雑兵足軽の実状
>>200
生活習慣で変わるものを”体質”っていうの??
例えば、病気に対する生存率、は今の方が強かったりする。
インフルエンザなんて昔は死病だったけど、今は栄養が良いのでそうでもない。
となると現代人は体質が昔より強い、というべき…なんて話になるよ。
ただ昔は”体の強い人が生き残った”だけなんじゃない?
実は昔の人が全員健康だったか、というとそうでもなさそう。
例えば喘息。鎌倉時代でも合戦最中に発作で討たれた人もいるし、
蝦夷まで踏破した伊能忠敬も持病だった。
肉体なんて昔も今も変わらないよ。たぶん”意志”の問題だと思うなぁ。 >>203
上手いことを言うw
>>202
健康だったんじゃなくて丈夫だったんだよ
医学や科学で補ってるだけで、圧倒的に環境に恵まれてない昔の人の方が体は強いでしょ
日本人が発展途上国の生水飲んで体壊すのと同じ 乳幼児死亡率から考えると、今生きている発展途上国の人の体が強い、
わけは、体が弱い人が大人になれずに死んでるからじゃない?
そういう理由からの”体質の強さ”って「三代で体質が変わる」っていうのと、
ちょっと違う気がするのだけど… そもそも、「体が強い」ってなによ?
えらく曖昧なんだよねえ。
疾病罹患率が低い?
寿命が長い?
筋力、瞬発力などの運動機能が高い?
やっぱりルイセンコ主義の亜流みたいだけどねえ 何でそんなに食いつく&スレチな重箱の隅つつくかなw
理論好きだね
要は>>193の答えなだけじゃん
しかも現代人が、当時の人と同じ環境で暮らしたらほとんど
もたないだろうって話なだけですよ
細部をつつくような小さい事言うなら、服一枚で冷暖房のない
外気と同じ部屋で冬を越してみろってのw
越せたら理屈や理論に付き合ってあげるよ
ちなみに3代で体質が変わるのは、Newton誌で掲載されてるからね
もうスレの軌道修正しようよw >>207
まさか根拠に科学啓蒙誌だされるとおもわなかったな…
とりあえずどこに載ってたか教えてくれない?
たぶん内容を誤解してると思うよ… 挙げ足とるようで悪いけどさ。
体質って言い方がまずいのよ。
たとえば、親と今とでもは、環境が全然違うでしょ。
でも体格や君の言う体質は違うと思わない?
環境がかわってから三代たって変化したんじゃないでしょ?
この場合なら成長期の環境が重要で、一代でも大変わり。
環境が大きく変わってしまえば、疾患発生率は一代でも
大きく変わる。日系移民の糖尿病発生率なんかは実証済み。
もともと日本人は、欧米人より糖尿病にかかりやすい「体質」なんだけど
三代経っても日本人同士の交配なら、かかりやすい体質はかわらない。
現地の人たちと結婚して三代経ったら、というんなら単に
現地の人の遺伝子が優性だっただけ。
その発現する体質(正確には形質)は常に現地が優性なわけがないから
体質がかわるかどうかは、「なに」の体質かによっても変わるはず。
それを一括して「体質が三代で変わる」じゃ、乱暴すぎる。
スペイン風邪は多くの死者を出したよ。江戸期の日本でもね。
遺伝的に変化が無い今の日本人が、当時の環境ならその何倍も
死んでる?もしくは、栄養状態や医学がよければ
当時は死亡率は今の何分の一になってるの?
それって、おかしいとは思わない?
一瞬、Natureにみえてびっくりした。 理屈や理論は分かったよ。頭でっかちなやつらだなw
もうスレチすぎるし、論争のポイントもズレすぎw
謝れば気が済むのかな?
ごめんね、体質や3代云々は取り消すよ
で、>>193の答えは?
