雑兵足軽の実状
俺、この戦で手柄を立てたら故郷に帰ってあいつに結婚を申し込むんだ >>70
だいたい俺もそう思うがそこまで端的じゃないと思う。
明治よりはるかに昔の戦国時代は典型的な農本国家だし、貫高制はその農業社会に基づいた徴兵制度
っていう面も持ってたから、商業発展地域も主要産業はやはり農業だった。 まぁそうだろう。
商業が発展してるような所は、大概農業も先進地だろうよ。
非農業人口を養えるんだからな、当時の貧弱な輸送能力で。 >>74
重商が確立される以前であるのだから仰るとおり当時の社会が第一次産業ベースであるというのは否定しない。
発展地域には人が集まり流通も活発になる、当然職業種と求人量は田舎の農村とは比較にならなかったことだろう。
つまり、生まれ育った地域の“近辺”で職が得られるのであれば次男や三男は兵役賦役のリスクを負ってまで土地に
しがみ付くという意識と概念が薄れていくと。引いてはそれが戦場に於ける足軽の精神面での脆さに繋がるのではないかと。
また、田舎から発展地域に出て職を得るということも不可能ではないにしても、情報の乏しい時代に何の当てもなく
勝手の分からない土地に浮浪者覚悟で乗り出すというのは相当な理由でもないと難しかったのでは。 情報が乏しいだけじゃないの?雑兵物語という本を読んだ人はいる? 「雑兵物語」は面白いすね。
内容は弓足軽・鉄炮足軽・鎗担・馬標持・旗差・持筒・持弓・草履取・挟箱持・馬取・沓持・矢箱持
・玉箱持・荷宰料・夫丸・若党・中間らいわゆる軽輩雑兵の教練書ですが、
それぞれの経験談を口述手記の形を取ってるとこが面白い。
当時の雑兵らの口語が書かれてるので読みものとしても楽しめます。 「手明」は抜刀兵みたいな存在だったら格好良かったのにただの馬の世話係なんだよな 「旗持ち」ってのは、どんな奴らがなったのかな。
足が速いのは当然として、敵陣に突っ込む勇気も必要だよね。
目印として倒れない体力も必須。でも、首取りとかの功名とは縁が薄い。
とても名誉な役職だけど、家中では「縁の下の力持ち」的な存在? 暴走族の世界だと旗持ちは総長に気に入られた中堅の役目w >>78
足軽マニアとしては『雑兵物語』と雄山閣出版『下級武士足軽の生活』は押さえておきたいところ。 >>71
それ、強い兵の条件じゃん
引くなと言われたら骨になっても引かず
進めといわれたらわき目も振らずに突撃する
結局、薩摩兵が強かった事にかわりは無い 足軽って自衛隊の兵卒みたいなもんだな。
歩兵=鉄砲足軽
屋敷の警備要員=若党(江戸時代には口入屋を通して雇われたにわか侍)
当時の戦って、実際は槍や刀より
石を投げ合って相手を負傷させてたんでしょ? あと、兵糧って兵士1人1人が持ち寄って食べてたんでしょ?
