩酒井家の足軽衆だったからこのハンドルネーム
を使っている。明治維新で往来勝手になったから上州を後にした。苗字こそ
由緒ある”渡辺”だが、ビンボーだったと聞いている。
もっと議論して!
>>795
江戸時代の前橋酒井家なら傘張り長屋のイメージで良いかと >>786
その話自体作り話でなかったら明治大帝が『太閤記』で作られた蜂須賀党のイメージに
釣られていたとしてよほど不敬だろ >>786 >>797
その話しだったら司馬遼太郎氏の「飛ぶが如く」に出て来る。
蜂須賀公が明治帝が中座した折に卓上に有った高級葉巻を数本を失敬した
事だろ。明治帝は目ざとく見つけ「やはり血は争そえぬなぁ」と大笑いして
不問に付してるょ。 >>796
浪人の傘張り内職は傘は”人の頭の上に立つ”と言う意味があるんじゃぞ。
だからエライんだゾ。
798の飛ぶが如くは変換ミス。正しくは「翔ぶが如く」。 >>798
歴史小説の中で取り上げられた俗説や伝承の類いってだけだろ
一次史料でもなんでもない
その話自体、タバコと銀皿の2種類あるしなw
そもそも明治大帝が戦国期の多くの豪族が盗賊働きをしていないという誤認に因る言い掛かりを
蜂須賀家の末裔にしていたというのが不遜だといっているんだけどそこは無視かw ラスボスの父親はなんでまたあれほど影か薄いんだろう?。前田とか小出、青木あたりになにか記録残っていてもよさそうだか?
>>380
あれは戚継光の紀效新書のやつでな、刀とはいても五尺約(150cm)ありの野太刀だぜ、トゥーハンドソードみたいのやつだ
あとは長巻にもググレ >>800
その蜂須賀候は狸の子孫で小六の子孫ではないアル >>805
それだと尚更「やはり血は争そえぬなぁ」などといった明治大帝が赤っ恥じゃねえかw 骨が語る日本史読んでたらこんな記述があった。
男性二にして女性は一の割合であり、また骨や歯から年齢を推定
すると、血気盛りの若者が多く、それにわずかの熟年者もあった
が、老人や子供は全く見当たらなかった。p157
たぶんこれら戦死者の年齢と性別は一般の中世合戦に参加した人
びとの平均的な内訳を示しているものと思われる。p158
つまり女性も少なからず戦場に兵として参加してたってことか >>812
ルイス・フロイスの「日欧文化比較」の中で尼が陣立に行くとい記述がある。
訳者はこれを売春にでも行っているのだろうと解釈しているが、「イエズス会
士日本通信」に尼僧に対し参陣するか代わりの兵を雇う金を出せという命令が
下ったという記述があることから兵士として加わったと考えるのが普通であろ
う。
他にも「カサナテンセ図書館の日本関係文書」には仙石とその妻は自らの兵を
率いて逃げ惑う民衆を助けるどころか掠奪を行ったという記述がある。このこ
とから武将の妻にも兵を指揮する権限が与えられており、それを行使する場合
もあったといことがわかる。
戦場に女も加わるということは珍しいことではなく例えば16世紀にスウェーデ
ンのオラウス・マグヌスによって記された北方民族文化誌には女の軍事訓練と
いう項目があり幼いときより女子は弓を学ぶことになっているという。
昭和32年(1957).8.17〔小6女子ら少年少女桃色グループ112人補導〕
東京都世田谷区北沢の、桃色集団「根津山グループ」少年66人、少女46人の112人を補導。高校生や無職、女子中
生、女子小学6年生(12)など。ゆすり60件25万円、窃盗125件110万円。桃色遊戯を繰り返していた。中流以下の家庭。
昭和34年(1959).7.7〔中3女子がリーダーの「もんじやグループ」63人〕
東京都足立区本木町の中学3年生女子3人をリーダーとする、小学生2人を含む「もんじやグループ」63人が捕まった
。学校をサボって、万引きや不純異性交遊などを繰り返していた。
昭和35年(1960).8.23〔小6ら渋谷の愚連隊99人補導〕
東京都渋谷区渋谷の一斉取り締まりで小学生(12)1人、中学生11人、高校生39人を含む不良少年99人を補導した。暴
力団「安藤組」配下の「夜桜会」「英雄会」「北龍会」「黒龍会」の愚連隊で窃盗、恐喝、不純異性交遊を繰り返して
いた。会社社長など裕福な家庭がほとんど。
昭和の不良グループの例だが足軽の実情もこれと変わらないだろう。恐喝や窃盗を繰り返し、グループ内で乱交を行
う退廃的集団。蒼天航路冒頭に出てきて盗賊団のイメージにかなり近い。 >>815
代わりの兵を雇う金を寄こせと言ってるんだから、戦力とする意図があった
と思って間違いないんじゃないの?戦国の雑兵なんざ所詮寄せ集めばかりで
職業軍人的な存在はほとんどいなかっただろうな。 従軍僧なんて全世界的なものだろうに
僧が従軍せずに金銭で済ますのは陣僧銭といってコレももっと前からある習慣 奈良の村で、飢饉がきて、川につけてた芋を母と子が盗み、
村の若者の集団が現行犯で処刑。前の日も7人処刑と記録は語る。 しお焼のりニンニク乗客贅肉ポイ捨てゴムエアラインメジャーラス糖尿関西京スラム規定野球へアスケロンとるこイラン飲会インドフレ英とんこつニューヨーク骨折森林交際爆竹味flashマックさいむらアリナミン胡麻バブル法香CDラーメン
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歯鼻科賞金旅人豪州牛仕掛人ラボセコムユーザー福岡内政アゴエコノミー解体車業しお焼のり駐車禁止管理代番号盗り逃げEUふなぶっしゅバンコク花火シルク平壌大全集CaPSIM5ラ・トゥーfxメン
保険依存王宿題auロボットヤーフォーレポート日本評価カウントダウンサロン「わー!オぉあ」↓☆↓☆内閣飲み会郵政省mannernhk証券ディレクターDJ玩具研究員デズネーespana牧師TeNQdio店長少年 まだ残ってたんだ、このスレ?