それと、ぜひ「服一枚で冷暖房のない外気と同じ部屋で冬を越して」ね
雑兵足軽にかぎらず、当時の日本の大多数は「服一枚で冷暖房のない外気と同じ部屋で冬を越して」たんだから
さあ、お得意の論理的かつ医学的に説明してもらおうかw >>211
室町、鎌倉の庶民だって女性は小袖、湯巻で重ね着はしていたし
男性だって水干、直垂の重ね着をしていたんだよ
寒けりゃ重ね着するぐらいは当たり前
現代でもね、ホームレスになった人の多くが風邪を引いたり、
凍死したりしてるかい?一年持たずに死んでるかい?
そりゃそういう人もいる。でも、殆どとはとてもいえない。
逆に昔は風邪で死んだり凍死者は殆どいなかった?そんなことはない。
むしろ、風邪の大流行で大量に死んでいる。(先にあげたスペイン風邪でも)
この時点で
>ほとんどもたないだろうって話なだけですよ
って根拠ないと思うんだけど >>193の答え
つ【陣羽織】
陣羽織は元々戦場での防寒具として鎧の上から着たもの。
羽織は最初は「胴服」といわれていたらしい。
それから昔の人は一年中単(ひとえ)衣で過ごしていたわけではないよ。
普通の着物は裏表に布を使うし、重ね着だってする。
寒ければ綿入だって使う。
当時は木綿は高価だったので、和紙を張り合わせて防寒用の衣類や布団を作ってたんだ。
紙子とか衾とか聞いた事ないかな?
現在でも新聞紙をポリ袋に入れて防寒することだってあるのさ。結構あったかい。
緊急時の生活の知恵w 少しまともになってきて良かったw
>>212
小袖、湯巻、水干、直垂を着れるほどの足軽がどれほどいたか…
雑兵足軽って言われてる人たちは、もっと下層の人たちじゃないのかな
よくて半農半士、ほとんどがかり出された農民のはず
それも小作人レベルの、食う事が必死な層
服のゆとりなんて無いし、重ね着できたとしても、古着の二枚重ねくらい
ましてやジャンパーやらセーターに恵まれたホームレスとは比べものにならないよ
松永弾正(だったかな?)の式目に、当時の農民の生活スタイル規制したものがあるから、それを一度見た方がいい
どんだけ余裕のない生活か分かるから
>>213
陣羽織は分かるんだけど、足軽レベルが着てた?
そういった絵図は見たことないけど…あるのかな?
紙子も名のある武将が使用してたのは聞いたことあるけど、雑兵足軽くらいの人たちにも普及してたの?
出典があるなら教えて欲しいな、うろ覚えでいいから
面白そうだから、ちょっと見てみたい >>214
小袖、水干自体が庶民の服なんだが……
ホームレスのほうが恵まれてるから、生存率が高いんでしょ。
戦国時代の人間の方が体が強かったとか、現代人ならもたない
とかいう論理にはならない。
過去の時代の方が、貧しい生活だったから、ばたばた倒れ、死んでいった。
現代は豊かだから、そうはならない。
ってだけの話。
豊かになって使わなくなるから弱くなる。厳しい環境で耐えてると
>>197>風邪を引かない体質
になるから大丈夫だったてのは
「ルイセンコ主義の亜流を信じてます」って宣言してるだけ
ものがないから耐えていたって話だったら>>202さんの書いた通り
意思の問題。 小さい頃から鍛錬された状態で育つと頑健になるって面はあるだろう(その人一代の話でな)
逆に、時代的な栄養状態の低さが働いてる面もある >>214
>陣羽織は分かるんだけど、足軽レベルが着てた?