本格的な兵糧荷駄隊を編成したのは石田三成が最初だと聞いたんだが
あいつ、やっぱ偉いよな >>86
陣笠と胴丸つけただけで、ほとんど無力化すると思うが。 >>86
刀は藩によっては貸与されないところもあったらしい。 >>71-84
琉球兵に苦戦した薩摩兵が強いんかねえ。薩摩の釣り野伏り戦法の
主力は、戦場で強盗行為もする家族単位で移動する野郎部隊じゃないんか。
遊撃戦は得意じゃろう。九州征伐の黒田勢が「近国の野郎のたねを断つ」
為、野郎の妻子も惨殺したんじゃろう。薩摩正規軍も長宗我部相手に
正面激突で苦戦しつつ退却した処を野郎軍団の遊撃側面攻撃にまかす戦法。
(薩摩人は遁走を恥とせん柔軟性があったことは長所じゃが、)
薩摩の戦法も長宗我部ら四国勢に通用しても、毛利、黒田勢には
通用せんね。
薩摩軍が蛮行で名を成したことは認めるよ。大友城下の者を売り飛ばし、
朝鮮出兵でも、テルマ・カクセイ(高麗おごじょ)を拉致したことも。
戦国期の南九州の伝統は近代熊本兵団(熊本・鹿児島・宮崎・大分の
壮丁で構成。)に受け継がれ、熊本師団は、女子挺身隊(慰安婦)を連れて
いるのに(中国姑娘)強姦すると悪名があり、占領地には、都城(宮崎)の
部隊を進駐させるよう苦慮したようじゃ。宮崎や大分なら兎も角、熊本や
鹿児島じゃあ、占領地の婦女子にとって恐怖じゃったろうね。 >>87
初めの数日間は、各人で持ち寄った腰兵糧で賄います。
その後は、部隊に付属する手明(小荷駄)から3〜4日の単位で支給されます。
出兵が長引くと、現地の商人から高値で購入することもあったようですね。 折口信夫氏の文から「たとえば、合戦になると、百姓が竹槍を持って
出て来て落人を殺してものとりをしたりしますが、同時に頼まれて
戦いにも行き、都合が悪ければ盗人もやります。道徳などは、それは
団体の道徳であって、団体を離れれば道徳などはありません。その村
だけの、村と言うよりは永住の地を持たない一部の人々の団体の道徳を
守り、一致した行動をとります。そんな連衆が巡っていて、時代が
変わってもいます。応仁の乱等があると、それがどこからともなく、
どかどかとやって来ます。大阪の冬の陣・夏の陣などにも寄り集まって
やって来ます。(中略)移動村落です。」(「無頼の徒の芸術」、
昭和11年、1936年)。
永住の地を持たない集団とは、焼畑民や漁民、被差別民等、移動性の強い
集団のことであろう。戦国時代が終わり江戸初期に近世領主による紀州や
四国の山岳民狩りは激しく、人質を取り、一村皆殺しの悲劇もあった
ことは、宮本常一氏も述べておられる。足軽の構成要素には、これら
移動性の強い集団の考察も重要じゃと思う。 >>98
それプラス給金が出る。
足軽組毎に数十貫文ほどでて組で山分けにする。
江戸期でもちゃんと給金が出る。
町奉行所の同心が足軽身分だけど、年収30俵2人扶持
中間クラスだと、年収3両1人扶持。
下級武士のことを「3ピン」というけどこれは「3両1人扶持」の事を指している。
>日当が米5〜6合なんだろう
これがいわゆる扶持米のことで「〜扶持」に対応。
>>99
中間の給金では、2両とかいうのもある。
それじゃ食えんので、多分一人扶持はついているんだろうけれど。 >>88
投石してきた相手が松坂クラスの兵で腕や足に当たったらどう? 【ネット】佐賀県庁が監視との報道で、2ちゃんねるでは「佐賀」が爆発的に流行 現在1万以上のスレッドに「佐賀」の文字が
http://news19.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1161353273/ >>103
当時から松坂クラスのピッチャーがゴロゴロいたのか
凄いな日本!
でもコントロールはよくないからな、松坂は 松坂が10人いて150キロ半ばのストレートを投げ込んできたら面で制圧できる。 弓や鉄砲より十分早い。組み合わせればいいじゃまいか 鉄砲の弾込めの間なら十分使えるかもな〜>150キロ礫 平地はともかく山地で守勢の場合はかなり有効な武器だけどな 古代オリエントの投石器は射程400m 初速100km/hだったらしいが
これ使って松坂が投げたら何`でるんだろうな >>113
人が投げるタイプは、400mも飛ばないだろ 組み合わせるんじゃね?
投石器で松坂を飛ばす→飛んでる松坂が石を投げる
脅威の飛び道具誕生の予感 >>115
空中じゃ踏ん張りきかないから投げられないだろw じゃあれだ
松坂よりウデの振りの割合が多そうなヤクルトの五十嵐あたりなら120はでるんじゃね
合わせて220km/h!
