雑兵足軽の実状
>>661
たとえば、4人編成で、
従者は弓で主人を補助するというのであれば
わかるけどね。
主人が恩賞もらえばおこぼれもあるだろう。
大河ドラマの功名が辻はそんな感じぽい
シーンがあったな。
ただ、弓隊編成された部隊の場合はどうなるんだろうな。
戦国期は家にもよるが、例えば武田家あたりじゃ、軍役分の足軽を武田家が一括で集めて、
部隊編成していたそうだ。
この場合恩賞などの判断は、足軽運用の責任者である足軽大将にあるんじゃないかな? 射手の練兵には時間がかかったから、被害が少ないように大事にされていたはず。
鉄砲が重宝されたのも、弓と違って練兵が容易だったせいもあるし。
したがって、弓が扱える=それなりに優遇されてたんじゃないかなぁ 足軽の恩賞ってのは組頭の差配じゃないの。
上位者からお前(の部隊)は、こんだけ仕事したから、これだけ恩賞やる。
後は揉めない様に分けろ的な。
個人の裁量に寄るやり方だから記録にも残らないとか。 前近代の戦場で、上官が部下に統制力を発揮するとすれば、やっぱりそういう風になるのかな
上官が逃げる&死ぬと、恩賞の分配者がいなくなるから、部下も敗走しないよう戦う、と
案外、この辺って未開拓の分野なのかな 城攻めで先発隊が全滅するだろ
空堀とかに死体が満載になる
これ、どうする
どっちの死体処理人がそうじする 伊達が版図を広げたのは、冬になると略奪と強姦が仕事だったからだろ もう誰も認めない上杉出稼ぎ説を今度は伊達で語るのかw
上杉や伊達にうらみでもあるの? >>666
TPOで勲功の評価に違いがあったわけで、一概にこうだった、といいきれないだけじゃない?
”狙撃”も盛んに行われたので、その場合は個人の勲功(名前が記録される)が残ってるけど
関ヶ原の黒田家の島左近狙撃(菅和泉以下百の部隊)の場合、
左肘左脇乗馬3カ所に弾が命中、その勲功はた菅和泉ののものになってるけど
たぶん参加者全員評価されてたはず(不満が出てないから)
現在の会社組織だってプロジェクトの成功ボーナスはその責任者が分配する(各人を査定する)し
昔も今もそこらは変わってないと思うけどね つーか飛び道具系は、合戦中ずーっと飛び道具なわけじゃないだろ?
別働隊とかでない限り、しょっぱなだけで後は槍とかに持ち替えたんでしょ? >>674
本陣の守備とかじゃね?毎回全軍突撃じゃないだろうからさ 主攻の左右後方に散って迂回しようとする敵を狙撃
押し負けて撤退する味方の援護など
やること一杯じゃん
戦の途中で槍に持ち帰る機会があったら銃剣の発祥は日本になってるだろうな >>675
なるほどね
でも追撃とかにも向いてないから、手柄立てづらいっちゃあ、立てづらいんだろうね
比較的活躍の場は少なそうだ 足軽って最初は重装だったのが、時代が下がるにつれどんどん軽装になっていって、
戦国末期の頃には、もはや鎧も着けずに羽織だけ、なんてのまで結構いたらしいね。 >>679
戦国末期じゃなくて安土桃山末期じゃねえの? 時代というより勢力や地域に因るんじゃないのか。
千葉氏配下の酒井氏の足軽も装備は粗末な竹の鎧に竹槍だったそうだし。 その頃の東国じゃ足軽なんて主力じゃなかったんじゃない? それまでゲリラ的な役割で使われていた足軽を、初めて組織化して合戦に投入したのが太田道灌だとか。
>>690
京都の悪党が戦場で槍働きするために陣狩りして従軍したのが足軽の始まり。
雇われ傭兵であり戦時中に集まってくるだけで、主従関係にはなかった。
また、戦場で一翼を担ってはいたがまだまだ主戦力には及ばず
戦力の補強程度の意味合いしかなかったが、一騎打ちが主流の武士の戦に対し
集団戦で勝負をつけ、負けそうならすぐに逃げるので無視できない戦力になっていった。
関東でも足軽は従軍していたが、組織立っての用兵には至っていなかった。
太田道潅は足軽に着目し、江戸城築城後城内での練兵に勤しみ
後の長尾景春の乱の時には道潅の采配で見事に乱を鎮めた。
たしかこんなかんじ
道灌の「足軽」はどちらかというと「徒侍」の意の様に感じられる 太田道灌に関しては、「傭兵隊長」という見方をしている人もいるな。 しかし戦国の100年間、軍隊の重要なポジションを担い続けた足軽なのに、
結局武士なんだか違うんだかわからない、不安定な身分のままだった。 >>697
”備”の観点から見れば、弓組は道灌の時代にも一般的だったんじゃない?