>>193には「足軽が」と言う断わりがなかった。
>紙子
ttp://www.geocities.co.jp/HeartLand-Sakura/5469/real047.html
ttp://cgif.nifty.com/fkimono/kword/kword.cgi?00310
紙子は別に庶民だけが着ていたわけではなく、贅を尽くしたものもあったのでそれを見聞きしたんでしょう。
この場合、消耗品(使い捨て)として使用したらしい。
紙子は庶民の防寒具としては比較的一般的なものだよ。
木綿よりずっと安いからね。
あと、庶民の防寒具が紙子だけ、と考えられても困る。
紙子も買えない様な人たちは、ありあわせの衣服を重ね着してたろうし。
あと、毛皮なんかも使用していた模様。
越中から冬の北アルプスを越えて徳川に支援を求めた佐々氏一行か、熊の毛皮をまとっていたというのが
徳川方の記録に残っています。 具足が貸し出しされていたから衣服なんかも支給されてたんじゃないかぁ
もし陣羽織なんかがあったとしてだ。
それってあったかいのか?ユニクロのフリースのほうが断然マシだろう。 布自体うすくても空気の層をたくさん作ることで暖かくなるのよ。
とりあえずTシャツを重ね着してみると、
その暖かさがわかると思うよ。 もう服云々はいいよ
現代の感覚で物言う人が多すぎだし
ひとまずほかに、熱した小石をカイロがわりにしたとか、酒で暖めたとかはあったね 唐辛子を体に塗って、寒さを凌いだと言う話は聞いたことが有るな
その歳に手に塗ってはいけない、顔を掻いたときに目に入って耐えられないほど痛くなるから 唐辛子たっぷりの地獄ラーメンを食ってた時に、たまたま箸から落ちた麺の滴が
片目に入り大変なことになった経験がある身としてはよく分かる話だ。 かりあげクンで、靴の中に立ち食いソバの唐辛子いれる話あったの思い出した。 あの応仁の乱だったかで戸板などを盗んでいる絵ってあるじゃない
あれってどうすんの
売れるのか? 何かと使えるみたいよ。戸板。
以前テレビで古い農家が取り上げられてたんだが、
「川が氾濫したら戸板を船にして」とか言ってた。 すべてが手工業だった時代、中古の戸板すらも売れたのかもね。 そういやそうだ。
江戸時代、かまぼこ板みたいなのにも価値は見出されていたんだから、
戦国時代ならなおさら。 加工した木材って、そんなに価値があったのかあ
なんでだろ?
木自体は今より沢山あったろうから、大工不足?
大工の労働費が高かったのかな? じゃあ、蒲鉾板を当時の工具のみで作ってみなよ
工業化が如何に偉大かが実感できるから あれって戸板売るつもりじゃなくて、叩き壊して篝火や薪にするだけじゃないのかなぁ… 押し崩して戸板ごと槍で突けばかの剣豪将軍もお陀仏よ ずーっと謎だったんだが・・・背中に立てる旗。
ドラマみたいに「織田軍は全員織田木瓜」ってわけじゃなくて、
合戦屏風みたいに種々様々だよね。
例えば
信長軍 木瓜
その下の勝家軍 雁金
その下の利家軍 梅鉢
さらにその下の奥村、村井、長がそれぞれ・・・
たぶん、さらにその下くらいまで・・・
20〜30人率いる武将(家)なら、そのくらいで1つの家紋の旗が
あったと思う(違うかな?)
軍勢の規模にもよるけど、味方だけでも百種近く。
で、それが敵味方の区別のためでしょ?
あれ、全部覚えられたのかなあ?
乱戦とか陣替えとかになったら「えーと、敵か味方か分からないから
攻撃やめておこう」みたいなことが、あったように思うんだけどw
詳しい人いる? 旗指物は分からないけど、足軽が槍や肩に付ける合印は各大将旗下で統一されてたみたいです。
桃山以降になると大名家の家紋入り御貸し具足や陣笠が登場します。 雑兵物語に、合印をなくしてしかも”合言葉”を忘れて味方に首切られちゃった話載ってるよ。
大阪夏の陣だと「他の部隊のものは陣に入れるな」という指示が出されてるし、
伊達軍が陣前方の敗退する味方を一斉射撃しちゃってるし、
”敵味方不明”のときは攻撃しちゃってもいい、という不文律が合ったのかも。
旗印は味方判別というよりは、功名確認のためじゃないかなぁ… 日本でも家紋見ただけでどこか判別する役職があったような
江戸時代の話だけど >>232