ただ松坂以上にコントロールが悪い 逆に考えるんだ。
松坂が投げた投石機から石を発射するんだ。
投石機の重量>>石の重量なので、踏ん張りが効かなくても影響は薄い。 >>99
若党(奉公人の屋敷の門番侍)も、3両一人扶持。同心は普通の足軽より少し
上の身分だと思う。 (幕府の)同心=(諸藩の)足軽
って感じで本に書いてあることも多いけれど、
収入なんかでみると、同心の地位が高そう。
ところで先日加賀にいって足軽資料館に行ったんだが、
考えていたよりも待遇が良かった記憶がある。
確か3〜4部屋+台所etcだったかな。
長屋作りでなく、一軒一軒独立していた(なぜか庭は小さいけれど)。
収入など知っている人いる? >>121
ちと調べてみた。
ある御徒並(足軽よりちょっと上の身分)は11人扶持の切り米をもらっていた。
約40俵。
収入的には町奉行所同心と大体同じ。
足軽の収入はちょっと見当たらない。
>>122
それは7人扶持に加増されたものですね。
医師給人組に入れられて7人扶持をもらっている模様。
7人扶持なら13石ですね。32俵。加賀の俵(0.5石)だと26俵ほど。
11人扶持なら、50俵。加賀の俵なら40俵。
暮らし向きのほうは加賀藩足軽の方が楽そうですね。物価も安いでしょうし。 情報ありがとうございます。
聞いてばかりでは何なんで、こちらからも情報を。
佐賀鍋島家では、弘化年間で、足軽の切米が最高で5石5斗だとか。
扶持が付くか知らないが、一人扶持がついても8石足らず。
ざっと20俵ほど。
本当に食うだけだな…。 当時の1俵の目方は知らないが20俵だと1家族は
飢えなかったんじゃないかな?
貧しくても百姓と比べたらはるかに生活が楽だろうな 「最高で」ですので、ほかの足軽はもう少し大変なんだとは思います。
それでも、一般的な農民よりは楽でしょうけれど。
佐賀の下級武士だと、農業をやっている場合も多いですし。 江戸幕府の規定だと、
一人扶持(一日米五合)=知行取五石で、知行取一石=蔵米取一俵(三斗五升)。
三十俵二人扶持なら、知行四十石に相当することになる。 50キロかける20は1トン
5人で一人200キロ
1日600グラムもなしか
生きてはいけるけどぎりぎりだろうな
おかずがないから米だけで食べると5合近くは
いるだろうから 現在の米屋の単位は10kg=7升≒1.4kgね。
ついでに現在、3人核家族の米の消費量目安が10kg。 >>133
なんちゅう米消費量の少なさよ。
俺一人の消費量と一緒…。 頭部に鉢巻、畳具足、手には素槍を引っさげた足軽がかっこいい >>134
みんなおかずで脂物を結構食べるから米はあんまり食べないだろう
あんた炭水化物の取りすぎだぞ 糖尿の予備軍だから注意すれ 一ヶ月の話だろう?
一食1合として、一日400グラム以上、一月だと12キログラムぐらいは食うと思うが。
中高生のころは一食で2合は食っていたらしいし。 >>140
俺も若い頃はそのくらい食べてたがおっさんになって感じるのは
どんなに腹が減っても米があれほどおいしく食べられないって事だ
米なんて味がないって思ってる奴は多いが実際はすごくうまいんだよな うまい!
江戸時代の漂流の話を見ると、飢餓状態で、やたらと米飯の妄想・幻覚をもつそうな…。
雑兵の話。
兵糧がなくなったとき、稲刈り後に残っている株を掘って、その根を食用にするとか。
栄養分はあるのかなあ? 2ちゃんネラーが漂流すると得ろ動画を見ている幻覚に襲われるんだろうな オニギリがご馳走だったってなんかの本で見た事あるが普段は雑穀混ざりの
米しか食えなかったんだろうな
おかずも大陸のように肉食の楽しみはなかったようだしいつ死ぬかわからないし
今のサラリーマンは天国だ 大陸の庶民はその日のパンかスープがあれば良いレベルの生活だよ。
肉は、冬場は家畜にやる飼料も無い為に殺して干したり塩漬けにして保存できるようにして食うだけ。 平安時代から地方に豪族ができ武士になり土地を巡り戦になった!