ageるでござるよ! w https://pbs.twimg.com/media/CR1PoIlUsAEha05.jpg
幕末の絵だと馬を盾にして
騎馬武者が銃を放っている例が有るが
馬足軽が馬を盾にして
銃や弓を放った例は有るのかどうかだが
安い馬だから容易に盾としていた可能性も有るのかだが
銃相手では馬の胴体でも50mでは人迄貫通する危険も有るのかだが
http://photozou.jp/photo/show/1849954/242443389
馬がやられた後は上の平治物語絵巻に有る様に
倒れた馬も盾にしていたと言う事なのかだが
馬を盾にする場合鎖や革の馬鎧が
銃の威力を可成り軽減していた可能性も有るだろうが
此れは騎馬武者用の馬にしか無い物と言う事だろうか 槍を持つ馬足軽が弓や銃撃を逃れる為に馬を盾にした例も有るのかだが
長巻足軽が馬に乗る事は有ったのかだが
士大将の護衛の刀を持つ徒武者が馬に乗る例も有るのかだが
騎乗の際は槍を装備した可能性も有るのかだが http://photozou.jp/photo/show/1849954/232133418
津軽屏風では腰に指物を装備した歩兵が多数居るが
http://photozou.jp/photo/photo_only/1849954/208520099?size=1024#content
此れは上の腰指を使用しているのかだが
騎馬武者は此れは使用したのかだが
大阪冬の陣・夏の陣図では此れは見ないが
この時点では廃れたのかだが
恐らく此れの後で書かれた賤ヶ岳合戦図には再び登場しているだろうから
実相は不明な訳だろうか http://blogs.yahoo.co.jp/takedasingen21/3281890.html
永禄12年(1570年)の武田軍には
既に指物や長柄槍は有ると言う事なのかだが
武田軍の騎馬武者は喉輪・頬当は標準装備なのかだが
歩兵は其処迄は無いのかだが
一部喉輪や篭手等を装備している者も居ると言う事なのかだが 装甲の無い槍・弓足軽は
1612年に書かれた津軽屏風に書かれているが
鉄砲足軽は一様に装甲を装備している様に見えるが
此れは騎馬武者が下馬して銃を放っている可能性も有るのかだが
篭手・脛当は装備されていないから違うと言う事なのかだが
此れは銃撃戦時の防弾を考慮して前面だけでも胴を装備していたのかだが
長谷堂合戦図では鉄砲足軽は具足は無いから
絵の形式に過ぎない可能性も有るのかだが 大阪冬・夏の陣図では
足軽はほぼ全部具足を装備している様に見えるが
装備率が津軽屏風で書かれた関ヶ原合戦から
変化していると言う可能性は有るのかだが 銃の時代前には最上胴の貸し具足も有ったと有るが
銃の時代後は此れは板金が固定された五枚胴や桶側胴に成ったと言う事なのかだが
トッパイ形兜の貸し兜も有ると言うが
現物は見た事が無いが http://image.tnm.jp/image/1024/C0046177.jpg
上の雑兵物語の右の槍担の小頭は短い槍を装備しているが
こうした兵は鍵槍や管槍・管鍵槍を装備する例も多いのかだが
十文字槍や大身槍・薙刀はコストの問題で使用しないのかだが
小頭の具足は派手な色も使われるが
http://www.japaneseweapons.com/yoroi/rei/index.htm
上の小頭級の物と言う
通常より高級の兜や頬当等を装備した具足が装備される例も有るのかだが http://photozou.jp/photo/show/1849954/107753884
鉄砲足軽も正面しか防護していない胴も有るだろうが
此れを装備している兵は
接近戦用の籠手や脛当は無い可能性も有るのかだが
陣笠は飛び道具にも一定効果が有るから
装備している可能性も有るのかだが 弓足軽も弭槍装備でさえ近接戦は重視されていない可能性も有るなら
前懸胴装備で籠手や脛当は無い可能性も有るのかだが https://twitter.com/boukenkyuu/status/849197103997779969
上の画は日蓮聖人註画賛の一部だが
刀の鞘に布の様な物が付いている様に見える兵が居るが
此れは革製の鞘の可能性も有るのかだが
先端が2つに分かれている物が有るのはどう言う事なのかだが >>855