それだと、合戦の際中にやらなくてもよくないかい? 陣中に与えられた米を使って日本酒作る器用な足軽たち あれたかだか戸板盗んでるだけなくせに
「へっへっへ、俺達悪だぜ〜?すごいぜ〜?」
と得意がってるように見えて笑えてしまう
まあ昔はお寺に狼藉するのってすごい悪なんだろうけど 痛い話だけど、藤堂高虎みたいに手や足の指がなかったり
爪がはがれたりは普通だったんだろうな・・・
今より全然整備されてない平地や河原や森の中を、素足に
草鞋だけで戦ってたんだから、ぶつけたり引っかけたりとかもありそう。 まあ足軽なんぞの軽装備で戦闘に参加せざるを得なかった民衆だろうからな・・・
足袋は基より着の身着のままで武器だけ持った雑兵も多かったろうさ・・・
昔も今も特殊装備というものは高いからな
鎧は基より、足袋なども貧乏人は履かなかっただろうから需要と供給のバランスを考えると足袋はそこそ高かったものと思うぞ >>141
血レスだが、三十路崖っぷちのおっさん見習いの漏れは、
だんだん濃い味が苦手になってきたからか、めしがうまくなってきた。
今では米だけで食えます。
玄米やその他の穀類が混じったのも食べるけど、それはそれでおいしい。
ただ、少ししょっぱいのはなんでだろ おそすれ
“せんごくじだいばん”とか読んでそうだなお前 足軽は徴兵される時に装備チェックされるんだよな
鎧がショボイと罰されることもあったらしい。
裕福な大名はお貸し具足レンタルするから大丈夫だろうが。
足軽も敵領から略奪する金品や、奴隷・身代金になる女子供目当てで参加していたようだ
大名が望まなくとも農閑期の農民の支持を得るため出陣することもあったって。
集団出稼ぎw >>255
> 大名が望まなくとも農閑期の農民の支持を得るため出陣することもあったって。
そんなのあったんだ?どこの大名?
お貸し具足って笠ばっかりなのかなと思ってたが、
兜のところもあるんだな
川越藩などは江戸時代とはいえ頬当付きの頭成兜というハイコストなお貸し具足でびっくり
まあ全兵卒に行き渡ってたわけないだろが、刀狩以前の農村には大量の武器防具が蓄えられていたらしい >>258
上杉はそうだろなw
引用が長くなるなら出典だけでも教えて欲しいです。 というよりも、土豪の権力が強い大名はそんなもんじゃね? >>261
そうなの? 出稼ぎ戦争は、甲斐みたいな貧しい国だけだと思っていたけれど。 >262
金山あるんだから貧しいも何も
>259
俗説の類いだよ。言っているのは一人だけ。 ググっても出ないな
まあ7-8年くらい前に信毎の記事中にオッさんが語ってたのは確か
通説ではないよ。 >>259
遅れたが藤木久志の「雑兵たちの戦場」など。
越後では二毛作ができず、農閑期・慢性的な飢餓に陥る端境期(田植え終了〜収穫までの期間)
の口減らし&出稼ぎとして出兵していたのでは?ということだった。
田村憲美氏が中世後期の人々の死亡傾向を調べた結果、端境期に死者が集中していたそうだ。
謙信の関東方面への出兵パターンの多くが
収穫を終えた晩秋から田植え期まで帯陣する短期越冬型か、冬から夏まで帯陣する長期越冬型で、
上杉家軍役帳では全体の四分の三が農民だったこと、作物の略奪(刈田)、金品・人間の略奪(乱取り)、
それらの捕虜・人質から身代金を取ったり、奴隷として売り払うのがビジネス化していたこと、
謙信も小田城攻略後、城下で人身売買の市場を自らが差配していたこと、
などを根拠にしてた。
土豪や土侍は兵を徴発する農村の農業活動に動向を左右され、
彼らに軍事力の多くを頼っていた謙信の戦略に強い影響を与えた。
大名は農兵達を戦場に引き止めるために、恩賞として略奪を黙認していた。
また、当時略奪を逃れるために禁制が発行されており、これは略奪が日常茶飯であったことを示している、
と言ってるがどうなんだろうね。 ただこの人鈴木真哉氏と共著出してるあたりがきな臭い・・・ >>265
当時は手っ取り早く言えば北斗の拳みたいな世界で
天災続きで作物も取れない大飢饉の時代だから
土地の英雄=略奪者になるのも仕方ないわね ぶっちゃけ雑兵の略奪・人身売買を厳しく取り締まらなかっただけで
それ目的の戦争ってのは苦しくないか?