弓専用の荷物も多いし、まとめて運用てのは室町から行われてたし 太田道灌の時代 ーー 足軽=悪党
北条千葉の時代 ーー 足軽=農民
でも悪党と農民は違う 足軽と一言で言っても指してる物が違たりするからな
信長公記みたいに一つの作品の中で
侍身分を含んだ歩兵全般と、半農主体の軍役衆を
それぞれ足軽という同じ言葉で表したりしてるものもある 雑兵といわれる最下層の足軽は、いつの時代もその党や組頭の下男や領内の農民でしょ 兜武者が城攻めで土塁で撃たれて矢げん堀に落ちて絶命した場合、その兜首を
撃ち殺した鉄砲足軽はどうやってそれを照明するの?
首拾いに行くのか?いつもどうしてるのか考えてしまう(´・ω・`) >>704
土塁に兜武者が出てくるほど攻め込まれているようなら、それは銃撃戦じゃなくて、
刀を使う接近戦になってるだろ。
土塁を隔てた銃撃戦の段階なら、そもそも兜武者はそんな危険なところに
ひょっこり顔を出さない。 確実に誰が撃ったか解らない状況では
誰の手柄にもならない >>700
備えという組織自体の話じゃなく、弓を集団として訓練したかどうかの話で…… 兵に弓の訓練とあるけど、これが足軽かどうかはチト不明
普通の侍かもしれないし、もしそうなら普通に弓馬の鍛錬と言う事になる 火縄銃伝来前の猟師とか弓使ってたんじゃないのか?
わざわざ素人に訓練する必要もないかも >>706
なんか手柄を立てられるか否かは、実力や勇気より運による要素が大きそうだね
末端の連中の士気を高めるために、正確に軍功を計る方策考えたりしなかったのかなあ? 専業猟師は絶対数が少ない
農民も害獣駆除のために弓は自体は扱えたが、戦場で使うとなるとやはり訓練が必要 大まかな方向に向けて曲謝出来る程度に弓を扱えればいいんでねぇの? 足軽弓は斉射してなんぼだから指示した距離に飛ばす位の訓練は必要かもな
あとは遮蔽物の利用方法や号令に合わす訓練とか
少なくとも武士の一撃必中させるための訓練よりは楽だろ >>712
その程度の技量で効果的にやるとなると、イングランドロングボウ部隊のように
弓兵を大量動員しての一斉射が必要になるんじゃないか? 日本じゃそんな例知らん。
映画だと蜘蛛巣城のものすごいシーンがあるけどさ。 >>710
そもそも軍功とは大名が主従関係のある侍の働きを査定するものであって
足軽を評価するためのもんじゃないと思う 和弓は引くだけでもそうとうな腕力が必用とされていたからねぇ。
へたくそがいても矢の無駄遣いじゃなかったのかな?
消耗品とはいえ、矢じりを作る生産だとか考えると無駄矢は撃ちたくないよね。
親指大の矢じりだとしても、300の弓組みが5本消耗したとして1500でしょ。
製鉄して砥いでって考えると大変なもんだよなぁ・・・・ 撃ち込まれた無駄矢は、敵が回収して再利用するしな。 >>712
日本では曲射はしない。
相手が密集陣形を取らないのだから、
距離さえあってれば誰かに当たるだろうは通用しない。 弓でよく空から降ってくるように射る攻撃があるが、あれはなんというの?
あれは落ちてきてささったりするのか?
上に気をとられているのを、正面から別の射手が射るという複合攻撃なのか? >>693
一騎打ち以外に関してはだいたいあってるな >>651-654
3〜4時間間隔で気にしてやんのwww 金そう医は、兜武者に対するのと、足軽に対するのでは対処に違いがあったのだろうか? 足軽に実態知ってから徴兵された兵士こそ最大の戦争犯罪人で
全員地獄へ落ちるべきもの、と思うようになりました。
乱取り、略奪、強姦。
戦争の勝ち負けに関わらず役目が終わったら処刑しといた方がいい連中ですね。 初期の足軽と、土一揆を構成している層とは殆ど同じ、という説は面白い。 信長の弓衆てのは弓足軽の集団でしょうか?
北政所の養家浅野家も弓衆の出と言いますが? 研究してるわけじゃないが、個人的には多分足軽身分ではないと思う。
弓衆太田牛一は堂洞城での戦いの功績で信長から重ねて知行を下されたと公記に記述がある。
知行を持っているのは普通士分。よって弓衆牛一は足軽ではないと思う。
浅野家も同様じゃないかな。 >730は女かね?