中央上の兵は兜や胴鎧は無いが
喉輪を装備している様に見えるが
此れは騎馬武者から略奪した品なのかだが 14世紀の春日権現験記絵でも未だ歩兵が大鎧を使用しているが
此れは何時頃廃れたのかだが http://jyouhouya3.net/2010/06/post_363.html
>火縄銃を撃ってから次の発射までに要する時間が早くて30秒。で、射程は100mくらい。足軽たちはこの100mを30秒以内に駆け抜けられるかが生死の分かれ目だった。
日本お火縄銃は一斉射撃はせず散発的に発射されるから
一発放たれてから突撃しても損害は出るのかだが webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0046171
右の薙刀を持つ兵は
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%82%99
>荷宰料(足軽)
と言う事なのかだが
此れは備には4名居るが
薙刀では無く長巻を装備していた可能性も有るのかだが 雑兵物語では弓は鉄砲を装填している際に放てと有るが
2町(220m)の遠距離射撃では弓はこうした援護射撃は困難と言う事だろうが
1560年辺り迄は鉄砲の多い勢力が弓をアウトレンジする為に
2町以遠からの射撃を多用していた可能性は有るのかだが
220m辺りで銃を撃ち合い
次は110m辺りで弓の撃ち合いと成った後
近接戦に移行していたと言う可能性も有るのかだが
其の前に石の投げ合いはしていたのかだが
地形の問題で射撃距離が110m以内であれば
鉄砲の装填時に弓を放っていたという事なのかだが webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0046177
雑兵物語を見ると足軽は籠手は標準装備なのかだが
槍足軽以外籠手は無い可能性も有るのかだが
歩行侍も脛当は無いが
実際は装備していた可能性は有るのかだが city.kikuchi.lg.jp/pub/25832_filelib_b44ac16364a0711e6a9467392a41727b.jpg
上の蒙古襲来絵詞の様に歩兵の鎧の縅糸も
模様が有る例が有るのかだが
騎馬武者にさえ無い例が多いが
こうした模様が有るのは精鋭部隊の歩兵だけなのかだが
騎馬武者用の模様の有る胴丸を奪った物の可能性も有るのかだが http://blog.livedoor.jp/waruneko00326-002/archives/45889458.html
>上杉家は謙信以来、足軽は軽装が基本。
陣笠かぶってればマシな方というぐらいの軽装。
逆に武田家は足軽といえど重装で、兜と手甲は必須。
時代もあるだろうけど各家によって経済状況や戦術思想が違うので、それを反映して武装も当然ながら違う。
上杉軍は車懸り等機動力を重視しているから
軽装なのかどうかだが
垣盾は野戦では使用したのかだが 雑兵:兵
足軽:下士官
足軽大将:曹長
侍:尉官
侍大将:大佐
総大将:大将 http://www.xn--u9j370humdba539qcybpym.jp/part1/archives/223
狩猟用には160cm程度と
満州弓より短い半弓が使われたのかだが
此れが実戦使用された可能性は有るのかだが
村の自衛用程度なのかだが 上杉は越後75万石
武田は甲斐15万石
兵を使い捨てにできた上杉 越後40万石無いけどな。しかも揚北衆は同盟国と考えるべき
織田で言えば徳川も加算してるようなもん 戦国時代について質問です。雑兵物語に、最初に戦うのは御侍衆のやりからだぞ、とありますが、侍が短いやりで突撃したあとに足軽が長いやりで上からたたくのですか?逆だと思ってました 長柄足軽は主に防御的な兵科で、たとえて言うと生きてる柵や塀です。
侍が有利に戦うためのサポート役で積極的な攻勢には出ませんし、
史料上も長柄足軽が武功を立てた例はごく少ないです。 最初は鉄砲と弓矢を敵陣に放ち長柄部隊を浮足立たせ、
その隙を騎兵や槍術に長けた侍衆が斬り込むってのが基本的な攻め方 端の方なんか指揮らしい指揮こねーから空気読んで進んだりしたもんだよ
人気の無い所で雑兵同士がカチ合ってもお互い取る物も無いからスルーしたりさ