例に出されている人身売買も一般的に人ひとり一貫くらいが相場だった頃に
謙信が取り仕切った時は身の代金ひとり辺り数十銭とかゴミみたいな値で、
何万人単位で売っても割にあわんと思うが。
売らないで奴隷や妾として持ち帰ったりもしたんでない?
逃げられそうだがw 武田家の書類だったと思うけど、逃げ出して他家の下人になった奴隷を元の持ち主に返すよう
仲裁の指示を出てたりしてたから自分の奴隷にもしてたみたいだよ。 しかし自分の所に連れて帰るだけでは金にならんじゃないか。
働き手も増えるが食い扶持も増えるだけじゃないか?
特に餓死者が多く出るくらい逼迫していたなら
高値で売りつけんと割に合わないだろう。
実際武田は身代金に数十貫とかなり高額な値を付けてるし。 上杉の場合頭領の謙信は鉱山を直接支配しておらず
収入は主に直江津の海運やアオソ輸出による商人からの税収に頼っていたあたり
謙信本人は奴隷売買をビジネスとしてはさほど重要視してなかったんじゃないか?
ただ商人がいくら儲けてもその分け前は来ない下の方の雑兵(農民)は
略奪できなきゃ旨味が無いので略奪禁止されると士気が落ちる…となると
謙信本人の奴隷市取り仕切り二束三文叩き売りは迷惑でしかなかったかも。
ちゅーかこの頃の人身売買は売る相手は主に売られる本人の親類縁者やその土地の領主で
(買い戻すために一番高値で買い上げてくれるから)
買い戻してくれる人間がいなかった身寄りの無い奴を奴隷商人に渡していたって話を
聞いたことがあるがそれはどうなん?
関東圏内の狭い地域じゃ無理にさらって連れ帰って奴隷扱いしても
すぐ逃げて地元に帰ってしまうだけな気もするが。 ショタオフの主催者がオフ参加者をホモが集まる新宿2丁目へ売り飛ばすと公言
男児ポルノ愛好家の卑劣な発言を許すな!
【ショタ】ダメ…僕…男の子だよ…あ…んっ…【OFF会】
http://sports11.2ch.net/test/read.cgi/offmatrix/1182435883/191-
191 名前:幹事(仮) ◆CItxdAkoPQ 投稿日:2007/07/14(土) 14:33:39 ID:M17PlN/u
お金足りなくなったら俺たちに頼めばいいよ。
多分「貸す」から。
払えなかったら2丁目あt(ry >>265
藤木久志は「定本・北条氏康」や「天下統一と朝鮮侵略」を著した人だね
この人の本って、背景にある思想的バイアスが透けて見える気がする。
客観性に欠けるようで、何か気持ちが悪いんだな。 領国経営に力を注いだ謙信の年貢収納高は推定99万7000石。
食料や富を略奪するために外征を行う必要は無いのではないか? 雪で冬やることないから出兵してたんじゃない?
謙信の居る春日山城って豪雪で有名な上越市だし 兵に農民が多い以上自国の農地を放置するわけにはいかんし
冬の農業しない時期に出兵が多くなるのは理由考察するまでも無いことだろう? >>265
>謙信も小田城攻略後、城下で人身売買の市場を自らが差配していたこと、
「小田開城ヨリ、御意ヲモツテ、春中、人ヲ売買事、廿銭・卅弐程致シ候」(越佐史料)
ほんのわずかな証言を根拠にして、自説を展開するのはちと乱暴なのではと思います。
>>270>>273同意です。 >280
御意によって身代金二十銭で人身を売ったって
人身売買をビジネスにしているようには全く見えんなー。
身代金二十銭で捕虜開放してくれるなら
売られた人間の殆どが親類縁者に取り戻されたんじゃないか?