雑兵も足軽も野伏も一揆衆も僧兵も
そのへんは変わらないんじゃないの >>732
信長公記の記述の事を言ってるなら上の人が言ってる様に
弓小隊の指揮官の侍くらいに考えていいと思うよ >>733
岩倉織田家の林弥三郎の様な立場の武者だろうね 足軽=一兵卒
侍=本来は馬上。最低でもお供のモノがつく
っつう認識でいいの? ただし足軽と侍は身分上明確に区別された。
足軽はあくまで農民、百姓扱いだった。 >>731
黄巾賊が曹操に取り込まれて青州兵になったみたいなもんか。
要は農家の次男三男で食うに困った連中。農耕社会では東西を問わず不安定要素
とされる遊休人口だな。 >>737
足軽はもともと形容詞としても使われるから
戦国以前だと、武士が鎧を脱いで足軽になるとかいう表現があったりする >>730
乱取りなんて大名公認だろ。
そうでもしなきゃ合戦なんて成り立たなかった。
そんな時代だったってことなだけ。 >>737
恒常的に仕えてる立場の者が士分で、徴兵か臨時に雇われた立場が足軽といいたいけど
陣借り武者なんかもいるから難しいね 足軽にも二種類あって、
普段は農業などを営み、戦時に臨時徴収される一般的イメージの足軽と、
常備軍として雇用されている西洋でいう傭兵のような足軽がいた。
前者は訓練などもおざなりな文字通りの雑兵でしかないが、
後者は弓鉄砲などの訓練を積んだプロ集団だった。 まず足軽定義を書いとかないと・・・
身分についてなのか、兵種なのか、形体なのか >>747
徴収でも常備でも知行50石程度の武士に仕えてた足軽もいるんだけどね
ついでに金で臨時雇いもある 「足軽」という言葉も、兵種ではなく「武家身分でない戦闘員」全体を表している観があるからなあ。 >>748
【足軽の身分】
若党=士分(侍)の若衆、功績や推薦、志願で士分として家中に
取り立てられた士分以外の者。昔ながらの封建的な御恩奉公。
一族衆、有力家臣の子弟、末端家臣の陪臣などはこれ。
中間=契約によって武家に従う常備軍的な惣村、野党、盗賊、流民
(この場合の流民は、軍役を糧とする流動的な漂白傭兵、浪人の類)
による傭兵的兵員、武家の主力戦闘集団、乱取狼藉の類はこの層が中心?
小物、下人=一般農村の軍役、武家の譜代奉公人、一代限りの奉公人など
ただし、一般農村からの軍役は、報酬や代価を払って惣村や野党、流民の
身代わり賦役も横行。主に雑用。平時には子供、年寄り、女性も多い
【足軽の兵種】
騎乗しない雑兵身分。頭、組頭から騎乗。
士分の若党は家中の身分、功績、年齢によって段階的に頭、組頭に自動出世。
兵種に特化した近隣外地の傭兵的、常備的足軽集団の供給源も存在
(有名なのは雑賀衆、根来衆、伊賀衆、甲賀衆、風間党、各海賊衆など
これらは惣村、地侍、或いは個々の傭兵的雑兵と契約する形。
武家との起請文が主な契約形式)
【足軽の形体】
室町時代
野党、野武士・流民・惣村が主流。一揆(契約社会)の風潮が高まる。
戦国時代
上記身分の円熟期。戦国大名との抗争や取立てによって次第に二極化
末期には集権化した武家(豊臣・徳川)により禁制または駆逐
江戸時代
士分から外れたものは主に帰農或いは郷士など。海外での傭兵も散見
こんな感じ? 士分を得ないまま下士として武家社会の中にとどまったものも多かったけどな。
時代劇によく出てくる、奉行所の実務部隊である「同心」は、身分的には足軽だ。 江戸時代とかの感覚では、足軽とは別に中間や小者がいて、
足軽は基本的に兵士で、中間や小者は基本的に武士の身の回りの世話とかする感じやね。
しずがたけ合戦図屏風に手明と思われる連中が描かれてるけど
平服に武装は脇差のみなところから見ても、戦闘することが無いのが窺える 軍夫、人夫も平装やがな。戦国時代も、敵であってもこういう非戦闘員は討たないのが
不文律だった。まあ首を取っても手柄にならないからなんだが。 足軽の中にも自然災害で嫌気がさした奴もいただろうな 日根野鉢の兜は下々では鍋替わりに使われてたらしいな。
兜って言ってもピンキリだがそういう所でも日根野鉢は実用性が高かったという。 別に溶接してるわけじゃないんだから隙間から漏るんじゃないか