歴史では基礎中の基礎です。
織田信長が登場するまで80%が(半農 半武士)で生活をしていた。
徳川幕府になり約300年の間 武士や役人が位をつくるようになった。
結局、貴族社会が崩壊し
武士が中心の世界になった。 徳川後期の無能役人の伝統を今も引継いでいる
金の値打ちもわからない役人や政治家が国家財政を
手のつけられないほど食いつぶしやがった 同じ足軽でも袖(肩部のプロテクター)が付くのと付かないケースがあるね。
それと陣笠被ってるのと鉢巻だけのケース。 実際、食うことと略奪ぐらいしか楽しみないんだろうね 手柄立てて出世してやると
夢を見て戦場に散っていったんだろうな 白いおまんまと略奪の為に戦場を駆けめぐったと思うがな 「かかれ!」っていう命令下や、乱戦時の雰囲気は、なんとなく
校内のマラソン大会に似てると思う。
自信あるやつは、本気になる。晴れ舞台の大会で上位入賞の名誉と
成績upという恩賞目当てに。
大多数は、まあ入賞できないし、やれって言われたから無理なく
そこそこのペースで走る。キツくなったらペースダウンすればいいし。
やる気ない人は、無理矢理走らされて疲れるだけだから、適当に参加。
むしろ歩く。先生(隊長)が見てる所だけ走ってるフリしてりゃいいや。
無理に疲れる事しなくたって害はないし(食ってはいけるし)。
みたいな。人数の割合も似てると思う。
「参加しなくてすむなら、したくない」ってシチュエーションも似てるし。
俺なんかは中盤〜後方集団にいて、周り見ながらタラタラ戦ってたんだろなw
藤木久志『雑兵たちの戦場』(朝日新聞社、1995年) >>156
自身の命を懸ける合戦とマラソン大会ではさすがに比較はできないと思われ。。。 信長に履物貰った逸話のある兼松正吉みたいに武功を立てて足軽から馬廻に出世した例もあるけど
基本的にどれだけ頑張っても下っ端どまりだと頑張る気が起こらない
副業の略奪に目がいっちゃいそうだ >>160
正吉って足軽だったの?
親父の諱も伝わってるみたいだけど >>160
どこかの農村・漁村の次男坊・三男坊が侍になれる「可能性」があるというのはそれなりにやる気が出るかと 関ヶ原後に大幅に領地を削られた毛利家では家臣たちに食えるだけの碌を与えるのに
開墾して石高を大幅に増やした。
それが可能だったら、なぜ戦争なんかして他国の領地を取っていたんだ?
最初から自領を開墾して石高増やせよなw
ちょっと不思議じゃないか? >>163
・敵が攻めてくる=自衛の究極形としての戦争
・武士階級の領土拡大に対する固定観念
・灌漑技術が向上して平野部を耕地化できるようになるのは戦国末〜江戸期 >>163
積極防衛にもなり手っ取り早く領地も得られるから一挙両得。 信長公記を著する太田牛一も足軽→信長馬廻(弓衆)と出世していったクチ
足軽でも弓の技能とか文筆の才があれば取り立てられる可能性は極小ながらあった
……ってまた織田家の例だな 織田家以外で足軽からそれなりの身分にのし上った人がいる大名家ってある? >>169
有名所じゃん
松永・道三・高坂あたりでそ?(勘助はナシw) >>170
大名にお尻貸して、成り上がったのかな?
今の時代に「部長は、社長とホモ関係で出世した」なんて言われると恥だけど。
戦国時代は、別に恥かしくなかったのかね?