二十銭でなお買い戻してもらえなかった奴はよっぽど困窮していて
商人に買ってもらって食い扶持を保障してもらえる方が安全な奴
くらいな気がするな。 >>281
確かに捕虜開放と言った方が近い感じですね。
また謙信(輝虎)が小田勢の捕虜を安価で解放した、
逆に捕虜となっていた上杉勢(佐竹など)の兵を買い戻した、とも読めますね。
常陸小田城は争奪戦となっていたので、両軍多数の捕虜を抱えていたでしょう。 九州では島津が豊後で残虐行為を行なった後
奴隷を大量に連れ帰ったが家で持て余し、
競りにかけて安価で外国に売り飛ばした例がある。
武田家も一般市民を捕えて奴隷にしている。 >>283
日本人が犯した残虐行為について詳しく教えて下せい! 足軽の発展については大体
戦国期初期:百姓の次男三男の志願者や地侍によって徴募された奴らが主体。あまり錬度は高くない
戦国期中期:この頃から定期的に訓練を受ける様になるがまだ半兵半農
戦国期後期:兵農分離が進みプロの兵士に近くなる
江戸期:兵士を職業とし常備軍を構成する様になる
と言う理解でいいんですか? 江戸期:太平の世となり軍人から役人や普請に役割がシフトする 加賀藩の足軽の住居を再現したものをテレビで見かけたけど割りといい暮らししてたっぽい。 >>288
気をつけるべき点は以下の2つだ
・実物も再現も、新築間もなきゃ良く見える
天守閣だって年が経てば松本城のように傾いて歪む
・リアルに再現しても集客&注目されない >>288
私も以前金沢に行って足軽史料館?をみてきたけれど、結構広い家だよね。
4間+台所ぐらいだったかな。きっちり庭もついているし。
江戸の下級武士の生活環境ってかなり劣悪だけど、地方はあんなものなのか、前田家だけなのか?
……江戸時代だね。 TVドラマや資料館とかで、足軽や下層の人たちの暮らしの再現があるけど、実際はそをかなり下回るひどさだと思った方がいい。
江戸末期だけど、そういった人たちをさりげなく撮っている写真集とかあるから、それを見れば一目瞭然だよ。
例えちゃ失礼だが、飢えや病気に苦しむ海外の人たちの写真や映像があるけど、あの人たちより少しはマシってくらいだよ。
江戸末期と言えば、下級武士が経済的にもっとも困窮した時代だろ。
米の価値は下がるわ、減給に踏み切る藩は出るわで散々だぜ。
武士は威張ってはいても金は持ってない。 江戸末期の下級武士(足軽)と戦国期の足軽・雑兵は意味合いがちがうでしょ。
簡単に言うと 江戸末期の足軽=下級武士 戦国期の足軽=農民 てなるよね。
つまり、「そういった人たち」ってのは、下級武士でなく江戸期でいう農民って事です。
下級とはいえ武士に格上げされた江戸期の足軽は、この板のこのスレでは別物だと思いますけど・・・
幕末に日本に来た外国人たちは、当時の日本の民衆や農村を、
「質素だが生活の貧困や、物乞いがまったくない」「この民族は笑い上戸で心の底まで陽気」
「素朴で誰もが気軽にあいさつしてくる」「筆舌に尽くしがたい礼儀と愛想の良さ」
「皆が協力しあって幸福そうに生きている。欧州のように生活に疲れきった不機嫌な顔は見た事がない」
「彼らは外国人がいなくても十分幸福で健康だ」「西洋文明は彼らを堕落させるだけではないだろうか?」
とか書いてるね。
乞食がいないこと、人々が陽気で見渡す限り皆上機嫌なことは、ブラックやベルク、ボーヴォワールなど何人もが特筆している。
当時の日本人はお調子者で軽妙、ふざけって笑ってばかりいたそうなんだが、
若干子供っぽいとも付け加えている。 足軽といっても徴集された者、臨時雇いの傭兵、職業軍人的な常勤の傭兵がいるね。
武士の従卒も、戦時のみ募集なんてのがあったらしい。 本当は禁止されているんだけどな >臨時雇いの従卒
今も昔も、非正規雇用で済ませられるならそっちの方が雇い主にとっては良いんだろうな 風林火山見ると足軽は残虐行為や略奪行為をする集団にしか思えないが。
>>300
お前はドラマをなんだと思っているんだ。